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秋田美人は、京美人、博多美人とならぶ日本三大美人。まる顔で鼻は高くなく、口が小さく、色白、皮下脂肪がやや多く、胴長で手足が太いコケシ型が典型とされる。秋田県は日照時間が全国最下位で、雪の降る日が全国第3位。紫外線がカットされるという現代的解釈も。古代畿内人との血の交流によるとの説もある。以上は、石原文蔵と東北をこよなく愛する会編『「東北」知ってる?』(新講社、2011年)による。なお、三大不美人(仙台、水戸、尾張)の説明では、佐竹氏が常陸国から美女を多数連れていったという、よく聞く根拠が示される。■関連する過去の記事 秋田美人を考える(2010年12月23日) 小野小町(2011年7月23日)
2016.01.31
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今回も、浅井建爾『難読・誤読駅名の事典』(東京堂出版、2013年)に書いてあることをもとに書くのだが、野蒜駅はかつて東北須磨駅と呼ばれた時期があった。昭和6年から19年まで。宮城電鉄の国有化とともに、昭和3年の開設時の名称である野蒜駅に名を戻した。東北須磨の名は、海水浴場として洲崎浜の観光開発を計画した宮城電鉄が、神戸の須磨にならって駅名を改称したのだという。
2016.01.29
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例えば、福島県の原町(南相馬市)は「ハラマチ」だが、駅は原ノ町。東京の尾久駅は「オク」だが、地名は「オグ」。こんなケースがある。読みは同じだが、都市名は一関、駅名は一ノ関と表記が異なる場合もある。浅井建爾『難読・誤読駅名の事典』(東京堂出版、2013年)から、東北地域で、駅名と地域名が微妙にずれている事例を拾ってみた。安子ヶ島駅(磐越西線) 地名は安子島置賜(オイタマ)駅(奥羽本線) 地域名、盆地名は置賜(オキタマ)金田一(キンタイチ)温泉駅(いわて銀河鉄道) 地域名(旧村)はキンダイチ小川原(コガワラ)駅(青い森鉄道) 地域名(湖)はオガワラ
2016.01.28
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小牛田(美里町)の地名は、鉄道の要衝である小牛田駅の名で宮城県民にはなじみだが、県外の人には「こごた」とは読みにくいのかも知れない。浅井建爾『難読・誤読駅名の事典』(東京堂出版、2013年)に書いてあったが、駅名としては1890年(明治23)に日本鉄道の駅として開設、1906年に国有化。駅名は、○ 小田郷と牛甘(うしかい)郷が統合された際の合成地名○ 小田郷から分村した小小田が小牛田に転訛などの説があるという。いずれにしても、明治や昭和の合併に際する合成地名などではなく、古くから成立した地名のようだ。そもそも、「牛」をゴと読むのは、「牛頭」などの例はあるが、あまり自然に出るものではないように思う。午前午後の「午」ならわかるが、ウシ(牛)なのだ。牛飼の地名や、今でも町内に大きな家畜市場があることなどからも、牛とのつながりは深い地域だったのだろう。上記文献にあるように、牛甘の地名から来たのか、あるいは発音が先にあって(コゴダ)、ゴの音に対して地域で大事にしている「牛」の字をあてたのかも知れない。■関連する過去の記事 ゆとり~と小牛田(2015年4月15日) 東北の難読地名(2012年6月16日) 小牛田駅前20時(2008年5月10日)
2016.01.27
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明治41年7月、寺田祐之知事が岡山県知事より赴任した。楽天的な人物で、松島の消極的策を捨てて大公園化を策し、翌42年9月に松島公園経営案を議会に示した。それまで古来有名な松島だったが、昔ながらの小舟による船覧が続けられていた。文人墨客の情遊には適していたが、鉄道駅からは遠く、大衆を誘致するには不適で、観光客は少なかった。寺田知事の経営案は、もっと交通の便を図り、森林を美化し、案内広告も積極的に行う計画で、明治44年度から着手された。まず海岸通から整えられ、松島湾を一大公園となすため、25万4千円余の県費を投じ、大正4年まで6か年にわたり事業を推進したため、維新以来荒廃した松島は、おおいに面目をあらため、人々の回遊に今日されるに至った。海岸を整備し、松を植え、観瀾亭の西側に洋風のパークホテルもでき、松島の近代的景観のかなめとなった。火輪船が塩竈を基地として桂島(海水浴場)をへて松島海岸にいたる観光遊覧をはかり繁栄をきわめるに至り、とくに清潔な景勝地として好評を受けた。■鈴木寛蔵編『塩竈の伝承と史話』(1995年)から■関連する過去の記事 多聞山から偉観松島を眺める(10年10月11日) 双観山から見た松島(10年9月27日) 扇谷山から幽観の松島を望む(10年9月19日) 扶桑第一の好風 松島を考える(10年2月21日) 松島三ツ星冬ランチ(07年12月24日) 松島円通院のライトアップ(07年11月15日) 松島湾の朝日(07年11月13日) アインシュタインと仙台(その7)(07年5月27日)(松島の名月) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日) アインシュタインと仙台(その5)(2006年1月15日)(アインシュタインの行程、松島パークホテルなど)
2016.01.23
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以前、「起きれ」「食べれ」のように、上一段や下一段活用の動詞を、本来の命令形(起きろ、食べろ)ではなくて、五段活用の命令形で話すのは、東北日本海側と九州であるということ(新聞に書いていたこと)を記した。現代の合理的な言語の進化というべきなのか、それとも(東北と九州というから)方言周圏論的な地域分布で説明されるのか、などと関心を抱いていた。大野晋『日本語について』(岩波書店、1994年。この中の「文法ぎらい」という部分で、初出は1977年)に次のようなことが書いている。------------サ行変格活用の「する」は、「し、し、する、する、すれ、しろ」と活用するのが文法の教え。だが、千葉県、神奈川県、埼玉県の中では、「勉強しる」という言い方がある。また、北海道では「勉強しれ」という。また、「来る」について、千葉、埼玉、神奈川では、「あいつは、まだ、きない(来ない)」という人がある。現在の「こ、き、くる、くる、これ、こい」は、将来おそらく「き、き、きる、きる...」となると予測されることがある。このことを以下に解説する。「する」についていえば、昔は「せ、し、す、する、すれ、せよ」と活用した。それが、「し、し、する、する、すれ、しろ」と進化した。ところが、「朝、起きる」という動詞は、昔は「起き、起き、起く、起くる、起くれ、起きよ」(上一段活用)だったのが、「き、き、くる、くる、くれ、きよ」となり、さらに今日では「き、き、きる、きる、きれ、きろ」となった。この変化とおなじ道にきっと引き込まれて、現在のサ行変格活用は、将来、「し、し、しる、しる、しれ、しろ」と変わるだろうと推測できる。千葉や神奈川の「そうしる方が良い」という形は、この前衛的な新形だと言える。この方式にならうと、「来る」も、「き、き、きる、きる、きれ、こい」と進展することが十分予想できる。千葉や埼玉の「あいつは、まだ、きない(来ない)」は将来の先取りと見られる。あと200年くらい経つと、日本語のサ行変格活用はなくなって、「する」は「しない、した、しる、しる、しれば、しろ」と活用することになると予言される。すると「来る」(こ、き、くる、くる、くれ、こい)は、全く孤立するので、記憶の経済上何か似た形に引き寄せた方が楽だから、現に千葉、埼玉、神奈川に現れているように、「き、き、くる、くる、くれ、こい」に移り、さらに「き、き、きる、きる、きれ、きい」みたいになるだろう。「くる」が「きる」になるのは、「する」が「しる」になるよりも遅れてさらに100年か200年後になろうが、日本語の昔の流れを見れば将来そういくだろう。------------最初に紹介された北海道の「勉強しれ」(たぶん命令形としてだろう)の説明はないようだし、上一段や下一段活用の動詞の命令形としての「起きれ」「食べれ」に直接関連する内容ではないのだが、大変参考になる説明だとおもう。■関連する過去の記事 食べれ!降りれ?(2007年6月20日) 起きれ食べれ降りれ用法は東北日本海側方言か(2013年1月26日)
2016.01.22
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東一番丁が(昼の)銀座なら、稲荷小路は夜の銀座。戦後の区画整理で生まれた新しい道路で、10年前(おだずま注:1964年の10年前)に誕生したばかりの町。名称として、都通、芭蕉通、西銀座などが候補となったが、国分町にあった稲荷神社が移されたことから、この名称になった。■河北新報出版センター編『せんだい百景 いま昔 写真がつなぐ半世紀』(河北新報出版センター、2014年)からこの写真集は、河北新報が1964年に連載した「新仙台漫歩」を中心に、60年代の記事や写真を紹介して、半世紀後の現在を解説している。稲荷小路については、1964年1月6日の記事だ。同書には、半世紀を経た現在では、仙台一の繁華街は隣の国分町に取って代わられた、とある。半世紀前は、稲荷小路が堂々「夜の銀座」だったようだ。
2016.01.20
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今回も仙台弁のはなしを。(三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」によります。)仙台弁の代表ともいえる、「べっちゃ」について。仙台ベッチャとして悪名高い。「べ」と「ちゃ」は関東から別々に仙台に入り、仙台で一緒になった。「べ」は「べし」で、推定、予想、可能、当然、意志、命令。京都で使われ源氏物語にも出ているが、関東に入って「関東べいべい」と京都人から軽蔑された。そのころ、京では「べい」のかわりに、推量や意志を表す「う」「よう」という助動詞が出来ていて、「行くべ」の代わりに「行こう」と言っていた。これが、京から北陸をとって北奥に早く入って、「べ」と交替した。庄内、秋田、青森、盛岡などで「べ」をあまり聞かないのはそのため。関東では、今でも「ベー」「ベー」と言って、芝居で田舎言葉の代表とされている。関東やその奥の仙台では残ったのだ。「ちゃ」は、関東の「であ」が詰まって「だ、じゃ」となったのが、仙台で促音化したもの。関東で「行くだ」「行くじゃ」「行くよ」というところを、仙台は「行くっちゃ」となる。関東の在では、「だ」と「べ」が合わさって「そうだんべい」と言うが、仙台では、「べ」と「ちゃ」が合わさって「べっちゃ」になった。■関連する過去の記事 仙台弁「たれか」と「かばねやみ」(2016年1月18日) 仙台弁「うざにはく」の語源(2016年1月17日) 「おしっこがつまる」は仙台弁か(09年11月13日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日) 「んざねはぐ」の語源を考える(07年9月5日)
2016.01.19
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しばらく前のことだが、妻の母が、自分からは動かず我が家を訪問した母親に湯茶の世話をさせようとした妻をさして、まったくタレカモノだと言っていた。これは仙台弁で、横着者の意味。三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」によると、次のように説明されている。仙台人同士よく使うが他県人にはわからない。例えば、一緒に車を押しているとき、そのふりはするが力を入れない横着者。誰だか解らないように手を抜く。見つかれば互いににやりと笑い、このたれかものと言って片づく。軍隊用語のタレカから来ている新しいことば。身を隠して偵察にくる斥候を歩哨が見つけてタレカと誰何するタレカである。ダレガと濁らないところを見ても軍隊用語そのままである。こういう説明だ。なお、「かばねやみ」(骨惜しみ)の項では、かばねは骨のことから体を意味し、「やみ」は病みではなく休みであろう、とある。すると、「たれか」は単なる「かばねやみ」と違って、一見仕事をしたフリをする巧みさと、笑って許す軽さを伴っているもののようだ。(冒頭に記した妻の場合は、「かばねやみ」が相応しいのかも知れない。)たれか(者)の語は、他でも聞いたことはある。仙台出身の先輩が自分の親世代の言い方だとして語っていたような記憶がある。それにしても、上記のような由来とニュアンスがあるとは、興味深い。■関連する過去の記事 仙台弁「うざにはく」の語源(2016年1月17日) 「おしっこがつまる」は仙台弁か(09年11月13日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日) 「んざねはぐ」の語源を考える(07年9月5日)
2016.01.18
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以前の記事で(「んざねはぐ」の語源を考える(2007年9月5日))で、浜荻の「うざね」とあった意味がわからないと書いたが、『浜荻』は仙台藩制時代の方言書のことだ。諸藩の交流の便宜として、各地で「(仙台)浜荻」の名で、方言を解説する書がつくられたもののようだ。浜荻の元の意味は浜辺の葦で、さしずめ「言海」や「大辞林」のようだ。さて、浜荻が方言書だというのは、三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」に書いてあった。なお、この選集は、天江富弥氏が選定委員長で、言語学者の藤原勉氏が中心となって検討されたとある。語源として解説がある。うざねという田下駄があり、履きにくいことから、とされるが、田下駄をうざねというところはない。「身実(みざね)」で精魂出し尽くすの説もある。喉仏(骨)を吐き出すくらい苦しいとの説も。『浜荻』に喉仏を「うざね」とあるが、その「うざねはく」の項の解釈にはこの「うざね」を用いていないところを見ると怪しい。憂さ音はく、とするものも怪しい。秋田、青森では「うんざりはいた」「うんざり見た」という。仙台のうざね(に)も、うんざりと関係があるのではないか。というのだ。ところで、同書の「うざにはく」の前の語は「いんぴん」(発音はエンピン。ひねくれの意)だ。私も仙台に来てから知っているが、そのような人物をさして、インピンタカリというのだと思っていた。これは私の勘違いで、正しくは同書のとおりインピンカタリ(語り)だ。なお、「きずいたかり」(発音キズエタガリ)の項があり、強気の無愛想な女のことだという。「きずい」(気まま、気随)に、「たかり」が付いた。「たかり」は、人だかり、しらみたかり、などの「たかり」だが、仙台では憑依の意味に使い、「神経たかり」、「けんのんたかり」(潔癖家)、「気違いたかり」、「中風たかり」などという。「いんぴんかたり」の「語り」と、取り憑く意味の「たかり」を、混同してしまったというわけだ。
2016.01.17
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今朝の朝日新聞(県内版)で、平成27国勢調査の結果(速報値)をもとに男女別の視点で人口増減を分析していた。宮城県全体では前回平成22年に対して1万4千人の減少なのだが、実は男性だけをみると増加(+561人)している。市町村別では沿岸部で男性が多くなっており、復興事業に携わる人を反映しているという。男女比という単純な数字ながら、地域のさまざまな違いを反映していることが考えられ、奥深いものがあるように思われる。実は、当ジャーナル編集長は、かつて男女比の地域差を調べようと思って、平成22国勢調査データをもとに全国市区町村の比率を出したことがある。総務省サイトにあるので簡単に表計算で作業できる。(ありがたい時代になりました。)人口に占める女性の比率を計算すると、全国では0.5133になる。なお、市部では.5130で、郡部は0.5161である。県単位では、青森0.5295 岩手0.5226 宮城0.5147 秋田0.5304 山形0.5204 福島0.5147となる。すべて全国値より高い(女性が多い)が、中でも秋田、青森が高い。ちなみに、東京都0.5051 茨城0.5017 栃木0.5035 千葉0.5016など首都圏はずいぶん低い。愛知県は0.4965で、神奈川県は0.4978、埼玉県0.4984で、男性の絶対数が多い。市区町村別でこの値をみていくと、値の高い(0.54以上)ところ(女性比が大)は、東北では、弘前市、五所川原市、外ヶ浜町、大鰐町、板柳町、三種町である。青森に集中している。逆に値の小さい(0.51以下。なお0.5未満は数値を示す。)は、東北では、三沢市、西目屋村(0.4831)、六ヶ所村(0.4425)、大間町、東通村、風間浦村、佐井村、階上町、北上市、金ケ崎町、仙台市宮城野区、同若林区、多賀城市(0.4989)、七ヶ宿町、村田町、柴田町、七ヶ浜町、大和町、大衡村、大潟村、米沢市、東根市、朝日町、郡山市、白河市、大玉村、鏡石町、檜枝岐村、北塩原村、西郷村(0.4963)、中島村、矢吹町、棚倉町、鮫川村、玉川村、平田村、浅川町、広野町、富岡町(0.4853)、川内村(0.4986)、大熊町、葛尾村(0.4722)、飯舘村。直観的にだが、言えそうなこととして、自衛隊のあるところや自動車関連の工場集積がある地域は男性が多いようだ。その要因以外では、過疎地域には女性が多いところと、逆に男性が多い町が、混在するようにも見える。一般的平均的には女性が多いはずなのだが、働き手の男性が都市部に出てしまったという側面と、女性が若い時代に都市部に出て戻らない側面とがあって、各地域の交通や雇用などの状況を反映して、どちらの面が強くでるかということなのだろうか。ちょっといい加減な仮説。年齢階層別の男女比、さらには経済や雇用の指標との関連性を分析すれば、非常に面白いだろう。あとで時間があれば、深めたい。
2016.01.14
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今回も鈴木氏の著作を参考にさせていただき、宮城県の市町村別(平成の合併前)の特色をみてみたい。■鈴木常夫『みやぎの苗字 あなたはどこから来たか』本の森、1998年まず、宮城県全体での多姓を確認して、市町村ごとに見た場合に、全県の順位と異なる特に特徴的な姓を拾うことにしたい。(仙台市は前回やったので、それ以外です。何度かに分けて記します。)〔宮城県の多い姓〕1佐藤 42,940世帯 2高橋 25,390 3鈴木 18,660 4阿部 16,850 5佐々木 14,1906千葉 12,610 7伊藤 11,550 8斎藤 11,220 9菅原 9,600 10渡辺 9,36011遠藤 12三浦 13加藤 14小野寺 15菊地 16相沢 17木村 18今野 19及川 20熊谷21吉田 22後藤 23小野 24早坂 25村上 26菅野 27山田 28大友 29石川 30庄子 以下は、全国的な順位に比べて高いと思われる姓を記す。31桜井 34星 40鎌田 42畠山 48大場 51大沼 53大槻 54赤間 56内海 57我妻60山内 62芳賀 64千田 65平塚 72狩野 79門間 83遊佐 86岩渕 89相原 95沼田〔石巻市〕阿部(1位、3700世帯)がダントツで、2位佐藤(1,980世帯)を突き放す。高橋、佐々木、鈴木、木村、千葉と続く。菅原は少なく(18位)、6位の木村のほか、平塚(12位)、亀山(17位)、津田(19位)、須田(25位)などが上位に出てくる。(なお、市町村は平成の合併前。他も同じです。)〔岩沼市〕加藤が5位のほか、太田(8位)、大槻(9位)、小野(10位)、森(12位)などが上位に出てくる。竹駒神社は平安時代に陸奥国国守だった小野篁が山城国から迎え祀ったとされ、今でも小野姓が多い。〔角田市〕佐藤に次いで、2位斎藤、3位渡辺が続く。加藤、太田、大槻、目黒、日下、横山、馬場、水戸、清水、八巻、宍戸、笠松、佐久間、牛沢、毛利、戸村、一条など、他ではあまり見られない姓が多い。目黒氏の由来は、千葉常胤の三男胤盛(のち武石氏)が伊具・亘理・宇多三郡の地頭となったが、その家臣として武州荏原郡目黒村出身の者。〔気仙沼市〕県内他地域とはだいぶ様相が異なる。1位の小野寺(1940世帯)のあと、熊谷(1170世帯)、佐藤(1100世帯)、村上(1000世帯)、菅原までがベスト5で、以下は、千葉、斎藤、吉田、畠山、小山、小松などと続く。種類も多く、菊田、内海、西城(条)、昆野、白幡、梶原、金野、日野、軍司なども代表的な姓。〔塩竈市〕佐藤(1320世帯)、鈴木(1000世帯)、高橋(600世帯)のあと、阿部、佐々木と続く。地域の特徴は小野、桜井など。〔白石市〕佐藤(1550世帯)がトップ、高橋(770)、斎藤(390)、鈴木と続く。5位遠藤、6位日下、7位佐久間、8位半沢、9位村上、10位大野などが登場する。小室(13位)、我妻(18位)、八島(23位)、大浦(24位)、安藤(27位)、高子(30位)なども特徴的。■関連する過去の記事 仙台の苗字の特徴(2016年1月11日) スーパーレアな名前(2015年9月24日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(2006年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(2006年9月12日) 姓と苗字の違い(2006年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(2006年8月1日) 苗字と名字の違い(2006年5月22日) やっぱり多い鈴木さん(2006年5月9日)
2016.01.12
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苗字について詳しく解説しておられる鈴木常夫氏の著作に、市町村別の統計データがある。身の回りの人の苗字と出身地などから、なるほどとうなずける場合もあるし、あの苗字はこういう由緒なのかと意外だったりする。仙台市の特徴を拾ってみたい。■鈴木常夫『みやぎの苗字 あなたはどこから来たか』本の森、1998年〔宮城県の多い姓〕1 佐藤 42,940世帯2 高橋 25,3903 鈴木 18,6604 阿部 16,8505 佐々木 14,1906 千葉 12,6107 伊藤 11,5508 斎藤 11,2209 菅原 9,60010 渡辺 9,36011遠藤 12三浦 13加藤 14小野寺 15菊地 16相沢 17木村 18今野 19及川 20熊谷21吉田 22後藤 23小野 24早坂 25村上 26菅野 27山田 28大友 29石川 30庄子 以下は、全国的な順位に比べて高いと思われる姓を記す。31桜井 34星 40鎌田 42畠山 48大場 51大沼 53大槻 54赤間 56内海 57我妻60山内 62芳賀 64千田 65平塚 72狩野 79門間 83遊佐 86岩渕 89相原 95沼田〔仙台市について〕佐藤(14,700世帯)がトップ、高橋(8,140)、鈴木(6,400)、佐々木(5,000)、阿部(4,250)、伊藤(4,100)などと続く。阿部(5位)、千葉(10位)などの順位が県全体より下がる。阿部は牡鹿郡、石巻市、千葉は栗原や登米に多い。頼朝の奥州攻めの後にこの地方に来た鎌倉武士は、伊沢氏(後の留守氏。岩切)、宮城氏(苦竹)、国分氏(郷六)、島津氏(長町、茂ヶ崎)、結城氏(島津のあと)、河村氏(のち茂庭氏。茂庭)、三浦氏(藤塚)、曽我氏(三浦氏のあと)、大河戸氏(のち高柳氏、朴沢氏。泉)など。留守氏と国分氏が勢力を持ち、南北朝期には国分氏が優勢となるが、伊達氏の勢力伸長、秀吉の奥州仕置きを経て、伊達氏が支配する。中世からの留守氏の家臣団には、佐藤、家部、宮城、村岡、芳賀、南宮、笠上、小畑、砂子、鈴木、高橋(多賀城)、花淵、余目、下飯坂、八幡(多賀城)、斎藤、内田、辺見、相原、太宰、志賀、堀籠、今野、蓬田、など。国分氏家臣は、朴沢、古内、白石(根白石)、福岡、萱場、横沢、松森、八乙女、郷六、六丁目、作並、大倉、馬場など。江戸後期の肝入りなどの役人では、嶺岸(市名坂、七北田)、佐藤(田子)、小松、石垣、庄司(以上、愛子)、結城、早坂、鈴木、新国(以上、大沢)、鷲尾(根白石)など。仙台市の特徴として、宮城県全体の多姓(100位まで)に入っていない姓を拾い上げてみると、若生(仙台市で62位。490世帯)奥山(65位。470世帯)林 (79位。420世帯)石垣(82位。400世帯)金子(89位。380世帯)荒井(90位。680世帯)というあたりだろうか。■関連する過去の記事 スーパーレアな名前(2015年9月24日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(2006年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(2006年9月12日) 姓と苗字の違い(2006年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(2006年8月1日) 苗字と名字の違い(2006年5月22日) やっぱり多い鈴木さん(2006年5月9日)
2016.01.11
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JRの小さな旅パンフをめくってみたら、こんなネーミングのプラン。1月11日(月、祝)に行われ、雪国の昔ながらの生活行事や遊びの体験ができるという。旅のプランは、大井沢で「ゆきんこ祭り」を楽しみ、民宿で蕎麦打ち体験で打った蕎麦を昼食にして、大井沢湯ったり館で入浴。これらの移動は、寒河江駅10時発でバスが出るというもの。「ゆきんこ祭り」は、西川町自然と匠の伝承館で行われるようだ。ネーミングにあるように、西川町は山あいの里だから冬は相当寒いのだろう、と思ってアメダスを見ると夜の9時なのにマイナス0.9度。意外と高いじゃないか。仙台と変わらない。統計によると、大井沢の1月の平均気温は-2.5度。山形県内の観測地点では最低クラスなのだろう。なお、山形は-0.4度、仙台は1.6度だ。■関連する過去の記事 大井沢の大栗(10年4月13日)
2016.01.07
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広瀬通に面したあるレンタカー会社の支店の前を通ることがある。去年のある時、ふと、店内のカウンターに、「無事故なん日」というカウンター的な掲示があって、ゼロが三桁並んでいたのが、歩道から見えた。おそらく店員さんが毎日カウンターをめくるのを忘れているのだ、ぐらいに思い、その後、何度か店の前を通ったが、おそらく3度か4度か、いつも「000」なので、なおさらそう決めつけていた。なぜなら、毎日事故が起こっているはずはないだろうから。ところが、だ。ある日、カウンターが、何と初めて「001」だった。えっ。今までのは、めくり忘れではなくて、本当にゼロだったか。急に背中が寒くなった。また、別の日、今度は「003」になっており、また別の日は「000」に戻った。やはり、毎日正確に数えていたのか。それにしても、そんなにも連日や隔日のように事故があるものだろうか。そもそも、目につきやすいところに無事故日数を掲示するということは、会社の何らかの方針や戦略があるのだろうが、連日ゼロを「誇示」するようでは逆効果ではないかとも思われる。子どものころ、小学校の学区全体で無事故運動を推進していた。無事故が何百日にまで続いて、達成記念の文字入りの鉛筆をもらった記憶がある。交通事故で亡くなった小学生もいたから、地域を挙げて事故をなくそうという取組だったのだろう。このレンタカー会社でも、一定の日数達成で料金割引とか、何かキャンペーンでも計画しているのかも知れない。道路交通事業を担う企業として、また、安全なクルマを提供するべきプロ集団として、自他ともに交通安全を推進しようとする姿勢なのだろうか、と思ったりもする。それにしても、本当にこんなに事故が多いのだろうか...
2016.01.06
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年末にふとしたことから日本語の起源や比較言語学上の論議に関心を持ち、大野晋のタミル語日本語同系説について読み直したのだった。(『日本語以前』岩波新書、1987年)(『日本語の起源 新版』岩波新書、1994年)言語系統論としてのタミル語同系説は説得的であるが、学界の一般的支持を得ているとまでは言えないのだろう。音韻や文法でたしかに組織的に類似していることが立証されているが、考古学、文化人類学、民族学などの見地からの裏付けが困難なことが大きな要因なのだろう。それにしても、東北各地の方言にみられる不思議な現象を、タミル語同系論の立場から説明しているところは、大変興味深い。例えば、次のような点。日本語では、父、母、兄、姉を示す単語は8世紀以来変化がない。ただし、方言ではこれと異なる親族名称組織が、日本の東西の端である東北地方と南西諸島に体系的に見られる。また、同一の語形が近接する地方で、父と母の異なる意味を表すという奇妙な現象がある。アッチャが、下北や岩手では「父」を表し、津軽では「母」を表す。アヤは、下北や秋田で「母」を、津軽や下北で「父」を示すというのだ。大野晋氏によると、なぜこんなことがあるのかという疑問が、タミル語の古形を研究することで解けた。すなわち、accha や aya という同一語形が地域により、父、母と語義を変えるのは、次の理由による。タミル語では「父」accan 「母」accal があるのだが、もともと日本語は母音の長短を区別せず、また語末の子音は脱落して母音で終わるのが原則だから、日本語ではいずれも accha となってしまう。さらに、タミル語に「父」ayya 「母」ayal があらうが、いずれも日本語では aya となってしまう。このため、方言で accha と aya がいずれも父と母の双方の意味を表現したわけである。(おだずま注:文献にはさらに発音の点など詳しい分析がある。)いったん、タミル語同系説は離れて、もともと東北北部で上記のような、地域によって父母を別々に示す同じ言葉があることが、まずは大変不思議だ。■関連する過去の記事 縄文時代の言葉(2008年11月24日) 東北はイロリの文化(2007年2月14日)
2016.01.05
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皆様新年おめでとうございます。本年も当ジャーナルをよろしくお願い申し上げます。まあ、とにかく年を越して正月を迎えることが出来ました。年末に家族で関東方面に出かけてきましたが、本当に暖かかったですね。戻った仙台も雪のない暖冬ですが。昨日(1日)は一人で仙台駅前を中心に街中をふらついてみました。実は床屋さんを探していたのですが、どこもお休み。車も人通りも少ないですが、道路や駐車場には県外ナンバーが目立ちました。関西からもずいぶん来ています。さて、私は昨日飲み過ぎてまだ頭が本調子ではありませんが、今年もつまらぬ記事を書いて参りたいと思っております。人生まだ半世紀。まだまだ知らない東北がたくさん有るはずです。今年はどんな出来事があるでしょうか。また、不勉強な私が温故知新でどんな発見をできるか、楽しみにしてまいりたいと思います。そう言えば、電車で車掌さんが、新年おめでとうございます、JR東日本は今年も安全運転に努めて参ります、とアナウンスしていた。毎日同じように運行している電車ですが、不思議に爽やかな気持ちになったものでした。
2016.01.02
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