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ところで、世の中には笑っていられないタイプの「喜劇」というのがあるようで、例えば年末にこれもBSでやっていた伊丹十三の一連の「~の女シリーズ」。 天才というよりは奇才の印象が強かった伊丹十三ですが、「ミンボーの女」を初めて映画館で観たときの観客の反応が強く記憶に残っていて、みんな笑うべきか否かすっかり戸惑っていたのでした。同じような反応は前に勤めていた販売会社の社員旅行のバスの中で、このビデオをやっていたときにもみられたので、ひらたく言えば気の強い人はムッとしているのに対し、私のような気の弱い人は(ほとんどの人は)、苦し紛れに笑い飛ばすという図柄になっていたのです。 誰が観たって、次から次へと現われるやくざのユスリの手法には、多かれ少なかれ現実に受けた覚えがあるはずで、いくらカリカチュア化されても笑っていられる場合じゃない。それでもそれを見せるには「喜劇」しかないのです。 これはご覧になれば分かるとおり、伊丹はテーマの重さを、「喜劇」仕立てにすることで何とか最後まで貫徹しようとしているので、その格闘しているさまが、この映画にはあからさまに出ているのです。こういう手法はアウシュヴィッツを描くのに、そのテーマの重さを回避して喜劇仕立てにしたR・ベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル(La vita è bella)」にもみられる手法ですが、こちらのほうは伊丹以上に、とてもじゃないが笑っている場合じゃない映画でしたね。 ユダヤ系の文学や映画には、たんなる笑劇ではなく、人生の悲哀を背負った(チャップリンのような)すぐには笑えない喜劇にすぐれた作品が結構多いのですが、これは当然、悲劇性を背負ったユダヤの民族と歴史に結びつけて考えざるを得ません。しかしこれはまた深刻で、限りなく重いテーマになるので別に改めます。 さて、伊丹のように「暴力」に異様に執着する作家というのは、映画にも文学にもけっこういるので、例えばビートたけしや伊丹の義理の弟の大江健三郎などがそうですね。元来「悲劇」だの「喜劇」だのといっても、作品はしょせん作家の想像力の産物であって、現実とは似て非なるものなのですが、想像力の守備範囲は夢のような荒唐無稽な地点から、あからさまな現実に近いところまで、とてつもなく幅がありますから、その作品を観て(読んで)現実そのものとかん違いする連中もときには出てきます。そういえば、伊丹も大江も右翼や暴力団の襲撃を受けましたね。 しかし現実とはじつは「悲劇」でも「喜劇」でもなくて、単調な出来事だけが自然物のように連なっているに過ぎないのです(もちろん悲劇性や喜劇性を帯びた人生というのはあります)。結局「悲劇」とか「喜劇」というのは、単調な現実から飛躍して想像力に身を任せる、仮想の地点にどこまで自分をジャンプさせられるかで成り立っているので、伊丹やたけしや大江の暴力やセックスに対する異様な執着性というのは、もっとも鋭敏な現実を取り上げることで、自己と観客の想像力の極限を測ろうとしているのです。 オウム真理教もどきの新興宗教を取り上げた「マルタイの女」で、津川雅彦が「世の老人には二種類あって、一つは老いてもいつまでも生に執着するタイプ、もう一つは生にうんざりした奴で、私は後者だ」でしたか、殴りこんできた信者にこうしゃべると同時に、拳銃を撃ちまくって自分も自殺してしまうというシーンがありましたが、虚実皮膜の境界面であやうく進行しているこの映画のなかで、ここだけがあまりにも唐突なので「社会派コメディ」としてのバランスが崩れているようにみえる。伊丹監督もそれを意識してかどうか、結局この映画全体を劇中劇のような構成にして、コメディとしての軽さを保ったようなところが感じられるのですが、この直後に伊丹自身が自殺したことを考えると(直接的な契機は別としても)、案外このあたりが彼の本音だったかもしれませんね。 というわけで、「喜劇」が決して人生から遊離した「笑劇」でなく、深刻な自然物としての人間が、現実との格闘の末に生み出した想像力の産物であることを、伊丹十三は奇しくも彼自身の人生の最後に示したのでした。― つづく ―
2008.01.26
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さて、生命活動の根本的矛盾をストレートに表現するなら「悲劇」にならざるを得ず、であるために「悲劇」は表現者も観劇する側も比較的感情移入しやすいというわけですが、それに対して「喜劇」というのは、いったん人生という時間のろ過紙で透過させて観ないと、うわべの非現実性(寅さんもさくらもとら屋も現実には存在しない)に気を取られて、本当の意味での面白味というのは伝わってこないと思うのです。 「寅さんシリーズ」の面白味というのは、おそらく仕事だの子育てだのの実人生を経てから感じることの出来る種類のもので、寅さんが演じる大立ち回りやギャグの類を笑っているだけでは、すぐに飽きるか他のもっとしゃれた笑劇のほうがずっと面白い、ということになってしまいます。現に私のように長いあいだ実人生に入ることを拒んでいたもの(今でも多少あります)には、この種の云わば紋切り型の立ち回りやおしゃべりは、日本映画に通有の「仲間うち的記号」としてハナにつくばかりで、とてもじゃないが笑っていられる場合じゃなかったのです。 ところが、今回連続してやっているのを観ているうちに、感心もし感動もしている自分に気がついたのでした。これはあきらかに映画が変わったのではなくて、私が変わったからで、その変わった中味といえば、私自身の経験した時間というしかないでしょう。それと同時に例の「仲間うち記号」的表現を、何とも思ってない自分にも気づいたのでした。これは例えば「水戸黄門」や「忠臣蔵」の紋切り型の台詞や立ち回りを、百ぺんでも二百ぺんでも飽きずに観ていられる、という心理に似ています。いずれにしても以前の私には絶対ありえない(許されない)ことなのでした。 ちょっと偉そうに聞こえるかもしれませんが、これは多少でも自分の人生を経たと思える人にだけ、分かることなのかもしれず、たんに人生を50年過ごしたら分かるという類のものではないようです。早い話、部屋にこもり切りで50年過ごしたというのは、物理的時間は50年でも人生としての時間はゼロでしょう。本当の人生経験というのは、あんがい人の一生でそんなにないのかも知れず、それでも一回でもそれを経験した人は、真実を捕まえたぶんだけ、ウソを許すことができるでしょう。 「喜劇」とはウソを認めることを前提とした劇なのです。「悲劇」がウソを認めず、どこまでもリアリティー(現実)に迫っていくものとすれば、「喜劇」はウソをこまごまと指摘し出したら成立しなくなってしまう。「印籠」を出せば、たちまち極悪人は必ず平身低頭する、というのは現実にはありえない(むしろ逆が現実)。それでもそれがいまだに指示されるのは、衆人全部のウソを前提とした真実がありえるということで、「寅さん」を認めるということは、ウソを認める(許す)という前提があるのです。繰り返しになりますが、このウソを許すという気分になるには(私の経験からいうと)、どうやら実人生を多少でも知っているということが必要らしいのです。 というわけで、今どきの学生さんが「寅さん」を観て、「面白かった」だの「勉強になった」だのといわれても、私のようなひねくれた傍観者からみれば、ちょっと待ってぇや、ということになるのです。むしろ真剣に観る(喜劇といえども)なら、そこにウソを発見し、「仲間うち」表現のうさんくささを指摘する意見が出てきてしかるべきところだと思うのですが。 まあそれこそ「喜劇」ですから、そこまで目くじら立てる必要もないのでしょうが。 それにしても「寅さんシリーズ」に登場するヒロイン、いずれも素晴らしい役者ぞろいですが、私のお気に入りは竹下景子、樋口可南子、吹雪ジュンといったところ。かつての若者のアイドルといっていい美女たちが、いずれもびっくりするほどの名演技なのには驚くばかりです。気は強いけど、ちょっと人生に不器用な樋口可南子、男のずるさを何度も見たであろう怒り顔の吹雪ジュン、切なさが顔や科白でなく仕草にありありと出ている竹下景子、こんなにいつの間にうまくなったのかと思ったのが、考えてみれば、私は誰ひとりテレビや映画で彼女たちを今まで、まともに観たことがなかったのでした。― つづく ―
2008.01.18
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私にとって、渥美清の「寅さんシリーズ」とモーツァルトの音楽は、長いあいだ鬼門でありました。 ヒマを持て余していた10代の後半から20代にかけての私は、自身の鬱屈した気分とじっくり付き合っていたので、深刻な(渋面の)映画や音楽に没入していました。ヒトは時間を持て余すと、いくらでも深刻になれるもののようです。 それに対して寅さんは見た目の印象があまりにも軽く、また「寅さんシリーズ」は世評も高くて2、3本は映画館へ足を運んだ記憶があるのですが、当時抱いていた邦画特有の湿潤さと仲間うちの感じがイヤで敬遠していたのでした。 はたまたモーツァルトはその貴族的典雅さが、とてもじゃないが当時の私の気分にはほど遠く、両方とも敬して遠ざけているあいだに、嵐のような30代40代に突入して、じっくり味わおうという気持ちの余裕を失ってしまったのです。じつはこのうわべの軽さこそ、両者を享受するカギだったのですが。 このブログを始めたころから、ようやく何となく自分にとって鬼門であった、この両者と付き合ってみるかという気になっていたところが、たまたま一昨年はモーツァルトの生誕250年ということで、いろいろ取り上げられもし、また寅さんについては、これも偶然BSで連続してシリーズをまとめてやっていたので、じっくりどころかコテコテに付き合うことになったのです。 日本映画というのは、皆さんはどう思われているか知りませんが、仲間うち同士でないと容易に打ち解けない敷居の高さがあって、例えばそれは歌舞伎や新劇(あるいは宝塚!)の舞台を観る場合に、それぞれ各々の作法を理解していないと、ちっとも面白くないのと同じような、その世界に入っていけないという居心地の悪さがあるのです(ファンの皆さんにはごめんなさい)。 日本の映画ファンは圧倒的な洋画一辺倒のファンと、固定的な邦画ファンに分かれているようで、私のような洋画派からみると邦画というのは、太秦の時代劇や大船の現代劇といったふうに、ある固定的なひとつの型にはまった映画作法のようなものがあって、結局それを受け入れられるかどうかが、分かれ目になっていたようです。私としてはとてもじゃないが、わざわざお金を出して映画館へ観に行く気にはなれなかったのでした。山田洋次監督といえども、松竹映画の筆法の継承者であるわけで、このあたりこちらの気分というものが大いに影響していて(たまに民放で寅さんをやっていても、まず観ませんでした)、どんなに世間で評判であっても私にとっては別世界の出来事だったのでした。 これは洋画ファンだけの欲求不満ではなくて、日本映画界の内外でも独立系の人や角川春樹のような人たちにもあったようですが、これらの人たちの作品も世界標準にはほど遠く、むしろアニメ映画のほうが私には近かったことを覚えています。 今回一年間ほど、ながながと付き合ったおかげで、今になってやっと私も寅さんの世界に入ることができたかなと思っているのです。― つづく ―
2008.01.09
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しかし「悲劇的」とか「喜劇的」という言葉は、ちょっと情緒的にすぎる形容であるかもしれないので、ヒトの人生を「喜劇」とか「悲劇」とかいうのは、しょせんそれを観る人の感覚じゃないかと云われるかもしれません。 ここで「悲劇的」というのは、すべて生き物は、「個体としての生命は有限」という前定に逆らって、永遠を求めて止まない存在である、ということを言ったまでで、情緒的な要素は含んでいないのです。 別のところでも話しましたが、インドのシャーカ・ムニは生の本質を、「四つの苦(生老病死)」ととらえ、この逃れられない「苦」に対して飽くことなく挑戦を繰り返すのが、生命存在の本質であることを喝破したのでした。生まれ出る苦しみは別としても、老いや病や死は誰でも漫然と受け容れるわけではなくて、無意識にでも、とりあえず逃れようと振るまうでしょう。と同時に生き物はある一定の限られた利得で満たされるということはなくて、あらゆる利得はそれが満たされた瞬間に、次の渇望感に追い立てられるように、最初から生き物に刻印されているので、彼はこれを生命の劫火(煩悩)と呼んだのでした。 シャーカ・ムニはもともと古代インドの小国釈迦族の王様貴族で、現世的な利得は充分すぎるほど得ていたはずですが、あるいはそれゆえに、その空しさも誰より強く感じていたのかもしれません。もともと古代インドには王様貴族(クシャトリア)のさらに上層とされたバラモンといわれる宗教階級があり、哲学的な思索や苦行を尊重する伝統はあったのです。 彼の来歴や、その説くところは、今回の本題とは関係なく、またとてもじゃないが私が話できるところではありませんが、若いころ一時仏教思想に強く惹かれるところがあって、鈴木大拙や中村元さんの本を理解できないままに読みふけっていたことを思い出します。まあ世の中にはいろんな本があるもんですね。 ところで、このようなシャーカ・ムニの生命の捉えかたというのは、今どきの生命科学における生命衝動の振るまいに関する考えかたに、ちょっと通じるものがあるような気が私にはするので、現世的な利得を永遠に渇望するようにDNAに刻印されていないと、すべて生命活動は停止してしまう(生命でなくなる)。つまり劫火(煩悩)は生命の本質ということになるのです。 シャカの教えに一部生命否定の要素があって、彼が「覚り」をひらいてのち「解脱」という考え方を人に伝えるのに、最初著しい困難を感じたというのは、このあたりかなと思ったりもするのですが、いずれにしても生命存在が個体としては有限であって、なおかつその生存維持機能は永遠を希求するというのは、生命存在の根本的矛盾でしょう。だいぶ前にも触れましたが、がん細胞というのは有限であるべき個体に、本来宿っている生存維持機能が、ある日突然解き放たれて暴走する(永遠に分裂を繰り返して、本体を破壊する)、これは生命機能の根本的矛盾の結果と言えなくもないのです。 何だか以前にも増して話が小難しくなってしまいましたが、このように生命機能そのものが本来根本的な矛盾を抱えているという意味で、ヒトとは「悲劇的存在」であると表現してもいいのではないかと思うのです。 このような矛盾を演劇で表現するのは、いわば生命活動のストレートな表現そのものですから、演じる側も観る側も、わりあい簡単に感情移入できる。世の中にあふれている映画や小説や漫画のストーリーは、もし容易な受けをねらうなら、基本的に「悲劇」を土台に造ればいいんじゃないかと私は思っています。 げんに古今東西の名作といわれる演劇や小説や映画などは、圧倒的に「悲劇」が多いでしょう。 ではいったい「喜劇」とは、私たちにとってどういう位置づけになるのでしょう。例の「寅さん」を演じた渥美清さんが、生前「寅さんを演じるのは、舞台が高くてねえ」でしたか、おっしゃっていたそうですが、これはたぶん現実にはありえない人物や状況設定を、本当らしく演じきることの困難さを語っておられたのでしょう。― つづく ―
2008.01.06
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あけましておめでとうございます。 このブログを見に来られた皆さんにとって、今年がかけがえのない年でありますように。 以前に友達から多少言われて、私自身も「そうだな」と最近とくに感じているのが、このブログの中味「ちょっと難しすぎる」かなということなのですが、無用に難しくしているのか、テーマが難しいのか、といえば、どうも最近無用に難しくしている気配が、ありありとしていて赤面するばかりです。 こういうときは大抵、私自身も楽しんで書けてないときなので、となるとこのブログの例の3原則が崩れかねないのですが、成しうるならば「ムツカしい話を面白く、何かの折のタメになる(どんな時の何の場合か、といわれても困るのですが)」が、ひそかな目標なのです、なんちゃって。 ところで、今やテレビをつければ、吉本の売れっ子タレントが登場しない日はなく、日本中が吉本化しているかとさえ思えてくるのですが、吉本流のボケとツッコミとか豹柄のオバハンが、何か大阪のイメージの一枚看板のように見られて、苦々しく思っている人って、地元でもけっこう多いんじゃないかと思うのです。 べつに吉本の存在価値を否定するわけではありませんが、日本中が同じようなチャカシの思考パターン一つにはまり込んでいるようで、笑いの多様性のなさに、貧寒たる思いをしているのは私だけでしょうか。 かつての大阪には美しい船場言葉があって、その語り口が標準語では決して表せない独特な論理を保持していました。元来土着の言葉というのは、その土地々々の風土や文化の論理をもっとも体現しているはずなのですが、東京に進出することによって吉本自体が変質したように、今どきのテレビに現れる大阪弁は東京語に翻訳されたような(標準語の論理に変換された)、ヘンな大阪弁になっています。 ここに現れてくるのは、妙にステロタイプ化された大阪言葉であり文化であって、困ったことはそれがブーメランのように地元に反射して、本来の決して標準化されない堅牢な土着の論理を、知らない間に腐食して薄っぺらでひたすら下品な言葉にしてしまうことです。 と、またまた正月早々大いにぼやいたところで、今回話しようと思っているのは、ギャグやド突きで、無理やり笑いをとる式の笑劇ではなく、本来喜劇というのは悲劇よりも難しい、といわれる所以を考えてみようと思っていたのでした。 これまたうろ覚えの話になりますが、昔、誰からか「喜劇は悲劇より難しい」と言われて、おおいに違和感を覚えたことがあり、違和感ゆえにその中味を仔細に考えることはしなかったのでした。というのも、たしか古代ギリシャ劇でも日本の能狂言でも、悲劇が喜劇より一段上位に置かれていた、というような記述を読んだような気もするし、何よりも自分の気分として「笑うこと」よりも「渋面をつくること」のほうが、人間として格上!のように長く思い込んでいたからです。 しかし何十年もたって今改めて、この命題を考えてみると、何となくその意味するところに思い当たることがなくはないのです。 結論からいうと、ヒトは本来「悲劇的存在」であり、悲劇的存在であるヒトが喜劇を演ずるのは無理がある、したがって「喜劇は悲劇より難しい」ということなのですが。 またまた難しい話になりそうです、あ~あ!― つづく ―
2008.01.01
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