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オーチャードホール 15:00〜 3階正面 ドヴォルザーク:序曲「謝肉祭」op.92 交響曲第8番 ト長調 op.88 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:渡邉一正 制限解除されたからといってそう簡単に元のようには行くまいよ、というものでありまして..... 元々今月はバッティストーニの指揮で「フランチェスカ・ダ・リミニ」をやる予定が、新型コロナ下で演目変更して公演の予定、も、バッティストーニ自体が来れないということで、再度演目変更してのこの演奏会。結局、レジデント・コンダクターの渡邉一正が6月に続いて再登場。 例によって1席明けの配置ですが、今回はバッティストーニキャンセルの影響もあってか、お客は3割くらいの入りかどうか、まぁ、気持ちは分からないではないですけれどね。プログラムも、結局、ドヴォルザーク・プロで、休憩なしの1時間一本勝負。よそはフルサイズの公演に切り替えてたりする中、ちょっと慎重過ぎ、地味過ぎでは?という話もありますが、個人的には堅実だと思います。東フィルは1月から新シーズン始まりなので、そろそろ来年の定期演奏会の発売を控えていろいろ考えているのでしょう。 とはいえ、まぁ、確かに、地味ですよね、このプロは。協奏曲も無いし。でも、そもそもを言えばバッティストーニに賭けての結果再変更だから、しょうがないでしょうね。 演奏は、まぁ、正直言えば、ムラがあるというかなんというか..... 一番良かったなと思ったのは、交響曲の冒頭。弦、というのはチェロと、ホルンと木管が合奏で入ってくるのだけれど、ここが実になんとも言えず良かった。各楽器が溶け合って渾然一体、というか、同質の響きを奏でておりました。 いろんな意見はあると思うのだけれども、各楽器がきちんと聞こえるのがいいというのは確かにあるけれど、その一方で、各楽器が同質で境目無く聞こえるというのもこれはこれで大事だと思うのですね。今日のこの第8番の冒頭は、そういう意味でとてもいい響き。思わず唸ってしまうほど。こういうのは、なかなか聞けないんですよね。 一方、全体としては、特に後半はちょっととっ散らかった感じに。まぁ、元々そういう曲ではあるので、そういう感じになってしまうのも無理はないのだけれども、もうちょっとまとまってくれても、ねぇ?という感じかなと。 個人的には、冒頭のあのハーモニーでもう十分素晴らしかったなぁと。勿論、もう少しまとまっていればもっといいと思いますけれどね。でも、代役で1ヶ月くらい前に急遽決めたプロで、これなら十分でしょう。むしろ、あの響きを聞かせてくれたのが素晴らしい。 これで、6月に続いて渡邉一正でドヴォルザークを9番、8番とやったことになるのですが、この際、第7番もやってしまってはどうでしょう?東フィルだって経営は厳しいだろうし、この際渡邉一正&東フィルドヴォルザーク集として、CDにして売りに出すというのは。3枚セットで出せば、買いますよ。録音してれば、ですけれどね。でも、6月公演は録っているだろうし、今月も録っていれば......このコロナ下で、何某か生み出されるものがあってもいいじゃないか、と思うんですけれども。
2020年09月27日
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新国立劇場から告知が来ました。 観客数制限の緩和、特にクラシック音楽のコンサートなどは入場人数を満席でも可とする、という発表を受けて、各種主催公演でこれまで約半数の定員で売っていたものを、売らずにいた席を売るようにするのだそうです。先週だったかに発売開始した「真夏の夜の夢」も、今まだ一席置きに売っていたものを、全席追加販売という形で売るのだそうで。 これから販売する公演は、他も含めてこうした方向に傾くのでしょうね。まぁ、新国立劇場は立場上政府がいいって言うんだったら真っ先に対応する、というような立場ではあるでしょうから.... その一方では、昨日だったかにはGo To イベントの実施が10月半ばくらいに始まるとの方針発表も。チケット代の20%くらいが還元されるらしいです。 一方、感染動向で言うと、日本国内の感染は下火になり気味、かというと、まぁ爆発的には増えてはいないんですけれどね。でも、最近一週間の感染者数平均は576人とかだそうで。これ、ピークだった8月上旬頃の1400人くらいに比べれば圧倒的に少ないけれども、緊急事態宣言の頃と変わらないんですよね。やはり数が多い東京で言うと、今日は270人だとか。200人超えは1週間前以来だとか、100 人超えは何日連続だとか、とにかくまぁそもそも減った減ったっていうほど減ってないんですよね。 身近には感染者出てないし、とかいう言い方もあるんですけれどね。でも、実は、比較的うちに近いところ、普段足は運ばないのですが、そこでクラスターが出たと聞いてちょっと気持ち悪いなとは思っていたりしますけども。 そういう目線で見ると、一体全体どうして今は以前通りのコンサート開催状況でいいんだろう、という気はします。正直。 そうしないとやっていけない、というのはまぁまぁ分かるんですよ。でも、これ、コンサートに限らずなんだけれど、結局、まだ何にも分かってないんですよね。この病気は。事実として、いろいろやってることを続ければある程度は抑えられるのかも知れませんが、いつ、どこで、どう転ぶか分からない、というのが本当だと思うんですよね。この状態でうっかりすれば、ただただ長引くだけ、という気もするし。 大体が、なんとなくもう大丈夫だと言いたがっている人がいるのはわかるんだけれど、でも、未だに世界中自由に行き来出来る状況にはなってないじゃないですか。なんとなくこれでなんとかなるのでは?と思いたがってるだけで、全然平常には戻ってないんですよね、そういう意味では。 なんとも言えないんですけれど。でも、正直、ちょっと早いんじゃないかな、という気はします。だから行かない、とも言わないんですけれども。
2020年09月26日
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さて、読み替えの話です。「読み替え演出に対する非難」の件ですね。 まぁ、私自身元々読み替え式の最近の演出はあまり好きではないです。 一方、吉田秀和がそんなに読み替え演出についてわぁわぁ言ってるのを読んだ覚えもないんですけれどね。 だから、実は、吉田秀和絡みでどうこうっていうのはあまりないんです。ただ、この、「読み替え演出」っていう話がとてもいい加減に使われてる言葉だと思うんですね。そういう言葉自体に非常に引っ掛かるのですよ。実はこれ前から言ってることなんですけれども。 正直言うと最近はあまり一生懸命世の中の動きを追っ掛けていないので、分からないっちゃぁ分からないんですが、未だに「読み替え演出」なんていい加減な言葉が使われてるんですかね。まぁ、その一方で、ペーター・コンヴィチュニーあたりが言うようなMusik Theatreみたいなのにもいつまで眩惑されてんの?とも思うのですが。 ただ、なんもかんも一緒くたに「読み替え演出」みたいな言い方するのが未だに続いてるんでないかい?という前提で、この話を書いています。 で、申すと、そもそも「読み替え演出」と総称されているならば、それは本当は幾つかに分けないといけないんだと思っています。 というか、言い出すと長いんですが、「読み替え=元の作品のト書き通りでないように思われるもの」とするならば、そもそも何が違うのか、によって変わってくるわけです。 比較的よくあるのは、原作の前提となる舞台を違う場に設定してしまうもの。世界観を変えてしまうわけです。例えば、ペレアスとメリザンドの舞台が現代調になっていたり、オテロの舞台が恒星間大型宇宙船になっていたり、とか。(これどっちもチューリヒで実際に見せられましたが。後者はホセ・クーラのオテロで、ネッロ・サンティの指揮で。なんでこのメンツでこの演出…)これ、わかりやすいしある意味センセーショナルにしやすいけれども、実は、ストーリーとしてもプロットとしても、つまりは物語の骨子も主題も変わってないのですね。つまり、世界観以外はむしろ原作に忠実。 一方、プロットやストーリーを変えてしまうケースもあります。これも、プロットもストーリーもほぼそのままで、いわば解釈の違いレベルで意味を読み替えてしまうケースもあれば、全面的にプロットもストーリーも変わってしまうケースもあります。前者で有名なのは、ジャン=ピエール・ポネルによるバイロイトでのトリスタンとイゾルデの演出でしょう。1983年とかその辺の演出ですが、舞台上は原作のそれを大きく出ることなく、第3幕、最後の最後の最後に、実は第3幕(少なくとも後半部分)は瀕死のトリスタンの夢でした、という、夢落ちトリスタン、イゾルデは来なかったトリスタン。これなんて、少なくとも今から見るに現代的演出とは言えないし、読み替えてもいない、とすら言えるけれど、でも、結末の位置付けは全く異なる形に、これこそ「読み替えられている」訳ですね。ただ、これは、読み替えているけれど、あくまでポネルの演出は「ポネルが解釈した、ポネルが読み取った」「トリスタンとイゾルデ」なんですよね。ギリギリのところで、それはまだ「トリスタンとイゾルデ」である。 問題は後者で、たとえば何年か前に新国立劇場でやったフィデリオ。今見たら2年前でした。その時も書いたのだけれど、これはフロレスタンとレオノーレが助からない演出なんですね。で、この時、私は評価としてはあまり否定的には書いていないんだけれど、音楽は変えていないけれども、演出的にはある意味真逆の話になってしまっている。ストーリーもプロットも崩壊しているんですね。実は、この時、この演出にそれほど否定的に書かなかったのは、昔やはりフィデリオでとんでもない演出を見たことがありましてですね。もう20年くらい前、シュトゥットガルトで、これも助からないフィデリオだったんですが、簡単に言うと第2幕最後「殺させないわ!」とレオノーレがフロレスタンを庇ってピサロに銃を向けて、揉み合いになって……..フロレスタン、暴発した弾に当たって死んじゃいましたよ。で、どうすんだどう住んだ、と見ていたら、そのまま訳わからんままに大団円でおしまい、全然落とし前付けないで終わっちゃったというのがありまして。いや、それに比べれば、ちゃんと落とし前付けてるだけマシじゃん、というね。 で、この3種の「読み替え」とは別に、もう一つ評価基準があると思ってます。それは、「作品を”使って”いるのか否か」。表現者としては、どっちでもいい、というのかも知れません。でも、個人的には、古典作品を自分の言いたいことを言うための「道具」として使うのは、表現者としてどうなんだえろう、と思っています。所謂「読み替え」演出では、少なからず「使っている」だけの演出があるんですよね。個人的には、ペーター・コンヴィチュニーとかは、この系統だと思っています。つまり、それ、このオペラで言うべき事なのか?それは、このオペラの中で表現することが必然なのか?という視点。だったら、お前、映画でも撮れよ、と思うんですね。オペラに寄生してるだけじゃねーか、と。件の新国のフィデリオとかは、物語を全く変えてしまっているのだけれども、ただ、それは、あくまで個人の主観ですが、ギリギリのところで、フィデリオという作品の枠内に留まっているのだと思うのですね。多分演出家の言いたいことを言っている演出になってしまっているけれど、ギリギリのところで、それをフィデリオでやることに必然性はあるのか?という問いに答え得ているのではないかなと。それは、ポネルのトリスタンもそうですね。あれを読み替えという人はいるかどうか分からないけれど、でも、殆どあの最後の1分そこそこで、トリスタンとイゾルデというオペラの存在を根底から揺さぶってみせて、かつ、破壊はしていない、というような。 で。訊きたいわけですよ。「読み替え演出」ってなんのことを言ってるの?って。 ちなみに、そもそもの吉田秀和が、どういう演出を否定してたのか、そんなにわぁわぁ言ってる文章を私は見たことないんで、何をそんなに否定してたのか分からないんですけれどね。まぁ、前回書いた通り、吉田秀和自身はオーソドックスなタイプの演出を長く見ているわけだから、中途半端な演出をそう簡単に褒めるということはないんじゃないかな、というくらいには思うんですが、ね。
2020年09月22日
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JTアートホールアフィニス 14:00〜 シューベルト:美しき水車屋の娘 テノール:水越啓 ピアノ:小林道夫 コロナ感染は鎮静化したとは言い難く、昨日今日と東京の感染者数は200人を超えていますが、かなり社会的には皆外に出て来ているようです。まぁ、今日土曜日から4連休ですからね。しょうがない。そう言いながら自分だって出掛けてるんだから、人のこた言えない。 そんな中でも今日あたりは結構いろいろコンサートが行われている模様で、他の用件もあって、これに行って来ました。ただでさえ最近は歌曲のリサイタルは多くはないですし。 水越啓という人、私はあまりよく知らないのですが、バッハ・コレギウム・ジャパンのメンバーなのだそうで。それかあらぬか、なんとなく「内輪」っぽいお客が少なからずいたようで、まぁ、いいんですけれどね。ただ、ああいう「グルーピー」みたいなのは、正直言うと関係ない人間からするとあまり来て欲しくない感じのお客ではあるんですけれどね。ま、いいけどさ。 この公演は、「シューベルト《美しき水車小屋の娘》-その世界を味わい尽くす」という全5回シリーズなのだそうで。毎回伴奏者と楽器を替えながら半年毎くらいで5回演奏しようということだそうです。今回がピアノで小林道夫、以下、七条恵子のフォルテピアノ、谷辺昌央のギター、渡邉順生のフォルテピアノ、鈴木優人のピアノ、というラインナップで。まぁ、個人的には、水車屋ばっかりよくやるよね、とは思うのですが(意訳:冬の旅やればいいのに〜)、にしても、水車屋を5回も続けてやってやろうというのは、ともあれ意欲的な取り組みではあると思います。 で、今回は、正直言うと、小林道夫が伴奏するというので、やって来ました。本音としては、このラインナップだとあとは渡邉順生くらいかなぁと.... 場内は自由席で、概ね全席の半分程度を使うに留めて、実際はそこまで入っていないといったところでしょうか。水車屋は大抵一気にやるのですが、今回は、なのか、途中休憩あり。11曲目で中断、という形でしたが、これは、ここまでが一塊だ、というか、ここまでは一連の流れでここで別れる、という解釈なのでしょうね。 水車屋は水車屋ですのでね。演奏はどうだったかという話になります。 まず、まぁ、悪くない演奏だったと思います。まぁ、そういう言い方をするからには、言いたいことがあるのではありますが..... 伴奏との噛み合わせは、9分合っていて、1分は摺合い切ってない部分を孕んだというような緊張感、でしょうか。決して悪くはないと思います。 声質は、まあテノールでもありますし、水車屋には悪くないと思います。ディクテーションも、こちらもそんなにわかる訳ではないですが、とりあえず違和感はありません。 問題かな、と思うのは、テンポをかなりいろいろ変えてくるんですよね。これが、どうなのか。 具体的に言うと、同じ歌の中で、強弱やテンポを変えてくるんですね。アーティキュレーション上で揺らすとか言うのではなく、はっきりと強弱を変えて歌い、リタルダントさせたりする。これは意図的に表現としてやっているものだと思うんですけれどね。 歌、として考えると、そういうやり方というのは勿論あるんだと思います。ただ、それは、曲によりけりだと思うんですね。 シューベルトの歌曲をどう考えるべきか、というのは議論の余地はあると思いますが、私は基本的にはあまりいじくらない方がいい、と思っています。確かに、シューベルトの歌曲の、少なくともペータースの楽譜を見る限り(ベーレンライターが手元に無いのだけれど、そうは変わらなかった筈)、それほど指示は書かれてはいません。だから、いろいろいじりたくはなるんだとは思うんですね。ただ、シューベルトの「歌」というか、メロディは、それ自体相当完成度が高いと思うのです。だから、迂闊にいじくると、壊れてしまう。 基本的に演奏家は楽譜から逸脱してはいけないと言われるから、普通は音符は勿論、強弱やテンポも指示通りにします。ただ、音符だって装飾音くらいはつけるし、強弱やテンポの選択は、格別指定がなければ演奏家に選択の余地はあるわけです。シューベルトの場合は、その指示が、特に歌曲に於ける歌唱の方には、かなり少ない。だから、いろいろやりたくなるというのはあるけれど.... 特に、水車屋の場合は、それが特に強いと思っています。水車屋はよく連節歌曲で書かれていて、みたいなことを言われますが、それはどういうことかと言えば、多くの曲が同じメロディの繰り返しで歌われているので、いじればすぐ気付いてしまうのですね。気付く、というのは、単に「ああ、変えたな」というのではなくて、音楽として変わっていることが分かり易い。だから、不用意にいじると「それはどういうことなのか?」と問われる、ということ。 問題は、その変化が、どういう全体像の中での位置付けとして行われているかがわからないんですね。 例えば、10曲目の「涙の雨」。この曲は連節歌曲形式の若干の変形といった形で、1節目から3節目までは同じで、4節目の水車屋の娘の様子を歌う部分が若干変化がある程度。ただ、その変化が正に若者と娘のすれ違いを表しているともいえる。そして、3節目までは情景を歌い紡ぐ内容なのですね。ここで、今日の歌唱では、3節目に向かってテンポを落としていく。それは例えば若者がどんどん自ら落ち込んで行く思い込みの深みを表しているとか言えるのかも知れないけれど、それをやり過ぎると、4節目の辛辣さが相対的に薄れてしまうのですね。同じようなことは18曲目の「しぼめる花」にも言えて、この歌ではテンポも強弱もかなり変化させて歌っているのですが、問題は、それがこの曲の表現として生きているかどうかではないかと。 この歌の場合は、通作歌曲にはなっていますが、実態は、前2節、後2節で、前2節は死に向かって歩みを進めるような嘆きの歌であり、後2節は実は同じ節の繰り返しで、自らの想いに娘が気付いてくれたなら、その時こそ花よ咲き誇れ、という内容。こういう歌であればこそ、やはり後半にヤマを持って行きたいわけですが、音楽的には、萎れし花の前半と、咲き誇るべき後半との対比としてデザインを考えるべきで、むしろ前半であまりガチャガチャ動かさない方が、後半が際立つと思うのですね。その後半も、どう持って行くかは考え所で、元々そういう対比を孕んでいるように書かれている曲なのだから、小細工しなくても十分対比は浮かび上がるのです。加えて、この曲は、いわば水車屋全曲のヤマになると言ってもいい曲です。そういうヤマで、あれこれやるのがいいのかどうか。個人的には、そうした、この歌としての、また、全体としてのグランドデザインがよく分からなかったと思います。 それは最終曲も同じです。「小川の子守唄」ですが、まぁ、死せる若者への挽歌でもある訳ですが、ここで歌われるのはあくまで若者の平安を願う子守唄。これも、あまりに細工をするのはどうかと思います。同じように歌うのは芸が無い、という考え方もありますが、子守唄に芸を仕込んでどうする、という話でもあります。狩人や娘に寄るなと警告もするから、多少はアクセントは付きますが、むしろあれこれ動かさずに歌い上げて行く方が表現としては落ち着くと思います。最後はリタルダントくらいさせるとしてもね。 そんなにひどいというものではなかったけれど、敢えて水車屋という歌曲集に拘ってやろうとするのであれば、もうちょっと全体を考えて、どういう音楽としてデザインするのか、なるほどと思わせるような答えを出して欲しいと思います。今日は、一つ一つの歌を見れば、それなりのものもあるにはあったけれど、一つの歌曲集の演奏として納得が行く ー というのはこの場合なんであれ音楽としての全体像が感じられるというくらいの意味で - ようなものだったかと言われると、肯けない感じだったでしょうか。 仮に今後聞きに来るとすれば、4回目の渡邉順生のフォルテピアノの時でいいかなぁ。少し練ってもらいたいと思います。わざわざ5回もやってやろうと言うからには、ね。
2020年09月20日
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8年前に亡くなった吉田秀和の著作集が最近文庫本で出ている、と言っても、誰それ?という人も少なくはないのか。戦後から今世紀初頭に掛けて日本のクラシック音楽評論を、まぁ、一応、リードした、と言ってもいい人だとは思うのですが。好き嫌い毀誉褒貶は色々あると思いますが、まぁ、代表的な人の一人。私は結構好きなんですけれどね。ぺダンティックだとか言う人も少なくないでしょうけれど。 その吉田秀和の文章が、河出文庫からテーマを決めて再編したものが出ている訳です。で、比較的最近、というのはこの2月なのだけれども、出たのが、クライバーとチェリビダッケとバーンスタインをテーマに書いたものなのですが、そこに解説(渡辺和彦)が付いていて、これがちょっと、まぁ、言ってみれば看過出来ないことを書いていて、これを書くことにしました。そういう話だとするとここに書くことではないんでないの?別棟じゃね?という話はあるのですが、言いたいことはどちらかというと舞台に関することなので、ここで書いてみることにしました。いや正直前から思っていることではあるんですよ。 で、まず、何が看過出来ないかという話から。 カルロス・クライバーの項目に、スカラ座の引越し公演で「オテロ」を振った時の評が載っているのですね。1981年。で、その中で、ゼッフィレッリの演出についてあまり好ましくないということが書かれているのですが、解説では、これを取りあげて「推測ながら、吉田は映画的な手法や「演劇的虚構」「アンチ・リアリズム」についての理解と体験が乏しかったのではないか。」として、「的外れな感想を表明、ダメ押し的に「大演出家のするべきことではなかったろう」とまで書いてしまった」と言っています。筆者自身も実際に見て批評も読んで「編集部で”殿ご乱心”として制御できなかったのか」と思ったとか。更に、「この認識が災いし、彼は自らの最晩年期に現れたオペラ”読み替え新演出”の舞台を、口を極めて攻撃していた。」と言うのですが、まぁ、正直言うと、少なくとも1990年代以降はある程度読んでいた身としては、一体何処でそんなに口を極めて攻撃していたのやら?とは思います。また、公平を期すならば、筆者は決して吉田秀和を全面的に否定している訳ではないのですけれども。(以上括弧部は直接引用、文庫p206) さて。引用が少し長くなりましたが、ここには二つの問題があると思っています。一つは、吉田秀和の「1981年のゼッフィレッリの演出に対する批評の内容」、もう一つは「読み替え演出に対する非難」について。 まず、吉田秀和という人は、少なくとも戦後かなり早い時期から海外に出るなどして、オペラも含めた数々の公演を見聞きしていた人です。大体がフルトヴェングラーを生で聞いている人ですから、そのくらいから聞いているのは確か。で、後年は海外に行くことは決して多くはなかったと思います。ただ、例えば、バイロイトの新バイロイト様式とかの演出も同時代で見ているのは確かです。 で、この批評は、そういう履歴を持つ職業的評論家が、1981年の時点に於いて、ゼッフィレッリの演出を見てどう考えて言っているか、という事を考えるべきだと思います。 吉田秀和がオペラについて、それも演出について書いた中で、私がよく覚えているのは、二期会公演で粟國安彦(粟國淳の父親、と言った方が今は通りがいいのでしょうか)が演出した蝶々夫人についてです。細かいところまでは覚えていませんが、吉田秀和はこの演出を「蝶々夫人は何故死んだのか?」というようなところから再検討して、それをどのように組み立てるか、細部に至るまでよく検討して作られている、というようなことを書いています。それは見ようによっては細部に拘っているだけ、と言えなくもないのかも知れないけれど、それを読めば、少なくとも吉田秀和は舞台というものをどのように見るか、ということは少なくとも自分の視点としては解っていたのではないかと私は思います。 件のゼッフィレッリの演出は私は見たことはありません。ただ、ゼッフィレッリの演出というのは、若干は見たことはあります。今もまだ残しているであろう、新国の柿落とし公演のアイーダがありますし、ウィーン国立歌劇場で人気のあったボエームの舞台もよく覚えています。他にも何か見ているんじゃないかと思うけれど。 で、その少ない経験と、ゼッフィレッリの言葉などから思うのですが、私の理解ではゼッフィレッリという人は「写実的」な舞台を作る人だと思っています。ちょっと良い言葉がすっと出てこないのですけれど、この場合の「写実的」というのは、そこにあるものがそこにあるものとして見える、その見え方に拘る、というようなことを言いたいと思っています。 具体的にはどういうことか、は、端的に言えば、あの新国のアイーダを思い浮かべて頂ければいいのですが、確かに豪華絢爛だけれど、例えば一方で、1幕の御神体が金色に光る、それを本当に金で作る(確か無垢ではなくて金属に本当の金のメッキだったとは思いますが)ことで、実際に見る人にそれが本物であると思わせる、というような話に象徴されると思います。無論それは作り話の作り物だけれど、本当の「金」を置くことで、舞台それ自体の現実感を作り出す、というような。その一方で、幕切れの3重唱、地下に生き埋めにされているその上下を実際に作って見せることで(地下が浅過ぎるとも思わなくもないですがね)現実感をもってみせるようにする。ウィーンのボエームであれば、2幕のカルチェ・ラタン。あれは、舞台を上下にして、上の通りから下の通りに連なっているようにして見せることで、本当に人混みなんだ、と思わせるようにしている。 ここでいう「写実的」と言ったのは、言い換えると、「安易に”見立て”に頼らない」ということなんですね。 最近のオペラの舞台は、これはオペラに限らずなんだけれども、ちょっと”見立て”に安易に頼り過ぎていると私は思います。 舞台というのは、現実とは違う場ですけれども、一方では「そこに具体的に厳として存在する」という意味では現実のものです。その、「現実ではないけれどこうであるという設定」と「現実にそこにあるものとしての舞台」とのギャップを埋めるものとして、”見立て” というものが出て来ます。「実際に舞台で見えているのはこうであるけれども、それは本当はこういうものですよ、という前提を受け入れることで設定を成立させる」とでも言えばいいのでしょうか。 それは、舞台上に再現されるものがそれそのものでない以上ある程度やむを得ないものです。ただ、それはあまりに安易にやり過ぎると、現実からどんどん離れていってしまう。ゼッフィレッリの演出に感じるのは、その”見立て”を可能な限り排する、或いはその”見立て”を出来る限り観客が成立させやすいようにする、ということだったのではないかと思うのです。その為に可能な限り「写実的」に見せることで、観客に入り込みやすくする。そんなところでしょうか。 件の評で、吉田秀和はゼッフィレッリの演出について幾つか、まぁ正直言って割と細かいことを言っているのだけれども、確かにそれはまぁそれでもいいんじゃないか?という内容でもあります。ただ、一番詳細に指摘しているのは、最終幕でのオテロのデズデモナの寝ている寝室への登場の仕方。読み解くに、この演出では、寝室は舞台正面に向かって設定されていて、少なくとも吉田秀和は、寝室がダイレクトに客席に向かって見えている設えだと理解していて、その前を、舞台の一番前のところを、オテロが下手から舞台に入って来て横切り、上手側に行って、上手側から寝室に入って来る。多分こういうことを言っていて、これを、吉田秀和は、「寝室と公衆の間には壁も仕切りもないのだから、ステージの前面はすべて寝室の中でなければならない。そこを歩いて横切り、しかもあとで右の外から戸をあけて寝室に入るということが有り得るはずはない。現実的にも論理的にもおかしい。「効果」のために、ここだけ急に非現実的なやり方にすがるという矛盾に目をつぶるのは、私にはできない。いや、大演出家のすべきことではなかったろう。」と言っています。(文庫 p69-70) なるほど、「それは見立てなんですよ」と言えば、そうなのかも知れないけれど、私は多分そんなことは百も承知で吉田秀和は書いていると思います。だから、「ここだけ急に非現実的なやり方にすがる」と言うのだと。 元々吉田秀和はこの演出はあまり好みではなかったらしいことはその前段で書いているので、或いは筆の勢いで書いているのかも知れません。しかし、この表現から察するに、吉田秀和は「観客は寝室をダイレクトに見ている」と舞台を解釈していると思います。だから、その前を横切らせてはいけない、というのだと。確かに、舞台の構造を想像するに、かつ、この部分でオテロの姿を存分に見せたい、と考えればこそ、敢えて横切らせるという判断をゼッフィレッリはしたのかも知れません。それでも、1981年時点でのゼッフィレッリの演出、ということを考えた時、私はこの吉田秀和の評は決して劇というものをよくわかっていない人の発言、だとは思えないのです。むしろ、重々分かっているからこその指摘だったのではないかと思うのです。「安直に見立てに頼るな」「この舞台のグランドデザインがそうであるならば、この人の動きは劇を阻害しているぞ」という指摘なのではと。その違和感を感じ取り、言葉にしたのだと、まぁ、勝手に思ってるんですけれどね。 長くなったので、読み替えの話はまた。
2020年09月18日
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https://www.jiji.com/jc/article?k=2020090900845&g=pol クラシックのコンサートの定員制限を緩和する話が出ているらしいですよ。 記録的に書いておくと、現状は定員の50%、というのがコンサートの人数制限だった訳ですが、感染者数の減少傾向に鑑みて、緩和することを考えているそうです。 今日9/10には、東京都で警戒レベルが4段階中の4番目、感染拡大中というのから1ランク落として、感染が拡大しつつある、とかなんとかに落としたそうで、なんとなく世の中ムードとしては「落ち着いてきたんじゃね?」という話になっております。 ただ、今日の東京の感染者数は276人、神奈川が次いでの112人。一週間の平均値では、その前の一週間に比べると減っているそうで、確かに今日は突出しているのだけれど、そうそう落ち着きつつあるとはすんなり思えない話ですけれどね。 TBSのは割と早くリンクがきれちゃいますが、こちらによると、定員の70%から80%くらいを想定しているそうです。 https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4072786.html クラシックや能のような古典芸能は声を出さないから.....だそうですが、クラシックはなぁ......「ぶらあぼおおおおおおおお」って汚い声で絶叫するものだと勘違いしている輩がいるからねぇ.......あ、いや、私もやるときゃやりますけれどね、やるなって言われたらやらんもん。言われることもないけれども。 偏見ですけれど、クラシックやオペラの界隈ってのは、偏屈な捻くれ者(ん?呼んだ?)が多いですからね。こないだ、飛行機乗ってマスクしなくて騒ぎ起こして下されたのがいましたが、そういうタイプ、多そうですからね。日頃から、お前コンサートに限らず社会に出てくる資格無いよ、って感じのお客は少なからずおりましたしね..... まぁ、正直言うと、この半年やってて、あんまりコンサート一所懸命行かなくてもいいかな、と思い始めてるのは確かですね。いや、3月のシフみたいに、行っておきたいなと思うことはあるし、まるで行かなくなることはないとは思うんだけれど、あまり無理しなくてもいいかな、ってね。まぁ、この状態でも、6月以降は月に1,2回は行ってるような有様だから、何言ってやがんでぇ、って話ではありますが....
2020年09月11日
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東フィルからお手紙が来ました。 9月はバッティストーニが来る予定だったのだけれど、やっぱり来られないそうです...... 曰く、日伊関係諸庁と取りながら準備していたけれど、現時点でいまだ日本政府による入国制限により査証の発行が不可能になっております、だそうです。 いい悪い、という話ではないのでしょうけれど、しかし、これ、本当に鎖国ですね..... いや、実際、見えないのは、どうやって開くつもりなのか、ってことでね。今の状況下では止む無し、っていうのもわからないではないですよ。でも、いい加減、どういう状況で開くか、をいうのを真剣に考えておかないと、日本だけ取り残されるという事態も有り得る訳で、ね。「別に観光客なんてもう来なくていい」?いや、これでも日本に来るのは観光客だけじゃないですしね。それに、基本は相互主義ですから、日本人も行けないとなると、どっかの段階で確実に悪影響になって出て来ますし。無論流行がある程度収まってからの話ではあるにせよ、いつまでも「見えない」=「考えない」とはいかないと思うんですよね。実行するのと考えるのは別の話。 バッティストーニのメッセージが同封されていました。同じものがリンク先にも出ていますね。あの大童の指揮を早く見たいものです.... で、9月定期は、結局代役です。6月に続いての渡邉一正、曲目はドヴォルザークの「謝肉祭」序曲と交響曲第8番。6月定期に続いてのドヴォルザーク・プロということで、休憩無し1時間一本勝負。 もうね、折角だから、渡邉一正でドヴォルザーク・チクルスってことにして、第7番もやっていいんじゃないでしょうか。いや、ヤケクソじゃなくてね。こんな時期だからこそ、せめてこれを奇貨として、何某か意味ある方向に持っていってもいいんじゃないかなと。折角のレジデンス・コンダクターなんだし。実際、あの、来月のチョン・ミュンフンの定期も、この調子では.......いや、流石にもう少ししたら、とは思うんですけれども.........チョン・ミュンフンは、そういえば、今何処にいるのかな?韓国?欧州?
2020年09月08日
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東京オペラシティコンサートホール 14:00〜 3階 J・シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」 J・シュトラウス2世、ヨーゼフ・シュトラウス:ピチカート・ポルカ J・シュトラウス2世:ワルツ「ウィーンの森の物語」 ベートーヴェン:交響曲第6番op.68「田園」 <アンコール> ドヴォルザーク:ユモレスク 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:小林研一郎 このところ今ひとつコンサートに行く気力が落ちています.... 頑張って聞きに行く気には、まぁ、あまりならないですよね。それなりに持ってるものは行くつもりではあるけれど、正直、追加でいろんなオケを買おうかという気にはあまりならない...... というわけで、元々持ってるこのシリーズ。例によって再配席でアサインされています。概ね5分の入り、というのは事実上の満席なのでしょう。 オペラシティに行ってみたら、そこそこ人出がある。ん?と思ったら、新国の貸し小屋公演で二期会がフィデリオをやっているのでした。 二期会ねぇ....正直、今の二期会、よほどでなければ行く気はせんなぁ....熱意はあってもグダグダだろうし、フィデリオとかちゃんと出来る実力があるとは思えない......20年前ならアリかも知れませんが、ねぇ...... いやいや、人は人なり。我は我なり。 さて。 東フィルの午後コン、いつもは休憩入れて短めのプログラムで、お話も結構入れて、というスタイルですが、今回はコロナモードの休憩無しで1時間15分一本勝負。お話もあまり無し。サクッとワルツを演奏して、田園を演奏して。途中、第2楽章終わったところで、小林研一郎が袖に引っ込んでしまいました。マスク付けて振ってるので、呼吸が苦しかったらしく。まぁ、そうなるでしょうね。御歳80歳。それで出ずっぱりで振ってるのですから、しょうがないですね。聞く方も大変ですが、振る方はもっと大変。そういえば、ざっくり見た限りでは、今日はマスク姿ではなく、管楽器間にパーティションが入る程度。オケも、恐らく12-10-8-6-5の編成でしたが、舞台を一杯に使うという風ではなく、かなり平常に近い感じでしょうか。指揮者との間は、結構ありましたけどね。ちょっと遠巻きな感じ。 で、田園。これは、よかった。 小林研一郎をちゃんと聞いたのは結構久しぶりかも知れないのですが、流石に齢80ともなると「炎のコバケン」でもなかろうとは思うんですけれどね。というか、あの「炎のコバケン」みたいなものにしてからが、結構無責任なレッテル貼りという気はしています。 まず、今日の演奏は、全般的に柄の大きな演奏でした。音も大きいと言えば大きいのだけれど、テンポをややゆったり目に取って、たっぷりと弦を響かせる演奏。時間的には、途中引っ込んで3分くらい空いたのを差し引いても、45分くらい。すごくゆっくりというわけではないと思いますが、まぁ、最近の傾向からすると悠然という感じですね。それにも拘らずとっちらからないのは、どこに行こうとしているのか、グランドデザインみたいなものがしっかりしているからなのでしょう。正直言うと、傷、というかミスは気付く範囲でもそこそこありましたが、それが大して気にならない。どういう音楽だ、というのがはっきりしているからなのでしょう。ミスはミスだけど、それで音楽が台無しになるようなものではない。そういう意味で、柄の大きい音楽。そんな風に思います。 確かに、以前この人の指揮でチャイコフスキーとか聞いたことはありますが、激しくはあってもこういう柄の大きい音楽ではなかったように思います。チャイコフスキーとベートーヴェンの差?そうかも知れないけれど、そうだとしても、こういう田園を聞けることはあまりないように思います。田園だってそれなりに聞いたことはあった筈だけれど、こんな風に、全体が大きな一つの音楽として感じるような演奏というのは、実はそれほど多くないような。いや、実際、田園って、描写音楽っぽい所があるが故か、却って部分毎の一体感が出にくいのではないかなとも思います。部分最適化してしまうとでも言うのか。絵日記的な、というと言い過ぎですかね。 今日のは、絵日記対絵巻物、或いは随筆とでも言おうかと。全体がこうだよね、というのがきちんと見える。とっ散らかってない。田園は好きな曲ではあるけれど、なるほどこうなるのか、と改めて思い知らされたような感じです。 CDにでもしてくれるといいのにね、と思うくらい、とても良かったと思います。田園だと、大昔、30年くらい前、ゲヴァントハウス管をマズアが振ったのを、あれは大阪のフェスティヴァルホールだかなんだかで聞いた覚えがあるのだけれど、その時田園だったな、とか、そのくらいしか覚えてないけれど、それがそんなに良かったかどうか。 音楽としては、全然違うのだけれど、ヘルマン・プライを勃然と思い出しました。あの人の歌は、何度か聞く機会があったけれど、あの人の歌もこんな風に柄の大きい音楽だったなぁ、と、ちょっと思い出しました。プライも亡くなって随分になるし、そろそろ忘れられつつあるような気もしますが、あの人の声は独特の深さがあったな、と今更ながら思い返したり、それに通ずるような今日の田園だったように思います。 と同じように演奏されたアンコールのユモレスクは、まぁ、個人的には、正直、無くてもよかったかなと。こういう風に同じように演奏されちゃうと、うーん、こっちの思い込みなのかな?とか思ったりしてしまうのではありますが。でも、まぁ、正直思いもよらないいい田園でした。失礼ながらこのシリーズには勿体無いくらい。 ワルツは......正直、ポケっとしながら漫然と楽しく聞いてました(笑)まぁ、いいじゃないですか。そう言っちゃぁなんだけど、そういう音楽なんだから。それはそれで。
2020年09月07日
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