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共時的記憶 ある大破局の「同じ時間帯」を経過した人間は、その場所や体験の度合いは当然異なっているにも拘らず、その時間帯を通過していない人間とは異なる、共通した「記憶」を持っているらしいという話でした。 それは一言でいえば、その時間帯を通過している時の感覚を、文字どおり「昨日のことのように、ありありと思い起こすことができる」ということなのではないか?ただし、そうした言わば「共時的記憶」を共有する人たちというのは、明らかに有限なので、早い話、地球の裏側での「大破局」では、同じような仕方で「昨日のことのように」記憶を思い起こすことは、(倫理的な話はさておき)私たちにはできない。「スマトラ島沖大地震」や「四川大地震」「ハイチ大地震」の同時刻の記憶を、呼び起こすことはできないのです。 しかしここで大事なのは、地球の裏側の出来事であるにも拘らず、「共時的記憶」を刻印される場合が時にあるというのも、これまた事実なのだということです。2001年の9.11同時多発テロは、まさしくそうした事例で、アメリカでの事件であるにも拘らず、私たちは「その時の記憶」を(その居た場所、匂いまで含めて)、「思い起こすことができる」。 「そりゃ、メディアの同時中継の威力だろう」と言われそうですが、もちろんそれはあるにせよ、私の場合それは「阪神淡路大震災」の午前6時半ごろのニュース映像と、不思議なほど重なるのです。9.11の第一報は、日本では確か午後10時ごろだったと思いますが、WTCの一棟がすでに燃え上がり、まさしく中継映像の中で、第二棟に旅客機が激突したのでした。この時の記憶を、私は「その時居た場所、匂い」まで、抱き合わせで思い起こさざるを得ない。それは「神戸」の時と共通する、手も足も出ない「無力感」と「浮遊感」をともなった感覚として、「昨日のことのように」ありありと蘇るのです。 繰り返しになりますが「神戸」の場合、京都でも現実に経験したことない揺れに遭い、なお余震の脅威(現に午前7時半ごろ、強い余震がありましたね)にさらされていたわけで、まさしく「身の危険」を感じていたわけですが、9.11は違う。であるにも拘らず、同じような記憶として蘇るというのは、結局「今そこに、現に傷つき死に瀕した人たちが大勢いて、この先間違いなく膨大な死者が出るだろう。で、それに対して何もできない、手も足も出ない」という浮遊感覚は、現実の危険とは関係なく、たぶん倫理的範疇をはるかに超えた、生き物の「生理的な脅威の感覚」から来ていたのだろうと思うのです。 こうした一種「生物的脅威」をともなった記憶というのは、日常とは異なった形で蓄積されるのではないか?表向きの記憶の裏に、言わば「生理的な痛み」がともなっている時、人はそれをいつでも「昨日のことのように」ありありと思い起こすことになる。で、これが現実の被災者とか犠牲者の家族であった場合、その記憶はたんに「昨日のことのように、想起される」のではなく、容易に改変されない刻印として釘付けされてしまう。現実に災厄に遭った人たちの「時間は停止する」のです。 父が戦争の話をする時、私は子供心に誇大妄想的な「想像力」をかき立てられたものですが、よく考えてみれば、父の戦争体験というのは、その96年の人生のうち応召からわずか2年ほどに過ぎません。大岡昇平も山本七平も、たぶん似たようなものでしょう。であるにも拘らず、この人たちにとって「戦争」とは、いつでも「昨日のことのように」思い起こせる記憶として刻印されている。言うまでもなく、それは具体的に強い「生物的脅威」をともなっていたからです。 私たちはもちろん戦争の記憶を呼び起こすことはできないのですが、その「記憶の刻印のなされ方」の部分については、上にみたような自分自身の「共時的記憶」を呼び起こすことによって、ある程度想像することが出来るのではないか? 戦時の記憶は(京都や大阪、サイパンや沖縄、東京や名古屋、広島、長崎などで)、それぞれ別個に、ごく個別的な仕方で体験されているにも拘らず、その時間帯を通過した人たちには、その時をいつでも思い起こせる「共通記憶」がある。で、同じことは「阪神淡路大震災」や「東日本大震災」でも、たぶんあるのだろう。そしてそれは、その後の子供たちには「共通記憶」としては、絶対刻印され得ないものだということなのです。
2015.01.21
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時間のスケール、記憶の痕跡 敗戦後70年と言っても、戦争を知らない私(昭和26年生れです)などは、それを自身の身体スケールで実感するのはなかなか難しい。そういうとき私はいつも自分で計れる、ぎりぎりの長さのものさしを、何とかあててみようとするのです。 私の場合、それは紛れもなく1995年の「阪神淡路大震災」であり、これを基点として一つの破局的崩壊というものが、いったいどのようにして鎮静化され、蓄積された記憶になっていったのだろうと考えてしまう。例えば震災後10年のスケールというのを、敗戦後10年と置き換えてみれば、それは昭和30年にあたっていて、かろうじて私の幼児期の記憶に引っ掛かってくるわけです。で、そのころの私のおぼろげな記憶では、いわゆる「戦争の痕跡」というのはまるっきり見当たらなくて、むしろ今どき描かれる「昭和オールウェイズ」風のノスタルジックな映像しか浮かんできません。 では震災後10年の神戸の印象はどうだったのかといえば、もちろんそんなことはなくて、遅々として進まぬ復興という印象のほうが強かったのを覚えています。それは10年経っても、なお現実に震災の跡が残っていたということではなくて、破局的崩壊を直接ではないにしても「共時的に経験した」場合、10年経っても20年経っても「震災の痕跡」は、そこここにありありと見出せてしまう、という仕方で記憶に蘇って来るのではないか? とすれば逆に、戦争の痕跡を記憶のどこからも引っ張り出せない昭和30年代の私のそばには、生々しく戦争の臭いを引きずった人たちが数多くいたというか、周囲の大人は自分の親や学校の先生も含めて、全員「直ちに呼び起こせる戦争の記憶」を共有していたということになります。それは取りも直さず震災後10年も経てば、「震災の記憶を呼び起こせない子供たち」が、そこらじゅうにいくらでもいた、ということをも示しているのでしょう。 さらに20年というスケールをあててみれば、それは敗戦後で言えば1965年にあたり、もうすでに東京オリンピックは終わり、新幹線も高速道路も普通の風景となっていた時代なのです。震災後20年の今年、神戸はそのような仕方で変わったと言えるのか?で、震災後に生まれ育って、成人しようとしている今どきの若い人たちに、この「震災」はどのように写っているのか?それはたぶん昭和30年代の私が見ていた、自身の記憶にはない「戦争の映像」と同じような仕方で写っているのではないか? こうした私のごく個人的な戦争と震災の記憶の違い(呼び起こせる、起こせない)というのは、いったいどこから来ているのかということを、いろいろ考えてしまうのです。そこで思い当たることというのは、結局先に触れた、大破局の時間帯を「自分もいっしょに通過したか、どうか」の違いだという気がする。大事なのは現実に戦争ないし震災に遭遇したということよりも、大破局が発生し、それが「今後どう推移していくのか、誰にも分らない時間帯」というのを共有していたかどうか、という違いなのではないか? 私は震災当時、京都市内にいたので、確かにそれまで経験したことのない強い揺れを感じた一人ですが、もちろんそんなものは実際に被災した人たちの体験とは比ぶべくもない。神戸には個人的にも仕事の面でも友人知人がいたので、震災後話も聞き、被災地を訪れる機会もあったのですが、それでもなお「こればかりは、実際にあってみないと分らない」と被災した人たちに異口同音に言われるとき、これは簡単に「共有」とか「絆」などという言葉を口走るわけにはいかないな、と思ったものです。 それは父が焼夷弾の降り注ぐ夜空や、高射砲の硝煙の匂い、あるいは青空に悠然と飛来する銀色のB29に、体当たりしてむなしく散っていく日本の戦闘機(当のB29はびくともせず、飛び去って行ったそうです)の話をするとき、「こればかりは、実際に体験してみないと分らない」という決り文句と同様の、他者には絶対に共有不能の経験である、という口吻をそこに感じたからでしょう。 大事なのは、何も父や被災者に何らかの悪意(「体験していない奴に、それが分かるわけがない。だから黙って聞け」みたいな)があって、そう語ってしまうというのではなくて、実際のところこれらの感覚は、絶対に「共有不可能」な事態なのです。それはあえて言うなら、「他人の虫歯の痛みは、私には絶対共有できない」というのと同じぐらい、厳密に「個人的な感覚」のレベルに属するものなのではあるまいか?となれば、聞く側の私はそれらに関して、簡単に「分る」と口走るわけにはいかない、あるいは道徳義務的に、むりやり「分ろう」とする素振りも禁止されている、という立場に追い込まれてしまうのです。 とはいえ、それだから「他人の痛みなど分るわけがない、分ろうとしても無駄だ」というふうに、これらを片付けてしまっては、それは紛れもなく子供の発想レベルなのであって、肝心なことは、ここまでの話は「共有」とか「絆」という話題を持ち出す際の「大前提」に過ぎず、すべての議論はこうした前提から出発する他ないということなのです。がん患者の痛みをお医者さんは、絶対「共有」することはできない、そこでのお医者さんの立ち位置というのは、「であるにもかかわらず、徹底して寄り添う」というのが大前提でしょう。「治療」というのはその後から始まるのだろうと私は思う(心理療法士のように、寄り添い過ぎて時に患者と見分けがつかなくなってしまう、というような事態もあることはあるらしいのですが、まあ、それはともかく)。 話がずいぶん逸れました。1,17ということで、さまざまな特別企画が(特に関西のマスコミでは)なされているのですが、さすがに簡単に「分る」ような仕方の報道は少なくなったものの、強迫的な「分ろう、分るべきだ」というような姿勢は相変わらずなので、何やら話が長くなっています。 さて、それでも、父の戦争中の話と阪神大震災の被災者の声の間には、決定的に異なった印象があるのです。それは先ほども言ったように、こと「震災」に関しては、少なくとも当の「同じ時間帯」だけは、私たちは「共有」していたという点なのです。ここでの「同じ時間帯」というのは、震災直後第一報で入った午前6時半ごろのニュース映像だったと思いますが、そこで字幕で流される死者数(確か50人くらいだったと思います)と、延々と続く倒壊家屋のビデオ映像との乖離があまりに大きかった時間帯のことなのです(後に繰り返し放送され、阪神大震災の象徴的映像の一つともなった、大火災はまだあまり発生していませんでした。長田区や東灘区の大火災は当日のお昼ごろから本格的になり、翌朝以降まで燃え続けた)。 今でもありありと思い出すのは、そこに映し出される倒壊家屋の多さからみて、とてもじゃないが50人100人の死者数で、これは収まらないだろう。そして「今、現に倒壊した家屋の中で、傷つき死に瀕した人たちが膨大な数でいるはず」という事実と、であるにもかかわらず、それを観ている同時刻の私たちには「何もできない、手も足も出ない」という無力感であり、この先どうなっていくのか見当もつかない、といった浮遊感のようなものであったかもしれません。 で、これは今般の「東日本大震災」についても、同じような仕方で経験されているのではあるまいか?震災当日から翌日にかけて、連続した地震と津波の大破局に対して、誰も手も足も出ない「無力感」と、先が見えない「浮遊感」というのは、直接の被災者でなくても(特に関東の人たちは、その後出来した福島原発のメルトダウンと合わせて)記憶に強く刻印されているでしょう。こうした「同じ時間帯」を経過した人たちの記憶のされ方と、経過していない人たちの記憶には大きな隔たりがあるだろう、ということなのです。 大破局を「共時的」に通過した人たちは、10年経っても20年経っても、その時生じた「無力感」とか「虚脱感」とか「浮遊感」を、居た場所、漂っていたある種の匂いまで含めて、「直ちに思い起こす」のです。 70年とか20年といった時間のスケールと、歴史のようなことを話しようと思っていたのですが、しょっぱなから腰折れのような出だしになってしまいました。すいません。
2015.01.18
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ずいぶん遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。本年が皆さんにとって良き年でありますように。 例によって、ずいぶん長いことブログUPを休んでいます。まあさまざま個人的事情があってのことなのですが、それは別としても、以前のように内心からわらわらとしゃべらずにいられないような衝動というか、自分にとって切迫性のある事象というのが、このところずいぶん少なくなって何となく書く気が湧いてこない、というのが本音なのです。 書き物の専門家というのは、どういう事情があっても、いつでもどこでもさらさらと気の利いた文章を書いてみせる、という力技をもった人たちなのでしょうが、私はもちろんプロではないので、自分が書く必然性を充分に得心しないかぎり、なかなかパソコンに向うことが出来ません。 とはいえやはり今年は、ある程度まとまった事柄をしゃべるべき時節だろうと思っています。それは言うまでもなく本年が敗戦後70年という節目の年であるということで、それは私の場合、同時に阪神大震災後20年の年ということにも重なっています。これは以前にも何度か簡単に触れたことですが、時間の経過とか記憶の蓄積というのは、どのように形成されていくのか、という私のごく個人的な関心に、これらはそのまま連なるものだからです。 結局のところ「私とは何であり、どこから来、どこへ向かおうとしているのか?」というような問いかけは、「私」という主語を「日本人」とか「人間」とか「宇宙」に置き換えても、そのまま通じるような根本的命題であり、それがあまりにも大それた命題であるがゆえに、直登は避けつつさまざまな事象を題材にして、はるか周辺からいろいろ登攀を試みてみたということなのです。 「源氏物語」とか「カーネーション」という題材は、そうした周辺からの登攀にとって格好の材料であり、話していてとにかく楽しい。で、その楽しさの中味を出来るだけ具体的に誰かと共有したい、という願望があって長々としゃべってきたのでした。 さてしかし、敗戦後70年とか震災後20年ということになると、話はそう簡単ではありません。題材が重過ぎて楽しくしゃべるというわけには、もちろん行かないからです。とはいえ、マスコミは早くもこの節目の年を題材に、いろいろ企画を出して来るだろうし、安倍さんも村山河野談話に続く「首相談話」を発表するとやらで、早くも国内外で生臭い駆け引きが始まっている。私としては雑音があまり入らないうちに、自分の言いたいことをしゃべってしまいたいという願望があるのですが、それにしても話題が大き過ぎて足がすくみます。 というわけで、途中で腰折れになってしまうかもしれませんが、しばらく「敗戦後70年、震災後20年」という事柄について話してみたいと思っています。
2015.01.07
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