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土曜日、スーパー・バター・ドッグの解散コンサートに出かける。場所は日比谷野音。開場は16:00。開演は16:45。異例の時間帯である。朝夕、涼しい風が立つようにはなったものの、日中はまだ夏の日差しが顔を覗かせる。曇り空の下、日比谷公園に到着。お茶か水を買おうと思って、公園の周辺をぶらつき始めると、「ずん、ずん、ずん」というベース音が耳に入ってくる。続いて、あの聞き覚えのある永積タカシの声が。ああ、リハーサルをやってるんだ。たまたま舞台の裏手方向に当たる位置を歩いていたのだが、実によく聞こえる。誘蛾灯にふらふらと誘いこまれる蛾のようにそばまで近づく。時計を見ると、16時ちょっと前。おそらく最後のリハーサル曲なのだろう。今の今まで、まだ解散コンサートに出かけるという実感がわかなかったが、青空に響き渡るタカシくんの美鼻声(「びびせい」、あるいは「びんびんごえ」)を聞いて、やっとその気になってきた。あああ、来ちまったんだなあ、ここに。ということで、コンサートの感想を書こうと思ったのだが、正直、ことばがうまく出てこない。その後、17:00過ぎに「犬にくわえさせろ」で始まったライブは20:30分過ぎ、実に三時間半の長きに渡って行われた。その間、座った時間は正味10分以内。立ちっぱなし、踊りっぱなしの三時間半。とても客観的に描写する気にはなれない。席は前から六番目。正面、やや右寄り。何もいうことのないポジションだ。私もまた当事者の一人になっていた。客観的な感想なんて一言も浮かんではこない。ライブ後半、降り仰いだ夜空にはぽっかりと満月が浮かんでいた。時折、会場外から「ウォー」という叫び声が聞こえてくる。会場に入れなかった人たちが外で叫んでいるのだ。それに向かってメンバーが呼びかける。それにまた「ウォー」という叫びが返ってくる。そういうコンサートというものが、はたして想像できるだろうか。ステージと会場外で呼び交わす声と声のちょうど真ん中にぽっかりとまん丸い月が浮かんでいる。そういう情景を思い浮かべられるほど、私は想像力に恵まれていない。私はただその場にいて、音を聞き、月を見、体を揺すり、手を挙げ、手を叩き、口ずさみ、笑う、ひとつの肉塊に過ぎなかった。たくさんのことを感じたけれど、何も考えなかった。たくさんの音を聞いたけれども、その意味を問うことはしなかった。バタードッグの音楽をどうことばにすればいいか。私にはよくわからない。私はバタードッグ活動休止期間中に永積タカシが始めた「ハナレグミ」を知り、やがてコンサートに出かけるようになり、その世界に魅了された人間である。そこからさかのぼって彼がボーカルをつとめるバタードッグに出会った人間だ。だから、このバンドに対して何かを述べる資格を持ち合わせてはいないのかもしれない。だけれども、でも、どうしても、何か一言ぐらい言っておきたい気がする。たとえばファンクというもの。私はいまだにこの言葉をうまく定義できない。ファンクとは何か。それはロック・ビートとどこが違うのか。私にはうまく答えられない。「ああ、あのタテノリの音楽ね」。そう言われる方もおられるかもしれない。たしかにそうなのだけれど、それだけでは言い尽くせない何かが残る。それがファンクだ。私はこの音楽の核心は「裂け目」にあるのではないかと思う。道を歩いていて、突然、目の前の道が地割れする。その割れた地面に吸い込まれる。と思うと、地底のマグマの噴出で再び地表に弾き出される。その往復運動がファンクの基本的なリズムではないか。突然「裂け目」に吸い込まれ、その「裂け目」から地上へと弾き飛ばされる。その律動がファンクの基本運動だと言いたくなることがある。そして、昨日の夜、私はその律動を存分に体感することができた。SAWADA SYUICHIのドラミングの素晴らしさ。平板な日常に裂け目を入れる鑿の切れ味は見事だった。聴衆は沸騰し、地底に吸い込まれ、地上に吹き上げられる。予定調和のヨコノリを許さない、激しい垂直方向のバイブレーション。それこそがファンクの核心だと私は信じる。さて、それで、私はいったい何を言えばいいのだろう。三時間半のライブのどこをどのように描写すればいいのだろう。もちろん、私にはそれを述べることばの持ち合わせがない。それに代えて、彼らの「セ・ツ・ナ」という曲をご紹介したい。まず小刻みなドラムとギターでリズムが刻まれる。その後、リズムがうねりはじめる。ドラムのリズム・パターンはレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムばり、「どん、どん、ずっちゃちゃ、どん、ど、どどどん。どん、どん、ずっちゃちゃ、どん、ど、どどどん、」というパターン。重厚なベースとキーボードがそれに絡む。ジョン・ポール・ジョーンズの無表情な顔が浮かんでくるようだ。次に乾いたドラム音が鳴り響く。「どん、どん、ずったた、たった、たん。どん、どん、ずったた、たった、たん、」さあ、そこでボーカルの登場だ。金色の長髪を振り乱しながら、筋肉質長身、ハイトーンボイスのロバート・プラントが、じゃなかった、短身痩躯短髪、黄色い縁取りの眼鏡も鮮やかな永積タカシが切々と歌いあげます。曲は「セ・ツ・ナ」。はい、どうぞ。イクゼッテモ ナニイエーバ イインデスケーソリャネッツト ハラッタツコトモ アンデースデモ ハーテ ソレガナンダッテ イウンデーデヘヘッツテ ハナシダシテミタコッテーダラッカップラップエー モー アキガキマッセーダラッカップラップエー ソー イロアセマッセーダラッカップラップエー モー シューカンデモッテーダラッカップラップエー ソー ワスレテコーネーアーアーアーアー セ・ツ・ナー シ・ミ・テ・クーアーアーアーアー セ・ツ・ナー タリネエッツテ ハナツメッセージ ナクネーヒビダーテ サシテヘンカナンカ アルケーネレネッツト オレダケッツテ コトナワケーイケネーッツテ ワライダシテミタコッテーダラッカップラップエー ハシャイデミタッテーダラッカップラップエー オワリハキマッセーダラッカップラップエー モウキオクトナッテーダラッカップラップエー ソーワスレチャウダケヨーアーアーアーアー セ・ツ・ナー シ・ミ・テ・クーアーアーアーアー セ・ツ・ナーセ・ツ・ナー セ・ツ・ナー アーアー セ・ツ・ナー 見事なサウンド、そして素晴らしい歌詞である。といっても、私のことばではその万分の一も伝えられないのが残念である。ここで永積タカシは、日頃の善人ぶりをかなぐり捨てて、表面的にはラップを批判している。しかし、そのメッセージはさらに深部に達している。彼は音楽をメッセージを伝えるための手段とする人々の対極に位置している。彼にとって音楽とは、何をさておいても「目的」である。けっしてそれ以外の何かの手段となってはならないものである。だから、彼の音楽にはメッセージはない。ただ音楽があるだけだ。この曲を通して、彼は「オレの音楽にはメッセージなんてないんだ」という強烈なメッセージを叫んでいる。「オレたちの音楽は、音楽だったんだー」という同義反復を彼は声を限りに唄っているのである。それにどんな意味があるんだい。そう口にする人間に返すことばは何もない。「月の裏側で昼寝でもしてな」。そういう以外には。ステージでもメッセージなどけっして口にしない永積タカシが、珍しくラストライブでこの曲を演奏する前にこう言った。「オレたちの音楽って、要するに、このフレーズに尽きるんじゃないかなあ」そして、「タリネエッツテ ハナツメッセージ ナクネー」そう言った。それは、三時間半に及ぶラスト・ライブのほんの数十秒の出来事であった。そして、それは彼らの14年間の音楽活動を凝縮した瞬間でもあった。「タリネエッツテ ハナツメッセージ ナクネー」スーパー・バター・ドッグよ、永遠なれ。
2008.09.14
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日曜の朝、八時過ぎにベランダへ出て、プランターの朝顔を眺める。今年植えたのは「暁の光」という大輪の苗だが、このところ毎朝のように2~3輪の花を咲かせてくれる。葉は小ぶりだが、それに比して花は大きく、朝顔というよりむしろ夕顔を思わせる。花弁は純白でつややかであり、中心部にはほんの少し紅を含んでいる。まことに涼しげな風情である。仕事の日には草花の手入れも怠りがちになる。花がらを摘む作業もついなまけてしまう。ふと見ると、昨日咲いてしぼんだ花が、そのすぐ下にあるつぼみの上にぺたりと貼りついてしまい、開花を妨げている。すでに手遅れかと思いながらも、つぼみに貼りついた花びらを指先で慎重にめくって取り除く。でも、つぼみはそのまま、折りからの風にさびしげに首を左右に振るばかりだ。なんだか悪いことをしたな。そう思って、渦巻き状に巻きこまれているつぼみの先端を指先でそっとほぐしてみる。すると先端がかすかに口を開け、ねじりがゆるやかにほどけていく。ねじれたひもがもとに戻るように、花弁が身を震わせながら、少しずつ少しずつ開いていく。思えば、朝顔の開花する瞬間を見たことはない。毎朝、6時に起きる頃には花はすでに開いている。ちょっとしたアクシデントのおかげで、朝顔開花の瞬間を間近で見ることができたわけである。しかし、最初にねじれがほどけた瞬間を除けば、花はほぼ静止状態を保っている。見る見るうちに花弁が開いていくということはない。風に揺られ、首をかすかに上下に揺らしながら、風をうまく花びらの奥に取り込んで、その力を利用して花を広げようとしているようだ。しかし、花弁そのものの動きを視覚でとらえることはできない。そのくせ、目を離して、周囲をひとわたり見回してから、再びつぼみに視線を戻すと、先ほどよりは少し開いているように見える。なんとも微妙な動きである。やや時間を置いて二つの静止画像を見比べると、そこには変化が感じられるのだが、肝心の動きそのものを視覚でとらえることはできない。ふと視線を背後に向け、ベランダの反対側のプランターにある黄色のポーチュラカを見る。昨日の朝、咲き終えて黒ずんだ花がらを摘みとった。その時には花はつぼみのままだったが、2~30分後に戻ったら、いっせいに数十の花が咲き誇っていた。こんなに短時間のうちに咲くものなのかと驚いたことを思い出す。いま目の前にあるポーチュラカは、細長い紡錘形の小さなオレンジ色のつぼみを無数につけている。しばらく見ていると、そのいくつかの先端は少し口を開いているようである。小さな壺の口のあたりがかすかにゆるみ、中の空洞が見えている。時刻は昨日開花した頃とほぼ同じだ。よし、ついでにこの花の咲く瞬間も見届けてみるか。そう思って、部屋から新聞紙をもってきて、プランターの前に広げる。中腰ではつらいので、そこにあぐらをかいて、よっこらしょと長期戦の構えをとる。しかし、昨日あれほど急激に開いたと思えたポーチュラカのつぼみはいっこうに開かない。そのうちに、ひとつのつぼみを見続けることに耐えられなくなり、ふと目線をそらす。しばらくして、また元に戻ってくると、かすかに花弁が開いているように思える。なんだかポーチュラカと「だるまさんがころんだ」ごっこをしているみたいだ。こちらが目を離した隙に、少しだけ花を開かせているんじゃないかという気がしてくる。考えてみると、目の前で花びらが華麗に開いていく瞬間というのは、科学番組かドキュメンタリーの早送りの映像でしか目にすることがない。自然のスピードはもっとゆるやかで、ひそやかで、しなやかである。私の目にはそれはほとんど静止画像にしか見えない。それでも飽くことなくつぼみを見続ける。そして、生物の変化とそのスピードについて思う。この開花のスピードは植物という、進化系統樹における動物の大先輩である生命体に内蔵されたものである。これに比べると、動物の動きの速さはめまぐるしい。しかも、捕獲や捕食活動において、この速さは個体に有利に働いたにちがいない。その結果、動物の動きはどこまでも加速していく。そして、その動きを捉えることに慣れた動物的視覚にとって、植物の動きや変化はほとんど捉えることが不可能なほど遅鈍なものに見える。しかし、変化は確実に、不可逆的に進行している。考えてみると、静止と運動、安定と変化の間に境界線を引くのは、意外なほど困難だ。一見静止しているように見えて、実は不可逆的に進行している変化。そのあり方は、生命体の本源につながるものであるように思える。むしろ動物の目がとらえる「変化」のほうが特殊であり、植物的変化のほうが本質的なものではないだろうか。たとえば四季の変化を見てもそれはわかる。夏から秋へ、秋から冬へと一直線になだれをうって季節が変わるということはない。涼しくなったと思ったら、また暑さがぶり返し、そのうちまた涼しい日が訪れ、また暑くなり、というような小刻みなジグザグ運動を繰り返しながら、でも、ふと気づくと確実に季節は推移している。今日から明日へ、明日から明後日へと、直線的に変化していくのではなく、のろのろ、だらだら、ぐずぐずとしているように見えて、しかし確実に変化は訪れる。逆行することのない確実な変化は、むしろゆっくりと静かに訪れるのではないか。気がつくと、目の前のポーチュラカの花びらはさきほどよりもずいぶんと開いている。しかし、いつ広がったのかは肉眼ではとらえられない。振り返って、先ほどの哀れな朝顔のつぼみを見る。こちらもずいぶんと広がっている。でも目の前にあるのは、どこまでも静止像。まったく動いているようには見えない。人間やそのこころの変化、あるいは社会やその意識の変化も、このような軌跡をたどるのかもしれない。たとえ目の前でめまぐるしく状況が急転しているように見えても、実はただ単にあっちのものがこっちに、こっちのものがあっちへと移動しているだけで、本質的には何も変化していないということもありそうだ。目の前の草花の小さなつぼみの開く様さえ、人間の目ではうまくとらえられない。それは動きというよりも、むしろ静止画の連なりにしか見えない。植物は動物の前ではどこまでも静止している。風や雨などの自然現象によらない限り、それらは不動の姿勢をとっているように見える。しかし、その静止画と静止画の間にはほんのわずかの差異が認められる。しかし、その差異と差異の間の動きを見ようとしても、うまくとらえられない。見ようとすると見えなくなり、目を離すと変化を感じる。本質的な変化というものは、こういう形をとって現れるものなのかもしれない。30分ほど、私はマンションのベランダで新聞紙の上にあぐらをかき、朝顔とポーチュラカのつぼみを交互に見る。そして、変化について考える。何もない日曜日の、何もない朝の、何の目的もない時間。そして、変化を感じとるためには自らは静止していなければならない。そういう、あまりにもあたりまえの結論を得て、腰を上げ、ひとりリビングに戻るのだった。
2008.09.01
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