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今週は予定を中止して、何処にも行かないのでした......今日は純然たる日記です。 新型コロナは感染拡大が収まらないままに、東京、大阪、神奈川、北海道あたりはどうなるものかさっぱり分からない状況になってまいりました..... 11/28時点で、東京 561人、大阪 463人、神奈川 215人、北海道 252人。緊急事態宣言とか言っていた頃よりずっと多いけれど、みんな怖い怖い言いながら、或いはそんな事おくびにも出さずに、そんなに変らない生活を送ってる、といったところでしょうか。 Go Toシリーズも、トラベルもイートもブレーキを掛けるような掛けないような中途半端な感じで、Go Toイベントもいよいよブレーキがかかりはじめた感じです。まぁ、そもそもブレーキかけるほど始動してたんかい、といったところですが。 神奈川県内でのイベントについて、12/2以降適用を停止するそうです。 https://gotoevent.go.jp 東京は除外しないそうです。 ふーん..................................まぁ、いいけど。 経済回すとかなんとかかっこいい言い方が一時流行りましたが、まぁ、詰まるところ、最低限現代社会で生きてる以上、何某かお金と物が動くのは避けられないので、どうせ意識しなくても何かは回る訳で、ねぇ。無論、大きくダメージを受けてるところはあるんだから、そういうところをどうするって話はあるんだけれども。でも、まぁ、Go Toシリーズというのは、結局ブースターに過ぎないので、メインエンジンが不発の状態でブーストしようとしても、そりゃ無茶なんだと思いますけどね。 自分で言うのもなんだけれど、2割・2千円引きでそう需要喚起されるものでもないと思うので、この際スパッと止めて春に一気にブースト掛ければいいんじゃないかって気もするんですけどね.... むしろ配席問題の方が重いかなぁ。こういう状況でも従前通り全席お座り頂けます、って今の状況は、正直どうなんだろうなぁ。結局今持ってるチケットは皆そういうことになってますしね。 そっちの方がよっぽど気になるし、死活問題でもあるだろうし。今年もあと1ヶ月ですが、恐らくこの1ヶ月がこと日本に関する限りは、どういうシナリオを辿るかの分岐点なんでしょうね。いや、北半球は冬になるこれからが何処も正念場ってことなのか。 そんな中ですが、葉山の神奈川県立近代美術館に行ってきました。企画展ではなくてコレクション展なのですが、ルドンの版画を12/20迄まとめて展示しています。 http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2020_collection2 ルドン。好き嫌いはいろいろあると思いますが、私の中ではルドンは版画の人、それもモノクロームで、しかも陰のある人、だと思います。異形の、この世ならざるものを描いた人。ただ、なんていうんでしょうね、異形のものではあって、それはそれは不気味なのだけれども、不気味であることに意味がある訳ではない、そういう画だと思います。いや、今の状況下で言うと、むしろ、異形という形を与えられて見えるものは、不気味ではあるけれど、むしろその先の、何がいるのか、いないのか、それすら分からない、陰、の方が怖いようにも思います。不気味な「もの」は怖くないのかも。
2020年11月29日
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オペラシティコンサートホール 14:00〜 3階左手 メンデルスゾーン:「真夏の夜の夢」〜結婚行進曲 J.S.バッハ=グノー:アヴェ・マリア J.S.バッハ:G線上のアリア マスカーニ:「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲 ヘンデル:「セルせ」〜"オンブラ・マイ・フ" <独唱アンコール> プッチーニ:「ジャンニ・スキッキ」〜"私のお父さん" ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」〜ラコッツィ行進曲 ヴォルフ=フェラーリ:「マドンナの宝石」間奏曲 ベルリオーズ:幻想交響曲 第4,5楽章 <アンコール> ポンキエッリ:「ラ・ジョコンダ」〜時の踊り ソプラノ:市原愛 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:円光寺雅彦 まぁ、正直、わざわざ聞きに行くようなものかと言われれば.....なんですけれども、昔から持っている席をそのままにしているので、チケットはある。なんでそのままかというと、たまに「あ、この人は聞きたい」と思う人が振るので。本当はバッティストーニ聞きたさに持ってたんですけれどね。 なので、行く必要もないと言えばないけれど、もう既に間引き配席状態でのチケットが送られてきたし、折角だし、と思って、行ってきました。 まぁ、それだけ。 それにしても、こんなに見事に昭和の名曲全集みたいなプログラムはなかなか組むことはないでしょうね。今じゃうっかりするとベートーヴェンの交響曲ですら通俗名曲扱いされかねないですからね。こんなの紛う方なきど通俗名曲集。でも、まぁ、そういうのもどっかでやってないと、通俗でも名曲でもなくなっちゃいますからね。 演奏は、まぁ、特にいうこともなく.....カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲は、やっぱり、生で聞くと、いいなぁ....... そういう意味では「リソースの贅沢な無駄遣い」とも言えるんですけれどね。うん。でも、それ言ってしまえば、ウィーン・フィルのニューイヤーだって、ベルリン・フィルのジルヴェスターだって、概ね「リソースの贅沢な無駄遣い」と言えば同じですもの。それもまた何某か必要な一部なのでしょう。だからって必聴って訳ではないでしょうけれどね。もちろん。
2020年11月26日
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みなとみらいホール 14:00〜 2階右側 ベートーヴェン:「レオノーレ」序曲第3番 ロドリーゴ:ある貴紳の為の幻想曲 <独奏アンコール> タレガ:アルハンブラの思い出 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 op.67「運命」 ギター:村治佳織 読売日本交響楽団 指揮:鈴木優人 昔から読売日響は好きじゃないし、縁もあまり無いんですね。好きじゃないのは、まぁ、あれです。読売日響と広島交響楽団のコンサートどっちか選べ、と言われたら、迷わず広島を選ぶ、というところからお察し下さい..... そして、鈴木優人もなぁ....... まぁ、基本行くインセンティヴないのですが、今日は横浜で先約があって、あ、聞けるな、ということで、久し振りに定点観測的に聞いてみたのでした。 まず驚いたのは、客層。率直に言って高齢者率が非常に高い。N響も高いし、他もそれなりに高いんですけれど、私が言うのもなんだけど、ここは高齢者率が非常に高い。それも、後期高齢者率が高そう。その一方で、若めの人が少ない。これは、この先、大丈夫なのかね?まぁ、大きなお世話ってところでしょうが.... まずソロの話からすると、村治佳織は、相変わらずの安定感。ロドリーゴの貴紳は久し振りに聞きましたが、アランフェスと負けず劣らず魅力的な曲。アンコールにはアルハンブラの思い出、と、まぁある意味ベタですが、これはこれで面白く聞けますし、演奏も良いので、文句はありません。 問題はオケかなぁ。 まず、上手い下手を言うならば、上手いんだと思いますよ。ただ、オケ、指揮者、共に問題があるかなぁ.... レオノーレ序曲、冒頭、聞いていて率直に言って「これはなかなか...」と思ったんですけれどね。いい音ではあるんですが、進むにつれてよくある日本のオーケストラの力みっぷりが若干顔を出す。ただ、指揮者がそれをうまくコントロールして、暴走しないようにしていたのは確か。その点はよく出来てはいるのですが、しかし、運命でもそうなのですけれども、時々、迷走するんですね。勿論多少のミスはあるんだけれど、そういうことでなくとも、時々、流れが滞るというか、鳴ってはいるんだけれど、これがどういうフレーズで、どう繋がっていくのか、よく分からなくなってしまうのですね。 運命なんかでは顕著なのですが、確かに演奏としては悪くないのだろうし、それなりにインパクトはあるのですが、なんというか、音楽として全体にどういう構図なのか、どこに行こうとしているのか、よくわからないのですね。 どうも、聞いていて、思うのだけれど、オケの奏者一人一人が思い描いている音楽がズレてる気がします。合奏が合うとか合わないとかいうレベルではなくて、何をしようとしているかが合わないというか、率直に言うと、失礼ながら、「こうしろ」って指示されてるからそう演奏しているけれど、どうしてそうなのか、腑に落ちてないといったような。だから、時々、どこに行くのか分からないような瞬間があるのではないのかなと。例えば、軽くリタルダントさせる、その時そのリタルダントを何故そこで入れて、それは全体の中でどういう意味があってそうなっているのか、腑に落ちてないんじゃないか、だからそこで揺らぎが起きると、コントロールが効かない。効かないのは道理で、どうすればいいか演奏してる方が分かってない。そんな感じ。そういえば、運命の第2楽章や第4楽章、金管がやたらと頑張ったりすると、浮いちゃうんですよね。あれも多分そうなんじゃないかな。 もう一つ。今日聞いていて思ったのだけれど、もうピリオドチックな演奏っていうのは標準化してしまってるんでしょうね。ただ、それは結局新しい問題に転化しているだけなんじゃないかと思うんですね。 まぁ、指揮が鈴木優人だし、ピリオドチックな演奏になるのは分かります。オケの配置もチェロが1stヴァイオリンの隣に来るし、その後方にコントラバスを配するし。奏法はノンビブラートで、フレージングは歯切れは良くて、という、よくあるスタイル。 そう。これって、よくあるスタイルなんですよ。要するに。もう、こういうことやっても当たり前なんですね。そうすると、問われるのは、「じゃぁそれはどういう音楽なの?」ということ。 実際問題として、古楽のあるべき姿を追求する、なんていうのは、戦前のワンダ・ランドフスカの時代からやってることであって、戦後もマンロウやアーノンクール、ブリュッヘンなんかがやってきたことが徐々に「一般化」してるだけなんですよね。その中で、当初は「オリジナルの時代にはそれはどう響いていたんだろう?」というような問い掛けから始まったものが、いつの間にかドグマチックに「これが正しい演奏だ」にすり替わっていったんですよね。その際の決まり文句は「無批判に慣習に則ってはいけない」だったのですが、もういい加減、そっちが「慣習」になってると思うんですよ。 そうなった時に問われるのは、「じゃぁこれはいいの?悪いの?」という問題だと思うんです。慣習がどうとか、オリジナルがどうとかじゃない。「これ」はどういう音楽で、それはこれ「が」いいのか?という。 たまたま先月、東フィルでチョン・ミンの指揮で運命を聞いたけれど、あれはまぁ凡庸といえば凡庸かも知れないけれど、でも、「現代オーケストラで運命を演奏する」という一つの答えではあるんですね。決してビブラートかけまくってとか、そういう演奏ではないけれど、でも、「オーチャードホールで東フィルで運命を演奏するということ」という考えで音楽を作っていたと思う。いいか悪いか、趣味に合うかどうか、というようなことは置いても、どういう音楽をやろうとしていたかはまぁ一応分かるのです。それに比べると、率直に言って、読売日響と鈴木優人の演奏は、そういう意味では、中途半端で、まとまりがなかったように感じます。勢いはあるからね。説得力もあると言えばある。でも、前述したようなところも含めて、綻びが見えるんですよ。 ちょっと愚痴っぽく言わせて貰うと、第3楽章、あれは第4楽章にアタッカで繋がっていくのだけれど、率直にいうとまるで第4楽章の序曲を弾いているような感じ。気もそぞろ、といった感じにしか聞こえなくて、あれ、これはなんでしたっけ?といったような感じなのですね。 そしてその結果、レオノーレも、運命も(ロドリーゴはまぁともかく)、結局君らはこの音楽をどういうものとして考えて演奏しているのかね?これはどういう音楽で、何を聞かせようとしているの?というのが、見えない。なんかこう「こういう風に演奏しよう」みたいなところは力を入れてるんだろうかな、というのはまぁ分かるのだけれど、これってどういう音楽なの?というのが、希薄なんですよね。 派手だし、グイグイ行けるし、一応オケもそういうことは出来るから耳目を集める演奏ではあるのでしょう。でも、これは、ちょっと音楽としてどうなの。 別に毎回そうだということではないんでしょうけれどね。でも、まるで聞かないわけではないし、それなりに高く評価されているのであろう両者とも、しかし、私がたまに聞くと、どうしてこうなのかなぁと。まぁ、私の耳がない、或いは運が悪い、どっちかなのでしょう。そういうことでいいと思いますが、やっぱり読売日響も鈴木優人も、まぁ、いいや、私は。まだ元気があったら3年後くらいにお会いしましょうかね。
2020年11月24日
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新国立劇場 19:00〜 4階右翼 藤倉大:アルマゲドンの夢 クーパー・ヒードン:ピーター・タンジッツ フォートナム・ロスコー/ジョンソン・イーヴシャム:セス・カリコ ベラ・ロッジア:ジェシカ・アゾーディ インスペクター:加納悦子 歌手/冷笑者:望月哲也 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:大野和士 演出:リディア・シュタイアー ええ.....つい出来心でね.......行ってしまいましたよ......... オペラが好きだからといってなんでもかんでも行くとは限らないのです。特にいわゆる「日本のオペラ」とか「現代作品」は基本避けて通ります。基本的には「古典作品」としてのオペラを観るのを楽しみとしているので。それと、特に「日本のオペラ」というのは、そもそもそれがオペラであるべき必然性があるんおか、というのを強く思っているので、あまり観に行く気がしないのです。 それなのに、なんでこんな「現代の日本人作曲家のオペラ」なんていう地雷アイテムに引っ掛かってしまったかというと、先月末だか今月初めだか、たまたまラジオを聞いていて、藤倉大のインタビューを聞いてしまったのですね。発売日の前に。で、発売当日、そういえばと思って見てみたら、安いところが空いてたので......つい、ね............ で、そんなノリなので、粗筋くらいは一応確認してあったけれど、H.G.ウェルズの原作なんて読んでませんし、予習もしてない。藤倉大の作品予習なんて勿論しない。まぁ、ノーガード戦法です。その上、平日だったので、オペラグラスも持って行かなかった。 結論から言うと、多分、原作は読んでおいた方がいいような気がします。未だに読んでないですけど。あと、字幕、私はもうオペラグラスないと4階からでは字幕読みづらいので、オペラグラスあった方がいいかもですね。だからといってもう一回見に行くつもりも、まぁないんですけれども。 で、そんな有様ですのでね、果たして分かったのかどうか、まぁ、相当スットコな感想ではありますが..... 原作は読んでいないものの、粗筋からしても、観ていても、概ね言いたいことは分かります。言ってしまえば全体主義とそれが導くであろう破局への警告。まぁ、そんなところでしょう。それを、現代音楽でオペラ化している。現代音楽?まぁ、そうとしか私には言いようがない。藤倉大の音楽は、まぁミニマリズムよりはとんがっているけれど、不協和音は沢山あれどもまぁ比較的聞きやすい方でしょう。でも、まぁ、そんな感じです。どうでもいいけれど、今日聞いていてあ、と思ってしまったのだけれど、要するにいわゆる現代音楽って、ただ単に不協和音だったり、異形の音を多用してるだけのことなんですよね。で、我々の耳の方が慣れていないから、そういう音を使うと簡単に異形のものと思わせることが出来ると。ま、そんな言い方するとやっぱりお前は何もわかっとらんとか言われるんでしょうけれど、なぁんだ、それだけのことか、と今更ながら思ってみたり。そういう意味で、正直言うと、音楽として、たとえば繰り返し聞いてみたいと思うようなものでもなかったのかなぁと。 じゃぁ、これ、つまらなかったのか?というと、さて、どうだったんだろう...... 間違いないのは、かなりついて行けなかった部分はあるものの、退屈はしなかったのは確かです。休憩無しで正味90分、まぁついて行こうとするのに必死だったのでというのはあるにせよ。 作品としては、どうなんでしょうね。原作を読んでないから、どの程度翻案しているのか、ちょっと分かりませんが、ただ、H.G.ウェルズですから、多分、こういう話を実際に書いているのは確かなんだろうと。一方で、音楽はどうなのかというと、まぁ、上記の通り、"現代音楽のカラクリ"がわかったー、なんて言ってる程度ですからね、別にそう感動したみたいな話では多分ない。 では作品として意味がないのか、と言われると、さて。オペラを委嘱されて、この原作を引っ張ってきたのには意味はあると思いますし、少なくとも作曲家の主観としては、これをわざわざオペラにすることには意味はあるのでしょう。 この作品、一言で言ってしまえば「全体主義についての警告」ではあります。ただ、それを舞台の上に載せることで具象化して見せると共に、それが必ずしも単純な善悪二元論に落ちるというものでもない。どうも、ざっくり読む限りでは、主人公の妻は実は革命家でもあるようなのだけれど、予備知識が乏しい中で見ていると、どっちも怪しげにしか見えないのですよね。そういう意味では、どちら側に向かっても我々は危ういところにいる、ということなのかと。 そして、「全体主義」と一言で済ませてはいるけれど、問題は、そこで語られている姿は、決して「全体主義」と言われて咄嗟に思い付くような強権的な姿だけではないのですね。その意味では今の世界を彷彿とさせるような現代的な情景ではある。そうしたものを敢えて提示する、という意味では、この作品そのものには、一つの表現として、確かに意味はあるのだと思います。 ただ、個人的にどう思うかというと、正直言って、好きではない(笑)というより、評価しません。 この人作曲家ノートで書いてますが、言葉を伸ばして歌うオペラがいやらしく聞こえるので、だからそんな風に表現してみた、んだそうです。 じゃぁオペラ書くなよ(笑)オペラハウスで上演するなよ(笑)このへんの感覚は、ペーター・コンヴィチュニーにも通ずる胡散臭さがプンプンします。つまり、他人の褌で相撲を取りながら、その土俵を否定してみせるようなポーズ。ハンパもんですよね。私、コンヴィチュニーもそうなんだけど、こういうの大っ嫌いなんですよ。そんなことほざくなら、手前独自の表現を作り出してみろと。自分だけのオリジナルの表現を捻り出してみろと。それが出来ないから、「現代音楽」の系譜に連なる聞き慣れない音を連ねるという、それこそ同じように手垢の付いた手法をちょっと捻った程度で音楽作ってるんじゃないの、と。別にそれが特別おかしいとは言わない。大体が、皆そんなもんですよ。クラシック音楽の過去大勢いる作曲家だって、全く何もないところから空前絶後のものを作った人なんていない。だから、それは問題じゃない。だからこそ、なら、他人を貶めて音楽を名乗るなよ、と。いや、数億歩譲っても、それを全く違うフォーマットでやるのならまだしも、自分が貶めてるものそのものを育むフォーマットに乗っかるのは、それは批評ではなくてただ卑怯なだけでしょうよ。たとえ作ってる音楽が多少いい評価を受けているとしても、こういう作品の作り方をする人間を私は同時代の人間として評価しません。創造者として、その一点で私は軽蔑します。 コンヴィチュニーの話が出たので、演出について一言申し上げておくと、この作品自体は新作なので、演出は何をやってもそれが原案、ということになります。演出自体は、映像と鏡を多用することで、ビジュアル的にはかなりトリッキーなものにはなっていますが、元々SFですしね。それ自体はいいんじゃないかと思います。 さて。いろいろ言いましたが、じゃぁ、この作品、後世に残るものかというと.....どうでしょうね。 決して意味の無い作品だとは思いませんが、ただ、今この時だから意味があるように受け止められる部分はあるだろうけれど、長く再演されるようなものになるかどうか。音楽としては今となっては割と聞き覚えのあるようなものと、スパイシーだがエスニックではないような丁度良い塩梅との組み合わせなので、それほど抵抗感なく聞いてもらえる気はしますが...... まぁ、いいか。私には関係ないか。
2020年11月19日
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すみだトリフォニーホール 14:00〜 3階正面 メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」序曲 op.21 ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64 ヴァイオリン:木嶋真優 新日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:大友直人 ウィーン・フィルに行く前に、新日のチケットが出ていまして。ああ、行けるなぁ、と思ってフラフラと前半だけでもと思って行ってしまったのでした。暫く新日も聞いてないし、今はそれほど好きなオケではないけれど、このタイミングで空いてるんだったら、まぁ行ってもいいかなと。 そこそこお客は入ってましたが、敢えて空けるようにはしていないものの、6割、よくて7割の入りでしょうか。定常運行といえば定常運行ですかね.....多分、この感じだとそうでもないのだろうけれども。 後半はドヴォルザークの新世界。アンコールに8番の第3楽章をやったらしいです。 で、聞いた前半ですが、まぁ、素直によかったですよ。そう言っちゃぁなんだけれども、後で聞いたウィーンフィルとは、敢えて言えば次元が違う。そんなに凄く良い音を鳴らしてるというようなわけではないですよ。勿論。フレージングだって、そりゃぁまぁあっちの方が上手でしょうね。でも、この日の新日は、久々に聞いたけれど、力み返ることもなく、自然なフレージングで、普通にきちんとした演奏を聞かせていました。最近の新日としては随分良い演奏。大友直人の教導も宜しかったのでしょうね。 ヴァイオリンの木嶋真優は、前に何処かで聞いていたか、あまり記憶にはないですが、こちらもまぁ言えば素直な演奏。言ってみれば、新日共々素直な演奏です。毒に満ちたといったタイプの演奏ではないですね。でも、外連味のない、半ば古典派であるかのようなメンデルスゾーン。だけれど、それはそれで落ち着いていて、説得力のある演奏だったと思います。こういう音楽ですよ、というのが、むしろ明晰に示されていたといっても良いかも知れない。 久々に、アルミンク時代を思い出しました。新日はあの頃も外連味が出したくてたまらない感じだったのを、アルミンクが躾けてた感じだったのだけど、震災のいざこざでアルミンクを廃してから、まぁ、どんどん落ちたと思います。あの頃アルミンクは結構古典をやらせていて、それは間違いなくオーケストラの訓練になっていたと思うのだけれど、その後ハーディングを音楽監督にしつつ、あまりケアされないままに、上岡でやりたいことしかやらなくなって、硬い音のフォルテとフォルティッシモしかないような音楽になってしまって........今は亡きブリュッヘンもいろいろやってくれたのに、その経験も今はどこへ、という感じでしたが、今回は昔のように丁寧な演奏だったと思います。まぁ、後半聞いてないので、あくまで前半だけ聞いた限りでは、ですが....
2020年11月18日
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承前、ということになります。続き。 ある種の結論めいたことだけ言ってしまうとですね、今回のゲルギエフ指揮のウィーン・フィルの演奏会で、少なくとも私が聞いた回では、私は、なるほどこれは聞いてよかったと思うだけの「表現」を聞き取れなかった、ということになります。その点についてはどのように言って貰っても構わないと思います。お前に理解力が無いからだ、聞き取る耳がないのだ、ちゃんとそういうものはあった、安い席で聞いてるからだ(いや相対的には安い席なのは認めるけど十分高いぜ?あのチケット代...<これは愚痴)、どう言われてもしょうがないと思います。 でも。ざっと眺めて、ブログで書いてるような人(Twitterはあまりに短いから敢えて申しませんが)の大半、そんなに見た訳ではないけれど十中八九の大きい方くらいの勢いで、音とか技術のことは書くけれど、表現とその内容について触れる人が斯くも少ないのはどういうことなんだろう? 「表現なんてものをこの演奏会で求めてる奴はいないんだよ」と言われたら、まぁ、それはそれで分からなくはないけれど、「何言われてもしょうがない」というのとはちょっと違う次元で、いや、そうなの?と思うんですよね。 私はたまさか新型コロナで生計が成り立たなくなるような仕事ではなかったし、危険を顧みず従事しなきゃいけないという類の仕事でもないので、まぁ、お気楽なものですけれども、今の世の中というのは、比較的流行が穏やかである日本であっても、それなりにいつも通りの生活を送るというのが何某か難しくなっているのだと思います。 どうもそれを「マスクをしなければいけない」とか「ソーシャルディスタンスを取る」とか、そういう不自由である、というように落とし込んでいる人が割といるようですけれど、そういう皮相的な問題ではなくて、如何に少なく見えても今までなかったリスクがある、それも、何がどうリスクなのか、他に比べるとあまりに計算出来ない、という問題がある訳です。 本来言いたいことではないけれど、もう少しこの点を説明すると、問題は、「計算出来ない」という点にあるんですね。先に言ってしまうと、この問題は恐らく数年の内に、ひょっとするともっと早く、解消すると期待出来ると思います。でも、今時点では計算不能なんです。どういうことかというと、例えば、新型コロナをインフルエンザや交通事故と比較する人がいます。その計算と比較がどうであるかというのは一旦脇に置きますが、問題は、インフルエンザや交通事故を我々は「知っている」のですね。つまり、これまで生活して来ている中で、インフルエンザというものがどの程度危険なものか、知っている。だから、罹患したらどうなるかを知っているし、最近は直接効く薬もあるから、どうにかなるだろうと計算する。だから、極端に警戒する必要がなくても、深刻なリスクは無視していいだろう、と考えるんですね。実際の死亡率はそれほど低くなくても、なんとかなるんじゃないかと思える。交通事故も、日々暮らしている中で、交通事故に遭う確率というのはそれほど高くないんじゃないか、と考えられるし、何処が危ない、こういうところが危ない、と考える人であればあるほど、ポイントを抑えて気を付けることが出来る。だから、それらは計算出来る、と考えることが出来るわけです。よく言われることですが、飛行機事故に遭う確率は、交通事故に遭う確率よりも余程低い、だから安全だ、と言われるけれど、でも、飛行機事故を恐れて、保険にわざわざ入る人はいる。あれを笑うことは簡単だけれど、見方を変えれば、「計算出来ないリスク」の高さを考えた時に、そうは言っても、これはリスクが高い、と考える人はいるのだと思います。 これがより大規模で起きているのが、今の新型コロナを巡る状況なのだと思います。 近代社会というのは、いろんなことを予測可能にすることで発展して来たという面は否めないと思います。そもそも多くの文明は農業と共に発展して来たわけですが、農業というのは、将来のリスクを如何に減少させるか、という思想を伴っていますので、その延長線上にいる近代社会も基本はリスクを無力化する方向性を内在していると考えていいと思います。 ところが、新型コロナというのは、このリスクが無力化出来ない。「死亡率が大したことない」とかいう人はいますが、問題はそうではない。交通事故より確率は低いと納得しているならば、飛行機を怖がるのは非合理的ですが、「いざ遭遇したら生き残れない確率は高い」というように考えたなら、それを怖がるのは合理的なのです。新型コロナに罹患する確率が如何に少なく見えても、どうすれば回避可能か、いざ罹患したらどうなるか、そのメカニズムもはっきりしないとなると、このリスクは計算し切れない、と考えることには合理性があるのです。それが、特に飛行機を乗るといったことでなく、普段の生活で、予測が難しいリスクを抱えるから問題なんですね。 その意味で我々は社会的に不安定な状況にある。近代社会としては毀損していると言ってもいい。 今、そういう情勢下にある中で、気晴らしだとか、癒しとかいうのは、まぁ、意味はないとは言いませんが、敢えて言えば社会に対して無力なんだと思います。個々人にとってはそれで慰みになるというのはあるでしょう。でも、それは、所詮一過性のものに過ぎない。そうではない、何かを働き掛けるようなものが求められるのだと思うのです。なかなか上手く言えないのだけれど、そうしたものが、表現というものだと思うのですね。それは時に優しくなく、攻撃的であることさえあり得るけれど、社会が毀損しているような時こそ、社会とは何か、人間とは何か、みたいなものを問い掛け、突き付けるような表現が求められるのだと思うのです。 でも、そんなもの求めてない、サウンド的なもので評価するのはいいんだけれど、それでしか評価し得ない聞き方というのは、なんだろうな、と思わなくはないんですよね。その先にある表現というものがあるという前提があってこそ、音楽というものに意味がある....というのは古い考え方なのかも知れませんが、私は、そういう聞き方だけで何万円も突っ込む気はしないんですよね。いや、そんな高額なのでなくても、ただのサウンドとして聞くのなら、生で聞く必要だって無いと思うんですよね。 表現としての何かを聞くのに生で聞く必要はない、サウンドの方がむしろ生で聞く方が意味がある、という考え方も勿論あるのですけれども、でも、本来はどっちかという話ではないので、両方あるような音楽こそが聞きたいものだと思うんですよね。
2020年11月17日
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まぁ、しつこくウィーン・フィルの話から始まるんですけれども.... 今回久々に他人のブログを見て回ったりしたのだけれども、そんなに徹底的に網羅した訳ではないんですが、見ていて改めて思ったのは、皆さん書かれる内容が、まぁ、なんというか、主観的なんですよね。つまりは私が書き散らしているのとそう大差無いってことなんですが、「綺麗だった」「響きがいい」「素晴らしかった」くらいでほぼ表現が終わってしまうというか.....いや、私とそう変わらないんだな、と思っただけなんですがね。唯一、東条さん、まぁこの方は音楽評論を生業としてらっしゃる方(だと思ってるんですけれども)なので、流石に短くともポイントを突いて書かれてらっしゃる。私もこういう文章書きたいものだなぁと思ったりするのですが、それはさておき、普通の人はねぇ.... 別に「俺の方がえらい」とか言ってる訳では無いですよ。ただ、やっぱり、音の話がメインになっちゃうんですよね。「悲愴」ですらサウンド的な面の話か、さもなければ「自分が如何に感動したか」という話になっちゃう。 まぁ、それでもいいのかも知れないけれど。個人のブログだし。でも、皆殆どそういう話になってしまうというのは、引っ掛かるんですよね。 インターネットが普及し始めたのが25年前。そう、今度の勤労感謝の日あたりでWindows95発売25周年なんですけれども、その数年後からネット上でのBBSとかが普及し始めて、皆いろんなことを書き込むようになって。その前にはパソコン通信があったし、BBSのあとはブログ、その先はSNSになるんですかね。FacebookやTwitterじゃ何処まで書けるものか、という気はするんだけれど、まぁ私の中ではこの手の話はブログ止まりなんですが。Twitterとか見ていても100字で終わっちゃうくらいの内容ばっかりですしね。そんなに書けないし。 その変遷の中で、特に今回改めて感じたのが、世の中存外「サウンド」だけで聴いてる感じの人が増えたのかな、ということ。少なくとも日本ではそういう変化はあったと思います。 30年くらい前の話で言えば、クラシック音楽は「内容」で聞くもの、というのが定番だったんですよね。今でもフルトヴェングラーとか大好きな人達いるじゃないですか。モノラルの古い録音で聞いて「凄い精神性だ...!」とか言ってるタイプの人達。いや、強いて言えば、私もどちらかというとそちら側の人間なんですけれどね。デル・モナコがー、タリアヴィーニがー、とか、未だに言ってるわけだし。まぁ、歌物はちょっと違うぜよ、とは思ってはいるけれど。 ただ、30年前の1990年時点だと、まともに聞ける録音が1900年以降、本音ではせめて電気録音以降、まぁ、1930年頃、とすると、過去60年くらいの遺産、うちステレオ録音だと1960年頃からと考えれば、モノラルとステレオと丁度30年づつだったんですね。今から考えると、その頃既に切り替わっていたデジタル録音時代が更に30年とすれば、もうモノラルなんて半世紀以上前の話ですが、その頃は未だ全然録音の歴史は浅かったし、だから、古い録音が意味も価値もあるものとして、サウンド面で目を瞑って聞く意味は十分あったんですね。 いわば、音楽はサウンドだけじゃない、という時代。言い換えれば、サウンドが、特にアコースティックな意味で、まだ貧弱だった時代、でもあります。 サントリーホールが開館したのが1986年。私の好きなオーチャードホールが1989年。割とどうでもいい東京芸術劇場が1990年。それまでは、めぼしいクラシックのコンサート会場って、東京文化会館、三軒茶屋の人見記念講堂、郵便貯金会館とか、オペラだったら日生劇場もある、とか、そんな感じだったと覚えています。キャスリーン・バトルも、リヒテルも、ブレンデルも、人見記念講堂だったなぁと。一昨年くらいに久々に行ったら「こんな感じだったのか....」とちょっと驚きましたけれども。 私自身20年くらい前はよく「響きの問題」っていうのを言っていた覚えがあります。サントリーホールとか私は嫌いで、響き過ぎだと思っていて、日本だったらオーチャードくらいがいい。あれは響かなさすぎるというのは、言い換えると、それだけ演奏が貧弱だからだと思ってるんですけれども。あ、余談ながら、今回のウィーン・フィルの公演、オーチャードでやったらサウンド的にはヘロヘロだったかもですよ。北九州と大阪は知らないけど、ミューザとサントリーは風呂場どころから風呂桶ですからね.... で、20年くらい前に「響きの問題」っていうことを言っていたのは、その頃は、まだ、「内容」とか「精神性」とかいうことを盛んに言う人が多かったんですね。言い換えると、「それがどう聞こえているのか」「どう響いているのか」ということをあまりに触れずに通る人が多かった。一方で、そもそもオケものはあとから聞いてきた私のような人間は、それが不思議でならなかったんですね。私、ドイツリートから聞き始めて、ピアノ聴いて、室内楽聴いて、並行してオペラ聞いて....で、オーケストラ聞いてなるほどと思うようになったのは結構経ってから、というような人ですから。 ただ、高い金払って「サウンド」を楽しむという感覚では、まぁ、なかったですね。そこまで、そう言っていいのか分からないけれど、享楽的に思えるような聞き方はしてなかったなと。ただ、どう聞こえるか、その聞こえはどうだろうか、実際の空間で響いた時それはどう聞こえるのか、ということを無視していうのもおかしかろう、と思ってたのは確かです。それしか聞き方が分からなかったから、というのもあったろうし。それが、まぁ、やっぱり生で聞きたいよね、というのにも繋がったわけですが。 今更ながら思い返してみるに、いつ頃からか、多分今世紀に入ってからなんですが、サウンドというものについて随分脚光が当たっている気はするんですね。ちょっとここまでごっちゃにしているんだけれど、要は、以前はサウンドについて拘るというのは、オーディオ分野では少なからずあったけれど、ややマニアックな世界ではあったし、生演奏に関してサウンドに強く拘るということはなかったと思うんです。それが、いつの間にか、むしろサウンド重視くらいの勢いで、もっと言えばサウンドを聞くような聞き方が強く出ているんじゃないかなという気がしたんですね。 いや、それ自体は決して間違ってはいないと思います。多分私だってそういう傾向はあるだろうし。 ただ、それってつまり、こう言っちゃぁなんですが、官能に訴えている、ということですよね。 つまり、今回のウィーン・フィルに限らず、生で演奏を聞く、具体的なある特定の空間に於いて、ある特定の時間に鳴らされる音を聞く、ということで、自らの官能を楽しませる、ということなんですよね。それは、まぁ、わかるんだけれど.......それって、そうまでしてしたいことなの? いや、したいんですよ。やってる当人が言うんだもの。それは、やっぱり、そんな風に音楽聞きたいんだとは思いますよ。でも、そうだとして、それってそんなにまでしてそうしたいものなの?そして、クラシック音楽ってそういうものなの?これは、この「新型コロナ下で」という話では、まぁ、ありますが。 要するにね。サウンドとして官能に訴えかけるものを楽しみたい、っていうのは、実は、風俗行きたいっていうのと大差無いです。いや、本当にそうなんですよ。ただ、風俗というのはよりいかがわしさが増しているように見えて、かつ、犯罪であるとか人権問題であるとかに関わっていそうだとか、そういう問題があって、結構嫌われているというだけの話であって。まぁ、もっと穏やかなところで言えば食べ飲み放題に行って好きなだけ飲み食いしようっていうのと基本的に変わらないと思います。 いや、そういうものであって構わないんですよ?くどいようだけど。その一方で、安直に、何かを支える的なことを言ってみればいいんだよね、というよりはよっぽど正直だったりすると思います。 でも、私は、音楽というもの、少なくともクラシック音楽というものは、確かに官能に訴え掛けるようなサウンドを享受するのも一つの意味ではあるけれど、他方ではある種の表現でもあるのだ、という側面を無視出来ないのではないかと思っています。 勿論、これは多分に19世紀以降、音楽で言えばロマン派以降の発想を含んだ見方であることに間違いはありません。それでも、18世紀以前だって、宗教音楽はその音楽を以て何某か宗教的な考え、思いを表現することを目的にしてはいるし、18世紀以前の音楽に於いては宗教というものが大きなウエイトを占めていたと考えれば、それ以外の音楽にしても、その表現に何某かの影響を及ぼしているのは確かだと思います。そしてまた、それを選び取って演奏する演奏家の「表現」というものもやはり問われるのだと思います。 いや、別にいいんですよ。そんな小難しい話はなくっても。でも、ただ単にサウンドを浴びてるだけだとしたら、それは結局なんだっていいんじゃないかと思うんですよ。それこそ生である必要はないし、誰が演奏したっていいんじゃないかと思うんですね。 我が身にひきかえって言えば、上手なウィーン・フィルの数万円の演奏だと納得が行かなくて、それほどじゃない日本のオケの数千円の演奏だと納得が行く、というのは、こう書くと明らかにおかしな話に見えます。事実、シチュエーションが違えば、私は前者に、同じレベルの演奏で、それなりに納得すると思いますから。下世話な話、金の問題に過ぎないのかも知れない。 でも、やっぱり、私は、そういうところで完結しない気がするんですよね。 続けると長くなりそうなので、半端ですが、一旦切ろうと思います.....
2020年11月16日
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サントリーホール 16:00〜 2階右側 ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲 交響詩「海」〜3つの交響的スケッチ〜 ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」(1910年版 全曲) <アンコール> ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:ワレリー・ゲルギエフ はい。例によって、あまりいいこと書かないと思います。あくまで個人の趣味に於いて。かつ、演奏がそんなに悪くなかったと言えばまぁそうなので、今日の演奏含め、今回のウィーン・フィルの公演が良かったと思われる方は、別に読まなくてもいいと思います。はい。なので、ちょっと空けましょうね...... ......この辺でいいかな。 さて。 まず、先週の公演よりは、今日の方が概ね出来は良かったと思います。 なんというか、アーティキュレーションが丁寧で、「抜けた」感じが少ない、というと失礼かも知れませんが、そんな感じです。結果、より充実した響きにはなっていたと思います。ただ、「海」のクライマックスのフォルティッシモであるとか、「火の鳥」のクライマックスのフォルティッシッシモであるとか、そういうところは確かに充実してはいたのですが、まぁ、そういう部分は、ということですね。そして、それは確かに良かったけれど、圧倒的といったものではないかなと。 いや、確かに、それ自体は決して悪くはないんですよ。でも、ねぇ。 昨今、「日本のオケはウィーン・フィルやベルリン・フィルと遜色ない」とかそうじゃないとか言う人がいるけれど、こういう演奏を聞いて言ってるんじゃないかな、という気がします。確かに、この演奏を聞くと、なるほど日本のオケなんかの演奏に比べて、いいにはいいんだけれど、なんというか地続きの良さ、みたいに聞こえてしまうんですよね、きっと。確かにちょっと頭抜けていそうな瞬間は、クライマックスにはあるんだけれど、こういう聞こえ方だと、そりゃぁ、まぁ、ねぇ..... なんといいますかね。やっぱり、全体的に、なんだろうなこれは、今聞きたいのはこれじゃない、という感じではあります。 そう。確かに、今日の演奏は皆それなりにいい演奏ではあります。でも、今日、ここでなければ絶対聞けないものか、と言われると、そうでもないんですよ。ドビュッシーにしても、ストラヴィンスキーにしても、例えば、こういうサウンドだったら、他のオケでも出来るとは思うんですよ。それこそうっかりするとN響とか東フィルとかでもね。勿論、この演目を通じてこのレベルでやり切る、というのは難しいかも知れないけれど、このレベルに達する瞬間は期待出来る。そしてそのレベルの録音は十分見つかるし、今日の演奏が、その意味で、録音されたものを圧倒するような何かがあったかと言われると、そうでもない。 いや、決して悪くないですよ。でも、くどいようだけれど、今、この瞬間に、これをやりたくてわざわざやってきたの? そして、もう一つ。この、ゲルギエフとウィーン・フィルの演奏には、ある種の「毒」が足りないんですね。 或いは狂気と言ってもいいですが。 確認したら、私、11年前にゲルギエフをN響との組み合わせで、聞いてるんですね。「悲愴」で。当時は、禁欲的で細部にまで神経が行き届いた演奏、だったらしいのですが、思い返してみても、今回はちょっとそういう感じではなかったなぁ、むしろ「凡庸」だったなぁ、と思うのです。 で、今、わざわざやってきてやる音楽が、これなのかと。それは今日の演奏でも感じました。それなりによくはある。でも、これなの?という。 なんというか..... クラシック音楽に何を求めるのか、という問題は常にあると思います。前回も書いたけれど、ある種の気晴らし、楽しみとして、ウィーン・フィルの響きを楽しむ、というのであれば、それはそれでいいのだろうとは思います。でも、そういう「消費される音楽」ではなくて、何某か芸術というか、表現としての音楽とかいうようなものを考えるならば、やはりそれでは済まない気がするんですね。 そもそも変更の無かった今回のプログラム、今日は、ドビュッシーとストラヴィンスキー。でも、この選曲には、なんというか、毒とか狂気といった要素が希薄なんですよね。いや、「海」とか、そういう要素が皆無ではないけれど、でも、今日の演奏はそこまででは無かったし、「火の鳥」は、ストラヴィンスキーのバレエ作品としては、一番毒が無い。「春の祭典」とか「ペトルーシュカ」と比べて考えれば、ですが。 別に、苦悩してる音楽の方がえらい、毒のある音楽、狂気のある音楽の方がえらい、とはいいません。でも、この状況下でわざわざやってきて、あまり毒のない音楽を、あまり毒のない演奏で聞かせることにどんな意味があるのだろう、と思ってしまうんですよね。 じゃぁどんな音楽がいいんだ、何をやれというのか、と言われても、正直、ゲルギエフには少なからずがっかりなのですが、例えば「ラ・ヴァルス」とか、まぁやらないとは思うんだけどね、あとは、例えばロシアものならばショスタコーヴィチとかかなぁ.... 「悲愴」は決してつまらない曲ではないです。でも、それなりに手垢の付いてしまった、それも「劇的表現」というかロマンチックな方向で手垢のついてしまった曲ではあるので、そこで何を表現するのか、はちょっと難しいとは思います。でも、ねぇ.... 端的に言って仕舞えば、今回の演奏会は、消費される音楽としてはそれなりだけれど、「表現」としてはどうだったんだろう、というところなのだと思います。 これを今無理してやる必要あったの?というね。言ってしまえば、これは何某かの表現という意味での芸術であったのかといえば、疑問符が付きます。感動するのは勝手だけどさ。何に感動したのかね。 それで皆楽しんだんだからいいじゃないか、という言い方はあるでしょう。それは否定はしない。 でもねぇ。 今回、色々見ている中で、業界の人だと思いますが、"これで前例が出来たから、演奏会に行くのを躊躇している人達も出て来るだろう。これで一安心"というような趣旨のことを書いているのがありました。Twitterだったかな。 随分人を馬鹿にした話だし、バカな話だと思います。昨日に続いて今日も日本の新規感染者は最多更新して1,739人。東京は352人で、ここ数日は300人台が続いている。そんな中で、「演奏会に出てくればいい」というのは、そりゃあんた興行としてはそうでしょうよ。演奏会をやらなきゃ死ぬ?そうでしょうよ。でも、こういう状況下で出て来るだろう、というのは、端的に言えば自分の飯の種の為にお前らリスクを取れ、と言っているに等しい。 いや、勿論このリスクは非対称である。その言葉を責められぬという考えも理解します。でも、その言葉を吐く方に、失礼ながらその悩みも何も感じないのですね。こういう連中を養ってやるのか(いや私の出してるチケット代なんぞでは養われてねーよ、というところではありますが)、と思うと、その内省の無さに腹立たしくもあります。 今、在京各オーケストラが挙って年末の第九を売りに出してます。結局幾つか買ってしまっているのですが、まぁ、これなんて確かに「音楽を消費する」典型みたいなものですがね。そのチケット代、皆が皆ではないのでしょうけれど、確か例年よりは上がってるんですよね。皆、苦しんでるし、どうすればいいのか迷ってると思います。N響は1席開けの配置らしいし。 なんか、今回のウィーン・フィルの演奏会は、いろいろ幻滅した、というと言い過ぎなのだけれど、ドン引きしたくらいのところではあります。なんというか、皆浮世離れし過ぎてるんじゃないの?というような、ね。そして、その浮世離れしたところが、表現としての音楽から遠いところにあるような気がしてしまうので、救いようがないのかな、という気になってしまうのです。 悪い演奏ではないんですよ。決して。だからこそ、救いがないのかな、と。 最近言わなくなりましたが、昔はよく「オペラハウスの来日公演の類はあれは文化と言えるのか」と言っていたのですが、結局、これも、同じことなんですよね。
2020年11月15日
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…だそうです。 5月の2公演来日予定がキャンセルになって、1月初め、松の内にやるというのだったけれど、結局キャンセル… そもそもヒューイットは、最近、愛機のファツィオリが壊れて再生不能になった、というような話も確かあったので、不思議はないんですが… まぁ、不思議ではないですね。不思議ではない。ないけれど、我が事ながら、結構残念だったな、なんならウィーンフィルなんかより聞きたかったな、と思ってる自分がいたことですかね… まぁ、そういう趣味なんですよ、きっと。 そういえば、ウィーン・フィル、ツイッターでもブログでも絶賛の嵐で、というほど沢山でもないけれど、私みたいな天邪鬼は殆どいないようですが、しかし、大半の人が音、響きを褒めるんですね… まぁ、わかるんだけど……わかるんだけどね…………
2020年11月11日
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ミューザ川崎シンフォニーホール 17:00〜 ピット席 プロコフィエフ:バレエ組曲「ロメオとジュリエット」op.64a, b 組曲第2番〜第1曲「モンタギュー家とキャピュレット家」、第2曲「少女ジュリエット」 組曲第1番〜第5曲「仮面」 組曲第2番〜第7曲「ジュリエットの墓の前のロメオ」 ピアノ協奏曲第2番 ト短調 op.16 <独奏アンコール> チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 op.74「悲愴」 <アンコール> ピアノ:デニス・マツーエフ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:ワレリー・ゲルギエフ あのですね。正直、今日これを聞いて幸せな心持ちの人とか、これから聞こうと楽しみにしている人とか、そういう人はこんな記事敢えて読むことないと思います。全く個人的な、それもおそらくは偏った感想としてにせよ、そんないいこと書いてないですし。それと、気になる人に向けて書いておくと、これはアリバイ造りでもなんでもなく、本音として、公平に言って決して悪い演奏ではなかったですから。いい演奏だったと言ってもおかしくはない。これ聞いて感動したんだったら、それは決して間違いではないです。 で、以下、ごく個人的な感想ですがね。 のっけから言い訳しておこうと思うのですが、私、この公演ともう1公演チケット買ってるのですが、買ったのは今年の春先です。コロナっていうのが大変なことになっててね、から、東京湾の屋形船で感染が広がったの、横浜でクルーズ船で患者が大量発生しただの、こりゃ大変だ、って言い始めて、その頃には欧州でも感染が拡がって、ロックダウンとか言い出して、こりゃ夏は欧州とか行けなさそうだなぁ、と言っていた頃。 その時は、最近毎年行ってる夏の音楽祭巡りも無理そうだから、そちらは早々に諦めて、その代わりに秋のウィーン・フィルの来日があるから買っておこう、と考えたんですね。正直、演目も指揮者もどうよ、という感じではあったけれど、でも、夏に行けないなら、買っておこうか、と。このプログラムでも、秋にはある程度収まって、来日出来るような状況だったら、こういうのも今年は悪くないだろう、てな心算だったんですね。 で、今日に至る、と。 今NHK教育で、ベートーヴェンの交響曲を日本各地のオーケストラが演奏したのを放送するシリーズをやっていまして、今は九州交響楽団が小泉和裕の指揮で第4番を演奏している。演奏がどうこうではないんですが、TV なので当たり前ですが映像が付いていて客席が映るのですが、いわゆる一席づつの千鳥配置で、まぁ、見た目ガラガラです。2階はお客いるんかな?という感じにしか見えないのは、暗いからかも知れませんが。実際の演奏は少し前だと思いますから、いわゆる国の規制の解除前なんだろうと思いますけれども。 実は今日この演奏会を聞く前に、知り合いのアマチュアオケの手伝いをしてきました。そこそこいいホールなのですが、ここでも千鳥配席で、定員の半分くらい。それも全然埋まらず。皆、まだ来るのに躊躇したりするんでしょうね。やってる方も、こんなところでクラスターでも起きたら大変ですから、そりゃもう限界体制です。検温して、消毒してもらって..... まだ、世界は壊れたままなんだと思います。概念としてでなく、現実として。これがニューノーマルだなんて思いはしませんが、やっぱりもう少し時間は掛かるもんだと思うんですね。 ウィーン・フィルがどうだとかいうのは一旦措くとして、私はゲルギエフは派手だけどそんなに凄い指揮者って訳じゃないよなぁ、と思っています。言ってみれば、結局は生で聞いたことないけれど、「芸術性のないカラヤン」みたいなもんかなぁと。(あ、カラヤンに芸術性があるのか?という方に対しては、カラヤンのオペラの録音、特にイタリアオペラのそれをきちんと聞いてみられることをお勧め致します。まぁ、大体がそういう人はそもそもイタリアオペラみたいな高尚なもんはわからないか...)ただ、ゲルギエフの演奏は、相応に派手ではありますね。だから、聞けば聞いたなりに面白くはあると思います。 とはいうものの、今回のプログラムを見れば、まぁ、お察し下さい、というものだとは思います。いや、決して悪いとは言いませんよ。実際私だってこれ見て、ゲルギエフだよなぁ、と分かった上で買ってますもの。何かの代償として買っているという側面はあるものの、まぁ、ウィーン・フィルが来られる状況になるまではきっと色々大変だよなぁ、というのに対する、自分への慰労みたいなもののつもりだったんですよね。だから、ゲルギエフで、このプログラムでも、まぁいいか、と思ったんですけれども.... とてもね。慰労するような環境ではないと思うんですよ。 昨日の東京だって300人近く新たに感染者が出ている。今日は日曜で概ね少なめになる日だけれど、189人。それだけでなく、北海道では100人台がこのところ続いてしまっている。欧州では再ロックダウンへの動きが進んでいる。アメリカでは1日の新たな感染者数が10万人になっている。日本とアメリカじゃえらい違いですが、でも、どのみち到底落ち着いてるとはいえない。 人によって考え方はあろうかと思います。でも、私は、こういう中で、とても落ち着いて楽しみとしての音楽を消費する気にはなれない。いや、音楽は勿論聞きます。でも、こんな中で、ウィーン・フィルにわざわざ渡航してもらって、何を聞くのか。わざわざ日本までやってきて、何を演奏するのか。その答えが、「そのままのプログラムを演奏します」なんですよね。 敢えて言いますが、ゲルギエフで、このプログラムでは、どうしたって「消費される音楽」「気晴らしの音楽」にしかならないと思うんですよね。音楽として芸術性がないとは言わない。でも、このプログラムが、プロコフィエフとチャイコフスキーが、今この状況下でやるべき音楽なのか?もうちょっと正確にいうと、ただの、言ってしまえば気晴らしとして消費されるための音楽以上の何かになり得るのか? 冒頭申し上げた通り、聞いた上での個人の感想としては、気晴らしに聞いて楽しい演奏ではありました。消費される音楽としては。でも、今私が聞きたいのは、それじゃない。しかも、それ以上のものになるポテンシャルだって全くないではない筈なのに..... ウィーン・フィルは大して上手くない、という人がいます。一方では、今時ウィーン・フィル並に上手い日本のオーケストラは色々ある、みたいなことをいう人もいます。私はどっちも違うと思っています。ウィーン・フィルはウィーン・フィルとしてユニーク且つよく言われるのとは全く別の次元で上手であって、その特質はやはり音の良さのポテンシャルだと思っています。で、ゲルギエフは正直言って政治力はあっても芸術性には乏しいと思うけれども、ただ、オケを鳴らすという意味でのポテンシャルはそれなりにあるのでしょう。 でも、率直に言うと、今日のウィーン・フィルは、それほどじゃなかった。下手だとは言いませんよ。ロメオとジュリエットの冒頭とか、或いは悲愴の3楽章や4楽章、流石に弦がちょっといいなと思う瞬間はあって、それはそうそう聞けるものではないし、アベレージでは良かったと思います。 でも、この何年か、ザルツブルクの祝祭大劇場で演奏会を聞き、ついでにオペラ公演でも聞いたりしている身からすると、お前らふざけてんのか、くらいには思うんですよね。正直、ザルツブルクでだって、あれは夏ですから、そんなに本気出してないだろ、とはよく言われるし、そもそもウィーン・フィルの本気って何よ、と言う話はあります。そう言う意味で私は本気のウィーン・フィルなんてろくすっぽ聞いたことないのかも知れない。でも、知る限り、ザルツブルクの祝祭大劇場でやってる時は、こんなもんじゃないくらいに本気で鳴らしに掛かるんですよね、あいつら。 いや、ウィーン・フィルだって調子の良し悪しがあるのは当たり前です。でも、君ら、オーストリア政府の肝煎りで、わざわざ無理を押してやってきたんでしょう?こんな状況下で。それでプログラムも変えずこの内容で、この演奏なの? 本気出せよと。せめてザルツブルクの祝祭大劇場でやるのと同じくらいの本気で弾いてみろと。やる気が出ないんだったら、帰れ、と、結構本気で思うんですよね。 今日、偶々会場で耳にした会話だけれど、「密だよねぇ。野球だってここまで密にしてないのに」と言ってる人がいました。前述の通り、日本のオーケストラだって、おっかなびっくりです。アマチュアなんて尚のこと。そんな中で、この公演は、この状況下で、わざわざこの数週間でチケット追加販売して、満員にして、やってるんですよね。 はっきり言いますけど、私、少なくとも1公演は、払い戻し出来るなら払い戻したかったです。別に売ったっていいんだけど、そう言うのはちょっと嫌なので、やらないんですが。(だから売ってくれって言われても売りません。念の為)でも、強行する、払い戻しはないと言うので、行きましたが、演奏内容は予想通りでした。状況が期待通りだったなら、これはこれで「まぁこんなもんだよね」と思いつつ楽しんでおわったと思います。でも、今は、これじゃない。 八つ当たりみたいなもんですが、この状況下でわざわざ追加販売で買ってやってきた人達は、何を期待したんでしょうね。満足して帰ったのかな。私だったら、このタイミングでだったら、きっと買ってないと思うので、なんとも言えないんですけれども。ただ、これをわざわざ買って来た人達は、6月以降の日本のオケや演奏家の公演に通ってるのかしら?行かなきゃ行けないわけではないけれど、決して満席ではない演奏会を日々見るにつけ、そんな風にも思ってしまうのです。何を聞きにきたの?と。そして、何を演奏しにきたの?と。 会場でさ、Bravoって書いた幕とか出してる人とかいたけれど、どうしてあんなことする気になれるんだろうな、と思いながら見てました。全く気持ちがわからない、とは言わないけれど、想像は付かないではないけれど、もう感性が違い過ぎるんだろうな、と...... なに、言ってる当人だって、結局のところ行ってるんだから、そんな立派なもんじゃないです。 でも、はっきり言って、今聞きたいのはこういう音楽、こういう演奏じゃない。こういう音楽だとして、なるほどわざわざ来たほどのことはある、と思わせるような、「その先」を聞かせるような演奏をしてほしいと思うのです。これだったら、俺ぁ東フィルでも東響だって構わないから、この半分のチケット代でもそっちに使ってあげたかったよ.....彼らはここまで出来ないかも知れないけれど、でも、このくらいの演奏だったら、今聞かなくてもよかったもの...... 今更払い戻しをする訳でもないだろうから、今日はまだ時差ボケだった、ということにしておきましょう。次はないよ.....そして、呼び屋たるサントリーは二度と「文化」みたいなことを口走るな、お前らにその資格はない、と思うのであります.....
2020年11月08日
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ウィーンで銃撃、4人死亡 「イスラム過激派のテロ」と断定 https://www.jiji.com/jc/article?k=2020110300185&g=int 考え方もいろいろあるとは思います。ただ、ウィーンというところは、組織立ったテロの標的にはなってこなかったところだった筈です。オーストリアという国自体が永世中立国であるというのが一つ。主要国で永世中立が認められているのはスイスとオーストリアの2国くらいで、特に東側の社会主義陣営が崩壊するまでは東西の窓口にもなっていた訳です。それ故に、ウィーンには国際機関が本拠を置いていたりする訳で、なので、パレスチナ紛争がイスラム絡みの主要問題だった頃も、この国はテロの標的にはなってこなかった筈です。今は、EUに加盟しているので永世中立も形骸化している、と見る向きもあるそうですが、それにしても中立国としての実績はあった訳で。そのオーストリアのウィーンが、テロに遭った。 報道によると、シナゴーグの界隈を中心に数カ所で銃撃が行われたそうで、地図が出てましたが、シュテファン大聖堂から北側、シュヴェーデンプラッツの方に向かう周辺のようで、それは確かにリングの中、ウィーンの中心部。若干観光客は少なめのエリアですが、店も多くある界隈ですし。最近行ってないけど。 テロに屈しない、というなら、まぁ、そうなんでしょう。でも、今日本に来ることがそんなに大事なんでしょうか。日本で、こういう情勢下で、請われてか望んでかは分からないけれど、今日本に来ることにどんな意義があるのか、とは、尚更に思ってしまいます。 これが、日本で、今みたいな状況下でテロが起きて、そんな中N響や東フィルが欧州に演奏旅行に行く、と言われても、多分なんとも思わないんですよ。N響や東フィル(東京でもなんでもいいけどさ)は、日本という国にとってそれほどの存在ではないでしょう。でも、オーストリアという国、ウィーンという街にとってのウィーン・フィルの存在感はそれ以上だと思うんですよね。今、更なる困難が訪れる中、更に言えば、3日から再度オーストリア国内の規制を厳しくするという話もある中、本当に来るのかね、と。 いや、これ、中止にしてもいいだろう。延期でいいと思いますよ。本当に。それくらいの困難が折り重なってる。 今時点で「取り止めた」という話が聞こえて来ない以上、来るんでしょうね。5日には北九州の公演がありますし。 来る以上は行くつもりだけれど、それで何をするのか、どんな意味があるのか、は、じっくり聞かせてもらおうと思います。ある意味、今までウィーン・フィルを聞こうという中で、今回ほど冷静になってる事はないかも知れません。やりゃぁいいってもんじゃないんだぜ、この状況下でわざわざやる以上は、何をしようというのか、見せてもらおうじゃないか、ってね。
2020年11月04日
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来ることが決定している訳で、どうこういう話ではないんですけれどね...... なんか、ここ最近ずっと、来るべきじゃないよなぁ、来て欲しくない訳じゃないけれど、みたいなことを言っていた訳なのですが、来ると決まって、じゃぁ今どうなのか、というと、正直釈然としないんですよね.... 考え方はいろいろあると思うんですけれどね。だから、あくまで個人的な感じ方です。 またかと言われそうですが、吉田秀和の本に「私の好きな曲」というのがあります。確か芸術新潮か何かに連載されたもので、本に纏まって、昔は新潮文庫に入ってました。今はちくま文庫に入っているのか。その中で、確かフォレの四重奏だったかと思うのですが、それについての話があって。あの人は中原中也や小林秀雄と親交があった人なので、戦時下を過ごした人です。で、その当時、東京もあちこち空襲でやられて、いよいよ次は自分のところが危ないかも知れない、と言われて、フォレのレコードを缶に入れて埋めて、ベートーヴェンだかなんだかのは手元に残した、そちらはいざとなって焼けたらしょうがないけれど最後まで手元に残して聞きたい、でも、フォレは、戦争が終わってまた音楽が聞けるようになった時にそれがなかったらどんなにか後悔するだろうから、というのですね。 実のところ、フォレとベートーヴェンだったかはうろ覚えです。特に手元に残した方はかなり記憶が怪しい。探せばどっかにあるのですが、探すのも面倒なので.... それに、どの曲だったかはこの場合それほど重要ではないので。 戦時下で、周りの目もあって、まともにレコードなんて聞ける環境じゃない、それでもギリギリ最後まで聞いていたい音楽があって、その一方で、いざ世の中が戻った時に、それだけはどうしても聞きたいと思った音楽があった。そのことがポイントだと思うのです。 戦時下の日本に比べれば、今は何ということもない世の中です。突然焼夷弾が降ってくる訳じゃない。コロナは確かに危ないけれど、戦争ほど剣呑じゃない。それでも、我々の日常は十分損壊されたという意味では、非常時ではあります。その非常がある程度続いてしまうのかも知れないけれど、でも、あるところに落ち着くというところまで行っていない、という意味では、やはり非常なのでしょう。 私なんぞも、非常だと言いながらもうコンサートには行っている訳ですが、でも、やはり、何の躊躇もなく通っている訳ではない。実際、6月以降行った公演で、通常通り座っている公演というのは新国立劇場だけです。やっぱり、大丈夫だ、問題ない、と言われても、やはり何処かで躊躇します。その程度には引っ掛かる。その中で聞きに行くのは、やっぱり聞きたいから、ではあるけれど、そういう気持ちもありながら聞きに行く。個人的には、自分も持病があるし、親は高齢だし、うっかり感染でもしたら大事に至る可能性は高いよなぁ、というのもあります。でも行くんですけれどね。 これは、ハレとケとかいうことではないんですけれど。 例えば、日本のオーケストラやピアニストを聞きに行く時、心のどこかにそういう躊躇する気持ちを引き摺りながら、でもやっぱり聞きに行ってしまう、のには、戦時下なんていう深刻さとは段違いだけれども、やっぱり生で聞きたいというのが何処かにある訳です。だから行く。引き摺るものを引き摺りながら。それは、例えば東フィルの定期演奏会だったりする訳です。それを聞きに行く時、正直いうといろんな心持ちが拮抗している訳です。わざわざ危なっかしいなとか思いながら、これ敢えて聞きに行くのか?というのもあれば、こんな状況下で何を得られるのか?とも思うし、一方で、こんな状況だからこそ何を聞かせてくれるんだろう、というのもあるし、純粋に生の音が聞きたい、というのもある。ちょっと引いて考えれば、呑気にオーケストラのコンサートなんか聞いてる場合なんだろうか、みたいな気持ちもないではない。元々そんなに落ち着いた心持ちでコンサートに行っている訳ではないけれど、まぁ、言えば、ぐぢゃぐぢゃな心持ちですよ。でも、東フィルは、言ってみれば「私の」オーケストラだから、これ聞かなかったら他に聞くものはないんです。 翻って、ウィーン・フィル。私はウィーン・フィルは好きだし、少なくともベルリン・フィルをはじめ、殆ど全ての他のオーケストラよりはウィーン・フィルの方を好むと言って多分間違いない。実際、少なくともここ7,8年くらいは、毎年ザルツブルクで聞いてるくらいにはよく聞いている。で、別に清々とした心持ちで毎々聞いている訳ではないです。でも、やっぱり、ウィーン・フィルを聞く、となれば、それなりの心持ちではありたい訳で。 吉田秀和と一緒にするのも厚かましいけれど、最後まで手元に残したいのが東フィルなら、いつか清々と落ち着いた心持ちで聞きたいのがウィーン・フィル、なのですね、私の場合。というか、こんなガサついた心持ちでウィーン・フィルを聞くのか、という気持ちはあります。 ちょっと人の神経逆撫でしてくれるよなぁ、と思うのは、わざわざ売り止めていたチケットを、直前で「フルに入れられるようになりましたから」という理由で売り始めたということ。オケによって対応はまちまちですが、東フィルなんかは年内一杯の定期は、という条件付で、1席空けで公演していたし、この前の仲道郁代だって、小山実稚恵だって、そうです。それで、他のオケが軒並み来日中止にする中で、ウィーン・フィルだけ、やる。本国首相の肝煎でプッシュがあって、とか、まぁ、いろんなことがあるのは分かるけれど、正直いうとこの心持ちで行くのか、というのは、物凄く、実はネガティヴです。だからって売りに出す気もないけれど、でも、正直、騙されたに近い感じはあります。チケット買ったのは、春先ですからね。その頃は、流石にこの頃には落ち着いてるだろうし、という希望を持って買ったのだけれど、日本はともかく欧州なんてロックダウン再来ですからね。この環境下での、無条件で「やります」という判断は、ちょっと見れば素晴らしいのかも知れないけれど、正直、どうなの、とは思います。まぁ、春先に2公演買ってしまっているので、こんな心持ちで2回も聞くのか!というのもありますがね。出来ることなら1回分は払い戻したいくらいには思ってますよ。 いや、ごく個人的な感想です。ですけれど、まぁ、もう今後可能な限りサントリーという企業には寄り付かないようにしよう、くらいにはドン引きしてるところはあります。ちょっとね。非文化的だなぁ、野蛮だなぁ、と思うところはあります。所詮音楽なんてそれほど高尚なもんじゃないんだし、今更何言ってるんだ、という話でもあるのも分かってるつもりではいるんですけれどね。 ああ、そうか。そうなんだよね。野蛮なんだよね。 自分もいろいろ乗っかってるのは事実だから、偉そうなことは言えないんですけれど、野蛮なんですよ。それはこのウィーン・フィルの話に限らず、例えばGotoなんちゃらの類を巡るいろいろな騒動にしても、或いは一時流行ったマスク警察とか、東京から青森に帰省したら近所から「帰れ」って投げ文されたとか、それがまたテレビで報道されるとか、一方では「コロナなんて大したことないんだ」とか言い張る輩とか、なんていうんでしょうね、この新型コロナを巡る騒動全般に漂うのが、野蛮さなんですよ、きっと。いろんな野蛮さ、それは今まで文明とか文化とか社会とかいろんなものの中に埋没していたものが、この騒ぎで露出して来たんでしょうね。その野蛮さと闘う為の何かは確かに必要なのだけれど、いろんな意味で、私は、それはウィーン・フィルの来日公演じゃない、と感じます。それは大事だけれど、今ここで出してくるもんじゃない、って。 それに対しての答えになるような演奏を聞かせてくれるならまだしもですけれどね。でも、なぁ....ゲルギエフなんて、野蛮以外に何も持ってないタイプのような気がするんですけれども....まぁ、それは承知で買ってる筈だから、そこは文句言えないんだけれど。
2020年11月01日
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