2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全9件 (9件中 1-9件目)
1
国家が強大になり、宗教や思想など個人幻想の世界は、ますます個の観念の奥へとしまい込まれる時代になってきた。 現実界に思想や宗教が支配していた時代が去り、第二次世界大戦以後は確実に現実界支配の届かないところへと、思想が追いやられている。 資本主義社会は競争社会だ。そのため私たちは競争に勝とうと他の組織と戦い、自分が強大になることで経済界を牛耳ざるを得ないところへと追い込まれてしまう。支配管理機構の上位に立つほど競争原理の勝者扱いとなる。教育が相手より成績優位者をより上位とするのはこの資本の論理、資本者着社会の競争原理が教育を支配していると言って良い。こう考えると、親が我が子のみの立身出世を願い、喜ぶのはすべてこの資本者着社会での意識作りから来ている。この原理は資本主義社会そのものが変わらない限り、打ち消すことのできない根幹の思想ということになり、私たち人間を捉えて放さない。 この原理そのものを否定して平等を実現しようとしたのが共産主義思想だ。しかし、これを実行していく過程に、大きな誤りがあったために、その前段階といわれる社会主義国は破綻していった。しかし、原点の意図はけっして悪い物ではなかった。 現在の資本主義が完全な制度とは言い難いが、私たちはその制度に手を加えることで、改善なり改革をしていくべきテーマも山積していることは確かだ。
2008年02月29日
コメント(3)
●感じられるおかしな現象 近年、こども達のモラルが薄れ、おかしいと感じる事例はあちこちで見られる。 小学校では「あいさつをしない子供」あるいは「きちんと上履きが履けない子供」が目立つようになったという。 教育現場では椅子に座らない生徒、絶えずしゃべりながら勉強を受ける生徒、酷いと授業中立ち歩いて外出までする。大学では、授業を聞かず、携帯電話画面から目を離さない学生が増えているらしい。 モラル崩壊は子供だけではない。保育園では、遅くまで子供を迎えに来ない親が目につくようになった。入学式や学級参観で、こどもの授業を見るどころか、自分のおしゃべりに夢中な保護者もいる。給食費を払わずとも平然としている。親から子へ道徳心の薄れは広がる様相だ。 かつては、朝から晩まで近所の子供たちが外で遊ぶ姿が見られた。異年齢の仲間のなかで自然に学ぶことが多かった。だが、ゲームやネット世代の子供たちは、人と話すより、機械相手に遊び、友人らとのトラブルに対応する方法が分からない。そうして育った子供達が親となる。だから親自身も地域と交流したがらず、きちんとあいさつのできない大人が少なくない。●社会環境の変化 戦後の経済復興から日本の社会も大きく変化してきた。その変化の要因がこうした結果を引き起こしていると言える。例えば核家族化は一世代住宅という小型の家族を生み、上の世代との同居から学ぶ機会を失うことになった。女性の社会進出は子育てにかかる時間を少なくし、少子化の原因ともなっている。テレビの普及は家族との会話の時間をなくし、さらに進んでテレビゲーム、パソコン、携帯電話の普及は親子の対話、家族の絆を奪うことに拍車をかけている。こども達はメディア、ゲーム、インターネットから学習する機会を多く持つようになっている。 かくして儒教思想などは、戦後60年を経過して見事にに消えてしまった。これらの現象は先進諸国に共通の大きなテーマとなっている。 暴力やセックス、内容のないメディア放送などが彼らの学習の基礎となっている。こうした環境に育ったこども達が大人となり、家庭を持ち、新しいこども達の教師指導に関わり、日常的に接している。凶悪事件の低年齢化などで「心の教育」が失われ、学校教育では「いじめ」などの批判をおそれ、正面から指導することすらためらっている。●どう取り組むと良いか日常のルールやマナーの基本を家庭の親、学校、地域社会がしっかり伝える。また地域ぐるみで子育てに取り組むとともに、伝え合い協力し合う地域教育力を付け、孤立せずに相互に心の手を握り合う連携の構築こそがが、唯一この進行を食い止めていける手段ではなかろうか
2008年02月28日
コメント(0)
11111 (一万一千百十一) 一万の 1 は 毎日 一万歩を歩く。 千の 1 は 毎日千文字を読む 百の 1 は 毎日 百文字を書く 十の 1 は 毎日 十回笑う 一の 1 は 一日一回 お通じがあるこうすれば 長生きができる。
2008年02月20日
コメント(5)
1 言語の本質 夢は「言語」で理解されている潜在的思想が「像」に置きかえられたものこれが複雑なのは、両者の象徴の対応が複雑だからだ同時にフロイトのいう人類が生命史を持っているのと同様に、夢にも太古からの像が内在しているという。人間は、現実的意識としての音声表出を、人間的な意識の自己表出としておこなうようになったとき、初めて自分を動物と区別し始めた。無言語原始人が、動物社会よりも高次な生産関係を持つ高次な共同社会を営むようになったとき、甲が乙を労働にさそったり、共通の利害に呼応したり、男女がもとめあったりする叫び声の音声も、高次な編み目を持つようになり、そのため器官への固定作用が高度になって、特別の有節音が、特定の信号としての機能を持ち、ついに共同社会の約定のようになったものとして特定の音が特定の事物を指示するものとしてあらわれた。 <自己表出> 自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に「幻想」の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準を決めるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度となることができる。言語はこのように対象にたいする指示と対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性としとて言語本質をなしている。 労働の発達は、相互扶助、共同的な協力の場合を増加させ、社会の成長を相互に近づかせるようになる。この段階では、社会構成の編み目はいたるところで高度になり複雑化する。これは人類にある意識的なしこりをあたえ、このしこりがある密度をもつようになるとやがて共通の意識符牒を抽出させるようになり、有節音が自己表出されるようになる。人間的意識の自己表出は、そのまま自己意識への反作用であり、それはまた他の人間との人間的意識の関係づけである。 言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりを含むようになり、それが発達して自己表出として指示性をもむつようになったとき、はじめて言語とよばれるべき条件を獲得した。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。 言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことはなかった。やや高度になった段階でこの現実的反射において、人間はさわりのようなものを感じ、やがて意識的にこの現実的反射が自己表出されるようになって、はじめて言語はそれを発した人間のために存在し、また他のために存在することになった。 こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、自己をふくみながら自己にたいする存在となり、それは自己自体をはらむといってよい。
2008年02月19日
コメント(0)
■変化した社会道徳心■ ●感じられるおかしな現象 近年、こども達のモラルが薄れ、おかしいと感じる事例はあちこちで見られる。 小学校では「あいさつをしない子供」あるいは「きちんと上履きが履けない子供」が目立つようになったという。 教育現場では椅子に座らない生徒、絶えずしゃべりながら勉強を受ける生徒、酷いと授業中立ち歩いて外出までする。大学では、授業を聞かず、携帯電話画面から目を離さない学生が増えているという。 モラル崩壊は子供だけではない。保育園では、遅くまで子供を迎えにこない親が目につくようになった。入学式や学級参観で、こどもの授業を見るどころか、自分のおしゃべりに夢中な保護者もいる。給食費を払わずとも平然としている。親から子へ道徳心の薄れは広がる様相だ。 かつては、朝から晩まで近所の子供たちが外で遊ぶ姿が見られた。異年齢の仲間のなかで自然に学ぶことが多かった。だが、ゲームやネット世代の子供たちは、人と話すより、機械相手に遊び、友人らとのトラブルに対応する方法が分からない。そうして育った子供達が親となる。だから親自身も地域と交流したがらず、きちんとあいさつのできない大人が少なくない。●社会環境の変化 戦後の経済復興から日本の社会も大きく変化してきました。その変化の要因がこうした結果を引き起こしていると言える。例えば核家族化は一世代住宅という小型の家族を生み、上の世代との同居から学ぶ機会を失うことになった。女性の社会進出は子育てにかかる時間を少なくし、少子化の原因ともなっている。テレビの普及は家族との会話の時間をなくし、さらに進んでテレビゲーム、パソコン、携帯電話の普及は親子の対話、家族の絆を奪うことに拍車をかけている。こども達はメディア、ゲーム、インターネットから学習する機会を多く持つようになっている。 かくして儒教思想などは、戦後60を経過してきれいに消えてしまった。これらは先進諸国に共通の大きなテーマとなっている。 暴力やセックス、内容のないメディア放送などは彼らの学習の基礎となっている。こうした環境に育ったこども達が大人となり、家庭を持ち、新しいこども達の教師指導に関わり、日常的に接している。凶悪事件の低年齢化などで「心の教育」が失われ、学校教育では「いじめ」などの批判をおそれ、正面から指導することすらためらっている。●どう取り組むと良いか日常のルールやマナーの基本を家庭の親、学校、地域社会がしっかり伝える。また地域ぐるみで子育てに取り組むとともに、伝え合い協力し合う地域力を付け、孤立せずに相互に心の手を握り合う連携の構築こそがが、唯一この進行を食い止めていける手段ではなかろうか。
2008年02月18日
コメント(1)
吉本思想を理解するにあたって、三つのキーワードをあげた。「幻想」、「大衆の現像」そして「非知」である。相手の書物を批評するとは、批評する側の知性がほとばしり出てくる。書評の難しさは、自分の言語領域で、向かいあった著者の書いた書物のレベルを理解し、思考した内容をたどり、知の社会的位置づけを自分の力量と構想力で作り直して見せなければならない。 もちろん、彼の構想力はひときわ際だっている。その力が随所に新しい歴史的な思想を打ち立てている、考えることがこれほどおもしろいものなのかを身をもって提供してくれているとともに、本人は産みの苦しみを負いながらも、十分な手応えを感じ、不安と裏腹に充実感を感じているに違いない。あるいは、自分がとてつもない領域に足を踏み入れていると感じながら、ときには戦慄と恐怖を知力で押さえ込もうと、もがいているのかもしれない。 歴史という時間をたどり、その思想が人々のこころを捉えていく内に、彼が意図した内容とは違う方向に動き出してしまう体験もしているはずだ。また、その誤解された思想の模写像に攻撃をかける敵手が大衆を扇動したり、ありもしない曲解が批判の材料にさらされることなど日常茶飯事に違いない。言葉の重みと軽さ、視点の違いと意図的妄想が無数に空を飛び交う。知性は溢れかえるが、ほとんどの考えが、人身を惑わすガラクタだとは誰も気づかない。その思想の怖さを知り尽くした吉本が「非知」を目指すことの意味をどれだけの人間が汲み取れることだろうか。 今、自分の考えを信じて敵に論戦を挑んだとしても、勝敗の行方より、帰結する利益が誰のためのものか。あまりにも個人的なエゴのためではなく、あるいは現に国家の意図に乗じて戦争に荷担することに微塵の疑念も抱かない大衆でもない。それこそが吉本が手にした、共同体の幻想にも揺れることのない「大衆の現像」に他ならない。 吉本は「共同幻想論」で、国家と社会がまだ明確になっていない、はっきりと分離していない萌芽期の、共同性を人類が獲得していく過程から国家を分析し始めた。やがて国家的な部分は政治や軍事を担い、社会は日常生活の習俗として社会に分離していくことになる。村落共同体の長老会が村落の運営、方針を決め、規則、秩序や禁止事項の保守義務を執行し、それが発達していくと政府や国家に至る。その下部構造としての社会が今週や国民となり、長老会に権力闘争の勝者が入ることで支配被支配の関係が生じてくる。これらが民族国家、あるいは国民国家へと変化していくことになる。ただ、この国家形成が社会を混合する程度の度合いにより、国家の多様性が世界に現存している。このあたりまで「共同幻想論」以降の論究で吉本は分析し尽くしている。 民族とはなにか。これは曖昧にせず確認すると、方言はあるものの統一の標準言語が通用すること、異人種でも共通の風俗習慣を持つこと、そして考え方が社会内に一般的に通用すること。これらが満たされれば同一民族といえる。つまり、現代は民族国家が多くを占めていることが分かる。 共同幻想は個人幻想とは逆立する。これは何を意味するのか。分かりやすい例では、小泉純一郎政権下での「郵政民営化」(本当はこれだけではなかったのだが)の民意を問う衆議院解散総選挙で、自民党は民営化反対派に刺客を送り、組織として個人を排斥した。その露骨な徹底ぶりには、不快感を抱かれた方も居たに違いない。党や組織の規律を守るために共同体が個人に牙を剥いた分かりやすい例になろう。実際には、戦争をあげるとさらに理解できるはずだ。ある民族国家が領土侵犯を犯し、両国が戦闘状態に入ったとする。ある個人が徴兵されたとき、仮に敵国に親族が居ることから徴兵拒否をしたとする。これは国家の強制力に対する服従義務違反として犯罪行為となる。イラクのアメリカ兵はアルカイダを殺すしかない。太平洋戦争での特攻隊を思い出してみていただきたい。死刑宣告された犯罪者にもいえる。好むと好まざるとに関わらず、国家は個人の生命をも自由にできるということになる。まさにこれが共同幻想は個人幻想に逆立するということの意味である。 国家の起源は、部族連合が拡大して国家が機構として誕生する、という定説を吉本は覆している。村落共同体内の長老会などの支配層にある血縁親和の共同性は、そのままでは血のつながりがかえって話し合いなどで合一しやすく、それ以上に権力を集中したり、組織を統合して強大化していく根拠にはならないという。この前段階では、宗教性を持った村落の長の死とともに兄弟姉妹が継承し、姉妹が祠祭を担い、兄弟が実質的な現実の政治の部分を継承していくことは「共同幻想論」で述べられている。それ以後の国家形成は、血のつながりのない部族統合が鍵といえる。村落の支配層が村民の意志から分離して独自に軍隊をつくることによる。こうして、他部族を統合しても、軍部の制圧が他民族、ひいては自身の部族の民を従わせていくことで権力機構の基礎が作られるとする。血縁がなくなることで長老会などを無視し、その親和力をも壊していくことで伝統的な親和を無効にする。こうして軍事力を掌握した新たな支配層は、自己利益を追求するために既存の長老会の助言、仲裁などのすべてを拒否して、薄情な中央集権的権力機構の基礎を完成する。 ここでは、支配層に既存の長老の一部が入っていることで、より部族を統合しやすくなる。国家の起源のドラマが見えてきたのではないか。
2008年02月18日
コメント(0)
子供達(おもに小学生)のために既成の教育だけではなく、地域・大学を巻き込んだ新しい教育の場を提供し、彼らの好奇心と創造性を育てるプロジェクトを立ち上げています。これは、日本で初めてのものです。ご期待ください。興味のあるかたはコメントを・・お待ちしています。
2008年02月09日
コメント(5)
本やタウンhttp://www.honya-town.co.jp/hst/HT/index.html ここで購入できます。
2008年02月04日
コメント(7)
(1)TUTAYA online http://www.tsutaya.co.jp/item/book/(2)紀伊国屋bookweb http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/(3)セブンアンドワイ http://www.7andy.jp/books 上記のサイトで 1470円+送料にて購入できます。
2008年02月02日
コメント(2)
全9件 (9件中 1-9件目)
1