サリエリの独り言日記
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ずいぶん長くブログのUPを(しかも中途半端、かつ唐突に)休んでしまい、気がついたら年が変って新年となってしまいました。 というわけで、ついこないだ言ったばかりのような気がしますが、一年前と同じく、新年明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって、本当に良い年でありますように。 なぜ休んだかということについては、はなはだ個人的かつ気鬱なことなので、ここでは話しません。大事なのは、なぜ再開してみようと思ったのかということです。昨年は私事とは関係なく、社会も政治も内外さまざまなことがあり、語るべき事は山のようにあったのですが、書く気がウソのように出て来ませんでした(困ったものですね)。 安倍さんの全地球的外交や参議院選、東京都知事選にアメリカ大統領選挙、中国の海洋浸出や北朝鮮の核兵器開発、さらにはシリア他からの大量難民とEUの崩壊前兆などなど、明らかに世界の潮目が変調を来たしているにもかかわらず、日本のマスメディアやその筋の評論家諸氏は、それらを精確に掴んでいるとは言えない、というか、まともに向き合うのを避けて、従来どおりの戦後史観を必死で守ろうとしているような気がして、しかたがないのです。 今どきの社会・政治状況は、明らかに敗戦後70年間続いた、はなはだガラパゴス的な戦後史観では、どうにも説明出来ないにもかかわらず、今だにこのすっかり錆び付いた定規を無理矢理当てはめようとする。いちばん嘆かわしいのは、そうした識者たちが、それらを無定見に所与のものとして振りかざすので、はなはだ奇想天外な議論(ほとんど神学論争に近い)になってしまい、訳が分らなくなる、つまり現実の具体的な解決の方策には、まったく繋がらない議論を繰り返す、という景況を呈していることです(その際たるものが、国会討論でしょう)。 そんな中、多少面白味を持って見ていたのが参議院選挙で、私的には敬愛するところの青山繁晴氏が何と自民党から比例代表で立候補して、50万票近い得票(確か得票数で2位)で当選したことです。これが組織を交えないまったくの真水票で、しかも選挙直前の立候補表明であることを考えると、それじたいマスコミのニュースになってしかるべしですが、全国紙および東京系列のテレビ局はまったく無視しましたね。 東京局でもずいぶん世話になっていたテレビ局もあったはずですが、あえて取り上げないというのは、よほどそうしたくない理由があったからでしょう。で、それは端的に言えば、先のガラパゴス的戦後史観に安住している一般マスメディア他識者連にとって、氏の言説や行動は常にヤスリをかけられるような存在であったからでしょう。 断っておきますが、私は青山氏の言説や行動に何から何まで信を置いているわけではありません。とくに憲法とか天皇といった日本国の根本のありように関しては、かなり認識の違いがあって、ほとんど相容れないんじゃないかと思えるところもあるのですが、それでも充分傾聴する気持にさせる。ここで言う「価値」とは、要はその言説に媒介されて、こちらの立ち位置も明晰になる。自身が日頃抱いているモヤモヤした考えや道筋が、多少とも明瞭になるという意味でです。 私は民主主義の価値の根幹は「数」ではなく、「知性」あるいは「智力」だと思っています。何も高度な学識とかが必要といっているんじゃなくて、各々が「自身で考えた」ことがらを、簡単にはまつろわない個人の意見として戦わせる。そして議論の目的が相手を論破することではなくて、それによってお互いが「智力」の階段を一歩上がったなら、それはそれで充分「価値」と言えるんじゃないか、と思っています。 要は、今すぐすべて賛同ということは、絶対有り得ない(当たり前です)としても、双方が「合意形成」の意志を失わないかぎり、民主主義の価値は維持される。当今の何でも「数が勝負(多数決原理)」の価値観では、民主主義は際限のないポピュリズム(大衆迎合主義)=智力低下に陥るでしょう。「合意形成」も「議論」もすっ飛ばした安易な国民投票や住民投票が、どういう事態を引き起こすかは、すでに国の内外で明らかになっていることです。 と、またいきなり難しい話になってしまいました。 多少明るい話題を挙げるとするなら、リオのオリンピックで日本の二十代が活躍したことでしょうか。ちなみに、またぞろ水をかけるようですが、今回のメダリストたちは、そのほとんどが、かの悪名高き「ゆとり世代」の申し子であることを指摘した言説は一つもありませんでした。 彼らがどういうマインドで「日の丸」や「金メダル」と対峙したのか、少なくとも50年前の東京オリンピックを知っている私など、当時の選手たちにのしかかっていた「日の丸」と比べると、ずいぶん軽いじゃねえか、と思ったりもするのですが、そういう指摘をする人もいませんね。こういう違いこそ「時代の推移」、あるいはアスリートの「意識の変化」のありようを見るうえで、分析に値すると思うのですが。 さて、こうやって唐突にしゃべり出したのには、「理由」があります。いつも言っているとおり、それが自分にとって充分「面白い」かどうか、公開する「価値がある」のかどうか、外から見て「読める」中味になっているかということですが、よく考えてみれば「価値」とか「読める」かどうかなどということは、私には決められない。結局自分にとって充分「面白い」ことがらが、やっと再びよみがえって来たらしいということで、それだけを頼りにぼちぼち再開しようかなどと思っているのです。 動機はそこまでですが、直接的な引き金は明らかにあります。例の826Asukaさんが新たな動画をUPして、それを聴いていて思い当たる節があったのですが、その話はまた次に。
2017.01.11
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