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先日のNHK【その時歴史が動いた】では【古事記】を取り上げました。それは古事記の内容を擦ったにすぎなくとても残念でした。そろそろ真実の日本史が明らかになりユーラシアを西から東へ駆けてきた雄々しい魂を取り戻してほしいと願います。史実を埋もれさせないでほしい。【古事記】の序文には「天武十一年(682年)、諸家の持っている【帝紀】と【旧辞】は偽りが多いから【帝紀】を撰録し、【旧辞】を討覈して、偽りの部分を削り事実を定めて後世に伝えるために、稗田阿礼に【帝紀】と【旧辞】を誦み習わせた」と、述べています。【帝紀】とは、すでに作られていた舎人版【日本紀】の本紀序文で【旧辞】とは、兎のワニ騙しなどに始まる安羅国、卑弥呼~大伴氏の大物主王朝の歴史です。【帝紀】と【旧辞】という古文書があるのに、わざわざ暗唱させたということは、その後、焼いてしまったものと思われます。天武とは実は新羅の文武王のことですから、この時の修史命令は新羅の焚書命令で、この時、焼かれたのは百済、安羅の歴史であったと考えられます。【武】は、中国の史書では始祖を表わしますので【武】のつく天皇、即ち神武天皇、天武天皇桓武天皇、この三人の天皇がすべて新王朝の祖王でした。それは【武】には革命的な意味があったからです。さて、『古事記』の神話に登場する主要な神々は、タカミスビ、天御中主命、スサノオ、大物主命などです。タカミスビがダゴン神であり、天御中主命が太一神であり、スサノオがバアル神であり大物主命がソロモン王と公孫域です。公孫氏は、卑弥呼の祖になります。そのルーツはソロモン。ソロモン王の母親は、父ダビデが臣下から奪ったヒッタイトの女性バテ・シェバでしたのでソロモンはユダヤ人とヒッタイト人のハーフでした。ソロモンの王妃は、有名なシバの女王。ソロモンとシバ(サバ)の女王の間の子供が後のエチオピア王朝の祖王、メネリケであり母の死後、ソロモンのタルシシ船の支配者になるのです。ソロモンは海にフェニキア王、ヒラムの船団のほか、タルシシ船団を持ち、三年に一度サバ国の船員とフェニキア人の船員とヒッタイトの製鉄技術者たちをタルシシ船に乗せインド大陸やマレー半島に派遣しました。技術者たちはガンジス中流やメコン上流に入植して製鉄所をつくり鉄製品を原地人の黄金・象牙・香料・真珠などと交換しました。これこそまさにソロモンの智慧でした。『古事記』に載っている大国主命が鰐をだました兎を助けた説話のルーツは、マレー半島にあって、そこでは鹿がソロモンの命令を受けたと言って鰐をだまし、横にして渡ったとなっています。日本には鰐はいないので、それは合点がいきます。この説話は辿っていくとマレー半島からセイロン島、そして結局、古代ユダヤ人に行き着くのです。この説話を持ち込んだのはタルシシ船の人々で入植した土地々々に、同じ話が伝わっています。また大国主命の一族はタルシシ船の子孫でした。かれらの長い【鉄の旅】でありました。ヴィデーハ、後のマガダにはインド最大の製鉄基地があり、そのためにマガダはやがてインドを統一しました。マガダ国を継いだモウリア王朝が残した巨大な鉄柱は、二千年を経てもいまだサビ一つなく、ヒッタイトの製鉄法は秘密にされていたので、その製法はなお解明されていません。マガダ人がパンジャップからガンジス流域に進出し、あいついでコーサラ、カーシ、アンガの諸国をつくりましたが、このアンガ国が後の卑弥呼の国であり白村江当時の倭国でもあった【安羅国】の基地であり、タルシシ船の中継基地でした。ソロモン王のタルシシ船によってマレー半島を越えオケオ港に上流し、メコン河流域のバンチェン地帯に到達しその時の事件が兎の鰐だまし神話になったと考えられます。ソロモンの末裔、ユダヤ人のイッサカル族の公孫氏は、メコン河流域のクメール族を従えて、華北から遼東に移動しました。公孫氏の卑弥呼が高句麗末王ケイ須=扶余王仇台=神武の妃となって九州に邪馬壱国を建て、それが安羅国でもあります。この安羅国の歴史もそれ以前に千年続いたエビス王の天の王朝(東表国・宇佐)の歴史もニギハヤヒ(シャカ族)が熊本に多羅婆国をたてて、それが後に邪馬壱国のメンバーになった歴史も秦帝国の亡命者が日本に逃れて秦王国を造った歴史も【日本書記】や【古事記】は抹殺したのでした。
2008/04/24
以前、【天使】というテーマで講義を受けたことがあります。それは偶然でした。そして今回、【四神】を調べていくうちに何かピンと閃いたのです。四神も天使もミトラ教が形を変えて東方、西方へ広がったものではないかと。その通りでした。 ミタンニ条約の碑文です。この碑文には、七柱神のことが示されており、この時代に既に七大天使(七曜神)の原形が存在していたことが分かりました。天界と人間界を自由に飛び回る羽翼の天使はオリエントからヨーロッパに多く登場します。頭部と両手が失われているにもかかわらず【ヘレニズム彫刻の傑作】と呼ばれるサマトラのニケも羽翼の天使です。そして、アジアにも羽衣をつけた飛天がみられます。【国宝 薬師寺展】の日光・月光菩薩さまも、羽衣を身につけていらっしゃいました。すると思い浮かぶのは、空海の曼荼羅の基と思われる生命の樹。セフィロットの樹とも云い、天国に生えている【生命の樹】を意味し、広大な大宇宙をあらわすと共に、その雛形である小宇宙としての人体でありさらには神に至る精神的遍歴を意味します。この【樹】は10個の球セフィラーと22本の径からなります。22本の径を経てセフィラーのひとつづつを会得しながら、1の(王冠)へと精神の旅路、あるいは瞑想への旅を続け、それぞれのセフィラーには人々への指導、守護をするための大天使がいるとされます。神にとって最も重要な仕事に立ち合うのは、選ばれた7人の天使とされています。その中でも、ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの4人は、大天使の中でも別格の存在で、世界中に名の知られた四大天使です。彼らは、あらゆる物質を構成する4つの基本要素である【火】【水】【風】【土】の天使、あるいは方位の天使とも呼ばれます。そして、ミトラから古代中国に入って生まれた道教の四神、青龍、朱雀、白虎、玄武と、共通した存在で、宇宙の生成、運行のすべてに深く関わっているとされています。 ミトラという名の神が、記録に残された最初は、紀元前14世紀の粘土版文書でありこの文書は、アッシリアとハッティ(ヒッタイト)の和平文書でした。ミトラ神はこの和平を担保する証人として召還されたとあります。ミトラは、こうした遊牧民族どうしの和平や同盟を司る神であり民族や人種を越えた友愛と平等と平和の神とされ、メソポタミアの国家では光の神、太陽神になりました。それは最高神に近い存在でした。ミトラの起源はヒッタイト・ミタンニ・カッシートの信仰にまで遡り、彼らの南下によってイラン・メソポタミア小アジア・インドに持ち込まれ、地中海沿岸のヨーロッパ、西アジア中央アジア、中国の乾燥地帯、砂漠地帯、草原地帯に広がりキリスト教、ユダヤ教、仏教などに影響を与えた史上最古の世界宗教でした。ミトラは水辺の洞窟(岩屋)で、12月25日の冬至に生まれ、この日に生誕祭が行なわれます。キリストが12月25日に生まれたとされるのは、このミトラに重ねたのです。岩屋の天のアーチは全宇宙を表わし太陽神と月神が左右の上部に描かれました。そこはミトラ神が現世の生命の象徴である牛を屠る儀式を行なった場所でした。遊牧民族では、家畜を屠って、お頭つきで供するのが客人への最高の礼儀だとされます。牛を屠る事は、同席するミトラへの最高の捧げものを意味し、条約の当事者たちがそのお相伴にあずかることが条約調印と盟約の印となり、それが聖餐の儀式でした。この聖餐の儀式は、後のキリスト教の【最後の晩餐】や神との新しい契約【新約】の考え方に引き継がれることになります。また、ミトラは度々自ら猛牛を屠る英雄神として形象され、猛犬とカラスを連れ馬に乗った荒々しい狩人として表現されることがあります。こうした戦う神としてのミトラは、遊牧民族の生活習慣の反映であるとともに、違約者に対して容赦なく懲罰を与える神としての性格を物語っています。祭壇には神殿の近くの泉から水を引いた聖水受け皿が置かれていました。ミトラ神には、水利事業の神という性格もありました。遊牧民は水の重要性を認識し、水利技術に長けていたのです。オアシスの自然湧水量が、生存できる人数の上限を決めてしまうが故に水と食料の奪い合いが起こることを身に沁みて知っていた彼らは、人工的にオアシスの湧水量を拡大することにこだわったようです。ペルシャを起源とするカナート(カレーズ)と呼ばれる地下水道の水利技術が中央アジアからその周辺に広がったため、オアシス都市の生産能力は飛躍的に向上し旅をする隊商に水と食料を供給することが可能となり、これが、シルクロードの東西交通路の発達につながりました。ミトラ教神殿の遺跡に残るレリーフには、暴れる猛牛を屠る英雄神ミトラの像が見られます。このレリーフでは、牛の像から流れ出た血潮からさまざまな穀物や農産物、諸々の家畜が生まれ出るさまが描かれています。荒れ狂う猛牛は、単なる供物としての意味を離れ、氾濫する大河の象徴となり英雄神はこの暴れ河を治水灌漑する土木工事事業を意味することとなりました。水利事業の成功は食料増産を意味し、異民族どうしで富を分かち合うことを可能にします。ここに於いてミトラ神は、遊牧民族の神から遊牧民族と農耕民俗の融和を司る神になったのでした。こうした異民族間の融和、遊牧民族と農耕民族の融和は、治水灌漑という科学技術の発展による生産力向上が前提になっています。ミトラのもたらす平和と友愛の世界を支えるのは、科学技術の発展でありました。そして、ペルシャ人がバビロニア王国を滅ぼし、チグリス・ユーフラテス河流域の支配者になったとき、この地域で土木建築事業を実際に担当していたのは、アッシリア補囚とバビロン捕囚でこの地に強制移住させられていたイスラエル人とユダヤ人達だったのです。
2008/04/20

再びペ・ヨンジュンの【太王四神記】について。広開土王は、前王の時代、19の部族の支配者に過ぎなかったのが全盛期には50以上の部族を支配し、高句麗の王権を確立したとされます。表題にもなっている四神とは朱雀、青龍、玄武、白虎の4つの神器のこと。古朝鮮に伝わる「壇君神話」に出てくる神器でこれらを支配する王が真の王として国を治めることができるとされます。四神とは中国神話に登場する、世界の四方向を守る聖獣のことです。四霊獣(龍、鳳凰、麒麟、亀)に数えられているものもいます。東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武といい、それぞれ川、海、道、山などに対応します。【世界の四方向】という考えはメソポタミアを初めて統一したアッカドのサルゴン以来からでそれが陰陽五行説になり、これが日本に伝わり、平城京(奈良)や平安京(京都)の土地選定に応用されたといいます。地勢は、四神相応の地を大吉とします。四神相応というのは、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武を四神といい天の四方の星象に合致相応しているのを四神相応といいます。すなわち、左に水流のあるのが青色、右に長道のあるのが白虎、全面に池水のあるのが朱雀、後ろに丘陵のあるのが玄武 というので、これらを最良大吉の地とするのです。平安京(京都)は、この条件に叶った地として選定されたのですが、これは科学的に見ても、南傾斜面でよく陽光をうけ、衛生的な土地であることがわかります。世界四大文明といわれる 「 エジプト文明 」 「 メソポタミア文明 」 「 インダス文明 」 「 黄河文明 」 は全て豊富な水を運ぶ大河の流域 で誕生し、農業や牧畜を中心とする都市文明が築かれました。 人類が生きていく上で最も大切な命の 『 水 』 が豊富にある場所 に、古くから人々は営みの基盤を置き、文明を発達させてきました。しかし、京都には大河と呼べるような河川はありません。 ところが、京都の地下には豊富な地下水脈が存在し、この地下水こそが千年の都 ・ 京都を支え続けてきたのです。 壇君とは、韓民族の始祖と伝えられる伝説上の人物ですが、その壇君神話のルーツをたどれば、ベトナムの文郎国、インドのクル王国、バビロニアのカッシート王朝メソポタミアのウルク王朝まで遡り、壇君朝鮮の歴史は、これらの国々からの借史と思われます。壇君朝鮮は、その後は北扶余、百済、辰韓、新羅などにつながり、大和朝廷や蘇我氏の一角を形成していきました。桓因(ファニン)はダゴン神、日本では帝釈天。桓因(ファニン)の息子の桓雄(ファヌン)はバァル神(牛頭)、日本ではスサノオノ尊、壇君神話のルーツは、メソポタミアです。栄華を誇ったソロモン王率いるタルシン船で奴隷貿易を行った記録はBC7000年に遡り彼らが作った製鉄所のあとは日本の国東半島はじめ東アジアの至るところで発見されています。広開土王の石碑に【倭が百済を臣民とす】の倭とは朝鮮半島の南部にあった金官加羅のことです。朝鮮南部を「任那日本府」などというのは、間違いです。任那国は対馬に存在し、宗女壱与が建てた祭祀センターであって朝鮮半島南部の弁辰地区にあった安羅と多羅などを支配していました。金官加羅地方(今の釜山付近)では昔から製鉄が栄え、この地域を支配した倭人が後に日本に渡来して蘇我氏となったのです。蘇我氏は姓を金といい、その祖先は月氏国のスキタイ・サカ族です。加羅地方を小月支国と呼び、それが訛って蘇我氏となりました。百済と新羅の挟み撃ちで金官加羅は562年に滅ぼされたので、金氏はじめ多くの倭人が加羅地方から北九州を経由して東に逃れ、蘇我氏となって6-7世紀の大和地方を支配しました。蘇我氏ほか、朝鮮半島からの多くの渡来人もまた壇君神話を信じる民族でしたから大和地方に高松塚古墳のような四神を奉る古墳が存在するのです。後に唐が建国されたあおりをくって、百済が滅亡(660年)。大和地方が新羅に占領されるに及んで、加羅由来の蘇我王朝が滅ぼされました。これがいわゆる「大化の改新」につながる 乙巳の変です。 実際は朝鮮で起こった【「比曇の乱】を翻訳したものでした。壬申の乱までは国史は朝鮮史の翻訳でした。新羅の善徳王というのは女帝ですが和白(新羅の部落会議に源をもつ全員一致の合議政体)の筆頭であった伊食比曇が唐にそそのかされて、女王では国事ができないと主張し、廉宗と共謀して王位をねらい647年正月に反乱を起こしました。この時、王子の金春秋(新羅30代文武王)と重臣の金庚信が比曇を誅殺した事件。これを「比曇の乱」というのですが、「日本書紀」では女帝の皇極の時、大臣の蘇我入鹿が王位を狙ったため645年6月に中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を誅したことになっていて、実はこれは「比曇の乱」の翻訳なのです。結果、新たなる征服者による歴史書「日本書紀」に馬子、入鹿、蝦夷などと蔑視な名前で記載されているのは、蘇我氏が直前の王朝であった証拠に外なりません。
2008/04/18
【辰王は流沙(中国西北方の砂漠)の人で馬韓の月支国にあって弁辰十二国を支配した】と、【史記】朝鮮伝にあり、この辰王が月支国にいたとあるのは、月氏のサカ族を月支とも書きましたから、辰王はサカ族ということになります。サカ族に関しては、紀元前海のシルクロードを支配したマラ族が、もともと内陸のシルクロードを支配したサカ族と交流がありマラ族の協力によってマレー半島及びベトナムから倭韓に渡来したサカ族があったと思われ、この時、サカ族にマラ族の兄弟ニ王制が教えられたと考えられます。枕流王と辰斯王は、百済第十五・十六代の王ですが、日本では五十環敷入彦命と景行の兄弟として書かれています。百済王統でも兄弟となっていますが、枕流は百済王辰斯王は辰王(倭王)として共立したと考えられます。この兄弟ニ王制が、マラ族の特徴です。346年、近肖古王が即位して辰王となり、近仇首~枕流の後、385年、辰斯王が辰王家を継ぎますが、この王こそ筑紫に進んで伊都国の王【イソデ】の迎えを受けた倭の景行天皇でした。369年、近肖古王が辰斯王(景行)に倭王旨と刻した七支刀を与えた後、百済は371年平壌を占領して高句麗の古国原王を破り、百済王朝の黄金時代を作りました。七支刀に刻した【旨】とは、【辰の斯王】の【斯】を表わしています。正史では、その後、百済王朝の衰退期が始まって、405年、百済の阿萃王は高句麗の広開土王に破れ、その死後、太子腆支は北九州から急遽百済に帰国したとなっています。その腆支王の子、久爾辛こそ、倭国に渡来して五王朝を作った応神でありました。
2008/04/16

NHK総合TVでペ・ヨンジュン主演の【太王四神記】がはじまりました。玄武・青龍・朱雀・白虎が織り成す韓国の創世記神話日本も少なからず係わっているようです。物語の舞台は、紀元前から7世紀まで、中国東北部から朝鮮半島に存在した国「高句麗」。ドラマの主人公タムドクのモデルとなった高句麗第19代の王(在位391~412)好太王はその碑文をめぐって韓国と日本の歴史解釈が問われた広開土王ともいわれる人物です。問題となる碑文の文とは。■百済と新羅は高句麗の臣民だったが、辛卯の年(391)に倭がやってきて、百済・新羅を臣民としてしまった。そこで、永楽6年(396)、王は百済に親征した。この時、百済の王都漢城にせまり、百済王に忠誠を誓わせ、王子らを人質とし、58城邑の700村を奪取して凱旋した。 ■永楽8年(398)年、東北の粛真に軍を派遣し、300余りの捕虜を獲得し、朝貢を促した。 ■永楽9年(399)年、百済は誓約したにもかかわらず、ふたたび倭と和通したため、それを再攻撃するため平壌まで進軍した。そのとき、新羅王が使者を遣わして「倭人が多数押し寄せている」と言ってきた。■永楽10年(400)年、新羅から救援の要請をうけ、王は5万の歩兵・騎兵を派遣して新羅を救援した。高句麗軍は新羅王都にいた倭軍を駆逐し、さらにそれを追って任那加羅(金海)まで進み、安羅(咸安)人の守備兵とも戦い、勝利した。倭におさえられていた新羅はこの結果朝貢するようになった。■永楽14年(404)年、倭は無道にも帯方界に侵入してきた。王は兵を率いて倭と戦った。倭は大敗し、惨殺された者は数え切れなかった。上記によると、高句麗軍の南面方面の最大の敵は、倭と呼ばれていた当時の日本からの派遣軍であり、当時の倭は百済と新羅を配下に押さえ、その派遣軍は新羅の王都・慶州を占拠したり、帯方軍の故地まで侵入して高句麗軍と戦っているとあります。しかし、この時期に日本が朝鮮半島に軍を派遣したというのは事実ではなく、碑文の解釈、さらには碑の文字になんらかの問題があるとする説があります。 特に、碑文の解釈で問題になっているのは、次の箇所です。「百残新羅旧(原文は古い字体)是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅以臣民以六年丙申王躬率□軍討滅・・・・・」 その意味は、通説では、「百済と新羅はもと(高句麗)の属民で、ずっと高句麗に朝貢してきた。しかるに、辛卯年(391年)に倭が海を渡ってやって来て百済や新羅などを破って臣民とした。そこで丙申年(396年)に王は自ら軍を率いて・・・・」でした。 ところが、1972年、在日朝鮮人学者・李進熙(リシンヒ)氏は、酒匂景信は双鉤本(墨水廓填本)をつくるとき碑文をすり替えたとする説を発表しました。さらに、1900年前後には、酒匂景信の碑文すり替えを隠蔽するために、参謀本部が「石灰塗布作戦」を行った、と主張しました。当然のことながら、この説は当時の歴史学会に一大センセーションを巻き起こしました。李進熙氏がその主張のために徹底調査したのが、墨水廓填本です。 その後の日本、韓国、中国の歴史学者の熱い論戦の結果、李進熙の説は最終的には退けられましたが、基本史料を厳密な考証なしに無批判で使用してきた歴史学会に警鐘を鳴らし、現在も、碑文の解釈については、決着をみていません。 当時の我が国が朝鮮半島に多くの軍隊を派遣できるほど、強力な国家になってはいなかった。倭の軍隊は列島から派遣されたのではなく、半島南部に住み着いていた倭人が傭兵として百済に雇われたのだという説があります。また、【日本書記】には、当時の倭と百済が同盟関係にあったことを記す証拠、神功皇后52年9月に、百済からこの七支刀が倭国に送られてきたという記載があります。奈良県の石上(いそのかみ・イスラエル神社を表わす)神社は、物部氏の氏神といわれこの神宮に納めてある七支刀(ななさやのたち)銘文の【倭王旨が百済辰斯王である】からおして、百済と倭国の同盟による大規模な軍事行動が終わって後372年、百済王は久氏子(くていし)らを日本(倭国)に送って、七支刀と七子鏡を奉納した時のものと思われます。この頃、百済王家から倭の大王が選ばれていたことを示すものでありその倭王が辰斯王ということになります。【百済本気】および【旧事記】によると『392年、金官加羅(倭国)が高句麗の広開土王(ペ・ヨンジュン役)と協定し、百済を攻撃すると見せかけて辰斯王を暗殺し、王を取り換えた(阿花王)。その結果、この後、倭の五王時代(5世紀)に至るまで、金官加羅から【倭の大王】がでるようになった』と記述されています。これは、前代の百済王、枕流王が死ぬと、その子の阿花を差し置いて、枕流王の弟、辰斯が王になったために、金官加羅(倭国)と通じた阿花王の一派に命を狙われたのです。また、400年(永禄10年)の記録=慶州地方から倭軍を追跡していく高句麗軍の行く先を従来の学者たちは【任那加羅】と擬定し、その任那加羅が金海地方だと主張しますが、しかし任那という地名は朝鮮半島内には存在しませんでした。任那国は対馬に存在し、宗女壱与が建てた祭祀センターであって朝鮮半島南部の弁辰地区にあった安羅と多羅などを支配していたのでした。
2008/04/13

アフラックのCMのアヒル可愛いですね。宮崎あおいちゃんとアヒルのCM「アヒルのワルツ」もほのぼのしていていいです。リンゴむいたり、お掃除したり、お洗濯ととっても幸せそう~自然いっぱいの中でノンビリ暮らすのがいいな。 ここはとあるアヒル町 若いふたり おりました 古い家の 古い部屋 古い庭に ざくろの木 好きなものは クロワッサン 嫌いなのは 北京ダック ふたり いつかあこがれの パリに行くのを 夢見てる ノートルダムにシャンゼリゼ サンジェルマンに凱旋門 モンマルトルにカルチェラタン エッフェル塔にクリアクル 月月火水木金土 来る日も来る日も働いた 満員電車の窓の外 雨に霞むアヒル町 仕事も嫌い上司も嫌い アヒル町も大嫌い 休みはいつも寝て過ごし パリのパの字も忘れてた とある晴れた日曜日 雨がやんで日が差した 遠くで鳥が鳴いている 小さな花が咲いている カフェオレ入れて朝ごはん 庭で食べようクロワッサン ここにふたりいるだけで 足りないものは何もない 僕たちは一生一緒さアヒルンルンルン 大家さんの金木犀 毎年秋を教えてくれる 花屋さんの黒い犬 行くたびいつもかけてくる 小川の横の桜の並木 線路沿いの名も知らぬ花 アヒル町にゃカフェもある アヒル町じゃ映画も観れる 見た目はかなりじみだけど アヒル町はふたりのパリ クウェ、クウェ、クウェ クワッ、クワッ、クワッ アヒルのワルツ アヒルンルン、アヒルンルン アヒルンルンルンルン アヒルンルン、アヒルンルン アヒルンルンルンルン クウェ、クウェ、クウェ クワッ、クワッ、クワッ クウェ、クウェ、クウェ クワッ、クワッ、クワッ クウェ、クウェ、クウェ クワッ、クワッ、クワッ アヒルのワルツ
2008/04/13
遅まきながら桜を見に行きました。【源氏物語】講座を受けた後師と仲間で車に乗り近くの山へ。その前にランチ、手打ち蕎麦と野菜の天麩羅そして向かいの歴史記念館を見てから車を走らせると桜 桜 桜 と感動的に桜づくし。まだ間に合いました。桜のトンネルには拍手をしてしまいました。淡い桜の色は何とも素敵で自然ってほんとに素晴らしい。頂上から眺めた景色は、山々が色づいて、まさに“山笑う”感じ。私達も笑い声があがります。奈良の吉野の桜を見に行く人、これから吉野へ行く人、仲間は、ココ最近旅づいています。国内だけでなく中国、欧米と土産話を聞くだけで自分も行ったような得した気分になります。桜を見た後は、木の香りのするカフェで珈琲を飲みながら談話、最高の日となりました。
2008/04/12

友人のマルちゃんと新宿で待ち合わせて徐々苑で焼肉ランチ。その後、【旧岩崎邸庭園】へ。ここは、旧三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の長男、3代目岩崎久弥が別邸としたものだそうです。戦後、昭和22年に国有財産になり、最高裁判所司法研修所として利用されてきました。建築は明治29年に、イギリスのジョサイア.コンドルの設計によるもので、敷地面積15000坪余り。洋館の規模は、木造2階、地下1階。屋根は手割りのスレート葺き。広さは531平方メートル。ビリヤードルームがある別棟、撞球室とは地下道でつながっています。洋館と和館をつなぐ渡り廊下は郵船を象徴する船天井(写真下右)になっています。和館は、書院造りを基調にしたもので、書院造りの広間には橋本邦夫、狩野芳崖の日本画が残っています。戦後は、GHQに接収され、その後最高裁判所研修所等に使われ、この時に和館の方は大広間をのぞき、大部分が壊されてしまったそうです。 明治三十四年生まれで平成十三年に百歳で亡くなられた、画家の木本大果氏の回想「湯島の天神様の辺りを湯島天神の切り通しの坂と申しておりましたが、広小路の方から見まして右側の坂のところが岩崎さんのお邸でした。あのお邸の前にガス燈が立っていたんです。夕方などになりますと、人通りもない所に青白い光がほのかにぼうっとついておりまして、何ともいえず、ロマンに満ちた情景で、泉鏡花の小説の世界を感じさせるものでした。夕方になると、このガス燈に点火する人が走って来るんです。3~4メートルの細い棒を持ちまして、すうっとガス燈の所に持っていくとぼうっと青白い光が浮かぶんです。 岩崎家の三菱は、三井、住友とともに三大財閥家系です。三菱は、岩崎弥太郎が明治期の動乱に便乗し政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたといいます。弥太郎は天保5年、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人(半農半士)・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男として生まれました。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことです。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれています。弥太郎が生まれた時代には、相次ぐ飢饉と一揆の影響を受け没落していました。岩崎家は甲斐源氏武田・岩崎一族の末裔を称しますが、日本古来の原住民、山祇族の流れを汲む久米氏族ないし三好の同流だったとする説があります。岩崎家が土佐に移った時期は不詳ですが、当地では安芸氏、長宗我部氏、次いで山内氏に仕えました。母美和の実家が医師の家だったことから、幼少のころから学問的環境に恵まれ土佐藩随一の学者・吉田東洋の知遇をえ、その門下生である、後藤象二郎らとの交際が出世の糸口となりました。幕末、土佐藩参政、吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事します。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴きますが尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国職を辞しました。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され坂本竜馬が土佐藩から脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当しました。最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ます。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎ですが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍しました。今でいうインサイダー取引です。1873年に後藤象二郎の知遇で現在の大阪市の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に【三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)】を設立(「三菱」は土佐藩(山内氏)の家紋である三つ柏を模している)。弥太郎の死後、政府の後援で熾烈な値下げ競争を繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となりました。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われています。なお弥太郎の娘婿から2人の内閣総理大臣を輩出しています。財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく三菱と国家の密接な関係を証明しているといわれます。
2008/04/09

昨日は講座のある日でした。花を戴きオードリー・ヘップバーンのガーディニングのビデオを貸していただきました。ピンクのヒヤシンス、ラナンキュラス、白い小花など香りのよい花のブーケです。誕生日に戴いた何でも入る大きなバッグにすっぽり入れました。先生や仲間とパスタランチ、珈琲と、ゆっくりと話を・・・思わぬ深い話になってジーンとしてしまいました。友人からルーヴル美術館展 フランス宮廷の美と「国宝 薬師寺展」のチケットを戴いたので一人で上野へ。この日は、20時までということで、じっくり見て廻りました。ルーヴル美術館展の方は5時までなので先に観ることにしました。ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人やルイ16世の王妃マリー・アントワネットの関連収蔵品がたくさん展示されていました。ロココ・ロカイユ様式の家具や時計、ブーシェやフラゴナールなどの絵画タペストリー、セーブル磁器や銀器など目が覚める美しさ。今回多かったのが贅を尽くした金や銀で細工された「嗅ぎ煙草入れ」。豪華な調金細工がほどこされ、ダイヤモンドがあしらわれています。このコーナには人が特に集まっていました。ため息つくよな美しさ。その他の銀細工の嗅ぎ煙草入れも、ほんとに綺麗で私もほしいと思いました。しかし国民の税を湯水のように使っての贅沢は、許し難い。嗅ぎ煙草は、1492年一束の乾燥した葉がコロンブスに贈呈されました。一ヶ月後、キューバから帰った部下が、、『インディアンが葉を吹かしている』と、報告その後、ヨーロッパでは、医学的にも薬効があると認められ、貴金属と同格の扱いで、貴族から、庶民まであっというまに広がりました。当時貴族の間では煙を出さない嗅ぎタバコが大流行。マリーアントワネットは、52個の豪華な嗅ぎタバコ入れを持参して、お嫁入りしました。嗅ぎタバコは、煙草の粉を鼻の内側の粘膜に付着させて、ニコチンを摂取する喫煙方法です。マリー・アントワネットの旅行用携行品入れ 同じものを二つ注文したそうです。50以上の器物を収納。金銀細工とガラス製品や象牙製品など。お気に入りで逃亡の際にも持ち出そうとしたものだそうです。東京国立博物館、法相宗大本山薬師寺、 平城遷都1300年を記念しての開催です。日本仏教彫刻の最高傑作のひとつとして知られる薬師寺金堂の日光・月光菩薩立像(国宝)が日光菩薩、月光菩薩、2体揃って薬師寺の外へ出たのは、今回が初めてだといいます。さらに今回は、正面からだけではなく、ふだん薬師寺では見られない背面をはじめ、あらゆる角度から見られるよう、展示が工夫されていたので360度ぐるりと周って眺めました。この二体の菩薩は、腰をひねって立っているんですね。羽衣を身につけて、インドの装いそのもの。日本での世界遺産第1号に登録された法隆寺は世界最古の木造建築物ですが実は法隆寺には、昔からいくつもの不可解な謎が秘められています。その中でも特に謎に満ちているのが、夢殿に安置されている秘仏・救世観音です。この救世観音は、飛鳥時代、聖徳太子をモデルにつくられた仏像といわれますが長い間、寺の僧侶でさえ見たことはいない、秘仏中の秘仏でした。この像を見た者は、目をつぶされ、寺は崩壊するとずっと言われ続けてたらしい。現に、1879年。岡倉天心とフェノロサが、なかば強引に、仏像に巻き付けられた500メートルもの白い布を解いだとき、法隆寺の僧たちは「寺が崩れる」といって逃げ出した、といいます。実は、この仏像そのものが聖徳太子の祟りを鎮めるために作られた、とも言われます。それはこの観音像の光背が、釘で直接打ち付けられているという普通は仏像にあり得ない形を取っているためのようです。頭と胸にも釘が打ち込まれていたそうです。沿革によると、夢殿の創建は739年ころ、太子がかつて住んでいた斑鳩の宮跡に太子を"偲んで"僧・行信が建てたものだという。聖徳太子の存在さえ、疑わしいと思われる昨今、これはどういうことでしょう。
2008/04/06

今日は4月4日、4を合わせて幸せの日です。 そんな風に、日々の中から好いことだけをすくって潜在意識にインプットしていきたい。 錬金術のように。 錬金術では,地上の原理はすべて宇宙の原理とシンクロしていると考えます。宇宙を一つのシステムだとすると、そこに存在する全てのものは相互に関わりあっています。小宇宙は大宇宙に対応し、互いに対応しあう関係にあるということは内的世界も外界も反応しあうということとなります。錬金術では、卑金属から黄金を産み出すという作業を通して内的な魂の変容のプロセスを歩みます。 黄金とは、不変で完全で祝福された状態の魂のシンボルであり黄金の獲得を目指すことは同時に悟りの境地のように意識が根源的に変革されて高次の認識水準に達することをも意味しました。「金」は新しく生まれ変わった再生の象徴ともされました。金属を作り出す神がなぜ一つ目や片目とされてきたのかという点に関しては金属精錬のタタラ作業で火の色を長年見つめるために片目がつぶれたという説などがあります。中世ヨーロッパでは、錬金術師が、鉛などの卑金属を金に変える際の触媒となると考えた霊薬が賢者の石とされました。また「賢者の石」は卑金属から黄金に変える赤くて重い石を液化すると延命長寿の薬となりあらゆる病気に効く万能薬といわれました。秘教的錬金術、錬金術師がめざした黄金は金属(物質)ではなく魂の浄化を象徴した霊的黄金である意識の至高状態をいいます。錬金術師は自然になりかわって自然の作業を成就し卑金属を黄金に変成させて自然を完全なものとし、時間にとってかわる修験道 永遠の生命の探求をめさした煉丹術(錬金術)と同じ 金を採集するための苦難が、苦難そのものが、目的のようになり変形している本来は、修験の服装や持ち物も、前人未踏の地に金や水銀を探すためのものでした。古代の人々は、銅を高温で加工する技術を発見した過程で偶然、僅かな金を発見したと考えられます。より優れた武器を求めていた彼らにとって、柔らかく極少しか採れない金は、さほど魅力的ではなかったでしょう。人類が利用し始めた最初の金属は、銅でした。銅は、自然銅の形で発見されることが多かったと考えられます。それに対して鉄は、ほとんどの場合、酸化物あるいはその他の化合物として存在しており、自然鉄という形で発見されることはありませんでした。銅に比べて鉄の方が酸素との結合力が強いのです。この差が、銅に比べて鉄の利用を遥かに遅らしました。金は、銅や銀と、元素で同族の関係にあり、多くの銅鉱石は、少量の金や銀を伴っています。したがって銅を大量に使っている間に、金が少しづつ蓄積していったようです。ところで銅には、青銅の武器を作るという明解な目的がありました。それでは金にはどのような必要性があったのでしょうか。金は、王権と密接に結び付いていたと考えられます。古代の農民社会は、王と戦士階級と農民、三つの要素で構成されていました。興味深いのは、かなり時代は下がりますが、古代のミトラ信仰にこの三つの要素が濃厚に反映されていることです。ミトラが王の神格、日本では帝釈天と呼ばれているインドラが戦士階級の長の神格そして農民階級を現すその他大勢の神・・・。ミトラ信仰はゾロアスター教信仰以前の古代イラン人の宗教といわれています。しかしその古代イラン人はどこから来たのでしょう。北方起源説が有力なアーリア系のイラン人が、その信仰の農民的性格から実はメソポタミア起源である可能性があるといわれます。農民社会は、遊牧民族から発展したのです。遊牧民の生活は、絶えず外部の状況が変化し、絶えず未知のリスクに曝されそのなかで選ばれるとしたら血筋よりは、個人の能力、とくに判断力と決断力に優れていることが、リーダー選定の基準になっていたことでしょう。このルールに反したコミュニティーは、生き残れなかったに違いない。しかし農民社会では、事情が全く違ってきます。原文字期のメソポタミアの農業社会では、数万人あるいはそれ以上に達していたでしょう。遊牧民族の場合と異なり、農民社会では、リーダー個人の能力はそれほど重要ではなく寧ろ抽象的なリーダーの地位が安定し権威を維持している方が望ましいのでした。そしてリーダーの地位を安定させるという点では、世襲制がもっともやり易い方法でした。かくて「血筋」の尊重という慣習が、農民社会では定着していきました。そこに階級制度誕生の必然性があったのです。しかし半面、初期の頃、その血筋の確立が問題だったに違いない。遊牧民族だった階級の存在しなかった人間社会に、突如階級などといった厄介なものつくる必要が生じ、初期の頃、無数の争いがあったと推定されます。王の血筋を決めるとすれば、自分の血筋こそもっともふさわしいと考えた者が多かったと思われるからです。激しい闘争を勝ち抜き、王となった人間にとって最大の課題は、潜在的な競争相手から自分だけは超越した存在であることを誇示することであったでしょう。その目的で、古代の王たちには、二つの手段がありました。第一は、自分を神あるいは神の子孫と主張すること。この場合の神は、人間を超越しているという属性さえ持っていればよかった。第二の手段は、自分の身体を飾りたてること。この目的で、金はラピスラズリとともに理想的な材料でした。簡単に手に入らないことが、好まれたのです。とくに、どんな環境にも光りを失わない金は、太陽光線の下であれ夜の篝火の横であれ、見る者に畏敬の念を抱かせたでしょう。金は、王権を確立するための小道具として、必要欠くべからざるものでした。銅には遅れましたが金もまた、世界でもっとも早く農業社会が発展したメソポタミアでもっとも強い需要があったと思われます。かくてほとんどの金の生産地は、メソポタミアの王のために開発された可能性が高いのです。やがて分業がはじまり、農耕をせずに採鉱と交易をする遊牧民はアラビア半島を数百年かかって迂回し、シナイ半島の銅鉱山を開発したようです。さらにスエズを渡ってエジプトの山を探鉱して回りそしてナイル河の砂金を発見しました。東ではインド、バクトリア、ソグディアナ、これらの地域も、シナイの鉱山と同様、これらの鉱山師によって開発されたと考えられます。そして、北シリアから地中海岸をイベリア半島まで、またメソポタミアからイラン、パキスタンを経てアフガニスタンからソ連中央アジアまで、銅や金を運ぶルートが出来ていったと考えられます。中央アジアのシルク・ロードは、古くはゴールド・ロードあるいはカッパー・ロード(銅の道)でした。インダス河流域、モヘンジョ・ダロのBC2500年頃に遡った頃に設計された都市もメソポタミアへ金や銅を運ぶ基地として、メソポタミア系の人によって建設されたと考えられます。
2008/04/04

古代史は、経緯を辿っていくだけでもドラマチックでおもしろいのですが調べていると目が開かれる発見があり不思議な糸が幾重にも織り込まれ実に神秘的、美しいです。古代の人々の叡智には驚かされます。 古代、中央アジアを中心にミトラ教が全世界に広まりました。その流れが幾千年と形を変えて今も生きていることに、とても感動します。ミトラは密教、弥勒にもつながります。空海が長安から持ち帰った密教の曼荼羅とは【セフィロト(生命の樹)】といわれるものです。「生命の樹」とはユダヤの秘儀といわれますが、起源はアーリア人のミタンニと考えら世界のすべての事・物・者に影響を与えているおおいなる教えを図にしたものです。樹木崇拝は世界中にあり、各地で生命の樹の神話とそれぞれの土地の樹木崇拝が結びつき、樹木の造型として展開しました。世界の七不思議、バビロンの空中庭園も宇宙軸、生命の樹の観念につながる象徴的な樹木を配して、天上の楽園を観念的な表現としたものでした。「セフィロト(生命の樹)」が象徴することには多くの意味と解釈があります。 その基本は、一番上のセフィラーから、順々にエネルギーが流れていき最後のセフィラーで物質の力として安定する、という「万物創造」の仕組み図です。10個のセフィラーは、様々な創造の過程でエネルギーが溜まった渦のようなもの。そしてパスはエネルギーの通り道です。森羅万象は日々、様々な創造を繰り返し、人間の営みもまた同じです。「セフィロト(生命の樹)」には、そうした全ての現象が入っています。まるで【エヴァンゲリオン】の世界です。魂の成長・浄化。現代にも通じるスピリチュアルなことです。 人は人と向き合うと、人間となり、自然と向き合うと、ただの一つの生命になる。「生命の樹」は自分自身をさすもの。大きな宇宙の中に小さな宇宙を持つ自分がいる。 私たち自身を示す「生命の樹」と大地を結ぶ「根」が大切な存在であることに気づきます。春には新芽が出て新緑に輝き 夏には濃い緑の葉になり、花が咲き秋には実った果実を収穫する。そして、冬には枯れ樹になって春の準備をする。樹木の四季の移り変わりは、春夏秋冬を繰り返しながら太い幹を作っていきます。この移り変わりは、目で見ることができます。では、その樹を支え、育てる大地は・・・移り変わりや成長は目に見えないもの。「大地」は私たちの人生そのものなのです。私たちの表面意識は「生命の樹」です。私たちの潜在意識・純粋意識は「根」です。四つの季節に育まれながら、大きく育っていけるのです。潜在意識に、イメージをしっかりと捉えることで、心の中に「理想の種」を蒔き、 大地を耕すように、人生の基盤を育み自身の「花」を咲かせます。実った果実は「理想の実」。そして・・・大地と生命の樹をつなぐのは「根」潜在意識なのです。あらゆる角度から「自分自身」をひもといていきます。例えば、ひとりの人の生命の樹の枝にあるメッセージを引き出し今までの人生の道のからみを綺麗に生理整頓します。生命の樹も、根っこも、枝も、果実の味にも、それぞれ「色と言葉」があり、ひとりひとりの生命の樹も果実も味も違う・・・それは「生きる道」に同じものはないからです。 「人間、ああなるのも、こうなるのも、万事おのれ次第だ。おれたちの体が庭なら、さしずめ意志が庭師というところさ」シェイクスピア「オセロ」のイアーゴのセリフです。心の庭を荒れ放題にするのも、きれいに整理するのも花壇の中にキャベツを植えるような無秩序も己という庭師の意志、 すべて自分の意志のなせる業。自らの内なる宇宙、心の奥の声に耳をかたむけてほんとうに、したいこと。したくないこと。しなければならないこと。心して生きたなら世界に一つだけの花を咲かせられるかもしれない。 さて、古代、このような宇宙観をもったユダヤ教の神官、ラビの一部の人々は、バアル(牛頭神教)が、万民の神であるということを伝えるために、カバラという秘密教団を組織しました。このカバラの神官が古代日本にもやってきたようです。その証の一つが「酒船石」の遺跡、酒船石とは飛鳥時代の石造物・・・これは実はカバラの「生命の樹」の形を刻んでいます。水を流したらしい溝とは神の流れで神的属性の間を結ぶ小径であり、それ故に「生命の樹」は交流する時は小径が二重になっているのですが「酒船石」も二重になっています。「ユダヤの秘儀」によると「神」の流れはセフィロト間を結ぶ小径と、幾つかの三つ組その三角関係を辿ることによって詳しく追ってゆくことが出来ます。 茶室の中は宇宙を凝縮していると言われ、陰陽五行があります。宇宙の成立は、地・水・火・風・空の5つのものから出来ていると考えられています。茶室には狭い中に炉が切ってあり、炉の中には五行の「木火土金水」があります。茶事は、1年を火の季節と、風の季節の二つに分けます。 11月~4月(正式には5月はじめの立夏まで)までが火の季節。 対して5月~10月までが風の季節。風炉の季節です。 10月は「炉」への転換期として「中置」での点前が一般的です。これは「火」を象徴する風炉が客付に近づき、「水」を象徴する水差しが遠のきます。11月には陽の気が衰え、陰の気が強まり、茶室では「炉」が開かれ「火」が地中に収まりまりますが、風炉の時季よりも客側に位置します。反面、水差しが客付から遠のきます。これは茶室を宇宙と捉え、その内での陰陽の循環を季節感とともに非常に巧みに表現しています。
2008/04/02

古代の人々は、太陽を考えるに、神は太陽の如く輝き、言葉ではよく表し得ないが青銅鏡がこれをよく表わしています。よって鏡を【日神体】と書いてカガミと読むと伝えられます。また神鏡は月神をも表わします。神社の御神体に鏡が置かれるていることは知られていることです。倭人のトーテムが青銅鏡であるとして、日祖を【阿乃ウシフウ霊明】としますが【阿乃】の【アノ】は天神、朕を意味し、天の王朝の【アメ】・・・天照大神でもあります。また【アノ】は、バンジャップ・アーリアの前期ヴェーダ時代の五族にあるアノ族の意味もあり契丹語では契丹人、山カ語では太陽の意味、メソポタミアのアヌ神がルーツになります。そのインドのアノ族は前期ヴェーダ時代に失われており、北上してサマルカンドに入った可能性があります。サマルカンドとはマグリ国のことであり、【日本書記】のサクリ国はマグリ国の分国になります。また扶余王のアグリ姓も、ここからきています。 ところで、スサを王都とするペルシアは、ユダヤ族とフルリ族を含む国家でした。彼らは、西域といわれる東西トルキスタンにメディアが建国したあとBC6世紀頃、アケメネス・ペルシアが世界帝国を作りBC334年、アレキサンダーの東征の時、逃れて秦を建てました。もともとサマルカンドにはユダヤ族のコロニーがあり、スサの総監はユダヤ人でスサの石柱には十六弁の菊紋がありました。これより先、BC1000年頃から鉄文化を独占したヒッタイトが崩壊して、この鉄文化がインド・中国大陸へ波及しますがBC800年に九州国東半島に、ヒッタイトの首都【ハットウサ】から名を取った宇佐八幡の製鉄遺跡があり、崩壊後のヒッタイト人を含むチュルク人の移動も考えられます。なおフィンランドにも【ハットウラ】【イナリ】の地名があり、これもチュルク人の西遷によると考えられています。チュルクは後のトルコ族のことで、鉄の車輪を作った一族であり、匈奴から分かれたとありますが、高夷・孤竹・令支の殷庶で匈奴冒頓のなかにありました。この時代の白丁・禾尺・鮮卑・契丹族は、日本列島に渡来する以前の倭人と同類であり、ジンギス汗の九流の白旗も、笹りんどうの紋章と共に源家のものと同一であり天乙は白色を殷の聖色としましたがユダヤ民族の戦旗でもありました。また笹りんどうは昔氏(サカ)のササから生まれたのですが、白色は月光を表わします。なお佐々木源氏は酒神伝承をもち、その四菱の紋章は【器】から【犬】を隠し去ったものですが、サカ族もまた酒神ソーマの末と主張し、【鹿】をトーテムとして【犬】を忌むのです。ジンギス汗は、蒼狼と白鹿の末ですが【狼】は犬戎と高令、【白鹿】は、これに従う【サカ族】を表わします。ジンギス汗が決戦の前に単身、山に登って神に祈ったのは、モーゼが信託を受けたのと同様だといいます。【倭人興亡史】は、セム族系【天の王朝】・・・が後に天皇家となるハム族系高句麗チュルク族の神武に王統を譲ったとしますが、セム族もハム族も【イナンナ神】を祭る同族でありました。ジョージ・ルーカスの【スターウォーズ】のプロローグに【サガ<英雄伝説>第一章より】と記してありますが、これが北欧の神話、エッダとサガのことであることは欧米人の多くが知ることですが、実は、わが国の穢多と山カの語源であるから、差別語とはいえない。言葉に蔑視な漢字を当てはめた人達の品格を疑うものでしかない。カルデア人の主神インザクも鹿の神であり、スキタイも大角鹿の部族でありました。
2008/04/01
匈奴はチュルク族とキンメリ族の二系が率いる連合軍でした。チュルク族は歌が好きで、それは万葉歌にも示されていて、今でも天皇家の歌初めという儀式に残ります。彼らは始め独自の文字を作らずサカ族からプラフミー文字シュメール族からウルク文字を借用していましたが、これが天皇家の文化につながります。扶余と箕子朝鮮の人々は、BC274~236年のアソカ王刻分にあるプラフミー文字を持っていました。扶余人は漢字受容後もこの文字を持ち続けて、上記文字やサンカ文字として残しましたが扶余と箕子系の人々はトカラ文書をニギ氏系の人々はコータン文書も残しています。日本史では、チュルク族の韓文化とサカ族の蘇我氏とユダヤ族の守屋氏(物部)が作った倭人文化は銅矛文化と銅鐸文化の対立という形で表されますが言語と文字の対立も見過ごせないものがあります。(蘇我氏がサカ族だという説がまだ捨て切れません)後、チュルク人の一部は河西の北涼に合し、439年に北魏に滅ぼされたため西走し北涼がトルファン盆地に高昌国を建てるとチュルクの阿史那氏はこれに加わりました。この人々がソグド人の古体ソグド文字を学び、チュルク文字やトルコ・ルーン体文字に発展させたといいます。ソグドとは蘇塗であって、アラム・サカ・ユダヤ諸族の商業基地をいいます。扶余のサカ族が東行し、一部がソグディアナ地域を中心にして、シルクロードの商圏を支配したキャラバン国家が成立したのでしょう。
2008/04/01
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