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エウクレイデス(ユークリッド)は紀元前300年ぐらいの数学者である。彼の数学の授業中「この数学は何に使えるのですか?」と質問した生徒がいたそうだ。エウクレイデスは授業が終わると従者にこう言ったそうだ。「あの少年に小銭を与えなさい。彼は学んだことによって利を得たいようだからね」上は本書に出てくるエピソードである。現代においても数学は学問上の「純性」を保った数少ない学問だそうである。というのは、数学上の発見は何の特許にも結びつかないからだそうだ。だから、数学者は自身の研究中の課題を仲間にぺらぺら喋るし共同研究が当たり前になっている世界だそうだ。さて、ところが本書に登場するワイルズなる人物は7年もの間まったく秘密裏に「フェルマーの最終定理」なるものを研究したらしい。(そして、証明した)以下がその「定理」である。xn+yn=zn nが2よりも大きい場合の整数解はない。(n乗と読んで欲しい)実は本書中にも出てくるが証明されていないものは「定理」ではなく「予想」と呼ぶらしい、が、当のフェルマーは証明していたらしい、というのがこの「定理」の神話的なところである。17世紀の話である。フェルマーは以下のメモを残してこの世を去った。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」以降300年この命題は証明を拒んできた。この命題の証明は、物理学においての核分裂の発見や生物学でのDNAの発見に匹敵するらしい。本書ではピタゴラスから始まる数学の歴史をからめ(n=2ならピタゴラスの定理である)、この命題の証明までのドラマができるだけわかり易く展開されている。(ところどころ分からなかったが)とくにワイルズが証明に至る過程で登場する非業の死をとげた日本人とフランス革命後の政治闘争で消えていったフランスの若き数学者のエピソードはなかなかドラマティックである。物理の証明は「近似」だが数学の証明は「絶対」である、という数学というより数学者の魅力を感じさせてくれる1冊である。
December 31, 2004
みんぞく 1 【民族】 「われわれ…人」という帰属意識を共有する集団。従来、共通の出自・言語・宗教・生活様式・居住地などをもつ集団とされることが多かった。民族は政治的・歴史的に形成され、状況によりその範囲や捉え方などが変化する。国民の範囲と一致しないことが多く、複数の民族が共存する国家が多い。(大辞林)日本人自身が日本にいて感じることの少ない意識である。それは日本人が戦後の占領統治下をのぞいて民族として区別され抑圧された経験がないからである。しかしながら、世界情勢は未だこのキーワードのくびきから逃れられないでいる。
December 30, 2004
今日は万世一系がとりえの家の家長の誕生日と2000年ほど前に処刑された現在20億ほどの信者をかかえる宗教の教祖の誕生日の間の普通の日である。
December 24, 2004
病院とは価値の逆転した空間である。より悪いものに価値があり、より良いものに価値が薄い。入院すると症状が悪化する人がいる。あるいはホスピタリズム(病院病)という「病気」になる人がいる。これはこの価値観の逆転に知らず知らずのうちに同化してしまったのではないだろうか。という考えが浮かんだのは、先日救急車で運ばれたわりには症状が治まってしまい何故か「申し訳ない」感じがして検査の間「どこかが悪くあってほしい」と感じた私の経験からである。悪くない方が良いに決まっている。社会復帰した私は今健全にそう感じているのだが。
December 23, 2004
救急車なるものに初めて乗った。夜間の救急、私の主治医?は2人の少女だった。実は昨夜息苦しくてどうしようもなくなり、救急車を呼んだのである。誰かが胸を殴っているかのような激しい動悸が周期的に襲ってきたのである。真面目に、この心臓は止まるんじゃないかと思った。ただし、救急車の車内で症状は落ち着き総合病院の夜間救急に着いたときは多少の息切れはあったが平素とたいして変わらなかった。私には2人の若い女性の医師がついたが、そのうち1人のほうが私より辛そうであった。目のフチは真っ赤でベッドにもたれてやっと立っているという感じであった。これじゃあミスもあるだろうな、と思いながら注射や点滴はここじゃあされたくないなという思いがよぎった。「医者は3人殺してはじめて1人前になる」現職の医師である久坂部 羊の小説のキャッチが嫌でも思い出される。幸いなことに注射も点滴もなしに(動脈の採血は2回されたが)「異常ナシ」で帰宅を許されたのであった。ただ、あの苦しさは何だったんだろうと思って、今日循環器科の開業医のところにいったら、その症状が出た時でないとわからないが多分「不整脈」ではないかとのことであった。
December 21, 2004
友人が家に出た野ネズミをペットとして飼育しはじめたようである。有史以来人類の天敵であったネズミが愛玩動物と化すとは良い世の中になったものである。思えば20代後半だった私は関東の辺境の地で農業にいそしんでいた。畑でよくネズミを殺した。哺乳類を素手で殺すという行為は当初は戦慄を覚えたものである。哲学的青年だった私は、手の中で血反吐を吐いているネズミと、殺戮という行為、その行為者である私、農家という生活等に思いをはせて、しばらく仕事の手が止まったものであった。そういえば、自衛隊が射撃の的を丸型から人型に換えたそうである。人型で練習すれば人型のものを撃つとき抵抗がないからだそうだ。彼らも当初は射撃の手が止まったであろうか?
December 18, 2004
これがビジネス書かどうかは別として、プライベートでビジネス書などを読む人種にはなりたくないと思っていた。家に帰ってまでなんで仕事のことを考えねばならないのか?この強い階級意識が私をしてさして不幸でも幸福でもない人生を送らせている原動力であると信じている。さて、本書はその題名と冒頭部の埴輪製造会社がなぜかコンビニを経営するようになったか?というくだり以外は、さして目をひくものがない内容となっている。(それでも、だらだら読ませるのは筆力といえば筆力だが)ビジネス書とは題名と最初の数ページが目をひけば成り立つものだなあ、というのが本書の感想である。それよりも、私のポリシーの軌道がが若干変わったことの方が問題である。次は「スーパー仕事術」みたいな本を読んでいるかもしれない。
December 17, 2004
塵肺訴訟で国が全面敗訴である。総額5億円の支払い命令らしいが、国は控訴するらしい。控訴すればさらなる長期化は否めないとのこと。結局敗訴するなら早いうちに支払ってしまえばいい。(原告が死に絶えてしまう前に)しかしながら、国の損害賠償の支払いは税金からである。すなわち、国民が賠償責任の源泉を拠出しているのである。(悪政を放置した「国民」の「政治責任」は、いつも確実にとらされている)
December 15, 2004
人間を2種類に分けたがる人がいる。カモるやつ、カモられるやつ。貢ぐやつ、貢がれるやつ。勝つやつ、負けるやつ。Sのやつ、Mのやつ。あるいは4種類に分けたがる人もいる。A B O ABまたは12種類13種類ちなみに私は13星座でいうと新種の「へび使い座」に属する。カテゴライズして物事を判断するのは人の常である。しかし、カテゴリーの数は多いほど分析は緻密にできるが、本質は相対化していく。だから「○○県人は○○だ」という人を見ると、その人の底の浅さを感じてしまうのである。
December 14, 2004
今日は私の誕生日である。今までは、誕生日などというものは自分で決めたわけでもないし苦労して勝ち取ったわけでもないから、たいして重要視してこなかった。しかし、今日ふと思った。ひょっとしたら幼き私は以外と自分で決断したのではないか?「今日出よう!」、と。だとしたら、私が自覚的に活動を開始した記念日であり、多分生まれでるまでは結構苦労したはずである。しかし厳密に言うと、私という個体内の遺伝子が発生したのは10何億年前で、個体としての受精卵の誕生が2月ぐらいか、それに日本国民としての人権が宿るのがその5ヶ月後ぐらい、そして12月13日は私という個体が初めて肺呼吸をした日とでもいおうか。いうなれば私の肺が初めてヘモグロビンを酸化させた記念日ということになる。あるいは今でいえば、二酸化炭素を排出する産業設備として京都議定書の関連項目に名を連ねた記念日ともいえる。
December 13, 2004
作者は現役の医者である。医者が言うんだから間違いはないだろうという感覚は本作の内容ともリンクして実は2重のレトリックである。(そうならざるを得ないが)「医者は3人殺して初めて1人前になる」これがテーマだったはずだが、中盤以降どうもうやむやになってくる。漫画的大風呂敷が広げられ現場のリアルな肉声がトーンダウンする。冒頭とラストがどう結びつくのか?前半と後半が違う作品のようである。1人前になる前に医者が殺す3人の症例を「痛恨の症例」というらしい。すなわち、普通の技量や経験があれば殺さずにすんでいた症例のことである。冒頭はこの「痛恨の症例」から始まり嫌でも引き込まれる。中盤以降は、なぜか「国家的陰謀」に巻き込まれて、「それはないだろう」という感じである。この作者、松岡圭祐を目指しているのか?(あるいは出版社がそういう風に育てようとしているのか?)とにかく、前作「廃用身」の強烈なインパクトを忘れないで欲しい。
December 11, 2004
またしても、長期閉鎖の予感。その前にケリをつけたい流れがある。「商品」についてである。以前見た光景である。カメラを首から下げた3歳ぐらいの男の子が転んだ。顔から地面に倒れて相当痛そうであった。ところが駆け寄ってきた父親がまず心配したのはカメラのほうであった。何か本質的なものを見た感じがしたのである。精神分析学者ラカンは自己の存在の本質を直感させる象徴として「対象α」という概念を提唱した。そのラカンの入門書の「対象α」についての記述は以下のようなものである。あるテレビ番組でのこと。チンパンジーのメスが自分の子供が死んだことに気付かずにずっと抱いたままである。あまつさえ、乳さえあげている。それを執拗に追いかけるカメラに向かってその子の父親がそのミイラ化した子供を武器として振り回して襲ってきたのである。そのミイラに「対象α」を感じた。と、いうものである。私にとっての「対象α」はあのカメラである。すなわち、比較対象物としての「商品」と「自己」という絶対的現実存在との違和感である。この違和感が現代社会の悲劇の本質だと思うのだが・・・。
December 9, 2004
霊長類には同類を殺す習性がある。野生のチンパンジーは群れ同士で殺し合い、殺した相手の肉を食べる。ある種の猿は(名前は長ったらしくて記憶していない)群れのボスが代わると前のボスの子を殺し食べてしまう。何と、その子の母親もその「儀式」に参加する。以上、今日の新聞に「哲学者」梅原猛が書いている。「だからこそ、その克服が問われている」、と。すなわち、殺人は霊長類たる人類の本能に根ざした行為である。だからこそ、本質的な部分での克服が問われている、ということである。殺人はどちらかというと2次的欲求に属していると思っていたが、むしろ食欲や性欲に近いということになる。人類は果たして食欲や性欲を克服したか?と考えると殺人の克服は確かに容易ではない。
December 7, 2004
映画鑑賞のさいパンフレットを買わなくなってどのくらいになるだろう。学生の頃はそれこそ入場料の間接税のように必ずパンフは買っていた。山となったパンフを見て悦に入ってたものである。それが今年は2冊もの購入実績がある。「息子のまなざし」と「ヴァイブレータ」である。実をいうと「息子のまなざし」は原題を知りたかったからで、「ヴァイブレータ」は最近の日本のインディ系の実情を知りたかったからである。そういえばもう1冊、「グッバイレーニン」があった。これは純粋に面白い映画だったからである。たまにパンフを読むとやはりパンフを通した製作側の作品のフォローにうんざりする。パンフも作品の1部だと考えられなくもないが、キャストやスタッフの経歴紹介などはともかく評論家の分析など読みたくないのである。(「有識者」の感想など、だから何だというのだろう)おまけに監督の演出意図などもってのほかである。制作側の意図など観客にとってはどうでもいいものである。製作者の意図どおりに感じなければいけない道理はないのである。なんといってもこちらは「お客様」なのだから。ついでに言えば、パンフを読んで「気づかされた」のでは客にとっても作り手にとっても恥ずかしいことである。だから私は気づかないものはそのままにしておくようにしている。べつに「勉強」するために映画を見たわけではないからである。
December 6, 2004
「ピン、ピン、ポックリ」の略だそうだ。今読んでいる久坂部羊の小説にでてくる「理想の老後」である。(さかさに見ると不吉な数字「666」に見えるとも書いてある)なるほど、3ヶ月まえには気づかなかったが確かにそうだ。今年の夏には私もこれに手一杯だったのである。
December 5, 2004
待ちに待った?原寮の新作である。が、一作ごとに力の衰えは顕著である。これはやはり長過ぎたブランクのせいだと思う。直木賞受賞が1989年でその後本作を含め長編は2作しか上梓していない。本作は前作から数えて9年のブランクがある。直木賞受賞作がデビュー2作目だから88年のデビュー以来長編は4作しか発表していないのである。(他は短編集1、エッセイ1)これはキャリアとしてはあまりに寂しい。(乱発もどうかと思うが)かといって熟成されているかといえば?である。携帯電話を持たない主義の私立探偵に主人公としてどんな魅力があるのか?本作はこのセンスのズレが全編を貫いている。「ハードボイルド」があまりに形式的である。どうも原寮は本作を境に量産体制に入るようである。次作以降に期待したい。なぜなら「沢崎」は「鮫島」とならんで好きなキャラクターだからである。(チャンドラーには新作は書けないが、原には書ける、という理由もある)
December 4, 2004
今日蚊に刺された。私は空を飛ぶ小さな虫が大嫌いである。特にそのなかでも蚊は最悪である。夏が嫌いなのは蚊のせいである。しかし今は12月である。なんでも日本は亜熱帯になりつつあるのだそうだ。そのあかつきにはマラリアが大流行するという説もある。いわゆる「温暖化」のせいである。そうなったら、きっとそのころには人が住めるようになるであろうシベリヤに渡って線路でも眺めていたいと思う。
December 3, 2004
暴力団が印刷業者を使って40億円分の高速道路回数券なるものの偽造をさせていたらしい。もはや25億分が流通しているというから記念に買っておくのもいいかもしれない。犯罪被害者になるいいチャンスである。その記事の隣に小さく、「中学生が千円札を偽造」と書いてあった。透かしがない以外は本物と見分けがつかないほど精巧であったらしい。できればそれも一枚欲しいところである。世の中はやはりかなりの部分シンクロニシティに支配されている。
December 2, 2004
「介護日記」の感想にも書いたが今や日本には「負け組」があふれている。そして、それはそれで開き直って独自の階層を作りつつある。つまりは「商品化」しつつある。「商品」とは交換価値をもつものである。交換価値の一般基準は貨幣である。貨幣との交換価値をもつものは社会的に認知されるのである。長く続いた不況のあおりで生じた大量の失業者を廉価な労働力として再雇用していく構造がうまれたのである。販売業や製造業には季節工やフリーターはなくてはならない存在になった。予断を許さない経済情況下にあって臨機応変性は企業にとって死活問題である。こうした必要性から「負け組」にたいする社会的門戸は大きく開かれた。今や選ばなければ働き口などいくらでもあるし、定職につかなくても働いていればあまり文句は言われないのである。フリーターという「職業名」もあみだされた。また精神病にたいする理解や認知度もあがってきており、ひきこもりも病院へ行けば「闘病」という職にありつけることになった。すなわち、「負け組」という「商品」は成立しつつあるのではないかと思う。問題は病気でもないのにひきこもってヲタクにもなれない者たちである。自分の商品名が名乗れない者たちである。あるいは商品化を拒絶したりする者たちである。「ほんとうの負け組」である。腹いせに家族を殺したり、集団自殺を試みたりする。「自分は○○である」の○○を見失うと人間は精神的に最も苦しい。それが長期に渡れば尚更である。本来それを支えるのが家族であるはずなのだが、彼らがまっさきに家族を殺したのは何故だろう。自己の商品化に抗する彼らの声が理解されなかったのは何故だろう。今や家庭すらもが商品を生産する現場と化しているからだと思う。彼らは「容疑者」や「被告」「服役囚」といった「商品名」を得て実はほっとしているのかもしれない、とさえ思う。ただ、商品としての自分から解放される場が家庭であるはずなのだが。(家庭という商品か?)
December 1, 2004
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