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「もの喰う人々」以来のファンである。辺見庸のことである。実は「もの喰う人々」のファンなだけである。それ以外は読んだことがなかった。その辺見が「抵抗論」という時評集を出したというので立ち読みをしたら、実は3部作の3作目であることが判明し、まずは1作目である本書を読んでみた次第である。内容はといえば9.11からアフガン侵攻ぐらいまでの時事エッセイである。「サンデー毎日」の連載モノの単行本化であった。著者略歴を見ると70年共同通信社入社とある。年代といい、社名といい何か筋金入りの雰囲気に満ちている。その筋金入りのオッサンが書きなぐったエッセイである。面白いことは面白いが、そうとうに筋金が入っている。
June 19, 2004
「本書を読まずして我らが大地に無自覚に大地に佇むことなかれ」と、帯に書いてある。「日本沈没以来のクライシスノベル」だそうである。ついでに「メフィスト賞受賞」とは、つまりは新人作家ということである。冒頭のエピソードが洒落ている。それにつられて買ってしまったのであった。結論からいうと「10年早い」。デビュー作にしてはもったいない作品である。霧島火山の破局的噴火で日本がほぼ壊滅するというリアルで壮大なスケールの意欲作ではある。作者の火山知識も相当なものである。(と思う)主人公も火山オタクの工学部教授というツボをえたものである。そして九州で火山が噴火して24時間で日本が壊滅するという俄には信じがたい話をその膨大な知識量に裏打ちされて描ききった力量はたいしたものだと思う。しかし、である。この作家は次に何を書くのだろう。デビュー作でいきなり切り札を出した感がある。老婆心だがデビュー後10年で上梓していたら代表作になっただろう。だから「10年早い」のである。そして、ストーリーは骨太でストレートだがデテールはかなり甘い。そういった意味でも「10年早い」。
June 18, 2004
憲法前文や教育基本法に「愛国心」を盛り込む動きがある。最近の国民に「愛国心」が欠けているからだという。ところで「愛国心」とは何だろう?以下が「インフォシーク国語辞典」で「愛国心」を検索した結果である。▼ [ 愛国心 ] の大辞林(国語辞典)からの前方一致検索結果が 見つかりませんでした。●大辞林(国語辞典)内に該当する項目が見つかりませんでした。キーワードや検索対象を変えてもう一度検索してください。 ちまみに「愛国」であれば検索可能である。あいこく 0 【愛国】 自分の国を愛すること。 「―心」「―者」読んで字のごとくではある。それでは「愛する」とは?あい・する 3 【愛する】 (動サ変)[文]サ変 あい・す(1)幼い者などを、かわいがる。愛情をそそぐ。 「子を―・する親の気持ち」「―・する息子へ」(2)異性に心が引かれる。慕わしく思う。ほれる。 「夫を―・する」「あなたを―・しているわ」(3)物事に、美しさ・良さ・価値などを認めて、その物を好む。 「こよなく山を―・した人生」「酒を―・する」(4)かけがえのないものとして、大切に思う。 「祖国を―・する心」「学問を―・する」(5)相手を尊重し、温かい気持ちで接する。 「真に民衆を―・した政治家」(6)愛の行為を交わす。愛撫(あいぶ)する。また単に、なでる。 「二人臥して―・しつる顔よ/今昔 31」(7)〔一説に「相する」とも〕機嫌を取る。調子を合わせて相手をする。 「是程の大勢の中へただ二人入たらば、何程の事をかしいだすべき。よしよししばし―・せよ/平家 9」雰囲気からすると(4)が適当であろうか。すなわち「自国をかけがえのないものとして大切に思う気持ち」ということになる。しかし「愛する気持ち」というものは自発的に芽生えるもので強制されるものではない。「○○さんを愛しなさい」と命令されても好きでもない人を愛することはできないのである。ましてやそれを法律に謳うとは完全におかしい。そしてさらに「愛国心教育」が「日の丸」「君が代」を軸に平板化されて行われるとしたら、これはもう日本人をバカにしているとしか思えない。「愛する気持ち」を「フェチズム」にまで落とし込めるものである。国旗や国歌が大切なのは当たり前である。(私は「日の丸は国旗、君が代は国歌だと思っている)大切だと知っているから、あえて起立しなかったりするのである。しかし旗や歌を愛してどうするのか?まったくもって「フェチ」の世界である。愛される努力を怠って愛する事を強要するとは、もしこれが人間関係だったら最悪である。その行為自体嫌われる原因となろう。まずは愛される努力をすべきである。守るべき国であるということを国民に示せば、おのずと「愛国心」は湧いてくるだろう。
June 17, 2004
そもそも2大政党制の国の政治に民意の反映などない、というのが私の意見である。アメリカしかりイギリスしかりである。国民の考えが2通りだけなどというのはあり得ないはずである。そういった意味では小選挙区制は亡国への道である。「選挙制度改革」をとなえた羽田牧の善良そうな面構えにまんまと騙されてしまった。制度発足当初から言われていた「少数意見の封殺」は今や完全に軌道に乗った感がある。保守系2大政党の台頭である。投票すべき政党がないのである。投票率が上がるわけがないのである。いまや自民党の9割民主党の6割が改憲派である。これは民意が反映された数字だろうか?
June 16, 2004
国際社会での地位とは国民にどのような利益還元をするものなのだろうか?たとえば現在NO1の地位にあるアメリカの国民はその恩恵を得ているのだろうか?憲法「改正」の議論が盛んである。どこを「改正」するのかと言えば9条である。先進諸国の一員として国際社会での責務を果たすためである。ところで、「先進国」が「自発的」に他国の地域紛争に介入していくことが「先進諸国」の「責務」だとは誰が決めたルールなのだろう?かつて「共産圏」が存在していた時代には「西側諸国」の責務ではあったかもしれない。しかし地域紛争にはその地域なりの宗教や民族問題といった複雑な事情があり、画一的な(アメリカ的な)「グローバルスタンダード」が適用されない場合が多いはずで、その善悪を「先進国」だからといって勝手に決めつけ地域住民の主権を踏みにじる「権利」はないのである。ましてや「責務」などもってのほかである。それは国連の責務である。そして国連こそ「民主化」が必要である。「常任理事国独裁」はかつてのスペイン、ポルトガルを彷佛させる。国の枠組みを変える前に、国際社会の一員とはいかなるものであるか考えるべきだと思う。パレスチナ難民もアフガン難民も今後爆発的に発生するであろうイラク難民も国際社会の一員である。人口で換算すれば「先進国」国民のほうが少数派なのである。もともと国際的に発言力がなかった日本の国民はそれなりに繁栄してきたのである。いまさら失う発言力がどこにあるのだろう。
June 15, 2004
小林よしのりは実は3冊目なので、他の作品で詳しく展開しているかもしれないが彼の「国益」に対する考えがさっぱりわからない。国益とは国民の利益の総和のことだろうと思うが、小林よしのりは「独立」と答える。独立とは国のありかたの問題で、そのために国民にどんな利益がもたらされるのか説明されていない。民族としての誇りのようなものがちらつくが、もはや多民族国家になろうとしている日本には不適合であろう。小林よしのりの表現活動は多分に啓蒙的なところが見受けられるが、その根本が「わし」だけでは説得力に欠ける。「国民の幸せ」ではなく「わしの幸せ」なのである。その根本における客観性のなさが致命的に感じる。「独立」することで何故国民が「幸せ」になるのか?くりかえすが他の作品に書いてあるかもしれない。ついでに言うと、「公」という概念もさっぱりである。「公がある」とか「ない」とかいってもさっぱりわからない。「おおやけ」という響きからくる感性的言語なのだろうか。余談であるが上の言葉から連想されるとある政党の支持者が地方選挙で票集めに我が家にもやってきたことがある。20歳ぐらいの若者を先頭に40~50ぐらいの口べたっぽいおじさんが2人である。「○○さんお願いします」という若者に「ところで、この人市議?県議?」と聞くとみごとに答えられないのであった。宗教団体丸抱えのこの政党が現政権を支えていて、それに乗っかった小泉内閣が強硬路線をひた走っているかと思うと、民意って一体何だろうと思う。話はそれたが「公」というと選挙での公明党の略語しか思い浮かばない。これも別の本で説明されていると期待する。というわけで、小林よしのりを貫く基本概念である「独立(自立)」と「公」の理解が浅いまま読んだため否定も賛同もできないわけである。なんとなく「各論賛成、総論反対」のような気もするが・・・。
June 14, 2004
未来の怪物図鑑である。500万年後1億年後2億年後の地球の変化とそれに適応すべく誕生するであろう生物を「科学的に」紹介している。人類など絶滅した後の話である。地球は氷河期から海洋期をへて2億年先には全ての大陸が1つになる、ということらしい。その間に魚は空を飛び、イカは地上に上がり、飛び跳ねるカタツムリが登場する。そして樹上で生活を始めたイカに知性が宿ってくる。と、奇想天外な科学的類推も面白いが、その生物たちにいちいち名前が付けられているのも面白い。ちなみに空飛ぶ魚は「フリッシュ」これは海洋性の「オーシャン」種と陸上性の「フォレスト」種にわかれる。地上に上がったイカで8トンもの大きさになったものは「メガスクイド」知性をもったものが「スクイボン」、飛び跳ねるカタツムリは「デザートホッパー」。すべてCGによるリアルな図解付きである。絵を見るだけでも楽しい。最後の哺乳類がクモに家畜として飼育されている図には悲しくなったが・・・。
June 13, 2004
エースピッチャーというものは調子が悪くても悪いなりに試合を作っていくものである。本作はいかにもキレが悪くつっこみも甘い。量的にも不充分で上下巻の上巻といった感じである。宮部みゆきならいともたやすく下巻を書き上げるであろう。風呂敷は広げたが想像力が追い付かなかったと言う感じである。しかし手紙と手記だけの構成が全体の緊張感を持続させている。手法としては「グロテスク」と一緒だがあえて叙述のトリックを用いなかったのは好感がもてる。ラストに別の視点が登場して手記の嘘を暴き作品に深みをもたせるというのは常套手段だからである。実は私もそう言うラストを予想していた。そうならなかったのは志の高さかあるいは時間的な限界か。「少女監禁事件の被害者の手記」という題材である。つっこみの甘さは現実の事件の被害者に配慮したのかもしれない。とにかく悪いなりに完投した上原という感じである。
June 12, 2004
昔「悪魔ちゃん騒動」というのがあった。ある親が自分の息子に「悪魔」と命名しようとしたのである。役所が受理するしないで大騒ぎになった。結局役所に拒否され別の名前になったという顛末である。その父親は何年か後に覚せい剤かなんかで逮捕されまた話題になったりした。子供の名前はどう転んでも親の価値観の反映であり役所が認める認めないの問題ではないと思うが、子供の人権の問題だそうだ。私の昔の知り合いは、寺の息子のため「荘園」と名付けられ、グレてしまった。さて、人名漢字が拡大されるそうである。審議会原案として578文字が公表された。以下がその一部である。「糞」「癌」「姦」「牢」「娼」「厭」「妾」「唾」「屍」市町村は、親が使いたいと申し出た場合は「親の自己責任として受理」するそうである。今回の「自己責任」は使い方が正しい。
June 11, 2004
日本は豊かなのだろうか。この数字が投げかけているものの意味は大きいと思う。出生率である。「人並みに」暮らしていくためには1.29人しか子孫を残せないということである。やはりハイデガーの引用になるが、人間を支配しているのは「死への不安」である。それを忘れるために泣いたり笑ったり汗を流したりするのが「人生」である。ハイデガーはこれを「頽廃」と否定化し、死を直視せよと言うが、直視したところで現実は変わらない。消滅の対概念は生成である。自己の喪失感を他者の生成でおぎなってきたのが「一般的な幸せ」というものであろう。人間の豊かさの基準を、あとに残せる子孫の数で考えたらどうだろう。日本人は頑張れば頑張るだけ「幸せ」から遠ざかっているかにみえる。
June 10, 2004
ストレスとは攻撃性が抑圧されると生じるそうである。本来攻撃したい相手を攻撃できない場合、それが自分自身に向けられるらしい。そしてその解消には原因からできるだけ遠ざかるのがいいらしい。あるいは、すぐさま相手を攻撃してストレスを溜めないか、である。すぐに発散すれば健康的だが溜め込んだほうが人間的である。
June 9, 2004
もう10年以上前の話であるが、東京でフィリピン人の死体を捜したことがある。そのフィリピン人とはオーバーステイで土木の仕事をしていた私の友人である。フィリピンに住む彼の妹が本人の確認をどうしても取ってほしいというのだ。五月五日の話である。彼は地方都市の架橋工事の現場で働いていた。亡くなったのもそこの市民病院である。五月三日のことである。その時知り得た情報はこの死亡した日付と病院名のみであった。亡くなってからすでに二日が経過していた。とりあえず、その病院に連絡してみる。たしかにそのフィリピン人はその日そこで死亡していた。しかしその遺体は福祉事務所が引き取ったとの事。五月五日では連絡のとりようがない。次は管轄の警察署。たしかにそういった「事件」はあったとのこと。しかし担当者は「非番」であった。そして、フィリピン大使館。一言「ペーパーはない」その間彼の元エージェントのポケベルを鳴らす。事務所の電話に誰もでないからである。携帯電話など普及していないころの話である。しかし私は東京駅構内にいて表示させるべき電話番号がなかった。いよいよ煮詰まってきた私は外務省に電話した。事情を説明すると以外と親切で、厚生省の直通電話を教えてくれた。管轄は厚生省らしいのである。エリート官僚はたらい回しもジェントルであった。厚生省に電話する前に念のためにとエージェントに電話すると、やっとつながった。遺体は東中野にあるとのこと。東京駅において延々五時間。公衆電話にかじりついての遺体捜索が身を結んだ瞬間であった。彼は東中野の車1台分ぐらいのガレージの隅に横たわっていた。まさしく彼本人であった。そこは「死体専門の空輸業者」だった。国際電話のむこうで彼の妹は大きなため息のあとで「アア、ソウ」といった。なぜか日本人であることが恥ずかしかった。その夜かけだしの映画監督であった友人宅に泊まった。彼はシナリオを書きかけであったが事情を話すとなぜかカラオケボックスへ行き、ちあきなおみを熱唱していた。そのとき書いていたシナリオで彼は毎日映画コンクールの脚本賞を受賞した。なぜか今日田中眞紀子と厚生労働省のやりとりを見ていたら以上のことが思い出された。10年もまえのことである。
June 8, 2004
マルクスによると芸術とは労働者が疎外された労働を一時忘れるためにあるのだという。共産主義社会になれば止揚される(無くなる)ものだという。それじゃあ、資本家には芸術は関係ないのかとも思うが、今この最も成功した社会主義国日本ではどうかというと、マルクスの言う事もしかりかな、とも思う。抑圧がないところに芸術は発生しづらいのである。日本においてはまさに嘆かわしい。メインがないのにカウンターカルチャーばかりが乱発されて、いまやカウンターのカウンター状態である。ウルフ金串は倒せても力石徹は倒せないのである。表現者たちは原点に帰れと言いたい。今の日本にカウンターカルチャーやサブカルチャーは無意味である。カウンターやサブの対象がないからである。だから、おとなしく原点に帰れば良い。そして、次世代にカウンターを提供してやれば良い。
June 7, 2004
「定数+1」という法則があるそうである。これは選挙区の定数に1プラスした数が生き残る政党数になるということである。すなわち定数1の小選挙区制では1+1=2である。2大政党制にならざるをえないわけである。「いまどき選べないなんて」の時代の到来である。アメリカを見れば一目瞭然である。ブッシュを選んだ大統領選挙の投票率は50%である。アメリカ国民は、もはや民主政治を放棄しているとしか思えない。これが小選挙区制のはての2代政党制の作り出す弊害である。アメリカにおいては共和党も民主党も支持しない人は投票する必然性がないのである。かくなる状況に日本も落ち入りつつある。(日本の)民主党などは場合によっては自民党より保守的になる可能性をもっている。25%の得票率で日本の命運が決する場合があるのである。ゴミ問題からの流れであるが私には支持すべき政党がないのである。重税高福祉の「大きな政府」である。年金などに頼らずに消費税を上げればいいのである。細川政権で提唱した7%の福祉目的税(消費税の目的税化)は今思えば先見の明であったと思う。あっというまに潰されたが・・・。
June 6, 2004
私の住む自治体でゴミ分別が始まって1年あまりがたつ。焼却炉の温度の問題だそうだ。環境問題が「身近」になって歓迎するむきもあるが、はたしてどうかと思う。これは労役による増税である。税金を上げてもいいから自治体でやってもらいたいものだ。というのが、私の見解である。基本的に政府のありかたとしては「大きな政府」が私の理想である。重税、高福祉である。ヨーロッパ型社民というやつである。それには小選挙区制ではむりがあるのだが。ただ、ヨーロッパではゴミの分別は相当進んではいるが。
June 5, 2004
なんというラストシーンだろう。見終わったあと街の風景が違って見えた。正直ちょっと席を立てなかったのである。パンフを買った。原題の意味を知りたかったからであるが、製作者のテーマにたいする思いが書かれていた。「天使ではなく人間として復讐から抜け出す」近日公開される「21グラム」も似たようなテーマであろう。ハリウッドが作るとどうなるかは見ものであるが、どう作ってもラストは予想の範囲内であろう。それに(見ていない人には説明し辛いのだが)「あの感じ」を出すのはアメリカ映画では不可能だと思う。映画好きの若者にはオススメである。「若者」とことわったのは、歳をとってくるとあのハンドカメラの長回しは目が疲れてしょうがないからである。映画を暇つぶしの娯楽としか考えていない人には時間の無駄になると思う。とにかくコンセプトの表現の仕方が秀逸である。レンタルもあるが映画館をお勧めする。
June 4, 2004
小学生による小学生殺人事件が起こった。「過失致死」ではなく明確な殺意をもった「殺人」である。背景は様々であろう。後日このことは詳しく書こうと思う。とにかく事件は起こった。ネット上では実名や写真が流通することであろう。しかしきっかけはそのネット上のことである。合掌。
June 2, 2004
私は天皇家に対する思い入れは特にない。政治的システムとしてもたいして機能していないと思う。しかし、決められたことは守ろうという気持ちはある。事の発端は、東京都教育委員会が学校式典での「日の丸」「君が代」を強制化したことからはじまる。これに抗議する意味で教師、生徒の「国家斉唱」時の不起立が続出し、それに対する都教委も処罰を乱発した。起立しなかった教師はもとより起立させなかった教師も処罰の対象になった。そんなおりPTAに不起立を要請した元教師宅に警察の家宅捜査が入ったそうである。学校が「被害届け」を出したのである。「威力業務妨害」だそうだ。まさに「暴君のもとでの軍隊は暴君よりも暴君である」。石原都政の恐怖政治ぶりがうかがえる。日本は象徴的立憲君主国家である。天皇制が民主的手続きにより廃止されるまでそれは変わらない。だから「君が代」は当然なのである。制度が存続する限り「君が代」は国歌なのである。「不起立」運動は国家のありかたという大きな問題を矮小化するものである。矮小な運動による矮小な勝利しかもたらさないものである。勝利すらもたらさない、と思う。だが彼等は「生徒の心に反戦の気持ちが芽生えただけでも勝利です」とか言うであろう。負けて勝つのは左翼の常套手段である。私は立憲君主制が戦争への道とは決して思わないが、愚民化しつつある今の日本人に価値観の均質化は危険ではある。とりあえず反抗していたほうが、まだましかもしれない。しかし、いくら右側通行に反対だからといって、左側を歩いただけでは制度は変わらない。
June 1, 2004
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