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大きな仕事が一段落したので、やっとパソコンの前に戻ってきた。久々に先生向けの講演をしたのだが、折りからの花粉で鼻がやられ、自分の声とは思えない声で話す羽目になってしまった。声が出ないと話のリズムがうまくつかめない。おそらく喉から発する微妙な振動音の違和が身体組織や頭蓋にまで伝わるのだろう。なかなかうまく話の波がキャッチできない。それでも「ご静聴ありがとうございました」といって頭を下げた瞬間、間のつまった暖かい拍手をいただいたので、なんとかおつとめは果たせたようである。ちなみに儀礼的な拍手の場合、微妙な間があき、その間が不均等になることが多い。基本的には大学受験に関する話だから、一般の方が聞いてさほど面白いというものではない。ただそういう論題を超えて、自分なりに言いたいことがなかったわけではない。それは「わかるとは何か」ということである。以前に行った授業の一場面をその中で紹介した。それは小論文の授業で要約練習をしていた時のことである。その時の問題文はきわめつけの難文だった。たしか京大後期の経済学部の問題だったろうか。受験レベルを超え、既に一般的な学術論文の域に入っており、ある程度の専門知識を要する文章だった。生徒から悲鳴の声があがる。「せんせー、なに書いてあるか、ぜんぜんわかんないよー、むずかしすぎるー、むずいよー」「そうか?おかしいな、そんなはずないんだがなあ。気のせいだよ、たぶん。ぶうたれてないで、さっさとやれよ」ととぼけたが、難文であることくらいは先刻承知である。こちらはそういう文章に彼らがどう対処するか、それを見ようという心づもりである。疲れ切った顔をした生徒が次々と答案を提出する。その答案にざっと目を通す。これが惨憺たる出来かというと、必ずしもそうではないのである。極端に難しい文章を要約させた場合、ある一定のレベル以上の生徒は意外にそこそこの答案を書く。つまり、本文の大事なポイントはほぼ抜き出せているのである。ふんふん、なかなかやるじゃないか。そう思って、もう一度彼らの文章をよく見直すと、あることに気づく。たとえば本文の重要部がA、B、C、Dの四つあったとしよう。彼らの多くはこの四つのポイントをきちんと要約に盛り込んでいる。大事な部品はちゃんと揃っているわけだ。しかし、そのポイント相互の関係、AとB、BとCのつながりを見ると、どうもそのあたりにもやもやとした霧が立ちこめている。ある生徒は「A(そして)B(そして)C(そして)D」とただポイントを並列して書いているだけだし、他の生徒は本来逆接でつなぐべきポイントを順接でつないでしまっている。要するに部品は悪くないのだが、部品をつなぐジャンクションの部分に問題があるのだ。彼らはこれまでの学習経験から「大事そうなところ」を嗅覚で探り当てることには長けているのだが、単なる感覚ではそこまでである。要するに「部品」は悪くないのだが、「つなぎ」が甘いのである。さて、どうアドバイスしたものだろうか。私は教室で「わかるってどういうことだと思う」と質問する。「文章がわかるってどういうことだろう。誰か説明してくれないか」「えーと、それは要するに、誰かが書いた文章の内容をできるだけよく吸収して、理解するってことじゃないですか」「吸収か、相手のメッセージを忠実に吸収する、その吸収度の高さが理解度の高さだっていうこと?」「ええ、まあ、そんな感じ」「文章を読む。大事なポイントをマークする。それを忠実に吸収する。それがわかるということである。はたしてそれでいいんだろうか。オレの考えでは、それはまだ「わかる」の半分に過ぎないんじゃないかって気がするんだけど」「半分?」「要するに君たちの言ってるのは、わかるっていうのは受動的な行為ということだろう。それではまだ半分しかわかっていないとオレは思う」「……」「たとえば、ここに時計の仕組みが十分に「わかっている」人がいるとする。今、彼の目の前に時計が一個ある。彼が時計のしくみをわかっていることを証明するためにはどうすればいいだろう。彼はまず時計を分解しはじめる。ていねいにひとつひとつの部品をばらし、それぞれの機能を説明する。そして、「以上、終了」という。はたしてこれで彼が「わかっている」ことが証明できるだろうか。それだけでは不十分ではないだろうか。 おそらく彼はその部品を手にとって再び組み立て始めるべきなのだ。ひとつひとつの部品を組み合わせ、元通りに時計を復元していく。最終的に最後の部品を装着して、秒針がこっちこっちと動きはじめた時、はじめて彼は時計の仕組みが「わかっていた」といえるんじゃないだろうか。」生徒が小さくうなずく。「つまり、わかるとは重要な部品をただ単に取り出すだけの作業じゃなくて、その部品を使って自分なりにもう一度組み立て直すことを意味するんだ。「分解プラス再構成」、それがわかることだとすると、この間の君たちの要約はその半分しか行っていない。そう思ったわけだ。 でも君たちはこういうだろう。それはオレだってちゃんと組み立てたかった。でも、その組み立て方がよくわからなかったんだ、って。たしかに組み立てるのはむずかしい。無印良品で組み立て式のベッドを買って、配送員がうっかり組み立て説明書を入れ忘れたら、それなしでベッドを完成させるのはほとんど不可能だ。 では、文章における組み立て説明書っていったい何だろう。大事な部品をどう組み合わせたらいいか。その部品がそもそもどのようにつながっていたのかを明らかにするもの、それは何だろう。」一人の生徒の眼が光る。「論理!」「ご明察。その通り。それは論理だ。文章がわかるというのは、大事な部品がわかると同時に、その部品が相互にどのようにつながっているかという論理をつかむことだ。そして、その背後には自分の力でその論理を再構成しようという意思や意欲がなければならない。」他者の思想が「わかる」というのは、単に「なるほどなあ」と受身で感心することではない。そこにはその思想を自ら組み立て直し、さまざまなものに適用しようとする能動的・積極的な意思が欠かせない。「わかる」とは「再構成する」「動かす」という積極的な行為に裏打ちされたものなのである。私が講演で言いたかったのは次のことに尽きる。わかるとは主体的な営みである。この一点を目指して私は助走を開始し、徐々にスピードを上げ、やがて離陸し、飛翔し、そして着地する。そういうイメージが頭のなかには出来ていたのだが、現実世界には空気抵抗、風向き、天候、その他もろもろの条件があり、なかなか思い通りにことが運ばないのである。だが、最後にいちばん大切なフレーズを口にできたことは、私にしては上出来だったと今となっては思っている。
2008.03.27
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「文藝春秋」3月号、川上未映子「乳と卵」を読み終える。私としてはこういう「生もの」を読むのは珍しい。芥川賞にもさして興味はないのだが、「文藝春秋」に受賞作が掲載されると、半ば習慣でぺらぺらとページをめくってみるのである。しかし、ほとんどの場合、冒頭の数ページを読んだだけでやめてしまう。ここ数年で作品を最後まで読み通したのは、金原ひとみの「蛇にピアス」だけではなかったろうか。だから、冒頭に書いた一文は、事実の説明というより、私にとってはほとんど「評価」に近いのである。要するに、それほど怠惰で関心の薄い読み手のこころにも訴えかけるある種の力をもった作品だということである。その感想を少しだけ書いてみることにする。新聞の全面広告で彼女の全身写真を見たりしたせいで(念のために言っておくが、服は着用されている)、正直、こういう売り方にふさわしい(というのは「中味の薄い」)作品なのかなという先入見をもっていた。読み始めるとすぐに「なんだ、これは、あの天才、町田康の物まねじゃないか」とも思った。しかし、その後、先を読み進むにつれて(というのは彼女の文章はいったん読み始めると、するすると読み手を先に連れて行く不思議な力をもっているのだ)、徐々に感想が変わってきた。一言でいうと、これはなかなかの文章であり、文体である。一見すると、自分勝手な大阪弁しゃべくりスタイルに見えるが、どうしてどうしてそういうお気楽な文章ではない。自分に溺れ、自分を甘やかす人間にはこういう文章は書けない。ここには冷静で知的な「他者」の想定があり、それに向けての構想がある。計算というと聞こえが悪いが、読み手の都合をちゃんと勘定に入れた上で、文章が書かれ、構成が練られている。そのことをまず感じる。ただ、この作品は評価が割れるだろうとは思う。たしかに文体と視点はユニークであり、興味深いが、全体のストーリーにはそれほどの新鮮味は感じられない。初潮におびえる思春期の少女の独白とか、母子の確執とその劇的な和解とか、いってみれば「よくある」話ではある。だから「ストーリーが陳腐でつまらない」という評価と、「視点がユニークで文章が面白い」という評価が並んでいても、別に不思議はないのである。選考委員の某都知事は、「この作品を」「私はまったく認めなかった」と断言している。そして「この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい」と言い切っている。ただ、この反感は作品の出来に対するものというよりも、この作品のどこかが彼の勘所に触ってしまっているところから来ているように思う。彼は「どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない」と選評で書いているが、書かれていないものが伝わってくるはずはないのである。川上はむしろ作品を通して、女性の身体から「メタファとしての意味」を剥ぎとろうとしているのであり、某都知事の発言は「八百屋にサンマを買いに行って、『ない』といわれて怒っている客」とさして変わりがないように思える。彼女が女性の身体から「メタファとしての意味」を剥ぎとっている部分を見てみよう。それは作中の銭湯のシーンである。 「わたし」の姉、巻子は大阪から豊胸手術を受けるために中学生の娘、緑子を連れて上京する。わたしのアパートに着いた後、わたしと巻子は近くの銭湯へ出かける。「巻子は湯に浸かってる間、風呂場を行き来する女々の体を舐めるように観察し、それは隣のわたしが気を遣うほど無遠慮に視線を打ち続けるので、ちょっと巻ちゃん、見すぎ、と思わず小声で注意するも、ああとかうんとかの生返事をして、その目は入ってくる体、湯に浸かる体、出る体、泡にくるまれる体をじっくりとせわしなく追うのであった。」黙って裸の女たちを見つめる巻子の隣で、ひとりで喋るわけにもいかず、「わたし」は「仕方なく湯に並んで黙って女々の体を見てみれば、当然ながら改めて様々な形態のあること輪郭のあること色味のあること甚だしく、裸の中央に当たる部には、ほとんどの場合に、胸がある。肌色の分量がとても多く、この裸の現場においては、普段ならかなりの割り合いで識別の重みをもつ顔、という部位がとんとうすれ、ここでは体自体が歩き、体自体が喋り、体自体が意思をもち、ひとつひとつの動作の中央には体しかないように見えてくるのやった。」日常生活で大きな意味をもつ「顔」の識別機能が剥がれ落ち、その後にはむきだしの体があらわれる。そして、文章は次のように続く。「私はそれを思いながら行き来する女々の体を追ってると、よくあるあの、漢字などの、書きすぎ・見すぎなどで突如襲われる未視感というのか、ひらがななどでも、「い」を書き続け・見続けたりすると、ある点において「これ、ほんまに、いぃ?」という定点決まり切らぬようになってしまうあの感じ、今の場合は、わたしの目に女々の体がそうなってきており、だいたいなぜあそこが膨らみ、なぜ一番てっぺんに黒いものが生えており、しゅるっとなってこのフォルム、そしてなぜここでだらりんと二本でなぜ足はあのような角度で曲がってこんな具合をしているのかの隅々を、見失ったというか改めて発見したというかの状態になって、その改めて感から抜け出せぬような予感におそわれ」ることになるのである。この「未視感」は誰もが経験する「あれ」である。中島敦が「文字禍」で取りあげ、開高健が執拗にそれを引用した、文字から意味が剥がれ落ちる瞬間の違和感。しかし、川上はそれを文字ではなく、女性の肉体に見ている。そこから社会的、性的な意味を剥落させることによって、あの感覚に達しているのである。この部分を読んでいると、はたして彼女はこれから小説を書き続けていくのだろうかというかすかな疑念が湧く。この眼は、いわば「原存在」を見る眼であり、その意味では哲学者の眼である。この人の文章からは、「裸形の存在」を垣間見てしまう「業」のようなものを感じる。私にもかすかに身に覚えがあるが、これはふつうの生活をする上では「百害あって一利なし」の感覚である。川上は、同じ雑誌で編集部のインタビューにも答えている。その中で好きな作家として、以下のような人々を挙げる。村上春樹、カート・ボネガット、サリンジャー、柴田元幸の訳す翻訳小説のような無駄のない文章。私は、彼女がサリンジャーが好きだという気持ちはほんとうによくわかる。これだけの作家をピンナップガール扱いするほど、日本の文壇には有為な才能が満ち溢れているのだろうか。失敗あるいは転落、失墜、堕落、崩壊、滅亡を含めて、私はこの人の今後にいくばくかの望みをかけたいと思う。それはおそらく茨の道を裸足でどこまで歩き通せるかという戦いになるとは思うのだけれど。
2008.03.11
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日曜の午後、マンションの排水管の点検のため、自宅で過ごす。この時間帯には外に出ていることが多いので、手持ちぶたさんとどうつきあったらいいか、よくわからない。しかたなくラジオのスイッチをひねる。TBSラジオの伊集院光の番組が流れている。ゲストを迎えてのクイズ・コーナーだ。ゲストが何十年も前に受けた雑誌や新聞のインタビュー記事をもとに、その時の答を覚えているかどうかを試すという、まあ、たわいのないおちゃらけコーナーである。私はベランダの「ひめうつぎ」や「るりまつり」の枯れ枝をはさみでぱちんぱちんと切りながら、それを聞くともなく聞いている。コーナーが始まる。女性アナウンサーがゲストを紹介する。「本日のゲストは大江健三郎さんです」。うん?大江健三郎?「伊集院光の日曜日の秘密基地」のゲストが大江健三郎?はて、面妖な。思わずはさみを置いて、リビングに戻り、ラジオのボリュームを上げる。大江の声が聞こえてくる。こういう場合、司会者が恐縮、恐懼して、ひたすら礼賛のことばを発するというケースが多い。なにしろ相手はノーベル文学賞受賞者である。そうなったら切っちゃおう。なんだかいたたまれないしな。私は伊集院光の話をラジオで聞くのは嫌いではない。この人はたしかにおちゃらけタレントだが、そのおちゃらけを真剣にやっている気配がある。そこにいくばくかの好感をもつ。おちゃらけをおちゃらけでやられてはかなわない。もしもバスター・キートンがニコニコ顔だったら、ずいぶんと面白さが減じるだろう。そういうことである。しかし、予想はいい意味で裏切られる。テーマはいきなり「文体」だ。「ぼくは、とにかく書き直しをよくします。何度も何度も繰り返し、繰り返し書き直します。私の妻は私の仕事にはおおむね好意的で、批評めいたことはまず口にしないのですが、以前、こういったことがあります。『もしもあなたが最初に書いた、そのまんまの形で世間に発表する機会が一度でもあったらどんなにいいでしょうね』と。」伊集院は質問する。「先生のおっしゃる文体は、こういう文体というものがまずあって、それに近づけて書き直しをされるわけですか、それともそういうものはなくて、まず書いてそれを修正する中で結果的に文体ができあがっていくんですか」この質問を聞いただけで彼がどういう姿勢でこの話に臨んでいるかがわかる。彼はひるんでいない。本気である。おべんちゃらや追従を捨てて、正面から大作家に向き合おうとしている。まことによい度胸である。私は倚子に腰を下ろす。「それは後の方ですね。最初から文体というものはないんです。僕の知っている作家に三島由紀夫という人がいて、彼は最初から何を書くかがほとんど決まってたんですね。実際に書く時に、彼はそのイメージに装飾をほどこすようにして作品を完成させていった。でもぼくはとにかく最初はこういうものを表現したいという漠然としたイメージのようなものはあるんだけれども、それが何なのかはよくわからない。だからとりあえず書いてみる。でも読み直すとぜんぜん書けてないし、だいいち、読者はなにが書いてあるかわからないだろう。だから、ああでもないこうでもないと表現を変え、視点を変えて、延々と書き直すことになるわけです。その作業を繰り返して、最終的にやっとなんとか読めるものになり、その過程で自分なりの文体というものができあがっていくんです。」「最終的に読者に伝わる文体ができると」「でも実は、私の文章は読み手にあんまりよく伝わらないみたいで、難解とか、むずかしいとか、よくいわれるし、本としてもあまり売れないんですよ」(笑)まことにいい雰囲気で話が続いていく。しかし、大江氏、いかんせんラジオには慣れていない。CMやコーナーお決まりのクイズをすべて無視して、延々としゃべる。司会者はとうぜんそれがわかっているのだが、大江氏の話を途中で遮らない。30分近く、そのままノンストップのNHK第一放送状態で話が進んでいく。まことにみごとな司会者ぶりといわねばならない。そして、その後、大江氏はなんと伊集院光について、語り始める。「私はあなたは少年のころの思い出を、単なる記憶としてではなく、あるひとつの広がりをもった出来事として大事にする人であるように思います。その記憶をいろんな角度から立体的に語ることのできる人であるように思うんです。人間にはふたつのタイプがあって、一つは自分の個人的な思い出をただそれだけのものとして平板に語る人、もう一つはあなたのように様々な角度から立体的な出来事として語ることのできる人」このことばを聞いた伊集院氏の心境はいかばかりのものだったろうか。大江氏の話はさらに続く。「ぼくはね、昔の出来事を物語る時、たとえば、その時、私は左を見た、と書く時、はたしてその時、右手には何があったんだろう。自分の見ていなかったところに何があったんだろう。あるいは、その私を後ろから誰かが見ていただろうか。そういうふうに考えるんです。そして、それを書こうとする人間なんです」伊集院氏。「先生、僕は基本的にラジオは生しか出ないんです。録音だと取り直しができます。そうやって何度も何度もある話を取り直していると、ある時、ディレクターから『伊集院君、君の話、最初は面白いと思ったんだけど、なんか何度も話しているうちに、怖い話になってきてるよ』といわれたんです。気がつくと、もう別の話になってるんですよね。それも怖い話に。先生はそんなことはないですか」「それでぼくの小説はいつも『怖い、怖い』っていわれるのかなあ」(笑)伊集院氏。「ぼくは先生の「自分の木の下で」を読んで、読み終わってから、何度もおんなじ話をするじじいがいるじゃないですか、そういうじじいが大好きになりました」「ほう」「そういうじいさんって、同じ話をしながら、微妙に今日はここをカットしようとか、ここをふくらまそうとかしてるんですよね。それを何度も何度も聞いているうちに、その話があっちこっちにふくらみだして、それが単なる話じゃなくて、なんだか実際にそれを経験したような気になるんです。つまりじいさんの経験を自分も同じように経験している気持ちになる。それで『このじいさんの話って、結局、タイムマシーンなんじゃないか。タイムマシーンって実は発明されてたんじゃねーか』って思うんです」「うん、うん」この調子で話が展開する。やがて、話は大江の友人、伊丹十三の話になる。この話は延々と続く。10分以上、彼は訥々と語り始める。「伊丹は私の古い友人で、彼の妹は今の私の妻です。伊丹はある頃から映画を作り始めます。でもぼくはめったにその感想を述べたりはしません。妹には試写会の招待状がくるけど、ぼくには来ない(笑)。ぼくもあまり積極的に感想を言おうとは思わなかった。 でも、彼がテロリズムに関する映画を撮っているという話を聞いた。私は彼のテロリズムに対する姿勢に敬服していたので、これは見なければならない。そう思って、封切りの映画館へお金を払って見に行って、その夜、彼の事務所に電話をかけました。すると伊丹が自分で出たんです」「そうですか」「彼はどうだった、あの映画のどこが面白かったかと聞く。私は知っているのですが、彼は漠然とした抽象的な感想を許さないところがある。『あの映画はポストモダン的でよかった』なんて、そういう言い方は絶対に許しません。ぼくはそれをよく知っている。とにかくあの場面がこういうふうに面白かった。そう具体的に述べないと納得しない。私は心を決めて、あるシーンについて語り始めたのです」「はあ」「それは一人の小太りの警官が登場するシーンです。その彼のところに出前持ちが昼飯の注文を取りにくる。彼はなかなかペーソスに富むというか、ふてぶてしいような、とぼけたような、意地悪なような、人がいいような、そういう感じでその出前持ちをからかう。そこがとても面白いと思った。 その小太りの警官はどうもあまり仕事ができるというタイプではないようで、昼休みに本を読んでいたりする。上司が何を読んでいるんだと聞くと、サリンジャーだったりする。そして上司から警官というのはもっと現実に向き合うべきものだと説教をされる。 そんなある日、その小太りの警官は田んぼの真ん中にあるカラオケ・ルームに歌を唄いにいく。女の店員が「お客さん、仕事はなに」と聞く。すると、彼はふてぶてしいというか、なんというか、「学生」と答えたりするんです。 そして、偶然、隣の部屋にいる客が、自分が追っているテロの犯人であることがわかる。彼はいったんトイレにいって、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かす。 そして、犯人の部屋に入って、口にカラオケのマイクを突っ込んで逮捕しようとする。犯人はドアから逃げる。彼は追う。店の通路の突き当たりに「通用口」という表示があって、二人ともそこに体当たりをする。ドアがこわれる。その向こうは田んぼだ。二人は田んぼに落ちて、格闘になる。 その小太りの警官は、日頃の言動には似合わず、なかなかよく闘うんです。そして最終的には見事に犯人を逮捕する。 まあ、ここまでは普通の監督さんでもそれなりに撮るのではないかと思うんです。私が印象に残ったのはその後のシーンです。 泥だらけになった犯人の背中を小太りの警官がホースで洗ってやる。これもまあわかるんです。でもしばらくすると、カメラが引いて、その警官の背中を店の女の子がホースで洗っているシーンが映し出される。 ぼくはこのシーンがすばらしい、いかにも伊丹らしくて面白かった。そう言いました。」「……」「すると、伊丹が妙なことを言うんです。そうか、それでね、健ちゃん、あの女の子の役名なんだけど、「みどり」ちゃんっていうんだよ。で、役者さんの名前は早乙女○○さんっていうんだ。健ちゃん、覚えた?」「私はこう言いました。あのさ、岳(たけ)ちゃん(伊丹の本名)、ぼくは小説家だよ。その小説家のぼくが、なんで「みどり」ちゃんとか、早乙女なんとかいう人の名前を覚えなければならないんだろうか」「彼はこう言いました。「それもそうだね、でもついでにいっておくね、あの小太りの警官役の人の名前なんだけど」「……」「伊集院光っていうんだよ、と」話はここで終わる。スタジオが一瞬沈黙に包まれる。伊集院はぐっと胸にこみあげるものがあって、うまくしゃべれない。そのことが、その沈黙から伝わってくる。
2008.03.03
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泥棒の背中を洗う警官、その警官の背中を洗う女店員。ここには物語を、文体を立体的にする複数の視点が存在している。その伊丹の視点に大江は共感する。そのことばは伊丹を深く励ましたであろうと思う。伊集院が静かに語りはじめる。「伊丹さんにはよく意味のわからないNGと、よく意味のわからないおっけーがあったんです。なぜ今のがだめなのか、なぜ今のがいいのか、やってるこっちにはよくわからない。でも役者はとにかく淡々と何度でも繰り返し演じるしかない。でも、あのシーンでは最初の出前持ちをからかうシーン、最後の背中を洗うシーン、あれはとにかく延々と繰り返し演技させられたのを覚えています。伊丹さんはその大江さんのことばを聞いて、きっと「報われた」と思ったと思いますよ」ひとつの物語を複数個の視点から立体的に浮かび上がらせる。大江はこの話を周到に準備してきたのである。けっして語りがうまいとはいえない彼の話は、伏線から、最後の一語まで、実にみごとだった。そして私は思う。この話にはもうひとつのしかけがある、と。この同じ話が、一般のリスナーと目の前の伊集院ではまったく異なる受けとられ方をしている。リスナーは最後の一言で警官が伊集院であったことを知り、伊集院は最初の一言でそのことを知る。同じ話がまったく違う受けとられ方をしているのである。複数個の視点の重要性を物語るエピソードを、複数個の受けとられ方をするように物語る。この話は入れ子構造になっているのである。マトリョーシカ人形になっている。そして、それこそが物語の本質なのである。大江にこれだけの話をさせる伊集院光という人はかなりの人物であるということになるのではないだろうか。そして、私はふと気づく。彼がその話の中で「小太り」「小太り」という言葉をさかんに連発していたことを。「小太り」の「光」。それはまた大江の息子に連なるのではないか、と。この話はいったいどこまで入れ子構造になっているのだろう。物語の要諦、それは自分の後頭部を想像の目で見ることだ。そんなことを思いながら、私は日曜の午後、日の当たるリビングでひとり静かに配水管のチェックを待つのであった。
2008.03.03
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