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2024年は手塚治虫『火の鳥』発表から70周年。それを記念する形で実現したのが、日本を代表する絵本作家、鈴木まもるとのコラボレーション。火の鳥 いのちの物語/手塚治虫/鈴木まもる【3000円以上送料無料】この絵本、あちこちのメディアで取り上げられてるので、内容については、そっちをお読みいただくとして。Mizumizuは、あえてこの絵本の技法、そしてその画力の素晴らしさについて書きたい。絵本だから「絵」がキモになるはず。だが、不思議と絵本となると、絵そのものの魅力について語られることが少ないのはなぜなんだろう?まずは色彩構成が素晴らしい。表紙は黄色と赤色を配した、「非常に目立つ」構成。みんなが知ってるマクドナルドの配色もコレね。だから、本屋に並んでいても、パッと目立つはず。そして、表紙に描かれた火の鳥(ニワトリじゃないよ)の線描の美しさ。特に首のたおやかな曲線が色っぽい。線描といいつつ、微妙に色が違い、しかも「パステル併用した?」と思わせるようなカスレに画力を感じる。サイン会で鈴木まもる先生に直接うかがったところ、画材はアクリルのみだという。アクリル絵の具は使ったことのないMizumizu。水彩のような透明感は出ないが、水彩にはない力強さが出て、かつ、これだけ幅広い表現ができるのか。実は、スライドで制作過程を見たときは、遠目にはキャンバスに描いているように見えて、「え? もしかして油彩なの?」と思ったのだ。答えはアクリルオンリーでしたとさ。表紙は火の鳥の永遠の生命力を感じさせるような強い色彩構成だが、物語は漆黒の闇に浮かぶ青い地球から始まる。それから、海から山までを見開きに一挙に収めた、さまざまな生き物たち。画面いっぱいに「その場所に住む生命」を描いて見せるのは、ちょっと「かこさとし」を思い出して懐かしくなった。図鑑的なかこさとしに対して鈴木まもるはもっと絵画的。個々の動物の表現を見ていくのも楽しいページ。それから植物の発芽や動物の子育てをピックアップしたページが来て、次のページをめくると、バーンと飛び立つ火の鳥。ここから火の鳥の「再生」の物語が始まる。「手塚先生は、幼鳥の火の鳥が炎の中から飛び立つ場面は描いても、そのあとを描いてなかった。だから、そのあとの物語を書こうと思った」と鈴木先生。トークイベントでの発言だが、それを聞いて、「そーなのだ。描いてない物語をこちらが作れるようになってるのだ」と心の中で思いっきり頷く。萩尾望都は『新選組』を読んで、自分の中でいくつもの物語を作ったという。全部説明されていないからこそ、こちらの想像力をかきたてる。単に「話が飛んでる。分からない」と思う読者もいるようで、浦沢直樹は、それを踏まえてなのだろう。「(手塚先生は)よくこんなに読者を信頼していると思う。普通ならもっと説明したくなる。この(手塚先生の)数コマで、普通の漫画家は20枚ぐらい描いちゃう」というようなことを言っていたが、描かれなかった物語を作れるか、作れないか。それが手塚マンガを好むか好まないかの分かれ目になるのかもしれない。そして、手塚マンガの二次創作の難しさも実はここにある。自分で別のストーリーを作りたくなる。あるいは、複雑な手塚物語をもっとシンプルな展開にして分かりやすくしようとする。だが、たいていそれは(作り手が情熱をもって取り組んだとしても)凡庸なものになり、あげくガチ手塚から「つまらない。手塚作品の冒涜」などと酷評されるというオチになる。絵についても、そう。それこそ漫画家でも浦沢直樹ぐらいの力量がなければ、「なにこの下手な絵」と言われ、お決まりの「手塚作品への冒涜」というレッテルが待っている。鈴木まもるの『火の鳥』は、この2つのハードルを超えている。炎の中から再生した幼鳥の火の鳥(ここは手塚作品に描かれている)が、巣の中で憩い、成長し、周囲の動物たちに影響を与えていく。世界で唯一の(←自称)「鳥の巣研究家」鈴木まもるにしか描けないストーリーだ。トークイベントで手塚るみ子氏が、「手塚(治虫)がこの絵本を見たら、『これ、アニメにしたいよね』と言い出しそう」と絶賛していたが、そう言われて、「確かに!」と思った。巣の中で休む火の鳥の「静」と踊る火の鳥の「動」の描き分けも素晴らしい。これは踊る火の鳥。鳥の体のふくらみの柔らかなセクシーさ、脚の硬い質感と動きの自然さ――写実一辺倒ではないのに、よく感じが出てる。いや~、うまいな~。だから、この『火の鳥』は、子供に買い与えるというだけのものではなく、絵の勉強をしたい人たちにも、強くオススメしたい本なのだ。水彩画に近いにじみやカスレ、油彩に近いマットな重ね塗りなど、使われている技法は枚挙にいとまがない。で、その鈴木まもる先生が手塚治虫原画を見ての感想が…http://blog.livedoor.jp/nestlabo4848/archives/58371708.html会場には手塚先生の「火の鳥」の原画が展示されていました。これが凄い!今回手塚先生の生の原画を始めて見ましたが、ものすごく美しい。ペンの線とか描き込みとか、「ウワ~~これが原画か!!!」と驚き、舐めるように見てしまいました。さすがの域を超えている。恐ろしい画力。もっと見たい。分かる分かる。Mizumizuも丸善丸ノ内本店の手塚治虫書店コーナーでアトムの原画を見たときは、びっくらしたのだ。ばらばらになったロボットの残骸を片膝をついて嘆くアトムがコマ割りなしで描かれているページで、V字になった背景の構図とか、凄すぎた。こちらのエントリーhttps://plaza.rakuten.co.jp/mizumizu4329/diary/202404270000/で書いたように、1950年代初頭に手塚をしのぐ人気を誇った福井英一は、手塚の画力の凄さに、おそらく最初に気づいた人間の一人なのだ。一流は一流を知る、ということ。悪書追放運動が盛んになった時、やり玉にあがったのが手塚治虫で、それについて藤子不二雄A氏が、「読んでもいない人たちが非難していた」と、珍しく怒りをにじませて語っていたが、この稀代の才能を世の中がよってたかってつぶそうとしていた時代があったとは…。ストーリーテラー手塚治虫についてはだいぶ理解が進んでるが、手塚治虫の画力評価については、まだまだだとMizumizuは思っている。パリのオークションで手塚原画に3500万の値段がついたと知って、「貴重な文化遺産の流出をどう食い止めるか」などと新聞に書かれ、慌てて動き出してるお上の姿は滑稽だ。漫画同様、絵本の絵についても、まだまだ「子供向け」と思い込まれている風潮が強いが、現代美術がエログロや奇をてらった「わけの分からない」オブジェに流れている状況を見ると、絵本の中にこそ、正統派の「絵画の伝統」が受け継がれているのではないかと思うことも多い。こちらは宝塚での鈴木まもるトークイベント会場の写真(始まる前)。トークの前に、「落書き」と言って、手塚キャラを即興で描く鈴木まもる先生。たちまち人々が寄ってきてスマホをパチパチ。だが…!ちょ…、これ、アトム? 描いてるの、このすんごい絵本を描いた鈴木まもる先生、本人だよね?次に描いたヒョウタンツギも、なんか…(以下、自粛)「昔はよく描いたんだけど、描けなくなっちゃった…」と、言い訳っぽいことを言いながら、いったん袖に引っ込み(資料を見に行ったか??)、三度目に描いた「オムカエデゴンス」のイラストはしっかりサマになっていた。アトムはウォームアップでしたか? トークイベントは『火の鳥』のコンセプトから、制作過程のスケッチから、鳥の巣の話にまで及び、非常に面白かった。COM連載当時の『火の鳥』を切って自家製の本にしている現物も見せていただいた。COM連載のって、アレですよね。浦沢直樹が、先を読みたくて読みたくて…でも、ある時から本屋に並ばなくなった…並ばない新刊を待って何度も本屋に通ったという…手塚好きだった鈴木まもる少年は、『火の鳥』に登場する石舞台に触発されて、満天の星のもとの石舞台を想像して野宿覚悟で現地に足を運んだら、日が暮れてから雨が降りだしたという…いいエピソードだなあ。こういう知的好奇心を掻き立ててくれる漫画も減ってしまった。「手塚先生と(鳥の)話をしたかったですね」という鈴木まもる先生の一言には実感がこもっていた。本当に……現在は、講演に展示イベントにと八面六臂の活躍の絵本作家・鈴木まもる。東京の麻布台ヒルズでも5月19日にトーク&サイン会がある。https://www.books-ogaki.co.jp/post/54455このサインがまたアートなのだ。単に「xxxさんへ 鈴木まもる」とだけ書かれるのだろうと思っていたら、なんと!初見の名前の文字を見て、すぐにそれを軽く図案化(茶色マーカーで塗りつぶした部分ね)。そこに文字と一体化した鳥や巣のイラストを細いペンでさらさらっと。えーー、あのしょーもない落書きアトムを描いたのと同じ人ですか? すごっ!このサイン、いただく価値ありですよ。明日の日曜日は麻布台ヒルズの大垣書店へGO!
2024.05.18
宝塚に行ってきた。お目当てはもちろん手塚治虫記念館。特別展として火の鳥の原画が展示されているし、絵本作家の鈴木まもる先生の『火の鳥』も発売になって、同氏のトークイベントとサイン会がある。これは行かないと!ということで、プランニング。宝塚なので日帰りもできるのだが、体力面を考えて前泊することにした。宝塚は週末はホテルが高いので、新幹線の着く新大阪に泊まり体力温存したうえで、翌朝、満を持して出かけることに(←おおげさ)。事前に新大阪から宝塚の行き方を調べたのだが、複数あって便利のようで、案外面倒だった。というのは、直通だと時間がかかり、乗換ルートのほうが速いのだが、その乗換も複数ある。ネットで検索して調べた結果、一番簡単なのが尼崎で乗り換える方法だという結論に達する。このところ、スマホが外で具合が悪くなることが増えてきた。現地でそんなことになると慌てるので、一番効率よく、時間帯もよく宝塚に行けるルートを紙に手書きするMizumizu。で、当日予定どおりの時間に新大阪駅のホームで網干行き快速を待っていると、真後ろで駅員に宝塚に行く方法を聞いてる女性がいた。駅員が「宝塚行きはこっちのホームだけど、こっちで乗換るほうが…」というような説明をしている。そうそう、直通はそっちなんだけど、こっちの快速のが速いし、乗換も多分向かいのホームなので楽なのだ。駅員の説明に、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべる女性。この時間に新大阪駅から宝塚と言ってるということは、宝塚劇場か手塚治虫記念館目的なのは明らか。なので、メモを指し示しながら、女性に、「私も宝塚に行くのでご一緒しましょう」と話しかけた。女性は、いきなり話しかけられて、一瞬びっくりしたよう。でも、メモ書きを見ると納得したようだった。駅員も「ありがとうございます」と行ってしまった。二人で快速に乗り込んで座る。彼女もやはり乗換が面倒だと困ると思っていたらしい。尼崎なら乗換も簡単みたいですと説明する。宝塚に行く目的を聞くと、劇場のほうだという。こちらは手塚治虫記念館だと言うと、「手塚治虫、好きです」と! 『リボンの騎士』『アトム』、それになんと『W3』まで名前が出てくる。え~、『W3』まで見てた? それ、ガチ手塚(筋金入り手塚ファン)じゃないですか。宝塚劇場に行くということは…と思い、『ベルばら』の話をすると、なんと初演に行ったというではありませんか。マジですか? 榛名由梨の時代? Mizumizu「『ベルばら』見にいきたいんですよね~」彼女「やってますよ!」Mizumizu「『フェルゼン編』でしょ~(←なぜかちゃんと調べてる)」彼女「『オスカル編』がイイですか~?」など、初対面なのに話が盛り上がる。彼女は少女漫画にも詳しく、里中満智子、萩尾望都…全部知ってる。少女漫画にとどまらず、手塚直系、石森章太郎『サイボーグ009』まで知っていた。で――「高校ぐらいのときに、いったん離れなきゃと思って」そうそう、当時の少女たちはたいていそうだった。大人になる準備をする時期に、アニメや漫画からは離れなくてはと思うものなのだ。今、『ポーの一族』で国際的な名声を得た萩尾望都も、当時は、「あれ(『ポーの一族』)を描いたのは24歳(←この年齢は記憶ベース)の時だから、そのくらいまでなら読めるのかな」と言っていた。つまり、20歳半ばには読者も卒業するのだろうと。だが、『ポーの一族』は平成に入って少女漫画歴代ナンバーワンの名作に選ばれた。最近になってフランスで出版され、衝撃を持って受け入れられた。そうした流れの中で、日本でいったん卒業した読者も戻ってきて、豪華版など買っている(←Mizumizuね)。あのころが少女漫画ルネサンスの時代だったのだろう。そして、ルネサンス期の少女漫画家を創生したのも、手塚治虫なのだ。池田理代子も里中満智子の対談で、「私たちのころは、みんな手塚先生よね」と話していた。Mizumizuは『リボンの騎士』がなければオスカル様もない…ような気がしているのだが、それについて池田理代子自身が話しているのは聞いたことがない。ただ、オスカルのビジュアル面でのモデルがヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』のアンドレセンだという話は知っている。さて、話が盛り上がって、宝塚に着くと、今後は彼女が道案内をしてくれた。その時に、クラシカルな外観のティールームのそばを通ったのだが、「ここは紅茶がおいしい」「シナモントーストがおすすめ。お好きなら」と教えてくれる。実はホテルでトースト食べてしまったのだ。それも、売れ残りのパンの半切れみたいな情けないトースト。しかも冷めかけ。パンはほかにもあったが、全部「コストコ」の安い冷凍パンを大量に仕入れました…みたいなクオリティで、がっかりだった。で――手塚治虫記念館は予想以上に見ごたえがあり、なかなか上階に行けない。生前の手塚治虫を知る有名人たちの話をビデオで流しているのも、それぞれの「手塚先生」像が面白くて、全部見終わるまで立てない。手塚治虫の実験アニメーションは定評があるが、一番好きな『Jumping』を大きな画面で見ることができて、満足満足。『おんぼろフィルム』は、「ここ笑うところですよ〜」と思ってるところで笑っている人がかなりいて、「うんうん、ここツボだよねー」と、自分の演出でもないのに、勝手にニンマリ(Mizumizuは何度も見てるので笑いませんでした)。肝心の企画展を見る前に、鈴木まもるx手塚るみ子トークイベントが始まってしまうという始末だった。ランチを食べる間もなく参加するMizumizu。トークイベントに続いてサイン会もあり、ひとりひとりに丁寧にサインする鈴木先生。トークイベントも面白かったが、サイン会でも、みな先生と一緒に写真を撮ったりしながら盛り上がっていた。やっと企画展の『火の鳥』原画を見る。六本木であった『ブラック・ジャック』原画展ほど数は出ていなかったが、えりすぐりが出展されていて、「見たかったページ」はほぼ見せてもらった感じ。かの有名な「乱世編 村祭り」(←もうこれ、国宝級ね)の見開きもありました。カラーもあって、『火の鳥』の時代の彩色はアシスタントによるものがほとんどだと思うのだが、夕焼けの空の描写など、なかなかの力量ぶりだった。こんだけの素晴らしい作品群を「マンガは残らない。作者と一緒に時代とともに、風のように吹きすぎていく。それでいいんです」と(石ノ森章太郎に)言った手塚先生…数々の未来を「予言」した大天才だが、ここだけは大ハズシした。ただ…その言葉が「本当の本音」だったかというと…違うかもしれない。図書コーナーで未読の手塚作品を読みたかったが、さすがに夕方になって帰る時間が近づく。入場者はかなり年配の方々(おそらく『鉄腕アトム』直球世代)から親と一緒の小さな子供まで年齢層は幅広い。シニア層の男性は漫画を読み、男の子たちは熱心にアニメの画面に向かっている。大阪の夜、御堂筋線に乗ったのだが、なんと文庫本の『ブラック・ジャック』を読んでいる青年を見た。そーそー、ブラック・ジャックは面白いよね。山口の図書館でも、貸し出しが多くて、なかなか連続で借りられないのですよ。しかし…ストーリーを追うだけなら文庫本でも構わないが、やはり漫画のタッチを味わうには文庫本は小さすぎる。漫画を文庫本にするのは、Mizumizuは基本的に反対。個人的には『MW』を文庫本で買って後悔した。とりあえず、安く読みたかったから買ったのだが、一度文庫本で読むと、もっと大判の同じ作品を買う気になれない。それ以来、漫画の文庫本は買わないことに決めている。帰りの時間が近づいて、ランチ抜きだったので、目の前に「美味しい」シナモントーストのイメージが浮かぶ。もう朝トースト食べたからとか、どうでもいい。もう少し原画を見たり(何度見るのよ)、図書コーナーで本を読みたかったが、空腹に勝てず、ついに記念館をあとにした。こんだけ長く粘る入館者も多分、珍しいだろうな。グッズも買いましたよ、ほぼ1万円。紹介してもらった駅前のティーハウスサラは、満席に近くてびっくりした。オススメされたシナモントーストとアイスティーを頼む。一口食べて…うわっ、美味しいわ、これ。厚切りのパンは外はカリッと、中はもちっと。じゃりついたシュガーの歯ざわりにシナモンの香りがしっかり。朝の切れっぱしトーストとの違いは、なんなんだ。まったく。紅茶は、のどが渇いていたのでアイスにしたけれど、次はやはりポットでいただきたい。もう次に来る気になってるMizumizu。平日の宝塚ホテルが安い時にしよう。で、また次回も1日中手塚治虫記念館で粘りそう。シナモントーストも外せないから、いったん出て再入場パターンかな、いや早めの夕食か。
2024.05.12
現在、You TUBEの「手塚プロダクション公式チャンネル」で限定公開中の『千夜一夜物語』。大人向けアニメラマと銘打った(旧)虫プロダクションの野心作だが、このキャラクターデザインと美術担当にいきなり抜擢されたのが、アンパンマンの作者やなせたかしだ。レア本『ある日の手塚治虫』(1999年)にやなせたかしの寄稿文とイラストが載っていて、それによれば、1960年代の終わり、手塚治虫からやなせに突然電話がかかってきたという。虫プロで長編アニメを作ることになったので、やなせに手伝ってほしいという依頼だった。わけがわからないまま、やなせは「いいですよ」と返事をする。当時を振り返って、やなせは「同じ漫画家という職業でも、手塚治虫は神様に近い巨星、ぼくは拭けば飛ぶような塵埃ぐらいの存在」と、書いている。いくらやなせ氏が謙虚な人だといっても、それはチョット卑下しすぎだろう…と読んだ時には思ったのだが、1969年は、まだアンパンマンが大ヒットする前だった。多才なやなせは詩人として有名だったし、すでに『手のひらを太陽に』の作詞者として知られていたが、漫画では確かに大きなヒットはまだなかったようだ。やなせはアニメの経験などゼロだったから、手塚の申し出は冗談だと思ったらしい。だが、『千夜一夜物語』が始まると、本当に虫プロ通勤が始まる。手塚治虫と机を並べて描いてみて、やなせが「たまげてしまった」のは、そのスピードと速さ。あっという間に数十枚の絵コンテをしあげていくのだが、決してなぐりがきではない、そのまま原稿として使えるような絵なのでびっくりした。(『ある日の手塚治虫』より)完成したアニメ『千夜一夜物語』では、やなせたかしは「美術」とクレジットされているが、キャラクターデザインもやなせの手によるものだ。上はやなせ直筆のイラストとエッセイ。わけわからないまま始めた仕事だが、やってみると案外これは自分に向いているのではないかと思ったという。特に「マーディア」という女性キャラクターは人気で、後年になっても「マーディアを描いて」と頼むファンがいて、やなせを驚かせた。「キャラクター」の波及力に、やなせが気づいた瞬間だろう。『千夜一夜物語』がヒットすると、手塚治虫はやなせに「ぼくがお金を出すから、虫プロで短編映画をつくりませんか」と申し出てくれたという。会社としてお金を出すというのではなく(社内で反対があったようだ)、手塚がポケットマネーから資金を提供したのだ。そうして完成したのが、やなせたかし初演出アニメ作品『やさしいライオン』(1970年)。毎日映画コンクールで大藤賞その他を受賞し、その後もたびたび上映される息の長い作品になったという。こうしたアニメ畑でのキャラクターデザインの仕事がアンパンマンにつながっていったのだと、やなせは書く。『千夜一夜物語』から『やさしいライオン』を経て、やなせのキャラクターデザイン技術は、「シナリオを読めば30分ぐらいでラフスケッチができる」までに向上した。「基本は虫プロで学んだのである」。キャラクターデザインの達人、やなせたかしの飛躍のきっかけを作った手塚治虫。だが、「少しも恩着せがましいところはなく、『ばくがお金を出して作らせてあげたんだ』などとは一言も言わなかった」(前掲書より)やなせと手塚は気が合ったようだ。その後、「漫画家の絵本の会」で一緒に展覧会をしたり、旅行をしたこともあったという。「いつも楽しそうだった」「あんなに笑顔のいい人を他に知らない」「そばにいるだけでうれしかった」と、やなせ。そういえば、やなせの価値観と手塚のそれは非常に似通っている。時に残酷だという批判を受けるアンパンマンの自己犠牲精神は、戦争を通じて経験した飢餓からきたものだというし、「ミミズだって…生きているんだ。ともだちなんだ」という『手のひらを太陽に』の歌詞は、手塚の精神世界とも共通する。戦争は大きすぎる悲劇だが、あの戦争が手塚治虫ややなせたかしの世界を作ったとも言える。『第三の男』ではないが、平和とは程遠い15世紀のイタリアの絶えざる闘争の中でレオナルドやミケランジェロ、つまりはルネッサンスが生まれたように、日本という国を存亡の危機にまで追い詰めた第二次世界大戦があったから、今私たちが見るような手塚マンガが生まれ、次々と新しい人材がその地平線を広げていくことになったのだ。「ぼくは人生の晩年に近づいたが、最近になって自分の受けた恩義の深さに気づいて愕然としている。 漫画の神様であるだけではなく手塚治虫氏自身も神に近い人だったのだ。 どうやってその大恩に報いればいいのか、ぼくは罪深い忘恩の徒であった自分を責めるしかない」(前掲書より)手塚治虫を「神」と呼ぶとき、それは漫画の力量がまるで神様というだけでなく、次に続く人材を「創生」し続けたという意味も含むだろう。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、里中満智子はよく知られているが、さいとう・たかおだって、楳図かずおだって、手塚治虫がいなければ漫画家にはなっていなかったかもしれない。つげ義春さえ、漫画家になるにあたって「ホワイト」だとか「原稿料」だとかの実際を聞かせてくれたのは手塚治虫なのだ。そして、やなせたかし。今や、やなせのアンパンマンキャラクターは、世界でもっとも稼ぐキャラクターのトップ10に入っている。https://honichi.com/news/2023/11/16/media-mix-ranking/そのキャラクターデザインの出発点が大人向けアニメ+ドラマと銘打った(旧)虫プロの『千夜一夜物語』だったというのは、今ではほとんど忘れられているようだが、まぎれもない事実だ。やさしい ライオン (やなせたかしの名作えほん 2) [ やなせたかし ]
2024.05.07
萩尾望都に漫画家になることを決心させた手塚治虫の『新選組』。作家の藤本義一も好きな手塚作品にこれを挙げていた。萩尾望都は分かるとして、藤本義一が『新選組』を選んだのは意外。ただ、藤本氏は『雨月物語』の現代語訳をやった作家…と考えれば、少しつながるかもしれない。で、今日はちょっとしたトリビアを。現在、手塚治虫『新選組』を原案とする『君とゆきて咲く』が放映中だが、主人公の名前、深草丘十郎。この丘十郎というネーミング、おそらくはあるSF作家から来ている。それは海野十三。日本のSFの始祖の一人と言われている作家だ。手塚治虫は『のらくろ』の田河水泡と海野十三を「ボクの一生に大きな方針を与えたくれた人」だと書いている(『手塚治虫のエッセイ集成 わが思い出の記』立東社より)。海野十三には別のペンネームもあり、そのうちの1つが丘丘十郎なのだ。少年手塚治虫は海野十三の小説を寝食を忘れて読みふけった経験があるという。海野も大阪で頭角を現してきた青年漫画家、手塚治虫のことは知っていて、妻に、「自分が健康だったら、この青年に東京に来てもらい、自分が持っているすべてを与えたい」と語っていたという(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より)。海野は1946年ごろから結核にかかり、1949年5月に51歳で死没する。手塚治虫+酒井七馬の『新宝島』発売が1947年1月。1947年に『火星博士』、1948年に『地底国の怪人』と『ロストワールド』。『メトロポリス』が1949年9月だから、海野が読んでいたのはおそらく『ロストワールド』まで。手塚治虫と海野十三には個人的なやりとりは何もない。それでも海野は、手塚治虫という青年漫画家が自分の影響を受けていることを作品から読み取ったのだろう。手塚治虫が医師国家試験に合格し、東京のトキワ荘を借りるのが1952年。海野が亡くなって3年後だ。もう少し海野が生きていたら、二人の対面もなっていただろう。1950年前後の日本に、SFという言葉はない。SF作家と呼べる人もほとんどいなかった。星新一や小松左京が出てくるのはもう少し先の話だ。手塚作品と海野作品の共通点については、Mizumizuは海野作品を読んだことがないので語ることはできないが、タイトルが、明らかに海野十三オマージュだと気づく作品が多い。『日本発狂』(手塚)『地球発狂事件』(海野)のように。もっとも、猫が重要な役割を果たす手塚作品『ネコと庄造と』のタイトルは、『吾輩は猫である』なんて目じゃないほど猫の生態に精通した作品『猫と庄造と二人のをんな』からだから、手塚治虫という人の博覧強記ぶりには驚かされる。いや、『猫と庄造と二人のをんな』と『ネコと庄造と』は、全然似ているところはない作品なんですがね、話の内容は。ただ、谷崎潤一郎という人の猫に対する愛情と理解の深さは、夏目漱石なんて足元にも及ばない。というか、夏目漱石は明らかに人間に興味はあっても、猫については無知だ。話を手塚版『新選組』に戻すと、この作品、テレビドラマが始まってから初めて読んだのだが、なかなか面白かった。萩尾望都と『新選組』については、このYou TUBE番組が面白い。https://www.youtube.com/watch?v=Z1q21iHz-Y4Mizumizuが惹かれたのは、その様式美。花火を背景にした一騎打ちはそのクライマックス。そのほかにも、下からアングルで描いた橋の下での魚釣りとか、上からアングルで見た階段での襲撃とか面白い構図があちこちに出てくる。物語として惹かれたのは、あまりに「語られないエピソード」が多すぎて、逆にこちらが二次創作してしまう点。例えば、大作は、人並みはずれた剣の技を持ちながら、なぜああも虚無的なのか。彼はおそらく死に場所を求めてスパイとなった(と、頭の中で妄想)。そして、ワザと丘ちゃんに負ける(と想像)。親友の手にかかって死ぬことを選ぶまでに、彼の前半生に何があったのか。長州のスパイだというから、吉田松陰の薫陶を受けたのかもしれない。だが、志を抱いた倒幕の志士と考えるには、彼はあまりに傍観的だ。過去が何も語られないからこそ、自分でそのストーリーを補いたくなる。ここは是非、萩尾望都先生に鎌切大作を主人公に、その生い立ちから丘十郎との出会い。出会ってからの彼の心の揺らぎを描いてほしい。丘十郎の純粋さが鎌切大作の内面をどう動かしたのか。ある意味、大作は丘十郎の純粋さに命を奪われるのだから。丘十郎に海外留学の手筈を整える坂本龍馬のエピソードは、あまりに飛躍しすぎだが、もしかしたら坂本がフリーメーソンと関わりがあったというのがこの突拍子もない展開の背後にあるのかもしれない。そのあたりも語れそうだ。手塚治虫はあとがきで、「時代考証メチャクチャ」「異次元の新選組」と言っているが、時代考証完全無視の異次元時代劇は今大流行りなので、手塚治虫がその元祖だったということか(笑)。あまり人気が出なくて途中で打ち切ったという手塚『新選組』だが、全集を見ると、それなりに版を重ねていて、不人気作品とも思えない。なにより1963年の作品が、2020年代になって歌舞伎になったりドラマになったりしている。ドラマ『君とゆきて咲く』もイケメンがダンスする、異次元・新選組になってる。将来的には、こうした「特別な友情」にキュンキュンする層をターゲットにした、ミュージカルにもなるかもしれない。新選組 (手塚治虫文庫全集) [ 手塚 治虫 ]
2024.05.04
拙ブログでも紹介したテレビアニメ『鉄腕アトム』の「ミドロが沼の巻」(こちら)。有難いことに、現在、手塚プロダクションが期間限定で、この(今となっては)お宝動画を公開してくれている。https://www.youtube.com/watch?v=9lu5yUKfByM併せて、この回を担当した「スタジオゼロ」(1963年5月設立)の鈴木伸一氏が語る当時の様子が面白すぎる。https://www.youtube.com/watch?v=yS4oAjTeSzw藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう…漫画界のレジェンドが、どれだけアニメーターとしてダメダメだったか。それぞれが描いたアトムを紹介してくれているのが嬉しい。「みんなキャラクターのモデルシートなんか見ないの。頭の中に入ってるアトムで描いちゃう」って…笑っちゃう。今となっては笑っちゃう話だが、顔もバラバラ、プロポーションもバラバラのアトムを見た当時の手塚先生のお気持ちはいかばかりかと…と、また笑ってしまう。Mizumizuイチオシのひどすぎるアトム画は、これ↓眉毛が濃すぎるし、左目のまつ毛が眉毛の上に飛び出しちゃってる。まつ毛も太すぎてヘン。腕も太すぎて丸太みたい。もうメチャクチャ。どなたの仕業ですか? つのだじろう先生かな?それにしても、やはり「誰も歩いたことのない道」を行く手塚治虫の影響力はマグマ級だ。鈴木伸一のトークを聞くと、おとぎ話を専門に作るアニメプロダクション(おとぎプロ)をやめて、SFや未来の話をアニメでやってみたいと思ったのだって、手塚アトムの大成功を見たからだろう。鈴木氏はそこに「アニメの未来」そして「自分の未来」を見たのだろう。スタジオゼロに売れっ子漫画家たちが参加したのも、手塚先生を追ってのことに間違いない。やがて漫画家たちは漫画の道に戻り、スタジオゼロで唯一本格的なアニメーション修行をしていた鈴木伸一はアニメーション作家として羽ばたく。現在、トキワ荘で特別企画展『鈴木伸一のアニメーションづくりは楽しい!!』が開催中だ。https://www.kanko-toshima.jp/?p=we-page-event-entry&event=529563&cat=18037&type=event『手塚治虫とトキワ荘』(中川右介)によれば、スタジオゼロに参加するより前、1950年代の終わりごろに石森章太郎も、赤塚不二夫、長谷邦夫とともにトキワ荘でアニメづくりに挑戦している。手塚の名代として東映動画に派遣されたことで動画用紙やセルをたくさんもらった石森は、町の大工に木製三段のマルチプレーン式撮影台を作ってもらい、カメラも買った。本業の合間に、石森が犬の原動画を描き、赤塚がセルにトレース。長谷邦夫が白黒のポスターカラーで彩色した。ところが1秒を描くのに何日もかかり、20秒作ったところでやめてしまったという。やめてよかったのだ。この3人は3人とも、漫画の世界でゆるぎない地位を築くことになるのだから。鈴木伸一 アニメと漫画と楽しい仲間 [ 鈴木 伸一 ]
2024.05.02
手塚プロダクションでチーフアシスタントを務めた福元一義氏。彼の著書『手塚先生、締め切り過ぎてます!』には福元氏自身の手によるカットが掲載されているが、さすがの腕前だ。と、思ったら、彼はプロの漫画家だったことがある。少年画報社で編集者をしていた福元氏だが、もともとイラストを描くのがうまく、手塚番をしていた時も、半分アシスタントのような仕事をして手塚治虫に評価されていた。また、福井英一の急逝にともなって宙に浮いてしまった『赤胴鈴之助』の引継ぎに新人だった武内つなよしを推薦し、ヒットに導いた。こうした実績をあげた編集者時代。それでも、密かに「漫画家になりたい」という夢があり、ずっと習作をしていたのだという。そして、手塚治虫の仕事ぶりを間近に見ていて、ある「勘違い」をしてしまう。(『手塚先生、締め切り過ぎてます!』から福元一義作イラスト)スラスラといともかんたんに描いてる先生を見ていたら、ひょっとするとぼくだって…漫画家・福元はすぐに売れっ子になる。第一作がいきなり大人気となり、翌月には7社から執筆依頼が来た。これを福元は深く考えもせず受けてしまう。だがもちろん、手塚のように速く描けるわけがない。結局、原稿は間に合わず(これを業界用語で「原稿を落とす」と言う)、それ以降、依頼はぱったり途絶える。仕方なくかつて所属していた出版社の温情で、細々と仕事を続けることに。そうやって実績を積んでいくと、また他社からも依頼が来るようになって、講談社から出た『轟名探偵』は、それなりの人気を取ったという。ところが、突如として漫画界に吹き荒れた「悪書追放運動」のあおりを受け、このヒット作が運動のやり玉にあがってしまう。福元にとってショックだったのは、テレビに「悪い漫画の例」として『轟名探偵』の扉絵が大写しになったことだった。さらに、追い打ちをかけるように、夏休みに編集部に見学に来た少年が「轟名探偵は怖いから早くやめてください」と言ったと聞かされた。この件ですっかりモチベーションをなくした福元。子供が生まれて、その将来を心配もしたという。そんな折に、武内つなよしから「マネージャーになってくれないか」と声がかかり、漫画家をやめることに。武内がだんだん仕事を減らしてマネージャーのサポートも要らない状態になったころ、手塚治虫が編集部をとおして「福元氏が作画を手伝ってくれるなら、新連載を引き受けてもいい」と声をかけてくれた。手塚の名前を聞けば、断ることはできない福元氏。新連作とは『マグマ大使』(1965)のこと。こうして彼は天職を見つけた…というわけだ。手塚治虫に憧れて漫画家になる。思ったよりはやく人気が出る。依頼が増えて、原稿を落とす――このパターンにピンときたら、あなたは漫画通だろう。そう、藤子不二雄Aの名作『まんが道』に、同じようなパターンのエピソードがあるのだ。狭い下宿を出て、トキワ荘に移り(この時、手塚治虫が敷金を残してくれたので二人は引っ越すことができたのだ)、急に売れっ子になった藤子不二雄の二人。だが、久しぶりに帰省をしたところ、いきなり「燃え尽き症候群」のようになって漫画が描けなくなってしまう。矢のような催促の電報がくる。なんとか対応しようとする二人。だが、筆は遅々として進まない。そして…まるで終わりのないマラソンに駆り立てられるような「売れっ子漫画家」の人生。延々とトップを走り続ける手塚治虫の超人的なエネルギーが、福元一義の、そして藤子不二雄の大失敗を引き起こしたとは言えないだろうか。だが、藤子不二雄には、トキワ荘の頼もしい先輩・寺田ヒロオがいた。藤子不二雄の原稿が届かないために困り果てた編集部のために、寺田ヒロオは徹夜で別の原稿を描いてくくれたのだという。東京に戻り、寺田の叱責と励ましを受け、手塚治虫からもエールを送られて、藤子不二雄は再起する。その後の二人のとどまることを知らない出世ぶりは、今更ここに書くまでもないだろう。[新品]まんが道[文庫版](1-14巻 全巻) 全巻セット
2024.05.01
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