フィギュアスケート 0
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節分である。用意しておいた豆を口のなかに撒いた。 口福(こうふく)という言葉がある。おいしい物を食べる幸福のこと。あるいは、物を食べることができる幸福のことである。ちかごろ・・・いやいやもう何十年も前から、この言葉を使う人もいなければ聞くこともなくなった。食べられないからではなく、食べ飽いているからかもしれない。 近所のコンビニエンス・ストアーの前に「恵方巻」の幟が立っていた。恵方とは、その年の縁起の良い方角のことで、ことしは東北東らしい。節分にその方角に向って巻寿司を一本まるかじりするのだそうだ。どうも関西の習慣のようだが、近頃では東京のコンビニエンス・ストアーやスーパーマーケットでも出来合いの「恵方巻」を売るようになった。我家にはない習慣だ。 「恵方巻」は、山海の食材を太海苔巻にする。おそらくその起源は豊饒祈願、・・・すなわち今年も食べ物に恵まれますようにという願いを込めてまる齧りしたのであろう。食べ物が充分食べられるのは、なんといっても人間の、いや、ありとある生物の究極の幸福なのである。 東京の上野公園などでおこなわれている給食サービスに長い行列ができている。私は150メーターにもなる長い長い列を見てきた。世界は飽食と飢餓とが背中合わせである。世界に目を向けずとも、今、この日本のなかでそのような状況が起きている。その窮状は「祈り」で解決はできないのだけれど、口福という言葉を噛み締めないではいられない。 八方を塞げる厄を拂いけり 休山
Feb 3, 2009
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終日の雨。強く降り込める冷たい雨である。 そんな中を、夕方になってから4時間ばかり外出。雨は坂道を急流となって下る。私は道の途中でかがんで、ズボンの裾を少しばかり折上げた。みっともないが、出先でグショ濡れの姿を見せるよりはよかろう。 駅のプラットホームに、スピーカーで小鳥の声を流している。「ピーピークゥイック・クゥイック、ピーピークゥイック」と、ほぼ20秒間隔で流れる。そのうるさいこと。大きい音ではないのだが、単調さが神経を苛つかせるのだ。日本の都市部ではとかく無駄な音のたれながしが多い。サービスのつもりらしいが、ずいぶん粗雑な神経のひとたちの企画だ。こういうのは公害とは言わないのかしら。 この小鳥の声が気になるのか、私の目の先で、本物の小鳥が雨のなかを右往左往飛び回っていた。腹が白く、背と尾が黒い。ホームに降り立ち、また飛び立って屋根に止る。「ピーピークゥイック・クゥイック、ピーピークゥイック」という声の出ている小さなスピーカーの周辺を付かず離れず、去るに去れない。 「可哀想に、罪作りな音だことなー」と、私は、篠つく雨のなかの小鳥の飛翔を見つづけていた。
Jan 30, 2009
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オバマ大統領の就任演説(Obama's Inaugural Address)の全文をあらためて原文で読んだ(朝日新聞1月24日掲載)。これが歴史に残る演説かどうかについてはCNNでも議論されていたが、格調高いすばらしい演説であることはまちがいない。すくなくとも空虚な言葉はただの一語もない。理念は具体的なイメージでバックアップされていて、そこに二義性はうまれようがない。「美しい日本」などという、何の意味もないばかりか、人によってまったく異なるイメージが生まれる多義的な言葉などでは全然ないことを、私はあえて指摘したい。そしてアメリカ合衆国の理念ではあるが、いまやそれが世界の大方の理念と一致するものと言ってもよい。いや、私はそう願うのだ。 私は常に日本のことが念頭から離れないのだが、この演説はまた、いちいちが日本の現状を省みさせる。日本の政治的な進み行きは、ほとんど真逆のような感じさえするのだ。たとえば、 「Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America.」 「きょう、出発にあたって、私たちはみずからを奮い立たせ、私たち自身の埃をはらいのけ、アメリカを再生するための仕事を始めなければならない。」 私が注目するのは、「自分自身の埃をはらいのけ」という宣言だ。ここには歴史認識があり、自己の過ちを修正する明確な意志が示されている。国民を統合するために古きにしがみついて、それを「伝統」などといいくるめる日本の大衆操作術とは大きな違いである。しかも大統領は、その後にすぐさま、そのことを政治がどう具体的にしてゆくかを明らかにする。総じてオバマ大統領の演説は、理念を掲げてからその具体化すべき問題を示している。空虚な言葉はひとつもない、と先に私が述べたのはそういうことである。 思いおこせば日本の首相は、佐藤栄作は記者会見場からマスコミを追い出したし、田中角栄は自分の都合の悪い質問をした取材記者に対して、「お前はどこの社だ!」と恫喝したものだ。ヤクザ並。低級なんですな。自らの言論をまったく信じていない証拠である。そういうヤカラによる政治が連綿としてつづいている。これは与野党に関わりない。野党だって場当たり的な稚拙な言葉しかもちあわせていないのだから。 いまや対外的な日本の顔は、政治によって保たれてはいない。政治家諸君、そして政治家を志向する人たちよ、自らを裸にし、ただ一個の人間として哲学することから勉強しなおさなければいけませんよ。言葉とはそういうものです。
Jan 25, 2009
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宵闇がせまる頃から雨が降りはじめた。ただいま午前零時を20分ばかり過ぎ、気温がぐっと冷えてきた。仕事場に入ってコンピューターのキーボードを叩いている足元にその冷えを感じる。とはいえ、じつはこの冬、仕事場のエアコンデショナーの暖房を一度も入れていない。必要ないのだ。私の身体はよほど新陳代謝が良いのか、それとも単に鈍いだけなのか、とにかく身体が温かい。着ている物は、長袖のアンダーシャツにアウターシャツ(ワイシャツやブラウス)とニットセーター、それにズボン。股引など穿いたことがない。元気な爺ちゃんなのである。 野生動物は気温が下がると体温があがる。人間の身体も、自律神経が正常だと動物と同じ体温調節がなされる。家電メーカーには悪いが、電気毛布などで人工的に身体を温めることをつづけるとホルモン・バランスが崩れ、ついには自律神経失調となり体温調節ができなくなる。暖房ばかりではなく冷房についても同様で、冷房病というのはすなわち自律神経失調症である。 冷たい寝床にもぐりこんだ瞬間は、ブルッとくるけど、やがて身体が発熱してくる。我家の猫たちは私が寝床に入るのをまちかねたように、ずらりと私の蒲団の上に陣取って眠る。蒲団の上から人体の最も発熱する箇所をみごとに探りあてるのである。股間のあたり、膕(ひかがみ)、足の甲。それらの場所取りに遅れたものは、寝ている私の頬を触って、蒲団の中に入れてくれとせがむ。・・・猫たちにとっては私はほどよい温かさの暖房器具なのである。 さて、正月明けから始めた新作50号(117cm×91cm)の制作は、毎日少しづつ執筆しているが、予定よりは遅れぎみ。複雑で細かい絵柄なので、それも仕方があるまい。描きつづけていれば、いつかはゴールに到着する。
Jan 21, 2009
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新聞はオバマ新大統領就任式のニュースでもちきりだ。アメリカのみならず世界がオバマ氏に期待しているようだ。苦境に立っての船出だけに、行く末はかならずしも楽観はできないだろうが。 それでも日本人の私でさえ、真に新しい未来がひらけるかもしれないと思うのは、何と言ってもオバマ氏の知性に磨かれた言葉の力だ。残念ながら、わが日本の閣僚諸氏はじめ政治家諸氏には望んでも具わないものだ。いったい、何故なのだろう? ここには表面的な問題ではない、非常に深い何事かがありそうだ。政治学も社会学も教育学も、かつてまったくこのような問題を研究してこなかったけれども・・・。おそらく、個人の資質に帰されてきたのであろう。だが、私は、個人を超越した、社会の有り様の問題のような気がする。閣僚がつぎつぎの舌禍事件をおこしているのをみても、この浅はかな、ほとんど恥知らずな無教養な言葉を吐き散らす者たちが、一国の指導者の地位にのぼってくるということは、如何に万人に開かれた道とはいえ、私には異常社会としか思えないのである。 アメリカ大統領の選出は、ほぼ3年の長きにわたる演説また演説の結果である。アメリカ社会がいかに言葉を重視しているかがわかる。これほど長きにわたれば、付け焼き刃ははがれてしまうだろうし、思想やヴィジョンが練りに練られていなければ、言葉はひろがってゆかない。言葉はその推進力を失ってしまうだろう。3年間の演説は、みずからの分厚い著書を語るにひとしいからだ。その場かぎりの大衆受けのパフォーマンスは通用しないはずだ。 そしてアメリカ国民の真の力は、それらの演説を大変熱心に聞き、言葉の意味を良く理解することだ。それは、自分自身の言葉と照らし合わせ咀嚼する力があるということであろう。 この世界は言葉によってできあがっているのだ。 日本の教育は、そのことをなおざりにしてきた。大学教育を受けた者が、満足な語彙をもたず、論理的な話ができない。石をなげれば大学生に当る日本だが、内実は、カラッケツ。大学生と話していると、まるで幼稚園児と話しているような気になることがある。・・・これがほんの一握りの連中の例ではなく、日本全土にわたっているのだとしたら、これはやはり異常でしょう? オバマ氏はどんなに世界が期待しようと、やはりアメリカの大統領。私は日本のことを考えたいのですよ。
Jan 21, 2009
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忙しい1週間だった。この忙しさはまだしばらくつづくが、このブログもそうそう休んでばかりいられない。新しい記事は何もないのに、アクセスしてくださる方はいる。もうしわけない気持になってくるのだ。 会津の清水先生から新しい「九条リンゴ」がとどいた。りんご園に依頼して「九条」と文字が浮き出るように育てたもので、先生はここ数年来毎年つくられて絵葉書に仕立てて送ってくださる。九条とは、もちろん日本国憲法第九条のこと。「この九条の心を永久に腐らせないようにするために、リンゴに文字を写して〈九条リンゴ〉と名付けました」と先生は言う。 あらためてここに日本国憲法第九条を掲げておこう。 【第九条 第一項】 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 【第二項】 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 さて、清水先生のお葉書は、わたしの「新アダムとイヴ」シリーズの完成を待っていると書いて下さっている。20作まで製作してきたが、いつ終わるともわからない連作である。 この「新アダムとイヴ」は、旧約を否定し、肉としての生命、死ぬべき運命としての人間存在の肯定を主張するものである。あるいは、生れながらにして、ずたずたに傷付けられている現代の人間に対して、「智恵の実」を食べることの勧めである。そしてまた、あらゆる宗教によって貶められた女性の復権を唱うことである。要するに宗教的幻想から人間の実存的生命を解放すること、・・・その私の願いと、願いであることを考えつづけるための作品なのである。したがって、物語が終わるように終わる、そのような計画性のあるものではない。 しかし清水先生、いつ終わるとも知れないシリーズですが、どうぞお待ちになっていてください。いつまでもいつまでも、お待ちになっていて下さい。わたしの絵のなかに時々登場するリンゴは、「智恵の実」としてのリンゴです。先生の「九条リンゴ」と思想的に通底すると思っています。
Jan 13, 2009
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きょうもまた午前中から執筆を始め、2時まで。基礎部分の制作が波に乗り出すと、・・・あるいは波に乗せようとしている時期は、私の日記はいたってつまらないものになる。仕事場にとじこもってただ黙々と筆を運んでいるだけなのだから。 いや、書きたい事はあるのだ。しかし、それはブログで公表するような類いの話ではない。 あしたは一つ大仕事があるので、今夜はもうゆっくり休むことにする。
Jan 7, 2009
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きょうから仕事始めの方も多かろうと思うが、私も描初め。 今年は良い年にと祈念したやさきに、中東で愚劣なうえにも愚劣な戦火が再び炸裂した。此処では(他の場所でも同様だが)歴史が人智とはならず、ただ憎悪を掻き立てる。昨年、ローマ法皇が、イスラム教は人殺しの歴史だという意味のとんでもない発言をして国際的な物議を起した。己の非道無惨な歴史を知らぬわけでもあるまいに。ことほどさように、理性と知性なき者が、無辜(罪のない)の人々の命を殺害する。 そんなことを考えながら、そのテーマにそって以前からすこしづつ描いている作品に一筆を入れた。
Jan 5, 2009
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2009年の出発! みんなで良い年にしましょうね!
Dec 31, 2008
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2008年大晦日、みなさま新年を迎える御用意はできましたでしょうか。このブログ『山田維史の遊卵画廊』を開設して1279日、今年もたくさんの方がアクセスしてくださいました。ありがとうございました。来る年がみなさまにとって良い年となりますよう祈念いたします。 大晦日定めなき世の定めかな 井原西鶴
Dec 31, 2008
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きょうはクリスマスイヴ。弟がシクラメンの鉢とケーキをプレゼントしてくれた。 ケーキはさっそく3時のおやつに戴いてしまった。というのも、じつは89歳の老母が数日前、ほんのちょっとしたはずみで転倒し、腰や大腿を打撲した。ひとりで起きあがれない状態なので、24時間の介護をしなければならない。食事も普段から母用の別メニューをつくってきたが、今度は、寝たきりの口にゆっくりゆっくり食べ物を運ばなくてはならない。身体の清浄、夜中のトイレのことなどなど、とてもクリスマス・ディナーどころではない。特別料理を別メニューで2種類つくっている余裕がないのである。そんなわけでクリスマス・ケーキも一匙一匙すくって早々と食べさせたのだった。 老人の転倒については日頃留意していたのだが、とうとうやってしまった!というわけだ。そしてまた、若い人とちがって、ほんのちょっとした転倒でも影響はおおきいのである。 みなさんも、どうぞお気をつけてください。
Dec 24, 2008
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午後6時、玄関のチャイムが鳴って宅配便が包をとどけてくれた。開けてみると、なんと私が26年前にジャケット・イラストレーションを描いたレコードだった。贈り主は、ブログで知り合った山陰地方にお住いの、ちゃれさん。添えられた手紙に、「引き寄せの法則で見つけました。お手柄でしょう!」とあった。 リムスキー・コルサコフ作曲の交響詩『シェヘラザード』を、ジャズギタリストのラリー・コリエルが編曲し、彼自身が超絶技巧を駆使してギター一本で演奏しているレコード。1982年にフィリップスから出た。 じつはこのレコードの仕事、校正刷りを保存しているものの実物を所持していなかった。レコードが刷り上がったとき、一般に市販される前に、レベルに「見本盤」と印刷されたディスクが会社から届くのだが、それも含めて友人たちにプレゼントしているうちに、自分用に保存しておくのを忘れてしまったのだった。 昔のレコードをコレクションして販売している店を見つけると探していたのだが、いままで見つからなかった。そのことを、以前、私のこの日記に書いた。その記事を、ちゃれさんは覚えていてくださったようだ。たぶんインターネットで見つけだしたのだろう。そしてわざわざ購入して、きょう私にプレゼントしてくださった。自作との26年ぶりの対面である。予期しないことだったので、大層おどろき、嬉しく頂戴した。 ちゃれさん、よく探し出せましたねー。本当にありがとうございました。家人達もびっくりしています。
Dec 21, 2008
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先月のことだが、郵便局が、年賀ハガキの注文を取りにきた。私は自作の絵ハガキをつくるので必要ないが、家人たちは私と別なので「官製ハガキ」を買っている。じつはそのときまったく気が付かなかったけれど、昨日、絵ハガキ用の原稿を印刷所に入稿し、今また年内に処理しなければならない私信をしたためたハガキを投函して、ふと気が付いた。 カッコして官製ハガキと書いたので、お察しの方もおられるかもしれない。現在この言葉は、死語になってしまったということ。昨年10月でしたか、郵便局が郵政省から日本郵政公社になって以後、もう「官」ではなくなったのだから、当然、「官製ハガキ」という言葉も消滅したわけである。 私がつくるようなハガキを「私製ハガキ」というのはいいとして、それでは郵便局が売っている郵便ハガキは何と言うのだろう。 そういえば、切手をシートで買うと、周囲の余白の下部に、どこで印刷したかが記されている。この記載も、平成15年度までは「財務省印刷局製造」だったのが、平成16年度からは「国立印刷局製造」に変わった。それ以前は「大蔵省印刷局」だった。お気付きだろうか。 ・・・それでは現在は? お調べになってみてください。 言葉が消滅する見本のような例だと思ったので、ちょっと書いておく。
Dec 17, 2008
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どこかで遊んで帰ってきた猫のリコが、部屋に入るなりまっすぐ私の膝に跳びのった。冷えた背中を撫でながら、「お寒かったでしょう」と口走ったら、家人たちの冷たい視線が突き刺さってきた。私は笑いながら、「思わず思わず」と言った。たまたま弟がいて、「とうとう頭がおかしくなったか!」と呟いた。リコは喉をならしながら尻尾を振っている。「ハハハ、ねえリコさん、お寒うございますよね」 夜のテレビのローカル・ニュースで八王子市の路上駐車の車がすっぽり霜におおわれ、まるでラメ入りの塗装をしたかのようにキラキラ輝いている映像をみせていた。土中から霜柱も立ち上がっていた。 明日の東京は雨だというし、庭のシンビジウムに霜囲いをしたほうがいいかもしれない。この日記を書いたら、ちょっとその一仕事をしておこう。 しだいに寒さがつのってゆく日々だけれど、野草ばかりの植木鉢のなかで、桜草がいまどんどん根をはっている。株もすこしづつ殖えているようだ。東京薬科大学の植物園からもらったアネモネと水仙の球根の植付けが遅くなってしまったが、いまから大丈夫だろうか? 明日の雨があがればしばらくは曇ったり照ったりらしいので、植付けをしてみよう。
Dec 16, 2008
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加藤周一氏が5日に亡くなられた。いま最も日本が必要とする知性を失った、というのが私の思いである。該博な知識と、現実を直視する強い意志と、未来創造への汚れなき姿勢、それが加藤周一氏の言論と行動とを形成していたものだ。そしてそれは堅固な論理にささえられた明晰な言葉で語られた。 加藤氏が何についてどのように考え、どのように発言してきたかは『加藤周一著作集』全24巻を読むに如くはないが、私が入門書として勧めるとしたら『私にとっての20世紀』(岩波書店刊、2000年)をあげる。 『私にとっての20世紀』の第一部「いま、ここにある危機」の冒頭「未知のものへの関心」は、自伝『羊の歌』(岩波新書)のなかで述べている幼少期に繰り返し見た夢のはなしで始る。巨大な車輪のようなものが近づいてきて圧しつぶされそうになる夢。それを氏は、「何か合理的な秩序が破壊されたり、目に見えない未知のものがあるということの予感だと思う」と解釈している。 この短いエピソードで注目すべきは、夢そのものがどうのこうのということではなく、それをどのように解釈したかということだ。解釈している「姿勢」が問題なのだ。その解釈に、じつはその人のすべてが掛けられていると言ってよい。そして、このエピソードを冒頭においたことによって、加藤氏が本書で20世紀をどのような姿勢で検証しようとしているかが予告されているのである。 「いま最も日本が必要とする知性を失った」と私は書いた。それは一方に、国家防衛の最重要ポストにあった田母神元航空幕僚長のように、まるで自己の内的な狂気をさらけだしているにすぎない文章を、「論文」などと強弁して公開しようとした行為を見据えてのことだ。この人は、自らの社会的地位によって当然制限を受ける言論について、驚くべき無知である。国政の意志とは相反する言動を実行したことによって、自衛官(軍人)として厳罰に処されなければならない。 政府は政府、軍は軍で独自の方針をつらぬくという考えは、まさにかつて日本軍部がおこなったことで、日本を侵略戦争へ導いた姿勢であった。田母神元航空幕僚長を厳罰に処さない政府もまた、法認識の重大な欠如をしているといわなければならない。 このような国史に関する非学問的な「論文」を組織的にあげつらい、あまつさえ鼓舞するかのような言動もあるが、これは日本の歴史学がいまだ科学的学問として未成熟という点も指摘できよう(つまり戦前の幻想的史学をひきずっているわけだが)。が、自己肥大化した愛国意識は、いまやグローバル化した世界においては反愛国的と指弾されなければならない。なぜなら、一国のひとつの火種は、たちまちに世界に波及するからだ。彼等は自分達に反対の論者を「自虐的」と言う。しかし、むしろその自己肥大化した狂的愛国心こそ、突き進めばいずれ日本をふくらんだ風船が爆発するように壊滅させる自虐的な思想なのだ。「自虐」などという言葉の使い方こそ、・・つまり論理ではなく感情に訴えたり、他人の心に土足で踏み込んで身勝手なレッテルを貼る手口は、ファシズムがひろがってゆくときの常套的手段である。 愛国心というのは、いちいち表明しなくとも、おのずと持ち合わせているもの。愛国愛国と徒党を組んで大声で叫ぶものは、むしろ精神病理学的見地からは、無意識にかかえている傷(弱味、劣等感、負性、悪)を、大儀によって補償するということの現れである。 田母神元航空幕僚長は、国防を担う者が自虐的な侵略史観をもっていては志気(あるいは士気)があがらないと言うが、そのような国防意識が誤りだということだ。国防と侵略とは違うと見極めなければならない。過去の侵略を肯定しなければ国防ができないというならば、日本の自衛官としてはそもそも適正を欠くと判断されるのである。その判断は、田母神元航空幕僚長がいかに歯噛みして地団駄踏んでも、個人の感情的な思惑をこえるのである。 さて、田母神元航空幕僚長の言動を例にしたが、加藤周一氏が「いま、ここにある危機」をどのように捕え、どのように方向を示唆しているかは、『私にとっての20世紀』を未見ならば是非当っていただきたい。とりあえず、加藤氏が医師(東京大学医学部出身の医学博士である)としての経歴のなかに、昭和20年9月、広島原爆投下1か月後に、日米原子爆弾影響合同調査団の一員として広島にはいっていることを見のがしにはできない。 現場を実際に見ないことには、既存の文章からでは読み取れないものがある、と氏は述べている。氏が生涯をリベラリストとして貫き、戦争反対、憲法9条改悪反対を発言しつづけた根底には、広島の惨状をその目で実際に見たということがあるようだ。 田母神元航空幕僚長のように(私もその一人だが)、戦後の文部省の詭弁的な半民主主義教育によって育てられ、真実を追究する意志をまげられてしまっては、原爆の地獄さへ見えてこないのかもしれない。この人の「論文」を審査したという委員長は、かつてナチスがおこなった精神や身体に障害をもった弱者の殲滅計画と実行を肯定して、それを現代日本によみがえらせようという言説を発表して物議をかもした。 「日本の悪霊」は、愛国者面をして死の行進を夢見ているようだ。 日本人として、わが日本はあまり安閑視できない国だと私は思っている。 まことに加藤周一氏の死は悼んであまりある。
Dec 6, 2008
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高村光太郎の有名な詩集『智恵子抄』が龍星閣の社主澤田伊四郎によって初めて世に出たのは昭和16年8月20日だった。それから戦争を挟んで9年後の昭和25年11月15日に同じく澤田伊四郎によって『智恵子抄その後』が出版された。 私が所蔵している両書は、昭和38年1月と5月に刊行された新装決定保存版で、ほぼ発売と同時に購入した。18歳、高校3年生であった。たいへん美しい本で、表紙は朱赤の絹布でくるみ、題字銀箔押し。見返しに智恵子の切抜絵を印刷して使っている。本文はクリーム色の肌触りの柔らかな、それでいてしっかりした厚みのある特製紙に活版印刷。奥付には著者高村光太郎の検印紙が貼ってある。帙様の両開きの函入り。定価280円(!)。(画像参照:ちなみに函裏や奥付にある〈則雋庫;ソクシュンコ〉)の印は、私の高校・大学時代の蔵書印) ところで、衆知の『智恵子抄』を今更ながら紹介したのは、じつは、昨日書いた私の死生観に関連する。『智恵子抄』は、高村光太郎の妻智恵子が精神病院で死亡してから、その死を悼む光太郎の辛い気持から発した詩である。『智恵子抄その後』の〈あとがき〉に、「『智恵子抄』は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であった。」と書いている。そして、両書を飾る見返に使用されている切抜絵についても、こんなふうに述べている。 「精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいていたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだった千代紙を持っていった。(略)すると或時、智恵子は訪問の私に一つの紙づつみを渡して見ろという風情であった。紙包をあけると中に色がみを鋏で切った模様風の美しい紙細工が大切そうに仕舞ってあった。其を見て私は驚いた、其がまったく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であったからである。私の感嘆を見て智恵子は恥かしそうに笑ったり、お辞儀をしたりしていた。(以下略:旧かな使いを山田があらためた)」 つまりこれら二つの詩集は、高村光太郎の亡妻への想いにあふれ、妻の死をどのように見つめていたかが読者におのずと解るのである。中でも私は自分自身の死生観と照らしあわせて強く心にのこったのが、『智恵子抄その後』の冒頭の詩、『元素智恵子』なのである。 「智恵子はすでに元素にかへった。 わたくしは心霊独存の理を信じない。 智恵子はしかも実存する。 智恵子はわたくしの肉に居る。 智恵子はわたくしに密着し、 わたくしの細胞に燐火を燃やし、 わたくしと戯れ、 わたくしをたたき、 わたくしを老いぼれの餌食にさせない。 (以下略) 」 高校生の私のこころを捕えたのは、この清清しい死生観であった。それは生物の死生の理に合って、なお理に勝ちすぎていない。天国だ極楽だ魂だなどと、児戯にひとしい幻想のゴタクを言っていない。「肉」を捕え、肉=精神とみて、生命が肉のよろこび以外ではありえないことを見極めている。ここにはあらゆる宗教につきものの惨めたらしさがない。すこぶる健康な死をみつめる心であり、生をみつめる心であり、性をみつめる心である。 私の死生観がこの高村光太郎の詩にそって成り立っているわけでは必ずしもないが、たくさんの縒り合わさった綱の一本であることは間違いない。 18歳のときから63歳の現在まで、私は私の命を元素に還そうと生きてきて、その考えを変えようと思ったことはない。
Dec 1, 2008
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若い人にはあまり縁のないことかもしれないが、師走目前のこのごろの時季になると、毎日の郵便物のなかに喪中の報せがまじるようになる。もうすでに数人の知己からそのような御挨拶を頂戴した。御遺族はさぞかし御淋しい年末年始と想いながら、故人の御冥福を祈らせていただいている。 以前、昔昔の旧友の死を知らされて、おしえてくれた友人に電話で詳細をたずねたところ、「人生60歳にもなれば、いろいろあるからなー」と言ったまま後の言葉を濁した。私は、「そうだね」と、詳しく聞くのをやめた。そのときはむしろ、私は、その電話口の友人がそのような人生の感慨を口にするような人物とは思ってもいなかったので、彼にこそ60年の歳月の積み重ねを感じたのであった。 1年ほどたって、私は別な人から死んだ旧友がどのように死んだかを聞かされた。それは驚くべき謎のような死であった。なるほど私に電話でしらせてくれた(それはほとんど口が滑ってしまったというような話だったが)友人が、言葉を濁したのももっともであった。彼は死んだ友人と親しく、日常的に接していたらしいので、謎を残して死んでしまった人について語る言葉を失っていたのであろう。 16~17世紀にかけてのイギリスの詩人ジョン・ダン(John Donne;1572-1631)の詩のなかの一節に、「Death, be not proud(死よ、驕るなかれ)」とある。ダンはイギリス国教会の聖職者であったので、この言葉は宗教的見地から発せられている。 私はこういう考えをむしろ哀れみ、人の死を一般生物の死以外のなにごとでもないと認識する。そこに宗教者との絶対的な違いがある。しかし、私は人間が弱いものであることもよく知っているので、私の考えは私だけのものでよい。そのてんも宗教者との違いであろう。 私は、なぜかしらないが、しばしば臨終の人への接しかたをふくむ心の迷いについての相談をされる。私より年輩のかたが多いので面喰らうが、そういう方々にお話しするのは、御自分の満足ゆくようになさいということである。だから宗教にすがりたいならそれもよし、聖書の言葉に癒されるならそれを読めばよし、なんらかの御経を唱えたいならそれもよし。すべて自分が生きて行くために為すことが、死にゆく者への最大の礼儀となろう、と。 ジョン・ダンが「死よ、驕るなかれ!」と叫ぶのは、誰のためでもない、自分に言い聞かせているのだろう。 死は驕っているのではない。生きとし生けるものが、ひとつの生物的な役目をおわって土になるのである。生命とはそもそも死を内包しているのであり、死を内包していない生命など存在しない。細胞学的には、新生する交替要員をすべて使いはたしたときにその細胞は死ぬのである。死んだ細胞の総体が、もはや生きる人間としての全体をささえきれなくなったとき、人間は死ぬのである。そのプロセスに幻想的に意味をくっつけても、死は死である。 といっても人間は幻想を生きるしかないのも一方の事実。「人生60歳にもなれば、いろいろあるからなー」、まあ、このぐらいの感慨が一番手ごろかもしれない。 凩のはては有けり海の音 言水 凩やひたとつまづく戻り馬 蕪村
Nov 30, 2008
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きょうの東京地方は終日の雨、このところ一番の冷え込みだった。普段は薄着の私もセーターにカーディガンを羽織った。外出する予定を変更して、家にとじこもって読書をして過した。 ジョン・キーツ(John Keats;1795-1821)の詩を拾い読みしていたら、英語詩の行く末を案じるこんな句にであった。 「If by dull rhymes our English must be chain'd」 つまり、「なまくらな押韻によって、私たちの英語は鎖につながれてしまうに違いない」と。 いつの時代にも母国語の将来を危惧するような事態はあったのだなぁと、妙な感心をした。 ひるがえって今の日本では、あまりオツムが上等でない者が首相にまつりあげられて、思想も未熟な言葉をいい気になって放言している。官房長官が毎度毎度の尻拭い。政府の記者会見が政策発表ではなく、バカ者の尻拭いなのだから、国民も呆れてばかりいられない。官房長官いわく、「真意を汲み取っていただきたい。これも個性なのだから」 イイカゲンニシロ! 「If by dull the Primer our Japan must be chain'd」(鈍い首相によって、我が日本は鎖につながれてしまうに違いない)
Nov 27, 2008
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昨日は、家人達がみな外出する予定を前々からたてていたので、この機会にと、私だけ居残ってテレビを地上デジタルに交換し、同時に電話のシステムとインターネットのシステムも変更する作業をおこなった。電話等のシステム変更は、なるべく利用料金の安いシステムにしようと検討した結果である。月額およそ1300円ほど安くなる。生活防衛というわけだ。キャンペーン・サービスということで工事費も無料だった。 ところが、工事が終了して技術者がひきあげた後に、インターネットに接続したところ一向に接続できない。何度も何度も試行したがダメ。結局、ブログの更新もあきらめた。 今朝、電話サポートをしてもらい、20分ほどしてインターネットへの接続が可能になった。なんだかあまり理由が明瞭でない不具合だったが、ともかシステム変更以前のように使用できるようになったのである。
Nov 26, 2008
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いま電話を切ったところだ。小説家の花輪莞爾氏からの電話。2時間余も話していたか。 何を話していたか? いろいろね、あるんですわ、生き方、死に方の問題ですからね。 私はやさしいけれど(自分で言うので値打半分だが)、厳しいし激しい。言葉に注意して口から出任せは決して言わない。そういう自己鍛練をしてきた。一瞬のうちに幾通りものことを考える脳はまだ衰えていない。だが、歯に衣は着せない。「70歳過ぎの人間に、そのような指摘をする人はなかなかいないよ」と、花輪氏が呆れてなのか耐えきれなくなってか、あるいは感きわまってか、それとも喜んでいるのか、・・・おそらく、そのすべてが入り混じった感情で言うのである。 小説でも絵でも、創作というものは、己がおそらく生得的にもっているもの以外で書くことも描くこともできない。花輪氏の小説を読めばすぐに分ることだが、その小説は花輪氏の生理と精神と密着している。私の絵も私自身の生理と精神に密着している。 「その日その時に完結している作品」と私は言う。「観客にとって、読者にとって、作者の生の連続性なんて何ほどの意味をもちますか!」と。「そんな鬱陶しさを押し付けるつもりは私はありません。キリキリと生きたいんですよ。・・・作品のなかで自作の引用なんてしない。自己解説などしない。ウジャウジャしない。・・・花輪莞爾の私生活なんてどうでもいい。死後に、作品によって花輪莞爾を再構成させればいいんです。ひとつひとつ完結した数珠玉のような作品を背負って、野垂れ死にでも頓死でもすればそれでよしなんです。とにかく未生の作品のお品書きのようなものを書くのはおやめください。まあ、これは私自身に言っているわけですが」 そして、話は蜿蜒とつづいていったのである・・・まるで少年たちの議論のように。花輪氏は、「書生ッぽ」と言うのだったが。
Nov 12, 2008
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スキャナーの反射原稿の取り込みと画像転送に、突然不具合が生じるようになった。透過原稿(フィルム原稿)の場合は異常がない。6年間使用してきたのでここでオシャカかと、ガッカリした。 ともかくメーカーに電話を入れ、それから車でメーカーの修理工場へ直接持ち込んだ。不具合画像をプリントして見本として持って行った。 「ご指摘のとおりの不具合です」と、修理をしてくれる事になった。 ハウジング・アセンブリ・アッパーという部品の不具合なのだという。さすがメーカーの修理は完璧。ふたたび綺麗な画像が取り込めるようになった。良かった良かったというオハナシである。
Nov 7, 2008
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早朝からなんだかんだと休む暇もなく忙しく、さきほど午後3時ようやくコーヒー・ブレイクとなった。そこへ玄関チャイムが鳴って、会津の清水和彦先生から秋の実りの贈物。 先生、いつもありがとうございます。青木山のあたりを目に思い出しながら老母と頂戴いたします。 昔、中学生のころ、まだ学生寮にいたころですが、寮の高校生たちと青木山へハイキングに行きました。頂上から望むと向側が背焙山です。そのときの写真が残っていまして、私はスケッチブックをたずさえて行ったらしく、私がスケッチするところを皆がのぞきこんでいます。ああ、そうですそうです、それは5月ころのことで、青木村の村道に山吹が咲いていたのを思い出しました。先生が指導された中学校のマラソン大会もたしか青木村を通りましたね。あのころ私はスポーツ苦手のヒョロヒョロした少年でしたから、実際あのマラソンはきつかったです。それでもなんとかビリにもならず完走したことも思い出しました。 先日、Eさんからのメールに、会津の秋は紅葉もおわりかけているとありました。まもなく冬支度ですね。 閑話休題 ちょっと自転車で近くまででかけ、帰りに山際の道を通ると、道のまんなかを真っ黒な毛虫がちょこちょこ急ぎ足で歩いていた。ヒトリガ科のヒトリガの幼虫(Aretia caja Linne, larva)である。体長約6cm。ほとんど真っ黒にちかい長い毛が密生している。そのため丸々ムックリした感じで、クマケムシという異名がある。だれが言い出したかは知らないが、うまい名前だ。 この毛虫、これから冬支度に入るのであろう。ヒトリガという名称の由来は、「灯取り蛾」なのか「独り蛾」なのかなどと思いながら、急ぎ足で過ぎ去るのを私は見ていた。
Nov 6, 2008
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さきほど午後1時過ぎ、ABC・NEWSによればバラク・オバマ氏が当選確実となったようだ。アメリカはその歴史はじまって以来の初めての黒人大統領が誕生する。また民主党は8年ぶりに政権奪還した。さて、混乱をきわめている世界情勢はどう変わるのか。戦場の地獄図は少しでも解消するのかどうか。アメリカが発端となった世界経済の破綻は回復するのかどうか。どん底は来年8月頃までつづくであろうという予測もあるが。 政治の面ではまったく世界のイニシアティブをとれないニッポンだ。またもや黒船待ちか。
Nov 5, 2008
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アメリカ大統領選挙の投票が東海岸側から始った。他国のことながら私も気になって、CNN・TVを見たりBBCを見たり、さきほどまでNHK・TVの特集番組を見たり、リモコン片手に経過を追っかけている。期日前投票では38%の有権者が投票をすませていて、この数字は前回の22%を上回り、まさにアメリカにとっては歴史的な選挙と言えるようだ。オバマ氏か、マケイン氏か。日本時間のあした昼頃までには結果がでる。 「泣いて暮らすより、社会が変わることに賭ける」と言っていた黒人女性の言葉が印象的。50数年間で初めて投票したのだそうだ。
Nov 4, 2008
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東薬セミナー(2008.11.1)東京薬科大学生物有機化学研究室井口和男教授の講議『海にひそむ宝物』より 【自然界から得られた天然物質を素材とした医薬品として、一般的に次の薬品がよく知られている。】〈モルヒネ〉 ケシの実から得られるアヘンの生成分。鎮痛薬として有用で現在でも広く用いられている。〈ペニシリン〉 アオカビが産生する抗生物質。ジフテリア、肺炎、敗血症等の細菌性疾患に有効。〈キニーネ〉 キナの樹皮から得られる。熱帯性マラリアの治療薬として用いられていた。耐性マラリア原虫の出現で効力を失った。〈アスピリン(アセチルサリチル酸)〉 ヤナギに含まれるサリチル酸を母体として開発された。解熱、鎮痛薬として現在も有効。〈ストレプトマイシン〉 放線菌から発見された抗生物質。多くの細菌性疾患に有効で、特に結核の治療薬として使用された。〈パクリタキセル(タキソール)〉 植物イチイから発見された新しい抗癌薬。乳癌、卵巣癌に用いられる。 【では、自然界から新たな天然物質を探す理由は何か。次の3点が指摘できる。】(1)新たな医薬品や農薬のもとになる生理活性(生物活性;ヒトを含めて生物全般の生態系の間に、相互に、あるいは各固体内において、生理現象になんらか影響をあたえる機能)化合物を発見できる可能性。(2)人間の想像を超える特異な化学構造をもつ化合物を得ることができる。これにより、生命科学および有機化学における学問的理解が深まる。(3)重要な生理活性(生物活性)化合物の発見は、有機合成、生合成、生理学などに関連する研究領域の発展をうながす。 【海洋生物から医薬品や農薬のもととなる生理活性天然物を探る。】 古くから海洋生物は研究対象になっていたが、20世紀後半から探査機等の発展により海底ならびに深海の生物採集が可能になり、研究が著しく進歩した。その結果、人類がかつて知らなかった海洋生物由来の生理活性化合物がぞくぞくと発見されるにいたっている。 【海洋生物から発見された生理活性天然物の例】(1)釣り餌として知られる環形動物イソメには、昔からハエを殺す物質(ネライストキシン)が含まれていることが知られていた。1962年に橋本らによりネライストキシンの構造が明らかにされた。武田薬品工業がこの化合物を素材にして、新たな農薬パダンの開発に成功した。(2)フグ毒の本体が何であるか、古くから関心がもたれていたが、その分離・精製が困難であった。1909年に田原は純度約0.2%の粗毒物質を精製しテトロドトキシン(tetrodotoxin)と命名した。1930年に岡山大学の横尾はトラフグの卵巣から初めてテトロドトキシン(略してTTX)を純粋精製、結晶化に成功。1964年に津田(東京大学)、平田ら(名古屋大学)、ウッドワードら(ハーバード大学)が、ほぼ同時にTTXの構造を発表した。1972年、岸ら(名古屋大学)がTTXの合成に成功した。TTXは、現在、神経生理学の重要な試薬となっている。(3)ウミエラから発見されたドラスタチン10の抗腫瘍作用。 ナマコから発見されたホロトキシンAの抗真菌作用(水虫薬)。 海綿から発見されたマンザミンAの抗腫瘍作用。 【カリブ海産八放サンゴから発見されたプロスタグランジン】 1930年、新鮮なヒトsemenはヒトuterusを強く収縮したり弛緩したりするという事実が発表された。 1933年から35年にかけて、イギリスのゴールドブラット(Goldblatt)とスウェーデンのヴォン・ユーラー(von Euler)がそれぞれ独立にヒトsemen中の平滑筋刺激物質の研究をおこなった。ヴォン・ユーラーはこの刺激物質が前立腺(prostategland)から生成すると考え、それに因んでプロスタグランジン(prostaglandin)と命名した。その後、前立腺ではなく精嚢腺でつくられることが分った。 プロスタグランジンは存在量が微量であり、当時は、分離・精製の技術も進んでいなかったため、化学者が注目することなく約25年間放置されてきた。 1957年、スウェーデンのベルグストロム(Bergstrom)らはヒツジの精嚢からプロスタグランジ1aを単離し、この化合物が不飽和脂肪酸であり、ウサギの十二指腸に強い収縮をおこさせることを発表した。 1960年、ベルグストロムらはプロスタグランジの化学構造を明らかにした。これに平行してプロスタグランジの生理活性、人工合成、生合成、関連化合物の発見などがつづき、研究が進化した。医薬品化への努力もなされ、いくつかが製品化された。 その後、プロスタグランジはヒトなど哺乳動物の各組織に微量ながら広く分布していることが分ったが、1969年、サンゴの一種に存在することが分り、さらに陸生の哺乳動物だけではなく海洋生物にも分布していることが分ってきた。 しかも、カリブ海産八放サンゴから発見されたプロスタグランジンの含有量はヒトの数千倍になる。 【石垣島近海産軟体サンゴから発見された新しいタイプのプロスタグランジン】 旧藤沢薬品研究グループが最初に発見し、東京薬科大学の山田教授と共同研究、その後、井口和男教授にひきつがれて研究されているのが、石垣島近海産軟体サンゴから発見された新しいタイプのプロスタグランジン(クラプロン)である。(化学構造式略)〈クラプロンの生理活性〉(1)腫瘍細胞増殖抑制作用。(2)抗炎症作用(肉芽細胞増殖抑制)。(3)抗菌作用。抗ウイルス作用。 マウス実験で効果が確認されているが、しかし効果持続時間が非常に短く、それが現在、薬品化への壁となっている。〈クラプロン類の合成研究〉 クラプロン類はその特異な化学構造と顕著な生理活性から、これまで15件ほどの合成研究が報告されている。合成とは入手が容易な簡単な化合物から人工的につくりあげることである。〈クラプロン類の生合成仮説〉 クラプロン類の特異な化学構造物質が生物のなかでどのように生成されるか(生合成)についても興味がもたれてきた。 ハーバード大学のコーリー教授(ノーベル化学賞受賞者)もその生合成について仮説を提案している。その生合成経路は哺乳動物のプロスタグランジンの生合成経路とはまったく異なっている。(化学構造式略)〈クラプロン類の真の生産生物〉 ほとんどのサンゴ類は微細な藻類を体内に共生させている。サンゴは藻類を保護するかわりに藻類が生産する光合成産物(ほとんどが糖類)を利用しているのである。 井口教授らが研究対象としている軟体サンゴもまた微細藻類を共生させている。クラプロン類は宿主である軟体サンゴが生成しているのか、それとも共生藻が生成しているのかという問題がある。 井口教授らは共生藻を分離して培養、その成分を探索したが、どの成分からもクラプロン類および関連プロスタグランジンは検出されなかった。井口教授は共生藻類はクラブロンをつくっていないと判断した。 井口和男教授らの研究は今後の展開へとつづいている。クラプロンを利用しての医薬品化は、エイズ・ウィルスへの効果などが期待されている。
Nov 3, 2008
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私にとっては驚きのニュースが会津若松のEさんから飛込んで来た。同市近郊の会津高田町(近年改称されて会津美里町)の伊佐須美神社が10月29日に不審火で全焼したというのだ。 この神社の創建は非常に古く、祭神は伊弉諾尊(イザンギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)そして大毘古命(オオヒコノミコト)と建沼川別命(タケヌナカワノミコト;武渟川別命)の四神。会津という地名の由来にもかかわっている。 たぶんに伝説的なものだが、古事記によれば崇神天皇10年(紀元前88年)、蝦夷平定の勅命を受けた四道将軍・大毘古命と建沼川別命の親子は、大毘古命が北陸道を進み、建沼川別命が東海道を進み、やがて現在の新潟県と福島県との境で出逢った。その地が相津(会津)の地名の起りであるが(後註)、二神は天津岳(御神楽岳)の頂に国産みの祖神・伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀った。この社はその後、博士山、明神ヶ岳と遷座し、欽明天皇13年(552)に現在地に遷座したと伝えられる。そのとき大毘古命と建沼川別命も合祀し、その四神の総称として伊佐須美大明神と称した。奥院は明神ヶ岳の山頂にある。会津の領主歴代の尊崇を受け、延喜式名神大社、奥州二之宮、岩代国一之宮、会津総鎮守として現代に至るまで信仰されてきた。 現在、本祭は9月15日であるが、7月12日の御田植祭は日本三大御田植祭のひとつとされている。すなわち伊勢の朝田植え、会津高田の昼田植え、名古屋熱田の夕田植えがそれである。 また、「朱漆金銅装神輿」は重要文化財である。 このたび全焼した本殿は明治時代の建築であるが、明神鳥居形式の大鳥居から楼門を経て本殿へ向う。本殿と渡廊でつなぐ神楽殿、別棟の神饌所もともに約543.3平方メートルが焼失したという。 この事件の前、10月3日にも御札授与所が焼ける事件が起っていたというから、おそらく放火であろう。 しかし、寺社に放火するという事件はめったに聞かない。信仰の有無というより、文化的無意識における禁止領域を超えてしまっていると考えられる事件である。それだけに、心理学的に考察すれば、日本の現代社会で人心になにが起っているか、その深層にふれることができるかもしれない。Eさん提供の写真【註】 古事記は次のように記す。 「故、大毘古命者、随先命而、罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共、往遇干相津。故、其地謂相津。」 「故、大毘古命は、先の命のままに、高志の國(越の國;日本書記には北陸と記す)にまかり行きき。ここに東の方よりつかわさえし建沼河別と、その父大毘古と共に、相津に往き遇いき。故、そこを相津というなり。」
Nov 2, 2008
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昨夜午後11時をまわって、私は仕事場に入りコンピューターを起動させた。まずブログを見て、さて何を書こうかとキーボードをたたきはじめた途端に、机上の電話がなった。 小説家の花輪莞爾氏であった。「時間よろしいでしょうか」と言うので、「はい」と応えると、いきなり妙なところから話をきりだされた。つまり頭の部分がなく、いきなり首のあたりから話しはじめた。なんと言ったらよいか、こういう話のきりだしかたは夫婦にはよくあることで、とくに妻が夫にきりだすときだ。自分の胸のうちは知っているだろうという勝手な前提にたっているわけだが、いくら夫婦だからと言って、筋道の途中からでは分りようがない。 まあ、そんなふうに花輪氏はきりだした。私は面くらって、一旦話を止めて、事の最初から説明してもらうことにした。なにか余ほど気持が切迫しているのだろうと思いながら。 ・・・話の内容は花輪氏の私的事情でもあるのでここに書くわけにはゆかないが、そこから一般的な話題に展開し、果ては大平洋戦争へ突入するきっかけとなった関東軍の暴走についての議論となった。 氏の御尊父は当時、奉天に駐在する領事だったので、私としても聞いておかなければならないことが沢山あるのである。 私は、「そこにも小説があるじゃありませんか。そこにも・・・そこにも」と挑発してゆく。もちろん私自身の歴史観を明確に披瀝してのこと。「山田さんの歴史観はまったく核心をついているとおもいますよ」と言うので、ならばその線で、互いに持っている知識を確認しておこうというわけである。花輪氏には関東軍参謀石原莞爾についての人物評伝『石原莞爾独走す 昭和維新とは何だったのか』の著作がある。私が装丁画を描いている(フリーページのブック・カバー選集に画像掲載)。 関東軍暴走に始り、国内では昭和11年の2.26事件で戒厳令を布いたことにより、軍部独裁国家への道を開いた、というのが私の見方。つまり戒厳令の法的な本質は、すべての国内法を下位にすることである。したがって、軍部の陰謀によって、一旦戒厳令が布かれてしまうと、その時点で軍事独裁に転換してしまう。そして軍事政権というのは、その維持のみが目的化するので、あとは軍事政権が破滅するまでその国の暗黒時代はつづくのである。じつに愚劣な政治体制なのである。 そんな議論をつづけること3時間。花輪氏が「楽しかった!」と言って電話を切ったときは午前2時をまわっていた。 なにしろ花輪氏は、私のことを「妖怪」と思っている。妖怪的ジェネラリストと、本人に向って言うのだからかなわない。「ゲゲゲのきたろうだね、山田さんは」と。どうやらホメコトバらしいのだが、私も言ってやるのだ。「妖怪と妖怪が電話しているわけだ、ヒヒヒ」と。 というわけで、ついに昨日のブログは書かずじまい。じつはNHK・TVの番組予告でこんなことを言っていた。「戦争を知らない子供たちが63歳になった」と。 私は63歳だ。何言ってンだ、NHKさんよ。戦争を知っている奴等が、63年かかって世界に冠たる平和憲法をなしくずしにしてきたじゃないか。寝ぼけたことを言っているんじゃないよ。 と、ケンカふっかけようと思ったのだったが・・・
Oct 24, 2008
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きのう今日と2日間、終日忙しかった。さきほど風呂からあがって、このまま寝室に直行したいのだが、このブログを開き前回の日記を読み直してあらためて気が付いたことがある。自分の着るもののことだ。 文中に「Tシャツにジーパン」と書いたが、じつは私は63歳の現在まで、「Tシャツにジーパン」をただの一度も着たことがない。Tシャツは、アウター・ウェアーとしてのそれだけれど、家にくつろいでいるときも着たことがない。つまり我家には「Tシャツにジーパン」が存在しないのである。それに、「ジャージ」も着たことがない。これら3点は、手にとったことさえないのだから、自分の衣料品としてはまったく関心外のものということになる。 外出着以外の家で着るものについて、私はほとんど無頓着だ。むしろボロを着ているようなものだ。油絵の具で汚れるから、どうしてもそのほうがよい。油絵の具が付着すると、洗濯しても落ちませんからね。 自分が関心がないものには見向きもしないというのは、衣類ばかりではないかもしれない。遊園地やゲーム・センターにも行ったことがない。これは、人がお膳立てしたもので遊ぶ気がしないのだ。 終戦前夜に生まれて、物の無い時代に育ったので、子供のころから遊び道具はみな自分でつくった。自分の遊びは自分ですべてお膳立てするというのが、どうやら習い性になってしまっている。絵を描くのを職業とするようになったのも、結局、その習い性の延長線上のことだ。 こういう私の習慣は、しかし「好き嫌い」の感覚的判断かと自問してみると、さてどうだろう? ちがうような気がするのだ。むしろ好き嫌いがないと言った方が当っている。まず対象から目をそむけるということがほとんどない。じっくり観察し、味わい、判断放棄の状態をだらだら過して、類似のもの異類のものを収集して比較検討し、やおら批評に取りかかると言う具合。あえて言えば、自分と似たものは好きではない。似たもの同士なんて、退屈だ。 美術、音楽、文学、演劇、映画、スポーツ、演芸、・・・何についてもそれは言える。クラッシック音楽を聴く。12世紀頃の中世教会音楽からいわゆる前衛まで。モンゴルのホーミーからアボリジニの管楽器音楽、アフリカのブルンジの太鼓音楽から日本の天台声明まで、浪花節や民謡、ジャズやロック、ありとある音楽を聴く。文学は西洋古典も読めば、日本の中世小説も読む。世界に類例を見ない男色文学も『稚児草子』から『秋の夜長物語』も『井尻又九郎若道之勸進帳』も『竹齋』も、みな原文で読んでいる。もちろん現代語訳などないのだから当然だが。現代ポルノ小説も読んでいる。演芸は、落語も漫才も、お笑いも。ストリップも。・・・人間のあらゆる営みに、序列などあるはずがないですからね。 「食わず嫌い」というのが一番馬鹿馬鹿しい。それは批評でも何でもないですからね。 そうそう、TVで石橋さんと木梨さんがやっている番組で「食わず嫌い」のコーナーがあるけれど、あれ、ちょっと言葉の誤用じゃないかしら。「食わず嫌い」という意味は、食べもしないのに嫌いだと言うことで、かつて食べたことがあるけれど何等かの理由で食べたくなくなったというのとは意味が違う。番組ではどうも、後者の意味に使っている。後者だとむしろ「嫌い食わず」だ。 どうしてこのような誤用がおこっているかといえば、「食わず」の意味を「食わない」と否定的断定ととらえているわけで、じつはこの「食わず」は助詞「に」が省略されていると考えなければならない。つまり「食わずに嫌い」ということだ。だから、「食わず嫌い」というのは、「いままで食べないで嫌いだと言ってきたけれど、たまたま食べたら美味しかった。なーんだ、私は全然嫌いじゃないや」という事態がおこることを含んでいるのである。 いかがです、石橋さん木梨さん? さて、最初にもどると、私が「Tシャツとジーパン」を着たことがないのは、「食わず嫌い」なのではない。食ったこと(着たこと)がないのだけれど、べつに嫌いだからではないからだ。好き嫌いの感情ではなく、先に述べたようにまったく関心がなかっただけのことである。 いまどきTシャツもジーパンも着たことがないというのは珍しいのかしら?
Oct 22, 2008
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きょうの東京はヘンな暑さだったが、私だけの感じだろうか。昨日、夏の衣類をひっこめて秋物に換えたばかり。街を行く人たちは十月に入ったとたんに、長袖シャツやニットのベストなどがめだつようになっていたが、私は暑がりなので、家族のなかでもただ一人半袖シャツで過していた。オシャレよりも自分の生理に従っていたのだ。しかし、まあ、十月も三分の二を過ぎたので、衣替えとなった次第。 そういえば、あれは本当に個人主張の現れだなとつくづく思ったのはニューヨークの人たちの服装。真夏、私など一日で真っ黒に日焼けしてホテルのコンシェルジェに「オー、ボーイ!」と呆れられたカンカン照りに、毛皮のロング・コートを着ている人を見かけたし、かと思えば目をそむけたくなるようなスッポンポンに近い裸でローラーブレードで走っている人もいた。それらの姿にニューヨーカーたちは誰も関心を向けない。あるいは見て見ぬふりをしているのかもしれないが、とにかく、人は人、己は己がみごとにはっきりしているのだった。 しかしまた、夜、カーネギー・ホールやリンカーン・センターの音楽会に行くと、女性も男性もそれなりのドレス・アップをしていた。ドレス・アップにそれぞれの工夫をしていて、Tシャツにジーパンなどというのは見かけなかった。それは私の好みにかなっていることだった。 私は東京にいても、そのような機会にはドレス・アップして出かけるようにしている。旧知の能楽師U氏がその私の習慣を知っていて、いつだったか、「山田さんは能楽堂に正装して現れるのですよ」と話しておられた。正装とまではいかないが、昼間ならボー・タイにディレクター・スーツくらいのことはする。それは演者や演奏者への私の敬意の表現なのである。 タキシードは好きだが、そこを頂点にしてどこまで自分の考えで崩せるか、それも面白いでしょう? 元VANの石津謙介氏がデニムでタキシードをつくって着てらしたが、そういうことです。私はそれは似合わないからやらないけれど。 午前2時を過ぎて、ようやく蒸し暑さがおさまった。さて、明日は一日忙しいので、そろそろ就寝しよう。おやすみなさい。
Oct 20, 2008
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きょうは好天にめぐまれ、ほどよい風もあるので、仕事場の大掃除と書籍の移動・入れ替えをした。いや、している最中。 手近な場所にたまりに溜った本を、重要なものとそうでないものとに分けて、重要でないものは書籍用の物置に移している。また、制作用の資料の書棚も入れ替える。これがなかなか大変。仕事場にはたとえ家人といえど絶対に入れないので、孤軍奮闘しているのだ。掃除は一向に進展しない。1日で終るかと思って始めたが、とても終りそうもない。コーヒーを飲みながらひと休みしているところである。
Oct 19, 2008
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今朝いつものように庭掃除をしていると、柿の下葉にひとひらの蝶の羽がのっかっていた。「おや?」と思い、掌に取り、さらに地面をさがすと草のかげにもうふたひら、蟻が数匹むらがっていた。「君たち、ちょっと御免よ」と蟻にことわりながらそれも拾い上げた。というのも、アゲハのようなのだが何だか確信がもてない様相を示していたからだ。 朝食をすませたところで、図鑑をもちだし、まずアゲハのページを繰った。「ウ~ン、ちがうなー」ひとりごちながら一応全ページを調べ、さらにアゲハチョウ科の項の解説を一種ごとに読んでいった。「ウ~ン、やはりちがうなー」 もっとも似ているのはアゲハなのであるが、春型・夏型およびその雌雄いずれの図像にも合致しないのである。まず斑紋がまるでちがう。夏型のオスの下翅にあらわれる橙黄斑は1個なのだが、私が採集した蝶には2個ある。損壊していて全体の形が不明瞭だが、その2個の橙黄斑ははっきり認められる。 まず考えられるのが春・夏型いずれにも属さない突然変異的なものであること。しかし、斑紋がアゲハの特徴を具えていないので、日本在来種ではない迷蝶であるかもしれない。あまり考えられないことではあるが、新種の可能性もなきにしもあらず。 ということで、画像をお見せしよう。上下翅ともに表裏に変化はみうけられないのだが、掲載画像は表側である。なお、下に参考のためアゲハ夏型オスの画像を掲げておく。【参考図:アゲハ夏型オス】
Oct 16, 2008
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英語の押韻については何度か書いてきたが、英語の詩に関心をもち自分でもその真似事のようなものを書いていると、英語の雑誌や小説を読んでいてもついつい押韻関係にある言葉が気になってくる。英語が母語である人ならなんのことはないのであろうが、私はいちいち頭で考えなければそのような関係にある言葉は思いつかない。まして詩として一連の意味を構成する一つ一つの句の最後に押韻関係にある言葉をもってくるのだから、私にしてみれば、詩を書くというより言葉のゲームである。老化してゆく脳のために、少々は活性効果をもたらすのではないかと思っているのだが・・・ ところで、ふと思い出したのがフィリップ・ロスの小説『さよならコロンバス』(Philip Roth; GOODBYE, COLUMBUS)だ。翻訳が出ているであろうが、原文でなければ分らないことなので、ちょっとそこを抜き出してみる。 図書館勤めの主人公ニールのところへ黒人少年がやってきて、こう尋ねる。 ''Hey,'' he said, ''where's the heart section?'' 「ハート(心臓)部門はどこですか?」 ''The what?'' I said. 「ザ・何?」 ''The heart section. Ain't you got no heart section?'' 「ハート部門です。ハート部門はないんですか?」 少年の言葉は強い南部黒人訛りなのだが、ニールには理解できる。が、ただ一つの言葉だけが明らかにハート(心臓;heart)と聞き取れるのだ。 ''How do you spell it?'' I said. ''Heart. Man, pictures. Drawing books. Where you got them?'' ''You mean art books? Reproductions?'' He took my polysyllabic word for it. ''Yes, they's them.'' 「どういう綴り?」 「ハート。絵ですよ。ドローイング・ブックです。どこにあるんですか?」 「君が言うのはアート・ブック(芸術書)だね? 画集?」 少年は私の複音節語(注;Reproductionsという言葉のこと)を理解した。「そうです。その本です」 さて、ここで愉快なやりとりの原因となっているのが、ハート(heart)とアート(art)。この二つの言葉は、片やh音が入るけれどもまったく同じ発音なのだ。つまり押韻関係にある言葉である。黒人少年は、別に芸術が心に響くと言っているわけではない。たぶん南部黒人訛りで、hが少し混じるのだろう。それが主人公ニールにはすぐにはアートと思いつかず、図書館にやってきてハート(心臓)部門はどこだと尋ねるのでいささか面くらったわけである。 押韻関係にある言葉というのは、ちょっと冗談みたいな遊びもできるのである。マジメな詩においても、その冗談みたいな言葉の飛躍が、思いもかけないイメージの飛躍、感覚の拡大を生むといってよいかもしれない。 「heart」と「art」は真正押韻だが、じつは正確には発音は同じではないのだが、非常によく似たいわば疑似的な押韻というのがある。これはシェイクスピアのソネットにも出てくる。 シェイクスピアの詩は、古語を使っていることもあり、文法的にもやっかいなので、英米では昔から良く知られている童謡『ベティ・ボター(注;女性の名前)』を例示してみよう。擬似的な押韻をつらねた早口言葉、あるいは冗談のような童謡。英米の童謡のひとつの典型でもある。 ベティ・ボターがバターを買ったらビター(苦い)だった。それをバター(練り粉)に入れたらビターになるだろうし、もうすこしベター(ましな)バターを入れたらベターなバター(練り粉)になるだろう。それでベティ・ボターちゃんはビター・バターより少しベターなバターをビット(少し)買って、それをバター(練り粉)に入れたらバター(練り粉)はビター(苦い)でなくなった。ベターなバターを買ったベティ・ボターは少しベターだった。・・・と、いう意味。Betty BotterBetty Botter bought some butter,but, she said, the butter's bitter;if I put it in my batterit will make my batter bitter,but a bit of better butterwill make by batter better.So she bought a bit of butterbetter than her bitter butter,and she put it in her batterand the batter was not bitter.So't was better Betty Botterbought a bit of better butter.
Oct 15, 2008
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新聞に載った天気予報では東京は午前中は雨とのことだったが、めずらしい大はずれ。終日、気持の良い日射しにめぐまれた。 自転車をひっぱりだして、しばらくぶりに遠乗りした。私はまったくの普段着姿で、オッチャンがよっこらよっこら自転車をこいでいるだけだが、スポーツ・サイクリングのウェアに身をつつんださっそうとした若者たち2,3人に行き交った。信号待ちしながら互いに情報交換しているようで、「1日に100kmくらいでしょう」などと言っているのが小耳に入ってきた。50km走ったことはあるけど、100kmはなー、と私は思った。あそこからあそこまで走れば50kmだ、とイメージがある。まあ、しかし、やめておこう。 聖蹟桜が丘にさしかかると、街路は急に人通りが多くなり、あちこちでイヴェントがおこなわれていた。ロック・バンドの生演奏が聞こえるかとおもえば、民謡「会津磐梯山」をアップ・テンポにアレンジした歌声が笛や太鼓とともに聞こえてきた。 往きはそのまま通り過ぎたが、帰路再び同じところを通ると、まだ笛や太鼓の演奏がつづいていた。ちかづいて見ると、「会津フェア」と書かれた幟と「会津鶴ヶ城太鼓」と書かれた幟が立っていた。 聖蹟桜が丘ではなぜかたびたび会津物産市が開かれるようで、私は以前も通りがかりに覗いて、会津からやってきたという店から2,3の物を買ったことがある。 そこで自転車を駐輪場にあずけ、「会津フェア」とやらを見てみることにした。そして、ややや伊勢屋さんの椿餅をみつけた。私が会津に居た当時は、たしか大町竪丁という町名だったがその角に伊勢屋さんはあって、ここの椿餅は我家の好物なのだ。じつは去年とその前々年、40数年ぶりに会津若松を訪ねたことは何度もこのブログに書いてきたが、その訪問の折りも2度とも伊勢屋さんに立ち寄って椿餅を求めていた。40数年間、ちっとも変わらない味だったのが嬉しかった。店の場所も昔のまま。会津若松が市内の大改造をして昔の面影はほとんど残っていないので、町名は消えてしまったものの、処は同じというのが私には嬉しかったのだった。 というわけで椿餅を買って、ついでに別な場所でおこなわれていた北海道・東北駅弁祭りを覗いて、母が懐かしく思うにちがいないと小樽駅の蟹イクラ弁当を家族分買う。 それから再び「会津鶴ヶ城太鼓」のところへ戻ると、正調「会津磐梯山」を歌いはじめた。この「会津鶴ヶ城太鼓」というのは、私が居た当時は存在せず、なんでも昭和61年に和太鼓同好の士があつまって「若駒会」というのを結成し、作調したのだそうだ。民謡というのは歌い継がれるうちにいつしか少しづつ逸脱してゆくこともあり、それもまた民謡が現代に生き延びるひとつの在り方かもしれない。しかし、やはり「正調」というのは聞けば聞くほど深い味わいがあるものである。私がサイクリングの往きがけに耳にしたのは現代的にアレンジしたものであったが、こうしてきちんと「正調」も受け継いでいることに、安心などというのはおこがましいので、懐かしさを感じたと言っておこう。 そんなこんなで汗だくになって、3時間ほどのサイクリングを楽しんだのだった。
Oct 13, 2008
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夕方のニュースで4人目の日本人ノーベル賞受賞がとびこんできた。化学賞(生物化学)を米ボストン大学名誉教授・下村脩氏が。物理学賞で日本人が3人同時受賞(素粒子論)というのが初めてなら、同年度で4人受賞というのも初めて。暗いニュースばかりのなかで、なんだかこちらまで嬉しくなるニュースである。 下村氏の受賞理由は生物を発光させる「緑色蛍光タンパク質」の発見。オワンクラゲからイクリオンという物質と緑色蛍光タンパク質GFPというタンパク質を分離抽出することに成功。イクリオンがカルシウムと結合して青く光り、そのエネルギーによってGFPが緑色に光る仕組みを解明した。これは今後、癌腫瘍の転位の仕組やアルツハイマー病の神経細胞の破壊過程を解明するなどの医療分野に応用できると予想されている。つまり、タンパク質分子は光学顕微鏡で観察しにくいわずか10ナノメートル。そこで特定のタンパク質にGFPをくっつけると緑色に発光して目印となるわけである。 ともかく素敵なニュースである。
Oct 8, 2008
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判明した。昨日の朝に採集した奇妙な生物のことである。 環形動物門ヒル綱〈コウガイヒル〉無害。吸血はしない。 釈迦楽さんからクガヒル(ハチワクガヒル)ではないかとコメントを頂戴し、それをヒントにヒル綱属を調べたところ、写真撮影されたコウガイヒルにいきあたった。その特徴を明瞭に示す写真だったので、私の採集した生物の特徴と完全に一致した。 コウガイヒルのコウガイとは笄(こうがい)のことで、このヒルの頭部の形状にゆらいする。すなわちハンマーシャーク(シュモクザメ)の頭部、あるいは銀杏の葉のような形状と言えばイメージがつかめるだろう。背に黒く細い三筋の縞模様がある、と私は記述したが、発見した写真はまさにそれを示していた。ヒルといえばヤマビルなど、吸血動物としての印象が強く、実際そのような吸血ヒルは存在する。しかしコウガイヒルは吸血せず、無害だということである。ヒルのほうにしてみれば、私に見つかったのが百年目だったわけだ。カワイソウに。
Oct 8, 2008
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今朝、庭を掃いていたら、帚の先に濡れてもつれた凧糸のような奇妙なものがからまった。帚を振ってみたが落ちないので、腰をかがめて覗きこんだ。するとその凧糸のようなかたまりが、グニュグニュッと動いた。虫である。太さはわずか1ミリほどだが、伸びた体長は20センチはあった。黄色みがかった灰白色。頭と思われる部分は丸みのある三角形ないしハンマーの頭部のような形でもある。 見たこともない生物だったので、私はとりあえず小瓶に採取した。それが下に掲げるものである。いまのところ正体はまったく不明。ミミズの一種か? どなたか御存知ならお教えください。上:全体像。ただし撮影時に4っつに分断されてしまった。中:頭部の拡大図。両側にハンマーシャクの頭部のように張り出している。。頭部の付根からはじまって胴部の両側がギザギザになっている。胴部は扁平ではなく中央部でくっきりと盛り上がっている。また背にくっきりした黒く非常に細い三筋の縞模様がある。下:瓶にいれて腹部の様子を撮影した。カタツムリのような腹で、両側のヒラヒラした平たいヒレ状のものをキャタピラーのようにして移動するようだ。ルーペで仔細に観察すると、そのヒレ状の先端部分に密毛がみえる。 昭和天皇が専門に御研究されていたヒドラに似ているようでもある。しかし採集場所は庭であり、ヒドラが棲息する水辺ではない。
Oct 7, 2008
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今年は、『源氏物語』が執筆されて、ちょうど1,000年目にあたる。それにちなむ催しが各所でおこなわれている。私は、実践女子大学(東京・日野市)で今日(4日)から開催された『みやびへの憧れ ---源氏物語千年紀記念 実践女子大学所蔵名品展』へ行ってきた。展覧会と平行して開催されている連続講演会を聴講するのがお目当てである。 実践女子大学は学祖下田歌子以来の源氏物語研究の伝統ある大学である。私が聴講した講演は、エステル・レジェリー=ボエール博士の「フランスにおける『源氏物語』の研究 --文学作品から絵画への関心」である。博士は、かつて同大学に留学して絵巻物の権威・宮次男教授の薫陶を受け、現在、ヨーロッパにおける東洋研究の権威を誇るフランス国立東洋言語文化大学准教授。ちょうど昨年、女史の主要著書(監修と絵の解説)『日本伝統絵画における挿絵付きフランス語版源氏物語』(デイアンヌ・ドウ・セリエ社)が刊行され、この9月にはその普及版が刊行されたばかりである。大判の全4巻が一つの函に収納されその厚さ15センチにもなる高価な豪華本である。 レジェリー=ボエール博士の講演はほぼ三つのテーマにわたった。 まずは、『源氏物語』の外国語訳の歴史と現状。 充実しているのは英語訳で、最も早い完訳はアーサー・ウェイリー(Arthur Waley)によって1925年に刊行。ついで1976年にエドワード・G・サイデンステッカー。また近年、新訳が刊行されている。 フランスでは『源氏物語』に対する関心はさほどでもなく、1928年に日仏ハーフでフランス語を母国語としていたキク・ヤマタ(Kikou Yamata)という女性作家が英語のウェイリー版から桐壺の巻から葵の巻までの9巻をフランス語に訳して刊行したのが最も早い例。その後、ルネ・セシールによる完訳が1977年(前巻)と1988年(後巻)が刊行されたのみである。セシール訳の特徴は17世紀の宮廷フランス語を使用し、原本に忠実な非常に長いセンテンスの訳。そのため現代の読者にとって必ずしも読みやすいものではなく、賛否両論があるのだという。ただし、その文体に慣れてしまうと、大変美しいフランス語なのだそうだ。 さて、そんなわけでフランスにおける『源氏物語』への関心は薄かったのであるが、昨年刊行された上記の非常に高価な挿画付き『源氏物語』が、3,500部刊行し4ヶ月で完売した。そのことにより、じつはフランスにおいても潜在的に『源氏物語』に対する強い関心があることが確認されたのだという(後注)。 さらに多方面の専門家が所属する「源氏物語研究会」が発足し、8人グループによる新訳が進行中とのこと。もちろんレジェリー=ボエール博士もそのメンバーである。第1回の翻訳『桐壺』(Le clos du Paulewinia)が刊行されたばかりだ。 このプロジェクトの特徴は、ひとつのセンテンスを8人がそれぞれにフランス語に訳し、月1回の例会で突き合わせてさまざまな専門分野から検討し、もっとも適切と判断したフランス語を採用していく。メンバーは、和歌の専門であり、美術史の専門であり、平安宮廷文化の専門であったりという。また、センテンスは原文に忠実に長いけれども、なるべく現代人に分かりやすい、かつ美しいフランス語を採用し、和歌は5・7・5・7・7の5行に分けて訳し、これまでの外国語訳にはなかったことだが、掛言葉のような二重の意味がある場合はスラッシュ(/)によって、二通りの訳を並記しているそうだ。さらに、これもセシール版にはまったくなかったことだが、綿密な注釈をつけている。 このプロジェクトは、したがって非常にゆっくりしたペースで進行していて、全巻完訳するまでに90年くらいが見込まれているのだそうだ。すでにメンバーには若い世代が加わってきていて、今後、世代交替をしながら完結に向って進められるだろう、と。 フランスにとってはいわば異文化研究。しかしその息の長い、真摯な学問的事業に、私は賛嘆し、感激した。名誉欲にかられて我こそ我こそと言う日本の大学人には多々おめにかかるので、従来の成果をより良くのりこえるために90年というスパンでひとつの翻訳をやっているという話には正直驚きをかくせなかった。 さて、エステル・レジェリー=ボエール博士の専門は東洋美術史。とくに源氏物語の絵画化上の問題を研究しておられる。 そのひとつが、最近発見された「幻の源氏物語絵巻」の探究。これはベルギーのさる個人コレクションおよびその他に分散されて所蔵されているこれまで研究者に知られていなかった絵巻物のことである。これについては11月初旬にNHK・TVが特集番組を放送するとのこと。 ふたつめに、博士が注目しているのは源氏絵におけるパターンの問題である。それはさらに(1)物語から場面選択のパターン、(2)絵の構図のパターン、この二つにわけることができるというのである。 (1)の例として、女史は、同じ場面を描いた三つの異なる絵を示す。1、広島県尾道の浄土寺所蔵の60枚の扇面散らし四曲二双屏風。2、ハーバード大学所蔵のいわゆるハーバード本の土佐光信の絵。3、京都国立博物館所蔵の土佐光芳の54図、である。これらを並べ比べることによって場面選択の伝統(パターン)と、そこにおいて何を描き何を省略し何によって絵師の個性を発揮したかがわかるという。 たとえば土佐光信は省略的で暗示的。しかもその省略によって男女ふたりの主人公が緊張をはらむ。 かたや土佐光芳は画面の空白を嫌い、充満的であり、緊張感に欠けるのだけれど、物語のモチーフはすべて出揃い鑑賞者は物語のどの場面を描いているか誤る事はほとんどない、という具合。 あるいはこの3者に岩佐又兵衛を並べてみると、又兵衛の視線がいかに生々しいかが明らかになる、と。 ところで私がとても興奮したのは、レジェリー=ボエール博士の心理学をからめた土佐光則の源氏絵分析であった。土佐光則の大和絵に関して(それはすべて国宝級といってよいが)、日本の研究において心理学の方面から絵の構図を解き明かした論説を、私は浅学ながら知らない。女史は、土佐光則は源氏物語の書く場面を主人公の心理を明確に理解したうえで、その心理を表現するための構図作りをしていると指摘したのである。 おそらく女史の研究は今後ますます深まって、おおきな論文に結実することであろう。 講演後、私は自分の興奮を博士に直接申しあげた。すると博士は、やはり、心理学的に土佐光則の源氏絵を分析した論文はかつてないのだ、と。そして、「私も興奮しているのです」とおっしゃられた。 レジェリー=ボエール博士は講演の冒頭で、「この講演を宮次男教授に捧げます」と述べられた。「宮・・」と言って、胸に迫ってくるものがあったのだろう、一瞬言葉が詰まってしまわれた。そして自分の胸を軽くたたきながら「ごめんなさい」と言い、献辞を述べられたのだった。【注】 博士によれば、この本の挿画として収集された源氏絵は2,500枚にのぼる。「枚」というのは、たとえば京都国立博物館所蔵の土佐光信の源氏物語絵を1点とし、この中には54場面が描かれているのでこれを54枚と数えているのである。2,500枚のうち在外所蔵品は約20%とのこと。これらから選択された絵が見開きページの一頁、ないし両頁にカラー複製され、他の一頁ないしもう片頁の2/3ほどをセシール訳の物語にあてている。
Oct 4, 2008
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昨日、さるところを介して、私の英語の詩を読んだインド在住のインド人女性から友達になってほしいと連絡があった。詩をとおしてジャズを感じるのが好きなのだという。もちろん否やはないのでその旨の返事をした。 英語で詩を書いているといっても、自分では英詩だとは思ってはいない。いくらなんでも私はそれほど図々しくない。しかし、この半年で108篇を発表した。そして、じつは彼女のような申し込みが8人あった。彼女は9番目になる。 メール友達とはいえ、インドの方とのおつきあいは初めて。あらためて思うと、観光情報としてのインド以外はほとんど何も知らないことに気がついた。インド美術、ガンダーラ美術、仏教およびヒンドゥー教についての知識がほんの少々。原始仏典の重要な部分は読んでいる。カーマー・スートラやアユール・ベーダも読んでいる。インド史少々。警察史のなかの指紋研究の関係を少々。・・・まあ、そんなものだ。しかし、これでは現代インドの実生活を知ったことにはならない。 インドって? ドロナワ式に少し勉強しようと思い、中村研二著『住んでみたインド ・・この途方もない国』(サイマル出版会、1982)を購入。もう26年も前の出版なのだが、著者は当時、日本航空のデリー支店長。手始めの入門書としては良いだろう。この中で引っかかったところを後に更に探究すればいい。 というわけでインドの日常生活について調べはじめる。 ところで上の本は、例によって大型古書店でみつけた。ついでにもう一冊購入した。生物学御研究所編『皇居の植物』(保育社、1989)。ほとんど新品同様で、読んだ形跡さえうかがえないほどの美本だ。価格8,800円のものが1,300円也。NDCカードが附録としてついているが、15,6年前から国会図書館をはじめ少なくとも東京都内の公共図書館はカードによる検索を廃して、コンピューター検索方式になっているので、ちょうど20年前の刊行図書とはいえ、こんなカードを見ると懐かしくなる。そして、気がきいたサービス附録だ。購入者を明確に想定しているわけである。
Oct 1, 2008
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一流といわずとにかくプロフェッショナルな料理人の創意工夫、その技術、美的センスには日頃から敬意をはらっている。もちろん和洋中を問わない。他のエスニック料理でも同様だ。 しかし、テレビの料理番組を見ていて、ほとほと嫌になってしまうことがある。その言葉使いに対してである。 「大根の皮をむいてアゲル」「表面に焦げ目をつけてアゲル」「塩胡椒してアゲル」 ア~気持が悪い! なんなんだこの「アゲル」は! いつの頃からか知らないが、もう長年にわたってこのおバカな言い回しを聞いている。民放放送ばかりではなく、あの慇懃無礼なNHKサマの料理番組でも同様だ。収録中に、こんなおバカな、日本語にはない言葉使いをしたなら、そこでストップして料理人に注意したらどうだ。ひとり誰かがバカな言葉使いをすると、あれよあれよと言う間にひろがってゆく。無定見な、締まりのない、右向けと言われれば右向き、左向けと言われれば左向く。そういうのを「奴隷根性」という。 料理人たちよ、自らのつくる料理に繊細な神経とその感覚を実現する技術とをお持ちなのだから、自分の言葉にもセンシブルでありなさい。たぶん丁寧な言い回しのつもりなのだろうが、こんな丁寧語はアリマセン。第一、大根に丁寧に言う必要などあろうはずがないではないか。「大根の皮をむいてアゲル」なんて言われたら、わたしゃ口に入れたものを吐き出してしまいますぞ。ほんに気持が悪い。 今朝方たまたま見ていたテレビ番組がかくのごとしだったので、ああまた一日何回このオバカな料理人の言葉を聞かなければならないかと思い、ウンザリした次第だ。
Sep 20, 2008
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台風13号による豪雨が三宅島から神奈川沖を襲っている。東京・西部も次第に激しい降りになってきた。 何事もなければよいがと願うけれども、どうも昨今はそれはたんなる気休めの言葉になってしまう。必ずどこかで大きな災害が起る。 それを思いあわせて、どうやら自然災害とはいえ根本にはわれわれの地勢利用に誤りがあると言ってもいいのではあるまいか。それはどういうことかと言えば、森林やその植生、あるいは河川とその水力学、あるいは道路計画や都市計画、その他もろもろの分野での専門的な研究は深化しているのであるが、それを統合しておおきな智恵として行政にシステム化してゆくことができていないからだという指摘だ。簡単に言えば、こういう事をすればこういう結果になると分っていながら、いつまでたっても改めようという社会のコンセンサス(認識の一致)ができてこない。できてこない限り、雨風のたびに大きな災害にみまわれるというわけである。 豪雨強風のごとき自然の猛威に対しては、部分的な小出しの智恵、つまりその場しのぎに過ぎないような対処療法では駄目だということであろう。・・・そんなことは皆分っているんですね。しかし、やらない。やらないばかりか、破壊的な事に一層手出しをする。これが、日本なのですね。大好きな日本は、どこかに狂気をひそめていますよ。 今夜あたりは臥待月(ふしまちづき;あるいは寝待月ともいう)。月の出を床に臥して待つ、という意味なのだろう。 陰暦八月十六日から、月の名称が毎日変わってゆく。十六日は十六夜月(いざよいづき)、十七日は立待月(たちまちづき)、十八日は居待月(いまちづき)、そして十九日の臥待月、二十日が更待月(ふけまちづき)。 どうやらこの名称は、月の出の時間に関係しているようで、時間がすこしづつ遅くなっていくのである。二十日以後の月は午後22時過ぎなければ出ない。日暮れてから22時以後の月の出までの闇を「宵闇」という。「宵闇せまれば 悩みは果て無し 乱るる心に・・・」と、古い歌謡曲にある。それをリバイバルしてフランク永井も歌っていたが、それもすでに30年以上の昔のこと。この歌、言葉のただしい意味では、今頃の季節をうたっていることになる。(後注) 雨降りて臥待月も寝(い)ねにけり 青穹 そうだそうだ、歌といえば今日9月19日は正岡子規の命日、「子規忌」である。明治35年のことで、享年36歳。四国松山の人だが、亡くなったのは東京は根岸。糸瓜を詠んだ三つの句が絶筆となった。 その糸瓜三句。 糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな をとゝひの糸瓜の水を取らざりき 痰一斗糸瓜の水も間に合わず【注】 『君恋し』 時雨音羽・作詞、佐々紅華・作曲(昭和4年;1929) この詩は歌謡詩としてたいへんすぐれていて、宵闇に月の出をまつ女の涙雨のためについに月は出ない、と一番でうたう。月は古来日本では男性をあらわしている。「月の女神」という考えかたは日本にはない。したがって、この歌謡曲、うたっているのはいずれも男性(二村定一、フランク永井、森進一)だが、女性の側からの男性への恋なのである。 ついでだから全篇を掲げておこう。最後の一行は、星野哲郎の『みだれ髪』(1988;美空ひばり歌唱)の「春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋」の詩句に、あきらかに反映している。『君恋し』『みだれ髪』共にいまどきのシンガーソングライターとやらの書く詩などとうてい足元にもおよばない詞藻の豊かさと情緒の深さがある。 君恋し 音羽時雨作詞 宵闇せまれば 悩みは果て無し 乱るる心に 映るは誰が影 君恋し 唇褪せねど 涙はあふれて 今宵も更けゆく 歌声すぎゆく 足音ひびけど いずこに尋ねん 心の面影 君恋し 想いは乱れて 苦しき幾夜を 誰がため偲ばん 去り行くあの影 消え行くあの影 誰がため支えん つかれし心よ 君恋し 灯うすれて 臙脂の紅帯 ゆるむも淋しや
Sep 19, 2008
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もう午前0時をまわったので、今日からということになるが、天気予報によれば週末三日間は雨だという。で、昼間、ちょっと散歩に出た。 家を出てまもなくのところで、向こうから3歳くらいの三つ子ちゃんが手をつないでやって来るのに出逢った。同じ若竹色のワンピースを着て、小さなリュックサックを背負っている。うしろに若いお母さんがいる。オレンジ色のブラウスに黒のタイト・スカート。うつむきながら肩からさげたバッグの中をのぞきこんで、何やら探している。すると三つ子ちゃんが、一斉に「ママ~!!」と叫んだ。深閑とした住宅街の通りに思いのほか大きな声の合唱がひびきわたった。「ウルサイ!」とお母さんが一喝した。「ジュースがあるよ~!!」 また三人そろって叫ぶ。路傍に自動販売機があり、三人のうち二人が駆け寄って販売機を見上げている。 私は思わず笑ってしまった。お母さんは知らぬげにバッグを掻き回している。それもおかしかった。 たいへんだ、たいへんだ。女三人よればナントヤラ、この子たちが年頃になったら、まあ家中はどんな賑やかさだろう。合唱、合唱、合唱♪、きっと嵐のような合唱だろうなー。 それにしても三人が三人とも同じ服装、同じ髪型、同じ顔・・・ウァ~たいへん!! みんなそれぞれ異なるスタイルではいけないのかしら。喧嘩するのかな? たいへん、たいへん、と私は他人事だからおもしろがりながら、母子とすれちがったのだった。
Sep 17, 2008
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私の中学生時代の恩師・会津の清水和彦先生から誕生日の葉書を頂戴した。いや、私の誕生日ではない。先生御自身のである。79歳を迎えられる先生は、9月18日生れ。じつはこの日は1931年(昭和6)の満州事変の勃発したと同日である。この日本陸軍関東軍が仕掛けた謀略により日本は軍部にいわばのっとられ、愚劣な15年戦争(世界史的に大平洋戦争あるいは第二次世界大戦)へ突き進んで行く。 大平洋戦争に突入(1941)した翌昭和17年、清水先生は私の母校会津高等学校の前身旧制会津中学に第53期生として入学した。つまり私の出身校の先輩に当るわけである。先生の時代の校舎はそのまま私の時代まで使われていた。53期生というのは、戦争に突入して初めての入学生で、また、戦争が終って(昭和20)初めての卒業生ということになる。というわけで先生の中学生活は軍事教練と勤労動員にあけくれたと言っても過言ではない。 そのせいでもあるまいけれど、先生たち53期生は卒業後も結束は密で、現在も交流がつづいている。のみならず、1991年にはみんなで分担執筆して『戦闘帽の中学生たち』という本を刊行した。私にも先生から2册プレゼントされたが、私は1册を東京都中央図書館に寄贈した。もちろん国会図書館にも所蔵されている。 この本が当時の中学生のきわめて貴重な記録となっているのは、たんなる回想記ではなく、当時、勤労動員先寄宿舎等で丹念に記述された各自の日記をもとにしていること、さらに巻末に付された「会中時代の年表」は、当時の担任教師の記録をもととした学校行事の詳細な年次記録で、昭和17年から昭和22年までの学校生活の実体を明らかにするものとなっている。 さて、そんなわけで、清水先生はご自身の誕生日に一枚の手作り絵葉書を知人に送ることを慣例にしてきたという。それは憲法9条を守ろうという主旨のもので、九条という文字が浮かび上がるように特別に育成されたリンゴが、闇のような黒い地のなかに置かれているデザインである。先生自身のデザインである。先生によれば、「腐らないように紙に印刷しました」と。 きょうのお葉書には、「山田君と出逢ったことを誇りに思っています」と書いてくださっている。これは、私が日頃、ドン・キホーテよろしく行政や司法に噛み付き、曲学阿世のやからのねじまがった愛国論や好戦論に噛み付いていることを指しているのである。なに、飼いならされた奴隷根性が死ぬほど嫌なので、日本文化のなかに存在するそれをどうやったら如実にあらわすことができるかと、ひとりで思い悩んでいるに過ぎないのだが。 清水先生は、私の学級担任であったことは一度もなく、体育の先生であった。私はひょろひょろしたスポーツがからきし駄目な子だったので、先生が顧問をされていた新聞委員会に迎えられ、さらには児童劇団「童劇プーポ」の同人に迎えてくださったのは、いまにして思えば「なぜかしら?」と不思議な気さえする。しかし、それによって私は、はっきり自分のなかにある芸術的な感性を自覚したのだった。 小学校初年度の担任・樋口カエ子先生によって発掘され水をかけてもらい、最終学年の担任・星孝男先生に守られ、そして中学で清水和彦先生に出逢い、高等学校3年間は早川俊一先生に見守られた。早川先生は、「君は私には理解が及ばない生徒だった。人と異なる何かをもっていると思うのだが、それが何であるかとうとう分らずじまいだ」と卒業間際にいわれたものだ。私にはその言葉だけで充分だった。早川先生はその後、たしか福島県高等学校校長会会長を務められたと聞いた。 ・・・私は60歳を過ぎたあたりから、昔のことをいろいろ思い出しもし、このブログにも恥ずかしげもなく書いているが、それまではほとんどまったくと言ってよいほど過去をわすれていた。子供のように、あした何して遊ぼう、あさっては何をしよう、と未来のことしか頭に浮かばなかった。だから、5年ほど前に、ひょんなことから私の消息を知った清水先生から、「ずっと探していた。ひょろひょろしていたから、もう死んだかもしれないと思ったりしていた」と御手紙を頂戴するまで、40年以上にわたって私は、先生ばかりではなく昔の知人誰ひとりとも交際がなかったのだった。清水先生の御手紙で、はっと我にかえって、自分のふるまいを顧みたのだ。 先生がさまざまな機会に「憲法九条を守ろう」と発信されていることに、そういう人が私の恩師であることに、私は誇りをもっているのである。お誕生日おめでとうございます。(清水和彦先生デザインの絵はがき)
Sep 16, 2008
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愛と欲望(あるいは69行の幾何学的な愛欲)山田維史お前にぼくの秘密をうちあけようぼくがお前を殺してしまうなんてこのナイフの血の滴りを見たまえぼくは森の谷間でぼくのナイフをお前の下腹深く突き立ててやった蝶の翅のようにお前は脚をひらき大地の胎内に夜の虹の橋を架ける切っ先にまといつき締め付ける謎ぼくの舌は言葉を失い極北で痺れ空間は濃密さを増し血が臭い立つ怖がらなくてもいい、おちつけと自分に言い聞かせ堅く握りしめたナイフに真紅の花を咲かせて行くお前はのけぞり喉を震わせながら古代女神のように乳房を突き出しやおら両手を広げて大地を掻毟る空気は薄くぼくはすでに息苦しい肉の摩擦で挑発される凶器と狂気暴力が正当性をめざしてふくらむ抜き差しの連続で火のように熱い森の樹々の葉叢がざわめき焦げるむっと立ち昇る肉屋の火事の匂い金屋子神に仕える鍛冶師のごとくぼくは行為の中で技術を確立する暴力の技術と愛の技術との境界をぼくの精神は肉において統合する精神は何も語らず肉に代弁されるぼくは内側からお前の形をなぞり苦悶と快楽とに歪むお前を見つめ耳をそばだてお前の気息を捕らえ粘膜を限界まで引き絞っては弛めお前もまたただ肉として痙攣するぼくは一瞬たりとも目を離さない白眼を剥き目尻に溜めた涙を辿り地下水をたたえた深い井戸の底へお前のイドを求めてぼくは降りる見ることで欲望の成就を確認する存在の証明を想像力にたよらないぼくのナイフはもはや器物でない他者として遮る硬膜を切り裂いて滲み出る粘液にしちどにまみれて貪るようにお前のなかへ没入するおお愛しいのだ愛しいのだお前が干渉しあっていたふたりの波動がやがて大きなうねりとなって行くお前は何度も弓なりに反りかえりバネのような強靱さで抵抗を試みかと思えば蜜のように溶け出して幻惑と戦慄の中にぼくを投げ出すぼくは背骨を撓め、位置を正して両尻の筋肉を意識的に緊張させる世界を構成する網が一点で結ばれ自他の境が消失する、その瞬間だお前の断末魔の鋭い叫びとともにナイフの先端で遠近法が逆転した肉の筒の内側に星雲が渦を巻いて奔流となってぼくを襲い呑み込むぼくは、たちまち弾き飛ばされて殺人者としての方程式に堕落する行為の主体から客体への逆さ吊りそして昂然として他者であるお前急速に萎えて行く凶器を握る情熱足早に立ち去るぼくの青い背中にお前は分厚い白紙の辞書を投げたいまさら何を書きこめと言うのか想像力の欠如を後悔で埋めるのか自己疎外者の失地回復を願うまいまったく予想もしない結末だったお前にぼくの秘密をうちあけようLOVE and LUSTI'll reveal my secret to youIt's a story that I killed you!See the blood of this knifeI thrust it into your bellyin the valley under woods.You opened your legs like the wings of butterfly and formeded the rainbow of nightinto the womb of the ground.The mysteries stuck involving the point of the knife, bound it tight.My tongue obtained language, bent and was numbed with a north polar region.The increase of consentration and blood of space were stinking up.''It does not need to be afraid. Keep cool'' persuading myself to doI dyed my knife with the red bloom which I grasped tightly, and go.Shaking curvature and a throat, you projected the breast like an ancient goddess, extended both hands just then, and scratched and plucked the ground.Air was thin and I was already stifling.The weapon and my insanity were provoked by friction of meat.Violence expanded aiming at justification.It was hot like fire at continuation of extraction and insertion.The leaves of the trees in woods were noisy and burnedrising the smell of like the fire of the butcher.Like the blacksmith who serves God, I established technology in the act. My soul unifies the boundary of the technology of violence and the technology of love with the flesh.No soul was told but was paid by proxy of the flesh.I traced your form from your inner side.I gazed at you who were distorted for agony and pleasure. Pricking up my ears, I caught your breath.Membrane was strained to a limit, and was loosened and you also twitched as meat. It was sufficient for me for a moment, and I didn't look aside, either.The white of your eyes were skinned, your tear accumulated in the eye area was followed, and I got down in quest of your id to the bottom of the deep well in which groundwater was stored.Accomplishment of my desire was checked by seeing. It didn't depend for the proof of existence on imaginative power. My knife was not a vessel any longer.It was absorbed into you so that it might tear apart, might be heavily smeared with the oozing mucus and the membrane interrupted as the others might be coveted.Oh, I love you, my darling, darling !It interferes, and two persons' wave motion which suited serves as a soon big surge, and goes.If you bend backward to a bow repeatedly, and try resistance by toughness like a spring and or is thought so, you will begin to melt like honey and will give me up into dazzle and a shiver.I bent the backbone, correct my position and strained the muscles of both the hips intentionally. The net which constitutes the world was tied with one point, and the boundary of oneself and others disappearwd. ---It was the moment !With the sharp shout of your moment of death, perspective was reversed at the point of my knife. The nebula whirled around by the inner side of the pipe of meat, it became a rapid stream, and I was attacked.I was instantly flipped off and was degenerated to the equation as a murderer. Upside-down from the subject of an act to the object. And you who were the others triumphantly.I lost quickly strength in my passion which grasped the weapon. You threw the dictionary of the thick blank paper at my pale back left at a brisk pace.What do you say "Write in now"? Is lack of imaginative power fill uped with regret? I would carry out a self-alienation person's recovery of lost territory to not wishing. It was an end which didn't carry out anticipation at all, either.I'll reveal my secret to youIt's a story that you killed me!---------------------------------------Copyright (c) 2008 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
Sep 14, 2008
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日本相撲協会の北の湖理事長が辞任した。(元)幕内力士若ノ鵬が大麻取締法違反(所持)で逮捕され、それを受けて抜き打ちで行われた尿検査で、露鵬(大嶽部屋)と白露山(北の湖部屋)とから陽性反応がでたことから、相撲協会理事会は北の湖理事長の引責辞任を決定した。 若ノ鵬が逮捕されているのに露鵬と白露山とは若ノ鵬の事件絡みで事情聴取されたけれども逮捕に至らないのは、大麻取締法の法律的正確による。すなわち大麻取締法の犯罪構成要件は「売買」と「所持」であって、「吸引」そのことは要件にならないのである。したがって露鵬と白露山とがたとえ大麻を吸引していたにしろ、所持あるいは売買の確たる証拠がないかぎり犯罪とはならない。 連日マスメディアを賑わせている両力士の問題は、すくなくとも現段階では大麻取締法違反とは関係がなく、ひとえに日本相撲協会内の倫理規定(スポーツマンシップに則り薬物を摂取しないということ)に関わる問題である。 両力士は大麻吸引を否認しているが、相撲協会の再発防止検討委員会は、尿検査の陽性反応という結果と両力士の弁明から判断し、厳しい処分の方向へ動いているようだ。これに対して検査機関で陽性反応が確定した露鵬は、検査手続が国際ドーピング機関が定めた手順に則っていない等を理由に依然抗議している、とマスコミは報じている。 犯罪として立件されているなら事は容易だが、そうでない限り問題は一層微妙なところにあるだろう。つまり、両力士の主張が正しければ名誉毀損に値し、名誉毀損は刑事事件となる。また人権侵害となっても同じである。相撲協会は自らの手あかのつかない純然たる第三者機関に両力士の再検査をまかせるべきであろう。なぜなら横綱審議委員のなかには医者である人物もいて、そういう息のかかった検査機関では不信感を煽るばかりだからだ。そしてすくなくとも世界の現代科学・医学・薬学・生理学等の最善を尽くさなければならないだろう。このような問題は、刑事裁判などでも同様だが、「疑う者」より「疑われる者」の立場になって判断(裁き)の環境をつくらなければなるまいからだ。 ところで、私が、これは大きな間違いだと危惧を感じた言辞が、本日(9月8日)の朝日新聞朝刊(14版)に載った。元NHKアナウンサーで相撲記者クラブ会友の杉山邦博氏のことばである。誤りがないようにそのことばを同紙からそのまま引用する。 「検査は協会の責任で行われた。こうした反抗的な態度は組織人として大きな問題を感じる。また、日本が世界に誇る医療技術への挑戦とも受け取られる。当事者たちは一般国民の空気を読み取る必要がある」 目を疑うというのはまさにこういう言辞に対してであろう。ここには論理的にも正しいといえるものは一つもない。 「検査は協会の責任で行われた」。そのことと、検査が正しく行われ、科学的に疑問の余地がない結果が得られたかということは全く別だ。「責任」というのは必ずしも言葉とおりの意味に使われないこともあり、まして先に述べたように利害関係のない純然たる第三者機関に委託したともいいがたい。 「反抗的な態度は組織人として大きな問題」とは如何なる問題であろう。もし潔白なることを主張することが「反抗的」ととらえられるなら、そのような隠蔽体質の自浄努力がない組織こそが問題であろう。日本相撲協会がとかく不審な目でみられることがあるのは、組織そのものに膿がたまるような仕組みとなっているのではあるまいか。過日の若手力士に対する身の毛もよだつような暴力から殺人にいたる事件、それへの対処の仕方の協会のうさんくささを忘れたわけではあるまい。ビール瓶で人を殴りつける凶暴な人間を親方として抱えていた協会だ。どんな膿を内包しようと従順であるべきだというのは、発言者の生き方の問題でしかあるまい。 「日本が世界に誇る医療技術への挑戦」とは、どういう意味だ。一般的に医療技術が優秀であることと、実際の検査が優秀といえるものであったかどうかは全く別だ。優秀であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。医療ミスの問題は日常的に山ほどある。それらの悲劇的な事件は、世界に誇る医療技術の日本でおこっていることだ。「挑戦」などというのは発言者のたんなる「感覚」に過ぎない。のみならず、医療技術というのは常に病者から挑戦されているのだ。これで良しなどということはあり得ない。そんなことはさほど頭を使わずともわかる。 「当事者たちは一般国民の空気を読み取る必要がある」---自分が正しいと主張しようとしている人間が、何故、一般国民の「空気」とやらを読む必要があろう。流行語を使うところがいじましいが、ジャーナリストがこんなファッショな言葉を使うべきではなかろう。一般国民などと括ってはいけない問題があるのだ。たとえ大勢が声高に非難しても、大勢のなかのたった独りでも、あるいはその人が正しい主張をしているかもしれないではないか。ここにも発言者の生き方を見ろというなら話は別だ。 しかし杉山氏、このあなたの発言は本来ジャーナリストとしてはむしろ逆の行動をとって、真相に迫るべく努力すべきではありますまいか。まるで「大本営発表」を鵜のみにした、かつての日本のジャーナリズムの恥ずべき体たらくを、いまだに遺伝子としてその精神に温存しているかのようだ。自己を確信も確立もできていない子供たちが、ヤクザ社会を形成するかのように「空気」を読みながら生きていることを、大人は悲しい目で見てもいいはずだ。子供の言葉の流行を、そこだけジャーナリスティックに使用したということだろうが、人の一生にかかわる処分問題に対しては如何にも軽薄。いや、相撲界の問題としてばかりではない、日本社会の危うさを感じるのである。来年5月から始まる裁判員制度(英米の陪審員制度に相当する)が、この制度でもっとも危惧されるのが、自分自身の確信で判断するのではなく大勢の「空気」を読んでしまうことだ。この制度は殺人等の重要な事件に限られることでもあり、「空気」を読んだ結果無実の人間を死刑にしてしまわないとも限らない。われわれ日本人の過去の美徳とされたことに己を捨てて大勢に従順であること、長いものに巻かれるという精神があった。しかし、いま、われわれはそれを美徳としてはいけなくなったのだ。「空気」を読むなどと言っていてはいけないのである。社会的コンセンサス(認識の一致)を得るためには、条理をつくした議論が必要になっているということである。 最後にありうべき誤解にそなえて述べておくが、私は露鵬と白露山を弁護しているのではない。この問題への対処の仕方に、なにか幼いような社会の危うさが露呈していると思える、そのことに注意を向けたのである。
Sep 8, 2008
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会津の恩師清水先生からお葉書を頂戴した。しばらく御無沙汰していたので、さっそくお詫びの手紙を書いた。最近の活動状況なども別に40ページほどプリントして同封。今朝発送した。 清水先生へ手紙を書きながら先生のお顔や姿を思い出していた。 そのイメージはお年を召されたとはいえ、50年前の面影に重なる。私は子供だったけれど、先生は「おとな」だったので、50年の歳月によっても容貌に極端な変化はないのである。 数年前、お別れしてから42年ぶりに電話で話をしたときも、お声が昔とまったく変わっていなかったので、私は内心で返って衝撃を受けた。その気持を説明するのは難しいけれど、要するに、私は42年間の空白が一挙に解消するのを感じながら、同時に42年という時間が現実に過ぎ去っているのだということを思ったのであった。そうしてさらに1年くらい後に実際に再会したわけだが、私は先生のお顔に、一瞬、「お前は誰だ? ほんとうに山田か?」という戸惑いの表情がよぎるのを見のがさなかった。私は画家で、人間の表情の微妙な変化を読み取るのはおてのものなのだ。 先生の戸惑いは当然のことであろう。私は「子供」ではなく60歳の老人になっていた。 私が創作表現を職業としているためもあろうが、ときどき相手の位置から私へ視線をむけて物事を考えることがある。つまり想像によって視点を交換してみるのである。先生の目に現在の私の姿形がどのように映り、それは先生の記憶にある40年以上前の少年の顔とどう重なり、あるいは乖離して、先生の意識を形成しているのだろう。そう思うのだ。 私の現在の顔のどこを探したら子供時代の顔が浮かんでくるだろう。まったく重ならないのではあるまいか。 ・・・先生は、ほんとうに「中学生の山田」と「現在の山田」とをぴたりと重ねて話をされているのだろうか? 誰か知らない人と話をしている気分なのではないだろうか? 私は、ひとが誰でも私のような鮮明な映像をともなう記憶力の持主ではないことを知っている。大抵のひとは、私のようにいとも簡単に時間を超越して記憶をよみがえらせることはできないのだということを。 私の記憶は、懐かしさというような情感につつまれているのではない。映画フィルムを映写機にかけて再現するようなものだ。 そして映写機をまわしながら、私はまったく断絶した世界にいる不安のようなものを感じている。 手紙を書きながら、「先生、私は子供の頃の顔に戻れません・・・」と思うのだった。
Sep 2, 2008
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雷神の屏風をたたむ嵐かな 青穹 豪雨なり文明の為す術もなく 俳諧のなじまぬ自然の猛威なり 風流も身をすくめたる豪雨なり
Aug 29, 2008
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昨夜、東京・西部(関東・東海地方全域にわたったようだ)は強烈な雷雨にみまわれた。稲光りをともなう雷は深夜にいたって一層激しく、雨も豪雨となって行った。我家の近所に落雷したのか、火花を発し、地響きをあげて都合4度。猫たちが飛び上がった。 私は午前1時半に就寝したのだが、寝室の雨戸はわざと閉めず、稲光りで室内が青白く照らされるのを見ていた。それだから落雷の火花も見えたのだった。我家は高台にあり、裏手は広大な緑地と公園がひろがるいわば山なので、むろん杉などの高い樹木も茂っている。そこに落雷して火事にでもならなければよいが、と思った。寝入ろうとして、目をつぶるのだが、強烈な稲光りは、サーチライトをいきなり目にあてられるようなもので、思わず目をあけてしまう。猫たちもやってきて、不安げに騒ぐので、「怖い怖い、ここにいなさい」などと言って、結局、寝入ったのはもう朝方4時近くになっていた。 まだ今朝のニュースを見ていないけれど、おおきな被害があったのかどうか。 ○ 19世紀ドイツ・ロマン派の画家フリードリッヒは、清澄な風景画を描いたことで知られる。しかし彼の内面は冒険心にみちた、危険をものともしないようなところがあった。実際に断崖や峻険な岩山などにのぼり、周囲をはらはらさせたようだ。嵐の絵なども描いているので、たぶん実際の観察にもとづいているのであろう。 フリードリッヒのような積極性はないので、つまりは何もないと同じなのだが、私も嵐の夜に家を抜け出し樹木の様子などを観察したものだった。このブログのフリーページ、「DRAWING 1」に掲載している「嵐を孕む樹」は、まさにそんな観察のスケッチ。ここに描かれているのは柳の大木である。 このような嵐を孕む樹木に対する私の好奇心には、じつは原点がある。小学校入学の前年、私たち一家は父の仕事の関係で北海道羽幌町から長野県川上村に移転した。到着して間もなくのちょうど二百十日に、大嵐が吹き荒れた。我家の前、本道からTさんの家に入ってゆくV字状のその交点に、馬頭観音(たぶん)が大木の根元に祀られていた。その大木はおそらく桑だったのではないかと今にして思うのだが、ずんぐりして、幹周りが大人二人で抱えるほどあった。そこからまるで帚のように細枝が出て、葉叢がこんもりとして、そう、まるでブロッコリーのような樹形だった。私はその樹がなんとなく好きだった。 さて、嵐が去った翌朝、私は通りにでてみてびっくりしてしまった。その大木の葉がことごとく風にむしりとられ、丸裸になっていたのだ。細い枝がそれこそ竹帚を逆さまに立てたように突きでているばかりだった。 私は思ったものだ。嵐はどんなふうにしてこの木の葉っぱをすっかりむしり取ってしまったのだろう、と。自分が眠っている間の出来事を見れなかったことを悔む気持だった。いや、そんなに明確ではなかったとは思うが、ともかく「嵐を孕む樹」が見たかったのである。 それから20年も後に、私は夜中に家を抜け出し、あの柳の大木が大風に髪を振り乱すよう荒れ狂っているのを見に行ったのだった。普段、その木のそばを通りかかるたびに、その木の様子が子供のころに好きだった桑の木を思い出させていたのである。【追記】 報道によれば東京の西部、とくに八王子市がこの豪雨により大きな被害が出たという。八王子市は広いけれど、我家の近隣なので、あらためてお見舞い申しあげます。
Aug 29, 2008
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我家で猫を飼う歴史は長く、最初は私が小学5年生くらいのときで、真っ白い母子の2匹。それから長い間をおき、28年前から再び飼いはじめ、それを先祖として現在の五匹のひ孫まで全部で25匹飼ったことになる。 そのうち最初の2匹(チョマコとチョンコ1世)は別にして、御先祖さまのクロ(雌猫だけどこういう名前。私は天才クロと呼んでいた)の子供でないのが2匹。一匹はクロが、どこからか生まれて1ヶ月ばかりの捨て猫を見つけて連れて来た。「だめだよ、返しておいで」というと、渋々くわえて返しに行ったが、帰るに帰れず少し離れたところから子猫を見守っている。しかたなく「クロ、いいよいいよ、連れておいで」と言うと、嬉しそうに再び連れ帰った。子猫のほうも分るのであろう、家につくと、のうのうと腹這いになってクロの乳にすがりついた。乳が出るはずもないと思ったが、乳から離れたあとで、「クロ、ちょっとおっぱいを見せてちょうだい」と乳首をしぼってみると、なんと乳が出るのである。これには驚いてしまった。母性が刺激された結果であった。 二匹目は、以前に書いたことがあるが、3本脚の野良猫だった。大きな成猫で、どこをどう彷徨って我家に辿り着いたかわからないが、はじめは、我家の猫達を恐怖に陥れていた。お風呂に入って躯を洗い、1ヶ月ほど我家で暮らし、言うことも良く聞き分けるようになったが、ある日ふらりと姿を消してしまった。 この猫の存在が、我家の牡猫チャコの心労となり、まもなく病気になって死んでしまった。我家では長い経験から猫たちの写真はほとんど撮らないことにしていた。しかし、なぜかこのチャコの写真だけは沢山撮っていたのだった。チャコが生まれてまもなく、私はニューヨークへ長期の旅行をした。私の留守の間、猫たちは何か不安だったのか、天才クロが母の手に噛み付いてケガを負わせるようなことが起った。私が帰ってくると、チャコは私のそばを離れようとせず、私のあとを追いかけた。チャコの死が、今のところ飼い猫の最後の葬式になっている。死んだ猫たちは柿生の里(神奈川県)に眠っている。【チャコ、94年11月2日】 猫の毛を櫛けずりおり長き夜 青穹 幸・福と名付けし猫の夜食かな 十九匹の猫の名偲ぶ地蔵盆 コンピューターの鼠枕に猫の秋 カマキリに片手で挑む子猫かな
Aug 28, 2008
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夏の盛りでも、寝苦しさなど感じることもなくすぐに寝入ってしまうのだが、今朝がた一旦目がさめてから、ふたたび睡魔がおそってきた。もうすこし眠るつもりで、そのまま睡魔に身をまかせた。すると頭の中に、白い霧が降っているようなガランとした荒野がひろがった。それは、見えるというのではなく、自分の脳みそが「感じて」いるのだった。頭蓋骨の内部にひろがる光景であることを、私は目覚めと眠りの間で「感じて」いた。このままでいれば、その光景は眠りそのものとして、私の意識をグイグイと眠りの深みに引き込んでいくと思われた。私は試しに意識を揺らしてみた。すると、脳が「感じて」いる荒野はやや曖昧になった。私はふたたび意識のレベルを下げてみた。脳は荒野を「感じて」いる。 「ああ、これが眠りの正体か」と私は思った。そしてその荒野を感じながら意識が消えてゆくにまかせた。 2時間ほどして、私は深い深い眠りから目覚めた。脳が感じていた荒野は、まるで現実の光景の記憶のように、目の裏によみがえる。その映像は、脳全体が「感じて」いたのとは明らかにことなる感じで、視覚の記憶の回路に組み込まれてしまったようだ。 閑話休題 3日つづきの雨が止んで、日射しがもどってきた。残暑がぶり返した。とはいえ、その暑さはやはり確実に秋の気配のなかにある。 あるいは今夜からまた雨になるかもしれないというので、散歩をかねて家人につきあって近所に買い物に出た。 猫たちの御飯も買わなければならない。いつもの店に行くと、決算在庫処分とかで、猫用の缶詰が安売りしていた。これ幸いと少し多めに買い込んだ。なにしろ5匹いるので、その食糧費だけで月に2万円以上になる。秋になると猫達は冬にむけて脂肪をたくわえはじめるので、食欲が増すのである。天高く馬肥ゆる秋、というのは真実で、猫にも言えるしもちろん人間だって同じだ。 というわけで、われら人間の食糧も買い込んで帰宅。 膝の手を払いて立てば猫寒し 青穹 かぶり振りただ頑や人の秋 鎌振れど時に拝めるいぼむしり 大風に破(や)れて芭蕉の風情かな 黒揚羽肩に止りぬ何処より来る わが魂(たま)を先導するや揚羽蝶 揚羽蝶ふわりと舞いて夏過ぎぬ ふみ書いて破り捨てにし秋の風 後ろ髪ひかれし者の野分きかな 鬱金(うつこん)の雲に向かえる遠路かな【注】 「いぼむしり」はカマキリの異称。この虫の鎌でイボを撫でると消えるという昔の俗説にもとづく。また敵に果敢に鎌をふりあげるが、ときどきまるで拝んでいるような仕草をする習性がある。私はそのことを詠んだ。
Aug 27, 2008
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雨垂れを眺めて葡萄食いにけり 青穹 葡萄食い枯骨のごとき茎を捨つ 野葡萄や濃き紫に爛熟す 野葡萄や色深ければ秘めたりき 幾房の葡萄踏みしか酒醸(かも)す 貴腐葡萄酒(ワイン)陶然としてまた酔いぬ それぞれと云えど丸める葡萄かな
Aug 26, 2008
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