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与謝蕪村(よさ・ぶそん)年守としもるや乾鮭からざけの太刀たち鱈たらの棒年越しを見守っているのか立派な太刀のような新巻鮭と棒鱈よ。註年守る:大晦日から元旦にかけて家中の者が集まり、潔斎して(身を清めて)夜明かしし、新年を迎える習俗。一般の祭りや神事に伴う「(お)日待ち」と同様である。年越しではないが、筆者の地元・栃木県宇都宮市の近郊・徳次郎(とくじら)地区では、少なくとも近年までこうした祭礼の習俗が残っていたのを(縁あってお手伝いに行ったことがあり)体験・確認している。「祭り」というものの厳粛な原型が分かる習俗といえる。神輿や山車を繰り出して大騒ぎするのは、江戸期に発達した町人階級による陽気な「付け祭り」であって、本来の祭りはきわめて静かなものであった。ただし、「日待ち」は神様に奉納した神酒(みき・じんしゅ)のお下がりを参加者皆で戴く「直会(なおらい)」と混同されて、現在では祭礼の後の宴(うたげ)・宴会のニュアンスが強い。筆者の町内でもそうである。乾鮭からざけの太刀たち:「今昔物語」巻28「右近馬場殿上人種合語第三十五」を踏まえる。蕪村の句は、(絵画的な表現とともに)古典文学からの縦横な引用が特徴である。現在でも、『紅白歌合戦』などを見たり除夜の鐘を撞きに行ったり初詣に出かけたりして夜更かしするのは、こうした風習の民俗的な名残りといえるかも知れない。
2022年12月31日
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坂本野原来る年はコロナ、ロシアが終わりますように祈りてゆく年送る
2022年12月31日
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山部赤人(やまべのあかひと)田子の浦ゆうち出いでてみれば 真白ましろにぞ不尽ふじの高嶺に雪は降りける万葉集 318田子の浦よりうち出て見れば真っ白に富士の高嶺に雪は降っているのだなあ。Coming out from Tago's nestle cobe,I gazewhite, pure whitethe snow has fallenon Fuji's lofty peak(リービ英雄・英訳 Hideo Levy 2004)註(田子の浦)ゆ:一般的には「~より、から」の意味だが、この場合、動作(うち出でてみる)の行われる地点・経由地を示す奈良時代の格助詞。「~を通って」「~で」「~より、から」。田子の浦にうち出でてみれば 白妙しろたへの富士の高嶺に雪は降りつつ新古今和歌集 675 / 小倉百人一首 4田子の浦に出て見れば白妙のような富士の高嶺に雪は降りつつ。註新古今集、百人一首両方の撰者である藤原定家による改作か。優渥なこちらの形でもよく知られているが、私の好みをいえば、万葉集の原作の方に野趣があって圧倒的にいいと思う。 ウィキペディア・コモンズ パブリック・ドメイン田子の浦(静岡県富士市) 1886年撮影* 画像クリックで拡大ポップアップ。
2022年12月29日
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坂本野原戦争という悲しくてむなしくて馬鹿げたことをまだやっている
2022年12月27日
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Simon & GarfunkelSilent Night / 7 O' Clock News
2022年12月25日
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【悲惨な映像 リンク先動画、視聴注意】John Lennon & Yoko OnoHappy Xmas(War Is Over)War is over, if you want it君たちが望むなら、戦争は終わるんだ「目には目を」は、我々すべてを盲目にするマハトマ・ガンジー
2022年12月25日
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山下達郎クリスマス・イブ坂本野原十二月二十四日はプロポーズ記念日だから永遠とこしなえなれ
2022年12月24日
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酒井法子世界中の誰よりきっと
2022年12月24日
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式子内親王(しきし、のりこないしんのう)見るままに冬は来にけり 鴨のゐる入江のみぎは薄氷うすごほりつつ新古今和歌集 638何気なく眺めているうちに冬はやって来たのだなあ。鴨が休んでいる入り江の汀みぎわに薄氷が張って。註ゐる(居る):現代語の形式動詞「いる」と異なり、具体的・実質的な動作を表わす。「坐る、留まる、じっと動かないでいる、住み着く」などの意味。この歌では、鴨たちが(寒そうに)うずくまっていることの描写。
2022年12月23日
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藤原家隆(ふじわらのいえたか)志賀しがの浦や遠ざかりゆく波間より 氷りて出いづる有明の月新古今和歌集 639志賀の浦だなあ。(その岸辺から沖へ向って氷結して)しだいに遠ざかってゆく波間から凍りついて出てきた有明の月。註志賀の浦:現・滋賀県大津市志賀付近の琵琶湖西畔。「志賀」は「滋賀」と同語源、もしくは同一語か。(志賀の浦)や:語調を整え、感動・余情・強調の意を添える終助詞、または間投助詞。現代口語になかなか訳し難い、しみじみと微妙な言い回しといえる。後世、この「や」が、「切れ字」(「かな、けり」など)の一つとして、俳諧で多用される語となり、用例は枚挙にいとまがない。→ 松尾芭蕉 荒海や佐渡によこたふ天河 閑さや岩にしみ入蝉の声有明の月:望(満月)ののちの、夜遅く上って朝になっても残っている月。
2022年12月23日
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岡野大嗣(おかの・だいじ)ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた歌集『サイレンと犀』(平成26年・2014)註う~む、上手いなあ。現代短歌を切り拓いている俊英による一首。短歌というものが五七五七七の韻律をもってする言葉のパズルであるという遊戯性を思い出させるとともに、ちょっと痛々しいようなリアリティが同居している。レタスとハムを挟んだ上下のパンが二回出てくるあたりの芸が細かくて、笑える。・・・おにぎりでは、こうはならないだろうね(笑)シュールな歌集タイトルは、英語「サイレント・サイ(静かな溜息)」に掛けてあり、これまたお洒落。
2022年12月21日
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)さうぢやない 心に叫び中年の体重をかけて子の頬打てり歌集『希望』(平成12年・2000)註「頬打てり」という言葉を見れば文語訳新約聖書・福音書を思い出してしまう。文語体・旧仮名遣いが醸し出す「重厚化魔法」。あの明朗快活、人格円満かつ温厚篤実、頭脳明晰(おまけに美人)の小島さんの家でもこういうことがあったのか、表現上多少盛ったか。まあ、子供のいる家庭なら、たまにはこういう事態も起きるよね。特に、同性の母親と娘にはありうるかな。父親(わたし)と娘の間では絶対にありえないけどね。日常生活の一齣を鮮やかに切り取った秀歌。3、4句目の「中年の体重をかけて」が、現代短歌のリアル表現としての切れ味鋭いツボである。・・・さても、中年の母親の全体重をかけて頬を打たれた「子」とは、お嬢さんで現在やはり歌人として活躍している小島なおさんか、それともその妹さんだろうか(・・・どっちでもいいけどね)。
2022年12月21日
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河野裕子(かわの・ゆうこ)たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏くらき器を近江と言へり歌集『桜森』(昭和55年・1980)註近江(おうみ):旧仮名遣い「あふみ」。「淡海(あはうみ)」の音便で、もとは淡水湖の意味。琵琶湖の古称。転じて近江の国(現・滋賀県)を意味するようになった。
2022年12月17日
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馬場あき子音立てて燃ゆることなき朽葉焚き冬へ冬へとなだれゆくべし歌集『雪木』(昭和62年・1987)註晩秋から初冬にかけて降る時雨(しぐれ)などに濡らされて湿り気を帯びた朽ち葉は、焚き火をしてもぱちぱち音を立てることなく燻って燃える。その静けさと凛たる空気の中で、季節は冬へと傾いてゆくのだろう。
2022年12月11日
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がっくりと荻原健司に失望す ただの無能なタレント市長*この記事は、もっときちんと熟考して論陣を張ろうかと思ったのだが、しばし考えただけで(このクレーマー住民に対して)嫌悪感が湧き、うんざりしてしまったので、もう放置します。すみません。久しぶりに公憤(私ごとでなく、公の事柄について抱く憤怒の情)を覚えるニュースである。こんなことがあっていいのか。ありえないだろう。マスメディア(新聞・テレビ)も一斉に批判的な論調で報じている。現在、人類はウラジーミル・プーチンという一人の独裁者によって引き起こされたロシアのウクライナへの侵略戦争という蛮行、悲劇に直面しているわけだが、それと何が違うのか。・・・と言ったら、あまりにも言い過ぎだろうか。この、たった1人のクレーマーの理不尽な主張の言いなりになっている、まさに「木っ端役人」という言葉を絵に描いたような長野市の公園緑地課課長の事なかれ主義にも腹が立つ。全国の自治体は、1人の「うるさい」という抗議があれば公園を続々廃止しなければならないのだろうか。NEWSポストセブン(小学館)やNHKの報道によれば、このクレーマー住民は地元・長野の国立大学名誉教授の老人であると特定されており、NHKは直接の単独インタビューに成功している。またぞろ「上級国民さまへの行政の忖度」かと、炎上の必要十分条件成立で批判が殺到しているようだ。これを十把一絡げに誹謗中傷というのは当たらないのではないか。言論の自由に基づく正当な批判である。理系の教授らしいから知らないのかもしれないが、文系(司法)には「受忍限度」という概念がある。公序良俗と常識の範囲で、多少のことは我慢しろという人類の知恵である。こういう人が世の中を息苦しくし住みづらくし、声を潜めて腹の探り合いみたいな陰険な空気にしているのではないかと、私は思っている。ごねたり怒鳴ったり、声がでかければ世の中通ると思ったら大間違いだ。これはもう、「行政」ではなく「政治」ないし「司法」の出番であろう。荻原健司市長は、決断し、実行すべきだ。権力の発動はこの場合やむを得ない。民主主義政体にあっても当然予定されている作用である。公園の存続を決めた上で、当該人物に説得と最後通告をし、出るところに出るべきだ。裁判沙汰やむなし。最高裁まで行け。勝てるから。この1人の住民が、最近の言葉でいうHSP(ハイパー・センシティヴ・パーソン、直訳すれば、「超高感受性人格」)であることは、憶測ではあるが、心理学・精神医学を齧った者から見ればおおむね間違いないと言っていいだろう。HSPとは、従来「神経質(性格)」と訳されてきた概念ときわめて近似か、少なくとも集合論的にはかなり重なり合う性格傾向であろうと思う。病気ではないとされるが、きわめて感受性が強く、ナーバスでぴりぴり(いらいら)していて、いつも何かに怯えているような人物である。読者の周辺にも一人ぐらいはこういう人がいるのではないだろうか。ほとんどの場合、おとなしくて控えめだが、場合によっては、このようにしばしば(本人も悩み)他人を悩ませることもあるといわれてきた。また、この住民の長年月にわたる執拗な抗議の様態を見れば、粘着性、ひいてはそれが昂じた偏執性も感じられる。こうなると病的な色彩を帯びる。共感能力(妥協性)や情性も欠如している。エキセントリック(遠心的、奇矯)であり、エゴセントリック(自己中心的)である。このクレーマー博士は、日本映画史上の最高傑作の一つと評される黒澤明監督『生きる』を見てないんだろうな。・・・ある意味で、無学だな。児童公園を造るために命を懸け、そして雪の舞い散る中、完成したその公園のブランコを揺らしながら死んだ市役所市民課長の男(志村喬)の晩年を切々と、鮮烈な映像美で描く物語である。命短し恋せよ乙女。・・・あとは著名人の発言に委ねる。おおむね同意見である。立川志らく “1軒の苦情で公園廃止”に「子供の声をうるさいと思うようなさもしい気持ちを持つな」【スポーツニッポン スポニチアネックス 9日配信】 落語家の立川志らく(59)が9日、レギュラーコメンテーターを務めるTBS「ひるおび!」(月~金曜前10・25)に出演。長野市内の公園が「子供の声がうるさい」などの1軒の住民の苦情で来年3月に廃止が決まったことについて言及した。 市公園緑地課によると、公園は04年に地元住民の要望で開設されたが、1人の住民から「子供の声がうるさい」と苦情が出た。市は遊具の位置を変更するなどしたが、住民の苦情は収まらず、昨年3月、公園に隣接する児童センターに、子供が静かに遊ぶ方法を考えるよう住民が求めた。児童センターはこれを受けて子供たちの公園利用を中止。草刈りなどの管理は、児童センターの職員や保護者が行っていたが、これもやめ、新たな管理の担い手は見つからなかった。地元区長会は今年1月に市に廃止を要望し、市はこの区長会からの廃止要望や、同遊園地は借地で借地料が発生していることなどの理由から廃止を決めたとしている。 番組では、近隣住民への「悲しいなという思いでいっぱいです。決められた廃止をもう1回考え直していただいて、青木島の子供たちをすくすくと育てられるアイデアが出てくるといいと思う」、「子供たちが公園で自由にのびのび遊べるように荻原(市長には)最善の決断をしていただきたいと思う」というインタビューを放送。志らくは「たしかにそばにいたら“うるさい”ってのも分かるけれども、子供の声をうるさいと思うようなさもしい気持ちを持たない。それを平和の象徴だと思う、うるさいんだけど、それをうるさいって言わないのがちゃんと大人のはずなんですよ」と持論を展開し、「“志らくさんもそこに住んでごらんなさい”って言われりゃ、私は全然大丈夫だと思いますよ。また市もだらしないですね。じゃあ他もそういう苦情があったら、どんどん公園をつぶさなくちゃいけなくなる。そこはもっと毅然とした態度でね。子供たちの公園をつぶすっていうのは良くないことだな。市長がだらしないと思いますね」と自身の考えを話した。EXIT兼近「1軒の苦情で公園廃止」に持論「そういう1人の大人の声は何で我慢できるのか」【スポーツニッポン スポニチアネックス 8日配信】 お笑いコンビ「EXIT」りんたろー。(36)と兼近大樹(31)が8日放送のABEMA「Abema Prime(アベプラ)」(月~金曜後9・00)に生出演。長野市内の公園が「子供の声がうるさい」などの1軒の住民の苦情で来年3月に廃止が決まったことに対して持論を述べた。 番組では長野県長野市にある「青木島遊園地」が、「子供の声がうるさい」といった苦情が発端で来年3月31日をもって廃止になるというニュースを取り上げ議論を展開。公園は児童センターや保育園が隣接。04年の開設当初から、それ以前から隣接する場所に住む1軒の住民から「児童センターに迎えに来る保護者の車のエンジン音や公園で野球をして遊ぶ子供たちの金属バットの音がうるさい」「子供の声がうるさい」「夜に花火をやっていてうるさい」「午前中は遊ばせるな」「午後からの利用は一度に5人まで」などの苦情が絶えず、張り紙やルールづくりなど対策を講じるなどしてきたが、その影響で公園の利用者が減少したことなどを総合的に判断し昨年3月、ついに児童センターが公園の利用中止を決定。こうした流れの中、長野市も廃止を決定した。このニュースはSNS上含め「1世帯の苦情に屈していいのか」「子供の遊び場と未来を奪っていいのか」「長期間我慢したようだ。騒音のつらさは理解できる」など多くの賛否の声が上がった。 廃止を決めた長野市公園緑地課課長は「それ(音)をずっと毎日繰り返し聞いていたら、そちら(住民)のご意見も察するというか、分かりますので」と話し、さらに「利用されなくなった公園に税金を使うことはできない」との判断だったという。 さまざまな声を受け兼近は「多様性と言われていますから、1人の少数の意見というのを、もちろんぶん投げてはいけないと思いますけど」と住民側の意見に理解は示した上で、「子供の声がうるさいというより、1人のこのような大人の声の方がうるさいと思うんですよ」と厳しめの主張を展開。「そういう(大人の)声は何で我慢できるのか。子供の声を我慢できないのに、なんで1人の大人の声は…子供には我慢させているわけじゃないですか。“じゃあ騒がないで”とか。でも大人は“騒いでるからうるさいよ”って言えるっていう、立場の強い人が立場の弱い人を抑えつけている感じが、どうしても僕からは見えちゃうんですよ」と子供の声は我慢できないのに、我慢できない大人の声や主張は周りが“うるさい”とは言わず我慢してしまう今の社会の風潮があると嘆いた。 さらに「家の中にいても子供ってうるさいですよ。家の中で遊んでいてもうるさいから多分昔の人って子供は外で遊べって言っていたと思うんですよ。だから“子供は外で遊ぶ”が圧倒的大多数(の考え方)になってはいるとは思うんですけど。家の中でもうるさいから外で遊べ、外でもうるさいから家に戻る…でまた苦情が来るから外で遊ぶ…だったらもう防音施設をつくるしかないというか、家一つ一つに防音の子供が住むための家をつくってくれよっていう。もう今どうしようもないですよ、子供って。だから(子供が)必要のない存在にされちゃっている感じがして、僕はちょっと許せないです。必要なものとされているはずなのに、大人たちから必要のないものに無理やりさせられているというか。納得のいかないことが多いです」と社会における現代の子供たちの存在や居場所について危機感を強く訴えていた。茂木健一郎氏、住民の苦情で公園廃止「一ミリも共感できない」と思いつづる【日刊スポーツ 9日配信】 脳科学者の茂木健一郎氏(60)が9日、ツイッターを更新。子どもたちの遊ぶ声や音に対する1世帯の住民からの苦情がきっかけで長野市が管理する公園の廃止が決まったことについて、「一ミリも共感できない」と思いをつづった。 茂木氏は「長野で公園が廃止になった件」に言及。「苦情を言っていた住民の方の主張をおだやかなトーンで報じている記事があるけれども、そもそもこの方の主張自体がエキセントリックでしかないので、強い違和感があって、一ミリも共感できない」と私見を述べた。 続けて、「本質は、そんなところにはない。子どもたちの未来をみんなで守ろう」と呼びかけ、その後のツイートでは「子どもは、そこが公園でも、空き地でも、場所があったら遊ぶのが本来の姿で、そういう人間として当たり前のことを忘れている現代社会は根本的におかしい」と訴えた。ネット上では「賛成!同感です!」「クレーマーに負ける社会はダメだ。行政、メディア、そんな社会を作らないで」といった声があがる一方で、「抗議者には静かに暮らしたいという思いや市の対応に抗議する権利はあるはず。それが多様性では?」「皆が「子供が可哀想」という正義感で暴走し、苦情の住民をクレーマーという悪党に仕立てあげている。これは完全にいじめの構造だ」などといった意見もあり、賛否が分かれた。
2022年12月09日
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リヒャルト・ワグナーオペラ『タンホイザー』序曲アンドレス・オロスコ-エストラーダ指揮フランクフルト放送交響楽団
2022年12月07日
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Nala SinephroSpace 1.8
2022年12月06日
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与謝野晶子(よさの・あきこ)やは肌のあつき血汐ちしほに触れも見で さびしからずや道を説く君第一歌集『みだれ髪』(明治34年・1901)このやわ肌の熱い血潮に触れてもみないで寂しくないのですか。滔々と道学を語っている、あなた。燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの俵万智『みだれ髪 チョコレート語訳』(平成10年・1998)註作者の代表作で、新時代・明治の文学を切り拓いた傑作の一つ。女の方から男を誘う。現代では何ということもない普通のことだが、男尊女卑の当時にあっては驚天動地の大胆な表現だった。君:のちに夫となる与謝野寛(鉄幹)。短歌結社「明星」を主宰する歌人であると同時に、(今でいう保守派知識人論客のような)憂国の士でもあった。
2022年12月06日
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岡部桂一郎(おかべ・けいいちろう)しゅるしゅると雨戸を閉める向こう側十一月はもう戻らない卓上に地震ないのしずかによぎりしが途方に暮れし眼鏡ありたりさびしさの極みにあれば夜をこめて雪ふる音をきみは聞いたか間道にこぼれし米の白ぞ沁むすでに東北に冬が来たひと息に行人坂を吹き抜けて途方にくれる昼の木枯葡萄酒にパン浸すとき黒々とドイツの樅は直立をせり『岡部桂一郎全歌集』
2022年12月05日
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木下利玄(きのした・りげん)街をゆき子供の傍そばを通るとき蜜柑みかんの香かせり冬がまた来る歌集『紅玉』(大正8年・1919) 温州みかんウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2022年12月04日
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前登志夫(まえ・としお)山の樹に白き花咲きをみなごの生まれ来につる、ほとぞかなしき*註 純白の花が咲いて、その花のような女の子が生まれてきたよ。その女陰の割れ目のかわいくて恥ずかしくて愛しくて切なくて哀しいなあ。古語「かなし」の持つすべてのニュアンスを用いていると解される。すみれ色の夜明けのひうちほのぼのと掌てににぎりしめ少年眠る*註 ひうち:火打ち石のことか。菫色(紫色)にほのめく光の中、火を熾したばかりの石を握りしめて~。・・・「少年」は作者の自画像か。単純に生きたかりけり花野行く女童めわらはひくく遅遅と歩みてひたすらにいま在る時をあがなへと歌ひ出づ夜の森から三人子みたりごはときのま黙もだし山畑に地蔵となりて並びゐるかも国栖くにす・井光ゐひか滅びしのちもときじくの雪降りやまず耳我嶺みみがに響とよもして若葉のなだり吹く風に問はずや過ぎむわが常処女とこをとめ歌集『縄文紀』(昭和52年・1977)
2022年12月03日
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美空ひばり川の流れのように
2022年12月02日
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斎藤茂吉(さいとう・もきち)ゆふされば大根の葉にふる時雨しぐれいたく寂しく降りにけるかも歌集『あらたま』(大正10年・1912)註ゆふされば:夕方になって。夕刻が来て。時雨しぐれ:晩秋から初冬にかけて、ひとしきりぱらぱらと降る雨。 大根ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2022年12月01日
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