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2009年07月31日
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2009年07月29日
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もし地球が100人の村だったら、という有名な話がある。自分の置かれている境遇が如何に良いものであるかと思い知らされる例の話だ。じゃ、ちょっとタコ流にこの話を童話的に展開してみよう。人が100人いたら、それをまとめる村長さんがいる。だいたい、力の強い人がなる。知恵はそんなにないが、何しろ力がある。サル山のボスだ。その中に1人知恵の働く者がいる。名前を仮にロスさんとしよう。ロスさんはまず、人々が物々交換で生活している不便さを解消するために、金貨を作り金貨で物が買えるシステムを作る。そして、金貨を預ける銀行を作りそのボスになる。ロスさんは一生懸命働いて、銀行の中に金貨が貯まってきて考えた。この金貨と代えることを約束した紙幣を刷って、金貨の代わりにそれを与えようと。なかなかの知恵者。すると抜け目のないロスさん、あることに気がついた。このお札を人々に貸して利子を取って儲けようと。それからもっとすごいことに気がついた。実際には、金貨と交換して欲しいという人は少ないから、実際に保有している金貨と同等のお札を、もっと3倍も5倍も刷って、それで利子をどんどん稼ごうと。100倍刷ったらすごいことになる。100人の村に必要なものは何だろう。まずエネルギー、火力、電力、原子力。そして物を運ぶ手段、鉄道、船、飛行機などの輸送機関。更には、穀物など食糧生産。ボスがどんなに力が強くても腕力だけでは抑えきれないので、武器製造、弾薬製造。お金持ちがお金持ちらしく見えるように着飾るためのダイヤモンドなどの装飾品製造会社。そして、情報を提供する新聞社、TV局、エンターテイメントの映画会社など。これらそれぞれ1社ずつ作り、その資金は全てロスさんの銀行が融資する。人が百人いると、なかなかまとまりがつかないので、いくつかのグループに分けて、そのグループをまとめる村議会議員を選挙で選ぶことにする。アメ党、ソ党、中党など、まったく考え方が違うグループができたが、それぞれ莫大な資金が要る。この資金を全て提供するのがロスさんの銀行。100人の村の代表はどこから見ても村長さん。宇宙人が来たら村長さんがまず挨拶する。だが、経済界、政界、メディア、芸能界といろいろと分野が違う業界はできたが、その一番大事な資金源は常に銀行から出されているのが現状。だから、この村の本当の最高権力者は村長さんではなくロスさんだ。ところが、ロスさんは絶対に表に出ない。いつも家の中にいてお金を数えているわけではないが、名前は知られていない謎の人、謎の家族。村民は、村長さんと村議会議員がこの100人の村をコントロールしていい方向に向かうように働いてくれていると信じ切っているが、このシステムを使ってロスさんが一番いい思いをしている。ある日、グループ内で戦争が起こった。武器と弾薬を供給する会社は一つしかないので、この会社は両陣営に武器弾薬を販売して大儲けした。これらの会社には従業員がいる。これら従業員は、戦争がないと工場が稼動しなくて失業するし、会社も倒産してしまう。だから、武器弾薬製造会社は、いろいろなグループが仲良くなっては困る。戦争を起こさせるめにはどうしたらいいのか、夜も寝ないで一生懸命考え戦争を起こす。それも大変だから、その部分はAICという組織にアウトソーシングする。でも、いつでも絶対損をしないで一番儲かるのはロスさんだ。この方、何をしてもロスがない。という訳で、もし地球が100人の村だったら。今、60億人以上いるこの地球村が一体どうやって動いているのかがようく分かるようになる。豚インフルエンザで100人の地球になったら困るのは誰だろうか。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月29日
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たまには、手の込んだ朝ごはんもいい下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月29日
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風邪を引いたようだ。オランダ系の連れ合いの優しくショット下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月29日
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日本で行ったのは一度だけだ。飲んで絡んで連れて行かれた警察署、とかの話ではない。因みに、父が警察官だったので、小学生の頃は剣道を習いに警察署へ行っていたが、普段はあまり行きたくない所ではある。ところで、面と向かって話すときには、「警察官!」とは言わない。または、言えない。言ったら怖い。先生に向かって、「教師!」と言わないのと同じか。実際には、「お巡りさん。」というだろう。面倒くさいときは、「すみません」で済む。弟は兄に向かって「お兄さん」というが、兄は弟に向かって「弟!」と言わない。どうしてだろうか。こうして、話がどんどん横道にそれる。会社では、課長に対して「課長」というが、課長が平社員に対して「社員」とか「平社員」とかは言わない。もうやめにしよう。一度だけ行ったことのがあるのは、実は選挙のことだ。もうすぐ、衆議院議員選挙の在外選挙がある。外国にいる日本人には、ある期間を決めて先に投票させる。日本では選挙に行ったのは後にも先にも一度だけ。東京都知事選だった。ところがこちらでは毎回行っている。一体、これは何なのだろう。日本的なものへの参加に事欠いて、それで選挙の皆勤賞か。因みに、私が行ったのは1979年の都知事選で、危機を感じて社会党系の太田薫さんに投じたが敗れた。「俺なんか、日本じゃ一度も行ったことないけど、こっちじゃちゃんと行ってるよ。」同世代の移住者Hさんも言う。私だけじゃなかった。遠く祖国を離れ、日本に対する思いが募りそうするのだろうか。海外移住者が、日本にしっかりと関われる僅かな一票だからだろうか。まっ、あまり深いことは考えずに、日本が少しでも変わることに期待して、やはり清き一票を捧げに行くことにする。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月28日
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2009年07月28日
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高校時代、日本で最もポピラーな名前と誰でも簡単に想像できてしまう「鈴木一郎」という学生と同級になった。彼の記憶で最も鮮明なのは、彼自身ではなく彼のお母さんのことだった。お母さんはイボ痔で、七輪に網を載せ切ったニンニクスライスを置いていぶりながらそれにまたがり、イボ痔をいぶり殺すという怖い方法を実践されていると伺った。彼自身のことは、あまり覚えていないが、この方法は大分効果があったと聞いた。大学受験のとき全ての大学に落ちて、当然だとは思いながらも気落ちしていた私に、「俺もやっぱりイチローだよ。」と屈託のない笑顔で彼に言われ、思わず笑ってしまったことを思い出す。根っからの楽天家だったようだ。彼の顔を見ると、実際には見たわけではないのだが、彼のお母さんが七輪にまたがっている姿が浮かんできてしまって困った。一浪して、当時東京の山の手線の大塚駅にあった「武蔵予備校」に一年通った。因みに、ここで友人になったSの息子が、今メルボルンに留学に来ている。予備校も、そういう意味では不毛ではなかったようだ。1972年、現役では受けなかった早稲田大学を受験した。2月19日受験を終えて帰るときにある雑貨屋さんの前を通りかかったとき人だかりがしていた。見る前に何だか分かっていた。「連合赤軍・浅間山荘事件」が起きていて日本中がTVに釘付けになっていたのだ。その時、私たちは受験に臨んでいたのだ。因みに、この大学は落ちた。「メルボルン映画祭」が始まっている。8月4日に「実録連合赤軍」が放映される。エロ映画の巨匠だった若松孝二監督の作品。あの事件のとき私は19歳だった。父は警察官、私は受験生。浅間山荘に立てこもった5人の内1人は16歳だった。映画では、残酷な暴力シーンが多いだろうから、コメディーとかロマンスが好きなオランダ系の連れ合いは連れて行かない。完全に感情移入してしまうだろうから1人で見るのは怖いような気がする。特に、若い日本人の人たちに見て欲しい気がするが。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月27日
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昔、まだふさふさとしていた頃のショット下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月27日
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会社を辞めて、代々木にある日本語教師養成学校に通い始めた。1985年10月29日のことだった。サラリーマンからまた学生に戻って勉強し始めた日なので日付まで覚えている。強烈な印象だったのだろう。教え方の勉強もさることながら、漢字の勉強は象形文字から始まって本当に興味が尽きなかった。そんな中、私が最も好きな漢字の一つが、意外にも「女」だった。一つのときは、唯の女。二つだと、女々しい。三つになると、姦しい。一体、これは何なんだと言いたくなる方も多いとは思うが、私が決めたわけでもない。四つになったらどんな意味になるのか怖くて調べられない。女の又に力が入ると、努。女の又に心があると、怒。じゃ、男の又に力とか心を書いて「ロマン」なんていったら殺されそうだから、「ふりん」と読ませることにしようとか。この漢字だけで一日過ごしていられそうだ。実に奥が深い。漢字は、想像力を豊かにする。英語のアルファベットを3年くらい見続けていても何も出てこない。しかし、漢字自体は変わらないが、世の中がどんどん変わってしまっている。実のところ、「めめしい」とは「男々しい」と書く時代になっているのでは、なんて思ったりもする。勿論、私もこれに含まれるわけだが。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月27日
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私はコンサートとか観劇とかはあまりしない。オランダ系の連れ合いが「MAYUMANA」というイスラエルのパフォーミングアートのショーへ行こうという。家族チケットを購入したので、17歳になる姪っ子を連れていった。ドラム缶とか叩けるものは何でも叩いてエネルギッシュに演奏するショーで、自分でも呆れるほどのってしまった。分からない英語の会話とかがまったくないので、安心して観ていられた。夜は、ギリシャ人の町オークレイで日本人の「ひよこクラブ」の集まりに参加。基本的にはママさんグループの会で、子どものいないタコ社長、場違いの楽しみ満喫。大いに刺激となる。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月26日
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二ヶ月に一度、メルボルンで「恙無い会」という飲み会の幹事をしている。基本的には私が知っていて、私が一緒に飲みたいと思う人をお誘いしている。会社に勤めておられる方は一社から一名、もし二名の場合は隣同士では座らないというルールがある。仕事の話はしないように、とも言っている。そんな会は、他にいくらでもある。もう一つルールがある。女性同士は隣に座らない、というものだ。意に反して、どうしても女性が少なくなる傾向にある。私が知っている女性が少ないからだ、ということだろう。行く所は決まっている。毎回、居酒屋忠治さんという居酒屋さんだ。長年、メルボルンには居酒屋と名のつく店がこの一軒だけだった。ところが最近、あと二軒できた。しかし、ここは無理がきくのと、少々騒いでも大目に見てくれる関係ができているので、私としては心地よい。幹事が心地よいのでこれからもここになりそうだ。昨夜は19名の方が集まってくださった。仕事の業種では、旅行、携帯電話、学校、学校代理店、金融、IT、建築、ウエブサイト、電話、出版、会計、自動車、投資、コールセンター、人材派遣、ホテルなど様々。私と同じ年でリタイヤしている悠々自適の人もいる。時間が夜だから、夜の商売であるレストランとかキャバレーの呼び込みとかいう人は来られない。それから、基本的には日本人の集まりだからパートナーとかは呼ばない。だから、オランダ系の連れ合いも呼ばれない。この会が毎週とかだったら離婚される。二ヶ月に一度が非常に据わりがいい。以前、フリーペーパーなどで広告を出して知らない人が集う「気楽会」というのを、これまた企画運営していた。こちらは、わたしより一回りも年上の方や、素性が分からない方々なども集まり、また日本人女性を追いかけるオージー男性(オージー女性が来ないので逆は成り立たない)とかが大勢こられ、私にとってはちっとも「気楽」ではなく、「気落ち会」とかに変更できそうになったので止めることにした。今の「恙無い会」は実に気楽だ。酒は持ち込みだから、ワインのビンが人数分並んだりする嬉しい会だ。私は赤ワインしかのまないのだが、昨夜はどういう訳か白が多く赤が切れてしまったので、幹事の特権で次回は赤にして欲しいとか言ってしまった。次回は赤のオンパレードになることは間違いないだろう。料理はだいたい決まっている。枝豆から入り、イカゲソ、太巻き、豚キムチ、ハンバーグ、焼きうどん、テリヤキチキン、タン塩、ご飯山盛り、ユカリなどのフリカケ、ユッケなどだ。可也の量だが、幹事としては完食してもらわないと次回から減る可能性があるのでうるさくそう言って回る。これで1人30ドル。少し前までは25ドルだったが、円高のため食材が高騰して30ドルとなったが、誰からも文句は出ない。日本円で2300円程度。いつもはこの会のあと、カフェでお茶して帰る。酔いをやや醒まさないと運転もあるので怖い。昨夜は話が弾んで終わったら11時でお茶なしの解散となった。6時半からやっている。日本だったら、食事の後はカラオケだろうか。皆さんに別れを告げて歩き始めて車の鍵がないことに気づいた。会社に忘れたらしい。今までに何度かある。さて困った。タクシーで帰るのも面倒くさい。そうだ、スタッフを呼び出そう。酔っていると気持ちも大きくなる。遠慮もなくなる。携帯で事情を話すと来てくれるという。会社のスタッフとは本当に有難いものだ。見知らぬ人ならここまではしてくれない。こういう時は、会社をやっていてよかったなと思う。酔いが醒めてから考えたら、こんな社長で申し訳ないなと少し思えた。というわけで「恙無い会」、幹事が勝手にこれからも主催していきたい。ケアンズから出稼ぎに来ていて今回が最後になるという人がいる。この会がメルボルンでの唯一の楽しみでした、とこの方から聞いたときは幹事をやっていてよかったなと思った。パチンコ屋とかもなく手軽な娯楽が見つけにくい所なのだろうか。次回は9月末に予定している。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月24日
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父は警察官だった。長年その職にあったので、今でも自分が警察官だと思っているのではないだろうか、などと思えてしまうこともある。世の中に対する見方が厳しくて批判的な発言が多いように思える。一つの仕事を貫くことは大きなことなのだろう。その点わたしなんぞは今までにいろいろと仕事を変えてきて、チャランポランがズボン履いたり履かなかったりしている人生なんて感じになっている。オーストラリアに来てから、極力警察官のご厄介になることだけは避けてやってきているつもりだ。しかし、そうもいっていられないこともあるにはあった。パトカーに追いかけられたことが2度あった。幸い、スピード違反という地味な捕り物だったので、新聞沙汰とかとはほど遠かった。一度泥棒に入られた。これは、まだこちらに来て間もない頃だった。小銭と腕時計を盗まれた。警察を呼んだら5分くらい話して帰っていってしまい、指紋とかも取らずそのあっけなさに愕然とした。犯人に刺されたりしないとまともに調べてもらえないのかとさえ思えた。また、一軒家に1人で住んでいるときに婦人警官に早朝寝込みを襲われたことがあった。激しくドアをノックする音で飛び起きた。その家の前の住人を追っているとのことだった。ちゃんとした格好で対応できていたら、「お茶でもどうぞ。」とか言えたものを、こ汚い格好だったので、対応が不完全に終わってしまった。24年目でこれくらいしか思い浮かばない。元警察官の息子としてはまあまあだろうか。「新聞に載るような悪いことだけはしないでちょうだいね。お父さんは警察官なんだからね。」母から、何百回となく言われていた。週刊誌とかだったらいいのかとかいいたくなった時もあるが、なかなか親に安心してもらえない。何とか後50年くらいはこんな調子でやっていけたらと願っている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月22日
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最近通い詰めているベトナム人経営の魚屋さん。なかなか潔い。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月21日
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オーストラリアはベトナム戦争で兵士を出兵している。くじで抽選をしたらしい。「私の知っている人でね、どうしても戦争に行きたくない人がいてね。」隣のクリスさんご夫妻とタイ料理屋で食事をしているときに、こんな話題が出た。「それでね、自分は同性愛者だっていうことにしたんだって。そうしたら、不合格になったって言ってたよ。」私は、先の戦争のとき日本で徴兵検査の前に醤油を飲んで胃を悪くして免除になった人がいるという話を伝えた。「もう1人、不合格になった人がいたよ。」クリスさんが続けた。「検査会場でね、わざとウンチをもらしてね、それで助かったらしいよ。グジャグジャだったらしい。」目の前のタイグリーンカレーに手を伸ばすことを止め、自分だったらどうするのだろうかなどとう~んと唸ってしまいそうになった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月21日
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「おいタコ、始まるぞ!」周りの白装束に長靴の作業員も、手を止めて集まった。得体の知れない宗教団体に属していたとかいう時の話ではない。1969年7月21日、東京は東村山の自宅から歩いて10分くらいの所にあった、「高級珍味料理」製造工場で夏休みのバイトをしていた。その日の昼、アメリカのアポロ11号が月面着陸をした。その衛星TV中継が始まろうとしていたのだ。誰でも、「その日、どこで何をしていましたか。」と聞かれて即答できる大ニュースの日をいくつか持っている。あの日あの時、私はこの工場で高級珍味のクラゲを洗っていた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月21日
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1969年は、私の人生のその後を左右するようなことが多く起こった。1月の東大安田講堂攻防、7月にアポロ11号月面着陸。そして、10月。10月28日からの中間テストが延期になった。私は、都立高校の2年生だった。その月、中国地方への修学旅行から帰り、テストの準備をしていたが、いろいろと不穏なことが起こりつつあった。だが、テストが延期になったことには妙に嬉しくなったことを覚えている。1969年は年初から日本中が大揺れに揺れていた。翌年に控えた日米安保条約の延長を阻止しようとして大学生を中心とした学生運動が頂点に達していた。日本中いたる所で警察と衝突していた。そして、全国の高校も大きく巻き込まれていった。「昨夜、生徒の何人かが学校内に入りバリケード封鎖をしようとしました。」校庭に全学年の学生が集められて、学校側からテスト中止の説明がなされた。「私たち、教職員が泊まりこんで封鎖を阻止しました。そして、本日からのテストを中止して全学年で現在の学校教育の問題などにつき討論をすることにしました。」これが、それから延々60日に渡って続く全学討論の初日となった。今の若い方々には想像もつかないことだろうが、来る日も来る日も授業がなく、クラス討論、学年討論、全学連絡会議などが行われた。隣の同じ学校群の立川高校ではバリケード封鎖が行われていた。そんなこともあり、教職員が毎日泊まりこんでいたようだ。学校側も、一定の理解を示して学生の自由討論の場を与えた形になった。現実には、論じ合うことが学校の現場の小さなことから、国の政治のあり方などまで、あまりに多くのことがあり過ぎて壁にぶち当たっていってしまった。学校側はそれを見越していたのかも知れない。生徒心得の廃止、学生服の自由化、3年生の授業科目の選択制などいくつかの点が改善された。しかし、受験制度の改革とか大学教育のあり方など、学校を超えたものについては要望をまとめた程度で終わってしまった。大きな挫折感が襲ってきた。こうして、年末には尻つぼみになり紛争は収束していった。大学受験を控えた3年生の中には、討論に参加せずに予備校に通っていた人も多くいたよう。翌年の1月から、正常授業が始まった。しかし、確実に私たちの中で変化が起こっていた。そして、1970年、日米安保条約の期限切れ延長の年を迎えた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月19日
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こちらのTVで今、国民的に人気のある料理番組がある。見ていないのは私くらいだ。「それだけ見てるんだから、何か作ったらいいのにね。」と、いう私のそれとなく出た言葉にオランダ系の連れ合いが反応してくれた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月18日
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いわゆる飾り窓のようにまずは見た目の品定めから。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月17日
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毎日の早朝ウォーキングは決まったコースを歩く。その途中に、Aged care centre, いわゆる老人ホームがある。受付の前に、アズキ色の2人掛けのソファーが向かい合っている。辺りが暗いので、そこだけがひときわ目立つ。そのソファーに、毎朝80を超えているだろうか白髪の老人がいつも座っている。結構、背は高いように思えるが痩せている。ガウンがはだけて白いシャツが見える。新聞や本を読むでもなく、ただだらしなく座っている。私も、雨の日や朝5時20分前に起きられないときはウォーキングを休むので、毎日その老人を見ていたわけではないが、だいたい私が歩くときは座っている。音楽を聴きながら僅か数秒だが、その前を通る。老人は、私と平行に座っているし、外は暗いので私を見ることはない。歩いていて、その老人を見るとなんだか安心した。しかし、半年前くらいからまったくその老人を見かけなくなった。今も、必ずその前を私は通っているし、ソファーに誰か座っていないか見るのが習慣になってしまった。ウォーキングは歩けなくなるまで続けるつもりだ。その頃には、選手交代で私がソファーに座る番になるのだろう。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月17日
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一ヶ月ほど前から、家の一部が「床暖」になっていた。間違いなく、お湯のパイプが破裂してコンクリの下がプールになっているのだろうと予想していた。本日朝から、水道工事の人がきていて賑やかだ。しばらくシャワーが駄目かも。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月15日
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まだ暗い早朝ウォーキングで今朝、猫とかじゃないとは思うが、グニャっとしたものを踏んづけてしまい、暗いので何だったのか分らずちょっと嫌な気持ちで歩いた。7月になって、徐々に日が長くなってきているのだろうが、今朝は5時に起きて歩き出したのでまだ真っ暗だった。「タコさん、ちょっと町を歩こう!」インドの出張でカルカッタ入りしてホテルに入ったときに、同僚の笠松さんがそう行って私を誘った。「俺ね、どの町に行ってもすぐに歩いてみるんだよ。その町の雰囲気や人間を見てみたくてね。」27歳で建設機械メーカーの海外営業部で働いていて、私にとってはこれが最初のインド出張だった。笠松さんは何度かインドに来ていていろいろ知っていた。ホテルに荷物を置いて、すぐに外に出た。夕方だったので、どの家も料理を作っているのだろうか、炭の匂いが町中を覆っているだけでなく、煙で目が痛くなるほどだった。「タコさんね、インドじゃ歩道を歩いちゃ駄目なんだよ。どうしてか知ってるかい?貧乏人の家にはトイレがなくてね、みんなそこらでやるんだ。それで、歩道を歩いていたらフンを踏んづけるわけだ。」といいながら笠松さんは大きな声を出して笑った。それから、私たちは町を歩くときはできるだけ車道を歩くことにした。車道にしても、牛のフンとかがそこら中にあることはあるのだが。「それからね、人も歩道で死んでたりするからね。寝ている人と区別がつかないことがあるよ。」四大文明の一つの発祥の地インド。こんなインドに誰がしたのかと思って気持ちが落ち込んだ。ヨーロッパの繁栄はアジア、アフリカの犠牲の上にできている。そして、日本も遅れてきた帝国主義者として同じ轍を踏んで後遺症に悩まされている。踏むのはフンくらいにしておいた方がいい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月14日
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2009年07月13日
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星に祈って一つだけ願いが叶うとしたら、一体何をお願いするだろうか。腹筋が、6つに割れるくらいの体になる。アラブの金持ちになって妻を4人娶る。松坂慶子の中高年の恋の相手役で日活からデビューする。いろいろと頭を過ぎることがあるが、どれもあまりに荒唐無稽。私の一つの願い。86歳と83歳の年老いた両親が、これから大戦とか大地震とか大災害とかに遭わず済むようにと願う。先の大戦では、志願兵として満州へ行った。戦争の話はあまりしないが、平和時に殺人が大きな罪であるのに、同じ事をしかも大量に行う戦争に行かされた経験では、なかなか語れない部分があるのだろう。母は秋田から出てきていて東京で空襲の怖さを味わっている。こんな経験は、もう二度と味わって欲しくない。父は、関東大震災の年に栃木で生まれた。東京の空が赤かった、などと冗談を言ったりはするが、地震とかの自然災害は防ぎようがない。星に願うしかない。今日も一日、無事であって欲しいと願う。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月12日
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昨夜、友人宅に呼ばれて「フォンデュ」の宴となる。私は、随分前に一度レストランで食したことがあった。ああ、溶けたチーズにいろいろ刺して入れて食べるやつ、と思って行った。ところが、フォンデュにもいろいろあるのと知った。チーズフォンデュオイルフォンデュチョコレートフォンデュヨーロッパの味を堪能した夜となった。今日は、粗食にしないと。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月12日
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幼稚園の頃から気になる男がいた。デカイのだ。私と同じくらいデカイ。小学校に入ったら同じクラスになった。留野といった。私が129センチ、留野が127センチだった。2人とも態度もデカかった。小学校2年の時、人生最大の悩みに既にぶち当たった。体に異変が生じたのだ。何のためにこんなことが起こるのかさっぱり分からない。誰にも相談できない。両親にも兄にも。悶々とした日々を過ごし、人生を儚んだ。女性に生まれた方々には、理解できないかもしれない。一生、女性とダンスなんかできないと真剣に悩んだ。「俺も、そうなんだよ。」悩んだ末に留野に相談したら、彼からの返事だった。この一言で、人生を続けられる勇気が湧いてきた。本当に嬉しかった。私も、One of them. だったと分った。持つべきものは友。今は、ダンスもできている。先日、暇に任せて名前を検索していたら、どこかの陸上選手権の結果に留野が出ていた。50代男性100メートル13.58秒で1位だった。中学時代、一緒に陸上部でやっていたが彼は未だに走っているのだ。その頃は私の方が速かった。でも彼は、足が私の2倍くらい長く、将来はこいつには叶わなくなるだろうと予想はついていた。それにしても、還暦も近いのに13秒台で走っているんだ。逃げ足だけは速いといわれているタコ社長、毎朝のウォーキングにも走りを入れてみようかなどと思ったりもしている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月11日
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メルボルンっ子の裏山ダンデノン山。雑踏を離れ邪念を忘れしばし佇む。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月10日
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何だか、世の中騒然としてきた。火山の噴火直前のような感じがする。中国のウイグル暴動。サミットから胡 錦濤総書記帰国。中国で、世界最大の鉱山会社のRio Tintoの中国代表者など4人がスパイ容疑で拘束される。Rio Tintoはロンドンに本社を置き、南アフリカ、オーストラリアなどで事業を展開する世界を牛耳っているロスチャイル●系の会社。中国は、何か企んでいるのだろうか。株が落ちてきていて、ドル安、ユーロ安が進んでいる。今月28日には、カリフォルニアの発行している大口債券の支払い期限だが、どうやら不渡りになりそうだ。その全く同じ時期に、アメリカで騒乱鎮圧の演習が3日間、カナダとメキシコを加えて行われるという。アメリカで近く暴動が起きると予想している人が結構いるという証拠だ。会社のトップの年収が100億円とかがいる国。日本はなかなか暴動の起きない国というが、昔は一揆の国だった。学生運動も盛んだった。今は見る影もない。年老いて居眠りしている犬のようだ。日本の政界がお先真っ暗だ。あんなに人気のあった小泉さん、郵政民営化はその金をアメリカに自由に使わせるためだったとバレて皆がだんだん分ってきて、竹中なんとかと一緒に地に落ちつつある。その上、息子まで出そうしている。改革が、地球を3回空回りしてワンだ。世の中のこと、何にも分かっていない私にでさえこれくらいの情報は入ってくる時代になった。昔だったら、絶対にバレなかったであろう為政者の陰謀が、どこの国でもバレてくる。すごい世の中になってきた。インターネットがないとやっていけない。かといって、私に何ができるのか。せめて少しでも、こういう気持ちを多くの人と共有したい。考え過ぎだろうか、世界で起こっている事々が地下でみんな繋がっているような気がしてならない。やはり考え過ぎだろうか。最近、考えることがなくなっていているので、変にボケてきてしまっているのだろうか。卑弥呼の時代は良かったなどというつもりは毛頭ないが、一日4-5時間仕事をして飲んで歌って踊って生活できた時代は、たとえ寿命が20年、30年であってもそれなりに意味があったように思える。これから、何もたいしたことが起こらないならそれに越したことはない。取り越し苦労はこの場合は大歓迎だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月10日
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最近、和牛専門のおしゃれな日本の焼肉屋がメルボルンにも出てきた。和牛のことは、そのままWagyuという。ベジタリアン志向になって可也になるが、焼肉屋にいってベジタリアンでは元気も出ない。焼肉といえば韓国系、メルボルンには売るほどそんな店ができている。行った和牛の方は値段はやはり予想通り派手だった。一つ一つの量が地味だから追加注文に勢いがつく。オーストラリアの会計年度は7月から翌年の6月となっている。新しい会計年度を無事に迎えることができて、年に一度の豪華な夜となった。次回は、場末の餃子の店にしよう。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月10日
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「ケアンズはどう?」仕事を初めいろいろなことに行き詰っていた私に、オランダ系の連れ合いが明るく提案してくれた。1995年、私は10年ぶりにケアンズに旅行に出ることにした。ケアンズは2度目だった。1985年の7月に最初の旅行で訪れた。出版した本にも書いたが、道に迷って、浜で日光浴していたトップレスの女性に道をきいた所だ。10年後の私は、移住して今度は人生の道に迷っていたが、連れ合いと一緒だったのでそんなことは望みようもない。ケアンズの町から車で30分くらいのところにあるモーテルに泊まった。庭を出ると、とてつもなく大きくて岩があったりするプールに出られる。全くの別世界だった。10年前は、200人くらいが泊まれる大型のユースホステルだった。そこで、イギリス人で、スザンヌ・プレシェットのような顔をした美人のカレンと話をしたりしていた。スザンヌは、エリザベス・テーラー系の目立つタイプの女優だったが、あまり成功せずに昨年亡くなっている。例のヒッチ・コックの「鳥」では、鳥にやられて死んでしまう教師の役で、なんでこんな役をやっているんだろうとちょっと淋しくなってしまったことがある。彼女は、主役をやるべき女優だった。ヒッチ・コックは自分の映画の主演女優には可也しつこく迫ったというから、そこらへんで拒んで脇にやられたのかもしれない。因みに、このカレンとは、その後シドニーのロックスでお茶を飲んだが、彼女には面白くない相手だったようで、すごくぎこちなく終わった。それから10年後、いつも笑顔の絶えない連れ合いとケアンズの街を回った。小さな船でグリーンアイランドに行ったとき、いつもは頑強な連れ合いが船酔いしたのにはビックリした。島の浅瀬でシュノーケルで一日過ごした。風が強くて、あまりいい天気ではなかったが、シュノーケルで海の中を見ると、本当に即刺身にしたいような魚たちがうようよといて驚いた。普段泳いでいる海でも、実はいろいろな魚が近くにいるのだと分った。見方によって、今まで見えなかったものが見えてくる。1週間の旅行は本当に気分転換に大きく寄与してくれて、連れ合いの提案に感謝した。翌年、私はそれまで勤めていた大学付属の公立専門学校の日本語教師の職を辞して、留学生のお世話をする仕事を1人で、自宅からスタートさせた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月09日
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「あれっ、川が氾濫して帰れないよ。」東京の練馬区にある練馬中学2年生のとき、毎日渡って通っていた石神井川が氾濫して下校するときに大変なめにあった。1966年6月28日、関東地方を襲った台風4号の影響でいろいろと被害が出た。私たちは、仕方がないので豊島園の方まで歩いて渡れる橋を見つけてやっとの思いで家にたどり着いた。この日、小学校5年生のときからラジオで聴いて興奮していたビートルズが日本にやって来ることになっていたのだ。お陰で彼らはアンカレッジで足止めを食い、翌29日の早朝に羽田に着いた。「ごめんね、私、この人に会うために生まれたと思う人がいるの。」付き合い始めた会社の同期の好美が、神田川のふち沿いを歩いているときにそう言って泣き出した。私は、挿していた傘を握り締めながら、泣きたいのはこっちの方だと思った。1976年に入社したコマッタ製作所で知り合った好美は、背は155センチほどの小柄だったが目が本当に大きくクリクリして愛くるしい人だった。長い髪をお下げにして、甲高い声で人を笑わせるオチャメな感じがスキだった。8月の雨が生暖かく顔に吹きかけてくる。会って3回目のデートの夜で、彼女の住むアパートがあった荻窪を歩いていた。友達と同居しているアパートには行かず、川のふちを歩いていたのは、なんだかその夜は何かが始まるような予感がしたからだった。しかし、私の予感は当たらない。二つの傘が急接近したときに好美がこう言って泣き出したのだ。そんなに好きな人がいるなら、どうしてデートなんかするんだ。24歳になったばかりのタコサラリーマン、思いっきり荒削り。結局、その人には交際相手がいて、しかも婚約までしていると知った。そして、好美はその人に自分の気持ちを告白したこともなければ、デートをしたこともないという。じゃ、いったい私はどうしたらいいのだ。彼女をアパートの前まで送って、一人荻窪南口に向かいながら、恋心がやり場を失って右往左往している。急に腹が減った。「たつみ」という小さなトンカツ屋さんが目に入ったので入って、一番高い上ヒレカツ定食を食べビールを飲んで帰った。生まれたときから笑顔だったようなマスターがゆっくりと揚げてくれたヒレカツは最高の味だった。彼女とはその後3年弱付き合って結婚も考えたが、1980年に寿退社して私の世界から去っていってしまった。因みに、「たつみ」にはこの3年間、随分と厄介になった。小学校3年のときに、仲宗根美樹の歌う「川は流れる」が爆発的にヒットした。私もカラオケで歌ったりしている。彼女の独特な歌い方と年下の子どもまで刺激してしまったその容姿が浮かんでくる。石神井川、神田川を流れて私の思い出たちも東京湾のヘドロを喰って大きく膨れ上がったりしているのだろうか。http://www.youtube.com/watch?v=o00Pkw8znAc&feature=related「川は流れる」が聴ける下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月08日
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3年前からやっている早朝ウォーキング、まだ続いている。今朝、メルボルンの気温2度。今年、もっとも寒い朝。お金のいらない運動として、家族からも喜ばれているウォーキング、これからもやっていこうと思っている、動けなくなるまで。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月08日
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今日は七夕。朝から少しロマンチックな胸騒ぎ。家に帰って馬鹿食いして、酔ってソファーで寝てしまい起きたら11時になっていた。やっぱり、こんなもんだろう。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月07日
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ストリッパーだったと言った。ダーウィンのユースで隣り合わせの部屋になり話をしたカメラマンのスーザンだった。もうすぐ40歳に届くくらいの年だったろうか。もしかしたら、もっと若かったかも知れない。移住を求めて33歳でオーストラリア入りして、一ヶ月のバスの旅行で立ち寄ったダーウィンでの話しだ。「まるで、相撲レスラーみたいわね。」スーザンは、一緒に行ったカジノから歩いて帰るときにそう言って笑った。あなたも負けていないよ、と言おうとして止めた。ボディースーツのような黒くて体にフィットした服を着ていたスーザンだったから余計にそう言いたくなった。こちらの国は概して男女とも「年相応」という言葉が抜ける傾向にある。「Mr タコ、俺たちもうすぐダーウィンに行って働く予定だよ。」飲んだ帰りにはいつも立ち寄るグリークカフェのアレックスが、そう言いながらカフェラテをテーブルに置いた。メルボルンは寒いので、冬でも30度を超すダーウィンに働きに出るそうだ。かれはギリシャからの旅行者で、短期に働いていた。この時期、南から北に上って気楽に仕事をして歩く人も結構いる。私が、1985年にダーウィンに行ったのも7月だった。ダーウィンは、一年中夏で、冬はドライ夏はウェットの熱帯気候だ。クイーンズランドのゴールドコーストから出稼ぎに来ていたスーザンは、私がダーウィンを出るとき見送りに来てくれた。「ゴールドコースト、日本人の観光客だらけよ。日本人ならすぐ仕事も見つかるわよ。タコもそうするといいわ。遊びに来てね。」別れ際にスーザンは大きくえくぼを作って微笑んだ。いよいよ、そのときの旅行の最長継続乗車記録に挑戦するバスに乗り込んだ。ダーウィンからタウンズビルまでの37時間、乗りっ放しになる。永住権を求めて来ていたが、まったくあてもなく根無し草。浮かれる気持ちを抑えながらバスから彼女に手を振った。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月07日
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山芋をやっと見つけた。ヤムイモだった。紫がかっていて、やや食感も違うが、日本の懐かしい味。お陰で、最近なかった三杯飯の夜になってしまった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月06日
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家から車で15分くらいの所にあるスプリングベールのショッピングセンターには、こんなに豪快な魚屋がある。勿論、すごく安い。ここでは、自分がベトナム人じゃないのが申し訳なくなるほどだ。帰りにギリシャ人の町、オークレイに寄って、ギリシャ風ドーナッツを食べた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月05日
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先日のNH●のニュースを聞きながら、思わず「ふざけるんじゃない!」と叫んでしまった。日本から遠く離れるメルボルンから叫んでもしょうのないことではあるが。アメリカ軍が、イラクから撤退したあと治安が維持できるのか心配だ、というような内容で、なんでもアメリカ軍の死者が4,000人を超えたとかいう話をしていた。一説には、民間人を多く含みイラク人の死者は100万人を超えたという報道もある。桁が違うし、人の国に来てその国の人をこれだけ殺しているのがアメリカ、そしてそれを支援しているのが日本。そして、今も殺し続けている。そっちのことは一切触れずに、アメリカ人がどうのこうのと一方的な報道だった。こんな、アメリカの代弁者のような報道を垂れ流すNH●に受信料なんか一切払わなくていい。ハラワタが煮えくり返って腸ねん転を起こしそうだ。還暦が射程距離に入ってきたら、更に気が短くなってきたようだ。昔、もう日本に帰ってしまったスタッフが、「タコ社長は瞬間湯沸かしきのようですね。」って褒めてくれていたが、湯沸かし器が2,3個必要だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月05日
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日本だったら、石焼きいもとかが似合う季節、今メルボルンは真冬だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月05日
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「献血しようとおもっているんだけど、一緒にやる?」先日、オランダ系の連れ合いが言い出した。普段、上げることに厳しい民族の血を引く彼女だが、献血とか献金とかには割りとソフトだ。私はエイズとかを心配したわけではないが、やや引いてしまって、「死んでから献体するよ、脳とかね。」と言って笑ってこたえた。「じゃ、あなたはあっちこっち使い物にならないから、あまり役に立たないわね。」長く一緒に住んでいると、だいたい回答の予想ができて嬉しい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月05日
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「タコ、お前自分の精子、見たことあるか?」高校一年のとき、クラス1の秀才有川がそう言った。彼は、ものすごく勉強ができたが、それをひけらかすところがまったくない人で、隅っこでいじけている私などにも気さくに話してくれる。秋の体育祭の練習の中休みのときに、そんな会話が自然に始まった。1人で黙って家でこんなことをしていないところがいい。彼は、顕微鏡で自分の精子を見て感激したらしい。既にこの頃から科学者の目を持っていたのだろう。因みに、世界で始めて精子の細部を見た人は、オランダ人のレーウェンフックという人だったという。自分で300倍の顕微鏡を趣味で作った人らしい。1677年の8月のことだった。今から、330年も前の話になる。オランダ人は、なかなか細かい人たちの集合体のようだが、昔からそうだったようだ。「なんだこれ、でかくした精子みたいだな。女性は気をつけないとね。」ちょっと前に、オーストラリア人を呼んで日本食の食卓を囲んだとき、私の作った「エノキバター」を見てオランダ系の連れ合いの義弟がそう言って爆笑をかっていた。この人、発言の9割方がジョークといってもいいくらいで、人を大笑いさせる人。だいたい、半分くらいしかそのジョークを解さない私には、ちょっと苦手な人ではある。でも、このエノキタケのジョークは分った。この人が来るときは、これから毎回エノキ料理を出すことにする。最近、こちらのスーパーなどでも「エノキタケ」が売られるようになってきた。アジア系の店では結構売られるようになっていたが、オーストラリアでも「キノコ」類を使う料理がしっかりと根付いてきているようだ。因みに、日本でエノキタケを週3回以上食べている人は、そうでない人たちと比べ、癌の発生率が半分だったというデータがあるらしい。こういう話には、間髪を入れずに飛びつく年代になってきている。これからタコ社長、顕微鏡でいろいろ研究するとかはないにしても、このエノキタケの効用については細かく調べて活用していきたいと願っている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月03日
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あのイタリア13兆円の米国債事件は、一体どうなってしまったのだろうか。あの持ち込もうとした二人は、本当は誰だったのだろうか。我々はどうして知らされないのか。もしこれが豆腐13丁だったとしても、イタリアからスイスに持ち込もうとしたら、世界中で話題になり、持ち込もうとした人は今頃Youtubeで大ヒット、なんてことになっている筈。そして、そんな人には自民党から大臣ポストでお誘いなんかがきているかもしれない。非常に多くの人が事の真相を知っている筈なのに、われわれにはまったく伝わってこない。これが現実の世の中。為政者たち、大手メディアは都合の悪いことには、臭いものには漬物石状態。そういう域に達している人たちにはたまんないだろう。自分たちだけで知りうる真実を肴に高級イタリアワインでも飲んでほくそ笑んでいるのだろう。「悔しかったら、政治家になってみろ!」とか思っているのだろう。タコ社長、なっても性事家くらいが関の山、悔しさで歯軋りし過ぎて歯が欠ける。高級イタリアワインに手が出ないのも、確かに悔しいし。年を取ったら、もう少し人生平穏に生きられるのかと思っていた。知る、ということ、知ってしまうということの怖さだろうか。知らない方が幸せなことは確かなのだろうが。インターネットは両刃の剣、でも我々ゴミのように扱われる庶民にはいい剣には間違いない。今夜は、安くて美味しいオーストラリア赤ワインで、湯豆腐2丁くらい喰ってみようか。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月03日
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2009年07月03日
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オランダ系の連れ合いの両親は、今クイーンズランドにキャラバンで行って温かい気候を楽しんでいる。毎年、この時期になると上って行く。調度、メキシコからアメリカ合衆国に上る人たちに倣って、メルボルンやシドニーからクイーンズランドにこのように行く人たちを、「メキシカン」と呼ぶ。「しかし、思うんだけど、キャラバンパークで一日中、一体何をしてるんだろうね。」生涯現役、という言葉に人気のある怖い国からきているタコ社長、ちょっとオランダ系の連れ合いに聞いてみた。出生から半世紀を越えて間もない連れ合いも、即答ができなかった。一体、両親は毎日何をしているのだろう。いらぬお世話ではあるが。因みに、父親は53歳になる直前にリタイヤしてから、毎年こういう生活をしている。連れ合いの両親は、以前のようにウォーキングやダンスをすることも少なくなった。足が弱ってきていることもある。しかし人間は、いろいろ衰えても食欲は衰えないから、更に体も大きくなる。悪循環が循環してしまう。パブなどにいくと、65歳以上の食事割引があったりするものだから、オランダ系としては欲も出る。この制度、痛し痒しだ。というわけで、キャラバンでは、日向ぼっこ、編み物、読書などあまり動かないことが中心となることは想像に難くない。まさか、腕立て伏せとか腹筋とかはやっていないだろう。昼食、夕食などは同じようにキャラバンで来ている中高年の人たちと一緒にとる。飲んで、食べて賑やかにやるのだろう。酒の量も増えるかもしれない。この点に関しては、私も文句はないが。こういう毎日が2-3ヶ月続く。どうだろうか。私と連れ合いにはできるのだろうか。まっ、いずれにしても後20年くらいはこんな余裕もないだろうから心配は先送りとする。しかし、私が一番いいたいことは、このことではない。夫婦のあり方のことだ。連れ合いの両親は、本当に何をやるにも、どこに行くにもいつも一緒だ。三年ほど前に、母親が胆石で入院したとき、45年前の最後のお産以来、別の所で寝るのは初めてだと言っていた。リタイヤするということは、こういうことなんだなと思わせてくれるのが連れ合いの両親だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月03日
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飲んだり、飲まれたり。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年07月01日
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