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最近は小泉進次郎が「大学に行くのがすべてじゃない」「手に職をつければ大学を出てからの所得と遜色なく稼げるようなキャリアが今は作れる」等と言って批判されている。というわけで徒然なるままに進学と就職について考えることにした。●いまどきの高校生がアホすぎてつらい私のいとこの子供が偏差値40台の高校の普通科の三年生で、偏差値40台の大学の総合型選抜入試を受験するのでプレゼンを見てくれと言うので見てやったらだいぶひどいものだった。二つ質問すると一つしか返答しない、二つ修正しろというと一つしか修正しないのでもう一回指摘しないといけない、正しい引用の仕方を教えても「そこまでやる必要あるんですか?」と面倒くさがってその通りにやらない、調べればすぐにわかるような事実を調べないで既にあるものを自分が思いついたすばらしいアイデアのように言う、自分で考える前にどうすればいいのかと丸投げの質問をする、実現不可能な案の大枠だけ考えて細部を突き詰めて考えようとしないのでなぜ実現不可能なのか理解していない、間違いを指摘しても素直に認めない(あるいはなぜ間違っているのか理解していない)、俯瞰して全体の構図を見ることができない、「費用対効果」の意味をわかっていなくて無駄に費用と時間と労力がかかる非効率な方法をやろうとする、「論理的」の意味をわかっていなくて論理が一貫した主張ができなくて論旨と逆の結論を出す、「独創性」の意味をわかっていなくて独創性を出すのが難しいと言って逆切れするような感じで、私が助言しなかったらプレゼンの形にさえ仕上げられない有様だった。事実を把握して因果関係を考えて論理的に実現可能な意見を言う能力が弱いようで、マッキンゼー流のピラミッド・ストラクチャーで事実に基づいて根拠を集めて主張をするのだよ、As-is(現状)とTo-be(理想)のギャップから課題を抽出するのだよ、実行できないアイデアは机上の空論だから思い付きを言いっぱなしにせずに検証して実行可能なものに修正するのだよ、と考え方の基本から教えてやらねばならなくて、無事プレゼンが終わったらたいそう感謝された。このレベルの生徒を何十人も指導する偏差値50以下の高校の教師は大変だなと思った。子供の読解力の低下について考えると子供の国語力低下について考えるという記事でも考えたけれど、国語力が低いのは想像していたよりも深刻な問題なのだなと高校生に接してみてわかった。国語力が低いので「頭痛が痛くて大変なのは大変だ」とかの小泉進次郎構文みたいな二重表現でプレゼンが冗長になって、要点を理解していないのでプレゼンを簡潔にまとめられなくて、メタ認知能力が低くて他人の視点で自分の主張がどう見えるかをとらえなおして修正することができなくて、指導しても言葉の意味を十分に理解できないので「一を聞いて十を知る」どころか0.7くらいしか伝わっていなくて指導が非効率になって、自分の主張の意味を自分でもよくわかっていないのでダメ出しされると落ち込んで自信や楽観性とかの非認知能力も低くなって打たれ弱いようである。一人の例で世代全体のことは言えないけれど、スマホを通じて世界を見て、ファンタジー世界の漫画やアニメやゲームを消費してきた子供は現実世界を直接観察して実際の物事の仕組みを追求する姿勢が欠如しているのかなと思う。●大学に行くメリット・民度の向上1万年前の人類と現代人は脳の大きさに大きな違いはないけれど、現代人が高度な文明を作れたのは身体能力が進歩したからではなくて、再現性がある科学の知識と技術を長期間蓄積してきたからである。狩猟採集生活をしていた頃はどの季節にどの場所にどんな食べ物があってどんな危険な生物がいるかとかを全部覚えていたので現代人よりも若干脳が大きかったそうだけれど、それは再現性がない知識で、一つの場所で食料が乏しくなって他の土地に移動したら食料がある場所をまた覚えなおさないといけない。ところが農業は再現性がある知識である。種から作物を栽培しようと試行錯誤して、どの時期にどういう土地に種を撒けば芽が出るかという科学的知識を手に入れると、あとは同じ条件下ならどこでも作物を育てられるようになる。さらに粘土板やパピルスや木簡や紙とかで後世に知識を伝える手段ができると、世界各地で知識を蓄積して一挙に文明が発展しだした。再現性がある知識を蓄積できるようになるとゼロの概念や車輪とかを頑張って再発明する必要がなくなって、新しく生まれてきた子供たちは文明を維持するための仕組みを学習するだけで済む。そのためにたいていの国では国が費用をだして基礎教育をしているし、その教養のレベルが国の民度になる。OECDの中で日本は公的支出の割合が最低レベルで、OECDが「日本は公的な支出の中で教育費が占める割合が低く、将来世代よりも、高齢者に対してより多く投資している現状がある。日本は若者が減っていくからこそ、教育の質を高め社会を支える人材を育てる必要がある」と忠告したのがニュースになったけれど、それでも国民性として教育熱心な風土なので公的支出がなくても家庭の努力でそれなりに民度が保てている。大学退学率で比べると日本が一番低くて10%で、いったん大学に入学した人は家計の急変とかがないかぎりほとんど卒業している。他の国に比べて退学の基準や学位の審査が緩いというのもあるけれど、それでも4年間まじめに授業を受けている人が多いと言える。GLOBAL NOTEの「世界の大卒比率 国別ランキング・推移」によると日本は大卒人口が世界でも高い方で、25-64歳以上の半分以上が大卒である。国全体の民度を高めるという点では私立のFランク大学でも進学しないよりは進学するほうがよい。・批判的視点の形成高校までの教育では、正しいとされている知識を覚えなさい、偉い先生の言うことを行儀よく聞きなさいという最低限の知識を教えるだけで批判のやり方を教えないし、批判すると素直でないとみなされてマイナス評価にさえなりかねい。クリエイティブであるためにはクリティカルであることが必要で、現状を肯定して批判をしないのでは改善もできないので、クリティカルシンキングができるかどうかでその後の伸びしろも変わってくる。じゃあどこでクリティカルシンキングを学ぶのかと言うと、会社でも教えないので、大学で学ぶか独学するかしかない。我々は日常生活でも様々なことに不満を持つけれど、漫然とした不満をそのままで終わらせずに、じゃあどうすればいいのかという提案をして改善しないと不満は解消しないし理想には近づかない。「不満」を学問的に言い換えると「課題」で、大学では課題の分析や解決のための総合的な知識を分野ごとに学べるという点では学習効率が高い。大学で現代文明のパラダイムを学びつつ、そのパラダイム自体を批判する視点を持つことで文明は進歩していく。山口周がクリティカル・ビジネス(社会批判としての側面を強く持つビジネス)を論じた『クリティカル・ビジネス・パラダイム』という本を出版していて、従来のアファーマティブ・ビジネス(既存の価値観を肯定して利得を最大化するビジネス)は持続しないからクリティカル・ビジネスを目指すべきだというようなことを言っているようである。私は超絶貧乏で金がないのでこの本を読んでいないけれど、批判的であることが今後重要になるだろう。20世紀までは批判するのはごく少数の批評家の役割だったけれど、口先で批判するだけでなくてビジネスとして実際に課題を解決してSNSで支持者を増やしていくのが今後の成長モデルになると思う。例えば車の速度を最大化しようとしてF1レースを見世物にしてスポーツカーを少数の金持ちに売るよりも排気ガスや交通事故に批判的になって燃費や安全性を競うほうが幸福度は高くなるだろうし、食べ放題や飲み放題で食欲を最大化しようとするよりもだらしない生活習慣に批判的になって健康的な食事や運動を提供するビジネスの方が幸福度は高くなるだろう。チャレンジについて考えるという記事でも考えたけれど、薩摩藩の人事評価のように批判的視点を持たずにイケイケドンドンを評価するやり方だとリスクマネジメントもできなくなる。高卒で飲食店を起業する人とかはうまくいくに違いないと思い込んで自分に都合がいいシナリオだけ考えて勢いで開業して見込みが甘くてすぐに店を畳んだりするけれど、何かをやろうとするときにメタ認知的に批判する視点を持って改善していくほうが成功の確率が高まって失敗の損害を減らせるだろう。批判的視点を持つことはリーダーになる人には必須の能力と言える。・論理的思考力の向上PRESIDENT Onlineの「20代社員の文章にストレスを感じる人が84.5%…「頭が悪いな」と思われる報告書に共通するパターン」という記事だと、「説明不足」「語彙や表現が合っていない」「文が無駄に長い」「筋道が立っていない」「主語がわからない」などが原因で文章がわかりにくいようである。上記のいとこの子供もプレゼン原稿の主語が不明なパターンが多くて、この社会的課題を解決するにはこれをやればいいという案を出すけれどいつ誰がどこでどうやるのか不明で、5W1Hがわかるように説明しろと何度も指摘しないといけなかった。たぶん日常会話やSNSのチャットだと主語が自分だと明らかなので主語を省くのが日常化して、三人称の文章でも自分にはわかっているつもりで主語を省いて、それでは他人には伝わらないことがわからないのかもしれない。読書して知識を増やしたり年を取るにつれて人生経験を増やすだけなら誰でもできるけれど、社会人はせいぜい短いメールや報告書を書く程度で長文をアウトプットする機会はあまりないので、ただ仕事をするだけだとアウトプットする能力が育ちにくい。芸能人のSNSはしばしば行間がスカスカで年齢に似合わないような幼稚な短文だったりするけれど、幼少期から芸事ばかりやってきて文章を読み書きする機会が乏しいので論理的構成がある長文を書けないのだろう。いくら人生経験が豊富でも、アウトプットが貧弱なのでは情報や意見を効果的に伝えられない。上記のように文明は知識や技術の蓄積で成り立っているけれど、インプットだけでなくてアウトプットも正確にしないと後の世代に知識や技術を伝えられなくなってしまう。職人の世界でしばしば見て覚えろと言うけれど、こういうのは見る必然性があるならまだしも指導者に暗黙知を言語化する能力が欠けている可能性があって、いくら指導者自身に優れた知識や技術があってもそれを言語化して伝えられないのでは指導が非効率である。大学だとレポートや論文を書かないと単位や学位を貰えないので、セメスターごとに学習内容をアウトプットする機会があるし、そうすると論理的思考能力が鍛えられていく。大学受験の小論文なんかはしょせん1000字程度でしかなくて、それでは論拠を掘り下げたり自分の主張を展開したりするには文章量が少なすぎるので、4000-12000字程度のレポートを書くのに慣れておけばたいていのトピックに対して論理的に矛盾しない文章を書けるようになるだろう。というわけで、金と時間に余裕があって学びたい分野がはっきりしている人は大学に進学する方が良いと思う。仕事をしながら収入につながらない勉強するのは大変なので、勉強に専念できる環境を得たり、自分の将来や社会についてじっくり考えるモラトリアムの期間を得たり、自分より優れた学生やメンターとなる教授に出会って知的な刺激を受けやすくなって青年期の人格形成に良い影響があると言う点でも有益である。しかし学費に教育の質が見合っているとは限らないので、お金に余裕がない人は無理して奨学金を借金して学費に何十万円も払うよりもその金で専門書を数百冊買って独学するほうがましだと思う。大学に行った後に現場仕事をして手に職をつけるのでも何の問題もないのに、小泉進次郎は高卒でブルーカラーの仕事をするか、大卒でホワイトカラーの仕事をするかみたいな間違った二分法で議論をミスリードしている。例えば経済学を学んだ人が農家になってマーケティングをしてブランド野菜を開発したり、出資者に作物を分配する農地ファンドを作ったりしてもよいわけで、大学に行かないよりは行く方が稼げるキャリアを作りやすいだろう。●手に職をつければ稼げるキャリアが作れるのか社会の変化が緩やかだった時代は職人と呼ばれる職業になれば需要の変動はあるにせよ仕事歴の長さが信頼につながったけれど、今ではどの業界でも技術の進歩によって職が奪われうるので、もはや専門的なスキルがあれば生涯安泰で稼げるという時代ではない。例えば自動運転が実用化されてAIが自動的に最短ルートを割り出すようになったら、運転手の経歴が長くて運転がうまくて道を良く知っていようがそのスキルは評価されなくなる。大工は昔は稼げる仕事だったけれど、木造軸組工法から2X4工法に移行してパネルを組み立てるだけなので人手は必要でもノミで正確にほぞを彫ったりするような高度な技術は不要になっていて、将来3Dプリンタの家が普及したら戸建てには大工自体が必要なくなるかもしれない。翻訳や通訳もかつては専門職だったけれど、政治家の外交交渉の同時通訳とかの高度な正確さが求められる仕事以外はAIで代替できるようになりつつある。冷凍技術の進歩で冷凍食品がおいしくなって、コロナ禍では個人経営の飲食店は商品開発力がなくてテイクアウト需要に対応できなくてつぶれていった。職人になって手に職をつけたところで個人の努力で稼げる額はたかがしれていて、既存の枠組みに適応しても技術の進歩と時代の変化に適応できなければ稼げるキャリアは作れないので、大学に進学して社会を変える側になるほうがもっと稼げるだろう。教育者の藤原和博氏が100万人に1人の存在になる方法として、何かに1万時間取り組んで100人に1人の存在になって、それを15-30年くらいかけて3回やって作った三角形の大きさが100x100x100で100万人に1人の希少なキャリアだと言っている。私はこの考え方でキャリアをとらえる方が良いと思う。梯子や竹馬が2点で接地していて不安定なのに対して、カメラの三脚が3点で接地しているので安定しているように、キャリアを安定させるにも3点が必要だろう。芸能人が典型的で、競争が激しくて代わりは大勢いるので、本業の歌や演技や漫才以外にも何かの趣味に精通しているとかで希少性を出してバラエティ番組に出たりYouTubeをやったりしないと稼げなくなっている。文系のエリートの弁護士も過当競争で稼げなくなっているけれど、例えば外国語ができて国際結婚の離婚訴訟に詳しい弁護士となったら100万人に1人の弁護士として依頼が来るようになるかもしれない。●まとめ議会制民主主義では大多数の偏差値50前後の人たちが選ぶ政治家の水準が国の政策の水準になるので、政治家や官僚だけ大卒のエリートであればいいというわけではない。発展途上国はいくら人口が多くても国民の教育水準が低くて生産性が低くて政治家も汚職まみれなように、国民全体の教育水準を上げないと国は発展しない。我々は生涯に稼ぐ額を競うために生きているのではなくて、幸福になるために生きている。無知の状態から脱することも幸福の条件の一つである。私の遠戚に80代で中卒で左官になって70代まで現場で仕事をしていた人がいるけれど、酔うと「学校に行きたかったな」としみじみと言っていた。ただ仕事をして生活ができればそれで幸福になれるわけではないので、学べる時間や機会がある若いうちにできるだけ多くの事を学んでおくほうがよいだろう。クリティカル・ビジネス・パラダイム 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最近は牛角という焼き肉チェーン店で期間限定で女性を半額にしたら男性差別だとして炎上したので、これについて考えることにした。●割引・値引きとは何か割引とは一定の価格からある割合の金額を引いて安く販売することである。値引きとは一定の価格からある金額を引いて安く販売することである。割引・値引きすると普段よりもお得な感じがするので客を集めやすくなる。新商品の宣伝、新店舗のオープン記念、期末在庫セールとか、販売促進のために期間限定で一時的に割引・値引きされる。恒常的に割引・値引きしたらそれはもはや定価なので割引・値引きとは言わないし、セール開始前の8週間のうち4週間以上は通常価格での販売実績がないと二重価格表示として景品表示法に違反する。●割引・値引きの是非私は企業が割引をやるのは合法である限りどんな理由であれ自由にやればいいと思うし、客がそれを批判したり不買したりする自由もあると思う。例えば相席居酒屋や街コンで男性か女性のどっちかに客の性別が偏ったら営業が成立しないので、どっちかを優遇して客数を調整するのは差別ではなくて営業を成立させるための事業戦略と言えるだろう。すき屋や松屋が深夜料金を取っているけれど、逆に深夜に残業お疲れ割引をやって近所のすき屋や松屋から客を奪うのも事業戦略としてありだろう。携帯電話会社がMNPの新規顧客だけ優遇してスマホ代金を割引して長期契約している人を蔑ろにしているのもそういう経営方針なのだから別によいし、それが気に入らない客は他の会社にMNPすればよいだけである。会員だけ割引したりポイントを付与をしたりするのも会員を増やすための事業戦略で、非会員に対する差別だと怒る人はいなくて特典が欲しい人は会員になればいいだけである。個人経営の飲食店の禿げた店主が禿げた客を励ますために禿げ割引をして禿げた常連客を増やしてピカピカに励ましあってもフサフサ差別として嫉妬して怒り狂うフサフサな人はいないだろう。しかし高級ブランド店がブランドイメージを保つために値下げをしないように、商品やサービスに魅力があるなら割引・値引きをしなくても客が来るので、頻繁に定価から値段を下げないと客を呼べないようなビジネスは値下げよりも質を改善するほうが良いと思う。それにわが社は〇〇を支援しているんだという企業方針でもない限り性別などの属性を基準にして特定の属性を優遇することは反発を生むので、むやみに割引をしないほうがよいだろう。・牛角の炎上の問題牛角の場合はさいたまスーパーアリーナのTOKYO GIRLS COLLECTIONへの出店を記念して9月2日から12日まで限定で女性の食べ放題90品牛角コースが通常3938円なのがアプリ会員で予約限定で半額の1969円になるプロモーションをしたけれど、食べ放題で女性の方が肉を食べる数が4皿少ないというのが理由で半額にするなら恒常的に定価を下げるのが筋で、期間限定で半額なのは企業姿勢として中途半端で、じゃあ普段は女性に対して割高の料金を取っていることを正当化するのかという話になるし、それだと女性客は常連として定着しないだろう。それにたいていの食べ放題は従量制でなくて〇品から選べるという選択肢の多さでコースの値段が変わってくるので、食べる量を理由に割引するのはサービスが一貫していない。男性だって小食の人はいるし、女性だって大食の人はいるのだから、食べる量を理由に値段を決めるなら性別にかかわらずスマホの料金プランみたいに〇皿までは基本料金で〇皿以上は追加料金みたいにすればよい。たかが10日間のプロモーションのために主要顧客の肉好きの男性客に批判されてその後の客数低下や売上減少につながるのであればプロモーションとしては失敗だろう。そもそも牛角がTOKYO GIRLS COLLECTIONに出店するというのがよくわからない。若い女性が行きたがるおしゃれな店というイメージはないけれど、若い女性客を増やしたかったのだろうか。プロモーションをするにしても既存の食べ放題コースで女性だけ半額という安直な手段にせずに、GYUKAKU GIRLS ALL YOU CAN EAT COLLECTIONとか名付けて、有名なモデルの何某ちゃんが選んだ野菜やデザート中心の〇品2000円程度の食べ放題メニューを期間限定で提供するとかだったら男性客からの大きな反発はなかったと思う。服屋で女性向けのスカートを半額で売ったところで男性客は差別だと言わないし男性客でもスカートを買いたい人は買えるように、牛角は女性向けの食べ放題メニューとして売って男性でも注文したい人は注文できるようにすればよかったわけで、牛角の担当者が「女性限定」と「女性向け」の違いを理解していないので不公平感がでて炎上したのだと思う。カンニング竹山の「“これで何で女だけ安いんだよ”って言ってる男に本音を言うと、ケツの穴小さいこと言ってるんじゃねえよ馬鹿野郎!女が安くてもいいじゃねえか馬鹿野郎」というのはマーケティング的にもジェンダー論的にも筋が悪い意見で、ケツの穴が小さい男性を批判しているようでいて女性はケツの穴が大きい男性に庇護されるケツの穴が小さい存在でいいことを容認するような男尊女卑の固定観念を助長しかねない。2000円程度で文句言うなと金額の問題にする意見も筋が悪くて、2000円程度なら性別で差をつけても問題ないのだといろいろな企業が判断して新幹線やホテルやコンサートチケットや家賃やスマホの料金プランやサブスクとかのいろいろなものが男性か女性のどちらか片方だけが安くなると、マクロで見たら大きな差になって社会全体で性差別を助長するようになる。割引金額の大小の問題でなくて、同じ商品やサービスを提供しているのに性別を理由にした割引をすること自体が妥当かどうかの問題である。牛角に対する擁護には女性だけ割引するのは差別でない(女性は食べる量が少ない、企業の自由、等)という主張と、差別だけど文句を言うな(受け入れるのが男らしさ、男性は今まで優遇されていた、男性の方が収入が多い、等)という主張の2パターンの擁護があるけれど、後者の主張は男性差別容認につながるがゆえに問題である。前者の主張も差別の正当化につながる可能性があって、例えば東京医科大学の一般入試で女性を一律で減点したのは女性差別だと批判されたけれど、35歳時点で24%の女性医師が離職しているという厚生労働省のデータを根拠にすれば減点しても差別ではないということになって、今までフェミニストが女性差別だと主張してきたことと整合性がとれなくなる。●優遇のコンセンサスと公平さ日本は建前では男女平等の社会になっているので、男女どちらかの優遇を正当化するには相応の理由がいる。性別は一部の性同一性障害の人を除いて自分の意思では変えないので、性別を理由にした優遇をすると不公平になって差別と言われかねない。昔は男尊女卑で明治政府は女子教育の整備に消極的で女性が進学できなくて女性が差別されていたので、キリスト教徒によって私立の女子大学や短期大学が作られて女性の教育や就職を支援したけれど、現代では大学全入時代になって女子大学が役目を終えていていくつかの女子大学が学生不足で共学になっているので、女性だけに焦点を当てて優遇する必要がなくなっている。もし現代で女性だけ学費を安くするとかの優遇をしたら男性差別と批判されるだろう。昔は映画館でレディースデーがあったけれど、最近はTOHOシネマズとかの大手はレディースデーを廃止している。アゴラの「牛角の女性割引に疑問の声、アメリカでは既に「違法」」という記事によると、カリフォルニア州だとUnruh公民権法というのがあって、裁判所は性別による価格差は有害な固定観念を強化するため、一般的には男性と女性の両方に悪影響を及ぼす可能性があると判断したそうな。日本でもアメリカ的な自立した女性を目指すのであれば、女性であることを理由にした優遇は女性側から拒否するべきだろう。アメリカのアファーマティブアクションでは黒人が優遇される一方でアジア系は一生懸命勉強して成績が良くても入学できない不公平感が強いように、人種を理由にした優遇も性別を理由にした優遇と同様に社会のコンセンサスを得にくい。親の年収が低いけれど成績が良い学生に奨学金を出すのなら機会の平等といえるけれど、性別や人種や国籍とかの自分の意思では変えられない生得的なものを優遇の条件に入れてしまうと、それに納得しない人からはなんであいつらばかり優遇するのだと相応の批判も起きる。ではどういう基準なら優遇のコンセンサスを得られるのか。美術館や遊園地とかのたいていの公共施設では、未成年、高齢者、障碍者に対しては割引している。これは自分で収入を得られない社会的弱者に対する配慮として社会的なコンセンサスがあるし、誰でも子供だった時期があるし、誰でも長生きしたらいつかは高齢者になるし、誰でも事故や病気で障碍者になる可能性があるので、公平な割引である。飲食店の食べ放題では小学生以下の料金が安いけれど、大人と子供は明らかに体格と食べる量が違うので、子供の優遇というよりは食べる量に相応の値段として誰でも納得できるだろう。新規顧客限定の割引なら誰でも新規顧客になりうるので公平だし、長期契約している顧客や常連客への割引で顧客をつなぎとめようとするのも誰でも条件を満たせば恩恵を受けられるので公平だろう。例えばスタンプカードがある飲食店は常連客が来店数や売上に応じて割引とかの特典を受けられるけれど、一見の観光客よりも店の経営を支える地元の常連客に還元するのは社会的な慣習として一般的で、観光客差別だと言う人はいないだろう。誕生日の割引も誰でも年に1回は誕生日があるので公平である。客が少ない時間帯に客を呼び込むために特定の時間や天候が悪い日に割引するのも公平だろう。プロモーションをしたい企業はなるべく公平なやり方をするとよいだろう。
2024.09.06
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