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久しぶりに街に出た。青山は雨だった。昨日。読まなければならない原稿があって、読んだ。どうにもとっかかりがつかめなかった。この人は何をしたいのか。しかしこれは自分の踏み込めていないフィールドなのかもしれない。「苦海浄土」のことに思いめぐらせていた。第二部を何度もつかえながら読んだ。それはもう見事なことばなのだった。そうして今ふたたび、第一部を読み直しているところだ。こんなことは言ってもしかたがないのだが、私たちの時代は終わりを迎えているのだ。何かしらは生き、そうして人は繋がっていくのかもしれない。しかし失われたものは、その殆どがもどってくることはないだろう。どのような希望も、それを希望と括った段階で、あまりに軽い。だからと言って、自己愛に満ちた絶望だって願い下げだ。(「苦海浄土」のようなことばがあるのなら)
2007年01月27日
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ドイツに送金する必要ができて、海外為替の手続きをしに郵便局へ行く。ドイツ在住の写真家の写真を必要としたので、その著作権料(使用料)の支払いである。書類への書き込みをすべておえて窓口に提出すると、受付処理に入った郵便局員が手を動かしながら次のように言ったのだ。「あの、これは海外に送金されるみなさんすべてにお聞きしているのですが、これは北朝鮮に送金されるものではありませんね」書類にはもちろんドイツ国内在住の写真家の住所が記されている。「いや、相手はドイツですけれど。ていうか、そんなこと確認されても…」「第三国を経由しての送金という可能性があるものですから。あ、生活費などでしたらいいのですが、お仕事に関わるものですと…。お気を悪くされるかもしれませんが、すいません、みなさんにお聞きしているので」「法律かなにかができたんですか? 通達が回っているとか」「いや、最近、いちおう確認するように決まりまして」「……」このように書き起こしてみると、突っ込みどころ満載なのだが、これ以上のやりとりはない。私が手続きをした金額は、ほんのわずかな金額である。銀行を通しての海外送金ではどのようになっているのだろう。ざらざらとした感触が残っている。
2007年01月19日
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東京新聞1月17日付「短歌月評」で篠弘という人が、松村由利子という歌人を取り上げている。さいたま市主催の第7回現代短歌新人賞を受賞した。1960年生まれ。新聞記者であったが、最近、職を辞した。篠弘はその賞をとった彼女の第二歌集『鳥女』からいくつかの句を引用している。例えば、こころよく我にはたらく仕事あれああ何という驕(おご)りかそれはこれは啄木の以下の句を踏まえている。こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふここまで来てしまえば、啄木の句よりもはるかに松村由利子の句の心境に自分は近い。年齢ということもある。他にもいくつか引用しているが、印象に残った句をふたつ、書き付けておく。もの言わぬことのしあわせ休日はしんと黙って手を動かせり大鍋にはっしと放つスパゲッティ転職するなら今かもしれず
2007年01月18日
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体調のせいなのか、朝からひどく寒く感じた。ぼんやりとテレビを見ていた。妻が夫を解体したとか、兄が妹を切断したとか、ニュースもワイドショーもそんな事件を伝えている。チャンネルを変えてみる。それでも扱っているニュースは同じなのだ。いったいどこまでが事実で、どこまでが推測なのかわからない。伝える側はどこまで何を知っていて、どのように情報を取捨選択をして報道しているのだろうか。私たちには知る術もない。かねてから不思議でならないのは、カメラの前に表れる犯罪心理学やらの専門家とか、精神科医とかの「分析」である。会ったこともないはずの容疑者の内面を得々と「分析」してみせる、その根拠はどこにあるのだろう。「……の可能性がある」「……かもしれない」そうしたことを並べ立てることに、いったいどれだけの意味があるだろう。心ある(と書いてみて疲労するのだが)専門家ならば、会ったこともない人間の分析など、決してしてみせることはないだろう。どのような人間であれ、その人間がたどってきた経験と思考の道筋を知ることができたとして、そのことを知れば知るほど、私たちはおいそれと口を開くことはできなくなるだろう。容疑者は「向こう側」にいる。だからといって何を言ってもいい、ということにはならない。そもそも他人はみな「向こう側」にいるのだ。自分だって、「こちら側」と「向こう側」を行き来しているだけなのかもしれない。容疑者の供述は事実かもしれない。だがそれは供述したという事実であって、起きたことをそのまま伝えているという確証はない。わかりやすい物語はこうして増殖し、消費される。気がつけば物語で腹一杯になっている私たちは、どのように浮遊して、そしてどこへ流されていくのだろう。
2007年01月11日
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前書きの終わり。(引用)小説は世界を映す鏡という二百年前の人物による定義に、だれに頼まれてもいないのに、今さら一票を投じることにする。世界は理解されなければならず、世界は生きている人々の眼前に像として提出される必要がある。小説にはそれができる、と信じたい。私の小説はどうなのかは、また別の話。(引用終わり)こんなふうにして、小説ははじまる。
2007年01月10日
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伊井直行は、小説集の冒頭に「初出誌に関する記述を含む前書き」を持ってきた。とぼけた「思いつき」である。そのなかで、収録されたいくつかの作品をとりあげて、何を書いたかではなく、何をしようとしたかったか、などについて書いていたりする。たとえばこんなふうに。ストーリーを排除し、日常の出来事をできるだけ起こったままに書いて小説にすることを、私はずっと考えていた。(中略)「事実のままの小説」といっても私小説ではなく、内容は私自身の体験に基づくものではない。ところで、文章によって事実をそのままに描こうとすることは、実際には不可能への挑戦である。もし文章を事実を描くために使用するとしたら、現実的には、必要な時にどれだけ事実に近づけることができるかという問題に帰着するはずだ。(引用終わり)そのように試みて小説を書く。次におかれた作品については続けてこんなふうに言う。「微笑む女」は(そうした)試みの延長線上にあるが、事実のままに書くのではなく、小説的な脚色を施している。これを、事実を元にフィクションを組み立てたのだと考えるなら、私の試みは一回りして一般的な小説の方法に戻ってきたことになる。しかし、実際に文章を書くときの感触は、一回りする前とまるで違っていた。元いた場所に戻ったのではないのだ。(引用終わり)とまあ、こんな感じ。前書きではさらに、あえて「小説の目的とは何か?」なんて大上段な問いを発してみせている。そんなことを到底しそうもない作家である。ふだん直球は投げたことがないけれど、ここはひとつ(八分のちからだけれど)投げてみよう、と投球モーションにはいる。ちょっと恥ずかしい。でもまあ、投げてみよう。というわけで、前書きは以下のように終わっていく。その話は、続きとする。
2007年01月09日
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その動物園は森の中にある。森の中には整備された小道が続いていて、蛇行している。カーブを曲がると、木々の間から動物の檻があらわれる。そんなふうにして、何種類もの動物に出会う。晴れてはいるけれど、風の吹き荒れるこの日、大抵の動物は檻の中で静かにしている。そのほとんどが子供連れの人間たちのグループが、そんな動物たちを見ている。
2007年01月07日
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新しい年にブログをする、ことにする。本日、仕事始め。午後に友人と食事を共にする。友人はある病気にかかっていて、年頭からの治療計画を聞く。それから共通の旧友が撮影を担当した映画の話をする。テレビで頻繁にスポット広告を流しているような映画である。彼はその映画を律儀に年末に観た。私は正月に、迷って結局のところ『硫黄島からの手紙』と『鉄コン筋クリート』を連チャンで観たのだった。東京の街は、まだ半分くらい眠っているようだった。ターミナル駅を離れると人の数もさほど多くない。正月の間に冷え切った仕事場の鍵をあけて、年賀状に目を通す。帰りの電車で昨年秋に単行本になった石牟礼道子さんの『苦海浄土 第二部神々の村』をぽつぽつと読み始める。私はこの人の文章を読み始めるとどきどきしてしまうのだ。
2007年01月04日
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