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近現代におけるキリスト教の展開 宗教改革後の啓蒙時代に入ると、神による啓示を基礎に置いた従来のキリスト教のあり方に疑問が出されるようになる。人格神を否定する理神論から始まり、啓蒙期以降は神を論じることの無意味さを説いた不可知論、汎神論、あるいは無神論など、それまでのキリスト教神学に収まりきらない思想が展開される。そして、フランス革命などの市民革命によって西ヨーロッパ社会が大きく脱教会化され、民衆のキリスト教離れが進行し、共産主義のようにはっきりとキリスト教を敵視する社会運動も現れる。キリスト教が社会に対してその影響力を大きく減じていくことになる中で、各宗派がいかに展開してきたかを以下に概観する。カトリック教会の展開 カトリックでは宗教改革に対抗する形で組織強化が行われ(対抗改革)、イエズス会やフランシスコ会などが尖兵となって海外宣教などを積極的に展開した。しかし、世俗社会への影響力は近代を通じて確実に減じて行ったのが実情である。ローマ教皇領はナポレオン1世によって没収され、ウィーン会議で復活するものの普仏戦争で縮小し、1861年のイタリア王国の成立で消滅に至る。1929年のラテラノ条約でバチカン市国が成立しているが、これは象徴的な独立国家でしかない。 こうした傾向に危機感を抱き、ローマ教皇への権力集中を唱えるウルトラモンタニズムが勢いを増し、カトリックは反近代指向を強めていった。1846年には啓蒙主義、自由主義、共産主義を排斥するための「誤謬表」(sillabo、シッラボ)を公布し、教皇首位説と教皇不可謬説を公式教義とし、他宗派に対して不寛容な態度を取り続けた。 しかし第二次世界大戦後、カトリック教会内部から大規模な改革の必要が叫ばれ、1960年代に至ってヨハネ23世の元で開会した第2バチカン公会議にで現代に生きるカトリック教会の方向性が定められた。その中ではプロテスタントや東方諸教会との対話であるエキュメニズムに加え、他宗教との対話の必要性も唱えられた。また科学と聖書学の尊重、各国語による典礼実施の推進、現代社会との連帯という方向性を確認した。この改革が規模と内容において16世紀の宗教改革にも匹敵することから、「第二の宗教改革」と呼ばれることもある。ガリレオ・ガリレイの宗教裁判の見直しと撤回(1992)などに、こうしたカトリック教会の過去の過ちを認めて自ら正すという姿勢が見られる。 現在もカトリック教会は避妊や妊娠中絶を認めず、時代錯誤だと批判されることも多い。また、司祭の独身制の堅持についても批判されている。特に近年の米国において、カトリック聖職者による性的幼児虐待が多数明るみに出たことで、その歪が批判されている。 中南米は、スペイン・ポルトガルの植民地であった関係上、カトリック宣教がもっとも成功した地域であり、現在でも信者の比率が大変に高い。この地域では20世紀になって解放の神学と呼ばれる思想が起こった。これはキリスト教社会主義運動の一形態とみられており、民衆の中での社会運動の実践こそが福音そのものであるという立場を取る。その左翼的側面から中傷されることも多く、カトリック内でも拒否反応を示す聖職者も少なくない。 アジア地域でのカトリック宣教が成功したのは、やはりスペインやポルトガルの植民地であったフィリピンと東チモールであり、その他の地域のカトリック人口はマイナーなものに留まった。例外は大韓民国であり、第2次世界大戦後プロテスタントと共に信徒数が急増している。中国においては1949年に共産党政権が成立すると外国人司教は全て国外に退去し、1951年中国とバチカンは断交した。その後、中国はローマ教皇の任命する司教や司祭を一切認めず、政府公認の中国天主教愛国会のみをカトリック教会として扱うようになり、カトリック信徒を政府のコントロール下においた。だが政府に従わない地下教会が組織化されているとも見られており、この問題については今も中国とローマ教皇庁との間で政治交渉が続いている。プロテスタントの展開 プロテスタントではルター派がドイツ北部や北欧に広がり、それとは別にカルヴァンの影響を受けて展開した諸宗派(改革・長老教会)がイギリスやアメリカで広がった。また、イギリスではイングランド国教会(聖公会)が1534年にカトリックから分離しておりプロテスタントに分類されている。 またアメリカ合衆国では建国以来、信教の自由を保障したことと移民を広く受け入れてきたことからプロテスタント系諸教派が競い合って、多様なキリスト教信仰が展開している。教派を跨る形で大覚醒(Great Awakening)を代表とする信仰復興運動、再臨運動、異言を伴うペンテコステ運動などが起こり、これが新たな教派を形成し、ヨーロッパなどにも波及した。 さらにマックス・ウェーバーの有名な学説(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)が指摘したように、ピューリタン(主に長老派信徒)の影響が強いイギリスとアメリカで資本主義が驚異的に発展する。そして、それらの富める国力とアメリカで勃興した信仰復興運動を背景にプロテスタントも19世紀頃から海外宣教に積極的に乗り出していくことになる。 20世紀初頭、アメリカ合衆国ではドイツに発した自由主義神学の是非を巡ってプロテスタント教派間で教義論争(ex.メイチェン論争)が行われ、自由主義神学(リベラリズム)を採用する主流各教派(メインライン)と、聖書の無誤無謬を主張した福音派(ファンダメンタリズム=根本主義など)とに教派が二分された。しばらくの間メインライン(長老派、ルター派、メソジスト、聖公会)は多数派として政治的主導権を有していたがベトナム戦争が膠着化した1970年代頃のカウンターカルチャー(対抗文化運動)の興勢の中で影響を減じて世俗化し、信者は現在減少傾向にある。 その一方で福音派は、ビリー・グラハムに代表される大衆伝道者などがテレビなどのメディアや大規模なイヴェントで多くの改宗者を獲得し、1980年代以降は政治的な影響力を誇るようになった。彼らの多くは創造論を奉じて進化論を聖書と矛盾するものとして退け、妊娠中絶などには先鋭的に反対して社会問題を引き起こすこともある。福音派は豊富な資金力を生かし、海外布教とりわけ東欧圏・アジア・アフリカなどでの活動にも熱心である。 このように福音派は勢力を拡大しているが、アメリカのプロテスタント総体は衰退傾向にある。また、1960年代の公民権運動の頃から、マルコムXなどアフリカ系市民がイスラームへ改宗する運動も少数派ながらも続いている。東方諸教会の展開 エフェソスおよびカルケドン公会議が異端として排斥したいわゆる東方諸教会の信徒数は必ずしも多くない。しかし、いくつかの地域ではその地域での最も信徒数の多いキリスト教教派でありつづけている。地域宗教の色彩が濃い東方諸教会ではあるが、19世紀以降、アメリカ合衆国やオーストラリアといった移民の多い国では、移民によって教会が立てられ、信徒の分布は広がりをみせている。from Wikipedia Japan
2007.04.30
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キリスト教に基づくとされている習俗 キリスト教は独自の典礼暦を用いて教義に基づく祭礼を行い、また信者の生活をそれによって規制するが、一方で各地の習俗と融合して教義と無関係な慣習も多く見られる。以下に、現代の日本でキリスト教に基づくものと一般に理解されている習俗を取り上げキリスト教との関係などを概説するが、この他にも、日本では一般的ではない習俗は多数存在しており、クリスマス前のアドベント(待降節)、公現祭、謝肉祭(カーニバル)、枝の主日/聖枝祭、灰の水曜日、ペンテコステ、各種の行列、大勢の特定聖人の祝日などの祭日、また四旬節/大斎や曜日を定めての節制などがある。典礼暦の項目なども参照されたい。クリスマス クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う記念日であるが、イエスの誕生日は知られていない。ローマ帝国時代、ミトラ教の冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられている。この祭りは西方で始まり、12月25日に行われた。一方、東方では、元来、キリストの生誕は洗礼とともに1月6日に祝われていたが、4世紀には次第に12月25日が生誕を祝う日として定着していく。ヨハネス・クリュソストモスは12月25日をクリスマスとすることを支持した386年の説教で、この祭りをローマの習慣であるとし、アンティオキアでは10年前から始まったとしている。神現祭の項も参照せよ。 また、クリスマスに付随する習俗の多くは、キリスト教の教義とは無関係である。たとえばクリスマスツリーを飾る習慣は15世紀にドイツで現れ、ハノーヴァー朝とともにイギリスに渡り、そこからキリスト教社会に広がったものである。サンタクロースは聖ニコラスの伝説や、イギリスのFather Christmassの伝承などを使ってニューヨークの百貨店が19世紀に作り上げ、世界中に広まったキャラクターである。イースター イースター(復活祭、復活大祭)はイエス・キリストの復活を祝うキリスト教最大の祝祭日であり、かつもっとも古く成立した祭のひとつであるが、現在の習慣にはゲルマン民族の春の祭りの影響が指摘されている。色をつけた卵(イースターエッグ)を配るなどの習俗がそれに該当する。なおユダヤ教の過ぎ越しにも、ゆで卵を食べる習慣があり(塩水に入れた卵を紅海を渡るユダヤ人に見立てる)、ゆで卵の習慣はユダヤ由来であるとする説もある。結婚式 宗教改革以前から存在する教会では、婚姻は7つの秘蹟(機密)のうちの一つとして位置づけられている。世俗婚とは別に、同教派の信者同士の結婚式は教会の典礼として行われる。カトリックでは、結婚する当事者の片方あるいは両方が信者でない場合、この典礼は略式化される。東方教会では、典礼の執行そのものを拒否される場合がある。非信者同士の結婚式を引き受けるかどうかは教会によって異なり、キリスト教に触れる良い機会であるとして受け入れる立場と、それは教会や聖職者の仕事ではないとして受け入れない立場が両方存在する。 キリスト教式の婚姻では、キスが必須であると思われることがときにあるが、主要教派の典礼の上では必須ではない。 現代の日本では、結婚式をキリスト教のスタイルで行うことが盛んになっており、結婚式場などに併設されたチャペルで派遣業者から斡旋された牧師の下に司式されることが多い。そういった牧師の資格やそうやって行われた結婚式の有効性についての議論も存在する。バレンタインデー 西方教会地域の一部には、男女の愛の誓いの日として2月14日に親しい男女間で贈り物をする習慣がある。日本には製菓会社が盛んにプロモーションを行って女性から男性へ主にチョコレートを贈る習慣が定着した。これもキリスト教の教義には根拠が無く、ローマ帝国時代の女神ユノの祝日が起源であろうと言われている。ハロウィーン ハロウィーンはイングランド・アイルランドおよびその移民の間で行われた民間の祭りであり、直接はキリスト教と関係がない。元々はケルト人のドルイド教の祭だっただろうと言われている。しかし西方キリスト教の祭りである、カトリックの諸聖人の日(万聖節)と日付の上で結びついており、その前晩である10月31日に行われる。イングランドでは中世以降廃れたが、アイルランドに残っていた習俗が移民を通じてアメリカ合衆国で広まった。近年はヨーロッパや日本でもカボチャのランタンを飾るなど、一部の習俗が入ってきている。近世までのキリスト教の歴史 紀元1世紀、イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源である。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとする学説が現在は主流を占める。それによれば、70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向して、キリスト教としての自覚を持つに到ったとされる。 ローマ帝国治下でキリスト教は既存の多神教文化と相容れず、また皇帝崇拝を拒んだため、社会の異分子としてしばしば注目された。キリスト教は国家に反逆する禁教とされ、信徒は何度かのいわゆる大迫害を経験した。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウスによりローマ帝国の国教とされ、異教を圧倒するに到った。 キリスト教は歴史上、5回の大きな分裂を経験した。最初の分裂は4世紀半ばのアリウス派の離脱である。キリストの人性を主張したアリウス派は、最初のローマ皇帝の改宗や、ゲルマン人に大きな信仰を得るなど歴史的な意義は大きかった。しかし、アタナシウス派のキリストの両性(神性・人性)が正統教義とされたため、西暦325年の第1ニカイア公会議でアリウス派は異端とされた。アリウス派は北アフリカに渡り新天地を求めたが、今日では消滅している。 2回目の分裂は、5世紀半ばのネストリウス派である。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否した。キリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされたため、431年のエフェソス公会議でネストリウス派は異端とされた。現代の研究では、これは教義の問題だけでなくむしろ政治的な事情により大きくよるものであるとする指摘がある。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで大きな信徒数を獲得した。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国にも伝来した。一時は隆盛を誇り、信徒の分布からいえば世界最大のキリスト教勢力であったが、イスラム教の台頭により著しく衰退した。今日では、アッシリア正教会等、中東を中心に少数の信徒がいる。 3回目の分裂は東方教会におけるエジプトやシリアの教会のいわゆる単性論教会としての離脱である。キリストにおいて人性は神性に吸収され、一つの神性を持つとして451年のカルケドン公会議で異端とされた。単性論の教義はネストリウス派と正反対ともとれる。だが、これらの教会は「単性論」である事を否定している。現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明しした為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきている。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となった。ほかにエチオピア、アルメニアの教会もこれに続いた。 4回目の分裂は、東西教会の分裂(「大シスマ」ともいう)である。9世紀ごろから対立が顕在化し、1054年にローマ教皇とコンスタンティンポリス世界総主教が互いに破門しあうに至る。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。しかし、その実態は政治的・文化的な問題であり、西ローマ帝国崩壊後に、神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)に独立・挑戦した事件とみなせる。 5回目の分裂は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生である。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がることになる。 これらの分裂の結果、現在、キリスト教世界には、東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる東方正教会、ローマ教皇を中心とするカトリック教会、それに対抗して発生した多くの諸教会、諸教団(総称してプロテスタントと呼ぶ)のほか、イラクのアッシリア正教会(ネストリウス派)およびその分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)、キリスト単性論に属するエジプトのコプト正教会や、その姉妹教会エチオピア正教会、シリアのシリア正教会(ヤコブ派)や、コーカサス地方(元は小アジア)のアルメニア使徒教会などの東方諸教会が存在する。キリスト教が発展した理由 ユダヤ教内の一宗派から出発したキリスト教が、世界最大の宗教に発展した理由はもちろん単純なものではない。歴史的にみても、何度かあった社会環境や世界情勢の変化にキリスト教はその都度うまく適応していった。 まず、使徒言行録の中にも描かれているようにキリスト教会はかなり初期の段階でユダヤ文化の外部に居る異邦人への宣教を積極的に行った。そして、異邦人改宗者に対してはユダヤ教の定める割礼や、細かな食物禁忌を緩めた(キリスト教の歴史)。これが、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教が地中海世界に広がっていく条件を整えたとされている。 当時のヘレニズム-ローマ時代は密儀宗教が流行していたが、これらは主にオリエントを起源としながら普遍主義的な目的を説いていた。エジプト起源のオシリス・イシス教、フリジア起源のアッティス教、ペルシャ起源のミトラ教、あるいはギリシャ起源のディオニソス教などである。キリストの死と復活を思い起こしながら、パンとぶどう酒をキリストの肉と血として共食する聖餐式を持つキリスト教もまた、こうした密儀宗教のひとつとして広がったと考えられている。(M.エリアーデ『世界宗教史』第205節)。 キリスト教は皇帝崇拝を拒否したことでローマ帝国内で迫害されたが、こうした競合宗教から抜きん出た発展を遂げて国教化される。これについては護教論的説明かもしれないが、寡婦・孤児・老人の世話を行い、疫病や戦災にあたっては負傷者を看護して死者を葬るような、平等と慈愛と同胞愛を実践するよく組織化された共同体を作り上げることにキリスト教が成功したからだと説明されている(たとえばM.エリアーデ『世界宗教史』第239節)。いったん公認されていたキリスト教の特権を破棄したことで有名な「背教者」ユリアノス帝ですらキリスト教徒が、救護施設を運営して他者に対する人間愛を実践し、死者の弔いに対して丁寧であり、真面目な生活倫理をもっていると書簡の中で認めている(田川建三『キリスト教思想への招待』第2章)。 西ローマ帝国滅亡後の西方においては、教会は人々の誕生(洗礼)、結婚、死(葬儀)を管理し、人々の生活を律する組織として機能して、その地位を揺ぎ無いものとした。 さらには修道院という組織を確立した西方キリスト教は、ヨーロッパ中世において学問を独占し、その影響力を強化した。東方においては、キリスト教は中東・アフリカでは衰退したものの、東ローマ帝国の統治イデオロギーとして機能し、また西方と同じく、文化先進地域として周辺異民族を惹きつけつつ、主に東ヨーロッパへと布教範囲を広げていった。 近代になると、西欧諸国は世界各地で植民地侵略を行うが、それと平行して西方教会の海外宣教が進んでいく。圧倒的に優勢な軍事力と経済力とを背景に、世界各地の西欧文明化とキリスト教化が抱き合わせで図られていったのである。from Wikipedia Japan
2007.04.30
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ユダヤ教・イスラム教との関係 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はアブラハムの宗教という言い方で、類縁関係を強調されることがある。三者とも始祖アブラハム以来の伝統を意識しており、聖典を一部共有しているからである。ユダヤ教は 旧約聖書を聖典とし、キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典とし、イスラム教は旧約聖書の一部、新約聖書の一部およびクルアーン(コーラン)を聖典とする。ユダヤ教では当然旧約とは呼ばず、単に聖書、或いはタナハ等と呼ばれる。 3宗教の違いは「どれを重視するかという違いにすぎず、3宗教がエルサレムを共通の聖地とするのは偶然でなく必然である」とする見方もある(クルアーン(コーラン)は、大天使ガブリエル(ジブリール)によってムハンマドに告げられた)。 キリスト教とユダヤ教の最高神ヤハウェとイスラム教の最高神アッラーフ(アラー)は同一の神とする説もある。ヤハウェの名をみだりに唱えることはおそれ多いため、アッラーフという別名を設けたのがイスラム教の主張である。尚、アラビア語圏ではアッラーフは特定の神の名ではなく、神(英語:The God)を指す意味でも用いられ、現地のキリスト教徒はキリスト教の神を指してアッラーフと呼ぶ。 歴史的には、キリスト教はユダヤ教の内部から起こった。ナザレのイエス自身の宣教活動は主にユダヤ人を対象としたものであり、その弟子もみなユダヤ人であった。また初期のキリスト教徒はエルサレム神殿での礼拝を行っていた。その一方で異邦人キリスト教徒も、西暦40年代から50年代頃に出現してきた。ユダヤ教とキリスト教の関係は、おそらく神殿崩壊後、とりわけ緊張をもたらすものとなった。史料の研究からは、1世紀の終わりごろまでに、エビオン派のようなキリスト教内のユダヤ教的な信者は排除され、また伝統的ユダヤ教のほうからもキリスト教徒が排除されて、キリスト教が新しい独自の宗教として確立するに到ったと現代では考えられている。組織 信者は、古代教会に直接連なる教会では、平信徒と聖職者に分かれる。聖職者は、輔祭(助祭)・司祭・主教(司教)の三階級に大別される。大司教、枢機卿、教皇等の区別は、教会の組織的発展の結果、教会行政的必要性から、主教職が細分されたものである。一方、宗教改革以降成立したプロテスタント諸教会には、聖職者を設けず、信徒のなかから教職として牧師をおくものが多い。教職の他に教会政治(管理)に長老、監督といった役職を置く事もある。これらは運営上の役職であり、信仰上とは別とされる。 伝統的な教会においては、女性は聖職者になることができない(東方正教会には女輔祭の制度がギリシャ等に行われるが、これは上記の輔祭とは区別される)。プロテスタント教派では女性教職は珍しくない。教派によらず、聖職・教職につくには神学校等で数年の専門的訓練を受けるのが現代では一般的である。 一般的な教派では、信者はみなどこか特定の教会に所属している。これを教会籍という。洗礼などの秘蹟授与の記録が記録され、必要に応じて信者であることの証明を受けることが出来る。多く、居住地よりもっとも近隣の教会に所属するが、必ずしも義務ではない。教会の規模はまちまちであり、日本では、都市部の巨大教会では、1万人を超える信者が所属するところもあり、地方の小教会では10人前後の信者もある。 複数の教会を持つ教派では、管轄範囲を地理的区分によって分けることが多い。これを教区という。教区の中心となるのは、主教(司教)座聖堂である。教区にはいくつかの教会が所属する。一部教派では、教区はさらに教会を単位とする小教区に細分される。また、いくつかの教区をさらに統括する区分を設置する場合もある。このような複数の教会からなる教会(教派)に対し、ひとつの教会だけからなる教派を単立教会という。単立教会のほとんどはプロテスタントである。単立教会のなかには、教義の近いものが連合して組織を作るものもある。 同じ教派の教会であれば、籍のない教会の礼拝に参加することはまったく問題がない。また同一教派の教会から他の教会に移籍することも必要に応じて行われる。これに対して、所属教派自体を変えることを、改宗ないし転会といい、場合によっては宗教を変えるのと同じようなインパクトを持って受け取られる。カトリックでは自教派に改宗することを「帰一」、正教では「帰正」という。プロテスタント教会では多く転会という。洗礼は大抵の教会間で他の教会のものをも有効と認めるが、他の秘蹟については認めないことが多い。聖餐の共有は聖餐理解が教派ごとに異なることを反映して複雑であり、本項では詳述しない。 一部の教派では修道者といい、神に生涯を捧げる信者がいる。修道者は必ずしも聖職者ではなく、平信徒であることも多い。修道者は独身でなければならない。修道生活は3世紀ごろ、他宗教の先行例を模倣しつつエジプトで始まったと考えられている。元来は砂漠で一人行われることが多かったが、すでに古代に集団生活をする例が知られており、中世以降、修道院で行われることが普通である。カトリックにおいては、修道会という独自の組織があり、ローマ教皇に直属する。現代のカトリックでは、修道士はなんらかの修道会に所属している。どの教派においても、正式に修道士となるためには、数年の準備期間があり、十分な準備が出来たもののみが修道生活に入る。準備段階、またまれに修道士となった後で、世俗の生活に戻るものもある。キリスト教徒の生活 キリスト教の信者をキリスト教徒またはクリスチャン(ハリスティアニン)という。『使徒行伝』によると、この呼称は1世紀半ばにアンティオキアで初めて用いられた。原義はキリスト支持者というほどの意味である。日本ではかつてキリシタンと呼ばれた。 多様化する現代のキリスト教世界において、キリスト教信者の一般的な生活を描くことは、それが細部に及べば及ぶほど、困難である。以下の記述は最大公約数を述べたものであって、これに当てはまらないキリスト教徒も一定数いることを、読者は銘記されたい。 クリスチャンの範囲については、伝統的には洗礼を受けたもののみを信者とみなしているが、最近では特に自由主義神学といわれるキリスト教徒のなかに、少数ではあるが、キリストを信じているものは洗礼の有無によらずクリスチャンであると主張するものもいる。またプロテスタントのなかには洗礼を行わない教派もある。 洗礼を受けることを前提に、教会と交わる者を求道者、啓蒙者などという。洗礼を受けるための条件やその式次第などは、教派によって異なる。詳しくは、洗礼の項を参照。 信者が行う祈祷行為のうち、司祭や牧師らにより執行される公のものを公祈祷・典礼・奉神礼等という。信者でないものも列席することができるが、聖餐には与ることが出来ないのが一般的である。ほとんどの教派では定期的な公の礼拝を行う。公の礼拝は形式があらかじめ定められていることが一般的である。典型的な形を示すと、祈祷・聖書の朗読・聖体ないし聖餐にかかわる儀式がなされ、また司祭や牧師らによる説教が行われる。ここでの祈祷はしばしば歌唱を伴った聖歌や賛美歌のかたちで行われる。席上、信者からの献金が集められることが普通であるが、献金は義務ではない。聖餐のあと、短い祈りがあり、終了が告げられて礼拝が終わる。礼拝全体の時間は、教派によって異なるが、1時間から2時間ほどである。ほとんどの教派は日曜日を重視し、これを主日と読んで共同の礼拝を行うが、少数ながら土曜日を公の礼拝の日とする教派も存在する。詳しくは、祈祷・典礼・奉神礼の項を参照。 信者となったものは、それぞれの教派の聖餐に与ることができる。パンとぶどう酒がキリストのまことの肉と血になるという聖体の教義をもつ教派では、これを、ミサ、聖体礼儀と呼ぶ。他教派の類似の儀式に参加を許されるかどうか、また自教派が特定他教派の類似の儀式に参加を許すかどうかは、それぞれの教派によって考え方を異にする。またプロテスタントの教会のなかには、洗礼を受けていないものにも聖餐への参加を許すものがある。 最初期の教会では、ミサ(聖体礼儀)などの礼拝行為への参加、定期的な断食などの義務があった。これと歴史的に連なる伝統的な諸教派では、信者に、年に決まった数以上の聖体拝領・断食・告悔(痛悔)の義務などの信仰実践が教会法によって義務付けられている。その一方で、現代は各教派とも、あまりこうしたことを強調しない傾向がある。それぞれの教派ごとに課せられる信仰実践の義務と恩沢については、秘蹟および各教派ごとの記事を参照されたい。 公の礼拝行為のほかに、ほとんどの教派では、私的な祈りを共同で行う会や勉強会などを開いている。こうした会合はあまり大々的に宣伝されることがないが、たいていの場合、信者以外でも参加することが出来る。宿泊を伴うものもある。修道院をもつ教派では、教会のほか、修道院でも修道会に所属しない一般信者を対象にそうした集まりを主宰することがある。 信者は所属する教会を中心に、年齢別・性別の任意団体に加わることができる。児童たちは一般の礼拝と別に開かれる日曜学校に参加して簡単な教義を教えられ、青年会、婦人会や壮年会が分担して施設の清掃・維持・修繕、典礼の補助、教会の運営、他教会との交流行事などを行っている。多くの教会では、こうした団体への参加は義務ではない。 また、教義上の義務ではないが、キリスト教は、隣人や貧者への善行を伝統的に奨励しており、このため病人や旅行者あるいは貧者を対象とするキリスト教関係者の慈善活動は古来より盛んに行われた。現在慈善の意でもっぱら使われる「チャリティー」はラテン語で愛(ギ・アガペー)を意味するカリタスが英語化したものである。このような流れは、現代における社会福祉活動にも少なからず繋がっている。from Wikipedia Japan
2007.04.29
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キリスト教とは キリスト教(基督教、きりすときょう)は、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従う伝統的宗教。 世界における信者数は20億人を超えており、全ての宗教の中で最も多い。教派と信徒数 キリスト教は、おおむね次のように分類される。 1.原始キリスト教(最初期のみ、下記の諸教会の前身) 2.西方教会:西ローマ帝国で発展した教会。 1)カトリック教会 2)プロテスタント:16世紀の宗教改革運動によりカトリックから分離した諸教派。主な教派として次のようなものがある。 a.聖公会(イギリス国教会) b.ルーテル教会(ルター派) c.改革長老教会(カルヴァン派) 3.東方正教会(オーソドクス):東ローマ帝国で発展した教会。 4.東方諸教会:単性論の諸教会(アルメニア使徒教会、コプト正教会など)、ネストリウス派など 世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、1993年の集計で約21億人(うち、カトリック10億人、プロテスタント諸派計5億人、東方正教会2.4億人、その他教派2.75億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人をはるかに超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。例えばフランスでは9割以上が信者であるが、積極的に信仰実践しているもの(教えを守る、教会に行く)は7割であるといわれる。 日本国内に限ればキリスト教の信徒数は約200万人程度と言われ、" 神道約10,600万人 " あるいは " 仏教約9,600万人 " という数字に比すと少数派に留まる。 また教派とはいえないが、信仰形態に着目した分類として、とくに次の区分を用いることがある。 1.民衆キリスト教(スペイン、フランス、イタリア、中南米などの田舎で信仰される、カトリックとローマ帝国以前の多神教信仰の習合形) 2.土着キリスト教(上記「民衆キリスト教」と似ているが、中南米の非白人から信仰されている擬似キリスト教。例:ブードゥー教) 教典 紀元後1世紀から遅くとも2世紀末までに成立したとされる「新約聖書」(神の「新しい契約」の意。ギリシャ語聖書とも言う)だけでなく、(新約聖書の基礎として)ユダヤ教の聖典でもあるヘブライ語聖書も旧約聖書(神の「旧い契約」の意。)として教典とする。 キリスト教でいう旧約聖書の範囲は、教派によって異なる。 また、新約聖書の諸文書の位置付けも、わずかではあるが他と異なる教団もある。これらの分類(正典化)は古代末期に成立した。伝承では新約聖書は1世紀末までにイエスの直弟子(使徒)とその追随者たちによって書かれたとされているが、近代以降の研究の結果、現在ではいくつかの文書は彼らに仮託され、2世紀末までに成立したと考えられている。教義 キリスト教は、ユダヤ教から派生した一神教である。所謂正統教義では、神には、同一の本質をもちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格(父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とする。なお、上記と異なる神の概念を有する教派もある。たとえば三位一体を否定する教派(エホバの証人やユニテリアンなど)がある。こうした教派を「キリスト教」とみなすかどうかは多く議論の的となっている。アダムとイヴの背信行為以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪を背負っている存在であるが(原罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。 キリスト教の根本教義をまとめたものを信条(信経)という。もっとも重要なものとして、現在のキリスト教のほとんどの教派が共有するニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。信条は教会内に存在した異端を否定するために成立し、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。以下、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の構成に沿って、キリスト教の基本教義を示す。 1.神は三位一体である。 2.父は天地の創造主である。 3.子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。 4.キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。 のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。 5.キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。 6.キリストは自らの死によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。 7.キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。 8.聖霊も神(=人格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。 なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と東方正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。 9.教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。 なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。 10.洗礼(バプテスマ)による罪の赦し。 神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦す。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる。 11.死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。 伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。 またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体と血(聖体)に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、東方正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。 教義には教派ごとに若干の変異がみられる。たとえばアルメニア使徒教会などの単性論教会は、キリストの人性は神性に融合されたとする。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。 上記の多数派と異なる教義を有し、かつキリスト教を自認するものを異端という。多数派は、神概念の多神論的解釈、キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない、聖霊を人格的存在ではなく神の活動力とする、キリストを被造物とする、キリストの十字架(=贖罪死)と復活を認めない、などを異端として排除する。ただしカトリックの聖人崇敬、及び天使崇敬に多神教の性格を指摘する見解もある。なお現代では共存している各教派も歴史的には互いを異端といい、また教義の上では他派の見解を異端として、自派にもちこむことを多く拒否している。異端と正統の違いは、視点の違いが含まれている点にも留意されたい。from Wikipedia Japan
2007.04.28
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シーア派は、イスラム教の二大宗派のひとつ。イスラム教の開祖ムハンマドの従兄弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。 シーアは、アラビア語で「党派」を意味する普通名詞で、初期のシーア派の人々が、「アリーの派」(シーア・アリー)と呼ばれたことに由来している。のちには、シーアに単に定冠詞を付したアル=シーアという語で「アリーの派」を意味するようになり、派の名称として定着した。シーアに属する人のことをシーイーといい、スンナ派信徒を意味する「スンナに属する人」(スンニー)に対応する。従って、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは厳密に言えば同一語の二重の繰り返しである。 信徒は世界中に分布するが、イラン、イラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし(レバノン内戦参照)だが、人口の半数以上を超えているといわれる)では特にシーア派住民が多い。またパキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーンにも比較的大きな信徒集団が存在する。 シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派、イスマーイール派、ザイド派などがある。十二イマーム派はイランやイラク、レバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。 イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームの死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインド・パキスタンのホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。 ザイド派は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。 シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義をもつにいたった分派も存在し、系統不明のアラウィー派やイスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。From Wikipedia Japan
2007.04.21
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スンナ派はイスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた「慣行」(スンナ)を守る宗派という意味で、アラビア語で「スンナに従う人」を意味する「スンニー(Sunni)」の語からスンニー派、スンニ派とも呼ばれる。イスラームの宗派の中で最大の勢力となる、多数派となっている。多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などといわれたりもするが、正統であるかどうかはあくまでスンナ派の内側から見た理解である。 イスラームという宗教が生まれて間もない初期のころ(正統カリフ時代)に、預言者の後継者(ハリーファ(カリフ))を誰にするかという問題において、ムハンマドの従兄弟かつ娘婿であるアリーとその子孫のみがイマームとして後継者の権利を持つと主張したシーア・アリー(「アリーの党派」の意。後に略されて「シーア」、すなわちシーア派となる)に対し、アブー=バクル・ウマル・ウスマーンのアリーに先立つ三人のカリフをも正統カリフとして認めた大多数のムスリム(イスラーム教徒)がスンナ派の起源である。 スンナ派は、イマームの指導を重視するシーア派に対して、預言者の言行(ハディース)を通じてスンナの解釈を行うことで預言者の意思を体現しようとする。さらにイスラーム法学者の議論を通じて、コーラン(クルアーン)、慣行(スンナ)、合意(イジュマー)、類推(キヤース)の四つの方法を四法源として重視するに至った。イスラム共同体(ウンマ)の間の「合意」を重視する点がシーア派と比較した場合のスンナ派の大きな特徴である。四法源から導き出されたスンナ派のイスラム法学は法源の扱い方の違い、解釈の違いによってさらに四つのイスラム法学派(ハナフィー学派・シャーフィイー学派・マーリク学派・ハンバル学派)に分かれている。スンナ派の信徒はいずれかの法学派に属し、それによって生活を律する。また、神学的にはアシュアリー派とマートゥリーディー派で述べられる信仰箇条をイスラームの正統的信条とする(ただし、ワッハーブ派ではこの二派は異端とされる)。 歴史的に見て、イスラム世界の中心部に興亡した王朝はウマイヤ朝・アッバース朝を始めとして多くがスンナ派に属する。ファーティマ朝やサファヴィー朝のようなシーア派を奉ずる強大な王朝が興ると対抗してセルジューク朝・オスマン朝の中でスンナ派擁護の動きが強くなることもあった。 スンナ派イスラームの拡大においては、イスラーム神秘主義者(スーフィー)の力が大きいと言われる。北アフリカ(マグリブ)では聖者崇拝が盛んであるし、トルコや中央アジアでは革命により公的に禁止されたものの歴史的には神秘主義教団(タリーカ)が大いに栄えた。エジプトやインド・パキスタンでは現在もタリーカが社会的に強い影響力を持つ。 このようにして広範な地域に広がったスンナ派は、スンナ派と一口に言っても、例えば東南アジアの国インドネシア・ジャワ島のスンナ派と中央アジアの国ウズベキスタンのスンナ派と、西アフリカの国マリ共和国のスンナ派の間で実体に違いが見られる。ジャワにはジャワ神秘主義があるし、ドゥクンと呼ばれる一種の黒魔術師すら認められる。このような多様性がスンナ派のいまひとつの特徴であると言えよう。 しかし、歴史的にスンナ派内部では、自らの多様性に対し、預言者の時代を見習い(見直し)、退廃した社会をただそう、より正しい社会になろう、という復古改革運動がしばしば見られる。特に近代に至ってサウジアラビアでワッハーブ派の改革運動が生まれ、その影響を受けてコーラン・スンナの規定を厳格に適用することで多様性・土俗性を廃そうとするイスラム原理主義と通称される初期イスラーム復古運動へとスンナ派ムスリムの一部は現在も進みつつある。特に近代のスンナ派の復古運動は時に反帝国主義・反共産主義・反イスラエル・反米などの意識と結びつき、無視できない潮流となっている。from Wikipedia Japan
2007.04.20
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「ジハード」概念の問題 クルアーンの記述には、異教徒に対する暴力を奨励するような記述が多数見られるが、これは当時、啓典の民(キリスト教徒、ユダヤ教徒)に裏切られ、イスラム教徒が多数殺されたことに対する記述であり、クルアーンには、啓典の民に対して、礼儀正しく、敬意を払わなければならないと訴えている箇所も多数見られる。ムスリムが”神のために苦しむこと、自分の欲望を断ち切って努力する事”をジハードというが、この意味は信者の間で誤解されることが近年増え、ジハードの名のもとに多くの破壊が行われている。 もともと伝統的な多神教が信仰されていたアラブ人の社会の中で生まれ、さらにユダヤ教やキリスト教などの異教を乗り越える中で拡大していったイスラム教は、自らが純粋で真正な一神教であるという確信に基づく自意識を強く持ち、イスラーム共同体の開祖であるムハンマドの時代からムハンマド自ら多神教の神像を打ち壊し、敵対するユダヤ教徒を屈服させることによって急速な拡大を実現した宗教であるとされているが、その一方で、ムハンマドは和平を強く象徴しており、偶像破壊は、幾度と行われた外交的な交渉で勝ち取ったメッカへの巡礼許可のもとに行われたものである。イスラームを奉ずる国家や民族が、他の宗教を奉ずる文化に対して圧迫を加えた例は少なからず見受けられるが、宗教の強制はイスラムでは堅く禁じられている。(ただし、これは異教徒に対するものであり、イスラーム信徒の棄教者は死刑とされる)シリアや小アジア、イベリア、インドなどでは、ムスリムによってモスクへと改築されたり、破壊されてしまったキリスト教会、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院が数多く見られる。但し歴史上の其れに関しては、ムガール帝国期のインドにおいて非ムスリムとムスリムの宥和政策がとられたことやクリスチャンの十字軍などを挙げイスラムの排他性のみをことさらに強調するのは誤りだとする意見もある。イスラームによる他宗教への弾圧に関しては近年でも、タリバーン政権によってバーミヤーンの大仏が破壊されてしまったことは記憶に新しい。 近年、自爆テロなどで活動の過激さを増しているイスラーム主義の先鋭的勢力も、異教徒に対するジハードを旗印として活動を行っていることは紛れもない事実である。 パレスチナ問題に対する抗議として行われるハマースの自爆テロなどはその典型であるが、こうした過激なジハードが繰り返されてきた結果、過激派はムスリムの間に少なからぬ支持者を集める一方で、国際世論をイスラーム社会に対する同情から、イスラーム社会の排他性に対する非難へと傾かせることになった。 特に、アメリカ同時多発テロ以降、その傾向は強まりつつある。同時多発テロの実行犯たちは、これを「ジハード」であると認識し、善行と信じて犯行を実施したとされている。イスラーム社会の宗教指導者たちの少なからぬ者は、「暴力はイスラームの本質ではない」として直接的・間接的にテロを批判したが、複数の宗教指導者が、テロの実行犯たちをジハードによる「殉教者」として称えるファトワーを発したことも事実であり、逆に非難するファトワーは皆無である。しかし、イスラム教では、無実の者を殺害する事は一切禁じられており、クルアーンにも厳しく書かれている。もともと、テロリストとは、”テロを実行する者”であり、ムスリム ”神に服従する者”ではない。従って、イスラム教を名乗り、テロを行うことは、最大の矛盾ということになる。from Wikipedia Japan
2007.04.19
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現代のイスラム教を巡る諸問題政治的問題 イスラームの項目でもあるように、イスラム教は宗教的理念のみならず、民間の慣習や政治に深く関わっている。そのため、政教分離を特徴とする欧米的なシステムとイスラーム的なシステムは相矛盾することとなり、どの程度折り合いをつけるかが、20世紀以来のイスラーム社会の大きな問題となってきた。 多くの国は、イスラームの伝統と、欧米的なシステムの間で融和を図ろうとしているが、こうした姿勢自体に対する反発も根強い。いわゆる「イスラム原理主義」、あるいは政治的運動としてのイスラーム主義は、こうしたイスラーム的価値観の折衷に反対し、可能な限りイスラームの伝統、クルアーンの教えにのっとらねばならないと主張する。しかし、世界経済の進展や、国際社会に対する欧米諸国の国力の圧倒的な優位のもとではイスラーム主義的な主張は多くの困難を抱えており、武力を行使してまで理想の実現をはかる人々も少なからずあらわれる。ホメイニーが指導するイラン革命やアフガニスタンのターリバーンがそれである。 また、中東戦争など、ムスリムが大多数を占める国々に対する欧米諸国の介入を目にして、欧米のキリスト教社会がイスラーム社会を圧迫し、蹂躙していると構図でとらえるムスリムは多い。にもかかわらず、イスラーム諸国は国際的な発言力が大きいとはいえないし、イスラーム諸国の中に強い影響力を持つエジプトやサウジアラビアなどが親米・欧米協調路線をとっているため、イスラーム諸国はしばしばイスラーム社会が「被害者」となる情勢に対して無力である。これらのことが、イスラーム社会の多くの民衆に反欧米感情とともに、自国政府の「同胞の危機に対する無力」に対する失望・不満を鬱積させることになっていて、暴力によって欧米社会の圧力を排除しようとする過激派(アルカーイダ、ジェマ・イスラミアなど)の誕生のひとつの要因になっている、との見方もある。現代国際社会の普遍的価値観との価値観の相克の問題 イスラム教を奉ずる社会においては、現在の国際社会で信奉されている普遍的な価値観、すなわち人権などの近代思想から逸脱する価値観が、イスラームの名のもとにしばしば正当化される傾向が普遍的な価値観を奉ずる側から批判的に指摘されている。また、アッバース朝の時代にほぼ固まったイスラーム法を遵守する結果、その後の社会情勢の変化に対する柔軟な対応を欠くようになったという主張も根強い。 一方で、イスラーム社会の内部では、イスラームの伝統の名の下に行われてきた慣習や法を、イスラームの教えの解釈の適用変更によって改善すべきだという主張や、イスラームと人権などの価値観は共存可能である、あるいはイスラームは本来人権を尊重する教えである、といった言説も見られる。 現実の社会では、多くの国では、イスラーム法に厳格に基づく刑罰は既にあまり行われなくなっているが、サウジアラビアやイラン革命後のイラン、ターリバーン時代のアフガニスタンなどでは、イスラーム法を厳格に適用した結果、国際社会から人権侵害として憂慮された事例が報告されている。イランでは、道徳裁判所の判決が人権を無視していると伝えられることが頻繁に起こっている。サウジアラビアでは、窃盗の罪で手を切り落とす刑罰が実施されていると伝えられている。また、アラブ民族主義に基づく世俗国家を志向していたサッダーム・フセイン政権下のイラクでも、代表サッカー選手が負けた場合、鞭打ち刑が実施されたためにFIFAが刑の執行中止を勧告した例がある。 全体的な趨勢としては、社会の都市化・近代化が進んだ地域では、イスラームの教えを根拠とする価値観が薄らぎやすい傾向があるとされる一方、都市化・近代化で伝統的な共同体が破壊された結果、人々がアイデンティティの拠りどころをイスラーム的な価値観に求め、生活を再び保守化する傾向があるとされている。「女性差別」問題 一般にイスラーム社会は男尊女卑の世界と言われているが、実際に男尊女卑はイスラム教の教えに反するものである。法的に女性の固有の権利も認められており、これを根拠にイスラーム社会の法慣習に擁護的な論者はイスラームは男女同権であり、男尊女卑という非難は不当であると主張している。しかし、クルアーン及びイスラーム法が、男女がそれぞれ独立した社会活動をしている上、結婚・出産等に関しては男女ともに大幅に制限が設けられるのは当然であるという思想を根本に有している。このため、男性と女性の権利の差異が厳然として存在するという事実は否定の余地が無く、こうした事情を踏まえた上で、「イスラーム社会では男女は共存することはできず、男女間には完全な平等は存在できない」という解釈も唱えられ、浸透しつつある。 クルアーンには、当時低い立場にあった女性の立場を守るために下された法令が書かれており、法的に女性の遺産相続や離婚、学習の権利も認められており、男女同権であることを主張している。なお、イスラーム法では男性は4人まで妻を有する権利を有する一夫多妻制であるが(これは元々は男尊女卑的な思想に基づくものではなく、当時、預言者ムハンマド率いる2回の戦争で夫を亡くした女性の地位を守り、母子の生活手段を確保するために神が下した啓示であり、弱者救済策を目的としている)、現代社会では、一部の裕福な層とかなり貧困な層を除き、イスラーム社会の夫婦の大部分が一夫一妻である。複数の妻を有する場合は夫は妻らを平等に愛し、扱うことが義務とされる。また、イスラム教は、妻の数を4人までと定めている唯一の宗教で、同じ一神教であるキリスト教やユダヤ教には、そのような法律は定められていなく、当時は4人以上の相手を妻に迎える事が主流であった。 また、法慣習の建前から離れた現実においても、今日、イスラーム社会での女性の人権に対する問題は深刻である。さらに、イスラーム法に直接には基づかない慣習が非常に多くの国に残されているのも深刻な問題とされている。国ごとの違いや、あるいは一国の中でも社会階層や地域による差は大きいが、「女子の就学制限」、「名誉の殺人」、「女子割礼」などが現在も横行しており、イスラームの伝統的な価値観に照らして正しいと少なからぬ人々が信じている。 特に、強姦罪において、イスラーム法によれば容疑者を有罪とするためには証人が4人必要であるとされることから被害者にとって不利が大きく、国際的な非難の的である。さらに、貞操や名誉などの伝統的な社会通念を重んじる地域では、強姦の被害を受けた女性は被害者であるとみられるよりもむしろ「恥」とみられるような感覚をもたれることになり、イランでは、道徳裁判所の判決により、強姦の被害者が姦通罪により死刑になるような事例も伝えられている。 服装の規定を厳格に守れば、女性は自ずと家庭外での活動を制限されることになる。これは、イスラームの教えのひとつに、女性は家庭の外では夫以外の男性の視線から自身を守るために女性的な部分を包み隠すべきであるとする教義が存在するためである。これがイスラーム以外の宗教の信徒でも見られる西アジア社会の伝統的な女性の服装習慣と結びついて、女性は外出時には体全身を覆う外出用の衣装を身に付けることがイスラーム的に好ましいと多くの社会では考えられており、サウジアラビアやターリバーン時代のアフガニスタンにように、政府による女性の外出時の服装制限が行われた地域も存在する。また、服装は西欧化が進んだ地域でも、イスラーム的な女性の外出時の習慣としてスカーフを着用し、髪を隠すムスリムの女性は多い。一方、エジプトやトルコなどでは、学生など特に若い層を中心に、日常生活のほとんどを西洋人と同じジーンズなど軽装で過ごす女性が多い地域も増えてきている。 女性のスポーツの問題に於いても、服装が制限される結果、それによって競技ができない場合も少なくないため、多くの国で女性のスポーツ浸透が大幅に遅れている。中には、イスラーム教の棄教及び他宗教への改宗によってスポーツ社会に進出した女子選手も存在する。女子バレーボールでは、エジプトの代表チームが近年登場するようになっているが、このユニフォームは、クルアーンに抵触しないようにデザインされている。また、スカーフ着用で試合に出場する選手も多い。 スカーフ着用に関しては、イスラーム社会の内外で現在、賛否両論が相次いでいる。慣習に厳格な国では女性が外出する際にスカーフを着用することが強要されている。一方で、世俗主義を標榜するトルコなどでは、政教分離の原則に基づいて公的な場でスカーフを着用することが忌避される。加えて、脱イスラームを標榜する人々や、イスラーム社会外部の人々の中には、スカーフ着用を女性の人権抑圧の象徴として着用を禁じるべきと主張するものも少なくない。トルコや、あるいはフランスなどのヨーロッパにおける政教分離原則の国々においては、法律によるスカーフの着用禁止を巡って、自発的にスカーフを着用するムスリムの女性から逆に人権上の問題ととらえられているような事例もしばしば発生しており、政治問題に波及している。from Wikipedia Japan
2007.04.19
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イスラム教の歴史始原 西暦610年頃のラマダーン月に、ムハンマドはマッカ(メッカ)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、アラビア半島でイスラーム教を始めた。最初、彼が人々に伝えた啓示の教えはマッカ(メッカ。以後の表記は「マッカ」)で迫害されたため、621年、ムハンマドはヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に逃れる(ヒジュラ)。 ヤスリブにムスリムのウンマ(イスラーム共同体)を建設したムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにマッカを占領した。その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、後を継ぐイスラーム共同体の指導者として預言者の代理人(カリフ)が定められた。スンナ派とシーア派の分離 ムハンマド死後もイスラーム共同体の勢力拡大は留まることは無く、4代の正統カリフの指導のもとイスラーム帝国と呼びうる大帝国へと成長していった。結果、ムハンマドの後継者のリーダーシップの下、イスラム教は急速に拡大し、現在に至るイスラーム勢力範囲の確立にも繋がった。イスラム教勢力が改宗の他にも、軍事的征服で拡大していった事が最も大きな要因とされる。 しかし、拡大とともに内紛も生じ、3代カリフの死後、4代以降の座を巡って、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラーム共同体を指導する資格があると主張するシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)と、それ以外のスンナ派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)へと、イスラーム共同体は大きく分裂した。結局、イスラーム帝国はウマイヤ家のムアウィーアがカリフ位を世襲して支配する。これに対して、政治的少数派となったシーア派は次第に分派を繰り返していき、勢力を狭めた。イスラーム帝国の時代 8世紀半ば、ウマイヤ家のカリフ統は、よりムハンマドの家系に近いアッバース家に倒され、アッバース朝が成立する。アッバース朝はアラブ人以外でイスラームの教えを受け入れた者をムスリムとしてアラブ人と同等に扱う政策をとったため、ここにイスラーム共同体の国家はアラブ帝国から信仰を中核とするイスラーム帝国に転換したとされている。アッバース朝のもとで、それまで征服者のアラブ人の間だけにほとんど留まっていたイスラム教の信仰はペルシア人などの他民族に広まっていった。 また、国家としてのイスラーム帝国も、アッバース朝の下で空前の繁栄を迎えた。この時代、ムスリムの商人は広域貿易を盛んに行い、西アフリカ、東アフリカ、インド、東南アジア、中央アジア、中国などへ旅立っていったので、次第にイスラム教の布教範囲は広がっていった。 また、神学をはじめとする多くの学問が栄え、イスラーム法(シャリーア)が整備されていった。一方で、素朴な信仰から離れ始めた神学への反発からスーフィズム(イスラム神秘主義)が生まれ、イスラーム以前の多神教の痕跡を残す聖者崇拝と結びついて広まっていった。 しかし、同時にアッバース朝の時代には、イベリア半島にウマイヤ家の残存勢力が建てた後ウマイヤ朝、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が起こり、ともにカリフを称し、カリフが鼎立する一方、各地に地方総督が独立していった。こうしてイスラーム共同体の政治的分裂は決定的になる。近代 近代に入ると、イスラム教を奉じる大帝国であるはずのオスマン帝国がキリスト教徒のヨーロッパの前に弱体化していく様を目の当たりにしたムスリムの人々の中から、現状を改革して預言者ムハンマドの時代の「正しい」イスラム教へと回帰しようとする運動が起こる。現在のサウジアラビアに起こったワッハーブ派を端緒とするこの運動は、イスラーム復興と総称される潮流へと発展しており、現在も多くのムスリムの心を掴んでいる。
2007.04.17
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宗教への理解の一助に・・・。 イスラム教とは唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ、またはアッラー)を信じ、神が最後の預言者たるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフを通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ従う一神教である。アッラーは、99あるとされる神の呼称の一つであり、”唯一の”という意味を含む。 ユダヤ教やキリスト教(世界三大宗教の一つ)と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なるとされる唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。イスラム教はアラビア語を母語とするアラブ人の間で生まれ、神がアラビア語をもって人類に下したとされるクルアーンを啓典とする宗教であり、教えの名称を含め、宗教上のほとんどの用語はアラビア語を起源とする語である。 イスラム教に帰依する者(イスラム教徒)は、アラビア語起源の言葉でムスリム(muslim)といい、ムスリムは、自らの教えの名を、アラビア語で「身を委ねること」「神に帰依すること」を意味するイスラーム (al-Islam) の名で呼ぶ。「イスラーム」は「神への帰依」を意味すると解されており、「ムスリム」(イスラム教徒)は「神に帰依する者」を意味する。 なお、日本を含む東アジアの漢字文化圏では、古くは「回教」と呼ばれることが多かったが、現在はどの国でもイスラームの名に基づく呼称が一般的であり、あまり用いられていない。 イスラム教の教典(聖典)は、アラビア語で「朗唱されるもの」という意味をもつクルアーン(コーラン)である。クルアーン自身の語るところによれば、唯一なる神が、人類に遣わした最後にして最高の預言者であるムハンマドを通じて、ムスリムの共同体(アラビア語でウンマ)に遣わした啓典(キターブ)であり、ムスリムにとっては、神の言葉そのものとして社会生活のすべてを律する最も重要な行動の指針となる。 イスラム教では、神(アッラーフ)が、預言者を通じて人類に下した啓典が、人類にとって正しい信仰の拠りどころになると考えている。 ムハンマド以前から、神は様々な共同体に預言者を遣わして、啓典を下してきた。しかしそれらのうちでもクルアーンは、神が人類に啓典を伝えるために選んだ最後にして最高の預言者であるムハンマドに対し、最も明瞭な言語であるアラビア語を用いて人々に与えた啓典であり、アラビア語で書かれたクルアーンの言葉は神の言葉そのもので、最も真正な啓典であるとされている。 このような性格のために、イスラム教は、アラビア語を解するアラブ人のための民族宗教であるかのようにとらえられたこともあるが、クルアーンは全人類のために下された啓典といわれている。 イスラム教の信仰の根幹は、六信と五行、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。 六信は、次の6つである。1.神(アッラーフ) 2.天使(マラーイカ) 3.啓典(クトゥブ) 4.使徒(ルスル) 5.来世(アーヒラ) 6.定命(カダル) このうち、特にイスラム教の根本的な教義に関わるものが神(アッラーフ)と、使徒(ルスル)である。 ムスリムは、アッラーフが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信ずる。イスラム教に入信し、ムスリムになろうとする者は、証人の前で「神のほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。 また、ムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は、次の5つとされている。1.信仰告白(シャハーダ) 2.礼拝(サラー) 3.喜捨(ザカート) 4.断食(サウム) 5.巡礼(ハッジ) これに、聖戦(ジハード)を6つめの柱として加えようという意見もあるが、伝統的には上の5つである。 これらの信仰行為は、礼拝であれば1日のうちの決まった時間、断食であれば1年のうちの決まった月に、すべてのムスリムが一斉に行うものとされている。このような行為を集団で一体的に行うことにより、ムスリム同士はお互いの紐帯を認識し、ムスリムの共同体の一体感を高めている。集団の一体感が最高潮に達する信仰行為が巡礼(ハッジ)であり、1年のうちの決まった日に、イスラム教の聖地であるサウジアラビアのマッカ(メッカ)ですべての巡礼者が定まったスケジュールに従い、同じ順路を辿って一連の儀礼を体験する。 ムスリムは、クルアーンのほかに、預言者ムハンマドの膨大な言行をまとめたハディース(伝承)に、クルアーンに次ぐ指針としての役割を与えている。その理由は、ムハンマドは神に選ばれた最高の預言者であるから、彼の言行のすべては当然に神の意志にかなっていると考えられるからである。また、ムスリムの実生活上の宗教や日常に関するさまざまな事柄を規定するために、クルアーンやハディースを集成してシャリーア(イスラーム法)がまとめられている。 これらは教典ではないが、教典を補ってムスリムの社会生活を律するものとされており、その範囲は個人の信条や日常生活のみならず、政治のあり方にまで及んでいる。信仰の共同体と政治的な国家が同一であったムハンマドの存命中の時代を理想として構築されたイスラム社会の国家は政教一元論に立っているのであり、ヨーロッパのキリスト教社会の経験から導き出された「政教分離」という概念はそもそもイスラムに適合しないとすら言われるのはこのためである。 ムスリムはクルアーンやシャリーアの定めるところにより、日常生活においてイスラムの教えにとって望ましいとされる行為を課され、イスラムの教えにのっとった規制を遵守する。教義の根幹として掲げられる五行はその代表的なものであるが、これらは社会に公正を実現し、ムスリム同士が相互に扶助し、生活において品行を保ち、欲望を抑制して、イスラムの教えにのっとってあるべき社会の秩序を実現させようとするものである。 公正の実現と不正の否定は、イスラムの社会生活において特に重要視されている。伝統的社会においては、個々人がシャリーアを遵守し、イスラム的価値観にのっとった公正を実現すべきものとされた。公正は商取引の規制にまで及んでおり、シャリーアに適合しない商取引は不正とみなされる。また、ザカート、サダカなどの喜捨の制度によって弱者を救済することは、現世の罪を浄化し、最後の審判の後によりよい来世を迎えるために望ましい行為とされ、イスラム社会を支える相互扶助のシステムとなっている。社会的弱者に対する救済はイスラムの教えにおいて広く見られ、一夫多妻制のシステムも、元々は母子家庭の救済策であったとされている。 品行を保ち、人間の堕落を防ぐために、欲望を抑制する教えもみられる。女性が家族以外の男性に対して髪や顔を隠すよう求められていることはよく知られているが、これは性欲から女性を保護する目的が本旨であると考えられている。酒は固く禁じられるが、それは飲酒が理性を失わせる悪行であると考えられているからである。しかし、コーヒーやタバコのように、イスラム教の教義が確立後にイスラム社会にもたらされた常習性や興奮作用のある嗜好品については、酒と類似のものとして規制する説も歴史的には見られたものの、今日では酒と異なって合法的なものとみなされることがほとんどであり、いずれもムスリムの愛好家は非常に多い。 「清浄」に対する強い意識も特色であり、動物の死肉や血など不浄なものが体に付着したまま宗教的行為を行ってもそれは無効とみなされる。また、礼拝の際には、体の外気に触れている部分(手足、顔など)は必ず水か日光で消毒された砂で清めなければならないとされている。 イスラム教における信徒の共同体(ウンマ)は、すべてのムスリムが平等に参加する水平で単一の組織からなっていると観念されている。 従って、キリスト教におけるように、宗教的に俗人から聖別され、教義や信仰をもっぱらにして生活し、共同体を教え導く権能を有する「聖職者」は否定されており、これが他宗教に見られない特徴とされている。しかし、六信や五行に代表されるような信仰箇条や信仰行為の実践にあたって、ムスリムを教え導く職能をもった人々としてウラマー(イスラーム知識人)が存在する。 ウラマーは、クルアーン学、ハディース学、イスラーム法学、神学など、イスラームの教えに関する様々な学問を修めた知識人を指すが、彼らは社会的な職業としてはイスラーム法学に基づく法廷の裁判官(カーディー)、モスク(礼拝堂)で集団礼拝を指導する導師(イマーム)、宗教的な意見(ファトワー)を発して人々にイスラームの教えに基づく社会生活の指針を示すムフティー、イスラームの諸知識を講ずる学校の教師などに就き、ムスリムの信仰を導くを果たしている。ウラマーは信仰においてはあくまで他のムスリムと同列に置かれており、聖職者ではないとされているが、こうした特徴のためにしばしば聖職者と混同されるし、実際に、他の宗教における聖職者に近い役割を果たしてきた。このため、非イスラーム教社会のマスコミなどではしばしばウラマーは「イスラム教の聖職者 (cleric)」と報道されている。 from Wikipedia Japan
2007.04.17
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