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今日、用事があって銀行へ両替に行った。1000円紙幣を100円硬貨10枚に両替するためだ。まず、両替にその銀行のキャッシュカードか通帳が必要だと言われた。あいにく持っては居なかった。すると、両替手続きの記入用紙を渡され、書くようにと言われた。たかが、1000円を両替するのに銀行となると、なんと手続きがめんどうだなと思いながら、順番待ちのカードを引き抜く。座ること20分、こんなに待たされなら辞めれば良かったと悔やみつつ、呼ばれるのを待っている。どうにか1000円を崩したが、「なぜこの銀行に口座があるかどうかを尋ねたのか」と確認してみた。すると、口座がないばあいは、両替手数料を支払わねばならないとのこと。幾らなのかと聞き返すと、「もし1000円の両替をするなら300円の手数料がかかる」という。思わず驚いて息を飲んだ。1000円を崩してもらうと700円しか戻らない。なんということだろう。ちょっとした親切で両替を快くやってくれる商店主はよく見かける。当たり前に接してきていた。ところが、今の銀行はそんな親切心などは全くなくしてしまっている。どうしたことだろう。こんな小さな現象でも、何か世の中に大きな変化が起きていると感じるようになった。無視できることではない。貨幣流通社会において両替しにく環境は、大きな障害を引き起こす。ところがカード社会は小銭をも必要としなくなっている。デジタル化とカード社会は現金の交換がなくても実質的な交換が可能となっている。便利さと引き替えに、人の心のやりとりは省略されている。振り込め詐欺などの騙しの手口も巧妙になり、金融機関も国の指示で顧客被害防止から、1日1回の引き落とし額あるいは、振込額を制限している。貨幣経済の時代に窮屈な思いが始まった。
2008年03月26日
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我が家のペット チビ(猫)との想い出 名前を呼ぶと、チビはしっかりとした目つきで私の顔を確認してから、ゆっくりとこちらに歩いて来るようになった。テレビのある居間で、ダラリと横になっているとき、強引にチビが腕枕できるように抱き寄せると、その行為が習慣となった。呼べば近くに来て、どこかしら自分の体を私に密着させて寝てくれる。そんなときチビの頭に耳を着けると柔らかな毛の感触と生きている温もりが伝わる。しかもゴロゴロと喉を鳴らしている。そんなとき、チビの喜びの感情が直接伝わる。嬉しくて心地よい一時をお互いに共有できていると感じる時だ。ペットからの癒しは、この気持ちの通い合いがあって、初めて膨らむ委ね合いではないか。人間とペットとの心の交流は、想いの交換を間違いなく含んでいる。 仕事柄、私の帰宅時間はだいたい夜9~10時。玄関ドアを開け、暗い部屋で荷物を置く。「チビ、ただいま!」と暗闇に声を掛ける。だいたいは丸くなって寝ている。たまに、玄関先で出迎えてくれる。チビの表情に変化は伺えないが、帰宅して出迎えてくれる相手がいるということは、家に戻る人間にとっては、この上なく喜びになる。それが日常化するすると、居ない方がかえって寂しい孤独感に襲われる。これは人間同士でも同じことがいえよう。 目が見えないときから育ててきたためもあり、自分の肉親は人間だと思いこんでいるに違いない。こちらが話しかけているときも、チビは猫語で自分なりに応えて来る。本人としては私と会話をしていると思っているはずだ。きっと、自分を人間だと信じ込んでいる。もし、君は猫で人間ではないのだよということが理解できたとき、もしかしてショックを受けるのだろうか。 あるときから、カリカリの固い餌を食べなくなった。缶詰か鰹節、煮干しか人間の食べたおかずの食べ残し。一度舌になじむと、味覚が極度に偏食。その種類しか食べずやがては、その種の中の一品のみに絞られてしまうほどの偏食。水ばかり飲むようになってきた。 チビを拾った場所は我が家の窓の下。だから、チビが死んだら拾った同じ場所に埋めてあげようと思っている。今までありがとう。君がいたから癒されてた。言いたくないけど、孤独になってしまったとき、君が心を慰めてくれていると知った。それ以来、僕にとって、君はかけがえのない大切な友でもあり、大好きなペットとなった。だから、君が死ぬと、また僕はひとりぼっちか。アイスを溶かした水が、一番気に入ったみたいで、今夢中で飲んでいる。その後ろ姿も、まもなく見られなくなると思うと、無性に愛しくなるよ。この姿をしっかり、僕の目に焼き付けておくね。 皮膚が水分をすっかり失ってきた。そのためか、けが立つようになってきた。撫でてあげると、僕の手にはやせ細ってきた君の体が直に伝わってくる。何か、食べてくれ二位と。指にペースト状のえさを載せて、またいやがる口を無理矢理に開けて、口腔内の上部に塗るように付ける。それで食べてくれている。よし、とまた続ける。 仕事で家を空けると心配だ。少しでも食べさせないと、何も食べていないはず。ほとんど我が家の外に出たことがないから、たまには外の景色を見せてあげようと、チビを抱いてドアの外に出た。散歩の犬が通り、トラックが轟音を上げて通る。チビは、たちまち驚いて僕の腕からとっさに逃げてしまった。といっても、初めての外の世界。まさか、どこへも行くまいと思ったのが大間違い。素早く我が家の裏の方へ、敷地を出て隣の家の庭に消えてしまった。 血液検査、尿検査の結果 H19.11.3 検査項目 検査結果 正常値 GLU 317 (69~146) 糖尿病、慢性膵臓炎、副腎機能障害 BNU 140 (17~40) 脱水、腎障害 心不全副腎皮質障害 CRE 5.9 (0.6~2.0) 腎障害 尿道閉塞 NH3 325 ( ~172) 肝障害 GPT 54 (29~84) 肝腫瘍 一度は食欲も回復し、元気になったと思えてきたが、年を越し2ヶ月ほど経過するうちに再び食欲が落ちて来始めた。本人は食欲はあるが、食べ物を前にすると減退する。空腹感は体内にたまる尿素とは別にもののようだ。ついもはいないテーブルの下に丸くなってうずくまるようになった。以前飼っていた雑種の犬が、体調が悪くなり始めてからは、いままでいたことのない場所に体を横たえたことを思い出した。一生懸命体を撫で、水分が失われて起毛している毛を寝かせてあげるようにと全体を撫でる。しかし、あまり気分がよくないのか避けたがるように私の腕からすり抜けて行くようになった。
2008年03月14日
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前号で吉本思想を理解するにあたって、三つのキーワードをあげた。「幻想」、「大衆の現像」そして「非知」である。相手の書物を批評するとは、批評する側の知性がほとばしり出てくる。書評の難しさは、自分の言語領域で、向かいあった著者の書いた書物のレベルを理解し、思考した内容をたどり、知の社会的位置づけを自分の力量と構想力で作り直して見せなければならない。 もちろん、彼の構想力は取り分け際だっている。その力が随所に新しい歴史的な思想を打ち立てている。考えることがこれほど刺激的で楽しいものなのかを身をもって感じさせてくれている。と同時に本人は産みの苦しみを負いながらも、十分な手応えを感じ、不安と裏腹に充実感を感じているに違いない。あるいは、自分がとてつもない領域に足を踏み入れていると知りつつ、ときには戦慄と恐怖を知力で押さえ込もうと、もがいているのかもしれない。 人類の知の歴史という時系列をたどり、その思想が人々のこころを捉えていく内に、思想家が意図した内容とは違う方向に動き出してしまう体験もしているはずだ。また、その誤解された思想の模写像に攻撃をかける敵手が大衆を扇動し、ありもしない曲解が批判の材料にさらされることなど日常茶飯事に違いない。言葉の重みと軽さ、視点の違いと意図的妄想が無数に空を飛び交う。知性は溢れかえるが、ほとんどの考えが、人身を惑わすガラクタだとは誰も気づかない。その思想の怖さを知り尽くした吉本が「非知」を目指すことの意味をどれだけの人間が汲み取れることだろうか。 今、自分の考えを信じて敵に論戦を挑んだとしても、勝敗の行方より、帰結する利益が誰のためのものか。あまりにも個人的なエゴのためではなく、あるいは現に国家の意図に乗じて戦争に荷担することに微塵の疑念も抱かない権力者達や大衆でもない。それこそが吉本が手にした、共同体の幻想にも揺れることのない「大衆の現像」に他ならない。 吉本は「共同幻想論」で、国家と社会がまだ明確になっていない、はっきりと分離していない萌芽期の共同性を、人類が獲得していく過程から国家の分析を開始した。やがて国家的な部分は政治や軍事を担い、社会は日常生活の習俗として社会に分離していくことになる。村落共同体の長老会が村落の運営、方針を決め、規則、秩序や禁止事項の保守義務を執行し、それが発達していくと政府や国家に至る。その下部構造としての社会が大衆や国民となり、長老会に権力闘争の勝者が入ることで支配被支配の関係が生じてくる。これらが民族国家、あるいは国民国家へと変化していくことになる。ただ、この国家形成が社会を混合する程度の度合いにより、国家の多様性が世界に現存している。このあたりまでを「共同幻想論」以降の論考で吉本は分析している。 民族とはなにか。これは曖昧にせずに確認すると、(1)方言はあるものの統一の標準言語が同一地域内に通用すること、(2)異人種でも共通の風俗習慣を持つこと、そして(3)考え方が社会内に一般的に通用すること。これらが満たされれば同一民族といえよう。つまり、現代は民族国家が世界で多くを占めていることが分かる。 共同幻想は個人幻想とは逆立する。これは何を意味するのか。分かりやすい例では、小泉純一郎政権下での「郵政民営化」(本当はこれだけではなかったのだが)の民意を問う(?)衆議院解散総選挙で、自民党は民営化反対派に刺客を送り、組織として個人を排斥した。その冷酷で露骨な徹底ぶりには、不快感を抱かれた方も居たに違いない。党や組織の規律を守るために共同体が個人に牙を剥いた分かりやすい例といえる。実例として戦争を取り上げると、さらに理解できると思われる。ある民族国家が領土侵犯を犯し、両国が戦闘状態に入ったとする。ある個人が徴兵されたとき、仮に敵国に親族が居ることから徴兵拒否をしたとする。これは国家の強制力に対する服従義務違反として犯罪行為となる。イラクに派遣されたアメリカ兵は敵であるという理由でアルカイダに属する人間を殺すしかない。また太平洋戦争での日本軍の特攻隊を思い出してみていただきたい。国家という共同体のために一個人は犠牲となって命を落としてしまった。これは、本人が望むと望まざるととにかかわらず、本質的に共同幻想が個に逆リッしてしまう分かりやすい例といえる。死刑宣告された犯罪者にもいえる。原爆投下のスイッチを押した空軍兵も、敵国という理由で大量殺戮を犯した。ナチスはユダヤ人という異民族を理由に、やはり人類史で最悪の大量殺人を犯している。国家は個人の生命をも自由にできるということになる。まさにこれが共同幻想は個人幻想に逆立するということの本質的な意味である。
2008年03月14日
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財政は、自治体だけの利益で考える時代ではなくなった。 国からお金がもらえるから、国から資金調達ができるから、それをいただいて自治体は湯水のように自由に税金を使って良い。最早、そういう時代ではない。 すでに国時代が財政破綻しているといって良い。自治体は国の全体の財政をふまえ、自己利益だけで動くのではなく、財政運営しないと行けない時代に突入している。 まさに、わずかなCO2排出のはずが地球全体の危機をもたらしてしまう時代になってきているのと同じように。
2008年03月07日
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