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こないだ父方の祖母の葬儀に行ってきたので、徒然なるままに葬儀について考えることにした。・葬儀とは何か葬儀とは人の死を弔うために行われる祭儀で、故人か喪主の宗教や地域の風習に合わせたやり方で葬儀をする。日本だと一般的に悲しみを表すために派手でない喪服を着用して、故人の家で通夜をして納棺をして霊柩車で棺をセレモニーホールまで運んで、セレモニーホールで葬儀をした後に火葬場に移動して火葬をして、お斎や直会とかの会食をして解散する流れになる。中国や朝鮮半島だと泣き女という葬儀で泣く仕事もあって、葬儀で感傷を強調している。外国だと賑やかに葬儀をする文化もあって、ガーナの棺担ぎグループのダンシング・ポールベアラーズが棺桶を担いで踊るCoffin Danceというパフォーマンスがインターネット・ミームになって流行した。・葬儀はつらい私はコミュ障なので、他人と会うだけでもストレスになる。知人の結婚式の二次会では新婦以外知らない人の中で一人で黙々と飯を食ってじゃんけん大会が始まったら終わるまでトイレに避難して新郎新婦に一言挨拶して帰ってきたけれど、これはもともと知らない人が集まるのだしせいぜい2時間程度なのでまだ楽だった。一方で葬儀では5時間電車に座って実家に帰って、祖母の家やら祭場やらのあちこちを車で連れまわされて乗り物酔いして、特に親しくもない親戚に囲まれて初対面のいとこの旦那とその子供たちのコイツ誰だよ的な視線を避けながらほとんど会話せずに3日間で合計20時間くらいじっと座って纏の鍛錬をしながら過ごして、トイレに行くタイミングがかぶらないように円で周囲の人の流れを把握しつつ絶で気配を消して素早くトイレを済ませて、べろべろに酔ってろれつが回らない酒好きの老人のとりとめもない話に無言で頷いて聞き役をこなして、コミュ障にとって人生最大級の苦行のようなイベントを何とか乗り切った。もしかしたらこの葬儀が裏ハンター試験だった可能性もある。オレじゃなきゃ見逃しちゃうね。心理的な面だけでなくて身体的にもつらくて、着慣れない喪服を着てじっと座りっぱなしで食後に眠くなっても横になってくつろぐことができなくて肩や背中がこるのが一番つらかった。登山で重いリュックを背負いっぱなしなくらい肩が痛くなって、2日くらい痛みがとれなかった。セレモニーホールの控室にマッサージチェアを置いたら行列ができる名店になると思う。・葬儀のメリット葬儀が非常に疲れたので、疎遠な親戚の葬儀なら仕事が忙しいことを言い訳にして弔電で済ませたり、通夜か葬儀の片方だけに参列するほうが楽だと思った反面、核家族化して子供が高卒で地元企業で働かずに日本各地の大学に就職して地元を離れていく現代では正月やお盆に本家に集まるようなこともしなくなって冠婚葬祭でないと親戚一同が集まる機会がないので、長時間のつらい葬儀を親族で共有して親族の名前と顔と人となりと職業を確認して血族の連帯感を深めたり、あるいはあのDQNっぽい一家とは深く関わらないほうがいいやと確認することにも意義があると思う。遺伝学的に見れば自分が直接子孫を残さなくても親族が子孫を残していれば血族の遺伝子は残るので、親族の中で若い人を助けてやるのも良い。いとこの子供は高校二年生で大学の文系の学科に進学したいそうで、私が模試で国語で200点取ったことがあるよと言ったらたいそう尊敬されたので、祖母が残した縁だと思って脳科学に基づく効率の良い記憶の仕方を教えたらたいそう感謝された。私もたまにはたいそう役に立つものである。もし彼が社会人になってから会っていたら新卒以下の年収のゴミとしてたいそう軽蔑されていたかもしれないし、一期一会の縁も面白いものである。いつか自分の家族の葬儀をするときに、どこに祭場や火葬場があって費用はいくらかかって控室の設備がどれくらい充実していてどういう段取りで葬儀を進めてどういう料理が出てどのくらい疲れるのかを確認できるという点でも有益なので、体力があるうちに一回は納棺からお斎や直会まで通して参加しておいても損はない。会うたびに老いていく親や親戚を人生の先輩として観察することで、いつか自分が死ぬときにどういう見送られ方をするのかという想像もついて、自分の死への備えもできる。来客対応や香典の計算とかを親族で分担することで喪主の負担を軽減できるし、親族の葬儀を手伝えば自分の葬儀でも手伝ってもらえるかもしれない。時間をかけて面倒くさい体験をすることで、親族の死を受け入れて感情を消化しやすくなるというメリットもある。世間では新型コロナや地震や戦争でろくに葬儀もできなかった人が大勢いる中で、時間をかけて葬儀ができるのは有難いことである。それに親族の死を体験することで、世界中の見ず知らずの人たちの死にも無関心にならずに同情できるようになるだろうし、それは人として成長する数少ない機会でもある。弔電を送るだけで済ませると記憶に残らないけれど、葬儀で普段とは違う服を着て斎場に行くと故人の最後の姿がエピソード記憶として長期間記憶に残るので、親しい人の葬儀は最後の思い出としてなるべく参加するほうがよいと思う。・祖先がもたらす時間の感覚我々は誰かが作った社会で生まれて、既に整備されたインフラと科学の恩恵を受けてそれなりに豊かな生活をしているけれど、そこに至るまでには数多の戦と災害があって多くの血が流れて飢餓や疫病や人権侵害に苦しんだ時代を生きてきた祖先がいた。父の実家の仏間に祖父の親戚たちの遺影があって、徴兵適格年齢になって従軍して南方戦線に行って26歳で戦死した人がいた。祖父と祖母が亡くなってその人のことを直接知る人はもういなくなったけれど、血族である私がその人の存在を忘れてはいけないと思う。私は宗教を持たないけれど祖先への敬意はあるので、親戚の家を訪ねたときはその家の宗派のやり方に合わせて水や線香をあげたりする。そうすると私と血族とのつながりを感じられるし、祖先の苦労に報いて勉学に励んで恥じないような生き方をしようと背筋を正すような気になる。最近は経済学者の成田悠輔が「高齢者は集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発言をしたのにキリンがCMに起用したことが批判されて財務省広報誌への起用も問題視されたけれど、成田は戦争中に集団自決した人たちがどんな思いで死んでいったか理解しているのか疑問である。自分の親族に第二次世界大戦で戦死した人がいたら自決を茶化すようなことは言えないだろうし、経済合理性のために凶悪犯でもない人の死を正当化するのは倫理観が欠如しているし、実現不可能な提言をするのは学者としてもおかしい。イェール大学の助教には誰でもなれるわけではないし経済については役に立つことをいうこともあるかもしれないけれど、そんな肩書よりも倫理観があるほうが大事だろうに、そんな人間として当たり前のことさえ理解せずに有名人をCMに使って儲けようとするキリンもおかしい。先達を蔑ろにして今だけ金だけ自分だけを考えてまるで自分がこの時代を築いたかのように振舞う金持ちやエリート、あるいは先祖と祖国を捨てて利己的に国を転々とする根無し草の移民たちは、たとえ一時的に地位や権力や金を得たとしてもいずれ次の時代を生きる人たちに同様に蔑ろにされて居場所を失って誰にも顧みられることもなくなるだろう。戦国武将の収入が何万石だったかを現代人は気にしないように、もし我々が後世に何かの影響を残せるとしたら、いくら金を稼いだかでなく、いかに生きて後世に何を残したのかという点のほうが重要である。葬儀に参列したり祖先の墓参りをしたりすると、今だけ金だけ自分だけを考えず、自分が生まれる前の時間、自分が死んだ後の時間の感覚を得られるのじゃないかと思う。・在日外国人の葬儀の問題最近は日本でも外国人が増えて日本で死ぬ人も増えているけれど、イスラム教徒の土葬を受け入れる墓地が全国に9か所しかなくて墓地不足が問題になっている。土葬自体が違法なわけではないけれど、墓地の新設の許可が下りないことで墓地不足になっている。かつては日本でも土葬をしていて、江戸時代には火葬に否定的な儒教が布教して土葬するようになって、明治時代には明治政府が火葬禁止令を出して土葬を推奨したものの、伝染病の蔓延と土葬可能な土地の減少で火葬禁止令が解除されて火葬が普及したそうな。土葬に対して自治体の条例で土葬を禁止したり地元住民が反対したりするのは、異教徒だから差別しているというよりは農業用の溜め池の水質汚染や伝染病の懸念が大きいのだろうし、エンバーミングをする業者が土葬の安全性を保証できれば禁止する理由は特にないと思う。安全と安心は違うとしばしば言われるように、土葬が科学的に安全だと証明できても地域住民が安心していなくて自治体が禁止しているのであれば、地道に対話して信頼関係を築いて安全だと説得するしかないだろう。あるいは日本政府が移民の受け入れを拡大するなら、単なる労働力と見なさずに死後のことも考えて、地方自治体に対処を丸投げせずに国の責任として外国人用の墓地を整備するべきである。外国人の葬儀のやり方を認めないのは信教の自由を侵害していて外国人差別だと言う人もいるけれど、私は差別ではないと思う。もしチベット仏教徒の在日チベット人が鳥葬をしたり、ヒンドゥー教徒の在日インド人がジャル・プラヴァの儀式として病死した人の遺体を川に流したり、食人習慣がある部族が家族の遺体を食べたりするのを認めないのは差別なのか。おそらく宗教的行為だとしても逮捕されて死体遺棄罪や死体損壊罪とかになるだろうし、もし外国人が日本では違法になるやり方で葬儀をやりたいのであれば、そういう葬儀が許されている母国で弔えばいいし、葬儀が大事ならそもそも異教の文化圏に行かないで母国で生活するという選択肢もある。日本の主権者は日本国籍がある日本人なのだから外国人の宗教や倫理観に合わせて法律を変えるものではないし、どんな宗教的行為であれ法律で違法になっている行為を禁止するのは差別ではないだろう。オウム真理教の教義に基づいてポアした人たちが殺人罪として裁かれて、シャクティパットで病気が治せると主張したライフスペースが殺人罪として裁かれたように、信教の自由はあっても違法な宗教的行為を認めるわけではない。ネパールでは火葬したあとで川で散骨するのが一般的だけれど、日本では漁業を優先して川や湾港での散骨は規制されている。科学的に見れば遺灰はべつに危険な成分ではないけれど、遺灰を食べた魚を食べたくないという心理は大勢の日本人が理解できるものだし漁業への影響が大きいので、漁業権内での散骨を禁止するのも差別ではないだろう。陸上散骨や海洋散骨は自治体ごとにガイドラインがあるので、それに沿ったやり方で周囲と問題をおこさないように散骨すればよい。・葬儀とフィクション登場人物の死は物語の見どころになるのでミステリにしてもアクション映画にしても人が死ぬ展開は多いけれど、死者を弔うことはどういうことかをテーマして葬儀を掘り下げるフィクションがあまりない印象である。有名なのは納棺師をテーマにした映画の『おくりびと』くらいだろうか。純文学だとたいていつまらない葬儀をつまらないまま書いていて、滝口悠生の芥川賞受賞作の『死んでいない者』は通夜を書いていたけれどつまらなかった。自分の親族や友人の葬儀なら過去の記憶を思い出したりして葬儀で感極まることもあるけれど、見ず知らずの他人の葬儀、しかも架空のキャラクターの葬儀を描かれても読者としては特に思い入れもないので、フィクションとしてはつまらなくなる。ドリフの葬式コントだと厳粛に振舞うべき葬式で脚がしびれているのをくすぐったりして変なことをやるギャップを笑いにしているように、コメディーは価値観を逆転すればいいのでやりやすいけれど、それは葬儀の本質をテーマにしたとは言えないだろう。まじめに葬儀をテーマにしてなおかつ面白い作品に仕上げるのはなかなか難しそうで、そう考えると『おくりびと』はそれなりに面白く見れて良い作品だと思う。外国のフィクションでどういうのがあるかを調べてみたら、2007年の映画『Death at a Funeral』は主人公の喪主の男性が癖がある親戚たちに悩まされるダークコメディーのようである。1996年の映画『The Funeral』は犯罪者一家の葬儀で兄弟を殺した相手を探して復讐するような展開のようである。こういうのは葬儀の話というよりは人間関係のいざこざの話で、別に葬儀でなくても結婚式や同窓会でも似たような展開にできそうである。2019年の映画『ミッドサマー』はカルト宗教の異常な人身御供の儀式を描いていて、葬儀というよりは殺人が見どころになっている。こういうホラー系の異常な展開のほうがフィクションとしては作りやすいのかもしれない。
2024.04.29
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Business Insiderの「アメリカのZ世代女子の間で今、流行っているのは「読書会」」という記事によると、パンデミックで孤独になった若い女性が社交のために読書会に参加するようである。アメリカはもともと社交を重視する文化だけれど、孤独な趣味ともみなされかねない読書を社交の手段にするあたりは面白い。というわけで徒然なるままに読書会について考えることにした。●読書会とは何かWikipediaによると読書会とは集団で読書または読書に関するコミュニケーションを行うためのイベントで、読書会の進め方には特定のテキストを一区切りずつ読んでいく輪読会式、特定のテキストを事前に読んだうえで報告や講義をする研究会式、自由なテキストとテーマで発表する発表会式があって、何を読むかについては同一のテキストを扱うテキスト読書会、テーマが同じならどのテキストを使ってもいいテーマ読書会、テキストもテーマも自由な自由読書会があるそうな。大学の文学部だと主に研究会式で特定の小説を皆で合評して様々な視点から小説を見ることで理解を深めるし、大学院の学会は発表会式で各研究者が自分の専門分野の研究内容を発表するけれど、民間の読書会は研究のためというよりもカジュアルに本の感想を言い合って共感するのが目的の集まりといえるだろう。・読書会のメリット読書会のメリットは特定の話題について他人の意見をちゃんと聞けることである。政治や宗教やスポーツの話題だと意見の違いで喧嘩になるかもしれないけれど、本の感想なら正解がないので解釈が違ったところでそういう見方もあるよねと受け流して喧嘩にならなくて相手の考え方を知るきっかけになるし、感想が似ていたら共感して仲良くなれるので、社交の話題作りに向いている。他人の意見を聞いて自分の誤読に気づいたり、自分の解釈よりももっといい解釈に気づいたりして、本やテーマへの理解も深まる。それに読書会の参加者はそれぞれ本の好みや知識量が違うので、一人で読書するよりも関連する知識を集めやすくなる。・読書会による共時性の創出スポーツや音楽や映画はファンが会場に一斉に集まって同じ体験をする共時性があるので、ファン同士が仲良くなりやすい。それに比べて読書は基本的に一人でやるものだし、出版されてからすぐ本を読むとは限らなくて本を読むタイミングが人によって違うので、作家や作品のファンがいてもファン同士で交流しにくい。それにブログやamazonに感想を書いたところで批評家でない素人の感想はほとんどの人が興味を持たない。そこで読書会という場所と機会を作ることで、皆で同じタイミングで同じ作品を読むという共時性が生まれて、自分の感想を丁寧に聞いてフィードバックをくれる相手もいて一人で読書することでは得られない体験ができる。これは読書会ならではの付加価値といえる。大学の文学部の授業内容も独学で勉強しようと思えばできなくもないけれど、教授を中心にして学生が皆で同じテキストを読んで意見を言い合うことに講義の意義がある。・アメリカの読書事情経済産業省の「国内外の書店の経営環境に関する調査(PDF)」という2023年の資料によると、アメリカの書店数は2012年に7244店舗だったのが2020年には5733店舗になって減少傾向だった。しかし新型コロナのパンデミックで書店が人気になって紙の本の売り上げが増えて、独立系書店が増えて大手書店チェーンのバーンズ・アンド・ノーブルも店舗数を増やして2023年には書店数が増加に転じたようである。人気の司会者のオプラ・ウィンフリーのテレビ番組の企画の「Oprah's Book Club」が読書会ブームに影響したそうで、番組で取り上げた本はベストセラーになるそうな。日本で言うと「徹子の部屋」のゲストに作家が来るようなものである。こないだのYouTubeの動画でアメリカにはクリエイティブライティングコースが多いことを取り上げたけれど、アメリカの社会全体で作家に対する敬意があるのはよい。日本だと古典や小説は金儲けの役に立たないから無駄だと言う教養のない拝金主義者が多いけれど、金持ちになっても教養への関心を失わないアメリカの富裕層を見習うべきだろう。文部科学省の「アメリカ合衆国の読書環境・読書活動の実態(PDF)」という2012年の資料によると、アメリカ人はあまり読書をしなくて読書量が減るに従ってティーンエイジャーや成年男子の間で読解力も低下していると言われている。ただ社交するだけなら映画鑑賞会でもスポーツ観戦会でもなんでもいいだろうに、読書会に参加することがイケてる女子のステータスになるのは本を読まないアホな男子と対照的な知的な行為であることが大きな要素だと言えるし、教養マウントとかをしたりしてアメリカの社交界のスノビズムとも相性が良いのだと思う。アメリカの読書会はブッククラブに所属するメンバーが特定のテキストを事前に読んだうえで自由に意見を言う形式で、日本でいうギャルサーに相当する活動としてイケてる女子同士がグループを作って読書会をしているようで、本を読まないで社交だけするメンバーもいて必ずしも本好きの集まりというわけでもないようである。●読書会の可能性人が集まる行為は何かしらのビジネスになるものなので、頭の体操として読書会の発展の可能性を考えてみる。・サロン読書会中世のフランスでは貴族の邸宅の応接間(サロン)に学者や作家とかの文化人を招いて文学論とかの知的な会話をして社交する文化があったけれど、現代でも金儲けに飽きた風流な資産家がサロン文化を復活させて小説家を招いた読書会をして小説家に謝礼をあげたりパトロンになったりしたら貧乏な小説家が生活しやすくなって小説家の地位が向上するかもしれない。・婚活読書会結婚相手を探している男女が恋愛小説の読書会をすれば、職業や年収とかの肩書で選ばずに恋愛観や結婚観が合う人を選びやすくなるかもしれない。会話下手な人でも本の話をすればいいので、話題がなくなって気まずくなることもなくなる。出版社や本屋が婚活読書会を主催してそれをきっかけに結婚する人が増えれば恋愛小説の売り上げが増えるかもしれない。・認知症予防読書会高齢になると自分はもうじき死ぬのだから社会がどうなろうがどうでもいいやと社会や他人に関心を持たなくなって、自己中心的になったり無気力になったりする。町内会やサ高住主催で月に1回くらい読書会をして、自分の意見を言うだけでなくて他人の意見を聞くことを習慣にすれば、社会性を失いにくくなってわがままで周囲に憎まれる老人や無気力な老人になりにくくなるかもしれない。・ホラー読書会ホラー小説の読書会をして、誰かが感想を言うたびにろうそくを消していったり、交代で朗読しながらろうそくを消していったりしたら怖い雰囲気が出て面白いかもしれない。百物語と違って自分で怪談を創作する必要がなくて参加しやすいので、ホラー小説の新作の発表のタイミングに合わせて小規模のイベントを開きやすいと思う。・カラオケ読書会カラオケボックスみたいな時間貸しの小さい部屋で食べ物を注文してBGMを流しつつマイクを使って朗読したらおしゃれな感じの読書会ができて内輪で盛り上がるのにちょうどよいと思う。・聖地読書会フィクションの舞台になった場所は聖地扱いされてファンが集まるけれど、ただ写真だけ撮って帰られても地元の観光業が潤わない。読書会をファン向けの観光ツアーに組み込んで、バスでゆかりの地を巡ったあとに地元の料理を食べながらファン同士で歓談する機会をつくれば観光業の売り上げが増えるかもしれない。・オンライン読書会YouTubeだと政治経済の解説者が自著の宣伝をすることが多いけれど、本を買ってねというだけで実際に買って読んだ人の感想は取り上げない。そこでオンライン読書会を開催して読者同士が感想を言い合う機会を作って著者がコメントしてそれをYouTubeのコンテンツにすればフォロワーが増えるかもしれない。・グランピング読書会パジャマパーティーが子供に人気なように、夕食後から寝る前の自由な時間はなんとなくわくわくするものである。グランピングはキャンプよりも手間がかからないけれど、暇だからといってスマホをいじって日常と同じ行動をするのではグランピングする意味があまりなくなるので、『羆嵐』や『野性の呼び声』とか自然をテーマにした本の読書会をしたら雰囲気が出ていいと思う。・英語読書会英語を勉強している大学生や社会人が洋書を読んで英語で感想を言えば語学学習がはかどるかもしれない。・エクササイズ読書会読書をしている間はあまり体を動かさないので運動不足になりがちである。そこでスクワットやヨガをしながら読書会をしたら運動不足を解消できてよいかもしれないし、一人だと運動を続けられない人も皆でやれば運動が習慣になるかもしれない。・ギャルサー読書会日本だとギャルは遊びまくって変な言葉遣いをするアホっぽい感じがあるけれど、ファッション雑誌がギャル向けの本を特集したらアメリカみたいに知的ギャルを目指すギャルサー読書会がブームになるかもしれない。社会問題の一つも論じられないようでは21世紀のギャルは務まらないようになれば、知的ギャルが尊敬されるようになって若者を代表するオピニオンリーダーが出てくるかもしれない。・社員研修読書会ただ社訓を復唱したり黙って訓示を聞いたりするよりも、読書会でビジネス書とかについて意見を言い合えば会議で発言する訓練になって有意義かもしれない。そんで指導役の先輩が小粋でウィットに富んだコメントを言えれば新卒たちの尊敬を集められるかもしれない。・読書会文学賞読書会で盛り上がった本を全国の読書会グループに推薦してもらって集計して賞をあげれば、読書会ブームが起きて本の売り上げが増えるかもしれない。
2024.04.18
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日本のメジャー大学に小説創作コースがないのは不思議だというコメントをもらったので、日本で文芸創作の教育が不十分な理由について考えた。小林秀雄が「宿命的に感傷主義に貫かれた日本の作家たちが、理論を軽蔑してきたことは当然である」と言ったのは現代でも同じ状況で、又吉直樹が『火花』で「本当に美しかった」と感傷をごり押ししていたのが典型的な感傷主義である。文学賞の選考でも芸術作品として技術の良し悪しを評価するべきだろうに、いい話というということに満足して技術的に下手な小説に文学賞をあげて芥川賞作家としてもてはやすのは悪い傾向だと思う。いい話で満足したいなら大衆小説でやればいいし、芸と術を追求しないなら芸術じゃない。あるいは逆に文体実験とかの奇をてらう一発芸みたいなやり方をやる作家もいるけれど、それは技巧の洗練の結果として生まれた作品ではないし再現性がないのでそういう作家は結局は大成しない。よい小説を作るには地道に技術や理論の基礎教育を充実させて訓練して洗練させていくことが遠回りなようでいて結局は一番の近道だと思う。
2024.04.12
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最近は大谷翔平の通訳の水原一平が大谷の金を使って巨額の違法賭博をしていたことが話題になっているので、徒然なるままにギャンブルについて考えることにした。●ギャンブル(賭博)とは何かギャンブルは金銭や品物を賭けて勝負を争う遊戯で、参加料が有料、勝敗の結果が偶然、勝敗の結果に応じて収益が変わるという条件を満たすものをいう。賭博は厳密に言うと、勝負事の結果に参加者が関与できない賭事と、勝負事の結果に参加者が関与できる博戯に分かれている。日本だと競馬、競輪、競艇、オートレースが公営競技になっていて、それ以外の賭博は賭博罪で処罰される。宝くじも当せん金付証票法で定められた都道府県と都市だけが発売できて、個人や会社が発売すると違法である。●ギャンブルで勝つために必要な要素・運宝くじやBIGのようにギャンブルの参加者がどういう能力を持っていようが完全で運で当たりが決まる賭事は、参加者は労力を使わずに実力以上の大金を得る可能性があるので少額で気軽に参加しやすい。しかし当たらない確率の方が高いので、パチプロと違って宝くじだけで生計を立てるくじプロみたいな人はいない。・判断力競馬だと実力がある一番人気が必ず勝つとは限らなくて馬の機嫌が悪いとかの運の要素もあるし、単勝だと当てても配当が低いので、連番のどの組み合わせに賭けたら儲かるかというリスクとリターンの判断力が必要になる。totoはBIGと違って賭ける人が勝つチームを選べるので、サッカーのどのチームが強いとかどのチームの戦術とは相性が悪いとかの知識も必要になるけれど、主力選手がけがやファールをして退場するとかの運の部分は予想しきれない。FXも不確定な未来を予測して金をかけて参加者同士でゼロサムゲームをしているという点ではギャンブルで、金融政策や外国の選挙の影響等の知識が必要になるけれど、戦争や災害とかの予想できない突発的な事態で相場が大きく動く運の部分もある。ポーカーや麻雀のように参加者同士で競うゲームは配られる手に運の要素があるし、そこから相手の手を推測してどう自分の手を展開していくか、勝負するか勝負を降りるかという判断力が必要になる。1回限りの勝負なら運の要素が大きいけれど、ゲームを何度も繰り返す場合は状況に応じて適切な判断ができる人が総合的に勝つようになるので、ギャンブルで生計を立てるプロのギャンブラーが出てくる。・技術パチスロは台の良し悪しの判断力に加えて、目押しするためにはリール配列を覚える記憶力や動体視力や素早くボタンを押す身体能力が必要になる。その技術をもっと生産的なことに使えばいいのに。●ギャンブルの問題・ギャンブル依存症になるギャンブルをする人が320万人いるうちの3%くらいがギャンブル依存症になるそうで、大阪のカジノ誘致などでギャンブルする人が増えるほど依存症になる人も増えていく。ギャンブル依存症になると家族や職場の金を盗んだりして周囲にも迷惑をかけるようになる。ギャンブル依存症や麻薬中毒や性犯罪のように、快楽に関する依存症は脳の報酬系や価値判断に異常をきたしていて治療で認知や行動を変えさせるのに時間がかかるし、治療中に快楽の欲求に負けて再犯しやすいので社会復帰が難しくなる。水原一平はギャンブル依存症だと告白したけれど、年収数千万円あって通訳としては高収入なので違法なギャンブルをやってまで金を儲ける必然性がないし、堅実に不動産や投資信託に投資して老後はSNSで大谷の思い出話とかをしておけば一生食いはぐれることはなかっだだろう。いくら高収入だろうが欲を自制できなくて高額ベットをしたら破滅するところにギャンブル依存症の危険性がある。ギャンブルはホストクラブの売掛金の問題と似ていて、たとえ合法であっても少なからず不幸になる客を生み出して依存して犯罪までする客の金で儲けている事業は行政が放置せずに健全化のために規制するか改善していくべきで、例えば公営競技をクレジットカードを持っていないと賭けられないシステムにして、カード会社の与信情報を使って最大でも与信枠内までしか賭けられないようにしたら自制できずに持ち金を全部ブッ込む人を減らせるかもしれない。パチンコやパチスロは業界共通のIDカードを作って全店舗合計で週に最大〇時間までしか遊べないように規制したら一年中開店から閉店まで入り浸るギャンブル依存症の人を減らせるかもしれない。・働かなくなるギャンブルで労せずに大金を得られるようになると、低賃金でこき使われてまじめに働くのが馬鹿らしくなって働かなくなる。そうすると仕事で得られるはずだった知識や技術が身につかなくなるので、金がなくなってから働こうとしても就職先がなかったり、社会全体の生産能力が落ちたりする。・収入以上に借金をするギャンブルをしていると借金をしても一発当てれば取り返せるという甘い考えになって、いったん金銭感覚が狂うと歯止めが効かなくなって、収入からこつこつ借金を返済しようとせずにギャンブルで勝って返済しようとして返済のめどが立たない無計画な借金が増えていってしまう。ギャンブルのために借金をした場合は免責不許可事由として自己破産が認められないので、借金で生活が破綻しても多重債務から抜け出しにくくなる。・生活保護受給者の社会復帰の妨げになる生活保護をもらったとたんにパチンコや競馬に全部使って負けて家賃を払えなくなる人もいるし、勝ったら勝ったで収入を申請しないと生活保護の不正受給になりうるし、公金で無職のギャンブラーの生活を支援するのも倫理的にどうなのという話になるし、ギャンブルが原因で生活が破綻して生活保護を受けている人はまずギャンブル依存症を治さない限り社会復帰できなくなる。・治安の悪化借金で首が回らなくなった人が闇金に手を出して返済を急かされて目先の金欲しさに強盗をする場合がある。強盗したところで全額返済できるわけではないし前科がついたら就職先がなくなってますます返済が難しくなるのに、返済に追われてテンパっている人には合理的な判断ができなくなって犯罪をやってしまう。家族の金を盗んだり、会社の金を横領したりする場合もある。パチンコ店で暴れて台を壊したり店に放火したりする人もいる。負けるのが嫌ならパチンコをやらなきゃいいじゃんと思うのだけれど、ギャンブル依存症になっている人はギャンブルに固執して勝てないことでストレスをためて暴発するようである。パチンコ店の駐車場の車に子供を放置して熱中症で死なせる事件もたびたび起きている。外国だとサッカーやボクシングがギャングの賭けの対象になっていて、大金を賭けた試合でミスをして負けた選手が損したギャングに殺されたり、ギャングに脅されたり買収されたりして八百長を指示されたりして、スポーツの健全性も脅かされている。例えば1994年にワールドカップでコロンビア代表のエスコバルがオウンゴールして負けた原因を作って射殺されたけれど、これは賭けで損したギャングの指示でヒットマンに殺害されたと見られている。・反社会的勢力の資金源になるいくら法律で公営競技以外の賭博を禁止したところで、賭場はたいした設備がなくてもすぐに開けるので反社会的勢力の資金源になりやすい。ビルやバーの一室が闇カジノに使われたり、店舗がなくても競馬や野球賭博のノミ行為も行われたりする。オンラインカジノも資金源になる。日本人が外国のオンラインカジノで賭けるのは違法だと警視庁のサイトで言っていて年間で59-127人程度が検挙されているけれど、オンラインカジノは違法でなくてグレーゾーンだというサイトがたくさんあって、たぶんカジノ運営側が違法でないかのように誘導しているのだろう。カジノはマネーロンダリングにも利用されて、犯罪で手に入れた出所を明かせない金でもカジノでチップに変えてそのチップを預けておけば銀行代わりに裏金をプールしていつでも現金化できるようになるし、どのゲームでいくら勝ち負けしたかという明細も出ないので金の追跡が困難になる。●なぜギャンブルにはまるのか・大儲けしたときの快楽が忘れられないギャンブルは胴元が必ず儲かる仕組みになっているとはいえ、負けた客が二度とギャンブルをやらなくなるのではすぐに客がいなくなってビジネスにならない。そこで胴元は負けた客でもそれなりに楽しめて勝った時にはさらに興奮が増すような仕組みをとりいれる。例えばパチンコは台がぴかぴか光ったり、漫画やアニメをテーマにしてリーチ時に特別な演出が出て焦らしたり、大音量で音楽を流したりして客を楽しませるようにしている。そんでコツコツと負けを重ねてたまに大当たりして儲けるとドーパミンがどぱどぱ出て、トータルでは損をしていても大儲けした時の成功体験が記憶に強く残って、その快楽がまた欲しくなってギャンブルにはまるようになる。普通に仕事をして節約して貯金額を増やすのでは成功体験によるドーパミンの快楽は得られないので、ギャンブルにはまる人は金が増えるかどうかよりも快楽を求めているといえる。・興奮が欲しい欧米人にはアドレナリンジャンキーと呼ばれるスリルを楽しみたくて仕方がないタイプの人がいる。例えばビルの屋上でパルクールしたり、電車の屋根に上ってトレインサーフィンしたりして、金銭的リターンがないにもかかわらず危険を追求してたびたび死んでいる。そういう人がいたからこそ古代の人類がリスクを冒して旅をして山や海を越えて世界中に生息域を広げてきたのだけれど、現代ではあまり必要がない能力になっている。そういう人は退屈な日常生活では満足できないので、ギャンブルで大損して破産するかもしれないというスリルを楽しむようになる。成功した時のドーパミンの快楽が欲しい人とは違うタイプである。・運を言い訳にできるスポーツのように完全な実力を競うゲームと違って、ギャンブルは運の要素が大きい。そうすると負けたときに運が悪かったという言い訳ができる。合理的に考えればギャンブルで損する人はギャンブルに向いていないし続けたところで損を増やすだろうからやめたほうがいいのに、ギャンブルで取り返せると考える自信過剰な人が多いようである。たぶん何度か大勝ちした経験があるので、運よく勝てたとは思わずに実力で勝ったと勘違いしているのだろう。勝った時は実力、負けたときは運のせいにできて、自分に都合がよい解釈ができるわけである。・すぐに負けを取り返せる可能性があるギャンブルは競馬の大穴やスロットのジャックポットのように、ごく稀な大当たりで大金が手に入る場合がある。なまじ負けを取り返せる希望があるせいで負けたときが辞め時にならなくて、負けた分を次で取り返そうとしてさらに負けが込んで掛け金が大きくなっていく悪循環になる。株の投資の場合は大きな利益を出すには数か月から数年の時間がかかるし、休日は取引できないので、投資家は損をしたら素直に損切りして再エントリーの機を見たりして冷静に判断する時間があるので投資依存症みたいなものにはならない。ギャンブルでは負けを次の勝負ですぐに取り返せる可能性があって冷静になる期間がないので興奮状態のままブッ込むことが依存する原因になっていると思う。・サンクコストを捨てられないパチンコやスロットだと打ち始めてすぐ当たりがでるわけではないので、もうちょっと打てば当たるかもしれない、いまやめたらその台への投資が無駄になって次に打つ人に当たりが出てしまうかもしれないという心理が働いて辞め時が難しくなって長時間プレイする原因になる。●健全なギャンブルの楽しみ方・借金をせずに余剰金を使うギャンブルだけでなく投資にも言えることだけれど、基本的に生活に必要な命金には手を付けてはいけないし、返済のめどがない借金をしてはいけない。ギャンブルが主な収入源として生活の中心になってしまったらそれはもはや健全とは言えないので、たとえ一時的に勝って儲かったとしても普通に仕事をして安定した収入源は維持するべきである。そんで生活に余裕があったら一定額の余剰金を使ってギャンブルをして、勝ったとしても全額をギャンブルに使わずに一定額を次回の余剰金分としてプールしておいて、負けて余剰金がなくなったらあきらめてそこで終わりにして、また余剰金がたまってからギャンブルをやればいい。それなら生活に影響が出ることはない。・金を賭けずにギャンブルに似たことをするゲームセンターのコイン落としはジャックポットがあったりして仕組み自体はギャンブルと似ているけれど、金でなくてコインを使っているのでゲームとして楽しめる。パチンコやパチスロやカジノのアプリのように金を賭けずにただのゲームとして遊べるアプリもある。・金を賭けずに「一時の娯楽に供する物」を賭ける「一時の娯楽に供する物」とは関係者が即時に娯楽のために費消するもののことで、食べ物やたばこなどを賭けても賭博罪にはならない。例えば弁護士ドットコムニュースの記事ではテレビの企画の「ゴチになります!」で金額当てゲームで負けた人が全員分の飲食代を払うのは賭博罪にならないと解説している。・他人のギャンブルを眺めるYouTubeではパチンコやパチスロや競馬の動画が無数にある。ギャンブル依存症を治したい人は自分で金をかけずに他人が金を賭けて一喜一憂する様子を見て代償行為として満足しているのだろう。他人の不幸は蜜の味とかメシウマとかいうけれど、ギャンブルで大損して泣きわめいている自業自得の人は同情せずに安心してニヤニヤ眺められる。●我々は皆ギャンブラーである金銭を賭けた賭博をやらない人でも、不確定な未来に対して時間(ある期間の労力や学習にかかる費用)を賭けて勝負して成果を得ようとしているという点では我々は皆ギャンブラーである。例えば高校生がいい大学に行っていい会社に就職しようとして同学年の人と学力を競うのは賭博よりは運の要素が少なくて実力通りの結果になる確実性が高いけれど、それでも運が悪くて勉強したところが試験に出なくて数点の差で不合格になったり、大学を卒業するときに運が悪くて不景気で就職に失敗したり、病気や災害や戦争が受験と重なって勉強どころでなくなったりする人は少なからずいる。人間関係でも無数にいる人の中からいい人と出会えるかどうかは運だし、出会ったところでうまく付き合えるかどうかはある程度時間をかけて話を聞いてみないとわからないし、自分より容姿や性格や財産が勝っている恋敵に横取りされることもある。別れる時にプレゼントやデート代を返せと言ってサンクコストを回収しようとするみみっちい人や執着してストーカーする犯罪者になってはいけなくて、賭けに負けたらあきらめて引くべきである。リスクを取らないで平凡に慎ましく生きるのは別に悪いことではない。しかしリスクに無自覚でリスクマネジメントができなかったり、リスクを過剰に恐れて子供の可能性の芽を摘んだりするのはよくない。しばしば親が子供が芸能人やミュージシャンや小説家や漫画家を目指すことに反対したりするけれど、たいてい成功するのは親の反対を押し切ってリスクを取った人たちである。金を賭けるのと違って夢に破れたからといって生活ができなくなるわけでもないのだから、運否天賦でえいやっと夢に賭けてみればいい。どういう家庭に生まれてどういう遺伝子を持っているかも運だし、どう生きるにせよ自分の思い通りになる人生なんてないのだし、非生産的なギャンブルで一喜一憂するよりも限られた人生のうちの数年の時間を何か生産的なことに賭けるほうがよっぽど楽しいと思うし、たとえうまくいかなかったとしても真剣に取り組んでいたら何かしらの能力は身につくので次の挑戦につながるものである。
2024.04.01
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