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「家族でつながって下さい」などと言われても、現代人はつながり方を知りません。便利な機械の登場によって、人と人がつながらなくても生きていくことが出来る社会になってしまったからです。便利な機械やオモチャがなかった昔の子ども達は一人では遊べませんでした。だから仲間を求め、「遊び」を共有することで仲間とつながろうとしました。でも、現代の子ども達は一人で遊ぶことが出来ます。また大人達は、一人で遊ばせようとしています。その方が安心だし、また手間がかからないからです。便利な機械や道具がなかった昔は、お母さん達もまた一人で家事をこなすことが出来なかったので、家族に「お手伝い」を求めたり、隣近所で助け合ったりしていました。そうやって「共有するもの」を持つことで、家族や、ご近所がつながり合っていたのです。でも、便利な道具や機械が登場することでお母さんは一人で家事をすることが出来るようになりました。でもその結果、家族同士のつながり、地域の人たちとのつながりも消えました。何かを得れば、その引き替えに何かを失うのです。問題は「そのことを自覚しているのか」ということと、「何を失ってしまったのか」ということです。でも人々は「新しく得たもの」にばかり気を取られて、「失ってしまったもの」のことは簡単に忘れてしまいます。いつも私は「人間性は、親や他の人との人間的な関わり合いを通してしか育ちません」と言っています。ではその「人間的な関わり合い」とはどのようなものなのか、ということです。そこで大切になるのが「共有する」ということなんです。言葉を共有する。喜びを共有する。食事を共有する。生活を共有する。物語を共有する。遊びを共有する。感覚を共有する。技術を共有する。文化を共有する。イメージを共有する。目的を共有する。などなどです。簡単に言うと、おいしいものを食べた時、顔を見合わせて「おいしいね」とニコッとする。一緒にお風呂に入ったとき「気持ちいいね」とニコッとする。そういう関わり合いを通して「人間性」というものが育っていく(伝わっていく)のです。この「共有する」というのは、機械相手には出来ないことです。また、指示や命令だけでつながっているような人間関係しかない場合も出来ません。「人間的な関わり合い」というものは、「伝えるもの」であって「教えるもの」ではないからです。そして、その「伝える」ということが「共有する」ということでもあるのです。親が子に「何か」を伝える時、そのことによって親と子が「何か」を共有することになるのです。お母さんが子どもに「お料理の作り方」を伝えれば、お母さんと子どもは「お料理の作り方」を共有することになります。それが「お母さんの味」でもあります。子どもは優しくされることでお母さんとの間に「優しさ」を共有することができます。だから「優しさ」を身に着けることができるのです。一日中「優しくしなさい」と怒鳴っても、決して「優しさ」は育たないのです。むしろ、「イライラ」を共有することで逆の結果になるでしょう。「言葉」は「言葉を伝え、共有してくれる人」がいるから子どもに伝わっていくのです。立派な教科書を使っていくら丁寧に教えても、「共有してくれる人」がいなければ、言葉は伝わらないのです。子どもは、一緒に食べているときに「おいしいね」と笑顔で微笑んでくれる人を通して、「おいしい」という感覚を共有し、「おいしい」という言葉の意味を理解するのです。そして、その過程で「人間らしさ」も伝わっていくのです。だから、子どもの「人間らしさ」を育てたいと思うのなら、お母さんが我が子に色々なことを伝えてあげて下さい。「教える」のではなく「伝える」のです。それは、一緒にやってみる、ちゃんと相手の顔を見て、相手の言葉に耳を傾け、相手の気持ちに寄り添わないことには出来ないことです。「何べん言ったら分かるの」というのは、「教えようとする行為」であって、「伝えようとする行為」ではありません。これは夫婦の間でも同じです。「お母さんは家事をするだけ、お父さんはお金を稼いでくるだけ」では、家族はつながり合えないないのです。結果、子どもの人間性を育てることが困難になってしまうのです。夫婦の間で、「子育て」を共有することが出来ていますか?
2023.12.03
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家族とつながれない子は友だちともつながれません。人と人がつながるためには「つながりを支えるもの」が必要になります。これは子どもでも大人でも同じです。そして、その「つながりを支えてくれるもの」を与えてくれるのが「家族」だからです。それは、言葉、遊び、感覚や感情、他者との関わり方などです。自分を表現したり、相手の表現を理解したり、相手の言葉に耳を傾ける能力も、家族との関わり合いの中で育ちます。そして、公園や保育園(幼稚園)などで、他の子と関わるようになった子は、それらの「家族との関わり合いで学んだこと」を使って、他の子とつながろうとします。家族との関わり合いを通して「日本語」を学んだ子は、初めて会う相手とも「日本語」で関わろうとしますよね。それと同じです。そして、そういうものを学ぶことが出来た子同士は、そういう「家族との関わり合いを通して学んだこと」を「つながりを支えてくれるもの」として使い、他の子とつながることが出来るのです。でも、その「つながりを支えてくれるもの」を育てることができなかった子は、他の子と良好な関係を築くことが出来ません。でも、「他の子とつながりたい」というのは子どもの本能なので、なんとかして他の子と関わろうとします。でも、その方法は自分勝手で一方的になってしまいます。それ以外の方法を知らないからです。そのため、ケンカなどが起きやすくなります。他の子をいじめたり、他の子にいじめられたりする可能性も高くなります。他の子が嫌がるようなことを言ったりやったりして、排除されたりすることもあります。でも、本人にはその理由が分かりません。だから「ぼくは何にもしていないのに・・・」などとお母さんや先生に訴えます。すると、子どもをそういう状態にしてしまっているお母さんも同じ感覚なので、一方的に相手の非を咎めます。教室でもそういう状態の子を時々見かけます。自分の方から先に、他の子が嫌がることを言ったりやったりしているのに、その子が怒って何らかの反撃をしてくると「ぼくは何にもしていないのに」と訴えてくるのです。脇で見ている私は、「いや、十分やっているだろ」と思うのですが、本人にはそれが分からないのです。でもこれとは逆の、家族とつながり、「つながりを支えてくれるもの」が育っている子の方が、異分子としていじめられることもあります。「つながりを支えてくれるもの」が育っていない子同士が、「いじめ」を共有することでつながろうとすることがあるからです。その場合、イジメの対象になるのは「イジメの仲間」に加われない子です。いじめられている子の親が、そういう状態に文句を言うと、いじめている子の親同士も結託して、文句を言っている親に圧力をかけようとします。こういう場合、大人達は「どちらの方が正しい」とジャッジしようとしますが、子どもが本当に望んでいるのはジャッジではないのです。ジャッジに拘るのは大人だけです。いじめている子も、いじめられている子も、本当に望んでいることは同じなんです。それはただ、「みんなと仲良く遊びたい」ということだけなんです。それが出来ないから「イジメ」という形で遊ぼうとしてしまうのです。仲良く遊ぶ能力が育っていないから、「いじめる子」と「いじめられる子」に分かれてしまうだけなんです。大人達は「イジメは良くない、やめなさい」と言います。でも、「みんなとつながる能力」が育っていない子は、それ以外の関わり方を知らないのです。そして、子ども達はその能力を家族との関わり合いの中で育てているのです。
2023.12.02
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教室で20キロの粘土の塊をドンと置いて「自由にしていいよ」と言うと、自由保育の保育園や幼稚園に通っている子どもたちは「やったー」と言って飛びつき、殴ったり、丸めたりなどしてグチャグチャ遊びを始めます。でも、しつけやお勉強に熱心な保育園や幼稚園に通っている子は戸惑い「何を作ったらいいの」と聞いてきます。それで「好きなものを作っていいんだよ」と言うと、お茶碗などちゃんとした形があって、それが何んだか一目で分かり、「意味があるもの」を作ろうとします。正解がないと行動出来なくなってしまっているのでしょう。全員が同じように反応するわけではありませんが、そういう傾向が強いように感じます。と、これだけ読むと自由保育の保育園や幼稚園に通っている子の方が自由にのびのびと育っているように思えますが、話はそう簡単ではありません。確かに自由にのびのびと育ってはいるのですが、自由保育出身の子は、いつまでもグチャグチャ状態から抜け出すことが出来ない子が多いからです。グチャグチャ状態から抜け出すためには、束縛を引き受ける必要があるのですが、それが出来ないのです。例えば、「イス」を作るとします。その際、「自由でいいところ」と「自由ではいけないところ」があります。イスが「イス」として成り立つためには、構造的に守らなければならないところがあります。「安全性」や「座り心地」は、座る人に合わせなければなりません。これは絶対です。これが「自由ではいけないところ」です。そして、その「自由ではいけないところ」は、大人から学ぶ必要があります。好き勝手に作っているだけでは、この部分の学びが抜けてしまうのです。でもそれだけでは「面白みがない規格品のようなイス」しか作ることが出来ません。小さい時から、大人の指示で動くような教育を受けて育った人は、規格品のような生き方をする大人になる可能性が高いような気がします。それに対して、大人から学ぶことなく、子どもたちだけ群れて遊んで育ったような子は、自由なデザインで面白いイスを作るかも知れません。でも、そのイスは、見ているだけなら面白いですが、座ると危険です。<b>子どもを自由にさせるだけの保育も、子どもを指示命令だけで管理する保育も、「子どもの育ちにとって必要なもの」が何か足らないのです。</b>子どもの育ちには「(仲間との)横のつながり」だけでなく、「(大人との)縦のつながり」も必要なんです。その二つのつながりがあるから、子どもは本当の意味で自由に自分の人生を生きることができるようになるのです。それは「織り物」と同じです。まずしっかりと大人との間に「縦糸」を張ります。そこに、仲間という横糸を絡めていきます。すると、「自分の模様」を織り出すことが出来るようになるのです。その最初の「縦糸」を張るのが「家族」というつながりなんです。「家族(Family)の崩壊」はこういう所にまで影響しているのです。
2023.12.01
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「家族」は「子どもの育ちを支える環境」の最小単位です。豊かな人間性を育てるためには「家族」だけでは十分ではありませんが、「家族」が崩壊したままだと子どもはその「人間らしさ」を育てることができないのです。ただし、この場合の「家族」は「お互いに信頼し、支え合っている仲間」のことです。血はつながっていなくても、「お互いに信頼し、支え合っている仲間」なら「擬似的な家族」として、子どもの育ちを支えることができます。逆に、血はつながっていても、同じ家の中で暮らしていても、信頼し、支え合うことなくバラバラに暮らしているのなら、それは「同居人」であって「家族」ではありません。私が言っているところの「家族」は日本語の「家族」よりも、英語の「Family」に近いです。「家族」をネットの辞書で調べると同じ家に住み生活を共にする、配偶者および血縁の人々。と書いてあります。(Oxford Languages)それに対して、「Family」は家族、一家、(一家の)子供たち、(血縁関係のある)一家、一族、一門、家柄、名門、(共通の特質によって関係づけられた民族などの)一群、(マフィアなどの)暴力団の一家と書いてあります。( Weblio辞書)英語の授業では「家族=Family」と習いますが、実際には、この二つは同じものではないのです。「家族」は「血のつながり」を大切にしていますが、「Family」の方は「血のつながり」よりも、「大切なものを共有している仲間」的な要素の方が強いのです。逆に言えば、だから、シングルのお母さんやお父さんでも(英語的な意味での)「家族」を作ることは出来るのです。そして、子どもの「人間らしさ」は「血のつながり」の中で育つのではなく、「大切なものを共有している仲間」(Family)の中で育つのです。いくら血がつながっていても、心がバラバラであったら、子どもの「人間らしさ」は育たないのです。でも、簡単で便利な機械の登場や、みんなが「自分の欲」を満たすことだけに夢中になることで、家族は同じ屋根の下に住んでいてもバラバラに生活するようになってしまいました。今、「家族同士で共有しているのは家と、お金と、ネット環境だけ」という家族も多いのではないでしょうか。「心のつながり」を支えるようなものを共有している家族がどんどん少なくなってきてしまっているような気がします。子ども達もゲーム機さえあれば、何時間でも一人で遊ぶことが出来るし、それ以外のことを求めてもいません。その結果、子どもの周囲から、「子どもが育つ環境」が消えてしまったのです。お父さんが「お金を稼ぐだけの人」になってしまって、「家族(Family)の一員」ではなくなってしまっている家族もいっぱいあります。お母さんも「簡単で便利な子育て」を求めて、我が子との間に「家族としてのつながり」を作ろうとしていない人も増えてきています。「出産も子育ても、楽で簡単な方が方がいい」と考える人たちが増えてきたのです。出産で痛い思いをするのも、子育てで自分だけ苦しむのも嫌なんです。でも、「家族」(Family)は「与えられるもの」ではなく、「自分の努力で育てるもの」なんです。みんながそういう意識を持ってお互いに支え合わないことには「家族」は成り立たないのです。ちなみに「出産」は、「お母さんによる一方的な作業」ではなく、「お母さんと子どもの共同作業」です。子育ても「お母さんと子どもの共同作業」です。だから、「子どもの言葉」にも耳を傾けないことには「子育て」は成り立たないのです。でも、そのことに気づかない人がいっぱいいます。
2023.11.30
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再度の告知です。申し込みが少ないため、この告知で申し込みがない場合は中止にします。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日会場: 茅ヶ崎市勤労市民会館(ポランの広場)で取ってあります。「気質」の考え方を手がかりに、一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>***********************人間は「自然の一部」として、生まれ、存在しています。この「自然」には「地球」だけでなく「宇宙」も含みます。ですから、その「自然」が存在しなければ、人間も存在できません。「自然」の状態が狂えば、人間の状態も狂います。「一部」なんですから、それは当然のことです。紙の上に描かれた絵は、紙の一部として存在しているため、紙を歪ませれば同じように歪みます。それは当然のことだし、それを逃れることは出来ません。それが「一部である」ということでもあります。人間はまた、「社会の一部」でもあります。ですから、社会が狂ったり歪んだりすれば、人間もまた狂ったり歪んだりします。でも、その狂いや歪みは自分の周囲の全てで同時に起きているので、自分が狂ったり歪んだりしていることを認識するのは不可能です。戦争になると、人々の意識は異常な状態になりますが、周囲の人たちもみんな同じ状態なので、自分の周囲だけを見ている限り、自分が異常な状態になったということを認識することは出来ません。それを認識するためには、人間社会の外の世界に目を向ける必要があります。自然の状態は人間社会ほど簡単に変化しないので、「変化しない自然」を基準にして「変化する人間の社会」の状態を観察することで、その狂いや歪みが見えてくるのです。例えば、「幼い子ども」は人間の社会の中でも最も自然に近い存在なので、ありのままの状態の「幼い子ども」を受け入れることが出来なくなってしまった社会は、狂ったり、歪んだりしているのです。でも大人達は、その狂いに気付かず、子どもの方を社会に合わせて矯正しようとしています。そして、その結果、「子どもの成長」も歪んでいき、「歪んだ社会」に適応できるようになります。でも、それは人間の「頭」の中だけの話です。心もからだも「自然」に属するものなので、社会が自然とのつながりを失い歪めば、「頭」は適応できても、心とからだは適応できずに歪むのです。それは「生命力の低下」という形で表れます。人間はまた「家族」の一部でもあります。この「家族」が人間の誕生や、成長や、存在を支えている最小単位です。家族がいれば子どもは成長することが出来ます。でも、家族がいなければ子どもは成長することが出来ません。家族が歪めば、子どもも歪みます。そして、「家族」も「社会」や「自然」の歪みから逃れることは出来ません。でも、家族の状態に一番大きな影響を与えている親が、「家族」や「社会」の外にある「自然」に意識を向け、自分たちの狂いや歪みに気付くことが出来れば、可能な範囲でその歪みを正すことも出来ます。ただしその場合、家族の歪みが矯正されると、周囲の社会との軋轢が生まれます。社会全体が歪んでいるときには、それに合わせて歪んでいる家族の方が「正常」だと認識されてしまうからです。社会の流れに乗らず、自然を基準にして歪みを矯正すると、周囲からは「変わった家族」として見られてしまうのです。でも、その方が子どもの状態は安定します。子どもの心やからだの状態も安定します。そして、「社会に束縛されない生き方をすることが出来る人間」に育って行くでしょう。
2023.11.29
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「人」を育てることが出来るのは「人」だけです。物や機械や道具で「人」を育てることは出来ません。テレビや、スマホや、ゲーム機に、「子どもの育ち」を支える力はありません。万能と思われている科学にも、「子どもの育ち」を支える力はありません。科学がその力を発揮するのは物質世界においてだけだからです。科学的な見方や方法は物質世界には有効でも、人の心には有効ではないのです。だから、こんなにも科学が進歩したのに、不安を抱え、自己肯定感が低く、生きる希望を失ってしまっている人たちがドンドン増えてきているのです。でも、科学が生み出したテレビや、スマホや、ゲーム機はそんな苦しみや不安を忘れさせてくれます。また、科学を使えば「不安を忘れさせてくれる薬」を作ることも出来ます。でもそれ故に、一度科学に依存するようになってしまうと、科学依存症になってしまうのです。そして「何でもかんでも科学が解決してくれる」と思い込むようになってしまいます。でもそれは幻想に過ぎません。依存症になると、自分が置かれた現実と向き合うことが出来なくなってしまうのです。それは薬物依存でも、お酒依存でも、買い物依存でも、ゲーム依存でも同じです。また、ゲームは目の前にある不安や寂しさを忘れさせてくれるため、一緒に遊ぶ仲間や、想いを共有出来る仲間がいなかったり、ゲーム以外の遊びを知らなかったり、自由に遊ぶ時間や空間を与えられていないような子は簡単にゲームに依存するようになります。家族同士のつながりが弱い場合も、子どもは簡単にゲームに依存するようになります。寂しいからです。繰り返しますが、科学には「子どもを育てる力」も、「人を幸せにする力」もないのです。なぜなら、科学は「人間の道具」に過ぎないからです。科学は「物質世界における人間の夢や願いを実現する道具」なんです。それは「魔法」と同じです。科学は道具に過ぎないのでそれ自体に善悪はありません。ですから、悪い心を持った人が「悪いこと」を願えば、それを効率よく実現する能力を持っています。爆弾一つで何十万人も殺せる時代なんですから。良い人が「良いこと」を願えば、それを実現する能力も持っています。作物を増やしたり、病気から人を救う能力も持っています。ですから、科学が人を幸せにするのか、不幸にするのかは、科学を使う人間次第なんです。だからこそ、今、「人間育てる教育」が必要になるのです。でも実際には、みんな科学が創り出した「簡単で便利な生活」に依存するばかりで、「人間」を育てることには関心がありません。子ども達に、テレビやゲーム機を与えておけば、お母さんは自分の時間を得ることが出来ます。便利ですよね。でもその結果、子どもは「人間として成長するために必要なこと」を学ぶことが出来なくなってしまうのです。「幸せに生きるために必要な能力」も育たなくなります。そういう人が増え、科学を自分の欲を満たすために使えば社会全体の不幸につながるでしょう。科学が進んだ時代だからこそ、その科学を正しく使うことが出来る人間を育てる教育をすべきなんです。そのためには、幼い子ども達を「科学に依存した生活」ではなく、「人間らしい環境」の中で、「人間らしい生活や遊び」の中で育てるべきなんです。科学に依存しない生活の中で、科学を「道具として使う能力」が育って行くのです。科学の便利さに触れ、その使い方を学ぶのは、9才を過ぎてからでいいのです。
2023.11.28
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昨日は、科学は「人が生まれてくるのに意味なんかない、ただの自然現象だ」と考えています。と書きましたが、実は仏教でもこれは同じです。お釈迦様は「摩訶不思議なこと」は説きませんでした。お釈迦様自身は神や仏について話したりはしていないのです。でも、生まれてきてしまった以上、人は意味がなくても死が迎えに来るまでは生きなければなりません。そして、生きることは苦しいです。一番身近な苦しみは「人間関係」によって生まれます。病気もあります。老いる苦しみもあります。どんなに一生懸命に生きても、「死」は必ずやってきます。そういう「苦しみに満ちた世界」の中で、お釈迦様は「どうやったらその苦しみに支配されず、自分の意志と工夫で幸せに生きることが出来るのか」ということを説いたのです。科学も仏教も「人が生まれてくるのに意味なんかない、ただの自然現象だ」と考えている点では一緒なんです。ただ科学は、それを事実として提示するだけでどうしたらいいのかは教えてくれません。それどころか、それまで人々の心を支え、生き方を導いてくれた宗教や、神や仏を否定してしまいました。でも人の心は、科学が提示する「虚無」には耐えられないのです。なぜなら「心」というもの自体が有機的で、空想的で、非論理的で、非科学的なものだからです。これは知的な教養が高い大人でも同じです。だから人々は、その不安に耐えるために宗教に代わるものを求め始めました。様々な欲望を満たすことで幸せを得ようとするようになったのです。そして、競争が始まりました。そしてまだ、神様や仏様やサンタクロースが存在している世界に生きている子ども達を、無理矢理その世界から引きずり出してしまう大人も増えました。その結果、子ども達は信じるものを失い、虚無的で、強い不安と緊張の中で生きなければならなくなりました。そういう子は理屈ばっかり言って、創造的な思考をすることが苦手です。子ども達は大人が望んでいる「競争に勝つこと」よりも、「目的や夢を共有することが出来る仲間」が欲しいのです。それが成長の本能だからです。「サンタクロースなんかいない」というのは科学的には正しいことなんでしょう。でも、子どもが安心を得、自分の命や人生に対して希望を持つためには、心の中に「サンタクロース」のような「希望を与えてくれる存在」が必要なのです。子ども達はみんな、「自分という存在に意味と価値を与えてくれる物語」を求めているのです。その象徴が「サンタクロース」なんです。そもそも科学では「希望」というものを扱うことが出来ません。子どもにとってだけではありません。大人にとっても「論理を超えた希望」は、人が能動的に、幸せに生きていくためには絶対的に必要なものなんです。それを失った子ども達は、成長欲求も消えてしまうのです。科学の力では、「子どもの生きようとする力」や「成長したいという気持ち」を育てることができないのです。
2023.11.27
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「人はなぜ生まれてくるのか」「自分はなぜ生まれてきたのか」という問いは、多分、人類が「自分」という存在に気付いた何十万年も前から存在しているのでしょう。そして、人々はその意味や理由を考える過程で、様々な宗教や神話を創り出しました。キリスト教やイスラム教などの一神教では「人が生まれてくるのには意味がある」と考えます。それらの宗教では「人は神が創り出したものだ」と考えられていますが、全知全能の神が「無駄なこと」や「意味がないこと」をするわけがないからです。神の行為には必ず意味があるのです。そして、「キリスト教的神」を大切にするシュタイナー教育もこの立場に立って教育をしています。教育を通して、子ども一人一人が「自分が生まれてきた意味」を成就する手助けをしようとしているのです。だから「気質」という考え方も大事にしているのです。「気質」を知ることで「子どもがどういう役割を担って生まれてきたのか」ということが分かるからです。(「私はそう理解している」ということです。)この視点がない人には、シュタイナー教育は単なる「情操教育」や「芸術教育」にしか見えないでしょう。それに対して、科学は「人が生まれてくるのに意味なんかない、ただの自然現象だ」と考えています。そして、現代人の多くもそのように考えています。そんな科学的な感性に基づいた子育てや教育では、「子どもが生まれてきた意味」を考えることはありません。それよりも、「子どもが充実した人生を送ることが出来る能力」を育てることの方が大切にされます。意味はなくても、生まれてきてしまった以上、死ぬまでは生きなければならないからです。また、「どうせ生きなければならないのなら、幸せに生きる事が出来る能力を育ててあげたい」と願うのが親心でもあります。そして現代人は、「人が幸せに生きるためにはお金が必要だ」と考えています。だから、良い成績を取り、競争社会で生き抜く能力を育てようと、子どもを追い立てています。でも、「現代社会に産まれてくる子ども」も、「何万年も前に産まれていた子ども」と同じ感性を持って産まれてきます。それは「神や神話を素直に信じることが出来る感性」です。そして、「そういうものを信じていると安心する感性」です。子ども達は、7才ぐらいまではそういう心の世界に生きているのです。それが「ファンタジー」と呼ばれる世界です。そして「ファンタジーの世界」に生きている子ども達は、「サンタクロース」という摩訶不思議な存在に対しても何の疑問も感じません。でも、7才が近くなると「ファンタジーの世界」がぼやけてきます。そして、9才を過ぎる頃から、大人と同じ現代人的な感性が目覚め始めます。でも、それ以前の「ファンタジーの世界」に生きている子ども達には、大人が生きている世界が理解できません。競争に勝つことの意味とか、お金の価値も分かりません。社会的に成功するなどということには全く関心がありません。そもそも、そういうものの価値を支えている「社会」というものが理解できないのですから。そのため、そういうお母さんや大人達が「あんたのためよ」と押しつけてくることの意味も分かりません。だから「なんで勉強しなければいけないの?」とか「なんで学校に行かなければならないの?」などと、大人に聞くのです。でも、「自分が生まれてきた意味」を考えたことがない大人はその問いに答えることが出来ません。答えたとしても「社会の価値」を前提にした答えでは子どもは理解できません。そんな時、子どもは「自分が生まれてきた意味」とつながるような理由が知りたいのです。<続きます>
2023.11.26
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私は子育てに苦しんでいる人から相談を受けることが多いのですが、話を聞いているとそのような人ほど無趣味な人が多いです。「昔は○○をやっていたけど、今は忙しくて出来ません」と言う人もいます。いずれにしても、そのような人は生活の中心が「家事」と「子育て」だけになってしまっています。考えることも、「家事」と「子育て」のことばかりです。そして、毎日、家事と子育ての小さな事に一喜一憂しながら生活しています。そのため、世界が閉ざされ、心に自由がありません。また、その事ばかり考えていると、他の人には「どうでもいいような小さな事」が気になるようになります。そして、自分の容量以上のことを気にしたり考えるようになり、身動きが取れなくなります。また、考えれば考えるほど、その「小さな事」が「大事なこと」のように思えてきて、手放すことが出来なくなります。その結果、「本当に大切なこと」が見えなくなり、「どうでもいいこと」ばかりに一生懸命に取り組むようになります。「どうでもいいこと」に一生懸命になると、さらに「どうでもいいこと」が気になるようになります。俯瞰的な視点を失ってしまっている人は、一つ「気になること」を考え出すと、それに関連する「気になること」が雪だるま式に増えてしまうのです。そして、ますます「本当に大切なこと」が見えなくなります。「何のために頑張っているのか」ということも分からなくなります。それは、スマホを覗き込みながら電車のプラットホームや自然の中を歩いている人と似たような状態です。そのような人は、スマホの画面が気になってしょうがなくなり、すぐ前に川や崖があっても気付かなくなるのです。そして、川に落ちたり、崖から落ちたりしてから後悔するのです。「家事」や「子育て」だけに束縛されている人は、「自分がちゃんと出来ているか」ということばかりを気にしています。そして、常に「自分チェック」や「子どもチェック」をしています。スマホのラインやメールをチェックするのと同じです。それを止めることが出来ないのです。そして、家事がちゃんと出来ていなかったり、子どもが「良い子」に育っていないと自分を責めます。そして更に深入りしようとします。趣味や興味は、そんな悪循環にはまってしまっている人の心を、その狭い世界から、別の世界へと連れ出してくれるのです。そのことで、スマホの画面以外の世界にも気付くようになるのです。というようなことを言うと、「家事や子育てが忙しくて、趣味の活動をする時間などありません」という反応が返ってくることが多いです。でも世の中には、家事や子育てが忙しくてもちゃんと自分の趣味を楽しんでいる人もいっぱいるのです。そのような人は「家事の時間」や「子育ての時間」の他に「自分の時間」を作ろうとはしません。逆に、「家事の時間」や「子育ての時間」を「自分の時間」に変えてしまうのです。家事や子育ての中に「自分のやりたいこと」を潜り込ませてしまうのです。子育てに正解などないのですから、みんな「自分らしい子育て」をすればいいのです。子どもを自分の趣味の世界に巻き込んでもいいのです。だって、「あなたのお子さん」なんですから。子どももそれが嬉しいはずです。「一緒」を体験出来るからです。そしてそれもまた立派な「自己表現」なんです。
2023.11.25
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日本人は「みんな一緒」や「みんなと同じ」が大好きです。そして、他者と違うと不安を感じ、「他者と違う人」は排除しようとします。みんなと違う感覚を持ち、みんなと違う考え方や行動をする子は「問題児」として扱われます。「人より劣っている子」だけでなく、「特別な才能を持った子」も「問題児」として扱われます。子育てや教育などの場で「個性を大切にしよう」などということはよく言われます。でも、だからといって、積極的に「個性」を育てるような子育てや教育が行われているわけではありません。ただ、「個性を大切にしよう=違いを許容しよう」的な意味で使われているだけです。それは「差別をやめよう」的な感覚と同じです。日本人にとっての「個性」は「特別で大切なもの」ではなく、単なる「標準からのずれ」に過ぎないのです。そのため、「個性」を「長所」として考え、伸ばそうとする発想も、そのような教育システムもありません。むしろ、「個性的な子」は「普通の子」になるように指導されています。そもそも、「一斉教育」という方法自体が、「一人一人の違いを否定した教育法」なので、「個性的な子」を肯定していたら授業が成り立たなくなってしまうのです。「個性を大切に」などと言いながら、「その子らしさ」が表れた個性的な感想文や、個性的な絵を描くと標準に合わせるように指導されます。歌ったり、踊ったりする時も「みんな一緒」が求められます。そこに「自分らしさ」や「個性を大切にする」という発想はありません。そして「自分らしさ」が否定され続けることで、子どもは、「自分」に自信を無くしていきます。「自分」の存在価値を見失っていきます。そのまま大人になった人たちは「自分の本音」や「自分の考え」は言いません。というか、そういうことを考えないようになってしまうのです。そういう教育を受けて育った日本人の多くが、「人と違う自分」や「自分らしさ」を肯定できなくなってしまっています。子育てでも「自分らしい子育て」をすれば、「楽で楽しい子育て」が出来るのに、なぜかみんな「どこにも存在していない理想の子育て」を目指して子育てをしているのです。だから、子どももお母さんも苦しくなってしまうのです。だから「自分らしい子育てをすればいいんだよ」と言うのですが、みんな、その「自分らしい」がよく分からないと言うのです。自分の「自分らしさ」が分からないので、「自分らしさを大切にした子育て」も出来ないのです。そういう状態を変えるためには、自分を表現するような活動が必要になります。私の親子で遊ぶ幼児教室では、幼児よりもお母さんを解放してあげることの方を大切にしています。幼児の方はそのままでも大丈夫だからです。表現ワーク的な活動もよくやります。すると、お母さん達がドンドン変わっていくのです。ドンドン素敵になっていきます。みんなそんな「素敵」を内側に秘めているのに、それを否定し、自分を隠して生きているのです。そんな「もったいない生き方」やめませんか。たった一度きりの人生なんですから。
2023.11.24
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皆さんは、八百屋さんの全ての商品が不透明な袋に入れられていたら、自分が欲しい野菜や果物を買うことが出来ますか。出来ませんよね。野菜と果物の区別もつかないし、品物の良し悪しも判断できませんよね。袋に色々な色や柄があったら、中身ではなく袋を基準に選んでしまうかも知れませんね。実際、幼い子どもたちは「中身」ではなく「箱や袋に描かれたイラスト」でお菓子を選んだりしていまから。そして、「自分を表現しない人」はみんな同じような状態なんです。いくら「私を選んで」と期待しても、中身が分からない人を選ぶ人はいないのです。選んでくれる人がいたとしても、「私の中身」が気に入って選んでくれたのではなく、見かけや、社会的な地位といった「袋(仮面)」で選んでいるのですから、自分の中身を見せるような付き合い方は出来ないのです。また、「中身が分かったら嫌われてしまうかもしれない」という恐れもあるので、出来るだけ中身を見せないように付き合います。こういう付き合い方では「知り合い」は出来ても「仲間」は出来ないのです。でも、多くの日本人が、中身を見せないように「袋(仮面)を被った状態」で生活しています。マスク生活がさらにその状態を悪化させています。また、素顔を見せない状態では子育ても出来ません。だからといって、その状態に満足しているわけではありません。だからストレスや不安が強くなってしまうのです。子育ても苦しくなってしまうのです。また、自分でも「本当の自分」が分からなくなってしまいます。もし、本当にあなたが仲間を作りたいのなら、そのような状態から抜け出したいのなら、「自分を隠している袋(仮面)」を外し、言葉や行動を通して、他の人にも見える形で「自分」をちゃんと表現する必要があるのです。などということを言うと、「そんなことしたら、かろうじて今つながっている仲間が逃げてしまう」などと答える人がいます。でも、素顔を見て逃げていくような人は、最初から仲間ではないのです。それに、「見かけでつながっていた見せかけの仲間」はいなくなっても、あなたの素顔を見て、つながろうとしてくれる人が必ず現れるのです。そういう人も素顔で接してくれるでしょう。「袋(仮面)」をかぶったままの人の所に集まるのは、同じように「袋(仮面)」をかぶった人だけです。でも、勇気を出して自分の素顔を出せば、自分の素顔で付き合ってくれる仲間が表れるのです。本当に仲間を作りたいのなら、自分に噓をつくことは止めた方がいいです。*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日「気質」の考え方を手がかりに、一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.11.23
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日本人は「仲間作り」が下手です。子どもだけでなく大人も下手です。「仲間が欲しい」と思っている人はいっぱいいるのですが、自分からは動こうとしないのです。そして、みんな、誰かが誘ってくれるのを待っているのです。でも、誰も誘ってくれません。みんな同じ気持ちだからです。公民館企画の「みんなで○○しよう」という行事があれば参加して、公民館が作ってくれた一時的な仲間と関わりを楽しむことはあっても、その仲間を自分の力で継続しようとする人もあまりいません。それは、公民館の人が言っていたことです。「公民館企画」なら参加するのに、「今度は自分たちで企画して」とお母さん達に活動を手渡そうとすると、みんな消えてしまうというのです。お客さんとして参加するのは楽しくても、主催側になって責任を負うことはしたくないのでしょう。「○○ランド」に行くような気楽な感覚で参加したいのでしょう。私は色々な活動をしていますが、あまりオープンにはしていません。それでよく、「先生の活動はどこで分かるのですか」と聞かれるのですが、以前、オープンにしてブログなどでも参加者を募集していたら「お客さん」がやたらに増えて困った状態になってしまったのです。長く一緒に活動している仲間は色々と手助けしてくれます。でも、「お客さん」は、家族や一緒に来た仲間とだけで固まって話し、活動をするだけです。その場にいる他の人と関わろうともしません。自己紹介も挨拶もなくただ参加費を払い、イベントを楽しんで、知らないうちに勝手に帰ってしまいます。そのような人は、面白そうなテーマの時は参加しても、あまり興味がないテーマの時は参加しません。「○○ランド」ならそれでもいいのですが、私の活動は「みんなでつながろう」という趣旨でやっているのですから、そういう「お客さん」が増えたら困るのです。でも実際には、そういう「お客さん感覚の人」の方が圧倒的に多いのです。それで、今では登録制にしています。でも、そういう「お客さん感覚の人」も「仲間」は欲しいのです。だから会に参加して、同じ活動をして、「仲間気分」を味わいに来るのでしょう。それは、ハロウィーンの時に渋谷に集まってくる若者達と同じ感覚です。でも、参加するだけで積極的に仲間を作ろうとはしません。今、そういう「受け身感覚で生きている人」が非常に多いのです。これは日本の子育てや教育の結果だと思います。お母さんや先生や大人達が、子どもから自由を奪い、指示や命令で動かそうとしていれば、子どもが受け身的な感覚で生きるようになるのは当然の結果です。「じゃあみんなそれで満足しているのか」というと、満足しているわけでもないのです。仲間は本音で付き合えます。共に笑い、共に泣き、共に子育てが出来ます。だから子育ても、人生も楽になります。でも人は、仲間ではない人の中では見栄と体裁と人目を気にします。そして常に、「我が子」と「他の子」、「自分」と「他のお母さん」を比較してしまいます。競争相手なんですから「共に子育て」なんて出来ません。そんな子育てや生き方が楽しいわけないのです。むしろ孤独で、不安で、苦しいでしょう。でも、どうやったらそういう状態から抜け出すことが出来るのかが分からないのです。
2023.11.22
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人間は一人では生きることが出来ない動物です。一人では子どもを育てることが出来ません。一人では、人間らしく成長することも出来ません。「マザー」というロボットによって育てられる子どもを描いたSF映画がありますが、実際にはあんなこと出来ません。人間は「自分を育ててくれる存在」が持っている以上の能力を身につけることは不可能だからです。無表情のロボットに育てられているのに、あんなにも表情豊かな子どもが育つわけがないのです。これは人間でも同じです。お母さんが無表情なら、子どもも無表情になるのです。お母さんが無言なら、子どもも無言になるのです。お母さんが感情的なら子どもも感情的になり、お母さんが人目を気にして生きているのなら、子どもも人目を気にするようになるのです。それが人間の特性であり、人間の能力でもあるのです。この能力があるから、子どもは、言葉や、感性や、知性や、文化を親から受け継ぐことが出来るのですから。ただ普通の人間の場合は、「マザー」に出てくる女の子のように完全に一人ぼっちではなく、深く関わらないにしても必ず周囲には他の人間がいます。だから、そういう人を見て学ぶことは可能です。テレビなどで英語を話す人を見て英語に興味を持つことも可能です。でも、英語を話すことが出来る人と実際に関わらない限り、自己流で中途半端な英語しか学ぶことが出来ないでしょう。これはどんな学びでも同じです。「俺は一人でも生きていける」「一人で生きている」などとかっこいいことを言う人もいますが、他の人からお金を貰い、そのお金で、他の人が作った食べ物を食べ、他の人が作った家に住み、他の人が作った機械に依存して生活しているのなら、一人で生きていることにはならないのです。それは勝手な思い込みに過ぎません。そういうことを言っている人だって、一人ぼっちで育ったわけではないはずです。そもそも、一人ぼっちで育ったのなら言葉も話せないはずです。「お金を稼ぐ能力」も育ちません。そして、現代社会では、お金を稼ぐ能力が育っていなければ一人で生きていくことは不可能です。でも、現代社会には、一人で子育てをしているお母さんがいっぱいいます。この場合の「一人で」は「心の世界」の話です。実際には多くの人に支えられているのですが、「心」が「一人ぼっちの世界」に閉じ込められてしまっているのです。当然、そういうお母さんに育てられている子も一人ぼっちです。物や機械はいっぱい与えられているのかも知れませんが、他の子や他の大人と関わることは出来ません。そのため、言葉や、知性や、コミュニケーション能力や、人間らしさを学ぶことが出来ないまま育つことになります。塾に通わせお勉強させても、暗記による勉強しか出来るようにならないので、中学生頃から急に勉強に付いていくことが困難になります。また当然、コミュニケーション能力も育ちません。他の人とつながり、支え合う関係を築く能力も育ちません。他者から学ぶ能力も育ちません。自分しかいない状態で育った子は自分勝手に行動するようになるでしょう。それは必然的な結果です。そういう子が増えたら社会は崩壊します。また、子ども自身も生きていくのが辛く苦しくなるでしょう。その苦しみから抜けるためには他の人とつながるしかないのですが、それが出来ないのですから。そして「子どもの苦しみ」は「親の苦しみ」としても返ってきます。だから、子どもを一人で育てようとしてはいけないのです。一人で頑張ってはいけないのです。まず外に出て下さい。そして、他の人に話しかけて下さい。「寒くなりましたね」だけでもいいのです。それだけで何かが変わっていくのです。子どもが泣いて「子どもを泣かすな」と言われたら、「どうしたら泣き止むのでしょうか?教えて下さい。」と聞いてみて下さい。それだけで相手との関係性が変わりますから。
2023.11.21
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最初に告知を入れさせてもらいます。会場は群馬です。12月7日に表現のワークをします。https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSd6KLPGUXrIUQmSOiSuqxyjt0Bw8CXarWw65d_lAndjy1t6Dg/viewform**************昨日は、私は、「人間以前の状態」で生まれてくる子どもが、心や、知性や、からだの育ちにおいて「人間らしさ」を身につけるためには、育ちの過程で「自然」「仲間」「言葉」の三つの要素が絶対的に必要だと思っています。このどれが欠けても、子どもは「人間らしさ」を育てることが出来なくなってしまうのです。と書きましたが、だからといって、「こういうものをただ与えるだけで子どもがすくすくと育っていく」と言うことではありません。子どもを自然の中に連れ出すだけでは、自然を楽しみ、自然と関わって楽しく遊ぶようにはなりません。日常的に「自然」からかけ離れた生活している子どもを、いきなり自然の中に連れ出しても「怖い」「汚い」「つまんない」という反応しか返ってこないこともよくあります。いつも一人で遊んでいる子に「大勢の子ども達と関わる機会」を与えても、それだけで仲間作りが出来るわけでも、みんなと楽しく遊ぶことが出来るようになるわけでもありません。むしろ、ケンカやイジメが起きて「もうあんなとこ行きたくない」という結果になることも多いです。また、「言葉との出会い」を与えようとしても、言葉を必要としていない生活をしている限り、それは無理です。これは何の学びにおいても同じなのですが、本人が能動的に取り組まない限り、どんな体験をしてもその体験から「肯定的な学び」を得ることはできないのです。押しつけられた体験は「否定的な学び」を与えるだけです。でも、「知らないこと」に対して能動的に取り組もうとする子はいません。これは大人でも同じはずです。そのことを見たり聞いたりして、「面白そう」とか「楽しそう」と感じたから、初めてのことでも能動的に取り組もうとするのです。だから、子どもを自然の中に連れ出すためには、子どもの周囲に自然との関わり合いを楽しんでいる大人や子どもがいる必要があるのです。子どもの一番身近にいるのはお母さんです。ですから、お母さんが日常的に身の回りの自然に気づき、それを楽しんでいれば、自然と子どもも自然が好きになっていきます。うちは、家内も私も自然が大好きなので、しょっちゅう子ども達を自然の中に連れ出していました。知り合いの家族とも山に行ったり、キャンプに行ったりもしました。その結果、子ども達もみんな自然が好きになりました。仲間との関わり合いも同じです。私は子どもの育ちには仲間が必要だと言うことを知っていたので、子育てを「自分自身の仲間作り」とセットにして始めました。そういう様々な場で大人や仲間と関わっていれば、子どもは自然と様々な言葉を覚えていきます。うちでは毎年春になると、野草を摘んで食べていました。その結果、子ども達は野草の名前をいっぱい覚えました。あるとき、野草を摘んでいたら「何をしているの?」と知らないおばちゃんが話しかけてきたので、子どもが色々と説明したらそのおばちゃんは驚いていました。でも、私が相談を受ける多くのお母さんは、そういう活動が苦手です。お母さんは好きでもご主人が嫌がるので出来ない、という話も聞きます。でも、そういう活動の大切さは理解しているのです。だから与えたいのですが、出来ないのです。そんな時は、いっぱい自然や仲間が出てくる絵本を読んであげることをお勧めします。絵本では実体験は出来ませんが、色々な絵本を読んであげることで、自然や仲間に興味をもたせ、行ってみたい、やってみたい、見てみたいという能動的な意欲を育てることは出来るからです。また、子どもと一緒に野菜や草木を育てたりすることも、子どもが自然に興味を持つようになるきっかけになります。お散歩の時にも、道ばたの草花に目を向け摘んでみたり、匂いを嗅いだりして遊んでいれば、子どもも自然に対して興味を持つようになります。無理をしなくても、遠くに行かなくても、日常生活の中で出来る事はいっぱいあるのです。日常生活の中でそういう楽しさを体験していないのに嫌々自然の中に連れ出されている子は自然が嫌いになるばかりです。いわむらかずおさんの「14ひき」のシリーズはお勧めです。14ひきのあきまつり (14ひきのシリーズ) [ いわむら かずお ]14ひきのさむいふゆ (14ひきのシリーズ) [ いわむら かずお ]14ひきのもちつき (14ひきのシリーズ) [ いわむら かずお ]
2023.11.20
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私は、「人間以前の状態」で生まれてくる子どもが、心や、知性や、からだの育ちにおいて「人間らしさ」を身につけるためには、育ちの過程で「自然」「仲間」「言葉」の三つの要素が絶対的に必要だと思っています。このどれが欠けても、子どもは「人間らしさ」を育てることが出来なくなってしまうからです。このどれが欠けても子どもは「コミュニケーション能力」を育てることが出来なくなります。当然のことですが、「コミュニケーション能力」は「他者との直接的な関わり合い」によって育っていくものです。授業のような形で、親や先生が子どもに教えることは出来ません。授業のような形で、親や先生が子どもに教えることが出来るのは、生活の場では使えない「知識」だけです。でも、いくらいっぱい「他者」がいても、「他者と自由に関わることが出来る場」を与えられなかったり、「お互いに理解し合うための言葉」を知らなければ、コミュニケーション能力を育てるどころか弱肉強食の世界が生まれるだけです。まだ言葉が未熟な子ども達を大勢、オモチャがいっぱいある部屋の中に閉じ込めておけば、簡単にこの状態を確認することができます。また、子どもの育ちに必要な「他者」は、出来るだけ多様性に富んでいた方がいいです。性別や年令だけでなく、人種や能力も様々な子がいた方がいいです。「よい子」だけでなく「困った子」も必要です。また、「大人」との関わり合いは絶対的に必要です。「多様な他者」との「多様な関わり合い」が子どもの多様な能力と可能性を育ててくれるのです。そして、「多様な他者との多様な関わり合いの場」として、子どもの自由を受け止めてくれる「自然」が必要になります。遊具がいっぱいある公園で遊んでいても、子どもは他の子と関わりません。遊具が遊んでくれるからです。そういう場で伝えることが出来るのは「遊具を使うときのルール」だけです。でもそれは、子どもの「人間らしさの成長」とはあまり関係がありません。ゲームは子ども同士の直接的な関わり合いを阻害し、子どもの興味をゲームだけに固定してしまいます。私が、「幼いうちは出来るだけゲームを与えないようにして下さい」と言っているのは、ゲーム自体に害があるからではなく、ゲームが、子どもから「子どもの育ちに必要なものに対する興味や好奇心」を奪ってしまうからです。ゲームで遊ぶことでも様々な能力は育ちますが、その能力はゲームの中や、似たような状況の中でしか通用しません。それに、ゲームをやることで育つ能力は、子どもの「人間らしさの育ち」とは無関係です。「言葉」が育っていなければ、子どもは「知性や心の育ちにつながるようなこと」を学ぶことが出来なくなります。「他の人と助け合う関係」も築けなくなります。そして、周囲の人との意思疎通も出来ないため、人間関係において非常に困難なことになります。当然、学習も困難になります。でも、ゲームでの遊びに「言葉」は必要がありません。文字が読めればゲームで遊ぶことが出来ます。文字すら必要がないゲームもいっぱいあります。そのため、3才頃からゲームで遊んでいる子もいます。実際、「学び」や「行動」において問題を抱えている子の多くは、言葉の育ちにも問題を抱えています。そういう子は、言いたいことを一方的に言いまくることは出来るのですが、人の話を聞くことが出来ないのです。また、感情を吐き出すことは出来ても、「感じたこと」や「考えたこと」を、相手が分かる形で言葉化することも出来ません。そういう子ども達は指示や命令に従うことは出来ますが、自分たちの感覚で感じ、自分たちの頭で考え、自分たちで話し合って一緒に遊ぶことが出来ません。そのまま大きくなった子は、会社に入っても指示や命令に従う仕事しか出来ません。当然、責任ある仕事は任せてもらえません。でも今、「自然」「仲間」「言葉」の三つとも奪われた状態で生活している子がいっぱいいるのです。そして、子ども達を競争にばかり追い立てています。それは、「子ども自身の不幸」にも、「社会全体の不幸」にもつながる困った状態です。でも困ったことに、競争に勝つことばかりを考えて、その問題に気づいていない人があまりにも多いのです。
2023.11.19
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一見、人間は周囲にある自然から切り離されて存在しているように見えます。植物のように、周囲の自然と直接つながっているわけでもないし、人間以外の動物たちのように、直接自然に依存して生活しているわけでもないからです。また人間は、一人一人が「個」として別々の存在であると思い込んでいます。その「個」を「私」と呼びます。その「私」は唯一無二であり、世界にたった一人しかいません。その「私」を作りだしているのは「私の記憶とつながった私の意識」です。「記憶」や「意識」は他者と共有することが出来ません。だから、自分で「自分」を見たときには他者や自然から切り離されているように見えてしまうのです。でも、その意識の働きが創り出している「私」という存在は、脳が作りだした錯覚に過ぎません。最近流行のAIは、人間を模倣することで人間に近い思考をすることができますが、でもまだ「私」という意識には目覚めていないようです。でもそれも時間の問題だと考えられています。また、人はその意識の働きで自分や世界を見ているのですが、自分で自分の意識の状態を見ることは出来ません。それは「自分の目」で「自分の目」を見ることが出来ないのと同じ事です。そのため、意識の状態が歪んでも自分ではその歪みに気づきません。だから酔っ払いは、周囲の人の目には明らかに酔っているのに「俺は酔ってなんかいない」なんて事が言えるのです。麻薬をやっている人も同じです。でも、その「意識の働き」を支えているのは「命の働きとつながったからだの働き」です。そして、その「からだの働き」はダイレクトに自然や、自分が存在している周囲の環境の影響を受けています。「からだ」は自然の一部として創られてきたものですから。周囲の環境が変われば「からだの働き」も変わります。すると、意識の状態も変わります。町の雑踏の中にいる時と、静かな森の中にいるときとではからだの状態が全く違います。その結果、意識の状態も変わります。感覚の状態も、思考の状態も変わります。でも自分ではその変化に気づきません。昼間と夜とでは意識の状態が異なります。それは何らかの表現行為をしてみればすぐに分かります。同じ人が描いても、「昼間描く絵」と「夜描く絵」は同じにはならないのです。食べ物や、傍にいる人によっても「からだの状態」は大きく影響を受けます。それは、「意識の変化」として表れます。そして、ここからが重要なんですが、もう「からだ」が出来上がってしまった大人の、「環境の変化に対するからだの変化」は一時的ですが、今、そのからだが育っている最中の子どもの場合は、自分の周囲の環境の影響がからだの中にまで組み込まれてしまうのです。暑いところで育った子と寒いところで育った子とでは汗腺の数まで違ってしまうのですから。そしてこれは大人になってからでは変わらないのです。静かな環境で育っている子は、感覚の働きも、思考の働きも、からだの働きも「静かな環境」に合わせた状態で育って行きます。いつも自然と触れながら育っている子は、自然の中にいるときに一番落ち着くようなからだが育って行きます。仲間に囲まれて生活している子は、仲間がいると落ち着くようなからだが育って行きます。そしてそれが命の働きに一番即した育ち方でもあるのです。なぜなら、人間は何十万年もそういう環境で育ってきたからです。でもつい最近になって、人間はそれまで人間が暮らしていた環境とは全く異なる環境を人工的に作り上げました。それは命の働きとは無関係に創り出された環境です。そこには常に刺激があります。自然もなければ、仲間もいません。子どもの周囲にあるのは機械と物だけです。それは、子どもの育ちにとっては人類史上初めての環境です。そして、現代の子ども達はその「人類史上初めての環境」の中で育ち、それに適応したからだを育てています。いつも騒がしくて、刺激が多い環境で育っている子は、強い刺激に囲まれていないと落ち着かないからだが育って行きます。そのため、静かなところに行くと退屈してしまいます。自然から隔離された環境で育っている子は、自然に対して違和感や嫌悪感を感じるからだが育って行きます。そのような子は、虫やばい菌を過度に怖がります。そのような状態で育った人は、大人になって親になったとき、自然のままに行動する「子どもという自然」に対して違和感と嫌悪感を感じるようになります。機械だけを相手にして、いつも一人で遊んで育った子は、周囲に他の人がいると落ち着かないからだが育っていきます。そして、そのような不自然な環境で育った子の心とからだの状態は不自然になり、心も不安定になります。それに対して自然と共に育った子のからだは、自然の働きに支えられているので安定しています。そしてそれは、心の安定にもつながっています。
2023.11.18
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(今日は気質の話ではありません。)人間が人間になってから数十万年かかっていますが、人間が自然から隔離された環境の中で生活するようになったのはつい最近のことです。それまで、人間は自然の中に生まれ、自然や仲間との関わり合いの中で育っていたのです。(今でもそういう生活をしている人はいっぱいいます。)その基本的な状況は生命誕生以来35億年間変わっていません。ですから、自然から隔離された環境の中に生まれてくる現代の子も、昔の子と同じように、自然の中に生まれ、自然の中で育つ準備をして生まれてきます。たった数十年、数百年で、何億年かかって培われてきた成長システムが変わるわけないからです。特に7才前の子は、自然とのつながりが強いです。ですから、自然の中にいると落ち着きます。安心も感じ、生き生きとしてきます。心とからだの状態も安定して来ます。遊びの場などでそういう状態の子ども達を見ていると、いかに自然が子どもの育ちにとって大切なものなのかがよく分かります。大勢の子ども達を、オモチャを与えて部屋の中に入れておくと、ほぼ間違いなくオモチャの奪い合いが起きます。ケンカもすぐに起きます。大人は「仲良く遊びなさい」などと言いますが、いつまで経ってもみんなバラバラで仲良く遊び出したりはしません。オモチャなどの人工物は共有できないからです。でも、同じ子ども達を自然の中に連れ出すとケンカしなくなります。オモチャなどなくても、色々と遊びを発見して遊び始めます。崖を登るなどの目標を見つけると、みんなで一緒に遊び始めます。助け合いすら始まります。「部屋の中の子ども」しか見たことがない人は、子ども達のこういう状態を知らないのです。自然から切り離された「部屋の中の子ども」は退屈です。寂しいです。イライラしています。緊張や不安も強いです。そのため、そういうものを忘れさせてくれる刺激を求め、ゲームやスマホが手放せなくなります。そして、自然への興味や関心を失っていきます。自然を感じ、自然と共鳴する能力も低下します。すると、心とからだの状態が不安定になり、日常的に不安を感じやすくなります。人間も自然の一部なので、その命の働きは自然の働きと共鳴することで安定するように出来ているからです。(短いですが明日に続きます)
2023.11.17
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自分の気質を知りたいときには○自分はどういう状態の時が一番居心地が良いのか○自分はどういうことに興味があるのか○自分は他の人とどういう関係を望むのか○仕事でも、趣味でも、生き方でも、自分は何をしたいのか○自分はどういう人にあこがれるのか○自分はどういう生活を望んでいるのか○どういう絵や音楽が好きなのかなどということを考えて見るといいと思います。絵本などでも色々あります。皆さんが「意味不明」とか「くだらない」と感じる絵本もういっぱいあるでしょう。でも、そういう絵本でも、それを良しとして描いた人がいて、出版した会社があるのです。つまり、皆さんが価値を感じないようなことに対して価値を感じる人もいるということです。こういう場合、「そういう絵本を買うような人はセンスがないから」とか「教養が低いから」とか、「感性が鈍いから」などと、そういう絵本を肯定する人を否定するような判断をする人がいますが、そういう人から見たら皆さんが選ぶような絵本の方が意味不明なんです。このような違いの背景には気質の違いがあるのです。それは単に「リンゴが好きか、ミカンが好きか」「ピカソが好きか、ルーベンスが好きか」ということと同じレベルの違いに過ぎないのです。また、その人の気質は、「何が出来るか」ではなく「何がしたいのか」ということの方に表れます。「何が出来るのか」は育ちによる影響も大きいのであまり当てにならないのです。また育ちによって、本来の自分の気質とは違う状態になってしまっていることもあります。自分の気質に合わないことでも小さいときからやらされているとそれなりに出来るようにはなってしまうからです。でも、自分の気質を判断する時に大切なのは「出来るか出来ないか」ではなく、「その活動を楽しむことが出来ているのか」ということの方なんです。どんなに上手に出来ていても、自分の気質に合わないことは心から楽しむことが出来ないからです。それが「今の状態」で人を分類する一般的な性格分類と、「本来の自分」を見つけようとする気質の考え方との根本的な違いでもあります。また、ここに書いたことは全て「自分」と「自分の外の世界」との関係性を示しています。ですから、いくら「自分の心」と向き合っても、「自分と自分の外側の世界との関係性」に目を向けないことには、「自分の気質」は分かりません。「悩みが多くて苦しいから憂鬱質だ」と考える人は多いです。でも、「悩みや苦しみを消したい」を思っている時点で、その人は憂鬱質ではない可能性が高いのです。なぜなら、憂鬱質の人にとっては、「悩み」も「苦しみ」も大切なものだからです。消し去りたいと思うのような悩みや苦しみは「外側からやってきたもの」で、「内側から生まれたもの」ではありません。それに対して、憂鬱質の人の悩みや苦しみは、「外側」からではなく「内側」からやってくるのです。それは例えば「私はなぜ生まれてきたのだろう」と悩むようなものです。それに対して、「子どもが言うことを聞かなくて苦しんでいます」というような苦しみは外側からやってくる苦しみです。多血質の人は「楽しいだけの世界」でも全くOKですが、憂鬱質の人は「楽しいだけの世界」はあまり好きではないのです。粘液質の人は、ただジーッとしているだけでも楽しいのです。胆汁質の人は目標に向かって頑張っている自分が好きです。
2023.11.16
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「気」というのは生命の働きを支えているエネルギーのことです。そして、この「気」は自然の働きを支えるエネルギーでもあります。大気や水が循環し、地球がその恒常性を維持することが出来ているのも「気の働き」のおかげです。その自然の恒常性を支えている働きが、人のからだの中ではその人の「気」になるのです。ですから、死ねば「気」も消えます。病気になれば「気」が乱れます。「気」が狂うこともあります。疲れれば「気力」が萎えます。調子がいいと気分が良くなります。調子が悪いと元気がなくなったり気落ちしたりします。頑張るときには「気合い」を入れたりします。日本語には「気」という言葉を使った言い回しが非常に多いですが、それは日本人が「気」というものを感じやすい感性を持っているからなのではないかと思います。日本固有の宗教「神道」では「神気」を大切にします。キリスト教や仏教では教義を大切にしますが、神道で大切にしているのは「神が発する気」なんです。教義なんかいらないのです。そして、神気を感じる場所に祠を建て、神を祭ってきました。だから山や石がご神体になったりするのです。また、ほとんどの人が神道のことなど何も知らないのに、みんな神社に行くと頭を下げます。多くの日本人は教義よりも雰囲気の方を大切にするのです。だから、宗教を信じている外国の人と話が合わないのです。そして、「気」と「気」は共鳴するので、「気」を持つもの同士はお互いに作用し合っています。「気」を共鳴させることで、意識的に他者に働きかけることも出来ます。日本古来の武道ではその気の働きを効果的に使っていました。合気道という武道もその流れにあります。でも、「気」は「生命を支えているエネルギー」なので、「命」を持っていない物に働きかけることは出来ません。そのため機械に働きかけることも出来ません。計測も出来ません。スターウォーズでは、「フォース」という「気」に似たものを使って、物を動かしていますが、ああいうことは「気」には出来ません。あれは、テレキネス(念力)です。そんな「気」は「音」に似ています。気質を色で表したりもしますが、実は「音」の方が気質の実体に近いような気がするのです。その場合「気質」は、「その人が発している音や音楽の雰囲気」のようなものだと理解して下さい。「からだ」は、その「音」(気)を出す楽器のようなものです。ですから、「からだ」が変わると「気質」も変わるのです。また、生命エネルギーもまた「音」のようなものです。子どもは親からその「音」を受け継ぐのですが、からだが違うので親とは異なる音を奏でるのです。ギターの側で太鼓を鳴らせば、ギターも鳴り出しますが、ギターは太鼓の音ではなく、ギターの音しか奏でませんよね。それと同じです。それと同じようなことが、日常的に人と人の間でも起きているのです。その時重要になるのは「相手との関係性」であって、「個々の音」ではありません。「素敵な音」と「素敵な音」が出会ったからと言って、お互いに素敵な影響を受けるとは限らないと言うことです。それは、きれいな色ばかり使ってもきれいな絵が描けるわけではないのと同じです。ですから「私はどんな色(音)でしょうか」という質問には意味がないのです。自分の音がどんな音であろうと、その音を生かすような生き方をすればいいだけのことなんです。また、「相手の音」(気質)に耳を澄まそうとすると、「自分の音」と「相手の音」がうまく調和して素敵な音楽になります。その時必要なのは「合わせようとすること」ではなく、「ただ素直に耳を傾けること」です。あとは、自分のからだがなんとかしてくれます。そして実際、その人の気質は、その人が好きな音とつながっています。「類は友を呼ぶ」という言葉がありますが、人は自分が発している音と調和するような音を発している人に近寄っていくのです。それが「気が合う」ということです。楽器にも色々なものがありますが、どんな楽器が好きなのか、またどんな音色、旋律、リズムが好きなのかということも、その人の気質と関係しているのです。民族性の違いも音に現れています。気質のワークで「アフリカの太鼓」と「ネイティブアメリカンのドラム」を聞き比べることがありますが、同じ「太鼓」でも両者の音は全く異なっています。そこに、アフリカの人の気質と、ネイティブアメリカンの人の気質の違いがあるのです。ちなみに私は、「ネイティブアメリカンのドラム」の方が合っているようです。
2023.11.15
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「わたしと遊んで」(マリー・ホール・エッツ作)という絵本があります。野原に遊びにやってきた女の子が最初は積極的に動いて、バッタやカエルやカメなどに「一緒に遊ぼう」と働きかけます。でも、みんな逃げてしまって女の子は独りぼっちになってしまいます。そのうち女の子はあきらめて一人で石の上に腰掛けてジーッとしていたら、さっき逃げていった生き物たちがみんな戻ってきて、女の子の回りで遊び始めました。そして、その女の子は最後に ああ わたしは いま とっても うれしいの。 とびきり うれしいの。 なぜって、みんなが みんなが わたしと あそんでくれるんですもの。と言います。私はよくこの絵本を気質の勉強会に持って行きます。そして、みんなの感想を聞きます。すると、粘液質(ねんえきしつ)や憂鬱質(ゆううつしつ)の人は「素敵ですね」と言います。でも、多血質(たけつしつ)の人はピンとこないようです。さらに胆汁質(たんじゅうしつ)の人はもっと積極的に「よく分からない」と言います。「こんなお話しのどこが素敵なのか全然分からない。なんでこんなお話しが絵本になっているのかすら分からない」と言い切った胆汁バリバリの人もいました。彼女は、「だってこの女の子は何にもしないでただ座っているだけじゃない」と言いました。憂鬱質や粘液質の人はからだを使って特別な行動などしなくても、感覚や思考を働かせるだけで、素敵な何かが生まれることをよく知っています。だから、この女の子の「何もしない」が分かるのです。それに対して、胆汁質の人は「行動し積極的に関わることでしか何も生まれない」という価値観を持っているので、何もしないままで「うれしい」と言うこの子の気持ちが理解出来ないのです。それで胆汁質は話を聞いているうちにイライラして来てしまうのです。確かに、野原に行って、仲間と一緒に虫を探したり、木登りしたり、鬼ごっこをするのも楽しいです。でも、野原の真ん中に座ってジーッとしていると、自分と世界がつながっていること、自然の美しさ、生命の世界が豊かであること、そして自分の感覚が宇宙全体に広がっていく感覚など、色々なことを発見することが出来ます。憂鬱質の人はこのように空想することが、そして粘液質の人はこのような感覚世界に浸っているのが大好きです。ですから、いつも静かに浸っていたいと思います。でも、この内的な世界はデリケートなので活動的に動き回ると消えてしまうのです。ちなみに、粘液質の人は肌に触れてくる風、木々の木漏れ日の揺らめき、水の音、お日様の暖かさなどにうっとりとします。憂鬱質の人は精神的感覚を好み、粘液質の人は身体的感覚を好みます。(胆汁質は達成感を好み、多血質は関わり合いを好みます。)憂鬱質や粘液質の人があまり活発に活動しないのは、このように「内的な活動」をしているからなのです。でも、胆汁質や多血質の人にはその「内的な活動」が見えません。子どもの成長においても、胆汁質や多血質の子の方が一見早く成長するように見えます。憂鬱質や粘液質の子は成長がゆっくりのように見えます。でも、手仕事のような活動をさせると、胆汁質や多血質の子どもたちはすぐ飽きてしまいますが、憂鬱質や粘液質の子どもたちはあまり飽きません。むしろ自分がやっていることと対話することができるので面白さを感じます。表面的には不活発ですが内面はしっかりと成長しているのです。つまり、胆汁質や多血質の子どもは表面的には成長が早いように見えるのですが、内面の成長に関して言えば、憂鬱質や粘液質の子どもの方が早いのです。その違いを私は「外側から育つ子」と「内側から育つ子」というように表現しています。でも、どちらのタイプの子でも、気質を肯定され、自分のペースに合わせて育つことが出来れば思春期頃にはお互いの差は縮まっていきます。胆汁質や多血質の子も内的な活動が出来るようになり、憂鬱質や粘液質の子も外的な活動が出来るようになるということです。でも、子どもを教育する立場の大人にそのような認識がなく、遅れている部分を仕付けや教育にによって取り戻させようと追い立ててしまうと、そのままの状態で大人になってしまいます。そして、持って生まれた自分の能力を生かすことが出来なくなります。
2023.11.14
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気質が違うと「言葉」も違います。同じ「日本語」を使っていても、その意味も、使う目的も、使い方も違うのです。だから話がかみ合わなくなってしまうのです。みんな「同じ日本語なんだから話せば通じる」と思い込んでいるのですが、それは思い込みにすぎないのです。実際みんな「あの人にはなんで話が通じないのかしら」と感じたことはあるのではありませんか。子どもに対しても、パートナーに対しても。外国の人ならなおさらです。通訳を介したからといって話が通じるわけではないのです。ただし、「通じる話」もあります。「通じる話」は「客観的な事実」についての話です。「あの木はリンゴの木です」とか、「これは○○について書かれた本です」とか、「あと1時間で食事です」とかいうような話です。英語で言うと「I have a pen.」「This is a tree.」などというような言葉です。これは「世界を外側から見る人たち」、つまり胆汁質や多血質の人がよく使っている言葉です。それに対して「主観的な事実」についての話は「同じ主観」を持っている者同士なら通じますが、「異なった主観」を持っている者の間ではいくら話し合っても通じません。キリスト教徒とイスラム教徒と仏教徒が、心や命や自然などいうような「主観とのつながりが強いこと」に関していくら話し合っても話は通じないのです。使っている「言葉」が違うのですから。欧米の人が胆汁質や多血質が強いのは異民族との関わりが多かったからなのでしょう。歴史的に、自分とは異なった宗教、異なった文化、異なった言語、異なった価値観(主観)を持った人たちと関りながら生きてきたので、必然的に話しが通じやすい「主観的な事実」を中心にした言語や、価値観や、感性が作られたのでしょう。それに対して、人の移動を阻むような山や川や森や自然が多いアジアでは、自分とは異なった宗教、異なった文化、異なった言語、異なった価値観(主観)を持った人たちと関わる機会は多くありません。そのため、宗教や文化や言語や価値観が特殊化しやすいのです。日本はその典型です。そういう文化圏では、「阿吽の呼吸」で色々なことが通じてしまうので、あらたまって分かり切った「事実」を伝える言葉や意識や感覚は発達しません。そして周囲のみんなと同じように考え、感じ、行動するようになります。自分とは異なった言葉や価値観や意識を持った人と出会う機会が少なければそれは当然の結果です。憂鬱質や粘液質の人たちにも似たような傾向があります。そして、日本人は憂鬱質や粘液質が強い民族です。以前、青森に呼ばれて行った時、「この辺では山一つ越えたら言葉が微妙に違う」と言っていました。異質な価値観を持った他者との出会いが少ない状況で暮らしていると、「自分たちだけで通じる言葉」、「自分たちだけが分かる感覚」が発達するのです。それは「若者言葉」という現象にも表れています。双子も自分たちだけで通じる言葉やコミュニケーション方法を使っているみたいです。でも自分たちはそれが当たり前だと思っています。それしか知らないのですから。そのため、自分たちの言葉、自分たちの価値観のまま、自分たちとは異なった言葉や価値観を持った人たちに話しかけます。そして、それが通じないと相手を否定します。気質のワークでは「自分辞書つくり」というのをやるのですが、例えば「木」という言葉を「木」を知らない人に説明するための言葉を考えてもらいます。すると、「気質が違う人は違う言葉を使っているんだ」ということが分かります。面白いですよ。
2023.11.13
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この世界には大きく分けて西洋文化・西洋文明と東洋文化・東洋文明の二つのタイプの文化と文明があります。ただし、実際にはこの二つは複雑な入れ子状態になっているので明確には分離できないのですが、大きな傾向としてはこのような違いがあるのではないかと思っています。そしてこれもまた「大きな傾向としては」ということですが、西洋の人は東洋の人よりも胆汁質や多血質が強いように感じます。それはつまり、昨日書いたように「人間や自分たちが生きている世界を外側から見ようとする傾向がある」ということでもあります。それが「科学」の発見にもつながったのでしょう。そして東洋の人は西洋の人よりも粘液質や憂鬱質が強いです。それは、「人間や自分たちが生きている世界を内側から見ようとする傾向がある」ということでもあります。その違いが大きく表れているのが宗教です。キリスト教における神は人間が生きている世界とは別の世界に存在しています。ユダヤ教の神もイスラム教の神も同じです。そして、その神がこの世界や人間を創り出したと伝えられています。でも、人間や世界を創った神は一人に決まっていますから、当然「どの神様が本物か」という論争が起きます。また、神と人間の間には絶対的な上下関係があります。なにせ、人間を創ったのが神様なんですから。そして、その人間の下に自然があります。神は人間の支配者ですが、人間は自然の支配者なんです。そういうように神様が創ったからです。キリスト教にはそういう世界観があります。欧米の人は日本人がクジラを殺すと「残酷だ」と言います。西洋的な思考に慣れてしまった日本人は犬を食べる中国人を見て残酷だと言います。でも、食肉として飼育されている牛や豚を殺しても「残酷だ」とは言いません。人間が動物を殺して食べるのは神様から与えられた権利だからです。日本人は「クジラを殺して食べるなんて残酷だ」と言われると「自分たちだって牛やブタを殺しているじゃないか」と反論しますが、この反論は的外れなんです。仏教的な感覚がまだ残っている日本人にとっては、牛やブタの命も、クジラの命も、人間の命も同じものですが、キリスト教的な感覚からするとこれらは全く別のものだからです。人間の役に立つものなら人間の判断で殺してもいいのです。それに対して仏教では「牛やブタの命も、クジラの命も、人間の命も同じものだ、だから、人間の勝手な都合でむやみに殺してはいけない」と説いています。だから本来の仏教徒は肉を食べないのです。食べないだけでなく殺しもしません。実際、今でも小乗仏教のお坊さん達はお肉を食べません。今の日本にあるのは「お釈迦様が説いた教え」ではなく、お釈迦様の教えを基に創られた「仏教」という名の宗教です。だいぶ昔に見たのですが、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』という映画があります。オーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーとまだ少年だったダライラマ14世との交流を描いた作品です。その中で、映画館を作る工事をするときに「ミミズがいるから」というだけで工事が止まってしまうシーンがありました。これが仏教における根本的な価値観なんです。あと、キリスト教の神は人間界の外の世界にいますが、仏教における仏は人間と同じ世界にいます。ただちょっと存在している次元が違うだけです。そして人間も厳しい修行を通して仏がいる次元に入ることが出来ると言われています。キリスト教では人間が神になることは100%ありえませんが、仏教の「仏」は「私たちの可能性」そのものであり、「仏」は仲間でもあるのです。ただ今の時代、ヨーロッパでもキリスト教を信じる人はどんどん減ってきているようです。「神」の代わりに「科学」が生まれたからです。その「科学」も人間を支配する位置にいます。そして命の価値を否定します。あと、世界を外側から見ようとする人たちは「量」を基準に物事を判断します。科学が扱っているのも「量」です。胆汁質や多血質の人も「量」を大切にします。「テストで何点取れたか」というのも「量」です。量は比較できるのです。それに対して、世界を内側から見ようとする人たちは「量」よりも「質」を重視します。量は機械でも計測することが出来ますが、質を感じるのは人間の感性です。そのため、科学で扱うことが困難です。粘液質や憂鬱質の人もまた、量よりも質の方を重視します。私は、欧米の人たちの思考方法を「縦軸思考」、東洋の人たちの思考を「横軸思考」と呼ぶことができるのではないかと思っています。これはどちらの方が優れていると言うことではなく、「両方が支え合わないことには、この世界を正しく理解することが出来ないのではないか」ということです。でも、現代社会は縦軸思考に偏りすぎています。今の時代、「男性と女性の間に上下はない」というのは多くの人が知っていますが、「子どもと大人の間にも上下はない」ということを知っている人は少ないです。
2023.11.12
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昨日も書いたように、「気質の違い」は「役割の違い」でもあるのですが、「役割」が違うということは「視点」が違うということでもあります。同じ「子ども」に関わっていても、学校の先生と、その子の親とでは子どもに対する役割が違います。そして役割が違うので子どもを見るときの視点も違います。先生は「子どもに勉強を教え、その行動を監督する」という視点で子どもを見ています。親の視点は様々ですが、多くの親は「子どもが幸せになるように」という視点で子どもを見ています。ですから、「学校に行くことが子どもの幸せにつながっていない」と感じたら、学校以外の場を選択するという事もします。でも、学校の先生にはそういう選択肢はありません。「役割が違うと視点も違う」というのはそういうことです。ですから、「気質の違い」は「視点の違い」としても表れています。多血質の人の視点はいつも「外側」に向いています。そのため、外側の変化に対しては敏感です。でもそれ故に、落ち着きがなく常に外側の変化に振り回されてしまいます。たかどのほうこさんの絵本に出てくる「まあちゃん」のようですまた、その場の状況に合わせて考え、行動するのは得意ですが、原理原則を持たないため論理的に考えるのはあまり得意ではありません。言い換えると、自分の考えや価値観にこだわらないからこそ、自由にその場の状況や相手に合わせることが出来るのです。短所としては、それ故に自分と向き合うのが苦手です。また子育てなどで自分と向き合わざる終えないような状況になると悩みに囚われて抜け出せなくなります。胆汁質の人の視点はいつも「前」を向いています。「外」という点では多血質と同じなのですが、多血質の人は全方位に意識を向けているのに対して、胆汁質の人は前だけを見ています。そのため、悩みません。それに対して、前を向いていない多血質の人は簡単に迷い悩みます。また、前しか見ていないので前に壁があった場合でも、回り道を探しません。その壁を壊すか乗り越えて前に進もうとするのです。とよたかずひこさんの絵本「どんどこももんちゃん」の主人公、「ももんちゃん」のようです。問題は自分に見えないものは「存在しないもの」として簡単に切り捨ててしまうことです。そして、現実的なことには興味がありますが、心の世界やスピリチャルな世界には興味がありません。その反対が憂鬱質の人です。いつも「後ろ」(自分の内側)ばかりを見ています。後ろしか見ていないので、怖くて前に進めません。そして前を向いていないので簡単に落とし穴に落ちたり、迷路にはまってしまいます。そのことで反省はするのですが、前を見ていないので同じ事を繰り返します。アーノルド・ローベルの絵本「がまくんとかえるくん」のシリーズに出てくる「がまくん」のようです。粘液質の人の場合は多血質の人の反対です。憂鬱質の人のように後ろ(自分の内側)を見ている点では同じなのですが、憂鬱質の人が一方向しか見ていないのに対して粘液質の人は全方向に意識を向けています。そのため、冷静に自分を分析することが出来ます。だから憂鬱質の人が感じているような不安は感じませんが、外の世界に対する興味は薄いです。また、感情の起伏も少なく怒りません。いつも穏やかです。ジョン・バーニンガムの絵本に出てくる「ガンピーさん」のようです。
2023.11.11
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「気質」は脳が創り出しているものではなく「からだの癖」のようなものです。この場合の「からだの癖」とは、目に見える動きやしぐさの癖のことではなく、その人のからだの内側で働いている目では見ることが出来ない生命活動や、感覚や、内臓の働きの癖のようなものを指します。ですから、自分の意志ではコントロールできません。人は見た目が違うだけでなく、「からだの内部」や、「命の働き」や、「感覚の状態」も一人一人違うのです。だから同じ薬を飲んでも効き方が違うのだし、同じものを食べてもからだに対する影響が違うのです。「気質」は、その、からだの内側で働いている「目では見ることが出来ない部分」を、「集団の中での役割」という視点で分類したものです。集団が存続するためには、個々の違いと、その違いに基づく役割分担が必要になるからです。それはつまり、「筋肉や運動神経に優れたものは、戦士としての役割がふさわしく、判断力に優れたものはリーダー的な役割がふさわしいというようなことです。また、同じものを食べても病気になる人とならない人もいます。音に優れた人、色に優れた人、味に優れた人、匂いに優れた人、皮膚感覚に優れた人もいます。動体視力に優れた子は野球などのスポーツに向いているでしょう。そしてこのような違いは幼い頃から見られるものです。更にその能力を高めるためには教育が必要になりますが、教育で、その持って生まれた感覚や能力のタイプを変えるのは難しいです。木に鉄の属性を持たせるのは非常に困難ですよね。そんな感じです。これは「兄弟」という関係の中でも表れるようで、同じ親から生まれ、同じような子育てを受けていても、子どもたちは一人一人独自の個性を持っているのが普通です。心の個性も、知性の個性も、からだの個性も、感覚の個性も、免疫の個性も一人一人違います。これは、子どもたちに多様な個性を持たせることで、様々の困難な状況の中でも集団としての生存確率を高めようとする生物としての戦略のようです。そしてこのような違いがあるから、集団としてもまとまりやすくなるのです。人間が社会という大きな集団を作り、それを維持運営することが出来るのは、社会を構成している一人一人の個性が違うからなんです。ちなみに、私には四人子どもがいますが、長女は粘液質が強く、長男は多血質が強く、次女は胆汁質が強く、次男は憂鬱質が強いです。次女と次男は性格が全く逆です。ちなみに親は二人ともA型です。長男もA型ですが、残りは全部O型です。ですから私は血液型占いを信じていません。また、同じタイプのものを大勢集めた場合も、最初からあった「かすかな違い」が増幅して、その中で多様性を創り出そうとするシステムが自然界にあります。人工的な世界は同質性を求めますが、自然界は同質性を嫌うからです。だから、マンションなどに同じような年齢、収入、家族構成、学歴の人ばかりが集まってしまうと、そこでバトルが起きるのです。子どもの群れでも、同じ年齢・性別・性格の子ばかりを集めても、遊びも群れも成り立ちません。それでも無理やり「一緒に遊べ」と押し込めれば、元々持っていたかすかな違いが増幅して多様性が生まれます。多様性が生まれないことには群れとしての活動が出来ないからです。それが出来なければ群れは分裂します。でも、その状態は固定されたものではありません。あるグループではリーダー的に振る舞っていた子が、別のグループでは大人しくなってしまうこともあります。長いことやっているある会に、いつもお母さん達を仕切ってくれている胆汁質が強いお母さんがいました。でもある時、和太鼓奏者もやっているというもっと胆汁質が強い人が来た時には、その人は胆汁ではなく、多血に回りました。無意識的に、そうやって、群れを維持しようとしたのでしょう。同じ気質の人ばかりを集めても、しばらくするとその中に四つの気質の役割を担う人が現れてきます。そうでないと群れが維持できないからです。気質というのは個に属するものであると同時に全体に属するものなんです。だから、個の事ばかりを見て全体という視点を持たないと見えてこないのです。自分の気質を知りたいのなら、自分が集団(全体)の中でどのような立場と役割で振る舞っているのかということをよく観察してみるしかないのです。自分で「自分」をいくら熱心に観察しても、自分の気質は分からないのです。**************横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」です。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日「気質」の考え方を手がかりに、一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.11.10
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昨日は、つまり、気質について知るためには「心」や「性格」ではなく、「からだ」に目を向ける必要があるということです。「気質の違い」は「心や性格の違い」ではなく「からだの違い」なんです。と書きましたが、実際、気質が違うと骨格や筋肉の付き方が違います。声や、姿勢や、歩き方や、からだの使い方や、目つきも違います。雰囲気も違います。逆に言うと、からだのエクササイズなどを通して、声や、姿勢や、歩き方や、からだの使い方や、目つきなどを変えると、本質的な気質は変わらなくても、日常的な生活の場における気質は結構変わるということです。これはみなさん、生活の中で色々と実感しているのではありませんか。姿勢を変えるだけで気分が変わりますよね。気分が変われば、感覚の働きも、感じ方も、考え方も変わるものです。まあでも、日常的に意識し続けなければ自然と、自分本来の姿勢に戻っていきます。そして、気質の状態も戻っていきます。あと、からだが違うと感覚の状態も違います。人は、病気をしたり年を取ったりして生命力が落ちてくると、自分のからだを守る必要上感覚の働きが鋭敏になります。(自分の匂い以外の)匂いや、気配や、音に敏感になります。周囲の人の心にも敏感になり、疑心暗鬼になることもあります。逆に力に溢れ元気いっぱいの時は、常に「何が出来るか」を探しています。些細な感覚的変化は気にならなくなります。知らないことに対する不安よりもワクワク感の方が強くなります。叱られても、失敗しても、多少のことなら跳ね返します。食事の後や眠いときなどは動きたくなくなります。そして、ただ見て、ただ感じて、ボーッとしていたくなります。何かハッピーなことがあると、心もからだも軽くなります。そして、楽しそうなことに敏感に反応するようになります。お箸が転がっただけで笑います。でもその一方で、落ち着きを失い、物事を深く考えなくなります。同じ人間でもからだの状態が変わると、こんなにも心や感覚の状態が変わるのです。そして人は、生まれつきある偏りを持って生まれてきているのです。特別なことをしなくても、筋肉や骨格がしっかりとしている子もいます。音楽など習っていなくても音に敏感な子もいます。絵画など習っていなくても色に敏感な子もいます。人の心に敏感な子、周囲の様々な動きや変化に敏感な子もいます。体操など習っていなくてもからだの使い方が上手な子もいます。こういう違いは生まれつきです。お母さんのしつけ方でそうなっているわけではありません。子どもは、一人一人異なった個性を持って生まれて来ているのです。その「生まれつき」のところに「気質」というものがあるということです。ですから、気質を知ることで、子どもが持って生まれてきた能力や才能を肯定し、自分らしく生きる手助けがしやすくなるのです。
2023.11.09
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昨日、あと、インドにも中国にも古来から似たような考え方があります。それぞれ分類の数は異なっていますが、視点は似ています。と書きましたが、インドでは伝統医療をまとめたアーユルベーダの中に、中国では2000年前の「黄帝内経」という医学書の中に書かれているようです。ヨーロッパの気質に対する考え方も、2000年くらい前のヒポクラテスというギリシャのお医者さんが言い出したそうです。日本では野口整体の生みの親である野口晴哉も似たようなことを書いています。ここで面白いことに気づきます。気質について気づき、それを言い出したのはみんな「心」ではなく「からだ」の専門家達だということです。つまり、気質について知るためには「心」や「性格」ではなく、「からだ」に目を向ける必要があるということです。「気質の違い」は「心や性格の違い」ではなく「からだの違い」なんです。まただから「しつけ」では変えようがないのです。確かに、気質が違うと心や性格にもその違いは表れます。でもそれは、心や性格といったものが「からだの働き」の強い影響下に置かれているからに過ぎません。現代人は「心」は大切にしても「からだ」は大切にしませんが、実際には「心」よりも「からだ」の方が先にあるのです。ちなみに「からだを大切にする」ということは「健康を大切にする」ということとは全く違いますからね。実際に、からだの状態が変わると気質の状態も変わります。そしてそれは心や性格の変化としても表れます。空腹時と食事が終わった後とでもからだの状態は異なっています。ですから、心の状態も異なっています。空腹時にはイライラしていて子どもを待てないのに、お腹いっぱい美味しいものを食べた後はあまりイライラしなくなります。また、空腹時よりは子どもを待てるようになります。そうではありませんか。春・夏・秋・冬といった季節の変化も、からだの変化を引き起こします。そのため、春の気分と、夏の気分と、秋の気分と、冬の気分は違います。春になると動物たちのからだは「春のからだ」になります。これは人間も同じです。気持ちがウキウキして、動きたくなります。色や自然界の変化に敏感になります。でもまだ目覚めたばかりなので、頭の働きとからだの働きがまだうまくつながっていません。夏になると、頭の中に留まっていた気の働きがからだ全体に回るようになり、活動量が増え、大きな目的や目標に向かって活動したくなります。秋になると外側に向かっていた気の働きが、冬の準備のために内側に向かうようになります。活動量も低下します。そして、メランコリックな気分が強くなり、音や光に対する感受性も高くなります。不安も強くなり、自分を見つめる時間も長くなります。冬になると、動物たちは食糧難と寒い時期を乗り越えるために活動量を減らしてひたすら春が来るのを待つようになります。程度の違いはありますが、こういう変化は誰にでも起きます。(人工的に管理された環境の中で生活している現代人はかなり乱れてしまっていますけど・・・。)成長に伴っても「からだの状態」は変化します。そのため、心の状態も変化します。幼い子どもの心は常に春のようにウキウキしています。意味もなくスキップしたり、歌ったり、踊ったりもします。でも、10才を過ぎて思春期が始まると、そういう「子どもらしい行動」は減ってきます。筋肉や骨格もしっかりとしてきて、声も太くなります。そして、目的や目標に向かって頑張ることを楽しむようになります。競争意識が強くなったり、大人に対する反抗心も強くなります。50代になってくると若い頃にギラギラしていた人も落ち着いてきます。そして、肉体的には若い人に追いつけなくなります。また、すぐ疲れてしまうようになり、頑張ること自体が難しくなってきます。からだの不調が出始めるのも50代だそうです。そして、からだの不調は心の不調とも関係しています。そしてだんだん枯れていって老人と呼ばれるようになります。老人になると様々なことに対する反応が鈍くなります。活動への意欲も減ります。そして、人にペースを合わせることが苦手になりマイペースになります。このような変化は、寿命が短かった昔の人と、寿命が長くなった現代人とではその状態が現れる年令が違うかも知れません、変化の過程自体は今も昔も変わりません。そしてこのようなからだの変化と共に気質も変化しているのです。同じ人でも子どもの頃の気質と、老人になってからの気質は全く異なるのです。でも、同じ年令の人たちの中での相対的な気質の状態はそれほど変わりません。子どもの時活動的だった人は、大人になって活動量が減っても、同年齢の人の中では活動的なままのことが多いのです。子どもの頃、いつも小さいことが気になっていた人は、大人になってその状態が弱まっても、同年齢の人の中では他の人よりは小さいことが気になるのです。そして、それがその人の気質になります。
2023.11.08
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気質による分類を、性格分類と同じようなものと考えている人が多いですが、この両者は全く別のものです。物事を分類するときには色々な分類の仕方があります。例えば、これは椅子です、これは本です、これはお箸です、これは机ですというように、そのものの「社会的な機能」によって分類する方法があります。「性格分類」と呼ばれているものはこの仲間です。性格は、優しい、怒りっぽい、社交的、寡黙、頑張り屋などといった言葉で表現されますが、その分類は、その人が自分の周囲の人や環境とどのような関係を作っているのかということを基準にして判断されています。性格は「社会的評価」でもあるのです。そのため、評価する人によって「乱暴な子」が「元気な子」と評価されることもあります。どちらに分類されるかは、評価する人によって決められてしまうからです。それに対して、これは木で出来ています、これは石で出来ています、これは鉄で出来ています、これは木と鉄の組み合わせで出来ていますというように「素材」で分類する方法もあります。この場合、必然的に分類の数は減ります。椅子や、家や、紙や、お箸といった社会的機能から見たら全く異なったものでも、素材という点から見たら「木」という一つのものに分類されてしまうからです。また、素材という視点で分類するなら、だれが分類しても似たような結果になります。そして、「気質」の考え方は、この「素材による分類」と似ているのです。同じ椅子でもその素材は様々です。木でできた椅子も、鉄でできた椅子も、石でできた椅子もあります。それらは社会的な機能から見たら同じものですが、素材という視点から見たら全く別のものです。そして、素材が違えば作り方も、扱い方も異なります。木で椅子を作ることが出来る人なら、木でおもちゃを作ることも出来るでしょう。基本的な扱い方が似ているからです。でも、木を扱う人に鉄を渡しても何も作れません。木でできた椅子を雨ざらしにしておいたら腐ります。これは木でできたものならお箸でも、オモチャでも、紙や家でも同じです。鉄でできたものを雨ざらしにしておいたら椅子でも、包丁でも、遊具でも錆びます。でも、石でできたものならば、その形に関わらずに雨に打たれても変化しません。でも、固いものがぶつかったら簡単に割れてしまいます。木でできたものはナイフで加工することができます。でも、鉄で出来たものを加工する場合にはナイフは役に立ちません。トンカチの方が役に立つでしょう。でも、石でできたものをトンカチでたたいたら壊れてしまいます。気質とはこの「素材」のようなものなんです。ですから、気質が似ているからと言って性格が似ているとは限りません。性格形成には、育ちや学びの影響も大きいからです。でも、素材としての特性は育ちの影響を受けにくいのです。リーダーシップに優れた会社の社長と、凶悪なやくざの親分とでは当然性格は違うでしょうが、「胆汁質」という気質が強いという点では似ているのです。胆汁質が強くなければグループをまとめることが出来ないからです。ちなみに、古代ギリシャの人が考えた気質の分類では、基本気質として「憂鬱質」「粘液質」「胆汁質」「多血質」の四つがあります。これは、この世界を構成していると言われた「地・水・火・風」の四大元素に対応しています。古代ギリシャの人は、この四つが世界を形作っている素材だと考えたのです。でも、これは色を作っている「三原色」に「明暗」を加えた四つの要素のように、実際には混ざり合って存在しています。家を作るときにはメインとなる木だけでなく、土台には石が、木と木をつなぐところには鉄も使われていますよね。そんな感じです。あと、インドにも中国にも古来から似たような考え方があります。それぞれ分類の数は異なっていますが、視点は似ています。ギリシャ人は「地・水・火・風」の四つの要素で世界が構成されていると考えましたが、東洋ではそれに「空」を足して「地・水・火・風・空」の五大要素になっています。これはどちらが正しいということではなく、世界観の違いがこの世界を構成している根本要素の分類の違いにも影響しているのです。私の気質の考え方にも「空」的な要素が入っています。
2023.11.07
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自然界は「多様性」に満ちています。それは誰でも知っていることですが、問題はその「多様性が存在している意味」を理解しているかどうかということです。「多様性」は「みんなちがってみんないい」というような単純なものではありません。人のからだは、目、鼻、口、耳、足、手、肌、内蔵、血管などといった様々な感覚器官や臓器などで構成されています。細かく分けたら切りがありません。それらの「人間を構成する様々な要素」は、形も、機能も、働き方も、素材もみんな違います。一人の人間を構成しているものなのに、肌を構成している素材と骨を構成している素材は全く異なります。でも、それら「全く異なるもの」がつながり合い、支え合い、統合的に働くことで、一人の生きた人間が活動することが出来るようになっています。というか、異なったものがつながり合い、支え合い、統合的に働かないことには、人間は人間として存在出来ないし、人間としての能力も発揮できないのです。それは機械でも同じです。機械がちゃんと動き働くためには、その働きを支えるための様々なパーツがお互いにつながり合い、支え合い、統合的に働く必要がありますよね。それが命の仕組みであり、自然界の仕組みでもあるのです。同じようなことが家族の中にも、様々な群れの中にも、社会の中にもあります。会社には様々な役職の人が居ます。まず、大きなことを判断し、決断する役割としての社長がいます。小さな判断は部下に任せますが、全体に関わるような大きな事は社長が判断します。それは「どう歩くか」とか「どう話すか」はからだに任せていても、「人間としてどう行動するのか」ということは頭が判断するのと同じです。でも、社長だけでは何も出来ません。頭がいくら動きたいと思っても、手足がなければ動けません。お客を集める役割としての営業も必要です。どんなに良い製品を作っても、営業がちゃんと働かないことには会社はつぶれます。会社の内部を整える、経理や、総務といった役割の人も必要です。でないと、営業がいくらいっぱい注文を取ってきても、その注文を管理することも、品物を流すことも出来ません。さらには新製品を研究、開発する人が必要な場合もあります。このように、色々な役割の人が助け合うことで「会社」が一つの統合体としてちゃんと機能するのです。それが出来ない会社はつぶれるのです。社長だけが威張って、それぞれの役割の人を信用せず、否定し、細かいことにいちいち口を出しているような会社はつぶれます。家族も同じです。お父さん(お母さん)だけが威張って家族全員を支配しているような家庭は、家族として機能しません。子どもの成長を支えることも出来ません。また、お父さん(お母さん)が責任放棄して自分勝手なことをやっている場合も同じです。そして、「気質」は、人間の社会やつながりを潤滑に支えるための役割分担として存在しているのです。そして面白いことに、人は生まれつき、特定の役割にあった素質を持って生まれてくるのです。それが「気質」なんです。特別な訓練など受けていないのに、幼い頃からデリケートな感受性を持っている子どもたちがいます。音に対する感受性、色に対する感受性、形に対する感受性に優れた子どもたちがいます。特別な仕付けなど受けていないのに、人付き合いが上手な子もいます。人の心を感じ取ることが得意な子もいます。丁寧な仕事が好きで得意な子もいます。声が大きくて、活発で活動的な子もいます。いつもおしゃべりばかりしている子もいれば、いつもジーッとしている子もいます。いつもジーッとしているような子は、ひたすら見たり、聴いたり、感じたり、考えたりしている子どもたちです。内面の活動に没頭しているのでからだが動かないのです。力が強い子も、体が柔らかい子もいます。大人がそういう教育をしたからというのではなく、生まれつきそういうタイプの子どもたちが居るのです。もちろん教育によっても変わりますが、子どもたちは皆、生まれつき異なった「素質」(気質)を持って生まれてきているのです。それは子どもを何人も育てている人には当然の事実なんですが、一人しか育てていないと「子どもは生まれつきみんな違うんだ」ということが分からないのです。その結果、「育て方次第で子どもはどのようにも育つ」と思い込んでしまったり、「子どもの状態はすべて自分の育て方の結果」だと思い込んでしまったりするのです。そして、そこから子育ての苦しみが始まるのです。
2023.11.06
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子どもが泣くのにはワケがあります。子どもが笑うのにもワケがあります。子どもが苦しむのにも、悲しむのにもワケがあります。子どもが遊ぶのにもワケがあります。子どもが大きな声を出すのにもワケがあります。子どもがお母さんにまとわりつくのにもワケがあります。子どもがちゃんと食べないのにも、ちゃんと片付けないのにもワケがあります。子どもが「楽しいこと」は自分の意志でやるのに、「楽しくないこと」からは逃げようとするのにもワケがあります。森の中で、男の子が棒を拾い振り回すのにもワケがあります。ドングリなどの実や、きれいな石を見つけたら拾うのにもワケがあります。崖を見つけたら登りたがるのにもワケがあります。水溜があったら入っていくのにもワケがあります。靴を左右反対に履こうとするのにもワケがあります。裸ん坊でも恥ずかしくないのにもワケがあります。他の子が持っているものが欲しくなるのにもワケがあります。それは子ども自身にもどうにもできない、子どもの「命の働き」や「人間の本能」とつながった「ワケ」です。ですから自然現象と同じものです。でも、大人達はこの「自然現象」を無理矢理押さえつけたり、コントロールしようとしています。その結果、子どもの自然な成長の形が歪むことになります。それは今、リアルな自然に起きている問題と同じです。またそれは、自己肯定感の低さとか、成長への欲求や生きる意欲の低下として表れます。だからといって、「そのまま肯定していい」「好きにさせていい」ということではありません。もしそれが、「周囲に迷惑をかける困った行動」ならば、「子ども自身にもどうにも出来ないんだ」ということを理解した上で、その行動や感情や衝動を子どもの成長につなげてあげれば、多くの場合は子どもはそういう行動を卒業して、次の段階に進むことが出来るのです。上に書いたようなことは子どもの成長に伴う自然現象なので、その成長段階を通り抜けてしまえば自然と消えてしまうものだからです。でもだから、子どもが、このような感情や、衝動や、行動を通して「自分の成長につながる色々なこと」を学ぶ事が出来るのは「幼児期」という短い期間だけなんです
2023.11.05
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「子育て」に関してみんな大きな勘違いをしています。多くのお母さん達が、「どのようにして子どもを育てたらいいのか分からない」と言います。そして、子どもの育て方を知りたくて、色々な本を読みあさっています。でも、実際には「子育ての方法」なんて存在しないのです。情報としては色々な「子育ての方法」がありますが、その中に「我が子の育て方」はないのです。子育てにおいて必要になるのは「子育ての方法」ではなく、「自分とは違う立場にいて、自分とは異なる考え方、感じ方をしている〝子ども〟という存在とのつき合い方」だけなんです。実際、「子育て」なんて特別に考えたことが無くても、毎日子どもと楽しく一緒に生活していれば、子どもは親から色々なものを吸収して、勝手に育っていくのです。その場合、無理に「子育て」など意識する必要はありません。現代の子育ての大きな問題は、みんな「子育て」を意識しすぎることなんです。だから、子育てが不自然になってしまっているのです。母親にとって、子育ては生活そのものです。そして、母親の人生の一部です。母親の生活や人生と離れて、子育てがあるわけではありません。ですから、子育てばかり意識していると母親の生活や母親の人生にゆがみが生まれてしまうのです。その結果、夫婦関係や親子関係にもゆがみが生じてきます。子どもの育ちにも「ゆがみ」として伝わっていきます。それが、職業として子どもと関わっている幼稚園の先生や、育児書を書いている様々な先生とは異なるところでもあります。育児書に書いてあるような理想的な子どもとの関わり方が可能なのは、基本的に幼稚園の先生のような「生活とは切り離された場」で子どもと関わっている人たちだけです。“先生、あのね”と言われて、ずっとつき合うことが出来るのは、それが仕事だからです。でも、主婦の現実の生活では、“お母さん、あのね”と言われて、ずっとつき合っていたら、掃除、洗濯、買い物などの“主婦としての仕事”が出来なくなってしまいます。実際、幼稚園の先生でさえ、わが子の対応には手を焼いています。園児がいたずらをしても笑って見ていることが出来ても、わが子がいたずらをしたら自分の子育て能力が疑われてしまいます。幼稚園の先生ばかりではありません、普通のお母さんでも、「子育て」を意識すればするほど、子育ては辛くなるのです。でも、だからといって「お母さんの生活の方を優先させて、子どもを放っておいてもいい」ということではありません。ご主人が仕事が忙しいと言って、家事も子育てもつき合ってくれなければ、辛くなって、家事にも子育てにもやる気をなくしてしまいますよね。それと同じように、子どももお母さんが「忙しい 忙しい」と言ってばかりいて、自分の方に気持ちを向けてくれなければ、やる気をなくしてしまうのです。そして、ゲームやネットの世界にのめり込んでいきます。要は、「子育て」は親が子に一方的にするものではなく、「親と子の共同作業によって成り立っている」ということなんです。それが、昨日書いた「二人三脚」ということであり、「人間が人間を育てる」ということでもあるのです。ですから、「子育て」の一部を子ども本人に任せてしまってもいいのです。子どもは周囲の大人を見たり、様々な体験を通して「自分育て」をしているのですから。その子どもの「自分育て」を支えるのが「子どもの育ちを支える子育て」でもあるのです。母親が考えるのは、その子どもとどのように楽しい人間関係を作るか、毎日どのように楽しく生活するか、それだけでいいのです。そうすれば、子どもは自分の個性、能力、感性に合わせて、(必要なものは自分の力で大人から吸収しながら)勝手に育って行くのです。でも、多くのお母さんが「それだけでいい」ということを知らずに、「感性も育てなければ」とか、「学力も育てなければ」とか、「しつけも必要だし」というように考えて、子どもの育ちに無関係なもの、子どもの育ちを阻害するようなものをいっぱい押しつけています。でも、子どもと一緒に楽しく生活することが出来ていない人に、そのようなものを子どもに与える事は出来ないのです。なぜなら、そのようなことは、毎日の楽しい生活の延長上に勝手に伝わっていくことだからです。教えようとした時点で子どもは拒否するのです。ちなみに、子どもは親の期待には応えてくれませんが、人間としての信頼には応えてくれます。
2023.11.04
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今の時代、出産や子育てをただの「つらい労働」だと考える人たちがいっぱいいます。政治家にも、医者にも、お母さんたちにもそう考える人がいっぱいいます。そういう人たちは、どうやったら出産や子育てを楽にできるのかを常に考えています。単に「つらい労働」に過ぎないのなら、便利な機械やインフラを使って効率的に、楽に、安全に、早くそれを済ませてしまおうと考えるのは自然なことです。出産でも無痛分娩や帝王切開が増えてきているようです。でもそれが可能なのは、子どもが自分の意志を持って動き始めるまでのことです。子どもは「自分のからだの中の成長欲求」には従いますが、それと矛盾するような「お母さんの意志」には従わないからです。「従わない」というよりも「従えない」という言い方の方が正しいかもしれません。言葉が達者になって「心」が目覚め始めると、子どもをコントロールするのはもっと困難になります。それでも力づくで抑え込もうとするお母さんもいます。ゲーム機やタブレットを与えてアメとムチでコントロールしようとするお母さんもいます。諦めて子どもを放り出してしまうお母さんもいます。(ネグレクト)いつまでも「子どもをコントロールするためのマニュアル」を探し続ける人もいます。私に相談してくるのはこのような人が多いです。でも、いずれの方法を使っても、子どもはお母さんの思い通りには育ちません。むしろ、子どもをコントロールしようとすることで子どもの成長が阻害され、自立が困難になり、本来は必要がない苦しみまで生まれてしまうのです。「出産や子育てをただのつらい労働だと考える人たち」は、「自分もまた子どもだった」ということを忘れてしまっているのでしょうか。目の前にいるのは、単なる「労働の対象」ではなく、「何十年か前の自分」と同じ存在なんです。そんな子どもが求めているのは「楽で効率的な出産」でも、「楽で効率的な子育て」でもないのです。もちろん、最低限の衣食住は必要ですが、それ以上に子どもが求めているのは「安心」なんです。そして、その「安心」は「共に」という感覚の中で満たされます。「安全」と「安心」は同じものではありません。子どもの周囲から危険なものを取り去って安全な空間を作っても、「共に」がなければ子どもは不安を感じるのです。逆に、目の前にトラがいても、お母さんに抱かれていれば安心を感じるのです。単なる「労働の対象」としてしか扱われていない子どもは、この「安心」を感じることができないのです。そして、「安心」に満たされていない子は、「安心」を求めて自分のことばかりを考えるようになってしまいます。その結果、集団生活ができなくなり、他の子と仲間としてつながることも困難になります。不安も強くなり、自己肯定感も低くなります。楽や簡単や便利を求める出産や子育ては、子どもが自己主張を始めるまでは上手く行くのですが、自己主張を始めるようになった途端に破綻するのです。自己主張をする子どもとの向き合い方が分からないからです。でも最初から、出産や子育てを、子どもの意志や気持ちを尊重した「子どもとの二人三脚」だと考えている人には、そういう「子育ての破綻」は訪れません。最近の出産は「大人の都合」に合わせて行われていることが多いですが、本来、出産時の子どもは単なるお客さんではありません。子どもの側から母親のからだに「そろそろいいよ」とサインを送って陣痛を起こしているのですから。古来から出産は、子どもと母親の二人三脚で行われていたのです。大人の都合だけでなく、子どもの都合や意思も尊重していたのです。産まれた後も同じです。子どもは泣き声やからだの状態で、自分の気持ちや、必要なものをお母さんに伝えようとしています。そして、お母さんがそのことに気付き、ちゃんと対応してあげていると、子どももお母さんに気持ちを合わせてくれるようになります。子どもが自分の意思で行動するようになっても、お母さんが子どもの意思を尊重して「支配せず、支配されず」という関係の中で二人三脚で生活していると、子どもの方もお母さんのやり方を学ぶことができます。確かに二人三脚は不自由だし面倒くさいですが、「共に」という感覚を大切にしながら、親子共々不自由を楽しみながら子育てをしていると、子どもはやがて、一人でも歩いていけるようになるのです。そしてお母さんは楽になります。その逆に、お母さんだけが楽に、自由になるような子育てをしていると、子どもは成長するにつれてお母さんの自由を奪いに来るのです。
2023.11.03
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歌を聴いたことがない子に「歌いなさい」と言っても無駄です。上手な歌を聴いたことがない子に「もっと上手に歌いなさい」と求めても無駄です。どんなに叱っても、怒鳴っても、叩いても、脅かしても、聞いたことがない歌は歌えません。そんなこと当たり前ですよね。でもなぜかみんな、子育てではその当たり前を無視するようなことをしているのです。「静かにしなさい」と言われても、幼い子どもには「静か」という言葉の意味が理解できません。(でも、〝ほら、鳥の声が聞こえるよ〟と音に意識を向けさせると、静かになります。そういう体験の繰り返しの中で「静か」という言葉の意味が感覚的に分かるようになるのです。)「片付けなさい」と叱られても、「片付ける」ということがどういうことなのか分かりません。(片付けることが出来るようになるためには「違い」を知る必要があります。)「早くしなさい」と言われても「早くする」ということがどういうことなのか分かりません。子どもは、「約束よ、分かった!」と言われれば「分かった」と答えます。ても、幼い子どもには「約束」という言葉の意味が分かりません。ただ、お母さんが「分かった」という言葉を求めたから「分かった」と答えただけです。「ゴメンナサイ」も同じです。「ゴメンナサイを言いなさい」と言われれば「ゴメンナサイ」と言うことはできます。でも、「ゴメンナサイ」の意味が分かっていないから、自分が迷惑をかけた相手に対してではなく、お母さんに言ったりします。「ゴメンナサイ」と言えばお母さんの怒りが収まることを知っているからです。「おしっこ大丈夫?」と聞かれたら「ダイジョウブ」と答えます。でも、子どもはただそう答えるだけです。自分のからだの中の「おしっこの状態」を確認する能力がないからです。他の子を打った我が子に「打たれた子の痛み」を伝えようとして、「打たれたらこんなに痛いんだよ」などと言って、我が子に対しても同じように打つお母さんがいますけど、あれは絶対に止めた方がいいです。自分が打った相手から打ち返されるのなら、子どもにもその意味が分かります。でもいきなり、何の関係もないお母さんから打たれるのです。それに、子どもが打たれて感じるのは「自分の痛み」だけです。「自分が打った相手の子の痛み」なんか分かるわけがないのです。皆さんは分かるのですか?皆さんも子どもの頃はいっぱい叱られ悲しい思いをしたと思うのですが、今、自分が叱っている子どもの悲しみが分かるのですか。また、子どもには、子ども本人にしか分からない「打った理由」があります。それを無視して、いきなり全く関係がないお母さんから打たれたら親子の信頼関係は崩れます。そんな時子どもが理解するのは「お母さんは自分の気持ちを理解してくれない」という想いだけです。大人と子どもとでは言葉や現実を認識する能力も、認識の仕方も異なっているので、大人にとっては当たり前のことでも、子どもにとっては当たり前ではないのです。大人が生きている世界では「1+1=2」ですが、子どもが生きている世界では「1+1=不明」なんです。大人の論理は時空間の束縛を受けていますが、子どもの論理は感覚のおもむくままに展開して時空間の束縛から自由なんです。そのことを理解しないまま、大人の価値観や大人の考え方を子どもに押しつけるような子育てや教育をしてしまったら、子どもは「今学ぶべきこと」を学ぶことが出来なくなってしまうのです。子どもが大人と同じように見たり、感じたり、考えたりすることが可能になるのは9才を過ぎてからです。それでもこの能力の育ちには大きな個人差があるので、大人になっても分からないままの人もいます。*************生徒募集のお知らせです。毎月、第二土曜日の午前に、茅ヶ崎の駅の近くでやっている「土曜アトリエ」の生徒を募集しています。毎回テーマを決めて活動しています。詳しくはこちらをご覧になって下さい。次回は11日です。**************横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」です。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.11.02
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最初にちょっと生徒募集のお知らせです。毎月、第二土曜日の午前に、茅ヶ崎の駅の近くでやっている「土曜アトリエ」の生徒を募集しています。毎回テーマを決めて活動しています。詳しくはこちらをご覧になって下さい。次回は11日です。***********昨日、近くのお店に行ったらベビーカーに2才ぐらいの子どもを乗せて買い物に来ているお母さんがいました。で、驚いたのはそのベビーカーには「タブレットホルダー」が付いていて、子どもはそれで何かを見ているのです。こういうものが今、流行っているのでしょうか。驚きました。買い物をするお母さんの後をゲーム機を持って付いて歩く子どもは時々見かけますが、タブレットが付いているベビーカーは初めて見ました。ちょっと見ていたら、子どもは慣れているようで自分で操作していました。そして、大人しく座っていました。子どもに騒がれることを恐れているお母さんにとっては、これは救世主なんでしょうね。確かにこういう便利な機械を使えば、子育ては楽になるかも知れません。問題は、ただ楽になるだけならいいのですが、その「楽」と引き替えに子どもの成長が阻害されてしまうことなんです。また、子どもの成長が遅れてしまうため、その「楽」は、子どもが幼いうちだけしか続きません。なぜなら、子どもが大きくなりお母さんから離れて活動することが多くなると、からだは大きくなっても心の方が幼いままの子どもは色々なところで色々な問題を起こすようになってしまうからです。まず、仲間とうまくつながれません。学習能力も低いです。自分勝手な行動しか出来ません。能動的に感じ、考え、行動する能力が育たないので、受け身的に「楽しいこと」や「楽」を求めるようになります。いつまでも親に依存するようになります。それはつまり「協調性がないわがままな子」になるということです。兄弟がいても兄弟の仲は悪くなります。また、子どもの成長に寄り添っていないので、お母さんは我が子のことが分からなくなります。親子の信頼関係も築けません。そのため、子どもが大きくなってから問題に気づき、子どもの状態を変えようとしても、子どもはお母さんの言葉に耳を傾けません。子育ては子どもの成長を支えるためのものです。それが子育て本来の目的でもあります。そしてこれは、人間だけでなく子育てをする全ての生き物たちに共通の原則です。そんなことは意識していないでしょうが、犬や猫も子どもの成長を支えるために子育てをしているのです。そうしないと、種が続かなくなってしまうからです。まただから「子育てで楽しよう」とも考えません。そんなこと考えるのは人間だけです。確かに便利な機械を使いこなせば子育ては格段に楽になるでしょう。でも、「楽になる」ということと「子どもの成長を支えることが出来る」ということは同じではないのです。むしろ、便利な機械が子どもから様々な出会いや成長の可能性を奪ってしまうのです。便利な機械に依存することなく、子どもの成長を支えるような子育てをしていると、最初は大変でも次第に子どもと一緒に感じ、考え、遊ぶことも出来るようになります。子育ての楽しさも分かってきます。子どもはお母さんとの関わり合いを通して、仲間や他の大人との関わり方を学ぶことが出来ます。ですから、時期が来たら子どもは自信と希望を持って親から離れて行くことができます。確かに、今の時代子どもを便利な機械に預けずに子育てをするのは非常に大変なことです。でも、子どもとちゃんと向き合って子育てをしていると、最初は苦しくても、子どもの成長に伴ってだんだん楽しく、楽になっていくのです。ただし、このような子育てをするためにはお母さんの仲間作りが必要になります。一人だけではどんなに頑張っても無理だと思います。
2023.11.01
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昨日、あるお母さんから「子どもの声を騒音として扱うことを禁止する法律を作って欲しい」という声がありました。全くその通りだと思っていたら、ドイツにはもうすでにそのような法案があるそうです。ですから、全く荒唐無稽な話ではないのです。日本でもそういう案が国会でも出たようです。でも、積極的に審議されてはいないようです。金をばらまいたり、お母さんが仕事をしやすい環境作りには力を入れても、お母さんが「幸せな子育て」をしやすい環境を作ることには力を入れる気がないのでしょう。「東京新聞 TOKYO Web」参考https://www.tokyo-np.co.jp/article/246934「少子化は金をばらまけばなんとかなる」というのが日本の政治家の発想なのでしょう。でも、今の日本の社会の「子育てのしづらさ」は異常だと思います。「子どもの子どもらしさ」や、「子育てをしているお母さん」に対する不寛容は目に余ります。つい先日も、公園で遊んでいたら「子どもの声がうるさい」と公園の近くの人に文句を言われたお母さんがいました。幼稚園の隣の家から文句が来て、子どもを園庭で自由に遊ばせることが出来なくなってしまった幼稚園もあります。知り合いがやっている幼稚園でも、同じような問題で悩んでいます。子どもの泣き声が外に漏れないように一年中窓を閉め切りエアコンを付けっぱなしにして、外で泣かれるともっと困るので外にも出さず、子どもを付けっぱなしのテレビの側で寝かせたままにしているお母さんの話も聞きました。これはもう立派な虐待です。子どもの子どもらしさに対する周囲からの文句がお母さんに虐待を強いているのです。それで、ストレスに耐えかねたお母さんが何か事件を起こすと「全くひどい親だ」と親を責めます。江戸の末期に日本にやってきた欧米の人たちが驚き、感心した日本人の子どもに対する寛容さと優しさはどこに消えてしまったのでしょうか。子どもが泣くのは言葉を話すことが出来ない子どもが行うことが出来る唯一の自己表現であり、それは権利でもあります。子どもが大きな声を出すのは感情のコントロールを学ぶためです。子どもがジーッとしていないのは、成長しつつある感覚や筋肉が刺激を求めているからです。子どもは自分の意志で動き回っているのではなく、子どもの中の成長本能が子どもを動かしているのです。そして、同じような状態の子がいると共鳴し合い大騒ぎになります。よく公園遊びで問題になるのはこの声です。でもその姿はすごく楽しそうです。心もからだも緩んでいます。そんな楽しそうな姿を見ていると、「このような活動が子どもの成長には必要なんだ」ということがよく分かります。その一方で、子どもの成長にとって自然な環境や刺激を与えられることなく、自然な成長が阻害されてしまった子もジーッとしていることが出来なくなります。でも、このような状態の子の心とからだには強いストレスがあり、心もからだも緩みません。だからジーッとしていることが出来ないのです。そしてそれは表情の違いとして表れています。また、自分を守ることばかり考えているのでトラブルも起きやすいです。今、発達障害の子が増えていますが、実際に増えているのは先天的な発達障害の子ではなく、成長に必要なものを与えられることなく育ってしまったことで成長が歪んでしまい、擬似的に発達障害のような状態になってしまった子です。外に出ることも他の子や他の大人とも関わることなく、一日中テレビやゲームだけを相手にして遊んでいる子は、当然のことながら「他者と共存する能力」や「他者とコミュニケートする能力を育てることができません。話しかけられもせず、言葉がない環境で育った子は言葉で表現したり、他者の言葉を理解する能力も育ちません。言葉が育っていない子は、思考力も自分の感情をコントロールする能力も育ちません。自由に声を出し、自由に動き回ることを禁止された状態で育っている子は、心とからだの働きがつながりません。そのため、心とからだの状態が不安定になり、不安が強くなります。当然のことながらそういう子が増えれば、社会は混乱していきます。やがて学校も崩壊するでしょう。政治家はもっと真剣に子どもが幸せに生きることが出来る社会、お母さんが安心して子育てが出来る社会を作ることに力を入れるべきなんです。そうでないと、日本はますます衰退していきます。**************横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」です。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。このワークのお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.31
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よく「子育てに正解はない」と言われます。でも、実際には本屋さんに行くと子育て関連の本がいっぱい並んでいます。そしてそれらの本には「正解」が書いてあります。でも、ここで問題になるのはその「正解」が本によってみんな違うことです。ですから、子育てに悩んでいたり、一生懸命子育てをしようとして色々な本をいっぱい読みあさる人ほど混乱して、子育てへの自信を失っていきます。すると子どもの状態はますます手が付けられなくなり、お母さんはますます自己嫌悪が強くなります。人間にとっての「子育て」とは、何にも知らない、何にも出来ない状態の赤ん坊を、「一人前の人間」に育てる行為です。これが「子育て」の原点です。ここに異論を挟む人は滅多にいないと思います。問題は、その「一人前の人間」とはどのような人間なのか、という「人間像」が一人一人違うことです。経済的に自立した人間を「一人前の人間」と考える人がいます。また、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動することができる人間を「一人前の人間」と考える人がいます。きちんとした仕事が出来る人間を「一人前の人間」と考える人がいます。人格的に優れた人を「一人前の人間」と考える人もいます。みんなと助け合うことが出来る人間を「一人前の人間」と考える人もいます。有名人や社会的地位の高い人を「一人前の人間」と考える人もいます。子育てが出来る人を「一人前の人間」と考える人もいます。実際にはもっともっと色々な「一人前」があるでしょう。これだけ色々な「一人前」があったら、一人前の人間を育てるための方法にだって色々な種類があって当然です。さらには、(例えば)「経済的に自立した人間」を育てるための方法論にだって色々なやり方があるでしょう。「小さい時からびしびし鍛えた方がいい」と考える人もいれば、「小さい時は充分に遊ばせた方がいい」と考える人もいます。その結果、本屋さんには数知れぬほどの「子育て書」が並ぶことになります。そして、人は自分の好みに合わせて、子育て書を選んでいきます。つまり、自分の人間像を肯定してくれている本を選ぶわけです。多くの場合、人は自分が育てられた方法を肯定してくれるような子育て方法を肯定します。厳しく育てられた人は「厳しく仕付ける子育て」を肯定します。優しく育てられた人は、「優しく育てる子育て」を肯定します。時に、厳しく育てられたが故に「厳しく育てる子育て」を否定する人がいますが、でも感覚的に、「厳しくしない子育て」がどのようなものか分からないので、色々本を読みあさることになります。そして、不安になります。「自分が受けた子育て」を肯定することが出来ない人も、色々な本を読みあさり、不安になります。自分が受けた子育て以外の子育てのイメージが分からないからです。人は体験したことのないことをイメージすることは出来ないのです。親が、自分を肯定するための子育て方法を子どもに押しつけると、子どもは「おれはあんたじゃない」と反逆します。逆に、子育て方法に不安を感じながら子育てをしていると、子どもも不安を感じ不安定になります。でも、ここで見落とされている大事なことがあるように思うのです。それは、「子どもは親の思い通りに育つようには出来ていない」ということです。これは子育てを終えた人なら誰でもが知っている事実なのではないでしょうか。でも子どもがまだ小さい時には、お母さん達はこの事実をよく知りません。「自分が頑張れば子どもは思い通りに育つ」と思い込んでしまっているお母さんもいっぱいいるように思います。その思い込みが間違えであったと気付くのは、子どもが中学生頃になってからです。改めて言いますが、子どもは親の思い通りに育つようには出来てはいないのです。そのことを理解していないと、理想通りに育てようと頑張れば頑張るほど子どもはお母さんやお父さんの理想から遠ざかっていきます。子どもは自らが育ちたいように育つのです。その育ちを支えているのは「あこがれ」です。子どもは「あこがれ」に導かれるように育っていくのです。ですから、子どもはいつでも「あこがれ」を探しています。それは本能です。小さな子どもはアンパンマンやウルトラマンにあこがれを感じます。そして「アンパンマンになりたい」などと言います。時にはそれはお母さんかも知れません。テレビの中のアイドルかも知れません。でも、大人になってまで「アンパンマンになりたい」などという人はいません。小さい時には「アンパンマン」であっても、成長するにつれ、それがもっと現実的なスポーツマンや、お花やさんや、学者などに変化していきます。子どもは自分の成長に合わせてちゃんと「あこがれ」も変えて行くのです。だから、お子さんが「アンパンマンになりたい」などと言っても心配する必要はありません。そんな風に「あこがれ」を持つことが出来た子どもはまっすぐ育ちます。でも、あこがれを持つことが出来ない子は不安になり、迷子になり、苦しみます。それは多くの場合、親の期待を押しつけられてしまった子どもたちです。親の期待を押しつけるということは、子どもの「あこがれ」を否定することになってしまうのです。でも、それでは子どもは自分が育つべき方向を見失うことになってしまいます。子育て書の多くは大人からの視点ばかりで書かれています。子育てが楽になるような方法ばかり書かれています。親の期待通りに育てる方法ばかり書かれています。でも、子どもを「大人の製品」ではなく、「一人前の人間」に育てたいのなら、子どもの視点に立った、子どもの「あこがれ」を育てる子育てが必要になるのです。ちなみに、私が言うところの「一人前の人間」とは、自分の大切さも、仲間の大切さも知っていて、自分一人でも、またみんなと一緒にでも色々な活動をすることが出来る人間のことです。難しく言うと「全体から切り離された個でも、全体に縛られた個でもなく、全体とつながりながらも縛られず自由に生きることが出来る個」ということです。
2023.10.30
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「苦しみ」にとらわれて抜け出すことが出来なくなっている人の考えをよく聞いていると、共通してみんな何らかの「正解」を求めているような気がします。「子育てを楽にする正解」、「優秀な子どもを育てる正解」「苦しみを消してくれる正解」「子どもが言うことを聞くようになる正解」「幸せを手に入れる正解」などなどです。そして、「正解」を求めてネットで情報を探したり、色々な本を読んだり、色々な講座に行ったり、セラピストやカウンセラーの所に行ったりしています。でも、固定された「正解」があるのは「頭の中」と、その「頭の中」の働きによって「人工的に作られたもの」だけです。「生命の世界」や、「心やからだの世界」や、「自然界」や、「私たちが生きている現実の世界」には「正解」など存在していないのです。私たちは、もともと「正解がない世界」に生きているのに、頭の働きや社会の都合で「正解」を決め、それに束縛されてしまうから、生命がゆがみ、心やからだがゆがみ、苦しみが生まれてしまうのです。じゃあ、どうやったら「正解がない世界」を幸せに生きていくことが出来るのかというと、そこで必要になるのが、「自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意思と責任で行動する能力」なんです。結果にこだわらず、過程を「味わい、楽しむ能力」も必要になります。出来合いの「正解」を求めるのではなく、自分にとって必要なものは自分の力で発見し、創り出していくしかないのです。そしてそれは、「遊び」を創造する子どもたちの行為に似ています。自然の中に子どもたちを連れて行くと、大人が教えなくても子どもたちは「遊び」を創って遊び始めます。ただし、それが出来るのは普段から自然の中で遊んでいる子どもたちです。大人に買ってもらったおもちゃでばかり遊んでいる子は、なかなか遊びを創造することが出来ません。そして自然の中に連れて行っても、どうしていいのか分からず「退屈だー」と言うばかりです。またそのような子に限って「正解」を求めます。「自然」の中には「正解」はありませんが、「人工物」の中には正解があるからです。森の中で拾った木々や木の実は、切っても、貼っても、投げても、振り回してもOKですが、買ってもらった「積み木」を、切ったり、貼ったり、投げたり、振り回して遊んではいけないのです。「遊び方」が決まっているからです。また、カードゲームでも勝手に絵を描いて自分のカードを作ってはいけないのです。買ってきたカードでないと有効ではないのです。でも、そんな「正解」が通用するのは、人間が作った世界の中だけです。学校で教えてくれる「正解」は、学校の中だけでしか通用しない「正解」です。しかもその正解は先生によっても違っています。同じ答案用紙でも、採点する先生が違えば違う点数になることもあるのですから。だからそんなものに縛られる必要はないし、縛られてはいけないのです。でも、学校で「正解」を学び、「正解」に束縛され、幼い頃から人工物だけに囲まれて育っている現代人は、子どもや、子育てや、心や、からだや、生き方にも正解があると勘違いしてしまっているのです。そのような人に、「正解などありません。自分で考えて自分で決めればいいのです」と言うと、みんな戸惑ってしまいます。でも、多くの人の苦しみは、その「正解へのこだわり」によって生まれているのです。「正解」を手放せば楽になるのです。
2023.10.29
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東洋経済onlineというサイトに、以下のような記事が出ていました。「成績が良いといじめられる」日本人の特殊性能力が低くていじめられるケースは世界中にあります。でも、みんなよりも能力が高くてもいじめられてしまうのは、あまり日本以外の国では見ない現象のようです。とにかく日本では、良いことでも悪いことでも、人と違っていて目立ってしまうといじめの対象になってしまうのです。そのため、常に相互監視や足の引っ張り合いをします。未だにマスクを外さない人たちも「目立ちたくない人」なんでしょうか。この記事の中に以下のようなエピソードが紹介されていました。認識の甘さを痛感しつつも、1つのエピソードを思い出した。先日訪問したある中学校の校長先生によれば、生徒から「褒めないでほしい」と言われることが少なくないそうだ。よくよく聞いてみると皆、「みんなの前で」褒められるのは困るのだという。一人だけ目立ってしまい、仲間はずれにされる可能性が高まるというのだ。うちの教室でも、誰かが「ぼく、○○が出来るんだ」とか「○○が得意なんだ」というと、周囲にいた子が数人「自慢かよ」と冷やかしたことがありました。それで私が、「なんで自分が得意なことを自慢しちゃいけないの?」と子どもに話したことがあります。こんな足の引っ張り合いをしていたらみんな不自由になって苦しいはずなのに、「自分らしさ」を肯定されないで育っている日本の子ども達は、「みんな一緒」の中に安心を感じるのでしょう。そういう感覚の子ども達にとっては「他の人と違う子」に違和感と不安を感じ排除しようとしてしまうのでしょう。発達障害の子が問題視されるのも、発達障害の子は「みんなと一緒」が出来ないからです。というか「みんなと一緒」が出来ない子は、それだけで問題児として扱われてしまうのです。日本の保育や教育システムでは、「みんなと一緒」が出来ない子が一人でもいると保育や教育がしにくくなってしまうのです。なぜなら、日本では「みんなと一緒」を前提にして保育や教育のシステムが作られているからです。だから、一人でも「みんなと一緒」が出来ない子がいるとみんなが困るのです。問題があるのは「その子」ではなく「そのシステム」の方なんですが、みんな国が作ったシステムには従って、子どもの方を否定するのです。そして、「エジソンはすごい人」と歌いながら、実際にエジソンのような協調性がない子が周囲にいるとみんなで叩くのです。日本で行われているのは、国や先生が「右向け右」と言えば、みんなが一斉に右を向くように指導する教育です。そのため、個性や自分らしさを大切にする芸術教育や表現教育には全く力を入れていません。むしろ否定しています。芸術教育や表現教育では「一人一人の違い」が大切にされなければならないからなのでしょう。日本では、「上手な絵」は褒められますが、自分が感じたことを大切にした「自分らしい絵」は指導の対象になります。感想文も「先生が求めるもの」を推測してそれに合わせて書けば褒められますが、本当に自分が感じたまま書くと指導の対象になります。そういう日本の教育の状態に対して、この記事を書いた人は子どもたちを「皆と同じであるべき」といった無意識の思い込みから解放しようとするなら、義務教育のうちに適切な介入が必要だ。1つの有望な方法が、「異年齢学級」の導入だと筆者は考えている。異年齢学級の目的は、均質性とは正反対の、「差異」や「異質性」を集団内に求めることにある。学級内でさらに年少〜年長の混成グループに分かれ、自分たちでテーマを決定し、「遊び・学び・対話・催し」をバランスよく行う。その中で、教え合い、助け合い、また年上は年下に模範を示そうという自覚が生まれる。「学び」の場合も一斉授業ではなく、子ども同士、わかる子がわからない子に教えるというスタイルが基本だ。そこでは、子どもたちの「生きる力」「学ぶ力」を引き出すために、先生の役割は、一方的に「教える」立場のティーチャーから、子どもたちの学びを「支え見守る」コーチャー(コーチする人)へと変わる。ということです。と書いています。でもちょっと待って!これって、昔から続いてきた群れ遊びの現場で起きてきたことそのまんまですよね。群れ遊びで大切なことは「みんな一緒」ではありません。また、指導者がいないのですから、「何をするのか」をみんなで話し合う必要があります。ルールも自分たちで決めなければなりません。でも、「みんな一緒」という子育てや教育を受けてきた子をいっぱい集めても、この「話し合う」ということが出来ないのです。そのため「群れ遊び」も始まりません。そして簡単にイジメが始まります。ちょっと目立つ子がいると、みんなが同じ事を言ったりやったりするのです。そうやって安心を手に入れようとしているのでしょう。それに、子どもの頃から同調圧力の中で育ってきた先生達に、このような指導が出来るのでしょうか。
2023.10.28
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幼い子ども達は、描くことも、歌うことも、踊ることも、何かを作ることも、お話を作ることも大好きです。「遊び」もいつも創りだしています。大人は「遊びの方法」を知りたがりますが、子どもは誰からも教えてもらわなくても、自由に遊びます。絵を描く時も、大人は「描き方が分かんない」とか「上手に描けない」などと言いますが、2,3才までの子どもで、そんなことを言っている子どもとは会ったことがありません。どんな下手な歌を歌い、下手な踊りを踊っても、恥ずかしがる子もいません。この時期の子ども達は、心が目覚め始めたばかりなので、芸術的な活動がしたくてたまらないからです。それが本能的な「心の欲求」なんです。心が育つための栄養素として「芸術的な活動」が必要になるのです。そして、それが想像力や創造力や人間性の育ちに大きな影響を与えているのです。でも、4,5頃から大人のようなことを言い出す子が現れます。つまり、上手下手を気にする子が現れるのです。そして、「ぼく下手だから・・・」と言って、描かなくなったり、歌わなくなったり、踊らなくなったりします。失敗を恐れる子も出始めます。周囲の大人によって、「子どもらしさ」を肯定されながら育っている子はまだまだそんなことは言い出さないのですが、常に大人によって評価されながら育っている子は、そういう意識が目覚め始めてしまい、自分を表現しなくなるのです。大人はそのつもりがなくても、子どもが描いたり、創ったりしているときに、その「行為」ではなく「結果」を評価していると子どもも結果を気にするようになるのです。特に、憂鬱質の子は「結果」を気にします。憂鬱質の子は大人が自分に求めているものを敏感に感じ取るからです。実際にはそう言わなくても、憂鬱質の子は「大人の無意識」まで感じ取る能力があるのです。そんな時は、お母さん自身が上手下手にこだわらず、創ったり描いたりすることを楽しんでいる姿を見せて上げればいいのですが、多分それは無理でしょう。ですから、自由に描かせようなどと思うことは諦めて、「そのままの子ども」、「そのままの状態」を肯定して下さい。「結果にこだわる描き方」があってもいいのです。でもそれが絶対ではないということです。ただそれだけのことです。子どもはハサミで何かを切ったり、セロテープをペタペタ付けたりするのが大好きです。それなのに、大人は「何を作るの?」とか「何を作ったの?」などと結果ばかりを気にします。そして、結果がはっきりとしていないと「無駄なことはしないで」といいます。大人の価値観的には「ただ切るだけ」、「ただ貼るだけ」ということが理解出来ないからです。「色水遊び」をするときも、2,3才頃の子ども達は、ただ色を混ぜるだけで、特別「きれいな色」を作ろうとはしません。なぜなら、子どもにとっての興味は、「きれいな色」ではなく、「色が変わること」の方だからです。子どもは「変化」そのものを楽しんでいるので、「結果」のために活動しているのではないのです。そこが大人とは違うのです。「絵を描く行為」を楽しんでいるのであって、「絵」を描いているのではないのです。「創る行為」を楽しんでいるのであって、「何か」を創っているのではないのです。「字」を書くのも同じです。幼い子どもが「字を書いた」と言って持ってきたものを見ても、とても「字」とは思えません。それで大人は「正しい字」を教えようとしてしまうのですが、子どもは「字を書くという遊び」をしているだけで、「字」を書いているのではないのです。そこの所を誤解してしまうと、困ったことになってしまいます。幼い子どもの活動は「楽しむためのもの」であって、「作品を作るためのもの」ではないのです。だからこそ芸術的に展開するのです。子どもが「結果」を意識するようになるのは4,5才頃からです。「社会的な意識」が目覚め始めると、子どもは「結果」を気にするようになるのです。その時、周囲の大人が「結果」よりも「楽しむこと」を大切にしているなら、子どもも「自分を自由に表現し、その喜びを体験することが出来るのですが、大人が「結果」ばかりを求めていると、子どもは大人の期待に応えようとするばかりで、自分を表現しなくなるのです。でも、そんな子ども達でも自由に自分を表現したいのです。それが心の成長に伴う「心の欲求」だからです。ですから、大人が「大切なのは結果じゃないんだよ」と言うことを伝えてあげると、子どもは人が変わったように生き生きと自分を表現し始めるのです。その落差を見ていると、子どもがいかにいつも「子どもらしさ」や「自分らしさ」を抑えて生きているのかがよく分かります。遊びでも同じです。仲間と一生にからだを動かして遊んでいるとき、自然の中で遊んでいるときの笑顔は、部屋の中で遊んでいるときには見ることが出来ない笑顔です。「我が子のこんな笑顔初めて見た」と素直に言ってくれるお母さんもいます。でも、そのことに気付いている大人は非常に少ないです。***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.27
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最初に、横浜にある「Umiのいえ」企画の「気質の講座」の告知を書かせて頂きます。Zoomによるオンライン講座ですから、遠くにお住まいの方でも参加できます。11月24日(金)です。詳細は以下のサイトでご覧になって下さい。「Umiのいえ」*************古来より、「しつけ」は、ご先祖さま達が自分たちのアイデンティティーとして、守り、伝えてきた大切な文化を、次世代につなげていくためのものでした。そしてこのような「しつけ」を伝えてこなかった民族はいません。「しつけ」を失ってしまったら民族も崩壊してしまうからです。(実際、そうやって崩壊してしまった民族がいっぱいいます。)その「しつけ」の内容は民族によっても違うし、また、時代と共に変化もしますが、「世代から世代へと受け継がれていく」というシステム自体は普遍でした。言葉や、立ち居振る舞いや、服装や、状況に合わせた行動の仕方や、生活の仕方、歌や踊りや手仕事などを伝えるのも「しつけ」でした。「母の味」を伝えるのも「しつけ」でした。そのようなものを学び、身につけることで、子どもは自分が属している文化圏の中で一人前の大人として自立して生きていくことが出来るようになったのです。日本語を話す文化圏に生まれたのに、ちゃんとした日本語を学ぶことが出来ないまま育ってしまったら、大人になって社会に出たとき「一人前の大人」として生きていくのが困難になってしまうのは明らかなことですよね。だから「言葉」を伝えることも、大切な「しつけ」なんです。でも、今の日本では「伝承されてきたしつけ」は消えてしまいました。代わりに生まれたのが、「親の思い通りに子どもの行動などをコントロールしようとするしつけ」です。でもこれは昨日も書いたように「しつけ」ではなく「調教」です。そして、お母さんの支配下で、調教的な方法で育てられた子は家の外の世界での生き方を学ぶことができなくなります。そのため、外の世界に出て行くことが出来なくなったり、マニュアル的な方法に頼るようになります。人々が、まだ地域社会とのつながりが強い中で生活していた時代は、お母さんもまた地域とつながって生活していました。子育ても、子どもも、地域とつながっていました。だから子どもは地域とのつながりの中で、親からだけでなく色々な人から様々な「しつけ」を学ぶことができました。その学び方の基本は「見て学び、やって学ぶ」というものです。叱られて学ぶこともありました。でも、現代社会では周囲から孤立した状態で子育てをしている人がいっぱいいます。子どもも外では遊びません。それは子育てにおいては重大な問題なんですが、さらに家の中でも子どもはお母さんから切り離されています。お母さんは一人で家事や仕事をして、子どもも一人でテレビを見たりゲームをしています。食事の時も、お母さんは別のことをして、子どもだけで食べています。こういう生活では「しつけ」を伝えることは不可能です。「ちゃんと食べなさい」、「きれいに食べなさい」と言われてもその「お手本」がないのですから。そもそも一人で食べても楽しくありません。楽しくない状況で食べていれば、好き嫌いが出やすくなります。食べ方も汚くなります。基本的に、「しつけ」は伝承によって伝えるものですから、必ず「お手本」が必要になるのです。言葉を伝えることは、子どもの人間らしさを育てるしつけにおいて最も大切なことですが、言葉を必要としないような生活をしていたら、子どもに言葉を伝えることは出来ません。「言葉の大切さ」をいくら説いても、言葉と出会う機会を与えなければ子どもは言葉を学びようがないのです。子どもを支配するような子育てをしていると、子どもはそんなお母さんを模倣して、他の子を支配しようとするようになります。お母さんが「良いお母さん」を演じていると、子どもはそんなお母さんを模倣して「よい子」を演じるようになります。でも、その「よい子」はお母さんがいないところでは消えます。子どもに乱暴な言葉を使っていると、子どもも乱暴な言葉を使うようになります。子どもの言葉に耳を傾けていないと、子どもも他の子や大人の言葉に耳を傾けなくなります。子どもが言うことを聞かないのは、お母さんが子どもの言葉に耳を傾けていないからです。お母さんが理屈で子どもを叱っていると、子どもも理屈で返すようになります。お母さんと仲がいい関係を築けていない子は他の子とも仲の良い関係を築くことが出来ません。そして、自分中心に感じ考え行動するのですぐにケンカが起きます。そんなことを意図していなくても、子どもの方は「お母さんがやっていること」を「しつけ」として受け取ってしまうのです。
2023.10.26
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子どもが、精神的にも経済的にも自立して、自分らしさを大切にしながらも他者とつながり、自由に幸せに生きていくことが出来るように育てるためには「しつけ」が必要です。でも見ていると、「しつけ」と称して「調教」をしている人がいっぱいいます。でも、「調教」では子どもは育たないのです。そして、いつまでも自立できないままになってしまいます。「しつけ」は「子どもの育ちを支えるためのもの」です。でも、「調教」は、「大人の都合に合わせて子どもの行動を管理するためのもの」です。そこには、「子どものためのもの」なのか、「大人のためのものなのか」という違いがあります。犬などの動物を調教するのは、人間の都合に合わせて「犬の行動」を管理するためです。それでも犬が困らないのは、犬は、成長しても自立する必要がないからです。飼い主の言うことを素直に聞いていればかわいがってもらえるし、死ぬまで住むところも食べ物も与えてもらえます。そして犬はそれ以上を望みません。でも人間の子どもの場合はそれでは困るのです。もし子どもが、お母さんの言うことを素直に聞いて、言われた通りにお勉強をして、言われた通りにお片付けをして、言われた通りに「ゴメンナサイ」を言い、言われた通りに一人で大人しく遊んでいることが出来るような子に育ってしまったら、子どもは、思春期が近くなってもお母さんから離れることが出来なくなってしまうでしょう。「自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」が育たなくなってしまうからです。出ていきたくても出ていけなくなってしまうのです。そして子どもは苦しみます。親もまた外に出ていけない子どもを抱えて苦しみます。そう書くと「うちの子は私の言うことを聞かないから大丈夫だ」と思う人もいるかも知れませんが、実際には「言うことを聞かない」のではなく、お母さんの要求が子どもの能力を超えてしまっているため、「言うことを聞くことが出来ない」のです。「静かにしなさい」「ジーッとしていなさい」と言われても、幼い子どもは自分の意志で自分の感情や行動をコントロールすることが出来ません。一人でジーッとしていることが出来るのは楽しいことに集中している時だけです。お母さんもそれを知っているので、静かにして欲しい時にはスマホやゲーム機を与えます。すると子どもは、スマホやゲーム以外の「楽しいこと」には興味を感じなくなります。外に出ていかなくなります。仲間を求めなくなります。その結果、お母さんは子どもの相手をしなくて済むようになるので楽になります。また、それらの電子機器での遊びはすぐに中毒になるので「言うことを聞かないとスマホ(ゲーム)をやらせないよ」と、子どもを脅し、調教する便利な道具としても使うことができます。でもその結果、子どもは「学ぶ楽しさ」、「工夫する楽しさ」、「発見する楽しさ」、「外の世界の面白さ、楽しさ」を知るきっかけを失ってしまいます。そんな時、スマホやゲームではなく「折り紙」や「パズル」や「図鑑」などを与えるお母さんもいます。そして、スマホやゲームは会話を遮断しますが、「折り紙」や「パズル」や「図鑑」は、子どもと一緒に楽しむ事も出来ます。会話のきっかけにもなります。そして、日常的に子どもと会話する習慣が出来ていると、お互いの意思の疎通がしやすくなるので「調教」ではなく「しつけ」がしやすくなります。会話がない関係では力ずくになるか「アメとムチ」を使って調教するようになります。また、「早くしなさい」「ちゃんと片付けなさい」という要求も子どもの能力を超えています。子どもには、「早く」とか「ちゃんと」の基準自体が理解できないからです。それに、子どもには「義務感」はありません。楽しければやるし、楽しくなければやりません。ただそれだけのことです。だから「楽しさ」を教えてあげたり、「楽しく出来るような状況」を作ってあげれば子どもは進んでやります。「学ぶ楽しさ」を知った子どもは、追い立てられなくても勉強するようになるのです。先日テレビで、お母さんに何かをねだっている子が「成績が上がったら買ってもらえることになった」と嬉しそうに言っていました。それを見ていた出演者たちもみんな「良かったね」と反応していて強い違和感を感じました。これって調教の常套手段ですよね。勉強はお母さんのためにするものではないのですから。
2023.10.25
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町を歩いていると「歩きスマホ」をしている人を時々見かけます。スマホを見たり、操作しながら自転車に乗っている人さえいます。そういう人を見ると、他人事ながら「怖いな」と思うのですが、なぜか本人は怖いとは感じないようです。実際に死亡事故を起こして禁固刑になったり、何千万円もの罰金を払うことになった人もいるのに、「自分は大丈夫」と思っているのでしょう。近所の八百屋さんの脇に、自動車道路から自動車道路へと抜けることが出来る細い道があります。歩行者と自転車しか通れない細い道です。その道を抜けるといつも自動車が走っている道ですから、道を抜け、道路に出る時には十分に左右を確認する必要があります。少なくとも私はそう思います。でも、多くの高校生たちが左右を見ないまま飛び出してきます。「自動車が来るかもしれない」と想像することが出来ないようです。幸いにその道は買い物客も多い道なので、車も速度を緩めているので大きな事故を見たことはありませんが、でも、いつもハラハラしてしまいます。真夏の炎天下の中、幼い子どもを車の中に残したまま買い物に行って、帰って来たら熱中症になっていたというようなニュースもよく聞きます。止めた自転車の後ろに子どもを座らせたまま、自転車を離れ立ち話をしたり、買い物をしたりしているお母さんも時々見かけます。子どもがお母さんを追って降りようとしたり、誰かがぶつかったり、強い風が吹いたら、自転車が倒れ、子どもは大けがをしてしまうでしょう。でも、そのような行為をしているお母さんはそういう想像をしないのでしょう。先日、電車の中で、ハイヒールを履いて、オシャレな服装をして、子どもを抱いて歩いている人を見かけました。「しつけ」と称する虐待で子どもを死なせてしまう親もいますが、そのような親は、「まさかこんなことで死ぬとは」と思っていたのでしょう。このような行為の背景には、想像力の欠如があります。だから、「歩きスマホをしているとこういう事故が起きる可能性があるよ」などというような情報を流して、想像力を喚起しようとしているのでしょう。でも、いくら情報を流したり注意を喚起しても、「その情報につながるような体験」のない人は、そのことを自分自身のこととつなげて想像することが出来ないのです。そして、体験がない人ほど「そんなことは知っているけど自分は大丈夫」という根拠のない思い込みを持っているのです。だから、いつまで経っても「オレオレ詐欺」も「歩きスマホ」も減らないのです。知識は可能性を示してくれます。でも、実際の体験に裏付けされていない知識は、その可能性を自分自身のこととつなげてくれないのです。スマホを見ながら自転車に乗っていたら事故を起こす可能性があることは誰でも知っているはずです。ても、まさか自分が事故を起こすとは思っていないのです。それにつながるような体験がないからです。棒やノコギリやトンカチを、ゲームの中の勇者のように振り回す子がいます。それで、「誰かに当たったらどうするんだ、アブナイからやめなさい」と言うのですが、「大丈夫」と返事をしてくる子がいます。でも、その「大丈夫」には何の根拠もありません。何の根拠もないのに分かったつもりになっているからこそ怖いのですが、でも、「分かったつもり」になっている本人はその事を知りません。「だいじょうぶ だいじょうぶ」と分かったつもりになってカッターを使い、指を切り、以来、怖くてカッターを使わなくなってしまった子もいました。外で子どもが騒いでいると「親がちゃんと仕付けないから子どもが騒ぐんだ」と文句を言う人がいますが、そのような人は「子どものリアル」を知らない人です。「子どものリアル」を知らないから、「子どもは親がちゃんと仕付ければちゃんと育つんだ」と思い込んでいるのです。でもそれは空想であって想像ではありません。「実際の出来事」とつながるような想像は、「実際の体験」の延長にしか生まれてこないのです。「現実の世界での様々な体験」が、「現実の世界とつながった想像」を可能にしてくれるのです。実際に木登りをして落ちたり、ケガをしたり、怖い想いをしたりした経験があるから、木を見て「登り方」を想像することが出来るようになるのです。そういう体験のない子は「非現実的な登り方」を空想することしか出来ないのです。でも、そういう子に限って、実際に登っている子を見て「下手だな、僕だったらもっと上手に登れるのに」などと言います。それで「じゃあ、登ってみて」と言うのですが、でも、実際には登ろうとしません。登ろうとする子もいますが、すぐに「こんなはずじゃあ・・・」という反応をします。そしてやめてしまいます。ゲームの中でやっている釣りが得意だから、現実の釣りも上手なはずだと思い込んでしまう子もいます。そういう子に限って、実際にやらせると「こんなはずじゃ」という反応をします。最近は、この「こんなはずじゃ」で、頑張って入学した大学や、頑張って就職した会社をすぐにやめてしまう若者も多いそうです。リアルな子どもを前にして、「子育て」に挫折する人も多いです。その自分の想像力の原点となるような体験をするのが7才までの幼児期なんです。「7才までにどういう体験をしたのか」ということが、その子の想像力の原点になっていくのです。ゲームは子どもたちから、その想像力の原点となるべきリアルな体験を奪ってしまうのですが、リアルな体験を奪われた子は、今度はゲームの中の体験を通して、現実の世界を想像するようになります。でも、その世界には「リアル」がありません。それでも子ども時代はなんとかなります。でも、大人になり、社会に出て、現実の世界の中で生きなければならなくなった時、「こんなはずでは」という「現実の壁」に突き当たってしまうのです。でも、リアルな体験の乏しい子はそこで途方に暮れてしまうのです。だからといって、単にゲームを取り上げればいいということではありません。本当は、ゲームがなくても自由に楽しく遊べるようになるのが理想なんですが、もうすでにゲームでの遊びにはまってしまっている子の場合は、ゲームとの関わり方を大人が教える必要があるのです。それも7才までに教えた方がいいです。7才までの子はまだ親の言葉に耳を傾けてくれるからです。ゲームに子育てを依存してしまっているとそれが出来なくなってしまうのです。テレビやスマホやyoutubeも同じです。
2023.10.24
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人間であろうと、地球であろうと、足下の小石や野の花であろうと、全てのものに「歴史」があります。突然そこに生まれ、突然その状態になったわけではありません。あなたの「怒り」や「悲しみ」や「喜び」にも「歴史」があります。その歴史の流れの中で人は怒り、悲しみ喜ぶのです。皆さんの「からだ」も、長い歴史の中で生まれてきたものです。血の中の鉄は、地球が生まれる以前に起きた星の爆発の結果生まれたものです。あなたの考え方、感じ方の癖は、あなたの生命がたどってきた歴史の中で生まれたものです。みなさんが子育てをしているときに感じる子どもに対する怒りの中には、皆さんの子どもの頃からの歴史が隠されています。今、世界のあちこちで戦争が起きていますが、この戦争にも長い歴史があります。いきなり戦争が始まったわけではありません。そして、流れの結果、戦争をしざるおえない状況になると、人々は自分がやっていることを正当化(物語化)し始めます。そして、積極的に戦争をし始めます。イジメや虐待をやっている当事者も、一度それをせざるを得ない状況に追い込まれると、自分がやっていることを正当化(物語化)し始めます。すると、ドンドン、エスカレートして行きます。あなたが怒るようなことでも、あなたとは違う歴史を生きてきた人にとっては怒るほどのことではないかも知れません。「物質の世界」も、「自然の世界」も、「人の心の世界」も全て、長い長い歴史の結果、今の状態になっています。その「歴史」を言葉で読み解くと「物語」が生まれます。ですから、この世界は「物語」で出来ているといってもいいかも知れません。あなたの足下に転がっている小石でさえも、長い長い「物語」の結果、あなたの足下にたどり着いたのです。その「実際」は知ることが出来ません。でも、想像することは出来ます。そして、想像することで、世界も、自分も、足下の小石も、目の前の子どもも、「生命」を得ることが出来るのです。「小石」には生物学的な「生命」はありませんが、「物語」(想像された世界)の中では「生命」を得ることが出来るのです。人の想像力には「生命を与える働き」があるからです。だから、「石」や「山」や「太陽」が神様になったりするのです。「希望」もその想像力によって生まれます。逆に、想像力を働かせない時には「実際に生命あるもの」でさえも「生命」を失います。そのような時には、「人間」でさえ「生命あるもの」ではなく、「動く肉」にしか見えなくなることがあります。そのような感覚の状態になっている人は、人を殺すことに罪悪感を感じることもありません。皆さんがお肉屋さんで買って来たお肉を包丁で切っても罪悪感は感じないですよね。それと同じです。私たちは、「人を殺してバラバラにした事件」の話など聞くと、「罪悪感は感じないのか」、「どうしてそんなひどいことが出来るのか」などと思いますが、想像力を働かせなければ、そのような感覚は生まれないのです。その一方、「お肉屋さんのお肉」にすら、「生きている時の牛や豚の生命」を想像する人達もいます。そのような人にとっては、お肉は「物」ではなく、人が命を奪った「死骸」であり「死体」です。そして、普通に肉を食べている人達を「残酷な行為をする人達」と感じているかも知れません。更にまたその一方、「牛や豚の生命を私たちが受け継ぐんだ」と考える(想像する)人達もいます。そのような人にとっては「お肉」は「牛や豚の命を伝えるもの」であって、単なる「物」でありません。死んでいるのに「生命を持つもの」なのです。このように、人間においては「想像する働き」が世界を創っているのです。そして人は「自分が想像した世界」を生きているのです。「想像する能力」を育てる事は、「世界を創り出す能力」を育てる事になるのです。子ども達は、言葉と出会い、物語と出会い、仲間と出会い、自然と出会う事でその能力を育てています。でも、大人達は子ども達に「言葉」を伝えていません。「物語」を与えていません。「仲間」や「自然」と出会う機会も与えていません。そして、つながりから切り離された「物の世界」に閉じ込めようとしています。ちなみに、想像力が欠如した子は群れて遊ぶことが出来ません。工夫することも、失敗から学ぶことも出来ません。そして自分のことばかり考えています。***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.23
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最後にワークの告知が書いてあります。昨日は、見ただけでは「リアル」と「非リアル」の区別がつきにくくなってしまった時代、「リアル」と「非リアル」の溝を埋めるのは「想像力」だけなんです。でも、今の時代、その想像力が欠如している大人があまりにも多すぎるのです。子どもの想像力を潰すような活動はいっぱいありますが、子どもの想像力を育てるような活動はあまり見かけません。と書きましたが、これは、子ども達と話をしていても、お母さん達と話をしていても強く感じることです。お母さん達は子どもの成績を気にします。成績だけを気にします。良ければ喜び、子どもを褒めます。悪ければ悲しんだり怒ったりして、子どもを叱ったり、追い立てたりします。でも、その成績が何を調べているのか、何を意味しているのかということについては考えません。成績は子どもに関するデータの一つですが、「何を調べた結果のデータなのか」「それはどういうことを意味しているのか」ということを考えることなく、先生によるデータ評価の結果だけを見て子どもを褒めたり、追い立てたりしているのです。ここにも「想像力の欠如」があります。自分で調べ、自分で考え、自分で想像することなく、テレビや、政治家や、医者や、学校や、先生や、身近な人の言うことをそのまま信じてしまう人も、「想像力が弱い人」、「自分の頭で考えない人」です。コロナ騒動下で露呈したようにそういう人の方が扱いやすいですから、子どもや大衆を思い通りに管理したい人たちは、子どもの想像力や思考力を育てるような教育には力を入れません。戦争中の教育でも、子ども達は自分の頭で考えることを否定されていました。そして、その流れは戦後も続いて来ました。なぜなら、戦争中に自分の頭で考えることを否定するような教育を受けた人たちが、「追いつけ、追い越せ、消費は美徳だ」というスローガンの基に、ロボットのように頑張って日本の社会を再生してきたからです。そのため、戦争が終わった後でも価値観や思考の多様性が生まれなかったのです。今の日本にあるのは「バラバラ」であって「多様性」ではありません。その違いは、「バラバラ」はぶつかり合いますが、「多様性」は支え合い、共存することができます。(「みんな違う」というだけでは「多様性」ではないのです。これは子どもの群れでも同じです。)教育現場では「正解」を固定しています。答えは合っていても、「先生が教えた解き方」で解かないと×にされてしまいます。感想文も、本当に自分が感じたことをそのまま素直に書くと指導されてしまいます。学会でもまだ確定されていないようなことでも、学校では確定された事として教えています。皆さんは「1192(いい国)つくろう 鎌倉幕府」と覚えたかも知れませんが、皆さんが覚えた正解は、今では正解ではないですからね。ちなみに宮沢賢治は生徒に質問されたとき、最先端の研究を紹介しながら「こういう意見もありますが、こういう意見もあります」と色々な意見を子ども達に伝え、正解を固定しなかったそうです。こういう教育を受けた子ども達は自分の頭で考えるようになるでしょうね。以下は、谷川俊太郎が描いた絵本です。「考えるとはどういうことなのか」、「想像するとはどういうことなのか」ということの一つの形がこの中に描かれています。えをかく 新版 (講談社の創作絵本) [ 谷川 俊太郎 ]***********************最後に、ワークの告知です。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>
2023.10.22
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昔は、たとえ子どもに嫌われても、「これはまだ子どもには早い」とか、「これは子どもに与えない方がいい」などという「大人の判断」をする大人がもっといたような気がするのです。でも最近は、そういう判断をする親も大人も減ってきたような気がします。最近の大人たちは、「子どもの成長」、「心の成長」、「人間としての成長」という視点から、「子どもに与えてもいいもの」、「与えるべきもの」、「与えてはいけないもの」を判断しなくなりました。というか、「判断基準」そのものが消えてしまいました。むしろ、子どもの欲求をお金儲けにつなげようとする大人や、子どもが望むものを子どもに与えて子どもに好かれようとする大人の方が増えてきたような気がするのです。そこで求められているのは「安全性」だけです。ただし、「身体的安全性」だけです。「心への安全性」は無視されています。それを買い与える親たちも「身体的安全性」は気にしても「心への安全性」は、ほとんど気にしません。からだに害があると大騒ぎしますが、心に害があっても気にしません。そもそも気付きません。そういう視点を失ってしまっているからです。子どもたちの話を聞いていると、ホラー映画を見ている子が結構いるようです。血が飛び散るようなスプラッター映画を見ている子も多いようです。聞くと、お父さんと一緒に見ている子が多いです。そしてお父さんはそれを止めません。しばらく前に話題になった「鬼滅の刃」でも、リアル映画化したら見るに耐えないようなホラーシーンの連続ですよね。「話題の映画だったら見たけど、途中まで見て気持ち悪くなったのでやめた」と言っていたお母さんがいましたが、私はその反応の方が正常だと思います。(ちなみに、私はあの映画は見ていませんが、「鬼滅の刃」が話題になり始めたころに、興味があったのでネット動画で基礎知識を得る程度には見ています。)「リアルじゃないんだからいいじゃないですか」と言う人も多いと思いますが、今の時代「リアル」と「非リアル」の間の境界は曖昧です。実際、軍隊には、ゲーム感覚で実際に人を殺すシステムだって存在しているのですから。兵隊が罪悪感を感じたりPTSDに苦しむことがないように、意図的に人を殺すリアル感を消しているのです。見ただけでは「リアル」と「非リアル」の区別がつきにくくなってしまった時代、「リアル」と「非リアル」の溝を埋めるのは「想像力」だけなんです。でも、今の時代、その想像力が欠如している大人があまりにも多すぎるのです。また、想像力を育てるような教育も存在していません。子どもの想像力を潰すような活動はいっぱいありますが、子どもの想像力を育てるような活動はあまり見かけません。「鬼滅の刃」が大好きな人は、「家族愛を謳った素晴らしい映画だ」と言いますが、どれだけ作品の質が高くても、「それを子どもにも見せていいものなのかどうか」ということは別の問題のはずなんです。「家族愛がテーマだからOK」、「子どもが主人公なんだから子どもが見てもOK」ということなのでしょうか。それだけで、その是非を判断しているのでしょうか。家族はバラバラ、夫婦の会話もない、日常的に子どもを叱り、追い立て、子どもの言葉に耳を傾けない子育てをしているような人から「家族愛が素晴らしいのよね」という感想を聞くと、何と答えていいのか困ります。
2023.10.21
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(昨日の続きを書こうと思っていたのですが、強く気になることがあったので、違う内容になってしまいました)日々、色々なお母さんたちと話をしていて強く感じることがあります。それは、最近のお母さんたちの子育てには「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」と、「大人の都合や欲求を子どもに押し付ける子育て」の二種類しかないのではないかということです。親と子の間に「支配するか」「支配されるか」の一方通行の関係しかないようなのです。どうやら、「人間として対等な関係」、「支え合う関係」、「つながりあう関係」、「伝承する関係」が親と子の間から消えてしまったようなのです。このような変化が起きたのは「親と子の間」だけではありません。社会全体において大人と子どもの間の人間関係がこの二種類だけになってしまったような気がするのです。企業は、そんな「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」をしているお母さんに向けて、子どもの要求をかきたてる様々な商品を開発したり、子どもが行きたくなるような場所を作ったりしています。お母さんたちも、頑張って子どもの要求に合わせているお母さんを「良いお母さん」だと思い込んでいます。子どもも、いつも「自分の欲求をかなえてくれるお母さん」のことが大好きです。そして、幼いころから自分の欲求を満たすような遊びしかしてこなかった子は、「自分の成長を支えてくれるお母さん」よりも「自分の欲求を満たしてくれるお母さん」の方が好きになるのでしょう。そのため、お母さんたちは子どもに嫌われないように、一生懸命に子どもの期待に応えようと頑張っています。でも、いくら子どもの期待に応えても、子どもがちゃんと成長していくわけではありません。大人が道を指し示さなければ、子どもは自分の成長の方向性を見失い、進むべき道が見えなくなり、不安になり、どんどん迷路にはまって苦しくなっていきます。その結果、自分と他の人と比較する事でしか自分の価値を感じることが出来なくなってしまっています。それは例えば、子どもを全く知らない土地に連れて行って「自由に好きなところに行っていいよ、何をしてもいいよ」と放り出すようなものです。これは大人でも同じですが、知らない場所で放り出されたら、まず自分の安全を確保しようとします。そして、目に見える範囲で面白そうな所に行き、目に見える範囲にいる人と同じように行動しようとするでしょう。とにかく「見える範囲」のことしか分からないのですから。目に見える世界の向こう側にどんなに素晴らしい世界が広がっていても、そこに行こうとはしないでしょう。それを教えてくれる人がいないのですから。それを伝え、そこに導いてあげるのが「子どもの成長を支える」ということだし、「大人の役割」なのではないかと思うのですが、自分もまた、「その向こうの素晴らしい世界」を知らないまま育ってしまった人にはその導きが出来ないのです。そして、自分自身もまた「自分の可能性」に蓋をして「目に見える身近な世界」の中だけで生きています。でも、「自分自身の可能性」を大切にしようとしていない大人に、「子どもの可能性」を育てることが出来るわけがないのです。最初に、最近の子育てには、「子どもの都合や欲求に合わせる子育て」と、「大人の都合や欲求を子どもに押し付ける子育て」の二種類があると書きましたが、でも、この二つは基本的には同質なので簡単に入れ替わります。子どもが幼くて、簡単にその要求に合わせることが出来るうちは子どもに合わせることでよいお母さんを演じようとします。でも、子どもが成長して活動範囲が広がり、自分自身の欲求や意志が強くなり、そう簡単にその要求に合わせることが難しくなってくると、今度は一転して、子どもに自分に合わせるように求め始めるのです。子どもに対して、「お母さんの要求に応えるように」、「お母さんの生活リズムを壊さないように」求めるのです。そのようなお母さんは子どもの言葉に耳を傾けません。子どもの気持ちを無視します。自分に都合が悪いことは全部無視します。何かあったらその責任を全て子どもに押しつけます。そして「あんたのせいで」と叫びます。先日もスーパーでそういう状態の親子を見かけたので、ちょっと吐き出したくなって書かせて頂きました。
2023.10.20
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最初に、ワークの告知をさせて下さい。会場はいずれも茅ヶ崎です。11月26日(日) 10:00~15:00 「劇遊び」 3000円/日劇の内容は未定ですが、宮沢賢治の童話で遊ぶと思います。ただしこの日は、私に劇遊びを教えてくれた、賢治研究家で、元小学校の先生だった泉山先生と一緒にやります。先生の体調が悪いときには私が一人でやります。12月10日(日) 10:00~15:00 「自分を知るワークショップ」 4000円/日一番身近でありながら、身近すぎてよく分かっていない「自分」について知るためのワークショップです。いずれのワークもお問い合わせ、お申し込みは以下までお願いします。<篠>***************子どもにとって「遊び」は「呼吸」のようなものです。ただし、呼吸を止めたら死にますが、遊びを止めても子どもが死ぬことはありません。だから大人達はそんなに深く考えることなく、子どもの遊びを止めてしまうのでしょう。でも、死にはしなくても、子どもから遊びを奪ったら子どもの「成長」は止まります。「肉体の成長」ではなく「心の成長」が止まるのです。それは、「人間らしさの成長」、「魂の成長」といったようなものです。でも現代人は、「知能の成長」には興味があっても、「心の成長」にはあまり興味がありません。また、それがどういうものなのか深く考えようともしません。子どもは本能的に「心の成長」が止まる危険性を感じているので、大人の目を盗んで必死になって遊ぼうとします。大部分のお母さんは、そんな子どもの姿にあきれ、諦めて、ある程度の遊びは許容していますが、堂々と遊ぶことが出来る時間も、場も、一緒に遊ぶ仲間も与えてもらえません。現代の子ども達は「子どもの正当な権利」としては遊ばせてはもらえないのです。そんな「大人の目を盗んでやる遊び」はどうしても歪んでしまいます。「イジメ」という形で遊ぼうとする子もいます。自分の世界に閉じこもって一人だけで遊ぼうとする子もいます。また、一人だけで出来る遊びが中心となってしまうため、子どもの世界が広がりません。それは、「好奇心の欠如」、「他者への無関心」、「成長欲求の低下」という形で表れています。最近の子ども達と話しているとそいういうことを強く感じるのです。<明日に続きます>
2023.10.19
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科学には「再現性」が求められます。同じようにやったら同じ結果にならなければ「科学」としては認められないのです。その対極にあるのが「芸術」です。絵を描くことや踊りを踊ることそのものが「芸術」ではありません。もう二度と再現できない「一期一会」の世界で色々体験し、学び、それを楽しむのが「芸術」なんです。再現不能なものに真剣に取り組むからこそ価値があるのです。ですから、AIロボットが絵を描いたり、踊りを踊ったりしてもそれは芸術ではないのです。また、マニュアルに従って描いたり、踊ったりしてもそれは芸術ではありません。幼稚園の子に絵を描かせるとき、絵の描き方をマニュアル化して描かせている幼稚園もあるようですが、それは「作業体験」であって「芸術体験」ではありません。またそれは「人生」そのものでもあります。「人生」は「芸術」なんです。それなのに多くの人が人目ばかりを気にして、人と競争ばかりして、自分の「芸術としての人生」を台無しにしています。まあそれも「人生」なんですが、死ぬ前になって「私の人生空っぽだった」と気付いてもやり直しが出来ないのです。自分の人生を自分のものとして大切に生きるためには、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の意志で判断し行動する必要があるのです。とにかく「あなたの人生」は「あなたのもの」なんですから。自分の人生には自分で責任を取るしかないのです。そして、「子どもたちの遊び」もまた芸術です。子どもたちは「一期一会」の世界で遊んでいるのです。よく「子どもとの遊び方を教えてください」という人がいますが、子どもとの遊びで一番大切なのは「一期一会」を共有し、一緒に楽しむことなんです。「方法」ではないのです。方法論には再現性があります。そして、方法を学んだ人はその方法を繰り返すことで遊ぼうとします。でも、そのような遊びには「形」はあっても「命」がありません。また、方法にこだわる人は「遊び」を「生き物」として扱うことが出来ません。そのため、最初はいいのですがすぐ飽きます。子どもの遊びは「生き物」なんです。ですから、常に変化しています。それは遊びを通して子どもが成長している証でもあるのです。遊びを方法論で考えてしまうと、その「子どもの成長」に対応できなくなってしまうのです。「子どもの遊び」に付き合う場合も同じです。子どもと「一期一会」を共有し、今しかできないことや、今という瞬間を一緒に楽しめばいいのです。すると子どもは、大人であっても「仲間」として受け入れてくれるのです。でも、人目を気にしながら生きている人にはそれが難しいみたいです。
2023.10.18
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昨日は、古代の遺跡の中に芸術的な活動の痕跡を見つけると、そこに人間らしさを認めることができます。人間以外の生き物でも必要に応じて道具を作ったりはしますが、生活に必要がない芸術的な活動を楽しむのは人間だけなんです。それだけ「人間らしさ」と「芸術的な活動」の間には深いつながりがあるのです。と書きましたが、今日はこの「芸術」について考えてみます。国語辞典には、「芸術」(gooのネット辞書から)(1)特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、およびその作品。建築・彫刻などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・舞踊・映画などの総合芸術に分けられる。(2)芸・技芸。わざ。「凡(およそ)―は、…切差琢磨の功を積まざれば、その極に至りがたし/読本・弓張月(前)」英和辞典では「Art」芸術, 美術; 技術, 技能; ((集合的)) 芸術作品; (pl.) 学芸 (liberal arts), 人文科学; 人工; 技巧, 熟練; (時にpl.) 術策; 〔古〕 学問.と書いてありました。この両者を比べてみると、日本人が感覚として持っている「芸術」と、英語の「Art」は同じではないことに気付きます。日本人が「芸術」という言葉を使うと、なにか「高尚」な感じがします。それは「芸術」という概念が、明治の頃に欧米の美術品や、美しさを見せる芸術的な活動と共に入ってきたからなのでしょう。でも、英語のArtの方はもっと生活に即したもののようです。英語では、料理人や大工まで熟練するとArtになるのですから。どうも日本人は“美”にこだわる民族のようです。そして、私の印象では一般的に“美”という言葉は、“俗”という言葉とは対立したイメージを持っているようです。日本人は、“美”に“聖”なるものの匂いを感じるのかも知れません。武士道、茶道といった“道”のつくものも一つの“美学”によって支えられています。そこで語られる美学は“俗”と対立した論理、概念で語られています。そのような日本人にとって芸術は特別なものなんです。そして、実際多くの人が芸術は美術館や劇場にしかないと思いこんでいます。でも、欧米におけるアートは必ずしも“美”を目的としたものではありません。日常生活における自己表現も、歩き方も、話し方も“技術”と言う視点で見れば全てアートなのです。つまり、日本人が考えるような“芸術”は、欧米人から見たら“美を目的としたアート”と表現するしかない、狭い領域のことなのです。(つまり、欧米には美を目的としないアートもあるということです。)この違いは受動的に生きてきた日本人と、能動的に生きようとしてきた欧米人の感覚の違いかも知れません。日本人は芸術を“感覚に響くもの”として捉え、欧米人は“行動によって表現するもの”として捉えているのだろうと思います。もしかしたら欧米人は、“行動すること”、“表現すること”の中にこそ、“美”を感じているのかも知れません。そして、私が“芸術”という言葉を使う時には実はこの英語の“Art”に近い意味で使っています。多分、シュタイナー教育の中で“芸術”と訳されている言葉も、本来の意味はこの“Art”に近いものだろうと思います。つまり、私から見たらけん玉も、コマ回しも、竹馬も、お絵描きも、ダンスもみんな“芸術”(アート)なんです。普通は、子どもの歌や絵は“芸術”としては扱われていませんが、私から見たらそれらも立派な“芸術”です。私は、子どもの生命活動から生まれたもの、また子どもの生命活動と共鳴するものを“芸術”と言う言葉で表しています。そして、それは大人の芸術とは異なります。なぜなら、大人の芸術は自由意志の現れですが、子どもの芸術は生命活動の現れだからです。でも、その子どもの芸術の中には大人の芸術の全てが含まれています。絵画も、歌も、踊りも、文学も、演劇も、技術も、学問も、「Art」のところに書いてあった全ての要素が、子どもの芸術の中には入っているのです。大人の芸術と子どもの芸術は異なりますが、大人の芸術は子どもの芸術の延長にしか存在できないのです。大人は幼い時に直感で得たものを意識を使って再現しているだけなのです。それが大人の芸術なんです。人々がまだ自然の中で素朴な生活をしていた頃には、大人の芸術も子どもの芸術と似たようなものでした。でも、、文明や文化の進歩とともに、大人の概念世界が複雑になり、それにともなって大人の芸術が芸術本来の生命活動からどんどん離れ、知的で難しくなってきてしまったのです。だから、大人たちは子どもの芸術を幼稚なものとしてしか理解できなくなってしまっているのです。でも、私は原点に立ち返って、子どものそのような活動をあえて“芸術”と呼んでいます。大人たちは意識によって芸術を作りますが、子どもたちは生命活動によって芸術として生きているのです。ですから、子どもたちを芸術として関わろうとする時、子どもたちは生き生きとしてきます。子どもたちが幼い時に、意識的にそのような子どもの芸術的な活動を支援することは、子どもの生命活動を支えるだけでなく、子どもが大人になった時の可能性を大きく広げることにもつながるのです。子どもが大人になった時に花を開かせるための種は、すべてこの時期の芸術的な活動の中で生まれるのですから。
2023.10.17
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人類は、不便、危険であることを嫌い、どのようにしたら不便や危険を解消出来るのかということを色々と考え、研究してきました。その結果、世の中はどんどん便利で安全になりました。今では、お料理の作り方など知らなくても、包丁など使えなくても、美味しいお料理を食べることが出来ます。歩くのが苦手でも、乗り物を使えば歩くよりずっと早く移動することが出来ます。昔は鉛筆はナイフで削りましたが、今では電動鉛筆削機の穴に差し込むだけでアッという間にきれいに削れます。自分で考えなくても、本やインターネットなどで調べればすぐに答えが得られます。また、外灯で夜は明るくなり、道は平になり、突然襲ってくる獣はいなくなりました。(今では人間が一番危険です)“食べ物が腐っているかどうか”、“これは食べられるかどうか”などということを自分で判断しなくても済むようになりました。子どもが木登りしていて木から落ちてケガをしたら、昔は“木から落ちか子が下手だった”で済まされましたが、今ではその木の管理者が責任を求められ、下手をすると木が切られてしまいます。道の段差にけつまずいて転がれば、昔は“気を付けなさい”で終わりでしたが、今では道の管理者が文句を言われます。便利が増え、危険が少なくなればそれにともなって、人間の機能は低下します。人間の機能はそのように出来ているからです。お年を召して機能が低下した人や、障害を抱えている人にとってはそれは意味のある大切なことだとは思いますが、今その機能を育てなければならない年齢の子どもたちにとってはそれはあきらかに子どもの成長を妨げる邪魔者なんです。それでも、昔のように大人の社会と子どもの社会が分離していた時代には大人の社会が便利になっても、子どもたちは外で走り回っていました。でも、今、子どもたちは大人と同じ空間で生活しています。同じ物を使い、同じ環境で生活しているのです。ですから、当然子どもたちもその“便利”と“安全”を享受しています。但し、“自分の成長”と引き替えにです。昔の子どもは平気で何時間も歩き、遊び回りました。でも、今の子どもはそんなには歩きません。移動する時には自転車を使います。何時間も子どもを歩かせるイベントもあり、何時間も歩き通す子どもも確かにいますが、でも、イベントとして歩くのと生活の中で歩くのでは心とからだに対する影響の与え方が根本的に異なります。現代人は不便や苦労を楽しみません。昔は、“若い時の苦労は買ってでもしろ”と言いましたが、今の若者にはその意味は理解出来ないでしょう。苦労したら、苦労した分のお金をもらわないことには割が合わないと思っています。でも、こんなに便利になった世の中にもまだ何百年も前と同じように“不便を楽しむ”活動もあるのです。それが、手仕事や芸術の分野なんです。それらの分野ではむしろ“便利・簡単”は嫌われます。不便だからこそ楽しいのです。そして、自分の心とからだと知性と魂の全てを注ぎ込む必要があります。つまり、丸ごとの自分を投入しないことには芸術的な活動は出来ないのです。でも、簡単便利を求める現代人は芸術的な活動を楽しむことも放棄し始めています。活動自体を楽しむことよりも、上手を求めるようになったからです。AIを使えば簡単にプロが描いているような絵を作ることが出来ます。そのうち絵描きは絵筆を持つのではなく、キーボードを叩くようになるでしょう。でも、人間が芸術的な活動を楽しむことが出来なくなったら、その時点で人間から「人間らしさ」は失われてしまうのです。古代の遺跡の中に芸術的な活動の痕跡を見つけると、そこに人間らしさを認めることができます。人間以外の生き物でも必要に応じて道具を作ったりはしますが、生活に必要がない芸術的な活動を楽しむのは人間だけなんです。それだけ「人間らしさ」と「芸術的な活動」の間には深いつながりがあるのです。
2023.10.16
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子どもの育ちに一番大きな影響を与えているのは、「お母さんの生き方」です。どういうしつけをして、どういう教育をして、何をやってあげて何をやってあげなかったかではありません。「お母さんの生き方」は「お母さんの価値観」によって導かれます。そしてその価値観に従って子どもをしつけ、子どもと関わり、子どもと会話し、子どもと遊び、子どもにオモチャを与え、子どもに色々な学びや体験を与えようとしています。「どういうおやつを与えるのか」という事まで、お母さんの価値観が影響しています。その時、お母さんの生き方や価値観がしっかりとしているのなら、そのような「子どもの育ちに関わる全てのこと」に一貫性が生まれます。一貫性があるので子どもの心やからだの中にお母さんの価値観が定着していきます。子どもも安心します。そして、自分の考え方や生き方を育てる事が出来るでしょう。先日、「兄弟げんかを止めさせるにはどうしたらいいのでしょうか?」などと聞いてきた人がいましたが、その時私は「では、お母さんはどういう解決法を求めているのですか?」「兄弟の関係がどのようになって欲しいと思っているのですか?」と聞きました。ケンカを止めさせるだけなら、二人を引き離したり、大きな声で叱れば止めるでしょう。でも、それを繰り返していると兄弟の仲が悪くなります。ケンカから痛みや悲しみを学ぶことも、仲直りの仕方も分からなくなります。そして、お母さんとの関係も悪くなります。そして、仲良く遊ぶのではなく、お互いに関わらないで別々に遊ぶようになるでしょう。「そういうことを望んでいるのですか?」ということです。また、自分の生き方や価値観がしっかりとしていない人は、社会の流れや、周囲のお母さんの考え方ややり方に振り回されます。「優しい子に育って欲しい」と願っている人は多いですが、願うだけで結果が得られるのならそんな楽なことはありません。そんな時は、お母さん自身が困っている人を助けたり、子どもに苦しんでいる人のことを伝えたり、絵本やお話しをいっぱい聞かせて「人の心」に対する感受性を育ててあげるしかないのです。「なんでもっと優しく出来ないの!!」と怒鳴っているお母さんがいますが、子どもに優しさを求めるのなら、それを自分自身の生き方の中で子どもに見せていくしかないのです。お母さんや大人が、「言っていること」と「やっていること」が違うと子どもは混乱するのです。そして、楽や自分を守ることばかりを考えるようになるでしょう。テレビやゲームに関しても、単に「みんながやっているから」とか「自分が楽だから」ではなく、お母さん自身の生き方や考えの基に与えるのならそんなに心配しなくて大丈夫なんです。時々、幼稚園時代はテレビもゲームもスナック菓子も与えず、「子どもは遊ぶのが一番」という子育てをしていたのに、小学校に入って他の子は字が書けて、算数が分かって、英語が話せたりすると急に焦ってしまい、突然、それまでとは180度違う子育てを始めてしまうお母さんがいます。子どもは混乱するでしょうね。また、「幼児期には勉強を教えない」という思想を持ったシュタイナー幼稚園に通わせているのに、幼稚園から帰ってきたら塾に通わせているお母さんもいます。心配なのでしょうね。でも、そういう一貫性のない子育てを受けた子は、自分の価値観や考え方を育てることが出来なくなるでしょうね。それは、子どもが思春期を迎えることに問題になってきます。また、自分の生き方や価値観がしっかりとしていないお母さんは、周囲の声に振り回されてしまいすぐに「子育ての迷路」に入ってしまいます。そして苦しくなります。そしてそういうお母さんを見て育っている子も、自分の人生の道筋を描くことが出来なくなります。子育てで一番大切なのは、どういうしつけをして、どういう教育をして、何をやってあげて何をやってあげなかったかではなく、お母さん自身が自分の人生を自分の価値観に従ってちゃんと生きているかどうかなんです。
2023.10.15
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