2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全4件 (4件中 1-4件目)
1
日本経済は良くなりつつあるのか、一層悪くなりつつあるのか、真の実態はわからない。只、市民の一人として言えるのは、関係者が右往左往していることである。 誰か実態を正しく把握し、それについて自信をもって処方箋を描いてほしい。自信喪失になっているのではないか。 長い真っ暗なトンネルの中で、一本のろうそくが見えるのは確かである。そのろうそくの火の力は弱そうで、いつ消えるか不安だ。しかし、11月16日に発表された国内総生産(GDP)は、実質年率4.8%で、経済指標としては望ましいものであった。 政府が11月20日に発表した11月の月例経済報告は「緩やかなデフレ状況にある」を明記した。商品やサービスの下がり続ける「デフレ」に陥っていると宣言した。物価が下れば、消費者にとっては嬉しいが、企業の利益は減少し、給与カットや失業増に跳ね返る。その影響により消費の減少や物価は更に下れば、デフレと不況が連鎖するデフレスパイラルにつながる。 経済の悪い指標の一つとして、9月1日の調査で363万の失業者がおり、大学卒業予定者の就職内定率は最近の調査で62.5%である。自分の身の回りにはフリーター、ワーキングプア、低賃金の労働者、失業者などがおり、その人達は結婚できないと言っている人もいる。やがて、大失業時代を迎えることになろう。
2009/11/28
「とにかくええ話あらへん」と道端で立ち話をしている二人の老女である。多分、この言葉の前に別の言葉がくっついており、この言葉の後に「またな、会おうで。身体に気をつけて」で、終わっただろう。話の内容はわからないが、色々想像はできる。 これと関係がうすいことに触れるが、何事でも楽しく過ごしたい、楽しく走りたい、これから楽しく生きたい。という言葉をよく耳にする。例えば、陸上競技でいうとライバルが乱立しているのに、楽しく走りたいという言葉はどうも波長が合わない。この場合、楽しいとは一体どういうことなのか、少し考えさせられる。 さて、話を進めると、楽しみの裏は苦しみである。苦しみの上に楽しみが同居している。人の苦しみと楽しみはセットであり、楽しみだけを切り取って、賞味していくことはできない。楽しみに浸かっておれば、やがて、苦しみを拾わねばならない。 年をとって、命短しの段階に入ると、人のやさしさを痛感するようになり、敏感になる。 私の言葉「我、今死にたくもなし、生きたくもなし、されど、我が人生に悔いはなし」
2009/11/21
2、比叡山焼き討ち 比叡山は仏教信仰の「聖地」とされていたが、堂塔も坊舎も荒れ果て、修行もせずに肉を喰らい、女を抱くなどその山門僧侶の腐敗堕落振りはひどいものだったようだ。信長軍は戦乱の一部であるが、1571(元亀2)年9月に突然坂本へと迫り、街を荒らしまわっていたが、比叡山の象徴でもある神輿にも火がかけられた。炎や兵に追われた人々はひたすら山頂を目指して逃げていった。殺された者は3~4千人にのぼり、比叡山は累々たる死体で埋め尽くされたとされる。放火と殺りくと略奪は4日間続いた。3、 鳥羽・伏見の戦い 1867(慶応3)年12月、天皇が自ら政治を行うと「王政復古」の宣言をした。しかし、第十五代将軍徳川慶喜は新政府に加えられなかった。幕府軍は慶喜をもりたて、1968年1月京都を攻めたが、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に破れた。この戦いで幕府軍が勝っていたら、明治維新はなく、方々で長く戦いが行われていたかも知れない。4、 本能寺の変 織田信長〔1534(天文3)~1582(天正10)年〕は毛利氏征討のため、中国に向かう途中、滞在した京都の本能寺で、家臣の明智光秀に殺された。本能寺の変〔1582(天正10)年〕である。本能寺の変がないとすれば、後々の歴史は大きく変わったであろう。江戸幕府はあっただろうか。信長と秀吉の関係はどうなったか。以下、順位とタイトルを記入5,明治維新 6,平安京 7,室町幕府 8,源平の戦い 9,豊臣秀次斬首。大義名分と残酷さ 10,関ケ原の戦いの後、石田三成斬首。戦いの規模の大きさと残像が強い。
2009/11/14
10月22日、京都三大祭の一つ「時代祭」を見に行った。今までに何回か見に行ったことはある。烏丸御池の南東に位置したところで見たが、人々で一杯だった。12時50分行列はそこを通った。時代装束に身を包んだ2000人が練り歩き、全長2kmの時代行列になった。きらびやかな時代、時代の絵巻が展開された。 時代行列の展開は河原町文化圏へ突入した。現代と古い時代のコントラストが一層きらびやかさを引き出した。思えば、その時代の裏には重い歴史がある。特に京都にはそれを感ずる。京都と関係のある事件、歴史的な事柄等が、京都や社会の多くの人々に影響を与えた。 その影響の大きい順に、自分の判断であるが、1位から10位まで考えた。今回はその1位のみをあげ、他は次回へ繰り越した。鴨川の河川敷には、数々の悲劇が埋まっている。1、 応仁の乱 室町幕府8代将軍・足利義政のころ、有力守護大名細川氏と山名氏が対立し、1467(応仁元)年、全国守護大名が二派に別れて戦った。応仁の乱で都は焼け野原となり、戦乱は京都を中心に11年間続く。義政の正妻日野富子は幕政に関与し権力者になったが、戦いは山名氏と組んでいた。権勢を誇った彼女も、末路は哀れであったようだ。 1496(明応5)年57才で世を去った。「おうほととぎすが啼いている」は侍女葛葉が聞いた富子の最後の言葉だったようだ。夫義政が弟義視を将軍にすると言わなければ、戦争は避けられたであろう。
2009/11/07
全4件 (4件中 1-4件目)
1