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17日午後、愛知県の長久手で発生した発砲立て籠もり事件、18日の夜になって漸く解決を見ました。 しかし、それにしても愛知県警の手際の悪さは(不手際を通り越している)特筆すべきものでしょう。まず第一に事件発生を知らせる第一報を受けて(押取り刀で)駆けつけた所轄交番勤務の巡査部長はある面仕方が無いけれど、その後の現場方位陣形などを見ていると前方(前線)に一般機動隊や捜査一課などの犯罪捜査員、その後方に特殊部隊(SAT)員や一般署員という不思議な状況が看て取れました。 通常はSATを前面に押し立て、周囲を警戒するのは機動隊員で、周辺住民への聞き込みなどを犯罪捜査員に当てるのが常道です。これでは事態を楽観視し、各部に手柄を分配しようとしたと見られてもおかしくは無い。しかも、周辺警戒中!のSAT隊員が流れ弾に中ってしまうという結果に慌てふためき、次の一手が打てなくなるという「危機管理の王道」を逆に歩むことになってしまいました。 それだけでも驚きなのにも関わらず、被弾した所轄交番勤務の巡査部長を5時間近く現場に放置してしまったり、18日の午後3時ごろに脱出した人質を確保した段階で発音発煙手榴弾などを使って制圧することができたにも拘らず夜になって犯人が投降するまで漫然と「説得」を続けるというおよそ信じられない指揮能力の低さを露呈している。こういう事件が発生した場合にはSATに現場の指揮について全権を委任すべきで、突入などの最終決定を県警本部長がSATの指揮官と協議して決定しなければ「船頭多くして、船、山に上る」の言葉の再現になってしまいます。 その他にも、現場の非常警戒線内を見ていると確かに防弾チョッキを着用していましたが、中楯(ジュラルミン製)を構えているけれど全てが全て「投石防禦体勢」であり、銃弾防禦の体勢になっていない。楯を構える際は垂直ではなく、下端を前方に押し出し、約40度程度の傾斜を与えなければケブラーなどで補強してあっても簡単に銃弾は貫通してしまいます。
2007.05.19
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「安全第一」という言葉は皆さんよくご存知だと思いますが、このスローガンは二十世紀初頭の米国、USスチール社の社長であるエルバート・ヘンリー・ゲーリーが多発する労働災害(労災)に心を痛め、それまでの経営方針である「生産第一・品質第二・安全第三」を改め、「安全第一・品質第二・生産第三」としたことに始まります。 この方針が実行されると、労働災害はたちまち減少し、生産性も大きく向上することとなりました。 この「安全第一」は、安全に対するコストと労働災害や事故などに伴うコストを天秤に掛けてバランスをとることに他なりません。また、安全に関わるコストというものは何も無い時には過大に思われがちでありますが、一たび災害などに見舞われると復旧に掛かるコストのみならず、シェアの減少なども誘発することになります。 企業の経営においてロングターム(長期間)の経営戦略及び株主などの出資者に対する説明をする際には特にこのコストバランスを重視しなければなりません。 この「安全第一」というものは重厚長大産業などだけでなく、いまや第三次産業などにおいてもリスクマネジメントの一環として必要不可欠なものです。 リスクマネジメントを実行する上で必要なことは「最悪の事態を常に考慮すること」であり「最小のコストで最大の果実」を得るための手段を講ずることにあります。また、目先のコストにとらわれてしまうと時として大きなコストを支払わなければならないことになってしまいます。
2007.05.07
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キリスト教の文化的影響建築への影響 中世のヨーロッパにおいて大規模な建築は教会や修道院に限られたために、ある時期までのヨーロッパ建築史は教会建築史に重ねられる。特に11世紀よりロマネスク様式、12世紀末よりゴシック様式、15世紀からはルネサンス様式の大聖堂がヨーロッパ各地で盛んに建造された。「神の家」を視覚化した壮麗な建築は今も見る者を圧倒する。 それらは現在も教会として使用されつつ、各都市のシンボルとして保存され、ヨーロッパ都市の原風景の一部となっている。美術への影響 中世西ヨーロッパではキリスト教は美術の最大の需要を生み出していたといえる。上記の聖堂には、聖人の肖像画や聖伝を描いた壁画や絵画、窓にはめ込まれたステンドグラス、聖像、祭壇や様々な聖具類が供えられた。また祈祷書などの写本への挿絵も描かれた。これらはヨーロッパ美術史の中でも重要な位置を占める。一方、ローマ帝国時代に盛んだった室内装飾などの世俗美術は、中世初期ににはいったん廃れた。しかし、12世紀頃より古典古代への関心が復活するとともに異教のテーマに基づいた絵画が現れはじめ、13世紀後半から公然と描かれるようになった(たとえばボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』)。そして西ヨーロッパにおいては、世俗の美術がキリスト教美術を量的に圧倒するようになっただけではなく、その様式が宗教画に逆に取り入れられるようにもなった。対して東方教会では、聖像の規範性を重んじ、古来の型を保つことを教義の一部としたため、教会美術は時代による変化をあまりこうむらなかった。しかしルネサンス以後の西方美術は東方にも影響を与え、特に18世紀以降、ロシアを中心に、印象派風の筆致を持ちやや写実的な聖像表現も行われた。音楽への影響 キリスト教会では典礼での必要上、独特の教会音楽を発展させた。聖句を詠唱するための節回しがかなり早い時期に規定された。高低アクセントをもつギリシア語を公用語としたギリシア教会では、8種類からなる教会旋法が整備され、韻文で書かれたすべての祈祷文を、そのどれかにあてはめて歌うことが出来るシステムが確立した。これはラテン教会にも影響を与え、後者は今日グレゴリオ聖歌として知られている。グレゴリオ聖歌は単旋律(モノフォニー)であるが、9世紀頃には、これにオルガヌム声部を加えた複旋律(ポリフォニー)が現れる。同時に、それまでは口承されていた旋律を正確に記録するための楽譜が考案され、理論化が行われるようになる。教会音楽とは神の国の秩序を音で模倣するものであり、理想的で正確に記述されるべきものという信念が背景にあったと考えられているのだが、これらが今日の五線譜を用いた記譜法、和声法や対位法などの音楽理論へと発展していくことになる。 教会の外部にも世俗的な音楽がヨーロッパに存在していたことは確かなことではあるが、記譜法と理論を兼ね揃えた教会音楽は後世への影響力という点では圧倒的に優勢であった。14世紀頃より、こうした教会の音楽理論が世俗音楽へ流れ始め、やがて教会の外で西洋音楽は発展していくことになる。 作曲家で言えば、バッハやヘンデルまでは教会音楽が作曲活動の中で重要な位置を占めていたが、それ以降は教会音楽の比率は小さいものとなる。とはいえミサ曲は作曲家にとって重要なテーマであり続けたし、キリスト教関連のテーマを使った曲はその後も続いていく。文学への影響 中世のキリスト教文化の中では、聖人伝という形で多くの民間説話が語られて、流通した。それらの多くはウォラギネ『黄金伝説』(13世紀)の中に収められており、後のヨーロッパ文学に大きな影響を与えている。 また、キリスト教の聖典自体が物語を豊富に擁しており、旧約聖書の創世記、ノアの箱舟、モーセの出エジプト、師士たちの年代記、そして教義の根幹を支える福音書の受難物語などは、現代に至るまで文学者たちへインスピレーションを与え続けてきた。ジョン・ミルトンの『失楽園』、オスカー・ワイルドの『サロメ』などが有名であるが、プロットの借用という程度であれば現代日本のライトノベルに至るまで多くの分野に影響は及んでいる。 キリスト教思想に真っ向から取り組んだ作品としては、悪魔と契約を結んだ知識人が最後に救済されるゲーテの『ファウスト』、キリストと異端審問官とを対決させたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(「大審問官」の章)などが有名である。 また、アウグスチヌスやイグナティウス・ロヨラなどの告白録は、自己内省で構成される告白文学という形式の成立に大きな影響を与えた。哲学への影響 ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されたが、キリスト教側からは「哲学は神学の婢(はしため)」と位置づけられていた。 11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内で発展する。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトーマス・アクィナスの業績は特に、壮大なものである。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論が行われている。 15世紀頃より、人文主義者たちはスコラ哲学を旧弊として敵視し、キリスト教の枠から離れて思想を展開していくことになるが、キリスト教社会で長年に渡って重ねられてきた一神教的・二元論的世界観にヨーロッパ社会は永く拘束された。科学への影響 自説を公表しなかったコペルニクスや、宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイの事例などから、キリスト教は科学に対して抑圧的であったと考えられてきた。特に、近代科学の発展期はカトリック教会の保守化の時期と重なっているために、多くの科学史家はカトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきたとしてきた。 しかし、村上陽一郎のようにヨーロッパ近代科学を支えたのはキリスト教の精神であったとする説を唱える科学史家もいる。実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもある。それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという説である。from Wikipedia Japan
2007.05.01
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日本とキリスト教歴史 日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国で景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃秦河勝等によって日本に伝えられたとする説があり、聖徳太子の幼名は厩戸皇子であるが馬小屋の前で生まれた事からイエス・キリストを連想させたからという説もあるが、想像の域を出ない。 史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀のカトリック教会の司祭、イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教徒は「切支丹」(キリシタン)、キリスト教宣教師は「伴天連」(バテレン)と呼ばれた。しかし豊臣秀吉は一部のキリシタン大名によって、入信の強制や神社仏閣の破壊、僧侶の弾圧や日本人奴隷貿易などが行われているとし、伴天連追放令を布告した。秀吉の政策は部分的・限定的なものだったが、徳川幕府は国をあげての徹底的なキリシタン弾圧を実施、多くの信徒や聖職者が逮捕・殺害された。長崎の一部等でわずかに残った信徒は隠れキリシタンとして地下に潜り、近代に至った。 禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い(大浦天主堂#信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼歴を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。 隠れキリシタンの多くはカトリック教会に合流したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、水責め・火責めなどの拷問、3400名に及ぶ流刑などが行われた([1]浦上小教区変革史)。また他の地方でも東北で東方正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。欧米諸国からの猛烈な抗議を受けて、明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは1873年のことである。 キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリック、東方正教会、プロテスタントとも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。 カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッション・スクール)や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現在のコープこうべの前身)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。 戦前を通じ、キリスト教に対して社会の環境は、しかし総体に厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも厳しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。プロテスタント諸教派は政府の指導下に合同教会を設立した。聖職者や信徒のなかには、官憲の追及を受け、逮捕・投獄されるものもおり、厳しい取り扱いの結果、死没するものも出た。現代日本のキリスト教 2004年現在日本の総人口の約1%弱がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約50万人、プロテスタント諸派が計約30万人、プロテスタントで最も信徒数の多い日本基督教団が約10万人である。東方正教会(日本ハリストス正教会)は約1万人。尚、異端とされる教派についても言及すると、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)が公称約12万人、最大勢力とされるエホバの証人(ものみの塔)が公称約22万人とされている。通常この二派は正統派の立場からはキリスト教徒総人口には含まれない。カトリック 太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を出し、以後戦争に協力した。ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる。なお、終戦直後に靖国神社の扱いが問題になった際には、カトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父が靖国存続意見を提出した。今日、この対応には、他宗教への寛容、保守的風土の考慮という点での支持と、アメリカの反共戦略への協力、日本社会の民主化への逆行という点での批判がそれぞれある。 中華人民共和国の成立に伴い、中国大陸での布教が事実上不可能となり、また、北朝鮮においても布教ができなくなったため、多くの宣教師が日本を新たな布教先として選んだ。カトリックの場合、当時の教皇であったピウス12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。 1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、また、ベトナム戦争についても、アメリカやヨーロッパ各地でカトリック信仰に基づく反戦運動が紹介され、日本のカトリック教会は多様化する。具体的には、信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり(インカルチュレーション)、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになった。 政治・社会的には、社会的正義の実現が大きく唱えられ、信教の自由と政教分離の原則をうたう日本国憲法の内容の実現を求める立場が日本司教団の公式の見解とされる。カトリック正義と平和協議会も、公の組織として活動している。 天皇制については、カトリックが反皇室的立場をとっているという批判がある。これに対し、現憲法の「国民の総意」に基づいた象徴天皇制の徹底化と捉える見方がある。天皇制の廃止を求める運動を司教団が起こしたことはない。また靖国神社問題をはじめとする政教分離については教会はその厳格な執行を求める立場にたつ。一方、信徒レベルでは批判もあり、教会組織としての意見の徹底的な統一が図られているわけではない。プロテスタント プロテスタント(当時はその殆どが日本基督教団に合同)もカトリックと同様の立場を取っていたが、殆ど全ての教会に求道者を装った特高の密偵が入り厳しい監視下に置かれ、時として牧師連行などの弾圧を受けた。 殊に、四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)という信仰のスローガンで知られるホーリネスの日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の三派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、七名の牧師が殉教した。 救世軍はイギリス軍スパイの容疑をかけられ外国人士官(宣教師)が逮捕され、また、「皇軍以外に『軍』を名乗る組織があるのはけしからん」という理由で敗戦まで「日本救世団」に名称変更を強制された。セブンスデー・アドベンチスト教会も再臨信仰が不敬に当たるとして活動禁止を余儀なくされた。 戦後は合同教会としての日本基督教団とともに、各教派の教団も再建。救世軍など活動を禁止されていた教派も活動を再開した。連絡組織として日本キリスト教協議会、日本福音同盟など、またカトリックなども包含する日本キリスト教連合会が結成されている。東方正教会 日本の正教会は19世紀半ば以来の歴史を持つ。 発足間もない時代、日本の正教会はニコライ・カサートキンらの伝道師を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれていた。19世紀半ばに函館から始まった日本ハリストス正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂も建設された。しかし1917年のロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、日本の正教会は苦しい立場におかれた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルゲイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた。 また、関東大震災で東京市内のほとんどの教会が破壊された。これらは再建されず、東京市内の教区は神田の東京復活大聖堂(ニコライ堂)に再編された。 第二次世界大戦後日ソの外交関係が途絶しアメリカを中心とする連合軍が日本に入ると、日本の正教会はアメリカ合衆国に所在する正教会の管轄下に一時的におかれた。アメリカから高位聖職者が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジミール神学校に多数の若い神学生が留学した。日本教会の管轄はその後モスクワに戻り、1970年代には日本教会は聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。また、ロシア正教会の直接の管轄を継続すべきとするグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」を設立している。日本正教会と駐日ポドヴォリエの関係は良好。 西方教会に由来する日本の他教会と異なり、正教会は教団として政治運動とはかかわりをもっていない。但し、「天皇及び皇族のための祈り」「為政者への祈り」があるなど、基本的に体制従属的と言われている(しかし、これを「敵のための祈り」と捉える動きもある)。超教派 日本における超教派の動きとしては、聖職者や学者の間での交流と、信徒を中心とした交流が指摘される。 元々、戦時中の政府の政策で一本化された日本基督教団であるが、現在は超教派の教団として現在でも残っている。 60年代の学生運動のときには、靖国神社参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの大学生を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては共同訳による新共同訳聖書の翻訳事業が特筆される。この新共同約聖書においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として聖書から除外したもの(集会の書、マナセの祈り等)を「旧約聖書続編」としてまとめている。このことは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。 また2006年8月には京都で世界宗教者会議が行われ、他宗教を含めた交流の場がもたれた。from Wikipedia Japan
2007.05.01
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