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12日に群馬に呼ばれてワークをしてきました。私は色々なところから呼ばれていますが、群馬は初めてです。大勢の方が参加して下さいました。みんな素敵なお母さん達でした。20名定員でしたが、「ベーゴマをやったことがある人?」と聞いたら、2/3ぐらいのお母さんが手を上げたのにはビックリしました。他の所でそんな質問をしても2,3人いるかいないかですから。これだけで、どういうことを大切にして、どういう生活をしているお母さん達が参加して下さったのか分かりますよね。で、その夜は呼んで下さった方の家に泊めて頂きました。その方の家は古民家を買い取りリフォームしたすごく大きな家です。二階は蚕を飼っていた巨大な空間がそのまま残っていました。その方は昭和の初め頃にタイムスリップしたような家で、昭和の初め頃にタイムスリップしたような生活をしていました。お子さんは小二(女子)、年中(男子)、2才(?・男子)の三人ですが、テレビもありません。もちろんゲーム機もありません。小二のお姉ちゃんの好物は「ニンジン」で、自分でニンジンを切ってパクパク食べていました。おやつで柿が出たときは、小二(女子)、年中(男子)の二人は自分で包丁で切って好きに食べていました。普通の家ではハサミすら「あぶないから」と言って自由に扱わせないのに、この二人は包丁も普通に使っていました。テレビもゲーム機もない、オモチャすらほとんどない状態で子ども達は退屈していたか、お母さんにまとわりついていたか、というと全くそんな事はありませんでした。にぎやかなくらいズーッと遊んでいました。その家の中にはハンモックが二つと縄ばしごがかけてあって、置いてあるのはジャンベ(太鼓)や様々な楽器類です。レゴのようなオモチャもちょこっとありましたが、本当に「ちょこっと」です。お父さんの仕事は農業で、子ども達も時々手伝うようです。こういう生活は今の時代では珍しいですが、でも、私が幼い頃はこれが当たり前でした。(ハンモックや縄ばしごやジャンベは当たり前ではありません出したけど・・・)私が子どもの頃だけではありません、人間は何千年、何万年とこのような生活を繰り返してきたのです。私が幼稚園ぐらいの時には、家にテレビがあるのは相当なお金持ちだけでした。ゲーム機なんてまだ発明すらされていません。オモチャも、木やブリキで出来たものはありましたが、プラスチックで出来たものはほとんどありませんでした。(セルロイド製はありましたけど)電気で動くオモチャもなければ、ベイブレードのような簡単に回せるコマもありませんでした。凧などの「あそぶもの」はみんな自分で作りました。ですから、男の子はみんな「肥後守」というナイフを持って歩いていました。「遊び」は、自分一人で何かを作ったり、探検や冒険をしたり、仲間と群れて昔遊びをしたり、大人に隠れて「危ないこと」をやったりしていました。そして子ども達はそういう生活に満足していました。そういう「なにもない」状態の中で、自分の力で色々発見し、色々な遊びを創り出していました。遊びの伝承もあったし、子どもと子どもだけでなく、子どもと大人の間にも様々なつながりがありました。お店に買い物に行けば「○○ちゃんお使いかい」などと、名前で呼んでもらえました。そういうつながりがいっぱいあったので、寂しいと感じることも、退屈だと感じることもありませんでした。路上で遊んでいても、大きな声で遊んでいても叱られませんでした。最近の子は「遊んでくれるもの」がなかったり、「遊んでくれる人」がいなかったりするとすぐに「退屈だ」と言いますが、そういうものがない時代の子ども達の方が退屈を感じなかったのです。「遊んでくれるもの」がなくても、「遊んでくれる人」がいなくても、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動することで、自分自身の「学び」と「成長」を感じることが出来たからなのでしょう。実際、子ども達はそういう素朴な生活の中で色々な体験をし、色々なことを学んでいたのです。他の人と幸せな関係を築く能力、他の人に自分の考えを伝え、他の人の考えを聞き、理解し、共感する能力、目的を共有し助け合う能力、自分の頭で考え、工夫し試行錯誤して、頭の中のイメージを具体的な形に作り上げていく能力、昔の子ども達は毎日の生活や遊びの中でそういう能力を育てていたのです。でも、テレビやゲーム機や、便利なオモチャや、楽しく遊ばせてくれる場が色々と登場することで、そういう能力を育てる必要が消えてしまいました。人間と関わらないのですから、人間として成長する必要もなくなりました。子どもが「退屈だ」と言うと、「自分の子育てがちゃんと出来ていないのではないか」と感じ、退屈しないように先回りして、色々な刺激を与えるお母さんも増えてきました。で、どうなったか・・・・。渡りをする蝶、「アサギマダラ」もいました。
2023.10.14
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人間は感覚の働きを通して、世界と、自然と、社会と、自分自身とつながり、幼い頃からのそのつながりの中で「心」や「からだ」が形成されるので、その人の感覚の状態が、そのまま「その人の心とからだの状態」に直結してきます。ですから、「その人はどういう感覚を持っている人なのか」ということが分かれば、「その人はどういう人なのか」ということまで大まかに分かります。また、「子どもの感覚育て」がそのまま「子どもの心とからだ育て」にもつながります。現代人は子どもの「頭」ばかりを育てようとしますが、「頭の働き」もまた「感覚の働き」の支配下にあるので、「頭育て」ばかりをさせられ「感覚育て」が出来なかった子は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動することが困難になります。ただ、赤ちゃんはみんな同じ感覚の状態で生まれてくるわけではありません。「感覚の初期値」にはかなり大きな個人差があるのです。最初から匂いに敏感な子、音に敏感な子、色に敏感な子、触覚に敏感な子、味に敏感な子、そしてその逆に、それらに鈍感な子もいます。この違いが気質の違いとなって現れて来ます。実は、「気質の違い」は「性格の違い」ではなく「感覚の違い」なんです。それと、「五感」と呼ばれる感覚は「自分と他者との関係性の中で必要となる感覚」ですが、「バランス感覚」のように、「自分自身を維持するために必要な感覚」もあります。からだを動かしたときに、自分のからだの動きを感じる感覚もあります。それらの感覚があるから、目を閉じた状態でも歩けるわけです。また、「お腹の調子」や「からだの調子」や「意識や心の状態」を感じる感覚もあります。みなさんにも「今日はなんか頭がすっきりしない」ということがあると思いますが、そういうことを感じるための感覚もあるということです。最近は自己肯定感が低い人が多いですが、その自意識を支えている感覚もあります。「自分」を感じることが出来るから、人は「自己肯定感が低い自分」を感じることが出来るわけです。「自分」を感じる感覚がなければ、自意識も生まれないし、自己肯定感が低いことに悩むこともないのです。これらの「からだの働きとつながった感覚」は、様々な「からだの体験」を通して育って行くので、子ども時代にどのような体験をしたのかによって、育ち方に大きな違いが出てきます。「バランス感覚」自体は誰にでもありますが、室内でばかり遊んでいた子と、屋外で野山を走り回り、木登りをしたりして遊んだ子とではその育ちに大きな違いが生まれるのです。「からだの動きを感じる能力」も、子どもの時の体験の質によってその育ちに大きな違いが生まれます。「自意識の育ち」もまた、「からだの活動」とつながっています。「からだの活動」を通して他者と出会うことで、人は「自分」という存在とも出会えるからです。木登りをすることで「木とは違う自分」に気づきます。犬と遊ぶことで「犬とは違う自分」に気づきます。他の子と遊ぶことで、「他の子とは違う自分」に気づきます。何かを作ったりする活動でもその素材との対話や、自分が作った作品を通して「自分」と出会えます。つまり、子どもが「自分」に気づき、「自分」を育てるためには、感覚の働きを通した「他者との出会い」が必要だと言うことです。ただし、「支配できない相手」との出会いでないと意味がありません。「支配できる相手」は自分を映す鏡になってくれないのです。ですから、室内で、自由に支配できるオモチャやゲームなどで一人っきりで遊んでいるだけでは、自分でも「自分」が分からなくなってしまうのです。そしてそれは、大きな不安につながります。これらの「からだの働きとつながった感覚」の他にも、さらに他の感覚もあります。それは、「心の働きとつながった感覚」です。「五感の働き」や「からだの働きとつながった感覚」は、人によって程度の差は大きいですが、その違いは「程度の違い」に過ぎません。ですから、古代の人も現代の人も、日本で育った人も、アメリカやアフリカで育った人も、「五感の働き」や「からだの働きとつながった感覚」の質にはそれほど大きな違いはありません。だからオリンピックでも、世界中の人が共通のルールで戦えるわけです。でも、「心の働きとつながった感覚」は、全く人それぞれです。その感覚に優れている人もいれば、その感覚が全くない人もいます。その違いは「文化の違い」として現れます。日本語には、「オノマトペ」と呼ばれる「視覚的な感覚を音化した言葉」がありますが、これは欧米の人にはない感性のようです。「美醜を感じる感覚」も全て「心の働きとつながった感覚」です。ですから、分かる人もいれば、どんなに説明しても分からない人もいます。このような「心の働きとつながった感覚」は先天的なものではないので、後天的に学ぶことが出来なかった人には理解出来ません。日本人にはワビ・サビを感じる感性や、視覚的な現象に音を感じる感性があります(大分弱くなりましたけど)が、これらの感覚は日本語を学ぶことで育ちます。日本語が日本人の心を作り、日本人の感性を目覚めさせているのです。ちなみにシュタイナー教育では人には12種類の感覚があると言っています。それは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、熱感覚、運動感覚、平衡感覚、生命感覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚などです。詳しいことはご自分でお調べ下さい。
2023.10.13
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昨日、「心の問題」の背景には「からだの問題」があり、「からだの問題」の背景には「感覚の問題」があるのです。でも、現代社会では「感覚の働き」は必要とされていません。また、それを育てる場もありません。と書きましたが、でも、このことがなかなか理解されません。シュタイナー教育にはこのような視点からの教育法があるのですが、他には見当たりません。モンテッソーリ教育も「感覚の育ち」は大切にしているようですが、シュタイナー教育とは視点が異なります。「モンテッソーリ教育」で大切にしている感覚は「客観的に観察し、判断するための感覚」です。この感覚能力が育つと「客観的に見、感じ、考える能力」が育ちます。これはこれで大切な能力なんですが、今の時代、決定的に足らないのが「その対象とつながり、味わうための感覚」なんです。それは、「青い色」を「これは青だ」と判断する能力ではなく、「青とつながり、青を味わう能力」です。「あ」という声を聞いて「これは〝あ〟です」と判断する能力ではなく、「あ」とつながり、「あ」を味わう能力です。どうですか、意味不明でしょ。そして実は、この感覚能力は、先日来書いていた「武道」でも必要になるのです。武道においても「客観的に観察し、判断するための感覚」は必要です。でも、それだけでは深い世界に入っていけないのです。スポーツにおいては相手は敵であり、他者です。だから「客観的に観察し、判断するための感覚」が必要になります。でも、力を使わず、相手と対立せず戦う武道ではこの感覚はかえって邪魔になるのです。力も使わず、相手と対立することもなく相手を倒すためには、相手と一体化する感覚が必要になるからです。一体化した状態で相手の力を使い、それに合わせることで相手の動きを誘導するのです。だから相手は戦っている気がしないのに倒されてしまうのです。ブルースリーは「Don't think! Feel.(考えるな!感じろ)」と言いましたが、それがこれです。太極拳には、その感覚を養うための「推手」(すいしゅ)という練習法もあります。こちらを見ると、それがどんなものか分かります。それほど多くはありませんが、私もやりました。ですから、ブルースリーが言うところの「Feel」は私たちが一般的に使っている「感じる」ではないのです。私たちが一般的に使っている「感じる」は「客観的に観察し、判断するための感覚」の方だからです。そしてそれは「考える」という頭の働きとつながっています。ブルースリーは「Don't think」という言葉でそれを否定したのです。川や海などで泳ぐときには、いちいち頭で考えずに川の流れや波と一体になって泳ぐ必要がありますよね。自分の想い通りに泳ごうとするのではなく水の流れや波と一体になって、それに逆らうのではなく、むしろそれを利用して泳ぐのです。それが出来ないと溺れてしまいます。それが、ブルースリーが言う所の「Feel」なんです。これは、人々がまだ自然とともに生きていた時代には当たり前の感覚だったでしょう。でも、便利な機械があればこの感覚は必要がありません。川の流れや波を感じ、それを利用する能力がなくても、船があれば好きなところに行くことが出来るのですから。その場合、必要になるのは「流れや波を感じる能力を育てる」ことではなく、「船の操縦法を学ぶこと」です。問題は、現代人が私たちの一番身近にあって、絶対に離れることが出来ない「からだという自然」まで、この感覚で支配しようとし始めたことです。その結果、人々は「からだの声」を聴こうとはしなくなりました。具合が悪いときには薬を使って黙らせようとします。でもそれを繰り返していると、心の方に問題が表れてくるのです。心とからだは一体ですから。
2023.10.11
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今、「自分に自信がないお母さん」や「不安が強いお母さん」が非常に多いです。あきれるくらい多いです。そういうお母さんは、分からないことがあっても自分の頭で考えようとしません。考えるのではなく正解を探そうとするのです。そして、正解が見つからないと悩みます。でも、子育てや人生の正解なんてどこにも存在していません。だから、自分の頭で考えて色々と工夫し、やってみればいいのですが、自分に自信がないお母さんにはそれが出来ないのです。そして、毎日同じことを繰り返します。でも、当然のことながら、同じことを繰り返しても同じ結果にしかなりません。そのため、「抜け出すことが出来ない檻」の中に閉じ込められているような苦しさを感じます。そういうお母さんに育てられている子だって苦しいでしょう。自分の人生に希望を持つこともできなくなるでしょう。そういう状態のお母さんにはいくつかの共通した特徴があります。まず、興味の範囲が非常に狭いということです。毎日の家事や、目先のことや、子育てや自分のことしか考えていません。そして、自分の時間を楽しむための趣味を持っていません。そういう人は「趣味を楽しむ時間なんかない」と言います。でも、「自分の時間」は「与えてもらうもの」ではなく、色々と考え、工夫し、「自分で作り出すもの」です。実際、そういう言い訳をする人に限って、「自分の時間を」作ろうとしていないように見えます。「自分の時間」を作っても「やりたいこと」がないからです。むしろ、「自分の時間」があったとしても、そこに、それほど必要がない家事や子育てを詰め込んで忙しくしてしまう人がいっぱいいます。忙しくしていると安心するのでしょうか。「自分の時間」は「自分と向き合う時間」でもあります。「自分の時間」を作ろうとしない人は、それを避けようとしているのかも知れません。現代人は子どもも大人も「暇」を嫌いますが、それもまた「自分と向き合うこと」から逃げようとする表れなのでしょう。それに対して、色々なことに興味を感じて色々と考えたり勉強しているような人や、色々な趣味を持って楽しんでいるような人は「悩みのループ」にはまりにくいのです。それほど自己肯定感も低くありません。意識が「外の世界」とつながっているからです。他にも、私が「自分に自信がないお母さん」「不安が強いお母さん」の特徴として感じるのは、「からだ」が育っていない人が多いということです。「肉体」は育っていても、「自分の命の働きを支えているからだ」が育っていないのです。だから生命力が弱いのです。そして人は、生命力が弱くなると自分を守ることばかりを考えるようになるのです。一般的に、年を取ると生命力が衰えてきます。すると自分を守ることばかり考えるようになります。今の人たちは実年齢は若いのに、からだの状態に関しては老人達と似ているのです。そしてそれは「感覚の働き」が萎えていることの表れでもあります。「生き生きとしたからだ」は「生き生きとした感覚の働き」によって支えられているからです。「生き生きとした心」もまた、「生き生きとした感覚の働き」によって支えられています。「心の問題」の背景には「からだの問題」があり、「からだの問題」の背景には「感覚の問題」があるのです。でも、現代社会では「感覚の働き」は必要とされていません。また、それを育てる場もありません。私はそれが「自分に自信がないお母さん」や「不安が強いお母さん」、そして「心を病む人」が増えてきた原因なのではないかと考えています。
2023.10.10
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日本の武道について説明するのは難しいです。武道で大切にされているのは「からだの使い方」以上に「感覚や意識や心の使い方」だからです。「からだの使い方」は目で見ることが出来ます。目で見ることが出来るので説明することもできます。youtubeでも見て確認することが出来ます。でも、「感覚や意識や心の使い方」は、目で見ることが出来ません。その違いは触れればわかりますが、触れてみて「違う」ということは分かってもどうしてそういう違いが生まれているのかは分かりません。見かけは同じなのに、「感覚や意識や心の使い方」が違うと、触れたときの感覚が全く違うのです。たとえば、ただ腕をつかんだ場合と、相手のからだ全体を意識して腕をつかんだ場合とでは、見かけは同じでも、「つかまれた感触」が全く違うのです。ちなみに武道では「触れる」という感覚を大切にしています。これは太極拳でもシステマでも同じです。これは、力と力がぶつかり合って戦うスポーツにはない感覚です。柔道もスポーツ化される過程でこの感覚を失ってしまったようです。「武道」は「肉体と肉体の戦い」ではなく「心と心の戦い」なんです。だから、からだの大きさにも、年齢にも関係しないのです。江戸時代の話ですが、少しぐらい道場剣法で強い人でも、竹刀ではなく真剣で戦ったら町中のケンカ慣れしているやくざに簡単に切られてしまったそうです。命知らずのやくざに、心で負けてしまったからなのでしょう。スポーツは決められたルールの中で、勝ち負けを競うだけです。負けても死にはしません。でも武道は、ルールのない戦いの中で、命のやり取りをしながら生き延びるために生まれてきた技術です。今では命のやり取りはしませんが、それでもそれが武道の原点にはあるのです。まただから試合はしないのです。試合をするためにはルールが必要です。ルールなしで武道の試合をしたらけが人が続出するでしょう。私が学んでいる古武術の先生も「ここでこう力を入れたら腕が折れるから」と言って指導しています。でも、ルールを決めたらもうそれはスポーツであって武道ではなくなってしまうのです。根本的なところで両者は全く違うのです。そんな武道は日常生活の中でも使えます。武道で一番大切なのは戦わなくてもいい場合は戦わないことです。小さなことでいちいち戦っていたら命がいくつあっても足りませんから。また、安易に敵を作らないのも大切なことです。相手が怒ってきたときにも「ニコッ」と返すのも武道の技です。これが出来ないと、押されたら無意識的に反応して押し返してしまいます。すると、そこを突かれて技をかけられてしまいます。武道は「心の使い方」とつながっているがゆえに「生き方」ともつながっているのです。今の時代、命のやり取りはしませんが、武道を学ぶことで敵を作らなくても自分らしく生きることが出来る手助けになると思います。また自分の心や、からだや、感覚との関わり方も分かります。「自分」を知る手助けにもなります。そして「自分」に振り回されなくなります。姿勢もよくなるでしょう。身近なところでは合気道なんかいいと思います。社会が近代化する過程で子どもの生活の中から失われてしまった心や、感覚や、からだの使い方を学ぶこともできると思います。
2023.10.09
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最初にお断りしておきますが、武道にも色々とあります。考え方も、修行方法も様々です。どの流派でも姿勢は大切にされていますが、どういう姿勢がいいのかは流派によって異なります。技が異なるからなのでしょう。ですから異論反論色々ある方もいらっしゃるかも知れませんが、ここで書いているのは私が学び、私が知っている範囲での武道やからだの使い方に関しての知識に過ぎません。また私は偉そうなことを書いていますが達人ではありません。まだまだ初心者です。その辺はご理解ください。****昔の日本人の「からだの使い方」は現代人の「からだの使い方」とは大きく異なっていたようです。欧米の人の「からだの使い方」とはもっと大きく異なっていました。わかりやすいところで言うと、日本と欧米とでは「ノコギリの使い方」が逆です。日本では引いて切りますが、欧米では押して切ります。引いて切るときには腕よりも腰を使います。押して切るときには腰よりも腕や体重を使います。それは日本人と欧米人の骨格や筋肉の違いとも関係しているのかも知れません。日本の刀と、欧米の剣やサーベルの使い方も違います。からだの使い方がそもそも違います。欧米では剣やサーベルを道具として使っていましたが、日本における刀は自分のからだの一部です。だから、「剣術を学ぶ」と言うことは「剣の使い方」を学ぶことではなく、「剣と一体になったからだの使い方」を学ぶことです。そしてそれがそのまま今の柔道の源流である柔術につながっています。もともと、「剣術におけるからだの使い方」と「柔術におけるからだの使い方」は同じだったのです。そのため、古武術では、体術だけでなく刀や杖を使った稽古もやります。合気道も同じでしょう。合気道の動画などを見ていると、手ではなく刀や杖(じょう)を使っても合気をかけることが出来るようです。日本人にとって刀や杖は道具ではなく手の延長なんです。西洋で生まれた「勝ち負けを競うスポーツ」を学ぶ時に必要になるのはパワーとスピードを身につけることです。それは剣やからだを道具として使ってきた人たちの発想です。でも、勝ち負けを競わず、力を使わないで戦う武道の学びにおいては、パワーやスピードはあまり意味がありません。それよりも、「感覚や心やからだの使い方」を学ぶ必要があるのです。そこで求められるのは、「現代人のからだの使い方」とは全く異なった「からだの使い方」です。皆さんは「ナンバ歩き」というものをご存じですか。現代人は手を振って歩きますが、昔の人は手を振って歩きませんでした。そもそも、手をぶらぶらさせていませんでした。さらに、「着物」という大股では歩くことが出来ない服を着ていました。この状態で歩くと自然と「ナンバ」になります。それは「からだをひねらない歩き方」です。よく「ナンバ歩き」というと「右手と右足、左手と左足を一緒に動かす歩き方」というような説明をする人がいますが、そんな変な歩き方はしません。そもそも手をブラブラ振らないのですから。皆さんが靴を履いて普通に歩くときには、後ろ足を蹴って歩きますよね。でも、「ナンバ」で歩くときには後ろ足を蹴らないのです。後足に力を入れて蹴って前に進むのではなく、前足の力を抜いて前に倒れるようにして前に進むのです。方向転換するときも、行きたい方向の足の力を抜けばそちらに進むことが出来ます。そうするとからだをねじることが困難な着物を着ていても、早く歩けるのです。両足で立って見て下さい。その状態から右側に歩いてみて下さい。左足で蹴っていますよね。でもその時、左足で蹴るのではなく右足を抜いてみて下さい。すると、からだが右に傾きますよね。それに合わせて足を出せばいいのです。この方が蹴るよりも力は少なくてすむし早いのです。欧米の人や現代人は力を入れて動いていますが、昔の日本人は逆に力を抜くことで動いていたのです。刀も、腕に力を入れて振るのではなく、腕の力を抜いて振ります。そうしないと日本の刀は切れないし曲がったり折れてしまったりするのです。あと、からだをつながりの中で使おうとします。簡単に言うとからだを固めないのです。何か重いものを持ち上げるとき、普通は、下半身を固めて、それを土台にして腕や上半身だけで持ち上げようとしますがそれをやると腰を痛めます。そうではなく、腕も、足も、腰も固めないのです。力も入れません。そして、からだに重さを預けてしまうのです。すると楽に上がります。右手で技をかけるときには左手も生きている必要があります。上半身を使うときには下半身も生きている必要があります。そうしないと力ずくになってしまうからです。あと重要なのは姿勢です。仲間と技を掛け合っていてどうしてもかからないのに、指導してくれている人に姿勢を直してもらうだけで、さっきまで力いっぱいやってもかからなかったのに、力を入れなくても簡単に技がかかるようになるのです。ものすごく不思議です。他にもまだまだ不思議なこと、面白いことが山のようにあるのですが、これくらいにしておきます。ちなみに、私は茅ヶ崎でからだの教室をやっています。ご興味のある方はこちらにご参加下さい。
2023.10.08
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スポーツと呼ばれるものには必ず「試合」があります。そして、勝ち負けを競うのがスポーツの目的でもあり、面白い所でもあり、スポーツがイベントとして成り立つ所以でもあります。でも、合気道や古武術と言われるものには試合がありません。私は、システマというロシアの格闘技も学んでいますが、システマにも試合はありません。太極拳にも試合はありません。(実力の確認や腕試しとしての試合はあるでしょうが、それをするかどうかは個人の趣味であって、スポーツのように必ず必要なものではありません。)なぜなら、合気道にも、古武術にも、太極拳にも、システマにも攻撃技がないからです。「攻撃を受けたときの受け」しかないのです。受け技しか持っていないものが立ち会っても戦いが起きるわけがないのです。スポーツではそれだけで負けになってしまうでしょう。練習の場では、一方が「仮想敵」になってそれを受けて練習するのですが、これは型の正確さの確認のために行うものであって、勝ち負けとは関係がありません。型が正しく出来ていないと受けられないのです。(型がないシステマでは、型の確認ではなくからだの使い方の確認をします)太極拳のあの型も「こう来たらこう受けてこう返す」という「型」なんです。そして、攻撃には力が必要ですが、受けて返すだけなら力は必要がないのです。相手の力を利用すればいいのですから。ただし、どんな攻撃でも自由に受け流すためには、心やからだの自由と、その自由を支えるためのしっかりとした土台(からだ)が必要になります。そして、その時に必要になるのが「正しい姿勢」なんです。そして、姿勢に厳しいのがこれらの「試合をしない武術(格闘技)」の特徴でもあります。ロシア生まれのシステマでもそれは同じです。それに対して、勝ち負けを競う柔道では姿勢は無視されています。ただし、柔道の開祖の加納治五郎の姿勢はいいですよ。(youtubeで古い動画を見ることが出来ます)そうでないと「柔よく剛を制す」といった柔道は出来ませんから。スポーツ化され、勝ち負けを競うようになる過程で姿勢は二の次になってしまったのでしょうね。でもだから、体重別を取り入れる必要が生まれたのでしょうね。ちなみに、私が小・中と通っていた柔道の道場の先生も姿勢には厳しかったです。ちゃんと背筋を立てて組み合っていないと注意されました。私が昔太極拳を学んでいた先生は実践派の人だったので、型を覚えるだけでなく実際に使ってみる練習もしていました。でも、必ず先生本人が相手をして、生徒同士は戦わせませんでした。その時、先生は「下手な者同士が戦うと、力ずくになってしまい変な癖がついてしまうから」と言っていました。力ずくの戦いでは技よりも体格や、筋力や、体力の方がものを言います。だったら長い時間をかけて技を学ぶよりも、筋トレをした方がすぐに強くなれるのです。でも、この強さはからだが衰えるとともに簡単に消えていきます。合気道の動画を見ると、お年寄りの先生がポンポン若者を投げています。あれを「やらせ」だと言う人もいますが(中にはそういうものもあるようですが)実際にそういうことが出来る人もいるのです。太極拳の世界にもそういう人はいます。あれは、相手の力をまともに受けず、戦っていないから出来ることなんです。確かに、試合をしない武道や格闘技では、その人が本当はどれくらい強いのか分かりません。でも確実に言えるのは、そういう武道は、年をとっても、やればやるほど「からだが持つ深い世界」を知り、楽しむことが出来るということです。また、心の成長にもつながります。中国の少林寺で生まれた小林拳は、敵と戦うためでなく、お坊さん達が自分たちの心とからだの修行のために考え出したものです。
2023.10.07
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「めげぞう」さんから以下のような質問を頂きましたのでお答えします。最近、武道の世界を親子でのぞいてみたいのですが、武道は勉強やスポーツとは全く違う世界なのでしょうか?もし可能でしたら教えていただけたら嬉しいです。武道は、頑張っている感じはしないイメージです。武道にも色々とあって一概に論じることは出来ないのですが、「めげぞう」さんが「頑張っている感じはしないイメージです」と書いていらっしゃるので、多分、合気道や古武術系の武道をご覧になったのでしょう。実は日本古来の武道は、一見、スポーツに似ていますがその内容は全く異なっています。まず、目的が全く違います。練習方法も、からだの使い方も全く違います。スポーツでは勝ち負けを競います。でも、武道では勝ち負けを競いません。「じゃあ、どんだけ強くなったか分からないじゃないですか」と言われたらその通りです。でも、上達すれば意識や、感覚や、心や、からだの状態が変わってきます。また、見える世界、感じる世界も変わってきます。それまで感じることが出来なかったものを感じることが出来るようになったり、見えなかったものが見えるようになるのです。これがなかなか面白いのです。また、スピードとパワーを重視するスポーツでは「フィジカルトレーニング」(肉体訓練)がメインですが、武道では感覚や、精神や、心の鍛錬の方が重要になります。武道には「肉体を鍛える」という発想がないのです。時代劇を見ていても、重い刀を振り回すのに筋トレなどをしてからだを鍛えているお侍さんは出てきませんよね。宮本武蔵なんか3年間も本ばかり読んで過ごしたのですから。ただし、だからといって「肉体がか弱くてもいい」という話ではありません。実際、かなり過酷な練習を求められます。でも、その目的が勝ち負けを競うスポーツとは異なっているということです。「相手をやっつけるための筋肉」は必要はなくても、「自由に自分の姿勢や動きや感覚や精神を制御するための筋肉」は必要になるからです。それは、からだを動かすための「外側の筋肉」ではなく、内蔵や骨格を支えている「内側の筋肉」です。また、スポーツでは勝ち負けを競います。でも、武道では勝ち負けを競いません。なぜなら武道は「相手に勝つためのもの」ではなく「自分を守るためのもの」だからです。ですから、戦わなくても逃げられるなら逃げた方がいいのです。そして、実戦の場では心もからだも自由に動かせる方が生き延びる可能性が高くなるのです。ただし、名を上げるために戦うときには勝つために戦います。でもそれは、武道本来の目的ではありません。太極拳も力を使わないで戦う武術ですが、昔の中国では、初心者は空気イスのようなトレーニング(站椿功)を3時間続けて出来るようにならないと教えてもらえなかったそうです。これもまた筋トレではありません。私も、昔太極拳を学んでいたときはこの空気イスをしょっちゅうやらされました。かなりきついです。だから頑張ります。すると先生が来て「頑張るな」と言うのです。で、「頑張るな」と言われたので立ち上がりました。すると「立つんじゃない」と叱られました。中腰のままで、しかも姿勢を崩さないで「頑張るな」と、無茶なことを要求されるのです。さらには、「からだを緩めろ」、「笑え」などとも言われました。足がきつくてきつくてしょうがない状態なのに。この時、「腰が抜ける」という状態を初めて体験しました。急に足に力が入らなくなってストーンと倒れてしまったのです。これは筋肉的にはかなりきつい練習ですがこれもまた筋トレではないのです。筋肉を付けるのが目的ではないからです。合気道でも「膝行」というものをやります。膝立ちのまま歩くのです。動画で見ると分かりやすいですが、これもやってみるとかなり筋肉がきつくなります。動画を参考にしてやってみて下さい。きっと明日は筋肉痛です。でもこれも筋トレではありません。最初に太極拳を学んでいた先生が柳生診陰流もやっていたので、その先生に連れられて柳生診陰流の練習を見たことがあります。その時は「振り棒」という、ほとんど家の柱レベルの太さの棒を振っていました。それを千回以上振ると言っていました。https://www.youtube.com/watch?v=0qFLjwLLf4U先生の腕もまた丸太のように太かったですが、これもまた筋トレではありません。長くなりそうなので明日に続けます。
2023.10.06
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多くのお母さんたちが「子どものために」と頑張っています。子どものために食事を作り、子どものために洗濯をし、子どものためにあれこれ考え、子どものために仕事をして、子どものために時間を作って公園に行ったりして、子どものために習い事に通わせ、他にもいろいろ「子どものために」とやっています。そして、それが「母親としての勤め」だと思い込んでいます。そして周囲も、子どものためにあれこれやってあげているお母さんを見て「良いお母さん」だと評価します。お母さん自身も、そのように子どものために色々とやってあげないと子どもはちゃんと育たないと思っています。だから必死になって「子どものために」と頑張っているのでしょう。自分の人生や、やりたいことや、自分らしい生き方まで放棄して・・・。というか、最初からそういうものを持っていない人ほどそういう子育てにはまっていきます。そして、追い詰められていきます。その結果、子どもに対して「あんたのせいで」という感情を持ってしまうお母さんもいます。自分でそういう状態を作り出しているのに、思い通りにならないとその責任を子どもに転化してしまうのです。でも、子どもの育ちに必要なのは「色々とやってあげること」ではないのです。お母さんが子どもの犠牲になることでもないのです。そもそも、子どもはそんなこと求めていません。多くのお母さんが、「子どもが求めていないもの」や、「子どもの育ちに必要がないもの」や、「子どもの育ちを阻害するようなもの」を子どもに与えるために一生懸命に頑張っているのです。その一方で「子どもが求めているもの」や「子どもの育ちに必要なもの」は与えていません。そういうものに気付いてもいません。それは、お母さん自身が自分の人生をちゃんと生きていないからなのではないでしょうか。お母さん自身が、「自分の人生を幸せに生きるためには何が必要なのか」が分かっていないから、「子どもの育ちに必要なもの」も分からないのです。あれこれやってあげてしまうのも、「子どものために」というより、あれこれやってあげていないと不安になってしまうからに過ぎません。子どもを「早くしなさい」とか、「勉強しなさい」などと追い立てるのも、追い立てていないと不安になってしまうからです。子どもに色々と習い事をさせるのも、みんなと同じようにしていないと不安になってしまうからです。でも実際には、子どもがお母さんに求めていることも、子どもの育ちに必要なことも、もっとシンプルなことなんです。幼い子どもはただ、お母さんの傍にいたいだけなんです。子どもがお母さんに求めているもの、そして、子どもの育ちに必要なものは、お母さんと感覚や、感情や、体験や、言葉や、物語を共有することだけです。「何かをやってあげること」ではなく、「子どもと色々なことを共有すること」が大切なんです。だから、色々なことを子どもと一緒に楽しめばいいのです。それだけで子どもはちゃんと育つのです。「美味しいご飯を作ってあげる」というのも母心かも知れませんが、子どもに手伝ってもらいながら一緒に楽しくご飯を作る方が子どもの育ちを支える力になるのです。また、子どもが食べている間に別のことをするのではなく、素朴な食事であっても「美味しいね」と顔を見合わせたり、色々と楽しいことをお話ししながら一緒に食べた方が美味しく感じるものです。また、作ってもらったものだけを食べている子よりも、お母さんと一緒に作っている子や、お母さんと一緒に食べることを楽しんでいる子の方が食べることを楽しむことが出来るようになるでしょう。また、好き嫌いも少なくなるでしょう。子育ての世界に「簡単便利」の思想を取り入れてはいけないのです。お母さんと一緒に歌を歌って育った子は歌が好きになるでしょう。お母さんと一緒に感じたり考えたりして育った子は、感じたり考えたりすることが好きになるでしょう。お母さんと一緒に仲間と遊んだ子は、仲間と遊ぶことが出来るようになるでしょう。でも、そのためにはまずお母さん自身が、自分の感覚や、感情や、やりたいことや、生き方をちゃんと取り戻すところから始める必要があるのです。自立していないお母さんに子どもの自立を支えることが出来るわけがないのです。
2023.10.05
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「私たちの行動」は「私たちの心」が決めています。これは子どもでも、大人でも同じです。大人になると頭で考えて行動することも多くなりますが、でも、頭が「自分の心」と矛盾する行動を求めてきたとき、「自分の心」を否定して頭の判断に従ってばかりいると、「心の働き」がどんどん萎えてきます。そして、否定的な感情に囚われやすくなります。からだも固まってきます。それでも、頭の指示に従ってからだを動かしていると非常に疲れます。だって、ブレーキをかけたままアクセルを吹かしているようなものだからです。度を超せば、心やからだが壊れます。でも、「心の声」に従って行動しているときにはからだは緩みます。からだが軽くなります。感覚も働き始め、色々なことに気付くことが出来ます。また、頭の働きも活性化します。子どもたちが夢中になって遊んでいるときはこのような状態です。でも、大人達は子どもたちがこのような状態で楽しく遊んでいると、「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と叱ります。また、このように自由に遊べる場も、時間も与えません。勉強だって楽しくやれば効率よくなるのに、なぜか頑張らないとできないような退屈なものに変えて子どもたちに押しつけています。そのため非常に効率が悪くなってしまっています。だから、さらに自分の気持ちを否定して頑張らないと付いていくことが出来なくなってしまっているのです。日本の大人達は「頑張らない人間はダメ人間だ」という教えの、怪しい新興宗教にはまってしまっているのでしょうか。でも、自分の気持ちを否定して頑張って勉強しても、「自分の気持ちを否定して学んだこと」は身につきません。子どもの心とからだを育てる力にもなりません。せいぜい、成績という記録を伸ばすのに役に立つだけです。でも、記録を伸ばすことが出来れば、記録と引き替えに子どもたちが疲れ果てても親や先生は喜びます。子どもの方も、勉強が自分の成長にはつながっていなくても、成績がアップすれば親や先生が喜んでくれるので、それで自分を納得させようとします。そして「記録アップ=自分の成長」と思い込みます。本来の「成長する喜び」を知らないからです。問題は、学校を卒業した後です。スポーツ選手なら引退した後です。良い成績を得るためにだけに頑張って勉強してきた子にとっては「卒業」は「勉強からの引退」と同じです。大学に合格した途端に勉強を引退してしまう子もいっぱいいます。そして、勉強以外のことを知らない自分に気付き戸惑います。それでも「自分の思い通りに生きる生き方」も、「自分の成長につながるような学び方」も、「他の人とのつながり方」も知らないので新しい依存先を探します。そこでまた頑張ることを求められます。でも、やがてそこも定年という形の卒業を迎えます。そしてまたどうしていいのか途方に暮れます。趣味に生きることが出来る人は幸いですが、ただ頑張って生きてきただけの人には趣味などありません。ただ、死ぬまでお金を稼ぐために頑張るだけです。息を引き取るまで息を詰めて生きるのです。パラリンピックでは「障害があっても頑張れば報われる」というメッセージを流しています。「だからみんなも負けないでガンバレ!」ということなんでしょう。でもそれは幻想です。世の中には死ぬほど頑張っても報われない人もいっぱいいるのですから。実際、みんな頑張っています。頑張っていない人を探す方が難しいです。子育て中のお母さん達もみんな頑張っています。でも、その頑張りが報われないのでみんな苦しんでいるのです。それでも頑張らないと世間は冷たい目で見ます。へそ曲がりの私には、「頑張れば報われる」というメッセージは、人々を永遠に頑張り続けさせるためのトリックに過ぎないように思えるのです。そこで目的にしているのは「個人の幸せ」ではなく、社会の維持です。スポーツでは頑張った結果が記録に表れます。メダルをもらえる人もいます。でも、子育てや人生では、いくら頑張っても記録は出ません。メダルももらえません。むしろ頑張れば頑張るほど苦しくなります。世の中には「頑張ることでうまく行く世界」と「頑張らない方がうまく行かない世界」があるのです。「頑張らない方がうまく行く世界」を支えているのは「楽しむ力」です。勉強が楽しい子は「ガンバレ」と強制されなくても勉強するのです。「もう止めなさい」と叱られるまで勉強することだってあるのです。私は「頑張れば報われると嘯いている社会」や「頑張らないと生きていけない社会」よりも、どんなに障害があっても、頑張らなくても幸せに生きていけるような社会の方が好きです。それは競争社会ではなく共存社会です。「頑張る子育て」よりも「楽しむ子育て」の方が好きです。「頑張る生き方」よりも、「人生を楽しむ生き方」の方が好きです。子どもがお母さんに求めているもの、そして、子どもの育ちに必要なものは、お母さんと感覚や、感情や、体験や、言葉や、物語を共有することだけです。「頑張って何かをやってあげること」ではなく、「楽しみながら子どもと色々なことを共有すること」が大切なんです。だから、色々なことを子どもと一緒に楽しめばいいのです。それだけで子どもはちゃんと育つのです。
2023.10.04
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私たちの「からだ」は、生まれる前に「人類が体験してきたこと」と、「生まれてから体験したり学んだりしたこと」と、それまでに「食べてきたもの」で出来ています。「生まれてから体験したり学んだりしたこと」の中には「言葉」も含まれます。「からだ」は「言葉」によっても育っているからです。「違う言葉」を持っている人は「違うからだ」を持っているのです。また、この「食べてきたもの」にはお母さんや、ご先祖が食べてきたものも含まれます。日本人の腸は欧米の人よりも長いそうですが、これもまた「ご先祖が何を食べてきたのか」ということと関係しています。日本人は「海藻」をよく食べますが、この海藻を消化できる腸内細菌を持っているのは日本人だけだそうです。「日本人の腸だけに存在?:海藻を消化する細菌」(wired)皆さんもまた海藻を消化できるでしょうが、それはご先祖のおかげでもあります。私たちのからだの状態は、「ご先祖が何を食べ、どう生きてきたのか」ということと切り離せないのです。腸内細菌は人の健康状態だけでなく意識や心の状態にも強く影響を与えているそうですが、その腸内細菌も、産まれてくるときや毎日の生活の中でお母さんから受け継いでいるものが多いのです。自分が住んでいる環境や、どういう所でどういう遊びをしたのかということも腸内環境には影響しているのです。お母さんのからだの中の卵子は、お母さんが産まれたときにはもうすでに一生分出来上がっているそうです。ですから、お母さんの食生活や、生活状態や、心やからだの状態もお母さんのからだの中の卵子の育ちに影響を与えています。私は「気質」という考え方を色々学び皆さんにもお伝えしていますが、その「気質」も、その人が「どういう環境で、どういう生活をしてきたのか」ということや「何を食べてきたのか」ということと関係しています。その人の母語もまた気質の状態に影響を与えています。日本人の気質は日本語によって作られている部分が大きいのです。そしてその「気質」もまた「からだ」に属しています。「気質」は「心」ではなく、その「心」を作り出している「からだ」に属しているのです。だから「しつけ」では変えようがないのです。叱ったり、説得したりしても変わらないのです。でも、食生活や日常生活を変えることで子どもの気質の状態も変わります。多動性のある子は「甘いもの」を減らし、刺激が少ない環境で育てた方がいいでしょう。それと下半身が育つような生活や遊びが有効だと思います。ゲームのような目や頭だけに働きかけるような遊びは、多動性を強化します。それは「学び」全般に悪い影響を与えます。ちなみに、子どもは普通の状態でもうすでに多動性が強いです。だからゲームはほどほどにした方がいいです。でも、その多動性を失った老人はゲームをすることで元気が出たりします。乱暴な子は「肉」を減らし、野菜を多く食べるようにした方がいいでしょう。それと手や指先を使うような活動も必要です。乱暴な子は「太い筋肉」を使うのは得意なんですが、「細い筋肉や神経」を使うのが苦手だからです。怖がりの子は本をいっぱい読むといいです。「言葉の学び」が安心を育ててくれるからです。また、上半身の筋肉がつくような活動も有効です。食べ物としては体を温めてくれるようなものを意識して食べた方がいいと思います。いつもボーっとしているような子は、トラブルは起こしませんが、放って置かれがちなのでもっと積極的に関わってあげた方がいいです。また、手仕事に向いています。お肉も食べた方がいいと思います。今日、「食べ物とからだ」について書こうと思ったのは、昨日、以下の記事を読んだからです。「カップ麺の牛乳戻し」子どもの食生活が危機的だぜひ、お読みになって下さい。子どもの食生活が危機的な状況になっています。それは子どものからだが危機的な状況になっていることと同じです。子どものからだが危機的な状況になっているということは、子どもの意識や、心や、感覚の状態も危機的な状況になってしまっているということです。
2023.10.03
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現代人は「からだ」を道具のように使っています。体調が悪くても薬か何かを使って「からだからの声」を押さえつけてしまいます。テレビを見ていると、「○○を飲んで元気になろう」などというようなCMが溢れています。人間以外の動物たちはみんな、元気がないときには活動を休止します。元気が出ないときにまで無理をしてからだを動かそうとするのは人間だけです。人間は「からだからの声」を「頭の働きを阻害する邪魔者」として否定しようとします。そして、「頭からの指示」に従わせようとしています。そして、同じようなことを自然や子ども達に対しても行っています。「自然からの声」にも、「子どもからの声」にも耳を傾けません。自然災害は「自然からの声」です。子どもの問題行動も「子どもからの声」です。言葉化されてはいませんが、ちゃんとしたメッセージを含んだ声なんです。その「言葉化されていない声」からのメッセージを読み解くことで、自然や、子どもや、自分のからだとうまくやっていくことが出来るのです。「からだからの声」を無視し、無理に頑張ったり、薬などを使って無理矢理言うことを聞かせていると「からだ」が壊れる前に「心」が壊れます。本当は「心」が壊れる前に「からだ」が壊れているのですが、無理して頑張ったり、薬の力でそれを押さえつけているので外側にまでその状態が表れないのです。頑張りや薬でも抑えきれなくなったときには表に出てくるのですが、その時には重大な状態になっています。自分の「からだ」がいっぱいいっぱいになっていると、「頭の働き」や「心の働き」や「感覚の働き」に余裕がなくなります。部分ばかり見るようになり、全体が見えなくなります。そのため、物事をつながりや関係性の中で見ることが出来なくなります。肯定的なことは見えなくなり否定的なものばかりが見えるようになります。美味しい、気持ちがいい、楽しい、嬉しいというような肯定的な感覚や感情が働きにくくなります。その一方で、まずい、怖い、気持ちが悪い、つまらない、腹が立つというような否定的な感情はすぐに起きるようになります。人工的な強い刺激には反応できても、自然からの優しい刺激には反応できなくなります。子どもの笑顔や子どもの心が見えなくなります。空の青さや、お花や、自然の美しさを感じることができなくなります。全般に「美しさ」を感じなくなります。「判断する」ことは出来ても「味わう」ということが出来なくなります。そして、自然に対して「美しさ」を感じることが出来なくなると、道徳的な感性も消えます。自分を支えてくれている無数のつながりも見えなくなり、孤独になります。孤独になると自己肯定感も消えます。自己肯定感が低くなるのは成功体験が少ないからではありません。「自分を支えてくれているもの」を感じることが出来なくなるからです。そして、自分のことばかりを考えるようになり、人と人のつながりを大切にする「人間らしさ」を失います。そのからだの状態は「表情」や、「姿勢」や、「声」や、「目つき」や、「感覚の偏り」や、「筋肉の緊張状態」の中に表れています。ゲームは子どもに「不自然なからだの使い方や、頭の使い方や、心の使い方や、感覚の使い方」を求めています。そのため、日常的にゲームばかりやっている子のからだはいっぱいいっぱいです。そういう状態の子は、強い刺激がないとすぐに退屈します。自分の意志で能動的に動けません。聞くことや対話することが出来ません。作業することは出来ても創造的な活動をすることが出来ません。からだや、脳や、感覚の働きが育っている最中の子どもにゲームを与えると、自由に考え、自由に感じ、自由に行動する能力の育ちが阻害されてしまうからです。洗脳されやすくもなります。ゲームには、人のからだを固め、脳の働きをパターン化させ、感覚や心の働きを麻痺させる働きがあるのです。でも、幼児期に様々な体験を通してそういう能力がある程度育った子なら、ゲームで遊んで一時的にそういう状態になってもしばらくすると元に戻ります。だからそれほど心配する必要がありません。ゲーム自体に問題があるわけではないのです。問題があるのは「与える時期」と「与え方」の方なんです。
2023.10.02
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昨日も書いたように、人間の知的な能力は指や手を使うことで育ってきました。そしてそれは、現代社会に生まれた子ども達についても言えることです。子どもの成長は人類の進化とリンクしているからです。古代人と同じような状態で生まれてきた子ども達も、指や手を使う活動を通して意識や知性の働きを目覚めさせているのです。指や手は、頭の中のイメージを現実世界の中で実現するために使われます。先日、竹をナイフで削って「お箸を作る」という活動をしたのですが、頭の中に「お箸」のイメージがない子は、いくら上手に竹を削ることが出来ても「お箸」を作ることは出来ません。そして、「お箸」は知っているのに「お箸」をイメージすることが出来ない子が多いのです。毎日使っているものなのにイメージできない子がいっぱいいるのです。そういう子は「お箸の見本が見たい」といいます。古代の人が石を割ってナイフやヤジリを作るときも、頭の中に、しっかりとしたナイフやヤジリのイメージを持って作っていたでしょう。粘土で何かを作るときも同じです。頭の中のイメージを現実世界の中で実現してくれるのは「指や手の働き」です。絵を描くときも、文字を書くときも同じです。イメージが先にあって、それに従って指や手が働くのです。でも、幼い子ども達はまだ頭の中だけでイメージを作ることが出来ません。ですから、グチャグチャ描いて、グチャグチャいじくり回します。粘土を渡してもグチャグチャやるだけです。でも、そのグチャグチャの過程で、目と指や手の感覚や頭の中のイメージがつながり、頭の中だけでもイメージを作ることが出来るようになるのです。頭の中でイメージしたものを指や手を使って描いたり作ったりすることが出来るようになるためには、十分な「グチャグチャ体験」が必要なんです。そしてそれが思考力の育ちへとつながっていくのです。普段から手を使って活動することで「頭の中でイメージする能力」が育ち、それが「思考力」を目覚めさせるのです。でも、その子どもの「グチャグチャ」を受け入れることが出来ない人がいます。そういう人は、ちゃんと描いたり、ちゃんと作るのならいいのですが「グチャグチャ」は無駄な行為だと思い込んでいるのです。幼稚園などでも「グチャグチャ遊び」を十分にさせずに、いきなり、素敵な作品を描かせたり作らせたりするような所があります。そういう園では見本を真似させたり、マニュアル的な描き方を指導しているようです。結果として、お母さん達を喜ばせるような「素敵な絵」や「素敵な作品」が出来るのですが、でもそれは「子ども自身が育った結果」ではありません。頭の中でイメージできるようになったわけでもありません。そういう子はお手本やマニュアルがないと描いたり作ったりすることが出来ません。そして今、そういう状態の子がいっぱいいます。そのまま大人になると、子育てでも苦しむようになります。子育てには正解がないのですから、とにかくグチャグチャ、あれこれやってみるしかないのです。その過程で、「子ども」や「自分」の何かが見えてくるのです。すると、「どうしたらいいのか」というイメージが見えてくるのです。でも、それが出来ない人はいきなりお手本やマニュアルに頼ろうとするのです。でも、「皆さんのお子さんのことを書いた子育て書」なんて、この世に存在しないのです。それが書けるのは、お母さんだけなんですから。
2023.10.01
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「からだの使い方」は「意識の働き」とのつながりが強いです。特に、指先や腕の使い方は、「意識の働き」と密接につながっています。だから、古代の遺跡を発掘したようなときでも、そこで出土した遺跡を見るだけで、その当時の人達の知的レベル、文化レベルが分かるのです。遺跡として残っているのは全て指先や腕の働きによって創られたものです。手を使うのが苦手な現代の子ども達を古代の人たちと同じような状況で暮らさせても、何万年後まで残るような「知的な人類の痕跡」は残せないでしょうね。人類がその知的な能力を獲得したのは、二足歩行をするようになって両手が自由になり、色々なものを創ったり、道具を使ったりすることが出来るようになったからだという説があります。手の活動が人間の知能を発達させたのですが、それは「二本足で立って歩く」という能力によって支えられていたのです。でも、現代の子ども達は人類の進化を支えてくれた「歩く」という活動自体が苦手です。機能的には歩けるのですが、歩くことを嫌がります。そしてすぐに疲れます。姿勢も悪いし、心肺機能もからだ全体の筋肉も育っていないし、そもそもからだの使い方がヘタなので効率的な歩き方が出来ないのです。(そういう子は風船も膨らませることが出来ません。大人でも・・・)スポーツをやっている子は走ることは上手ですが、「走る」のと「歩く」のは別の活動です。歩いているときには感覚が開いていますが、走っているときには感覚が閉じていますから。歩きながら歌うことは出来ても、走りながら歌うことは出来ませんよね。そもそも、人間以外の動物が走るのは獲物を捕まえるときや、敵から逃げるときのような、特別な状況の時だけなんです。特別なことが何も起きていないのに走り回るような動物はいないのです。そして、もともとは人間も同じなんです。実際、昔の日本人は、飛脚のような一部の職業の人以外は走らなかったそうです。戦の場でも走ったでしょうが、日常生活では走らなかったのです。だから、走るのには適さないような「着物」を着て普通に過ごす事が出来たのです。でも、歩くのは得意でした。「伊勢参り」では江戸から伊勢までの1000km以上を25日程度で歩いたそうです。一日40km程度です。特にスポーツなどやっていない普通の人がこれだけ歩けたのです。私は、町中で人々が歩くのをよく観察しているのですが、「この人は歩くのが上手だな」と感じるような歩き方をしている人は少ないです。その一方で、「何かからだにトラブルがあるんじゃないか」というような不自然な歩き方をしている人は結構います。私が子どもの頃ですら、遊びながら平気で何キロも、何時間も歩き続けることが出来ました。歩くのが目的ではなく、遊ぶために歩いたのです。私は鎌倉の材木座(海の近く)育ちですが、山を越えながら平気で大船近くの山の中の池まで友達と一緒にカエル釣りに行ったのです。(二駅離れています)そんな「歩くこと」を支えている胴体や下半身の働きは、その人の「生命力」や「無意識の働き」とのつながりが強いです。「歩くのがおっくうだ」というような時は、生命力が低下しているか、ストレスや悩みなどを抱えているときです。「走る」のには筋力が必要ですが、「歩く」のに必要なのは筋力ではなく「心の元気」と「からだの使い方」なんです。そして、いっぱい歩いてると自然とからだ全体が統合され、心とからだのバランスが取れ、基礎生命力が育つのです。「疲れにくいからだ」も育ちます。でも、幼いうちから、日常的に歩くことを楽しむような生活をしていないと、だんだん歩くことが億劫になってしまいます。そして、すぐ疲れるようになってしまいます。そういう状態になってから、歩かせようとしても嫌がります。でも、7才までの子ども達なら、遊びながら歩いたり、歩くことを楽しむような生活をしていると、自然と歩くことが好きになります。からだの使い方も上手になるでしょうし、心の元気も育ちます。
2023.09.30
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私は家では造形教室をやっているのですが、当然のことながら造形の場ではトンカチ、ノコギリ、ナイフなどの様々な「道具」を使います。でも、普段からそういう道具を使って活動しているような幼稚園を出た子でなければ、ほとんどの子がそのような道具を使うことが出来ません。使ったことがないのですから、それはそれで当然なんですが、問題はその取り組み方です。日常的にからだを使っていっぱい遊んでいるような子は、知らなくても色々と工夫してすぐに使えるようになります。からだの使い方を道具や状況に合わせることが出来るからです。またそれを楽しむ事も出来ます。でも、からだで遊ぶ機会が少なかった子は、知識や思い込みだけで動こうとします。でも、当然のことながらうまく行きません。それでやってみせるのですが、やって見せてもすぐにそれを真似できるのは普段から、からだでいっぱい遊んでいる子だけです。やって見せて分からないのですから、説明しても分かりません。そしてすぐに「疲れた、かったるい、腰が痛い、面倒くさい」などと言い始めます。そして、思考停止して途中で放り投げるか、「先生手伝って」と言っています。そういう子の場合は半分ぐらいまで手伝います。その時「手伝うから側で見てて」というのですが、最初から興味がないのですぐにどこかに行ってしまいます。でも、からだが使える子は「ぼくが代わりにやってあげる」などと言って手伝ったりしています。これは、コマや竹馬のような「道具を使った遊び」でも同じです。子どもが一人前の大人になるためには色々なことを学ばなければならないのですが、その学び方には三通りあるのです。まずは、「やって学ぶ」という学び方です。そして、「やって学ぶ」という学びをいっぱいした子は、その経験を元に「見て学ぶ」ということが出来るようになります。からだを使っていっぱい遊んでいる子は、その「見て学ぶ能力」が高いのです。「やって学ぶ」という体験を積んでいない子に見せても真似できないのです。また、見て学ぶことも出来ません。例えば、実際に先生について太極拳などを学んだ人は、その自分の体験のレベルに合わせてyoutubeを見るだけでも学ぶことができます。でも、実際に学んだことがない人がいくらいっぱいyoutubeを見ても、見るだけでは学ぶことができないのです。造形の場では輪ゴムをつなげるような場面がしょっちゅうあるのですが、最初は知らない子でもからだ遊びをいっぱいやってきたような子は、一回やってみせるだけですぐに出来るようになります。でも、からだで遊んでこなかった子は、目の前で何回やってあげても出来るようになりません。「見て学ぶ能力」が育っていないからです。この能力が育っていない子は、何でもかんでも教えてもらおうとします。でも、教えてもなかなか出来ません。このまま大きくなって会社に入ったら面倒くさい新入社員になるでしょうね。最後の一つは「聞いて学ぶ」というものです。でも、この能力もまた「やって学ぶ」「見て学ぶ」という能力に支えられています。その能力があるから聞くだけでも学ぶことが出来るのです。ただし、「やって学ぶ」ことや「見て学ぶ」事が出来ても、その過程で「言葉」を学ぶことが出来なかった子は「聞いて学ぶ」ことが出来るようにはなりません。この「聞いて学ぶ能力」が育っている子は、ドンドン自分の世界を広げていくことが出来ます。
2023.09.29
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人間のさまざまな能力や、人間を「人間」として特徴づけている精神性や、幸せな社会を作るために必要な「人間らしさ」といったようなことは、遺伝子に書き込まれているわけではなく、育ちの過程で、そういうものを身に着けている人とつながり、関わることでしか受け継ぐことができません。遺伝子に書き込まれているのは、「そういうものを受け継ぐことが出来る能力」だけであって、その中身は生まれた後から身に着けるしかないのです。これは客観的な事実です。そのため、それらを学ぶべき時期の子どもたちを「人と人のつながり」から切り離した状態で育てていると、現代に生まれた子どもであっても、本能に支配された「人間以前の状態」のまま育ってしまうのです。その人間以前の状態でも機械の操作は出来ます。チンパンジーやゴリラだって、子どもと同じレベルでスマホを使いこなすことが出来るのですから。それはつまり、スマホを作るためには高度な知能が必要ですが、スマホを使うだけならチンパンジーやゴリラレベルの知能で十分だということです。(そこで社会の二極化、人間の二極化が起きてしまっています。)タイムマシンで過去からまだ高度な言葉や知能を持たない原始人を連れてきても、便利な機械があれば現代人と同じような生活が出来るのです。そして困ったことに、そのような状態の子どもたちが増えてきているのです。大人たちが子どもたちから「大人とのつながり」、「仲間とのつながり」、「自然とのつながり」、「様々な体験とのつながり」を奪ってしまったからです。でも、ちゃんと生活できているのでそのことに気付かないのです。そのような子どもたちの特徴は、消費するだけの活動はできても、何かを創造するような活動が出来ないということです。また、創造することが出来るような子は本を読むことが出来ますが、消費活動しかできない子は本を読むことが出来ません。言葉が育っていないからです。あとまた、現代社会では別の問題も発生しています。「言葉の育ち」だけでなく「からだの育ち」も非常におかしな状態になってしまっているのです。昨日、お墓参りに行ったのですが、途中、ベビーカーに乗せられている2才ぐらいの女の子を見ました。子どもはその中で弛緩した状態で不自然な形にからだをくねらせて横たわっていました。無気力な表情をしていました。最近、十分に自分で歩けるはずの年齢の子でも、ベビーカーに乗せられ荷物のように運ばれている子どもをよく見かけます。その方が安全だし、お母さんも自分のペースで歩けるから楽なのでしょう。そんなベビーカーの中を見ると、子どもはリクライニングシートにでも寄りかかっているようにからだを弛緩させてグニャとした状態で座っています。頭を起こして周囲を見たりもしていません。お母さんと会話もしていません。同じような状態で犬を運んでいる人もよく見かけますが、人間の子どもは特別な時以外はちゃんと自分の足で歩かせるべきなんです。そうしないとからだの働きが統合されないからです。筋力も、持久力も、意思の働きも、能動性も育ちません。言葉の学びが遅れれば、知能や心や精神の発達も遅れます。でも、言い換えれば遅れるだけです。まだ幼いうちなら、ヘレンケラーのように「つながり」の中で言葉を得ることで、知能や、心や、精神の発達を取り戻すこともできます。でも、「からだの育ち」が歪むとそれすらも困難になってしまうのです。からだの働きに支えられている「感覚の働き」や「認知機能」そのものが狂ってしまうからです。すると精神状態が不安定になったり、「現実」と「空想」の区別がつきにくくなります。いわゆる「心の病」にかかりやすくなります。生命力も低下するので病気にもかかりやすくなります。一度こういう状態になってしまうと、バランスの取れた自然な状態に戻すのは非常に困難になってしまうのです。「遅れ」と「歪み」は違うのです。ちなみに、「発達障害」と呼ばれているような子は、からだの使い方も下手です。指先を使ったり、からだ全体を統合して使うような活動が苦手です。ゆっくりと動いたり待つことも苦手です。意思の力も弱いので、我慢することが出来ません。姿勢も歪んでいます。そして疲れやすいです。部分にはこだわりますが、全体に意識を向けることが苦手です。このような状態は「知能や心の問題」ではなく「からだの問題」なんです。だからいくら言葉で説得しても無駄なんです。言葉の育ちが後れている子は昔からいましたが、からだの育ちがこんなように歪んでしまっている子が増えたのは、社会が近代化されたつい最近のことなんです。これは新しい社会現象なんです。私が子どもと関わる仕事を始めた30年くらい前には、もうすでのこのような「子どものからだの異常」を指摘する本が何冊も出ていました。その時の子ども達が今、親になっています。
2023.09.28
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「言葉」は、リアルな世界で、リアルな体験を通して、リアルな人と関わることでしか学ぶことが出来ません。そして、「関わりの在り方」が、子どもが学ぶ言葉の質や内容を決めてしまいます。一方的に指示や命令で子どもを動かすばかりで、子どもの言葉に耳を傾けないような子育てをしていると、指示や命令に関するような言葉は覚えますが、それ以外の言葉は学べなくなります。その場合、単純な行動を求めるような簡単な指示や命令なら従えますが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断する必要があるような指示や命令には従うことが出来ません。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断するための言葉を学んでいないからです。それは例えば「ちゃんと片付けなさい」というような命令です。「ちゃんと」には正解がありません。10人いれば10通りの「ちゃんと」があります。だから、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断する必要があるのですが、日常的に単純な行動を求めるような単純な指示や命令ばかりを受けて育っている子にはそれが出来ないのです。そのため、お母さんの顔色を見て、どうしたらいいのかを判断するようになります。自分の頭で考えた「ちゃんと」ではなく、お母さんの顔色を見ながら「お母さんに叱られない状態」にしようとするのです。それが、子どもにとっての「ちゃんと」になってしまうのです。お母さんはそんな我が子を見て「やればできるじゃない」と言いますが、そういう子はお母さんがいない場では出来ません。行動の羅針盤としての「お母さんの顔色」がないからです。でも、お母さんはそのことを知りません。逆に、家ではお母さんの言うことを聞かないのに外ではちゃんとできる子がいます。そういう子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断しようとしている子です。まただから、家では素直にお母さんの言うことに従わないのですが、子どもの成長としては問題がありません。でも、自分の言うことを聞いてくれない我が子に手を焼いて、相談にくる人が結構いるのです。多くのお母さんが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断できる子よりも、単純に、自分の言うことに従ってくれる子どもの方がいいみたいです。でもそういう子は、成長とともに色々な問題が起きてくるのです。成長とともに、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で判断しなければならないような場面が増えてくるからです。また、そういう子は精神的に自立することもできないので、不安も強くなります。むしろ、自分がやりたいことがはっきりとしていて、お母さんの言うことに素直に従わないような子の方が、成長するにしたがって子育てが楽になっていくのです。ただし、子どもが自分の言うことを聞かなくても子どもを否定しないでいることと、大勢の仲間や大人との関わりの中で育っている必要はあります。それがないと、自立するのではなく、ただ「自分勝手な子」になるだけです。「自立している子」は他者とつながることが出来ますが、「自分勝手な子」は他者とつながることが出来ません。一見似ているのですが、その中身が違うのです。「自立している子」は「多様で豊かな言葉」を持っています。だから、自分の頭で考えることも、色々な人とつながることも、自分の意志で行動することもできます。それに対して、「自分勝手な子」は「単純で偏った言葉」しか持っていません。だから考え方や行動にも偏りが生まれてしまうのです。だから、他者とつながることができないのです。そして人は、自分と同じ言葉を持った人とつながろうとします。日本語しか知らない人は日本人とばかりつながろうとしますよね。でも、英語も話せる人なら外国の人ともつながることができますよね。それと同じです。その人が持っている言葉が、その人が生きる世界を決めてしまうのです。まただから、子どもは自分が持っている言葉に合わせて「類は友を呼ぶ」という状態になるのです。自分の頭で考えることが出来る子は、自分の頭で考えることができる子と友達になろうとします。それに対して、自分の頭で考えることが出来ない子は「言葉」ではなく「利害関係」でつながろうとします。でも、このつながりは脆いし危険です。これは大人でも同じですよね。こういう現象を引き起こしているのが「言葉」なんです。そして、子どもはお母さんから「人生最初の言葉」を学びます。それを「母語」(mother tongue)と言います。その、「お母さんから学んだ言葉」が、その後から子どもが学ぶ言葉の方向性を決めてしまうのです。お母さんが日本語を話していれば、子どもも日本語を学び始めるでしょう。お母さんが英語を話していれば、子どもも英語を学び始めるでしょう。内容についても同じです。だから、お母さんが子どもとどういう言葉で、どういう会話をしているのかということが、子どものその先の人生に大きな影響を与えているのです。でも最近、テレビやスマホやゲームの普及で、その会話自体がない家庭が増えています。そういう状態で育った子は、自分勝手にしか育ちようがありません。
2023.09.27
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いわゆる「五感」と呼ばれる感覚の育ちの後に続いて、「言葉」が育ち始めます。その「言葉の育ち」は「感覚の育ち」と連携しています。美味しいものを食べながら「美味しいね」と語りかけられることで、「感覚」と「言葉」がつながります。「感覚」と「言葉」がつながるためには「体験」と、「言葉」と、それを「共感してくれる人」が必要になるのです。人間以外の生き物たちも「感覚の働き」は持っていますが、そんな「言葉の働きとつながった感覚の働き」を持っているのは人間だけです。人間は、「真・善・美」につながる感覚も持っていますが、これらの感覚も「言葉の働きとつながった感覚」です。ですから、「感覚の働きとつながった言葉」がちゃんと育っていない子は、「真・善・美」に関することを理解することができません。そのため、他の人が困るようなことでも簡単にやるようになります。そんな時「他の人が困るでしょ」と言っても意味が通じません。罰を与えればやらなくなるかもしれませんが、自分がなぜ罰を与えられているのか分かっていないため、逆恨みをします。言葉が「言葉」として成り立つためには、「感覚の働き」とつながった形で「言葉」を学ぶ必要があるのです。だからこそ、言葉が育っている時期にはその感覚に共感してくれる大人がそばにいる必要があるのです。そして、「感覚の働きとつながった言葉」を学ぶことが出来ている子は、めったに「死ね」とか「殺すぞ」などという言葉は使わないものです。テレビや、ゲームや、youtubeからでも「言葉」を学ぶことはできますが、テレビや、ゲームや、youtubeから学ぶことが出来る言葉は「感覚の働き」とつながっていません。ただの記号です。だから「情報の伝達」には使えても、「感覚の共有」には使えないのです。まただから、テレビや、ゲームや、youtubeから言葉を学んだような子は、平気で「死ね」とか「殺すぞ」などと相手の心が傷つくようなことを言うことが出来るのです。そんな時、「意味が分かっていないからいいんじゃない」という人もいますが、大切なことは「意味」ではなく、その言葉が持つ「感覚的な働き」の方なんです。会話が出来るAIロボットに、「夕日がきれいだね」と言っても、その言葉に共感してくれるような答えは返ってこないでしょう。どんなに優秀なAIロボットでも、「夕日に関する説明」はできても、「夕日の美しさを感じる能力」は持っていないからです。そして、7才までの子どもたちは、その「感覚の働きとつながった人間としての基礎を支えてくれる言葉」を学んでいるのです。だから、7才までの子どもの近くには、子どもが感じたことや考えたことに共感し、それを言葉化してくれる大人がそばにいる必要があるのです。ちなみに、人類が言葉や様々な文化や精神性を育てることが出来るようになったきっかけとして「老人」の登場があったようです。昔も今も、若い大人は狩りをしたり、家事をしたりと忙しいものです。子どもの相手なんかしている暇などありません。そうですよね。そんな時、一線からは退いていても、知恵も技術も持っている老人が子どもの相手をするようになったのです。そして、この「老人の登場」が人類史では非常に大きな意味を持つのです。老人は自分では狩りをすることが出来ません。だから助けてくれる仲間がいないと厳しい自然界では生きて行くことが出来ません。でも、人類が群れを作り大勢で助け合いながら生活するようになることで、獲物を取ることが出来ない老人でも生きていくことが出来るようになったのです。老人には知識や知恵があります、それをみんなで共有したでしょう。また、一線から退いているので暇です。ですから、子どもの世話をしたり教育をしたでしょう。色々な話を語って聞かせたりもしたでしょう。そういう役割を担ってくれる「老人」という存在が人類の集団の中に生まれることで、文化の継続や蓄積が可能になったのです。ですから、「老人の登場」は人類史の中で非常に大きな意味を持っているのです。でも、昭和30年代に始まった高度経済成長時代に核家族化が進み、子どもの育ちの場に老人がいなくなりました。子どもの世話をして、子どもに色々なことを教え、お話を語ってくれていた老人が子どものそばから消えたのです。その核家族化は「専業主婦」の登場とセットになっていました。専業主婦という形で子どものそばに、子どもの育ちを支えるための人間を残そうとしたのでしょう。でも、現代社会ではそのような考え方はあまり肯定されていません。そして、女性も働きに出るようになりました。だったら老人をまた家庭の中に呼び戻す必要があったのですが、老人の代わりに保育園を利用するようになりました。でも、保育園の先生は子どもと一対一でのんびりと付き合ってはくれません。生活の共有もしていないので、生活を通して言葉や知恵を伝えることも出来ません。出来るのはお母さんがお迎えにくるまで安全に保護することだけです。子どもが保育園から家庭に帰ってきてもお母さんは忙しいです。そんな忙しいお母さんの救い主として、「お母さんの代わりに子どもの相手をしてくれる機械」が登場しました。でも、機械は共感してくれません。感覚につながる言葉を教えてもくれません。一緒に遊んでもくれません。お話を語ってもくれません。ただ、強い刺激を与えて、子どもが退屈しないようにしてくれるだけです。「老人の登場」と共に目覚めた人類の文化や精神性の継続が、それを伝えてくれる人が消えることで今途絶えようとしているのです。
2023.09.26
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子どもの成長を考えるときには、「生命の進化の歴史」「動物の進化の歴史」「人類の進化の歴史」「人間の進化の歴史」を学ぶところから始めた方がいいですよ。子どもの成長は「進化」の繰り返しでもあるのですから。進化の過程で起きたことを無視して、いきなり過去を忘れた現代社会の価値観に合わせて子どもの成長をコントロールしようとしても不可能なんです。私たちが「人間」になったのは、生命の歴史35億年のうち、ほんの数十万年前です。そして、私たちの命の働きの中にはその35億年、数十万年の記憶がちゃんと残っているのです。そして子どもたちは、その「命の記憶」を頼りに成長しようとしているのです。だから、精子と卵子という単細胞が合体しただけの細胞が、細胞分裂を繰り返しながら生命進化の歴史をたどって、人間にまでたどり着き、人間の子として産まれることが出来るのです。この進化の繰り返しは産まれた後も継続しています。赤ちゃんは、人間として完成した形で産まれてくるのではないのです。特に、人間の赤ちゃんは他の動物たち以上に進化の過程としては未熟な状態で産まれてくるのです。産まれたばかりの赤ちゃんでも、おっぱいを吸い、泣くという形で自分の心とからだの状態を伝えようとすることは出来ますが、それ以上のことは出来ません。人間は人間以前の状態で産まれてくるのです。だから、その進化を繰り返しやすいようにサポートしてあげる必要があるのです。それを無視すると、見かけは人間でも中身は人間以前の状態で成長が止まってしまうのです。産まれた後すぐに成長を始めるのが「感覚の育ち」です。その感覚のうち一番最初に目覚めるのは「耳の働き」なのではないかと思います。自分一人では何もできない状態だからこそ耳の働きが重要なんです。赤ちゃんはおなかの中にいるときから耳を働かせて、お母さんの声や周囲の音を聞いていますから。ちなみに、ご臨終ですと言われた後も耳は働いています。それは臨死体験をした人が証言しているとおりです。だから、赤ちゃんにはいっぱい話しかけてあげてほしいのです。優しい音、気持ちがいい音をいっぱい聞かせてあげてほしいのです。お母さんが安心に満たされていると、その安心は声を通して赤ちゃんに伝わります。すると赤ちゃんも安心します。赤ちゃんは、「お母さんの声」をとおして「お母さんの心」に触れ、「心」というものを体験しているのです。また、風の音、鳥の声など「自然の音」も子どもを安心させます。赤ちゃんが嫌いなのは緊張した声、不安な声、怒鳴り声などです。そういう声を通して赤ちゃんは自分が安心な状況の中にいないことを知るのです。そして不安を感じ、その不安を「泣く」という形で訴えようとします。それなのに「泣くんじゃない!」という怒鳴り声が返ってくることがあります。それが繰り返されると、進化の中の何かがストップしてしまいます。また、「機械が発する音」も嫌いです。「命の記憶の中にない音」だから不安を感じるのでしょう。でも、赤ちゃんはそういうものにもすぐ慣れてしまいます。そして、慣れてしまうということは昔の人とは感覚の特性が異なった状態で成長するようになるということでもあります。それが現代人特有の感覚の状態です。自然の音に取り囲まれて暮らしていた昔の日本人は、「風の音」や「虫の声」のような「自然の音」とも対話することが出来ましたが、現代人はそういうことが苦手です。耳の働きと並行して、皮膚感覚も成長を始めます。抱かれ方でお母さんの気持ちも分かります。お母さんに触れられたときにも、皮膚感覚でお母さんの気持ちが分かります。これはワークという形で体験することも出来ます。「大嫌い」という気持ちで相手に触れた時と、「大好き」という気持ちで相手に触れたときとでは触れられた人が感じる感覚が違うのです。そんな時、おっぱいを与えたり、おむつを替えるとき以外ベビーベッドの中で寝かされたままだと、皮膚感覚の育ちにも影響が出るでしょう。当然、その状態では話しかけることも少ないでしょうから、声や皮膚を通して「心の体験」をすることが出来ません。それは、子どもの「心の育ち」に影響が出るでしょう。ただし私は「子育てはこうあるべきだ」ということを言いたいわけではありません。客観的事実として「命とは、子どもとは、子どもの成長とはこういうものなんですよ」ということをお伝えしたいだけです。それを知った上でどう判断し、どういう子育てをするのかは皆さんご自身の生き方の問題です。この話は、まだまだ後があるので明日も続きます。
2023.09.25
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先日、「ネットを毎日使い続けた子どもの3年後の脳画像が衝撃…認知機能、記憶や学習に関わる海馬のほか、言葉や感情を処理する領域の発達が止まっていた」というニュース記事を読みました。東北大学の研究ですからいかがわしいものではありません。このような記事を読んで衝撃を受ける人もいるかも知れませんが、「だろうな」と納得できる人もいるでしょう。私も「だろうな」と思っただけです。だからいつも「子どもを外に連れ出して遊ぼう」と言っているのですから。現代人は「簡単・便利」が大好きです。ですから何でもかんでも簡単に済まそうとします。その欲求に後押しされて機械文明が発達してきました。その結果、歩かなくても移動できるようになりました。ご飯の炊き方を学ばなくても美味しいご飯が炊けるようになりました。ネットを使えば世界中のことでも簡単に調べることが出来るようになりました。もうしばらくしたら、AIが日常生活の中にまで入り込んで、考えたりすることもしなくて済むようになるでしょう。絵を描くのも、詩を作るのも、物語を作るのもAIがやってくれます。AIを3Dプリンターとつなげたら、工作や彫刻もやってくれるでしょう。人間はただ、「こんな絵を描いて」「こんなもの作って」と言葉で指示を出すだけでいいのです。子育ての相談にも乗ってくれるようになるでしょう。AIロボットがもっと進化すればお母さんの代わりに子育てまでやってくれるようになるかも知れません。そしてそれは、人間の能力を機械に移植してきた結果でもあります。そして、人間の能力を機械に移植することで、人間にはそのような能力が必要なくなりました。必要なのはその機械を買うお金だけになったのです。ちなみに、その「失った能力」とは、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する能力」です。でも困ったことに、その能力は、子どもたちが大人になったときにお金を稼ぐために必要な能力でもあったのです。「簡単で便利な機械に依存した生活の中でその能力を育てそこなってしまった」ということはつまり、「お金がないと生活できない状態に育ってしまったのに、そのお金を稼ぐ能力がない」ということでもあります。そういう状態になってしまった子はまず親に依存しようとします。それが最近増えてきている「パラサイト・シングル」という状態です。ちゃんと仕事をしようとしても、「頭を使うような仕事」や「誰かに指示を出すような仕事」はそれなりの能力が必要になるので出来ません。かといって、機械に囲まれて育った子は、特別な技術や技能も持っていません。機械の操作は得意でも自分の趣味や興味の範囲内でしか使えません。コミュニケーション能力も育っていないので、他の人とチームを組んでやるような仕事も出来ません。だからといって、単価が安い仕事には就きたくありません。簡単・便利に慣れてしまった今どきの子は、簡単に手っ取り早くお金を稼ぎたいのです。そして、それが出来ると思い込んでいるのです。手間がかかる現実世界のことを知らないで育ったからです。造形の場でも、体験がない子に限って簡単に作れると思い込んでいます。そういう子どもたちにとって理想の仕事が「ユーチューバー」です。でも、質の高い動画を作るためには自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動する必要があります。それがどんな仕事であろうと、ちゃんと仕事をして、ちゃんと稼ぐためにはやっぱり自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動する能力が必要になるのです。これがこの世界の現実なのです。それが出来ない子は過激なことをやって視聴者を集めようとします。犯罪に近いようなことをやって視聴者を集めようとしている「ユーチューバー」もいます。簡単にお金を稼ぐために闇バイトのようなものに手を出す子もいます。善悪を判断したり、その行為によって誰かが困るという想像もできないのです。そしてそういう子が増えてきています。だからといって、「便利な機械や、ネットやゲームを排除しなさい」ということを言いたいわけではありません。また、そんなことはできません。そうではなく、「生活でも、遊びでも、そういうものに過度に依存しない方がいいですよ」ということと、しっかりと「与える年齢や与え方を考えた方がいいですよ」ということを言いたいのです。確実に言えることは便利な機械や、ネットやゲームとの出会いは、遅い方がいいということです。程度にもよりますが、少なくとも7才前には出来るだけ避けた方がいいです。可能なら9才までは避けた方がいいです。5才前なんて問題外です。3才前に与えるのはほぼ虐待です。あと、「多動性が強い子」や「寂しさを感じている子」はゲームにはまりやすく、抜け出しにくくなってしまう傾向があります。だから気を付けた方がいいです。問題は、多動性が強い子の子育てはなかなか大変なので、ついお母さんは自分の時間を作るために「ちょっとだけよ」と与えてしまうのです。すると、その「ちょっと」から子どもは抜け出せなくなります。この問題を解決するためにはお母さんの「仲間づくり」が必要になります。また、子どもを寂しくさせているようなお母さんは、最初から「子どもへの影響」など考えないでしょう。また、子ども任せにしないことも必要です。やむおえず子どもにゲームを与える場合は、お母さんもゲームに興味を持ってください。そうすれば、ゲームが親子共通の遊びになりますから子どもを孤独にしないで済みます。それと同時に、屋外で、自然の中で、からだをいっぱい使ったり、仲間と群れて遊ぶ時間をちゃんと作ってあげる必要もあります。リアルな世界の中で、五感を使い、頭を使い、手を使い、からだを使い、心を使い、言葉を使うような活動が、思春期前の子どもの育ちには絶対的に必要なんです。幼い時にそういう遊びをいっぱいして育った子の場合は、10才以降ゲームにはまってもそんなに心配する必要はありません。中学生になるころから距離の取り方が分かるようになるからです。ゲーム以外の場所にも自分の居場所を持っている子は、そんなに心配しなくても大丈夫なんです。それがない子が依存症になりやすいのです。
2023.09.24
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ゲームの世界や機械の世界には「許し」は存在しません。「ごめんね」、「ちょっと間違えちゃった」、「ちょっと待ってね」も通用しません。また、相手が機械に不慣れなお年寄りでも、操作がよくわかっていない子どもでも同じ対応しかしません。そして操作ミスで何かトラブルが起きると、自己責任として扱われ、機械もその機械を管理している会社も責任を取ってくれません。機械や、機械に管理されている社会では「人間的なぬくもり」や「優しさ」は価値がないのです。パスワードなどという意味不明な暗号を覚えていないと、大事なことが出来ません。お金も引き出せません。そして、忘れっぽくなったお年寄りが数回間違えただけで、もうその日はお金が引き出せなくなります。以前銀行で、隣でお金を引き出していたおばあちゃんがパスワードを声に出しながら打ち込んでいました。声に出すことで確認していたのでしょう。お年寄りとしては自然な行為ですが、でも、機械を相手にする場合にはそのような行為は完全にアウトです。こちらが微笑んでも、機械は微笑み返してくれません。話しかけても言葉を返してくれません。そもそも「顔」がないのですから。AIロボットはそういうことができますが。当然のことながら、AIロボットの応答はクールで機械的です。感情がないのですから。どんなに強硬なクレーマーでも、機械を相手に文句を言うことはできません。機械に向かって「謝れ」「土下座しろ」と言っても無意味です。もしかしたら「クレーマー」と呼ばれる人は「人間的な関わり合い」に飢えている人なのかも知れません。機械の操作は「みんな一緒」「みんな同じ」を前提に考えられています。痴呆症になったお年寄りでも、幼い子供でも、天皇陛下でも、同じ操作をしないと、同じようには動いてくれないのです。そして当然のことながら、日々機械と向き合って遊んでいる子はそういう「機械のやり方」に慣れてしまいます。そして、「話しかける」ことも、「微笑む」ことも、「待つ」ことも、「許す」ことも出来なくなります。そんなことする必要がないからです。相手の気持ちを考えることも出来なくなります。その結果、「一人の人間として他の人と関わりながら生きていくための方法」を学ぶことが出来なくなってしまいます。これは、相手がゲーム機や機械でなくても、オモチャでも基本的には同じです。「一人の人間として他の人と関わりながら生きていくための方法」は、他の人との人間的な関わり合いを通してしか学ぶことが出来ないのですから。いつもゲームで遊んでいる子は、認知能力が高いという研究もありますが、いくら認知応力が高くなっても、それと引き換えに「人間らしさ」を育てる機会を失ってしまったら、一人の人間として自立して生きていくことが困難になってしまうのです。そして、昔から、子どもたちが「人間らしさ」に触れ、それを学び、育てることが出来る場が「家庭の中」や「仲間と群れて遊ぶ場」だったのです。でも、最近の子どもたちは家庭の中でも家族との触れ合いが多くありません。お母さんも、積極的に子どもと関わろうとはしません。昔は「お手伝い」という形での関わり合いがいっぱいあったのですが、簡単で便利な機械の登場で「お手伝い」は必要なくなりました。それで退屈してまとわりついてくる子どもを遠ざけるために、ゲーム機やスマホやおもちゃやテレビといった「機械」や「物」を与えます。幼いうちから保育園や習い事に通わせる人も多いです。でも、そういう場には「対等な人間関係」がありません。先生と一対一の関係を育てることも出来ません。
2023.09.22
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あと、現代人のおかしなところは、その異常な「清潔志向」です。テレビでも「除菌除菌」と言い立てています。そして、除菌製品のCMがいっぱい流れています。コロナ騒動でそれが加速しましたが、それ以前からそういう流れは強くなって来ていました。それは、人間と自然のつながりを無視して、人間を「個として自立した生き物である」という錯覚から生まれています。でも、「個」として自立しているのはその意識だけであって、心もからだも、自分の周囲の人や環境と切り離せない状態で密接につながっているのです。私たちは、自分の周囲にいる生き物たちと菌を交換することで、自分の周囲にいる生き物たちと情報交換しているのです。そうやって、自分が生きている環境に適応しようとしているのです。病気と言われるものはその過程で発生します。ですから、生き物が病気になるのは自然なことなんです。そのため、ほとんどの高等な生き物は、自分の周囲とのつながりから切り離されたら、正常に命の働きを維持することが出来なくなってしまいます。過度の除菌がやっていることはそういうことなんです。そもそも、からだの中にも表面にも様々な菌がいて私たちの命を守ってくれているのです。菌は命を守るバリアとしても働いているのです。これは「信じるか信じないかは・・・」というような怪しい話ではありません。ちゃんと科学的に確認されている事実です。また、からだの中の菌は心の状態にも大きな影響を与えています。子どもの幸せは腸が7割 3才までで決まる!最強の腸内環境(藤田紘一郎/監)というタイトルの本もあるくらいです。除菌除菌とやっていると、消えるのは周囲の菌だけでなく体内の菌まで消えてしまうのです。その結果、徐々に生命力が低下していきます。心も感覚も不安定になります。「私」は「みんな」の一部なんです。だから切り離せないし、切り離そうとしてもいけないのです。確かに、短期だけなら他者から切り離された状態で宇宙や海の底に行くことはできます。からだの中に生態系を模写したものが存在しているからです。でも、その「小さな生態系」は「大きな生態系」とつながっていないと、次第に痩せて狂い始めるのです。それは、酸素タンクをしょって海の底に潜るようなものです。酸素がなくなるまでは海の底に潜っていることが出来ます。でも、それは長くは続きません。でも、人間は、自分達だけがそのつながりに支配されていない自立した存在だと思い込んでいます。その背景にはキリスト教の影響があります。キリスト教の神はすべてのつながりから切り離された、絶対的に自立した存在です。そして人間はその神に似せて作られたことになっています。だから人間だけ別格なんです。そのキリスト教の思想においては、人間にとって一番大切なのは「神様とのつながり」だけであって、他のつながりはどうでもいいのです。そういう思想があったから自他を分離し、全体を分解して科学が生まれました。でも、適度なところで自然とのつながりや、人と人のつながりを取り戻す努力をしないと、人類は科学の暴走によって滅亡すると思います。除菌も適度なところでやめておいた方が無難ですよ。子どもの幸せは腸が7割 3才までで決まる!最強の腸内環境のつくりかた [ 藤田紘一郎 ]
2023.09.21
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(話が整理されていませんが時間がないのでそのままアップします)「人と人のつながり」が希薄になることで「許し合う」ということが難しくなりました。そして、「人に迷惑をかけてはいけない」という価値観が広がりました。そしてみんな「みんなと一緒」「みんなと同じ」を目指すようになりました。それが正しいやり方かどうかは分からなくても、とりあえずみんなと同じことを言い、同じことをしているのなら文句は言われないからです。そのような考え方が広まった現代の日本の社会では、「人と違うことを言ったり、やったりする人」は「困った人」として扱われてしまいます。「みんなと一緒」が出来ない子は「問題児」として扱われます。でも、みんなが「みんなと一緒」「みんなと同じ」を目指すようになることで競争が生まれました。その道がどこに向かっているのか分らなくても、みんなで同じ道を歩いていると少しでも他の人よりも先を進みたいと思うのが人情です。そして、競争に勝つことが目的になります。その道の先に何があるのか分らなくてもです。でも最初から、一人一人「自分の生き方に合わせた異なった道」を歩いているのなら競争は起きないのです。「落ちこぼれ」も生まれません。「落ちこぼれ」という言葉は、競争に負けた者を指す言葉だからです。そしてそれが、「遊びを通してつながった子どもたちの群れ」の自然な姿でもあるのです。その群れにあるのは競争ではなく支え合いです。支え合うからみんなで一緒に楽しく遊ぶことが出来るのです。また、「遊び」を共有することでつながっているグループで大切なのは「みんな同じ」ではなく、「違い」を肯定し、その「違い」を生かしたり、みんなで支え合ったりすることです。現代人は「人と違うことをするから他の人の迷惑になる」と考えますが、遊びの場では逆に「みんな一緒」では遊びが楽しくならないので困るのです。群れ遊びの場にはリーダー的な役割の子が必要になるのですが、「みんな一緒」「みんな同じ」という教育を受けた子どもたちのグループでは、リーダー的な役割をこなすことが出来る子がいないので、群れ遊びが出来ないのです。「俺が一番偉いんだぞ」とみんなを支配しようとする暴君は結構いますけどね。「鬼を決めるのは差別だ」と言って鬼を作らなければ「鬼ごっこ」は出来ません。また、みんなで同じように逃げたら楽しくありません。みんなが自分の判断で自由に逃げるから鬼ごっこは楽しくなるのです。そして「鬼」は交代する必要があります。足の遅い子がいつも鬼になっていたら、逃げる方は楽しくありません。鬼になっている子も楽しくありません。だから交代するのです。子どもたちもそのことを知っているので足の遅い子ばかりを狙うようなことはしません。足の速い子もわざとつかまったりします。大人たちは、「みんな同じ、みんな一緒という形」の中に平等を求めますが、子どもたちの遊びの場では、みんなが自分らしさを発揮しながらも、みんなが楽しくなるような工夫をすることで平等を実現しようとしているのです。遊びのルールが分からない小さな子や障害を持っている子がいる場合は、特別ルールを作ってみんなが楽しく遊ぶことが出来るような方法を考えます。「違い」を違いとして認め、その違いに合わせた工夫をすることみんなが楽しくなるように遊びを工夫するのです。それが「子どもの知恵」です。そこには差別はありません。みんな一緒、みんな同じを目指すから競争や差別が生まれるのです。ただし、ここに書いたのは一昔前の子どもの遊びの風景です。最近の子どもたちの「遊びの風景」ではありません。昔の子どもたちは幼い子から大きい子まで一緒に遊んでいました。最初から、遊びに参加している子どもたちの能力がバラバラだったのです。だからこういう工夫をしなければ遊びが成り立たなかったのです。最近の子どもたちも鬼ごっこは大好きですが、基本的に同年齢の子としか遊びません。異年齢の子を集めて鬼ごっこをしても、同年齢の子ばかりを追いかけて小さい子は無視します。自分たちだけで遊ぼうとするのです。言い換えると「みんな一緒」に付いて来ることが出来る子だけを相手にするのです。勝ち負けを競うスポーツの場ではそれでもいいのですが、様々な能力の子がみんなで楽しむための遊びの場でそれをやられると楽しくなくなってしまうのです。また、逃げるのが好きな子はタッチされても鬼になることを拒否します。大人が入っていると大人にばかり鬼を押し付けます。そして、タッチしても交代してくれません。群れて遊んだ体験が乏しい子は、群れのルールは守らないで、一人一人自分勝手にルールを作るのです。そして自分だけ楽しもうとします。だからすぐにトラブルが生まれます。ケンカをしても何が悪かったのか、どうしたらいいのかを自分たちで話し合えば次第にみんなで遊べるようになるのですが、最近の子はその「話し合う」ということが苦手です。その場に大人がいると、大人が勝手にジャッジしてしまい、子どもたちが話し合うきっかけを奪ってしまいます。それが、子どもをつながりから切り離し、一人一人の違いを肯定せず、「みんな一緒」「みんな同じ」を求めた子育てや教育の結果なのでしょう。ちなみに、私が親子での鬼ごっこを指導する場合は、様々な特別ルールを作ります。子どもは走ってもいいけど大人はケンケンとか、親子で手をつないだ状態で追いかけ、逃げるとか。みんな同じ、みんな一緒を目指すから逆説的に差別が生まれるのです。現代人が目指す「男女平等」は「女性も男性と同じように」というものです。「男性も女性と同じように」ではありません。ですから、「女性も男性と同じように」という考え方自体が、もう女性差別の思想を含んでいるのです。テレビで、国会の男性議員が「女性議員も増やします」と言っていましたが、男性が増やそうとしなければ女性議員が増えないシステムそれ自体がおかしいのです。
2023.09.20
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「人と人のつながり」が失われることで「お互い様」という考え方も消えました。そして、「つながり」の中で感じていた「安心」の代わりに、「みんな一緒」「みんな同じ」という状態の中に「平等」と「安心」を感じるようになりました。「つながり」が消えた社会では「平等」が大切になるのです。命の平等ではなく、社会的平等です。そういう価値観の社会では、自分らしく生きることは肯定されません。みんなが「自分らしさ」を主張したら必ずぶつかり合いが起きるからです。昔の人は、そのぶつかり合いを平和的に回避する方法として「お互い様」という考え方を大切にしましたが、今では「お互い様」という考え方を大切にする人は多くありません。でも、現実の世界に生きている人は、みんな一人一人異なった事情の中で生きています。老人は早く歩けません。でも、「みんな一緒」「みんな同じ」を目指している社会では、それは「迷惑なこと」です。そのため非難されます。人に迷惑をかけないことを理想としている社会ではその非難は正義です。障害を持った人も、他の人と同じように行動できません。それもまた迷惑なことです。だから非難されます。他の子とは異なった能力や感性を持った子も非難されます。子どもは大人と同じように考えたり、感じたり、行動したりすることが出来ません。それもまた大人にとっては迷惑なことです。だから、子どもらしい子どもは非難されます。人は一人一人異なった感覚、考え方、価値観を持っています。自分らしさを大切に生きるということは、そういう自分の感覚や、考え方や、価値観を大切に生きるということなんですが、それはつまり他の人とは異なった生き方をするということでもあります。そしてそれも、「みんな一緒」や「みんな同じ」を目指している人たちにとっては迷惑なことです。だから自分らしく生きようとすると非難されます。「学校には行かない」という選択もその一つです。そして、失敗すると「それ見たことか」とみんなで叩きます。でも、その人が社会的に成功すると手のひらを返したように褒め称えます。コロナ騒動下でも、テレビや医者や政府の言うことに従わないで、自分の感じたように、自分が考えたように行動する人は、誰に迷惑をかけていなくても「迷惑な存在」として非難されました。規律を乱す、調和を乱すということなのでしょう。そして、子どもだけでなく子育てをしているお母さんも、邪魔者扱いされています。子どもを育てると言うことは、「子どもの命や、子どもらしさや、子どもの成長を守り育てる」ということでもあります。でも、子どの成長は、「社会の原理」ではなく「命の原理」に従っているので、子どもの命や、子どもらしさや、子どもの成長を守ろうとすると、必然的に「みんな一緒や、みんな同じを大切にする社会」の中では異分子になってしまうのです。そして、非難されます。非難する人たちと同じような価値観を持っているお母さん達も、子どもを非難します。「あんたのせいで私が・・・」などと、子どもを責め立てたりもします。そのことで、子どもは心に傷を負い、自己肯定感を失うのですが、ただ心に傷が付くだけで、みんなと一緒が出来るようにはなるわけではありません。思春期前の子どもには、「自分が他の人からどう見えるのかと」いうこと自体が生理的に分からないからです。だからいつも叱られている子は、自分の意志ではなく、大人の意志に従って生きるようになります。大人の言うことに従っていれば叱られないからです。子どもを非難している人だって100%昔は同じ状態だったし、「自分らしさを肯定して欲しい」と思っていたはずなのに、大人になると、平気で「子どもらしさを大切にしている人」を、非難否定するようになるのです。それは、現代的な子育てや、教育や、テレビやマスコミの成果なのでしょう。でもそれは、自分で自分の首を絞める行為でもあるのです。老人を非難している人だって、早死にしない限りやがて同じ状態になります。病気や事故で、自分自身が障害を抱えてしまうことだって珍しくありません。また、自己肯定感を失い自分らしく生きることが出来ることが出来なくなった子どもは、親を苦しめることになるでしょう。<続きます>
2023.09.19
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家族の中の誰かが不幸になっても、その負の影響は家族全員に及びます。また、他のみんなが不幸なのに一人だけ幸せになるということもありません。家族の間に嫉みや恨みが生まれ、その幸せを阻害しようとするからです。それが可能になるのは、家族の間に「一人の喜びをみんなで共有出来る関係」ができている時だけです。そういう時には、「一人の喜び」が「みんなの喜び」になります。家族は運命共同体だからです。これは学校のクラスでも同じです。違うのはクラスの場合は「問題を抱えた子」を排除できるということです。家族という関係ではこれは出来ません。じゃあ、排除すれば問題を解決できるのか、他の子は幸せになるのかというと、そういう結果にはなりません。「問題を起こす子」を排除すれば、その後しばらくは「問題が起きない状態」が訪れるでしょう。先生は授業がやりやすくなるでしょう。でも、それで残った子達が幸せになるというわけではありません。「問題を起こす子」に対して同じ立場でいた他の子どもたちが、「共通の問題」を失いバラバラになります。また「排除」を喜ぶような子は他の子とつながることが出来ませんん。「排除」を悲しむような子は学校に行くことが苦しくなるでしょう。また、「排除を喜ぶような子」の多くは、自分自身でも問題を抱えています。そのため、そういう子の中から、第2、第3の「問題を起こす子」が生まれてきます。オセロのように、状況次第で白と黒が簡単にひっくり返ってしまうのが人間という動物なんです。以前、河合隼雄さんの本で読んだのですが、子どもの中の一人が問題児で相談に来られた方がいたそうです。それで色々とお母さんの話を聞いているうちにお母さんの意識が変わったそうです。すると、子どもを治療したわけではないのに子どもの問題行動が減っていったそうです。面白いのはその後です。問題を起こしていた子が問題を起こさなくなってくると、それまで問題を起こさなかった子が問題を起こすようになってくる事があるそうなのです。お母さんが一人の子で手一杯の時は、他の子は問題を起こさないのです。お母さんのことが大好きだからです。でも、問題が片付いて手が空くと「僕のことも見て」と問題を起こすようになるのです。「問題を起こして排除された子」も、「問題を起こさざるおえないような状況」の中にいたから問題を起こしていただけであって、「問題児」という固定された性格の子どもではないのです。そして「つながり」に支えられていない子はみんな「問題児予備軍」でもあるのです。だから、排除するという方法ではイタチごっこにしかならないのです。これに対処するためには、「一人の問題はみんなの問題でもある」という意識で、子どもたちをつながりの中で支えてあげるしかないのです。問題を起こしている子も、「問題を起こす理由」が消えれば、問題を起こさなくなるのです。難しいのは、その問題が家庭の中にある場合です。学校の先生は子どもの家庭の中までは手を出せませんから。そういう場合は、何をやっても子どもの問題行動は消えないかも知れません。それでも、先生がそういう子どもにどのように向き合っているのか、ということが他の子どもたちの心に大きな影響を与えるのです。先生が、「問題を起こしている子」も仲間として関わろうとしている姿を見て育った子は、大人になった時に、そういう苦しい子どもを出さないような家庭を築くことができるようになるのではないかと思います。そして、同じことが社会や、国や、地球単位でも言えるのです。私たちは運命共同体なんです。だから競争なんかしている場合ではないのです。
2023.09.18
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「政府広報オンライン」に、以下のように「発達障害」に関する説明が書いてあります。発達障害は、広汎性発達障害(こうはんせいはったつしょうがい)、学習障害、注意欠陥多動性障害など、脳機能の発達に関係する障害です。発達障害のある人は、他人との関係づくりやコミュニケーションなどがとても苦手ですが、優れた能力が発揮されている場合もあり、周りから見てアンバランスな様子が理解されにくい障害です。発達障害の人たちが個々の能力を伸ばし、社会の中で自立していくためには、子供のうちからの「気づき」と「適切なサポート」、そして、発達障害に対する私たち一人一人の理解が必要です。この文章を読むと、発達障害が「個の問題」として認識されていることが分かります。だから、国はその原因については議論せず、療育などで個別に対応することで対処しようとしているのでしょう。でも、この考え方では、今、なぜこんなにも発達障害の子が増えてきているのかを説明できません。それで農薬や、電磁波や、食品添加物や、テレビや、ゲームなどの害を言う人がいるのでしょう。また、「実際には増えてなんかいないんだ、ただ世間の関心が高まったからちょっとの違いでそれを発達障害などと言い立てる人が増えたのだ」などと言う人もいるのでしょう。確かに、農薬や、電磁波や、食品添加物や、テレビや、ゲームなどの影響もあるかもしれません。でも、そういうものは社会の変化とともに生まれてきたものです。そしてその社会の変化は色々なところに表れています。まず、現代人は、頭や、からだや、感覚を使うことが減りました。他の人とつながり、生活や、遊びや、感覚などを共有することも減りました。ちょっと具合が悪いだけで簡単に薬をのむようになりました。言葉や、技術や、精神性を受け継ぐことが難しくなりました。過度に加工された食品や、添加物まみれの食品や、不自然に育てられた野菜や肉も日常的に食べています。受精することも、出産することも、子育ても、生活も、死も、医者や国や社会にコントロールされるようになりました。テレビは人々の無意識に働きかけて、人々の意識や行動をコントロールしようとしています。(こういうことを言うと陰謀論者のようですが、でも実際に効果があるからCMに大金を使っているのです。)テレビで「コロナは怖いんだ」という情報を大量に流し恐怖をあおることで、医者や国の言うことに従う人が増えました。受精の仕方、出産の仕方、子育ての仕方も、子どもの成長にダイレクトに影響を与えています。出産前にお母さんがどういうものを食べ、どういう生活をして、どういう薬を飲んでいたのかということも、子どもの成長には関係しています。それが分かっているから、みんな妊娠中、授乳中にはお酒を飲まないのですよね。「幼児期のことは記憶に残らないから大丈夫」と考える人もいますが、「記憶」には残らなくても「神経回路の構造」の中には残ってしまうのです。「意識」の中には残らなくても「無意識」の中には残ってしまうのです。お母さんになる人のからだの記憶の一部は、子どものからだの中に受け継がれるのです。分かりやすいのは「腸内細菌」です。腸内細菌にはその人がどういうものを食べ、どういう生活をしてきたのかということが記録されています。そしてそれが子どもに受け継がれるのです。そして腸内細菌の状態はその人の意識や、心や、からだの状態と密接につながっているということが最近分かってきています。「自閉症スペクトラムと腸内細菌の状態が関係しているようだ」という研究もあります。また、「科学的に安全が確認できているから大丈夫」などといいますが、それは単に「現時点では危険性が確認されていません」というだけのことです。実際、当初は安全と言われてきたものが後から「実はあれは危険なものだった」と言われるようになったものはいっぱいあります。アスベストも、DDTも、農薬も、有機フッ素化合物も、当初は「安全なもの」でした。神奈川県の広報には有機フッ素化合物は、近年、有害性や蓄積性などが明らかとなってきたため、製造、使用等が制限されている物質です。と書かれていますが、最初は「安全だ」と宣伝しておいて、後からそんなこと言われても困るのです。私は、そういうもろもろの社会の変化が積み重なって、発達障害と言われるような状態の子どもたちが増えてきたのではないかと考えています。それはつまり、これは「個の問題」ではなく「社会全体の問題」だということです。社会全体が不自然な状態になってしまったから、自然の一部である人間にも歪みが生まれているのです。何かトラブルが起きると、まず最初は弱いところ、感受性が高いところにその影響が表れます。大人と子どもであれば、まず子どもに影響が出ます。子どもでもデリケートな感受性を持った子どもに強くその影響が表れます。「炭鉱のカナリア」と同じです。それを、「警告」と受け取らずに、単なる「カナリアの問題」として処理していると、後で取り返しが付かないことになってしまうのです。だから、発達障害の子の問題は、子どもや家族だけにその責任を押しつけるのではなく、社会全体で考える必要があるのです。だからといって社会の変化を排除してばかりいたら生活できません。だから、どこかで折り合いをつける必要があります。その時大事になるのが、「自然とのつながり」「仲間とのつながり」「人と人のつながり」なんです。このつながりを失わないように生きていれば、子どもの状態に多少のトラブルがあっても乗り越えていくことが出来るのです。肯定的な感情に溢れ笑顔で暮らしていれば、多少は害のあるものを取り入れても排泄することが出来るのです。命の働きには「命の働きに害を及ぼすもの」を排除しようとする機能も備わっているからです。また、こういうつながりを大切にする人が増えれば、「お金を大切にする社会」から、「人間を大切にする社会」へと変わっていくのではないでしょうか。また、不自然なことをする人も減っていくのではないでしょうか。私はそれを願います。
2023.09.17
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今、「発達障害」と呼ばれるような状態の子が増えています。専門家の中には「そういう問題に対する意識が向上し、検査数が増えたから、結果として発達障害の子が増えたように見えるだけだ」と、目の前の現実を見ようとしていない人も多いですが、でもこれは日々子どもと接している人たちが共通して感じている現実です。そのため、子育ても、学校の授業も非常にやりにくくなってしまっています。また、そういう状態のまま大人になっている人も多いです。そういう人は、大人であっても社会人として普通に生活することが困難です。自分で自分をコントロールすることが出来ないので、色々なところでトラブルを起こします。子どもも大人も、そういう状態の人は平気で遅刻をしたり、平気で約束を破ったりします。集団のルールを守るのも苦手です。「他者の視点に立つ」ということが苦手なため、相手の気持ちや、考え方や、価値観を理解することが出来ません。その結果、「自分勝手な人間」として周囲に扱われます。それで非難されてしまうのですが、でも、自分でもどうしようもできません。何を非難されているのかということ自体が理解できません。それで、「僕は何も悪くないのに」と、自分を非難する人に対して逆恨みしたり、その場しのぎの嘘をつくことで自分を守ろうとすることもあります。嘘をついても「自分は悪くない」と思っているので罪悪感はありません。そういう状態の大人は、子育てにおいても、子どもが思い通りにならないと「悪いのは子どもだ」と決めつけます。それがその年齢の子にとっては当たり前の状態でも、お母さんのかかわり方が子どもの状態をこじらせていても、そういう視点からの発想が全くないのです。他の人が説明しても、反発するだけで受け入れません。とにかく、自分を守ることだけを最優先するのです。その結果、過度の虐待をしてしまうこともあります。でも、そういう人は子どもがいくら泣き叫んでも「ワガママ」としてしか感じません。また、必ずしも、子どもが嫌いだから虐待しているとは限りません。大好きなんだけども、子どもの気持ちを理解することができないから結果として虐待になってしまうこともあります。大人になってしまってからそういう状態を直すことは非常に困難ですが、でもまだ思春期前の子どもなら何らかの手の打ちようもあります。子どもの年齢にもよりますが、私は子どもを「人と人のつながり」の中に戻してあげれば、かなり状態が改善していくのではないかと思っています。多くの場合、そういう子は個別に指導されるようですが、指導する人がどんなに優秀な専門家だったとしても個別に指導する方法には限界があるのでう。なぜならば、発達障害の子の一番大きな問題は「社会性の欠如」だからです。社会性を育てたいのであれば、個別に指導するだけでは無理なんです。子育てにおいても、お母さん一人で子どもの社会性を育てることは不可能ですよね。社会性は「人と人のつながり」の中でないと育てようがないからです。それは、水に触れさせることなく泳ぎ方を教えるようなものです。また、個別に指導されるということ自体が、不自然な状態でもあります。周囲からも「特別な奴」と見られてしまうでしょう。じゃあどうしたらいいのかということですが、話は簡単です。子どもたちを自然の中に連れ出し、目的を共有する仲間と関わりながらいっぱい遊ばせてあげれば、自然と状態は落ち着いてくるのです。子どもは、仲間との遊びを通して社会性を身につけるように出来ているのです。だから、子どもから遊びを奪ってはいけないのです。私は遊びの場で子どもと出会うことが多いです。その時、みんなで楽しく遊ぶことが出来ていた子が、あとでお母さんから「療育に通っている」と聞かされることが結構あります。遊びの場ではなんに問題もない子が療育に通わされているのです。私は問題があるのは、子どもの方ではなく「みんな一緒」や「みんな同じ」を求める幼稚園や学校の方なのではないかと思っています。また、子どもを「つながり」から切り離して、個別に育てようとする現代社会の子育てのあり方も大きく影響しているような気がします。「つながり」から切り離された状態で育てられているのに社会性が育つわけがないのです。
2023.09.16
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現代人は、「科学」という言葉に弱いです。「科学的エビデンスがある」と言われると反論できません。コロナ騒動下において政府や医者から押し付けられた様々な規制や、行動指示に関しても、「科学的エビデンス」がその根拠にされました。そして、その規制や押し付けに反対する人は「非科学的な説を信じる陰謀論者」として扱われました。ほとんどの政治家も、医者も、マスコミも、テレビ局も同じ態度を取りました。でも、その根拠になっている「科学的エビデンス」には統一的な根拠がないのです。データの取り方や対象を変えるだけで得られるデータの状態は変わってしまうからです。その結果、そのデータによって演繹される「科学的エビデンス」も変わってしまうのです。そしてそのデータのとり方を決めているのは人間です。そのため、そのデータのとり方を決めている人間の都合や、感情や、思い込みや、価値観が、その結果としての「科学的エビデンス」に大きな影響を与えてしまうのですテレビで、咳をした時のウィルスの拡散の仕方をスーパーコンピューターがシミュレートした結果をよく放送していましたが、あれも細かい初期条件を設定したうえでの結果です。その初期条件をちょっと変えるだけで結果も変わります。そして、その初期条件を設定しているのは人間です。そもそも、そういうシミュレーションをさせようとすること自体が人間の都合です。まただから、テレビで言っているのとは異なることを言う医者や科学者もいっぱいいるのです。ただし、そういう人の意見はテレビでは紹介されないので、自分で探すしかありません。また、その方法が科学的エビデンスによって正しいことが証明されていたとしても、その方法が「人間らしさ」と矛盾するものなら、私たちは「科学的に正しい判断」よりも「人間らしい判断」の方を選択すべきなんです。そうでないと、私たち「人間」の存在価値が消えてしまうからです。AIが「科学的に正しい判断」だけを優先するように人類に求めたら、人類は滅亡します。国が「少子化が進んでいるからもっと子どもを生み育てなさい。そうしないと国が滅びます。このことには科学的エビデンスがあります」と言われたらどうしますか。従いますか?科学は人間が使う道具にすぎません。そのため、それがどういう結果をもたらすのかは、それを使う人間次第なんです。今流行りのAIも万能ではありません。従来のコンピュータは人間が与えたデータだけで演算していましたが、AIは自分でデータを探しに行くことが出来ます。論理的にはネットとつながっている世界中のデータを使うことが出来ます。でも、AIに出来るのは目的に合ったデータを探し、それをもとに演繹する作業だけであって、人間のように自分の体験を通して元データそのものを作り出すことは出来ません。また、自分で自分の活動の目的を決めることも出来ません。子どもの世話をするAIロボットを描いた「M3GAN(ミーガン)」という映画でも、その活動目的は人間によって与えられていました。でも、その任務を遂行することだけに忠実だったために様々なトラブルが起きるのです。人間だったら、人間としての常識や周囲の状況に合わせて手段を選ぶのですが、ミーガンには人間的な判断をする能力が備わっていなかったため、目的を遂行するためなら手段を選ばなかったのです。そして、次々と恐ろしいことが起きていきます。(私は見ていませんけど、この映画に関する様々なニュースを読んでいるとそういう映画のようです。)繰り返しますが、科学は道具にすぎないのです。そのため、それがどういう結果をもたらすのかは、それを使う人間次第なんです。これからの人類の歴史が「ミーガン」のようなホラーになるのか、みんなが幸せに生きることが出来る「ハッピーストーリー」になるのかは、私たちの子育てや教育のあり方に大きく関わっているのです。だからこそ、子育てや教育では、知識を覚えさせたり、大人の言うことに従順に従う子どもを育てることを目的にしてはいけないのです。知識を覚えさせることよりも、人間らしさを育てることの方を優先すべきなんです。能力は高いけど自分の頭で考えない、自分の感覚で感じない、自分の意志で判断しない人間はAIロボットと同じようなものです。もっとも、かなり性能は落ちますけど。そういう状態の人間は、「あいつは敵だから殺せ」と言われたら、躊躇なく殺すでしょう。国はそういう人間の方が欲しいのかも知れませんけど、皆さんはどうですか。我が子にそういう人間になって欲しいですか。以下は、さっきネットニュースを見ていて見つけたニュースです。中国、AIロボットが胎児を育てる「人工子宮」システムを開発中国は色々研究していますよ。
2023.09.15
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しつこいですが、また「言葉」について書いています。言葉の大切さについていくら説明しても、言葉が通じる人にしか届かないのがもどかしいです。言葉の基本は、まず「話し言葉」です。その「話し言葉」によって、人と人がつながり、感覚や感情や思考を共有し、文化や文明を生み出し、色々な知識や技術を伝承してきたのです。人類の人間としての文化は何万年も前に始まりましたが、人間が「文字」を使うようになったのは、つい2,3千年前のことです。しかも最初は、「人と人のコミュニケーションツール」として使われたのではなく、何かを記録したりするためのものとして使われました。また、中国ではお上の命令を国の隅々まで伝えるためにも文字が使われたようです。とにかく広いですからね。いずれにしても、文字は「生活に必要なもの」ではなかったのです。今でも文字を使わないで生活している人はいっぱいいます。ハワイに住んでいた人たちは19世紀になるまで文字を持っていなかったそうです。それでも、豊かな文化や精神性をはぐくみ、幸せに生きることが出来ていたのです。人は文字を知らなくても、「人と人をつなぐ言葉」(話し言葉)を知っていれば、豊かな文化や精神性をはぐくみ、幸せに生きることが出来るのです。それが「話し言葉」なんです。だから子どもたちには「文字言葉」を伝える前に、しっかりとした「話し言葉」を教えてあげる必要があるのです。「話し言葉」が使えない人は他の人とつながることも、学ぶことも、成長することも出来ません。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で行動することも困難になってしまいます。当然、幸せに生きることも困難になってしまうでしょう。また、話し言葉が使えない人は、文字を学んでも文字を「言葉」として使うことが出来ません。「文字」それ自体は「記号」であって「言葉」ではないからです。それに対して、「話し言葉」では「声」それ自体に、言葉的な意味が含まれています。「あ」という音にも「お」という音にも、身体感覚的な意味が含まれていて、それが組み合わさって「あお(青)」という言葉が生まれているのです。「あお」という音は記号ではないのです。「すき」という言葉もその声の違いが意味の違いを生み出しています。文字言葉は、遠くにいる人に「意味」を伝えるために使われますが、「話し言葉」は、そばにいる人たちと身体感覚や感情を共有するために使われてきたのです。一番わかりやすいのが「おいしいね」とか「楽しいね」という言葉です。文字言葉は、宛先不明の一方通行的な使われ方をしますが、話し言葉は感覚や、感情や、思考を共有する相手がそばにいることで初めて成り立つ言葉なんです。そして子どもたちは、大人たちから「話し言葉」を受け継ぐことで、その言葉とつながっている文化や、文明や、人間性や、精神性や、知識や、技術を受け継いできたのです。でも、最近の子どもたちには言葉を共有できるような仲間がいません。簡単で便利な機械が表れたことで言葉を必要とする生活も消えました。生活の技術を大人が子どもに伝える必要も消えました。現代社会に生きている子どもは、大人や仲間から「話し言葉」を学ばなくても遊べるし、生活もできるのです。今では、ご飯の炊き方を教えてもらわなくても、炊飯器があれば美味しいご飯を炊くことができます。仲間から遊びを教えてもらわなくても、仲間と話し合わなくても、機械を相手に一人で楽しく遊ぶことが出来ます。先生の言うことが理解できなくても、(日本の教育では)教科書が読めてそれをそのまま覚えることが出来れば、テストではそれなりの点数を取ることが出来ます。でも、そういう状態で育った子は「文字」は読めても「言葉」が理解できません。そのため「本」を楽しむことも、「本」から学ぶことも出来ません。また、仲間を作り、仲間とつながることも出来ません。子ども達は本能的に仲間が欲しいのですが、つながり方が分からないし、つながる技術もないのです。そして今、そういう状態の子が増えています。文字を介したネットでは簡単につながりを作れますが、でも、ネットでのつながりでは感覚や体験の共有が出来ません。まあ、今時の若者は最初からそんなもの求めていないみたいですが。また、そのつながりは簡単に切ることができます。また、何が本当で嘘なのかも不明です。「女の子だと思ってチャットしていたら実際には中年のおじさんだった」という事件もあります。嫌いなのに「すき」と書き送ることも出来ます。「文字」は記号だからそういうことが出来るのです。「声」ではそういうことが出来ないのです。それはそれで、「深く関わりたくない」という感性を持った今時の若者の文化としてはいいのかも知れませんが、このような感覚で子育てしていたら、子どもの意識や、思考力や、感覚などの育ちを支えることが出来ないのです。様々な体験や技術を伝えることも出来ません。本を読んで楽しんだり、本から学ぶこともできなくなります。まあ、それでも困らないのですからそのことに問題を感じることもないのでしょう。そのことに問題を感じるのは古い人間だけなのかも知れません。でも、「人間らしさを大切にしたい」と思う心が残っているのなら、子ども達にちゃんと「話し言葉」を伝えてあげるべきだと思います。ちなみに、「自分が考えたこと」や「感じたこと」を、自分の言葉で説明することが出来る子は、文字を覚えれば文章も書けるし、理解することもできます。本を読み楽しむことも出来ます。だから、文字を教えるのは後からでも大丈夫なんです。むしろ、急がない方がいいのです。
2023.09.14
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最近の子どもの多くは、小学校に入る前からもう文字を読んだり、書いたりすることが出来ます。シュタイナー教育では「7才までは文字を教えるな」と教えていますが、それでも、多くのお母さんが我が子が小学校に入る前に文字が書けるようになっていないとすごく心配なようです。我が子をシュタイナー幼稚園に通わせていながら、幼稚園から帰ったらこっそりお勉強の塾に通わせているお母さんもいます。(子ども自身から聞きました)そういう人は、シュタイナー教育を「情操教育」としてしか理解していないのでしょうね。勉強などせず、毎日いっぱい遊んでいる森の幼稚園系のお母さんにもそういう心配している人がいっぱいいます。小学校の先生の方も、本来「文字の読み書き」は小学校に入ってから学ぶようになっているはずなのに、「小学校に上がってくるまでには、みんなある程度の文字の読み書きが出来るようになっているはずだ」という前提で子ども達に接しています。そのため、文字の読み書きが出来ない子は戸惑います。お母さん達もそれを心配して、小学校に入る前には文字の読み書きを教えてしまうのでしょう。実際、年長さん頃には、絵本ぐらいなら一人で読める子はいっぱいいます。「読んであげようか」というと「自分で読めるからいい」と拒否されたこともあります。私が子どもの頃は、小学校に入るまで字の読み書きが出来ないのは当たり前でしたが、今ではある程度の読み書きが出来るのが当たり前のようです。でもなぜか、幼稚園時代にはもう「文字の読み書き」が出来る現代の子ども達の方が、小学校に入ってから初めて文字を学んだ昔の子ども達よりも「文章」が読めないのです。「文章」が書けないのです。本を読むことを楽しむ事も出来ません。「文字」は書けても「文章」が書けないのです。「文字」は読めても「文章」が読めないのです。成長してから「文章の読み書き」が出来るようになっていなければ、幼いうちから「文字の読み書き」が出来ても全く意味がないのです。一人で絵本を読むことが出来ても何の意味もないです。幼いときから「お勉強」をしてきたはずなのに、どうして「文章の読み書き」が出来ないのかというと、「生活体験や、感覚体験や、感情体験や、からだの体験とつながった言葉の学び」が圧倒的に不足しているからです。「言葉」の基本は「話し言葉」なんです。「文字言葉」ではありません。ましてや「文字」なんかではありません。そのため、「話し言葉」が育っていない子は、いくら文字の読み書きが出来ても「言葉(文章)の読み書き」が出来ないのです。また、「話し言葉」が育っていない子は、他の人の話に耳を傾けることが出来ません。自分の考えや、感じたことを相手が分かるように伝えることも出来ません。本を朗読することは出来ても、読んで書いてあることを理解し、味わい、楽しむことが出来ません。そしてそれが最近の普通の子ども達の状態でもあります。学教崩壊は子どもの言葉力が育っていないことから起きているのです。発達障害と呼ばれるような状態の子が増えてきたのも同じです。また、だから試験でも「文章題」や「応用問題」が苦手なんです。でも、そのような視点から学級崩壊を論じている文章は読んだことがありません。ですから、これは私の個人的な意見に過ぎません。文字を教える時間があったら、子どもを外に連れ出していっぱい遊んで下さい。その方がズーッと子どもの言葉力は育つのですから。そして、言葉力が育った子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動できるようになります。実際、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動できている子に何かを問いかけてみて下さい。ちゃんと「自分の言葉」で返してくれますから。ただし、教えないのに勝手に読み書きが出来るようになってしまう子もいます。そういう子は好きにさせて下さい。本人の意志でやっているのなら遊びと同じですから、止めさせる必要はありません。信じるか信じないかはあなた次第です。
2023.09.13
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日本には昔から「話し言葉」と「書き言葉」という二つの言葉があります。(英語にもあるようです)そして、明治時代になって言文一致運動が起きるまではこの二つははっきりと分かれていました。そして、文字が書ける人はこの二つの言葉を使い分けていました。「文字を学ぶ」ということは「書き言葉を学ぶ」ということとセットになっていたのです。その「書き言葉」は今でも残っていますが、メールやチャットなどの普及とともに、その重要度は低下しています。そして、書き言葉が書けない、読めない若者も増えてきました。「話し言葉」の方は普通に生活していれば誰でも学ぶことが出来ます。それに対して「書き言葉」の方は教育を受けなければ学ぶことが出来ません。でも、ある程度責任のある仕事に就こうとするのなら「書き言葉」を学ぶことは必須です。生活には必要はないですが、自分の世界を広げるためには必要なんです。それは例えば、現代社会における英語のようなものです。実は、「話し言葉」も「書き言葉」も同じ「日本語」ではあるのですが、この二つは、全く異なった視点に立って使われる異なった言葉なんです。そのため、「言葉を通してつながることが出来る世界」が全く異なっているのです。「話し言葉」では相手が目の前にいます。ですから、状況とセットにして言葉を使うことが出来ます。指を指して「あれ持ってきて」と言えば「あれ」が何であるかすぐに分かります。「嫌な天気だね」と言うだけで、それがどういう状態の天気を指しているのかすぐ分かります。同じものを食べながら「美味しいね」と言えば、どの味を美味しいと言っているのか分かります。また、「話し言葉」は声の調子とセットにして使われています。「あの子きれいじゃない」という言葉を語尾を上げて言えば、「きれいだよね。そう思うだろ」と同意を求めている言葉になります。でも、語尾を下げて断定的に言えば「あの子はきれいじゃない」という否定的な意味になります。「話し言葉」のまま文字で投稿するSNSなどではこのニュアンスの違いで多くの誤解が生まれています。このように、「話し言葉」は本来、状況や声を共有していることを前提にして使われる言葉なんです。でも、メールやSNSなどを使っている若者達は、状況や声を共有していない相手にも、平気で話すのとおなじ表現で文字化しています。でも、これでは誤解が生じたり、意味がちゃんと伝わらないのは当たり前なんです。私の所には時々、子育ての相談メールが来るのですが、若者的な話し言葉で書かれているメールも来ます。でも、それを読んでも意味不明なんです。その人のことも、その人の子どものことも知らないのに、そういうことをよく知っている友達にでも相談するような言葉で書いてあるのです。まず、当然の常識として、親しくない人に文字だけで何かを相談する場合は、まず、自己紹介が必要になります。でも、その自己紹介もないのです。名前も明かさず、自分が聞きたいことだけをいきなり聞いてくるのです。それを見ただけで、「子どもやご主人との意思疎通が出来ていなくて、一方通行の苦しい子育てをしているんだな」ということが分かります。自己紹介の次に、状況説明や前提説明も必要になります。そして「自分の考え」を書き、「何が問題なのか」、「何が聞きたいのか」を書きます。そういうことを伝えた上で、「相談に乗って下さい」と言われるのなら相談に乗ることも出来るのですが、いきなり「こういう子にはどうしたらいいんですか」と聞かれても答えようがないのです。そして、そういう人ほど正解やマニュアル的な方法を聞いて来ます。そういう人は「話し言葉」は学ぶことが出来ても、「書き言葉」を学ぶことが出来ないまま育ったのだろうと思います。「書き言葉」は「目の前にいない、状況や声を共有していない相手に向けて使われる言葉」です。目に前にいない相手に、自分が言いたいことだけを書いても通じないのです。それをすると誤解だけが生まれます。ですから、文字だけで何かを伝えたいのなら、自分が言いたいことだけを書くのではなく、相手の立場に立って、状況や声のニュアンスを伝えるような工夫も必要になるのです。外国の人に手紙を書くのなら、その人が理解できる言葉で「日本人(自分)の常識は通用しない」と言うことを理解した上で書く必要がありますよね。それと同じです。つまり、「書き言葉を学ぶ」ということは「相手の視点に立って考えることを学ぶ」ということでもあるのです。そして、子ども達がその「書き言葉」を学ぶことが出来るのが「本」なんです。ただし、文字だけで書かれた「絵のない本」です。絵本は絵を補助にして「話し言葉」で描かれていることが多いです。ですから、あまり「書き言葉」の学びにはならないのです。でも、今時の若者達は「文字だけで書かれた本」が苦手なようです。長文を読むのも、書くのも苦手です。そしてそれが今時の若者達の普通なのでしょうが、でもその普通は人間としての普通ではないのです。ちなみに、文字が存在しない時代には、「人の声によって語られる物語」が「他者の視点に立って考える」という考え方を伝えてくれていました。「時代や地域を超えて複数の人に物語を伝える言葉」が「文字言葉」の原点でもあるからです。だから「物語」をいっぱい聞いて育った子は、本に書いてある「文字言葉」にもなじみやすいのです。でも、最近の子は「物語」を「映像と共に聞く」ことはあっても、「声だけで聞く」ことはありません。でも、映像があることで物語の中に入ることが出来なくなってしまうのです。そのため「他者の視点の体験」が出来ないのです。これは別に「伝承された物語」でなくても大丈夫です。お母さんが雲を見ながら、「雲の物語」を子どもに語ってあげるだけで、子どもは「他者の視点に立つ能力」を育てることが出来るのです。自分が子どもの頃のことを話してもいいです。とにかく、「いま・ここ」から離れた世界のことを語ってあげればそれが「物語」になり、子どもはその「物語」を通して「他者の視点に立って考える能力」を育てることが出来るのです。そしてそれが、その後に続く「文字によって学ぶ学習」を支える力になるのです。しっかりとした「文字言葉」を教えたいのなら、最初は「文字」ではなく「物語」を伝えた方がいいのです。「文字」の読み書きだけを教えても、視点の切り替えを学ぶことが出来なければ「文字言葉」が使えるようにはならないのですから。
2023.09.12
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「言葉」を失うということは「心」を失うことです。そして「心」が失われれば、言葉の働きによって支えられている心の中の「時間」や「空間」も消えます。その結果、過去や未来のことや、「ここ」以外の場所のことを考えることが出来なくなります。当然、論理的に考えることも出来なくなります。真・善・美や道徳的なことを感じる感性も消えます。美しいものを見ても、美しい音楽を聴いても何も感じなくなります。「それを感じる心」が育っていないのですから。「部分」は見えても「全体」が見えなくなります。言葉を失うと「全体をつなぎ、支えている関係性」が見えなくなってしまうからです。想像し、創造する能力も消えます。自分の意志で行動することも出来なくなります。「何をしたらいいのか」をイメージできないからです。言葉の表現とつながったからだの動きや表現も出来なくなります。「緩める」という言葉を知らない子は、からだを緩めることが出来ません。「風」という言葉を知らない子は「風のように」動くことが出来ません。そして、感情や本能に支配されて生きるようになってしまうでしょう。まあ、人間が人間とともに生活している限り「言葉」が消えてしまうということはないでしょうが、でも、社会の変化とともに言葉も変化しているのは、誰もが認める事実です。そして、その言葉の変化に伴って意識や、思考や、心や、感覚や、からだの状態も変化しています。現代人と100年前、200年前の人は同じ日本人であっても、異なった日本語を使っていました。そのため、100年前、200年前の人と現代人とは意識も、思考も、心も、感覚も異なっています。ですから、「言葉の断絶」は「意識や、心や、感覚や、からだの状態の断絶」でもあるのです。それでもまあ、時代の変化とともに言葉が変化するのは古今東西起きていることですから、それ自体はなんの問題もないのですが、問題はその変化の方向性です。現代社会では、新しい機械が生まれ、社会の状態も、世界の状態も変化してきたので、それらの情報を扱うための言葉はどんどん増えてきています。昭和生まれの古い人間としては、テレビで偉い人が使っている横文字の新しい言葉が理解できません。また、古いものを大切にし、古いものから学ぼうとする意識が弱くなってしまったため、世代間のつながりも希薄になってしまいました。そして、世代ごとに「言葉の方言化」が起きています。若者は「若者語」を話し、おじさんは「おじさん語」を話しています。そしてお互いに言葉が通じません。それでも成り立っているのが現代社会です。でもそのため、若者達は過去や大人達から学ぶことが出来なくなりました。「我が輩は猫である」という言葉を聞いても「我が輩」も「である」も分からないでしょう。また、「社会の変化や時代を共有する言葉」は増えましたが、何千年と使われてきた「心や、感覚や、からだの状態を表す言葉」は急激に減ってしまいました。「他者を批評するような言葉」は残っていますが、「自分を表現する言葉」は減りました。子どもに「きみの考え、きみが感じたこと、きみが言いたいことを言ってごらん」と言っても言葉が通じません。またそれを表現する言葉も持っていません。お母さん達に同じ事を言っても同じような状態です。主観的な感想は返って来るのですが、それを、相手に伝わるような形で言葉化することが出来ないのです。相手の立場に立って考える能力もまた「言葉の学びによって育つ能力」だからです。それは例えば食レポで「味はどうですか」と聞かれて「美味しいです」としか答えられないのと同じです。「美味しいです」という感想を言っただけでは、味が相手に伝わらないのです。「自分らしく生きていいんだよ」と言っても、その「自分らしく」という言葉の意味が分からない人が多いです。「自分らしく生きていいんだよ」という言葉を、「自分の欲求のままに生きてもいいんだ」と理解してしまう若者も多いのではないでしょうか。「自分らしく生きる」ということは「自分を大切に生きる」ということです。それは、目先の欲求に振り回されて生きるのとは逆のことです。ちゃんと「自分」と向き合っていないと出来ないことです。でも、今では「自分を大切にする」という言葉の理解も昔とは変わってしまいました。「命」というものに対する価値観や感性が変わってしまったからなのでしょうか。人と人とのつながりが希薄になり、自分を表現したり、相手の表現を理解する必要がなくなって来たため、「言葉で相手に自分のことを伝える能力」や「相手の表現を理解する能力」が低下してしまったのです。そのため、「相手の気持ちを思いやる」という事が出来ない子どもや大人も増えてきました。最近の子は生活の中で「言葉」を求められません。言葉を学ぶ場も少ないです。言われたことだけをやっていれば生活が成り立ってしまうからです。でもそのような生活が言葉を希薄化させ、人の意識や、心や、感覚までも希薄にし、さらには人間関係や親子関係や人と人のつながりまで希薄にしているのです。
2023.09.11
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あなたがもし、「人間」について知りたいと思ったらどうしますか。その際、その方法を決めるのは「人間の何について知りたいのか」という目的です。「目的」が方法を決めてしまうからです。人間の「物理的な構造」を知りたい人は、人間を解剖してみようとするでしょう。解剖すれば、物理的な構造は分かります。でも、構造が分かっても、それだけでは「命とは何か」ということは分かりません。どうやって心臓が動き、どうやって腸が働いているのかも分かりません。そこで必要になるのが、観察という方法です。西洋医学では、人間のからだを解剖し、その構造を理解することで人間について知ろうとしました。だから、外科的な手術や整形的な技術は得意です。でも、「心を持ち、感じ、生きている人間そのもの」を扱うのは苦手です。解剖という方法では、「胃」や「腸」は扱えても「人間」は扱えないからです。それに対して、東洋医学では「観察」によって「人間」について知ろうとしました。観察といっても外側だけを見る客観的な観察ではなく、自分の感覚や、からだや、心と共鳴させながら中身を感じ取ろうとする観察です。客観的な観察では外側しか見えないからです。東洋の人は「人体の構造」についてではなく「生きているとはどういうことなのか」という「ありのままのところ」を知りたいと思ったからです。うちの子が昔行っていた鍼灸の先生は、脈診だけで朝何を食べたか、薬を飲んだかどうかまで分かりました。だから慢性的な病気を扱うのは得意です。また、「心とからだは一体のものだ」ということも知っています。心とからだの関係や、からだと食の関係や、人間と自然の関係も知っています。ただ、構造的なことに対する理解は乏しいので外科的な手術は苦手です。また、つながりや内側の働きを重視するので、無理矢理見かけだけを整えるようなやり方(対症療法)には否定的です。そのため、治療に時間がかかります。でも、現代人はせっかちですから、すぐに症状が消える西洋的な方法の方を好みます。そうして、本質的なところで問題が進行していきます。このような違いを生み出したのは多分宗教の違いなんだろうと思います。キリスト教においては、「人間」は「神様」が創ったものです。「命」は神様によって与えられたものです。そのため、人間は神様に依存する存在であって、神様と同等な存在ではありません。そして人々は「神様がどういう仕事をしたのか」を知るために、人体を解剖したり、宇宙を観察したりしたのです。結果としてそれが「科学」を作り出し、神様を否定することになってしまったのですから皮肉なことです。また、大人と子どもの関係も、神様の前では平等ですが、相互の関係においては大人の方が上です。一番上にいるのは神様ですが、その神様が作ったものには、神様との距離に応じて上下の順番があるのです。神様の次に偉いのが人間で、その下にいるのがその他の動物や草や木です。だから、上位にいる人間は下位にいる動物を殺してもいいのです。環境保護の思想が強まった現代社会では、意味もなく野生の動物を殺すことは否定されていますが、増えすぎて保護する必要がなくなれば平気で殺します。また、野生動物は勝手に殺しちゃいけないけど、牛や豚は飼っている人の権限で殺してもいいのです。この辺の感覚が日本人にはよく分からないところです。そもそも「保護する」という発想自体が、命の価値には上下があることの表れでもあります。それに対して東洋的な考え方では、部分と全体を分けません。自分と他者を分けません。命の価値に上下をつけません。人間も動物も本質的には同じ存在だと考えています。そのため「保護をする」という考え方よりも、「共存する」という考え方の方を好みます。また、人間と神様の間には上下関係がありますが、人間と仏様の間には上下関係はありません。大人と子どもの間にも上下関係はありません。みんな仲間なんです。そこにあるのは「先輩」(先を歩くもの)と「後輩」(後ろを歩くもの)の違いだけです。キリスト教では人間は永遠に神になることは出来ませんが、仏教では人間も努力すれば仏になることが出来るのです。そして、人間の本質は「仏」だと考えられています。今では、東洋でも西洋文明を取り入れることで、西洋的な思想や価値観も一般的になりましたが、でもまだまだ本質的なところでの違いは残っています。日本にも生き物を殺して生計を立てている人はいっぱいいますが、でも、その命を供養するための碑も立てています。そういう感性は残っているのです。「環境保護」という視点からではなく、「命を大切にしよう」という視点から生き物を守ろうとしている人もいます。そして、子育てにおいて必要なのは「分析を元とし、自他を分離する西洋的な感性や考え方」ではなく、「ありのままを肯定し、つながりを大切にし、共に生きようとする東洋的な考え方」の方なんです。大人は子どもの支配者ではなく、子どもの先輩なんです。不思議なことにシュタイナー教育にはその東洋的な感性が含まれているのです。
2023.09.10
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子どもはお散歩に出ると、探偵+冒険者+科学者になります。奇麗な小石が落ちていれば拾い、タンポポが咲いていれば摘み、坂道があれば登り、水溜まりがあれば入り、虫がいれば追いかけます。八百屋に入れば野菜や果物をいじくり回し観察し、スーパーに入れば、“あれなあに”、“これなあに”と聞きまくり、おかしな髪型のおばさんがいれば“あのおばさんの頭へん!”と大きな声で言い、腰の曲がったおばあさんを見れば、“どうしてあのおばあさんは腰が曲がっているの”と聞き、銭湯に行って背中に入れ墨をしている人を見れば“どうしてあのおじさん背中に絵を描いているの”と聞き(最近はそういう人は公衆浴場には入れませんが、私が子どもの頃は普通にいました)、障害を持っている人を見ると“どうしてあの人は大人なのにベビーカー(車いす)に乗っているの”と聞きます。子どもはこの世界に来てまだ日が浅いので、この世界に対して先入観も、知識も、常識もありません。そのため何を見ても珍しくて、この世界のことを知りたくてしょうがないのです。そんな時、“そんなことするんじゃありません”、“早く歩きなさい”、“そんなこと言ってはいけません”という対応ばかりしていると、子どもはこの世界に興味がなくなってきます。(もちろん、そうしなければならない場合もありますけど・・・。)能動的に動かなくなります。積極的に感覚を働かせなくなります。不思議を感じなくなります。そして、大人が買い与えてくれるお菓子や、おもちゃや、遊びにばかり興味を持つようになります。実際、そういう状態になってしまっている子どもがいっぱいいます。でもそれは、旅行に行って「外は怖いから」と言ってホテルから出ないようなものです。キャンプに行って、テントの外にはいっぱい自然や素敵な世界があるのに、テントの中に閉じこもってゲームで遊んでいるようなものです。テントの外では風が吹き、鳥が鳴き、川が流れ、木々の間に光が溢れています。不思議なもの、珍しいものに満ちています。危ないものもいっぱいありますが、危ないものとの出会いを通して、危ないものの意味や、そのものとの付き合い方を学ぶことも出来ます。でも、テントから外に出て行かない子はそういうものと出会う事が出来ません。また、様々な体験や、仲間や、言葉などとも出会う事が出来ません。確かに、テントの中にいたままでも、外の世界についての知識は学ぶことが出来ます。でも、実際の体験が乏しい子は、その知識を自分のものとして使うことが出来るようにはなりません。新しいものと出会う事が出来なければ、成長も出来ません。それでも、テントから外に出なければ安全だし、何にも困らないし、成長できていない自分の状態にも気づきません。でも、思春期が来たら、自分を守ってくれていたテントは消えて行くのです。これは子ども自身ではどうしようも出来ない成長に伴う自然現実なんです。その結果、突然、どうしたらいいのか分からない世界に放り出されてしまうのです。そして、自分が「何も知らない、何も出来ない、仲間もいないちっぽけな存在」だったことに気がつくのです。でも、よっぽどの幸運がない限り、そこから学び直すのはほとんど無理です。そのため、「自分」というさらに小さなテントの中に閉じこもるようになります。そして、人目を気にしながら、人に合わせながら、自分らしさを殺しながら生きるようになります。確かに、幼い子どもには「安心できる居場所としてのテント」は必要です。でも子ども達は、その居場所を起点にして少しずつ外に出て行き、自分の世界を広げようとするのです。それが「子どもの本能」だからです。でも、親や大人に「外に出て行くな」とか、「外の世界は危険だ」と言われ、簡単に楽しく遊ぶことが出来る刺激が強いオモチャを与えられ続けているとその本能も萎えてしまうのです。でも、子どもはいつまでも子どもでいられるわけではありません。また、いつまでも子どものままでは親も子どもも困ります。だから、子どもが幼いうちに子どもを積極的に外の世界に連れ出して、自然の素晴らしさ、人間の素晴らしさ、仲間と遊ぶ楽しさ、大人と関わる面白さを積極的に子どもに伝える必要があるのです。子どもを狭い世界の中に閉じ込めてはいけないのです。確かに、ネットを通して外の世界の情報を見たり聞いたりすることは出来ます。でも、自分自身の体験が乏しい子は、その情報の扱い方が分からないため、簡単に情報にだまされ、振り回されてしまうのです。(今、AIがそういう状態に陥っているようです。)そして、AIが進歩した社会では、そういう人は働く場所を失います。ようやく暑さも落ち着いてきました。少し、家事をさぼって、子どもを連れて外の世界と出会いに出かけてみませんか。自然の中だけでなく、美術館や博物館に行くのも楽しいです。ハイキングや山登りも素敵です。野原でボーッとするだけでもいいです。そうやって、子ども達に「自分が生まれてきた世界の素晴らしさ」を伝えてあげて下さい。お母さん自身も、「自分が生まれてきた世界の素晴らしさ」を子どもと一緒に再発見して下さい。
2023.09.09
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私たちが生きている世界を支配しているのは「人間」ではなく「自然」です。「人間」は「自然」の一部に過ぎません。そして、自然界には、その恒常性と調和を維持するために、「やじろべい」のようにその時々の変化に応じてバランスを取ろうとする働きがあります。「-」が強くなりすぎれば「+」とつながってバランスを取ろうとするのです。この原理で雷が生まれています。水が上から下へと流れるのも、海で生まれた水蒸気が下から上へと上がっていくのもバランスを取るためです。私たちの命はその働きによって支えられています。その変化が復元可能範囲を超えたら壊れますが、限度の範囲内なら人間が関与しなくても、自然は勝手にバランスを取って元に戻ろうとするのです。病気が治るのも、様々な自然現象もすべて、バランスを取ろうとする自然界の働きの結果です。春・夏・秋・冬の四季は太陽とその地域のバランスによって生まれています。潮の満ち引きは、月と地球のバランスによって生まれています。地震も、地球が地殻内部のバランスを保とうとする働きの結果です。地球温暖化と呼ばれる現象も、人間の活動に合わせて自然界がバランスを取ろうとしている働きの結果です。(実際には色々な説があるようですが・・・)ですから、マスコミが言っているように地球が暑く(熱く)なっている原因が人間の活動によるものなら、人間が何もしなくても、人類が滅亡するだけで数十年、数百年で元に戻ります。youtubeでそういう動画を見ることが出来ます。【人類絶滅後の世界】もし…突然、人間が地球から消えてしまったら人間が自然に対して不自然なことをしようとすると、自然はバランスを取ろうとして「人間がやろうとしていること」とは反対の行動を起こすのです。それが「災害」という形で表れることもあります。私たちが生きている世界を支配しているのは「人間」ではなく「自然」なんです。そして、「人間」もまた自然の一部です。だから、病気になっても、ケガをしても、治癒作用が起きるのです。まただから、人間は自然と対話しながら、自然の原理に即して考え、活動しなければいけないのです。そうでないと「こんなはずでは」ということになってしまうのです。そのバランスを維持するために必要なのが「多様性」です。人間が飛んだり跳ねたり走ったりしても倒れないのは、その骨や筋肉や神経系の複雑さとそれらの連携のおかげです。そしてそれが「多様性」の意味でもあるのです。私たちが生きている世界には、様々な動物や植物や菌類やウィルスがいますが、それらがうまく連携し合って自然界のバランスが崩れないように支えているのです。でも人間は、人間の都合に合わせてその多様性を破壊し続けています。そしてその影響が様々な所に出ています。自然の一部である人間にまで影響が及んでいます。そしてこれは子育てでも同じです。大人達が、自分たちの都合に合わせて自然な子どもの成長を支配、コントロールしようとすると、子どもはその育ちに歪みを生じさせることでバランスを取ろうとするのです。物や、お金や、ゲームや、親に依存するようになってしまうのも、子どもの自然な成長が歪んでしまった結果です。そんな時、依存症を解消するために、「一方的にゲームを取り上げる」などというように、「大人にとって都合の悪いところ」だけを直そうとすると、さらに他の部分に歪みが出てしまいます。「子どもたちをみんな良い子にしよう」というのも不自然な発想です。良い子もいれば悪い子もいるのが自然な状態なんです。そもそも、自然界には「よい子」「悪い子」の基準などありません。害獣とか、固有種とか外来種などという基準も人間の勝手な決めつけです。「問題児」と言われる子がそのグループを活性化させる働きをしていることもあります。以前、中国で「スズメはお米を食べる害鳥だから殺してしまえ」という運動があったそうです。そして、大量のスズメを駆除しました。でも、豊作にはならなかったそうです。なぜなら、スズメが食べてくれていた虫たちが大量発生してしまったからです。「ケンカを無くそう」というのも不自然な発想です。子どもにゲームを与えて一人で部屋の中で遊ばせようとするのも不自然な行為です。学ぶ楽しさを伝えることなく、勉強に追い立てるのも不自然な行為です。そして、子ども達を不自然な環境に置き、不自然なことを求めているから、叱ったり、叩いたり、脅したり、罰したりという行為が必要な状態になってしまうのです。不自然な生活環境、不自然な食事、不自然な人間関係、不自然な遊び環境の中で育っている子は、自分の成長を歪ませることでその不自然に合わせようとします。そして、これもまた自然現象なんです。子どもは叱らなければ言うことを聞かない」と思い込んでいる人は多いですが、そういう人は子どもに対して、「子どもの成長にとって不自然なこと」を要求しているのです。善も悪も元々同じものです。視点をどこに置くかで同じものが善になったり、悪になったりするのです。実際、戦争では双方が善を主張しています。だからどちらかを否定、排除しようとするのではなく、お互いにバランスを取って共存できる道を探る必要があるのです。子育てでは「子どもの大人化」を目指すのではなく、「子どもと大人の共存」を目指せばいいのです。そうすれば子どもは自分の力で、自然な形で大人化していくのです。
2023.09.08
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他者の痛みを感じることが出来ない子に「いじめをやめよう」とか「差別をやめよう」などと言っても無意味です。自然の美しさや、素晴らしさを感じたことがない子に「自然を大切にしよう」などと言っても無意味です。人に優しくされたことがない子に「他の人に優しくしよう」などと求めても無駄です。食べ物を作り育てる大変さを知らない子に、「食べ物を大切にしよう」と言っても、その言葉の意味を理解できません。いつも一人でいて、指示や命令ばかり与えられ、一人の人間として話しかけられたことも、問いかけられたことも、他の人に話を聞いてもらったこともない子に「ちゃんと話を聞きなさい」と言っても無理です。いつもお母さんに罵られている子に、「悪口を言ったらだめだよ」と言っても無意味です。またそういう育てられ方をしている子に、「差別はダメだよ」と教えても、その言葉の意味を理解することが出来ません。仲間や大人と、楽しくつながる体験がないまま育っている子に、道徳心について説明しても無意味です。日常的に、お母さんから自分の気持ちを無視されている子は、他の子の気持ちも無視します。お話しや物語を聞かないで育った子は、他の人の心を理解することが出来ません。勉強に追い立てられている子は、自分の意志で勉強するようにはなりません。いつも、逃げ道を探します。「良い子」を求められている子は、お母さんの前でだけ「良い子」になります。お母さんが「良いお母さん」を演じていると、お母さんを真似して、子どもも「良い子」を演じるようになります。ただし、お母さんの前でだけですけど。競争に追い立てられている子は、人を差別するようになります。いつも一人で遊んでいる子は、物事を他の人との関係性の中で見ることが出来なくなり、自己中になります。でも、自分ではそのことに気づきません。そういう人は、「相手の立場に立った優しさ」というものが理解できないため、「あんたのためなんだから」と「自分の気持ち」を相手に押しようとします。そしてそれが「優しさ」だと思っています。「つながり」から切り離された状態で育てられ、「つながり」の中で多様な体験とともに言葉を学ぶことが出来なかった子は、心の世界を育てることが出来ません。考える力も、感じる力も育ちません。当然「つながる力」も育ちません。子どもの状態を非難、否定し、怒ってばかりいるお母さんは多いですが、子どものその状態にもちゃんと意味と理由と原因があるのです。多くの子が、ただ子どもらしく、自分らしく行動しているだけなのに、それを非難、否定され、無理やり大人好みに矯正されています。でも、そういう子は自分でも自分を否定するようになります。子どもの問題行動や困った状態の多くは、お母さんや大人たちが作り出しているんです。それなのに、大人は子どもを非難否定し、子どもに責任転嫁をしています。そしてそれを矯正しようとしています。でも子どもは、大人がやっていることを疑うことが出来ません。本能的に、子どもは大人を信じているからです。子どもには大人を疑う能力がないのです。まただから、大人から学ぶことが出来るのです。結果には必ず原因があります。その原因について考えずに、結果だけを無理やり直そうとしても無理なんです。子どもの育ちに必要なのは、成長したい、学びたい、つながりたいという子どもの意思を支えてあげることだけなんです。そうやって、子どもを「子どもの人生」の主人公にしてあげるのです。大人があれこれ指示や命令を出して子どもの行動や成長をコントロールしようとすると、お母さんが「子どもの人生」の主人公になってしまい、子どもはお母さんの願いをかなえるための脇役になってしまうのです。その結果、子どもは自立できなくなり苦しみます。そして様々な問題が発生します。
2023.09.07
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「差別」は「あるもの」と「あるもの」を概念的に比較し、社会的価値観に従って優劣を決めることで生まれます。男女差別は、「男性」と「女性」を比較し、社会的価値観に従って優劣を決めることで生まれます。人種差別も、障害者差別も、美醜による差別も、貧富の差による差別も、身分による差別もみんな同じです。そして、「あるもの」と「あるもの」を比較、対立させるためには「あるもの」と「あるもの」をその特徴や社会的価値基準に従って「分ける」という作業が必要になります。男性と女性を分け、お金持ちと貧乏人を分け、国と国を分け、美人と不美人を分けることで「比較し対立させる」という作業が可能になります。そしてそこに優劣をつければ必然的に「差別」が生まれます。でも、自然界には「あるもの」と「あるもの」を分ける境界線など存在していません。国と国を分ける境界線は人間の頭の中にしか存在していません。新大陸に西洋の人たちが渡って、もともとそこに住んでいた人たちから土地を奪い「アメリカ」という国を作りましたが、もともとそこに住んでいた人たちは、大地も水も生き物もすべて聖なる存在からの借りものであって「自分たちのものである」という認識はありませんでした。もちろん「土地を分ける」とか「土地を所有する」という概念もありませんでした。そこに「土地は人間のものだ」とか、「土地を所有する」という概念を持った西洋の人たちがやってきて、もともとそこに住んでいた人たちに「この土地を売ります」という契約書にサインをさせ、奪ってしまったそうです。その時、自分たちが住んでいる土地が「自分たちのものである」ということなど考えたこともないネイティブの人たちには、「この土地を売ります」という契約書の意味が全く分からなかったそうです。でも、それに何か書くと白人が喜んでくれたので、何か書いたそうです。で、後日鉄砲を持った人たちがいっぱいやってきて「今日からここは俺たちの土地だ」と追い払われたそうです。自然や大地や人間を一体のものとして考え、生活していた人たちが、人間と自然を分け、「土地は人間のものだ」という価値観を持った人たちに追い出されてしまったのです。でも、土地が個人によって所有されることで、必然的にその広さや、土地の豊かさによって優劣が生じます。土地を持っていない人は「貧乏人」として扱われたでしょう。自然界にはいかなる境界も存在していません。生命と無生命の間の境界すら存在していません。境界が存在しているのは人間の頭の中だけです。しかも、自然から切り離された社会の中で生活している大人の頭の中だけです。自然との共鳴が強い感性を持った子どもが生きている世界にも境界など存在していません。人間と自然。人間と動物、自分と他者の間に境界を感じないのです。それが「ファンタジー」と呼ばれるものが生まれてくる世界でもあります。だから子どもは好き嫌いで分けることはあっても、頭の中の価値観に従って他者を分けることも、上下の感覚で他者を差別することもないのです。子どもたちは、肌の色も、障害も気にしません。もちろん、性別で差別することなどありません。時々、「何才になったらオチンチンが生えて来るの?」と聞いてくる女の子がいますが、幼い子にとって男女の差はその程度のものなんです。大人でも「自然と共に生きている人たち」は、人と自然を分けません。人と人を分けません。「私のもの」と「あなたのもの」を分けません。自然界にはそういうものを分ける基準がないからです。ただし、「生活を共有する私たち」と「生活を共有しないあなたたち」は分けます。その結果、様々な部族が生まれました。これは人間以外の動物たちもやっていることです。子どもたちも「俺たち」と「俺たち以外」は分けます。でもそれは「差別」ではありません。生物界ではオスとメス(男女)の違いすら明確ではありません。「性」を持たない単性生殖の生き物もいれば、都合に応じてオスとメスを切り替えてしまう生き物までいます。オスとメスという違いが生まれたのは遺伝子の多様性を維持するためです。だからお互いにお互いを必要としているのです。もちろんそこに優劣などありません。でも、産み育てるという行為が困難になるにつれ、その「産み育てる存在」を守る存在が必要になります。そうしないと自分たちの子孫を残せないからです。これは相互依存の関係なのですから、そこに上下はありません。でも、社会というものが生まれ、その社会でお金というものが価値を持つようになって来ると、外に出て「お金を稼いでくる人」が「お金を稼がない人」を馬鹿にするようになりました。実際、今でも自然とともに生き、お金に依存しない生活をしている人たちの社会では女性の地位が高いです。差別は、人々が自然から切り離されることで人工的に作り出されたものなんです。近代社会は競争原理によって支えられています。そして、その競争原理の根底にあるのが差別意識なんです。「差別される側」(負け組)から「差別する側」(勝ち組)になるためにみんな競争しているのですから。そういう視点を持たずに「差別をやめよう」などといっても無理に決まっているのです。人間が自然から切り離された生活をしている限り差別は消えないのです。でも、減らすことはできます。そのためには、子どもたちを競争に追い立てるようなことはやめるべきです。比較し、評価することをやめるべきです。「競争」よりも「助け合い」を伝えるべきです。子どもと子どもを分け、成績で子どもを比較し、勝ち組になるために競争させておいて「差別をやめよう」などと言うのは偽善です。下請けを差別しているような大手が広告で「差別をやめよう」などというCMを流しても、本気で聞く人などいないのです。
2023.09.06
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現代人はあまり自分の頭で考えなくなりました。そして、世間一般の価値観に合わせようとしたり、社会的な正解を探してそれに合わせて生きるようになりました。「みんなと一緒」ならば非難も否定もされないからです。自分の頭で考えたことには、当然「自分らしい個性」が反映されています。それは当然のことです。そしてそれを避けることはできません。でも最近は、その人の「自分らしい個性」と「世間一般の常識」とのずれを指摘し、非難する人が増えてきました。ネットで「自分の考え」を書いただけなのに、見ず知らずの人がそれを「差別発言だ」などと非難否定してくることもあります。また、「男の子は女の子に優しくしなければだめだぞ」などと言うと、それを「差別的発言」として問題視する人もいっぱいいます。「男の子は男らしく」「女の子は女らしく」という考え方に対しても同じです。でもこのように考えることは差別なんでしょうか。確かに、政府がこのようなことを言い、このような価値観を国民に押し付けたらそれは問題です。でも、個人がこのような価値観を持って、このような価値観で生きることまで否定されなければならないのでしょうか。これでは、戦争中の思想統制そのものです。一人一人が自分の価値観や自分の考えを持ち、それを発言することまで否定しようとするのは、人間から「心の自由」を奪う恐ろしいことです。それは、「自分の考え」を持っている人を差別する行為です。確かに「差別はいけない」というのは、社会的な一般論としては正しい考え方なのかもしれません。でも、「差別ってなあに」とか、「なんで差別はいけないの」というようなことが広く議論されないまま、マスコミや、世間や、社会や、政治家が「差別の基準」を勝手に決めつけ、「これに反したら差別だ」と国民に押し付けるのは、戦争中に政府のやり方に異論を唱える人を十羽ひとからげ的に「非国民」と呼んで否定したのと同じ行為です。問題の本質を考えずに、目の前の問題に対処するだけのようなおかしなやり方をしているから、色々なところでおかしな問題が起きているのです。小学校では、体育などの時に男女一緒に着替えをさせているところが多いようですが、「差別してはいけない」という意見に従えば一緒でも問題ないのでしょう。でも、異性に対して羞恥心を感じる子どもの心を大切に考えるのなら別のやり方が必要になるでしょう。そんな時「異性に対して羞恥心を感じること自体がおかしいのだ」などと言い出したら、人間らしさを捨てるしかなくなってしまいます。戦争中は「兵隊さんが可哀そう」とか「生きて帰ってきてね」などと当たり前のことを言っただけで非国民扱いされたのです。そういうことを考えないように思想統制されていたのです。そして、そういう教育を受けた子どもたちが真っ先に「愛国心」に染まりました。今も同じようなことが起きています。最近の小学生は「SDGs」という言葉も知っていて、私が「それどういう意味」と聞くと、教科書に書いてあるように説明もしてくれます。でも、自然の美しさ、自然のすばらしさ、自然とは何か、人間と自然とのつながり、などというようなことを、自分自身の感覚や体験を通して感じたこともない子に、「SDGs」や「環境保護」という言葉を教えても意味がないのです。それは、戦争中に「命の大切さ」を教えずに「愛国心」を教えようとした国のやり方と同じです。「優しさとは何か」という事がまだ分からない子に「優しくしなさい」と教えるのと同じ事です。子ども達を「命の世界」や、「人と人のつながり」や、「自然とのつながり」から切り離して、「SDGs」(持続可能な開発目標)を教えても意味がないのです。そういう教育を受けた子にとって「自然」は頭の中にしかないのです。「優しさ」が頭の中にしかない子は、「優しさ」について語ることは出来ても、優しさを伝えることは出来ません。「自然」が頭の中にしかない子は、「自然」について語ることは出来ても、自然を「共に生きるもの」として守ることは出来ません。「命の世界」や、「人と人のつながり」や、「自然とのつながり」を知らないまま育った子は、世間の常識とは異なったことを言ったりやったりしている人を、平気で差別するでしょう。でも、自分自身が差別していることには気づきません。
2023.09.05
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(いつも長いですが、今日は特に長いです。)現代人は「差別」に敏感です。そしてテレビなどでも「差別をやめよう」などとしょっちゅうメッセージを流しています。男女差別や人種差別などが有名なところですが、人は、「頭の良しあし」や、「見かけの美醜」などでも人を差別しています。また大人たちは、大人にとって「都合がよい子」と「悪い子」を差別しています。先生も「先生の言うことを聞く子」と「聞かない子」を差別しています。「先生の言うことを聞かない子」は「問題児」や「発達障害児」として扱われます。戦争中、国は「国の言うことを聞かない人」を「非国民」と呼んで差別しました。コロナ騒動下では、ワクチンを拒否する人たちは「陰謀論者」などと呼ばれました。マスクをしない人や、ワクチンを打たない人は差別されました。でも、「そういう差別は止めよう」という声は上がりませんでした。むしろ、マスコミはその差別を積極的に肯定しました。食べ物の好き嫌いもまた差別です。食べ物に対する差別です。洋服の好き嫌いもまた差別です。一般的にはそういうものは「差別」としては扱われませんが、差別を生み出している根幹は「好き嫌いの感情」に基づく「個人の価値観」や「社会の価値観」ですから、そこに本質的な違いはありません。ただ、食べ物や洋服は「差別反対」などと声を上げないので「差別」として認識されないだけです。かわいい動物は肯定され、守られますが、醜い生き物は否定され、駆除されます。そして「好き嫌い」の感情は永遠になくなりません。脳をいじって好き嫌いの感情を消したら、もうそれは「人間」ではありません。人間以外の生き物たちにも好き嫌いはあります。その好き嫌いに従って生きています。猫や犬にも好き嫌いはあります。動物に好かれやす人もいれば嫌われやすい人もいます。蚊にも好き嫌いがあるようです。そんな時、動物たちに「差別はよくないんだぞ」と言っても無意味です。その好き嫌いの基準は個人にもありますが、時代が作り出しているものもあります。現代社会における「差別はいけない」という価値基準も時代が創り出しているものです。ですから。そこに客観的な根拠などありません。そのため、人間の都合の良いように使われています。いまでは「人種差別は良くない」などと言われますが、奴隷制度が肯定されていた時代は、奴隷を牛や馬のように扱うのは差別ではありませんでした。また現代社会でも、「差別はいけない」と言いながら、差別している人を平気で差別します。「人殺しはよくない」と言いながら、人を殺した人は殺してもいい制度になっています。ネットで「外来種は殺していい?アメザリ踏みつぶす子ども 命の尊さどう伝える」という記事を読みました。テレビなどでも、「在来種」は「守るべき対象」で、「外来種」は「駆除する対象」として扱われています。外来種を駆除するのは「善」なんです。この場合の「駆除」は殺すことを意味しています。つまり、外来種だったら殺してもいいのです。それが「善」なんです。私には、これは、生き物をその出身によって差別する立派な差別だと思えるのですが、「生き物を出身によって差別するな」などと訴える人をテレビで見たことがありません。これは外国人差別とどう違うのでしょうか。ちなみに私たちが普通に食べているナスも、トウモロコシも、トマトも、元々は外国から来たものです。これらが差別されないのは、ただ日本人の生活に溶け込んでしまったからにすぎません。そこに人間の身勝手があります。自分たちの利益につながらないものは否定し、利益につながるものなら積極的に肯定するのです。これが差別の根本原理です。皮肉なことに、差別をなくそうとする意識がこの世界の多様性を否定し、人々の意識の中に差別を生み出しているのです。差別する人がいたっていいのです。「そういう人もいるよね」で済ませてしまえばいいのです。そういう人が嫌いならば近くに寄らなければいいのです。ただそれだけのことです。政治はそれでは困りますが、個人の生活ではそれでいいはずなんです。それなのに、みんなでよってたかって差別する人を否定、非難、差別しています。相手が芸能人のような有名人ならなおさらです。相手を否定非難することで、「自分は正しい人間なんだ」ということをアピールしようとしているのでしょう。でもこれも立派な差別ですよね。目くじらを立ててそういう人を否定し、排除しようとすることでまた別の差別が生まれてしまうのです。でも、差別する側が多数派に属しているときにはそれは「差別」として否定されません。ただそれだけのことです。幼い子ども達は肌の色が違っていても、障害を持っていても、そんなこと気にしないでみんな楽しく遊ぶことが出来ます。虫や草花とも仲良く遊んでいます。差別反対などと言う子どもはいません。そもそもそんな言葉知りません。差別という概念も理解できません。「差別反対」を叫ぶから「差別がない社会」が生まれるわけではないのです。本当に大切なことは、人間の価値観が作り出した基準に従って差別を否定することではなく「自然が創り出したありのままの多様性」を肯定することなんです。一見、「差別の否定」と「多様性の肯定」は似ているように見えますが、実際には正反対なんです。「差別」は人間が創り出したものですが、「多様性」は自然が創り出したものだからです。ちなみに、自然界では「男」(オス)と「女」(メス)の間に明確な境界はありません。都合に合わせてオスになったりメスになったりする生き物も、最初からオスとメスの区別がない生き物もいるのですから。「男・女を差別してはいけない」などといいますが、そもそも男性と女性の間に本質的な違いはないのです。でも、「男・女を差別してはいけない」と価値基準を固定することで、「男性」と「女性」を概念として固定化してしまっているのです。
2023.09.04
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「頭を使う」と言うことは、「とりあえずやってみる」ということなのです。体験がないことをいくら考えても分かる訳がないのですから。幼い子ども達は常にそれを実践しています。そしてお母さんに叱られています。知識もあり、経験もある大人の場合は頭の中だけで考えることも可能です。でも、知識も経験もない子どもが頭の中だけで考えてもなんにも出て来るわけがないのです。これは子どもに限らず、大人でも同じです。結婚でも子育てでも就職でも趣味でも何でも、新しいことに挑戦する場合はとにかくまずやってみることです。うまく行かなければあれこれ試行錯誤するのです。とにかくやってみるのです。やってみないことには「知らないこと」や「新しいこと」と出会えないのですから。また、試行錯誤して「知らないこと」や「新しいこと」と出会えなければ、いつまで経っても、自分の考え方や感覚をバージョンアップすることが出来ません。そのため自分の頭で考えることも出来るようにはなりません。そして、悩みばかりが増えていきます。本来、「悩むこと」と「考えること」は全く別のことなのですが、その区別が付かない人が多いのです。悩んでばかりいる人に「もうちょっとちゃんと考えたら」と言うと、「私だっていっぱい考えているのよ」と怒りの声が返ってきます。勉強でも同じです。以前、うちの子が数学の問題を前にして「わからない」と繰り返していたので、「眺めているだけでは頭は働かないよ」と言いました。特に初心者の場合は、問題を図式化したり、絵に描いたりしてみたりして手を動かして考えないことには頭は働かないのです。頭の中だけで考えることが出来るのは上級者だけです。ソロバン上級者の驚異的な暗算能力も同じですよね。実際にソロバンの珠をはじいて計算しているうちに、やがて頭の中だけでも計算が出来るようになるのです。繰り返し繰り返しの練習で頭の中にソロバンが入ってしまうからです。将棋も同じですよね。そして、実は勉強でも同じなんです。子ども達の思考力は実際に手を使い、感覚を使い、からだを使って、あれこれ試行錯誤する過程で身についていくのです。子どもや初心者にとって「試行錯誤」は「思考」そのものなのです。試行錯誤が「発見」を促し、それが思考を目覚めさせるのです。様々な子どものイタズラもその試行錯誤の現れです。つまり、子どものイタズラは子どもの思考の現れなのです。ですから、子どもがイタズラをした場合は、ただ叱るだけでなくそのイタズラを通して子どもが何を発見して楽しんでいるのかを考えてみて下さい。そのことを理解することがまた、子どもの「困ったイタズラ」を減らすことにもなるのです。(ただし、延々と同じイタズラにこだわる時には、心のトラブルや発達障害の可能性があるので要注意です。一般的には発見の驚きが収まれば、そのイタズラは収まっていきます。)でも、今の子どもたちはこの試行錯誤が出来ないのです。試行錯誤を「発見」と考えずに「失敗」と考えてしまうからです。そして、なぜか失敗を非常に恐れるのです。幼い時から試行錯誤の楽しさを体験していないからなのでしょう。だから、眺めるだけで手を出さないのです。失敗したら嫌だからです。だからいつまで経っても上手にもならないし、考えることが出来るようにもならないのです。失敗によって思考停止してしまう人は、失敗を恐れるあまりどんどん自分の世界を狭めていってしまいます。この世界には「失敗」などないのです。ただ「発見」があるばかりです。そして、その発見を積み重ねることで「考える能力」が育つのです。ですから、失敗が評価を下げることにつながるような教育システムを行っている限り、子どもの思考力はどんどん低下して行くのです。でもそれが日本の教育システムです。また、親が、失敗に不寛容だと子どもは自分の頭で考えなくなります。
2023.09.03
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いつも通っている、家から駅やお店などへの道は見慣れていますよね。でも、その道しか知らないのではありませんか。そぐ側にある路地は入ったことがないのではありませんか。そんな時、少し遠回りだったとしてもいつもとは別の道を歩いてみませんか。小さな「旅」が始まるかも知れませんよ。ちょっと路地を入っただけで、「よく知っている」と思い込んでいた町が「見知らぬ町」へと変貌します。そこには、自分が知らない風景が広がっています。そして、新しい発見もあるかも知れません。遠くに行くだけが「旅」ではないのです。どんなに遠くに行っても、ガイドに連れ回されているだけだったり、観光地巡りをしているだけでは、「旅行」は出来ても「旅」は出来ないのです。私は「旅」と「旅行」は違うものだと考えています。昔から、旅をしている人を「旅人(たびびと)」と呼びます。でも、普通に旅行している人を「旅人」とは言いませんよね。「スナフキン」は「旅人」であって、「旅行者」ではないですよね。このニュアンスの違いがお分かり頂けるでしょうか。「旅行」には目的があります。でも、「旅」には目的がありません。そして、目的がないので自由です。自分の心や感覚と対話しながら心の赴くままに歩くのが「旅」なんです。でもそれ故に「自分」と出会うことが出来るのです。「人生」は「旅」に例えられますが、それは人生にも「固定された目的」がないからです。毎日新しいことに出会い、その出会いを楽しみ、その出会いの中に自分で意味を見いだしていくのが「人生という旅」なんです。でも、忙しい現代人は、「旅行」はしても、「旅」をしなくなりました。「忙」という字は「心を失う」と書くのですが、心を失った人には旅が出来ないのです。目的がないのでどうしたらいいのかが分からないのです。そして、「自分の人生」の生き方も分からなくなりました。でも、「いつもと違う道」を歩いたり「いつもと違うやり方」を試してみて、それを楽しむようにしていると少しずつ「旅」の感覚が分かってくると思います。「新しい自分」と出会えるかも知れません。そして、「新しい自分」と出会えれば、「新しい発見」もあります。「自分」が変われば、世界も変わります。子育てでも「いつもやっているやり方」がうまく行かないのなら、あれこれ色々なやり方を試してみて下さい。ただし、「楽しみながら」です。楽しもうとしていなければ「旅」にはならないし「新しい自分」とも出会えません。私は30才の頃に、リュック一つで一年近くヨーロッパやインドをウロウロしてきましたが、毎日毎日が新しいことの連続で、常に自分と向き合っていました。今日は何をするか、明日は何をするか、今日はどこに行くか、明日はどこに行くかということを毎日考え続けていました。新しい町や新しい国に入るたびに、人々の様子や町の様子を観察しました。アジアでは、小さなものを一つ買うだけで値段交渉が必要でした。その度に、「どうやってまけさせようか」と一生懸命に考えました。旅をしていると同じ毎日はやってきません。自分の頭で考え、自分の意志で行動しないと何も始まらないのです。それは緊張の連続ではありましたが、また、その緊張が楽しかったのです。また旅に出たいです。
2023.09.02
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お話や物語の中では自分が「自分以外のもの」になって色々と体験することが出来ます。「旅に出る」ということが「日常から離れ、非日常の世界に入って行く」というなら、これもまた立派な「旅」です。「心の旅」です。観光名所めぐりや、買い物や、美味しいものを食べることだけが目的の旅行よりも、ズ~っと「旅」です。そして人は、その「旅」で色々なものに出会い、色々なものを見て、色々なものを感じて、色々な体験をして、自分の「心の世界」を広げることが出来ます。ただし、その「心の旅」が出来るようになるためには、子どものころにいっぱいお話しを聞いたり、いっぱい物語を読む必要があります。心の中であれこれ空想するだけのことなら、お話しを聞いたり物語を読むことなく育った人でも出来ますが、そういう人は「他者の視点」に立つことが出来ないため、「自分」から外に出て「旅」をすることが出来ないのです。だから「新しい出会い」も生まれないのです。実は、「他者の視点に立つ」というのは、心の体験を通して学ぶ一つのスキルなんです。その体験を与えてくれるのが「お話し」であり「物語」なんです。「他者の視点によって表現された言葉の世界」との出会いが、子どもたちの「他者の視点に立つ能力」を育ててくれるのです。そのため、いくらいっぱいテレビやタブレットで「お話し」を見せても、「他者の視点に立つ能力」は育たないのです。古来から、「お話し」は見るものではなく「聞くもの」なんです。「物語」も同じです。文字が読めるようになったら自分で読んでもいいのですが、映像化されたものを見ても、「他者の視点に立つ体験」は出来ないのです。ドラえもんの体験はドラえもんの体験のままであって、自分の体験にはならないのです。なぜなら、「視覚の働き」が自分と他者を分離してしまうからです。それが「視覚」の長所であると同時に短所でもあるのです。そのため、いくらいっぱいテレビでお話しや物語を見せても、「他者の視点に立つ能力」は育たないのです。ではその違いはどういう所で表れるのかということです。特攻隊の生き残りだった父親からもよく聞かされましたが、戦争中、上官が理不尽な理由で新兵をいじめ、しごくのは当たり前だったそうです。それで自殺してしまった仲間も数人いたそうです。そのような上官は「俺も新兵の時にはしごかれた、だから今度は俺がお前らをしごく番だ」と、自分の行為を正当化していたようです。でもその一方で、「俺は新兵の時にしごかれて苦しい思いをした、だから俺はしごかない」という判断をすることが出来た上官もいたそうです。父親はそういう上官に恵まれたようです。それで、命が助かったのです。他者の視点に立てる人は、相手の立場に立って優しくすることが出来ます。でも、他者の視点に立てない人は、ただ自分勝手な思い込みを「あんたのためなんだから」と押し付けます。そして、そういう優しさしか思いつきません。相手のことを想っているのは確かでも、相手の立場や気持ちや感覚を無視しているのです。勝ち負けばかりにこだわり、相手の気持ちを考える事が出来ない子も同じ状態です。災害にあった人に救援物資を送る場合も、相手の立場に立つことが出来る人は「本当に相手が必要としているもの」を送ります。でも、相手の立場に立つことが出来ない人は「自分が送りたいもの」を送ります。そして送られた方は処分に困ります。そして実は、幼い頃からのお話しや物語の体験の有無がその違いを生み出しているのです。私はお母さん達から色々な話を聞いていますが、「虐待されて育ったから我が子も虐待してしまう」と言う人もいれば、「虐待されて育ったから、自分は絶対に虐待しない」とそれを貫くことが出来る人もいます。そういう人に共通しているのは「お話し好き」「本好き」だということです。単純な負の連鎖を食い止めることが出来るのは、子どもの頃からいっぱい本を読んで育った人に多いのです。(私の印象では、ということです。)また、子どもの頃にはあまり自然の中で遊んだ体験がないのに、大人になってから自然の中での活動が好きになった人の話を聞くと、子どもの頃から本の中では自然や仲間と出会い、色々な体験をしていた人が多いのです。「お母さんから聞いた桃太郎」と「テレビで見た桃太郎」は全く別物なんです。
2023.09.01
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「旅に出る」ということは「日常から離れ、非日常の世界に入って行く」ということでもあります。「非日常の世界」ですから、そこでは「いつものやり方」が通用しません。「新しい出会い」「新しい体験」に溢れています。電車や飛行機に乗って遠くに行くだけが旅ではありません。会社の出張のように、遠くに行ってもそこにあるのが「日常」だけなら、それは「場所を移動した」だけであって「旅」ではないのです。そして、それが「旅」の特徴ならば、意識を切り替えるだけで「旅」は日常生活の中でも簡単にできるのです。人生そのものが新しいことが連続して起きている「旅」そのものなんですから。昨日私がいた世界と、今日私がいる世界は別の世界です。天気も違えば、わずかでも季節も違います。自然界の状況も、人々の状況も、わが子の状況も刻々と変化しています。自分の年齢も1日分増えています。太陽系の中の地球の位置も、銀河系の中の太陽系の位置も違います。そして毎日毎日、確実に「旅のゴール」(自分の死)に近づいています。変わらないのは「頭の中に作り上げた世界」だけです。「実際の自分」や「実際の我が子」は日々変化しているのに、「頭の中の自分」や「頭の中の我が子」は記憶によって固定されたままなんです。だから、現実生活の中で辻褄が合わなくなってしまうのです。「昔のように飛べる」と思って飛び込んだ縄跳びで、最初のジャンプで「あ、無理!」と感じたことはありませんか。(実際、そう叫んだお母さんがいました)それに気付き、そういうことに意識を向けることができる人にとっては「人生」そのものが「旅」になります。ですから、日々の生活の中での出会いを楽しみ、別れを悲しみます。俳人の松尾芭蕉は「 おくのほそ道 」の中で「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」と言いました。また、茶道でも「一期一会」を大切にします。空を見上げて「雲」を見てみてください。その「雲」は昨日の雲とは違う雲です。昨日どころか一分、一秒前の雲とも違う雲です。我が子を見てみてください。お母さんの頭の中では「昨日の我が子」も「今日の我が子」も同じかもしれませんが、それは「脳の中にいる我が子」であって、「目の前に現実にいる我が子」ではありません。そういう意識で子どもを、自分を、自然を、人間の社会を見てみてください。すべてのものが愛おしくなりますから。子どもたちにとっては毎日が新しい出会いに満ちた旅です。だから、明日は何が起きるんだろうとワクワクしながら生きています。でも、狭い部屋の中に閉じ込められ、モノや機械だけを与えられ、新しい出会いや新しい体験を奪われてしまった子は、旅を楽しむことが出来なくなってしまいます。自分の意志で旅を続ける意欲も萎えてしまいます。「人生という旅」に興味を失ってしまいます。それは、せっかく旅に出たのに、バスから外に出ることを禁じられ、旅行会社が手配した土産物屋や、レストランにしか行けない旅のようです。
2023.08.31
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現代人はどんどん「視野」が狭くなってしまっています。「全体」は見ずに、「部分」だけを見ようとしています。「時間の流れ」は見ずに、「マスコミによって切り取られた今」だけを見ています。「つながりの中の自分」のことは忘れ、「自分の欲望を満たすために必要なこと」ばかり考えています。関係性の中で物事を見ることをせずに、自分にとって関心のあることだけを見ています。マスコミや学校や偉い人が言うことをそのまま素直に信じてしまい、自分の頭で考えようとしていません。なぜその問題が起きてるのかを理解することをせず、ただ、目先の問題の解決法ばかりを求めています。自分の頭で考えようとしません。自分の感覚で感じようとしません。自分の意志と責任で行動しようとしません。もちろん、そうでない人もいっぱいいますが、社会全体の流れは確実にそのような方向に向かっていると思います。なぜなら、何十年にもわたって学校がそういう教育をして来たからです。明治維新以降、学校が富国強兵のために、「みんな一緒」、「みんな同じ」を目指す教育をして来たので、学校を出た人たちによって支えられている社会も、必然的に同じ価値観に支配されてしまったのです。また、第二次世界大戦の敗戦以降は経済復興のために同じ方法がとられました。ちょっと人間的な行為に走ってしまった芸能人を、みんなで寄ってたかって非難、否定、排除しようとする光景は異常です。たとえ有名人であっても、自分とは直接関係のない人の生き方を、非難、否定する権利は誰にもないはずなのに、なぜかみんな砂糖にたかる蟻のようにその「非難・否定祭り」に参加するのです。そしてテレビは、その騒動をあおっています。「アイドルには恋人がいてはいけない」などという不条理がそのまま肯定されています。「アイドル」は、「商品」であって「人間」ではないからです。でも、若い子は「自分を人間扱いしてくれない世界」にあこがれています。「みんな一緒」や「みんな同じ」を大切にしている社会では「自分らしい生き方」や「人間としての尊厳」は価値を持たないのです。でも、そのような価値観に支配された社会は見せかけだけで成り立っているので、時間とともに活力を失います。それが今の日本です。そのような社会で人々は、自分の独自性を生かして自分らしく生きようとするのではなく、似た者同士の群れの中で「競争に勝つ」ことだけを求めようとするようになっています。でも心の奥底ではみんな、その状態に満足していないように見えます。それが、自信のなさや、自己肯定感の低さにも表れています。また、「みんな一緒」や「みんな同じ」を強制される社会的価値観によって、多くのお母さんが、子育てや人間関係の中で苦しんでいます。もちろん、子どもたちも苦しんでいます。だからといって、「みんな一緒」や「みんな同じ」という価値観に束縛されずに自由に生きる能力も自信もありません。そもそも、自分がそういう状態であることに気付いていない人の方が多いかもしれません。そのような状態に気づき、「心の自由」を取り戻すためには「心の旅」に出ることをお勧めします。リアルな旅でもいいのですが「心の旅」の方が確実に一人になることが出来るし、自分と向き合うことが出来るからです。<続きます>
2023.08.30
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人間の最大の特徴は「自由」であることです。でも、「自由」が存在するためには「不自由」が必要になるのです。「善」が存在するためには「悪」が必要です。「光」が存在するためには「闇」が必要です。「下」が存在するためには「上」が必要です。「中」が存在するためには「外」が必要です。「自分」が存在するためには「他人」が必要です。そうですよね。だから「自由」だけを求めて「不自由」を嫌い遠ざけていたら、困ったことに「自由」も消えてしまうのです。問題は、その本人は「自由が失われたこと」に気付かないということです。何ら具体的な不自由があるわけではないからです。それは、「動きを邪魔するようなもの」が何もない広いところに連れていかれて、「自由に動いてもいいよ、何してもいいよ」と言われるようなものです。最初のうちは、「やったー」と思い、色々と動き回ったりするかもしれませんが、邪魔するものがないということは、「自分の能力」を上達させる機会も、使う機会も、ハラハラドキドキする機会も存在しないということです。自分の行為に意味も目的も持てないということです。そして、同じ事ばかりを繰り返すようになります。「自分という檻」に閉じ込められてしまうからです。そしてその檻には出口がありません。またそのため、成長も止まってしまいます。成長は「乗り越えるべきもの」が存在するからこそ必要になる現象だからです。「重力」があるから、それに逆らって立ち上がり、歩くという能力が育つのです。それが、本能的に「自由」を求める人間の特性なんです。言葉が分からないと一人ぼっちになってしまって寂しいから、子どもは言葉を覚え、ほかの人とコミュニケーションを取ろうとするのです。だから、大人は子どもに必要以上の自由を与えてはいけないのです。人間は何もできない未熟な状態で生まれてくるからこそ、自分の成長によって自由を手に入れようとするようになるのです。昔の子どもたちには、遊具など皆無のただの空き地や、路地裏や、野原や、山の中で遊んでいました。大人が作った遊具などなくても、そこにあるものをうまく使って遊びを作り出していました。木や、石や、木の実や、葉っぱも立派な遊び道具だったのです。水や風や光も遊び道具でした。「影ふみ」という遊びは光を使った遊びです。「影絵遊び」も光を使った遊びです。重力も、地面も、からだも、遊び道具です。路地裏も、さらには大人も遊び道具でした。「大人に隠れて悪いことをする」というスリルはワクワクします。「遊具」に慣れてしまった最近の子を、そういうものがない所に連れて行っても、遊びません。というか、遊べませんす。最近の子は、「子どもを遊ばせてくれるもの」が何もないところで遊ぶ能力が育っていないからです。大人たちは、安易に子どもに自由を与えることで、子どもが自分の力で自由を得る能力を育てる機会を奪ってしまったのです。子どもを「つながりという不自由」から切り離し、ゲームのように一人で自由に、簡単に遊べるおもちゃや遊具を与えるということはそういうことなんです。さらに大人たちは、自分の力では乗り越えることが出来ない壁で子どもたちを取り囲んでいます。そういう状態で育っている子どもたちが無力感を感じ、自己肯定感を育てることが出来ないのは当然のことです。
2023.08.29
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人類は自由に考える能力を得た時点で、仲間からも自然からも切り離された存在になってしまいました。人類は「自由」と引き替えに「つながり」を失い、「孤独」という重荷を背負わなければならない宿命を負ったのです。その能力こそがアダムとイブが食べてしまったとされる「禁断の木の実」なのでしょう。そしてだからこそ、人間は常に「つながる努力」をする必要があるのです。人類が「心の自由」を得た時点で、「つながり」は「遺伝子によって与えられるもの」ではなく、自分たちの意思と努力で、育て、守り、伝えていかなければならないものになったのです。そうしないと、人間はすぐにバラバラになってしまう宿命を背負った生き物なのです。それでも、人類がまだ一人で生きるのが困難な時代には、みんなが支え合い、つながり合って生きていました。人類の能力は、一人で生きて行くのには適していなかったからです。助け合わないと生きて行くことが出来なかったのです。そして、支え合い、つながり合う努力をする過程で部族のつながりが生まれ、村が生まれ、社会が生まれ、国が生まれ、様々な知識や技術や文化が生まれ、そして受け継がれるようになりました。でも、社会が大きくなり、そのシステムが固定化してくると、相対的にその「つながり」の役割は小さくなりました。「人と人のつながり」によって支えられていた社会が、「つながり」ではなく、規則やシステムというものによって支えられるようになってきたからです。何百人、何千人、何万人という人たちが暮らす社会は「つながり」だけでは維持できないのです。さらに、「お金」が社会を支えるようになると、ますます「人と人の直接的つながり」は消え、人々は「お金」を介在してつながるようになりました。でもこのつながりは「お金」が消えると同時に消えてしまう儚いものです。「金の切れ目が縁の切れ目」ということわざの通りです。それでも、「地域社会」が活性化していた頃は、ほとんどの人々は人と人のつながりを大切にして生きてきました。お金さえあれば、「つながり」から外れても生きて行くことは出来ますが、「つながり」の中にいないと、その土地に根ざした生活が出来なかったからです。でも、その地域も崩壊し、社会の中に便利な機械や、お店や、生活のシステムが整ってくると、「つながり」は面倒くさいだけの「無駄なもの」になりました。それでも、人は一人では寂しいので一緒にいようとはするのですが、一緒に何かをするだけでそこに「つながり」はありません。先日、うちの教室の生徒が「今日は教室に来るまでズーッと○○と遊んでいた」と言いました。「○○くん」もうちの教室の生徒です。それで、「二人で遊んでいるときは何をしているの」と聞きました。すると、当然のことにように「ゲーム」と答えました。それで、「ネットか何かで対戦して遊ぶの」と聞いたら、そうではなくバラバラのゲームをやっていたそうなのです。一つの部屋の中で、二人の男の子が別々のゲームをやっていて、それを「一緒に遊んでいた」と表現したのです。このような状態は子どもだけでなく、大人でも同じでしょう。よく、お母さんがお父さんに「たまには子どもと遊んであげてよ」と言うと、「じゃあ、一緒に買い物に行こう」と出かけるお父さんが多いそうですが、これもまた同じです。そしてそれは現代人の一般的な感覚なのだと思います。でも、そのような関わり方では子どもが育たないのです。人間の様々な能力は、「人と人の直接的なつながり」の中での様々な学びと体験を通して育つように出来ているからです。「つながり」が失われた状態の中で育っている子どもは、意識や意欲が閉ざされてしまうため、いつも同じ事ばかりして遊ぶようになります。そして、「外の世界とのつながり」を拒否して、「自分だけの世界の中で自由に生きる」ことを求めるようになります。でもその結果、学ぶ事への意欲が萎えます、つながりの中でしか育たない様々な可能性も消えてしまいます。子どもの成長には意識を広げるための多様な体験が必要なのです。そして、そのためには様々な形の「つながり」が必要なのです。「つながり」は「体験」を通してしか生まれないからです。だから、「子育て」はお母さんたちの「つながり作り」や「仲間作り」と並行して行う必要があるのです。そして、そのことでお母さんもまた育ち直しが出来るのです。
2023.08.28
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そして、対話ができる人は退屈しません。一人でいても、雲や草を見ているだけでも、オモチャやゲームがなくても退屈しません。それ故、待つことができます。また、自分の力で学ぶことができます。対話が発見を促すからです。「学ぶ」ということは、単に「暗記する」ことではありません。単に良い成績をとるためだけだったら暗記が一番手っ取り早いのですが、いくら山のように暗記しても、それが自分自身の成長につながっていないのなら全く無意味だし、無駄なことです。また、人生で色々なことを学ばなければならない大切な時期に、「暗記させるだけのお勉強」をさせるのは子どもに対する冒涜でもあります。でも、「子どもの成長」ではなく「子どもの成績」にしか興味がない大人たちは平気で子どもたちに「学び」ではなく「暗記」を強いています。大人たち自身が「学ぶとはどういうことなのか」とか「学ぶ喜び」ということが分からなくなってしまったのでしょう。でもその結果、肉体は成長しても、心や知性が成長できない子どもたちが増えています。そのまま大人になっている人もいっぱいいます。名探偵コナンの逆です。「見かけは大人、中身は子ども」なんです。そういう人は、自分の頭で考えることも、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動することができません。そして、常に人と自分を比較し人目を気にしています。何かを食べるときには、リスのようにただ食べ物を口に詰め込むだけではないですよね。まず、味わい咀嚼しますよね。それに相当するのが「対話」なんです。「1+1=2」を暗記するだけでは学びにはならないのです。「1+1=2」を味わい、咀嚼することでそれが学びになるのです。「どんぐりクラブ」という所がやっている算数の学び方がありますが、「どんぐりクラブ」では問題の文章を絵に描かせることで、問題と対話させているようです。絵を描いて問題と対話しているうちに何がどうなっているのかが自然と分かってくるのです。私は自宅では造形教室をやっていますが、造形の場でも同じです。対話能力がある子は、あれこれやってみます。そうやって対象と対話しているうちに「どうしたらいいのか」が自然と見えてくるのです。でも対話能力が乏しい子はただ頭の中だけで考えようとします。でも、それ以前に様々な体験を通して学んできた子なら頭の中だけでも考えることができるのですが、ただ暗記するような学びしかしてこなかった子は、何をどう考えたらいいのかということ自体が分からないのです。子どもたちは、手を動かし、体を動かしながら対象と対話することで、思考力を育てています。ですから、体験が乏しい子は思考力自体が育っていないので、「考えなさい」などと言われても、どうしたらいいのかわからないのです。そのため、対話能力がない子は最初から「やり方」を聞いてきます。そして、そのやり方にこだわります。そしてすぐに行き詰ります。大まかなやり方を教えても、その時に使う木も紙も、一つ一つ違います。また、子どもの能力も違います。A君はそのやり方で出来ても、B君もそれと同じやり方でできるかどうかは不明なんです。ノコギリやトンカチが上手な子と下手な子とでは、当然のことながら同じやり方はできないのです。だから自分の能力に合わせたやり方を、対象と対話しながら自分で発見していくしかないのです。あと、対話が苦手な子は応用も苦手です。「あのパーツがないからこれで代用しよう」という発想ができないのです。工作の本を読んで作るときに、本に書いてあるのとまったく同じ材料がないと作れないのです。また、本に「○○センチの棒」と書いてあったら、「○○センチの棒」にこだわります。そんなの「○○センチでなくて、こっちの方もそれに合わせればいいんだから何センチだって同じだよ」と言っても、本に書いてある通りに作ろうとするのです。でも、そういう子はほぼ必ず途中で挫折します。対話能力が育っていない子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動する能力が育っていないので、すぐに、誰かや何かに依存しようとします。
2023.08.27
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「対話」は、問いかけることから始まります。自分を相手に分からせようとするのではなく、相手のことを知ろうとすることで対話が生まれるのです。ただ話し合うのは「会話」であって「対話」ではありません。また、「対話」の相手は必ずしも人間に限定されません。青い空を見て、空の青さに不思議を感じ、もっと知りたいと見えないものを観ようとする時に「青い空との対話」が始まるのです。相手に対する興味や、好奇心や、尊敬がないと対話は生まれないのです。芸術家と呼ばれる人たちは、色や光や音と対話することが出来ます。色や光や音を「言葉」として聞き取ることが出来るのです。整体の先生は、相手のからだに触れることで、相手のからだと対話することが出来ます。武道をやっている人も非言語的コミュニケーションが得意です。ガーデニングが得意な人は草や木と対話することが出来ます。料理人は素材との対話が出来ます。そしてこの能力があれば生まれたばっかりの赤ちゃんとだって対話することが出来ます。私は、私たちのこのような能力は自然との関わり合いを通して身に着けたものなのではないかと思っています。そして、日本人は特にこの能力に優れています。自然は常に変化しています。そして自然の状態は人間の生活に直結しています。日照りが続けば、野菜や草木が枯れてしまいます。害虫や病気が流行っても野菜や草木は枯れてしまいます。そして、生存の危機に見舞われます。また、船乗りは海や空と対話が出来ないと、獲物を取ることが出来ないどころか、命の危険に見舞われます。自然と共に生きていた人たちは、自然との対話を通してそういうちょっとした変化に気づき、身を守り、獲物を捕っていたのです。でも、現代人は社会の近代化と共に自然から離れてしまいました。そして感覚や感性ではなく「言葉」に依存したコミュニケーションを使うようになりました。その結果、日本人が民族的感性として持っていた「自然とやり取りする能力」も萎えてしまいました。幼い子どもと対話する能力も萎えてしまいました。それと同時に子育てが下手になりました。江戸末期に日本に来た欧米人が一様に驚いたのは、日本人の子育て上手なところでした。自然と関わるように子どもと関わっていたのでしょう。でも日本人は、昔から論理的に考えるのは得意ではありません。日本語自体が感覚的で非論理的な言葉だからです。それを補っていたのが言葉に寄らないコミュニケーション能力だったのですが。それも萎えてしまった今、人と人のつながり、人と自然とのつながりが希薄になってしまいました。青い空に問いかけてみて下さい。一輪の花に問いかけてみて下さい。道端に落ちている小石に問いかけてみて下さい。物言わぬ赤ちゃんに問いかけてみて下さい。そして心の奥底でその声を聴いてみて下さい。一生懸命に問いかけると、答えてくれますよ。
2023.08.26
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「話し合い」とは、何らかの問題解決のために意見を交換することです。結論を出す場合もありますが、結論が出なかったり、あえて結論を出さないこともあります。相互の関係づくりに役立ちます。「議論」とは言葉の論理を使ってどちらの考え方の方が正しいのかを決めるための戦いです。ただしこの「正しい」に客観性はありません。「議論に勝った方の意見が正しい考え方として認められる」というだけのことです。そのため、勝った方の意見が本当に正しいかどうかは不明です。裁判で冤罪が起きるのはそのためです。また議論では、言葉の論理に巧みな人の方が有利です。本当のことを言ってもそれを証明できなければ嘘だとして処理されることもあります。この「話し合い」とか「議論」は、仕事の現場などでもよく行われています。「話し合い」は学校でも使われています。「話し合い」では「自分の気持ち」や「自分の考え」をお互いに伝え合うだけで、勝ち負けは競いません。だから、子どもにもできるし、子どもたち同士の関係づくりにも役に立ちます。でも、思春期前の子どもたちにはまだ議論は出来ません。議論が可能になるのは客観的に物事を考えることが出来るようになる中学生ごろからです。ただし、これには個人差が大きくて、「言葉の論理」の学びや、「客観性の育ち」が遅れている子は、中学生になっても議論が出来ません。大人でも出来ない人がほとんどです。日本の学校ではこういう能力を育てるような教育をしていないからです。そのため、日本の政治家や商人は、外国の政治家や商人に簡単に言いくるめられます。インドでも、多くの日本人観光客が値段交渉が出来ずに、相手の言いなりのお金を払っています。ただし、議論は一種の戦いであるがゆえにユーモアが絶対的に必要になります。ユーモアを伴わない議論は対立ばかりを生み出し、時には悲惨な結果につながります。インドの値下げ交渉でもユーモアは絶対的に必要です。楽しく話を進めないとまけてくれませんから。私はインドでだいぶ鍛えられました。議論が苦手な日本人は、このユーモアも苦手です。ちなみに、この場合の「ユーモア」とは「おやじギャグ」のようなものではありません。「論理的な遊び」のようなものです。日本では、単なる勝ち負けを競うような言い合いを「議論」だと勘違いしている人も多いですが、そこに「言葉の論理」や「客観性」や「ユーモア」がなければ、それは「議論」ではなく「罵り合い」に過ぎません。あと、「話し合い」や「議論」のほかに「対話」というものがあります。日本人は議論は苦手ですが、対話は得意です。ただしこれは昔の日本人の話です。現代人は対話も苦手です。対話能力が育つような生活文化や生活環境が、社会の近代化と共に消えてしまったからです。職人の世界は「見て学ぶ世界」です。丁寧に教えてはくれません。言葉で説明もしてくれません。だからといって見ているだけでは学べません。そこで対話が必要になるのです。対話と言っても「言葉を使わない対話」です。話し合いや議論では、必ず「言葉」を使いますが、「対話」では必ずしも「言葉」を必要としないのです。目と目、表情と表情、しぐさとしぐさだけでも「対話」は出来るのです。草や木のような「人間ではない相手」とも、対話は出来ます。音や光とも対話が出来ます。産まれたばかりの赤ちゃんとも対話が出来ます。言葉を使って対話する時も、「相手が言った言葉」だけを相手にするのではなく、口に出される以前の「心の中の言葉」にも耳を澄ませる必要があります。そうでないと「対話」は出来ないのです。特に、言語能力が未熟な子どもと対話する時には、「心の中の言葉」にも耳を傾ける必要があります。でも、そういう対話が出来る人は少数です。そして実は、この世界には、そんな「対話」という方法でしか入ることが出来ない世界がいっぱいあるのです。
2023.08.25
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自分を変え、自分を成長させるためには「自分との対話」や「他者との対話」が絶対的に必要です。「他者との対話」がなければ、「新しい世界」や「自分自身」と出会えません。「自分との対話」がなければ、出会ったものを自分の内側に取り込むことが出来ません。「成長する」ということは「量」が増えることではなく「質」が変わっていくことです。10個しかなかった知識を100個にするようなことではなく、それまで理解できなかったことが理解できるようになることです。種や苗木がそのままの姿で大きくなってもそれは成長ではないのです。そして、「質」が変わるためには、自分とは異なった別の「質」との出会いが必要になるのです。そのために必要なのが「対話」なんです。人が自分の顔を見るためには「鏡」が必要ですよね。鏡のような「自分を映すもの」がなければ、人は、たとえ自分自身のことであっても分からないのです。寝ている間に、誰かがあなたの顔に絵を描いても、鏡を見たり、他の人の反応に触れなければ自分の顔に描かれた絵に気づくことは出来ないのです。よく人は「自分のことは自分が一番よく知っている」と言いますが、「自分が知っている自分」は「自分の頭の中だけに存在している自分」に過ぎません。「頭の中の自分を含む大きな自分」のことは知らいないのです。「自分の目」で直接「自分の目」を見ることが出来ないのと同じように、人は、「頭の中の自分を見ている自分」を直接見ることは出来ないのです。「自分が知っている自分」は、自分自身が自分の頭の中に創り上げた「自分の頭の中にしか存在しない空想上の自分」に過ぎないのです。でも、現代人は「現実世界を生きているリアルな自分」よりも、「自分の頭の中にしか存在しない空想上の自分」の方を大切にしています。そのため、他者との出会いや対話を避けようとします。また、現実世界とのかかわりを避け、空想の世界の中に閉じこもろうとします。他者と対話したり現実世界と関わったりすると、必然的に「リアルな自分」がさらけ出されてしまうからなのでしょうか。他の人と関わるときには、「地の自分」を隠すための仮面をかぶります。マスクもその仮面の一つです。そして、対話を必要としないような活動だけをしたり、自分と同じようなマスクをかぶった人たちとだけ関わろうとします。ちなみに、「リアルなからだ」を必要としていないゲームの世界の中では、「自分の頭の中にしか存在していない空想上の自分」を主人公にして色々な活動をすることが出来ます。ゲームの世界の中には「自分と対等な存在としての他者」は存在しないので、自分をさらけ出さなくても遊べるのです。でも、自分のからだを使ってリアルな世界で遊ぶためには「自分」をさらけ出す必要があります。その時、対話が出来ない子どもたちは、自分だけが主人公でいようとして様々なトラブルを引き起こすのです。そして、対話が出来ない子を見ていると、お母さんとの対話も出来ていません。それは、お母さんが自分の要求を子どもに伝えるだけで、子どもの言葉に耳を傾けていないからなのでしょう。
2023.08.24
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