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本論にそろそろと近づいて行きたいのですが、なかなか戻れそうにありません。そもそもこんな話を始めた理由というのが、今夏の異常な暑熱で私の頭が少しトチ狂ったか、例年夏場に繰り返される戦争報道を見ていて、ある妙な想念が頭をよぎったからです。その話は一番最後にするとして、戦争体験のない私が、自身の内部に戦争に近似した心の痕跡を探しながら話するというのはなかなか難儀で、他所事のように軽々に話するというのは、やはり実体験をした人たちに対して失礼という感覚もあって、話を続けようという気分がしょっちゅう滞ります。 これは例えば「阪神大震災」を経験した人たちから、「震度7という揺れというのは、こればかりは実際に遭遇してみなければ、絶対分からない」と言われれば(実際、今でも言われます)、他の人は口を閉ざすほかないのといっしょで、もちろん「共感」などという浅はかな言葉は使いたくありません。これはたぶん拉致問題とか沖縄普天間問題などにも共通するところがあって、軽々しく「分かる」だの「共感する」だの第三者が言うのは、当事者から見れば「いい加減にして!」と怒鳴られるのがオチでしょう。 かといって、それらにコミットするのを止めるのは、いちばん悪い選択であろうし、この当事者との間の距離感のバランスというのは、なかなか難しいのです。「そんなことガタガタ考えずに、さっさと行動しろ!」とは、こうした議論の中で必ず出てくる、主として運動家たちからの罵声ですが、これは「当事者たちとの完全な共感など最初から不可能なんだから、当事者の言い分に黙って従え!」と威迫されているのと同じことで、そういうコミットの仕方であれば、たぶんお互いにもっと不幸な関係になるでしょう。私は出来れば相応の立場に立ちたいのです。相応の立場とは、互いが当事者であらんとする関係を言います。 で、それは戦争体験者との関係においても同じなので、戦争未体験者の立場で戦争体験者と同じ地平で、成し得るならば話をしたい。実体験を共有するのはもちろんムリとしても、「それでも戦争を選んだ」日本人の心の蠢動にまでさかのぼれば、あるいは通底するマインドが現れてくるのではないか?というのが、密かな願いでもあります。 というわけで、今のところ戦争体験者の本を、さまざま読み耽るという仕儀になっているのですが、それにしても山本七平さんの一連の戦争記録には驚いてしまいました。私はこれまでにも戦争ものの本は、かなり読んだり見たりしているほうだと思っていたのですが、「日本人とユダヤ人」以来、文明論の語り手として位置づけていたこの人というのが、恐るべき戦争実体験者だったのだということに、今ごろになって気付かされたわけです。 それはお前の怠慢だと言われればそれまでですが、この人の「私の中の日本軍」だの「一下級将校の見た帝国陸軍」だの、あらましの中味を知らなかったわけではないのです。しかしこれまで読んだはずなのに記憶にないということは、要は私が何がなし個人的な必要で、これらをまともに読み通していなかったということでしょう。これと「ある異常体験者の偏見」などをあわせると、この人の一連の直接的な戦争体験が語られていることに気付かされる。 市井のきわめて論争的な文明批評家という感じだった山本氏ですが、以前はあるいはそちらの印象が強くて、途中で読むのを止めたのかもしれません。例の「私の中の日本軍」で繰り広げられる「百人斬り競争」記事批判は、執拗で相手(朝日新聞、本田勝一氏)を完膚なきまでに論駁しようとする姿勢は、正直読む者を疲れさせます(別に論説の中味を批判しているわけではありません。若い私には読み通すのがしんどかった、ということです)。 しかし今回全編を読み返してみて、当時一流とされたジャーナリズムとジャーナリストに対するこの執拗な批判は、ひょっとすると自身の惨烈な戦争体験を、最後まで語り尽くすための推進剤に過ぎなかったのではないか、という気がして来ます。このように強固な怒りのエネルギーが持続しなければ、とてもじゃないが書き続けることは出来なかったろう、そう思わせる内容になっているのです。― つづく ―
2010.09.29
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さて、表題の「いわゆる戦争報道」というテーマから、ずいぶん離れてしまって、いったいどうなるのやろ?という感じが我ながらしているのですが、要は閉鎖集団における「集団的夢」とはどのように醸成されてくるのか?というところからこの話は始まったのでした。 私は軍隊のような自己完結的な閉鎖集団というのは、表向き極めて機能化された組織体をなしていますが、そうした組織を統合し機能させている根底にあるのは、案外これまでながながとしゃっべって来たような、無意識下に潜む集団としての種族維持本能があるのではないか?と思っているのです。 ある目的に向かって組織された集団、例えば企業集団などを考えた場合、それを機能させ推進させる力の源泉というのは、たぶん軍隊組織とは異なる。何時ぞや従業員の研修に自衛隊への体験入隊を導入した企業があって、多少話題になりましたが、今どきそんなことをするところはありません。まあ、日本の企業の場合、かつては運命共同体的な仮想のイメージを作り出して、従業員を働かせた結果、そのあたりの境界が不分明だったのですが、今どき会社組織をそのように捉える日本人はそれほど多くはないでしょう(一部の大企業を除けば)。 運命共同体とは、例えば集団組織維持のためには、組織員に自殺をも強いる集団のことです。今だにそうした指向性を強く持っているのは、ある種の政治集団あるいは官僚組織、さらにはそれらに権限を握られている企業集団(かつての銀行業とか建設業界など)でしょう。こうした集団では、組織維持のための口封じとして、最終的に従業員や役員に死を強いることを厭いません。これは企業集団というよりは軍隊組織(あるいはヤクザ)に近いマインドを持っていると見ていいでしょう。 これは生活手段としてのパートとかアルバイトのような労働環境(過労死は別として)では、絶対醸成されないマインドで、組織集団の維持が絶対化して、運命共同体として認識されるとき、その中の所属員は由って来たる仕事中の死に関して何とも思わなくなる、というより一種の畏敬をもって死者を認知するのです。露骨に自殺の例を挙げましたが、それほどでなくても所属組織のために社会的制裁を受けた(例えば、贈賄とかスパイ、株価操作)場合、表向きはともかく裏でその組織集団が当該組織員の面倒を最後まで見るのは、ごく当たり前のことと思われているでしょう。 逆にその補償があるからこそ、自ら死を選んだり法律を犯すことも出来るわけです。少なくとも本人にとっては、それが所属集団のマインドであって個人的意思でないことによって、自身の存在意義を失わずに済む。 このあたりの組織集団への親和性というのは、本来契約関係であるべき集団であっても、日本では運命共同体的な仮想で組織を機能させて来たので、欧米的な企業組織集団とは自ずと異なっていました。しかし派遣労働が常態となった今どきの日本でも、最終的にはこうした運命共同体的帰属性への強い指向性はまだまだ残っているのではないか? それというのも、よく言われることですが今どきの日本には、それに取って代わる運命共同体のような受け皿がないからです。今や家庭といえども、厳密に運命共同体と言えるのかどうか?各個人がバラバラに部屋に閉じこもって、各々iPadに熱中して仮想の帰属意識を醸成しているだけで、「ゲゲゲの女房」のような濃密な家庭環境というのは、すでに昭和の時代の話でしょう。 平成の今の世に、こうした話は成り立たないのです。このところセピア色の昭和三十年代のドラマや映画がさかんに出てくるというのは、それがすでに過ぎ去った時代のもの、つまりもう二度と戻って来ない過去の話だからです。よく考えてみれば、平成時代はすでに二十年以上経っていて、大正時代よりはるかに長く経過しているわけで、明らかに新しい時代の相が現れて来てもおかしくはない。― つづく ―
2010.09.28
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しかし少し考えてみれば、すぐ気付くわけなのですが、個体としての人間の場合、その有限の態様の三分の一は、睡眠というかたちで無意識の世界にあるように、大脳の機能をそっくり取り去ってみれば、意識がコントロールし得ない小脳や間脳その他、生き物がごく初期から持っていた原始脳がすぐ裏に控えている。普通いちいち意識しなくとも睡眠や食欲、性欲が発現するのはそのためで、私たちの日常の振るまいは、意外とこの無意識下の原始脳に支配されていることを知るわけです。 古代人はもちろん今のような知識も情報も持ち得なかったのですが(むしろそれゆえに)、日常的な表側(意識下)の我が身の振るまいとは別個の表象が、裏側(無意識下)に見え隠れしながらも、気鮮やかに存在していることを、たぶん今どきの(大)脳化社会に住む我々よりもハッキリと感知していたでしょう。前にも触れましたが、古代人にとって夢とはユメ→イメ(寝眼)を意味し、今どきと比べてはるかに鮮やかな実在として意識されていたのです。 さて近代社会の発生というのは、意識がコントロールし得ないこうした寝眼(不合理なもの)を駆逐して、すべてを意識のコントロール下に置く、という過程であったとも言えるわけで、こうした意識下に隠れているらしい事象は、存在しないものということにして、ひたすらこの世に発生する事象を、秩序化(情報化)する方向で突っ走ってきたわけです。何度もいうように、秩序化(情報化)とは事象から時間性を奪うことに他なりません。近代都市のありようというのが、優れてそのたたずまいから時間性を取り去って、ある時点で切り取られた事象、つまり秩序=情報で成り立っているというのは、養老さんが何度も指摘されていることです。早い話、都市では緑地のような自然(のようなもの)さえ、公園というかたちで秩序化(管理化)されている。 ヒトがこのように個体としての「自己」を意識し、脳の機能(情報系)をもともとのあるべき生命維持機能から、はるかに逸脱して、さらには個体からはみ出して、「自己」を(都市化のようなかたちで)拡張させていくとき、ヒトの生き物としての態様はどのような振るまいを為すのでしょうか? もしヒトも含めた、今どきの生命の態様が「細胞の増殖をコントロールして個体生命を有限に止めるかわり、複数個体によって生命秩序(情報)を維持継承する道を選んだ結果として現れた存在」であるとすれば、この肥大化した「自己」意識の存在というのは、生き物のありようとしては大きな矛盾を孕んでいることになるでしょう。そもそも他者との多様な離合集散を繰り返すことで、つまり集団化することで種の存続を図ってきた生き物のあり方と、このヒトに固有の「自己」意識の肥大化というのは相容れないところがあるのではないか? この傾向は電脳社会の到来で、むしろますます顕著になっているのでしょう。人の振るまいにおける都市化現象というのは、少なくともモノとしての実体がありますが、電脳世界というのはその全体を実体として見通し得る、という感覚は最初からないのです。ここ最近の3D画像の登場などを見ていても、電脳世界はどこまでも実体の感触に迫ろうとしますが、それらは紛れもなくすべて意識界(情報)によって仕組まれたものであって、かぎりなく実体に近似しているといっても、人間界(生き物)がもとから持っている無意識界(無秩序)を共有することは出来ない。 この無意識界の感覚とは、紛れもなく時間の相の感触であって、時空は片時もなく変化し続けることを止めません。というより、この「変化という認識の仕方」こそ生き物の態様そのものなのでしょう。秩序化された情報の集積とは、取りも直さずすべての事象から時間性を奪って、無限数のカードのように電脳世界にただたんにばら撒かれてある。それは見ようによっては「死の世界(エントロピー極大世界)」であって、私たちは各種アプリケーションによって、それらばら撒かれた無限数の情報カードを検索整理再現し、かろうじて実体らしく(ヴァーチャルに)見ているわけです。 それらが生き物の実態的な感触にかぎりなく近似しながらも、このように常にニセの感覚を与えるのは、それを受容する大脳(電脳世界は意識界でしか再現できません)の裏に、意識界ではコントロールし得ない原始脳が控えているからでしょう。― つづく ―
2010.09.24
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他者がそれらの睦み合いを、例えば電車の中で見たとき、羞恥を覚える(羞恥を覚えつつ、覗き見てしまう)というのは、それが生き物が元来外部に対して張りめぐらせているバリアを、あられもなく取り去っている姿だからで、日常世界の在りかたとしては無防備に過ぎる。つまり非時間性=「あの世」の予感に満ちているからなのです。セックスの背後には常に「あの世」の予感が立ち込めているわけで、動物によってはまるで殺し合いのような交合を呈する場合もあるでしょう。 つまりこれらは本来外部と遮断した中にあって、初めて開放さるべき姿であって、昼間眼にする日常性とは馴染まない。女性がそのとき暗闇を好むというのは、外部を遮断することでかろうじて「あの世」に近いところへトリップ出来るからでしょう、まあこれは別の話ですが。 生き物というのが、単体では存在し得ないという話をするために、ずいぶん迂遠な話をしてしまいましたが、元来が生き物という形態(在りよう)は、個体ごとに外と内をきわめて厳密に峻別しながらも、他者と濃密に接触する場面がないと、わが種の存続(命の営み)がおぼつかないという意味で、基本的な矛盾を抱えた存在であるとも言えるのではないか?この話もがん細胞に絡めて、ずいぶん以前(2006年08月24日)にしたことがあります。 がん細胞の振るまいかたというのは、永遠に増殖することを止めないという点で、ある意味生命現象の一つの型を示しているのかもしれません。自然界の圧倒的なエントロピー拡散(秩序→無秩序)の圧力に対して、単体で情報(秩序=閉鎖系)を維持継承しようとする場合の、生命現象の在りかたについての戦略の一つだったかもしれないのです。それがどういうわけか増殖をコントロール(有限に止める)し、単体でなく複数個体によって、生命秩序を維持しようとする在りかたが現れたというか、そちらの戦略を持った生命の在りようのほうが優勢になった。これはどちらが先とかいう話ではありません(そもそも、今と同じがん細胞の形態が、生命誕生の時点で存在したかどうかなど、誰にも分からないのです)。 早い話、原初生物にあっちを採るかこっちを採るか、などという戦略を考える機能など、もちろんなかったわけで、そのあたりは生命としての意志とは関係のない、限りなく数式や化学式に近い(要は自然界に近い)現象ではあったでしょう。 とはいえ、今いる私たちという生命の態様というのは、細胞の増殖をコントロールして個体生命を有限に止めるかわり、複数個体によって生命秩序(情報)を維持継承する態様を選んだ結果として現れた存在なので、他者との擦れあいとは我々にとって原型的な在りかたなのでしょう。この外と内を峻別しつつも、他者との繋がりを必要とする、いわば相矛盾した在りようが、その後の進化過程でさまざまな生き物の在りかたを設えたか、と思われます。 ヒトというのは、どうやらそうした生命形態の中で、おそらく個体である「自己」を意識した唯一の存在で、それはやはり二足歩行の結果として、急速に発達した大脳の作用によるところが大きいでしょう。脳とは言ってみれば、それ自身はマテリアルな何物も産生しないが、個体の生命維持のしくみ全般をコントロールする。つまり優れて情報=秩序を指向するのですが、大脳というのはどうもその本来の機能以上に、自己意識を肥大化させる働きがあるようで、それはそのまま外部への強い秩序化を指向するのでしょう。生命形態が本来有している生命維持機能(ホメオスタシス)のレベルをはるかに超えて、自己と他者を峻別しなおかつ秩序化しようとするようです。 これは取りも直さず脳が情報系を司っている結果なのですが、ヒトとは優れて大脳化した存在である=意識化した世界、つまり娑婆の時間から抜け出た「永遠」を指向する性格を持っている、と言えるでしょう。― つづく ―
2010.09.20
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話はずいぶん変わります。ここからは例によって、科学的あるいは事実的な裏づけのある話ではなくて、いささか空想(妄想)の勝った話と思ってください。 ヒトも含めて生き物という存在であること、あるいは生き物としての振るまいというのが、自然界でそれぞれ個別単体に独立したものではあり得ず、片時もなく他者との烏合衆参(擦れあい)を繰り返して、その関係性においてのみ自己という存在を確かめ合っているらしい、つまりわが身とは、「他者という過去と未来に挿まれた、すぐれて時間の相のもとにある存在だろう」というのが、これまでの私の議論でした。 他者とは実は過去と未来にしか存在し得ない、わが身と同時性を保っている存在というのは、実はこの世には存在しない。つまり、わが身の横に同時的に存在し得る世界は「あの世」だけで、この世からその世界は物理的には絶対に観測出来ない(要は関係性を持ち得ない)、この世を空間で把握するかぎり、素粒子レベルといえどもお互いに距離があり、自ずからその間には時間を生じるという関係を、アインシュタインの時空との関係で説明してくれたのが、例の橋元淳一郎氏の一連の本です(これが氏の本の正確な理解とは、とてもじゃないが思っていません、あくまで私の妄想です。それにしても、この本はあまり話題になっていませんね)。 ところでそうした他者との関係性とは、とくに若くて聡明な人たちは忌避するところかもしれませんが、はなはだウェットなものです。ウェットとはシャレて言っているので、平たくいえばリアルな人間関係というのは、ズブズブの粘液のような感触をともなうのであり、ネット社会のようなデジタル化されたごく乾いた関係性で、それを置き換えることは実は出来ません。どうもこのあたり、とくにIT関係の人は勘違いしているのではないか? ネット上の付き合いというのは、「仮想の自己と他者の間」で居心地の良さを装っている(その居心地の中には、当然現実社会では出来っこないレベルのウサ晴らしも含んでいる)わけで、他者あるいは外部との付き合いを、出来ればすべてネットで済ましてしまおう、などとなると自身の生き物としてのリアルな身体性は、大きく損なわれることになる。 ネット上の付き合いは電源を切れば、それでオシマイ(つまり時間性の相のもとにない)なのですが、リアルな人間関係というのは(家族も会社組織も夫婦も社会も)、この世にいる限り、性懲りもなくズブズブと継続するのです(そのリアルな時間性の中にいながら、今どきネット上のお付き合いに費やしている、一日の時間を考えてごらんなさい)。 さて私はリアルな生き物の有り様を、ことさらにいやらしく偽悪的にしゃべっていますが、逆にそれだからこそ、真の意味での愛憎というのも生じるのでしょう、などと言うと、「いらんわ、そんなもの!」と、ますますあちこちから大ブーイングを受けてしまいそうです。 しかしまさしくセックス行為に端的に現れるように、生き物という存在は元来外部(他者)と厳密に遮断している自己という身体を、どういう手であっても他者=外部に開くことによってしか、その「有限である自己という時間性」から逃れることは出来ないので、それはある種脳内麻薬の作用によって、本来忌避すべき外部との接触を図ることが出来るのではないか?という話を以前しました(2009年1月30日 源氏1000年 12.)。 要は快感物質(β-エンドルフィン)のような一種の脳内麻薬作用によって、「ホメオスタシス(恒常性維持機能)」の一部を一時遮断あるいは解除し、外部との接触を図っているのではないか?ということですが、通常のシチュエーションから見れば、とてもようしないようなことも、とりあえずその間は「快感」として受け入れられる。なかんずくヒトというのはそれを愛(Eros)というような観念を作り出して、コントロールし持続させようと試みますが、醒めてみれば後になって「シマッタ!」というような恥ずかしいことも、愛し合う男女の間では大抵出来てしまう。快感作用のトリックというのは、普段とてもようしないようなことも、愛の営みの最中においては出来てしまうことで、むしろますますそれによって快感が増幅する、という仕組みを持っているということです(たぶん女性のほうが、より強く?)。 私はそのあたり、ヒトが本来保有しているらしいリアルな身体性の有りようというものを、今どきのバーチャルなデジタルコンテンツは、ヒトから奪っているのではないか?というか、リアルな身体性の世界からますます遠ざけて、若者たちを身体的には赤子のような更地のままに、世界に放り出しているのではないか?と思っているのです。― つづく ―
2010.09.14
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自殺行動に走る人々の多くに、おそらく当事者が所属していると思っていた社会組織(企業、地域、家族、国家など)からはじかれたという感覚が、根底にあるのではないか?背景は言うまでもなく、二十年近くにわたって続く不景気ということがあるのでしょうが、より直接的には、それによって、わが身が所属していると思って疑うことをしなかった社会組織からはじかれた(あるいは、はじかれるかもしれないという恐怖)ことのほうが、はるかに大きい要因になっていると思うのです。 早い話、相当辛い事柄であっても(それが例えば、減給だの降格だの超超過勤務であっても)、はじかれる恐れがないという確信がある場合、人という生き物はどうやら簡単には参らないらしい(家計が苦しいだの、仕事がキツイだの、文句はいろいろあっても)。さらにかつては、仮にパージにあっても家族とか地域社会という紐帯が、かろうじて当事者と社会とのあいだに生じる軋みの発生を防いでいたのでしょうが(例えば「ゲゲゲの女房」でご覧のとおり)、今どきのようにシングルズの生活スタイルが、むしろあたりまえになって来ると、社会との所属意識を保つのは並大抵ではない、というか、はなはだ流動化されて脆くなっている。 これはたぶん企業組織だけでなく、家族とか地域といった社会のしくみ全体が、流動化し相対化されて見える世の中になっていることを示しているので、要はわが「身をえうなき物に思なし」たとき、生き物というのは簡単に身を捨てるところがあるらしいのです。「伊勢物語」の時代なら、それは自殺行動ではなく家族を放擲して、「えうなき」仲間たちとアズマへ放浪するという筋書きになるのですが、「世を捨てる」という意味では(まあ仲間がいたということはあるにせよ)、似たような行動でしょう。 これは業平の時代、ということは平安時代初期のことですが、おそらく世の中は今どき以上に家族関係も含めて流動化し、相対化された世界として、人々の眼に映っていたことを現しているのかもしれず、わざわざ自殺の手間をかけなくても、野垂れ死にする機会は都を出れば周囲にいくらでもあった、と(考えられていたと)いうことです。早い話、出家という行為は一種の自殺(といってキツければ、自死)行動とも取れるのではないか? いずれにしても、生き物としてのヒトを成り立たせているのが、どうやら直接間接問わず、その生命活動の基本部分で、何らかの集団に強く依拠しているらしい、ということが垣間見えますね。 その依拠すべき集団から「えうなき物」とパージされたとき、当事者にとって所与であったはずの周囲の世界は突然相対化され、すべては流動化して見える。その場合、1000年前なら放浪の旅、ないし出家遁世などといった選択もあったのでしょうが、今どきのように何もかもが可視化され、監視カメラの行き届いた世(つまりどこまでも、死ぬまで集団の眼が追いかけてくる世)では、一気確実に世を捨てる方法しか選べないのかもしれません。 ところで、軍隊組織の特徴というのは、一般の企業とか警察、消防署などと違って、「自己完結的な組織体である」、とはよく指摘されることですが、これの意味するところは、一言でいえば、「外部とは関係なく、独立して行動し存続し得る組織体」ということでしょう。 早い話、軍隊はその内部に独自の武器弾薬を保持しているのは当然として、さらにそれを支援する輜重隊(しちょうたい、前線に輸送、補給するべき兵糧、被服、武器、弾薬などの軍需品を扱う組織)や訓練所や病院や、はては警察組織(MP、自衛隊は持っていません)まで持っていて、いざ作戦行動に出た場合に、外部からの補給干渉は一切受けない仕組みになっている。であるからこそ、地球の裏側まで行っても、独立した部隊行動を取れるし(警察は出来ません)、災害援助などでも、その自前の設備だけで効力を発することが出来るのです。 神戸の震災のとき、自衛隊の輜重設備(例えばテントや簡易トイレや仮設風呂、さらに携行食料そして飲料水と調理器具など)が、そのまま使えたのを思い出してください。これらは災害救助用に別個に備えたものではなく、もともと自衛隊組織が保持していた設備なのです(今は多少違っているかもしれません)。 さて外面的な特徴はそのとおりとして、それほどまでに自己完結的な集団というのは、その組織を機能させるためのソフトウェアにかんしては、どのような特色を持っているのだろう、というのが次の話です。― つづく ―
2010.09.11
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このように失敗者が社会的にはじかれる風潮というのは、敗戦後の日本でも多かれ少なかれ続いて来たのではないか?でなければ、今どきの日本で年間三万人もの自殺者が、毎年ずうっと続いて出るわけがない。この数字ざっと累計すれば、三、四十万以上の死者がこの十年以上にわたって出ていることになる。これが「第二の敗戦(国家破綻)」でなくて、他にどう表現できるのでしょう? 年間の死者三万人という数字、もしこれを自殺者でなく交通事故死、あるいは新型インフルエンザの死者数、もっと極論すれば戦死者数と考えた場合、今どきの日本の社会は間違いなくパニックになるでしょう。なにしろSARS(重症急性呼吸器症候群)のときでさえ、国内では一人の死者も出ていないのに、あれだけ大騒ぎしたのですから。皆さんはこのときの日本のマスコミのパニックぶりを覚えていますか?その後の鳥インフルエンザや何やかやで、いつのことだったかも、すぐ定かには思い出せないでしょう。 ことほどさように日本社会のマインドというのは、マスコミをはじめとして物事を忘れてしまう(無いことにしてしまう)性向が、宿痾(しゅくあ、長い間治らない病気)のように取り憑いていて、しかもそのかん真の意味での深刻な問題は何ら改善もされない、つまり、ことの社会的病理的な本質は何ら分析されない、さらにはその後の経過情報には誰も関心を示さない、という退屈な景況を示しています。 一般の生活者がそんなことに関心を抱き続けるのは、もちろんムリだとしても、少なくとも報道機関は自らパニクッたわが身の姿勢も含めて、その後の経過ぐらい調査報道すべきでしょう。同じような事柄が、先ほどの自殺者数の報道ぶりにも現れていて、最近でこそ時々取り上げられることもあるのですが、何となく腰砕けというか引いた感じがする。なぜそうなるかと言えば、話はおそらく簡単で、要は読者あるいは視聴者が(深刻だと分かっていても)知りたくない情報には、なるべく触れないでおこう、という指向性があるからです。 話がうっとうしそうだ、反発も出てきそうだといっても、それは個別の自殺事例を細々報道して、その対策を訴えるという姿勢に終始しているからそうなるので、一般生活者にとって自殺者の話題などうっとうしいに決まっている。早い話、日本では生活弱者への風当たりというのは、今でもきわめて強い(少なくとも、うわべは強いて無関心を装う)のです。 報道側あるいは施政者の立ち位置というのは、それが実体的にどれほどの社会的損失を招いているのか、という地点からこれを見、対策を考えるという筋道でないと、これら当事者たちと一般生活者をつなぐ線は見えてこないと思うのですが、そういう話をすると今度は当事者たちからクレームが出てきそうです。当事者たちは自分たちと完全に同一化した報道姿勢、ないし行政の対応がないと承知しないところがあって、これらを何度も見せられると、逆に今度は一般生活者のほうは、そこにある種の感覚の乖離を感じないわけにはいかない。 迎合とまでは言わないにしても、対象とあまりに同一化した報道なり施策というのは、当事者以外からは真の意味で理解を得られたとは、とてもじゃないが言えないでしょう。こうした場合、日本ではたいてい事柄は堂々めぐりに陥って、一般の人々にとっては、まるで年中行事の一部のような受け取りかたになってしまっている(「終戦記念日」がそうであるように)のです。 真に深刻な事態はそれでも進行している(国債残高と同じく)わけで、ここで報道機関や行政などに必要なのは「対自化」という姿勢でしょう。わが身の姿勢も含めて、対象と同一化し過ぎていないか?逆に距離を置きすぎていないか?真の問題点(立ち位置によって、それは変わるのです。つまり自分の立ち位置はどこか?)は何か?一般生活者に対しては何をどこまで説明すべき(個々の事例を細々知らせることが、公益とは必ずしも限らない。それを知っておくことが、一般の人にとってどこまで必要性があるのか、ということです。ブッチャケて言いますと、多少の好奇心とか同情心をくすぐるに過ぎない)か? 本当に必要な情報とは、それが直接間接にどれほどの社会資本の損失になっているか、つまり税金のムダを生み出しているか、さらに加えるに社会全体の士気を奪っているか、というところでおそらく一般生活者の地平と結びついてくるわけでしょう。自殺者数が数値的に何パーセント改善すれば、いくらの社会資本が削減できるか?さらにはその人たちが生きていて産み出す総生産は、逆にどれだけ見込めるのか?ではそのプラスマイナスの分岐点はどこか?で、そこに持っていくための具体的施策は1パーセント改善するには一番目に何?二番目に何?2パーセントなら … という話になってきて糸はやっと繋がる気がする。つまり同じ土俵で議論が成り立つ、という具合になるのでしょう。 もちろん公益だの公共だの国益といった話題は、税金一本では測れません、それとはまた違った尺度もまた、このヒトという社会には存在しているようです。その話は最後にしようと思っています。 それにしても戦前の軍隊組織が兵站(へいたん、装備人員の補給訓練体制)に無関心であった結果、結局総合的な戦力の急速な低下を招いた、さらには不条理な精神主義(すべての精神主義が悪い、とは言っていません)を兵士にも国民にも強いたのと同様のマインドが、今に到るも日本の社会に色濃く漂っているのは、このあたりの事例を見ても何となく感じられてしょうがないのですが。― つづく ―
2010.09.10
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軍隊組織というものが醸成する空気について、さまざま思考をめぐらしたのは、山本七平の「私の中の日本軍」や「『空気』の研究」だったと思いますが、この人の本については、また別に取り上げたいと思っています。ベンダサン時代の饒舌で軽妙な語り口に比べて、その後の山本さんの著作は晦渋(かいじゅう、難解)で、その思考回路について行くのは並大抵ではありません。 むしろ今回触れようと思っているのは、例の大岡昇平の「俘虜記」に現れた兵士の気分で、これまた別に取り上げるべき、多面的な視覚を持った本ですが、ここで話しようと思っているのは、言わば「兵士の心」といったものです。「俘虜記」に現されるきわめて内省的な主人公(ほぼ作者本人だと思いますが)の人物像というのは、当時の軍隊でも稀な存在だったろうとは容易に想像できるのですが、肝心なのはその内省的な気分が色濃く現れて来るのが、主人公が一人になった時だということです。ふつう兵士に限らず人間というのは群れを成しているかぎり、周囲の自然とじかに擦れあっている、という生身の自身の感触に、こういうふうに囚われることはない。 それが証拠に、この主人公も仲間というか、同じ兵士たちと居るときは、そこまで内省的な気分になっていない。例の眼前に現れた米兵を撃つ撃たないの話は、 ― もしこの時僚友が一人でも隣にいたら、私は私自身の生命の如何に拘らず、猶予なく射っていたろう。 ― (大岡昇平「捉まるまで」集英社文庫) ということなので、その後の俘虜収容所でも帰還後も、この時の体験を何度となく反省し検討されて、さらにそのテーマは後に「野火」という小説によって、より深化された形で現わされたのでした。要するにヒトというのは複数で居るとき、あるいは組織に所属している、という確信があるようなときは、この「敵を撃つ撃たない」というような命題は出てこないのです。 「野火」においても主人公は、否応なく常に孤独な状況に追い込まれて、内省的たらざるを得ないのですが、そんな主人公でも僚友(と思っている日本兵)を見つけると、思わず駆け寄って涙がこぼれる。ヒトというのが生き物である以上、他人と擦れあっていないと、どうも「生きた心地がしない」らしいというのは、こういうところに出て来るので、大岡さんが「俘虜記」の末尾に、一人で彷徨したこの時の体験が、 ― いかに奇怪なものであったかを思い当たった ― (同上)というのは、ヒトという生き物が単独に放り出された場合、どういう心理状態になるか、人心地でないということは、要するになかば以上、非人間的状態=自然、つまり死者の世界に足を踏み入れていた、という意味で「奇怪なもの」ということだったと思うのです。 「俘虜記」や「野火」には、病気とか怪我で部隊から放り出された兵士が、あっけなく死んでいくのを記述したくだりがありますが、これは人間というのが病気怪我といった外的原因よりは、所属組織からはじかれたことによる心的要因の方で、より多く死んでいったことをあるいは示しているのかもしれず、それは一言でいえば「絶望」というしかないものでしょう。 日本のかつての軍隊組織というのは、失敗した場合の生還可能性や医薬食料などのケアについて、その所属員に対し「希望」を与えることにかんしては、(今で言うところの「マイナス思考」ということで)いたって無関心で、むしろ早く掃除して「無かったこと」にしてしまいたい(更地にしてしまいたい)、という強い欲求があったようです。作戦上の基本的不備を現場のせいにして、机上の空論に熱中するというのは、陸海問わずかつての軍隊エリート集団にどうしようもなくはびこっていたマインドで、それは形を変えたまさしく官僚的視野狭窄症というべきものでしょう。あえて「知らないことにする」とは、自信の無さの裏返しであって、だからこそ現場の兵士たちには精神主義が強要されたのです。 食料医薬が供給されない、さらにはわずかであっても生還可能性という「希望」を示せない結果、実際に戦う現場の士気がとめどなく下がっていく、つまり実態的な組織力が機能しなくなる、ということを彼らは知らなかったのでしょうか?私は絶対に「知らなかった」ということはなかったと思うのです。むしろ戦争を始める前から、あまりにも明白な事実なので、あえて「知らないことにする」むしろ「触れないことにする」ということだったのでしょう。でないと作戦の立てようがないから、つまりまさしく自分が所属しているエリート集団の「士気が下がる」ということではなかったか? ― つづく ―
2010.09.09
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反イスラームの気分の起こりかたというのは、たぶんにアメリカという国がそもそも持っているらしい、ごく特殊的に理念的な建国の精神のかたちに基づくようで、これまでも「禁酒法」だの「日系人隔離」だの、「レッドパージ」というような振るまいとなって現れたものでした。 ある一つの集団が民主主義だの自由主義だの、要は他からの規制を一切受けないという立場に立つならば、それは自動的にそれ以外の他者集団の排除=抑圧(反自由)を意味するということが、こうした人工的な理念によって作られた国家では、なかなか気付かれ難い。彼らの呼号する自由という概念そのものが、その振るまい(考えかた)を不自由にさせている、つまりバイアスがかかっているというのが理解できないらしいのです(同じことは、かつてのソ連という国家にもありました)。 そもそもヒトというのが、この世で完全な自由に耐えて生きられるのか?といえば、これはおおいに怪しい。先にも触れましたが、どのような形であれヒトというのは、何がしかの集団的夢を共有することによってのみ、生きているという肌触りを感じ取ることが出来るらしいのです。それが証拠に、アメリカほど特殊的に閉じられた宗教コミュニティが存在する国はないでしょう。繰り返しますが、のっぺらぼうに平たく広がった自由に耐えられるほど、「ヒトは自由ではない」。 そういう思考のからくりに直面した場合、ヒトが取る選択のうち、一番たやすい道というのは「外部に敵を作る」ことです。仮想であっても敵を想定すれば、さしあたって「自由なるもの」の本質に直面する恐怖からは逃れられる。フロンティア精神というのが、どうも「内なる自由」を見るのを、一時棚上げにするような便法であって、新たなフロンティアが消滅した時点から、この国は他国との戦争を始めたらしい。 どうも私は戦争行為には、クラウゼヴィッツ流に「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」という定義だけでは、こぼれ落ちてしまう要素があるような気がして仕方がないのです。施政者だの権力者にとって、戦争が政治目的達成の手段の一つであるとしても、実際に戦争に参加していく人たち(それに否応なく参加させられた、と受動的に解するだけでは充分ではありません)のマインドというのは、いわゆる職業軍人(プロ)は別として、一般住民の場合は小難しい政治目的などは、さしあたって自分が銃を手に取り、敵を撃ち殺す、という行為への積極的な動議づけの説明とはなっていないと思うのです。 はたして兵舎という閉鎖空間の中で、一般の兵士たちはどういうマインドにコントロールされていくのか?これはそれを指揮するプロの軍人にとっては、おそらく重大な問題で、放っておけば本来利己的にしか振るまわない生き物を、弾雨を冒しても前進させるようにコントロールしなければ、任務は遂行できないのです。このあたりを充分に説明する本というか議論というのは、日本には何となく少ないような気がする。アメリカ映画にはそのあたりの機微が、わりと当たりまえのようによく描かれますね。彼らにとってはこれらはまさしく現在進行中の現実なのです。 さて、では日本の旧軍人たちは日露戦争以来、兵隊を石つぶてと同じように、敵前に投げつけることしか考えつかなかった、というだけでは、それでも突進していった兵士たち(私の父の世代ですよ)の真の気分を説明したことにはならないと思うし、あまりにも空しいところがあるでしょう。 私はそこにやはり組織集団というものが、自ずから醸成していく空気=マインド、つまり集団的想像力の形成というものがあるような気がするのです。これは何も過去の軍隊や他所の話ではない、たぶん今ここにいる私たち自身の内心にもあるであろうマインドでしょう。で、たぶんそのあたりが過去とか他所と、自身を共通の地平に眺め得る、つまり真に外部を理解する唯一の道ではないか?と思っているのですが。― つづく ―
2010.09.04
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ここの議論には、時々に応じて変身して行く自身の振るまいとは別に、いわば真性の確固とした自己があるという前提があるようです。しかしよく考えてみると、私たちは所属する集団ごとに、共有できる想像力を都合よく乗り換えているわけで、実際のところ真性の自分などというのが、どこかに確かにあるなどと思っていない。 周囲の環境と擦れあって、いかように変身してでも種族の保存を維持していこうとするのが、生き物全般の振るまいかたであるとするなら、変身しつづけるその容態そのものこそ我が身の本体ではないか、ということです。この世とは切り離されて確固として存在する「自分」という捉えかたは、たぶん間違っている(あの世なら、いざ知らず)。 話は少し逸れますが、だからこそ今どきやたらと喧伝される「自分探し」などという言葉は、はなはだうさんくさい。あるはずのもの(所与)という前提で、「自分」というものを捉えているから、こういう話になってくるので、実際にそこにあるのは、どこにもないものを探そうとしている自分だけでしょう。これはいわば自分の影を追いかけるような、永遠に掴むことの出来ない幻影を見続ける徒労感に似ています。 要は内心不本意であっても、「仕方がない」で仕事をやりおおせてしまうのも「自分」、そしてそうした娑婆の憂さを一杯飲み屋で晴らすというのも「自分」、ということに相成るのですが、こうして変身しつづける振るまいかたこそ、たぶん正確に記述できる唯一の「自分」なのでしょう。 「自分探し」とともに、いかにも今どきと思えるのが「自分史」の流行ですが、書き記すに値する自分というものが、もし一生の大半の時間を費やした上のような娑婆の出来事でなく、折々に生起したマイイベントに終始するならば、書くに値する事柄というのはごくありきたりとなって、途中で放り出すということになるのではないか?よほどのプロジェクトXを成し遂げたり、とてつもない経験をした人たち(大地震に遭遇したとか、ガンから生還したとか)は別として。― 閑話休題 ― 集団的想像力のことです。 確固とした個人というものが幻想で、変身しつづける容態そのものが「自分」であるように、「集団」というのもまた変身しつづける容態そのものである。で、ここでいう集団の意味するところは、全体として見つづける夢、つまり集団的想像力を構成することによってのみ維持されているのではいか?したがって一括りに「日本的伝統」だの「大和魂」だの「和の心」を呼号する人たちは、それらが所与(確かにあるもの)という前提で話しようとする、その時点でたぶん間違っていると思うのです。 これらはたぶん今現在の集団が見つづけている夢、集団的想像力の産物で、今現在の集団(それは国家でも国民でも)は、その夢を共有することによってのみ、その集団たらしめているのではないか?日本のことは我が身の顔はなかなか見えないので難しいのですが、早い話、9・11以降のアメリカを見れば、よく分かるかもしれません。外国からの明解な侵略でなく国内で発生したテロということで、アメリカ全体が「恐怖の総和」という悪夢に取り付かれたというか、きわめて強力な集団的想像力の共有が発生したと思うのです。9・11直後のアメリカ人が思考の囚われに陥っているのを我々は目の当たりにし、いずれの民主国家においても集団というのは夢を見つづけることによってのみ、その集団化するところの意味を維持している、ということを思い知ったのでした。 いまだ、その自分たちが見つづけている夢から、アメリカは充分醒めているとは思えません。反イスラームの気配はむしろ深く蔓延しているかもしれないというのは、ニューヨークのグラウンドゼロ近くにイスラームのモスクを建てさせるか否かで、世論が沸騰しているのも見てもよく分かります。― つづく ―
2010.09.02
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一人一人は正常のつもりでありながら、集団組織全体としては狂っている、あるいは暴走しているかもしれないという懸念は、今の日本でもアメリカでもあり得るだろうという話です。抑止する、あるいは牽制する勢力がいなくなった(と思った)国家が、どういう振るまいをなすかというのは、戦前の日本でもこの20年ほどのアメリカを見ていても、とても顕著に現れているので、誰一人疑問に思わないとか、皆が「仕方がない」と思い始めた瞬間、全体としては個々人が考えもしなかった道に入り込む。要は個々人が、自身の内部を省みなくなった時が危ないのではないか? 私は集団的狂気のようなマスコントロールの本はほとんど読んだことがない(そもそも国家の場合、誰がその集団を狂っているとか、間違っていると規定するのでしょうか?)ので、あまり話が出来ないのがもどかしいのですが、例えば企業集団であっても、その組織に属していることによって(その組織の支持があることによって)、その人の個人的性格だの感情というのは、ごく自然に排除できるというところがあるのです。 その組織の看板を背負うことで別の人格が生じ得る。ひらたく言えば、個人ではとてもようしないということも、組織の看板を背負っていれば、ごく無感覚に出来てしまうということがある。これを一方的に非人間的とか自己疎外とかいうふうに、外から決めつけることは出来ません。世の中の生き物の集団とは多かれ少なかれ、そうした性格を持っているらしい。 早い話、ある企業集団から離れた時、個人はその背中の看板がなくなったことによって、一種の夢から醒めたような感覚に陥るときがある。要は生身の自分が、じかに娑婆と擦れあっていることを実感するのですが、あるいは敗戦直後の日本人というのは、国家という基本的組織集団が解体したことで、あたかも長い夢から醒めたような感覚を抱いたのかもしれません。 しかし生き物としての個人は紛れもなく継続しているわけで、その多くは出来るだけ速やかに、別の集団的夢を見続けることを望んだ、ということでしょう。それが左翼右翼の思想集団であれ、企業集団であれ、宗教集団であれ。 というより、生き物というのはそもそも無意識にでもそうした振るまいかたをする、というのが自然であるようです。生き物というのは単体で自然と擦れあっていく、ということはどうしても出来ないようになっている。一般的に、生き物がただちに集団化するという性向を持つのは、その遺伝子のなせる技、つまり種族保存の道具だてとして獲得してきたものだと思うのですが、さてそれを人間に限定するなら、こうした集団化の現れは、もちろんたんなる遺伝子のなせる技ではなく、もっとリファインされた集団的夢、あるいは集団的想像力という形で現れてくるのかもしれません。 実をいうと、今どき個人の自立だの尊厳だの自己責任だの、さまざま人の規定を個人に帰する考えかたが、ごく普通に無反省に説かれますが、私は厳密に個別化された生き物の集団など、この自然界にはあり得ないと思っているのです。近代法の概念から人の社会的人格を、厳密に個人に規定していくのはしょうがないとしても、生き物としての人というのは、どうみても個人に帰することが出来ないのでないか? 実験室のサンプル(法の定める個人とは、正しく人格の断片、つまりサンプルでしょう)ならいざ知らず、現実に存在しているヒトというのは、おそらく常に集団的想像力を、その時々の都合に合わせて、共有することで成り立っているらしいのです。― つづく ―
2010.09.01
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