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頭文字G(あたまもじじい)──。それは、貧乏なおっさんが一日20分ギターを練習してじじいになって頭が禿げる前に三流天才ギタリストになることを目指す極小プロジェクトである──。というわけで、3年かけて12/8拍子のギターの曲を適当に作曲して適当に演奏したのだった。録画して聞き直してみるとだいぶ演奏が下手だけれど、ダウンストロークで弦をはじいているので右肩への負担が大きくて、正確に音を出すのがなかなか難しいのである。●不完全であることの是非この演奏の完成度は8割くらいで下手なところが目立つけれど、ギターの12/8拍子でやろうとしたことの大まかな感じは十分伝わると思ったので、とりあえずこれでいいやと思って動画にすることにした。正しい猫はいないし正しい猫の夢もないし猫はジャンプに失敗したりするのだからどう演奏しようがコードを外れようが不協和音だろうが間違いではないというコンセプトの曲なので、完璧でなくてもよいのである。ニャ長調はそんなもんである。そんで残り2割の完成度を高めるために練習するよりも次の曲の作曲をしたくなったのである。そもそも芸事の発表では完璧である必要はないと思う。音楽のコンクールとかだと技術が評価対象になるので楽譜通りの完璧な演奏を求められるしそれが演奏家のキャリアになるし技術の向上にもつながる。しかし鑑賞する側は苦行の結晶のような緊張に満ちたものを見せられてもリラックスして楽しめないだろう。世界文化賞を受賞したピアニストのアンドラーシュ・シフが「コンクールは消えてしまえばいい」と言ったように、芸術はスポーツとは違うのだから難しい曲を早く正確に弾ければよいというものでもない。明治時代のピアニストの久野久は爪が割れるまで練習して鍵盤を血まみれにして演奏したそうだけれど、そういうのは演奏する側も聞く側も音を楽しめないので「音楽」ではないし、ストイックが必ずしも良いこととは限らない。兼好法師の『徒然草』の150段には芸事がうまくなるまで人に知られないようにする人は芸を身に付けられなくて、未熟な時に上手な人に交じって嘲られても練習を続けられる人が年を取って達人になるというようなことが書いてある。これは私も同意で、未熟で下手なのは恥ずかしい事ではなくて伸びしろがあると言えるし、江口寿史みたいに基礎練習をせずに歳をとっても手がうまく書けないままで写真をトレースして実力以上のクリエイティブを偽装するほうが恥ずかしい。江口寿史は未熟さに向き合わずにトレースに頼って成長が止まったことを作風の完成と勘違いして大御所ぶって傲慢になって晩年になって名声を失っていて、若い芸術家の反面教師になるだろう。全知全能の人などいないし何かの専門家でも他の分野では無知で未熟な素人なのだから、自分の未熟さを自覚して知らないことを謙虚に学んで間違いを正す姿勢を無くしたらだめである。人間国宝級と言われるレジェンド寿司職人の森田一夫は90代になっても現役で寿司を握りつつ弟子を育てていて、「いちばん大切なことは礼を尽くすこと。人にも食材にも謙虚であり続けること」と言っているけれど、江口寿史も人に対する謙虚さがあれば後輩に嫌われるような老人にならなかったかもしれない。オードリー・タンは京大AI特別講演の学生へのメッセージで「朽ちる前に公開せよ(publish before I perish)」が重要で、完璧なものを投稿したら他の人はいいねを押すだけで去っていくけれど、不完全なものを投稿したら他の人が直さなきゃと思うので友人が増えたというようなことを言ったそうな。この考え方は変化が激しい分野では重要で、ITは技術の進歩が速くてハードの規格が変わったりするので、ある程度形になったら無料ベータ版でテストユーザーを募ってテストしたり不完全なままリリースしたりして、ユーザーのフィードバックをもらいながらバグを直したり機能を付け足したりしていく開発の仕方が主流になっている。レオナルド・ダ・ヴィンチは未完成作が多くて、『モナ・リザ』は手放さずに何度も修正していたそうだけれど、どの段階で芸術作品を完成と見なすのかというと、大まかな形が出来上がって作家がそれ以上修正しなくなったときが完成と言えるだろう。クリエイターは納期までに作品を仕上げて売って収入を得ないと生活できないし、ITのサービスやオンラインゲームと違って作品を売った後で修正することができないので、修正点があるとしてもこの程度ならまあいいやと妥協して作品を売ったり公開したりしたときが一応の完成となる。作者が日々成長していたらその都度修正したいところが出てきていつまでも作品が完成しなくなるし、新しい作品に取り掛かることができなくなるし、何点か作品を展示しないと客の興味も惹けないので、コンクール用とかでないなら完璧でなくてもある程度仕上げたところで作品を発表してフィードバックをもらって、フィードバックを活かして新しい作品で別の挑戦をするほうがよいだろう。
2025.10.17
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最近はSora2でかなりリアルな動画を生成できるようになったり、江口寿史のトレパクが次々に発覚したりして、手仕事の器用さがなくてもITを使えばそれっぽい作品が手軽に作られるようになっている。というわけで徒然なるままに芸術の身体性について考えることにした。●芸術の分野によって身体への依存度が違うダンスでは表現を全部身体能力に依存していて、音楽に合わせて全身の筋肉を部位ごとに細かく正確に動かす必要があって、常人にはできないようなバレエの高いジャンプやヒップホップの力技とかが芸の見どころになる。音楽では歌なら声帯や舌の調整能力や肺活量、吹奏楽では肺活量、弦楽器は指先の器用さ、打楽器は筋力や持久力が必要になる。頭の中に理想の音楽があっても実際に演奏して具体化できなければ音が鳴らないので、複雑な曲ほど習熟が必要になって身体への依存度は高くなる。美術では絵具や木や布とかの素材の特性を理解して加工したり、加工のための道具を使いこなしたりする器用さが必要になる。現代美術だと作家自身の肉体を作品の一部として展示したりもする。コンセプトアートみたいに着想が一番重要で身体能力をあまり必要としないものもある。カメラマンは山に登ったり海に潜ったりして被写体がいるところまで出かけて行ってシャッターチャンスが来るまでじっと待つ体力が必要になる。肉眼で見えない部分をレンズやストロボの性能で補うという点ではカメラはメガネのような肉体の拡張機能ともいえるし、高性能のカメラだけあればいいわけではなくて撮る人の着眼点や構図とかのセンスも必要になる。演劇や映画だと俳優がセリフを言うだけでなくて身振りや表情などで細かい感情の機微を表現する必要があって、野外ロケの暑さや寒さに耐えながらアクションをしたり何度も撮り直したりする体力も必要になる。小説では筋力は必要なくて鉛筆やキーボードで文字を書ける人は誰でも書けるけれど、脳への負荷が高くてキャラクター設定やストーリーを全部覚えて矛盾がないように仕上げる記憶力が必要になる。音楽や絵画やダンスなら子供でも天才的な才能を発揮する人がいるけれど、小説は天性の身体能力でのゴリ押しがきかなくてコツコツ古典や文学理論の本を読んで思想や技術を理解しないと作品に反映できないし、作者の知性が登場人物の知性の上限になるので、子供の天才小説家はいない。・芸術と宗教と身体性古代ギリシアの神殿で悲劇を演じて神に捧げたり、神社で奉納舞をしたり、スーフィズムのイスラム教徒が歌やダンスの陶酔状態で神と一体化しようとするように、芸術は神事や宗教とも関連している。こないだ合理性について考えたけれど、芸術作品の創作は非合理と合理の境界を模索して具現化して、自らの身体を神が作った合理的な世界の秩序と一体化させる行為と言える。だもんで身体を伴わないやり方で、例えばAIが作曲した電子音楽に合わせて踊る3Dホログラムを投影したりしても、演奏する人や踊る人がいないのでは身体に神性(合理性)が宿らなくて神が降りてこないので、神への奉納の儀式にはならないのじゃないかと思う。●現代人には観察眼が欠けている芸術家にとっては目や耳とかの感覚器官が美をとらえるうえで重要だけれど、現代人には観察眼がなくなっているのじゃないかと思う。江口寿史のトレパクは観察眼がない典型じゃなかろうか。トレースについて考えるという記事で2022年の古塔つみのトレースについて考えたけれど、江口寿史のトレパクも同様のパターンのようで、トレースという手法の良し悪し以前に権利関係をクリアできていないのはプロの仕事としてだめだし、写真をなぞらないとうまく絵を描けないのは絵描きとしての能力が足りない。あとトレパクをして美人を描くような男性イラストレーターには創作の源泉になるようなミューズがいないのかもしれない。昔の画家は観察眼があって、竹久夢二や東郷青児は派手な女性遍歴があって女性をつぶさに観察したからこそ女性のしぐさや雰囲気やうなじの曲線とかに美を見出して独特な美人画を描けたのだろう。それに対して江口寿史のイラストは写真からトレースしているので輪郭はリアルだけれど、その作者でしか表現できないような美的感覚の表現がなくて、目や鼻だけデフォルメしたジェネリック二次元イラストという感じである。被写体にこだわりがないから誰の写真でもそのままトレースして、自分の眼で人物を観察していなくて人物の骨格や肉付きや光の反射や影の向きとかを理解していないので服装やポーズを変えてアレンジすることもできないのだろう。EDWINのコラボTシャツ用のイラストでリーバイスのジーンズを履いた女性をトレースするあたりも観察眼のなさが出ていて、履き古した色落ちなのかケミカルウォッシュなのかとかでジーンズの個性は多種多様だろうに、ジーンズの色やシルエットやリベットやステッチとかのブランドのこだわりが見えていないようである。503や505とかのモデルを特定できるくらいジーンズの特徴を描き分けできないのではコラボする意味がないのじゃなかろうか。小林秀雄が小説を見て小説を書くなということをどこかで言っていたけれど、これは慧眼で、テレビがない大正時代でも観察しないで創作することにダメ出しされていた。そのうえ戦後にテレビやカメラが普及してから観察眼の劣化に拍車がかかって記憶を写真に保存するようになって、平成にパソコンとインターネットが普及して記憶をストレージに保存するようになって、令和にはスマホが普及して自分の眼で物事を見ずに何でもスマホを向けて写真や動画を撮ってSNSで反応をもらおうとして観察眼が失われていったのだろう。赤ん坊は初めて見たものに興味を持って撫でまわしたり口に入れたりしてその存在を確かめるように、赤ん坊のほうがスマホに依存している大人よりもちゃんと世界を観察しようとしている。観察がないとその後の洞察もなくなって、洞察がないと定見が持てなくなって、絶えず変化する現実に圧倒されて翻弄されて焦点が定まらなくなって、他人の意見に流されるようになる。洞察がないまま創作した作品もうわべの体裁を整えたところで軽薄になる。江口寿史の絵は影がおかしかったりトレース元の写真から指が一本少なくなっていたりして、パッと見て人の姿はしているけれど人を描いていない軽薄な絵で、もし私が猩々だったら「人でも獣でもないもの連れてきた」と石を投げたくなるような絵である。●芸術作品へのAIの使用の是非人間が観察眼をなくしてリアリズムの作品を作れなくなって、読書量が減って読解力や長文を書く能力も落ちている一方で、AIは無数のデータから学習してリアルな映像や自然な長文を作りつつあるという逆転現象が起きつつある。じゃあAIを創作に使うほうがいいじゃんという話になる。AIが著作権の問題をクリアしたうえで、AIで直接完成作品を作るのでなくて作品に使う素材を作るのならよいと思う。村上隆は日本画をモチーフにした絵を作るときにAIで線を抽出していると言っていたけれど、そういう使い方なら問題ないと思う。私は以前blenderでYouTubeの動画用のパンダの3Dモデルを作ろうとしたけれど半日くらいいじってみて結局よくわからなくて面倒くさくなって諦めていて、Sora2とかで自作のイラストから簡単に3D化できるのならそっちのほうがよくて、微調整ができなくても簡易さのほうを優先したい。音楽はAIが作曲してAIが歌ってもあまり面白くなくて、人が歌ったり演奏したりするから面白いものである。なのでAIをメインにするのでなくてコーラスや合いの手とかの脇役に使ったり、人間だと喉を傷めるデスボイスをAIにやってもらったりすると音楽の表現の幅が広がるかもしれない。AIで俳優が要らなくなるとも言われているけれど、実在する美男美女の俳優を起用することは話題作りや集客の上で重要なので、俳優が必要なくなることはないだろう。ゾンビ映画の道端に転がっている腐乱死体役みたいなのは俳優を使ったところで演技力が鍛えられるわけでもないし俳優の実績にもならないし特殊メイクや衣装代とかの製作費もかさむので、セリフや動きがないモブ役はAIの合成でいいと思う。映画やアニメは制作期間が長くてそのぶん人件費とかの費用かかるのがネックだけれど、AIで経費を節約したぶん個人製作しやすい環境になれば短編映画や短編アニメとかで頭角を現す若手監督も出てくると思う。Sora2で量産されているショート動画みたいなAIを使って誰でも簡単に作れる程度の作品は価値がなくなって飽きられる一方で、AIを使っても作るのが難しいようなディレクションのアイデアが優れている作品は価値が残るだろう。●鑑賞する側は体があるいくらIT技術が進化してデジタルで作品が作れるようになっても、鑑賞する側は体があるので、その五感を満足させなければ作品の価値が出ないだろう。例えばVRやホログラムがいくらリアルになっても、触覚も人間の喜びになりうるので視覚だけで代替できるものではなくて、プラモデルやぬいぐるみとかの実物を触って動かしたいという需要がなくなることはない。読書は電子書籍で読むのではあまり記憶に残らないようで、本の重さや紙の質感やインクの匂いとかの本の個性を感じながら読むほうが読書を楽しめる。花火は動画で見てもあまり面白くなくて、びりびりする空気の振動や火薬の匂いや周囲の人のうきうきした雰囲気とかの五感で感じる夏の夜の稀有な体験が面白いのである。ITで何ができるかだけ追求して鑑賞する人を置いてけぼりにしてしまっては芸術作品の存在意義がなくなってしまうので、視覚や聴覚だけでなくて他の感覚に対しても人を喜ばせる作品であるほうがよいだろう。
2025.10.09
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