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めいてい君 @ 日本の純資産~過去最大の純資産で円建てでは世界最大 [東京 28日 ロイター] - 財務省は2…

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Apr 11, 2021
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カテゴリ: 物語り
​​★

​​​​ゼンリン・ミュージアム

千葉県山武郡九十九里町小関生まれ
「伊能(忠敬)図」から・・・

 人口衛星”ランドサット”がなくても極めて正確


伊能忠敬は露のラスクマンが根室に入港したことを
契機として幕府が北方の測量を始めていた時期に
幕府に願い出て認められた。歩測と天体観測等で
測量を行った。彼の伊能図を求めてシーボルトが

没収できたと思いきや、写本を持ち出したシーボルト
の日本地図は米国ペリーも持っていた。



​​​​




1. 朝鮮通信使1429年~1811年

 室町時代3回~桃山時代2回~江戸時代12回。​


室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から

日本に派遣された外交使節団で、正式名称を朝鮮聘礼使

​​(ちょうせんへいれいし)と言う。



 信長は明・朝鮮との通商貿易を図り、年使を派遣したが

朝鮮は応じず、政権を掌握した秀吉は対馬の宗 義智を交渉

役とし、天下統一の祝賀使節を朝鮮に求め、祝賀使節が来日。

 秀吉は通信使を服従使節と思い、秀吉は明国征服の先導役を

朝鮮に認めさせようとした。

 朝鮮通信使は文書の書き換えを求めたが受け入れられず、

1592年~93年文禄の役が起こり、平城まで日本軍に

攻め込まれたのは互いの意思疎通によるものとされる。

 明国の冊封使は朝鮮通信使を伴い来日したが、

秀吉の怒りに触れて慶長の役1598年に発展する。





 朝鮮から明国が撤退し、江戸幕府は直接の貿易を

握らんとし、北方からのヌルハチのもとでの女真族の

脅威などから李氏朝鮮は江戸幕府との国交を結んだ。

 日本側の謝罪文(対馬藩の国書偽造事件)と、

朝鮮征伐時の多数(6,000~7,500人)の捕虜返還により、

通信使は旧来の通信使の役割に戻った。







2. 上記のような公的で儀礼的な「外交使節」

とは別に~


私的な交易や公的な交易が行われていた。

(1) 倭寇~南北朝、戦国時代には九州・瀬戸内海方面の

 武士や海賊が中国・朝鮮沿岸で 「倭寇」 として

   恐れられた。

(2) 16世紀後半にはポルトガル船が日本に来航、

 東南アジア方面まで進出する日本人(山田長政~

 仁左衛門など)が現れた。

(3) 16世紀末~17世紀初頭には日本の支配者

 から朱印状(海外渡航許可証)を得て、その朱印状

 を携帯するものはポルトガル、オランダ船、東南

 アジア諸国の支配者の庇護を受けた。

  なお、明国は日本船の来航を禁止し、ポルトガル

 居留地のマカオを除いては寄港先とはならず、​​

 朝鮮との交易は対馬藩に 一任されていたので、

 朱印船の寄港先ではなかった。

​​ 朱印船の出航・寄港は長崎であり、1635年までは

 350隻以上の朱印船が海外渡航を行っている。


WIKIPEDIA


(4) 鎖国:キリスト教の布教により民心を支配する

 との判断で外国人を排除、明朝→清朝、オランダ以外

 の交易船の入港を 長崎・平戸→出島に限定。

 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)

 船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約

 締結までの期間を 「鎖国」 (英closed country) と呼ぶ。

 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」

(正規の外交)、中国(明朝と清朝)及びオランダ

(オランダ東インド会社)との間の通商関係に限定。

 鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、

 実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の

 半分。

 鎖国の間の日本は、出島における貿易の「清」、

「オランダ商館」、薩摩藩経由の琉球王国からの海外情報

が主であり、海外との交流を制限していた
朝鮮からは

ヨーロッパの情報はえられなかった。

​ 密入国者には島原の乱の5年後の1643年筑前の国に

漂着し江戸送りとなったイタリアの宣教師10人もいるが

1708年
屋久島で捕縛、長崎から江戸送りとなり、死まで幽閉され

荒井白石の「西洋紀聞」、「采覧異言」に情報提供している

最後の宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは

異例の生涯を送っている。

 正式にロシア帝国からの使者が函館に来たのが、日本の

漂流者を送還する目的であり、先方が国書を渡そうとした

意向に対して長崎以外では受け取れないことを示すと、

長崎には行かずに帰国した(1792年のラスクマン)。

 ゴローニン事件(千島列島測量中のロシア軍艦艦長

を1811年に ​捕縛、2年3ヶ月間の抑留)や、

フェートン号事件(オランダ母国がナポレオン戦争で

フランスに支配されて、亡命したウィレム5世の依頼で

英国はアジアの制海権を
把握しつつあり、

英国船が偽の国旗で商館側を騙した
1808年に ​出島のオランダ商館側と英国船との間の

攻防戦に日本側が巻き込まれた事件)のように摩擦・紛争が

生じて異国船打ち払い令が出されたり、モリソン号事件

(マカオで保護された日本人漂流者7人を帰国させる

米商船を英国船と勘違いして、鹿児島湾、浦賀沖で

1837年 砲撃したことが1年後に判明)の反省で

しんすいきゅうよれい
薪水給与令が出されるなど幕府の対外政策は揺れ動い

ていた。

  開国の親書はオランダのヴィレム2世の1844年
(→幕府)、また、米国東インド艦隊司令官ジェームズ・ビ​​​​ドル
が浦賀に入港し通商を1846年に求めたが出島に行くよう
指示されて帰国した。

日本人に英語を教えるため
 1849年に、難破捕鯨船員と密航者ラナルド・

マクドナルドの返還を求めた米海軍士官ジェームズ・

グリンの強硬姿勢で長崎奉行は仲介する。

 1853年米国は東インド艦隊司令官ペリーは蒸気船

で来航し開国を求める米国大統領国書を提出して帰国。


(5)開国:




と3月末に日米和親条約(下田、箱館の開港)、8月に

日英和親条約、12月には日露和親条約の締結。

 1856年7月米領事のタウンゼント・ハリスが

修好通商条約締結のために来日、翌年10月江戸城へ

登城、老中堀田正睦は朝廷に内奏するが勅許をえられず、

13代将軍家定の後継問題で南紀派・一橋派の抗争となる。

 1858年大老井伊直弼は日米修好通商条約を締結

(同様の条約を英、仏、オランダ、露とも結ぶ・・・

安政5カ国条約。1859年には箱館、横浜、長崎が

開港され、貿易相手国は英国が主、輸出品は生糸や茶、

輸入品は毛織物、綿織物や艦船や武器が主であった)、

紀州藩主徳川慶福を14代将軍にした(安政の大獄、

桜田門外の変)。

 攘夷運動が高まり、安政五カ国条約は日本にとって

不平等な内容を含んでおり、金銀交換比率の内外差

による金の流出、外国人が絹を購入することで物価が

高騰し、尊王攘夷運動の激化、一揆、打ち壊しなどを招き

1860年に幕府は五品江戸回送令を発し貿易の統制を

図ろうとするが失敗する。

 江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩中心の明治政府も、

明治2年(1869年)政府として改めて開国を決定して、

以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となる。

 領事裁判は1899年に撤廃、関税自主権は1911年

に獲得。

​​





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Last updated  Apr 11, 2021 07:04:59 PM
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