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新聞記事で知った。ギタリストの山下和仁さんが24日逝去された。16歳でパリ国際など世界三大ギターコンクールに次々優勝して注目を集め、その後、展覧会の絵などを自ら編曲したアルバムを発表し、世界的名声を確立した。(読売新聞記事から)1982年ころだったろうか、たぶん柳町通りの貸しレコード屋から借りてコピーした。そのカセットテープが残っている。当時、カセットテープはTDKが主流だったが、ソニーが音楽分野別の商品を販売しており、私はクラシック用のものを買って何曲か意気揚々ダビングしたが、その最初のテープがこれで、大事にしていた。ただし、プレーヤーは今から数年前に廃棄した。ウォークマンがあるが動くだろうか。ぜひ、また聴きたい。山下和仁さんは自分よりかなり年齢が上の方だと思っていた。ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
2026.01.31
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新聞を読んで驚いた。棋士の加藤一二三さんが逝去された報道は木曜日に接していたが、翌日(1月23日)の河北新報朝刊を読んでいたら、一二三さんの告別式はカトリック麹町聖イグナチオ教会で喪主は長男順一さん、次女の美紀さんは仙台白百合女子大学長、と記されている。加藤美紀学長にお会いしたことはないのだが、仙台藩のキリシタンの歴史に関する仙台白百合女子大学カトリック研究所の書物を勉強して当ジャーナルに記したことがあり、その際に、加藤学長の書かれた解説を読んだのだった。■関連する過去の記事(キリシタンの歴史に関して)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)■同上(仙台白百合女子大学に関して) 女子大学の共学化を考える(2025年07月10日)加藤一二三さんがクリスチャンということも知らなかったのだが、カトリックの深さや歴史の流れが、自分の中で、仙台のいま現在に、急に結びついたような衝撃を自分の中で覚えたのだった。おそらく、大学の学生たちにはよく知られていることなのだろう。2017年には一二三さんが同大学の客員教授もされたという(河北記事)。大学の公式サイトに、客員教授ご逝去のお知らせが出ている。また、ちょっと検索したら産経新聞の連載「令和人国記」で加藤美紀先生が出ておられて(2023年、記事署名は菊池昭光)、父との思い出も織り交ぜながらご自身の経歴を語っている。加藤美紀さんは、キャリアウーマンとして就職しながら修道会でも活動し、平成23年3月、震災の前に内示があり仙台に派遣された。学生たちが家が被災しても進んで石巻や南三陸でボランティアをすることに驚いた。聖書には人間は何度でも出直せる、とあり、父も負け数は歴代トップで誇れる記録だ、などと話しておられる。カトリックの歴史、そして東日本大震災。加藤さんの御家族のことではあるが、勝手に、仙台との縁を思い描いたのだった。安らかな眠りをお祈りいたします。
2026.01.24
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宮城野原に突如形成された仙台の城下町には、大量かつ安定的に食糧を供給するシステムが必要となった。とりわけ動物性タンパク質の最大の摂取源であった魚を運んだのが、2つの道であった。下記文献に詳しく説明があるが、非常に興味深い内容なので、整理して記す。(当ジャーナルで再構成〉■斎藤善之『仙台城下への肴の道』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書42)大崎八幡宮仙台・江戸学実行委員会、2014年1 江戸近郊の場合江戸では、木下(きおろし)街道がそれにあたる。九十九里や鹿島灘で漁獲された魚が、銚子から川舟で利根川を遡り木下河岸(印西市)で陸揚げ、ここから江戸川の行徳新河岸まで約30キロの駄送が木下街道となる。行徳新河岸からは再び船で江戸川を下り日本橋の魚市場に到る。その後、木下河岸のやや上流の布佐(ふさ)河岸を起点と市、松戸の江戸川納屋河岸までを結ぶ約30キロの第二の街道が出現し、松戸街道、通称「鮮魚(なま)街道」(なま道)と呼ばれた。競合する2つの肴の道は、正徳6年(1716)に布佐から松戸までの通し馬(宿場ごとに積み替えずに済む)が幕府から承認されると、鮮魚(生)街道が優勢となる。夕方に銚子を出た鮮魚は、夜明けに布佐河岸に着き、馬に積み替えられ昼前に松戸河岸に到着、船で江戸川を下し、翌朝には日本橋の魚市場に並べられた。これら2つの道は、鉄道が普及する明治30年代まで活用されたと言われる。2 仙台城下町への肴の道仙台の肴の道は、城下町の成立に伴い自然発生的に形成されたらしい。塩竈市宮町・丹野六右衛門家文書によると、遠島(牡鹿半島)で漁獲された生魚は、(文書が書かれた元禄3年)以前は、(1)花淵浜、吉田浜、代ヶ崎浜、東宮浜から大代、(2)蒲生、(3)塩竈のいずれかに自由に運び、そこから仙台に運んで売り捌かれていた。また、東宮浜、吉田浜、菖蒲田浜、花淵浜、松ケ浜、代ヶ崎浜の六ヶ浜の商判紙(あきないはんし)を受けた者(藩公認の商人)、大代と蒲生の茶船持ちの者ども(船持商人)は、以前から地元で漁がない場合は、宮戸島や遠島に出かけて沖買いで調達した魚を自分の浜に水揚げして手馬(自分の馬)に積んで仙台に運んだという。すなわち、流通経路は、(1)七ヶ浜、(2)蒲生、(3)塩竈、の3つに区分される。(1)は大代を経由し、さらに福田町で、(2)蒲生から来た道と合流。城下に向けて進むと、原町で(3)塩竈道と合流して、仙台城下の肴町に向かった。3 状況の変化 - 舟入堀の開削こうした状況に変化が生じたのは、東宮から大代を経て蒲生(七北田川河口)に至る約7キロの御舟入堀の開削である。寛文10年(1670)に着工し、延宝元年(1673)竣工とされる。これにより、それまで蒲沼(がまぬま)と呼ばれた湿地は急速に町場化し蒲生(がもう)と名付けられ、七北田川対岸の南蒲生から集団移住のほか、周辺集落の次三男以下や運河普請の出稼ぎたちも定住し、舟運の要となった。蒲生には藩の御蔵場が設置され、米蔵6棟、塩蔵4棟、御役所2棟、長屋(人足や船方)3棟。米10万俵、塩10万俵が収納できたといい、このことから、御舟入堀は、主として大崎平野の米穀、仙台湾と三陸沿岸産の塩を城下町に輸送するために開削されたと考えられている。蒲生御蔵の御舟入堀側には、「舟溜」(ふなだまり)が東西25間、南北15間の広さで造られ、ヒラタ船が停泊した。御蔵をはさんで反対側には別の船溜まりと七北田川に繋がる高瀬堀が造られ、舟曵堀を経て苦竹御蔵に向かう高瀬船が停泊した。4 貞享特令による塩竈の特権御舟入堀の開削で蒲生が発展した一方で、塩竈は荷物の入港がなくなり、深刻な衰退に見舞われた。このため、藩は塩竈に大幅な経済的優遇策を与える、いわゆる貞享特令を発することとなる。他に例を見ない大幅な経済優遇措置を塩竈町にだけ特別に認めたことから後にこう呼ばれるが、実際の表題は「塩竈村の者どもへ申し渡すべき事」で、塩竈では「お恵み九箇条」とも呼ばれる。その内容は、1.塩竈の物成(年貢)は町人の持ち高に応じて返付する、2.毎年250両を給付するので町人持高に応じて配分せよ、3.小荷駄日市(こにだひいち)の開催を7月10日から8月14日まで許可する、4.見世物芝居の興行を毎年3月と7月に許可(仙台城下は芝居は原則禁止だった)、5.商人荷物・五十集(いさば、海産物)・材木を積んだ船はすべて塩竈に入港して水揚げすること、6.塩竈町人が市川村と山王村に出作する分の物成(年貢)を免除する、7.塩竈町の諸役負担を免除する、8.塩竈町人は鷹巣入江を新田開発してよいこと、9.毎年(毎月か)6度の市の開催を許可、などであった。この第5条は注目すべきで、商人荷物、五十集、材木はすべて塩竈に着岸せよとするが、御舟入堀と蒲生御蔵の主たる輸送品である米雑穀や塩などは含まれず、その後も蒲生・舟曳堀ルートで城下に運ばれたのだろう。一方で、五十集は塩竈が独占することになり、五十集四分問屋(→6参照)が現れて、塩竈から仙台肴町へ至る藩公認の肴の道が出現した。商人荷物も塩竈の独占が守られ、江戸からの下り荷である呉服、太物、古着、綿花、薬、陶器、瀬戸内塩、灘酒などが塩竈にもたらされた。塩竈神社の表坂鳥居前に、仙台城下商人六仲間(藩から独占を認められた特権集団。古手(ママ)、繰綿、木綿、薬種、呉服、小間物)のうち、古着仲間が奉納した常夜灯がある。六仲間は、石巻の御穀船(石巻穀船)が江戸から戻る際に六種の商品を積み込み、塩竈港で水揚げして、仙台城下に運んだ。(→6参照)こうして、衰退の危機にあった塩竈は貞享特令で復活した。特令を発した四代藩主綱村の位牌を祀る東園寺の境内にある「東園寺の碑」は、安永5年(1776)建立されたが慶応3年(1867)塩竈大火で破損、現在の碑は昭和59年建てられた。特令の全文が彫られている。この特令は江戸時代において、塩竈を中心とする領内の五十集の流通システムを確立する、非常に大きな意味を持った(→5参照)。すなわち、大藩ならではの強力な流通統制により、領外との交流を制御し完結した藩の市場圏を作るために、肴の流通においては塩竈が大きな役割を与えられ、また、塩竈もその機能を担うことで繁栄を謳歌したのだった。5 仙台藩独自の流通システム - 丹野六右衛門家の文書丹野六右衛門家は塩竈市宮町、現在はお茶、茶器、和菓子の販売で知られるが、当時は鮮魚と塩干物を扱う五十集問屋であった。上記の仙台藩固有の五十集の流通の制約について記したマニュアルが、丹野家文書「五十集必要」である。以下のような内容。第1条。五十集を輸送する者が添付すべき願書と、出発後50日以内に帰着すべきことが定められた。願書は藩の許可を要し、また、帰着後に願書を点検して日数を超過していれば罰金が科された。当時は、船や牛馬で輸送したが、50日とは領内の往復はできても領外との往復は難しい日数だろう。さらに、仙台肴町で売却したことを証明する仕切状や領収書の保管も求められ、役人(御塩方元締)が時々村々の商人を巡回し抜き打ち検査した。第2条。五十集を相馬原釜方面に海上輸送して商売することを禁じる。領外の商人も、五十集を買い付けて相馬領へ持ち出してはならない。第3条。塩竈で水揚げした五十集は、仙台城下肴町に売ること。勝手に肴町以外に輸送販売してはならない。また、領内各地には肴町から転売すること。第4条。南部産や北方産の五十集でも、一度領内に入れたら原釜相馬方面に再移出してはならない。第5条。領内の五十集を他領に持ち出す時は、仲役(すあいやく、移出入税)を支払えば認めるが、相馬原釜方面はこれも認めない。陸上輸送はこの限りでない。このように、領内の五十集の流通を塩竈と城下肴町にすべて集中させようとしたのである。しかし領内の生産者漁民にとっては、塩竈に売り先が限定されることは不利な取引を余儀なくされた。とりわけ、南方方面は背後に関東の膨大な消費需要がある。隣領の相馬藩最大の港の原釜は、東回り航路を行き交う諸国の廻船を通じて全国市場と繋がっていた。仙台藩が、原釜への移出を厳禁したのは、それだけ領内漁民の要望があったからであった。6 繁栄した塩竈の五十集問屋五十集四分(いさばしぶ)問屋は領内の水揚げを独占し繁栄した。四分とは、売り上げ100文につき4文を藩に納める四分役からきたとされる。領内では当初、塩を扱う御塩問屋と五十集を扱う五十集四分問屋、そして両者の兼営があったが、数が増えたため、享保8年(1723)、藩は五十集四分問屋のみの者に廃業を命じ、御塩問屋と兼営に存続を許可した。これにより御塩問屋を兼帯する5軒が継続した。その後天明3年(1783)には4軒、天保13年(1842)は、6軒。横田善三郎、小松善吉、鈴木平八、塗(ぬり)要右衛門、丹野六右衛門、鈴木甚右衛門。なお、近代以降の各問屋の経緯は以下。・塗芳之助家。古くから五十集問屋で分家も多く、塩竈における勢力は多大。もと鈴木姓だが、藩から塗屋の屋号を拝領。船溜まりの前に家があったが慶応の大火で焼けて衰え、やがて断絶した。東園寺に墓。・横田善三郎家。近代になって魚問屋とともに遠洋漁業にも進出。さらに塩竈倉庫などを経営して、実業家として今に至る。・鈴木慶蔵家。塗屋と親戚関係。かつて福釜酒造店の場所に家があったというが、その後断絶。・鈴木平八家。近代になり材木業を営み今日に至る。・小松善吉家。古くから五十集問屋。かつて三陸方面から船が同家に数多く入港したというが、その後断絶。・丹野六右衛門家。近世の五十集問屋から、近代になり廻船、肥物(こえもの、魚肥)取引に拡大。戦後は和菓子製造、茶舗となり丹六園の名で今日に至る。維新で五十集四分問屋の制度もなくなるが、直前の明治2年11月、6軒の連名で魚せり場の設置を県に願い出ており(丹野家文書)、塩竈の水揚げ拠点機能は、近代の塩竈魚市場に繋がっていった。7 七ヶ浜道の復権貞享特令の5年後、元禄3年(1690)に、遠島(牡鹿半島)と七ヶ浜の者たちが訴えを起こした。塩竈港への五十集の一極集中が、水揚げと仙台への売り込みで生計を立てた七ヶ浜を困窮させ、また、遠島の生産者も、それまで自由に水揚げする浜を選んでいたのに、日和や潮時により塩竈に入港できない時は生魚の売り時を逃してしまうと不満を募らせたのである。この訴えに対し、次のような裁定となった。・3月から8月まで、かつ生魚に限り、仙台直送分は七ヶ浜に自由に水揚げしてよい・干魚や塩魚は従来通り塩竈に限定・七ヶ浜及び塩竈の者が自分の船で漁をして自分の浜に持ち帰った分は水揚げを認めるこうして、限定的ながら七ヶ浜への水揚げが認められ、第2の肴の道である七ヶ浜道が出現した。8 その後の二つの道の競合資料によると(丹野家文書)、享保4年(1719)2月付で蒲生御番所役人が原町検段に対して異議を申し立てている。蒲生の役人が保証して蒲生商人が仙台向けの肴荷物を送りだしたのに、途中の原町検段が止め置いたことから、速やかに調査を求めたものである。差し止めた理由は、貞享特令により生肴の仙台直送が解禁される3月1日の前であること、また、荷が塩赤魚であったが、塩魚であれば塩竈以外の水揚げは許されず、蒲生から直送はできないのである。塩竈町検段から、御定(貞享特令)に抵触すると申し立てて、原町検段を支持している。赤魚は上巳の節句(3月3日)で城下町の武家や町家の食膳に需要があったと考えられるが、生肴移送が解禁される3月1日に現地を出発したのでは間に合わず、また、生魚ではこの時期の移送に不適で塩漬けにする必要があったのだろう。背景に、仙台城下の肴需要の拡大とこれに対応しようとした蒲生商人の動きがあったと理解される。冷蔵設備がない当時、気温の下がる夜間に夜通し輸送し早朝の朝市でセリにかけるのが一般だった。肴を積んだ馬は夜半に塩竈を出発し、松原街道から夜明けごろに原町を通過したが、原町は宿場であり丁切り(丁切根、木戸)が設置され関所の機能があったので、怖がられたとか、若い衆の血の気が多かったなどとされる。塩竈の馬方が仙台の帰りに原町はずれの茶屋で一杯飲んだとも伝えられる。寛政3年(1791)には、肴町の魚問屋14人が藩に訴えを起こした(丹野家文書)。当時、塩竈から荷を付けた馬がくると原町で現地の馬に積み替えて肴町まで送る慣行で、宿継ぎ(しゅくつぎ)や継替え(つぎかえ)といわれた。原町から肴町までは原町の馬の独占となり、その駄賃代が高すぎるというのが肴町問屋の言い分であり、そのために城下の肴の値が高騰し、五十集生産地の島浜(牡鹿半島沿岸、松島湾岸)の荷主が出荷を見合わせているというのだ。寛政5年(1793)には、塩竈の五十集問屋から訴えが出された(丹野家文書)。七ヶ浜の肴は原町で馬の積み替えをしないのに、塩竈からの肴は継立てが義務付けられるため、荷の痛みや遅れ、駄賃の高騰を招き、そのため七ヶ浜道に商品が流れて塩竈が衰退してしまうというのである。荷主の島浜商人たちは、塩竈に生ものだけでも年間通じて継ぎ立てなしで直送したいと要望していたが、せめて七ヶ浜ルートと競合する夏場期間だけでも、生ものに限り塩竈から原町の継ぎ立てなしで直送させてほしい、というのである。この訴状の日付は需要がピークとなる歳末期であり、原町継替えに不満の生産者が出荷ボイコットの動きがみられ、城下の問屋たちも危機感を募らせていた。中継点の塩竈と終点の肴町の双方から、塩竈道の劣勢をもたらす原町継ぎ立てを問題としたことが注目される。なお、木下街道が松戸街道に劣勢になったのも、途中宿場の継ぎ立ての有無から生じている(→1を参照)。こうした論争が寛政年間に表れたのは、直前の天明年間の大飢饉により、全国規模で流通経済システムの動揺と、その再編が促された背景がある。9 二つの肴の道をたどるこれらの肴の道の経路は、次のように推定される。(1)塩竈道塩竈港の大河岸から出発する。大河岸は宝永年間(1704-)の埋立で成立したとされるが、この時の石積み護岸は明治初年の埋立により今はない。船から降ろされた魚を、五十集四分問屋で馬(駄ん子馬)に付け替えて、その先は、二筋に分かれる。ひとつは、塩竈神社を右手に見て西町を抜け、赤坂橋に至る。ここから江戸時代に開かれた赤坂を上る。馬方を化かす赤坂狐の伝説が残る。また、坂の途中に茶屋、馬頭観音、菓子舗(丹野家の先祖)があったという。赤坂を越えると母子沢に至る。この辺りは湯壺(ゆつぼ)といい、湯壺のお夏と呼ばれる古狐が住んでいたという(馬子はお夏狐を怖れ、魚を一匹道端に投げて通った)。福徳稲荷が別名お夏稲荷といわれた。尾根筋をたどって惣社の宮、多賀城跡、市川橋に抜ける。他方の道は、大河岸から南進し、南町を抜けると町の入り口の枝垂れ柳があった。市立病院の南側及び千葉歯科医院、無量井内科クリニック(いずれも東玉川町、本線塩釜駅前)の南側を抜ける斜めの小道とみられる。本線をくぐると、間もなく野田の玉川の碑、浮島の谷筋を通り、壺の碑(多賀城碑)を左手に見て、市川橋に至る。二筋の道が合流する市川追分に道しるべの碑がある。※おだずま追加コメント:道標の画像を記事にしております 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日)これら高低二筋の道は、古代多賀城と塩竈を結ぶ古道を継承している。市川で合流した後は、開けた水田の中を西に進む。南宮、山王の集落を経て、中世の拠点集落岩切に至る。ここで七北田川を渡って今市の集落を抜けると山崎に至る。ここで道は二筋に分かれるが、旧道は西側(山側)で、鶴ヶ谷、比丘尼坂、燕沢、案内を経て原町に至る。(2)七ヶ浜道半島の浜々を一周する道は、付け根にあたる大代で合流して、貞山堀(御舟入堀)を渡る。大代から福田町の間は小道が錯綜して復元が難しいが、子細に見ていくとそれらしい道筋は、大代郵便局の前の町並みを抜けて、県道23号(仙台塩釜線)を越えて、砂押川の北側を西進したとみられる(現在の多賀城駐屯地敷地で道が消えた)。その先は鶴ケ谷の笠神新橋あたりで砂押川を渡り、八幡の町並みに入る。まもなく末の松山、沖の石。その後、国道45号と合流し、仙台港北IC出口付近までは国道45号と同じとみられる。中野から出花の辺りで、国道45号をはずれ、南側を湾曲する道に入る。道は45号に戻って交差して仙石線を越え水田の中を西に向かい、誓渡寺に至る。再び水田の中を西に向かうと深山神社。車道を越えて福室集落を越えると七北田川堤防沿いの道となり、国道45号をくぐると、福田町の対岸集落の東作(ひがしさく)に至る。かつて馬方の呑み屋街があったという。七北田川をわたり福田町を抜け、ここからは国道45号の道筋で苦竹に至る。現在の陸上自衛隊仙台駐屯地はかつての苦竹御蔵場の跡地を含んでいる。その北側を抜けて坂下交差点からは、道は(国道45号から)北に分かれ、原町のはずれ追分で、塩竈道と合流する。原町は、苦竹村に属したが、城下に接する宿場町であり、丁切(丁切根、木戸)が設置され関所の機能を有していた。足軽町である二十人町、鉄砲町を経て、名懸丁、新伝馬町を抜けて、肴町に到る。10 肴町肴町は大町通の北側にあったが、今では通りの名称(肴町通り)と肴町公園にわずかに窺えるだけである。城下の中心部に近い大町通に並行する北側の通りにあった。西端は本柳町(もとやなぎまち、現在の西公園)、東端は奥州街道(国分町通り)で、西から肴町一から四丁目となっていた。城下の町人町「二四ヵ町」中では大町に次ぐ第二位の町列とされ、上位六位を独占する御譜代町(米沢、岩出山と町ぐるみ移転した六つの町)のひとつでもあった。近代になり仙台藩の五十集の流通統制がなくなると、肴町に魚は入ってこなくなる。大正元年の仙台市全図には、肴町四丁目に魚市場の記載があるが、魚問屋たちが営んだ民間市場として、江戸時代から続く塩竈と肴町の道の最後の姿であろう。昭和20年の仙台空襲で肴町は灰燼に帰し、戦後は、東七番丁、次いで卸町に中央卸売市場が造られる。■関連する過去の記事(仙台藩の藩政、流通、舟入堀など)は下記をご覧ください。 (記事リスト)戦国・藩政期の仙台・宮城
2026.01.06
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