全8件 (8件中 1-8件目)
1

今日は大晦日、もう今年も終わりだね。ということで萬葉集四千五百十六首の最後(おしまい)の歌を吟じてみよう。新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰 大伴家持が天平宝字三年(759)の春正月一日に因幡の国の庁で詠んだ歌です。めでたい歌ですね。Happy ENDって感じ。日本最古の和歌集は新春の歌で終わっている。終わりが始まりになっている。日本では昔から循環する時間(とき)が流れていたということかな?人も輪廻転生で循環している。などと考えつつ除夜の鐘を聴こう。John Lennon 'Merry Xmas (War Is Over)'An eye for an eyewill make us all blindMahatma Gandhi 目には目をそうして僕らは皆盲目になるマハトマ・ガンジー
2014.12.31
コメント(0)

私が興味がある問題に「ヤマト襲来」と言う名前を付けてイメージが固まったところで、ある本の記述にこの問題を考える出発点となるべき記述を見つけた。古鏡研究の権威、小林行雄氏が1965年に著した『古鏡』の解説付き新装版の解説に以下の文がある。「畿内の政治勢力」は、まず「三世紀後半」に「畿内から北九州」の「福岡県・大分県など」におよび、三〇〇年ごろには「畿内勢力圏の東辺は岐阜県・愛知県をふくむ範囲に達し」、「四世紀にはいってから」「その東辺は、一躍して群馬県までひろげられる」とみたのでした。 p.238非常に大まかだが、これが「ヤマト襲来」の解答であると考える。この骨格しかない解答に間違いが無いかを確認し、肉付けをしなければならない。さらに東北南部の征服までをフォローしたい。そのために最初に整理するべき考古学的事項を絞り込む。前段階として、その候補を思いつくまま列挙する。土器、銅鐸、鏡、周溝墓、古墳、住居、武器(鏃、剣、刀)、祭具、装身具これぐらいだろうか?あまり手を広げても全然手が付かないのが目に見えているので、(1)土器、(2)鏡、(3)古墳を最初に整理しよう。
2014.12.30
コメント(2)
今年2014年も御仕舞い。大納会。さて来年の投資を考えよう。年間の投資を考えるには今現在はどういう状況なのかを把握することが大事だ。それによってとるべき戦略は大幅に変わってくる。その際に参考になるのが山崎元氏の山崎式経済時計だ。第161回 経済循環と運用を時計で考える(上) (2011/11/18)第162回 経済循環と運用を時計で考える(下)(2011/12/02)わたしは、経済の過熱感はあまり感じていなかったので、現在(2014末)は上の経済時計で言えば9時頃ぐらいだと考えていた。これから保ちあい相場が形成されるか、バブルへ向かうのかという予想である。しかし、あまり自信が無かったので山崎氏の考えを確認してみる。第212回 アベノミクス相場の今後を考える(2014/01/10)←「アベノミクス相場の終わり方」が興味深い 今年の初め(2014始)にはすでに大体10時くらいと考えていたことが分かる。大まかな判断なので大きな違いではないとも言えるが、気になるのは氏の判断では株価の上昇率が一番高い時期は過ぎてしまっているということだ。記事中の1980年代後半のバブル時代と現在を比較している部分だ。あとは上のほうでジグザグやって崩壊するストーリーともいえる。わたしは今後上昇率が高い部分が来ると考えていたのだから大きな違いだ。確かに現在の相場が金融政策相場であり、今後有効な金融政策が期待できないことを考えると相場の一番おいしい期間はすでに過ぎ去ってしまっている可能性が高いと判断した。さらに山崎氏の現在の判断も確認しておこう。第233回 「アベノミクス2.0」の特徴と付き合い方(2014/11/21) 第235回 アベノミクスに関する疑問の整理(2014/12/19)「こわい相場ほどよく上がる」と言われるが、「2017年4月の消費税率引き上げ予約」、「米国の金融引き締めへの移行」、「円安頼みの終了が近い」等々怖すぎる。相場の後半は振り幅が大きくなり悔しい思いをすることも有るが、2015年のリスク資産の拡大は行わない事とした。 今回は山崎氏の脳みそを借りた(他人の頭で考える)わけだが、 株式運用に関してはもう一人の方の脳みそをよく拝借している。日本の株、世界の株はどうしてもニューヨーク次第ということで次回は堀古英司氏の脳みそを使わせてもらおう。こちらもどうでしょうアベノミクスの黄昏
2014.12.30
コメント(0)
![]()
現存する資料から推測すると漢字の使用が本格化したのは七世紀末と思われるのに日中の史書ではそれ以前から倭国で漢字の使用が始まっていたと思わせる記述が多い。このギャップは何かという疑問を抱いた。『交流する弥生人』という本の「文字の理解」の章では隅田八幡宮蔵画蔵鏡や稲荷山古墳鉄剣を例に挙げて五世紀代の倭人が文字を識っていたことは確実であるとし、さらに近年の発掘調査は漢字使用の開始期をしだいにさかのぼらせているとしている。また古墳時代、弥生時代の墨書土器、刻書土器、木製案(文机と思われるもの)、倭の北岸狗邪韓国の地域にある茶戸里遺跡の筆を紹介して以下のように述べている。漢字の伝来は二世紀までさかのぼることになり、それが東海地方に波及していることを参考にすれば、すでに相当の浸透すら想定される状況にいたっている。弥生人は一部ではあろうが、漢字を識っていたのである p.176 わたしは、前記のギャップは漢字の使用が地域と職制により非常に限られた一部では二世紀頃には始まっていたが、一般の役人、教養人にまでその知識が普及するのはずっと後の七世紀末だったことを物語っていると考えている。しかし、ここではもう少し文字の普及のほうに目を向けて、一部では間違いなく文字が使用されていたことを確認しておこう。魏志倭人伝には、当時の倭人が文書を読解、作成していたことを窺わせる記述がある。皆装封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀(みな包装のうえ封印して難升米と牛利に託す。帰り着いたら記録して受け取り、すべてを汝の国中の人々に示し、わたしが汝を慈しんでいることを知らしめよ。)郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯(帯方郡が倭国に使者を送るときにも、みな津で臨検して確認し、伝送する文書と、下賜された品物を、女王に届ける際に間違えることのないようにさせる。) 魏志倭人伝を信頼するならば、下賜された品を記録したり、港で目録を読解し品々と照合できる人間がいたことになる。前掲書ではこう述べられている。二世紀にさかのぼる文字史料の出土、東海地方や中部地方におよぶ波及、「倭人伝」に記録された文書外交の展開などからみて、弥生後期社会ではかなり広範囲に漢字が理解されていたと思われる。さらに、韓国慶尚南道義昌郡茶戸里一号木棺墓から出土した紀元前一世紀後半の筆記具の存在からみて、その理解は紀元前にさかのぼる可能性がある。 p.179ん?紀元前?当初は七世紀と推測した文字の使用は紀元前に遡るのか?次回は、時間的にも広がってしまった。文字使用開始のギャップについてさらに考えたい。【楽天ブックスならいつでも送料無料】交流する弥生人 [ 高倉洋彰 ]価格:1,836円(税込、送料込) 魏志倭人伝の現代語訳は「魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国」による。
2014.12.28
コメント(0)
「日本の歴史がいつから始まるか」という問題を考えるために前回は、その元となる文字史料が増えていく様子を表にして整理した。 その結果、日本に文字が普及したのは七世紀末であると結論付けた。しかし、日本書紀などには日本に文字が導入されて記録が残されるようにようになったのはもっと古い時代ではないかと窺わせる記事が多く存在する。今回はそれらの記事を数例挙げて検討しよう。中国との交渉魏志倭人伝から知られるように、三世紀後半の倭人は魏晋と親密な関係を築いていた。当然、その外交の舞台では漢字が使用されただろう。 また五世紀の倭の五王の記事からも分かるように、倭の王は中国に度々遣使している。そのときの国書は漢字で書かれていただろう。それに対する返答も漢字で書かれていたのだから当然読める人材が常時いたはずである。朝鮮半島との交渉漢の時代に楽浪四郡が置かれ四世紀初めまで中国の支配が及んでいた朝鮮半島には漢人も多くいたし文字を操る者が多くいたことは間違いない。366年から668年までの間に倭(日本)が政治・軍事・外交面で朝鮮半島と関わった年次は81回にも及ぶそうである。朝鮮半島との外交の場で文字を使う機会は当然あっただろう。朝鮮半島からの渡来人や、半島に滞在して文字を習得した倭人が倭国で文字を教え伝えなかったのか? 五経博士五経博士とは元々中国の前漢の時代に五経(易、書、詩、礼、春秋)を教えるために置かれた官職。百済も五経博士を設けており。『日本書紀』の継体七年(513)、継体十年(516)、欽明十五年(554)には百済が五経博士を一人づつ交替で貢上していたと取れる記述がある。博士から五経を学ぶ者は漢字に習熟した者か、文字も同時に学ぶかどちらかであったろう。 遣隋使 600年から6回の遣隋使派遣の記事が『隋書』と『日本書紀』にある(書紀には600年と610年の記録は無い)。607年の遣使では有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙」(日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや)で始まる国書に煬帝が怒ったという話が伝わる。この時には仏法習得のため沙門(しゃもん)数十人も同行している。これ以前の六世紀に仏教は伝来したとされるが、仏の教え(経文)も漢字で書かれているので、僧は漢字が読めなければならない。漢字と密接な文化伝来の記事 推古十年(602)百済僧の観勒が暦法・天文地理などの書を伝える。 推古十八年(610)高句麗の僧、曇徴が紙・墨・彩色の製法を伝える。以上のように、魏志倭人伝の時代(三世紀半ば)以来、倭国(日本)での漢字の使用を予想させる記事は枚挙に暇が無い。漢文の国書を作成し、読みこなす人材が遣使が行われた期間にいたことは疑い得ない。しかし、現存する資料に依る限り倭国における漢字使用の開始は七世紀末となってしまう。この記録と資料の示すところの差についてさらに次回検討したい。
2014.12.28
コメント(2)
弥生時代から古墳時代に興味を持った人の最もポピュラーな話題といば「邪馬台国論争」だというのは間違いないだろう。 本や数多の古代研究サイトを追っていると、いつの間にか邪馬台国論争に誘導される羽目になる。たしかに面白い話題なのだが私の興味の中心は少しずれている。ここを自覚しておかないと「おれは何をやってるんだろう」ということになってしまう。「後の大和朝廷に代表される西の勢力が中部地方以東(三関以東)をいつどのように支配下に入れたのか」ということが私の最大の関心事だ。上記の問題について、鉄器の出土数、遺跡の規模、魏志倭人伝の記述、大陸からの技術の伝播いづれを採っても西側勢力が東に比べ優勢であり、どこかの段階でその勢力下に組み込んだことは間違いないだろう。また稲荷山鉄剣、前方後円墳の分布、土器の変遷などから、五世紀後半には関東地方はもちろん東北南部までが西側の勢力に組み込まれていた事も間違いない。二世紀後半といわれる倭国大乱や高地性集落の存在などから、三世紀より前には東海以東にまで勢力を拡げる統一的な勢力が西側にあったとは考えにくい。つまり三世紀から五世紀後半までのどこかの時点での事件なのだが、この時期に関する私の知識は乏しすぎる。一番知りたい上記の問題に関して解答を得るためには、まずこの問題に適切な名前を付け、この問題に直接関係すると思われる事項を整理することから始めなければならない。とりあえず、この問題の名前を考えたのだが納得がいかない。「東国併合」 ←ヤマトからの目線で気に食わない。「ヤマト到来」← ただ来ただけのように感じる。カタカナだと宇宙戦艦ヤマトのイメージが少々あり。「ヤマト東進」←邪馬台国東遷説と少々紛らわしいか?ヤマトという勢力が既に成立していたイメージになってしまう。「ヤマト襲来」←倭王武の上表文「東は毛人を征すること五十五国」や記紀の四道将軍の暴力的侵略のイメージに合うがヤマトがどこに襲来したのか分からない。 普遍的ではないが、私は今で言う東日本にいるのだから襲来といえば私にとっては場所は間違えようが無い。暫定的に「ヤマト襲来」に決定した。
2014.12.23
コメント(1)
私は今の人間は老いも若きも皆右翼になってしまったと常日頃嘆いている。主要なメディアであるネットはほぼ彼らの独壇場になって社会主義者、共産主義者はついぞ見かけたことが無い。私はネット住民から「悪い」評価を受けているサイトを信頼して見るようにしている。しかし、先頃の衆院選(産経ニュース)では「共産党」が躍進し、自民より右を標榜する「次世代の党」が惨敗した。 にわかには信じがたい。ネトウヨの圧倒的な存在感からしてありえないと狐につままれたように感じた。右翼の方々は今回の結果はこのような不正(NHKニュース)が日本全国で行われたためであり、不正選挙だと陰謀説を主張している。「次世代」を「共産」とはひどすぎる。しかも報告後に指摘されてから気付くとは...確認作業をしっかりと行ってもらいたいものである。そう思っていると、ネット保守(ネットが出自の保守)はそれほどの勢力ではないという説を目にした。総選挙「唯一の敗者」とは?「次世代の党」壊滅の意味とその分析(yahooニュース)う~ん。少し勢力を過大視していたか...少し反省 。しかし、いまいち納得がいかない。大したことが無い勢力であるにも関わらず彼らはネット上を占拠してしまっている。多数派工作には失敗しているとはいえ占拠することにおいて極めて有能ということになってしまう。むしろ十分にウヨクの安部政権(リテラ)を支持するだけ彼らはまともな思考力を有していたということだろう。次世代という不安定な勢力より自民を圧倒的多数派にする方が有利という極めて合理的な判断をしたということだ。むしろ嘆かわしいと言うべきだろう。愛国を考えるブログ「内閣改造でさらに強固な政権へ」ウヨク安倍政権は日本会議、国家社会主義日本労働者党と本音は仲良し。つまり今回は自民より右は安倍政権に投票しただけで自民より右の勢力は決して少なくないのではないか? つづく。
2014.12.21
コメント(0)

一月くらい前に電車の車窓から虹が見えた。かなり濃い虹の外側に薄い虹があり、濃い虹の内側にも更に虹がくっついていた。あとから知ったのだがそれぞれ副虹と過剰虹というそうだ。濃い雨雲から浮かび上がって光る虹は神秘的だった。結構長く生きているがこんな虹は初めてだとしばし見とれた。 きっと昔の人も我々と同じように虹の美しさに感動したんだろう。きっと万葉集には結構、虹を詠みこんだ歌があるだろうとわくわくしながら家に帰って調べてみた。なんと、たった一首しかないのである。伊香保呂能 夜左可能為提尓 多都努自能 安良波路萬代母 佐祢乎佐祢弖婆 3414伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹の現はろまでもさ寝をさ寝てば萬葉集を読むと、「昔の人も同じように感じていたんだ、1300年の時間を超えて共感できた」とうれしく思うことが多いのだが、虹に関してはどうも違うようだ。どうしたことか?上の虹を詠んだ和歌については万葉東歌の虹の歌(高崎新聞)に取り上げられている。 このホームページの説明では「男女の契り→穢れが多い→不吉な予兆」となっているが何か納得がいかない。萬葉集には結構性的な歌が多い。ことさら性をけがれた物とみなしていたとは思えない。旧約聖書では虹は「二度と洪水によって生物を滅ぼさない」という神との契約のしるし(創世記9章)とされており。キリスト教世界、イスラム教世界では間違いなく肯定的に捉えられる物といえるだろう。 東洋ではどうだったのか?日本では何故、美しい虹を歌わなかたのか?古事記、日本書紀には虹は出てくるのだろうか。と検索してみると以下の箇所がヒットした。古事記の以下の箇所は確かに性的な話だし、雄略紀も何かグロテスク、天武紀も凶兆といった感じだ。少なくとも古事記、日本書紀、萬葉集が編纂された8世紀前半には虹は見て素直に感動できるという代物ではなかったようだ。 それはやはり中国の影響ということになるのだろう。中国では虹は災難の前兆とされるそうだ。▼古事記 中-6 応神天皇記之邊、一賤女晝寢、於是日耀如虹、指其陰上。亦有一賤夫、思異其狀、恒伺其女人之行。故是女人、自其晝寢時、妊身、生赤玉。爾其所伺賤夫、乞取其玉、恒裹著腰。此人營田於山谷之間、故耕人等之飮食、負一牛而入山谷之中、遇逢其國主之子・天之日矛....▼日本書紀 巻第十四 雄略天皇紀、恆使闇夜東西求覓、乃於河上虹見如蛇四五丈者、掘虹起處而獲神鏡。移行未遠、得皇女屍、割而觀之、腹中有物、如水、水中有石。枳莒喩、由斯、得雪子罪、還悔殺子、報殺國見。逃匿石上神宮。四年春二月、天皇射獵於葛城山、忽見長人、來望....▼日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下度西。丙寅、造法令殿內、有大虹。壬申、有物、形如灌頂幡而火色、浮空流北。毎國皆見、或曰入越海。是日、白氣起於東山、其大四圍。癸酉大地動、戊寅亦地震動。是日平旦、有虹、當于天中央、以向日。甲戌、筑紫大宰言、有三足雀。癸未、詔....虹のことを調べていたら虹に関してとても幅広く扱っている『虹の文化史』という本を見つけた。西洋での虹の科学的な解明の歴史に関する記述が多いが、その他の点も良くカバーしている。虹に関する基本的事項をくまなく押さえた良書といえる。残念ながら東洋古代の虹に関する記述は少なめ。《送料無料》〈図説〉虹の文化史価格:4,968円(税込、送料込)参考虹:和歌を訪ねて 『春の淡き虹をこそ』 ふらり道草―季節の往来―
2014.12.07
コメント(3)
全8件 (8件中 1-8件目)
1

![]()
