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昨日、NHKの「クローズアップ現代」で、振り込め詐欺特集をやっていた。いくつかの事例がとりあげられていたが、たとえばこういう新手のやり方があるそうである。「もしもし」「ああ、あのー、オレ、オレやけど、今度携帯の番号変わったから、ちょっとメモしといてんか」そういわれて、電話に出た高齢の男性は、このくらいの年齢で自分が知っているのはと考える。ああ、そうか、おいの○○か。「ああ、わかった。ちょっと待ってな。いま、ペン持ってくるから。ああ、うん、○○○の○○○○やな。よし、わかった。」「そう、じゃあ、またな」がちゃんと電話が切れる。もちろん男性は何も疑わない。変更した電話番号を告げるだけの電話に不信感をもつ人間はいないだろう。まさかこれが振り込め詐欺の序章だとは夢にも思わないはずである。翌日の夕方、同じ声で電話がかかってくる。「あのなあ、オレ友だちと最近株をはじめたんやけど、ほら、こないだ株の暴落騒ぎがあったやろ。あれで俺の買うた株がえろう下がってしもうてな。今日中に75万円振り込まんとたいへんなことになるんや。頼むから振り込んで、頼むわ」その電話の発信番号は昨日告げられた番号である。男性はあわててATMに駆けつけ、指示通りの金額を振り込んでしまう。世の中には悪知恵にたけた人間がいるものである。営業にはアプローチ、商品説明、クロージングという三つの段階がある。「こんにちは、○○さーん」から始まって、玄関先に客と一緒に腰を下ろすまでがアプローチ、そこから商品説明が始まり、それが一通り終わって、契約書が取り出されるところから大詰めのクロージングというわけである。トップセールスはアプローチを重視する。もちろん技術的な面で、簡単にアプローチアウトをくらわないように、ありとあらゆるテクニックが駆使されるのはもちろんだが、下手にアプローチがうますぎると、最初からぜんぜん買う気のない客に延々と商品説明をして、契約書を取り出したとたんに「わたし、いらないわ」の一言で徒労に終わることになってしまう。これでは商売にならないので、トップセールスはアプローチ段階で相手の心理を鋭く見抜く洞察力に例外なく秀でているものなのである。先の振り込め詐欺の事例で私が感心したのは、犯人が巧妙なアプローチを考案していたからである。最初に「電話番号が変わったからメモしといて」といって、「あんた、いったい誰や」といわれたら、これはだまし通すのがむずかしいという判断がつくだろう。そこで切ってしまえば、詐欺どころか、単なる間違い電話で済む。「ああ、これは失礼しました。まちがえました」で終わりである。この作業を繰り返して、こちらが名乗るまでもなく、向こうのほうで勝手に自分の知り合いと思いこむ人間に出会うのを待つ。そういう人間に出会ったら、あえてそれ以上話し続けることなく、いったんは電話を切る。そして、翌日かけ直す。ここまでの下準備をした後で、やおら「実は」といって銀行振り込みをもちかけるというわけである。営業の勝負所は「相手を座らせる」ところにある。この電話の場合、もう相手はべったりと犯人の隣に座ってしまっている。座っているどころか、ほとんど「落ちて」しまっているといってもいい。その後の振り込みの操作とか、振り込むための理由は、実はたいした問題ではない。振り込め詐欺の手口もずいぶんと洗練されてきたものである。しかし、それにしてもこれだけ連日、警察やマスコミが振り込め詐欺撲滅キャンペーンを繰り広げているのに、なぜ依然としてだまされつづける人がいるのだろう。そうお思いの方も多いのではなかろうか。私はこのキャンペーンが、実は振り込め詐欺の隆盛に一役買っているのではないかとにらんでいる。「私はこんな詐欺にはぜったいに引っかからない」という意識が世の中の人々に浸透すればするほど、実は自分の置かれた状況を「これは詐欺ではない」と信じる力が強まるということがある。現に詐欺にだまされつつある状況下で「自分はだまされない人間である」と堅く信じる人間は、その前提から「今、自分が直面している事態は詐欺ではない」という確信に導かれやすい。「私はだまされない」⇒「今も私はだまされていない」⇒「だから、これはけっして詐欺ではない」というループの中にすっぽりと入ってしまい、結果的にまんまとだまされてしまうのである。だから、マスコミは「これだけ教えてやってるのに、まだだまされるアホがいる」というトーンで番組を作るのではなく、そう思っている人間に限って、それを逆手にとられてこんなふうにだまされるという角度から番組を作るべきなのである。「なんで、この人たち、だまされるんやろ、アホやなあ」という感想を視聴者に与えるのではなく、「あら、これやったら、私かてひょっとしたらだまされとるわ」と感じさせる番組を作らないと、犯罪防止には役立たないのである。もうひとつ。振り込め詐欺に引っかかる人間が後を絶たない理由は、だまされる側の「私は人を助けている」という意識にあるように思う。現代に生きる高齢者に「人に頼りにされる」機会がどれほどあるだろう。都会の老人などはとくにそういう機会が少ないと思われる。誰にも頼りにされず、一人きりで寂しい日々を送っている高齢者は「はたして自分が生きることにどんな価値があるのか」、「私ははたして人様のお役に立っているのだろうか」、そういう思いを抱きつつ生きているのではないか。地域の共同体から切れ、親族と疎遠になり、孤独な日々を送る高齢者にとって、自分を正当に価値づけるための唯一の手がかりは、ひょっとすると自分の預金通帳の残高なのかもしれない。そういう人のもとに、ある日「助けてくれ」というSOSの電話が入る。「あなたが頼りなんだ。いますぐにお金を振り込まないとたいへんなことになる。頼むから助けてください」そういう電話を受けて、彼らはどう思うだろう。実にひさびさに自分が頼りにされている。私を救えるのはあなただけだとこの人は言っている。しかも、助ける手段は自分を正当に価値づけているところの銀行預金だ。今となってはこれだけが自分をアイデンティファイしてくれる貴重な「財産」だ。それを必要とする人に送金手続きをすることによって、もう誰にも頼りにされなくなったこの自分にも再び復権のチャンスがめぐってくる。自分を頼りにし、救いを求める人々を助けることによって、自分が正当に評価される時がやってきたのだ。彼らがそう思ったとしても不思議ではない。そう信じ込んだ老人にとって(別にこれは老人に限ったことではないが)、「ちょっと待ってください。それはひょっとすると振り込め詐欺ではないですか」と言って振り込みを制止しようとする偉そうな銀行員や警察官はどう見えるだろう。おそらくは彼らの正当な自尊心の発現を邪魔する「敵」に見えるのではないだろうか。だって、彼らは自分に向かって「おまえはマスコミでこれだけ騒がれている振り込め詐欺に、まんまとだまされつつあるおろかで無価値な老人なんだぞ」と面と向かって言われていることになるわけだから。彼らが「だいじょうぶです。ほっておいてください。これは詐欺なんかじゃありません」といって、銀行員や警察官の手を振り払おうとする気持ちが私にはわかるような気がする。自分の価値を認め、助けを求める人間のために働こうとする自分の行動を邪魔し、自分を愚か者として否定する背広や制服に身を固めた人間に、誰が唯々諾々と従うだろうか。こう考えると、振り込め詐欺の根は意外に深いところにあることがわかる。被害者はただ単に巧言にひっかかった受身の存在というよりも、むしろ人を助けようという積極的な意思の持ち主なのである。彼らはだまされたというよりも、むしろ積極的、能動的に自分をだます詐欺行為に参加していると見ることもできる。「自分は無力な人間ではない」、「自分は社会に参加し、人を支え、助ける力をもっているんだ」――そういう気持ちを高齢者たちが確かにもつことが、そして、それを可能にするような社会の仕組みを作ることのほうが、今行われている振り込め詐欺キャンペーンよりもはるかに有効な防止策ではないかと、私はひそかに考えるのである。
2008.11.20
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東京芸術劇場で、スメタナの「わが祖国」を聴く。演奏は読売日響、指揮は正指揮者の下野竜也氏である。「わが祖国」といえば、第2曲の「モルダウ」が有名だが、全曲を通して聴くと70分以上かかる。ちょうどCDまるまる一枚分である。6つの交響詩のそれぞれが比較的独立していることもあり、なかなか全曲を通しで聴くことはない。コンサートでもこの曲の全曲演奏というのはあまり聞いたことがない。料理屋のテーブルにいきなり巨大な天丼の特盛りがどーんと置かれたような、一点豪華主義、超重量級のメニューである。この曲のCDを二種類もっているが、指揮はいずれもラファエル・クーベリック。一枚は1950年代にウィーン・フィルを振ったロンドン盤、もう一枚は1971年にボストン響を振ったグラモフォン盤。どちらかというと、あまーくなつかしい響きのするロンドン盤を聴くことが多い。クーベリックの本領はなんといってもライブにある。通常録音ではなぜかおとなしめの演奏をすることが多い彼だが、ライブとなると紳士の仮面をかなぐり捨てて、激情家の一面を剥き出しにすることがある。海賊版で出たブラームスの一番のライブ演奏などは何度聴いても興奮する。いつかは彼のライブ盤の「祖国」も聴いてみたいものである。などと思いつつ、東京芸術劇場に到着。巨大なパイプオルガンが屹立するステージ正面を見つめる。このホールは豪華ではあるが、威圧感を感じさせず、ある種の親密な雰囲気がただよっている。コンサートホールとしてはまことに快適な空間だ。開演時間が迫り、オーケストラの面々が舞台に出てくる。今回は大編成であり、ステージ上は団員で満員状態。舞台の両端にハープが一台ずつ置かれるという配置を私は初めて見た。その左右のハープの掛け合いで曲は始まる。読売日響の弦の響きはとても美しい。春の昼下がりの風のように、さわやかに聴く者のからだのなかを吹き抜けていく。その音に浸っていると、まあ、あんまりややこしいことを考えるのはやめて、この響きにひととき身を委ねようという気分になる。指揮の下野氏の動きはとても「正直」だ。自分のイメージした音の通りに体を動かす。動作は過剰でもなく、不足してもいない。こういう音を作りたいんだというメッセージが体から正直に発散されている感じである。全体を統率する指揮者というよりも、演奏者の一人といったほうがふさわしい気がする。彼は、舞曲的なリズムをもつ曲の演奏が得意なようだ。そういう箇所にくると、聴いているこちらの体が自然に動き出す。曲の最高潮で分厚い和音がホール全体に鳴り響くと、次の瞬間、潮が引くようにすっと静寂が訪れる。その静寂のなかに和音の残響がかすかにただよう。そういう瞬間が何度も訪れた。よく揃った厚い和音の後の一瞬の静寂。これはほとんど生理的な快感を感じさせる。オーケストラ、指揮者ともに高い技術的水準に達していなければ、こういう瞬間はめったに訪れるものではない。そういう演奏で第二曲目の「モルダウ」を聴くと、あらためてこの曲が間然するところのない傑作であることがよくわかる。音が心地よく流れ、渦を巻き、うねり、水かさを増し、やがて音を立てて流れ下っていく。そのよどみのなさと生き生きとした躍動感。このオーケストラの弦の美しい響きがこの曲想にはぴったりである。第三曲目にこれまで気づかなかった実に美しいフレーズがあることを知ったり、第四曲目でコントラバスが奏でる「いびき」の音に頬がゆるんだり、第五曲目には何かしら構造的に問題があるなと感じたり、しかし、最後の第六曲目では、もう何も考えることなく流れるままの音に身を任せていた。全体として、生理的にたいへんここちよい75分間だった。なんだかたよりない感想だけれど、このご時世に、何も考えず、ここちよいひとときを過ごせただけでも多としなければならない。最後の一音が鳴り響いた後、ステージ中央と袖の間を、体をはずませながら指揮の下野氏がまるで反復横跳びのように早足で何度も往復する。彼の求めに応じて、各パートがそれぞれ立ち上がり、そのたびに聴衆から割れるような喝采が送られる。私のいちばんのお気に入り、ティンパニの岡田全弘氏に対して手が痛くなるほどの熱烈なアプローズを私が送ったことはいうまでもない。この人の打音を聴くと、ほんとうにこころが弾む。この人のティンパニでブラームスの一番や、ベートーヴェンの七番、そしてブルックナーのスケルツォが聴けたら、どれほど幸福なことだろう。美しい弦の響きと心躍る岡田氏の打音を聴くだけでも、このオーケストラの演奏を聴く価値は十分にある。というようなことを思いながら、ひとときの愉悦の時間を終え、私は暮色の濃い憂鬱の靄の中へと一人歩き出すのだった。
2008.11.20
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このところ定額給付金をめぐる騒動でもちきりである。これが日本国の景気浮揚に効果があるかどうかはきわめて疑問だが、特定の業種の人々にビッグチャンスの到来ととらえられていることはまちがいない。振り込め詐欺グループの人々である。たとえば、次のなかでもっとも信憑性に欠けるものはどれでしょう、というクイズがあったとする。1 朝の通勤電車で、あなたの夫が痴漢をし、示談金が必要になった。2 出勤時に息子さんの車が交差点で人身事故を起こし、至急、示談金が必要である。3 税の還付金が発生したので、銀行の口座に振り込みたい。ついてはATMの窓口に来てほしい。4 今度、政府が国民全員に1万2千円を配布することになったので、そのお金を取りに来てほしい。予断と先入観がなかったとしたら、多くの人が4を選ぶだろう。常識的にもっとも現実的に起こりうる確率の少ない現象は4だからだ。少なくとも夫が性犯罪に走ったり、息子が交通事故を起こしたり、税務署が還付を行うことよりも、政府が国民全員に1万2千円を配る確率のほうがはるかに低いことはたしかだ。ちょっと目端の利く詐欺師だったら、4の案はただちに却下するだろう。「そんなもん、誰が信じるかよ、ばーか」の一言で終わりである。その試みを、今の政府は大まじめに実行しようとしている。その結果、どういうことが起きるだろうか。まず、日本国民の正常な懐疑精神が損なわれることだろう。今までだったら「えー、そんなばかな」と一蹴していた事柄も、「うーん、このご時世ならば、それもありかもしれない」と考えられるようになる。「そんなばかな」と判断する基準が国民レベルで大幅に引き上げられるのである。その結果、人はトンデモ話にだまされやすくなる。突拍子もないことを、後先の計画性もなく、時の権力者が口にしてしまう時代なのだから、少々怪しい話でも真実である可能性が高まってくる。いままでだったら「うそだろう」で終わっていた話が、「ひょっとするとほんとうかもしれない」に変わってしまう。もしも、今年の年末、区役所から一本の電話がかかってきて、「例の定額給付金の件なんですが、75歳以上の後期高齢者の方々には、総理の英断によって、特別給付金がさらに5千円加算されることになりました。お手数ですが、その振り込みのためにATMの窓口に来ていただけますでしょうか」といわれて、「そんなばかな」と一蹴できる高齢者がどれほどいるだろう。機を見るに敏な振り込め詐欺グループが、このビッグチャンスを見逃すとは思えない。しかも現在の案では、65歳以上の高齢者には給付金が8千円加算されるという。彼らにとっては願ったりかなったりといういうところである。おそらく詐欺グループの内部では、今ごろせっせと詐欺話の「絵図」が描かれていることだろう。シナリオ作成、トーク集と反論防止マニュアルの編集、ロールプレイング作業に余念がないのではなかろうか。所得制限の実施、配布方法の細目については自治体に一任するという報道を聞いて、彼らが小躍りする姿が目に見えるようだ。「あれ、そのやり方って新聞で読んだのとちょっとちがうとおもうんだけど。」「ええ、わが自治体では独自の方式を採っておりまして、住民の方々へのサービスや高齢者の方々の諸事情にも配慮してですね、直接役所の窓口においでいただくのではなく、銀行のATM窓口で振り込み手続きが簡単にできるようにしているのでございます。」そういう反論の未然防止トーク集がいまごろせっせと書かれているのではないか。あるいは「当自治体では1千8百万円以上の所得のある方々には給付金をご辞退いただくという方針をとっておりまして、つきましてはその所得制限に抵触しないかどうかを、預金通帳を提示していただくことによって確認させていただいているという、そういうわけなのでございます」。そう言いながら家庭を巡回訪問する「役人」が出現してこないとも限らない。「低脳な山師と 信念を金で売っちまうおエラ方が 動かしてる 世の中さ よくなるわっけがねー あきれて 物も 言えねー」(RCサクセション「あきれて物も言えない」)という歌声がどこからか聞こえてくる。この政策は後日、振り込め詐欺振興に多大の貢献をした政策として、人々に長く記憶されることになるのではなかろうか。
2008.11.13
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先日、筑紫哲也氏がなくなった。それ以前に緒方拳氏の訃報も聞いた。なんだか、人生のかなりの部分をともに生きてきた人間が次々になくなっていくという感慨がある。かなり以前のことだが、緒方氏が「徹子の部屋」に出演したことがある。見るともなくその番組を見ていたのだが、彼の観察眼の鋭さとことばの選び方のシャープさに驚いた。きわめて高いレベルで知性と感性のバランスがとれた人なんだなあ。そう思った記憶がある。そのなかでこういう話があった。「私はね、スナックかどこか、カウンターのあるバーで、相手と二人で飲んでる時に、こう言われることがあるんですよ。『なぜおまえは俺の顔を見ないんだ』って。 私はそういう時、正面を見て、隣の人の話を聞いているわけです。でも、首を曲げて、その人のほうは見ない。それで、なぜこっちを見ないんだと相手は言っているわけです。『いや、見えてるんだ』って私は言うんですが、まずわかってもらえないですね。だって、全然こっちのほうを見ないじゃないかというわけです。でも、ほんとに見えてるんですよ、嘘じゃない。私は正面を向いたままで、こう、横のほうがなんとなく見えちゃうんですよ。でも、なかなかわかってもらえないんだなあ、これが。」何気ない話だったが、「ああ、オレとおんなじだ」とその時思った。私も横に並んで誰かと話をしている時、その人のほうを首をねじ曲げて見ることはほとんどない。そんなことをしなくても、「見えている」と感じるのである。これは別に目が離れているとか、顔が魚に似ているとか、そういう話ではない。実際問題として、隣の人間の位置に視力検査表や文字を置いて、それが読めるかというとぜんぜん読めないのである。その意味では「見えていない」ことになる。でも、その人間がどんな表情をしているか、何を感じ、何を考えているかは、だいたいわかる。それも想像というのではなく、「見えている」感じでわかるのである。このあたりの感覚はなかなか説明するのがむずかしい。これは横方向に限らない。たとえば、講演をする場合、200人程度の聴衆の最後列にいる人の顔は、私にはまったく見えないはずである。視力は裸眼で0.1程度で、極度の乱視なので、その位置に何か文字が書かれていたとしても、まったく読むことはできない。でも、私にはそこにいる人の顔が、「見える」のである。「ああ、退屈しかけてるな」とか、「興味を感じて身を乗り出しはじめたな」とか、「共感してくれてるな」とかいうことが、かなりはっきりとわかるのである。いや、正確にいえば、わかっているような気がするのである。これはネガティブな反応よりも、好意的な反応に対して感じることが多い。おそらく自分で求めているからそうなるのだろうが、この感覚はけっして「錯覚」とも言い切れないのである。それは講演が終わって、その人が実際にこちらにやってきて、好意的な反応を示してくれることがあることからもわかる。この感覚については、自分でもうまく説明できない。現実には時折見えていないものが見えることがあるというだけである。これは別に特別な能力とかそういうものではない。おそらく誰にでもあるものなのだと思う。ただ目のいい人はそのことに気づく機会がないだろうし、人によってその感度に多少の差があるのだろう。まあ、これはそれだけの話である。それ以上、発展する話ではない。でもそれ以来、緒方拳氏を見るたびに、「同じ種族」の人を見るような感じをもつようになった。数少ない同族を一人失ったのはまことに残念である。筑紫哲也氏には一度だけ偶然遭遇したことがある。まだ大学生の頃だったが、大学の正門を出て、都電の駅に向けて歩いていると、前方にぼさぼさの髪をした、かなり大きめのバッグを担いだ中年の男性が歩いていた。私は正門のそばにある古本屋を覗くつもりだったので、少し足を速めてその人を抜き、本屋に入った。その店は典型的な古本屋だった。場所柄、外国語の本が若干多かった以外は、特に特徴もない。店全体の雰囲気は焦茶色一色。硬い本が多く、雑誌の類はほとんどなかった。店内にはNHKFMが人間の可聴範囲ぎりぎりの小さな音で流れており、その音量が私は気に入っていた。あまり本を買った記憶はないのだが、暇な時にはなんとなくそこに入って、書棚を眺めていることが多かった。私の後から筑紫氏が入ってきた。私は例によって直接その姿は見なかったが、なんとなくその姿が「見えた」。あいまいな記憶だが、その日、大学で氏の講演が行われたのではなかったかと思う。私はとくに興味もなかったので、その講演は聞かなかったが、おそらくはそれが終わった後、誰も連れることなく、たった一人で、大学の脇にある小さな古本屋を覗いたのだろう。本好きな人なんだなあと、その時思った。初めて行く土地や旅先で古本屋を覗くのは、本好きにとってひそかなときめきを感じさせる行為なのである。彼はその店に浸透していた焦茶色によく馴染んでいた。おそらくモスグリーンのトレーナーとクリーム色のチノパンを履いた、もう一人のくらーい大学生の客もさぞかしその場に溶け込んでいたことだろうと思う。ほんの数十分程度だったが、その店で並んで古本の棚をいっしょに眺めていたことがあった。ただそれだけのことである。その時、この人は基本的に「本」の人なんだなあと思った。彼が「活字の人」だということは知っていたが、その活字ははなばなしくあちこちを飛び回る新聞や雑誌の活字だとばかり思っていた。でも、この人の根底には「本」の活字があるのではないか。なんとなくそう感じた。なぜそう思ったかはよくわからない。至近距離にいて、とにかくそう感じたのである。そういえば、「本」の人であることを感じさせるジャーナリストが減ったように思う。白魚のおどり食いみたいに、あちこちにはね回る活字を必死で追いまくっている自称ジャーナリストはたくさんいるが、ずっしりと厚みのある本に深く刻印された活字を頭のどこかで意識しながら活動しているジャーナリストがいまいったい何人いるだろう。この人は自分とはおよそ同類とは思えないけれども、遠いご先祖さまをたどると、ひょっとすると、どこかで血が交錯していたのかもしれない。きのう、ラジオに小沢昭一が出て、こういう話をしていた。「あのねえ、長生きするってのはいいことだって、みんないうでしょう。あれは嘘だよ。私なんか長生きしてるでしょう。で、どうなるかっていうと、まわりの知り合いや友だちがみーんないなくなっちゃうわけ。ほんと、だーれもいなくなっちゃうんだ。だから長生きするっていうのは、要するに、友だちがいなくなるっていうことですよ。ひとりぼっちになるってことですよ。それを長生きっていうんだって、最近になってやっとわかってきたんだ。いや、ほんとに。」訃報聞き 一人きりなる われ思う駄句である。季語がないって?季語は「われ」である。そして季節は。いうまでもない。「冬」に決まっている。
2008.11.10
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日頃からテレビはほとんど見ない。しかも、多くの場合、ビデオに録って見るので、番組をライブで見る(というのも変な言い方だが)ことはほとんどなくなってしまった。一日の生活の中で生でテレビをみるのは、かろうじて夕食の時くらいだろうか。それも背中越しである。夕飯を食べる時、テレビに向かっているのは私の背中だ。当然画面は見えず、音だけが聞こえる。NHKの七時のニュースの場合、それでも別に支障を感じない。ひょっとすると、背中で見ている視聴者を想定して番組を作っているのではないかと思えるほどだ。スポーツニュースを除いて、あえて振り返って画面を見ようと思うことはない。きのうもそうやって、夕飯を食べていた。すると、背後から聞こえてくる音に、背中がわずかに反応した。少しだけ「熱」を感じたのである。肌で熱を感じるような音が七時のニュースから流れることは珍しい。私は耳を澄ませる。英語の演説である。当然、切れ切れにしか意味はわからないが、リズミカルで、適度な抑揚があり、感情と理性のバランスがほどよくとれている。扇情的でもなく、かといって冷たくもない。こういう話し方を私は好む。音が一定のリズムを保ちながら、ゆっくりと波形を描いてうねり、そのゆったりとした波の上に、簡潔で明快なことばがのせられていく。語りに力を感じさせる演説である。そう、テレビでは昨日シカゴで行われたバラク・オバマの勝利演説が流れていたのである。こちらのリスニング能力に限界があるせいで、切れ切れにしか聞きとれないが、それでも、格調の高い、名演説であることはわかる。今朝の新聞で、その演説の要旨を読んでみたのだが、いかんせん、訳にあの「格調」が感じられない。しかたがないので、その冒頭部に下手くそな訳をつけてみる。「シカゴの皆さん!もしアメリカがあらゆることをなしうる場だということに疑念をもつ人がいるとしたら、われらの建国者の夢が今でも生きつづけていることを疑う人がいるとしたら、そしてわれわれのデモクラシーの力に疑いをもつ人がいるとしたら、今夜こそが、その答だ。その答は、学校や教会の周りを囲んだ、この国がかつて見たこともないような多数の人々の列によって語られた。3時間も4時間も待ち続け、多くは生まれてはじめてそのような経験をした人々によって。なぜなら、彼らは今回はきっと違う、自分たちの声が変革をもたらしうると信じたからだ。その答は、若者と老人、富者と貧者、民主党員と共和党員、黒人、白人、ヒスパニック、アジア人、ネイティブ・アメリカン、同性愛者とそうでない者、障害をもつものともたない者によって語られた。アメリカ人は世界に向かってメッセージを発したのである。われわれはけっして単なる個人の寄せ集めではなく、単なる赤と青の州の寄せ集めでもないと。われわれは今も、そしてこれからも、アメリカ合「州」国なのだ。その答は、われわれが成しうることについて、疑いの目を向け、おびえ、懐疑的であれと、あまりにも長きにわたって、多くの者たちに言い聞かされてきた人々が、今や自らの手を歴史の弧にかけ、よりよい日々への望みに向かってもう一度それを動かす方向へと導いたのである。長い時間がかかった。でも今夜、まさにこの日、この選挙の、この決定的な瞬間に、わたしたちが成しえたことによって、変化がアメリカに訪れたのだ。」やはりうまくは訳せない。この演説を聞いて、私が感じたのは、次のようなことだ。アメリカの巨大な政治は、個人の資質で左右されるほど繊弱なものではない。そこでは圧倒的な物量を伴うシステムが、膨大な人間とはかりしれない資源を伴って、ぎしぎしときしみながら、大きく回転を続けていく。このことばを発した人間の政治的生命もいずれは尽きることだろう。その肉体的生命もほどなく終わりを迎えるかもしれない。しかし、この演説のことばは、それらよりも長く生命を保つだろう。息をしつづけることだろう。心血を注がれ、ことばの力を信じる者によってこの世に生み出されたことばは、それを生み出したシステムよりも、それを世にあらしめた人間よりも、はるかに長生きをする。そういう予感がする。ことばに対して、シニカルで、おびえた、疑り深い姿勢をもつ社会は、長く命を保つことばを生み出すことができず、そのことばを担う強靱な精神を育てることができず、結果的に永続性をもつ活力にあふれた公正な社会を作り出すことができない。そういう哀れな社会のリーダーは同じ日に、こういう発言をしている。「どなたが大統領になられようとも、日本にとりまして日米というものが基軸というのは終始一貫、変わっていない。民主党政権の時であろうと、共和党政権の時であろうと、日本政府としてきちんとした対応を米国とやってこれた。そういった努力を引き続きオバマという人とやっていかねばならぬ。米国でできたからすぐ日本でも民主党という短絡的な思考は、私は持っておりません。」笑おうとした頬が引きつって、背中になにやら悪寒が走る。どうやら風邪を引いたようだ。
2008.11.06
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