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皇紀元年は西暦紀元前660年、神武天皇即位してから今年で2668年ということでしょうか。しかし、2668年前には、日本という国も神武天皇も未だ生まれていませんでした。その頃は、日本人のルーツは、遙か遠く中央アジアのアララト山を見上げる高原地帯であるヴァン湖周辺のビバイナという名の小さな国にありました。当時、オリエント周辺にあった数多くの種族国家が過酷なアッシリアの圧政下に喘いでいました。彼らは、BC1200年の昔、滅んだ人類史上初の鉄の帝国ヒッタイトの人民の主流を形成していたフルリ人や、ヒッタイト帝国東部辺境にいてヒッタイト化していたハッティ人と同種族であり帝国滅亡後の同朋難民でした。 その周辺部から、製鉄の業を会得した新しい勢力がいくつか台頭し、その一つがアララト山を聖地とし、ヴァン湖周辺を根城に勢力を延ばしていたグループでした。ビバイナ国の初代の王は、アラムと言う名でした。彼は即位して国土を掌握するやいなや、自ら太陽女神アラメアであると自己主張し当時のオリエント世界の支配者であるアッシリア帝国に真っ向から抵抗しながら自らの小王国ビバイナを、そしてやがて名実ともに帝国となってアッシリアが名付けたウラルトウを建国していくことになります。最初、貧しい山岳地域の小国にすぎなかったビバイナは、滅亡したヒッタイト帝国の製鉄技術者達を、何らかのきっかけで多人数取り込むことに成功し、同朋難民を吸収してふくれ上がっていったと考えられます。彼らはやがて大帝国アッシリアの言うことを聞かなくなり反撃してくるアッシリア軍の討伐を避けて、国ぐるみで山奥を延々と逃げ回ったようです。 ヴァン湖周辺のナイリの諸国、更に小アジア寄りにあったハイーク諸国や西方の森の国ムサシルなどを次々と併呑し、やがて失われたイシン帝国の祭儀と意志を受け継ぐウラルトウ帝国として、急速に勃興していったのです。なぜイシン帝国かといいますと、このウラルトゥの人々は、後期イシン王朝末裔になるからです。 遡ることBC1018年、後期イシン王朝滅亡後、幾つかの小国家に分かれビト・アデイニ王国とラケーの人々は、エラム王朝を倒した後、東方の支配を目的としシルクロードによってバルハシ湖に注ぐイリ河に進み黄金の眠るイッシクルに箕子国を建国します。イッシク古墳から発掘された【黄金人間】といわれる黄金の衣を着た16~18歳の少年被葬者こそ箕子国の王でありました。彼の黄金の上衣はアルタイの金山から採った金塊で作られ、副葬品はバクトリアの扶余から届けられたものでした。後に、この地域を支配したウイグル人は、日本の平安時代の王族とまったく同じ風俗をもっていましたが、両者は共に箕子国の文化を受け継ぐ韓人王朝でした。
2008/08/22

中国映画【英雄 HERO】を観た時、こういう創りで【三国志】を観たいと思いました。キャストに金城武を加えて、ワイヤーアクションやCGも取り入れてつくったら、すごい迫力の壮大な【三国志】になるに違いないと待ち望んでいましたら、ほんとうに実現してビックリ。11/1公開の映画【レッド・クリフ】は周瑜にトニー・レオン、孔明に金城武、望んだ通りのキャスト。【三国志】は、日本人にも関係あります。曹操、劉備、孫権という三人の武将が、それぞれに戦国の乱世をまとめあげて三分割した中華帝国を形成してゆくというストーリー。 倭人達にとって、三国の英雄のうち最も関わりが深かったのは、魏の帝国を作った曹操でした。曹操の部下であった倭人というのは、中国大陸の燕国にいた倭人集団のことです。 1974~1979年に、安徽(あんき)省亳県の曹操家族墓群から139個の文字をもつ磚(せん・大型レンガ)が出土し、その一つに「建寧三年(170)」とあり他の一つに【倭人ありて時を以て盟うや否や】とあります。三人の英雄のうち、真っ先に中原へ入って覇を唱えたのが曹操の軍勢でした。彼が中原に進駐したとき、既に倭人集団が居たのです。そして彼らは曹操に取って脅威となるような大勢力ではありませんでしたが、無視出来るほどの微々たる存在でもありませんでした。上奏文は、おそらく前線の司令官からのものであろうと言われます。直接曹操に対し、これらの勢力への措置を問うたものです。 「倭人が居座っております。彼らに同盟を呼びかけるべきでしょうか。それとも攻撃すべきでしょうか」曹操が、その時どういう判断を下したか?磚(せん・大型レンガ)が、残っていたことは、曹操にとって、この倭人集団が重きを置かれていたことの証ではないでしょうか。曹操が呂布を殺したのが198年、199年に劉備は、曹操に叛き小沛に自立、袁紹と結びます。200年劉備は、曹操に破れ、袁紹の下に身を寄せますが曹操は同年10月袁紹軍を攻撃し壊滅させています。202年遼東に逃げ込んだ袁紹の首を斬り、曹操に送ったのが公孫度の子、公孫康であり公孫康はこの功績により襄平候となります。公孫康はやがて、楽浪郡の南に帯方郡を置くこととなります。帯方郡は水利の便を考えて、大同江の河口に南から流入するサイネイ江の上流に置かれました。それによって倭国や朝鮮半島南部の小国家、馬韓.弁韓.辰韓の三韓が帯方郡に従ったと記されています。 【三国志魏書 東夷伝】-中略- 辰韓は馬韓の東にあり。その老、伝世し、自ら古の亡人にして秦の役を避けて韓国に来適し、馬韓その東界の地を割きてこれに与うと言う。城柵あり、その言語は馬韓と同じならず。名づけて国を邦となし、弓を弧となし、賊を冦となし、行酒を行觴となし、相呼びて皆を徒となすは秦人に似るあり、ただ燕・斉の名物にあらず。楽浪人を名づけて阿残となす。東方人は我を名づけて阿となし、楽浪人は本その残余人という。今これを名づけて秦韓と為す者あり。初め六国あり、しだいに別れて十二国となる。その十二國は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作し、世世相継ぐ。辰王は自ら立ちて王となるを得ず。【魏略にいわく、明らかにそれ流移の人為り、ゆえに馬韓の制するところとなる。】土地は肥美、五穀及稲を種るに宜しく、蚕桑を暁り、布を作り、牛馬に乗駕す。嫁娶の礼の俗、男女別あり。大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す。【魏略に曰、その国屋を作るに、横に木を累(かさ)ねてこれをなす、牢獄に似るあり。】国、鉄を出す、韓・倭皆従いてこれをとる。諸市買、皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し、また以って二郡に供給す。俗、歌舞・飲酒を喜ぶ。瑟あり、その形、筑に似る、これを弾きまた音曲あり。児生まれるや、すなわち石を以ってその頭を厭し、その偏を欲す。今、辰韓人、皆偏頭。男女倭に近く、また文身す。歩戦に便、兵仗、馬韓に同じ。その俗、行者相逢うに、皆住(とど)まり路を譲る。 弁辰は辰韓と雜居し、また城郭あり。衣服・居處辰韓と同じ。言語・法俗相似る、鬼神を祠祭するに異あり竃を施けるに皆戸西(家の西)にあり。その廬國倭と界を接す。十二國また王(辰王) あり、その人形皆大。衣服は清潔にして、髮長し。また広幅細布を作る。法俗特に厳峻。 辰韓というのは、いにしえの辰国です。遙かバビロニアのイシン国の末裔。このイシン王の御旗の下に結集した人々が陸ルート、海ルートにより移動し最果ての日本列島にこの辰韓が、朝鮮半島でのウガヤ王朝史であり、辰王の末裔が天皇になります。辰韓は、半島南部の文身(入れ墨)をした航海民系倭人たちの差配する土地にやってきた辰王率いる国であり、かくて辰韓王はついに箕子の朝鮮移住以来1200年余り、綿々と住み続けてきた朝鮮半島を捨て、九州島に王宮を移したのです。
2008/08/19

日本列島に渡来する前の古朝鮮【辰国】は、月神を主神とする、アッカド、ウル、シュメールの人々がサルゴン王朝末期にインダスを遡って、チベットから黄河を下降した人々の国家でした。アッカド人が王家でタクラマカン砂漠を本拠としウル人は月氏としてチベットにいました。シュメール人は殷代、姜人として黄河流域にいましたが、遊牧化したものが匈奴冒頓部になりました。【辰国】とは、これらの人々とエブス人、またはフェニキア人による、九州と山東半島(殷)を支配した東表国の連合体で、カラスク文化は、辰国の人々が作ったのです。ウルの商人はディルムンの銅をエラムの銀と交換することによって肥大化したのですが彼らが銀を買い付けるための基地が九州の東表国だったのです。イシン滅亡の後、イシンのアラム人と海の国のカルデラ人がシルクロードによって辰国に亡命したため、辰国は、アラム人をバルハシ湖周辺の地に収容しました。時の辰王は、日本書記でいうところのイザナギでありましたが、イザナギはアッカド王、リムシュの末であるイギの後裔です。この王が国常立命(箕子の養子であるニ代王)の王女シラヤマヒメを娶り、箕子国のアラム人たちと共に、バルハシ南方にいたのです。イザナギの三子・・・実は辰国連合を構成する三つの部族のうち、イザナギ族の王アマテラスは辰国人とアラム人を率い、シルクロードを西進し、アッシリアを退け、ヴァン湖のほとりにウラルトゥを建国しますが、月読ノ尊は、ホータン(和田)の月氏国を守りエブス人またはフェニキア人の王・エビスノ尊は、北九州の東表国(豊日国)にあって山東半島までを支配しました。
2008/08/18
私たち日本人の祖王、アメニギ氏のことをギリシャのヘロドトスの【歴史】から引用してみます。アルタイ山脈の麓に、男女の別なく一人残らず生まれながらの禿頭であるという人種が住んでいる。獅子鼻で顎は張り、スキティア風の服装をしているが、独自の言語を話し、木の実を常食としている人種である。彼らの生活の糧となっている樹の名はポンティコンといい、大きさは、ほぼ無花果の樹ほどで、扁豆によく似た果実が生りこの実には核がある。熟した実を布を通して搾ると黒ずんだ濃い液が流れ出すが流れ出した汁はアスキュと呼ばれる。彼らは、この汁をそのまま舐めたり乳と混ぜて飲んだりし、また搾り糟の濃厚な部分で菓子様のものを作り、これを食料にしている。この地方には良い牧場がないため、家畜の数が少ないことによるのである。彼らは、いずれも樹蔭を住家とし、冬は樹に白いフェルトの覆いをかけて住み、夏は覆いをとる。この民族は神聖視されているので、彼らに危害を加える者は誰もなく、また武器の類は一切所有しない。近隣の住民の争いを調停するのも彼らであるし、彼らを頼って避難してきたものは何人によっても危害をくわえられることはない。この民族の名はアルギッパイオイという・・・・・。この人々は、バルハシ湖の北東、アルタイ山脈の西端のイルティッシュ川辺りにいました。彼らは、アッカド人の末裔です。【生まれながらの禿頭】というのは、髪を剃る風俗であって後のキタイ人の風俗と同様な弁髪の一種です。
2008/08/16
オーラの泉で、私も日頃考えていたことを的確に話していたので書き留めておきたいと思います。 悩んで落ち込んだ時 必要なのは理性 いらないのは感情 原因をクールに分析して 解決方法を見つける習慣を
2008/08/16

第一回目天孫降臨 ユダヤ南朝系ガド族+イッサカル族+ゼブルン族 BC213年、秦始皇帝による焚書坑儒により、孔子・孟子の子孫、ガド族は、イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に転身して燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合してBC90年頃から移動再開。BC86年、ガド族猿田彦の下にイッサカル族、ゼブルン族が結集し、一行は 朝鮮半島を南下して対馬に至り【高天原】と称し、天照神社を祀り、対馬高天原から船出して糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建てます。初代猿田彦命が肺結核で病死するとイッサカル族出身の王妃が女王となって王権を継ぎ、かなり長く君臨しました。二代目猿田彦(ガド族)は平原に王宮を移し、【記紀】に出てくる“前の君”と呼ばれました。猿田彦二世はイスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。彼は、この最新式な青銅器文化を持って九州一円に進出し、先住のシュメール人・苗族・港川人らを支配下に置いてきました。第二回目の(天孫降臨)【秦始皇帝子孫イスラエル北朝系シメオン族】 BC74年頃、朝鮮の秦韓(慶洲)にいたユダヤ人亡命集団6部族が移動を始め対馬高天原経由で九州有明海の鳥栖に上陸し、博多に倭奴国を建て、その勢力を吉野ヶ里の地まで拡大しました。そのことをフェニキア人(海人族)から伝え聞いた秦王率いる苗族らも合流して、秦韓シメオン族々長・大国主命を推戴して倭奴国としました。この時、別働隊として日本海側の福井県敦賀に上陸し、滋賀県を経て奈良に入った大国主命の弟のグループがありました。また、大国主命の父親は、佐賀県に上陸した後、別の先遺隊を率いて再び乗船しいち早く先駆けとして奈良盆地に到着しています。こうして奈良盆地の大和にユダヤ人亡命者のコロニーが初めて作られました。第三回目の【天孫降臨】ユダヤ人ガド族3百人ユダヤ人亡命集団ガド族三百人が対馬高天原から船出して、利根川下流域の霞ヶ浦=衣河流海(茨城県)に渡来しました。彼らは鹿島灘にある明石海岸の大鳥居近くに上陸して椿神社(祭神は猿田彦命)を建て、猿田(猿田彦命の兄弟に因んだ地名)などにコロニーを作りました。そしてこの地を聖地として【常陸の高天原】と称するようになりました。BC30年頃、続いてゼブルン族4百人が薩摩半島から渡来し、鹿島灘周辺に上陸しました。この時、天津甕星(あまつみかほし)らは常陸の大甕などにも移住しています。 イエス・キリスト日本渡来BC34年、イエス・キリスト(37歳)が【日本への布教】を立志し、同族ゼブルン族50人と共にインドを船出、安南のオケオ港経由で東日流十三港(つがるとさみなと・古代の大貿易港)に上陸しました。一行は、津軽→鹿島→熊野→伊勢のユダヤ人コロニーと移動しながら布教活動を続けていましたが、イエス・キリスト本人が結核に侵され、津軽戸来(へらい・新郷村)の沢口家に於いて59歳で亡くなりました。(高句麗国の建国)インド十六王朝時代の釈迦族の後裔、製鉄部族、宛の徐氏が北扶余後期王朝の穢王となってその前期王朝の扶余族・ウガヤ王朝と争い、結果BC37年に始祖王朱蒙(東明聖王)によって卒本に高句麗が建国されました。(穢王一族、熊本に【多婆羅国】を建てる)紀元一年、その高句麗にいた北扶余の穢王一族が、穢族の一部を率いて亡命し日本海沿いに南下して対馬経由で北九州博多に上陸しました。彼らは既存勢力の旧伊勢国や大国主命の倭奴国に遠慮して一旦阿蘇山系にコロニーを作りましたが、族長の陝父らはさらに下って熊本に多婆羅国を建てました。この多婆羅国は、この後、朝鮮半島南部に逆上陸して分国の多羅国を建てますがその建国を担ったのは扶余族のウラルトゥ人(ウガヤ王朝系の人々)で、この多羅国が成長して百済国となり後に百済国初代王神武の系譜が現在の天皇につながっていきます。【倭の大乱】147年、後漢に圧された高句麗(北倭人)が倭奴国(ユダヤ人)および東表国(南倭人)を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、倭奴国は、その同盟国でした。その時、東表国エビス王は海部知男命でしたが、これより高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う東夷諸族の争い=【倭の大乱】が始りました。163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、その首都吉武高木・平原遺跡および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。この時、秦始皇帝の末裔・大国主命が率いるシメオン族の兵士ら30名の攻撃部隊はあらかじめ用意した20丁の鉄斧ですべての神鏡を徹底的に割ってしまいました。
2008/08/14
神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ)という人は、朝鮮半島の百済、あるいは扶余の王で九州を守っていました。その後、漢名の諱(イミナ)が贈られて神武天皇になりました。この人の系譜は現トルコの古代アナトリア系ヒッタイト、カナーンのエブス人フェニキア系から出てきた人々です。また朝鮮全体では、箕子朝鮮の人々の血脈を引いて、その両方の血が入ったイラン高原の人々が神武天皇の祖になります。鉄文化を発明した血と世界を股にかけて働いていたフェニキア人の血を受け継いだ人々が遙かシルクロードを移動して朝鮮~対馬=天国に降って九州へ上陸したことになります。アナトリアのウラルトゥ王の初代がアマテル(天照・男性)で対馬に降った時に建てた神社も天照神社としています。
2008/08/14
日本の歴史は、明治維新後に政府の都合で塗り変えられた部分があるようです。【君が代】は国歌ですが、この元になるのは【古今和歌集】の詠み人知らずの歌【我が君は、千代に八千代に、さざれ石のいわおとなりて、こけのむすまで】です。今の国歌は「我が君」ではなくて【君が代】になっていますが、これは明治維新後薩長連合政府の薩摩出身の役人(後の元帥大山巌)がしたことです。昔から薩摩琵琶の伴奏でいろいろな所で歌われていた【蓬莱山】という歌、そのなかに【君が代】の歌詞があり、それを国家にしたということです。古今和歌集の歌の【我が君】は、もっと親しい間柄に用いる言葉だったそうで、実は、旧伊勢国の初代猿田彦命のために詠った歌だといわれます。吉竹高木の王宮にいた猿田彦(ユダヤ・ガド族長)が、最後に結核を患って死の床につく。それを、病気回復を願って作られたもので、作者不明となっていますが、これは二代目猿田彦、息子が詠った歌だそうです。この【君が代】は、筑紫の旧伊勢国各地の地名を織り込んで歌にされています。【千代に八千代に】の【千代】は、博多に【千代】という所があって、【細石(さざれいし)神社】旧名では【佐々禮石】、これは非常に大きい石で境内に“神聖な”巨石が祀られています。明治以来、ずっと細かい石を“さざれいし”と思わされてきましたが、そうではなかったのです。この神社の祭神は、磐長(いわなが)姫であり、二代目猿田彦命の王妃でした。また“いわお”というのは、井原山に“岩羅”という所があり、“こけむす”は、糸島半島船越にコケムスヒメノミコトを祭る若宮神社がありました。そのように【君が代】は、それぞれの地名や人名を織り込みながら、病に倒れている人々の長命を願ったという意味合いをもたされる歌だったようで、決して天皇を讃える歌とかではなかったようです。
2008/08/13

663年8月末、白村江の戦が起こり、日本軍(倭国・秦王国・荒吐五王国/三国の連合水軍)3万人が唐40万人・新羅5万人の連合軍に敗北しました。その結果、日本の三大勢力圏は全て唐・新羅連合軍に占領され、倭人の国々は中国人および朝鮮人の植民地にされました。664年5月、唐の鎮将・劉仁軌が率いる4千人および新羅の鎮将・金ユ信が率いる4千人の占領軍が九州の倭国へ侵入しています。彼らは大宰府に筑紫都督府を構え、日本列島への占領軍政を開始します。こうして秦王国の近畿地方にも新羅軍多武峰の花郎軍団が進出しました。668年、唐・新羅連合軍は漢城(平壌)を陥し、高句麗を滅亡させますが、670年6月に、唐軍は復興した高句麗軍と再び衝突したのを機に朝鮮半島全体の征服をもくろみ新羅と対立するようになります。672年、新羅は唐との協定を破り、百済の熊津(ゆうしん)都督府を陥落させました。その結果、百済の王侯・武士・軍属らの4万人が雪崩を打って九州倭国へ亡命しました。そして、同年672年、新羅占領軍に対する秦王国の戦、即ち近江の【壬申の乱】が起こりました。これを【日本書紀】は、「弘文元年六月、壬申の乱が起こった。大海人皇子、大友皇子を近江に滅ぼす。翌天武元年二月、大海人皇子、飛鳥浄御原宮に即位して天武天皇となる」と記します。ですが、その実態は、秦王国に於ける【壬申の乱】のことでした。この乱の首謀者大友皇子は【日本書記】によって百済王豊璋(天智天皇のモデル)の子とされていますが、実は東漢氏(やまとのあやし・ユダヤ・レビ族)出身の秦王国最期の天子でした。この天子の指揮を受けた秦王国軍は、侵入してきた新羅軍(源花・郭務ソウが率いる花郎軍団)と一ヶ月も勇敢に戦いました。この時、大王家に忠誠心が強かった蘇我氏の一族は、この王と最期まで運命を共にしましたが、秦氏およびシメオン族らの諸部族が花郎たちの統率力を見てこの戦の無意味さを悟り、一斉に寝返って新羅軍に降服したため、王家の軍は孤立して総崩れとなったのです。これより以降、秦王国の豪族たちは新羅側の軍政に協力していくようになったのです。そのため、機織部の秦氏およびユダヤ・ダン族のグループは敗北し、雪崩を打って秦王国の分国地・関東地方へ逃亡しました。やがて彼らは、鹿島神宮や静神社の機織部領域付近、蘇我、行徳および秦野付近などに散居して逼塞しました。ところが後に【国史】は、この経緯を時代をずらして【蘇我入鹿暗殺】事件とし、秦王に忠誠であった蘇我氏一族が滅んだように修史しました。さらに秦王国の滅亡を、時期を遡らせて皇極天皇の御世の出来事とし、中大兄皇子と中臣鎌足を登場させるという架空の【大化の改新】劇を創作したのです。その事件は、占領軍新羅の本国の史実【ヒ曇の乱】をモデルにしたものでした。
2008/08/12

国史で猿田彦といわれるユダヤ・ガド族は、BC10世紀以降のウラルトゥ(ウガヤ王朝)時代からの歴史を【高天原の由来】として、ホツマ文字(神代文字ともいう)で書かれた【秀真伝ほつまつたえ】カスガ文字で書かれた【三笠紀みかさふみ】など、五七調の叙事詩として語り伝えながらシルクロードを東遷して中国→朝鮮→対馬へと至りました。彼らは、小船越に阿摩氏留神社(天照神社)を建立して、日本列島各地に移住する前進基地の本拠としました。阿摩氏留神社(天照神社)の一体には神武(尉仇台二世)の祖父仇台一世(彦波武鵜葺草葺不合命ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の霊が祀ってありまた別の一体は、天照意保比留貢あまてるおほひるむて(天照の世襲名)を称える祖神=ガド族の族長を祀っています。但し、現在この天照意保比留貢の御霊は次の三社に遷座されています。愛知県・・・安城市神明神社・蒲郡市神明神社・豊田市神明宮 天から降ってくる【天国アマクニ】というのは、対馬、壱岐、沖ノ島など朝鮮と日本の間にある島々のことです。【天国アマクニ】から朝鮮や日本、他の地へ行くことを天から行くので【天降る】といいました。今でも東京駅から他へ行くのを下り列車、東京へ行くのを上り列車といいます。昔は京都に都があったので、京都に行くのを上る、京都から地方へ行くのを下ると表現しました。それと同じに天国・対馬等の島々から他へ行くのを天下る、そこへ行くのを天上るというようになったと考えられます。島は海に浮んでいるので途中下車はなく、降りた・・・と記述したと思われます。そこで【記紀】では降臨したのがニニギノミコトでコノハナサクヤヒメと一緒になってという話が出てきますが、その天孫降臨、実際にはユダヤ系のガド族、日本名では猿田彦が最初にやってきました。彼らが天降って王宮を作った場所は吉武高木遺跡です。他にも、イエス・キリストを生んだゼブルン族、日本で言えば宗像神社の三人の姫=宗像神社の御三神に相当する人々、さらには女王卑弥呼と大物主命などの系統であるイッサカル族これらが三位一体となり連合して竺紫の地に渡来しました。ここには糸島半島がありますがガド族らは、ここに上陸しています。この吉竹高木でつくった国を伊勢国といいます。この伊勢国がやがて近畿地方に移るため、区別してこの地を【旧伊勢国】としていますがこの時、最初の【伊勢国】を建てたのです。伊勢の君・猿田彦は鉄鐸・銅鐸文化の祭祀者であり、秦末の【焚書坑儒】事件で多くの王族や儒者たちを殺されたガド族がイスラエル北朝からユダヤ南朝系に変身して急遽、鉄鐸・銅鐸文化を携えて日本列島へ亡命したのです。こうして九州博多の地に新しい青銅器文化の先進国が建設されました。次に、その初代猿田彦命に続いて、二代目の猿田彦は、イスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、 八咫鏡・神鏡・鉄剣・勾玉など【三種神器】を奉納しました。それが九州社会を発展させるきっかけになりました。この頃、九州の地には以前から縄文人や稲をもってきた苗族、あるいはシュメール人のグループといった先住民が居住していました。猿田彦二世は、その人々を支配化においてユダヤ人たちのヘレニズム文化(ギリシアとペルシャの混合文化)によって鉄鐸・銅鐸を生産する青銅器文化を九州全体に繰り広げていきました。こういう猿田彦の話が日本武尊ヤマトタケルノミコト九州征服譚に書かれ、この地が筑紫の大和と呼ばれたのです。【まほろば】という言葉は鳥の心臓に近い脇にある柔らかい毛をいう「摩倍還麻まへらま」が訛ったもので、「秀」「場」=日本の中心の秀れた地と一般には解釈されています。
2008/08/10
BC213年、秦始皇帝による焚書坑儒事件が起き多くの王族や儒者(孔子・孟子など)を殺されたガド族らの遺民は箕子朝鮮を頼って遼東へ逃れました。やがて彼らは、イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に変身し燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合して、BC90年頃から移動を再開。朝鮮半島を西岸よりに南下して対馬浅茅湾に至ると、豊玉町仁位の【和ノ宮】と呼ばれる一帯に滞留しました。そして彼らは、この地を、かつての亡命地であるイラン高原の“タガーマのハラン”に因んで対馬の【高天原】と称し、日本列島への前進基地としたのです。現在の対馬は北島と南島に分かれていますが、それは江戸時代初め岩盤の島である対馬を堀削して作った水路開通によるもので、古代は陸続きの一つの島でした。北島と南島の真ん中にあるリアス式の美しい浅茅湾は、どんなに台風が吹き荒れても波穏やかで、船の避難場所として最適の港湾でした。ここに和多都美神社の鳥居は海中に建てられました。おそらく湾内に入った海人たちが船上から拝めるようにしたものでしょう。境内には【玉の井】または【天の真名井】と呼ばれる聖なる【井戸】があって、地元の人たちは此処を【海幸・山幸】神話の発祥地として敬っています。参道の左側には【磯良の噴石】と呼ばれる岩頭がしめ縄で囲ってあります。今は社前の海岸を道路が通っていますが、それ以前は、満ち潮になると波に隠れていた怪奇な巨石が現れたといいます。この噴石は北九州宇佐市寄藻川河口の浮殿で約3000年前から毎年8月15日に行われている宇佐八幡宮放生会に奉納される筑紫舞=クグツ(あやつり人形・マリオネット)の細男舞に顕れる【安曇の磯良】という海神(精霊)の原像とも考えられるのです。
2008/08/10
現在、【奈良盆地】と言っている場所は、縄文人がやって来た時は琵琶湖ほどの湖沼でした。その中に、わずかに見えていたのが、三輪山や畝傍山・天香具山・耳成山の大和三山でした。BC6000年頃、沖縄の港川人が奈良に渡来し、湖沼の畔の竪穴式住居に定住してコロニーをつくりました。三輪山周辺のピラミッド・巨石文化は港川人が三輪山を御神体として造ったものらしい。人工的に造った聖地=ピラミッドと思われる天香具山を含む大和三山と三輪山の関係は丁度二等辺三角形を形作っています。そして三輪山と畝山を結ぶと、この線が冬至の【日の入り】に当たる線になっています。古代人は数十、数百キロ離れた祭祀霊場を巧妙な位置に配置するのに、先文明の遺物を引き継いでいた可能性を想定し、手元に何らかの精巧な地図があり、そこで線描を行い、地形を確認しながら各地に布石していったものと考えられます。
2008/08/10
663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍は百済を復興させようとした倭国(安羅・邪馬壱国)および秦王国を亡ぼし、日本列島に入って来て奈良に政権をつくりました。この倭国敗北後の占領支配が行われていく中で、韓国の言葉で云う【国=ナラ】が【奈良】になったのです。壬申の乱後、友好的となった秦王国(タイ国)によって九州の倭国を統治すべく秦王国の大和(飛鳥浄御原→藤原京)に新羅王族を日本総督として着任させ倭国には大宰府(筑紫都督府)を置いて安羅王族の多冶比嶋らに行政を委任しました。これが【国史】のいう天武王朝の実体であって【記紀】の記す天武天皇とは、新羅本国の文武王(金法敏)であり、この天皇は日本に来たことはないのです。そして、秦王国の諸豪族と協議の上、総督となった新羅王族の歴代天皇が永久に日本列島を支配できるようにとの願いを込めて、本当の【旧日本国史】を抹殺して朝鮮史をモデルにした歴史である【記紀】中心の【国史】を編纂しました。720年5月、平城京に於いては、金官加羅の初期の諸王をもって天皇として孝昭→考安→孝霊→孝元→開化という名称を与え、さらに新羅の武烈王と文武王を天智・天武として、舎人親王版【日本紀】を編纂しました。このようにして、歴史書の中では統一新羅以降、新羅王をもって創造した国家=日本の天皇としたのですが、この時は、天皇が【天(あま・海の彼方・朝鮮)の大王】倭大王が【倭地の王】という考えでした。【日本紀】には歴代の新羅王が書かれました。それが後8世紀中期に、百済王家の子孫、道鏡によって“百済王を天皇とする”【記紀】に書き替えられました。しかも改竄には時間が足りなかったため、史書の内容をそのままに天皇の名前だけ“百済王”に書き替えるという“急仕事”でした。その際、公孫氏の子孫である安羅王族の大伴氏の協力を得るため【神武紀】に、大物主命(ユダヤ・イッサカル族)の神話・大国主命・因幡の白兎などを加えた上、本当は武烈王を殺害してクーデターによって倭国の政権を奪った安羅王の一族、大伴談→大伴金村→大伴歌を継体→安閑→宣花という三代の天皇に仕立てました。そうしたことから【記紀】は歴史書ではなく、天武王朝では新羅王家のみ、道鏡以後は百済王家のみ・・・・・朝鮮の帰化人だけが天皇になるための一種の詐術であったと思えます。【万葉集】もまた【大和朝廷】の歴史が語られますが、これは日本書記を改竄するために協力させられた柿本人麻呂らのフィクションではないかと考えられます。例えば天智(金・春秋)・天武(金・法敏)二人が愛した額田王は、実は阿毎多利思北弧(アメタリシヒコ)のタイ国軍を破った倭国・九州女王のことでした。この事件は隋の時代に(589年~618年)に起こっており、万葉集が詠まれた時代(唐)とは関係ありませんでした。柿本人麻呂の一家は歌曲を伝承する家柄で、高市皇子・草壁皇子・刑部皇子いずれも新羅王子らの日本総督府に仕え、儀式歌などをつくる藤原宮や平城京の宮廷歌人でしたから彼らにとっては当然の【歌づくり】でした。万葉集の有能な編集者、大伴家持は安羅国の末裔として、既に天下は彼らのものではなく度々謀反人の罪をきせられ悲運の人でした。家持は、当時言ってはならない事を万葉集に形を変えて散りばめ史実を埋め込んだと云われます。それをまた109年後、菅原道真が道鏡の命により改竄するのです。道真も秘事を知ったがゆえに九州大宰府に流され非業の死を遂げるのです。菅原道真の生前の姓名は土師(はじ)道真でした。ユダヤ・シメオン族の出身です。かつての倭国(大伴氏の本国)の首都、博多の大宰府に左遷されました。死後、妻の領地が菅原であったために菅原と呼ばれました。道真は秦氏の本拠地であった長岡京の土師氏で、土師氏は牛を屠殺して神への生贄にする秦韓でした。道真の時代まで神道は【神人共食】といって、生贄の牛を神に捧げた後神官たちが、それを食べる祭儀がありましたが、この祭儀は蘇民将来のルーツにあたるアラビア・ベトウイン族の牛鍋のオルギアに由来します。
2008/08/08
今話題の新疆ウイグル自治区のホータン、コタンともいいますが梵語のクスターナが転訛したもので、【大地の乳】を意味する言葉でした。その名の通り、この地方の大地からは、豊かな泉が絶えることなく湧き出しています。清澄な水が織りなす大平原のオアシスは、古代人にとって、まさしく【大地の乳】だったでしょう。この豊かな水はヒマラヤ山脈が連なるチベット高原の西端、崑崙山脈を源としています。この水源から湧き出した清流が白玉川、黒玉川の2本の河となり広大なタリム盆地をコタンの町の東西を挟むように流れています。古代、この辺りは、【黄金】が無尽蔵に掘り出されていたそうです。また釈迦が弟子に語った説法の中に【山の斜面の東側には白銀、北面には黄金、西には玻璃、そして南側には、青い光を放つ瑠璃が輝いている】というものがあります。この山とは、コタンの近くにある【須弥山】と呼ばる霊山のことです。【スメル山】とも云われました。スメルとはシュメールのことです。古くから須弥山は、ヒンドゥー神話に於いて世界の中心とされ、神々の住まう場所とされた山です。また古代中国でも崑崙山には、世界を統治する西王母が住まうと伝えられてきました。遺跡にあった何千枚という粘土板の中に、ある不思議な土地についての記述に考古学者が目をとめました。・・・ディルムンと呼ばれるその場所では、平和と幸福が世界を支配していた。争いごとは起きず、人々は恐怖や苦しみを知らない。絶望や嘆きもない。"死"という概念すら、ここでは無縁の存在である。満ち足りた永遠の時間だけがゆったりと流れる。ディルムンに老人は存在せず、未亡人もいない。そこはライオンも人を殺さず、猿も小羊を襲わない、まさしく真の楽園であった。・・・この楽園伝説が洪水(ノアの方舟)前のシュメールの故郷について、憧憬を混じえながら記述したらしいことが分かります。楽園は、すでに失われているからこそ、時の彼方で美しく光り輝くもの、野に花々が咲き乱れ、森には果実がたわわに実り、泉からは清冽な水がこんこんと湧き出ている・・・そして人々のすぐ近くには神々が見守って・・・シュメール人は、失われた楽園の物語をその後に起きた洪水の伝説とともに語り継いでいったと思われます。
2008/08/04
昨日は充電日。一ヶ月に一回充電すると、ずっと愉しさが持続する、そんなサークル。先生がピカ一、ひらめき ポジティブ エスプリ の名人。集まる生徒も個性豊か。昨日は女優かモデルと見間違う美しい装いの女性が前の席にいて目を見張ってしまった。綺麗に編みこんだ髪にエレガントなワンピースピンヒールを履いて女性ならではの魅力が輝いていた。一方、清楚で可憐な女性がいたり、先生(女性)を慕って全国から現れる様々な人たち。美しいものを見て 前向きな話を聞き 香りよいエッセンシャルオイルをきき満ち足りた至福の時間を過ごし幸福の種子はふわふわ飛んでゆく。
2008/08/03
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