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最近は銭湯絵師見習いかつ若い美人モデルの勝海麻衣がイラストレーターの猫将軍の虎の絵を盗作したことが巷で話題になっている。
私は子供の頃に絵を描くのが好きで漫画家か画家になりたいと思ってペンだこができるくらい絵を描いていていたのだけれど、田舎の本屋にはデッサンの仕方の本なんかほとんど売っていなくて絵の描き方がわからないので絵がうまくならないし、ゲームがドット絵からCGになったのを見て、これからは絵の具を塗る技術がなくてもパソコンがあれば誰でもきれいな絵が描ける時代になって絵では食えなくなるだろうなと思って、画家を目指すのはあきらめた。私の予想は当たって、今ではパソコンとソフトウェアの性能が上がって誰でもそれなりに上手い絵を描けるようになって、pixiv絵師がソシャゲのキャラクターを安い単価でダンピングして描いている有様である。絵で生計を立てるのは難しいと思っていたのに、佐野研二郎がポンポンと剽窃した後も普通に仕事していたり、たいして実力も実績もない勝海麻衣に仕事がポンポンと舞い込んでいるのを見て、金とコネがある人は絵で食えるのだとわかって、コネもないうえに絵が下手な私が画家を目指さなくてよかったと改めて思う。大勢の消費者に作品を売るコンテンツビジネスと違って、一点物の芸術作品を売る場合は世間の評価がどうであれ買い手や発注者さえいれば商売として成り立つわけで、買い手を見つけるコネがあれば才能がなくてもプロ芸術家になれるわけである。
勝海麻衣や彼女の絵に対する批判は同業者とか大学教授とかいろいろな人が言っていて、絵が下手な私は彼女の絵について特に言うことはないので、盗作という行為について考えることにする。
●なぜ盗作はいけないのか
・盗作は芸術作品ではない
なぜ盗作はいけないのかを考えるには、まず芸術とはどういうものかということを考える必要がある。小林秀雄は表現というのは英語でexpressで、外に(ex)押し出す(press)ものだというようなことを言っていたけれど、作者の内側にある思想や感情を言葉、色、形、音、踊りなどで外側に表して、作品として現出させることで芸術的表現となるわけである。私がバーで知り合った人で、母親を殺したいほど憎んでいるのでそれを小説にしたいという青年がいたけれど、彼は小説家になって人気者になりたいから小説を書こうとしているわけではなく、感情を外側に押し出すことで憎しみを昇華したいわけで、この表現は彼だけがなしうる彼の人生固有のものである。これに対して、盗作して見た目が似たような作品を作ったとしてもそれは作者の思想や感情の「表現」ではないので、芸術でもない。盗作はオリジナル作品のアイデアを奪おうとするだけでなく、作者の人生の一部を奪うことになるがゆえに悪いことなのである。有料写真素材とかの商業作品をコピーしたりトレースしたりする程度なら素材使用料を払えば問題が解決するのでまだ罪は軽いほうだけれど、たいていの芸術家は人生をかけて制作に打ち込んで一点一点の作品に自分の独自の思想や経験や技術を反映させたメッセージを込めるわけで、その人生の一部ともいえる芸術作品を盗作して苦労せずに金を稼ごうとする人は、いくら技術があろうが芸術家と呼ぶに値しない盗人なのである。
・模倣はよいのか
詳しいことは 模倣について というページで書いたけれど、模倣は芸術家の成長過程では役に立つし、特に技術を習得するには同じものや似た構造のものを作ってみるのが大事である。リバースエンジニアリングのように完成作を分解してどういう技術や工程でそれを制作したのかを考えて自分で作ってみることで自分の技術になる。模倣するとそれなりにうまい作品ができるので、周りの芸術をよく知らない人はうまいねーすごいねー才能あるねーとちやほやしてくれる。しかし模倣は自分の「表現」ではないので、習作として模倣するのはよいけれどそのまま自分の芸術作品として売って金儲けしてはいけない。模倣する段階の人はまだ芸術家として独り立ちするレベルでないし、模倣するにしてもまず師匠の模倣をして修行して師匠に追いついてからのれん分けしたりして独り立ちするのが筋である。
●なぜ盗作するのか
・素人には芸術がわかりにくいので盗作がばれにくい
絵画というのはたいてい一点ものだし、技術的な問題で画像検索の精度もまだ低いので、よほど有名な作品から盗作しないかぎりは盗作してもばれにくい。勝海麻衣は日本で知られていない外国の画家から盗作したようで、盗作された画家は自作が外国で盗作されているなんて知りようがないし、盗作したに違いないと疑って入念に調べでもしない限りは他の人から見たら盗作だとわからないし、武蔵野美術大学の卒業制作も盗作がばれずに優秀賞を受賞している。さらに現代美術は特有のコンテクストを理解しないと作品の価値がわからないので、なおさら素人にはわからない。もし類似を指摘されたとしてもインスパイアだとか、コピペ文化を風刺したパロディだとか、額縁にとらわれたモチーフを開放した現代美術だとか言い逃れする余地もある。勝海麻衣の盗作が発覚したのはたまたま猫将軍の虎の絵の所有者がライブペイントのイベント会場にいたことがきっかけだったけれど、その偶然がなかったら盗作がばれずに見過ごされていたかもしれない。つまりはパクリストにとっては盗作が発覚するリスクよりリターンが大きいので盗作するインセンティブがあるわけである。盗作がばれたらキャリアを失うけれど、ばれたところで刑事罰があるわけでもなく、民事での賠償金額もたかがしれているし、ばれなかったら楽して気鋭の芸術家ぶれて周りがちやほやする。その誘惑が勝って盗作で賞を受賞したりして功績を上げるようにようになると、大勢の人の目について盗作がばれやすくなって、ついに砂上の楼閣が崩れることになる。
・自己愛性人格障害の人が過剰な称賛を求めている
称賛されたがるのは自己愛性人格障害の特徴である。作品を作ることよりも自分に注目してほしいというのが目的で、注目されるに値するすばらしい作品を調達してくるわけである。勝海麻衣はモデルのようにポーズをとって作品と一緒に写真に写っていて、作品よりも自分が目立ちたいという様子があからさまに出ていた。ちなみに芥川賞候補作になった『美しい顔』も資料の剽窃(講談社の主張は無断引用)が問題になった。この作者の北条裕子もモデルという肩書きで勝海麻衣と似たような売り出し方をしたかったようだけれど、震災をそのまま舞台にしたせいですぐに関係者に剽窃がばれて失敗した。自分の間違いを認められないのも自己愛性人格障害の特徴である。批判されたくないので短絡的な嘘をついてその場をごまかそうとして謝らないのである。アルベルト・スギの絵を盗作した和田義彦は「同じモチーフで制作したもので、盗作ではない」と盗作を認めなかったけれど、どう見ても盗作なので結局は賞をはく奪されて画家のキャリアを終わらせることになった。勝海麻衣は猫将軍に対して盗作を認めなかったせいで印象を悪くしてSNSに公開していた過去作品をすべて検証されることになってしまってかえって傷口を広げた。実力不足だったので魔が差したと素直に謝ればまだ若くて将来があるのだからと許してくれる人もいたかもしれないけれど、謝り時を逃したらもう謝る機会がなくなって、悪いイメージを拭うことができなくなっていつまでも汚名が付きまとうことになる。
・実力不足を補いたいので盗作する
もともと創作の実力があれば盗作する必要はないわけで、着想や構成や技術などのどこかの要素が実力不足だから、それを補うためにうまい人から盗作するわけである。
私の偏見かもしれないけれど、実力不足で盗作するのは若い女性が多い印象がある。もちろん男性にも和田義彦のように盗作する人はいるけれど、少なくとも和田義彦には基礎技術はあるようで、アルベルト・スギと和田義彦の作品を比べてどちらがオリジナルなのかは絵画の素人が見てもわからないくらいに似ている。しかし女性が盗作する場合は実力不足が作品に顕著に出ていて、オリジナルと比べた場合に劣化しているのが素人が見てもわかる。基礎的な技術が足りないだけでなく、モチーフに愛着がない横着さが作品にも出ていて細部の仕上げが雑なのである。
一般的な仕事は男性中心で女性は冷遇されているけれど、芸術の場合は女性が優遇されていて、私立女子大学の美術や音楽コースが充実しているし、紫式部文学賞やR-18文学賞のように女性だけを対象にした賞があるし、作品はたいしたことがなくても若い美人というだけでスポンサーがついて偉いエロいおっさんが俺の女になれとか言ってちやほやするし、その下心を利用してのし上がろうとする女性もいる。勝海麻衣を必死に擁護しているのもおじさんたちである。男性は実力勝負なのに対して、女性は実力以外の部分でも評価されるので基礎技術がなくても芸術家の入り口に立つことができる人がいて、その中で自分の未熟さと向き合うことができない人が手っ取り早く功績をあげようとして盗作をする。
・盗作がキャリアの箔付けや金儲けに利用される
経歴詐称で箔付けする人がしばしばいるように、芸術の受賞歴も箔付けに利用される。芸術に人生をかけるほど興味がないけど、箔付けをして自分を引き立てるのに利用したい人が楽にとれるような賞を狙ったり、功績を上げようとして盗作する。素人の作品を対象にした賞にプロ並みの作品を盗作して応募すれば、頭一つ抜けて最終候補に残ったり受賞したりする。盗作で詩の賞を受賞しまくった女子中学生がいたけれど、素人が競争相手なら子供でも盗作すれば無双できるわけである。自分で論文を書けないのに功績を上げたくて他人の論文を寄せ集めたまとめ論文を書いたり、他人の論文に共著として名前をねじこんでくるようなみっともない大学教授もこの類である。メディア学者の渡辺真由子は論文剽窃で慶応大学の博士学位を取り消されたけれど、この人は研究したいのではなくて博士の箔付けがほしかったのだろう。
●盗作はやめよう
・あきらめるのが大事
芸術は才能があっても認められずに世に出ないこともある死屍累々の狭き門なので、自分はその門を通れないと思ったらあきらめるのが大事である。盗作してまで門をくぐっても本物の芸術にはかなわないし、芸術の発展に何の寄与もしないし、一時的に称賛されてもいずれ盗作がばれて業界から追放されるし、応援してくれた人を裏切ることになるし、盗作した本人も人生の時間を無駄な行為に費やしたことになる。自分の才能のなさに直面したら、芸術を仕事にせずに趣味として身の丈に合った創作活動を楽しむか、あるいは自分よりすごい芸術家を応援したり、子供を教育したりすればよい。
・自分の人生を生きるんだ
現代人の病的な自己顕示欲は社会問題になっていて、暴走族が爆音で存在感をアピールしたり、馬鹿がSNSで馬鹿をひけらかしたり、注目されたくて嘘を拡散したり、実力不足なのに山に無酸素で登りたがって下山し損ねて死んだりしている。コピペ型の盗作もインターネットが普及したがゆえの社会問題で、目立ちたいがゆえにポンポンと盗作する人がいろいろな分野で出てきている。しかし手段を択ばずに注目を集めたところで、目立ちたいだけのモラルのない人を応援してくれる人がどこにいるのだろうか。盗作を踏み台にして功績を上げたところで、それを自分の人生として誇れるのだろうか。下手だろうが自分の作品を作ることが自分の人生を生きるということである。盗作による成功よりも、オリジナルの失敗のほうが価値がある。人生を真摯に生きている人だからこそ応援したくなるし、そこに共感や感動が生まれる。
勝海麻衣は早い段階で盗作がばれたのは再出発するためにもよかったと思うのだけれど、アレンジしたから盗作じゃないだのよくある構図だのと擁護する人がいる。盗作は批判されて当然の行為だし、盗作を批判する人たちが彼女の人生を潰そうとしているのではないのに、なまじ擁護する人がいるので彼女も素直に謝れなくなるのではなかろうか。成人しているとはいえ若くて未熟な彼女を担ぎあげた年上の大人たちこそが彼女を指導してやる立場だろうに、道を踏み外すような応援をするのは無責任である。栗城史多を死地に追いやったスポンサーが無責任だったように、神輿を担いで儲けようとする側は代わりの神輿はいくらでもいるので神輿が壊れても責任をとらない。勝海麻衣を諭して指導する人が周りにいなくて彼女を利用して金儲けをしたい人だらけなら、彼女は本物の表現の意味を知らないまま空疎なモノマネに今後の人生を費やすことになりかねない。
これから芸術家を目指す若い人は、盗作した人の末路を反面教師にして、若くして成功して有名になって金持ちになってモテたいという欲を捨てて、まずは無知で未熟な自分の人生を真摯に生きることから始めるべきである。生老病死の苦悩や感動を経て内側に表現したい欲求がたまっていけば、それはおのずと抱えきれなくなって外に押し出されて作品になる。創作の技術を教える学校はたくさんあるけれど、創作の源泉が内側にない人がどんな技術を身に着けたところで「表現」ができないので芸術にはならない。唯一無二の自分の人生を生きることが、結局は唯一無二の芸術作品を作ることにつながるのである。
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