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禅宗に、「随所作主」(臨済録)という言葉があります。この言葉の意味については「今日の禅語」に以下のように説明されています。この語は臨済宗の開祖である臨済義玄禅師が修行者に対して諭された言葉で「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」の一句である。いつどこにあっても、如何なる場合でも何ものにも束縛されず、主体性をもって真実の自己として行動し、力の限り生きていくならば、何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、真実を把握出来、いかなる外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことは無い。そのとき、その場になりきって余念なければ、そのまま真実の妙境涯であり自在の働きが出来るというものである。簡単に言ってしまえば、「自分が自分のリーダーになりなさい」ということです。「従業員」や「家来」と呼ばれる人たちは、自分を雇っているご主人様の言葉や価値観に従って行動します。そこに主従関係がなくても、人目を気にしながら生きている人は、「人目」が「ご主人様」になっています。この場合の「ご主人様」は、「自分に対する自分の責任を放棄するための道具(逃げ道)」に過ぎません。ご主人様に従っていて失敗したとしても「人のせい」に出来るのですから。「子育て書」通りに子育てをして失敗しても、その失敗の原因を「子育て書」のせいに出来るのです。でもその結果は、自分と子ども自身が負うしかないのですけど・・・。常識に縛られている人は、「常識」が「ご主人様」になっています。子どもに振り回されている人は、「子ども」が「ご主人様」になっています。「パートナー」が「ご主人様」になっている人も、何らかの「宗教」や「主義」が「ご主人様」になっている人もいます。そのような「ご主人様」を持っている人は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で判断し行動する必要がありません。そのような責任を放棄することで、失敗した時に人から非難されることを避けようとしているのです。ですから、その「ご主人様」のことも大切には考えていません。「従う」ということと「大切にする」ということは次元が異なることだからです。大切にしているからこそ「NO(ノー)」と言うこともあるのです。子どもがオモチャやお菓子を欲しがったとき、「子どもがうるさいから」という理由で買ってあげてしまう人は、子どもを「ご主人様」にしている人です。幼稚園を選ぶときも、子どもに選ばせているお母さんが多いですが、そのようなお母さんも子どもを「ご主人様」にしています。でも、そのような人は「子どもを大切にしている」とは言いがたいでしょう。子どもを「ご主人様」に仕立てておくと楽だから、子どもの言うことの従っているに過ぎません。また、実際に入ってみたらその幼稚園が合わなくても、その責任をその幼稚園を選んだ子どものせいにすることも出来ます。「ご主人様」に従って生きている人は、自分の都合が悪くなると平気で「人のせい」にするのです。でも、「ご主人様」に従っただけの行為であっても、その行為の結果は「ご主人様」ではなく実行犯である「自分」に返って来てしまうのです。周囲の目を気にして子どもを苦しめても、苦しい子育てをしても、周囲の人はその結果を引き受けてはくれないのです。そのことだけはしっかりと覚えておいた方がいいです。
2024.04.24
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日本人は周囲を見て、周囲に合わせ、波風を立てずに和を大切にしながら行動するのが好きです。「それが日本人の美徳だ」と考えている人も多いです。その場合、あくまでも判断や行動の基準は「周囲」です。少なくとも「自分」ではありません。そして、これが出来ないと「自分勝手なやつ」とか「空気を読まないやつ」などと言われて、周囲から否定的に評価されてしまいます。そのため、日本の社会では「しっかりとした思想や、哲学や、方針や、ビジョンを育てるような子育てや教育は求められていません。また実際、家庭でも学校でもそういう能力を育てるような子育てや教育をしていません。日本の社会では、全体を統括するようなリーダーがいなくても、それぞれが現場の状況に合わせて対応していればなんとかなってしまうのです。また、強力なリーダーがいない方がなんとなくうまく行くのも日本の社会の特徴でもあります。そして、日本人はこの「なんとなく」という空気感が好きなようです。そのため、役所も学校も、現場の職員や先生がちゃんとしていれば、市長や校長がリーダーとしてちゃんとしていなくてもなんとかなっちゃうのです。それが日本のいいところであると同時に困ったところでもあります。昨今の政治の状況を見ていてもリーダーが誰なのか分かりません。国会で答弁に立っている議員を見ても、役人が書いた答弁書を読み上げているだけです。太平洋戦争の時も、その場の流れで明確なリーダー(責任者)がいないまま戦争が始まりました。でもそのため、一度戦争が始まってしまうとそれを止めることが出来る人がいませんでした。そして、流れでズルズルと戦争をし続け、被害がどんどん拡大してしまったのですが、それでも戦争を止めることが出来ませんでした。そういう権限を持ったリーダーが存在していなかったからです。結果、見るに見かねた一部の人たちがクーデター的に終戦に向けて動いたのです。明治維新の時と似ています。リーダーの明確な決断によって戦争が終わったのではないのです。日本の社会を動かしているのは「リーダー」ではなく「庶民の間に広がる空気や気分」なんです。そしてその空気や気分を作り出しているのがマスコミです。これは戦争中も同じでした。そのマスコミを動かしているのが「お金や権力が大好きな人たち」です。少なくとも子どもの幸せや成長を優先的に考えるような人たちではありません。ゲームを作っている人たちも同じです。だから子どもの幸せや成長を守ろうとするのなら、周囲の空気や気分に流されずに、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する必要があるのです。一人一人が自分の生活において、自分の人生において、自分の子育てにおいてリーダーになる必要があるのです。周囲の空気や気分に流されて子育てや教育をしていたら、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力が育たなくなり、子どもが自分の人生を「自分のもの」として生きることが出来なくなってしまうのです。昔はみんなで支え合って生きていたのでそれでも大丈夫だったのですが、これからの時代はその能力が育っていないと困ったことになってしまうのです。問題は、子育てや教育に関わる大人自身が、そのような能力を育てるような子育てや教育を受けていないと言うことです。だから周囲の空気や気分に流されてしまうのです。ちなみに、私が考える「リーダー」とは「指示や命令を出す人」でも「一番権力を持っている人」でもありません。私が考えるリーダーとは「みんなをやる気にすることが出来る人」です。
2024.04.23
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「楽しく生きよう」などと書くと、「楽(らく)をしよう」とか「楽しいことだけをして生きよう」ということだと思われるかも知れませんが、私が言いたいことはそういうことではありません。人には、同じ作業をしてもそれを「苦痛」だと感じる人と、「楽しい」と感じる人がいます。お料理が好きな人がいます。でも、お料理が嫌いな人もいます。私には信じられませんが、お掃除や片付けが好きな人もいます。そして当然、お掃除が嫌いな人もいます。からだを動かすのが好きな人もいます。でも、嫌いな人もいます。勉強が好きな人もいます。嫌いな人もいます。人と会うのが好きな人もいます。でも、人と会うのが嫌いな人もいます。そしてそれはどんなことにおいてもありえることです。さて、この違いはどこから出てくるのでしょうか。あなたが嫌いなことを思い浮かべてください。お掃除でも、お料理でも、お勉強でも、何でも構いません。否定的な側面しか思い浮かばないですよね。でも、お掃除が好きな人に「なぜ好きなんですか?」と聞けば肯定的な側面がいっぱい出てくるでしょうね。やっていること自体は同じでも、「どこに意識を向けてそのことをしているのか」という意識の違いが、そのことを好きにしたり、嫌いにしたりしているのです。それは、勉強でも同じです。勉強をすることが新しい発見につながったり、勉強することを自分の未来とつなげて考えることが出来るような子は勉強が好きです。一方、勉強が嫌いな子は、ただ覚えるだけのような勉強しかしていません。理解しようともしないし、学ぶことの意味を考えたりもしません。当然、そんな勉強をいくら繰り返しても分かるようにはなりません。そして、分からないから嫌いになるのです。学校の先生達もまた「分かる」よりも「覚える」ことの方を大切だと考えているような気がします。だから勉強嫌いの子どもを増えてしまうのでしょう。お料理が好きな人は、単に覚えたレシピ通りに作るのではなく、自分であれこれ工夫します。そして、工夫することで発見があります。だから楽しいのです。誰にでも嫌いなことや、苦手なことや、やりたくないことはあります。でも、どうしてもやらなければならないことなら、逃げるわけには行きません。そんな時は嫌々やるのではなく、その行為を通して何を学ぶことが出来るのかということを考えてみたり、色々と工夫をしてみると、嫌なことからも「大切な何か」を学ぶことが出来るかも知れません。その結果、「好き」にはならなくても「嫌い」ではなくなるかも知れません。あと面白いのは、それが好きな人の話を聞くと、そのことに興味がなかった人もそれが好きになることが多いということです。算数が大好きな先生の授業を受けていると、子どもも算数が好きになります。算数が嫌いな先生の算数の授業を受けていると、子どもは算数が嫌いになります。ネコが嫌いな人でもネコが好きな人の話を聞くと、少し見方が変わります。好きにはならなくても嫌いではなくなることもあるでしょう。お母さんがお料理が好きで楽しそうにお料理していると、子どももお料理に興味を持って、自分でもお料理を楽しむようになる可能性が高いです。お母さんが勉強が好きでいつも本を読んでいれば、子どもも勉強したり本を読むことを楽しむようになる可能性が高いです。「楽しい」や「好き」や「苦しい」や「嫌い」と言った感情や感覚は、近くにいる人に伝染するのです。皆さんはお子さんにどういう気持ちを伝えていると思いますか。お母さんが生きることを楽しめているのなら、お子さんにも「生きるって楽しい」ということが伝わっているでしょう。その逆ではないことを願いします。
2024.04.22
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最初にちょっと「からだのワーク」の告知をさせて頂きます。6月1日(土)に茅ヶ崎で「からだのワーク」をします。JR茅ヶ崎駅の隣です。テーマは「緩める」と「感覚の働きに気付く」です。時間は10:00~15:00 (延びるかも知れません)参加費は 5000円です。当日で結構です。お問い合わせやお申し込みは「こちら」までお願いします。子どもの同伴は年令によります。****************昔、私がまだ鎌倉に住んでいた頃、夫婦でお茶を習っていました。宋編流というマイナーな流派ですが、家元が鎌倉に住んでいらっしゃるため鎌倉にはその派の先生はそれなりにいるようです。「免状はいりませんから」ということで全く個人的に、しかも子連れで教えて頂きました。生徒はうちの家族だけです。(あまりにもったいないので後から私たちの友人も誘いましたけど)子どもたちはお菓子を食べたりして勝手に遊んでいました。その時、私がよく言われたのが「引く手が汚い」ということでした。お茶をたててお客の前に置くところまではいいのです。その手を引いて来るときに雑になっていたようです。置く時はお椀を持っているし、それなりの見せ場なのでかなり意識を集中しています。でも、置いたとたん「ああ、おわった」と気を抜いてしまうのです。その途端に汚くなってしまっていたようです。でも、人はその気の抜けた時の状態を自分では意識することが出来ません。無意識状態になってしまうからです。ですから、そういうことは先生に指摘してもらわない限り分らないのです。そのために先生や師匠が必要なんです。「自分が分っている自分」は、「自分に向けて自分の意識が働いている時」だけです。そしてそれは本当に少ない時間だけです。それなのに、みんなその「自分が知っている自分」だけをつなぎ合わせて「これが自分だ」だと思い込んでいます。でも、「自分が知っている自分」なんて、「自分全体」の中では本当に小さな一部分にしかすぎないのです。一日のほとんどの時間は自分ではなく他者に意識が向いてしまっているからです。でも、他の人は自分が「意識的に動いている時」より「無意識的に動いている時」の方をよく見ています。だから子どもは、お母さんが言ったことはすぐに忘れても、お母さん自身でも気付いていないような「怒った時の表情や身振りや声」は忘れないで、すぐに真似をするのです。ですから、「自分」を変えるためには、自分の「本体」である、その「意識によってコントロールされていない時の自分」に気づいて、変えていく行く必要があるのです。そして、そのためには日常、無意識的に行っていることに意識を向け、意識化していく必要があるのです。「マインドフルネス」と呼ばれるエクササイズも同じようなものです。私が太極拳や茶道を勧めるのは、それらには無意識への気づきを促す働きがあるからです。様々な表現活動を勧めるのも同じです。茶道に興味がない人は「なんでお茶を飲むだけなのにあんな面倒くさいことをするのだ」と言いますが、そのような人は、「目に見える世界を支えているのは目に見えない世界だ」ということを知らない人です。そのような人は、自分の考え方や行動が無意識の働きに支配されているということに気付いていません。茶道の時に限らず、一般的に人間は、手を伸ばす、足を伸ばす、からだを伸ばすといったように、「伸ばす」という動きをする時には意識的に自分のからだの動きをコントロールしようとするのに対して、「引く」という動作に対しては無意識的です。なぜなら、「伸ばす」という動きは「他者と関わろうとする時に生まれる動き」なのに対して、「引く」という動きは、「他者との関わりを断って、自分を守る時に行う動き」だからです。だから伸ばすのは意識的であり、「引く」「縮める」「固める」のは無意識的なのです。人は不意に熱いものに触ってしまった時など“アチッ”と手を引きますが、手を伸ばす人はいないのです。これは人間だけでなく、他の生き物たちでも同じです。カメも、首を出す時はゆっくりと慎重に出しますが、ひっこめる時は瞬間的です。岩に張り付いている貝も、そのしがみつきを緩める時はゆっくりですが、固める時は瞬間的です。これは筋肉の仕組みとも関係しています。筋肉には「縮む」という能力しかないのです。「伸びる」という能力はないのです。伸ばすためには反対側の筋肉に引っ張ってもらうか、緊張をといてゆっくりと固まってしまった筋肉が緩むのを待つしかないのです。つまり、筋肉は無理に伸ばすか緩めないことには伸びないのです。でも、この「伸ばす」とか「緩める」ということがなかなか難しいのです。緩めようとして意識すると、その意識の働きによって逆に力が入ってしまったりするのです。考え事をしていてもからだは固まります。自分を守ろうとする時もからだは固まります。自分で自分を否定しているような人のからだはガチガチです。叱られた時の子どものからだは小さく固まってしまっています。また、不安や緊張やストレスが強い時などにもからだが縮こまってしまっています。でもそれは防御の態勢なので、そのような状態の時には能動的、創造的に動くことが出来ません。また、そのような状態の時、人は無意識に支配されてしまっています。だから考えることや行動がいつも同じことの繰り返しになってしまうのです。だから、本当の自分に気付き、自分を変えたいと思うのならからだを緩める必要があるのです。でも、それが難しいのです。そもそも、緩んでいる状態の体験がない人には「ゆるむ」ということがどういう状態なのか全然分らないからです。日常的に肩がパンパンに凝っている人は、自分が肩が凝っていることに気づきません。完全に弛緩した状態を「0」、極度に緊張した状態を「100」とすると、日常的に50くらいの程度の緊張状態で過ごしている人には「50」以下の状態が分らないのです。「30」レベルの人は「50」レベルの人の緊張が分ります。だから「もっと緩められますよ」と言うのですが、ずーっと「50」レベルで暮らしている人は自分のからだが緊張していることが全く分からないのです。だから先生からの指摘が必要になるのですが、防御が強い人はそれすらも「攻撃」と取ってしまい、さらにからだを固めます。ちなみにストレッチは部分的な筋肉を伸ばし、緩める効果はありますが、ストレッチが得意だからといって日常生活の中でからだを緩めることが出来るということではないのです。緊張は筋肉ではなく「心の働き」が作り出しているからです。ですから、筋肉が固くてストレッチが苦手な人でも緩めることは出来るのです。また、緩めようと意識していなくても楽しい時には自然と緩みます。美しいものを見ている時にも、大好きな人の傍にいる時も緩みます。そういう時の感覚を思い出してみて下さい。ちなみに、「緩める」ということと「弛緩させる」という事は違います。寝たり麻酔を打ったりすれば筋肉は弛緩します。でも、弛緩した状態では動けません。自由に動けるようになるために緩めるのです。楽しい時はからだが緩んでいるので自由に動けますよね。そういうことです。見晴らしがいい広いところにいる時にも、心やからだは緩みます。逆に緩まない人は広い空間に不安を感じます。
2024.04.21
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人間は群れて暮らす生き物です。ただ単に「大勢で暮らす」というだけでなく、年令や性別や障害の有無を超えてみんなで助け合って暮らす生き物です。そして、そのような多様な人たちが助け合って群れて暮らしてきたからこそ、技術や言葉や知識が蓄積され、様々な文化や文明も生まれ発展してきたのです。また、「人間性」と呼ばれるものも育って来たのです。いくら大きくて高機能な脳を持って生まれてきていても、仲間とのつながりのない状態で育てば、言葉も、知識も、技術も、文化も、知性も受け継ぐことは出来ないのです。当然、心も「人間性」も育ちません。それが「人間」という動物の特性でもあるのです。そして今時の子ども達の最大の問題は、その人間の「人間らしさの育ちを支えてくれる群れ」から切り離された状態で生活し、成長しているということなんです。確かに、現代社会に生きている子ども達も「人と人のつながり」の中で生きています。そうでないと衣食住も安全も得ることが出来ないからです。でも現代社会での「人と人のつながり」は「直接的」ではなく「間接的」です。直接会って話し合う事よりもLineやメールでやりとりすることが増えました。学校の授業でさえ、タブレットを通しての間接授業が増えました。会議や勉強会もZoomなどネット経由で行うことが増えました。子どもの遊びもオンラインでは仲間と遊んでいますが、実際に会って、実際の顔を見て、実際の声を聴いて、実際に触れあって遊ぶと言うことがなくなりました。何十万年と続いてきたであろう「子ども達が群れて遊ぶ姿」が町の中から消えてしまったのです。でも、肌と肌が触れあうような「直接的なつながり」でないと、子どもの育ちを支えることは出来ないのです。ダブレット経由では子育ては出来ないのです。監視カメラで子どもを見ることが出来ればお母さんは安心するかも知れませんが、子どもはカメラの映像では安心できないのです。ゲームの中でアバターを通して一緒に遊んでも、子どもの「人間としての育ち」に必要なものを得ることは出来ないのです。どうか子ども達を「群れ」の中に帰してあげて下さい。これは大人も同じです。子育てが苦しくなってしまうのは群れから切り離された状態で子育てをしているからなんです。私の活動に参加してくれる子ども達は大人がいなくても延々と群れて遊ぶことが出来ます。
2024.04.20
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最近の子ども達を見ていると、すぐに疲れます。造形などの場でも、疲れた、かったるい、面倒くさい、先生やってなどの言葉が飛び交っています。筋力も弱いです。腕や足の筋肉だけでなく、腹や胸の筋肉も弱いため風船を膨らますことが出来ない子どももいっぱいいます。からだを使った遊びをしていないので心肺機能が育っていないのでしょう。実際、いつもからだを使って遊んでいるような子は簡単に膨らませることが出来ます。体力もないのですぐに疲れたり、イライラしたり、刺激に過剰に反応したりします。子どもですから見かけは元気なんですが、持続力がないのです。何かを始めてもうまく行かないとすぐに諦めます。うまく行ってももっと上を目指すことはありません。すぐに飽きてしまうからです。大騒ぎして発散して遊ぶことは大好きですが、静かに集中して行うような遊びや作業が苦手です。意志の力も弱いです。意志の力を生み出しているのは「からだ」だからです。だから「からだ」が弱ると「気」も弱るのです。ちなみに、ゲームに夢中になっている子は「ゲームに取り込まれている」のであって、自分の意志で「ゲームに集中している」わけではないですからね。自分の意志でゲームに集中しているのなら、自分の意志でゲームを止めることも出来るはずです。でも、ほとんどの子が叱られないと止めることが出来ません。他者による圧力がないと止められないのは「中毒」であって「集中」ではないのです。それはお酒や、パチンコが止められなくなるのと同じ原理です。一日中パチンコをしている人を「集中力がある人だ」とは言いませんよね。こういうようなことは「心の問題」として扱われることが多いですが、実はこれは「からだの問題」なんです。そして現代人は「からだ」という視点を忘れてしまいました。子育てでも、多くのお母さんが子どもの「頭」にばかり働きかけて「からだ」に働きかけることはしません。「落ち着きがない子ども」にいくら叱ったりお説教をしても無駄なんです。「落ち着かない行動」は「落ち着かないからだ」の表れに過ぎないのですから。水の中が動けば水面も動きますよね。その時、水の中の動きはそのままで、水面だけ静かにしようとしても無理ですよね。それと同じです。でも成長の過程において、子ども時代には「頭の働き」は「からだの働き」と共に育つようになっているのです。「からだでの様々な体験」が「頭の機能」を育てているのです。発達障害の子の問題もかなりの部分で「からだの問題」なんです。からだの育ちに必要なものが満たされないことでからだの状態が狂ってきてしまっているから、子どもの成長が歪み、からそれが障害のような形で表れてしまっていることも多いのです。ですから、早期にそのことに気付いて「遊びを通してのからだ育て」をすれば、かなり状態を改善することが出来るのです。ただし、5才、7才、9才と年齢が上がるにつれて、その状態が固定化されて改善が困難になります。また、女の子よりも男の子の方が問題が大きいです。「男の子のからだの育ちに必要なもの」と「女の子のからだの育ちに必要なもの」が違うからです。そして現代人の「安全で、簡単で、便利な生活」では「男の子のからだの育ちに必要なもの」が満たされないのです。
2024.04.19
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毎年春になると「色」で色々と遊びます。中でも子どもたちが大好きなのが「色水遊び」です。今日も横浜で「色水遊び」で遊びます。色は、赤・青・黄の三色の食紅を使います。食紅なので間違って飲んでしまっても(お勧めはしませんが)そんなに慌てなくても済みます。ただし味はありません。食紅を2Lのペットボトルの空き容器に入れ、水で溶いて百均で売っている写真のような調味料入れに入れます。この活動を始めた最初の頃は、醤油差しみたいなものを使っていたのですが、子どもは醤油差しを傾けたまま戻さないので、一回で空になってしまいます。溢れても気にしません。この容器なら、モミモミしなければ、傾けたままでは液が出ないのでOKです。プラカップで色を作り、透明な傘袋に入れて写真のように縛っています。透明な傘袋はホームセンターで売っています。私は厚手の物をネットで買っていますけど。これをこのまま別の袋に入れても面白いですよ。赤青黄の三色を別々の袋に入れて、それを合体させ「虹色の色水」を作ることも出来ます。あと、色水ではなく、お花を摘んできてお水と一緒に入れるとキレイですよ。写真のものよりも空気を入れて丸くして縛った方がキレイですけど。お試しあれ。
2024.04.18
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)Zoomでの気質や子育ての講座もあります。19日(金)からZoomの気質講座が始まるので、最後のお知らせです。************世の中には頑張るのが好きな人がいっぱいいます。そのような人は子どもや他の人にも「頑張ること」を求めます。確かに世の中には、頑張らないと出来ないことや、頑張らないと出会えない世界もありますが、その逆に、頑張ってしまうと出来ないことや、頑張ってしまうと出会えない世界もあるのです。その中でも、一番分かりやすくて、一番簡単な例は、“からだをゆるめる”ことです。こればかりは、頑張っていては永久にできません。からだをゆるめようと頑張れば頑張るほどからだに力が入ってしまいます。ということは、“からだがゆるんでいないとできないこと”も、頑張っていてはできないということです。特に、人間を相手にするような活動は難しくなります。頑張る人は心やからだを固くします。固くしないと頑張れないからです。すると、それに反応して相手もからだを固くします。すると、気持ちが通わなくなるのです。そうなってしまうと反発し合うか、一方的な関係しか作れません。(“固くならない頑張り方”も存在しますが、修行が必要です。武道ではそういう修行をします。)そして、その中には当然“子育て”や“自分育て”も含まれます。心やからだがゆるんでいないと、子どもを優しく抱くことが出来ません。子どもの話をゆっくりと聞くことが出来ません。優しい声で話しかけることも出来ません。子どもの心やからだの変化に気付きません。子どもを追い立ててしまいます。そして、子どもはそういうお母さんの傍にいる時は緊張するようになります。「自分育て」でも同じです。頑張る人は人に任せるということが苦手なので、自分一人で何とかしようとしてしまいます。でも、ずっとブログで書いてきたように、自分一人で頑張っても、自分で自分を持ち上げるようなものですから、絶対に自分を変えることが出来ません。自分を変えるためには、他の人(他の存在・他者)の手助けが必要なんです。そのためには、力を抜き、相手に任せるということがどうしても必要になるわけです。人は相手に任せた時に初めて相手からのメッセージを受け取ることができるからです。(それはからだのワークで実験してみるとすぐに分かります。赤ちゃんはお母さんに100%任せているからお母さんからのメッセージを受け取ることが出来るのです。)その相手とは、時にはお子さんかも知れません、ご主人かも知れません、また友人や仲間かも知れません、それとも草花や木々かも知れません。でも、ここで難しいのは“頑張るのが好きな人”は、“頑張らないで”というと、“はい、頑張らないように頑張ります”と、不思議な返事が返ってくることです。頑張るのが好きな人は、結果ばかりが気になって、どうも“楽しむ”ということを忘れてしまうのです。でも、そんな「頑張るのが好きな人」でも、子どもと楽しむ、自分の変化を楽しむというように「楽しむ」ということに気持ちを向けていると、次第に頑張らなくなります。というより、頑張る必要がなくなるからです。以下の絵本にはそんなメッセージが込められているような気がします。わたしとあそんで (世界傑作絵本シリーズ) [ マリー・ホール・エッツ ]
2024.04.17
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私は毎年、大勢の親子と山北(神奈川県足柄上郡)にある「ペガススの家」という所で遊びの合宿をしています。「ペガススの家」は、横浜にある「りんごの木」という幼稚園の園長でもある柴田愛子さんが書いた「ぼくはいかない」という絵本の舞台になった場所です。そこのキャッチフレーズが「何にもないけど、何でもある所」です。「何にもないけど、何でもある」とは何なのか?言葉の論理としては矛盾していますよね。般若心経の「色即是空 空即是色」のようなものです。でも、それこそが「創造と想像の世界」の実相なんです。楽しく遊ぶことが出来るのか、子育てを楽しむことが出来るのか、生きるということを楽しむことが出来るのか、勉強を楽しむことが出来るのか、仕事を楽しむことが出来るのか、家事を楽しむことが出来るのか、それとも何をしても喜びを感じることが出来ずに、ただただ苦しむだけなのか。その違いを生み出しているのが、「何にもないけど、何でもある」という視点なんです。この視点を持っていない人は、すぐに物や、人や、何かに依存しようとします。そしてすでにいっぱい持っているのに、常に「足らないもの」を探してグチを言います。子どもたちを自然の中に連れ出しても、すぐに、「つまんない」、「退屈だ」、「ゲームがしたい」、「ボールはないの」、「遊具はないの」と言うばかりで何も動き出さないか、ただ仲間と大騒ぎするだけの子がいますが、そのような子はこの「何にもないけど、何でもある世界」を体験しないまま育ってしまっているのだと思います。これは子育てでも同じで、「何にもないけど、何でもある」という視点を持っていない人は、子どもの「足らないところ探し」ばかりをします。「子どもが持っているもの」には目を向けす、「子どもに足らないところ」ばかりを探し出して、子どもを追い詰めています。そして、「片付けない」「手伝わない」「勉強しない」「約束を守らない」「時間を守らない」「宿題を出さない」などなどグチを言っています。それらは全てお母さんが子どもに期待しているものばかりです。お母さんが子どもに期待しているものの多くは大人の価値観に基づき、大人の社会で必要なものばかりです。それらは子どもの価値観や、子どもの育ちに必要なものではありません。でも子どもたちは、「自分たちの成長を支えるため必要な能力」はいっぱい持っています。また、「自分たちの成長に必要な活動」には能動的に関わろうとします。でも、そういうものが見えない人にとってはそんなもの無意味です。というかむしろ邪魔です。子どもが泥団子作りに夢中になっても単なる「無駄なこと」「困ったこと」にしか感じていない人もいっぱいいます。子どもは、自分の育ちに必要なものと満たそうとして夢中になっているから、お母さんの言うことを聞かず、お母さんの求めることに応えないのです。「子どもが持っているもの」に対して無関心な人にとっては子どもは空っぽです。「空っぽだから「色々なものを詰め込んで一人前にしなければ」と思い込んでしまうのでしょう。でも、お母さんが色々なものを詰め込む度に、子どもの中から居場所を失った「子どもの成長に必要なもの」が押し出されてしまうのです。そしてそれが続くと、やがて「子どもの成長に必要がないもの」で子どもの中が満たされてしまうのです。そして子どもは身動きが取れなくなります。自分の成長に必要な活動に対しても興味を感じなくなります。野原や自然の中に行ったら、「ここには○○も△△もない」と考えるのではなく、視点を切り替えて「○○も△△もある」と考えてみて下さい。そして「あるもの」を探して下さい。その結果見つけることが出来たものが全て遊びを生み出してくれます。(フリー素材です)(文中にある「ペガススの家」での合宿の時の写真です。真ん中にいるのが私の娘です。今二児の母です。)
2024.04.16
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「自然」はシビアでクールです。大人は子どもに忖度したり、手助けしたり、甘やかしたり、評価したり、追い立てたりしますが、「自然」はそこにあるだけで何もしません。子どもが木登りをしていてケガをしたり、崖登りをしていて転がり落ちても何にもしてくれません。困っていても助けてくれないし、失敗しても叱りません。でもそれ故に「自然」は子どもの考え方や行動の鏡として働いてくれます。下手な子が無理な登り方をすればケガをします。でも、何回も繰り返しチャレンジし、学び、上達をすればケガをしなくなります。そして、他の子から尊敬のまなざしで見られるようになります。これはトンカチやノコギリなどのアナログ的な「道具」を使う場合でもそれに近いです。良い道具は努力の手助けをしてくれますが、でも、使い方が下手な場合は逆に邪魔をします。ノコギリの使い方が下手な子は、いくら頑張っても疲れるだけで木は切れません。でも、繰り返しチャレンジし、色々感じ、色々考え、色々と工夫することで、ノコギリが作業の手助けをしてくれるようになります。コマや竹馬などのアナログ的な遊び道具でも同じです。それに対して、簡単で便利なデジタル的な機械はボタンを押すだけで代わりにやってくれたりします。ベイブレードも、セットしヒモ(?)を引くだけで回ります。マニュアルさえ覚えればアナログコマのようなヒモの巻き方やコマの回し方などを学ばなくてもいいのです。でも、アナログ的なコマの場合は、回し方をいくら口で説明しても、子ども自身が何回も繰り返して練習しないことには回りません。だから途中で止めてしまう子もいっぱいいます。でも、でも努力して回せた時の喜びはベイブレードの比ではありません。自然や、アナログ的な道具やオモチャは不便です。でも、不便だからこそ子どもの成長を支えてくれるのです。子どもはそのような対象と取り組むことで、感じること、考えること、工夫すること、やってみること、諦めなければ出来るようになる喜びを知ることが出来るのです。でも、簡単で便利なデジタル的な機械やオモチャに慣れてしまった子は、こういう不便な道具やオモチャを嫌がるのです。ちょっとやっただけでうまく行かないとすぐに諦めます。工夫したり努力したりして乗り越えようとはしないのです。そもそも、工夫の仕方も分かりません。「とりあえずやってみる」ということをしないからです。ノコギリで30分もかけて2cmぐらいしか切れない子に見本を見せるために「ちょっとだけだよ」と手助けをしてあげると、「先生やって」と言ってきます。私が「やだよ」というと、「じゃあ やめる」と言います。それと、最近の子はあまりにも基礎筋力、基礎体力がなさ過ぎます。日常的に筋肉や体力を使うような遊びをしていないからなのでしょうね。でも、基礎筋力や基礎体力の不足は精神的な不安定や、心の不安や、感覚の過敏につながりやすいのです。お正月にみんなでコマを回して遊びました。まずはお母さんが回せるようになるのが大切です。私のベーゴマと大山ごまです。大山ごまはこの四倍くらい持っています。ちょっと普通のコマとは違います。
2024.04.15
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最近の子は、昔の子どもよりも傷つきやすいような気がします。また、人と人の関わり合いにおいて非常にセンシティブです。顔と顔を見合わせ、目と目を合わせて話をすることすら困難な子ども達もいっぱいいます。そういうことも生活の場で学ぶ文化の一部ですから、最近の子ども達は生活の場の中でそういう「人と人の関わり合い方」を学ぶことが出来ないまま成長しているということなのでしょう。ちなみに3才頃までの幼児はまっすぐにこちらを向いて、まっすぐにこちらの目を見て話してきます。ですから、人の顔を見る事が出来ない、人の目を見ることが出来ないというのは後天的に学習した反応なんです。「相手の目を見る」ということは、「相手から自分の目を見られてしまう」ということでもあります。そして「目」は「心」に直結しています。だから、心の中を覗かれたくない人は目を合わせません。そのため、嘘をついている子や、自分に自信がない子は特に目を合わせません。困ったことをするような子も目を合わせません。また、見つめている「相手の目」が「自分の心を映す鏡」としても作用してしまうため、自分と向き合いたくない人も相手の目を避けます。もともと日本人は相手の顔や目を直視しようとしない文化を持った民族です。「相手の顔を直視することは失礼に当たる」とでも考えていたのでしょう。だから話をする時も、正面には立ちません。顔を見なくても済む脇に立って話をします。皆さんもそうですよね。最近の子ども達はさらにその状態が強くなっているということです。でも、そんな子ども達でもパソコンやゲーム機の画面などを見る時は緊張しません。画面の中の相手の目なら見ることも出来ます。だから友だちとのやりとりもネットでやりたがるのでしょう。でも、ちゃんと相手の顔を見ないことには築けない人間関係というものもあるのです。親子の場合はなおさらです。子どもは一生懸命にお母さんの顔や目を見ようとします。でも、お母さんは子どもの顔を見ないし、目も合わせません。ただ、「早くしなさい」「片付けなさい」などの言葉だけを浴びせています。そうしているうちに、子どももお母さんの顔を見なくなります。目を合わせなくなります。目はスマホやテレビやゲーム機に張り付いたまま、そして、言葉だけでやり取りするようになります。そういう関係になってしまっている夫婦も多いのではないでしょうか。でも、目を合わせようとしない相手と信頼関係を築くのは難しいのです。ですから、子どもがまだまっすぐにお母さんの目を見ようとしてくる時期に、お母さんもまたまっすぐに子どもの目を見てあげて欲しいのです。それが子どもの気持ちを理解し、子どものリズムに合わせる「待つ子育て」への入り口でもあるのです。親子の信頼関係も目を合わせるところから育って行くのです。(フリー素材から)
2024.04.14
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昨日、以下のような状態の「困った子」のことを書きました。そして今、そのような状態の子ども達が増えて来ています。それは、生活の変化、社会の変化、人間関係の変化の結果なのでしょう。親や先生の言うことを聞かない。「みんなと一緒」が出来ない。自分勝手なことばかりしている。場の状況が理解出来ない。言葉が通じない。ちゃんと対話が出来ない。ちょっと注意しただけ、ちょっと叱っただけ、ちょっと間違いを指摘しただけですねてしまう。親や先生の言うことを聞かない。ちゃんと自分に向けて話しかけられず、楽しく話し合うことが出来る仲間や大人が傍にいない状態で育てば、必然的に「話を聞く能力」は育ちません。「みんなと一緒」が出来ない。共に笑い、共に食べ、共に遊び、共に歌い、共に行動してくれる人が傍にいない状態で育てば、必然的に「みんなと一緒」が苦手な子どもに育ちます。自分勝手なことばかりしている。「自分」だけの世界の中で育っていればそれは当然です。場の状況が理解出来ない。様々な「場の体験」が乏しい子にそれを求めても無理です。言葉が通じない。「言葉」の基本は「話し言葉」です。「文字言葉」ではありません。いくらスラスラ「文字」が書けて読めても、それだけでは機械的な作業に過ぎません。実際に、書いたり読んだりしてくれる機械は一般的に存在しています。そして、「話し言葉」を話し、理解出来るようになるためには様々な体験が必要です、言葉を使うことが出来る人との対話も必要です。日常的に「木」と関わって生活している人が、図鑑でしか「木」を見たことがない子に「木」について話しても通じるわけがないのです。「言葉」が通じるためには「体験の共有」が必要になるのですが、それが今の子ども達には圧倒的に不足しているのです。逆に「体験の共有」があれば言葉を使わないジェスチャーのような表現でも通じるのです。ちゃんと対話が出来ない。これも同じです。ちょっと注意しただけ、ちょっと叱っただけ、ちょっと間違いを指摘しただけですねてしまう。周囲の人とつながれない、周囲の状況が読めない、自分を表現する手段を持っていない、相手の立場に立って相手の言葉を理解することが出来ないような子は「自分を守る」ことだけで精一杯です。そのため、ちょっと間違いを指摘されただけで、それを「自分への攻撃」として感じてしまうのです。指導する人が、「これは間違っているよ」「もうちょっとこうした方がいいよ」と助言するだけでのパワハラだと感じてしまう子も増えて来ています。相手の言葉を「自分が成長するヒント」として受け取ればいいのですが、人との関わりが少ない状態で育っている子は、自分を守ろうとする意識が強いので「自分に対する否定や攻撃や命令」として受け取ってしまうのです。実は困ったことをする「困った子」は、子ども自身もどうしていいのか分からず困っているのです。その視点がないまま、指導や命令や禁止だけで子どもの状態を矯正しようとしても無理なんです。それが過ぎると力ずくになってしまいます。子育ての場では「なんで言うことを聞かないんだ」と体罰になってしまうこともあるでしょう。言うことを聞かないのではなく、何を求められているのかが理解出来ないだけなのかも知れないのです。ちなみに、「ちゃんと」「きちんと」「早く」などの言葉は子どもには通じませんからね。あと、「ダメ」の乱用も止めた方がいいです。「ダメ」ではなく「そうじゃなくてこうしてね」と教えてあげて下さい。ダメと言われただけでは、どうしていいのか分かりませんお子さんが、周囲の人が困るようなことをしているような場合には、「子ども自身も困っているんだ」ということを気にかけて下さい。
2024.04.13
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親や先生の言うことを聞かない。「みんなと一緒」が出来ない。自分勝手なことばかりしている。場の状況が理解出来ない。言葉が通じない。ちゃんと対話が出来ない。ちょっと注意しただけ、ちょっと叱っただけ、ちょっと間違いを指摘しただけですねてしまう。このような「困った子」「扱いにくい子」は皆さんの周りにも普通にいるのではないでしょうか。知的な発達が遅れている子もいれば、知的な発達には問題がない子もいます。勉強が出来る子にもこのような状態の子はいます。じゃあ、勉強が出来るのなら問題はないのかというとそんなことはありません。どんなに勉強が出来ても、人は一人では生きていくことが出来ないからです。このような状態の子は、会社に入っても、上司や先輩の指示に従うことが出来ません。ちょっと指導したり注意しただけで「パワハラだ」と騒ぎたてます。また、深く傷ついてしまい会社に行くことが出来なくなってしまう子もいます。自分勝手なやり方をして失敗しても、自分の責任を認めません。最近は「ハラハラ」などという現象も起きているようです。「ハラハラ」とは、何でもかんでも「これはハラスメントだ」と騒ぎ立てるハラスメントのことです。ネットの記事などを見ていても、「ちょっと注意しただけでパワハラだと言われるので、若い社員に指導や注意することが出来ない」などというようなことを書いている人もいます。最近の子は「電話」が苦手なので、会社に入って電話を取るように指示しただけで苦しんでしまう若者もいるようです。これを「TELハラ」というそうです。会社員として当然の仕事を行うことを求めること自体が「ハラスメント」として扱われるような現象が起きているのです。学級崩壊を起こしている子ども達も同じような感覚なのかも知れません。学級崩壊を起こしている子ども達に自由に話をさせたら、「なんでイスに座っていなければいけないんだ」、「なんで、先生の話を聞かなければいけないんだ」、「なんでおしゃべりをしてはいけないんだ」、「そういうことを押しつけるのはハラスメントだ」などと言い立てるかも知れません。さらには、学校に行くことを強制することや、お手伝いを求めること自体が「大人からのハラスメント」になってしまっているのかも知れません。昭和の人間からしたら、「何を甘えたことを言っているんだ」ということになるのですが、本人達は甘えているわけではなく真剣なんです。本当に苦しいのです。幼い時からそういう感覚で、そういう環境の中で暮らし、遊んできたのですから。だから何らかの対処をする必要があるのですが、でも、対処のしすぎは状態の悪化を招くだけです。子どもは保護を必要としています。でも保護のしすぎは子どもの自立心の育ちを阻害し、子どもの成長に良い影響を与えませんよね。それと同じです。だから難しいのです。このような問題は子どもの気持ちを受け入れ、苦しみを取り除くだけでなく、子どもの成長とセットにして考える必要があるのです。このような状態のままでは、会社だけでなく家庭でもうまく行かなくなってしまうからです。結婚すれば共同で生活しなければなりません。お互いに相手のことを思いやりながら暮らす必要があるのです。子どもが生まれたらなおさらです。男性であれば家事や育児を手伝う必要も出てくるでしょう。女性であれば子どもの気持ちや発達に寄り添う必要もあるでしょう。でもそれをご主人に求めると「俺が何でそんなことをしなければいけないんだ」と文句を言って拒否する男性もいます。というか、お母さん達の話を聞いているとそういう男性は結構多いようです。それで結婚してパートナーがいるのに、一人だけで子育てに苦しんでいるお母さんもいっぱいいます。お母さん達に子どもの気持ちや発達に寄り添うようなことを求めると「子どもの犠牲にはなりたくない」と言う人もいます。最初からそういう面倒くさい人間関係が発生する結婚を望まない若者も増えて来ました。嫌いになったら簡単に分かれることが出来るクールな人間関係の方を好む人が増えたのです。それはネットの中の人間関係と同じです。私は、少子化の原因は「子どもを望まない人」が増えたからではなく、「結婚自体を望まない人」や「夫婦で助け合うことが出来ない人」が増えたからなのではないかと思っています。だとしたら、子育てをしている人にお金をばらまいても子どもは増えないでしょうね。お母さんもお母さんで、「子どもの犠牲にはなりたくない」と、子どもよりも自分がやりたいことや自分の都合を優先してしまう人が増えて来たような気がします。そのような感覚の人にとっては、「母親としての義務」を求められること自体がハラスメントになってしまうのでしょう。「ハハハラ」です。「三つ子の魂百まで」という言葉に対してハラスメント的なものを感じる人も多いです。政治家に、「国民の方を向いたちゃんとした政治」を求めるだけで攻撃されたと感じる政治家も多いですから、これは根が深いですよね。難しい時代です。
2024.04.12
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最近、「子育て」や「子どもと一緒の時間」を楽しめない人が増えて来たような気がします。どんなに頑張っても、子どもは思い通りに成長はしません。「子育て書」を読んで「どうしたらいいのか」は分かっていても、「子育て書」通りの事は出来ないし、「子育て書」通りにやったとしても、ほとんどの場合「子育て書」通りの結果を得ることは出来ません。思い通りにならない子育てや、理解不能な子どもの言動にイライラしたり、「言うことを聞かない子ども」や、「大人の常識や生活を無視した行動」に腹が立ったりもするでしょう。でも、言うことを聞かないくせに、ストーカーのようにしつこく付きまとってきます。お母さんが「自分の事」をやろうとすると積極的に邪魔をしに来ます。まるで「賽の河原の鬼」のようです。頑張っても頑張っても、その成果が見えない毎日。一生懸命に努力しても誰も褒めてくれず、むしろ出来ていないところばかりを責める周囲の人たち。電車の中や公共の場所などで子どもが騒いだり泣いたりすると白い目で見てくる人、文句を言ってくる人も増えて来ました。公園で大きな声を出して遊んでいるだけで文句を言ってくる人もいます。茅ヶ崎の某公園にも、子どもが水を出して遊んでいると文句を言いに来るおじさんがいます。(父親が一緒の時には出てこないそうです。)家事や、保育園、幼稚園、学校などのあれこれに追い立てられて自分の時間が失われてしまうストレスもあります。ご近所に仲間がいない不安や、ご主人が手伝ってくれない怒りもあるでしょう。そのようなお母さんは「自分の時間」を確保したり、「自分」を取り戻すことばかり考えています。「子育て」が「子どもとの戦いの場」になってしまうこともあります。そのため「子どもから離れるため」に、子どもが幼いうちから保育園に子どもを預けようとする人も増えて来ました。お金がないから仕事をするのではなく、子どもを保育園に預けるために仕事をするのです。便利な機械やインフラがなかった不便な時代には、子どもも大人もみんな助け合って一緒に生活し、一緒に遊んでいました。家族の中だけでなく地域全体にそのような人間関係があったのです。ですから、子どもも大人も「共に」ということに慣れていました。でも、現代の子ども達は幼いうちから一人で遊んでいます。一人でも遊べるオモチャがいっぱいあるし、一緒に遊ぶ仲間もいないからです。お母さんも家事や自分の事で忙しくて、子どもと一緒にいる時間を楽しんではくれません。時々公園で、幼い子どもが一人で遊んでいる場面を見かけます。お母さんも傍にいるのですが、お母さんは子どもではなくスマホを見ています。そして、今子育て中のお母さんやお父さん達も、同じような状況の中で育ってきています。ですから「共に」という感覚が分かりません。「共に」を楽しむことも出来ません。結果、「子育て」が苦しいだけのものになってしまっているのです。政治家も少子化対策と称して全くトンチンカンな「子育て支援」を繰り返しています。いくらいっぱいお金をばらまいても、「子どもと一緒にいることを楽しめない人」は子どもを望まないのです。昨日は、「自由になる方法」として以下の四つの方法を考えましたが、1.不自由を取り除く2.不自由から逃げる3.不自由を克服する4.不自由を楽しんでしまう「子育てから来る不自由」の場合は、「1」をすると犯罪になってしまいます。「2」をすると、周囲や社会から責められます。そして両者とも一生「自分で自分を責める苦しみ」からは逃げることが出来なくなります。「3」をしようとしても、「子ども」という相手がいることなので、自分だけ頑張っても空回りするだけです。残っているのは「4」の「不自由を楽しんでしまう」という方法だけなのではないでしょうか。この方法なら、お母さんだけでなく子どももハッピーになります。親子の関係も良くなります。子どもはお母さんや周囲の大人から、色々なことを学ぶことが出来ます。ただし、これをするためには人目や世間の常識に囚われずに、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志と責任で行う必要があります。子どもの発達や遊びに関する様々な学びも必要になります。同じような子育てを目指している仲間も必要になります。私はこのような子育てをしようとしているお母さん達の手助けをしたいと考えています。
2024.04.11
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人間は常に不自由を感じて生きています。人は「生きている」というだけで不自由です。生きていれば食べなければなりません。食べるためにはお金が必要です。そのお金を稼ぐためには仕事をせざるおえません。仕事をするためには面倒くさい人間関係の中に入る必要があります。また、ちゃんと仕事をしなければお金をもらえません。評価されたり、指導されたり、叱られたりすることもあります。心の中は自由で空が飛べたり世界中のどこへでも行けても、現実世界の中に存在しているからだは重く、空を飛ぶどころか走ることすらままなりません。肩がこったり、腰が痛かったり、年を取って動けなくなったりします。年令による不自由、性別による不自由、人種による不自由、外見による不自由、才能による不自由、身体能力の不足による不自由などもあります。夫婦関係や子育ても不自由の原因になります。不自由の極地まで行って身動きが取れなくなり、自由になるために死を選ぶ人もいます。「生きてさえいればいいこともあるよ」などという説得文句は、追い詰められていない人の言葉です。人類はその不自由を何とか乗り越えるために色々と考え、工夫してきました。心の不自由を乗り越えるために宗教というものが生まれました。科学も人が自由になるための一つの方法です。歌や踊りや様々な芸術的な活動は「心の自由」を与えてくれます。スポーツなどの様々な身体的な活動は「からだの自由」を与えてくれます。様々な学びも、人の心やからだを自由にしてくれます。そんな「自由になるための方法」を私なりに分類してみました。<不自由を取り除く>不自由を引き起こしている原因を取り除けば、その問題からは自由になることが出来ます。通路の真ん中に大きな荷物が置いてあって通行が不自由になっているのなら、その荷物を取り除けばOKです。問題児がいて授業が出来ないのなら、その問題児を取り除けば授業はやりやすくなります。<不自由から逃げる>取り除けないような場合は、自分がその不自由を感じないところに逃げるという方法もあります。学校や会社で不自由を感じているのなら、「学校や会社に行かない」というという形で自由を得ることも出来ます。<不自由を克服する>取り除いたり、逃げたりするのではなく、その問題とちゃんと向き合って自分の力で自由を得るという方法もあります。スポーツが苦手な子が、一生懸命に頑張って自由に動けるようになることもあります。ピアノがうまく弾けなくて不自由を感じているような時、「逃げる」という方法もありますが「努力して頑張って乗り越え、自由を手に入れる」という方法もあります。ただし、この方法は本人の意志と意識で行う必要があります。他者の圧力によって頑張らされているのなら、それは不自由の原因になります。<不自由を楽しんでしまう>最後に「不自由を楽しんでしまう」という方法もあります。取り除くのでも、逃げるのでも、乗り越えるのでもなく、不自由をそのまま楽しんでしまうのです。通路の真ん中に大きな荷物が置いてあって不自由なら、「その通路をどうやって通るかを色々工夫しゲーム化して楽しんでしまう」というような方法です。取り除けないものを無理に取り除こうとするから不自由になるのです。そして、子どもはこのような不自由の乗り越え方が好きです。大人が「ダメ」と言ったことをどうクリアするのかを考えるのが子どもは大好きです。問題児がいて授業が出来ない場合は「自分の授業のやり方」にこだわるから不自由になるのです。そんな時は、その子も楽しめるような授業を工夫すれば、その子は問題児ではなくなります。スポーツが苦手でも、スポーツを楽しむことは出来ます。上手を目指して頑張るのもいいですが、でも本人がそれを望んでいないのなら、ガンバレと子どもを追い立てることは子どもを不自由にしてしまいます。老化と戦っても、最後は100%敗北します。だったら、老いることを楽しんでみることも「老いから来る不自由」を乗り越える手段になります。私はこの四つのうち、最後の「不自由を楽しんでしまう」という方法が好きです。遊びの場に問題児がいる場合は、その問題児とどう楽しく遊べるのかを考えるのが好きです。
2024.04.10
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最初に告知をさせて頂きます。5月12日(日)に二宮(神奈川県)で、大人も子どもも一緒になって「劇遊び」をします。10:00~15:00で、参加費は 3000円/家族 です。どういうお話しで遊ぶのかは、参加人数と参加してくれる子どもの年令を見て考えますが、「昔話」系で行こうと思っています。お問い合わせと申し込みは「こちら」までお願いします。ちなみに私の劇遊びは、子どもの「ごっこ遊び」と同じようなものなので台詞を覚える必要はありません。役になりきって即興で動きます。だから、子ども達の意見を聞いて原作とは違った流れになってしまうこともあります。人に見せるためのものではなく、普段の自分とは違う存在になって、日常とは違う世界の中で自由に心とからだを遊ばせるためのものです。******************私は「劇遊び」は「遊びの王様」だと考えています。なぜなら、「劇遊び」の中には遊びの全ての要素を織り込めるのと、全ての気質の子の居場所があるからです。人にはその人の感覚やからだの特性が作り出す「気質」というものがあります。そして、気質が違えば「感覚」も「からだの状態」も異なります。当然、心の状態も異なります。例えば「赤という色を見てどう感じるのか」ということはみんな同じではないのです。森の中に入って何を見て、何を感じるのかも同じではありません。物理的には同じ体験をしていても、気質が違えばみんな違う体験をしているのです。また気質が違えば、「楽しいと感じる遊び」も異なってきます。気質の基本形には「胆汁質」「多血質」「憂鬱質」「粘液質」の四つがあるのですがには、これは色における原色のようなものなので実際にはみんな四つの気質が混ざり合っています。ですから、「あの人は胆汁質だ」と言う場合でも、「胆汁質しかない」ということではなく「色々な気質を持っているが胆汁質が一番目立つ」ということに過ぎません。ちなみに、胆汁質が強いような子は、「勝ち負けを競い合うような遊び」が好きです。何かにチャレンジするのも好きです。常に「一番」にあこがれています。ですから、劇遊びでは主役になりたがります。多血質が強いような子は、「お友達」がいっぱいいて、おもちゃや遊具がいっぱいある楽しそうな所が好きです。また、動いたり、歌ったり、踊ったりするのも好きです。勝ち負けを競うよりも「みんなと一緒」の方が好きです。目立ちたがりではありませんが、目立つのは好きです。ですから、劇遊びでは「主役の周りにいて、それなりに目立つけど責任がない役」が好きです。粘液質が強い子は、のんびりとした時間が流れるのんびりとした空間が好きです。マイペースです。手仕事も好きです。ですから、劇遊びでは目立たない役をやりたがります。台詞や動きがない役でも大丈夫です。というかそういう役の方を好みます。以前、「石の役をやりたい」と言った子もいました。小道具を作ったりするのも好きです。ちなみに私の劇遊びでは、話によっては、宮沢賢治の童話のように「木の役」「風の役」「石の役」なども登場します。必要とあらば、原作にはない「登場人物」も登場させてしまいます。憂鬱質が強い子は、刺激が少なく、安心で、安全な場所が好きです。目立つのは嫌いです。一人で絵本を読んだり、絵を描いたり、図鑑を見たり、自動車などのおもちゃや昆虫などを相手にしたりして、自分だけの世界に浸るのが好きです。私は「劇遊び」は「遊びの王様」だと考えているのですが、それは「劇遊び」の中にはすべての気質の子の居場所があるからです。また工夫次第では、子どもの心やからだを育てるために必要な要素を織り込むことが出来ます。形にこだわらなければ、劇遊びには「何でもぶっ込める自由」があるのです。また、役をやる子だけではありません。大道具や、小道具や、音楽(音響)なども必要です。役をやりたくない子は、そういう部分で参加することが出来ます。皆さんだったら、どんな役割で参加したいですか。
2024.04.09
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コロナ以降、最近は勉強会や会議などでもZoomなどのネット経由で行うことが多くなりました。体験型のワークショップですらZoomなどでやる場合もあります。私も、Zoomでの講座をよくやるようになりました。簡単なワークショップもやります。学校などでも「タブレット授業」は当たり前になりました。でも、「本当に大切なこと」は、ネット経由では伝えることが出来ないのです。勉強も同じです。問題は、現代人が「ネットで伝えることが出来るもの」にしか価値を感じなくなってしまっていることです。「本当に大切なことはネットでは伝えることが出来ない」ということが分からなくなってしまっているのです。「子どもの見守り」と称して監視カメラで子どもの状態を観察したり監視する商品もありますが、監視カメラで出来るのは観察や監視であって、それは実際に側に寄り添って行う「見守り」とは全く別のものです。ちなみに、辞書的な区分によると「見守り」と「観察」や「監視」との違いは、「相手の立場に立っているか」、「自分視点で見ているだけなのか」ということのようです。相手をサポートするような意識で相手のことを見ているのが「見守り」であって、ただ「何をしているのか」「どういう状態なのか」を知るためだけに見ているのは観察や監視だということです。そして、監視カメラで子どものことをいくら見ていても、子どもの気持ちや活動をサポートしたり子どもを危険から守ることは出来ませんよね。実際の子どもの気持ちや状況は、その場にいなければ分からないのですから。Zoomやネットなどで伝えることが出来るのは、コンピュータの言葉である「0」と「1」に変換出来る情報だけです。それは、文字情報、音声情報、映像情報などです。場の雰囲気や、五感で感じたことや、心で感じたことなどは伝えることが出来ないのです。食リポでいくら丁寧に説明してもらっても、実際にその人が感じた味は分からないのです。問題は、現代人が場の雰囲気や、五感で感じたことや、心で感じたことの大切さが分からなくなってしまっていることです。そして、「見れば分かる」と思い込んでいます。でも、実際には見ただけでは分からないのです。子どもの前でノコギリを挽いて見せても、実際に子ども自身がノコギリを使って色々とやってみないことにはノコギリが挽けるようにはならないのです。勉強も同じです。実際に、自分の前で、自分に向けて授業してもらう場合と、それを動画で配信してもらう場合とでは学びの質が全く違うのです。でも現代人はその「質の違い」が分かりません。実際に野原などに行って、自分の目で見る野の花や木々や景色と、映像で見る野の花やキ々木や景色は全く別のものなんです。実際、テレビなどでそのような映像を見ると、自分の目で実際に見て見てみたくなりますよね。心やからだは、ちゃんとその違いが分かっているのです。もし、同じものを感じることが出来ているのなら、映像だけで満足できるはずです。ただし、幼い頃から実際の体験を通して学ぶ機会が少なく、映像でしか自分の生きている世界と触れることが出来ない状態で育った人は、映像だけで満足するでしょう。映像だけで分かった気になってしまうでしょう。そして、そういう子どもや大人が増えて来ています。そういう子や人に、「Zoomやネットでは本当に大切なことは伝わらないんだよ」ということを伝えるのは難しいです。
2024.04.08
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昨日は「自由が苦手な子ども達」について書きましたが、でも、もしかしたら、日本人は昔から「自由が苦手で、不自由が当たり前な民族」だったのではないでしょうか。なぜそう思うのかというと、日本人の感性では「人目を気にしながら生きること」が当たり前だからです。私たちは子ども達に対して普通に「人に後ろ指を指されないように生きなさい」とか、「人に迷惑をかけてはいけない」とか、「出しゃばってはいけない」とか、「目立ってはいけない」とか、「和(調和)を乱してはいけない」とか言っていますよね。たぶんこれは儒教による影響なのでしょう。また、そういう感性があるため、電車の中などで子どもが泣いたりするだけでお母さんが謝ったり、周囲から冷たい目で見られたり、非難されたりすることがあるのでしょう。また、ママ友グループの中でも、言いたいことがあっても言えなかったり、我慢してみんなに合わせたりするのでしょう。その結果、子育てが辛くて苦しいものになり、お母さんが追い詰められたりするのでしょう。そして、社会の中から多様性が失われるにつれ、この傾向は強くなってきているような気がします。コロナ騒動の時も「マスクは嫌だ」「ワクチンは嫌だ」というようなことを言えば、「みんなに迷惑をかける困った人」扱いされましたよね。病気に対してどういう対応をするのかということはその人の生き方ともつながったデリケートな問題のはずなのに、そんなこと一切無視されました。またそれが、「発達障害と呼ばれるような状態の子ども」の増加にもつながっているような気がします。「子どもはジーッと出来ないのが当たり前だ」「子どもは動きながら学んでいる」という考え方に基づいた教育(学校)がいっぱいあれば、発達障害の子は簡単に減るのです。そんな「人目を気にする生き方」をしている人は、「自分の意見」や「自分の考え」を持っていません。「みんなと同じこと」をして、「みんなと同じ生き方」をするだけならそういうものは必要がないからです。むしろ、「みんなと一緒」が大切にされている社会では、「自分の意見」や「自分の考え」を持つと生きづらくなります。他の人とぶつかることも多くなります。自分の言葉で、自分の考えを説明しなければ行けない場面も増えます。でも日本人は、「みんなと一緒」という教育は受けていますが、「自分の言葉で、自分の考えを説明する教育」を受けていません。また、その「みんな一緒」が出来ない子は「発達障害」として扱われてしまいます。もしかしたら、その「みんなと一緒」が出来ないのはその子の「個性」や「能力」故なのかも知れませんが、療育の場ではその子どもの特性は「個性」や「能力」としてではなく、病気のような「治療の対象」として扱われてしまいます。他者とのつながりから切り離され、自分の感覚や心やからだで直接体験することなく、みんなと同じ知識を学び、みんなと同じ情報に触れ、みんなと同じ遊びをして、みんなと同じ体験しかしていない現代の子ども達が、自分独自の感性を育て、自分独自の考えを持ち、自分の言葉で説明できる能力を育てることは非常に困難なんです。
2024.04.07
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人間は環境への適応能力に非常に優れています。ですから、暑いところ、寒いところ、山の上、海の上、森の中、砂漠などでも住むことが出来るわけです。道具を作る能力、道具を使う能力もその適応能力の一部です。また、様々なことが出来る身体能力も適応能力の一部です。そしてそれ故に、自分たちが住んでいる環境に適応するような形で、多様な文化や文明が生まれました。何も知らない、何も出来ない状態で生まれてくる赤ちゃんが、周囲の大人たちとの関わりを通して人間らしい知性と、様々な能力を身につけることが出来るのもこの適応能力の現れです。成長が必要な環境で育てられれば、子どもは成長することで環境に適応しようとするのです。でも逆に、成長が必要ない環境で育てられれば、子どもはその環境に適応し成長することをやめてしまいます。これは非常に簡単な原理です。そして今、多くの子どもたちが、その「成長が必要がない環境」の中で暮らしています。今、子どもたちに求められているのは「成長」ではなく「大人の要求に応えること」と「大人社会への適応」だけです。実際に私が見聞きしている範囲でも、日常的に子どもと接しているお母さんや、学校の先生が子どもに望んでいるのもそのようなことです。それがうまく出来ない子どもは「問題児」として扱われてしまいます。本来、成長という視点で見たら、幼稚園児に必要なものと、大人が必要なものは異なります。小一に必要なものと小三に必要なものも、小学生に必要なものと大人が必要なものも違います。お年寄りや身体に障害のある人たちにはエスカレーターは必要ですが、健康な子どもにはそのようなものは必要がないのです。むしろ害になります。忙しいビジネスマンには携帯もスマホも必要ですが、幼稚園児や小学生には必要がないのです。また、そういうものを必要としないような生活をする必要があるのです。携帯やスマホが必要な社会は大人の価値観に基づく社会です。昔の子どもたちは大人とは違う価値観、違う時間、違う情報、違う道具の中で生きていました。それは、子どもたちが「子どもたちの群れ」の中で成長していたからです。昔は、大人たちと同じように子どもにも「子どもの社会」や、「子どもの時間」や、「子どもの生活圏」があったのです。そして子どもたちはその中で成長していました。異年齢の群れの中では子どもたちは成長を競い合うからです。それが「成長が必要な環境」ということです。そのように、子どもが子どもの世界で生きていた時代には、子どもと大人の境目がはっきりとしていました。だから、子どもが大人になるときには特別な儀式が必要だったのです。その儀式を済ませて大人にならないとやってはいけないこと、入ってはいけない場所、持つことが許されないものがあったのです。これは何十万年も昔から変わらない成長の仕組みなのですから、たった数十年や100年程度の社会の変化に合わせて変化するわけがありません。でも今では、そのような「子どもの世界」は失われ、子どもたちは大人たちの価値観が支配する環境の中で、大人たちに合わせて生活しています。ですから、今時の子どもたちは「子どもらしいこと」には興味を示しません。水たまりに入って遊んでいる子を見ると、わざわざ注意してくれる子どもまでいます。私が裸足で遊んでいると「裸足はいけないんだよ」と子どもに叱られます。そして、多くの子ども達が大人の価値観を自分の価値観として取り込み、大人の真似をすることだけに一生懸命になっています。大人たちもまた子どもに対して、大人と同じものを与え、大人と同じように振る舞うことを求めています。そして、大人のまねをする子どもを見て「かわいい」と褒めます。でもそれは犬に洋服を着せ「かわいい」と言うのと同じです。それは大人の身勝手であり、人間の身勝手です。そのため、子どもたちが自分らしさを失い、大人の要求に応えるために過適応状態になってしまっているのです。その過適応状態に陥ってしまっている子どもは、大人に依存し、大人の顔色をうかがうことばかりに熱心です。そして、自分の頭で考えようとはしません。子どもが「自分の頭」で考えようとしても、子どもには大人が求めていることが理解できないので、大人の顔色をうかがうことによってしか自分の行動の是非を判断することが出来ないからです。また、大人は子どもが考えていることが分からないので、子どもが「自分の頭」でかんがえたことを、上から目線で簡単に否定してしまいます。そんな状態の今時の子どもたちが一番苦手なのが「自由」です。粘土の固まりを与えて、「自由に遊んでいいよ」と言っても、みんなどうしたらいいのか分からず、手が出ません。野原に連れ出して、「自由に遊んでいいよ」と言っても、ボールやゲーム機がないと遊べないと言います。大人が遊んでくれれば遊びますが、自分たちだけで遊びを発見し、みんなで遊ぶことはまれです。子どもの周囲に「自由に生きることのお手本となるような生き方」をしている人がいっぱいいれば、子どももそのような人をお手本にして「自由に生きる能力」を育てることが出来るのでしょうが、そういう人は滅多にいません。それでも、そのような子どもの状態に違和感を感じない大人もいっぱいいます。そのような人は「それが今時の子どもだから」、「それが今時の子どもの遊び方だから」、「そういう時代なんだからそれでいいんじゃないか」などと言います。でも、自分の頭で考えることが出来ず、他の人の顔色をうかがうことによってしか自分の行動の是非を判断できないようでは自分の人生を「自分の人生」として生きることが出来ないのです。会社に入っても指示命令に従って仕事をしているうちはいいですが、「自分の判断でやっていいよ」と仕事を任されたとたん、どうしていいのか分からずノイローゼになります。結婚して、二人で相談して色々なことを決めなければならない時にも、話し合いが出来ません。自分の頭で考えることが出来ない人は「話し合い」も出来ないのです。そして何より、そのような状態では「子育て」が出来ないのです。幼い子どもは自由に考え、自由に行動します。ですから、そのような子どもと関わり、つながり、信頼関係を築くためには大人もまた自由に考え、自由に行動する能力が必要なのです。ちなみに、この「自由に」というのは「自分勝手」とは違います。自分の感情や、価値観や、ブライドや、常識にこだわらず、その場の状況に応じて臨機応変に対応することです。「自分勝手」という状態はそれとは反対に、「自分」にこだわり、「自分」を押し通すやり方です。両方とも他の人の顔色を窺うことはしませんが、その中身は全く正反対です。
2024.04.06
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昔の子ども達は、家の中ではそれなりに管理されていたでしょうが、家の外では、ほぼ「野放し」状態でした。そして、子ども達は常に「家の外」で遊んでいました。親の価値観によって野放しにしていたのではなく、家事を簡単にしてくれる便利な機械やインフラがなかったので、子どもを監視、管理するだけの時間的なゆとりがなかったからです。また、自営業や農業に従事している人は夫婦一緒に仕事もしていました。子どもにしても、テレビも、オモチャも、スマホも、ゲーム機もなく、遊び相手もいない家の中にいても退屈です。でも、家の中で退屈そうにしていると「お手伝い」を求められました。だから外に出て行ったのです。塾に行っている子もいましたが、今のように、ほぼ毎日、塾や習い事に行っている子はほとんどいなかったと思います。そして、家の外に出ると同じような状態の子ども達がいっぱいいました。そして、子どもが自由に遊べるような路地や、境内や、野原や、自然がいっぱいありました。結果として、自然に「異年齢の遊び仲間」が出来て、毎日その仲間と遊んでいました。それは何十年、何百年とその地域で連続的に受け継がれてきた「群れ」なので、その群れの中で伝承されてきた遊びもありました。「わらべ歌」などはその典型です。当然のことながら、その「群れ」には大人がいませんでした。完全に、「子どもによる、子どものための群れ」だったのです。だから、子ども達だけで考え、子ども達だけで行動していました。ケンカが起きても仲間で処理しました。ルールを守らない子は排除されました。大人がいたら「なんでそんなイジワルするの」と言われてしまうでしょうが、「子どもによる子どものための世界」はシビアです。でもだから、みんなと遊びたい子は自分の意志でルールを守ろうとしたのです。当然、「危ない遊び」もいっぱいやりました。「行ってはいけないところ」にも行き、「入ってはいけないところ」にも入り、大人が見ていたら止めるような「危険な遊び」もいっぱいやりました。でも、今の子がやったら「けが人が続出するような遊び」をしていても、昔の子は「危険な遊び」に慣れていたのでめったなことでは大きなケガはしませんでした。まれにそれで大けがをする子もいましたが、「ドジなやつだ」ぐらいの感覚で見ていました。大人が見たら目をむくような「危ない遊び」や「困った遊び」をしていても、それなりに自分たちの経験知で抑制もしていたのです。ケガをしたいわけではないのですから。木登りをしていて落ちてケガをしたら、それはその子が下手だったからに過ぎません。みんなそう思っていました。「木登り」という遊びが悪いわけでも、ましてやその木が悪いわけでもありません。でも最近の大人達は、一度そういう事故があると「木登り」自体を禁止してしまいます。時には登りやすそうな木を切ってしまったりもします。その結果「経験知」が育たなくなってしまっています。そのため、その経験知が育っていない最近の子ども達に、いきなり「昔の子どもの遊び」をやらせると、非常に危険な状態になります。コマや、けん玉や、竹とんぼや、弓矢という「昔の子なら普通に出来ていた遊び」でさえケガをする子がいます。また、最近の子ども達には「昔の子どもの遊び」を支えていた身体感覚も身体能力もありません。森の中で育った友人は、「子どもの頃は木から木へと飛び移って、木から下りないままズーッと遊んでいた」と言っていました。でも、それを「木登りすら満足に出来ない子」にやらせたら、間違いなく大きなケガをするでしょう。だから、子どものケガを恐れる大人達は、子ども達に自由を与えずに、安全で安心な場所に閉じ込め、安全で安心な遊具やオモチャで遊ばせようとしています。また、昔は身近なところに普通にあった「子どもが自由に遊ぶことが出来る場」や、「暇をもてあまして外に出てきている一緒に遊ぶ仲間」も消えました。さらに「塾や習い事に行く時間」が増えることで「自由に遊ぶ時間」自体が減りました。そのため、最近の子は「何もない状況で、年齢も性別も多様な仲間と自由に遊ぶ能力」が非常に低いです。昔の子ども達が「遊びによって学んでいた経験知」は、現代の「便利なオモチャ」には必要がありません。買ってきたらすぐに遊べます。最近の遊びで楽しく遊ぶために必要なのは経験知ではなくお金です。そして子ども達は親や大人の目の届くところだけで、大人が許してくれる遊びだけで遊ぶようになりました。そんな最近の子ども達にとって唯一、大人の目の届かない遊び場所は「ゲームの中」だけです。子ども達は、ゲームの中では大人の監視と管理から自由に遊ぶことが出来ます。だから夢中になるのです。でもだから「ゲームの中にしか遊び場がない子」から、安易にゲームを奪ってはいけないのです。問題は、いくらいっぱいゲームの中で遊んでも、社会性の育ちや精神的な成長は望めないということです。そういう遊びの変化が、「精神的に幼い子どもの増加」の背景にはあるような気がします。また、発達障害と呼ばれるような状態の子の増加にも関係していると思います。療育の現場でやっているのも「遊び」のようなものだからです。
2024.04.05
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最近、「発達障害」と呼ばれるような状態の子が増えて来ています。「社会的にそういう問題に敏感になったから増えたように感じるだけだ」と言う人もいますが、30年近く子どもと関わる仕事をしてきた印象でも、確実に増えて来ています。同じような仕事をしている仲間もみな同じようなことを言います。「発達障害」に分類される子だけでなく、みんなと一緒に学び、行動できる子でもそれは同じです。とにかく、全体的にみんな幼くなりました。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で行動しようとする子が減りました。そしてすぐに、「誰か」や「何か」に依存しようとする子が増えました。教室を始めた頃は、手伝おうとすると「これは僕の作品だから手伝わないで」と言う子もいましたが、今では「なんで手伝ってくれないの」と言う子ばかりです。中には、「代わりにやって」と言う子までいます。私が子どもの頃(昭和30年代)は、1クラス50人学級でした。しかも、先生は一人で授業していました。それでも、授業はちゃんと成り立っていました。一人二人、ふらつく子もいましたが授業が成り立たなくなるようなトラブルを起こす子はいませんでした。また、そのふらつく子に振り回される子もいませんでした。学校が終わったら、そのふらつく子も一緒に遊んでいました。ゲームがなくても、オモチャがなくても、遊具がなくても、ボールがなくても、公園がなくても、自分たちで「遊ぶところ」や「遊び」を発見し工夫して遊んでいました。簡単に言うと、昔の子ども達の方が今の子ども達よりも精神的に自立していたのです。そういう状態の子ども達が変わり始めたのは、高度経済成長が始まって、子ども達の「遊び場」も、「遊ぶ仲間」も、「遊ぶ時間」も消えてきた頃です。コロナ対応で有名になった台湾のオードリー・タン氏が、『自由への手紙』(オードリー・タン著)という本の中で以下のように書いているそうです。(yahooにゅーすから) 生物学的には同年齢なのに、ドイツの子どもたちは自分たちでスケジュールを決め、自分たちでクラスを選び、自分の主張を的確に伝えることができます。大人との違いは、体の大きさだけです。 理由を調べてみると、それは「ピグマリオン効果」と呼ばれるものでした。大人が子どもに対して、大人のように振る舞うことを期待していると、子どもは期待に沿うべく育ちます。 反対に、大人が子どもを赤ちゃん扱いすると、相手もその期待を満たす行動をとるようになります。 そう知って、考え方を根底から変えられました。私はこの「ピグマリオン効果」も、日本の子どもの精神的成長を妨げているような気がするのです。最近のお母さんは子どもにお手伝いをさせません。かえって手間と時間がかかってしまうからなのでしょう。そして、いつまでも「子ども扱い」します。中には子どもをペット化しているお母さんまでいます。先日も、桜を見に行ったら、かわいく着飾らせた我が子に色々なポーズを取らせて写真撮影をしているお母さんがいました。「次はこういうポーズを取って」などと色々と要求していました。そして子どもは素直に従っていました。当然、そんなかわいい洋服を着ていたら走り回ったり、木登りをしたり、ドロンコ遊びは出来ないし、許されないでしょうね。お菓子をあげようとすると、手を出すのではなく口を開けて待っているだけの子も多いです。実際、ペットの世話をするような感覚で子育てをしているお母さんもいます。ちゃんと衣食住やオモチャは与え世話はしているのですが、我が子との間に人間関係を育てようとはしていないのです。そして、「片付けなさい」、「勉強しなさい」、「ゲームを止めなさい」、「学校に行きなさい」、「早く起きなさい」、「残さないで食べなさい」などと指示や命令を出し、子どもを追い立てています。昔のお母さんは赤ちゃんをオンブしながら家事仕事をしていました。出かける時もオンブでした。でも最近のお母さんは、「かっこわるい」という理由でオンブを嫌います。出かける時は前ダッコかベビーカーです。最近は前ダッコする人も減って、ベビーカーの方が主流になっているような気がします。家の中ではでベビーベッドなどに子どもを寝かせます。ダッコした状態では家事は出来ないからです。でもすると子どもは泣きます。だから、オモチャを与え、テレビやスマホやタブレットを与えます。それでも、家事が終わったら子どもの側に行っていっぱい話しかけ、ダッコし、いっぱいスキンシップを取っていればいいのですが、家事が終わったら「自分の時間だ」と、スマホやゲームに夢中になる人も多いのではないでしょうか。そのような子育てを受けていたら、子どもが精神的に成長することが困難になってしまうのは当然なような気がします。発達障害と呼ばれるような状態の子が増えて来たのも、子どもに対する社会の価値観や大人の意識の変化が大きく影響しているような気がします。子どもを子ども扱いしていると子どもはいつまでも子どものままになってしまうのです。
2024.04.04
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昨日は、そしてその肉体は「食」と「感覚の働き」で「自分が生きている世界」とつながっています。と書きました。そして食については昨日少し書きましたが、私は食の専門家ではないので深入りは出来ません。でも、「私」という存在のあり方に「食」が大きく関わっていることは間違いありません。日本人の「日本人らしさ」の背景には日本食の影響もあるということです。ということで今日は「私と世界をつなぐもの」としての「感覚の働き」について書いてみます。人間は感覚を通して世界とつながっています。感覚を通さなければ何も得ることは出来ず、感覚を通さなければ何も表現することが出来ません。また、人間は感覚が作りだしたイメージの世界を生きています。多くの人が自分は「現実」を生きていると思い込んでいますが、その「現実」はその人の感覚に応じて異なっているのです。また、気質が違えば感覚の状態も違います。だから、違う気質の人は違う世界を生きているのです。苦しみも喜びも感覚の働きが作りだしています。そのことに気付くためには自分の感覚をチェックする必要があります。悲しみや苦しみに囚われてしまって身動き取れなくなってしまっている人ほど、受動的な感覚に支配されるばかりで能動的に感覚を使うことが苦手です。簡単に言うと「感じる」ということをコントロールできないのです。だから、「気になること」ばかりが感覚を優先的に支配してしまっていて、自分の意志で他のことを感じることが出来なくなってしまっているのです。だから、「苦しみの出口」を見つけることが出来ないのです。子育てでも教育でも「子どもの感覚」に働きかけないと、何にも伝えることも、育てることも出来ません。当然、「学力」も「優しさ」も育ちません。「心」も「脳」も感覚を働かせることで正常に機能するように出来ているからです。でも現代人は、子育てや教育において「感覚」にではなく「能力」にばかり働きかけようとしています。「感覚」を育てるのではなく、「能力」ばかり育てようとしているのです。だから、逆に「能力」が育たないのですが、その事に気付いている人は多くありません。また、「能力」ばかりに目が向いているので「心」も育ちません。心は感じることによってしか育たないからです。実は、「学力育て」は「心育て」とセットにして考えないと、決して本当の学力は育たないのです。この両者は分離できないのです。算数を学ぶことが子どもの心を育てる、国語を学ぶことが子どもの心を育てる、そういう教育が子どもの自立を支える「本当の学力」を育てるのです。そして、そのための方法としては「頭で理解する」「頭で覚える」ということよりも、「心とからだで体験し、感じる」ということが授業の中心になる必要があるのです。人間の脳は、能動的に感覚やからだを働かせようとする時に能動的に働くように出来ています。なぜなら、脳はもともと感覚やからだを働かせるための道具だからです。だから、感覚やからだを使わないで、脳だけに学ばせようとしても機能的に無理なんです。でも、文明は「感覚」を扱うことが出来ません。もともと機械文明は感覚と対立する存在だからです。感覚を扱うことができるのは「文化」の方です。だから、子どもの育ちにおいては文明と文化が両立するような環境が必要なんです。でも、現代の日本人は「文化」というものを持っていません。ちなみに「文化」とは生活の中で受け継がれるものであって、お店で買ってくるものではありません。お店で売っているのは「商品」であって、「文化」ではないのです。そもそも、感覚の働きとつながったものを売買することなど出来ないのです。たとえば、「独楽」は「商品」です。でも、「独楽の回し方」は文化です。そして、「独楽」は売買できますが、「独楽の回し方」は売買できません。だから機械仕掛けで回せるように作ってあるのです。このように、本来「文化」というものは人から人へと手渡しで伝えるものであって、お金では売り買いできないものなのです。もちろん、点数評価も出来ません。「文化」は個人に属するものではなく、社会に属するものだからです。社会に属するものは点表評価出来ないのです。それが「文化」というものです。逆に言うと、点数評価出来るものばかり大切にする社会は文化を否定する社会だと言うことです。教師を点数評価する制度は「教育という文化」を崩壊させます。そして、「文化を否定する社会」は「感覚を否定する社会」でもあります。だからこそ、今私たちは「感覚」というものに目を向ける必要があるのです。そして、生活の中に、そして自分の生き方の中に感覚の働きを取り戻す必要があるのです。「感覚を取り戻す」ことは「自分を取り戻す」ことと同じことなのです。ですから、「自分探し」は「自分の感覚」を取り戻すことから始める必要があるのです。頭でいくら考えても「自分探し」は出来ません。
2024.04.03
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私たちは「肉体」としてこの世界に存在しています。意識も、心も、知能も、感覚も、全て「肉体」の働きによるものです。肉体を超えた「魂」というものを考える人もいますがこれは証明不能です。それに、生きている間はその「魂」も肉体の中に閉じ込められています。だから「肉体の体験」がそのまま「魂の体験」になるのです。そして、そこに「人が生まれ変わる意味」があると考えている人もいます。でも、この問題には深入りしません。ですから、肉体が機能しなくなれば、私たちは生きていくことが出来なくなります。肉体の働きが狂えば、意識や心の状態も、知能や感覚や生命活動の状態も狂います。魂による体験も狂うかも知れません。そして私は、その「意識、心、知能、感覚、生命活動(+魂)などとつながって働いている状態の肉体」を表現する言葉として「からだ」というひらがな表記をしています。ですから、死ねば「肉体」は残りますが「からだ」は消えます。そしてその肉体は「食」と「感覚の働き」で「自分が生きている世界」とつながっています。ですから「何を、いつ、どう食べるのか」という問題は非常に大きいです。特に子どもの場合は、肉体の成長だけでなく感覚や心の成長にもつながっていますから。「何を、いつ、どう食べるのか」という問題は腸や腸内細菌の状態に影響を与えます。そして腸や腸内細菌の状態は、脳の状態に大きな影響を与えていることも分かって来ています。(ご興味のある方は「脳腸相関」という言葉でネットを検索してみて下さい。)また「薬」も腸や腸内細菌の状態に大きな影響を与えています。過度のアルコール消毒、除菌剤や抗生物質の使用も腸や腸内細菌の状態に悪い影響を与えています。それでも最低限の使用にとどめればからだの復元能力が働いて、悪化した状態も一時的で済むのでしょうが、多くの人が「安心のために」と復元能力を超えて過剰に使用してしまっています。テレビもまた、CMなどでそれをそそのかしています。今は、タバコのCMにも「タバコの吸いすぎには注意しましょう」というメッセージが入りますが、昔は「いけいけどんどん」だったのです。(昔のタバコのCMはyoutubeのhttps://www.youtube.com/watch?v=-3shaZOZKN0 で見ることが出来ます。)今はゲームがそのような状態です。でも、しばらくしたら、ゲームの宣伝の後に「ゲームのやり過ぎには注意しましょう」というメッセージが流れるようになるかも知れません。だから、後から後悔しないためには、流行に流されずに、自分で判断するしかないのです。「食」の他に、意識や心や、知能や、感覚や、生命活動の状態に大きな影響を与えているのが「感覚」の働きです。「食」が失われれば確実に死にますが、感覚の働きが失われてもそれだけでは死にはしません。でも、確実に生きていくことが困難になります。感覚の働きが失われてしまうと、意識や、心や、知能や、生命活動の働きが正常に働かなくなってしまうからです。子どもの成長にも非常に大きな影響を与えます。感覚の働きが失われなくても、感覚を使った生活をしていなければその能力は萎えていき、感覚を失ったのと同じ結果になります。その感覚の働きには受動的な働きと能動的な働きの二種類があります。聴覚で言うと「受動的に聞こえる」という状態と「意識的に聞く」という状態の二種類です。ということで明日に続きます。
2024.04.02
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便利な道具や機械、便利な社会インフラなどの囲まれて生活している現代人はあまりからだを使っていません。この場合の「からだ」とは、スポーツや労働をするための筋肉だけでなく、感覚の働きや、呼吸の働きも含みます。「意識の働きとつながったからだ」などほぼ使われていません。ほとんどの人が無意識的にからだを使っています。スポーツをやっている人でも、「思考や感覚の働きとつながった筋肉」は使っていても「意識の働きとつながったからだ」は使っていません。では、「意識の働きとつながったからだ」とはどのようなものなのかというと「茶道でのからだの使い方」や「呼吸法におけるからだの使い方」のようなものです。太極拳でも「意識の働きとつながったからだ」を大切にしています。ですから、意識とからだをつなげるために厳しいスポーツをやる必要はありません。むしろ厳しいスポーツは逆効果になってしまいます。筋トレも不要です。そして、今皆さんが行っている日常生活の中に簡単に取り込むことが出来ます。大切なことは、ちゃんと自分の心や、感覚や、呼吸を意識しながらからだを動かしているのか、日常生活を送っているのかということなんです。そしてこれが、自分が自分であるために、そして、心の安定を得るために必要なことなんです。これは一般に「マインドフルネス」と呼ばれているものと同じようなものです。現代人は筋肉的な活動量も圧倒的に少ないですが、それ以上に問題なのは、意識や、感覚や、呼吸とつながったようなからだの使い方を忘れてしまったことなんです。「じゃあ具体的にはどうするのか」ということですが、特別に難しいことはありません。丁寧に歩き、丁寧にからだを使い、丁寧に階段を上り、丁寧に包丁を使い、丁寧にお掃除をし、丁寧にお皿を洗えばいいのです。と書いている私がこれが出来ているのかというとお恥ずかし限りですが、出来ていません。でも意識するように努力はしています。歩いている時には姿勢を意識しています。ただ立っている時にも姿勢や重心の位置を意識しています。階段を上る時には筋肉や骨格の動きを意識しています。動きの練習をする時も、からだ全体がつながっているかどうかを意識しています。こう書くと、なんか特別なことのように聞こえますが、多分、昔の日本人にとっては当たり前のことだったのではないかと思うのです。それが日本人の美意識の根底にあるからです。「躾」(しつけ)という言葉はその意識の表れなのではないかと思います。現代社会でも、アーティスト達はそのような意識とからだの使い方をしています。ヨガなどをやっている人もこのようなからだの使い方をしているのではないかと思います。子どもの頃からの様々な芸術活動の体験が、このような意識とからだの使い方を目覚めさせてくれるのではないかと思います。そしてそれが、子どもの心の安定を育て、子どもが自分らしく生きる精神的基礎を育ててくれるのではないかと思います。学校の成績には関係していませんが、子どもの心とからだの健全な成長には必要なことなんです。でも、シュタイナー教育以外の現代の学校教育では完全に無視されています。
2024.04.01
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お花を探してあるのくのが楽しい季節になりましたね。桜も咲き始めましたね。ここから先は一気に咲くのでしょうね。葉が落ちて枯れ木のようになっていた木の枝にも、今にもはち切れそうな新芽がいっぱい付いています。枯れ草に覆われていた野原にも、かわいらしい草花がいっぱい芽吹き始めています。こんな時期は是非、お子さんと春を探して遊んでみて下さい。野の花を摘んで遊ぶのも楽しいです。食べられる野草を摘んで夕食のおかずにするのも楽しいです。「食べられる野草」は、皆さんの身近なところにもいっぱいありますから。ヨモギを摘んで草団子を作るのも楽しいです。ノカンゾウとセリは毎年摘みに行きます。草花を摘んで遊んでいると草花の違いや美しさに気付きます。道を歩いている時には気付きませんが、手に取ってみると意外と美しいことに気付くかも知れません。匂いを嗅いでみる、ちょっとちぎって食べてみるというのも楽しいです。桜の花びらや新芽は癖がないですが、梅の花は非常に苦いです。ただ、オオイヌノフグリ、カラスノエンドウ、花大根、タンポポ、ノビル、葛の若芽などは食べても大丈夫ですが、時々、毒のある植物もあるので、その辺はちゃんと調べた方がいいです。お子さんと一緒に「これは食べられるかな」と調べるのも楽しいですよ。そういう遊びを通して、子どもは自然の美しさ、楽しさ、大切さに気付いて行くのでしょう。そして、「自然を守りたい」という気持ちも目覚めるのでしょう。学校で教えている「自然を大切に」という考え方の中の「自然」は「観念的な自然」です。それに対して、このような遊びを通して知る「自然」は、「自分の心や感覚やからだとダイレクトにつながった自然」です。このような自然との関わり合いは、命というものに対する感性も育ててくれるでしょう。野ねずみきょうだいの草花あそび 秋から春まで (福音館の単行本) [ 相澤悦子 ]はるなつあきふゆのたからさがし [ 矢原由布子 ]【中古】草花あそび全書 / 多田信作
2024.03.31
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誰が言い出したか分かりませんが「好きこそものの上手なれ」という言葉があります。これはまさにその通りで、昆虫が好きな子は昆虫に詳しくなります。自分で色々と調べたりもします。捕まえるのも上手です。お料理が好きな子は、お母さんがお料理を作っているのをよく見ています。一緒にやりたがります。そして、真似しようとします。結果、お料理が上手になっていきます。考えるのが好きな子は、自分で「問い」を見つけ色々と考えようとします。分からないことがあれば大人に聞いたり、自分で調べたりします。遊ぶのが好きな子は、自分で色々と遊びを発見し、色々と工夫して楽しく遊ぼうとします。ですから、子どもの才能や可能性を育てたいのなら、この〝好き〟を育ててあげる必要があるのです。学問の学びを支えている「学ぶ楽しさ」、「知る楽しさ」、「考える楽しさ」も同じです。でも、それが難しいのです。なぜなら、子どもの〝好き〝や〝楽しい〟を育てるためには大人がその〝好き〟や〝楽しい〟を知っている必要があるからです。歌が嫌いなお母さんが、我が子を「歌が好きな子」に育てるのは難しいですよね。勉強が嫌いなお母さんが、我が子を「勉強が好きな子」に育てるのは難しいですよね。それと同じです。でも、〝好き〟や〝楽しい〟を育てるのは難しいですが、そういうことを嫌いにしたり、「面倒くさいと感じるような感性」を育てるのは簡単です。学ばなくても、苦労して調べなくても、自分の頭で考えなくても、簡単に答えを教えてくれる便利な機械を与えれば、子どもは「学ぶ楽しさ」、「知る楽しさ」、「考える楽しさ」を知ることが出来なくなります。〝好き〟を潰すのも簡単です。子どもが楽しそうにやっていることを否定し、子どもが望まないことを押しつけていれば、子どもは〝好き〟を育てることが出来なくなり、〝好き〟はやがて〝嫌い〟に変わっていきます。また、否定したり押しつけたりしなくても、そのものと出会う機会自体を奪ってしまえば〝好き〟が目覚めることもありません。植物学者として才能を発揮した牧野富太郎ですが、彼がもし現代社会に生まれていて部屋の中でゲームでばかり遊ぶような生活ばかりしていたら植物の面白さに目覚めることはないでしょう。どんなにピアノの才能を持っている子でも、ピアノと出会い、興味を持つ機会を与えられなければピアノの道に進むことはないでしょう。そして、〝好き〟が目覚めなかった子どもは成長する喜びを知ることが出来なくなります。成長を望まなくなります。「競争に勝つこと」と「成長すること」の違いが分からなくなります。鉄棒の逆上がりがしたい子が、頑張って逆上がりが出来るようになったら嬉しいです。自分の成長を感じます。でも、鉄棒など興味がない子を追い立てて逆上がりが出来るようにしても、子どもは喜びません。余計に嫌いになるだけです。子ども自身がやりたいことが成功したのでなければ成功体験を得ることは出来ないのです。嫌々勉強させられて100点を取っても、子どもは少しも嬉しくないのです。当然、学ぶ楽しさに目覚めることもありません。
2024.03.30
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今日のブログは、2005年11月26日(土)(ほぼ20年前です)にアップしたものを再掲載しています。私はこのような活動体験を通して、子ども達に「自分たちの今は、様々な命や、長い時間や、広い空間とのつながりの中に存在している」ということに気付いて欲しいと思っています。こういうことは知識を教えても伝えられないのです。*****************今日は朝から夕方まで横浜で「生命を描く」というワークでした。このワークは8月にもやったのですが、好評で“アンコール”でもう一度企画してくれました。以下の写真のうち最初の3枚はは8月の時のものです。他は全部今日のものです。どういうことをやったかというと、簡単に言うと地球の歴史をたどりながら、赤と黒だけでドロドロのマグマだらけの地球を描き、そしてそれが乾いたら、その上に陸地を描き、海を描き、動けない生き物(草や木々)を描き、動物や虫や魚を描いていく、というワークです。そして、最後に人間が登場し、道路が作られ、ビルが作られ、家が造られ、電車が作られ、と現代の風景になります。それを、3m20cm×3m60cmのダンボールの上に重ねて描いていくのです。まず、子どもたちは赤と黒の戦いに夢中になります。からだじゅうを絵の具だらけにして、画面にエネルギーをぶつけていきます。以下の写真は乾いた後の写真ですが、描いている時はものすごい状態です。写真を撮っている暇などありませんでした。次に、海と陸を描いていきます。川も描きます。そして、生き物を描いたり作ったりしていきます。海の中も生き物がいっぱいです。陸にも生き物がいっぱいです。ところが人間が登場し始めると道路が出来、家が出来、草木や生き物たちを踏みつぶしていきます。上の写真と下の写真は同じ場所です。面白かったのは、動物やお花などを描いていた時には乗り気でなかった男の子達が、道路やビルを作り始めたら俄然元気になったことです。そして、動物やお花の上にも平気で道路を描いていきました。上の写真の桜の木々の上にも縦横に道路が描かれてしまいました。そして、事件は起きました。このリンゴの木(以下の写真)の上に、木をつぶして公園を作ろうとした子が現れたのです。こんな状態です。それで一斉にブーイングが起きました。泣き出した子もいました。公園建設反対運動も起きました。面白かったですよ。自分たちが一生懸命に描いた木々や草花はもう子どもたちの心の中では生命を持っているのです。それで、お母さん達の中からも虫や動物を救い出そうという運動も起きてきました。そして、道路や建物の下敷きになっている生き物たちが助け出されました。さらに面白かったのは、その頃から男の子達も、虫や動物を守るような活動を始めたことです。実際に、現実世界で起きていることと全く同じことが再現されたのです。このワークをやると人間が何をしてきたのかすごくよく分かります。そして、どうしたらいいのかも。それが、理屈ではなく、体感できるのです。また、子どもたちは赤と黒だけの世界が海や陸に変わっていく様子にも強く心を動かされるようです。最後は、子どもたちは自分の気に入った部分だけを切り取って持って帰りました。それを見るたびにここで起きたことを想い出してくれることを願っています。
2024.03.29
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ここのところ「体験の大切さ」について書いていますが、では「体験さえあればそれで充分なのか」というとそれも違います。便利な電子機器やゲームなどというものが生まれる前の子ども達は、ほぼ100%、みんな毎日いっぱい色々な体験をして育っていたでしょう。それでも、素敵に育った子もいれば、困った状態に育った子もいたでしょう。それは歴史的な事実でもあります。体験が失われた状態で育っている子が「素敵な大人」に育つことは難しいと思いますが、でもだからといって「体験があればOK」という事ではないのです。「体験」は「子どもの成長に必要なもの」ではありますが、それだけでは十分ではないのです。そこで必要になるのが「言葉との出会い」なんです。体験が「子どもの成長を支えるもの」として吸収されるためには、その体験が言葉と出会う必要があるのです。「熱いヤカン」に触った時、「熱かったね」と言ってくれる人が側にいるから、子どもは「熱い」という言葉を覚えることが出来るのです。そして、その「熱い体験」を繰り返すうちに「熱い」という言葉の意味が抽象化され、「熱い」という言葉を「自分の言葉」として使うことが出来るようになるのです。そしてそれが子どもの精神の成長にもつながるのです。体験が言葉と出会う時に、子どもの精神の成長が始まるのです。ですから、「体験」だけでも、「体験が伴わない言葉(知識)」だけでも不十分なんです。でも、子どもが体験と共に言葉と出会うためにはその体験の場に「大人」や「仲間」がいる必要があります。「言葉」は「他者と感覚や思考や意識や行動などを共有する時」に必要になるものだからです。そして子ども達は、その周囲にいる大人や仲間を通して「言葉」を学んでいます。だから、周囲にいる大人や仲間が日本語を話していれば日本語を学び、英語を話していれば英語を学ぶのです。「言葉でつながる事が出来る他者」がいない状態の中で生活したり、遊んだりしている子には「言葉」は必要がないのです。そういう状態で育っている子が「人間らしさ」に目覚める可能性は低いです。視覚と聴覚を失い野生児状態で育っていたヘレン・ケラーが人間らしさを獲得したのは、サリバン先生と出会って「言葉」に目覚めたからなんです。(サリバン先生が使ったのは「音声による言葉」ではなく「触覚を使った言葉」です。)いくら丁寧に、熱心に子どもの世話をしていても、お母さんが子どもに話しかけず無言で世話をしているだけなら、子どもは言葉を覚えることも出来ないし、感覚能力や思考能力を育てることも出来なくなってしまうのです。当然、「心の育ち」も遅れます。でも困ったことに、最近「積極的に子どもに話しかけないお母さん」が増えて来ているようなのです。「言葉が理解出来ない状態の子どもに話しかけても意味がない」と考える人が増えて来たのです。それで、「テレビをつけっぱなしにして見せているだけ」「スマホなどで動画を見せ続けている」という人もいるようです。確かに、それでも少しは言葉を覚えるでしょうが、そのような状態で学んだ言葉には中身が入っていません。テレビに出ている人が「熱い」と言えば「熱い」という言葉を覚えるかも知れませんが、その「熱い」は自分自身の感覚とつながっていません。そのため「自分の言葉」として使うことが出来ません。思考の道具としても使えません。
2024.03.28
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体験がなければ、「知識」の意味や価値や大切さが分かりません。そして、「知識」の意味や、価値や、大切さが分からなければ自分から学ぼうとする意欲は目覚めません。そのため、体験が乏しい子に知識を教えても吸収できません。そして「暗記」という方法だけで、大人からの要求に応えるようになります。でも、「暗記されただけの知識」は子どもの成長を支えるどころか阻害してしまいます。時々、そういう人から子育ての相談を受けます。子育てや子どもについての知識はいっぱい持っているのですが、実際の子育てがうまく行かないのです。子どもとの間に「幸せな関係」が築けないのです。相談を受けたから、何かアドバイスしようとしても、そういう人ほど「それは知っているんです」「それは分かっているんです」と返してくるのです。「だったら聞くな!」と思うのですが、「知っていることと」と「身についていること」の違いが分からないのです。そのくせプライドだけは高いのです。そのため、失敗を嫌います。そして、失敗は「自分の責任」ではなく「相手(子ども)の責任」だと思い込んでいます。子どもでもそういう子がいます。ノコギリの使い方を教えようとしても「ぼく、知っている」と言って、私の言うことを素直に聞かないのです。それで「やったことがあるの?」と聞くと、「youtubeで見たから」などと言います。でも、youtubeで得ることが出来るのは情報だけです。山のように動画を見てもその内容に対する体験は一切得ることが出来ないのです。実際、そういう子に「じゃあ、自由にやってみな」とやらせても、ほとんどの場合うまく行きません。でも、プライドは高いので、「飽きたから止めた」などと言って、板に傷をつけただけで止めてしまいます。なかには、youtubeで見ることでそのものに対する興味や関心が生まれ、実際にやってみようとする子もいますが、そういう子は日頃から、生活や遊びの場で色々な体験をしている子だと思います。youtubeで見たことを実際にやってみようとしても、実際にはyoutubeでやっているようにはうまく行きません。でも、いつも生活や遊びの場で色々な体験をしている子はそういうことも分かっています。だから、自分の頭で考えて工夫しようとするのです。でも、そのような様々な体験が少ない子ほど「ノコギリの使い方を教えてもらえばそれだけで上手に切れるようになる」と思い込んでいるみたいです。そのような状態の子に「箱の作り方」を教えてもちゃんと作れるわけがないのです。でも、体験が少ない子ほど「作り方を教えてもらえばちゃんと作れるはずだ」と思い込んでいるのです。以前、「僕出来るから」と言い張る子に「じゃあやってみな」とやらせてみたことがあります。当然うまく行きません。その時その子は「先生の教え方が悪いからだ」と言いました。今、そういう若者が増えているのではないでしょうか。そういう若者に「そこは間違っているよ」などと指導すると「パワハラだ」などと言われてしまうのでしょうね。知識ばかり与えられて、生活や遊びの場での実際の体験が少ないと「失敗を繰り返しながら学び、成長する」という「子どもらしい学び方」が出来なくなってしまうのです。子育てでも、子育て書通りにやっても子どもは子育て書に書いてある通りには育ちません。そんな時、「私は子育て書通りにやっている、だから私は悪くない。子育てがうまく行かないのは私ではなく子どもが悪いからだ」などと子どもに責任転嫁してしまう人もいます。そういう人は平気で子どもの悪口を言います。
2024.03.27
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以下の図は、「子どもの成長」の過程を大まかに表したものです。大地の部分が、お母さんや、お父さんを含めた「つながり」や「環境」です。そのつながりの中に子どもが生まれ、そのつながりから栄養を吸収しながら成長していきます。栄養を吸収するために必要なのが「体験」です。子ども達は「体験」を通してしか自分の育ちに必要なものを吸収することが出来ないからです。そして、体験を通して大地(つながり)から影響を吸収して幹が育って行きます。その過程で、その幹が更に大きく成長するために豊かな葉を茂らせます。その「葉」に相当するのが「知識」です。「知識」は子どもの「内側の世界」と、子どもが生きている「外側の世界」をつないでくれます。そして、「葉」(知識)を得ることで、子どもは「根」からだけでなく太陽や空気からもエネルギーをもらう事が出来るようになります。知識を得ることで、子どもは「自分以外の人の学び」を「自分の学び」に変換することが出来るようになるのです。でも、その成長の過程の全てが「子どもの内側で働いている命の働き」によるものです。そして、「いつ、どういう体験や知識が必要なのか」ということも、「子どもの成長を支えている命の働き」によって決められています。子どもの成長は、親や、大人や、社会の都合に従うのではなく、子どもの内側で働いている命の働きしか従わないのです。多くの大人が、「子育てや教育とは子どもを大人の期待通りに育てることだ」と思い込んでいます。でも、多くの場合その期待は裏切られます。「育ちに必要なもの」が満たされなければ精神的に自立することが困難になってしまうからです。自分らしく幸せに生きることも困難になってしまうでしょう。その結果、子どもも、親も、社会も、苦しむことになります。また、多くの大人達が、子どもの成長とは無関係に知識をいっぱい覚えさせようとしていますが、「内側の働きとつながっていない葉(知識)」からは栄養を吸収することが出来ません。そのため、監視する人がいなくなれば容易に散ってしまいます。また、「葉の重さ」が未熟な幹を苦しめ、成長を阻害します。「知識」は必要に応じて与えればいいのです。そして、その必要を目覚めさせるのも「体験」です。自転車に乗ろうとしてうまく乗れなかった時に、「どうしたらちゃんと乗れるのか」を考えようとします。その考えをはっきりとさせるために「知識」を求めるのです。大人が教えようとしなくても、体験を通して「なんで?」「どうして?」を感じれば、子どもは自分で「知識」を探し求め始めるものなんです。ゲームでいっぱい遊んでいる子は大人が教えなくてもゲームには詳しいですよね。興味があることは自分で学んでしまうのです。それと同じです。でも、ゲームに関する知識は現実世界では役に立ちません。だから、現実世界の中で「子どもの成長に合わせた体験」を与えてあげる必要があるのです。その体験が子どもの知識欲を刺激するのです。
2024.03.26
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昨日から、ソロキャンプに来ています。雨の予報だったので、タープだけ張ってテントは張らずに車中泊しました。雨の中にテントを張ると後片付けが色々と面倒くさいのです。この「後片付け」は家に帰ってからも続きます。びちょびちょに濡れたテントのような大きなものを干すのは非常に大変なんです。それでも私はキャンプが好きです。確かに、準備も大変だし、色々と不便だし、便利な機械も使えないし、水場もトイレに行くのにも距離があるし、夜は暗いし、火を起こすのも人によっては大変だし(私は簡単に起こせます)、ご飯を炊くのも大変です。寝る場所(テント)を作るだけでも大変です。それだけで挫折してしまう人もいます。まず、お母さんは子どもの相手をしているのであてになりません。特に、子どもが小さい場合は、キャンプ場はそれなりに危険なので目が離せません。ということで、お父さんが一人で立てることになるのですが、初心者の人は自分の能力以上の「かっこいいテント」を買ってしまうので、立て方を解読するだけで一苦労です。また、多くの場合手助けがないとそう簡単には立ちません。最初は、かっこ悪くても、「あ、初心者だな」と分かってしまうような安い普及品のテントの方がいいのです。「いいテント」を買うのはキャンプん慣れてからの方がいいです。キャンプ場で色々と見て歩くと勉強になります。それでも私がキャンプを勧めるのは、特に子育て世代の人に勧めるのには訳があります。それは、キャンプに行くと「不便」と出会えるからです。キャンプに行くと「人が最低限の生活をするためにはどういうものや活動が必要なのか」ということが分かります。また、キャンプに正解はありません。そのキャンプ場、そのテントサイト、その季節に合わせて、その場その時で色々と考えて最適解を探すしかないのです。火を起こすのにだって正解はありません。最近の若い人は火を起こすのも一苦労ですが、色々と工夫してみるのも楽しいです。ライターを使ってもいいですが、子どもたちはファイヤースターターで火花を出しながら火起こしするのが好きです。弓切り式、まい切り式で挑戦してみるのも楽しいです。(ただし、かなり大変ですから覚悟してください。)家族が助け合いながら、色々な不便を乗り越えていくのもキャンプならではの醍醐味です。家族のきずなも深まるかも。お父さんが見直されるかも。ぜひ、子どもが喜んでついてきてくれるうちに家族でキャンプ体験をしてください。小3ぐらいになると「行きたくない」と言い出す子もいますから。7歳前の子は不便で面倒くさい活動でも、遊びとして楽しむことが出来ますが、小学校に入ると、あっという間に、「不便を嫌い便利を求める現代人」になってしまいますから。今朝のキャンプ場です。昨日です。夜、焚き火をしていたら、体長20cmぐらいの巨大なカエルが私の脇を歩いていきました。フキがいっぱい芽吹いていました。火おこしの道具。弓切り式、マイ切り式は持ってきていません。ファイヤースターターは百均でも売っています。緑のはキャンドゥーです。
2024.03.25
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)Zoomでの気質や子育ての講座もあります。************勉強が好きな子は、「物事をつながりの中で見ようとする子」です。ニュートンは、木からリンゴが落ちる現象を見て、「リンゴが落ちる原因」を「リンゴと木以外のもの」との関係に求めたから、万有引力を発見することが出来たのです。というか、科学もそのほかの学問も全て、「今あるもの」や「今分かっているもの」から、「今ないもの」、「今分かっていないもの」との繋がりを探索する過程で生まれています。勉強そのものが好きな子は、その「つながり」が見えてくる過程が楽しいのです。単なる「知識」を増やしたい訳ではありません。でも、物事に「正解」を求める人は、その「つながり」には意識を向けずに、「知識」という「正解」ばかりを求めます。でも、「正解」には「つながり」がありません。というか、「つながり」で成り立っている世界に属しているものを「つながり」から切り離すことでしか「正解」というものが生まれないからです。円周率が「3.14」というのは「正解」ではあっても、「真実」ではないのです。だから、偉い人の判断だけで簡単に「3」になってしまったりするのです。また、成績のために勉強している子も「正解」を集めるだけで「つながり」には興味がありません。だから抽象的な思考が求められるようになる中学生頃から勉強についていくのが困難になってしまうのです。その「正解」というものは、「お勉強の世界」や「人間の頭の中」にしか存在していないものです。なぜなら、「知識」は人間が「現実の世界」を理解するために便宜的に作りだしたものに過ぎないからです。私たちが存在している現実の世界は「時間の流れ」と「関係性」によって流動的に成り立っているので、固定された「正解」など存在していないのです。例えば、「胃」の研究は「胃」だけを見ていても出来ません。「胃の意味と働き」について知るためには、「胃とからだ全体との関係や、胃と周囲の環境との関係の中で、胃がどういう役割を果たしているのか」という視点が必要になるからです。固定的な知識にこだわっていたらそのような研究は出来ないのです。でも、人間の脳は、「関係性の中で流れ、変化している事象」をそのままの状態で理解することが出来ません。人間の思考には「静止した基準」(物差し)が必要だからです。1回時間を止めないことには理解出来ないのです。そしてそれが人間の脳の限界です。(命の働きはその変化に対応できるのですが、意識が対応できないのです)そのため、「知識」にこだわる人ほど、「ありのままの世界」ではなく、「自分の頭の中の世界」にこだわります。その「正解や知識の世界」と真逆の所にあるのが「遊びの世界」です。「遊び」は「知識」ではなく「つながり」によって支えられています。「遊び」に知識は必要がありません。また子どもたちは「遊び」を通して「つながり」に気付きます。古代の人達は、自分たちが発見したその「つながり」を「物語」という形で表し、伝えていました。「物語」は「目に見える世界」の裏側にあって「目に見える世界」を支えているつながりを、自分たちで理解出来るように言葉化したものです。そして、子どもたちの言葉や思考もそれと似ています。でも、知識に洗脳されてしまっている現代人は、知識や常識だけで「古代から伝えられてきた物語」や「子どもの言葉」を評価し、それらを「間違ったもの」「くだらないもの」と断定してしまいます。だから「今起きていること」の全体が見えないのです。花や木は見えても、それらの花や木の命を支えている自然が見えないのです。「新しいもの」は見えても、それと引き替えに「失われていくもの」が見えないのです。「子どもの行動」は見えても、「子どもの成長」が見えないのです。
2024.03.24
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また、「劇遊び」にはセラピー的な効果もあります。「見せるための劇」には「見せるため」というストレスがかかります。観客がいたり、カメラが回っていたらそれだけでストレスを感じます。良い役者さんはそのストレスをうまく使って素晴らしい演技をするのでしょうが、大根役者は、そのストレスに束縛されて不自然な演技をしてしまうのでしょう。それに対して、ただ単になりきって遊ぶ「ごっこ遊び」や「劇遊び」にはそのようなストレスがありません。それらは「人に見せるためのもの」ではなく「自分たちが楽しむためのもの」なので、他者の目を意識する必要がないからです。むしろ「違う自分を演じる楽しさ」があります。それは、子ども達が大好きなRPG(ロールプレイングゲーム)と似ています。ウィキペディアにはロールプレイングゲームとは、参加者が各自に割り当てられたキャラクターを操作し、一般にはお互いに協力しあい、架空の状況下にて与えられる試練を乗り越えて目的の達成を目指すゲームである。と説明されています。RPGは「自分の分身としてのアバターを使った劇遊び」なんです。「そのRPGを、アバターを使わず自分のからだを使ってリアルな世界で遊んでみよう」というのが、私がやっている「劇遊び」です。そしてこれは子ども達が日常的にやっている「ごっこ遊び」と、基本的には同じものです。逆に言えば、だから子ども達は簡単にRPGにはまってしまうのです。「人に見せるための演劇」には自由がありません。台詞も動きも決められてしまっているからです。でもいつも不自由な世界に生きている大人達は、台詞も動きも決められて自由がない方が演じやすいようです。「素の自分」を隠したまま演じることが出来るからなのでしょう。でも、自由を生きている状態の子ども達にはそれはなかなか難しいことなんです。以前、幼稚園の先生と話をしていた時「演劇の指導が一番難しい」と言っていました。そうだろうなと思います。私がやっている「劇遊び」にあるのは、「話の背景」(状況設定)と大まかなストーリーだけです。後は、なりきった登場人物に任せます。それは現実世界で毎日私たちがやっていることと同じです。ですから、結果は予測不能です。以前、神奈川県の幼稚園の先生達の研修会に呼ばれてこの「劇遊び」をしたことがあります。その時は「桃太郎」をやりました。普通の「桃太郎」の話では、最後に桃太郎が勝って、鬼を成敗し、宝を取り返して「めでたしめでたし」となるのですが、この時は全く違った結末になりました。桃太郎が鬼退治に行くまでは同じなんですが、鬼の方が一枚上手で、桃太郎をやっつけてしまったのです。そして、「宝物を取りに来た悪い桃太郎から宝を守った。めでたしめでたし」となりました。これは最初に「こういうストーリーにしよう」と決めてやったわけではありません。ただみんながなりきって遊んでいたら、こうなってしまったのです。それが「劇遊び」の面白くて楽しいところです。子ども達の「ごっこ遊び」でもどういう結果になるのかは予測不能ですよね。だから見ていると面白いのです。そして大事なことは、このような「劇遊び」にはセラピー的な効果があるということなんです。本当の自分のままでは言えない本音を、嘘の自分になら話させることが出来るからなのでしょう。以前、お母さん達だけでシンデレラを演じた時、いつもは優しい人が、悪くてイジワルな継母をリアルに演じて、みんなが驚いたことがあります。演じた本人も驚いていました。でも、「心の中に閉じ込めているもう一人の自分」を外の世界に出してあげ、それを遊ぶことで、内側の歪みが緩むのです。これは箱庭療法とも似ているかも知れません。
2024.03.23
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「劇」というと私たちは、いわゆる「演劇」を思い浮かべます。それは、「何らかの物語を役者が演じ、観客が見る」という「見せるための劇」です。そこには、誰かによって作られたストーリーと台詞があります。監督もいます。見る人が物語の世界に入りやすいように小道具や大道具や背景なども必要です。幼稚園や学校などでやっている「劇」はこのようなものです。それに対して、子ども達が日常生活の中で行っている「ごっこ遊び」には観客がいません。決められたストーリーも台詞もありません。もちろん監督もいません。子ども達はただ「他者になる」ことを楽しんでいるだけです。自然と共に生きている人たちは、自然の力を自分の内側に取り入れるためにオオカミになったり、風になったり、熊になったりすることがあります。その際、お面などをかぶったり草や木を纏うこともありますが、それは観客に「らしく見せるためのもの」というよりも、「演じる人がなりきるためのもの」なのではないかと思います。子ども達もまた、時々、恐竜になったり、ネコや犬になったりします。そうやって、「自分が大好きなものとの一体化」を楽しんでいるのです。大人になるとあまりそういう遊びはしなくなりますが、でも大好きなアイドルや選手がいると、ちょっと真似をして見たくなりますよね。昔、高倉健の任侠映画が流行った時、映画を見終わって映画館から出てきた人たちの多くが、肩を怒らして「健さん歩き」になっていたそうです。人間は「真似をすることでその相手とつながり、その相手の持つパワーや特性を取り込むことが出来る不思議な能力」を持っているのです。意識して真似をしようとしなくても、「大好きなもの」があると自然とそのものとの共鳴が起こり、そのものに似てしまうのです。子ども達はお母さんが大好きですから、自然とお母さんの話し方、考え方、動き方を真似してしまいます。お人形に向かって、お母さんと同じように怒っている我が子を見て恥ずかしくなったお母さんもいました。また、なりきっている時には視点も切り替わります。オオカミになりきろうとすれば、多少はオオカミの視点に気付くことが出来ます。鳥になりきろうとすれば、多少は鳥の視点を持つことが出来ます。そして「お母さんごっこ」をしている子は、お母さんの視点でごっこ遊びをしています。それと同じように、お母さんも子どもの真似をすれば、子どもの視点に気付くことが出来ます。私の子育てワークではロールプレイ形式でそのようなこともやります。また子ども達は、あこがれているお兄ちゃんや、お姉ちゃんや、大人の真似をしようとします。そしてその「真似っこ」が、子どもの成長の方向性にも大きな影響を与えます。皆さんも、お子さんと一緒に真似っこあそびをして見ませんか。森の中に入って「木」の真似っこをして見る。風が強い時に「風」の真似っこをして見る。チョウチョを見かけたら「チョウチョ」の真似っこをして見る。ぐりとぐらの絵本を読んだら、「ぐりぐらごっこ」をしてみる。野原や森の中に行ったら、いわむらのぼるの「14ひきのシリーズ」の野ねずみたちの真似をして見る。きっと楽しいですよ。それに新しい発見もいっぱいあると思います。私がやっている「劇遊び」は演劇よりも、このような「ごっこ遊び」のようなものです。だから「どう演じるのか」ということよりも「どうなりきるのか」と言うことの方を大切にしています。なりきったら、あとは自由にやればいいのです。でも今の子ども達は、あまり「ごっこ遊び」をしません。したとしても、「お話しの中の存在」や「自分の身近にいる存在」の真似ではなく、「アンパンマン」や「○○レンジャー」のような画面の向こう側にいるキャラクターの真似です。でも、画面の向こう側にいるキャラクターに同化しようとしても視点の切り替えは起きません。子どもの成長にもつながりません。「画面の向こう側の世界」と「自分たちが生きているこちら側の世界」はつながっていないからです。「正義の味方アンパンマン」を真似しているのに弱い子を守ろうとはしません。むしろ、「アンパーンチ」と言って、他の子を打ったりしています。正義のために戦っている「○○レンジャー」の真似をしているのに、「○○レンジャー」の剣で他の子を打ったりもします。画面越しでは「行為の模倣」は出来ても、「気持ちの模倣」までは出来ないからです。
2024.03.22
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私たちの身の回りはデジタル機器で溢れています。そして、子ども達の遊びの世界にもデジタル機器が広がっています。「家ではゲームでしか遊ばない」という子は今や普通の子です。スマホを持っている小学生も珍しくありません。そして子ども達の趣味や興味はSNSやyoutubeのようなデジタル世界の中の事ばかりです。友だちとのやりとりもデジタル機器を通して、遊びもデジタル世界の中で、情報を集めるのもデジタル機器で、そして、自分の夢や希望もデジタル世界の中で探そうとしています。最近話題になっている「Apple Vision Pro」なんか凄いですよ。あれは本当にやばいです。今はまだ高いし、デカいし、重いですが、しばらくしたら普通のメガネくらいの値段や、大きさや、重さになるでしょう。そして、普及すれば子どもの遊びの中にも入って行くでしょう。そして、メガネと同じように、あれをつけたまま生活する子どもも現れるかも知れません。でも、そのような状態が日常的になってしまった子は、現実世界を生きることが困難になってしまうでしょうね。自分の心やからだとの向き合い方も分からなくなるでしょうね。VRが最初出始めた時は、「12才以下の子どもには使わせないように」ということでしたが、大人が使っていれば子どもにだけ禁止することは出来ないですよね。そして、子どもの成長に興味や関心がない人は、「自分も使っているし、子どもも使いたがっているし、使わせていれば大人しくしているから」と軽い気持ちで使わせてしまうでしょう。実際、子どものスマホの使用もどんどん一般的になり、しかも低年齢化していますから。でも、そのようなデジタル機器に囲まれて生活し、デジタル世界の中で遊んでいる子ども達は、必然的に、アナログ世界、つまり、現実世界との関わり方が分からなくなってしまうのです。そのような子は、デジタル機器がないとすぐに「退屈だー」と言います。常に受け身的で、自分で遊びを発見し、自分の頭で考えて遊びを工夫し、自分の手やからだを使って遊ぶということが出来ないのです。鬼ごっこのような「形が決まっているもの」でなら遊べます。造形でも、箱やイスのような「形が決まっているもの」なら作ることが出来ます。でも、そこに「自分のアイデア」を入れ込むことが出来ないのです。絵でも、キャラクターの絵は描けるのですが、自分で考えた絵が描けないのです。というか「自分で考えた絵」を描きたいとも思っていないようです。時々、自分の頭で考えたことを自分の頭で工夫しながら描いたり作ったりする子もいますが、そういう子の話を聞くと、家ではほとんどゲームで遊んでいない子ばかりです。問題は、デジタル機器に慣れ親しみすぎた子は、大人になって結婚しても、リアルな夫婦関係を築くことが困難になってしまうのではないかということです。リアルな仲間と、リアルな世界で、リアルな遊びを通して関わってこなかったので、目の前に存在しているリアルなパートナーとアナログ的にどう関わったらいいのかが分からないのです。それでも女性は、子どもが生まれたら「リアルな世界でアナログ的に生きている子ども」と直面せざるおえません。そうして「訳わかんない」と言いながらも、「リアルな世界でのアナログ的な生活」も大切にするようになります。そうしないと子育てが出来ないからです。でもそれは大変な苦しみを伴います。でもお母さん達は学び、考え、仲間を作り、自分自身が成長することでそれを乗り越えようとします。その過程で「自分らしさ」に目覚める人もいます。私はそういうお母さん達に呼ばれて勉強会もしています。それが出来ない人は、どこまでも子どもを支配しようとします。でも、子どもが思春期を迎える頃に、そのような「支配する子育て」は破滅します。また、そのような女性の変化に対して、男性の方は子どもの時のままです。先日も、ご主人の問題を色々と相談してきたお母さんがいたので、「でも、そんな人を選んだのはあなたですよね?」と言ったら、「何であの人を選んだのか想い出せないのです」とおっしゃっていました。どうか子ども達には、デジタル体験よりもアナログ体験の方をいっぱい与えてあげて下さい。子ども時代にリアルな世界でのアナログ体験をいっぱいした子は、大きくなってデジタル世界と出会っても「リアル」と「仮想」の区別が付くようになるのです。「命」の意味も分かるようになるでしょう。デジタル世界の中には「命」は存在していないのですから。
2024.03.21
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昨日、「茅ヶ崎賢治の楽校」のことを少し書いたので、その活動を始めたのがいつ頃のことだったのかを確認するために古い文書を探していたら、以下の呼びかけメッセージが出てきました。1997年7月とあります。ですから、その数年前に「賢治の学校を作ろう」という故・鳥山敏子の呼びかけに応じて、第一回目の全国大会に出たのだと思います。今では「茅ヶ崎賢治の楽校」の名前で活動はしていませんが、精神は同じです。*******「茅ヶ崎賢治の楽校からのメッセージ」 子どもは急に大人にはなれません。しかし、大人が子どもに還ることはできます。大人が自分の中深くに閉じこめた“子ども”を解放するとき大人は永遠の子どもに還ることができるのです。その時始めて、大人は子どもとコミニケーションが可能になります。 この「 “賢治”の楽校」では、全ての人が永遠の子どもです。「子供だまし」ではなく人間の本源としての子どもに還る場です。 そのことを実現するためには大人だけが集まるのではなく、また子どもだけを集めるのでもなく、あらゆる年齢を超えた人たちが集まり、一人一人がお互いを鏡にして、“一緒に遊び”、“一緒に学び”、そして、“一緒に苦しむ”場が必要なのではないかと考えるのです。 今、教育も福祉も政治も、簡単には癒されないような深い病に陥っています。合理性、生産性、便利を追求するような大人の論理が破綻しているのです。合理的でなくても、生産性が悪くても、多少不便でも楽しく遊んでしまえる子どもの論理・感性が求められているのです。人類の未来のために。 1997年7月 篠 秀夫
2024.03.20
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先日、藤野という所にあるシュタイナー学校の8年生の劇を見に行ってきました。みんな一生懸命で素敵でしたよ。そのシュタイナー教育では、「見せることを目的にした活動」ではなく、「子どもの成長を支えるための活動」として「劇」という活動を大切にしています。(詳しいことはこちらのシュタイナー学園のHPをご覧になって下さい。詳しく説明されています。)https://www.steiner.ed.jp/activity/nl108_20210609/童話作家として有名な宮沢賢治も、自身の教師としての活動の中で「劇」という活動を大切にしていました。これもまた、教育活動の一環としての「劇」です。子ども達は「見立て遊び」や「ごっこ遊び」が大好きです。大人が指導しなくても、子ども達は勝手に「見立て遊び」や「ごっこ遊び」しています。そういう遊びを通して、「外側にあるもの」を様々な形でシミュレートしながら、自身の内側に取り入れようとしているのです。そしてそれは、子どもの本能でもあるのです。ただ観客として見たり聞いたりしているだけでは「外側にあるもの」を内側に取り込む事は出来ません。見たり聞いたりするだけでもそれを知識や情報として取り入れることは出来ますが、「自分の育ちを支えるもの」としては吸収することが出来ないということです。「外側にあるもの」を内側に取り込むためには、それを内的に体験する必要があるからです。だから真似るのです。大谷翔平が大好きな子は、大谷くんの投げ方や、バットの振り方や、日常の仕草まで真似しようとしますよね。そうやって、心の中で大谷翔平と一体になって、「大谷翔平」を内側に取り入れようとしているのです。これは野球選手だけでなく、アイドルでも、また様々な分野で活躍した偉人でも同じです。「こういう人になりたい」と思ったら、その人物を真似したくなるのです。お母さんが大好きだから、「お母さんごっこ」をするのです。(子どものことが理解したいと思ったら、ご自身の子どもの真似をしてみて下さい。)そして、子どもは自身の年令や気質に合わせて、あこがれる人の真似をしようとするのです。そうやって「自分の成長に必要なもの」を自分で補い、自分の人生の目標を見つけようとしているのです。でも、「お母さんが何をしているのか知らない子」は「お母さんごっこ」をしません。というか出来ません。毎日、お母さんが作った料理を食べていても、お料理を作っている時にテレビを見たり、ゲームをしていたら、「お母さんごっこ」には目覚めないのです。学校から帰ったら毎日、テレビを見てゲームで遊んでばかりいたら、大人の社会とも出会えません。大人に対する興味や関心も目覚めません。そんな子ども達があこがれるのはテレビの中で活躍している人ばかりです。でも、その「テレビの中の人」は虚像です。アイドルも虚像です。あと最近聞くのは「ペットごっこ」です。子どもの誰かがペット役になって遊ぶのです。「お母さんがお料理を作っているところ」は見なくても、「お母さんがペットの世話をしているところ」はよく見ているのでしょう。でもこれは、子どもの成長を支える学びにはならないと思います。あと子ども達は「お店屋さんごっこ」が大好きです。茅ヶ崎でやっている「ポランの広場」という「親子で遊ぶ教室」でも、「お店屋さんごっこ」で遊びます。子どもとお母さんが2週間ぐらいかけて作った品物をフリーマーケットのような形で並べて売るのです。お金はポランで独自に発行している「ポラン券」です。劇遊び(なりきり遊び)もよくやります。以前は、「茅ヶ崎賢治の楽校」で足柄の山にあった施設に寝泊まりして、森の中でみんなで劇遊びなどもしていました。「茅ヶ崎賢治の楽校」は故・鳥山敏子さんの許可を得て私が主宰していた活動です。あと、「劇遊び」は「子どもの内的な成長」を支える手助けをしてくれますが、それだけでなく、目的を共有することで自然と仲間が生まれます。また、自分の感情に気づき、自分の感情や考えを表現する能力も育ちます。ただし、劇遊びでは子どもが主人公になる必要があります。大人によって正解を決められ、大人の趣味に合わせて演じるように求めるのなら、それは「子どもの育ちを支える活動」ではなく、「大人の趣味に合わせた活動」になってしまいます。そこが一番難しいところです。お店屋さんごっこ茅ヶ崎賢治の楽校
2024.03.19
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よくお母さん達から、“うちの子どもたちはしょっちゅうケンカばかりしていて困るんです”と、兄弟げんかの相談を受けます。そんな時は、“兄弟げんかの数だけいっぱい仲直りも体験しているのですから大丈夫ですよ”と答えます。子どもはケンカしても、すぐに一緒に遊び始めます。兄弟げんかならなおさらです。その、ケンカから一緒に遊び始めるまでの過程の中に“仲直り”も含まれているわけです。その際、“ゴメンナサイ”などという儀式は不要です。「どっちの方が悪い」という善悪の判定も不要です。そういうものを求めているのは子どもではなく大人の方です。子どもはただ仲良く遊びたいだけなんです。それがうまく行かないからケンカになるのです。それに子どもは、「自分の感情」を吐き出して、それをお母さんにちゃんと受け止めてもらえば、それだけで落ち着くのです。うちの子がまだ小さかった時、「ケンカから仲直りへ」という過程を見たくてケンカしている脇でただジーッと見ていたことがあります。ケンカしている時も、仲良く遊んでいる時もよく見ていましたが、その境界で何が起きているのかを知りたかったのです。そうしたら、最初のうちは言い合いをしていました。でも、しばらく言い合いをしているうちに気持ちが落ち着いてきたのでしょう、側でジーッと観察している私が気になり始めました。そして、姉の方が“あっちへ行こう”と弟の手を引いて行ってしまいました。そこでケンカは終わりました。でも、多くのお母さんがそんな面白い現場を見ることなく子どものケンカを一方的に止めてしまいます。そして多くの場合、お兄ちゃんやお姉ちゃんが怒られることになります。すると、兄弟の間に妬みが生まれます。そして、兄弟の仲が悪くなっていきます。そして、またケンカを始めます。そしてまたお母さんに怒られます。つまり、ケンカを一方的に止めてしまうことがかえってケンカを増やしているのです。そして、そこではケンカの体験ばかりで仲直りの体験ができません。その仲直りの体験が出来ないまま成長していくと、年齢が上がるにつれて“ケンカ”が兄弟間の“イジメ”というような形に発展していくことがあります。イジメの世界には仲直りは存在しません。そして、そのような状態になってしまうと、お母さんには兄弟の間に何が起きているのか分からなくなってしまいます。そうなってしまってから問題を解決するのは非常に困難です。ですから、そうならないように兄弟げんかを楽しんでみましょう。実は、子どもにとって“ケンカ”という場面ほど自分を表現しようとする状況は生活の中にないのです。いつもは無気力に受け身で生活している子どもたちでもケンカの場面の時だけは能動的になります。そして、行動的になり、おしゃべりになります。つまり、自己表現を始めるわけです。つまり、“心のドア”が開くのです。その時に、相手やお母さんにその自己表現をちゃんと受け止めてもらうことができれば子どもは自分を表現することに臆病にはなりません。そして、お母さんがちゃんと聞いてあげていれば、相手に理解してもらうための表現能力も育っていきます。そして、自分の気持ちを表現する能力が育てばケンカをする必要もなくなっていきます。また、子どもの気持ちにちゃんと向き合ってくれたお母さんへの信頼も育っていくでしょう。ですから、兄弟げんかが起きたら、“しめた!”と思ってください。ケンカという場でないと伝えることが出来ないこと、育てることが出来ないこともいっぱいあるからです。ケンカの時、子どもは先ず自分の感情を吐き出そうとしますから、ちゃんと子どもの話を聞いてその感情を吐き出させてあげて下さい。感情を止めてしまうと感覚も思考も働きませんから、話しが先に進みません。その時、“辛かったんだよね”とか、“イライラしたんだね”というように子どもが言葉化出来ない心の中の言葉をお母さんが感じて、言葉化してあげることも必要になります。子どもは自分の感情をどのように表現したらいいのか分からないからです。(お母さんも分からなかったりして・・・)ただし、自分の感情を吐き出すのはいいのですが、相手を否定するような言葉はしっかりと止めてください。それと、お母さんが善悪の押しつけをしないようにして下さい。それをやってしまうと子どもは自分の感情を言わなくなります。兄弟げんかは生活の中の「感情表現ワーク」でもあるのです。子どもは、そういう場で「自分の心」と向き合っているのです。ですから大切にしてあげて下さい。
2024.03.18
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暖かくなってきたこの時期楽しいのが「お散歩遊び」です。家の中にあるものは全て人工的なものばかりです。そこには不思議も驚きもありません。当然、家の中で遊んでも、遊びが閉鎖的になり、同じ遊びの繰り返しばかりになります。でも、一歩外に出るだけで、そこには不思議と驚きの世界が広がっています。ただ問題は、外に出ても、自分の周囲にある「不思議」と「驚き」に全く気付かない人が多いと言うことです。そのような人は知識で世界を見ている人です。名前を知っている花は見えても、名前を知らない花は見えないのです。そして、普通のお母さんが知っているこの時期の花はタンポポやサクラなどのわずかな花だけです。ちょっと道ばたを見るといっぱい色々な花が咲いているのに、名前を知らない花は風景の中に隠れてしまって、見えないのです。大勢の親子と外を歩くことが多いのですが、そんな時、道ばたに生えている葛の葉を手に乗せて「ポンッ」て鳴らして遊んでみせることがあります。すると、子どももお母さんも興味を持って寄ってくるのですが、みんな「それ何の葉ですか」「どこに生えているのですか」と聞いてきます。すぐ側にいっぱい生えているのに見えないのです。またこの時期、毎年、野草を摘んで食べる会をやるのですが、その時も同じような会話が繰り返されます。道ばたに雑草のように生えている草なんですが、なぜか知らないのです。見えているはずなのに見ていないのです。うちは子どもが小さい頃から、春になるといつも野草を摘んでて食べていたので、子どもたちもそれなりに野草には詳しくなりました。以前、野原にツクシを摘み来ていた人に、「この草は・・」と言って驚かれたこともあります。四番目の子は、ノビルをほじくることにはまっていた時期があって、食べきれないほどノビルを掘って「これどうしよう」ということもよくありました。 食べなくても、野に咲く草花で遊ぶ方法はいっぱいあります。タンポポの茎やカラスノエンドウの種を笛にして遊ぶことも出来ます。いわゆる「草笛」です。上手にならすためには練習が必要ですが、その練習も楽しいです。草笛の本も出ています。お花などをビニール袋に入れてお水をちょっと入れて、モミモミして色水遊びも出来ます。また、水を入れたビンやビニール袋の中に、色々なお花や葉っぱを入れて、今流行の「ハーバリウム」を作ることも出来ます。採ってきた草花を、電子レンジを使って簡単にドライフラワーにすることも出来ます。草花を使った工作も出来ます。「匂い」で遊ぶことも出来ます。また、プリンのカップなどを使って、ミニ植木鉢や盆栽を作って遊ぶことも出来ます。泥ダンゴで写真のようなものを作って遊んだこともあります。また秋には色々な種を集めて造形に使ったり、色々なところやミニ植木鉢に植えて、成長を楽しむこともできます。さらに、家から外に出れば、草花遊びだけでなく、探検遊びや、旅行遊びや、影踏みや、木登りや、お店遊びや、草の物語、木の物語、水の物語を話して遊ぶことも出来ます。あまりに多いのでここには書けませんが、家から外に出るだけでいっぱい遊びが転がっているのです。でも、公園に行ってしまったら、そういう遊びの全てが消えてしまいます。**************************草あそび花あそび(春夏編) いっしょにあそぼ [ 佐藤邦昭 ]価格:1944円(税込、送料無料) (2019/3/18時点)楽天で購入作ろう草玩具 身近な草や木の葉でできる [ 佐藤邦昭 ]価格:1296円(税込、送料無料) (2019/3/18時点)楽天で購入
2024.03.17
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AIやデジタル技術の進歩で「本物」と「偽物」の区別が難しくなってきました。グーグルピクセルのCMでは、カメラの編集技術の素晴らしさをアピールするために、写っている物の位置や背景を自由に変えたり、笑っていない人の顔を笑顔にして見せたりしています。最近のAIは、この世に存在しない人をリアルな姿で創り出し、動画の中で話したり、演技をさせたりすることが出来ます。恋人がいない人がAIに恋人を創ってもらって、「一緒に江ノ島観光をしている動画」だって創れてしまうのです。そして、繰り返しその動画をみているうちに、それが本当にあったことだと思い込むようになるでしょう。偽の情報によって、記憶が書き換えられてしまうのです。ちょっと前までは、写真は「事実の記憶」を残すための手段だったのですが、その事実を自由に創作できるようになってしまったので、「本当の事実」と「嘘」の違いを証明することが困難になったのです。そして、日常的に「嘘」に触れていると、「嘘」と「本当」の区別が付かなくなり、次第にその「嘘」の方が「本当の事実」だと思い込んでしまうようになるのです。これは、昔からある「洗脳」の技術と同じものです。「大和魂と竹槍があれば、鉄砲を持っている米兵にだって勝てる」と国や周囲のみんなが言っていれば、自分も「そうなのかな」と思い込んでしまうのです。「お金をいっぱい寄付すれば天国に行ける」と言われ続けているうちに、本当にそんな気がしてくるのです。そんな時に「それは変だ」と感じることが出来るのは、本物と出会い、本物を体験し、本物から学んだ人だけです。「本物」といってもそんな凄いものである必要はありません。皆さんの足下にある石でも草木でも、雨の後の水溜でも、山の中に落ちているドングリも、落ち葉も、みんな「本物」なんですから。そして、幼い子ども達は、その「本物」で遊ぶのが大好きです。問題は「現代人はそのような本物と触れ合わなくなった」、「そのような本物に価値を感じなくなった」ということなんです。お母さんもドロンコや水溜で遊ばれるよりも、ゲームの中で遊んでくれた方が洋服は汚れないし、ばい菌もいないし、安心でもあります。そして現代人は、大人も子どもも「本物」よりも「お金さえ払えば、自分の希望通りに自由に仮想現実を作り出せて、手軽に自分の欲望を満たしてくれるデジタルの世界」の方を選ぶようになったのです。でも、遊びや仕事はデジタルの世界の中でも出来ますが、「自分の命を支えるための活動」や「子育て」はデジタルの世界の中では出来ないのです。デジタル世界の中で学んだことは、子育ての現場では全く役に立たないのです。自分の人生を自分らしく生きようとする時にも役に立ちません。デジタル世界の中で理想的な子育てをしても、実際の我が子がその通りに育つことは100%ありません。血の通った我が子を「たまごっち」のようには育てることが出来ないのです。また、デジタル世界の中でいくらいっぱいノコギリを使っても、山登りしても、仲間と遊んでも、自分の肉体が存在している現実世界では、その体験は全く役に立ちません。むしろ、「実際には何も出来ない自分」を思い知るだけです。どうか子ども達を「本物」と出会わせてあげて下さい。本当の水、本当の土、本当の仲間、本当の自分と出会わせてあげて下さい。本当の幸せは、本物との出会いを通してしか得ることが出来ないのですから。「デジタル世界の中での幸せ」は、「夢の中の幸せ」と同じ蜃気楼のようなものです。
2024.03.16
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人は自分が学んだことや、体験したことを基準にして物事を感じたり、考えたりしています。男性は小さい時から男性としての体験をしながら成長しています。そのため、男性としての視点を基準にして感じたり、考えたりしています。女性もまた同じように、小さい時から女性としての体験をしながら成長しています。そのため、女性としての視点を基準にして感じたり、考えたりしています。そして、その人の感じ方や考え方の基準になっているものが異なっていれば、当然、話が通じなくなります。でもお互いにそのことには気づいていません。人は、体験がないことには気付かないからです。そして、「自分の感じ方や考え方が常識であり、一番正しい」と思い込み、「どっちの方が正しいのか」を決めるために戦いを始めます。日本人として生まれ育った人は、「日本人としての価値観」を基準にして感じたり、考えたりしています。私は30才の頃にバックパッカーとしてヨーロッパやインドやアジアなどをフラフラしてきましたが、そのことで私は「私が巡った国」のことだけでなく、そのような異文化に触れることで、相対的に「日本」のことについても色々な気づきを得ることが出来ました。昔、誰かが「日本の常識は世界の非常識だ」というようなことを言いましたが、こういうことは日本から出て、異文化と触れあわないことには分からないのです。このような対立から抜け出して、お互いに対等な立場に立って話し合うことが可能になるためには、双方にとって共通の基準が必要になるのです。そこで必要になるのが、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界への気づき」です。「科学」もまた「普遍的な世界」を提示しています。このようなものはそれほど社会の変化に振り回されません。だから、このようなものを思考や感覚の基準として持っている人は、過去の人とも、他の国の人とも話し合うことが可能になるのです。「男性」とか「女性」とかいうような対立を超えるために必要なのは、「男性も女性も同じなんだよ」という社会的価値観を押しつけることではなく、人間とか、命とか、自然という「普遍的な世界への気づき」なんです。男女平等などというような「社会的に決めた価値観」は、社会の変化によって簡単にひっくり返ってしまうのですから。実際、社会的な価値観は常に変化しています。昔はかっこよかった服装が、数年後にはダサくなったりします。昔は、電車の中でもお店の中でも、タバコを吸っている人がいっぱいいましたが、今ではそれは許されないですよね。子ども達には「命を大切にしよう」とか「命は地球より重い」などと言いながら、戦争になると「敵」を殺すことが正当化されます。また、生き物たちがいっぱい生活している山や、野原を平気でブルトーザーなどで潰してビルを建てたりします。コロナ前にはみんなで仲良く遊ぶことが奨励されていたのに、コロナになったら急に、群れるな、話すな、手をつなぐな、近くに寄るな、などと言われるようになりました。子ども達は混乱したでしょうね。我が子の誕生に立ち会えなかった人、親や大切な人の死に目にも立ち会えなかった人もいっぱいいます。それまでは「大切なこと」として考えられていたような行為が簡単に否定されてしまったのです。このように社会的な価値観は常に変化しているのです。そのため、社会的な価値観だけを基準にして感じたり、考えたりしていると、人は簡単に感覚や思考の迷路にはまってしまうのです。そして「人間として本当に大切にしなければいけないこと」が分からなくなってしまうのです。そして今、社会全体がそのような状態になってしまっています。今の時代、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界」を大切にしている人は多くないような気がします。問題は、幼い子ども達は大人が創り出した人工的な世界ではなく、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といった普遍的な世界とのつながりの中で生きているということです。だから、社会的な価値観に翻弄されて生きている人には、子どもが生きている世界が分からないのです。子どもの成長に必要なものが分からないのです。命の働きを通して普遍的な世界とのつながりの中で生きている子ども達は、自然や、命や、宇宙や、真・善・美といったような「普遍的な世界」を素直に受け入れます。そして、そのような「変化しないもの」を基準にして感じたり、考えたりするようになります。そしてそのことで、感覚や思考が安定し、社会の変化にも振り回されなくなるのです。それに対して、常に変化する人工物に囲まれて育った子は、自分の内側にある「普遍的な世界とのつながり」が断たれ、「常に変化する社会的な価値観」を基準にして感じたり、考えたりするようになるでしょう。そのため、感覚や思考が不安定になり、社会の変化に振り回されるようになってしまうでしょう。
2024.03.15
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「優しさ」を育てるためには「想像力」を育てる必要があります。相手の立場に立って色々と考えることが出来る「想像力」です。「相手の立場」に立たずに、「学校に行かないと・・・」「歯を磨かないと・・・」「ちゃんと勉強しないと・・・」などと、自分の不安や希望から生まれた空想は「妄想」であって「想像」ではありません。一方的に、その妄想を押しつけられた子どもは苦しくなります。また、そのような人は、自分の勝手な思い込みだけで相手のことを判断します。自分が傷つきやすい人は、自分のちょっとした言動でも子どもが傷ついてしまうのではないかと恐れ、子どもの顔色をうかがい、子どもを叱ることが出来ません。その逆に、感受性が鈍い人は相手の気持ちなど考えずに色々とやったり言ったりしてしまいます。そして、「こんなことぐらいでは子どもは傷つかない」と思い込んでいます。よくあるパターンが、お母さんが傷つきやすく過度に子どものことを心配しているのに、お父さんの方はその逆に、「このくらいじゃ子どもは傷つかない」と思い込んでいる場合です。そういうお母さんからの相談も多いです。でも、両者の考え方とも自分の価値観や、考え方や、感性を基にした思い込みですから、話し合ってもラチがあきません。いくら話し合いを繰り返しても一向に近づきません。お互いに「なんで分かってくれないんだ」と「自分」の押し付け合いを繰り返すだけです。いずれの人にも共通しているのが「想像力の欠如」です。「優しさの欠如」ではありません。もちろん子育てでは、お母さんやお父さんの感性や、価値観や、考え方も大切です。でも、肝心の子ども自身の「感性や、価値観や、考え方」を無視して、お母さんやお父さんが「子どもの育て方」について議論しても意味がないのです。子どもの感性や、価値観や、考え方を知れば、話し合う上での共通の視点、土台が整います。そこで始めて「話し合い」が成り立つようになるのです。家を建てる時に、家を建てる場所の実際の状況が分からないまま「どんな家を建てたいのか」を考えたり議論したりしても無意味ですよね。それと同じようなことです。「インドに行ったらどうしようか」と色々と想像するためには、実際のインドについてちゃんと知る必要があります。野生の動物たちが幸せに生きることが出来るように考えるためには、野生の動物たちの生態を知る必要があります。何にも調べないであれこれ考えるのは妄想に過ぎません。私が考える「優しさ」とは、相手の価値観や考え方を大切にしてあげることです。子どもを大切にするということは「子どもが大切にしていること」を大切にしてあげることです。そして、相手のことを相手の視点に立って色々と学び、考えることで想像力が育つのです。自分の視点のまま相手のことを学び、何かしてあげても優しさにはつながらないのです。まただから、相手のことについて色々と学ぶ必要があるのです。ちなみに植物や生き物を育てたりすることでもこの想像力が育ちます。想像力を働かせないとすぐに枯れたり死んだりしてしまうからです。植物や生き物を育てたりすることが子どもの「優しさ」育てにもつながっているのです。でも今、そのような想像力が未熟な子ども達が増えて来ています。
2024.03.14
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時々、「子どもがアリを殺して遊んでいるときにはどうしたらいいのでしょうか」という質問を受けます。それは、子どもがアリを殺して遊ぶのが、身近でありふれた行為だからなのでしょう。大人としては子どもに命の大切さを教えなければいけないと思って「かわいそうだからやめなさい」と、一方的に子どもの行為を否定して止めてしまいまが、でも、じゃあそれで子どもに「命の大切さ」が伝わるのかというと、そんなことはありません。そのような一方的なやり方では、子どもに「お母さんに否定された」という記憶しか残すことが出来ません。そもそも、そのようなことを言う大人が「生命」を大切にした生活や生き方をしているのでしょうか。アリの命を「大切なもの」として考えているのでしょうか。茅ヶ崎の北の方に、「里山公園」という里山を生かした県立の大きな公園があります。以前、私はそこにも子ども達を連れて行って遊んでいたのですが、ドジョウやザリガニがいるので、子ども達はそういうものを捕まえて遊んでいました。うちのグループの子だけでなく、近隣の子ども達も子どもだけでやってきて同じようにドジョウやザリガニなどを取って遊んでいました。そうしたら、見回りの大人がやってきて、「ここで生き物を捕ってはいけない」などと言い始めました。そんな時も「生命は大切にしなければいけない」ということが言われます。いま、ちょっと大きな公園にはどこの公園にも「生き物を捕るな」「命を大切に」などというような看板が立っています。「木に登るな、草や花も摘むな」と書いてあるところもあります。その理由は「保護のため」ですが、でも大人達は必要があれば、一匹一匹生き物を殺すようなことをせず、そこに生きている生き物ごと、簡単に山を崩し、川や田んぼを埋め、ブルトーザーで草花を踏みつぶし、木を切り倒しています。外来種が増えれば、「在来種保護のため」という理由で積極的に捕まえて殺したりもします。そのような行為には、無機的な「計画」があるばかりで、「命を大切にする」という発想は全くありません。その里山公園を作る時も、最初の計画では、「すでにあった山を崩して、設計図通りに新しく山を作って公園を作る」というものだったそうです。私は、その時の反対運動をしていた人からその話を聞きました。それで、「そんなバカなことをするな」と住民が立ち上がって、今のような形に落ち着いたそうです。昨今、生き物が非常な勢いで死滅し、私が子どもの頃と比べても明らかにその種類も量も減っていますが、これは子ども達の責任ではなく、山を切り崩し、川や田んぼを埋め、木々を切り倒してきた大人達の責任です。環境汚染も、気候変動も全て大人の責任です。その大人が、平気で子どもに「命を大切にしろ」と説教するのですからおかしな話です。子ども達の「昆虫や生き物を捕まえて遊ぶ遊び」は太古の昔からあったと思います。でも、それで環境が破壊されたり、生き物が絶滅したなどという話は聞いたことがありません。昆虫採集を熱心にやった子が、残酷な大人になったという話も聞いたことがありません。むしろ子ども達は、そのような遊びを通して、生命のはかなさを知ったのです。「バケツいっぱい取れた」と喜んで持って帰っても、そのままではすぐにみんな死んでしまうからです。大人はそのことが分かっているので、最初から止めるのですが、子どもには「死ぬ」ということが分かりません。大人も言葉で伝えることは出来ません。これは体験するしかないのです。機械やオモチャは死にはしませんが、生き物は死ぬのです。だから、一生懸命に世話をするようにもなります。そのようにして「優しさ」が目覚めるのです。その、「世話をする」という過程で、その生き物のことをより詳しく知るようになったり、死ぬとはどういうことなのかということが分かるようになるのです。最近では、「生き物は死ぬから飼わない」と言う人がいますが、「大切にしていたものの死」を体験した子と、死なない機械ばかりで遊び、「死」を体験したことがない子とではどちらの子の方が「命の大切さ」を知っていると思いますか。そもそも現代人の「命を大切にしよう」という考え方は非常に偽善的です。釣った魚をその場でさばいて料理すると「残酷」などと言う子がいますが、平気で調理された魚や動物の肉は食べます。それは単に「死ぬところ、殺すところを見たくない」と言うだけのことであって、「命を大切にする」という価値観とは全く無関係です。それにそのような子に限って好き嫌いが多く、「食材として提供された生命」を平気で残したりします。また、「蚊やゴキブリなんかこの世から消えてなくなればいいんだ」などとも言います。「じゃあ、アリは殺してもいいのか」というと、それもまた違います。「大人も一緒になって、アリを踏みつぶして遊んだ方がいいのか」というのも違います。そんな時は、「アリさんのお話」を聞かせて上げて下さい。一緒に図鑑を見て、アリはどのように生活をして、何を食べ、寿命はどのくらいで、ということを一緒に学んで下さい。また、「アリ」が主人公の物語があったら、聞かせて上げて下さい。「アリ」のことを知ることで、むやみに「アリ」を殺したりはしなくなるのです。これは戦争のような状況で敵を殺す時も同じです。アメリカ人のことを何にも知らない人は、簡単に「アメリカ人は鬼だ」という言葉を信じ、平気でアメリカ人を殺すでしょう。そして実際そうでした。でも、アメリカで暮らしたことのある人や、アメリカ人の友達がいた人や、アメリカのことをよく知っている人は、そんな簡単にアメリカ人を殺せはしません。人は、知ることで優しくなることが出来るのです。「優しくしなさい」と押し付けるのは逆効果なのです。子どものことを知ることで子どもに優しくなることが出来るのです。男性は女性のことを知ることで女性に対して優しくなることが出来、女性は男性のことを知ることで男性に優しくなることが出来るのです。障碍を持っている人に対しても同じです。「無知」が残酷な行為を生み出すのです。私が、「気質」について書いたりワークをしたりしているのも、お互いにより深く相手を知るためです。「気質」を知るだけで優しくなることが出来るのです。」今、世界中で苦しんでいる人がいっぱいいますが、私たちは「無視」という残酷な行為をしています。子ども達の心の中に「優しさ」を育てるためには、まず、「その子自身が優しく扱われること」と、「相手のことを知ろうとすること」を教えることが必要なのです。「優しくしなさい」と叱る行為はその逆の結果を生み出してしまいます。また、その子自身が優しく扱われていない場合は、知ることが妬みを生み出し、逆に残虐な行為に及ぶこともあるので要注意です。
2024.03.13
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国も、学校も、社会も、「教育とは子どもの知的な能力を育てることだ」と思い込んでいます。私がネットなどで見ている感じでは、「新しい教育」と呼ばれている様々な活動でも子ども達の知的な能力を育てることがその大きな目的になっています。ちなみに、私が大好きなシュタイナー教育では「知的な能力の育ち」を教育の目的にはしていません。だからなかなか理解されないのでしょう。そして、その社会全体の流れに飲み込まれてしまって、「子どもの知的な能力を育てることが子育ての目的」だと思い込んでしまっているお母さんもいっぱいいます。「子どもの知的な能力を育ててあげないと生存競争に勝てない」と思い込んでいる人も多いです。そのようなお母さんは、子どもが小さい時から文字を教え、英語を習わせ、知育玩具を与え、様々な教室に通わせています。幼稚園も、ただ遊ばせてくれるだけの所ではなく、色々なことを教えてくれる所を選ぶ人が多いです。絵本なども読んで聞かせるのではなく、自分で読ませ、さらには「どんな内容だったか」を子どもに報告させているお母さんもいるようです。大分以前、東京のある幼稚園に呼ばれて、地域の幼稚園の組合?の先生達の合同研修をしてきたことがあります。その時、私を呼んでくれた園長先生に「どうして私を呼んでくれたのですか?」と聞いたら、「私の園では〝遊び〟を教育の大事な柱として取り入れているのですが、それの意味が、地域のお母さん達や、他の園の先生達に伝わらないので、そういうことを自分の園の先生達や他の園の先生達にも伝えて欲しくて・・」と、おっしゃっていました。幼稚園見学会をやっても、一通り見たお母さん達は「みんな楽しそうに遊んでいますね。でも、この園では子どもを遊ばせるだけなんですか?」と言って帰る人が多いそうです。でも、知的な能力の成長ばかりを目的とした子育てや教育では、AIのような能力は育つでしょうが、人間らしさとつながった知性は育たないのです。AIのような能力とは、問題や課題を与えられれば答えを得ることが出来る能力です。でも、AIは自分で課題を見つけ、自分の感覚で感じ、自分の意志で考え行動し、みんなの幸せを考えるようなことはしません。AIナニーに子育てを任せたら、感覚や、心や、意識や、からだの育ちが遅れ、無気力な子どもに育ってしまうでしょう。なぜなら、AIロボットは受け身的にしか考えないし、受け身的にしか行動しないからです。「言われたこと」はやりますが、「言われないこと」はやらないのです。(逆に、言われないことまで積極的にやるAIロボットが生まれたら怖いです。)人間のお母さんのように、子どもに積極的に話しかけ、積極的に触れ、積極的に一緒に遊ぼうとはしないのです。子どもの一挙手一投足に反応し、子どもと一緒に笑ったり、子どもの困った行動に怒ったりはしないのです。でも、子どもの「人間としての成長」に必要なのは、そのような沢山の「人間らしい関わり合い」なんです。文字を教えることでも、英語を教えることでも、算数を教えることでもないのです。幼い子どもが人間らしく成長するために必要なのは、人間らしさを備えた人間との人間らしい関わり合いなんです。そしてその「人間らしさ」こそが、AIとは異なる「人間としての知性」の育ちを支えてくれるのです。身につけた知識や能力を「自分のもの」として使いこなし、精神的に自立して生きるためには、「AI的な知性」ではなく、「人間としての知性」が必要になるのです。でも困ったことに、最近「AIナニー」のような子育てをしているお母さん達が増えて来ているようなのです。そのようなお母さんは、必要がなければ子どもと関わろうとしません。言葉が理解できない赤ちゃんに話しかけるような無駄なことはしません。離乳食も手作りせず、買ってきたものを与えます。オンブやダッコもしたがりません。そして常にベビーカーに乗せて荷物のように運んでいます。それでいて教育には熱心です。
2024.03.12
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「おおきくなるっていうことは」という絵本があります。(中川ひろたか・文 村上康成・絵)その最初にはおおきくなるっていうことはようふくが ちいさくなるってことと書かれています。そして、色々な「おおきくなるっていうことは」が書かれていて、最後におおきくなるっていうことはちいさいひとに やさしくなれるってことという言葉が書かれています。子ども達は自分の事だけを考えています。そしてそれが動物としての本能であり、子どもたちが自分の心とからだを守るために必要なことでもあります。よくお母さんは、他の子をぶってしまった我が子に「ぶたれたら痛いんだよ」などと言いますが、そんなこと言われても幼い子どもにはそんな想像は出来ません。中には、お母さんが我が子をぶって「ほら痛いでしょ、○○くんだって痛かったんだよ」などと「○○くんの痛み」を伝えようとしているお母さんがいますが、幼い子どもに分かるのは「自分がお母さんにぶたれた痛み」と「お母さんに否定された苦しみ」だけです。お母さんに叱られるのが嫌で行動を自粛するようになることもあるかも知れませんが、それは「成長」ではありません。そのため、後から困った問題が発生してきます。それにお母さんだって「○○くんの痛み」が分かっているわけではないはずです。そのようなことをするお母さんが分かっているのは、自分がちゃんとしつけが出来ていないことを見られてしまった悔しさだけです。特に幼い子どもは「自分の事」しか分からないのです。これは成長に伴う生理的な現象なので、いくら丁寧に説明しても通じないのです。それは皆さんが超能力を使えないのと同じことです。いくら頑張ったって出来ないものは出来ないのです。大人になっても「相手の気持ち」が分からない人もいっぱいいますよね。これはそれほど難しいことなんです。また、「自分の気持ちを押しつけること」と「優しさ」を取り違えている人もいます。「あんたのためなんだから」などと「優しさと感謝の押し売り」をしているお母さんが大切にしているのは「自分の気持ち」だけです。それはただの「おせっかい」です。また、子どもがケガをしないように、苦しまないようにと子どもの周囲から「危険なもの」を排除しようとするのも、やり過ぎてしまうと「自分の気持ちの押しつけ」になってしまいます。子どもの周囲から過度に「危険なもの」を遠ざけてしまうと、子どもが親の目を盗んでそれに触れた時にさらに危険なことが起きてしまうのです。そして子どもは、成長と共に親の目が届かないところで色々とやるようになってくるのです。それは避けられないのです。だから、子どもがまだ親の目が届くところで遊んでいる時期に、危険なものとの関わり方を伝えてあげた方がいいのです。ハサミや包丁の使い方、木登りや川や海での遊び方などです。ハサミや包丁の使い方を伝えるためには、実際に、ハサミや包丁を使わせてみるしかありません。ケガをするかも知れませんが、側で見ている状態でのケガなら大きなケガにはなりません。そうやって子どもの安心と可能性を育ててあげるのです。そして、そういうことが出来るようになることが「おおきくなるっていうこと」なんです。大人になるって事は「育てられた人」が「育てる人」になることです。「守られていた人」が「守る人」になることです。「伝承を受けた人」が「伝承を伝える人」になることです。「優しくされた人」が、他の人にも優しく出来るようになることです。他の子に乱暴をするような子は「乱暴」を伝承されたのです。(たまたま当たってしまったのは乱暴とは言いません)他の子に優しく出来るような子は「優しさ」を伝承されたのです。「優しくしなさい」と叱られたからではありません。だから、他の子に乱暴してしまう子に乱暴を止めさせるためには、ただ単に「乱暴」を否定するのではなく「優しさ」を伝えるしかないのです。「でたらめな言葉」で話している子に正しい言葉を伝えたいのなら、「でたらめ言葉」を否定するのではなく「正しい言葉」で話しかけてあげるしかないのです。おおきくなるっていうことは (ピーマン村の絵本たち) [ 中川ひろたか ]
2024.03.11
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(昨日からの続きです)昨日書いた「お母さんの成長」を支えているのが「子どものために」という意識の目覚めです。これは、親になって始めて目覚める意識であり感覚でもあります。基本的に子ども達は「自分のため」に生きています。自分のために感じ、考え、行動しています。お母さん達も子どもが生まれる前は似たような状態だったはずです。でも、妊娠期間中の長い時間お腹の中の赤ちゃんに意識を向け続け、出産の痛みの中で我が子を迎えることで、お母さんの意識が、「世話を受ける子ども」から「世話をする大人」へと変成していくのです。長い妊娠期間と出産の痛みが、「この子を守っていかなければいけない」という本能を目覚めさせてくれるのです。それはお母さんの人生で初めての感覚だと思います。ちなみにこれはお父さんでも同じだと思います。ただし、お父さんにこの意識が目覚めるのは、長い妊娠期間中、お母さんと共に「産まれてくる赤ちゃん」のことを考え、お母さんと同じような気持ちで産まれてくる赤ちゃんを迎えることが出来たお父さんに限るのではないかと思います。お母さんの場合は「逃げられない状況」の中での変化ですが、お父さんの場合は逃げたければ逃げることが出来てしまうのです。そして、逃げてしまったお父さんは、実際には「お父さん」になってしまっているのに、意識は子どもの時のままです。中には、子どもと一緒に「お母さんの奪い合い」までしているお父さんまでいます。子どもと「ゲームの奪い合い」をしているお父さんもいます。そして困ったことに、その「逃げること」を選択する男性がいっぱいいるのです。そのような男性は昔からいたでしょうが、最近増えて来ているような気がするのです。そのような男性は「俺の役割は金を稼いでくることだ」と言います。もちろんそれも大事ですが、それだけだったら子どもに「お父さん」がいないのと同じ状態になってしまいます。それは子どもの社会性の育ちに大きな影響を与えるでしょう。それに、お父さんがそのような状態では、お母さんの子育てが困難になってしまいます。当然のことながら、それは夫婦関係の悪化をもたらします。そして、夫婦関係の悪化は子どもの精神状態にも悪い影響を与えてしまいます。でも最近は、男性と同じような感覚の女性も増えて来たように感じるのです。そのような女性は、あまり「子どものために」とは考えません。むしろ「子どもの犠牲にはなりたくない」と考える傾向があります。そして自分の思い通りにならないことがあると「子どもがいるせいで」と考えてしまいます。子どもがいるせいでお酒が飲めない。子どもがいるせいで旅行に行けない。子どもがいるせいで好きなことが出来ない。子どもがいるせいで自由が束縛されている。子どもがいるせいでお金に不自由している。などなどです。そしてそのような人は、「子どもと共に」ということよりも「自分だけの時間」を大切にしようとします。まだ子どもが幼いのに、しかもそれほど経済的に困っていないのに、子育てよりも仕事を選ぶ女性も増えて来たみたいです。ただし、私は「子どもが幼い時には仕事をするな」と言うことを言っているわけではありません。親子が生き延びていくために仕事をせざるおえないのなら、それもまた「子どものために」という行為だからです。そして子どももそのことは感じてくれるでしょう。私が問題にしているのは。子育てから逃げるために仕事を選ぶ女性が増えて来たことです。妊娠と出産は自分が選んだ自分の人生の結果です。自分の子どもも、そして子育ても「自分の人生の一部」として発生しています。ですから、「子どもや子育てから逃げる」と言うことは、「自分の人生から逃げる」ということと同じになってしまうのです。そのような行為は苦しみの先送りをしているだけです。やがて、オマケと利子が付いて、更に大きな苦しみとして返ってきてしまうでしょう。何人たりとも、「自分の人生」からは逃げられないのですから。
2024.03.10
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昨日は、でも、最近の子はその「考える基礎となるデータベース」を作る機会も、時間も、場も与えられていません。それなのに大人は考えることを要求してきます。それで自分の頭で考えることが出来ない子ども達は、他の子を見て真似したり、大人の顔色を見たり、正解を暗記することで何とかしようとします。でも、いくら正解を覚えても、理解が出来ていないのですから子どもの成長にはつながりません。ただ「頭でっかち」の子どもが増えるだけです。と書きましたが、今、そのままの状態で大人になってしまった人たちがいっぱいいます。問題は、そのままの状態では自分らしく生きるのが困難だということです。また、自分で自分の生き方を決めることが出来ないので、考え方や、感じ方や、行動を、誰かや何かに依存しないと生活することが出来ません。それに、このような状態では子育てが出来ないのです。実際、多くの女性が結婚して子どもが生まれると、「子育て」という、それまでの人生で体験したことがないような世界の中に放り込まれ、閉じ込められてしまいます。その世界の中には正解がありません。依存したくても依存する対象がありません。「子育て書」に依存しても、すぐに裏切られてしまいます。「子育て書」には「一般的な例」は書いてありますが「自分の子」のことは書かれていないからです。その「自分の子」の言うことや、やることは意味不明です。何を求めているのかも意味不明です。大人の常識が全く通じません。言葉も通じません。時間も約束も守りません。反抗的な態度ばかりとり続けることもあります。でも、「ちゃんと育てなければ」「いい子に育てなければ」というプレッシャーはあります。それで、そのプレッシャーに負けて「虐待」という態度に出てしまう人もいます。無視や放任は積極的な虐待ではありませんが、子どもの心やからだの育ちを阻害するという点では立派な虐待です。でも、大部分のお母さん達はそのプレッシャーの中で、必死に子どもを守り、育てようとしています。だから、色々なことを学び、色々なことを考えます。色々なつながりを作ろうとする人もいっぱいいます。それまで興味がなかった「食」のこと、「心とからだ」のこと、「命」や「健康」のこと、「平和」について、「優しさ」について学び考え始める人もいっぱいいます。電磁波や放射能や戦争の問題にも関心を持つようになる人もいます。そして、そのことで価値観や、人生観や、生き方が変わってしまう人もいます。私の周囲には、子育てが一段落した後、子育ての間に学んだことや気付いたことを生かせるような活動を仕事として始める人もいます。女性は、「子育て」という過酷な修行を通して、自分自身の「育ち直し」が出来てしまうのです。でも、男性の方はその「育ち直し」が出来ません。そのため、結婚前には一致していたはずの、価値観や、考え方や、感覚がどんどんずれていってしまうのです。その結果、「私は何でこの人と結婚したんだろう?」と、愛し合っていた頃のことを想い出せなくなってしまう人もいます。
2024.03.09
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(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)************最近の人は本を読まなくなったという話をよく聞きます。教室の子ども達を見ていても、本を読みません。うちの教室には造形関係の本がいっぱい置いてあるのですが、それを開いて読もうとする子はほとんどいません。でも、教室を始めた20年、30年前の子ども達はその本をよく見ていたのです。本を読んで作りたいものを見つけ、作り方を調べ、自分で作ろうとしていたのです。私と家内はその手助けをしていただけです。でも最近の子は、「作るものがない、退屈だ」とは言うのですが、すぐ側に置いてある本を見て調べようとはしないのです。「作る」ということに対する好奇心自体が萎えてしまっているようなのです。「じゃあ、自分で考えてみな」と言うのですけど、「手やからだを使って考える」ということをしないで、頭だけで考えようとします。でも、頭の中に「考えるために必要なデータベース」がない状態では、考えることが出来るわけがないのです。「手やからだを使って学んだこと」がデータベースとして頭の中に入っているから「考える」という行為が可能になるのです。でも、最近の子はその「考える基礎となるデータベース」を作る機会も、時間も、場も与えられていません。それなのに大人は考えることを要求してきます。それで自分の頭で考えることが出来ない子ども達は、他の子を見て真似したり、大人の顔色を見たり、正解を暗記することで何とかしようとします。でも、いくら正解を覚えても、理解が出来ていないのですから子どもの成長にはつながりません。ただ「頭でっかち」の子どもが増えるだけです。またそのような状態の子は、本を読むことを楽しむことが出来ません。大人達は「文字が読めれば本も読める」などと思い込んでいますが、「文字が読める」ことと「本が読めること」は全く別物なんです。更に言えば「本を読めること」と、「本を楽しめること」も違います。そして、子どもの成長を支えてくれるのは「本を読む能力」ではなく、「本を楽しむことが出来る能力」の方なんです。そして本を楽しむためにも「手やからだを使って学んだデータベース」が必要になるのです。私はスペインに行く前にスペイン語を学びました。そのスペイン語は読み方のルールが単純なので、ちょっとした読み方さえ覚えれば、意味が分からない単語だって声に出して読めてしまいます。難しい本だって声に出して読めてしまいます。でも、声に出して読めても意味は不明です。でもそんなのは「読める」とは言えないですよね。韓国語も同じです。読み方のルールが単純なので、そのルールを覚えてしまえばどんなに難しい内容の本でも声に出して読むことだけは出来てしまうのです。でも子ども達は、家庭でも、学校でも、その「意味がないこと」ばかりをやらされています。多くのお母さん達が、子どもが小さい時から文字を教え、自分で読めるように仕付けています。学校も同じです。そして、文字が読めるようになると安心します。絵本を自分で読ませて、その話の意味を子どもに説明させているお母さんもいます。でも、そういう学びを押しつけられた子は、本を読むことを楽しむことが出来なくなってしまうでしょう。英語の学びでも同じです。いくら英単語や英会話を覚えさせても、「心やからだを通しての学び」がその言葉に伴っていなければ、子どもはその言葉を「自分の言葉」として使えるようにはならないのです。素敵な日本語を話すことが出来る子が英語を学べば素敵な英語を話すことが出来るようになるでしょう。今の時代、翻訳機を使ったっていいのです。でも、日本に住んでいながら日本語すらちゃんと話せない子が英語を学んでも、英語圏の人が耳を傾けてくれるような英語を話せるようにはならないのです。
2024.03.08
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古来から子ども達は、日常生活での体験や、大人や仲間との関わり合いを通して、「頭の使い方」や、「心の使い方」や、「からだの使い方」や、「感覚の使い方」を学んでいました。言葉や、論理や、知識や、常識を学ぶのも現実世界の中での体験を通してでした。まただから、学んだことが現実世界で通用したのです。でも、最近の子ども達はその「現実世界での体験」が奪われてしまっています。大人のために作られ、大人によって管理されている現代社会には、「子どもが自由に子どもらしくいることが出来る子どもの居場所」がないのです。その代わりに与えられているのが「ゲームの世界の中での体験」です。ゲームの中でなら、子ども達が何をしても、大人の生活には影響がありませんから、子ども達は自由に遊ぶことが出来ます。そして子どもも自由に遊ぶことが出来るゲームの中の世界が大好きです。ゲームのことばかり考えている子も結構います。そして子ども達はゲームの世界の中で様々な体験をすることで、言葉や、論理や、知識や、常識を学び、仲間を作っています。でも、ゲームの中で学ぶことが出来るのは、ゲームの中でしか通用しないことばかりです。でも、ゲームの中での体験しかない子どもは、そのことを知りません。釣りが大好きな友人がある時岸壁で釣りをしていたら、隣にいた小学生が「おかしいな、昨日はあんなにつれたのに」とブツブツ言っていたので、「昨日も釣りに来たのかい?」と聞いたら、「ゲームの中での釣りの話だったので驚いた」と言っていました。造形活動の場で子ども達と話していても、話が通じません。昔の子ども達に比べて、明らかに、論理的に考える能力、構造を考える能力、じっくり観察する能力、相手の言葉を理解する能力が低下しているのです。イスを作りたいという子に、材料の木を渡すと「何で切るの?」と聞いてきます。このように聞いてくる子は普通です。「自分で考えな」と放っておくとハサミやカッターで切ろうとしたりします。昨日もそういう子がいました。幼稚園児ではないですからね。小学校三年生です。でもそれでは切れないので「先生、切れない-」と言ってきます。それで、1.ハサミで切る2.超能力で切る3.ノコギリで切る4.魔法で切るというような選択肢を作って選ばせたりします。そして、このような選択肢があれば、ほとんどの子が「3」のノコギリを選ぶことができます。だから「ノコギリ」のことは知っているのです。でも、何もない状態の中で自分の頭で考えることが出来ないのです。自分の頭の中で「問い」を立てることが出来ないのです。次に聞いてくるのは「どこで切るの?」ということです。それで見本を見せるのですが、イスとして出来上がっている見本と、目の前にある材料の木の関係が理解出来ないのです。もっともこれはお母さん達も同じかも知れません。レンチンばかりしているお母さんは、八百屋さんに行って野菜を見ても、お料理をイメージ出来ないのではないでしょうか。それと最近の子ども達は「言葉」を知りません。もう少し正確に言うと、「言葉」は知っているのですが、その「言葉の意味」を知らないのです。例えば、「高さ」という言葉を知っている子に実際の箱を見せて「この箱の高さを計ってごらん」と言っても、どこを計ったらいいのかが分からないのです。「真ん中」という言葉を知っている子に棒を渡して「この棒の真ん中で切って」と言っても、どこが真ん中なのかが分からないのです。「言葉」と「現実の世界」がつながっていないからです。そのような状態の子に「命の大切さ」を教えても無駄です。「命と触れあう体験」が乏しい子ども達に「命を大切にしよう」と教えても、「命を大切にしよう」という言葉を覚えるだけです。「言葉」と「現実の世界」がつながっていないのはゲームの中では当たり前ですが、学校の授業でも「知識としての言葉」は教えても、実際にその言葉を体験させるということはしていません。最近は、私にSDGsについて説明してくれる子どももいますが、学校で教えられたとおりに言っているだけです。言っていることは立派なのですが、自分自身の体験とつながっていないので中身は空っぽです。「自分らしさを大切にしなさい」ということは教えても、子どもが「自分らしさ」を発揮すると「みんなと同じようにしなさい」と指導されます。「優しくしなさい」ということは教えても「優しいってどういうこと」という体験を与えてもらうことはありません。「差別は良くない」と言っている先生が平気で子ども達を差別しています。だから、みんな言葉では知っているのですが、その言葉の中身を知らないのです。
2024.03.07
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人間はあらゆる動物の中で唯一、「考えること」を楽しむことが出来る動物です。単純に考えるだけの動物なら、犬や猿など他にもいます。でも、彼らは考えることを楽しんでいるわけではありません。必要に迫られて考えているだけです。人間の中にも「考えることを楽しむことが出来る人間」と、「必要に迫られてしか考えない人間」がいます。前者のタイプの人は、自らの力で「問題」や「課題」を発見することが出来きます。ですから、自分で自分を教育することが出来ます。でも、後者のタイプの人は、与えられた問題を解くことしか出来ません。ですから、誰かに使われる「道具」としてしか生きていくことが出来ません。考えることを楽しむことが出来る人は道を歩いていても、新聞を読んでいても、いつでも何かを発見しています。なぜならそのような人にとって「考えること」は「発見すること」だからです。「考えることを楽しむこと」と「発見を楽しむこと」とは同じなんです。それは子どもを見ているとよく分かります。お母さんに「なぜ?」「どうして?」といつも聞いてくるような子はいつも何かを発見しているのです。逆に、何も発見できない子は「なぜ?」「どうして?」などと聞きはしないものです。そして、そういう子が増えてきています。「どうして雲は動いているの」「どうしてリンゴは落ちてくるの」「どうしてお日様は沈んじゃうの」「どうして雪は白いの」と聞いてくる子は「雲が動いていること」「リンゴが落ちてくること」「お日様が沈むこと」「雪が白いこと」を発見したのです。それでその理由を知りたくなったのです。そんなこと聞いてこない子も、そういうことは知っているでしょう。でも、「知っていること」と「発見すること」は全く違うことです。知っているだけの子はただ「現象」を知っているだけです。でも、発見する子はその現象の背景に何かの働きを感じることができます。だから「どうして?」「なんで?」と聞きたくなるのです。その背景を感じる働きが「Sense of Wonder」と呼ばれる感覚です。そして、その「背景」をたどることがそのまま「考える」ということになります。子どもの場合、それは「物語」という形になります。ですから、いっぱい発見できる子は考えることを楽しむことが出来ます。そして自分が発見した「物語」をいっぱい語ります。でも、発見できない子は考えることを楽しむことが出来ません。そして、知識についてだけ語ります。子どもがそのようなことを聞いてきた時、「そんなの当たり前でしょ」とか、「バカなこと聞くんじゃありません」とか、単に「客観的な知識」を与えてしまうと子どもはもう「なぜ?」「どうして?」と聞かなくなります。そうして、発見することをやめてしまいます。それと同時に考えることも楽しくなくなります。考えても「知識」は得られないからです。だから、大人が喜ぶような知識をいっぱい持っている子ほど自分の頭では考えないものです。ちなみに、自己肯定感が高い人ほど自分の頭で考えることを楽しんでいます。考えることを楽しむことが出来るということは、自分を肯定することに他ならないのです。ですから、単に自分にOKを出すだけでは自己肯定感は高くなりません。自己否定をやめることとと、自己肯定感を高くすることは同じではないのです。自己否定をやめるだけでなく、能動的に生きることが出来るようにならないと自己肯定感は高くなりません。勘違いしないでくださいね。自己肯定感が高いから能動的なのではなく、能動的に生きているから自己肯定感が高いのです。自分の意志で自分の自己肯定感を高くすることはできませんが、能動的に生きることなら自分の意志で実現することが出来ます。願っているだけ、待っているだけでは決して自己肯定感は高くなりません。そして、自分の子どもを自己肯定感の高い人間に育てたいのなら、その「能動的意志」を尊重してあげることです。子どもの「なぜ?」「どうして?」という質問は、子どもが自らの思考力で能動的に考えようとする意志の現れなんです。その意志に寄り添って上げる時に、子どもは考えることを楽しむ能力を育てることが出来るようになります。そして、自己肯定感も育っていきます。でも今の学校は、子どもたちに「考える楽しさを教える場」ではなく、逆に自分で考える無意味さを教える場になっています。また、校長は先生達にも、指示命令に従うだけで自分の頭で考えさせないようにしています。教育委員会はそれを校長に対してもやっています。そして教育委員会へは・・・・。こんなやり方をしていたら「考えることを楽しむ子」は育ちません。また、「自分の頭で考える楽しさ」を知っている子は、学校に行きたくなくなります。このような教育では知識はいっぱい知っていても、その知識の使い方を知らない子ばかりが増えていきます。その結果、自己肯定感の低い人や、依存心が強く指示や命令がないと動けない人が増えます。知識の量を競う競争で勝ち抜いてきた人たちが社会を支配するようになります。そして、そういう人たちは自由を嫌います。
2024.03.06
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