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皆さんが通っておられる療育のグループなり、教室なりが、二つに分けられるとしたら、どのようなことを考えますか。来週から、娘の通っている療育のグループが2つに分けられることになった。娘の教室は1歳半から2歳半までの子供で、座ることのできない肢体不自由でなん語も口にしない子供から、走りまわり、片言がしゃべれ子供まで、様々である。自閉的傾向児とそれ以外のグループに分かれており、娘は、それ以外のグループだ。次第に人数が増えてきたことを受けて、9月より教室を分けることになったらしい。グループ分けの話があり、グループ表が配られた。皆で何度も話し合い、検討した結果このようにした。と、説明されたそのグループ。何度見ても、その意図が分からない。質問してみると、深い意味はなく生年月日順で、左右に分けた、という。確かに、私の前の誕生日の子と、うちのとは、別のグループだ。これが有効な療育のグループ分けなのか。と、再度聞くと、スタッフはこう答えた。能力別(歩けるか歩けないか)で分けることも検討したのだが、どうしても均等に分けられなかた。また、子供は成長していくものだし、能力で分けても、また変わってしまう。だから、公平に年齢別にした、と。これは、どうなのだろう。年齢別で発達が足りないから、こうやって発達遅滞の教室に通っているのに、ここでまた年齢別、というのは納得しがたい。外遊びの時間など、歩けない子供の母親は負担なのではないのか。そんなことは、買い物帰りに公園に寄ればできるのだから、それより、歩けない子供が楽しめるようなことをし、親同士が親睦をはかったほうが、有益ではないのか。そもそも、成長するのだから、という下りも綺麗事なのではないか、と、思う。確かに事実だが、だからといって歩けない子供が1週間で歩けるわけではないし、娘のような難聴児がいきなり聞き分けよく、とんちんかんでなくなるわけではない。そうやって、発達が遅々として進まないことを、スタッフも、誰より親が知っているのではないか。しかし、成長するし、いつ誰かがどうなるのか分からないよ~ん、と、笑顔で言われてしまっては、それに怒りを向ける私は、自分の子供だけでなく、人の子供の成長も否定してしまうようで、口をはさむことができない。また、自分以外の人がどう思っているか分からず、この綺麗事に乗ってしまうしかない。更に、メンバーの中では娘は発達の早い方なので、発達の遅い子供と一緒にしないでよ、こっちまで発達が遅くなっしゃうじゃない。と、言っているみたいで、どうしても、不満をぶつけることができない。悪いことが重なり、発達の早いダウン症児、ゆい(仮名)ちゃんのママが、引っ越してきたばかりもあり、娘と離れたグループになってしまったことに動揺して、大きな声でうろたえてしまったものだから、あの子と一緒が良かった、離れたくなかった、と、ご不満もあろうと思いますが…と、スタッフに釘をさされてしまった。もちろん、そういうつもりで質問したわけではない。新しいグループで、今まで挨拶程度だった人と交流することで親子共学べることがあると考えるので、分かれること自体に問題はないし、誰と一緒でもいい。ただ、その線引きに、もっと有益なものがあったのではないか…と考えたことは、おかしなことなのだろうか。これは悪平等だ…と考えたことはおかしなことなのだろうか。そこまでの話合いを出来る友人を、私は、あのグループの中で持っていない。
2004.08.27
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こんな時間に眠れずに、何故か白馬の別荘で過ごした日々を思いだしている。白馬で過ごした日々も後半。夫が夜行で駆けつけてくれてからのことだ。出張も重なって10日ほど会えなかった娘を、彼は自分の側から離さなかった。娘の小さな頭を両手でゆっくり大きく撫でつけ、撫でつけては抱き寄せ、キスをする。その度に、耳元に口を寄せ、可愛いね。△△(娘の名前)ちゃんは、どうしてそんなに可愛いんだろ。と、繰り返す。その風景はいつものことで、私は何気なく眺めていたのだが、別荘の持ち主、義母の実弟のお嫁さんが、感心したように言った。面白いなぁ。□□(夫の名前)君のしてること、あんたのお母さんのしてたこととそっくりやで。なぁ~、と振り返れば、義父も義母の実弟も大きく何度もうなずいて、言った。なぁんも分からん小さい子のようで、ちゃぁんと覚えてて、おんなじこと、すんねんなぁ。私はどうだったのだろう。実母は私のこと、どうやって育ててきたのだろう。まだ記憶のない、娘と同じくらいの年だった頃。どうやって過ごしてきたのだろう。気に入らないことをすると、大声で威嚇されてきたのだろうか。いたずらをして、小突かれたり、突き飛ばされたりしてきたのだろうか。「食べないなら死んでいいよ、死ね」「出て行け」と悪態つかれていたのだろうか。されていてもおかしくない。この理論でいけば。私が娘にしているんだから。それとも、自分のキャパシティ以上の障碍を抱えた娘に耐えかねて、こんな狂人のような自分になってしまう時があるのだろうか。実母に聞いてみる勇気はない。彼女自身は、これといった障碍のない娘であっても、キャパシティオーバーだったのかもしれないではないか。もし、同じようなことをされていたことが分かったとき…。実母への怒りは、そのまま、現在、娘に対して行っている自分自身へと跳ね返ってきて、私をバラバラにしてしまうかもしれない。
2004.08.22
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白馬初日での一件。私は実父に抗議をしなかった。何故。何故、拳を上げない。そう思われた方は多いと思う。そう思われた方は幸せだな、と思う。嫌味でもなんでもなく、心からそう思う。現夫も、付き合った当初、そう言っていた。彼は両親を尊敬しており、また、彼が尊敬するに足るだけの人物であるから、私たちは、このことでしょっちゅう言い争い…というか議論になっていた。どんな人間でも話せば分かる。それが出来ないのは、こちらの論旨がおかしいからだ。話しても分からない人間ってのは確かに存在する。それは、宗教や人種といった価値観の問題ではなく、ただ単に人間の質といった問題で存在するんだ。それが私の両親だ。この議論は永遠の平行線を見せ、男と女としての付き合いも短命に終わるか、と、思われたとき、劇的な事件で私の一方的の勝利に終わった。実母が私を手放したくなくて、彼の下宿にいたずら電話をかけはじめたのだ。実父に対して私が怒らなかったのもそこにある。彼らに対し、有効な怒りの手段、それは破壊である。大声でののしり、物を壊す。時には相手を壊す。そういった圧倒的な力による支配のみが、唯一、絶対の彼らの理論だ。義理の両親、実娘と一緒で、この後、遠出をしようとしている以上、実父が望む形で彼に分からせてあげることは不可能だ。いや、違う。今の私には、もう人間らしい生き方を知ってしまった今となっては、彼らの方法で彼らと戦うのは不可能なのだ。私は、穏便に実父に帰ってもらった。それは、いくばくかの哀傷さえ含んでいたように思う。話しても分からない人種。それは確かに存在するのだ。
2004.08.20
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せっかく平穏な日々を送っていたのに、残念すぎる。義母との仲が復活してしまった。今となっては、どうしてこうなってしまったのか会話回しが思い出せないのだが、いきなり、何もなかったことになっていて、更に、明日から白馬へ行くことになってしまったのだ、なんでだよ。彼の親戚で白馬に別荘を持っている人がおり、そこに親戚が数人、義理の両親も含めて集まっているのだが、明日、義理の両親が我が家へ迎えにくるという。しかも、私と娘だけ。夫は仕事で出張中なのである。5泊6日。私は正直、全く、完全無欠に行きたくない。夫もそれを承知しており、自分だって、自分の親戚ではあるが、そのような集まりに行っても休めない、という。第一、支度が面倒くさい。支度は百歩譲っても、帰ってきてから荷物をバラすのが、今からうっとうしくて仕方がない。しかも娘は障害児。お泊りセットに加えて、障害児スペシャルセットも合わせて用意しなければならない。加えて、オリンピック。非日常好きな私は当然オリンピックも大好き。どっぷり浸かろうと、雑誌まで購入して、蛍光ペンで彩って楽しみにしていたのに。あ~あ。それなのにそれなのに、フタを開ければ、何故か、私が行きたいような形になっているのは、なんでなんだろう。これも嫁の務めなのか、まったく。せめてもの救いは、娘のこと。人好きな彼女がたくさんの人から影響を受けて、新しい場所でノビノビと出来るのであれば、それで救われる気がする。娘のために、我が身を犠牲にし、4年に1度のオリンピックを捨て、白馬行きを固辞しなかった私は、少しは母親しているな。
2004.08.13
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障碍児を授かった親の精神状態は、大切な人を亡くした人が苛まれる『喪失感』と似ている、と、知人の精神科医が言った。そう、喪失感。確かに失ったものはいっぱいある。生まれたばかりの彼女を腕に抱いて、乳を含ませてあげること。あふれるほどの写真。隣人、親戚縁者、知人友人からの祝福。孫の取り合い。私の子供は発達が早い。そろそろ、保育園、働きに出ようかな。それとも、手元で私の全てを授けていこうか。彼女に抱くはずだった、夢想の数々をこれ以上具体的にあげていては、明日になっても明後日になっても終わることはないだろう。その分だけ、私の喪失感もまだまだ終わることはないのだろう。去るものは日々に疎し。しかし、障碍児が目の前から去ることはない。忘れようとしても次の朝になれば、また、思い出す。テレビをつけては思い出す。新聞を読んでは思い出させられる。街を歩けば目の前に叩きつけられる。あの夢想の数々、お腹の中には確かにいた失った私のパーフェクトベビー。この『喪失感』から逃れるためには、日々悪戦苦闘して、少しづつ、パーフェクトベビーを自分の手で絞め殺し、目の前のわが子を受け入れていくしかないのだろうか。それとも、目も前の我が子とパーフェクトベビーを重ね合わせ、同一人物化していくのだろうか。いずれでもいい、それが達成出来る日は、一体いつ訪れるのだろう。
2004.08.10
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私たちは宵越しの喧嘩をしない。どんなに前日の夜、喧嘩をしても、次の日の朝、仕事へ行く彼を見送るときは、笑顔で手を振れるようになるまで、お互いに改善しようと努力し、修繕する。これは、彼の提案だった。いつだったか、もう結婚していたのか。喧嘩したまま離れようとしたときに、「このままどちらかが死んで二度と会えなくなるかもしれないのに、最後にこれでは悲しいでしょ」と、言った。その価値観に共鳴して、私も心がけるようになった。以来、これは暗黙の了解になっている。そのせいか、宵越しの喧嘩になりそうなネタは、彼が連休の時に勃発することが多く、これまた、お互いに暗黙の了解になっている。先程、聞いたこともないような切迫した声で、彼が私の名前を呼んだ。彼は3日前から熱があり、悪化して昨日は仕事を休み、点滴を午前中と午後の2回、受けてきた。今日から元々のスケジュールで彼は3連休であり、点滴の効果で昨晩、熱もだいぶ下がり、安心していた。朝方、うとうとしていたら、夫がトイレに入るのが聞こえた。風邪らしいので、娘と私は寝室を別にしていて、体を起こすことなく、ぼーっと寝ていた。すると、彼が私の名前を、絞り出すような声で呼んだ途端、下半身裸のままで、どさっと廊下に倒れこんだ。慌てて駆け寄り、彼の名前を小さく呼んだ。彼は答えない。代わりに、着ているグレーのTシャツがぼつぼつと色を濃くしていき、見る見る間に濃い部分が増え、油汗でにじんでいく。救急車…呼ぼうか…。少しの沈黙の後、いや…、と、彼は首を横に振った。そうして、どれぐらいかたって、彼はのろのろと身を起こし、温かいお茶…くれる、とだけ言って、トイレに戻っていった。彼は座椅子にもたれ、温かいお茶を口にしながら、先程の状況を説明した。腹痛でトイレに入ったのだが、次第に気持ち悪さが強くなってきて、意識が薄らいでいった。△△(私の名前)に知らせなければと思って、とにかく外へ出てきた…。その後、彼はゼリー飲料を口にし、薬を飲んで、寝室に戻っていった。彼は私に知らせるために、意識が遠のくなか、体を外に投げ出した。動揺することなく、私に心配かけるまいと冷静に指示を出し、最後に、○○(娘の名前)を起こしちゃったかな、○○をよろしくね、と、気を使ってくれた。私なら動揺して、泣いてしまうかもしれない。その前に、人知れず、トイレで倒れているだろう。先程だって、倒れている彼の前で、何も出来ずに、どんな風に声をかけていいかも分からず、立ちつくしているだけだった。頭はフル回転していたのだが、つまらないことばかり考えていた。このまま、吐いたりしたら、汚物はどうやって片付けようかな。今日、予約していた美容院は無理だな。今日の昼食どうしようか。朝食は…食べないかな。今になって、肝が冷える。あのまま、救急車を呼んだとしたら、どうなっていたのだろう。きちんと、症状を説明できただろうか。家の場所を説明できたのだろうか。いや、119を思い出してかけられたのだろうか。寝ている娘を起こして、必要なものを詰めて。自分も着替えて、保険証を用意して、財布を持って。病院はどこを指定しようか。その前に、家に鍵をかけることを忘れないようにしないと。「このままどちらかが死んで二度と会えなくなるかもしれないのに、最後にこれでは悲しいでしょ」と提案した彼には、覚悟とか、死への意識も備わっているのだと思う。一方の私は猿真似をしてきたに過ぎなかった。いつ、また、こういう状況になるかも分からない。娘に起こらないとも限らない。そんなとき、彼や彼女に2度と会えない状況を少しでも遅らせることができるように、私も覚悟と意識を備えておきたい。
2004.08.06
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大学病院を患者にとって良い方向へ動かそう、とするのは難しい。娘が定期的に通っている大学病院は、この地方では娘の障碍に圧倒的な症例数を誇っていて、皆、新幹線で通ってくる。その専門外来はいつもにぎわっているが、遠方からきた生後10日の新生児に対してもなんの配慮もなく、1時間でも一般客と一緒に長椅子で待たせる。当然、産後10日の私も一緒に長椅子に腰掛けて待っていたわけで、疲れから目がチカチカしてきたのを覚えている。5月頃からシステムが変更になった、と、主治医が言った。主治医、といっても、書類上の主治医ではない。大学病院によくあることだが、主治医は教授で、手術するのも教授だが、普段、定期的に検診をしたり、状況を把握したりするのは、その助手である。私は、その助手を、主治医と言っている。その主治医が言うには、システムが変わって、今までは、助手が診るとしても、いつも同じ助手が主治医のように診ていたのだが、これからは、手の空いているものが随時診ていく、というのだ。私は、異議を唱えた。大学は様々な人に臨床を経験させられるし、助手の行動の自由が多くなるし、患者との癒着もなくなってメリットが大きいだろうけど、こちらは待ち時間が減る、程度のメリットしかないのではないか。娘の様子を把握している人が毎回診ないのでは、いくらカルテを見ているとはいえ、これでは定期健診にならないのではないか。何か不安や聞きたいことがあったとしても、初対面に近い人にいきなり質問するのは難しいのではないか。すると、どうなったか。娘の診察時間が変わった。専門外来の日ではなく、一般客と同じ時間帯になり、そこは助手の主治医が一般客を診察する時間だった。もちろん、その主治医が診察をする。これが大学病院のやり方だな、と、私は思った。うるさい人だけ特別扱いにし、あとは自分たちが患者を…ではなく、症例を診やすいようにする。しかし、これ以上、私にはどうすることもできない。こうやってシステムが変わったことを、他の患者も困っている、という事態をどうやって把握できよう。あなただけだよ、と言われても言い返しようがない。それなのに、これ以上、大学病院に意見を言ってしまっては、娘に害が及んでは…と、躊躇してしまう。手術のとき、手を抜かれてしまったらどうしよう、と、どうしても考えてしまう。もちろん、病院を替わる自由を私は持っているが、この病院と比するほどの症例数を誇る病院に頻繁に通うには、経済的にも肉体的にもきついものがあるし、何より、私には少なくとも対処してくれているのだから、気分は悪いだけで実害は少ない。こうやって、大学病院の論理に組み込まれてしまうのは、逃れようもないことなのか…。
2004.08.04
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7月下旬のある日。目覚めてみたら、娘が別娘になっていた。こんな記念の日なのに、いつなのかどうしても思い出せない。それは、なんの前触れもなく、あったとしても、気づかないほどのものでしかなく、友人の言葉を借りれば、バージョンアップ、とでもいったような代物だった。娘にどんな心境の変化があったのだろうか。その日を境に、娘はしゃべることにしたらしい。一日に一語づつ、といったペースで覚えていく。毎日、一語覚えて、一語使い方が定着して。あれも教えて、これも知りたい、と、せがんでくる。おふろ。おにぎり。取って。抱っこ。たまご。おんま。難聴を診てもらっている言語聴覚士、大学病院の言語聴覚士、二人そろって、言うことは同じだった。言葉が出るまでには、色々な過程があって、様々な兆候もみられるが、娘さんはまだもう少しかかりそうですね。事実、私もそう思っていた。「いらない」という彼女の切なる要望を伝える言葉を言って以来、定着した言葉はなかった。お父さんは?お母さんは?と聞いてもそちらを向くこともないし。絵本の動物や食べ物を指さしたり、それを片言で表現しようともしなかったし。私自身、この件に関してはまったく期待していなかった。それよりも、不安なことがいっぱいで、頭の中で後回しにしていた部分だった。このことを、頻繁に会う方の言語聴覚士に報告すると、お母さんの語りかけが○○(娘の名前)ちゃんの中に蓄積されていて、それが一気に噴出したんですねぇ、と、驚き、そして喜んだようだった。いつもなら、母親の語りかけくらいで、そんなに差がでるかい、と、毒づくところであるが、めでたいことであるし、褒められているときぐらいは、いささか調子が良いが、喜んでおこうかなと思った。
2004.08.01
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