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最近は『アサシンクリードシャドウズ』(Assassin's Creed Shadows)というゲームが炎上したので、これと歴史の改ざんについて考えることにした。●歴史とは何か歴史とは過去の人間生活に起こった事象の変遷・発展の経過である。文字ができる前の時代の歴史は骨や土器や化石などの出土品を解析して、争いがあったか、何を食べていたのか、栄養状態はどうだったのかなどを推測している。文字ができてからは古代人が戦争や天変地異などの何か重要な出来事を後世に残そうとして石や粘土板や紙に記録するようになって、現代人はそれを信憑性が高い一次資料として現代語に翻訳して、他の資料との整合性を考えていろいろな仮説の中から矛盾がない説を史実としている。しかし鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍になった1192年じゃなくてそれ以前だという説が有力になったりして、史実とされて教科書で教えられていたことが後から変わることもある。●『アサシンクリードシャドウズ』の問題『アサシンクリードシャドウズ』はUBIの看板タイトルのアサシンクリードシリーズの最新作で11月15日に発売予定のゲームで、日本を舞台にして織田信長に仕えた黒人の弥助を主人公にしている。しかし畳が長方形でなくて正方形だったり、桜が咲いているときに田植えをしていて豊作だと言ったり、日本向けの動画に中国語の簡体字の字幕が使われていたりして、時代考証が不十分なだけでなくて開発チームや監修者の中に日本人がいなくて日本の文化について根本的に理解していない人が作っているのがわかる有様だった。日本人がこれを見たら違和感だらけでよくある外国人が作った和風ファンタジーだとすぐにわかるし黒人が侍として活躍しようがファンタジー忍者が登場しようが別に気にしないけれど、問題はUBIが史実を忠実に描いたかのように発言したことである。ファミ通のインタビューでは「数年間、専門家の助けを借りていましたが、日本のスタジオとチームでも調査を行いました。異なる種類の情報源を使ってチームが正しく理解し、16世紀の日本の様子を再構築するために必要なすべての情報を持っているかを確認しました。」と言っている。Xboxのインタビューでは「We’re showing real historical figures, such as Oda Nobunaga and a lot of events that happened during that time, so you’re not only playing in feudal Japan, but learning about this fantastic time period.」(織田信長のような実在した歴史上の人物や当時の出来事を忠実に描いているので、封建時代の日本を舞台にゲームを楽しみながら、この素晴らしい時代について学ぶことができます)と発言した。それでゲーマーたちが忠実に描いていないだろと批判して、粗探しが始まって画像の無断盗用や左右反転コピペが発覚して炎上が広がった。専門家でない人なら弥助が侍だったと言われてもふーんそうなんだと思う程度だろうし、私もこの問題が起きるまで気にしなかった。そういえば侍とは何ぞやと考え始めると、主人のために戦えば侍で、主人がいないのは侍でなくて野武士だという広義の定義では弥助は本能寺の変で織田信忠がいる二条新御所で刀で戦った記録が残っているので侍といえなくもないけれど、なんで弥助には三浦按針みたいに苗字(家名)がないの、俸禄はどのくらいなの、なんで資料がないの、といろいろ疑問が出てくる。信長は刀好きで森蘭丸には不動行光、黒田官兵衛にはのちに国宝になるへし切長谷部という名刀を下賜しているけれど、弥助には刀を与えたようだけれど名刀として後世に残っていないのでそれほどお気に入りだったとも思えない。資料があまりないことから見ても弥助はたいして重要な人物ではなかったと思われる。この炎上でUBIの株価が一時的に約15%下落して、UBIは「皆さまのご意見は深く尊重されるとともに、日本の皆さまにご懸念を生じさせたことについて、心よりお詫び申し上げます」「史実や歴史上の人物を再現する目的で作られたものではありません」と声明を出してトーンダウンしている。外国産のフィクションでも真田広之に監修を任せて細部にこだわったディズニーのドラマ『SHOGUN』がヒットしたのに比べて、『アサシンクリードシャドウズ』は発売前から不買運動をされる有様で、いくらフィクションと言えども時代考証は重要である。時代考証をしたうえでフィクションとして面白くするために脚色するのはありだけれど、時代考証がずさんなのはクリエイターの創作姿勢としてだめである。歴史フィクションが好きな人は歴史に詳しい人が多いのだから、ネタ元にリスペクトがなくてろくに調べてない外国人が明らかに不正確な情報を史実かのように語ったら批判されて当然である。●弥助の歴史改ざんの問題UBIの炎上で弥助に関する本を書いていた日本大学法学部准教授のトーマス・ロックリーも批判の対象になった。ロックリーは『Yasuke: The true story of the legendary African Samurai』という本を出版して、Wikipediaやブリタニカを自著に沿う内容に改ざんしていたことが判明した。しかもその主張は根拠がない。本能寺の変で自害したとされる信長の遺体が見つかっていなくて、焼けて身元の判別がつかなくなった説と、遺灰が阿弥陀寺の清玉上人に持ち出された説と、首が原志摩守宗安に持ち出されて西山本門寺に埋められた説があって、いまだに真偽は不明である。しかしロックリーはTIMEの「The True Story of Yasuke, the Legendary Black Samurai Behind Netflix’s New Anime Series」で「Yasuke was in the temple with Nobunaga when he performed seppuku. “There’s no record, but tradition holds it that [Yasuke] was the one who took Nobunaga’s head to save it from the enemy,” Lockley said. “If Akechi, the enemy, had gotten the head and he’d been able to hold up the head, he would have had a powerful symbol of legitimacy.” Lockley explained that an act like that would have given Akechi credibility as a ruler. After the attack on Nobunaga, Akechi did not get much support and was soon defeated in battle. “Yasuke, therefore, by escaping with the head, could have been seen and has been seen as changing Japanese history,” Lockley said. 」と記録はないと前置きしつつも弥助が信長の首を敵から守って日本の歴史を変えたと見られると言っていて、弥助を英雄視している。BBCの「Yasuke: The mysterious African samurai」という記事でも同様に「He was also there on the fateful night one of Nobunaga's generals, Akechi Mitsuhide, turned against him and set the warlord's palace alight, trapping Nobunaga in one of the rooms. Nobunaga ended his own life by performing seppuku, a ritual suicide. Before he killed himself, he asked Yasuke to decapitate him and take his head and sword to his son, according to historian Thomas Lockley. It was a sign of great trust. 」と弥助が信長に信頼されて首と刀を息子(信忠)に届けたというロックリーの説を紹介している。CNNの「African samurai: The enduring legacy of a black warrior in feudal Japan」という記事でも「Facing defeat, Oda ended his own life to avoid losing his honor. He performed a ritual called “sepukku” which saw him stab a short sword into his stomach, slicing horizontally while his attendant Ranmaru Mori lopped off his head. Legend has it, says Lockley, that Oda’s last order to Yasuke was to take his sword and his decapitated head to his son.」と森蘭丸が信長の首を切り落として信長が最後の命令をして弥助が首と刀を息子(信忠)に届けさせたというロックリーの説を紹介している。このロックリーの説を裏付ける根拠がない。ルイス・フロイスの『1582年度日本年報追信』だと弥助は「信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い間戦っていた」とされていて、弥助が信長の首を本能寺から二条新御所の信忠に届けたかどうかには言及していない。森蘭丸は本能寺で討ち死にしているけれど信長より先に死んだのか後に死んだのか不明で森蘭丸が信長の首を切ったという証拠はないし、明智光秀の1万の軍勢に本能寺が包囲されて首を探している中で長身の黒人の弥助が信長の首を持って逃げていたら目立ってすぐに発見されるだろうし、もし弥助が首を守って二条新御所の信忠に届けたとしても信忠や家臣がそれに言及しないのもおかしい。『信長公記』によると信忠は「腹を切った後、縁の板を剥がしてこの中に入れ、遺骸を隠すように」と自分については言ったけれど信長の首の扱いには言及していないので、信忠のところに信長の首が届かなかった可能性のほうが高い。弥助が日本語を話せて信長の最期を見届けたのならそれを信忠や家臣に伝えないのもおかしいし、明智光秀も投稿した弥助に信長の首の所在を尋問せずに「その黒人は動物であって何も知らず、また日本人でもないから彼を殺さず、インドの司祭たちの教会に置くように命じた。」と何も知らないような扱いをしてすぐに追い払うのはロックリーの説とつじつまが合わない。信忠の家臣が信忠の切腹後も戦って討ち死にしている一方で、弥助が刀を捨てて投降するのは忠義がなくてとても伝説の侍とはいえない。ロックリーが黒人奴隷が信長に信頼される侍になって信長の首を持って逃げて日本史を変えたというサクセスストーリーを主張したいなら歴史研究者としてでなく小説家として言うべきで、根拠なしにtrue storyと言うのは学者としてのモラルが欠如している。TIMEやBBCやCNNのような比較的権威のあるサイトで仮説にすぎないものが史実であるかのように外国に広がると、それを訂正するのも大変になる。日本ファクトチェックセンターは「黒人侍とその家族の画像?【ファクトチェック】」という記事でAIが作った黒人侍の白黒写真の真偽についてロックリーに尋ねているけれど、聞く相手を間違っている。専門家が言うことだから正しいとみなすやり方は専門家が間違っている可能性を考慮していない。●なぜ歴史は改ざんされるのか・利益や名声を得るため歴史が古くなるほど資料が乏しくなって専門家でも何が真実か断言できなくなるので、そこに歴史の改ざんの余地が生まれる。生きている人間は事実無根の事を言われたら反論するけれど死者は反論できないし、専門家でない一般人には反論するほどの知識もないしわざわざ調べるほど暇でもないし、専門家でも外国人が外国語で出版した本や論文を全部チェックするのは大変なので、歴史を改ざんしてもなかなかばれにくい。芸術の盗作と似たようなもので、捏造がばれれば名声を失うけれど、ばれなければ専門家の地位を得て本が売れたり記事の執筆依頼がきたり大学の講師になれたりする。旧石器捏造事件を起こした考古学者の藤村新一は「功名心から捏造を始めたものの、『神の手』などともてはやされるようになり、プレッシャーから捏造を続けてしまった」と言っていて、学者としての真理の探究よりも功名心が上回ったようである。吉田清二が『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版して慰安婦が強制連行されたと主張したのは金儲けのためだろうし、朝日新聞が吉田証言を根拠にして女子挺身隊と慰安婦を混同して慰安婦を外交問題にまで発展させたのも反日の購読者に媚びて金儲けをするためだろう。韓国が端島炭鉱(軍艦島)で朝鮮人労働者が虐待された証拠して出した写真が実際は福岡の筑豊炭田の写真だったように、韓国政府は被害者ぶって補償で利益を得るために証拠を捏造して歴史を改ざんして外交問題にしようとする。・国を支配するため新しい国や政権ができたときに、焚書して過去の王朝や政権を否定して歴史を改ざんすることがしばしばある。秦の始皇帝は秦以外の国の歴史書を焚書して自分の偉業を称える刻石を作らせた。日本では第二次世界大戦で敗戦して、GHQが日本人の愛国心をなくさせるために戦前に出版された7000冊が燃やされて、日本人はアメリカに従順な自虐史観に調教された。仮想敵国を作ると愛国心を煽って国内の問題から国民の目をそらさせることができるので、中国は南京事件を大虐殺に仕立て上げようとして合成写真などで証拠を捏造して反日プロパガンダを広めている。・自分の国を擁護するためアメリカは第二次世界大戦で日本人を猿扱いして東京を空襲して10万人を虐殺したり広島に原子爆弾を落として14万人虐殺したり長崎に原子爆弾を落として7万人を虐殺したりして非戦闘員の市民を虐殺して、イスラエルがパレスチナ人を動物扱いして市民を無差別に虐殺しているのと同様の大量虐殺をしたけれど、その蛮行を正当化するために日本人が残虐非道だったのだという物語をでっちあげて歴史を改ざんしたがる。中国系アメリカ人のアイリス・チャンは『ザ・レイプ・オブ・南京』で日本軍が数週間の間に一般市民約26万人から35万人を虐殺し、女性2万人から8万人をレイプしたと証拠もなしに主張して、最近はアメリカ人のブライアン・マーク・リッグが『Japan's Holocaust: History of Imperial Japan's Mass Murder and Rape During World War II』という本で1927年から1945年の間に天皇の命令で少なくとも3000万人が虐殺されたと根拠もなしに主張していて、外国に反日プロパガンダを広めている。ジャーナリストや歴史家の肩書を持った人たちが史実に嘘や誇張を混ぜて拡散する工作活動をするので悪質である。●歴史を改ざんされないためにどうすればいいのかしばしば文系の学問は役に立たない(企業の利益にならない)からなくせと言う人がいるけれど、大学が歴史を研究して研究成果を継承し続けなければ歴史が改ざんされても気づけなくなる。それゆえに歴史研究者の数と質を維持して、文化財や歴史資料や公文書を保管してデジタル化するなり外国語に翻訳するなりして資料に反する説の間違いを証明しやすくするのが重要である。国立公文書館の平成30年の「公文書管理体制の日英比較」という記事によると「欧米先進諸国では、作成後30年経った重要公文書は国立公文書館に移管されて永久に保存され、原則として公開されるという「30年ルール」が定着している。最近はその期間が縮小される傾向にあり、イギリスでは2010年の法改正により、「30年ルール」が「20年ルール」に改められ、現在は2023年の全面施行に向けた移行期間となっている。日本は「30年ルール」さえ定着しておらず、彼我のあまりの差に驚かされるばかりである。」そうで、公文書がちゃんと保管されて公開されることで事実を確認しやすくなる。化石とかの考古学的な資料は放射性炭素年代測定で年代がわかるので捏造しにくい。しかし写真や動画はAIの進歩で捏造が容易になって、古代史よりも近現代史の検証の方が難しくなるかもしれない。AIが悪用されたらカティンの森事件のように虐殺をなすりつけられたり偽旗作戦で被害をでっち上げられたりする可能性があるので、資料の真偽を判定するための科学技術も発展させる必要がある。Xのインプレゾンビが東日本大震災の写真や動画を能登地震の時に投稿したように、写真や動画が合成でないとしても元の文脈とは違う文脈に使われることもあるので、いつどこで誰が撮影したのか、初出はどの本やサイトなのかという背景情報もアーカイブして検索しやすくする必要があるだろうし、exif情報がない写真は加工されたものとみなして歴史的資料として採用しないとかのデジタル資料に対応した保管基準も必要だろう。反日外国勢力による歴史の改ざんからの防衛も国家の防衛の一環として相応の予算をつけて取り組むべきで、従軍慰安婦問題みたいに捏造から外交問題に発展するようなことは繰り返してはいけない。
2024.07.30
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ナショナルジオグラフィックの7月号で世界各地の先住民の特集をしていたけれど、そういえば先住民について考えたことがなかったような気がするので、徒然なるままに先住民について考えることにした。●先住民(indigenous people)とは何かWikipediaでは先住民を「政治的に劣勢な地位にある集団で、その国の支配的な地位にある集団のものとは異なった、同じエスニック・アイデンティティを共有し、現在統治している国家が支配を及ぼす以前から、その地域において、エスニックな実体をなしていたもの」(Greller, 1997) と定義しているけれど、英語版のWikipediaだと「There is no generally accepted definition of Indigenous peoples」と一般的に受け入れられている定義はないとしている。世界大百科事典では先住民とは「一般に,〈近代〉国家が形成される段階で,〈未開〉であるとの偏見をもとに,民族としての存在と固有の文化を否定され,その伝統的領土とともに一方的にその国家に併合された民族集団を指す。その領土には植民地政策が敷かれ,大虐殺や強制同化政策などにより民族としての抹殺が行われるが,同化が進んでも,差別問題は解決しない。この点,先住民族は,近代国家に自らの意思で統合されたかどうか,植民地政策が行われたかどうかによって確認される政治学の概念であり,民族学や人類学の概念ではない。」そうな。白人が征服して植民地にした国に対しては先住民という概念は適応しやすい。オーストラリアのアボリジニはイギリス人に侵略されて人間狩りをされて虐殺されたし、南北アメリカのインディアンやインディオはヨーロッパ各国に侵略されて虐殺されたので、上の定義だとアボリジニやインディアンやインディオは先住民族と言える。しかしもしオーストラリアやアメリカが宇宙生命体に侵略されてキリスト教徒の白人が未開生物扱いされて虐殺されて統治されて支配的地位をなくした場合、キリスト教徒の白人は先住民族と呼べるのか疑問である。あるいはもしアメリカ人が最初に月にコロニーを作って移住して、それから中国人が月に移住してコロニーを乗っ取って支配した場合は、アメリカ人は月の先住民と言えるのだろうか。日本語で先住というと単に先に住んでいるという意味なのでどこかの時点を基準にして先に住んでいれば先住と言えるけれど、英語のindigeousには原産や土着という意味があるし、aboriginal people(土着民)とも呼ばれるので、どこかの土地で文化を持った民族が他の土地に移住した場合は先住民の定義に当てはまらないのではないかと思う。上の定義だと先住民を迫害されている少数派と決めつけている点に問題があって、先に住んでいる土着の民族でも多数派は先住民に当たらないのはおかしい。インディアンやインディオは白人に征服されていない大航海時代以前でもアメリカ大陸の土着民なのに、上の定義だと白人に征服されないと先住民扱いされないことになる。結局のところ先住民の定義をはっきりさせて定義を共有しない限り、どの民族が先住民か否かという議論をしたところで科学的に証明しようがない。●先住民のメリットとデメリット・メリット先進国では近代化して生活が均質化したのに対して、芸術では他と違っていることが魅力になるので、芸術家はマイノリティであることがメリットになる。芸術で0から1を生み出すのは難しいけれど、先住民は伝統文化を受けつぐだけでも他のマジョリティの民族から見たらユニークな存在になる。民族特有のデザインやモチーフを他の民族の人が真似した場合は文化盗用としてポリコレで批判されるので真似されにくい。先住民は観光業もやりやすい。アメリカではカジノがラスベガスとかの特定の地域を除いて制限されているけれど、アメリカ先住民の居留地は自治区で連邦法や州法が適用されないのでインディアン・カジノの運営が産業になっていて、遠方からでも客が来るそうな。革や銀を加工したアクセサリーも土産物になる。・デメリット先住民は自殺率が高いのが問題で、自殺に至るには教育水準の低さ、貧困、人権侵害などのいろいろな問題がある。オーストラリアのアボリジニは1969年まで白豪主義の政策で親権を否定されて子供が隔離施設で育てられて、文化が断絶してアボリジニとしてのアイデンティティーを失うアイデンティティクライシスが起きていて自殺率がオーストラリアの平均の2倍以上である。ホワイトハウスの「2014 Native Youth Report」によると、1/3以上のアメリカンインディアンとアラスカ先住民の子供が貧困で、高校の卒業率が国の平均で80%なのが先住民は53-67%で全学校の人種や民族の中で最低で、先住民の15-24歳の自殺率は国の自殺率の2.5倍である。カジノで成功する人は少数で、多くのインディアンとアラスカ先住民は仕事がなくて過去数十年間の失業率は約50%の高水準である。仕事がなくても土地があれば伝統的な狩猟採集生活はできるけれど、インディアンのように居留地に強制移住させられてアメリカバイソンも白人に狩られて少なくなったのでは伝統的な生活もできない。先住民は差別や迫害の対象にもなって、カナダでは30年間で先住民の女性や子供が1200人以上行方不明になったり殺害されたりしたことが問題になった。映画の『ウィンド・リバー』はアメリカの話だけれど、先住民の失踪や性犯罪被害が多発していることからインスパイアされて作られたものである。田舎で伝統的な狩猟採集生活をするのか、都会で近代的な生活をするのかの選択でも人生がだいぶ変わる。伝統的な生活をする場合、他の国民と同等の教育を受けられないと会社の事務員や営業職とかの一般的な仕事につけないし、貧しさから抜け出せなくて働く気をなくしてアルコール依存症や薬物依存症になったりする。国際医学情報センターの「人種/民族別のアルコールおよび自殺-17州、2005~2006年」によると、人種や民族別に血中アルコール濃度を測定したら、アメリカンインディアンとアラスカ原住民にアルコール依存症が最も多くて、自殺前の飲酒も最も多かったそうな。新自由主義者は貧しい人は怠け者だから自業自得なのだと言って弱者への支援をなくそうとするし、先住民の保護のための支援や補助金をもらったらもらったで自立できない劣った人たちという偏見を持たれてしまう。芸術でもデメリットになる場合がある。音楽では器楽なら民族音楽のエキゾチックな雰囲気を出しやすいけれど、ポップミュージックをマイナーな言語で歌ってもたいていの人は理解できないので人気が出にくい。ナショナルジオグラフィックではペルーのCay Surというケチュア語のラッパーを取り上げていたけれど、YouTubeの動画を見てみたらチャンネル登録者数は397人で再生回数は2000回以下で儲かってなさそうだった。先住民として生まれるとメリットよりデメリットの方が大きくて生きるのが大変そうである。●民族の同化の是非大航海時代から帝国主義時代に世界各国が植民地を獲得して先住民に同化政策をした。同化させれば先住民の族長でなく宗主国の政治家に従うようにできて統治しやすくなって独立運動が起きる可能性を減らせるし、同じ国民という名目で植民地の土地や資源や労働力を国家のものにできる。言語が違うのは統治の上で障害になって、議会や警察の取り調べや裁判や病院の診察とかのあらゆることに通訳が必要になって言語の数だけ行政コストがかさむし、マイナー言語の話者の教育水準が落ちて教育格差が所得格差につながってしまう。同化政策をすることで先住民の生活を宗主国の水準まで引き上げることができるメリットがある反面で、先住民の言語や文化の継承が途絶えて、民族が語り継いできた歴史や土地に関する知識や思想や宗教が失われてしまうデメリットがある。そのデメリットが大きいので、同化するか否かは個人や民族の選択にゆだねられるべきで国が強制するものではないだろう。20世紀の領土拡大競争が世界大戦を引き起こして、第二次世界大戦後に帝国主義が終わって世界各地の旧植民地が独立したり、同化しなくてもそれぞれの民族が自治できるならそれにこしたことはない。ユーゴスラヴィアが各民族の自治を巡って紛争して分裂したり、フランス領のコルシカ島で民族主義運動が起きたり、スペインのバスク地方で独立を目指す過激派が紛争を起こしたり、フランス領ニューカレドニアで独立を目指す先住民が憲法改正に反対して暴動を起こしたりしたように、自分の民族の将来は自分たちで決めたいと思うのは当然である。しかし国は未開の僻地だとしても領土や領海や資源は手放したくないので、民族を独立させたがらない。じゃあどうすれば異民族と同じ国民として共存できるのか。ロシアにはいろいろな民族がいるのでロシア革命でレーニンは民族自決を原則にしていて、連邦という形で小さな共和国を取り込んで従属させて少数民族の文化を残しているけれど、それでも自治権の裁量が地域によって違っていて完全に自治しているとは言えないので、チェチェン共和国が連邦から独立しようとして紛争やテロが起きた。無宗教の中国は宗教が政治的権力を持つことを危険視しているのかウイグルやチベットや法輪功を弾圧している。母語の使用を禁止したり、信仰を捨てさせたりするやり方での同化は人権侵害だし、強制避妊手術による断種は国家の犯罪である。同化のために人権侵害をしてはいけないけれど、同化政策をとらずに放任してもそれはそれで問題になる場合がある。ロイターの「アングル:アマゾン奥地で殺人急増、麻薬密売と環境犯罪が結合」という記事では「ボルソナロ政権下で環境や警察、先住民関連の監督機関が解体されたことが、環境および麻薬関連の凶悪犯罪の急増を招いた」と言っている。アマゾンでは違法採金者が先住民に弓矢で殺される事件も起きていて、違法採金者が悪いにしても逮捕や裁判をすっとばして先住民の流儀で殺害するのは問題である。インド領の北センチネル島のセンチネル族みたいに島に隔離されているなら好戦的な先住民との接触を禁止してトラブルを防ぐ対応ができるけれど、陸続きだとそういうわけにもいかなくて、同じ国民として扱う以上は政府は治安維持に責任を持たないといけない。私は国民の言語は統一して、先住民でも移民でも最低ひとつの公用語は覚えるべきだと思うし、母語を禁止せずに母語と公用語を両方学ばせるやり方が良いと思う。●アイヌは先住民なのか国会は2008年に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択されたので政治的にいえばアイヌは先住民で、政府の先住族の定義は「先住民族とは、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である」というものだった。私は政治的に誰が先住民か否かを判断するのでなくて、科学的に検証可能な形で判断するべきものだと思う。現状では先住民の定義に支配を受けたとかのいろいろな政治的な概念を詰め込みすぎているし、世界共通の先住民の定義はないので定義はいったん脇に置いて、北海道には誰が先に住んでいたのかという考古学的な点を素人なりに考え直してみる。函館市のサイベ沢遺跡からは縄文時代前期の円筒土器が出土しているし、伊達市の北黄金貝塚からは縄文時代の集落の遺跡が見つかっているし、函館市の恵山貝塚からは続縄文時代の土器が出土しているので、縄文時代から誰かが北海道に住んでいた痕跡はある。網走市のヨモロ貝塚からはオホーツク式土器が出土しているけれど、5-9世紀ごろのものとみられている。その一方で中世以前はアイヌ的な文化的特徴を持った出土品が出ていなくて、北海道大学の「出土資料からみたアイヌ文化の特色」によると、アイヌ文化の物質文化を特徴づけるガラス玉や蝦夷刀などが出そろうのは13世紀末から14世紀初頭だそうな。伊達市の噴火湾文化研究所の「擦文(さつもん)文化と中・近世のアイヌ文化」という記事には「中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から450年前)アイヌ文化の遺跡は上ノ国町や松前町などの道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されています」と書いてある。これを素直に考えたら、北海道では縄文時代に縄文人がいて、その後にオホーツク文化人やアイヌの祖先が北海道に来て鎌倉時代頃にアイヌ文化が出来上がったように見える。日本ファクトチェックセンターの「北海道の先住民族はアイヌではなく縄文人?【ファクトチェック】」という記事では、国立アイヌ民族博物館の佐々木史郎館長は「アイヌは日本が近代国家になる前から北海道の主要な住民でした。その近代国家による開拓政策、植民地政策、同化政策によってアイヌはいろいろな権利を奪われていきました。そういう過程を経た人々を『先住民族』と定義しているのです」「ですから、近代国家となった日本が、北海道などにおいて具体的な政策を展開した段階で、アイヌがすでに北海道で暮らしていたということが、すなわち先住民族であるということなのです」「文化人類学からすると縄文人という『民族』はおそらく存在しないと考えます。縄文土器という言葉があります。縄を土器の器面に転がして紋様をつける、その技法は広い範囲に見られ、そのような技法を持ち、そのような土器を使う人々を広く「縄文人」と呼ぶことは可能かもしれません。しかし、その技法を共有していたからといって、民族としてのアイデンティティーを共有していたかというとそれは考えられません。縄文文化は時代ごとに、地域ごとに非常に多様だからです」「幻想の縄文人という『民族』を創って、現代の大和民族あるいは他のどれか一つの民族の祖先だとするのは論理の飛躍があって、学術的には意味がないです。現代のそれぞれの民族のルーツが何千年もの間、不変であるということは考えられません。様々な集団が離合集散を繰り返してきたと考えるのが自然です」「考古学の最新の知見では、擦文文化から徐々に変化していって17世紀近世以降に見られるようなアイヌ文化に移行していく間に大きな人の入れ替わりはない。擦文文化を担っていた人たちが自分たちの文化を変えていく。変わっていった要因は本州や大陸との交易が飛躍的に発展したからです。擦文文化もその前の続縄文文化も、アイヌの祖先が担っていたはずです」 と言っている。しかし「民族としてのアイデンティティーを共有していたかというとそれは考えられません」というのは論理のすり替えがある。アメリカにインディアンという単一の民族がいるわけではなくてチェロキー族やナバホ族などの数百の部族がいたり、オーストラリアにアボリジニという単一の民族がいるわけでなくてアナング族やジャプカイ族とかの多数の言語が違う部族がいるように、縄文人という単一の民族がいるわけではなくて縄文時代に多数の部族がいただろうし、同朋意識がないと集団は形成されないので、その個々の集団は何らかのアイデンティティーを持っていて自集団と他集団を区別していただろう。「我々は縄文人だ」みたいな民族のアイデンティティーは共有していないだろうけれど、だからといって縄文時代の個々の集団にアイデンティティーがないことにはならないし、その個々の集団は先住していたと言えるはずである。「擦文文化もその前の続縄文文化も、アイヌの祖先が担っていたはずです」という点は考古学的な根拠や遺伝学的な根拠が示されていない。独立行政法人国立科学博物館の「形態と遺伝子から解明する近世アイヌ集団の起源と成立史」という研究だと、「近世アイヌ人骨122体を対象としてDNAを抽出し、ミトコンドリアDNAの解析を行った。最終的に100体からDNA情報を取得し、アイヌ集団の成立の歴史の解明を試みた。解析の結果は、北海道のアイヌ集団は在来の縄文人の集団にオホーツク文化人を経由したシベリア集団の遺伝子が流入して構成されたというシナリオを支持した。また同時に行った頭蓋形態小変異の研究でも、アイヌは北海道の祖先集団に由来するものの、オホーツク人との間の遺伝的な交流を持っていた可能性が示された。」と言っている。東京大学の「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」という研究だと、「アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。さらに、他の30人類集団のデータとの比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。また、アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった。」と言っている。つまりは日本列島は縄文時代に沖縄から北海道まで縄文人がいて、渡来した弥生人と交雑するか、シベリア系と交雑するかでその後の遺伝的特徴が分かれていったわけである。網走市で出土したオホーツク式土器は5-9世紀のものなので、縄文人とシベリア系が交雑したのはそれ以後と思われる。国立遺伝学研究所の「遺伝子から続々解明される縄文人の起源~高精度縄文人ゲノム~」という研究だと、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した縄文人のゲノム分析をして、「ウルチ、韓国人、台湾先住民、オーストロネシア系フィリピン人と遺伝的に近かった」という結果になったそうな。東京大学の「骨格形態にもとづくオホーツク文化人」という研究では「サハリンのオホーツク文化の人骨は、大岬やモヨロの人骨にもっとも形態が近くサハリンアイヌ、北海道アイヌとは遠いことがわかった」と言っている。つまりは縄文人、アイヌ、オホーツク文化人はそれぞれ遺伝的な特徴が違うわけである。もし北海道から出土した続縄文時代の骨からシベリア系の遺伝子が検出されたりしてアイヌと近似性があるのならアイヌの祖先が続縄文文化や擦文文化を担っていたと言えるだろうけれど、そうでないならアイヌの祖先が続縄文文化や擦文文化を担っていたと言えるような根拠がない。遺伝子からみたら縄文人が北海道に先住していたと言えるだろう。民族衣装もアイヌとシベリアの民族のつながりを示している。アイヌの民族衣装はトゲや渦の模様の刺繍をした半纏のようなもので、文様には魔よけの意味があるとかないとか言われていて、伝統的に獣皮や魚皮や植物の皮を使っていて、江戸時代後半から木綿が普及して刺繍技術が発達したそうな。しかしそれがアイヌ特有のデザインとはいえなくて、シベリアの民族は似たような民族衣装を着ている。例えばOtykenというシベリアのチュルク系民族のバンドが着ている民族衣装と渦巻きの形や位置が似ていて、このバンド名はチュリム人、タタール人、ケット人、ハカス人、セリクプ人の文化を保存する活動をしているけれど、チュリム人はシベリア中部のウイグルやモンゴルの北側に住んでいる民族で、北海道とは距離的にだいぶ離れている。VIEW OF THE ARTSのOtykenへのインタビューによると、「Our clothes are based on the traditional clothing of different Native people of Siberia. We also like to add some modern designs and accessories to our outfits.」と答えているので、現代風にアレンジされているにしてもシベリアの先住民の衣装が元になっているので、Otykenがアイヌの渦巻きの文様をパクったわけではないだろう。他にも東シベリアのエヴェン人はアイヌみたいに長い外套を羽織っていて襟に沿って縦に模様が刺繍してあるし、アムール川下流のウリチやナナイやニヴフなどの先住民の服にも襟に沿って渦のような文様がある。海で隔絶された北海道に住むアイヌがシベリアのいろいろな民族とデザインが似た服を偶然考案したとは思えない。アイヌがアムール川下流との交易をして服のデザインを取り入れたのかというと、アイヌに民族としてのアイデンティティーがあるなら外国の文様は取り入れないだろう。日本人が外国の服を着るようになったのは明治維新で西洋化の方針を打ち出してからだけれど、アイヌもこれからはシベリアの文化を取り入れようと考えるような出来事があったのかというと、アイヌの歴史の詳細が不明なのでよくわからないけれど、外敵がいない状態では大きな変化は起きないと思われる。というわけでアイヌは縄文時代以前から北海道にずっと住んで一から文化を作ったのでなくて、シベリアで服飾などの文化がある程度出来上がった集団が擦文時代前後に北海道に移住して縄文時代から住んでいた集団と交わって、縄文人ともオホーツク文化人とも遺伝的特徴や文化的特徴が違う独自のアイヌ民族になったのじゃないかと私は思う。
2024.07.22
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NEWSポストセブンの「小学校の運動会で「紅組・白組を廃止」の動き “勝ち負けをつけない”方針で、徒競走も「去年の自分に勝つ」 応援は「フレー! フレー! 自分」に」という記事によると、東京の一部の小学校で運動会で勝敗をつけなくなって、運動会も「体育学習発表会」という名称で体育の授業参観という位置づけにしている学校もあるそうな。はたして競争はいけないことなのか、学校の競争だけでなくていろいろな競争について徒然なるままに考えることにした。●競争とは何か競争(competition)とは競い合わせて優劣をつけることである。社会では様々なところで競争していて、枠が限られているときに競争が起きる。役所の入札では複数の業者に価格や設計とかの案を出させてよい案を採用する。入試では定員の枠が限られているのでテストの点数で優劣がついて合否が決まる。スポーツでは走ることを競えば競走、泳ぐことを競えば競泳、技術を競えば競技と呼ばれて、優勝という限られた枠を取り合っていて、良い試合をしても負けるとあまり評価されない。スポーツやゲームでは一定のルールの下での競争を繰り返すことで勝つためのトレーニングや戦略が充実していって、次第に競技の質が上がっていく。スポーツでは競技を成り立たせるために他人と競争することが必然だけれど、他の分野でも競争することが無条件で良いこととは限らない。例えば不景気の時に在庫を捌こうとして安売りの競争をすると、物価が下がって利益も下がって人件費も下がって労働者は物が買えなくなるデフレスパイラルになって安い粗悪品が出回って質が良い商品が製造されなくなってしまう。●学校での競争の是非・競争の成長への影響成功者はたいてい子供のころから負けず嫌いである。将棋や囲碁のような完全情報ゲームだと勝敗に運が関係なくて自分の考えの浅さが負けに直結するので、子供は負けると泣くほど悔しがる。負けず嫌いの人ほど他人に勝とうとして努力して勉強して実力をつけていく。スポーツやゲームで勝てば自信がつくし、負けたからといって悔しいだけで金銭的に損したりするわけではないし、ノーリスクで何度でも負けられる子供時代のうちに競争に慣れておくほうがレジリエンスがついてよいと思う。競争で負ける事で向いていない分野を諦める決断をできるようになるのも成長の証で、そうして子供は幼児的万能感を捨てて現実の自分の長所短所を受け入れて将来の可能性を取捨選択して進路を絞っていけるようになる。競争で負けた子供が泣いてかわいそうだからといって競争させないのは、無菌室で子供を育ててかえって病弱にしてしまうようなものである。左翼は競争と争い(conflict)を混同して、争わなければ平和になると考えて競うこと自体を禁止したがるのじゃなかろうか。学校は自分よりも優れた他人から学ぶ場所でもある。同じ年齢でも性格も体力も知能もばらばらだからこそ長所が際立つ。他人の優れているところからも学べずに過去の自分に勝つだけなら、勉強も運動も独学でいいし学校に行く必要さえなくなる。というわけで私は子供は同級生といろいろな事で競争すると良いと思う。・運動会の競争の是非PRESIDENT Onlineの「リレーをやりたい生徒8割、やりたくない生徒たった15人…それでも「中止」を選んだ中学生が守りたかったもの」という記事によると、麹町中学校では運動会が廃止されて体育祭に変更されたそうで、優勝した1クラス以外は目標が実現しない教育活動で運動が苦手な生徒が苦痛を感じるという理由で運動会をやめて、生徒会主導で全員が楽しめる体育祭を目指したそうな。私は運動会で競争することに問題があるというよりも競技内容に問題があると思う。幼児にとって幼稚園の運動会は玉入れやくす玉割りや大玉転がしとかの普段やらない競技をやるレクリエーション的な側面が強くて、運動が苦手で苦痛だから運動会が嫌いだという幼児はいないだろう。例えば玉入れはクラスのみんなで一斉にわあわあやるから誰の玉が入ったのかよくわからなくて玉を投げるのが下手な人がいても戦犯として責められることはないし、種目ごとに得点があったりして勝敗にこだわるからゲームとして成り立つしクラスでの協力が生まれる。ところが中学や高校の運動会だとレクリエーション的な側面がなくなって、短距離走やリレーとかのゲーム性が乏しい陸上競技に強制参加させられるのでは不満を持つ人がいて当然である。運動が得意か苦手かという以前に短距離をただ走って何が面白いの、馬鹿じゃないのと思う。何かの目的のために体を動かすから楽しいのであって、体を動かすことを目的にしても楽しくないだろう。公園で短距離走やリレーしている子供はいないし、鬼ごっこや水鉄砲やフリスビーとかで遊んで走り回っている子供の方がよっぽど体を動かす楽しさを理解している。たぶん教師は学校で遊んではいけないという変な固定観念があるので面白い運動会を開催できないのだろう。NEWSポストセブンに書かれている都内の学校のように「去年の自分に勝つ」と自分で決めていない目標を勝手に設定されて無理やりやらされてもモチベーションが出ないだろうし、ストイックに自己新記録を狙いたい子供はほとんどいないだろう。競争をなくしてゲーム性もなくしてしまったら運動会が面白くないと思う子供が出てくるのも当然である。というわけで私は運動会ではゲームとして楽しめる競技で競争するのが良いと思う。・部活動の競争の是非日本中学校体育連盟は2027年度以降は全国中学校体育大会で水泳やスキーやハンドボールとかの部活動の少ない競技を実施しないそうで、少子化に伴ってマイナースポーツの部活動に全国大会がなくなりつつある。ヨーロッパでは学校の部活動の全国大会みたいなのがないようである。ほとんどの生徒はプロスポーツ選手を目指すわけではないし、授業でバスケやサッカーとかの一通りのスポーツをやるのにさらに部活動に加入するのはあまり意味がないと思う。本格的にスポーツを習いたい人はプロが指導するスイミングスクールやサッカースクールとかに通ってそっちの大会に出るので素人の顧問が監督して設備がしょぼい学校の部活に参加する意味がないし、レクリエーションとしてスポーツを楽しみたい人はボール拾いとかの雑用や体力づくりの走り込みをやらされて試合をする機会がなくてつまらないので部活に来なくなる。ではなぜ学校は部活動を必須にしているのか。「異年齢との交流の中で、生徒同士や教員と生徒等の人間関係の構築を図ったり、 生徒自身が活動をとおして自己肯定感を高めたりすることができる」というのが部活動の意義のようで、先輩後輩の関係を体験する機会としてみれば教育的な効果はあると思う。となると運動系でなくて文化系の部活動でもいいわけで、競争することが部活動に必須とはいえなくなる。進学の際に推薦がほしい人は学校の部活動があるほうが全国大会〇位の実績をアピールできるだろうけれど、練習時間が長いのは問題である。2018年に柏高校の男子生徒が吹奏楽部の部活動の練習時間が長いのを苦にして自殺して、練習時間は平日約5時間半、休日約11時間、休養日は月平均1.5日で、学業にも影響しそうなほど練習時間が長くて休養もない。柏高校は吹奏楽部の強豪校だそうだけれど、だからといってプロのミュージシャンになって収入が増えるわけでもないし、青春の思い出作りとしてもコスパが悪いし、吹奏楽に興味がない私から見たら吹奏楽の強豪校であることにあまり価値がないと思う。それに上手くなるために自発的に練習するのと、周りについていくために練習を強いられるのではストレスも違う。部活動に楽しさがなくなって苦行になるほど過当に競争するメリットはないと思う。●企業の競争の是非三菱総合研究所の「イノベーションと競争政策」という記事には「保護主義的な政策等により、国や産業の置かれる競争状況を保護することは、経済成長や雇用にプラスの効果を与える場合がある。一方、経済における競争圧力が、イノベーションを促進し、経済の効率性や生産性の向上をもたらすとの見方もある」と書いてあるけれど、果たして保護するのと競争させるのではどちらが良いのか。たぶん分野によって競争したほうがよい分野と競争しない方がよい分野があると思う。・公共事業の競争の是非新自由主義者は競争をすればイノベーションが起きるのだと言って、郵便や水道などのインフラを民営化して民間企業と競争させようとするけれど、はたして公共事業は競争するべきなのか。市場原理に任せて競争すればサービスがよくなるかというと、むしろ悪くなる。小泉純一郎の郵政民営化の結果は西室泰三がM&Aで失敗して大損したうえに土曜日配達が休止してサービスが悪化しただけだった。バスの場合、公営バスは住民が多くて儲かる路線の利益で乗客が少なくて赤字の路線も維持していて、裁判所とかの利用者が少なくても重要な公共施設にアクセスしやすくしている。そこに民間企業を参入させて競争させると儲かる駅や商業施設周辺の路線だけで営業するので、黒字路線の客を取られたぶん公営バスの利益が減る。そうすると公営バスは赤字を減らすためにバスの運行をやめて、地域に均一のユニバーサルサービスを提供できなくなって全体としてはサービスが悪化する。維新の会は大阪で公立病院や保健所を減らした結果、新型コロナ禍でバッファーがなくなって医療がひっ迫して日本一の死者を出した。というわけで公共事業は利益を出すために競争させる性質のものではなくて、国民に必要不可欠なサービスを提供するために保護するほうが良いと思う。公共事業を民間企業にアウトソーシングして競争させるのも役所が説明責任を果たさなくなる問題がある。経済学者のマリアナ・マッツカートの『The Big Con』はコンサル批判の本で、タイトルのConはconfidence trick(信用詐欺)の略とコンサルティングをかけていて、コンサルティングやアウトソーシングに頼るほどやり方がわからなくなって幼稚化させられてしまって、知識の伝達や企業や政治の説明責任を妨げると主張している。公共事業なら住民が開示請求をすれば不正をチェックできるけれど、民間企業にアウトソーシングすると株主でないと内部資料を閲覧できなくなってしまう。例えば都庁のプロジェクションマッピングに対して開示請求をした人がいて電通に48億円で発注したのが判明したけれど、電通の単価は企業の競争にかかわるノウハウとして不開示なので、しょぼいプロジェクションマッピングに対して金額が妥当なのかぼったくりなのか都民が判断できなくて東京都は説明責任を果たしていない。都庁のプロジェクションマッピングを続けたところで観光名所として競争力をもてるようにはならないだろう。アウトソーシングはガバナンスできなくなるのも問題で、愛知県豊田市ではイセトーに通知書の作成を委託したら契約が終了した時点で削除するはずのデータが保存されたままになっていて、ランサムウェアの被害を受けて税額などの42万人分の個人情報が流出したそうな。東京海上ホールディングスグループも保険の損害査定業務の委託先の税理士法人がランサムウェアの被害にあって、21社6万3千人分の個人情報が漏洩した恐れがあるそうな。サイバーセキュリティに関しては役所や大企業が対策したところで取引先の中小企業がセキュリティーホールになっているので、自分のところでやれる仕事は委託しないほうが安全性は高くなる。競争というとコスト削減に焦点があたりやすいけれど、直接利益を生まないセキュリティ対策まで削減されがちである。・労働者の競争の是非労働者に対しては解雇規制をして雇用を守る方がよいのか、解雇を自由にして能力を競争せさる方が良いのか。厚生労働省の「解雇及び個別労働関係の紛争処理についての国際比較」という資料によると、アメリカ以外の国では解雇理由が制限されていて、正当な理由がないと不当解雇になる。解雇規制は雇用を安定させて労働者の生活を安定させて社会不安を減らすという点で必要である。しかし労働者が保護されると企業にとっては負担になって、従業員を解雇したいときに企業は業績が悪化しはじめたときに希望退職者を募って退職金を増やして自己都合で退職させようとして、さらに業績が悪化したら会社都合でリストラするけれど、それだと人員整理に時間がかかって再建も遅れてしまう。解雇しにくいことが雇用しにくいことにもつながって、ハズレを引きたくないがあまりに気軽に人を雇えなくなって、大学生が授業をおろそかにして何カ月もかけて就職活動してSPIやらグループディスカッションやら6次面接やらの何段階ものふるいにかけられていて採用効率が悪くなる。個人や組織が特定の課題について経験を積むにつれて効率的に課題をこなせるようになることを経験曲線効果といって、経験を積ませて効率を高めるという点では労働者を保護する方がよい。非正規の有期雇用に頼っている会社にはノウハウが蓄積されなくて、派遣は最長3年で職場を変えるし、外国人技能実習生は最長で5年しか日本に滞在できないので、目先の人件費は削減できても何度も新人を育成しなおす手間がかかって効率が悪くなる。その一方で解雇しにくくなると勉強しなくなる人が出てくる。日本人は勉強しないと言われていて、2022年の社会生活基本調査によると社会人の勉強時間は平均1日13分で、パーソル総合研究所の調査によると読書や資格取得のための学習とかの勉強を何もしない社会人が52.6%もいるようである。無期雇用の社内失業者が解雇されずに新聞を読んで暇つぶしするだけで給料をもらっている一方で、有期雇用の非正規労働者は低賃金で酷使されてもボーナスもなくてすぐ解雇される雇用格差も問題で、不平等だと労働者のモチベーションが下がって企業に貢献する気がなくなって企業の競争力も落ちていく。私は終身雇用かいつでも解雇できるかの二択でなくて、一定期間の雇用の保障とその期間後の解雇の自由化をやればよいと思う。無期雇用でも一定期間は正当な理由がない解雇を規制して、その期間後はアメリカのat-will雇用のように企業の裁量で解雇できるようにすれば、労働者は解雇されないために勉強するようになったり、適性がない仕事に見切りをつけて適職に転職しやすくなったりすると思う。・研究開発の競争の是非研究開発では発展の方向性がわかっている分野なら早く特許を取得する方が有利になるので、競争するほうがよいだろう。例えば既にある技術を使って製品をコストカットしたり省エネ化したり小型化したりする場合は市場競争すれば消費者の選択でより安くて省エネで小型の製品が売れるので、企業努力で製品が改良されて高性能になっていく。しかしゼロから新しい技術を生み出す場合は比較対象する競争相手がいないので、競争とは違う仕組みにするほうがよいと思う。総務省の「主要国の研究開発費の総額の推移」によると、中国は2022年には日本の5倍以上の5000億ドルの研究開発費を使っていて優秀な研究者を集めて高度な研究をしていて、質の高い自然科学研究に貢献した機関と国を示したNature Indexというランキングでは中国の機関がランキング上位を占めている。それでも中国からノーベル賞の受賞者が出ないのは、短期での評価を求めて論文工場での研究データの捏造や剽窃が横行して査読が不十分で、まじめにこつこつ長期的に基礎研究をする人がいないからだと言われている。つまり単に研究開発費を増やしたからといってイノベーションを起こすような新しい技術が開発されるわけではない。民間企業だと配当を求める株主の圧力が強いので儲からない研究を打ち切って部門ごと研究者が解雇されたりするけれど、公営事業や大学の研究だとすぐに研究成果で利益を出すことは求められていないしテニュアがある教授は解雇されずに長期間研究できるので何かしらの研究成果を出せる。マリアナ・マッツカートがスマホに使われているインターネット、GPS、タッチパネルディスプレイといったイノベーションを起こす技術は公金を投入した研究から生まれたと言っているように、公的機関がスポンサーになって秀才に予算と権限と研究時間を与えて利益を度外視して好きにやらせるほうが民間企業で利益目当てに競争するよりも目覚ましい成果を生んでいる。日本のムーンショット型研究開発制度だと5年を基本として最長で10年間の支援を可能にしていて2050年までに〇〇をするといろいろな目標を掲げているけれど、本当にやる価値があることなら期限を区切らずに何十年でも研究するべきだと思う。天文学は古代ギリシアの暇なおっさんたちが何十年も夜空を観察して少しずつ発展させたけれど、5年以内最長10年で研究しろと言われて地動説の真理にたどり着けるかというと無理だろう。というわけで研究開発では研究内容に応じて競争する方が良い場合と保護するほうが良い場合があると思う。●国際競争の是非何のために国際競争力が必要なのかといえば、安全保障のためである。ロシアのように国内でエネルギーや食糧を自給できていれば世界中から貿易を拒否されても生きていけるので国際競争力はなくてもよい。一方で日本は資源が乏しくて石油や天然ガスや食料を輸入に頼っているので、代わりに外国に輸出して外貨を稼げる産業が必要になって、トヨタなどの自動車メーカーが燃費が良くて頑丈な車を世界中に輸出している。貿易相手の国に必要不可欠なものを輸出できればその国と敵対して侵略されるリスクが少なくなる。国際競争といっても競争で相手を叩きのめすわけではなくて実際はお互いに必要なものを融通しあう互恵関係なので貿易黒字や貿易赤字はあまり気にする必要がなくて、貿易黒字だから良いというわけでもないし貿易赤字だから悪いというわけでもない。輸入額が多いのは国にとって必要なものが多いというだけで、貿易赤字を解消して貿易黒字にしたら相手国が貿易赤字になるので、どこかの国は必ず貿易赤字になる。貿易赤字だから取引を辞めるという考え方だとそもそも貿易が成り立たなくなる。アメリカが対日貿易赤字を解消しようとしてレーガン大統領が日本製のパソコンやテレビに100%の関税をかけたり日米半導体協定で日本の半導体産業を潰したりしたように、日本が対米で貿易黒字になっても産業が規制されて競争力を失うのでは意味がない。その一方で韓国や台湾や中国は政府が半導体産業を保護して成長させたように、自由競争をしないほうが国内産業は成長する。イギリスのエコノミスト誌は市場原理主義とグローバリゼーションを擁護する論調だったけれど、元編集長のビル・エモットは地政学的な緊張でグローバリゼーションが後退していると言っている。新型コロナのロックダウンで中国の工場の生産が止まったり、ウクライナ戦争でロシアからドイツへの天然ガス供給が停止したりしてグローバルサプライチェーンが機能しなくなって、グローバリゼーションを主導してきた欧米人がグローバリゼーションの衰退を言うようになって、次はどうするかという段階に入っている。新自由主義グローバリストは自由競争すればよい製品が世界中に行きわたってみんな幸福になれるよという性善説でグローバリズムを推進して外資の参入への規制を緩和したり関税をなくしたりしてきたけれど、そしたら中国製の粗悪品が世界を席巻する結果になった。日本は製品に付加価値をつけて競争しようとせず、中国と価格で競争しようとして非正規雇用に頼って人件費を抑えてデフレになって国民が不幸になった。中国は人件費が安い労働者が大量にいて環境汚染対策や労災対策をせず知的財産を侵害して政府が補助金を出してダンピングすることで製品価格を安くして世界の工場になって国際競争力を持って急激に経済成長したけれど、経済に疎い習近平が調子に乗って製品やアプリにスパイウェアを仕込んだり、反スパイ法で外資の中国進出のリスクを増やしたり、台湾にリトアニアの大使館を作った報復でリトアニア製品を中国の税関で止めたり、外国の政治家を賄賂で買収して債務の罠にハメたりして中国離れを引き起こして自滅している。アメリカが中国製品に関税をかけて中国からの直接の輸入を減らそうとしても、中国が発展途上国を経由してアメリカに輸出するのが問題視されている。このやり方はconnector economiesと呼ばれていて、ブルームバーグによるとベトナム、ポーランド、メキシコ、モロッコ、インドネシアの5か国が米中間のコネクターになっていて、ベトナムからアメリカへの輸出が二倍になったときに中国からベトナムへの輸出も二倍になっていたそうな。メキシコとモロッコはアメリカと自由貿易協定を締結しているので、中国製品に関税をかけてもメキシコに中国資本の会社を作られてメキシコ製品として輸出されたら関税をかける意味がなくなってしまう。ホワイトハウスの「FACT SHEET: U.S. STRATEGY TOWARD SUB-SAHARAN AFRICA」によると、アメリカと協調して中国やロシアによる有害な活動に対抗する開かれた社会を擁立する方針のようだけれど、その一方でアメリカに規制されたHuaweiはサブサハラアフリカに投資してデジタルスキルを持つ人材を2025年までに10万人育成するLEAPプログラムで12万人育成して前倒しで目標を達成してさらに追加で2027年までに15万人育成するそうで、アフリカでも米中の衝突の芽がある。アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(共和党系のシンクタンク)のエリザベス・ブローは『Goodbye Globalization: The Return of a Divided World』という本を書いていて、インドはまだ不安定だけれど中国以外の安定している民主主義の国が出てきたらわざわざリスクをとって中国と取引する理由がなくなると言っている。次の大統領選挙でトランプが大統領になったらアメリカファーストの保護主義的な政策をして中国への規制を強めるだろう。というわけで私は中国のような平和を脅かして信用できない国と自由市場で競争するのは安全保障上のリスクになるので規制するほうがよいと思うし、リージョナライゼーションとフレンドショアリングで友好国との互恵関係を深めて安全保障上を強化するほうがよいと思う。友好国と過当に競争して相手の産業を潰して反感を持たれたり自分の産業が潰されたりしたら競争する意味がないので、グローバル企業の利益を増やすことが目的の侵略的な競争をせずに国家の安全保障を目的にほどほどに競争するべきだと思う。●生存競争の是非生物は個体レベルでみれば縄張りを巡る競争や配偶者を巡る競争があるけれど、力の競争だけなら強い大型の恐竜は絶滅して小型の動物が環境に適応して生き残ったように、種のレベルでみると環境に適応するほうが重要である。渡り鳥やオオカバマダラとかの蝶が数千キロ移動するように、餌や気温などの生存に適した環境を求めて移動する動物もいる。人間にも生息域の縄張りを広げたり守ったりするために競争する人と、よい環境を求めて渡りをする人がいる。先進国では既得権益の縄張り争いをしていて、資本力の差は容易に覆せないので格差が固定化されて、生存競争があるとはいっても相応の福祉もあるので労働者は飢えることはないけれど子供を持てなくなって少子化になっている。その一方で人口が多い発展途上国は生存競争が厳しくて、福祉も教育もなくて敗者が飢え死にする劣悪な環境から抜け出そうとして命がけで密航して先進国に移民が押し寄せる。サブサハラアフリカでは貧困が多くて、農耕や牧畜をしても武装グループに奪われるので働かずに外国からの支援に頼る人たちがいるけれど、これも支援してもらえる環境に適応した最適解の生き方といえる。社会の最底辺に位置する乞食でさえ環境によって待遇が違って、ドバイのプロ乞食は金持ち相手に月に27万ディナール(2018年で73500ドル相当)稼ぐそうだけれど、インドでは貧民の子供がbeggar mafiaと呼ばれる乞食の元締めに誘拐されて目を潰されたり薬物漬けにされたりして商売道具として物乞いをやらされて搾取されている。人間の生まれながらの身体能力はたいして差がないのに、なぜ国によって発展度合いが違うのか。ゲーム理論だと協調と裏切りのどちらかの自分に有利になる選択をする。人間は道具を使って自分で環境を作り変えることができるがゆえに森を開拓して灌漑工事をして道路や橋を作って文明を発展させてきたけれど、それには大勢の人間の協調が必須だった。先進国では法律で刑罰を設けていて取り締まりが厳しくて、裏切り者が不利になって、協調すると生計が成り立つ社会になっているので、自己家畜化して法律に従って協調するようになる。一方で発展途上国では法律があっても取り締まりが追い付かなくて犯罪者が野放しになって、裏切り者が多くて協調できないがゆえに大事業ができなくて発展しない。劣悪な環境が改善されないままだと人間も環境に適応して、他人を信用しなくなって騙される方が悪いという考え方になって、スリや詐欺やぼったくりが横行して、政治家は権力を持ったとたんに汚職して悪人が勢力を拡大する悪循環になる。個人の生存戦略としては他人を裏切ることでちょっとだけ有利になるとしても、犯罪のやり方を競ったところで社会全体としては荒廃する。日本は協調できるがゆえに資源が乏しくて地震や噴火や台風が多い過酷な環境でも発展したし、アフリカや南米は資源が豊富でも協調できないがゆえに発展しないように、国家単位でみれば集団が協調するほうが生存競争では有利になるわけである。こないだ移民について考えたけれど、同化せずに協調できない移民を増やすのは国家の衰退につながる。というわけで生存競争自体をなくすことはできないけれど、協調と裏切りのどっち側で競うのかが問題で、私は協調を競うほうが良いと思う。●人類が競争をやめる日はくるのか人類は競争によって文明を発展させてきたけれど、競争が人を不幸にしている。金や土地や権力の奪い合いで戦争が起きて大勢が殺されて、努力では覆せないほど格差が拡大して階級が固定化されて、1%の上流階級は親から相続した資産を運用するだけで一生安泰な一方で、中流階級以下は絶え間ない競争で疲弊して心身を病んで、子孫を残そうとする本能よりも理性が勝って、こんな社会で子供を作っても不幸になると考える反出生主義の人も出てきて少子化も進行している。機械やAIは人間の職を奪う脅威としてみなされがちだけれど、私はむしろ人類を競争から解放する希望になると思う。たぶん現代人が生きているうちは無理だろうけれど、千年後には食料が工場で自動生産されてAIがサービスを提供して、無職でも健康な生活が保障されて金を稼ぐために一生懸命競争する必要がない社会になっているかもしれない。そしたら文明は競争の次のフェーズに行って、労働に時間を使うよりも誰とどう人生を過ごすのかのほうが重要になって、娯楽や芸術が充実して、優秀な人よりも善い人が評価されるようになるかもしれない。
2024.07.10
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2018年の中高年を対象にした調査では40-64歳のひきこもりは61万人程度いるそうで、ひきこもりが長期化しているようである。最近ではコロナ禍で引きこもりが急増して、2022の調査では15-64歳の全年齢の2%の146万人がひきこもりになっていたそうな。求職活動をしないと完全失業者としてカウントされないけれどおそらくひきこもりの人は求職活動をしていないだろうし、人手不足の中で労働力が余っているのはもったいない。ひきこもり支援のガイドラインはあるけれど、ガイドライン通りにやってひきこもりがいなくなるなら引きこもりの長期化は起きないはずだし、いろいろ考える余地があると思うのでひきこもりについて素人なりに考えることにした。●ひきこもりとは何かひきこもりとは病名でなくて、自宅に引きこもって仕事や通学をせずに家族以外と交流しない状態が6カ月以上続いている状態のことで、精神科医の斎藤環が1998年に著書『社会的ひきこもり』を出版したことがきっかけで広く知られるようになった。しかしひきこもりの定義はあいまいで、6カ月に達していないという理由で相談に乗ってもらえないケースがあるので、ひきこもりの定義変更を視野に入れて検討するそうな。ひきこもりは日本特有の現象でなくて家族の絆が強いアジアやラテン系の地域にひきこもりが多くて、親子で同居する習慣があるイタリアでもひきこもり現象が起きているようである。ひきこもる人は実家がセーフティーネット代わりになっているのでそのぶんホームレスが少なくて、厚生労働省の2024年4月の資料だと日本ではホームレスが全国で2820人しかいないそうな。その一方でアメリカだと個人主義で親子が同居を嫌がって実家がセーフティーネットにならないので、2023年1月時点でホームレスが約65万3千人いるそうな。ひきこもりが多い社会とホームレスが多い社会のどっちがましなのかというと、私はひきこもりが多い方がましだと思う。●ひきこもりの問題私は個人がどう生きようが自由だと思うし、家にひきこもることで本人も同居家族も幸福になれる場合はひきこもればいいと思う。中国では不動産不況で新卒の就職先がなくて専業主婦のように家事をして給料をもらう「専業子供」が出現しているらしいけれど、このように子供が家事を手伝って親子関係が良好なら一日中家にいても別に問題がないだろう。家族の仲が良いなら世帯を分けるよりも同居する方が家賃が浮いて生活費を節約できて合理的である。動物が冬に餌がなくなるので活動をやめて冬眠するように、不景気で労働条件が悪いときに無職でいるのも悪い事とは思わないし、割に合わない仕事で一生懸命働いて心身をすり減らすよりも充電期間として勉強したり創作したりする方がましである。しかしひきこもることで本人や同居家族が不幸になる場合はひきこもり状態を改善するべきだと思う。・家計の問題ひきこもりの一番の問題は本人に収入がなくて親の貯金や年金に依存する場合が多いことだろう。80代の親が年金で50代の子供の生活を支えることは8050問題と呼ばれていて、親に資産がない場合は親子で貧困になる可能性があるし、生活能力がない子供が親の死を隠して年金を受給し続ける事件も起きている。親が成人した子供の生活費を払いたくない場合は同居せずに世帯を分ける必要があるけれど、子供が家を出ていこうとしないからといって引き出し屋に依頼して乱暴に拉致して施設に入れるのは人権侵害なので、これも問題になる。・言動の問題テレビや新聞とかで特集されるひきこもりを見ると言動に問題がある人が少なからずいるし、親が子供の暴力に耐えられなくなったり子供の将来を悲観したりして子供を殺す殺人事件もときどき起きている。ひきこもり状態に満足していない人は、受け入れがたい状況の不安を軽減するための防衛機制として、暴力、暴言、過食、浪費、ゲーム依存などの問題行動を起こしているように見える。防衛機制は誰にでも起きる行動で、ひきこもる人が本来暴力的な性格とは限らないのでそこは偏見を持つべきではない。いじめやパワハラなどで理不尽な目にあってひきこもっている場合、理不尽な体験を自分より弱い人に転嫁しようとして家族に暴力や暴言をふるうことも考えられる。・病気の問題ひきこもりが外出を嫌がって病気の初期治療を拒むと病気が悪化してしまう。例えば虫歯になっても歯医者に行くのを拒んで歯がぼろぼろになったり、運動不足で肥満になって生活習慣病になったりする。不潔な生活をして掃除や洗濯や入浴をしないと、ダニやカビなどで皮膚炎になったりして外見も悪くなる。あるいは高齢者がひきこもって社会性がなくなると認知能力が衰えていく。●ひきこもりになる原因・挫折厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン(PDF)」によると、ひきこもりの開始年齢は平均開始年齢は22.3歳で、思春期に自己感覚が過敏になって挫折や恥に対する他者の視線や批判から自己を防衛するためにひきこもるようで、青年期になっても危機になると思春期心性が出てきてひきこもるそうな。例えば学校の授業についていけなくなって成績が悪くなった姿を同級生に見られたくなくて不登校になってそのままひきこもったり、新卒で入社した会社で仕事を覚えられなかったり営業職なのに売上が悪かったりして退社してひきこもったりする。兄弟がいると喧嘩したりゲームで勝負したりして負けることがしょっちゅうあるのでストレス耐性がつくけれど、一人っ子だと親にちやほやされて挫折の経験が乏しいのでストレス耐性が低くてレジリエンスがなくなって、他の人から見たらたいしたことがないような失敗でも気にして再出発できなくなってしまう。・迫害学校でのいじめやブラック企業でのパワハラなどがトラウマになって、社会を怖がってひきこもりになる場合がある。自分の能力不足で目的を達成できなくて挫折するのと違って、迫害をうけるような環境に原因がある。・病気ひきこもる人がうつ病や統合失調症などの精神疾患を発症したり、人格障害や発達障害があったりして、それが正常な生活ができない原因になっている場合がある。ひきこもりの熊沢英一郎は18-20歳頃に統合失調症と診断(他の医師はアスペルガーと診断)されて、就職氷河期で就職できなくて独り暮らししてゲーム三昧の生活をしていて官僚の親が代わりに通院して薬を届けていたようで、実家で同居を始めたらエリートに馬鹿にされているという被害妄想で父親に暴力をふるったことで父親に殺害されることになった。・不況不況で仕事がなくて外出しても買い物する金もないのならずっと家の中にいるようになるし、友人と遊ぶ金さえないと友人が減っていって家族としか人間関係がなくなる。買い物のために外出するならひきこもりでなくてただの無職だけれど、無職であることを恥じて他人の目を気にして外出できないとひきこもりになる。・親の問題ひきこもりの本人の問題でなく、毒親が原因で子供の自立を妨げている場合がある。例えば高齢の親が正社員でないと一人前の人間になれないというような固定観念を持っている場合は子供がアルバイトや派遣やフリーランスとかで働こうとすると仕事として認めずに辞めさせようとしたり、親が人格障害などで子供に依存している場合は子供に見捨てられるのが嫌で子供が家を出て一人暮らしをしようとするとお前には無理だとかの暴言で自尊心をなくさせて邪魔したり、親が過保護で子供の世話に生きがいを見出していると子供が成人しても手放したくなくて甘やかして自立を妨げたりする。・人生をあきらめた無職期間が長引いて高齢になると就職活動をしても雇われなくて、誰にも必要とされないのだと自信をなくして就職をあきらめてひきこもりがさらに長引いてしまう。今まで働いていても失職を期にひきこもる人は、青年期に頑張ってもうまくいかないまま高齢になって、もう結婚したり出世したりする可能性がないと悟って人生に見切りをつけて働く気をなくしてしまったのかもしれない。技術者だと古い技術が新しい技術に置き換わって、今までの知識や経験が役に立たなくなって新しい技術を学ぶ気力もなくなって、かといって現業職をやる体力もなくて転職をあきらめたりする。●ひきこもりを脱出する対策ひきこもり本人が原因なのか、外部の環境や状況が原因なのかによって対策も違ってくる。ひきこもり本人に原因があるとしても自分で対策できるくらいならそもそもひきこもらないしひきこもりが長期化しないので、家族や友人や行政などが対策をする必要がある。病気を治療する、身だしなみを整えて健康な生活をする、他人の目を気にせずに外出して社会不安をなくす、コミュニケーション能力を改善して対人不安をなくす、就労する、実家を出て一人暮らしして自立する、の順に改善していけばひきこもりを脱出できるかもしれない。・心療内科で診療する中国の専業子供のように家事手伝いをして普通に生活できているならまだしも、被害妄想で家族に暴力をふるったりして普通の生活やコミュニケーションができない場合は精神疾患を疑うほうがよいだろう。精神疾患だと本人に病識がない場合もあるので、家族がメンタルヘルスについてリテラシーを持つ必要がある。日本ではまだ精神疾患についての理解度が低くて治療しないで放置しがちだけれど、精神疾患や人格障害は適切に治療をしないと治らないし、放置すると悪化する。心療内科で診察して病名がわかることで、自分が無能で怠惰なのが原因でなくて病気が原因なのだと自責の念を減らすことにもつながるので、おかしいと思ったときは早めに治療するほうがよい。しかし心療内科の治療はすぐに終わるものでなくて長期に診療を受ける必要があって、どこも予約がいっぱいで新規の患者を受け入れる余裕がなくて半年待ちとかだし、ひきこもりを家から連れ出すのも大変なので、ひきこもりを対象にした訪問診療やオンライン診療とかの制度を整えないと診療するのは難しいだろう。精神疾患でないのに体調不良を訴えてだるくてやる気がでなかったりする場合は、脳髄液減少症とかの体の病気の可能性もある。ひきこもっている人が不調を訴えているときは、家族は怠けてごろごろしていると決めつけずに病院で医師に判断してもらうと良い。・考え方を変える普通の無職とひきこもりの違いは家から外出できるか否かで、ひきこもりは心理的要因で家から外出できなくなっている。何かの考え方に固執していることがひきこもる原因になっている場合、その考え方を変えないといけない。例えば完璧主義で理想の自分と現実の自分を比較して無職の自分の姿を他人に見られたくなくて外出できなかったり、容姿にコンプレックスがあって他人に容姿を中傷されることを恐れて外出できなかったりする場合は、想像上の他人とかの妄想にとらわれて現実を蔑ろにしているといえる。しかも脳は同じ妄想を繰り返すことでシナプスが強化されてしまうので、おばけを怖がる子供のように自分で作りだした妄想が肥大していって自己暗示に苦しめられることになる。アメリカのカウンセリングの権威のカール・ロジャーズは理想の自分(ideal self)と現実の自分(real self)の不一致(incongruity)が大きくなると不安定な状態や問題行動につながると考えた。そもそも達成不可能な理想の自己像を持たず、現実の自分を受け入れれば問題ないわけである。仏教やマインドフルネスのように、現実の今の瞬間を基準にして生きるように考え方を変えれば妄想にとらわれなくなる。玄関のドアを開けても外には誰もいないし、ヨレヨレの部屋着で散歩しても文句を言ってくる人もいない。その現実の瞬間に集中していれば妄想上の他人や理想の自己像はどうでもよくなる。妄想に惑わされなくなってから現実の他人と人間関係を構築していけばよい。あと日本だと無職で貧乏なのは恥ずかしいと思っている人が多いと思うけれど、立派な人であるためには職業や収入は関係ない。人格を修養していれば立派な人である。諸葛孔明が劉備玄徳に軍師として招かれるまで晴耕雨読の生活をする無職だったように、立派な人が登用されるかどうかは時の運や人の縁もあるので、運が悪くて無職で貧乏なのを恥じる必要はない。『徒然草』に「愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賎しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。」とあるように、岸田家に生まれればアホな長男でも秘書官になるけれど、地位があるからといって岸田一家が賢くて立派なわけではない。昔の命が軽い時代の偉人たちは人事を尽くして天命を待って、不遇のまま死んでも別にいいやと運否天賦を受け入れる鷹揚さがあったけれど、現代人には命がけで筋を通して生きる立派な人はほとんどいない。資本主義社会では弱者から搾取して金持ちになっている人間の屑や、金持ちや権力者に媚びて悪事の片棒を担いでいる連中が勝ち組としてもてはやされているけれど、真善美がなくただ金を追い求めるだけのくだらない生き方をするくらいなら無職の方がましである。就職活動をしても企業がブランクがある人を嫌がって雇わない場合は個人の責任でなくて社会の責任なので、堂々と生活保護を受ければよい。・目的や向上心を持つ孤独について考えるという記事で考えたけれど、人生に何かしらの目的があればたとえ学校や仕事で挫折したとしてもひきこもりが長期化しないだろう。例えばスポーツで挫折しても毎日筋トレしまくって腹筋がバキバキになったらSNSのアクセスが増えて在宅でも金を稼げるだろうし、就職できなくて挫折しても絵や音楽とかの芸事を長期間やれば才能が開花することもありうる。大きな目的がなくても何事も上達しようという向上心を持って趣味や火事に取り組めば、習字を続けて字がうまくなるとか手芸を続けて小物を上手く作れるとかの些細な事でも自信をもつことにつながるし、普段の家事を上手く手早くこなせるようになるだけでも飲食店や清掃業の仕事を見つけやすくなる。ネルソン・マンデラが反アパルトヘイト運動をして国家反逆罪で終身刑の判決を受けてもめげずに27年間の獄中生活の中で勉強を続けて通信制過程で法学士号を取得したように、向上心があればひきこもり状態でも成長する。固定マインドセットを持っていてどうせ何をやってもだめだとあきらめている場合は、何歳でも人は成長できるのだと成長マインドセットに考え方を変えるところからはじめるとよい。ひきこもりはせっかく他の人より自由な時間が多いのに、知識や技術の習得に時間を使わないのでは成長できない。一日中アニメを見たりゲームをしたりして暴飲暴食して部屋を片付けずに自堕落な生活をしている人は親や社会などの外部が原因でなくて本人が原因なので、自分で生活習慣を正さないといけない。論語で「朽木は雕るべからず」というように、病気でもないのにやる気がない人を他人が変えようとしてもうまくいかない。自分の生活がこのままではだめなのだとメタ認知で自覚するには、生活状況を文章にして事実を陳列すればよいと思う。〇〇ができないという事実を羅列して、少しづつ〇〇ができるに変わっていけば、良い変化が目に見えるようになっていろいろやる気になるかもしれない。・環境を変える植物は環境に合えば肥料がなくてもすくすく育つけれど、環境に合わなければ芽が出なかったり生育が悪かったり実がつかなかったりする。人間にも育つ環境と育たない環境があって、メンターとなる立派な人がいるところにいると成長するので人々は金を払ってでも良い大学に行きたがる一方で、毒親がいる実家にいたところで成長できないだろう。ひきこもり状態を変えたいのに変えられない人は、長期間自宅にいても変わらないのだから同じ環境にいたところで改善する見込みがないし、環境を変える必要がある。挫折がきっかけでひきこもった人は新しい刺激や成功体験や人間関係で過去の記憶を上書きしないと嫌な記憶を何度も思い出してトラウマを強化してしまうので、なおさら外に出ないといけない。しかし金も人脈もない状態でいきなり就職して一人暮らしするのは難しいので、まずは家族以外の他人と普通にコミュニケーションをとれるようになるようにする必要がある。自宅を訪ねてくるひきこもり支援団体の人と世間話をしたり、近所の公園の掃除とかのボランティア活動に参加したり、支援施設でひきこもり同士で共同生活をしたり、ひきこもりを預かる寺で雑用をしながら共同生活したりして、生活環境が変わってあいさつや掃除とかをやらざるを得ない状態になれば、自立して生きていくうえで必要最低限のコミュニケーション能力が身につくだろう。それから仕事を探して自立すればよい。江戸川区の「駄菓子屋居場所よりみち屋」だとひきこもりの人が販売や接客などの就労体験をしていて、1日15分から気軽に働けて給料ももらえてそこでいろいろ経験して自信をつけて、3人が関連企業に就職したそうな。いわば大人向けのキッザニアのようなもので、就労体験が気軽にできることが脱ひきこもりのきっかけになっている。・会話を増やす文章はじっくり添削して書けるのと違って、会話は相手の言葉や意図を理解してすぐに応答しないとコミュニケーションが成り立たないので、相応に会話の訓練をしないと会話がうまくならない。対面で会話するに越したことはないけれど、会話する相手がいない場合や、家族相手だと気まずい場合はスマホに搭載されているGoogleアシスタントやSiriとかでもよい。家族以外の他人との会話に慣れることで対人不安がやわらぐだろう。女性ならライブチャットすれば収入につながるし、アバターや加工アプリを使えば外見にコンプレックスがある人でも外見を気にせずにすむ。ゲーム内のボイスチャットは良し悪しがあって、FPSとかのユーザーの民度が低いゲームだと暴言が多いのであまり会話能力の改善にはならないかもしれないし、かえって言葉遣いが悪くなりかねない。・文章を書く会話が苦手だけれど文章を書くのが得意な人は文章力に全振りしてもよい。日本人なら誰でも文章くらい書けるだろうと思いきや、文章を書くのには時間がかかるので、実際は誰にでもできることではない。フリーライターやアフィリエイトブログやなろう小説とかで収入につながることもあるし、文章を書く仕事は一人で在宅で働ける場合が多いので、ひきこもっていることがデメリットでなくなる。・嫌な奴と戦う方法を身に着ける世界にはいろいろな人がいて、良い人も悪い人もいるし、学校にも職場にも少なからず嫌な奴がいるのは仕方がない。社会不安が強い人は嫌な奴との戦い方がわからないから他人を必要以上に恐れるわけで、嫌な奴と戦えるようになれば他人を必要以上に恐れなくなる。ひきこもり支援のガイドラインをいくつか見たところ、善良な人がガイドラインを作ったのか知らないけれど戦い方を教えていないのはよくない。ドラクエの勇者だって武器なしで旅に出てモンスターと戦えと言われても無理だし、ひきこもりも戦い方がわからないまま外に出てDQNと戦えと言われても嫌だし逃げるしかないだろう。戦うといっても物理的な戦いはあまりやらないにこしたことはなくて、法律で戦えるようになればよい。いじめやパワハラや誹謗中傷されたりしたときに少額訴訟なら弁護士を雇わなくても少ない手数料で合法的に相手の時間と金を奪って反撃することができるし、ポリスメンに電話して代わりにバトルさせることもできるし、めんどくさいやつだと印象付けることができれば嫌な奴も絡んでこなくなる。私は不良が多くて荒れた公立中学校で一学年上の番長グループに目をつけられたけれど、ポケットに鉛筆削り用の折りたたみ型のボンナイフを入れて一対多の喧嘩になって負けるとしても最初の一人はやっちまおうとやる気まんまんで臨戦態勢でいたら、不良が絡んでこなくなった。私は自分の人生を他人に邪魔される筋合いはないと思っているので命がけで戦うけれど、相手は命がけで私に絡む理由もメリットもないので、戦う姿勢を見せることで戦いを回避できることもある。・無料オンライン講座を増やす最近はMOOC(Massive Open Online Course)という無料のオンライン講座があるけれど、英語の講座が多くてまだ気軽に利用できるものにはなっていない。日本語の講座を増やして、金がないひきこもりでも在宅で新しい知識や技術を学習しやすくなるだろう。大学に通学しなくてもオンラインで講義を受講をしていればひきこもりの定義には該当しなくなるんじゃなかろうか。MOOCと求人サイトが連携して、特定の講座を修了した人に適した仕事を紹介すれば就職しやすくなるかもしれない。・在宅の仕事を増やすIT系の仕事はリモートでできるし、SNSの動画チェックや監視カメラのチェックとかのスキルが必要ない仕事もあるのに、日本の企業はリモート対応のシステムを作る能力がないのか無駄に出社を要求する場合が多い。もっと在宅で働ける仕事が増えればパニック障害があったり社会不安があったりして外出が嫌な人でも働く気になるだろう。あるいはひきこもり支援施設が内職を受託してひきこもりに仕事を割り振るようなやり方なら、面接が嫌で就職活動をしたがらない人でも働きやすいと思うし、普通の会社で働くよりも負荷のコントロールをしやすいだろう。少額でも自分で稼ぐ習慣を身に着けるのが自立につがなる。
2024.07.02
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