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NHKホール 18:00〜 3階右手 マーラー:交響曲第8番 変ホ長調 「一千人の交響曲」 ソプラノ:ジャクリン・ワーグナー、ヴァレンティーナ・ファルカシュ、三宅理恵 アルト:オレシア・ペトロヴァ、カトリオーナ・モリソン テノール:ミヒャエル・シャーデ バリトン:ルーク・ストリフ バス:ダーヴィッド・シュテフェンス 新国立劇場合唱団 NHK東京児童合唱団 NHK交響楽団 指揮:ファビオ・ルイージ N響の第2000回記念公演ということだし、まぁ、ファビオ・ルイージだし、と思って、行ったんですけどね........ マーラーの仙人風呂。聞いたこと、一度くらいはあると思うんですけどね。昔新日の定演とかで聞いてるんじゃいないかな。 で、正直言うと、もう全然興味が持てないというか.....はっきり言って下らないとしか思えなかったという。どうしてこんなもの聞きたいと思うのかね。 ええと、演奏が悪いとは言ってません。いや、正直言うと、いい演奏で聞くと考えが変わる、と言う経験は何度もあるので、そこに一縷の望みを賭けて聞きに行ったんですけどね。まぁ、やっぱりつまらなかった。 敢えて申さば、合唱は例によってグダグダでした。最初から期待してないけど、特に前半はダメダメ。後半の方がまだしもだけれど。可哀想だからはっきり言うと、児童合唱団の方はちゃんとしてました。これは及第点。 独唱陣は、これが、テンデンバラバラ。出来具合もなんですが、例によってアンサンブルというか、歌い手間の調和が無い。合わせる気がないわけではないのかも知れないけれど、スタイルが違う上にレベルも違うから、バラバラ感が強い。多分グレートヒェン役だと思うけれど、オルガン席で歌っていたのは、三宅理恵じゃなかったかと思うけれど、これは役が美味しいのもあるけれどまぁ良かったと言っていいと思うけれども。 オーケストラは、まぁ、演奏としては、ファビオ・ルイージがよくコントロールしてたんじゃないかと思います。金切り声もあまり聞こえなかったし。 で、何が気に入らないかというと、要するに、マーラーの8番って下らないよね、という話に尽きます。 マーラーはありようとしては職業的作曲家というより日曜作曲家だったと言っていいと思います。勿論そもそも同時代としてマーラーはまずなによりも指揮者だったということがあります。特に、今で言うウィーン国立歌劇場の音楽監督だった人です。その意味で、決して才能のない音楽家ではなかったと思います。でも作曲家としてはどうなのか。才能がないとまでは言いませんが、しかし、歌劇場の音楽監督をやった人でありながら、事実上マーラーには歌劇がありません。求められなかったというのもあるでしょう。でもそれ以上に、この人は結局オペラを書こうとしなかったというのが実際なんじゃないだろうか。「嘆きの歌」をオペラ同様に見なす人もいなくはないのだけれど、あれにしたってそんなにいい出来ではない。で、彼の歌曲や交響曲に出てくる歌唱を聞いても、確かにオペラには向いてなかっただろうなと思います。なんというか、歌の取り扱いが下手なんですよね。歌曲としてはまだしもなのだけれども、オケに合わせると、オケを鳴らしたくてしょうがないという音楽になってしまう。 で、彼は日曜作曲家なので、それで構わなかったんですよね。つまり、書きたいものを書けばよかった。若い頃にオペラを書こうとして結局果たせないまま散逸したような話らしいですが、向かなかった気がします。そもそも歌はそこそこ書いたのに、オーケストラ伴奏になると歌よりオケが前に出ちゃうしね。 なんでこんな話をつらつら書いているかというと、正直、この編成でなら、トスカのテ・デウムやる方がよっぽどいいと思うのですよ。マーラーというのは真面目な人で、この8番は前半はラテン語の讃歌を、後半はゲーテのファウストの最終場面、神への賛美を材に取っていて、でも楽曲の内容的にはこれもう交響曲じゃなくてカンタータだろ、という。にも関わらず神を賛美するのに聖書とかを持ってきてないんですよね。それには、マーラーのユダヤ人という出自故に諸々憚ったという面もあるのかも知れませんが(何しろ19世紀末から20世紀初めのウィーンは反ユダヤ主義も盛んであったので)、しかし、神の賛美によりによってファウストとは。その一方でプッチーニは屈託なく、オペラの中で教会の場を描いて、テ・デウムを演奏させて、その場でスカルピアの邪な欲望を高らかに同時に歌い上げるという。ああそれなのにそれなのに、正直、90分掛けて神を賛美するマーラーの8番が、10分にも足らぬトスカのテ・デウムに到底勝てるとは思えないのですよ。音楽として。もう編成が勿体無い。SDGsに反するというものです。 まぁ、要するに、私はこの曲が嫌い、ということでいいんですけれどもね。ただ、なんでこんな派手ではあるけれど中途半端極まりない曲を選んだのかね。ファン投票の結果、ということなので、選んだのはファンということになりますが、正直この曲のアンバランス加減とか観ずるに、これ選んだ人達って、派手ならなんでもいいタイプの人達なんじゃないかと思ってしまうのですよ。5分前に何やってたかもう覚えてられないタイプのね。
2023年12月17日
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北とぴあさくらホール 14:00〜 2階左手 ラモー:レ・ボレアード アルフィーズ:カミーユ・プール アバリス:大野彰展 アダマス/アポロン:与那城敬 セミル/ポリムニ:湯川亜也子 ポリレ:山本悠尋 カリシス:谷口洋介 ポレアス:小池優介 バロックダンス:松本更紗、ニコレタ・ジャンカーキ、ピエール=フランソワ・ドレ、ミハウ・ケンプカ レ・ボレアード 指揮・ヴァイオリン:寺神戸亮 うーん................................... 実は、先月、お休みを貰って、1週間ばかり欧州に行ってあれこれ聞いてきました。丁度ウィーン・フィルとベルリン・フィルが日本にいる時期にウィーンとベルリンを経巡っているのだから世話はない。代わりにあれこれ客演物とか聞いてきたのですが、結果、丁度ベルリンのBaroque Tageと重なったこともあって、連日、ベルリン古楽アカデミー、フライブルク・バロックオーケストラ(ラトル指揮)、ルーブル音楽隊(ミンコフスキ指揮)、ピグマリオン(ピチョン指揮)と聞くことになりまして。流石にこれほど浴びるように聞くというのはなかなかない。 で、思うところは色々あるのですが、少なくともかなり点が辛くなるのはあるとは思います。ただ、改めてこれだけ並べて聞くと、気付くことはあって。いや、当たり前のことなんですが、もうこの辺の人達になると、上手いんですよね、とにかく。わかりやすくいうと、「ナチュラルトランペットだから外れる」なんて有り得ないんですよ。いや、外れることはないわけではないんだけれども、「ナチュラルだから」みたいな言い訳効かないんですよね。ただ外れてるだけ。だからミスはミスだし、それ以上でも以下でもない。古楽だから、みたいな言い訳無いんですよ。フライブルクはハンブルクのエルプフィルハーモニーで聞いたのだけれど、これまたバカでっかいホールで、その中で、確かに編成は大きくない。でも、確かに裏の最前列だからよく聞こえる場所なのは確かだったけれど、ちゃんと普通に聞こえるんですよね。ルーブル音楽隊はベルリン国立歌劇場でモーツァルトの「ミトリダーテ」をやったのだけれども、これもまぁ面白くて、全然モーツァルトに聞こえない。でも音楽としては落ち着くところに収まっている。 で、そういう、言い訳が要らない「古楽」を散々聞いてきたところでのこれなんですけれどもね..... 私、団体としての、というか、北とぴあ国際音楽祭としてのレ・ボレアードは、これまでそんなに悪い印象はなかったんですよ。で、今回はどうだったかというと、それほど悪いわけではなかったけれど、ただ、率直に感じてしまったのは、「ナチュラルホルンが外れる」ということなんですね。いや、別に、だからいけないんだと言ってるんではなくて、全体に「そういうもの」として成立してしまっている。そのせいかどうか、今までどうだったか、というのはちょっと分からないのだけれど、寄せ集め感が拭えなかったのですね。こういうものだからある程度いまいちなのは仕方ないけど寄せ集めてこれだけ作ってみました、すごいでしょ、という感じ。 日本のね。古楽関連って、こういう感じが凄くするんですよ。実はBCJもそうなんだけど。でもさぁ、BCJの録音の時とか知らないけど、そういう条件付きとか言い訳とか関係無いよ、これはこれでどうだ!って演奏を提示出来る人たちが沢山居るよね、というのを目の当たりにしてしまうと、頑張ってるのはわかるけど、頑張ってる時点で負けてるよね、という思いが深いのです。 いや、実力の差こそあれ、これはこれで....というのは勿論あります。でも、そういう意味で言うと、寄せ集め感を何故感じるかというと、まさに統一した音楽として出来ているかという問題に当たってしまうから。 どういう音楽を目指しているか、オケの中で統一が取れているのか、ちょっとピンと来ないんですよね。まぁ、言ってしまえば、これ、日本のオケあるあるなんですが、ただこの人数でもそこがはっきりしないのは、やっぱりどうなんだろう。上手い下手って、実はそういうところも大きいと思うんですよ。さっき「ナチュラルホルンが外れる」って言いましたけれど、外れても、音楽の方向性がこうだよね、というところで「プワ♭」とかって外れても、音楽としてはそれだけではそれほどのダメージじゃ無いんですよ。でも、全体として何処行くかよく分からない感じでやってる中で外れると、ダメージは大きい。そういう意味での寄せ集め感が否めない。 で、その弊害が、「全部同じに聞こえる」ってやつなんですよね。「そんなことはない!」っていう人もいるかもですが、少なくとも私が聞いている限り、どの場面も、音の強弱大小、短調長調、早い遅いはあるけれど、それが、「ここはこうだよね」という意志と結びついているように聞こえない。その最たるものがこの作品で盛んに出てくる舞曲です。これが、曲として違うのは分かるんだけれど、全部同じような音楽に聞こえてしまう。でも多分そうじゃないんじゃないのかと。わかりやすいのは最後のコントルダンス。ここは賑々しくフィナーレを迎えるダンスであって、でも、それまでの舞曲とさして違って聞こえるわけでもない、というような、ですね。 寄せ集め感をいや増すのは、歌唱陣とダンスとがやはり寄せ集めを感じさせてしまうから。 歌唱は、はっきり言って、出来の良し悪しもあるけれど、それ以上に歌唱スタイルにも違いがあり過ぎて、結構違和感があるのですよね。声の大きい小さい、これには柄の大きさの違いもあるけれど、たとえばそういうことだけで済まずに、声に差があり過ぎる。だから、間違ってはいないのだけれども、いい悪いじゃないのだけれども、取り敢えず歌える人連れてきました感が拭えない。そこで歌手同士でもう少し擦り合わせて、整えて欲しいと思うのですけれども、どうもそういうことをあまり考えてなくて、「自分はこうなんだからこう歌う」みたいな感じでやっていて、このオペラを全体としてどう作るか、みたいなことはあんまり考えていないんじゃないだろうかと。 加えて、舞台上での演技というか芝居というか、動きが、合唱も含めていまいちなのです。 この公演、舞台奥にオーケストラを構えて、その前面で歌い手も踊り手も演技する形です。元々小編成なので舞台奥をオケに取られても、狭いなりにそこそこスペースはあります。ただ、形式としてはオペラ=バレという形になるのか、バレエというかダンスが相当のウェイトを占めるので、残った舞台上には基本舞台装置の類は無く、さながらダンススタジオのようなフロアが広がっているだけ。だから、歌手だけ見れば、むしろ演奏会形式に近いです。ただ、衣装はそれっぽいものを着ているし、演技も一応付けているし、そういうことをするだけのスペースはあります(踊れるんですからね)。さればこそ、各人の演技が、合唱に至るまで、舞台をそれらしくする上でも重要な筈なのだけれど、演技が最低限というか、ああ、悲しんでるから悲しんでるのね、以上のものにはなっていない。特に合唱は、動きにほぼ表情が無い。まるで無いとは言わないけれど、例えば、舞台を捌けるとき、捌けるついでにちょっとそれっぽい仕草もしてみせる、くらいのものになってしまうのですね。演技というか仕草があって、ああ、だからこの人達は舞台上から見えなくなるのか、くらいのところは欲しいのだけれども。ちゃんと舞台装置があって、別に個々人の動きや何かでその場面を示さなくても、今こういう場面だよね、というのが他で説明してくれている、つまりは普通の舞台ならそれでいいのかも知れないですが、これはそういう公演ではないのでして。それでは困ってしまうのですよ。 ダンス。専門家を迎えて、というのは分かるのですが、役柄以上にやはり個々人のスタイル、動きが違うのですよね。だから、これも微妙にチグハグ感があってどうしても気になってしまう。確かに専門家を揃えてというのは大変なのだろうとは思います。ただ、それはそれ、これはこれ。舞台としての完成度というのはだから気にならない、とはならないのですよ。 いい悪い、という話で言うと、悪くない、という話にはなるのでしょう。かてて加えて日本初演だのなんだのでまたぞろ意義深い勢が出て来るんでしょうね。でも、これもいつも言うことだけれども、今時日本初演で意義深いなんて時代錯誤もいいところだと思います。演奏する側としては最大限頑張りましたすごいでしょ、って言うのかも知れません。でも、正直言って完成度は決して高くないし、レ・ボレアードという団体として見ても、これまで観た中では一番「?」な公演だったんじゃないかと思います。決して観なきゃよかったなんて思ってもいないけれど、でも、そうだったよね、ということは言っておきたいと思います。
2023年12月14日
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新国立劇場 14:00〜 4階正面 アイゼンシュタイン:ジョナサン・マクガヴァン ロザリンデ:エレオノーレ・マルグエッレ フランク:畠山茂 オルロフスキー公爵:タマラ・グーラ アルフレード:伊藤達人 アデーレ:シェシュティン・アデモ ファルケ博士:トーマス・タツル ブリント博士:青地英幸 フロッシュ:ホルスト・ラムネク イーダ:伊藤晴 新国立劇場合唱団 東京シティ・バレエ団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:パトリック・ハーン 演出:ハインツ・ツェドニク まぁこうもりだし、あまり野暮なこと言うものではないという考え方もあるのですが、それ言い出すとキリがないのでね.......もうどんどんダメ出ししていこうと思います。 まずそもそもの話。こうもりは3幕ものですが、この公演休憩は1幕の後だけ。2幕と3幕は続けて上演されます。1幕が50分くらい、2幕と3幕が100分くらい。これがね、もうね、無粋極まりないと思うのですよ。この公演を象徴するような話。後で演出の話と絡めて書きますが、以前新国立劇場でも2回休憩で上演した筈です。で、どういうつもりでわざわざ休憩省いたのか知らないですが、少なくとも2幕終わってから場面転換して3幕始めるまで5分弱は掛かってました。つまり、どのみちそのくらいは無為に過ごすことになる。ついでに御丁寧にオケはチューニングし直してました。まぁそうでしょう。休憩は入れるべきでした。元々演出だって休憩省く想定じゃないんだし。 その演出ですが、結論から言うと出来が悪かった。原演出がダメなのではないのです。原演出は2006年に出したハインツ・ツェドニクのもの。ツェドニクはその後フォルクスオーパーでもほぼ同様の演出を出していて、最近見てないですが、フォルクスは今もツェドニク演出の筈です。その程度には評価出来る演出であるし、新国立劇場でももう7回目。決して悪い演出ではない筈。要するに、再演演出で腐ってしまったと言うやつでしょう。何がダメか?要するに、これまた無粋なのです。無粋というより、こうもりというオペラを理解していないというか、お客として劇場で観たことないんじゃないか、と思ってしまうような、そういう演出。 こうもりの舞台はウィーンです。上演されるのはドイツ語圏が主ですが、中でも必ず上演するのはやはりウィーンの国立歌劇場、シュターツオーパーとフォルクスオーパー。ではいつでも観られるか?というと、実は、シュターツオーパーでは上演されるのは12月31日と1月1日。その前後に数公演あったりしますが、基本的に年末年始だけ。実はフォルクスでも年末年始以外ではあまりやらない。その理由は、このオペラの舞台が「大晦日」だ、ということになっているから。原典のト書にそう書いてあったかどうかは、手元に楽譜もないし、ちょっと確認できないのですが、ウィーンで上演する場合は「舞台は大晦日」と決まっている。第3幕ではお約束のくすぐりの一つに、フロッシュが12/31のカレンダーを捲ると32日になっている、というのがあるくらい。なので年末年始にやるのですが、シュターツオーパーで年末年始に「しか」やらないのには理由がある。それは、こうもりは「オペレッタ」だから、というのが定説。 ウィーンの常設歌劇場はシュターツ、これを一般には国立歌劇場と呼びますが、それとフォルクスの2館になります。で、一般に、オペレッタはフォルクスではやるけれどシュターツの方ではやらない。コウモリだけでなく、たとえばレハールの「メリー・ウィドウ」なんかもやらない。オッフェンバッハの「ホフマン物語」はやるし、或いは「天国と地獄」くらいはやってるかも知れないけれど、基本やらない。それは格式の問題とも言われてました。音楽的な意味での格式なんじゃないかとは思いますけれどもね。 一方のフォルクスの方の演目を考えると分かる気もします。フォルクスはこじんまりした劇場で、演目もオペレッタ系が多い。それだけでなくミュージカルも結構やる。オペラも、ポピュラーなもの、喜劇ものはそこそこやります。フィガロくらいはやる。逆に、フォルクスで殆ど掛からないだろうというのは、大掛かりとかいう以前に悲劇もの。ワーグナーはまずやらないでしょうね。ヴェルディも、椿姫くらいはやってるかもだけど、運命の力とかドン・カルロはまぁやらないでしょう。個人的にも記憶にあるのは、こうもり以外では、メリー・ウィドウとかマルタとかヴェネツィアの一夜とか、フィガロもあったな、と、まぁそんなところ。そういうのは基本役割分担ができている。シュターツでオペレッタは、やらない。 でも、正月くらい、リングの大劇場にやってくるお客も、お気楽な喜劇を観たいわけです。お祭りみたいなものですね。日本だと正月くらい寄席にでも行こうか、というような。いやあれは本来は三河萬歳の門付けみたいなものがそもそもなのか。でもその感覚の方がかえって近いかもですね。話をウィーンに戻せば、お祭りなので、大晦日のこうもりではガラコンサートが付いてくる。昔ウィーンで大晦日に観た時は、確かアンナ・ネトレプコが2幕の宴会の場で出てきましたし、ウィーンと並んでほぼ毎年やってる筈のバイエルンでは、マルセロ・アルバレスともう一人誰かが歌ってました。もう30年以上前ですが今でも映像に残る、メトのリンカーンセンターの25周年だかのガラでは、こうもりの2幕だけ持ってきて、そのガラ・コンサートがもうなんというか.....知らない人はDVD探して下さい。まぁ要するにお祭り。 長々と書きましたが、こうもりというのはそういうものなのです。日本とウィーンは違う?でも、これはそもそもそういうオペラというかオペレッタだし、ツェドニクの演出もそういうものとしてあるのです。 で、無粋というのは、そういう演し物としての性格が死んでしまっているのですね。一番がっかりしたのは、合唱というか群衆というか、の演出。2幕冒頭、紗幕が上がる前の時点から、とにかく動かないのですよ。東海林太郎か鶴田浩二か、って言って今の人分かるのか知りませんが、このお二方は歌われる際に直立不動で歌っておられたのです。それと一緒。棒立ちで歌うが如く、夜会の客としての動きがない。それで全編行ってしまうので、踊っていて然るべきシーンでも踊らないし、あからさまに踊れと演出付けられたので踊るような動きしてみました、という感じ。興醒めです。新国の合唱団ってこんな大根だったっけ?もうちょっと芝居出来るんじゃないのか?.....いや、まぁ、出来ないのかもだけど。でも、こうなってしまうと、「これはウィーンの豪奢な邸宅で行われているオルロフスキー公爵の夜会」という見立てのマジックが効かないのですよ。実はこの幕で一番大事なのはそこなのです。それがうまくいかないと全て悪循環。 合唱で言うと、この幕の中で、ロザリンデのチャールダーシュの後に、確か「ハンガリー万歳」という表題だったと思うのだけど、ポルカ・シュネルだかが演奏されて、バレエが付いているのですね。それはいいのだけれど、合唱の一人がやたらでかい音で口笛を鳴らすのです。執拗に。まぁはっきり言って下品な感じで。勿論本人が勝手にやってる訳はなく、演出が指示しているのだと思います。いや、やらせたいならそれでもいいですよ?でもさぁ、あんなに鳴らさせるのなら、この人 - この場合は合唱団の一員、って意味ではなくて、この夜会の客の一人、という意味 - はその前のより扇情的な筈のチャールダーシュで黙りこくってたのかね?アイディアは間違いとは言わない。そこだけとらまえてみればおかしくなさそうに見える。でも、オペラというのは、舞台というのは、一続きの「虚構」としてお客に見せるものだから、その一続きとしての「自然さ」、「騙されやすさ」というのは結構大事なのです。お客が醒めちゃダメなんですよ。ここのバレエも含めて、バレエダンサーはよかったんですけれどもね。それだけに、他とのギャップが悲しいという。 演出の問題としてもう一つは、主要人物達の芝居が出来ていない事。それは個々の歌手の問題では?と思われるかも知れないですが、これも演出の問題だと思います。 1幕、アイゼンシュタインが喜び勇んで刑務所に行く為に正装の準備をしているところ。アイゼンシュタインが「私の靴は?」と舞台裏から訊くのに、舞台にいるロザリンデとアデーレが「私のベッドの下!」と同時に答える場面。まぁ、このやりとり、いろいろ問題はあるのですが、要するにこれ二人とも「アイゼンシュタインは私のベッドの下に靴を蹴り込むわよね」と自然に思っているということ。即ちアデーレとアイゼンシュタインは「寝てる」訳です。だからこの場面はくすぐりとして機能する。なので、ただぺろっとそれを言っただけでは勿体無くて、この二人がどういう表情、どういう芝居をするかでニュアンスの濃淡が出てくる訳ですが、まぁ、正直、淡白というか、芝居はあってなかったようなもの。 3幕のフロッシュとアルフレードのやり取りもそう。アルフレードがタバコの火をくれと言って賄賂、まぁチップみたいなものでしょうが、を渡す。それがあまりに少ないものだから、フロッシュが「職業はなんだ?」「オペラ歌手だ」「何処と契約してる?」「新国立劇場!」で、フロッシュが悲しげに同情してチップを返して肩を抱き.....というくすぐり。これ、フォルクスなら当然契約先は「フォルクスオーパーだ!」となるわけで、定番のくすぐりですが、確か原作にはなかったんじゃないか。いや、あってもなくてもいいんだけれど、これはくすぐりなので、このおかしみが出ないとつまらないんですが、この芝居が弱くて、フロッシュが憐れんでいる感じが出ないんですよね。 似たような話は幾つもあって、結局芝居が付いてないので、やることはやってるけれど、見立てのメッキが剥がれちゃうんですよね。それではこうもりはつまらない。自然な演技を目指した?そうかも知れないけれど、正直こんな話自然を目指してもしょうがないのでしてね。 第2幕と3幕の間の休憩を飛ばしたのは誰のどういう判断か知らないですが、あれは省いちゃいけない。幕間のバールの売り上げが変わるから。いや実際第2幕はシャンパン飲んで大騒ぎ、の回なので、その後の休憩では確かに売れ行き良さそうなんですよ。そういうこともあるけれど、この第2幕と第3幕って、言ってみれば飲めや歌えや大騒ぎと、その後の二日酔いの頭を抱えての苦い喜劇、なのです。つまり、性格が根本的に違うし、笑いの質も変わってくる。ウィーンやミュンヘンでは、特に大晦日のソワレでは、第3幕ではフロッシュが時事ネタを交えて結構際どい笑いを取っている。今年なんかどうするんだろうな。とてもじゃないけど笑うに笑えないネタが二つも - ウクライナとパレスチナ - あるし、どこまでやるのかわからないけれど、第3幕はそういうものも包含するような幕であり、そういう笑いです。第2幕とは質的に違う。だから、ここは休憩を入れて分けた方がいいと思うのです。 原典がどうとか言う割には、オペラの幕割は結構軽視されてる気がしますが、当然書いている方は上演することを前提にして書いているので、休憩入れるなりしてはっきり割った方がいいケースはやっぱりあるのです。ここはそういうケースでしょう。 元のツェドニクの演出はいい演出だと思いますよ。それを舞台に再現する時に、注意深く丁寧に考えてやらないといけないのだと思います。 歌唱は...........まぁ、そうねぇ.......ロザリンデは、比較的歌えていたけれど、ムラはあったね.........オルロフスキーは、あれは、明らかに不調だったのだろうと思います。アルフレードは、声はでかいね............. 最近、昔のエントリーとか読み返してると、前は真面目に歌手がどうだとか書いてたなぁ、とか思うんですけれどもね。最近そういうふうに書かないのはもちろん理由があって、まぁ、お察しくださいというか.....その辺の話は今度ちゃんと書こうと思います。 音楽的には、オケが一番良かったかなぁと。粋ではなかったけれど、無粋ではなかったな。この日唯一の救いといえば救いであったかな。そういう意味では決して楽しまずに帰ってきたわけではないのだけれどもね。でも、無粋だよなぁ、という思いは拭えなかったのでした。
2023年12月10日
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