全2件 (2件中 1-2件目)
1
コンチェルト・グロッソ ところで前回取り上げたカラヤン/ベルリン・フィルのコレッリ。実は彼の死後、例の「アダージョ・カラヤン」という一連のCD企画で、「クリスマス・アダージョ・カラヤン」という一枚に含まれたものなのです。このシリーズ、何と云っても一枚目のマーラー交響曲第5番「アダージェット」が有名ですが、私はまとめてコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)を収録したこちらのほうが、知らない曲ばかりだったので新鮮でした。 この種のアンソロジーというか、あちこちの収録の寄せ集めといった特別企画は、得てして玉石混交になるものですが、このコンビにはそれがない。常に一定以上の水準を聴かせるという意味で、得な企画ではあります。 というわけで、いかにもカラヤンらしいシンフォニックなバロック音楽をもう一曲。 P・A・ロカテッリの合奏協奏曲第8番「クリスマス協奏曲」なのですが、冒頭の緩除部。よくこれだけ凝りに凝ったニュアンスとハーモニーを聴かせるものだと思いますよ。その壮大な響きやドラマ性など、明らかに後世のシンフォニーを感じさせるもので、例えばブラームスとかマーラーとかショスタコーヴィッチに見られるような分厚い弦のハーモニーなど、やはり二世紀以上前の古楽を彼らは相当研究したんだと思ってしまう。 この冒頭部分を聴いていると、私たちはヴァイオリンの声部にもう一つ高音を重ね合わせたい気分に誘われる。あるいはブラームスやショスタコーヴィッチなら、さらに加えて中低音の内声部をもっと厚くしたかもしれない。いずれにしてもバロック音楽と言えばポリフォニー、多声音楽とつい思っていた固定観念が簡単に覆されて、「いやいやそんなことはない。バッハのはるか百年以前に、後期ロマン派に直結するような端正な音楽があったのだ」ということを知るだけでも、心地好い気分になるものです。 ここで「端正な」という言葉を使ったのは、先のコレッリもこのロカテッリも弦楽のハーモニーについては、かなり抑制的というか、バロック代表のヴィヴァルディに比べても、相当「秩序」を重視しているらしいということです。様々な議論があるのでしょうが、バロック音楽というのが一般に、それまでの「秩序」性に対する「破調」として語られるのに、これらは大きな反射定をなしている。フランスの音楽史家などは「我が国にはバロック音楽というジャンルは存在しない」と言っているとか。 いずれにしてもバッハ以前ルネサンス以後の音楽史は、私たちが漠然と抱いているより、はるかに広大で多様な音楽が現れていたということでしょう。 それにしても今回、カラヤンのユーチューブを調べていて、彼の音楽シーンというか射程距離の広さにはまいってしまう。近代ヨーロッパのクラシックを、ほとんどを網羅していると言っていいのではないか知らん。彼の他にも伝説的な名指揮者は枚挙にいとまがないのですが、ドイツ音楽専門とかフランス専門とかオペラなら超一流とか、結構いるじゃないですか。 彼の音楽の本籍地はもちろんドイツ音楽なのですが、カラヤンはそうした垣根を軽々と飛び越えて(選曲によっては楽団員から結構抵抗もあったらしいのですが)、しかもそれぞれに超一流の演奏を聴かせる。私は個人的には彼のシベリウスの録音が、いまだにお気に入りです。「北欧生まれでなければ演奏不可能」とまで言われる、とくに後期のシベリウスの晦渋な交響楽と交響詩。 そこから彼が掴み出して私たちの前に提示される音楽は、確かに色濃く北欧の風土に刻印された音でありながら、聴き終わるとむしろもっと「はるかな彼方」に連れて行かれる感じがする。
2016.01.15
コメント(0)
音楽の楽しみ ずいぶん遅くなりましたが、皆さん、明けましておめでとうございます。本年が私たちにとって良き年でありますように。 というか、昨年は私事でもこのブログにおいても散々で、あまり実りある年だったとは言いがたい。そもそも「ここでは政治向きの話はしない」という決め事を破って、ずいぶん生臭い話をし出したのが間違いの元で、当初から危惧したとおり、途中から「腰折れ」状態になってしまいました。初めのつもりでは、世の中が「戦後70年」ということで、喧しくならないうちにしゃべってしまおうと思っていたところが、話が晦渋すぎて手軽にUPするということが出来なくなってしまったのです。 敗戦後を語るということは、今だに「政治」的立場の表明であって、「歴史」を語るという仕方では出来ない。「震災後20年」という時間スケールをあてることで、あるいはもう少しマシな風景が見えてくるかとも思ったのですが、そうなると今度は自分自身の知識の足らなさ加減を露呈するということになってしまいました。 そうこうしているうちに、「なでしこジャパン」のワールドカップが始まって、そちらの話はいくらでも出来る。楽しくて仕方がないのです。しかし終ってみれば、あらかじめ予想していた事とはいえ、棒を飲んだように型にはまった「戦後70年」企画の洪水。「新安保法制」とのからみで、「反戦平和主義」絶対という報道の仕方は、一種のメディアスクラムだと言ったことがありますが、こちらがとっくにしゃべり終えるべき事柄を完全に封じ込めたという点では、大いにこれらのマスコミ報道は効果を挙げたわけです。 こうした気伏せりな時には、自分の好みの音楽を聴き直すに限る。最近とくに気に入っているのが、バロック初期のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)と言われるジャンルで、ずいぶん以前に図書館から借り出したCDを録音しておいたのを聴き直してみると、これがなかなかよろしい。 カラヤン/ベルリン・フィルによるA・コレッリ「合奏協奏曲第8番ト短調」なのですが、いわゆる古楽器奏法が流行る前の録音〈1970年)で、このコンビが思いっきり楽しんだという感じが、ありありと伝わって来ますね。コレッリと言えば、高校時代音楽史でコレルリと習った記憶がありますが、バロック音楽はまだヴィヴァルディの「四季」だけが、特異的に知られていた時代で、どうしてもその後に現れるヨーロッパクラシック音楽の前段階と捉えてしまう。したがってそれらを聴く機会も、私の場合はなかなかないという次第でした。 今聴いてみると、さしたるテクニカルな要素のない音楽が、超一流の奏者と明敏な美学を持った指揮者の手にかかると、恐ろしいほど今の私には「歌心」を呼び起こすのです。演奏家にとって一番肝心なのが、譜面に託された「歌心」を聴き手に蘇らせることだとすれば、これぐらい核心を突いた演奏はないのではないか? ソロと合奏のバランスが、いかにもカラヤンらしく有り得ないほど抜群で、まるで交響曲を聴いているみたい。ここまで洗練されてしまうと、「果たして300年前の音楽は、本当にこうだったのかしら?」と思えて来るのは人の心で、古楽器を使った古拙な奏法による室内楽集団があちこちで生まれたのは、ごく自然な流れであったでしょう。 とはいえ、そうした流れにあって、あまりに古楽の再現に偏するあまり、音楽がそもそも蔵しているはずの「歌心」が、何がなし貧しくなっているようにも聴こえてしまったのは私だけでしょうか?例えば同じコレッリをそうした楽団で聴くと、まるで別の音楽に聴こえてしまう。 何もそれが間違っているということではなくて、アプローチは様々でも目指しているところは、コレッリもカラヤンも「歌心」であるとするなら、今の私にはカラヤンのほうが心に届く。「そりゃ、趣味でしょ」と言われてしまえばそれまでですが、たぶんそこでは止まれない「何物か」が、やっぱり在るのだろうと思う。 まあしかし、正月早々難しい話も何なので、またにする事にして、取り合えずご挨拶まで。
2016.01.08
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1

