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私は、二度にわたって『人新世の資本論』について検証してきた。このたびはさらに、『国家と文明』(竹内芳郎著)の理論内容とからめて批判的にまとめておきたい。
ここで強調したいのは「マルクス主義の史的唯物論」の受け継ぎ方として、『人新世の資本論』にはどのような意義と問題点があるか、という観点である。(一部、重複するが・・・)
〔意義〕
第一に、史的唯物論の公式にとらわれず、 (特に晩期の) マルクスがロシア農村共同体の研究を通して『資本論』をも問い直そうとしていたこと、 精神労働と肉体労働の対立(分業)の克服 、都市と農村の対立の克服について言及していたこと( 308 頁)、労働者たちの能力の全面的な発展をめざしていたこと、など重要な点をとりあげていることがある。
第二に、生産力発展論こそが定式化された「史的唯物論の大きな柱」だったわけだが、この 生産力主義をマルクス主義から切り離そうという斎藤の試みは評価できる。これは、 『国家と文明』(竹内芳郎著)で展開されている論と共通する視点 だともいえる。
〔問題点〕
上記のように斎藤は、史的唯物論を硬直した公式ではなく、晩年のマルクスや『資本論』を踏まえて柔軟に問い直そうとしているにも関わらず、 史的唯物論の第一の公式である「土台‐上部構造論」については無批判に(硬直した形で)受け入れてしまっている ように見える。
ここではまず、 「土台‐上部構造論」に関する過去記事 の一部を採録しておこう。
土台とは何か? 社会全体を規定する 生産様式(=経済の構造・仕組)
上部構造とは? 社会的、政治的、精神的生活の全体 (生産や経済以外の領域) 具体的には「社会・政治制度や文化、人々が共有する価値観など」
Q 土台・上部構造論とは?
生産様式(経済の構造)こそが土台となって、それが上部構造である社会的・政治的・精神的生活の全体を規定(決定)する、という仮説
Q なぜ生産様式が重要なのか?
A マルクスの回答
「人間たちは〈歴史を作る〉ことができるためにはまず生きることができねばならない(・・・)したがって、最初の歴史的行為とは、こうした欲求(食うこと・住むこと・着ることなど)を充足させるための諸手段を産出すること、物質的生活そのものの生産である」⇒ どんな社会でも 生活するために必要な物資の「生産と分配」といった経済的要因 が社会を根本的に規定する。
Q 土台・上部構造論の問題点は?
経済的な生産様式とそれ以外の人間的諸営為とを截然と分け、「土台(経済的な要因)が上部構造(他の要因)を決定する」 という仮説にはかなり無理がある。
Q それはなぜか?
人間においては 生産と分配(経済)の根底にある物質的生活や物質的欲望そのものが その社会における文化によって全面的に規定されているからである。
例1)衣類の生産は生きていくために不可欠な「物質的生活そのものの生産である」と同時に、その民族の宗教や慣習、美的なものを求めるファッション(すべて広義の文化)と不可分である
例2)熱帯アフリカに現在も残っている部族共同体の場合も、 生産様式(経済的要因)とその他の要因は切り離すことができない(未分化である) 。
仮に、この未分化の状態から経済の近代的な概念に当てはまるものだけを抽出し、それと 「その他のもの」との関係を調べてみても、 現実には同一の土台(経済)の上に異なった上部構造を見出す例は多い 。例えば熱帯アフリカの土着民の経済生活はほとんど同じであるが、婚姻関係の慣習等がしばしば異なっている。
Q 理論再構築の道は?
・ 「生産様式」 を科学的抽象によって (社会全体から経済的要因のみを抽象することによって) 成立するもの、としてはっきりと位置づける ⇒「生産様式」と「社会構成体」(その時代の社会の総体)とを理論的に峻別する 。
・生産様式 ・・・人間の社会から物質的生産に関わるものだけを抽象して成立する単層的カテゴリー (経済構造)
(例)農奴制生産様式、資本制生産様式
・社会構成体 ・・・経済生活だけでなく様々な社会諸制度、文化、人々が共有する価値観などを重層的に含みこんだ 「社会の総体」
(例)中世封建社会、近代市民社会
Q 生産様式は社会の他の要因を規定・決定するのか?
生産様式は他の要因(例えば社会制度)を因果的に決定しないとはいっても、かなりの程度規定する重要なポイントだといえる。
(現代の例 : 日本の国会で制定・改定(規制緩和)された「労働者派遣法」は「市場原理主義的な資本制生産様式」によって、強く規定されている。)
過去記事の採録は以上
さて、 史的唯物論の公式である「土台‐上部構造論」を斎藤は無批判に受け入れている 、というのが冒頭における私の主張だが、それはどういうことだろうか?
要するに、「 資本主義体制下で気候危機が解決可能だという主張は、非現実的な空想に過ぎない 」、という斎藤の断定の中に誤謬があるのではないか、 斎藤は「経済的土台である資本制生産様式」と「近代市民社会という社会構成体」とを混同しているか、前者が後者を因果的・全面的に決定するという機械的な理論(硬直した土台‐上部構造論)の立場に立っているのではないか 、ということである。
竹内芳郎による理論再構成の point は、1,「生産様式」(経済の構造‐例:資本制生産様式)と「社会構成体」(例:近代市民社会、その延長上にある現代社会)とを峻別すること、それによって、2,「生産様式」が「社会構成体」のあり方を因果的・全面的に決定するのではないという現実を認めることであった。つまり、 政治・社会諸制度、文化、人々が共有する価値観などはある程度自立したものとして(非資本主義的要素も含めて)「社会構成体」の中には重層化して存在しうるのである。
そうでなければ、「 universal design
の実現や公害問題の解決に必要な法整備」は、この体制下では不可能だったろう。ところが、 現代の社会構成体の中には、「障害者差別解消法」や「改正された公害対策基本法」(→「環境基本法」)、「二酸化炭素税」などの非資本主義的な法制度(利潤追求の原理自体からは出てこない法律)が、存在している。
そもそも「労働者の権利を含む人権思想」などは、利潤だけを考えるのであれば、邪魔ものでしかなく「経済構造によって思想・文化も決定されるとすればこの社会には存在しえないもの」ということになってしまう。しかし、「人権思想」はこの社会に存在し、それに基づいた法・制度はいくつも制定されてきた。だとすれば、
大切なことは、社会における非資本主義的要素を創造・活用しながらそのさまざまな弊害の克服に力を尽くすことではないだろうか。
資本制生産様式というこの経済体制の中で、「非資本主義的な法・制度は基本的に存在しえない」「仮に存在しても全く無力である」、したがって「 資本主義体制下で気候危機は原理的に解決不可能だ
」‐ ほぼこういった内容を斎藤は断定的に主張しているかに見える
が、それは土台‐上部構造論を硬直した形で受け入れた誤謬ではないのか。少なくとも、そのような断定の根拠を『人新世の資本論』は示しえていない。
そもそも、斎藤が例示する「バルセロナ(フィアレスシティー)の取り組みや、労働者協同組合の取り組み等々」自体、現代の社会構成体が様々な「非資本主義的な営みや要素」を重層化しつつ含みこんでいけることを立証するものであろう。
そのことを斎藤が自覚するのであれば、彼我の違いは大きなものではないのかもしれない。「人権」や「気候危機への真剣な対応」という観点から、市場原理主義・強欲資本主義のあり方を問い直していく必要性については、私自身、特に異議を持ち合わせていないからである。
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