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hiro_nao_99さんの日記を拝見していて思い出した。「君にはデリカシーがない。」という私の一言からはじまった緊急家族会議(という名の大喧嘩)だ。その頃、娘はまだ小さく、経管栄養でミルクを1日5回注入していた。経管栄養の子供はいざお腹が空いても簡単にミルクをあげることができない。ただでさえも症状がどう変わったか気になる上に何時間も拘束される大学病院の日は、娘にとっても私にとっても苦痛以外の何物でもなかった。ずっと伏線はあったのだが、きっかけになったあの日。私は次の日の大学病院への通院のために頭をフル稼働していた。着替え。ミルク用具。オムツ。いざ注入しなければいけなくなった時のための注入用具一式。受診時間から逆算してミルク時間を調整。そんな時、彼は帰ってきた。そして、笑顔で言った。「明日、休みになったよ!どこか遊びに行こっか?」どこかのテレビ局のキャッチコピーではないが、絶対に負けられない戦いがある。「君にはデリカシーがないんだよ。私が今、何を考えていたか君に分かるか?」私は訴えた。「今は私が彼女のマネージャー役も務めるのが仕事だから、病院のスケジュールを管理して連れて行き、責任をもって医師との交渉を果たす。この件に関して、私が頼んだこと以上に何をしてくれなくていい、仕事中忘れていてくれても構わない。が、私たちがそういう時間を過ごしている、ということを君が意識していてくれないのなら、孤独で戦えないよ。」絶対に譲れない勝利がある。ここが私のデッドラインだった。この勝利が得られないのなら離婚するつもりだった。私の必死さが伝わったのか、彼はすぐに非を認めてくれた。今では、「病院はいつ?」「どうだった?」と彼から聞いてくれるようになった。この「デリカシーがない」という言葉は我が家で流行っており、今でも(私が一方的にであるが)多用されている。
2004.03.31
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足の臭い、というのはストレスからくる、らしい。直接的原因は『足のムレ』で、合わない靴を履いたりとか、足の裏の温度と湿度が一定以上になると雑菌がわいて、臭いを生ずるらしい。しかし、足の裏ってのはそもそも気温では汗をかかないそうで、ストレスが足の裏に汗をかかせ、足の臭いへとつながっていくそうだ。パートナーが強烈に猛烈に激しい臭いを伴って帰ってきた日、以前は「臭いくさいっ!お風呂さき先っ!」とにべも無く振り払っていた。が、これを知ってからは、「今日はいつもより仕事が大変だった?」と聞くようになった。私としてはただ、私が知ったこの知識が正しいのかどうか試したいだけなのだが、パートナーはうれしそうだから、まぁ、一石二鳥というところか。最近、そんな会話をする日が続いているような気がする。私も今日は朝から眠たくて、食事以外はずっと寝ていた。こういう時はパートナーに対しても娘に対しても言葉を飾る余裕がなく、デリカシーを欠いてしまうことが多いから、気をつけることにしよう。
2004.03.30
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『普通』のお子さんと遊び、その母親たちと会話を持つようになって、ハテナ(?)と思いながら会話をすることがある。それは、子供の『個性』についてだ。例えば、食事などでいうと、「うちの子、牛乳ダメなの。チーズは好きだけど。」「あ、うちも。」「ヨーグルトは食べるの?」みたいな会話が繰り広げられる。自分の子供の『個性』について報告し合うのだ。そんな時、私は乗り遅れてしまう。果たして今頭の中に浮かんだ彼女の特徴が、『個性』なのか『発達遅滞』で起きてしまっていることなのか、分からないのだ。「新生児の頃からオムツが汚れても泣かなかった」のは、『個性』か『発達遅滞』か?「しょっちゅう首を横に振って、それを楽しそうに笑う」のは、『個性』で遊んでいるのか『発達遅滞』か??「目新しい食べ物というだけで顔をそむけ、同じ物を好んで食べる」のは、食わず嫌いという『個性』なのか『発達遅滞』か???うっかり言ってしまって、実はそれは『発達遅滞』の徴候だったりなんかして、そこで話している人にはそれが分かってしまったりして、そんなことも気付かず『個性個性』とはしゃいでたりしたら恥ずかしい、と思ってしまう。見れば分かる障害児なのに、こんなとこで見栄をはってどうする…と思うのだが…。
2004.03.29
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正直、しつけにまで手が回らなかった。というか、『生かす』のに必死で目をつむってきた。『普通』のお子さんと一緒に遊ぶ機会が増えて、改めて思いしらされてしまった。2歳前というのは人の言うことを理解できるようになる、ということで、皆しつけに力を入れている。「お座りね」「仲良くね」「順番ね」「お片付けね」「これが終わったら帰ろうね」彼女がもし、私の言うことを全く理解していないのであれば、理解出来るようになってから教えてあげよう、と思う。彼女は彼女なりにではあるが確実に成長しているのだ。しかし、彼女は分かっている、と思う。補聴器をつけた時などは如実にその片鱗があらわれる。同じ年の子に比べたらまだまだとはいえ、ある程度は理解しているのだ。毎日、お座りさせてから食事を取らせたら出来るようになるだろうに。遊びに行って帰る際に、耳に補聴器を入れて彼女の目をみて優しくさとせば我慢を覚えてくれるだろうに。あんなこともこんなことも教えたらいいのだろうに。何故、しつけに時間を割かないのだろう。もちろん、物理的に時間がない、ということがある。しつけには時間と忍耐がかかるものだ。しかし、本当の理由はそれではない気がする。何を教えても覚えが悪くて疲れるのだ。もしかしたら、どんな子供でもそれ位の時間がかかっていることなのかもしれないのだが、彼女の『発達遅滞』の方を信じていて『可能性』を信じてあげられないのだ。だから、ただでさえやらなければいけないことが多い貴重な時間を割いて、補聴器をつけたりと余計な手間を割いてまで彼女のしつけをする気が起きないのだと思う。彼女がちょっとした宇宙人のような状態なのは彼女の発達遅滞のせいだけではなく、誰よりも信じてあげなくてはいけない母親から信じてもらえていないから、であろう。
2004.03.27
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彼女は人好きで社交的らしい。外に出ると、横断歩道での信号待ちの時間さえもせっせと隣の人の気をひこうとする。こちらを向いてもらえたら満面の笑顔でお手振り。特に気に入った人など、少しでも向こうを見ようものなら抗議の声まであげる。今日日、すれ違っただけの障害児に笑顔を返してくれる人など、そう多くはない。そんな時は、はっと真顔になって視線をそらす。が、次の瞬間にはまたターゲットを探すのだから、余程好きなのかなんなのか。こちらは相手にお礼を言ったり世間話をしたり、鼻の矯正具や耳の補聴器まで説明しなければならなくなったりして、気が休まらない。一番困るのは子供の遊び場で、だ。遊び場に行くと彼女はズンズンと輪の中に入っていく。見た目は2歳児のくせにハイハイしか出来ないので、ちょっと貞子チックで不気味だ。加えて、鼻に矯正具が入っていて、耳には補聴器がついている。人の気をひくために、いきなりワオワオとサイレンのように唸りはじめる。パズルなどは出来ないからガンガンと叩く。大人がこちらを向くと、褒めてもらおうと思って足をバタバタさせて奇声をあげる。これが彼女のご機嫌な芸なのだ。私はこんな彼女を眺めながら心の中で葛藤を続ける。こんな彼女を恥ずかしいと思ってはいけない。思ってしまったら、もう『普通』の子供がいる遊び場には連れてこれない。社交的で人好きな彼女はこういった場が好きだ。滑り台や高い場所によじ登るのが大好きだ。これはきっと彼女の長所を最大限に生かし、伸ばしてあげられることに違いないのだ。彼女が人の輪に入っていくので、こちらも親同士の会話が生まれる。見た目に障害児な彼女に関して話すことはなんともないが、辛いのは相手のお子さんを褒めることだ。「お話が上手ですね。」「もうお話が出来るんですか、賢いですね。」「走ってる姿はお兄ちゃんって感じですね。」この子だって、こんな風に出来ているハズなのに…。追い討ちをかけるように「○○(子供の名前)ちゃんだって、ハイハイが上手ね」などと言われると、相手の苦労も分かるのだが、これはもう笑うしかない。心の均衡を失いそうになると、私はいつも自分に言い聞かせる。娘は恥ずかしいなんて思ってなくて、楽しいと思っているんだから、と。
2004.03.25
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もう一人子供がいてもいいか、という心境になってきた。正直、「欲しい!欲しい!!」という可愛い心境ではないが、それは仕方がない。人が子供を望む理由や産む理由なんてそれぞれで、周囲、環境、本人たちの意思、胎児の意思、が複雑に絡み合う。「もう一人子供がいてもいいか」と考える時、想像の中でいつも私が胸に抱いているのは『普通』の赤ちゃんだ。私は服をたくしあげ、乳をふくませる。彼女は直接母乳でミルクをあげられなかった。それどころか経管栄養で、口からミルクをほとんどあげられなかった。入浴時、彼女は私の胸に異常なほど反応する。ふくんだことのない胸にかじりつこうというような反応を示すこともある。本能なのだろう。彼女の障害は遺伝する。上の子がその障害を持っている場合、下の子にもあらわれる可能性は100人に1人にまで確率があがる。それだけではない。私の子宮が腐っていて障害児しか産めないかもしれないじゃないか。義母もそれを心配してか、それとなく何度も健康法を勧めてくる。その度に「次も障害児だったら、あんたの子宮が腐ってる証拠よ」と言われている気がしてならない。実際、子宮は腐らないし、関係なく生物学上当たり前に何%かは障害児として産まれてくる。分かってはいるが、もう障害児は育てられない。「障害児だっていいよ」なんて心境に全くなれない状態で、子供を授かるというのは何か違うのではないか。「障害児だって可愛い」という程の育児ができない私が、例え『普通』の子供を授かったとしても、障害で悩んでいた部分が消えた場所に期待やら嫉妬やらという新たな悩みで埋め尽くされて、すこやかに育ててあげられないのではないか。『きょうだい児』としての運命を背負う我が子に、障害児の親としての覚悟もない私が何を教えてあげられるのだろう。直接母乳で育ててみたかった、という私のエゴだけのためにこの世に存在させてしまっていいのだろうか。こんな気持ちのまま次の子をお腹に宿して毎日を過ごすことは出来ない。
2004.03.23
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