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(4回シリーズとしています。)・今回 地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・地域別人口推計を考える(その2)(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)昨年(2023)12月22日、国立社会保障・人口問題研究所が地域別の人口推計(2050年)を公表した。■日本の地域別将来推計人口(令和5年推計)昨年(2023年)4月に、令和2年国勢調査等から2070年までの全国の推計人口を発表しているが、今回は、2050年までについて地域別(都道府県、市区町村)のデータを試算したものである。その要点は以下の通り。(1)全国推計との関係 全国では、2020年(令和2)と比べ、2050年の全国の人口は17%減の1億468万6千人。 なお、今回の推計値合計は、2023年4月公表の全国推計である「日本の将来推計人口(令和5年推計)」=出生中位・死亡中位仮定=の値と合致するもの。 全国推計では、2020年126,146千人→2050年104,686人→2070年86,996千人 と推計されているが、このうち30年後の2050年までについて、5年ごとに地域別の推計(男女別、5歳階級別)を行ったものである。(2)都道府県別(2-1)総人口●46道府県で減少。うち11県で30%以上の減。●人口減少割合の高い都道府県1.秋田 -41.6% 96万人→56万人2.青森 -39.03.岩手 -35.34.高知 -34.85.長崎 -33.86.山形 -33.47.徳島 -33.28.福島 -32.09.和歌山 10.山口 11.新潟●宮城 -20.5 230万人→183万人 宮城県の場合、今回推計では、230.2万人→183.0万人(-20.5%)だが、前回(H30推計)では、2015年233.4万人→2045年180.9万人(-22.5%)である。なお、今回推計における2045年は192.4万人である(11.5万人分持ち直し)。今回推計では(前回もだが)5年刻みの後になるほど減少幅が大きい。つまり減少は加速的に進むということだ。●人口減少の割合の小さい都道府県(東京都を除く)1.沖縄 -5.22.神奈川 -7.73.千葉 -9.54.埼玉 -9.7●増加は東京都のみで、2.5%増 1405万人→1440万人。もっとも東京も人口が増えるのは2040年までで以降は減少に転じる。全国に対する東京都の人口割合は、11.1%→13.8%と高まる。●2050年の人口の順位は、東京、神奈川(852万人)、大阪(726)、愛知(668)、埼玉(663)、千葉(569)の順で、20年と変わらず。●東北ブロック(6県)の総人口の全国に占める割合 2020年 6.8% → 2050年 5.6%(2-2)年齢別人口●0-14歳人口 低出生率により全都道府県で減少する。 2050年の各県総人口に占める14歳以下人口の割合でみると(全国は9.9%)、秋田が最低の6.9%に減少。次いで、青森7.4%、岩手8.0、福島8.2、山形8.5 と東北各県が低位に続く。最高は沖縄の13.8%で、宮城は9.0である。 全国人口に占める東北ブロックの0-14歳人口の割合は、(2020年6.3%→)4.7%となる。●15-64歳人口 全国推計は今後一貫して減少する。地域別推計では、東京都のみ2030年のピークまで増加し、以降減少する。 各県の総人口に占める割合では、人口が減少しても(他の年齢別人口の推移の影響で)2025年まで7都府県、2025-2030年で6県でわずかに割合が上昇するが、全般的には各都道府県とも低下で推移する。2050年で割合が高いのは(全国52.9%)、順に東京都60.4%、神奈川、愛知、埼玉、千葉であり、低いのは、順に秋田43.2%、青森44.2、高知、岩手46.2、長崎、となる。 他の東北は、山形47.2 福島47.6 宮城51.6 である。 全国人口に占める東北ブロックの15-64歳人口の割合は、(2020年6.5%→)5.1%となる。●65歳以上人口(なお人口割合は次項目へ) 全国推計は2043年まで増加し、以降減少と見通されている。 地域別推計では、2020年に対して2025年で65歳以上人口が減少するのは26道県。 期間(5年ごと)に着目すると、2025年にかけて10府県で65歳以上人口は減少。それ以降で減少するのは次のようになる。 2025年→2030年 減少は23県 2030年→2035年 24道県 2035年→2040年 13県 2040年→2045年 36道県 2045年→2050年 44道府県 65歳以上人口が最大となる年次を見ると、2040年が15道県で最多、ついで2025年(12県)となっている。(なお、2030年と2035年ではゼロ。)秋田、島根、山口、高知など9県では2020年が既に最大になっている。 一方、東京、愛知、沖縄は、2050年まで一貫して増加する。 全国人口に占める東北ブロックの65歳以上人口の割合は、(2020年7.7%→)6.7%となる。●65歳以上人口の占める割合 各都道府県とも今後一貫して上昇する。30%を超える都道府県数は次のように増加する。 2020年 30道県 →2030年 38道府県 →2040年 46道府県 40%を超える都道府県は(2020年ゼロ)、2025年に1県(秋田)、2040年12県、2050年には25道県となる。 2050年に割合が最も高いのは、秋田(2020年37.5%→49.9%)で、次いで、青森(48.4)、岩手(45.9)、高知、徳島。割合が低いのは順に、東京(29.6)、沖縄(33.6)、愛知、神奈川、福岡。 他の東北は、山形44.3 福島44.2 宮城39.4 である。●75歳以上人口(なお人口割合は次項目へ) 全国推計では当面は増加傾向が続く。地域別推計では、2030年まですべての都道府県で増加するが、増加率は2030年から2040年前後にかけ縮小し、以降一貫して減少する県もある一方で、大都市圏では2050年にかけて再度急増する。 2020年との比較(指数)では、沖縄179.3、神奈川152.9、滋賀150.2 となり、1.5倍以上に増加する。2050年時点で75歳以上人口が多いのは、東京、神川、大阪、埼玉、愛知など大都市圏である。 全国人口に占める東北ブロックの75歳以上人口の割合は、(2020年7.7%→)6.7%となる。●75歳以上人口の占める割合 各都道府県とも今後ほぼ一貫して上昇。特に、2020→25年と、2045→2050年で上昇幅が著しい都道府県が多い。 2050年には75歳以上が20%を超えるのが46道府県で(2020年には該当ナシ)。最も高いのは秋田(32.2%)で、次いで青森(29.5)、高知、岩手(29.1)、徳島と続く。東京都は17.5%で最低、、沖縄(20.4)、福岡(21.3)の順に低い。他の東北は、山形28.1 福島27.8 宮城24.0である。 大都市圏と沖縄は、75歳以上人口が急増する(上述)が、その2025年における人口割合は相対的に低水準である。(3)市区町村別 全国の市区町村は1883地域と、福島県浜通り13市町村(1地域とされている)の合計1884地域。(市769 町736 村180 特別区23 政令指定都市(20)の区175 福島県浜通り地域)(3-1)総人口 総人口が減少する市区町村は、2015年→2020年で既に1416団体(81.9%)。今回推計では、減少する団体は今後も増加し、下記の通り。 2025年→2030年 1610団体(93.2%) 2035年→2040年 1674(96.9) 2045年→2050年 1709(98.9) 2020年に比較して2050年の総人口を指数でみると(全国推計では83.0)、100以上(増加)は77団体(4.5%)に過ぎない。指数100未満の1651団体(95.5%)である。 半数未満に減少する市区町村が2割(19.7%)で、人口が5千人未満となるのが約3割(27.9%)。30%以上減るのが6割。人口1万人未満の市区町村が4割を超え、5千人未満は(20年の283団体=16.4%から)482団体=27.9%になる。(3-2)年齢別人口●0-14歳人口 全国推計で30.8%の減少だが、ほぼ全ての市区町村で減少する。2050年に2020年の人口を上回るのは17団体(1.0%)のみ。 総人口に占める割合でみると(全国推計では2020年11.9%→2050年9.9%)、低下は1659団体(96.0%)で、0-14歳人口が1割未満となる市区町村が全体の68.4%となる。●15-64歳人口 全国推計では26.2%の減少。地域別推計では、人口が増加するのは19団体(1.1%)である。 総人口に占める割合では(全国推計は59.5%→52.9%)、割合が低下するのは1689団体(97.7%)であり、半分(50%)を切る市区町村は(2020年450団体=26.0%から)1229団体=71.1%となる。60%以上の団体は(257団体14.9%から)36団体(2.1%)に減少する。●65歳以上人口 全国推計では2020年を100として(指数)、2050年に107.9に増加する。 地域別推計では、2020年を上回るのは、546団体(31.6%)で、その内訳では、指数150以上が39団体(2.3%、なお200以上1団体)、100以上150未満が507団体(29.3%)である。このように、1.5倍や2倍に至る市区町村もある一方で、7割近い団体では2020年を下まわり、半数未満の市区町村もある(88団体5.1%)。 総人口の減少に伴い、65歳以上人口も今後は増加から停滞や減少に転じる市区町村が増える。65歳以上人口のピークは、2020年が845団体(48.9%)と最多で、早い時期に最大となりその後一貫して減少する。また、基準となる2020年の65歳以上人口割合が高いほど、ピーク年次も早い傾向。●65歳以上人口の占める割合 総人口に占める割合では(全国推計は28.6%→37.1%に上昇)、割合の上昇は1696団体(98.1%)。この間に、50%以上の団体数は59(3.4%)から557(32.2%)に増加。他方、30%未満は490(28.4%)から51(3.0%)に減少する。●75歳以上 全国推計では、2020年を100として(指数)、130.8となる。2035年から2040年に一時的に減少するが2050年まで増加する。 今回推計では、2050年に指数100以上は、952団体(55.1%)で、その内訳は、100以上150未満が741(42.9%)、150以上200未満が195(11.3%)、200以上が16(0.9%)。他方で、100未満は776団体(44.9%)で、32団体(1.9%)では半数未満になる。 最大になる年次は2030年が594団体(34.4%)と最も多く、次いで2050年520団体(30.1%)だが、総人口の減少に伴い今後は増加から停滞や減少に転じる市区町村が多くなる。 2050年の指数を地域ブロック別にみると、100未満の市区町村の割合が高いのは、北海道(76.0%)、四国、中国、東北(65.0%)の順で、逆に100以上の市区町村の割合は、南関東(87.3%)、北関東の順に高い。このうち南関東では指数150以上の団体が32.1%を占める。すなわち、75歳以上人口が2020年以上となる市区町村は、大都市とその郊外を中心に分布する。●75歳以上人口の占める割合 75歳以上人口割合は(全国推計では14.7%→23.2%)、上昇するのが1713団体(99.1%)である。この間に割合30%以上の団体は45(2.6%)から789(45.7%)に増加するが、15%未満の団体は471(27.3%)から19(1.1%)に減少する。●高齢者人口割合の動向の地域差 年齢構成について全般に高齢化が進行するが、ブロック別には状況が異なる。著しく進行する市区町村の割合が高いのは東北や四国。東北は、2050年の15-64人口割合50%未満の団体が89.3%を占めると同時に、75歳以上割合30%以上の団体が70.1%にのぼる。 対照的なのは南関東。15-64歳人口割合50%未満の団体が40.1%と低く、75歳以上割合30%以上の割合は25.0%にとどまる。
2024.01.31
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タイトルだけでも血が騒ぐ。1月29日河北新報「アングル」は、写真をふんだんに使い、牧山の自然と風景、そして由緒を伝える。山名に関して、要旨は以下だ。・中腹に「魔鬼山寺跡」がある。蝦夷征討に派遣された坂上田村麻呂が石巻地域にいた魔鬼一族の首領の妻を倒して平定した。その妻の供養と平和を願い建てた寺があったとされる。・「魔鬼山寺跡」を示す石碑の前では、2本の木が絡みつき不気味な雰囲気(写真掲載)・山頂の零羊崎(ひつじさき)神社の禰宜桜谷靖雄さんによると、山の名の由来は、魔鬼山や、かつて呼ばれていた龍巻(たつまき)山との説があるという。・山頂付近から石巻の海を一望できる。零羊崎神社は、海の神「豊玉彦命(とよたまひこのみこと)」を祭る(写真掲載)(記事要旨以上)石巻観光協会サイト(内容)によると、零羊崎神社(牧山神社)のいわれは、応神天皇2年(271)に神功皇后の御勅願により創建されたと伝えられる。祭神は海の神である豊玉彦命。平安時代の延喜式神名帳では、牡鹿十座の筆頭として名神大社に列せられた。中世から近世にかけては神仏習合の天台宗鷲峰山長禅寺として信仰を集め、江戸期には春秋の祭礼に合わせ湊砂山にて須賀の市といわれる盛大な互市が開催された。明治の神仏分離で長禅寺は廃寺となり神社のみとなったが、現在の拝殿は長禅寺観音堂の遺構で、神社社殿としては県下有数の大きさである。NHK仙台の「知っトク東北」で名前の由来を解説している(内容)。古事記に出る海の神豊玉彦命をまつっているが、宮司の櫻谷鎭雄さんによると、もとの名前は、涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)と言った。涸=干潮、満=満潮、瓊=たま、である。海をつかさどっていた神の名が後に変わって「ひつじさき」の読みになったと伝えられる。今の漢字になったのは、境内にも現れる羚羊(れいよう、カモシカのこと)を関係があるのではと考えている。羚と音が同じ零が当てられたのではないか。石巻市民だった頃の若い私も、牧山にのぼった。地元の方々は「まぎやま」、それも鼻濁音でサラリと言うのだった。■関連する過去の記事(石巻と古代中世史、民俗などに限って) 田道将軍と石巻(2020年2月1日) 奥州三観音、奥州七観音(2017年1月21日)=牧山の梅渓寺 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 石巻市雄勝の地名「味噌作」を考える(2012年10月27日) 和淵山の歴史(2011年10月5日) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 中世の留守氏(10年9月21日) 奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)=牧山観音と梅渓寺 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)(おくのほそ道) 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日)=零羊崎神社の縁起に関わる
2024.01.29
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羽前街道(笹谷街道)、猿鼻宿について学んだ。●羽前街道 川崎宿(笹谷街道)と宮宿(奥州街道)をつなぐ道。平安時代に開かれ前九年の役や奥州合戦などの軍用路として、また、江戸時代初期には秋田山形13藩が参勤交代に使いにぎわいを見せた。 全長4里20丁(約16km)の山道は徒歩約一日。蔵王町寄りの四方峠(しほうとうげ)に湯殿山の碑があるように、出羽三山詣りにも利用され、毎日200から300人も往来したと伝えられる。明治までの長い間、太平洋側と日本海側の町々を最短距離で結ぶ重要な街道だった。 羽前街道は川崎、今宿、笹谷を経て笹谷峠を越える笹谷街道につながる。(羽前街道も含めて笹谷街道と呼称したようだ。) 江戸期に参勤交代する日本海側の諸藩は、羽州街道(青森市油川が発端)から、米沢藩板谷峠越え、上山藩金山峠越え、笹谷峠越えのいずれかを選択することになる。当初は板谷峠や笹谷峠が一般的だったようだが、金山峠の道が再整備(1656年)されると、金山峠、七ケ宿、小坂峠、桑折の道筋が参勤交代の道になったようだ。しかし、1731年大地震で材木岩(白石市小原)が崩れて通行止めになると笹谷街道(羽前街道)が使われているし、近世中期以降の物流の増加や出羽三山詣での流行で一般の利用も盛んになったようだ。 街道の名称は、笹谷街道、笹谷越え出羽街道、最上山形街道などといわれたが、明治期になって羽前街道と名付けられた。明治15年の関山トンネル開通、明治34年の奥羽本線山形までの開通で、あまり使われなくなった。●旧羽前街道保存地区 現在の蔵王町を縦断する羽前街道だが、平沢花町地区からの道筋には、街道の峠道にそのまま残されており、歴史散策路になっている。頂上の四方峠(しほうとうげ)は遠く太平洋を見渡せる。●猿鼻宿 旧羽前街道保存地区を蔵王町に下りて最初の交差点右側にある集落。現在は「花町」と呼ばれる集落である(住所名は蔵王町大字平沢字町尻)。 街道が宮宿から川崎宿まで4里20丁あり、旅人が追いはぎに苦しめられたことから、永野と猿鼻に小さな宿場町を設けた(1602年高野家記録)。1670年宿場の調査記録では、永野48戸、猿鼻20戸と小さな宿場町で、殿様が宿泊する本陣の機能はなかったとされる。しかし、猿鼻の検断だった家の古文書には、幕末(1826年)に紹介、山形、高畑(ママ)、弘前各藩の大名の通行が記録されており、街道としての機能は十分にあったとうがかわれる。 この街並みは、旧羽前街道(現仙南農道コスモスライン)に対して直角に曲がった道路に家々が立ち並び、街の反対側の端も直角に曲がっている。この道の作り方が宿場の面影を残す。 以下は、『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から 猿鼻宿は、永野宿を出て北進、31丁余で東に折れると猿鼻宿である。そのまま東に行けば平沢に、北に進むと四方峠を越えて川崎町に通じる。平沢村の「安永風土記」には、村住居76人、町住居18人とある。猿鼻町は18軒で、宿場の長さ2丁とある。成立時期は安永風土記は慶長7年(1602)とする。●猿鼻の名について 猿鼻の地名は、崖地を意味する音を持つ「猿」の端を意味するとの説がある。後世に「去る」に通じる「猿」を嫌い、「鼻」も「花」に変化したのではないか。(関連する過去の記事 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日))■参考・パンフレット「蔵王の入口だよ!!蔵王山麓平沢・小村崎歴史の郷めぐりマップ」(鎌倉温泉制作発行、蔵王町教育委員会監修)・川崎町観光ポータルサイト かわさきあそび「伝説を訪ねて、羽前街道へ」・同 羽前街道・仙南の農道をゆく~広域営農団地農道仙南線 新・羽前街道~(宮城県大河原振興事務所)■関連する過去の記事(蔵王町など) 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)■関連する過去の記事(笹谷街道について)※他にもありそう、記事リストご覧ください。 東北の道 概説(その4・完 近世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 仙台・宮城と山形を結ぶ街道に思う(05年11月29日)
2024.01.27
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川村孫兵衛重吉について。(長谷川ヨシテル『どんマイナー武将伝説』柏書房、2023年 から当ジャーナル要約)1 日和山の銅像川村重吉(通称孫兵衛)の銅像は、石巻市の日和山公園山頂の鹿島御児神社(創建時期不明、平安中期には存在)の東側に、右手の人差し指をさしだした姿で立っている。河川工事の現場の人らしく、羽織と裁着袴(たっつけばかま)のスタイルである。重吉が大工事を行ったのは、銅像の指先が指す北上川(現在の旧北上川)である。重吉の工事によって洪水被害は減少し新田開発が進み、航路も確保されて水運が発展、石巻港が誕生して栄えるなど、現在につながる街づくりを行ったことから、銅像の銘文にも、「港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるため」と刻まれている。重吉は石巻に屋敷を構えたようで、新館、中屋敷、浦屋敷などの地名が伝わる。重吉町もある。1915年(大正4)に正五位の位階が贈られたことを記念して、屋敷跡とされる地に重吉神社が創建された。その東に重吉夫妻の墓が、さらに東に普誓寺がある。旧北上川沿いの大島神社に1897年(明治30)、地元の町民が重吉を顕彰した川村孫兵衛紀功碑が残されている。重吉の時代の1611年(慶長16)にも大地震(慶長三陸地震)で津波の被害が出たと言われ、政宗はその復興のために北上川や木曳堀などの大工事を進めたとも考えられる。2 政宗のヘッドハンティング『伊達世臣家譜』(寛政4=1792成立)などによると、重吉はもとは長州の人という。長門のどこかは他の史料にないが、『仙台郷土誌』(1933年)には長門阿武(萩市・阿武町)の人、『防長歴史暦』(1943年山口県出版)には、長州萩の出身と記されている。そのため、石巻市は萩市と友好都市協定を結んでいる。また、『東藩史稿』(1915年、伊達家と家臣の記録)によると、壮時(若い頃)毛利輝元(元就の孫)に事(つか)う、とある。『揚美録』(1871年)には、慶安元年(1648)閏10月27日死す、年74、とあるので逆算すると1575年(天正3)生まれになる。『東藩史稿』には、算数水利に精(くわ)し、土功に精しく、とあり、重吉は治水や土木に関する知識を評価されて政宗にスカウトされたようだ。家臣になった詳しい時期は不明だが、慶長中(1596-1615)に仕え始めたとあり、現存する重吉の最古の書状が慶長弐年正月(1597年)なので、家臣になったのは22歳の1596年(慶長1)と考えられる。『石巻市史』などには、関ケ原の戦いの結果、毛利家が領地を失ったため、重吉は浪人となり近江の蒲生(日野町など)に流寓したが、そこが政宗領地の飛び地だったので、政宗が優秀な重吉を知り、友人の山崎平太左衛門とともに1601年(慶長6)に召し抱えたと記されている。しかし、そのタイミングは最古の書状と合わないので、あくまで伝承となりそうだ。3 体の特徴毛利家時代の重吉は不明だが、菩提寺の普誓寺(石巻市)の『普誓寺縁起』などによると、祖父の常吉(『揚美録』では父)は、沈勇(落ち着いてゆうきがある)、清操(言動に汚れがない)とされる。また「異相あり」だったようで、「左脇に龍の鱗」があったという。重吉にも異相があり、「四乳」だったという。実際、皮膚が鱗のようになる症状があり、先天的に乳房が多い(副乳)という人がいるので、常吉や重吉も本当にそうだったかも知れないが、異相は偉人の伝承の描写でよくあるものだ。4 治水事業に貢献最古の書状は鉱山に関する内容なので、最初はどうやら鉱山開発に携わったようだ。また、『普誓寺縁起』にも「山の形、土の色を視察し、能く金銀を知る。宜しく之が産する地を知る神の如し」とある。その前文には「巨釜を置き鹽を焼かしむ」ともあるので、伊達家が力を入れ始めた製塩事業も担当したようだ。現在、石巻に釜という地区があるが、重吉が大釜で塩を作ったことが由来ともいわれる。特に偉業とされるのは、北上川の付け替え工事。政宗は新田開発のため北上川の河川工事を大々的に実施するが、まず慶長10年(1605)から3年をかけて、重臣白石宗直(通称相模)が上流に堤防(相模土手)を築き、北上川の流れを東側に大幅に変更した。続いて、重吉が、元和9年(1623)から寛永3年(1626)にかけて北上川の西を流れる迫川と江合川を北上川に合流させる大工事を行い、今日の旧北上川の流れを完成させた。その後、明治の治水工事で北上川は途中で東に流れを変えて、今は追波湾に注がれている。重吉は、三川合流の大工事以外にも、貞山運河(貞山堀)の開発も担当したと考えられている。政宗の時代から明治時代にかけて約49kmの大運河が造られたが、政宗ははじめ木曳堀(阿武隈川の河口から名取川河口)を造り始めたようだが(時期は三川合流工事の前か)、その事業の担当者が重吉や養子の川村元吉と考えられている。他にも、重吉は、人口増加で水不足になった仙台に広瀬川から水を引く四ツ谷堰(現在の郷六取水場あたり)の築造に関わったという。四ツ谷用水は生活用水として使用し続けられた。また、それとは別に湧き水を利用した用水路も造ったとされ、孫兵衛堀の名で呼ばれている。現在は埋め立てられたが、水源のあった荒町小学校に石碑と案内板が立っている。■関連する過去の記事 北上川の移流霧(2021年5月22日) 石巻・日和山にのぼりました(2015年3月31日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 芭蕉文学の最高の展開地 石巻(2011年11月26日) 慶長の津波と先人の震災復興(2011年10月30日) 愛宕堰、七郷堀(2010年11月13日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更) 舟曳堀(鶴巻-苦竹)を探して(06年3月12日) 石巻の大いなる歴史2題(05年10月24日)
2024.01.22
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蔵王町のお勉強シリーズの3回目は、旧宮村の林業と財産区について。 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)1 宮村の林業『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から、当ジャーナル要約。 宮村は総面積4,403haで郡内第三位の広大な面積中に刈田岳を主峰とする山岳地帯が占め、大部分が国有林である。山林資源を活用することが立村以来の懸案だった。 宮村村有林は明治22年町村制実施の際に村有となったもので、しばらく粗放なる管理だったが、明治33年より地元民に区域を割り当てて林野を貸付け、さらに部分林を設定したが、造林の成績は芳しくなく天然の雑木山に放任する状況が続いた。 明治37年の村会で、宮村字八山に十町歩の記念林を造林する戦時記念林計画が議決される。明治37-8年は日露戦争と冷害凶作で世界各国から寄せられた義捐金の配当を基に造林を実施した。また、小学校記念林として宮小学校と遠刈田小学校のため毎年植林することとした。しかし、宮村の山林開発は遅々として進まず、村有林野整備として、村直営林の造成と官行造林に提供による造林事業を推進した。 明治41年の宮村財産記録では山林3町歩、原野15町歩と記されている。2 宮財産区同上資料から。(1)財産区について 財産区は市町村と別個の特別地方公共団体として、市町村制当時から制度化されており、地方自治法施行前は、町村の一部、町村内の区、などと表現されていた。 昭和28年の合併促進法でも、関係町村の協議で財産区を設置できるとされ、旧財産区の場合と同様に町村合併を達成するための方策であった。 財産区制度は、所有財産が主として住民の共同生活上必要なものであり、積極的に活用するよりむしろ保存維持する目的で生成してきた過程があり、したがって新たな財産を取得できないなど権利能力は限定されている。また運営面では財産の管理処分は財産区の住民の福祉を増進するとともに町村の一体性を損なわないことが求められており、財産から生ずる収入を町村の経費に充てる場合には財産区の同意が必要とされ、また、不均一課税ができるなど、町村全体の利害と財産区の利害が相反することを避けるための制度となっている。(2)宮財産区 蔵王町は昭和30年の合併に際して旧宮村の所有する山林について財産区を設置した。設置以来30数年を経過し、この間の財産処分収入の大部分が一般会計に繰り入れられ、町の行財政運営とおおきく関連している。 財産区は固有の管理機関を持たないのが原則だが、例外として財産区議会、総会、または財産区管理会を置くことができるとされる(町村合併促進法による財産区規定設置に関連して昭和29地方自治法改正で設けられた)。 蔵王町では宮財産区設置とともに、その機関として宮財産区管理会を置いた。管理会は、同意権、管理執行権、監査権の3つの機能を持ち、7人以内の委員で構成すると法定され、定数、専任、議事手続、同意事項などは条例で定めるとされている。昭和30年8月町議会で、財産区管理会条例が制定され、委員は7人(宮地域4人、遠刈田温泉地域3人)で公選制、同意権は11項目(財産の全部の処分又は廃止、管理行為、予定価格一万円以上の売買契約、予算・決算、など)が対象とされた。3 八山裁判(宮財産区損害賠償請求訴訟)同上資料から。 昭和48年に八山地区の宮財産区所有山林126haを開発し観光資源として活用する計画が打ち出され、入札の結果、東京の丸尾商事株式会社(株式会社ユニバーサル都市研)との間で売買契約(7億5千6百万円)を結び、手付金として宮財産区は1億5120万円(後に変更して9120万円)を受領した。会社の計画は、ゴルフ場やリゾートマンション等であったが、オイルショックによる低成長から会社は資金調達困難となり、手付金を9120万円に減額して1億5120万円との差額6千万円を返還するよう申し出た。6千万円返還してもらえばそれを元手に20億円の資金調達ができるという理由であった。宮財産区は町議会と協議した結果、会社に応じて6千万円を返還したのだった。 しかし、会社は後述のように無理難題を押し付け、さらに契約解除と手付金9120万円の返還を迫ってきた。 宮財産区や議会はこれを拒否し、財産区は会社の契約不履行により契約を解除し手付金を没収すると通告した。 会社は昭和51年6月1日、宮財産区は契約物件の瑕疵を隠して売買契約を行ったとして、手付金を含め総額3億円の損害賠償を財産区に求めて東京地裁に提訴した。会社のいう隠れたる瑕疵とは、(1)ゴルフ場予定地の地下に東北電力遠刈田発電所に通じる隧道がある。(2)狼沢(通称)の沢水は付近の農家が飲用や農業用に使用している。であったが、入札以前に会社も現地調査で承知のはずで、財産区としても説明していたことであった。 昭和57年4月19日東京地裁判決は、宮財産区の全面勝訴。会社側は4月28日東京高裁に控訴。昭和62年3月24日判決は控訴棄却で、上告なく宮財産区の勝訴確定。したがって、財産区は手付金9120万円を没収し契約を解消した。■関連する過去の記事(蔵王町など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)
2024.01.20
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蔵王町を知るシリーズの2回目。遠刈田温泉について。■シリーズの記事 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)1 遠刈田温泉について『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●遠刈田温泉 「封内名蹟志」によれば古くは湯刈田と書いたが後に遠刈田になる。温泉の発見については、炭焼藤太の伝説がある。京三条盛実の娘が当地を訪れ、炭焼きをしていた藤太と夫婦になり金鉱と温泉を発見して長者になる。橘次・橘六・橘内の三子を育てたという。 また、『温泉少誌』には、大沼刑部の四世の孫勘十郎がこの地に移り荒地を開拓、慶長6年(1601)岩崎山の麓に温泉2か所湧出を発見、開鑿に尽力し元和4年(1618)浴地(上の湯、下湯)を成し、元文5年また一泉を発見し浴地(東の湯)を作る。遠刈田は人家四五十戸ありて一つの巷街をなし、旅店17戸あり。勘十郎の子孫今なお連綿と旅人店を営業したとある。 高野家記録では、東の湯は享保16年(1731)9月7日の大地震で湧いた湯で、寛保元年(1741)白石城主に願い出て曲竹村の我妻四郎右衛門が普請して、湯壷一間に五尺ばかりを造成して多くの人が入浴するようになった。湯を庄三郎が守ったので庄三郎湯ともいった。2 遠刈田温泉株式会社同じく『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から 大正初期ごろまでは共同浴場のみだったが、各旅館が源泉を求め内湯を持つようになると、近接するため湯量の減少枯渇が生じた。これらの問題を解決し各旅館に一定量の温泉を供給するため、昭和18年に、遠刈田温泉株式会社が発足し現在に至る。 発足当時の様子を遠刈田温泉あづまや旅館の我妻長吉氏によると、・江戸時代から明治にかけて遠刈田には家屋が24軒あった。源泉は共同で美鈴寿司店の地にあった。・各家に内湯はなく、共同風呂を使用。上の湯、中の湯、滝の湯の三か所があった。・明治29年4月6日大火に見舞われ、市街地復興の際に道幅を広くし碁盤の目状に改修。・この時連帯保証で借金し、借金が返せず担保の源泉も取られた。この時は宮村が年間予算の半分位支払ってやっと買い戻した。・しかし宮村で維持は費用がかかるので、阿部平治村長の時、遠刈田で管理するようにとの話が盛り上がり、議員も自主運営に賛成して、昭和18年、遠刈田温泉株式会社が発足。・資本金5万円、株式は宮村4・旅館4・一般2に配分。事務局は役場に置いた。村長が社長を兼任。・これまで宮村独特の畳税(たたみぜい、畳数に応じて徴収)があったが会社発足時に廃止。・経営は赤字に苦しんできたが、この2-3年前に黒字に転じた。外来利用者の増のためと思う。なお、遠刈田大火とは、奥羽日日新聞の記事によると、明治29年4月6日午前9時半出火、烈風と乾燥でわずか1時間で全焼90戸、類焼を免れたのは小学校分教場、駐在所、民家4戸のみ。白昼で死者が出なかったのが不幸中の幸い。 ■関連する過去の記事(蔵王町など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)
2024.01.19
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蔵王町について学んだ。自分が感じていた謎を解くことを軸にしながら、資料で勉強。なお、「謎」とは、次の2つだ。謎1 小学校名にもある「永野」は旧村名にないが、どこを指すのか?謎2 旧宮村は遠刈田温泉も含むが、通じる道路は円田地区なので実質飛び地。どういう経緯か?(3回シリーズです。第2回は遠刈田温泉、第3回は宮財産区について) 蔵王町を知る(その3 宮財産区)(2024年01月20日) 蔵王町を知る(その2 遠刈田温泉)(2024年01月19日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)1 概況まず、読みは「ざおうまち」だ。市町村合併の経緯でいうと、昭和の合併で円田村と宮村が合併して命名された。明治の合併(明治22年町村制)の際は、円田、小村崎、塩沢、平沢、曲竹、矢附の6村が合併して円田村となり、他方の宮村は単独で村制を敷いた。現在、「蔵王町」の次に続く地名としては、これら7つの旧村名と「遠刈田温泉」の合計8つがある。ただし、厳密には、旧円田村の6つの地名は「大字何々」だが(例えば役場は蔵王町大字円田字西浦北10となる)、宮と遠刈田温泉は「大字」ではない。さらに細かいことを言えば、「遠刈田温泉」と同格のものとして「遠刈田温泉本町」「遠刈田温泉仲町」「遠刈田温泉旭町」「遠刈田温泉栄町」「遠刈田温泉寿町」があるので(遠刈田温泉(字)本町、ではない)、結局のところ、「蔵王町」の直下の階層をなす地名としては、大字の6つ、大字以外で7つ(「宮」、「遠刈田温泉」、遠刈田温泉市街地5町)、合計13の地名があることになる。2 江戸時代の概要(村、宿駅、温泉など)『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●宮村 宮村は東西に細長い広大な山林牧野を含む。この広範な地域は江戸時代に、向山村・宮司村・沢内村・宮町に分かれ、それぞれに肝入が置かれていた。宮町は白鳥神社のある宮宿を中心とした限られた地域で、沢内村は宮町に接し七日原・遠刈田温泉を含み、蔵王山頂お釜までの広大な地域である。●円田村 松川沿いに遠刈田温泉・青根温泉に通じ、永野は笹谷街道の宿駅であり、猿鼻(さるはな)宿を経て四方峠(しほうとうげ)を越えて川崎宿に至る。 史料には、円田(天文7年段銭古帳)、苅田荘遠田郷内(伊達正統世次考)、延田(同)などと見える。 円田村の知行主秋保氏の検地帳が残されていて、人頭144人で、寛永検地の竿答え百姓75人から69人の増と言える。人頭144人のうち、村住居95人、町住居49人で、家数を記載してある項目に「当村永野町と申し候宿場家数49軒」とあるから、町住居49人は永野宿の居住である。人数は男447人女347人の計794人で、馬数114匹とある。明治初年の「刈田郡地誌」では戸数149戸、人数1151人(男586女565)とある。 永野町鎮守は愛宕神社で、寺院として真言宗円明院、同慈眼院、曹洞宗龍源寺があったが慈眼院は廃寺となった。 永野の町裏に白崩明神があった。文治の合戦で西城戸太郎国衡の屍を埋めた所と伝え、岩山が崩れ落ちて白くみえるためにこの名があるという。蔵王町文化財(白九頭龍古墳)。古墳の上に白九頭龍神社が祀られている。同じく永野の西裏の田中に古い松の大木があった。文治の合戦の平泉側の大将金剛別当秀賢が伊達大木戸で敗戦、厚樫山も攻め抜かれ、秀賢は出羽に逃げ延びようとして病重くついにここで松の樹下で死んだという。そのため死生松という名を残している。●宿駅について 蔵王町にあった宿駅は、奥州街道沿いに、宮宿ー金瀬宿、笹谷街道沿いに、宮宿ー永野宿ー猿鼻宿、がある。それぞれの宿場には定められた人馬が準備され、荷物の継送の責任者を検断といった。宿場の中央に問屋(とんや)場があり、制札場があった。問屋場は検断や本陣を兼ねる場合があった。宿泊は本陣と旅篭のほか、格安の木賃宿があった。 宮宿は、奥州街道と笹谷街道の分岐にあり、安永風土記には、「宮町と申す宿場4丁21間78軒御坐候」とある。寛文7年書上(白石市史)によると、東側に39軒、西側31軒、御伝馬所(3軒分)、宮荒町分南側11軒、北側蓮蔵寺門前8軒、とある。本陣は幕末に設けられたと思われ、肝入の阿部氏が問屋を兼ねていた。 永野宿は、円田村の「安永風土記」によると、村居住95人、町居住49人とあり、永野町49軒で構成された。宿場は文久年間の「永野屋敷図」によると3丁14間とあり、町の中央に検断清右衛門の屋敷があり、その向かいを村田への道が東進している。また、町の北端において遠刈田への道が分かれている。「梅津政景日記」寛永3年(1626)に「永野町より雪降る」とある。 猿鼻宿は、永野宿を出て北進、31丁余で東に折れると猿鼻宿である。そのまま東に行けば平沢に、北に進むと四方峠を越えて川崎町に通じる。平沢村の「安永風土記」には、村住居76人、町住居18人とある。猿鼻町は18軒で、宿場の長さ2丁とある。成立時期は安永風土記は慶長7年(1602)とする。3 役場と学校刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年(復刻版=名著出版、昭和47年、限定500部)から。なお、一部新字体にした。以下本ブログ記事において同様。同資料(第18章)から官署と学校の経緯。●宮尋常高等小学校 明治6年8月創立。初め7大学区第3中学第20番小学と称す。同19年9月尋常小学校と改称。20年4月尋常高等(ママ)併置、23年4月宮尋常小学校と改称。31年高等科(修業年限2年)を増設し宮尋常高等小学校と改称。33年4月高等科4か年とする。41年4月小学校令改正の結果、尋常56年を置き高等科1、2年を置く。●宮村役場 明治11年宮村戸長役場として宮村一村を統轄し、同14年4月宮村曲竹村を管轄し宮村曲竹村戸長役場と改称。17年宮村深谷村曲竹村八ッ宮村4ヵ役場として宮村外三ヵ村戸長役場と改称。明治22年3月31日町村制実施とともに宮村一村の宮村役場となる。おだずま注:深谷村と八ヶ宮村は、明治の合併で福岡村に含まれることになる。●遠刈田尋常高等小学校 明治9年9月以来宮尋常高等小学校の分教場としてその管轄に属したが、大正12年4月分離独立し、遠刈田尋常高等小学校と改称。大正13年4月実業補習学校を附設。●圓田尋常高等小学校 明治6年5月村内龍源寺を仮用して創立。同15年白石高等小学校区内圓田中等学校と称し、25年7月圓田尋常小学校と改称。29年高等科を併置して圓田尋常高等小学校と改称。41年5月小村崎、平澤、永野、曲竹に四分教場を置く。42年12月新築移転。44年補習学校を併置。大正11年1月平澤、小村崎両分教場を合併して平澤尋常小学校と称す。同12年、曲竹、永野両分教場を合併して永野分教場とす。●永野巡査駐在所、郵便局 巡査駐在所としては、永野巡査駐在所が記載されている。他には、宮村巡査駐在所、平澤巡査駐在所が記載されている。 なお、郵便局は、宮郵便局、遠刈田郵便局、圓田郵便局のようだ。●平澤尋常小学校(略)4 明治の町村制『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。●明治の地域制度 従来の郡を大区、村を小区としたが、従来の町村とは切り離されたもので、区長や戸長も新しい観点で任用された。明治5年4月の改正では、刈田郡は第17大区で、従来の宮、曲竹、矢附の3ヶ村が第8小区、円田、塩沢、平沢、小村崎の4ヶ村が第9小区となった。 幕政時代、曲竹、宮、矢附は独立した単独の村だったが、これを解体して国家統治を効果的に地方に浸透させるため、本来戸籍事務だけのはずの戸長の職務も「小区の一切の事務に任ず」と村政全般を管掌することになる。 明治7年4月、柴田郡と刈田郡は合併して第9大区となり、郡役所というべき大区詰所は宮駅に置かれた。●学校 第7大学区(東北全体)は、仙台に我が国7番目の大学を設置し角田市に第3の中学校を、その他の各連合村には1小学校の建設計画であった。第3中学区(伊具、刈田、柴田、名取、亘理、宇多の6郡)の一番小学校は角田小学校、伊具郡内一巡の後刈田郡白石小学校が13番目に、柴田郡大河原小学校は24番目に建設された。 明治6年6月10日宮小学校(学校番号20)が三谷寺に、同年7月7日円田小学校(21番)が龍源寺に開校。生徒は宮68人、円田57人。教師は応急措置で村田の教師を派遣。通学区は明治5年の大小の行政区制度が施かれ、第8小区、第9小区がそのまま学区に置き換えられた。 明治6年7月には円田小学校平沢学校(ママ)が保昌寺を仮教室に開校(生徒数男57女5)、また同年9月には遠刈田地区に刈田嶺神社を教場に遠刈田支校が開校された。その後平沢支校は12年に円田小学校から分離し初等科3年制の独立小学校に。 円田小学校は明治8年6月新校舎に移り、平沢、小村崎、矢付(ママ)に14年には支校を設置した。宮小学校も明治9年校舎を新築。5 昭和の合併前の状況刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、から。一部新字体にした。●町村 宮村(役場所在は宮)=大字及字 宮、澤内、向山、宮司、遠刈田 圓田村(役場所在は圓田)=同 曲竹、円田、平澤、塩澤、小村崎おだずま注:大字及び字として、永野もだが、矢附の名も見えない。●宮村について(上掲資料から) 地勢上自ら東部宮と北部遠刈田の2つの中心を有する。松川は源を刈田岳に發し、遠刈田、圓田村、宮村向山区を貫流して白石川に入る。沿岸の地は細長き平地を成せども、其の他は悉く山地...●圓田村について(同上) 東南部及南部は一帯に平地にして松川この間を流れ、西部は丘陵重畳し、土浮山、七日原高原連亘、遙かに蔵王を望むべし。松川は、遠刈田にて澄川を合せ、本村に入りて永野、矢附、曲竹を貫流し、宮村に出でて白石川に合す。上流澄川を合わせざる部分を濁川と称し、多量の硫黄分を含有するを以て魚類の生息することなし。 なお、同上資料の「神社、自院、堂宇、教会」の章(第14章)の「圓田村」の項には、「御渡神社」は「永野にあり。印度より渡来の神を祀るなりと。」と記載されており、地域の呼称としての認識がわかる。6 仙南温泉軌道と永野駅 仙南温泉軌道は、大河原町と遠刈田温泉を結ぶ軽便鉄道で、現蔵王町内には、平沢駅、円田駅、永野駅、疣岩(いぼいわ)駅、遠刈田駅があった。 経緯を少し。日本鉄道の開業で、遠刈田温泉の観光客や青根の鉄鉱石の輸送を目的に、まず1900年柴田鉄道が設立される。これは、大河原から金ケ瀬、宮、永野、遠刈田を経由して青根まで馬車鉄道を敷設する計画だったが、資金難で断念。1904年、日本製鉄が鉱石運搬用の馬車鉄道を申請し、1906年に遠刈田と永野の間が先行開業。永野の先は大河原町堤地区を経て大河原駅に至る計画だったが、1907年に宮地区を経て白石駅に至るルートに変更する誘致運動が起きて工事が一時中断する。1908年に遠刈田と青根の間は貨物用索道で開通。日本製鉄は解散するが、遠刈田ー永野間は地元資本で仙南軌道として継続。永野の先は、仙南軌道が宮地区経由で北白川駅に至るルートを予定したが、大河原や村田の資産家が中心に設立した城南軌道は、平沢、村田町中心部を経由して大河原駅に至るルートを想定した。結局、郡長の調停で永野から先は城南軌道が開業させることで、1915年再申請に漕ぎつける。1918年城南軌道の大河原ー村田間が開業。1920年城南軌道が仙南軌道を吸収合併し、1921年仙南温泉軌道と改称、1922年(大正11)ようやく全線開通に至る。(下の図面は、刈田郡教育会編『刈田郡誌』昭和3年、の付録から)7 昭和の合併『蔵王町史 通史編』(蔵王町史編さん委員会、1994年)から。 宮城県の町村合併促進審議会が昭和28年10月答申した町村合併計画策定答申では、旧刈田郡は白石市、七ケ宿と小原の合併、宮と円田の合併による1市2町案であった。 宮村と円田村では様々な意見がだされた。宮村では各地区代表と村議会議員で構成する町村合併研究委員会が組織され、県案を中心に住民の意見を集約することになった。大方の意向は、宮地区では白石市との合併を望み、遠刈田地区は円田村との合併を希望した。これらは地理的経済的条件が近いところを望む合理的なものだったが、意見がまとまらず、住民投票を行い、結果、白石市との合併1,172票、円田村との合併1,053票となったので、合併研究委員会はこの結果を尊重して村議会に答申した。 村議会では採決の結果、12票対7票で白石市との合併が決まり申入れを行うことになった。しかし、宮村でも遠刈田地区は事情が異なり、道路その他で円田地区とのつながりが強く、村議会では遠刈田地区の円田地区への分村を表決したところ、16票対4票で決定した。 他方、円田村では、宮村宮地区が白石市を向いたため、やむを得ず宮村遠刈田との合併決議が円田村議会で決定された。 この結果を受けて、両村はそれぞれ県に内申。県議会は昭和30年3月の本会議で町村合併を議決する予定だったが、刈田郡が県の試案と合致せず、難色を示す県当局や議員が多かった。というのも、宮村宮地区を白石市に合併すると白石市が突出した広域になり、逆に弱小町村をつくることの懸念で、原案を崩さない県の意向が刈田事務所長を通じて両村長に伝えられた。 これを受けて両村は議論を深めようとしたが、利害や感情が絡んで紛糾。4月1日の町制施行のタイムリミットが3月20日であることから、3月15日から17日にかけて両村議会があいついで協議を重ね、両村の対等合併をまとめ、17日に県に「刈田郡宮村円田村を廃して蔵王町を設置する処分申請書」を提出した。昭和30年4月1日新しい蔵王町が発足した。 この紆余曲折は、両村の歴史的地理的経済的な背景や基盤が異なっていたことも指摘されているが、明治22年の町村制施行時も同様な動きがあったといわれ、大正9年には遠刈田地区が、宮村から分村独立の請願運動を行うなど、宮村の宮と遠刈田がしばしば合併分離などの経過があったことも、今回の町村合併に陰に陽に左右し続けていたとみるべきであろう。 なお、地方の町村にありがちな政治的思惑もあり、県議会議員にも動きがあったとされる。(おだずま注:具体的な記載はない。) 役場は将来の発展を考えて円田におき、宮と遠刈田に支所を置くことで両村は合意をはかった。旧円田村役場が新町役場となり、昭和52年に現在の新庁舎となる。8 現在の小中学校ここで蔵王町の学校通学区域をみてみる。小学校は5校あり、永野小学校の所在地は大字円田(円田小学校も同様)である。・円田小学校 (学区)大字塩沢の一部を除く字全部、大字円田の一部、大字平沢の一部・平沢小学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の一部・永野小学校 (学区)大字曲竹の字全部、大字矢附の字全部、大字円田の一部・宮小学校 (学区)宮の字全部(おだずま注:「大字宮」と言わない。)・遠刈田小学校 (学区)遠刈田温泉の一部を除く全部、大字円田の一部中学校は3校。・円田中学校 (学区)大字小村崎の字全部、大字平沢の字全部、大字矢附の字全部、大字塩沢の字全部、大字平沢の字全部、大字曲竹の字全部(A)、大字円田の一部(C)を除く字全部、遠刈田温泉の一部(八室、大枝山)(B)・宮中学校 (学区)宮の字全部、大字曲竹の字全部(A)・遠刈田中学校 (学区)遠刈田温泉の字全部、大字円田の一部(上記C)(A)と(B)は地域が重複することになるが、通学先中学校を選択できるとされている。(B)は円田地区寄りのエリア。(A)の曲竹だが、宮中学校の学校要覧では学区に曲竹北、曲竹南と記載されているし、円田中学校の学校要覧には、円田、平沢、永野の3小学校から子どもたちが集う、と記されているので実際には曲竹地区の中学生は宮中学校に行くのだろう。大字円田の中でも遠刈田中学区となる(C)は「釜沢と土浮山の一部」とされており、すずらん峠に至る西部丘陵地帯で遠刈田に近い。なお、中学校は、統合の上で令和9年4月開校にむけて事業が進んでいる。以上から、謎を解題するとすれば、永野は宿場名に使われた由緒ある地名。旧村名では円田に含まれ小字名にも残らないが、円田村のうち主要街道を擁する南部一帯を指すものとして定着、官署名にも使われて定着してきたのだろう。遠刈田は温泉場の特殊性からか近代の村制では沢内村→宮村に包含されたが、やはり地方制度改革にあわせて宮地区との関係では離合の動きがあった。■関連する過去の記事(蔵王町など) がんばれ蔵王 負けるな蔵王(2015年5月6日) 蔵王の御釜が沸騰(2014年8月23日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 蔵王噴火を鎮めた伊達宗高(2015年3月3日)
2024.01.18
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新聞記事で読んだ。郷土史家の木村紀夫さんが、山元町の歴史講演会(23年12月20日、ふるさとおもだか館にて。町ふるさと歴史学習会主催)で解説をされた。記事によると、要旨は以下。・藩祖伊達政宗が瑞巌寺や大崎八幡宮を造営したように、歴代藩主は統治のため仏教を政治的に大いに利用した・維新の廃仏毀釈で仙台藩士は心のよりどころを失い、他方で函館戦争に加わった藩士がカトリックやハリストス正教会に感化された・仙台・宮城は今もキリスト教徒が他県に比べて多いとされる木村さんのお話を直にお聴きしたかったし、交流センターふるさとおもだか館も訪れてみたかった。宮城県にキリスト教徒が多いとされることについて、統計や書籍に当たってみたいと思うが、時間がないので今後の課題に。それにしても、維新の激動を通じて、藩士や家族の心のよりどころ、また明治期の教育文化に大きな役割を果たした内外の宗教活動家たちの業績など、私たちは歴史をよく知らねばならないと感じる。■関連する過去の記事 神社の多い福島、少ない岩手(2014年02月09日)
2024.01.11
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白棚(はくほう)鉄道株式会社により1916年(大正5)に開通。経営が苦しく1929年からガソリンカーを導入するなどするが、1932年(昭和7)に水郡線が水戸から磐城棚倉まで達するとさらに経営が苦しくなり、国鉄が借り入れる経営委託となり白棚線になる。1944年戦時の金属供出のため線路が剥がされる。以後、鉄路が復活することはなく、専用軌道化して1957年から国鉄自動車専用道白棚高速線として運転開始。当時は国道でも舗装が少なく、高速仕様バスの試験場の役割も担った。名神高速道路開通前に、高速バス用に試作された日野RX10が走るなどしたが、高速道路のない時代の試験走行に貴重な専用道だった。現在はJRバス関東が運行。沿線国道の整備や災害被害などもあり、専用軌道は徐々に縮小する傾向で、棚倉町内からは専用軌道がなくなっている。道路整備で一般バス路線の系統と変わらない運行形態に近づいている。■参考「旅と鉄道」編集部編『JR路線大全Ⅱ 東北本線』天夢人(山と渓谷社)、2021年(池亨執筆部分)■関連する過去の記事 水郡線に敗れた白棚線(2016年2月6日) バス専用道路の白棚線(07年9月16日)
2024.01.09
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住宅地のとある交差点。路上に「止まる」。ちなみに奥にみえる次の交差点では「止まれ」、これが普通。■シリーズ 仙台百景(こんな企画で100まで続くでしょうか) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日) 旧代ゼミ前(シリーズ仙台百景 39)(2015年10月24日) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.01.06
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宮城県と栃木県に導入された新式の車両について。(1)ハイブリッド式気動車(仙石線) HB-E210系東日本大震災で被災した仙石線が2015年5月30日に全線運転再開するのに合わせて、仙石線と東北本線の直通列車を運転することになった。仙石線は、松島海岸をはさんで仙台と石巻を結ぶ宮城県民の大動脈だが、東塩釜から石巻までの区間が単線であることから、特に石巻地区の人たちからは速達化のために、複線化、東北本線との乗り入れ、女川直通運転などが随分前から要望されてきた。これに対して、国鉄やJRが直通化に難色を示した主な理由が、電化方式の違いだったと記憶している。すなわち、仙石線は直流、東北本線は交流だからだ。実現した直通運転は、両路線の近接する松島町内に専用の連絡線(非電化)を設け、専用車両としてハイブリッド式気動車のHB-E210系を開発することで果たされた。電化方式の違いを新型の気動車で乗り越える発想とJR東日本の復興を支える心意気に、宮城県民は喝采を送ったのだった。車両はステンレス製、総合車両製作所のsustinaシリーズを採用。ハイブリッドシステムは、キハE200形やHB-E300系で実績のあるシリーズハイブリッド方式で、エンジンを発電機として使用し、発電機からの電力と蓄電池の電力で主電動機を駆動するもの。屋根上にはクーラーのほか、主回路用蓄電池や元空気だめの一部を搭載する。(2)蓄電池駆動電車(烏山線) EV-E301系JR東日本は非電化区間の環境負荷低減のため、蓄電池駆動システムの車両を開発し、2014年3月から烏山線で営業運転を開始。直流用蓄電池駆動電車である。EVは、Energystorage Vehicle から。愛称ACCUM(アキュム)は Accumlator(蓄電池)に由来する。首都圏で唯一、蓄電池電車が走行する路線で、現在は全列車がEV-E301系で運転されている。烏山線は、宝積寺(東北本線)と烏山を結ぶ全線非電化20.4kmの地方交通線で、国鉄時代は赤字83線に数えられたが、沿線の猛烈な廃止反対運動と、本線に乗り入れて宇都宮と結ばれ比較的営業係数が良かったことから、特定地方交通線に指定されず、三セク化は免れた。蓄電池列車の営業運転が初めて導入されたのは、電化路線の東北本線に乗り入れつつ比較的短距離で近郊輸送を担う烏山線の特性が着目されたため。烏山線は直流だが、同じくACCUMの交流版であるEV-E801系が投入された男鹿線と共通している。電化区間では通常と同様にパンタグラフで架線集電し、合わせて床下の蓄電池で充電できる。主回路用蓄電池箱には、リチウムイオン電池が収まり、各車両に5箱、編成で合計10箱設置されている。非電化区間は蓄電池で走行。非電化の烏山線の終点烏山駅に充電のための地上設備が設けられており、折り返しを待つ間に充電する。■参考「旅と鉄道」編集部編『JR路線大全Ⅱ 東北本線』天夢人(山と渓谷社)、2021年
2024.01.05
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テレビ番組で、冬の家屋のリビング平均室温を全国地図で各県ごとに色分けして示し、WHOが最低室温18度以上を強く勧告しているのに対して、だいぶ低い都道府県があることを問題として取り上げていた。冬に寒い家は、ヒートショックなど命の危険にも繋がるという趣旨だ。テレビ画面に、「国土交通省スマートウェルネス住宅等推進事業調査結果より」との記載があったので、国が主導して家屋の断熱性と死亡増加率の関係などを調査研究しているようだ。冬の在宅中のリビングの平均室温だが、都道府県別に次のようである。1 北海道 19.8℃2 新潟 18.43 神奈川 18.0以上がWHOが強く勧告するという18度をクリアしている。3道県しかない。下位の都道府県を見ると、香川(最下位)13.1福島、大分 14.9栃木 15.1鳥取 15.6宮城 15.7高知 15.8などとなっている。他の東北では、秋田17.7、岩手17.8など。全体的に東日本は室温が低く、冬季の死亡増加率の高さと関連付けて、家屋の断熱性能の重要さが指摘されている訳だ。たしかに、北海道の家は室内が暖かいとよく聞く。東北地域の家は、断熱材を多用せず寒さに対応できない、また、積雪で換気ができず健康を害するなどと指摘されてきた(下記の過去の日記をご参照ください)。 「岩手の心」高橋喜平さんと雪国沢内村を思う(2006年02月04日)上記の平均室温についてはニュースなどから知りえたもの。調査結果のデータ本体に当たりたかったが、ネットではたどり着けなかった。調査時点や調査要領など踏まえて検証してみたいのだが、次の機会に譲る。
2024.01.02
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皆さま2024年も当ジャーナルをよろしくお願いいたします。昨年の暮れ、私の故郷奥州市を訪問した際に、大谷翔平選手ゆかりの学校などを巡ってみました。私にとっても思い出のある建物たちが、冬の陽に映えていました。奥州市立姉体小学校は田園地帯にあります。門から立ち入らず遠望した横断幕には「頑張れ!大谷選手 僕らの希望 二刀流大谷選手の母校 奥州市立姉体小学校」と。子どもたちの誇りですね。続いて、奥州市立水沢南中学校です。通称南中(なんちゅう)。2023 WORLD BASEBALL CLASSIC MVP おめでとう 大谷翔平先輩 とありました。南中は、国道4号から細い坂道を上ったところにあります。隣接中学区で育った私も、中総体の応援や講習会などで何度か訪れていたので、懐かしい校舎です。その坂道には、何と3枚も横断幕がありました。坂の下の方から順に掲げます。最後に、大谷選手が通った前沢バッティングセンター。水沢南中学校から南下した国道4号沿いにあります。昔の雰囲気のままです。一組だけ家族連れの先客がいました。建物を出て傍らの狭い東北本線ガードをくぐって振り向くと、貨物列車がゆっくり過ぎていきました。
2024.01.01
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