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『人新世の資本論』(斎藤幸平著)について、引き続き検討します。
『人新世の資本論』について(1)
(
人新世の資本論について 全文PDF
)
3、根本的な問題と思われる点
・技術革新の問題点も含め、自らの主張に関する検証・立証が不十分で、それを抜きにした断定が目につく。認識の仕方に問題ないか。「上空飛翔的」な認識(上空から世界の全体を俯瞰するように自らの枠組みに当てはめていく認識)になっていないか。
実践を積み上げながら、自らの認識の枠組み自体を検証していく姿勢が大切。(晩年のマルクスからはそのような姿勢をこそ学びたい)。自説にとって都合の悪い data
も参照しながら認識の枠組みを問い直しつつ鍛えていくこと。
例:電気自動車の功罪を検証するためにはIEAの資料(斎藤は 90
頁で紹介)だけでは不十分。例えば(1)でも紹介した下記資料なども含めた検証が必要。
1)資源不足の時代を終わらせるために Part 1 2)同 Part 2 – 想像を絶するクリーンエネルギーの豊かさを手に入れる
上記論文の要約 著者:ナフィーズ・アーメド( Nafeez Ahmed の論文より)
※ 「マルクス主義の歴史的敗北」 に充分向き合っているとは思えない 。
・ マルクス主義は経済論であると同時に歴史理論。本来は「歴史の中で勝利を宣言するはずの思想」 だったが、それを基盤にした国づくりは分権的なものも含めことごとく失敗している。
・その理論は体系をなしており、「都合の良い部分を引用して賛美する」というのは説得力に欠ける。ある意味で、某政党の取り上げ方と共通している。歴史から教訓を汲み出すには、「 マルクスを権威として自説を根拠づける 」といった姿勢を、注意深く拒否することが必要ではないか。そもそも、「手紙や草稿」など発表を想定して書かれていないものと、出版されたものとを同列に扱うのみならず、「 前者(手紙・・・)こそがマルクスの本当の思想だ 」という形で後者を否定するのはいかがなものか?
※マスクスの真意云々ではなく、(最晩年のマルクスから示唆を受けつつも) 斎藤自身が「史的唯物論のやり直し」を具体化すべき。
そうでなければ「 空想的社会主義 」段階に戻ったといわれても仕方がない。(ただし、「空想的社会主義者」とされているフーリエやオーウェンは、具体的実践によって社会主義的な共同体や工場を創ろうとしており、その点では斎藤よりも進んでいる。)
晩期マルクスがそれ以前の自らの主張を明確に否定・撤回していない以上、本人に代わってその再構成をすることで「マルクス主義」を乗り越えることが重要ではないか。⇒ (『国家と文明』) 史的唯物論の再検討 で竹内芳郎 は、それを力強く試みている。
・斎藤は「ザスーリッチあての手紙と草稿」をもとに史的唯物論のやり直しを提起。その際、 晩年のマルクスがロシアにおける農村共同体に注目し、「ヨーロッパ中心史観」からの脱却を図っていた点の指摘はいい。 が、その性格を十分検討しないまま common と共同体の復権を主張することについては検討を要する。なぜなら、当時のロシアにおける農村共同体は明らかにツァーリズムという専制君主体制の下部組織(『国家と文明』 100 頁)だったからだ。これは昭和初期の日本における農村共同体〔入会地‐ common を共有していた〕が同時に集団同調主義的な天皇制共同体の下部組織であったのと類似している。従って共同体といっても復権すべきは、支配者のもとに統合されているそれ‐第二次共同体‐ではなく、あくまでも対等平等な共同体‐第一次共同体‐であり、前者と後者を峻別することが必要である。それを理論的に明確化・整除しているのが『国家と文明』の 135 頁以降。)
Q 初期マルクス思想 と中期の思想(生産力主義)をまとめて否定するのか?
初期マルクスの思想(疎外論)と『資本論』およびそれ以降の思想とは切断されたのではなく、深く関連しているにも関わらず、斎藤の記述では、この点が不明確である。「初期から中期の思想をひとまとめにして否定する」とすれば、そこには問題がある。
・「〇〇はアヘンである。資本主義下で解決できるとするのは幻想である。」このような断定(実はマルクス主義の弱点)を、無批判に受け継いでいる。「 短期間で脱成長 communism が実現できるというのは幻想でなければいったい何か 」という形で跳ね返ってくるだろう。
竹内芳郎は『文化の理論のために』(1982年刊行)で次のように述べている。
「マルクス主義はその徹底した歴史的見方によって、現行の社会制度とそこでの ideology のすべてを相対化し、その相対化を通じて人類の新たな未来を設計してみせた」けれども、(・・・その)史観の理論的枠組みそのものが、実は西欧近代文明の一所産にすぎず、相対化の営為そのものが「人類史の中だけの局部的相対化」かそうでなくても「西欧近代文明の所産にすぎぬ近代〈進化論〉にそのまま依拠した〈人間至上主義〉の枠を一歩も超え出ぬもの」にすぎなかった。 真に必要な相対化は歴史そのもの、人間文化そのものを、非文化のコンテクストから文化に対して〈他者〉(例えば野獣:補)の目でもって遂行されるより深い相対化の営為なのだ。」 根本的に、あらゆる幻想と無縁な「現実的社会関係(人間)」など存在しないにもかかわらず、 「吾ひとりは一切の幻想過程から醒めて、真に現実的地平に立ちうるとするマルクス主義が、それ自身、歴史の中でまたひとつの途方もない阿片として作用するほかなかったことを、彼(マルクス)はついに予見することなく終わった。」
(『文化の理論のために』, P.231 、 262 頁)
・「 SDG sはアヘン」か? 宗教やアヘンに引き寄せられるほど、多くの人々は SDG sに引き寄せられていない。状況の認識がずれていないか。むしろ「持続可能性の重視」を国連のレベルで合意したことを評価しつつ、「開発」に伴う欠点・問題点を克服する、という構えが必要ではないか。例えば松下和夫は以下のように述べる。
「実は SDGs 自体に現行経済社会システムを根底から変革する思想が埋め込まれているのである。なぜならば SDGs に掲げられた目標を徹底的に追求していけば、強欲資本主義のあり方そのものを変えざるを得ないからである。」 「企業は SDGs wash との批判を受けないために、持続可能性を自社の事業戦略の中核に据え、事業を通じて SDGs の達成に向けた意欲的取り組みが求められる。」
「一方消費者は、企業が謳う『 SDGs に取り組んでいます』という言葉に安易に飛びつかず、その事業が本当に持続可能性向上につながるか、情報は第三者機関によって評価されているか、透明性があるか、などをしっかりと見極めることが重要だ。(・・・)企業にも消費者にも SDGs に関する高度のリテラシーが求められる。」
いたずらに、「 SDGs は大衆のアヘンである」との警句を発することは、企業や市民の持続可能な社会への 行動変容へ踏み出す一歩を押しとどめる マイナスの効果しかないだろう。 」(引用は以上)
資本主義体制下でも 2019 年における「 投資会社の意思統一 など 」は、重大な影響を及ぼすはず。その不十分さをあげつらうのではなく、「持続可能性」という観点から取り組みを鍛えなおすこと(例えば green wash 企業かどうかを判断し、本物の取り組みを評価しながら消費行動、さらには運動を進めていくこと)が大切なのではないか?
・ 北欧・EU諸国の事例など 、削減に一定の成果を上げている取り組みの充分な検証・評価を抜きに「思い込みで否定」していないか。「マルクスが言っているから資本主義体制下では解決不可能だ」という自身の思い込みでないことをどう立証するのか。
例: 東横インの 不祥事 や 公害問題。 確かに、資本の論理、利潤追求至上の原理を貫徹させたままでは解決不可能だが・・・。 「 の実現や公害問題の解決(必要な法整備)は、この体制下では不可能( communism に移行する以外の解決策はない)」と断定してはいけない。
・ 具体的生活に居直る直接民主主義的な運動(「障害者」の人権保障要求運動や反公害闘争)が、この体制下でも現状の変革(例えば障害者差別解消法の制定、公害対策基本法の改正、「無過失責任」の法制化など)につながった 。
・「南」への矛盾の押しつけは当然問題にしていかなければならない( 83 ~ 85 頁)が、 それは基本的に「狭域環境汚染・環境破壊」(及び、過重労働)の問題だ。日本や欧米の公害問題と同様、それに対処することは必要であり可能である。当然そうすることで 採掘 cost は上昇する が、問題は克服できる。〔例: 2010 年に多くのアナリストが、価格の高騰を rare earth の供給不足の兆候であると誤って予測。実際には、価格の上昇にともなって「備蓄量の増加、休止中の鉱山の再開、探鉱者による新たな鉱床の探索と発見、 recycle の増加」が起きた。企業は cost 削減と性能向上を同時に追求し、高価な材料をより節約して使用し、可能な限り安価で優れた代替策を採用。さらに、今後の需要増加にともなう鉱物の価格上昇は、採掘による収益を増加させ、 recycle をより安価にし、以前は実現不可能だった新しい循環型経済の実践や産業のための新しい市場を生み出す。また、さらなる innovation の促進にもつながる。〕 資源不足の時代に終止符を打つために Part 1 – 鉱物資源の不足がクリーンエネルギーを頓挫させない理由 同論文の要約 より。
・文化革命・生活仕方全体の変革という視点が弱いように見える。マルクスに従って、 生産仕方の変革(生産手段の共有など)をすれば、問題は解決するかのような「幻想」 に陥っていないか。(「帝国的生活様式」という言葉を頻繁に用いていながら・・・)
例:株式会社のHondaが協同組合になれば、車の生産は半分以下になるのか?
地方の公共交通機関の急速な拡大・利便性の増大が期待できない中、「自家用自動車による通勤」が急速に減少していくことは考えにくい。そのような現状において
Q 電気自動車化などの技術革新は意味がないのか? (必要ないのか?)
確かに(斎藤が指摘するように)電気自動車の生産にも二酸化炭素の排出が伴う。だが、ガソリン車を継続的に生産し、購入・運転し続ける場合と比較して全排出量がどれくらい違うか、定量的に検証することが大切だろう。例えば、減少するのは走行時に排出される二酸化炭素量だけではない。石油、Gas、石炭の需要が激減すると、大量の化石燃料を世界中に輸送するために稼働している巨大な物流・輸送インフラは必要なくなり、石油掘削装置、石炭発電所、原油精製のために稼働する石油化学コンビナートなどの膨大なインフラも必要なくなる。輸送・精製の過程で排出する二酸化炭素量を極小化する再生可能エネルギーへの転換は、膨大な二酸化炭素の排出削減を可能にするはず。このような点を考慮していないIEAなどの試算に大きな問題があることを ナフィーズ・アーメドは 上記論文で 指摘している。
Q 脱成長 communism に向かう展望を斎藤は示しえているのか?
FEC自給圏の取り組みや、協同組合を増やしていく取り組みは重要だと考えるが、多国籍企業を含む巨大な「私企業・株式会社」が別のもの(例えば協同組合等)になっていく展望を、斎藤が示しえたとは考えられない。
目標・理想は本質的に「幻想」であり、そこに向けた具体的な実践こそが大切。
・机上の空論にならないためには実践をしたうえで、その困難・乗り越え難さを理論に組み込んでいく必要がある。
例:鳥取県岩美町での実践。地域ぐるみ - 長井市の実践に学び、 「岩美町への提言」 を作成・提出した 。しかし、それに対する批判(「美しいね。しかし、それは地域の人々や高校生が本当に求めている取り組み・学びなのか?」といった批判)も受けた。おそらく、この批判は以下の宇沢の見解とも関連する。
・宇沢弘文の見解。『社会的共通資本』 19 頁。「計画経済(社会主義‐生産の公的管理:補)は中央集権的なものは言うまでもなく、かなり分権的な性格を持つものについても例外なく失敗した。その原因は・・・より根源的には、計画経済が個々人の内発的動機と必然的に矛盾するということにあった。
体制を変えれば問題が解決するという単純なものではない。上記宇沢の主張や、 ユーゴ労働者自主管理の変貌
(自主管理社会主義の失敗)などについても、十分検討・検証することが必要だろう。「脱成長 communism
しかない」と断定するのではなく、様々な方法を模索しながら可能な取り組みを力強く進めていくことが大切だと考える。
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