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緑の森とほっこり!レジェンド葛西の町「下川町」No.1,グルメ&スイーツ,時代と土地と人とお菓子,レジェンド葛西の町「下川町」、緑の森と、ほっこり!_No.1レジェンド_葛西紀明 こんだけ顔全部隠れていても、彼だとスグ解る。この姿勢「カミカゼ!」&このお手々!いい町、いい人、美味しいモノ!ご紹介冬の気温は恐っそろしく寒いけど、暖ったかいハートの町!「町民憲章」の真っ先に、★暖ったかい言葉★心も、からだもすこやかに、あたたかい家庭をつくりましょう。 日本列島は、春の音、春の花・・・かもしれないが!!北国は、まだまだ、全然それどころでない!因みに、下川町は、「特別★豪雪★地帯」、「山間農業地域」!!されど、「環境モデル都市」&「環境未来都市」・・・まさに、輝けニッポン!真冬の万里の長城!延々立ち並ぶは「アイスキャンドル」景観!勿論「万里の長城(桜ヶ丘公園)」は現世の観光イメージアップ施設であり、人造。されど、アイスキャンドルの景観は圧感!(イメージ宣伝写真の商品無いわ!全然、商魂逞しくなくて・・おっとりしてるところもこの町のイイトコロ!)レジェンドの里「下川」から_「アイスキャンドルプリン」 ___ 新たなる★レジェントぶらんど誕生!?★を夢見ちょりますが?!左:アイスキャンドルフェスティバル宣伝写真付きの商品ないから、とりあえず!町がこーゆー景色に変身!(イマジネーション、ご協力宜しく!オブジェはご当地産商品でないが!) __★緑の森と、★赤いトマト&★オレンジ色トマト緑、緑、緑~~。それもそのはず、町の面積、約9割が森林!_とはいえ、森の産物だけじゃないよ。農業も大成功。▼■糖度が高くて甘~い!★赤いトマト&★健康の女神「オレンジキャロル」は大絶賛、【左】_オレンジキャロル( ベータカロチンが普通のトマトの5倍 !=ご当地オレンジ色トマト)のジュース __次は、下川町のほっこり!が心に伝わる!!・・・心洗われる!ほのぼのポエムな犬「ウッシー」のイラスト漫画家(下川町在住)の作品ご紹介犬猫可愛服&人の暮らし&グルメ、ゾロゾロ色んな記事!▼サイトTOPは犬猫サイト<ヘンデル&グレーテルの美味しいお菓子とグルメ、大冒険<現在特集:レジェンド葛西の町「下川町」、緑の森と、ほっこり!No.1<No.2
2014.02.23
旭川氷点下41℃と大正10年ビタミンかすてら,銀メダル女子スノーボード竹内智香さんの町旭川市編,グルメ&スイーツ,時代と土地と人とお菓子No.1,【楽天市場】時代と、土地と人とお菓子_No.1旭川_氷点下41℃_高橋製菓「大正10年ビタミンかすてら」旭川市=スノーボード女子銀メダル「竹内智香さんの町」 氷点下41℃・・・っちゅう名のお菓子でござる!ちょい昔は、冬、マジ !この気温、よくあったらしい。カーテン開けたら、窓ガラスは菊模様に化けてて、なんも見えん!ジャンジャンバリバリ!樹氷も、ダイヤモンドダストもロマンチックでないっちゅうの!要らん!息吸いこんだら、気管にまともに入ってこない!苦しいぞ!前髪、横髪、息で瞬時に白髪に化ける!それが、氷点下41℃_ 大正の話!戦後の栄養失調と、ビタミン入りお菓子を子供に!さて、この御菓子「氷点下41℃」の会社は、大正6年旭川創業の高橋製菓。元気の証=ビタミンカラーオレンジ色タスキ!」をかけて、今日も頑張っているロングセラー「かすてら」も!カラダに美味しいビタミンB1&B2が効く!!このカステラ発売開始は大正10年以来。お気軽プライス(菓子パンもしくは、駄菓子感覚) _ 「どっかで見たことあるなァ」の皆様と、お初!の皆様と、当然、双方なのが日本列島!なのですが、まあ、それはさておき、地域密着、地域と共に歩み労苦を乗り越え、今日も微笑み続ける「オレンジ色の斜めタスキ!」。▼発売は大正10年。その頃とは、第1次世界大戦(1914(大正3)~1918(大正7))がやっと終わった頃。子供達は栄養失調、脚気等。お金があれば、美味しい本格派の長崎カステラ買えばいいが、そーゆー時代じゃない。▼初代社長さんは、考えた。できるだけ安くて、どこの家の子も、みんな食べれる御菓子に工夫して作れないかな?▼いうなれば、カステラの駄菓子化・・なのだが、栄養にこだわった。・・そーゆーレシピにしたら、腐りにくい=丁度、日持ちもするし、ご当時ニーズ=保存食的要素も二重丸。だが、世の背景は、ますます戦争時代・・・、_ _ _ ついに、日本は1945年(昭和20年)敗戦国と化す。その上、1952年(昭和27年)まで、GHQの監視下。この時代の製菓業の皆さんは、よく頑張っている。儲けよりも先行して、子供達になんとかしてあげたい熱意!昭和、レトロ、日本の御菓子と子供ちょい歴史:それに係る記事は多種あります。「わくわくドキドキ!記事玄関」からどうぞ。高橋製菓も頑張った。▼元気の力!よしっ!ビタミンを入れてあげよう!カラダに美味しいビタミンB1&B2が効く!!お気軽プライス、駄菓子屋さん&近所のお店で買える包装。「オレンジ色の斜めタスキ!」の御姿パッケージが定着したのは、昭和30年代初頭。敗戦後GHQ解放後。■旭川と、三浦綾子と、作品(塩狩峠、_ _犬猫可愛服&人の暮らし&グルメ、ゾロゾロ色んな記事!▼サイトTOPは犬猫サイト<ヘンデル&グレーテルの美味しいお菓子とグルメ、大冒険<現在特集:「時代と、土地と人とお菓子」 【現在頁_旭川編】_旭川:氷点下41℃と大正10年ビタミンかすてら
2014.02.21
丸くない茹卵黄身も星型,コロンブス資料本頁,文明の利器!コロンブスの茹で卵,暮らしに便利と微笑みをNo.3,茹で型!,丸くない茹卵:キティー型卵,黄身の形も星型卵その秘密は!,【楽天市場】コロンブス達の時代、参考本特集,人物史と、大陸を渡って変遷した食物文化,【楽天市場】コロンブスの茹で卵!んっ?_No.3No.1=文明の利器!丸くない茹で卵!◆キティーちゃん型卵、◆リラックマ型卵他、外形だけじゃなくて、黄身の形までなんと!・◆ハート型卵、◆星型卵、他!No.2=怠慢は美徳也!・・次なる発明の泉也!(おもろくて、楽&便利な他アイテム少々ご紹介!No.3=ちょっくらマジメ編_コロンブス達の時代、参考本特集_ _____大冒険野郎!の活躍で、食生活が変わった!大陸を渡って変遷した食物_サイトTOPは犬猫サイト<ヘンデル&グレーテルの美味しいお菓子とグルメ、大冒険<現在特集【コロンブスの茹で卵!新兵器「丸くない茹で卵!」】<No.1<No.2<No.3「コロンブス達の時代、参考本特集」(現在頁)
2014.02.03
日本国内ビスケット生産開始について,ギブミー、チョコレートと、ポケットの中、涙のビスケット昭和日本!ポケットの中、涙のビスケット物語No.2,昭和,敗戦被爆,THE日本No.11,写真集とコラム,【楽天市場】昭和日本!ポケットの中、涙のビスケット物語_No.2昭和 敗戦 被爆:THE日本特集:No.1~各頁特攻隊,連合艦隊,陸軍中野学校,敗戦後の子供達,原爆と被爆,少年兵,戦争と女,反戦論者と、屈して筆を汚した記者達【現在頁:特集補足編】_「ギブミー、チョコレート」と、「ポケットの中、涙のビスケット」日本国内ビスケット生産開始について前頁から読む=昭和ビスケット小特集No.1日本におけるビスケットは、ずっと昔、カステラなどと、同様に、ポルトガルから齎されたにもかかわらず、その存在は軽視されてたか、なんだが、ちっとも、それらしきモノは、史実上、脚光浴びてない。ところが、幕末に、脚光を浴びることに。それは、こちらのお方、ペリーさんのコンニチワ「1853年」以降。・・・◆【ペリーがあんなに威圧的だったのはなぜか?】編へGO!(ペリー編:他にもいくつかあります。)この時、日本人が本気で、ビスケットにご注目。躍起になって生産開始する。注目の原因は、国防意識と、兵隊の兵糧。即ち、お菓子としてじゃなくて、保存できる携帯食の価値に、複数の地、複数の皆さんが、それぞれ着目。なんだか、悲しいけど、鉄砲とビスケットと戦争が、ワンセット。国内生産の順番からいくと、まずは窓口長崎がナンバーワン。その次は、韮山。但し、大々的スケールではない。本気の生産に踏み切ったのは、上記のペリー事件(1853年)後。はっきり、数値が残るのは水戸藩(後述:1855年)。薩摩藩は、おそらく、これより時期的には、ほんの少し、遅れたと思われるが、本格的に大量に生産して、戊辰時、兵に持たせた実績としては、おそらく薩摩藩が一番。箱館戦争時の榎本軍に於いて、額兵隊らも保持してますが、これはおそらく国産ではなく、輸入の購入品。古くは、なんといっても長崎。長崎には、ビスケットやパンを作れる者が居た。■幕府の者として、韮山の江川英龍のパターン。天保12/5/9(1841年) 、長崎の高島秋帆は、徳丸原で高島流の砲術演練公開。西洋式銃の価値を披露。この時、鉄砲の披露の後、江川は、いち早く、ビスケット(っちゅうよりも乾パンみたいな)にも注目。高島が連れてきた模範兵の中、パン技術のある兵が居た。そこで江川は、高島に承諾を貰って、この男を暫し、お借りして、パン技術を、韮山に伝授してもらった。その為、時期的には、彼が早い。生産は翌年、1842年。江川は、反射炉建造と、韮山塾で有名ですが、バランス宜しく、ちゃんと、携帯食用(ビスケット&乾パン)も生産に持ち込む。他に、一般食用の普通のパンも。彼は複数の手代の内、柏木忠俊(=柏木惣蔵)に、この一件、兵糧としてのパン生産全て委任する。尚、この江川はご受難を。関連:■幕軍&松前えとせとら_Vol.7=「中島三郎助えとせとら特集No.3」■幕軍&松前えとせとらSERIESの目次=Vo.M_00■薩摩の西郷隆盛のパターン。榎本武揚達が学んだ「長崎伝習所」仲間には、薩摩藩士も居た。西郷は、彼らから、そのビスケットの話を聞き取り、藩内で作らせた。味に、彼ら流の改良を加えて、胡麻を混入。塩味。これが薩摩流。誰だったか、すっかり忘れましたが、確かに回想しておりました。▼「ああ、あの頃、あのアレ、ビスケットっちゅうやつには、甚だ、助かったよ。」・・・軽いし、腐らないし、栄養補給できるし。前頁No.10に記載した内容の内、戊辰時、奥州の子供が、薩摩兵に貰ったビスケットとは、案外コレである可能性多大。外国製の美味しいバタービスケットか?と思いき、案外、薩摩特製!ゴマ入り塩味だったかも?尚、この話には、奥州側の古老談も有り、合致する。「ありゃ、もう、美味しかったのなんのって!」と語る。はて、そんなに美味しかったビスケットとは、まさか・・上記のゴマ塩タイプか?!(そりゃ寂しい!!)■水戸藩のパターン。2月28日とはビスケットの日水戸「蘭医_柴田方庵」が学びとる。彼は長崎に行き、オランダ軍医オットー・モーニッケに西洋医学を学ぶ。 日本で初に、牛痘の接種 に着手した者チームの一人として有名。だが、もうひとつ、彼には功績が。それが、ビスケット。医学のついでに、それも知った。さっそく、この便利な携帯食の価値に注目して、水戸藩の萩信之助に、そのレシピを書き送っている。その期日が、1855年の2月28日。そこに発して、2月28日とはビスケットの日となされた。即ち、ビスケットとは、兵糧だった!お~っ!淋しい。ビスケットと鉄砲と戦争のワンセット時代でありました!幕末にその価値を認められたビスケットは、明治大正昭和の戦争時代~戦後の欠食時、大活躍一度覚えた事は反復して、長らく活用するのが、日本人の特性。幕末、こうして活躍したビスケットは、明治大正昭和・・・ずっとずっと、長い間、兵隊さんのお助け食料。勿論、民衆のお菓子としても変遷を遂げているが、絶対量としては、やっぱり兵糧。軍需工場に指定されて、戦争モードに塗りつぶされてしまった。「軍人の夢の味!保存食最適品! 」このキャッチがなんとも悲しい。【左】_元陸軍歩兵、鯖江第三十六連帯御用達。軍隊堅麺麭(ぐんたいかたパン (木村屋))【右】_坂栄養食品株式会社「塩味A字フライビスケット」。これは北海道であり、このスタイルは戦後。 __ 坂ビスケットとして知られるこの会社「坂栄養食品株式会社」は、昭和25年(1950)、スタートして、数年後札幌に。しかし、その前身は、同じく北海道ながら、士別の澱粉工場であり、明治44年の創業。時代背景上、澱粉といえば、当然、さぞや、軍にも、貢献したことでありましょう。戦後の食糧事情と、ビスケットの時代到来さて、敗戦。戦争は終わったが、今度は、欠食事情。子供に限らず、皆さん、餓えている。これにて、ビスケットのお役目が少しだけ、変わった。今度は、兵糧じゃなくて、滋養&満腹を満たす目的。上の「塩味A字フライビスケット」は、現世も尚、ロングセラー。サクサクしてて、程良い塩味とは、確かに、やめられない!止まらない現象を引き起こす。そんなわけで、昭和日本「ポケットのビスケット」哀歌!サイトTOPは犬猫サイト<昭和 敗戦 被爆:THE日本特集No.1<・・・<No.9_「昭和の文化と暮らし」<No.10=【昭和ビスケット小特集No.1】<【現在頁】No.2<★NEXT=上NEXTボタン=No.3
2013.12.30
日本人丸出しグルメ醤油と佃煮と家康歴史探訪!No.5,江戸の佃島で生まれた佃煮と彼らの移住ルーツ:大阪の佃,徳川家康と、隠密と、干し魚と!日本人丸出し!お醤油と佃煮!_No.5【1】_■朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄、■濃口醤油と薄口醤油【2】_■江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」【3】_■徳川家康と、隠密と、干し魚と!!【3】_■徳川家康と、隠密と、干し魚と!!初めから読む=No.1<前頁から読む=No.4前述のとおり、大阪の佃村&大和田村から、家康についてやってきて、江戸の佃島に住んだ彼らは、保存食の価値と効能、使い方を知っていた。その点が、なかなかのポイント。小魚の干したモノは、携帯便利で腐らないし、栄養有りの保存食。その上、加熱せず、その場で即時摂取できる。彼らは、それを知っていた。実は、一般に忍びの物が、ソレに詳しいと言われる。彼らは敏捷に動く。過酷な長距離走行などの際、軽くて、体力回復、即効性のある食物を複数種類、用途にあわせて、携帯しており、体調ダウンの症状にあわせて、ササッと、ごく少量摂取して、急ぎ、活力を養い対処する。空腹感を満たすには、干し飯だが、滋養には干し味噌。他、梅干とか、色々あるが、彼らは、書物による知識や言い伝えならずや、実体験に基づく。ビタミンだの、カルシュームだの知ってるわけないが、先祖の実体験による効能を知っている。例えば、クタクタで走れない。しまった!の時、クルミ。たかが木の実。されど、アレは脂肪分があるから、少々時間かかるが、エネルギーに。そんな具合で、幾多と効能別食品を知っている。朝鮮人参とかご立派なモノでなくて、そんじょそこらの食品ばっかりだが、ちゃんと役に立つ。_ _京都&大阪時代の家康と、隠密豊臣時代から、腹に含んで、「THE_その時!」を狙い続けた家康には、昔から隠密がワンセット。隠密と言うと、どーも、シュルケン、シュパシュパの忍者を想像してしまうが、そればかりでない。彼らは、とても器用、マルチ人。家康は、彼らを、大阪や、京都、近郊、いたるところに、潜伏させている。けっして忍びの姿で、どこかに隠れているのではなくて、ごく平凡な町民に化けて、そこらの長屋などに住んでいる。多くは、各種職人に化けたり、なんらかの行商人など。その彼らが、すっとぼけて、町の情報を収集してきたり、家康作戦の一環を担い、家康が陥れようとしている人物の変な噂を、ご要望どおりに流して、「撹乱」を謀る係を演じたり。秀吉死亡後、内府様と呼ばれた家康にとって、旧秀吉システムの重役達が、お邪魔。順次、足を引っ張るには、それ相応の対策。町中、噂満タン段階迄待ってから、己の地位を乱用して、裁決。着々と、独裁体制に漕ぎつける。家康とは、実にシナリオ上手。手順を踏んで煮込み料理が得意。漕いで、漕ぎ進め、周囲をお掃除。涼しくなって、気分爽快。さて、いよいよ待望の独裁・・と思いき、石田三成が、噛み付き、粘り倒す。豊臣の番犬みたいに噛み付く。早く徳川が立ちたいが、この忠犬が、予想外に手摺らせてくれる。頭脳明晰だから、困った。これだけは、どーしようもない。そこで、関ヶ原(1600)年。(【関連】「石田三成の「狂言袴」が悲しい」小特集)忍びの里出身者は、目に見える形でも活躍:鉄砲衆天正18(1590)年、家康が江戸に入った時、大阪時代の特殊部隊も各種、彼について江戸入り。例えば、鉄砲衆。大別4組ある。【25騎組(青山組)、伊賀組、根来組、甲賀組】=計4組。皆、基本的に、100人組。鉄砲技術優秀な足軽が100人。▼このうち、伊賀組と甲賀組にスポット。▼■上記の「伊賀者鉄砲衆」のケースは、1602年に、彼ら専用の町屋敷が整備され、大久保の地(百人町1~3丁目)に居住。この隊を率いる者に任命されたのは内藤清成。■その一方、「甲賀組」の場合、に組屋敷は、千駄ヶ谷。鉄砲場は、権田原。警備担当領域は、大手三門。この隊を率いる者に任命されたのは山岡景友 。妙にご親切、サービスシステム・・・住吉神社参拝者には、もれなく、佃島の佃煮一口プレゼント!それはさておき、佃島の佃煮。佃島には、住吉神社が。ここは、海運の安全祈願の名所。多くの人々が訪れる。その際、彼ら住民は、参拝客にサービス。おちょこに一杯、お神酒がわりに、酒をふるまい、その肴に、ちょこんと、小魚の茹でてから干した珍味をプレゼント。この小魚珍味については、前述の「【1項】_■朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄、■濃口醤油と薄口醤油」項目のとおり、当初は、塩味タイプだった為、彼らは「うしお煮」と称していたが、醤油が巷に普及して以来、醤油味、甘辛タイプに変身。ますます、美味しくなって、江戸中、大評判。タダで、酒も飲めるし、美味しい珍味も食べれるし。参拝客は、ついつい、ゴキゲン。当然、チョロッと、なんか喋る。必然的に、情報キャッチ。そもそも、大阪時代から、隠密家業経験有りの彼らなら、そのあたり、操作も上手い。ポロポロ、喋らせる。その内、佃島の珍味は、佃煮と呼ばれ、江戸中ブレイク。佃島内にも、まずは、お参拝の帰り道、お食事の店「佃煮料理の店」が建つ。神社で味わうのは、一口だが、店なら、たっぷり満足するだけ飲み食いできる。ピーチクパーチク、ますます、勝手に喋って、情報やら、噂やらを落として帰る。こーゆー背景もあって、ますます、ここの住人、当初やってきた34人(又は33人)は、今日、単なる漁民でなく、隠密の変身人!と呼ばれる由縁。佃煮文化、社会現象こんなに美味しいものが、おとなしく、いつまでも、佃島に留まっているわけはない。▼そのうち、江戸中、佃煮料理の店やら、佃煮販売の店やら登場。だんだん、レベルアップ。砂糖、生姜、ちょい味噌、唐辛子、山椒、ゴマ・・・テンテンテン。今や、庶民の味ならず。お大名族も、将軍さんちも、佃煮ブレイク。▼佃煮知らなきゃ、野暮だぜ!!の時代到来。佃煮文化は、現世も現在進行形。日本人丸出しグルメ!佃煮無けりゃ、案外困る!!_ ___サイトTOP<■わくわくドキドキ色んな記事玄関<No.1<・・<No.4<No.5(現在頁)
2013.09.14
日本人丸出しグルメ醤油と佃煮と家康歴史探訪!No.4,朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄,濃口醤油と薄口醤油,江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」,徳川家康と、隠密と、干し魚と!日本人丸出し!お醤油と佃煮!_No.4【1】_■朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄、■濃口醤油と薄口醤油【2】_■江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」【3】_■徳川家康と、隠密と、干し魚と!!【2】_■江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」初めから読む=No.1<前頁から読む=No.3前述のとおり、佃煮が醤油味に変身したのは、ずっと後の時代ながら、家康が江戸入りして、間もなく、江戸には、一旦茹でてから干した魚の珍味が登場「うしお煮」但し、江戸中、どこでも食べれるわけでなかった。現代の感覚では、塩味の佃煮なんて、ちょっと物足りないが、当時の皆さん、佃島に行けば、「うしお煮」が食べれる!とばかり、大評判。少し歳月流れて、醤油味に転身する。佃島で食べれるから、佃煮。 この佃島の住人たるや、実は、大阪からやってきた!!家康が呼び寄せている。彼らは漁民の蓑を被り、その側面は、隠密!と言われている。江戸の佃島と、大阪の佃村のオチ大阪の佃村とは、大阪の佃村&大和田村(大阪市西淀川区佃&〃大和田)。彼らは、そこの住人。大阪在住時代、彼ら「大阪の佃村の民」は、「小魚を塩で煮てから干したモノ」を、家康に献上。小魚の干したモノは、携帯便利で腐らないし、栄養有りの保存食。彼らは、それを知っていた。家康と彼らの出会いらしきと、その後の結託天正年間(1580年代)に徳川家康が上洛。その時、彼ら佃村&大和田村の漁民が神崎川に渡し船を提供。上記の「小魚を塩で煮てから干したモノ」献上とは、この時。▼この後、彼らは、家康に、極秘裏に仕える形となる。海上情報を、マメに伝える係。即ち隠密。織田信長も、豊臣秀吉も、船を有して、海戦ができる海軍(水軍)の者を優遇して抱えているが、徳川家康は、それらしき存在を保持していない。即ち、海上が不安の種。▼その後、有名な関ヶ原(1600年)に突入してゆくわけだが、実は家康、この時、水軍出身の戦国大名「九鬼嘉隆(1542~1600)」に、こっぴどい目にあわされた。西軍についた九鬼は、結局切腹お陀仏ながら(注:倅は東軍の為、この家名は残る。)、家康は、思いっきり頭打った。九鬼嘉隆については、私的に大好き人物でして、話脱線が長くなりそうなので、ここでは割愛!▼そこで、大阪冬の陣&夏の陣(1614~1615)の際は、上記の大阪の佃村&大和田村の民が、海情報に係る貴重な隠密係で大活躍。船も調達して、搬送係もやるし、兵糧の運び込みにも大貢献。1590年、佃村と大和田村の計34人(又は33人とも)が江戸の、どこか、この近隣に移住。家康にくっついて、江戸に来た彼らの居住地として明確なのは、少し後の時代になるが、「佃島」。そこで、故郷を偲んでか、そのまんまの地名に。「佃島」。埋立地だから、島がくっつく。その後、1645年、江戸鉄砲洲の百間四方を埋め立て工事して、築島。「佃島」と正式に、地名が。そこで、彼らはここに定住。この段階では、孤立した島。後の段階で陸続きに再工事があった様子。それは、1800年代前半には工事済みが確実。1817年の伊能忠敬の地図で繋がっている。現在の東京都中央区佃。【3】_■徳川家康と、隠密と、干し魚と!!____サイトTOP<■わくわくドキドキ色んな記事玄関<No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<No.5
2013.09.14
日本人丸出しグルメ醤油と佃煮と家康歴史探訪!No.3,朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄,濃口醤油と薄口醤油,江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」,徳川家康と、隠密と、干し魚と!日本人丸出し!お醤油と佃煮!_No.3【1】_■朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄、■濃口醤油と薄口醤油【2】_■江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」【3】_■徳川家康と、隠密と、干し魚と!!【1】_■朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄、■濃口醤油と薄口醤油<その続き>初めから読む=No.1<前頁から読む=No.2大陸から伝わった「醤(ひしお)」の原型から想定されるもの・・「魚醤」そーいえば、東南アジアに於ける日本のお醤油の役目といえば、ふと「ナンプラー」が脳裏に浮かぶ。そこで、お魚に由来する「醤」といえば、日本では、秋田の「しょっつる」が有名。右は、隠し味に「魚醤」を使った専門店の商品。やはり、ひと味違う。通の味。▼ナンプラー、秋田のしょっつる、他「魚醤」__ __ __ __秋田名物、ハタハタ、ぶりこ!__ __歴史の表記上で、醤油、または、それに類する言語を追いかけてみる。■701(大宝元)年:『大宝律令』に、「醤」<まず、「醤油」の別名≒「簀立(スタテ)」≒たまり>■この「簀立」という表記であれば、1548年(天文17)の古資料にも発生している。■この「たまり」という表記であれば、1603(慶長8)年。これは、原料が味噌である旨記載されている。■寛永(1624~45)の1640年代に、江戸は醤油ブレイク。醤油味体験世代と、それ以前のお気の毒将軍さん■1代_徳川家康(1543~1616:1605以降大御所):お気の毒世代■2代_徳川秀忠(1579~1632:1623以降大御所):お気の毒世代■3代_徳川家光(1604~1651:死ぬまで将軍):ラッキー世代(そのわりには、この人「家光」は、好き嫌い激しい。食欲乏しい。胃弱い。案の定、死因に胃病説も。アレ嫌い、コレ嫌い、何にも食べない幼児家光に手を焼いた春日壷は「虹色ご飯」を!家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳」の項目へリンクします。▼次の項目【2項】_■江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」猫ちゃんにも、小魚カルシューム&歯磨き効果おやつ __ __【姉妹編】:★猫ちゃんの鰹節おやつ物語(美味しいキャットフードとおやつ)▼【姉妹編のそのまた姉妹編】=人編「日本人!丸出し!鰹節歴史&小話&お料理」サイトTOP<■わくわくドキドキ色んな記事玄関<No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4
2013.09.13
日本人丸出し!お醤油と佃煮歴史探訪!No.2,朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄,濃口醤油と薄口醤油,江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」,徳川家康と、隠密と、干し魚と!日本人丸出し!お醤油と佃煮!_No.2【1】_■朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄、■濃口醤油と薄口醤油【2】_■江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」【3】_■徳川家康と、隠密と、干し魚と!!【1】_■朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄、■濃口醤油と薄口醤油前頁から読む=No.1お醤油が巷に登場したからこそ、現世の「佃煮」が誕生!・・ダントツ美味しくなった。贈り物にも、佃煮。お武家様も佃煮。佃煮文化が花咲く。<■干してちりめん!、■現世のお味、>江戸の佃島でも、初めは、塩茹で魚を干した状態の製品。醤油が出回ってから味がバラエティーに。時代と共にぐんぐん進化。ちょい味噌、生姜、山椒、唐辛子、ゴマ、水飴、味醂(ぐっと後の時代)・・と無限に広がる_ __醤油について<関東の味「濃口醤油」と、関西の味「うすくち醤油」>■濃口醤油濃口醤油の発生について、明確ではないが、場所は江戸近郊であり、その時期は1640年代といわれる。■うすくち醤油対して、「うすくち醤油」の発生は、皆さんの予想どおり、発生は関西であり、兵庫県たつの市といわれる。発明家として名が残る人物は「円尾孫兵衛」。その時期は、濃口醤油発生より、少し遅い。 1666年(寛文6)年。<濃口醤油と、どう違う?>上記の、円尾孫兵衛は、醤油もろみに、米を糖化させたものを混入させて、まろやかに。必然的に、色も、その名のごとく、薄くなる。 ▼しかしながら、醤油と呼ばれる時代以前から、それらしき類事物、「原型的な物質!」は、昔から、「あるところにだけ!」は、あった様子。古代の朝廷は、貴重なモノは、神聖なるモノ。朝廷内のみの世界!朝廷内には、「主醤」という名前の専門の官職があった。現代の醤油とは、全く異なるが、その原型に値するソレを造る専門職。秘伝であり、世襲である。その為、レシピ云々は、おかげさんで謎である。701年(大宝元年)の『大宝律令』に、「醤(ひしお)=※下項目記載」の取り扱い係として、その痕跡が残る。この時代、醤に限らず、たとえば、酒も、そうだった。彼らはなんでもかんでも秘密主義が大好き。歴史に謎スポットが一杯発生して迷惑だが!自由に、そこらの万民が造れる権利もなければ、口にするなんぞ、夢の夢。極めて希少は、神聖の証。ミカドファミリーだけの特権。当然、ノウハウも朝廷の秘密。ご参考までに、こちらのバナーに「酒造」のルーツ=朝廷と酒造り談話有り。▼前半数ページはお楽しみお気軽系。但し、主に、酒メーカーの拘り&意地。古代酒、濁り酒など、現世商品ながら「古代酒」に浪漫を馳せ、研究生産した特殊な商品、商品ながら「古代酒浪漫作品」系統中心にご案内してます。No.4頁位から、文章、歴史話ゾロゾロ。濁り酒と清酒大和の時代_朝廷と酒造り・◇朝廷限定時代,◇平安時代: 変遷期間,◇鎌倉時代・室町時代の「他所酒」伊丹の地と酒造り伊丹の酒が脚光を浴びる背景と、銘酒「男山」の名称登場◇近衛家と木綿屋の縁,◇伊丹技術と産地プレミア:摂泉十二郷「上方酒造地」以降各項目が、順次、次ページ以降続く醤(ひしお)って何ソレ?定義と見解は妙に広く、示唆する物質とは、ズバリ干した魚そのもの迄含む。しかし、干し魚の製法を、いちいち、朝廷の秘伝、専用セクションの世襲族が担当する必要は、そもそもないわけで、彼らの「主醤という名前の官職」の皆さんは、おそらく、そこから美味しい調味用に、液体を抽出する作業を司っていたと想定される。食品から抽出される「美味しい調味用液体」とは?【材料は:豆、味噌、魚・・等】▼例えば、味噌からも、液体が浮いてくることがある。嘗めてみると美味しいと、或る日、誰かが気がついた。他に豆からも。味噌も、その発端は、大豆だから。また、魚類からも、同様に。但し、これは生魚でなくて、一旦干したもの、あるいは、煮てから干したモノなど。要するに、植物系でも、穀類でも、動物系たんぱく質でも、色々。自然発酵が生み出す予想外の美味しい物質に覚醒したことになる。そこで、醤に由来する日本の「醤油」の原型とは、いつ頃発生か?これが、今日でも、はっきりしない。確証が取れない。とりあえず、幾つかの説。■鎌倉時代、或る僧によって偶然、発見された説。または、金山寺味噌から作られたの説。上記のとおり、生味噌を長らく放置しておくと、なぜか液体が上に。それにヒントを得て、今度は、本気で、意識的に、ソレを作ろうとした人(多分、僧)が居た。現世、市販のお味噌の殆どが便利なだし入りパック味噌。あれは多分、液体浮いてこない。こーゆー便利味噌の場合、鍋の中に、味噌汁の残りを放置しといても、上澄みと、水中の中間層が分離して、その中間層たるや、不思議なモクモク雲状に、ふんわり集まっている状況にも無縁。古代味噌らしきの構図にならない。実験してみたい皆様は、蔵元の手作り元祖味噌を検索してゲットしてみて下さい。■大陸から伝わった説。これは、いつ頃、日本に伝わったかは判然としないが、大陸の向こうで発生したのは、おそらく、5~6世紀といわれている。原産は、中国か、東南アジア。▼そーいえば、東南アジアに於ける日本のお醤油の役目といえば、ふと「ナンプラー」が脳裏に浮かぶ。そこで、お魚に由来する「醤」といえば、日本では、秋田の「しょっつる」が有名。「ナンプラー」&秋田の「しょっつる」:次頁にご案内します。歴史表記上で、醤油、または、それに類する言語を追いかけてみる。サイトTOP<■わくわくドキドキ色んな記事玄関<No.1<No.2(現在頁)<No.3
2013.09.13
日本人丸出し!お醤油と佃煮歴史探訪!No.1,朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄,濃口醤油と薄口醤油,江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」,徳川家康と、隠密と、干し魚と!日本人丸出し!お醤油と佃煮!_No.1【1】_■朝廷の秘職「醤造り」の「醤」と醤油に至る迄、■濃口醤油と薄口醤油【2】_■江戸の佃島で生まれた佃煮と、彼らの移住ルーツ「大阪市西淀川区佃」【3】_■徳川家康と、隠密と、干し魚と!!【0】_序章:お醤油と佃煮と徳川家康!皆様、佃煮食べる時は、イヤでも、徳川家康に、一発、拝んでから食べましょう!!あの人が、もしも、史上に居なければ、もしかして、佃煮は地上に存在しなかったかも?▼それは、大げさだが・・甘辛くて美味しい醤油味のアレ!は、なかった!!・・・昔の「佃煮」の原型とは、なんと、単なる塩味ベースでありました!!(なんか不味そう!)佃煮文化と、現世の日常人それぞれながら、私的には、そーいえば、わざわざ、マーケットで佃煮売り場で吟味することって、ほとんど無い。ところが、無いと困る。例えば、お寿司にパラパラピンク色の「そぼろ」も、その仲間。それに、お昼、予算をケチって、お弁当屋さんのお弁当・・・の時、痛感する。もしも、海苔弁当とか、あーゆーお気軽庶民弁当に、佃煮全滅だったら、弁当って全部不味い。海苔弁当の海苔の下には、鰹節のなんだかちっちゃいやつが甘辛く煮詰められた佃煮風が潜ってる。アレないと不味い。端っこにバランだか、カップだかに包まれ、チョロッと入ってる昆布とか、海苔の佃煮とか、あーゆー類も全部、そーいえば「佃煮」。即ち、日本人である以上、佃煮無いと困るってことになる。あんまり嬉しくないが、佃煮の重要キーマンは、徳川家康であります。仕方ないから、感謝!家康どんに、向かって、拍手三回、パンパンパン。貴方ってとことん偉いのね!<関連>■日本人丸出しグルメ「鰹節物語」江戸の鰹節文化仕掛け人と現代グルメ(鰹節の歴史、各藩躍起の対抗合戦「殿様自ら大号令!」(各地の鰹節:【1】紀州熊野節、【2】土佐節、【3】薩摩節、【4】伊豆節■関ヶ原の合戦:「侍達のご当地戦弁当」【1】合戦中の気配り弁当、【2】毛利秀元の「居留守弁当」、【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、【4】桃配山の家康★犬猫&人KIDSの愛情可愛キャラ弁当!&犬猫&人KIDSの可愛服,★犬猫のお弁当!と元気暮らし江戸の佃島で生まれた佃煮佃煮は、江戸で生まれた。但し、現世の佃煮イメージそのまんまの作品が出回る迄、随分歳月が。原因は、醤油の普及。醤油の原型らしきものは、朝廷の秘蔵として古くから、あることはあるが、全然通常化していなかった。原型らしきものとて、それは雲上人ミカド!の特権。昔の人は、可愛そうに!貧しい民に限らず、栄華を極めた歴史の大者達ですら、現世のあの「お醤油」=茶色くて、しょっぱくて、美味しくて・・・には、無縁人!たとえば、徳川家康(1543~1616)さんは、残念ながら、甘辛グルメを知らずに死んでいったことになる。即ち、徳川家康も、豊臣秀吉も、織田信長も、みなさんアウト。お気の毒!無縁人!権力者や、金持ちは、勿論皆グルメ。貴重な素材を用いて美味しい「だし」の料理を食べていたことだろうが、お気の毒なことに、塩味又は味噌味ベース。茶色くて、しょっぱくて、美味しい醤油知らず・・・に冥土入り。醤油の無い人生なんて、考えられない!現世の人々に捧ぐ。以下に、「日本人丸出し!お醤油と佃煮!物語」を展開いたします!!【Q&A:佃煮と醤油と家康】【Q】佃煮は、どこで生まれた?→【A】江戸・・江戸で生まれて、大ブレイクした佃煮は、江戸の佃島で生まれた。佃島産だから佃煮。【Q】江戸の佃島の人々は、どっから来た?→【A】大阪の佃村(大阪市西淀川区佃)・・佃島の民とは、徳川家康が、大阪の佃村(大阪市西淀川区佃)から連れ込んできた民である。・・だから、彼らの新規居住地の名を「佃島」とした。「島」がつくのは、埋立地だから。【Q】なぜ、大阪の佃村の民が江戸に来た?→【A】家康が連れてきた!【Q】なぜ、家康は彼らを連れてきた?→【A】彼らは漁民の蓑を被り、実は隠密の側面を!・・これが、興味深々。詳細は、最後の項目『【3項】_徳川家康と、隠密と、干し魚と!!』に、ご案内します。小魚の干したモノは、携帯便利で栄養有りの保存食。彼らは、それを知っていた。▼大阪在住時代、彼ら「大阪の佃村の民」は、「小魚を塩で煮てから干したモノ」を、家康に献上。<■生!、■釜あげ、>_ __とはいえ、上記のとおり、塩味。家康は1616年ご臨終。お気の毒。今日、我々が食べる「醤油味の佃煮」知らずに死んでしまった!!・・・というわけで、まずは、醤油についてご案内します。サイトTOP<■わくわくドキドキ色んな記事玄関<No.1(現在頁)<No.2
2013.09.13
江戸の鰹節味文化仕掛け人,白だしの美しい料理,お出しは鰹節!,にんべん一代目:高津伊兵衛,日本人丸出しグルメ!鰹節物語,鰹節の歴史No.5,関連人物小話各種,日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」_No.5関連特集:ご家庭で料亭レベル!嬉しいプロの和風食材(生麩と湯葉他、料亭の技とお材料江戸の華「鰹節文化」の変遷初めから読む=No.1<前頁から読む=No.4ホントに味一筋:今日江戸の「鰹節」商人魂!「お出しは鰹節!」の仕掛け人(その2)実は、鰹節ビジネスは上昇気流。その為、そこで得たお金を資金に、次の畑へ転進組が多く居る。ところが、にんべんは、そのラインを歩まない。創業は元禄12(1699)年。さらに享保6(1721)年、店舗は瀬戸物町に進出。この店舗は、偶然、度重なる江戸の大火を、不思議と抜け切って、大正12(1923)年迄存続。残念ながら、ここで関東大震災だから、どーにもならなかったけれど。継続は力也!!今日の商品。「白だし」って便利。・・たとえば【その1】_「ゆり根」。白くないと美しくない。だけど塩味や旨み不足。_ _・・たとえば【その2】_「懐石の蒸しもの」。これは専門店の商品「華水晶」。_ _ ・・たとえば【その3】_「色鮮やかな生麩&花びら細工のゆり根」。右:魚河岸「やまもと」商品_ _次は、特別ペット編_「猫ちゃん用の美味しい鰹節おやつ!!」サイトTOPは犬猫サイト<【現在特集】日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」<No.1<No.2<No.3<No.4<No.5(現在頁)猫用編:「鰹節物語り」猫No.1<
2013.09.11
江戸の鰹節商人魂!仕掛け人,お出しは鰹節!,にんべん一代目:高津伊兵衛,日本人丸出しグルメ!鰹節物語,鰹節の歴史No.4,関連人物小話各種,日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」_No.4後半は、特別ペット編_「猫ちゃん用の美味しい鰹節おやつ!!」江戸の華「鰹節文化」の変遷江戸の「鰹節」商人魂!「お出しは鰹節!」の仕掛け人初めから読む=No.1<前頁から読む=No.3鰹節産業&問屋商売鰹節商売が、実に魅力的である事に、当時の賢い若者は注目。有名人の若かりし頃、実は、そうした問屋の小僧として修行した者が居る。彼らの最終目的は、べつに鰹節じゃない。勝利の為のステップ。貯金を着々と増やして、その後には、両替商に転進。そこから次の商売も。大倉喜八郎(新潟出身:越後国北蒲原郡新発田町):(1837~1928):大倉財閥安田善次郎(富山県出身):(1838~1921):安田財閥お財閥の皆さんは、こうして、少年時代、鰹節問屋の小僧さんとして働きながら、しっかと地盤を固め、夢をゲットしている。■ところが、転身しない一筋男の物語花かつお文化仕掛け人:「にんべん」一代目_高津伊兵衛( 1679~1729)武士のみならずや、庶民にも鰹節文化が浸透したのは、訳がある。それは仕掛け人。真っ先には、この人物だろう。それは、高津伊兵衛という。これは、現世もおなじみブランド会社「にんべん」の初代社長。「にんべん」は凄い。創業は元禄12(1699)年から今日。味一筋のフレーズは過言でない。彼の場合、生産でなくて、鰹節ビジネスに大成功。にんべんの商品鰹節は保存できる素材に進化した以上、かなり安定をゲットできる。江戸には、鰹節問屋が一杯立ち並ぶ時代ながら、まずは、彼の屋敷、裏側は、堀川の支流。裏門から、原産地からやってきた商品船が直行便。ガンガン、仕入れる。そしてまた、新発想を展開する。現代と異なり、お店屋さんのイメージが当時異なる。店頭販売してくれる商品の店とは、ごく僅か。ましてや、高級品の鰹節は信用第一。だから、1個、とか2個とか、そーゆー店頭販売やってる店は無い。_ _小売:店頭現金販売彼は考えた。商圏の拡大の為なれば、労を惜しまない。たとえ、1個、とか2個とか・・のレベルでも、現金販売なら、チリも積もれば山になる。目の前に居るのに買えずに通過してゆくただの人、彼らの、一体何割程度が、新規シェア拡大のターゲットだろうか?口コミでさらに増えるだろう。口コミの先まで、必ずしも小口顧客とは限らない。自動宣伝効果を見込んでみた。▼忽ち、効果抜群。それに拍車は、さらなるアイディア。品物はいいが、あいにく割れてしまったとか、傷が入ってしまった商品の使い道。手間はかかるが削って、小売販売。単価が小さいから、またしてもシェアが増えた。庶民も、これなら夢じゃない。「宵越しの銭は持たねえ!」が江戸っ子のプライドであり気質。「鰹節の『お出し』の料理以外は、料理と言わねえやい!」・・・見栄っ張りも、コレで満たされる。ホントに味一筋:今日美しくて美味しいお料理も!他にも各種特集★愛情!可愛キャラ弁当! ★犬猫のお弁当!と元気暮らし、関ヶ原の合戦:「侍達のご当地戦弁当」猫ちゃん系記事総合玄関(洋服、用品、真剣介護_ _サイトTOPは犬猫サイト<【現在特集】日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」<No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<No.5
2013.09.11
鰹節薩摩藩物語,各藩躍起のプロジェクト鰹節合戦,日本人丸出しグルメ!鰹節編,鰹節の歴史No.3,薩摩節,伊豆節,本枯節,関連人物小話各種,日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」_No.3後半は、特別ペット編_「猫ちゃん用の美味しい鰹節おやつ!!」江戸の華「鰹節文化」の変遷に至る迄■その2_鰹節薩摩藩物語、■その3_伊豆節時代到来堅魚と、煮堅魚(火焙り、焙乾(芳香木の煙で燻す燻製)、発酵(草色カビ))古来よりの日本人の知恵と文化初めから読む=No.1<前頁から読む=No.2江戸っ子にとって、鰹節出し料理以外は料理でない!の時代突入。香りの良い燻製方式を発明した土佐藩は一世風靡。儲かる、儲かる。ガッポガッポ、富の山。▼巷の噂を聞くなり、薩摩の殿様「島津」が黙っているわけはない。【3】薩摩節時代到来殿様は怒った!・・・かどうかは知らないが、とにかく全力投球は間違いない。「うぬっ!けしからん!土佐藩が独占で稼ぎまくり!とは!我が藩も頑張るぞ!」薩摩藩プロジェクトは、まずは技術者確保。密かに土佐の漁民に接近。コレ、多分一種の密偵作戦でしょうね。一部の民を見事、手懐け、薩摩へゲット。連れ帰る。この藩は、学ぶと強い。あっちゅう間。薩摩ブランドが江戸に聞こえ高くなるまで、然程かからない。1600年代後半には、薩摩節が江戸を魅了させる。やるからには、金かける。惜しまない。今日も、薩摩の枕崎鰹節と言えば、泣く子も黙る。超一流。_幕末雄藩の構図でゆくと、もれなく、薩摩に土佐とくるなら、長州が居ないといかんのだが、残念ながら、鰹君は、潮の流れ、長州には、あんまりご縁がないようでして・・・。お気の毒。長州、思わず、フグみたいに膨れっ面か?否、否、・・長州には、丁度、フグが居る。フグも稼ぎ手!【4】伊豆節時代到来:ぐぐ~んと遅れて、後の時代、本格派伊豆節時代到来は、江戸時代も後期。焼津や沼津は、鰹節で名を鳴らす。絵画にも、天日干し風景が残る。この地域産の特徴は、超念入り仕上げ。(伊豆、田子節:昔を偲ぶ「美しい風呂敷包みタイプ」も!!)__カンカンに乾燥させることは当たり前ながら、カビ付け作業を、三度以上行う。焙りすぎたら味が落ちる。その点、カビ付けを慎重に行うと、腐敗のモト、脂肪分やら、余計な水分が自動的に干せてゆく。一石二鳥。「本枯節」の総仕上げは明治期以降ながら、現代の世、ポピュラーな「本枯節」の基礎は、ここに生まれた。伊豆節の価値は、なるほど、極めて高い。この「本枯節」の登場にて、現代人は、みんな助かっている。いちいち、カンナでコリコリ、面倒臭い。おそらく、殆どのおうちでは、花かつお主流。お歳暮に貰ったヤツ、うっかり忘れて、おっそろしく歳月!あちゃっ!と思いき、開封すると、案外、なんともない。白っぱくれて使う!!(尚、コレ、人は騙せても猫は無理です!猫編お楽しみに)_ _ こだわり産地の商品「本格派」をカンナじゃなくて、包丁で!コンコンじゃなくて、中が微妙に柔らかい。これに拘る究極のお贅沢。明治時代の、このお方「徳川慶喜(15代将軍)」、お家の台所では、そのタイプの鰹節ご使用の様子。暦年、徳川時代からの取引業者限定、暦年の産地商品厳守。時代変われど、非常に頑固。されど、さすがに美味しそう。いつも側に居た「慶喜専属お女中」が、後の世、語っている。(専属お女中とは、雑用のいわゆる女中さんでなくて、名誉職。お側に居る。昔の小姓みたいな仕事。)毎朝、お椀で小さいお雑煮。お餅は超ニミタイプを2コ。野菜を鴨肉等でくるりん巻いたヤツを、細工切りにして入れてある。このお雑煮のキメテは、鰹節。いつ見ても、お椀の中、綺麗に削られた鰹節が、くるりんくるりん、ワルツを踊っている。その状態で無い限り、この厳しいおうちでは許されない。手落ちがあると、台所衆には罰がある。あんまり好きでないおかずが出た時、慶喜は、彼らの罰が可愛そうなので、無理して一口食べるが、この「鰹節くるりんワルツ」だけは別モノ。お女中は、踊ってない日、一回も見たことないそうです。ふにゅふにゅ、無秩序に動くでなく、特定のリズムで、くるりん、くるりん!!彼女が台所衆にインタビューしてみたところ、削るタイミング、時間帯、削り方・・・ぜ~んぶ伝統どおり、伝統死守!の法則だそうで!!このお女中は、明治も半ば生まれの当時としては、新人類。その為、江戸時代の伝統、その素晴らしさを、彼女がつくづく痛感している。▼■徳川慶喜食生活:こだわり食品&付録編「幕末有名人と漬物他」・・(慶喜編,土方歳三編,榎本武揚編,ツーの漬物秋田いぶりがっこ他次頁は、江戸の「鰹節」商人魂!「お出しは鰹節!」の仕掛け人サイトTOPは犬猫サイト<【現在特集】日本人まる出しグルメ!「鰹節物語」<No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4
2013.09.11
鰹節土佐藩物語,各藩躍起のプロジェクト鰹節合戦,日本人丸出しグルメ!鰹節編,鰹節の歴史No.2,紀州熊野節,土佐節,薩摩節,伊豆節,本枯節,関連人物小話各種,日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」_No.2後半は、特別ペット編_「猫ちゃん用の美味しい鰹節おやつ!!」江戸の華「鰹節文化」の変遷に至る迄(その1_鰹節土佐藩物語)堅魚と、煮堅魚(火焙り、焙乾(芳香木の煙で燻す燻製)、発酵(草色カビ))古来よりの日本人の知恵と文化初めから読む=No.1古代、朝廷のミカド族しか、お召し上がりになれない時代の鰹節は、堅魚製法。火で焙って、コンコン乾燥。ところが、この製法だと、コンコンのわりには、現世の完全乾燥タイプ「本枯節」と異なる。その為、保存食といえど、そのうち、カビが生えてアウト。その問題点を解決したのが、土佐藩であった。鰹節の大関:産地とブランド: 【1】紀州熊野節、【2】土佐節、【3】薩摩節、【4】伊豆節前述のとおり、鰹節の王道は、暦年、紀州熊野。上記の数字はデビューの順。徳川泰平パワー。江戸時代に突入するなり、上記のとおり、他地方も負けてない。ぐんぐん発展。しかし、この章では、「【2】土佐節」についてご案内します。真っ先に、画期的な大改善に成功したのが土佐藩。【2】土佐節時代<1代目藩主:山内一豊(1545~1605)と鰹>土佐は、鰹は獲れるが、鰹節製法が、いまひとつ。それが暦年の悩みの種。土佐藩一代目は、有名人物「山内一豊」。女房で出世した男。彼は、さらにヨイショで、大出世。関ヶ原(1600年)の前、遠江掛川(5万9000石)城主だったが、関ヶ原の際、家康に申し出る。▼「家康様の戦勝の為なれば、私は私の城を貴方様に捧げます。戦略上どうぞ、ご自由にご利用下さい。他領の兵も長も、どんどん入れて下さい。かまいません。」▼これに喜んだ家康は、彼に、土佐国9万8000石を与える。大出世。この話、もうひとつ裏!がありまして、犠牲者は、堀尾忠氏(1578~1604)という名前の若い侍。そもそも、お城提供でゴキゲン取り作戦の発案者は、忠氏である。即ち、山内一豊が横取り!とも言える。「その名案、頂き!ゴッツァンでっさァ!」状態なのである。一番乗りで、家康に進言したのが山内一豊だから。普通なら、堀尾忠氏、「ちょいと、そこの叔父さん、いい年して、アイディア泥棒!」と叫んで、思いっきり、文句言う権利有るわけですが、生憎、父親「堀尾吉晴(1544~1611)」が、山内一豊と同期の桜。長いつきあい。悔しいが、トラブルは禁物。黙って飲み込む。▼頼りの父は負傷の為、参戦してない。己が代理人。責任重大。尚のこと、堪える。堀尾忠氏は、なんとなく、ついてない男。関ヶ原の後、一応出世して出雲松江藩に、加増されて24万石。そのわりには、なんだか変!まだ27歳だというのに、1604年、コロッ!死亡。父さんよりも、早く、この若さで死んでしまった。それはさておき、転勤赴任の山内一豊:赴任先「土佐」にて不思議発言そーゆー経緯で土佐にやってきた山内一豊さん、ひとつ面白い?不思議発言をしている。「皆の者、鰹は生で食うな!必ず加熱を。刺身は、絶対に、やめなさい。」つまり、食中毒発生に頭を痛めていたことになる。多分、調理方法とか、保存や、品選びにコツがあるんでしょうね。この頃、暦年お住まいの先住権力者「長宗我部」の家来達は、山内に押し潰されて、差別されて、どん底の「下士(坂本竜馬のご先祖も)」に転落している。不愉快だから、コツを教えてくれるわけはない。「アッカンベー!」彼らの代、全然なんともなかったのに、山内時代は、食中毒に悩まされる。▼ところが人々は、刺身の味が忘れられない。言い訳、口実、「ちょっとだけ焙りました!!」これが、『鰹のタタキ』の起源らしい。即ち、美味だから広まったというよりも、食中毒が背中合せ。そんな山内一豊だが、運命とは手厳しい。残念ながら、命は長くない。1605には、ご臨終。彼は子宝に恵まれず、一人、隠し子を育てていたが、出自の問題で、まさか跡取りにはできない。良妻賢母の鑑で有名な後家の「見性院(=千代orまつ) 」は、この子を出家させて僧にさせた。その為、二代目は無難のライン、山内忠義が立つ。忠義は亡き一豊の甥子。一豊の同母弟「康豊」の倅。<2代目藩主:山内忠義(1592~1665)と鰹>山内忠義は悩む。「土佐では鰹が獲れるのに、勿体無いなァ。紀州熊野が羨ましいのぅ。」どうやら、鰹節生産TRYは、江戸時代早期に試みていたのが解る。大阪の陣(1614~1615)終結後、彼も、先代に習い、家康にヨイショ。鰹節を1000本プレゼント。ヨイショと、贈り物には鰹節。このワンセットは、この時代から伝統らしい!現世も現在進行形。その訳は、前頁記載のとおり、鰹節=カツオブシ=勝つ男武士:縁起担ぎの法則!に由来する。但し、これが土佐産なのやら、悔しながら無難を考え、紀州産を購入したのか、そのへんは定かでないが。とりあえず、土佐プロジェクトは、多少なりとも、この段階始まっている様子。<3代目藩主:山内忠豊(1609~1669)~4代目藩主:山内豊昌(1641~1700)と鰹>されど、この後、土佐にラッキーチャンスが迷い込む。永宝2(1674)年、偶然、紀州漁民の船が、土佐近郊で難破。流れ着いた。そのついでにノウハウを学ぶ。藩をあげて、一大プロジェクト開始。「皆の者よ、頑張れ!知恵を絞れ!藩を豊かに!」掛け声勇ましく、その効果、抜群。▼ここに土佐オリジナル製法が大登場。▼それは、「焙乾法」と言う。ダテに火で焙って乾燥するだけでなく、芳香を放つ薪の種類を選び、まずは、ナラとか、クヌギを使ってみた。すると、どうでしょう。いわば、今日の燻製効果。香りの良い煙で燻すから、さらに香り高い素晴らしい鰹節が生まれた!!「おう!これぞ、まさに土佐の独占、特産物じゃ!コレで稼ぐぞ!!」ところが、ギッチョン、こんなに画期的商品だというのに、やっぱり、搬送途上で、カビ発生。これでは全国シェア確保は夢物語に終わる。されど、屈しない。今度は、乾燥徹底プロジェクト。日干し行程を念入りにやってみた。されど、これも満点ではない。▼そこで、或る日、わざと、「良いカビ」をくっつける方法に、覚醒する。良いカビ、悪いカビ!頭を使え!の巻毒には毒をもって制する・・じゃないが、風味を破壊する悪いカビを退治してくれるのが、良いカビなんだ!・・と気がつく。その良いカビとは「草色カビ」と言う。カビ、カビ、~~と言うと、人聞き悪いが、これが自然発酵の原理。納豆だって、腐らぬようにわざと、あの菌を仕掛けて商品価値を為す。されば、鰹節だって、やってやれぬことはない。案の定、研究者の努力は実を結ぶ。この善玉菌のおかげで、鰹節の出荷範囲も期間も、ぐんと伸びた。▼これにて、土佐藩は一世風靡。儲かる、儲かる。ガッポガッポ、富の山。以降は、今や、「土佐節」が、元祖「紀州熊野節」を凌ぐ、そう言われた。元禄文化は、土佐の鰹節。江戸っ子にとって、鰹節出し料理以外は料理でない!この頃になると、お殿様やら、お公家様やらのモノならず、銭がある限り、庶民の食卓にも通常化。蕎麦屋も、うどん屋も鰹節。ノウハウ得てから、プロジェクト大成まで、実に急ピッチで対応したのが、これにて解る。冥土の初代「山内一豊」も、きっと、雲の上で、微笑んでいたことだろう。▼ところが、ギッチョン!強敵、薩摩登場!!サイトTOPは犬猫サイト<【現在特集】日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」<No.1<(現在頁)No.2<No.3【姉妹編】:★愛情!可愛キャラ弁当! ★犬猫のお弁当!と元気暮らし、■関ヶ原の合戦:「侍達のご当地戦弁当」
2013.09.11
日本人まる出しグルメ!「鰹節物語」No.1,鰹節の歴史,紀州熊野節,土佐節,薩摩節,伊豆節,本枯節,関連人物小話各種,日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」_No.1後半は、特別ペット編_「猫ちゃん用の美味しい鰹節おやつ!!」古来よりの日本人の知恵と文化鰹節は、日本人なら、どこのご家庭でも、ないと困る。「おだし」といえば鰹節。お料理の基本。この鰹節、現世でも、贈答品として、実に重宝され、帝王の座。実は、遥か昔、4世紀頃から既に、朝廷への贈り物。神様への捧げ物にも使われた高級品。但し、「おだし」として使って、ポイしてたわけではない。貴重な保存食。_ _春到来、鰹、黒潮鰹は、春一番、黒潮に乗ってやってくる。古来より、現世と同じような形の「鰹節塊」があった。但し、削りかつお「花かつお」じゃなくて、コンコン!のカタマリ。見た目の形態は殆ど現世と同じ。製法で大別すると、「堅魚と「煮堅魚」。後者は、一旦煮る行程付き。ところが、加工手段と、特徴は、長い歴史の中、変遷を遂げている。単に保存食であった古代を離脱して、今や、堂々、自然発酵食品としても注目されている。(後述) 鰹は、古来より、日本人の知恵。保存食。火で焙って、コンコンに乾燥させて、削って使う食品。とても重宝された。史実の上、真っ先に鰹節で栄華を極めたのは「紀州熊野」鰹節の大関:産地ブランド: 【1】紀州熊野節、【2】土佐節、【3】薩摩節、【4】伊豆節上記の数字はデビューの順。歴史上、長い間、「紀州熊野」といえば鰹節。鰹節といえば、自動的に「紀州熊野」。紀州が独占街道まっしぐら。熊野の里に、春一番、鰹の大群が、黒潮に乗ってやってくる。その当時の活気が目に浮かびます。漁村に、活気が満ちて、漁師さん達の勇ましいかけ声が響く。人々の微笑み。春の喜び。大漁の喜び。堅魚と、煮堅魚商品ブランド名の認識は「紀州熊野」だが、具体的に生産加工の主流は、同じく紀州の印南浦の地。浜は大賑わい。大漁の鰹。大きな釜には薪が炊かれて、一旦、煮る。それから、骨を抜いて、天日に干す。縄で縛って吊るして、それが延々連なる荘厳な風景。煮る行程無しで、いきなり火で焙ってできるだけ乾燥させたタイプが、堅魚。対して、一旦煮る行程、その後に火で焙り同様製法によるのが「煮堅魚」。双方、生産されていた。保存食、高級食品としては暦年。されど、鰹節文化が華やぐのは江戸時代コンコンに乾燥してあるから、保存がきくし、携帯しやすい。そこで、時代の中、武士に勢力が移行されてゆくと、案の定、鰹節は、お公家さんの特権ならず、武士の食卓にも登る。しかし、戦国時代の段階では、必ずしも、芳香の調味料として使っていたかどうかは怪しい。戦の時、武士達は、飢えに備え、懐に携帯している。戦には、鰹節。鰹節とカツオブシ&勝つ男武士(=カツオブシ):縁起担ぎこの慣わし、「戦には、鰹節」について、実用の他、もうひとつ、縁起担ぎもある。鰹節はカツオブシ。そこで、勝つ男武士(=カツオブシ)。大層縁起宜しいわけで。コレ、面白いことに、ぐんと後の時代、戊辰戦争(1868年明治維新)の時、古来の言い伝えどおり、懐に鰹節実行していた人の話がここにある。上総請西藩主「林忠崇」である。彼は若い21歳。薩長の陰謀が許せず、藩主自ら、戦闘に参加。(結果、幕軍敗れてとんでもない人生になったが!)▼▼ところが、この時代の人間とは、長い徳川泰平の世の後の人間。即ち、彼ら、江戸末期の人にとって、携帯食の鰹節とは、殆どギブアップ。な、涙!とても気の毒な場面ながら、描写を読むと、苦笑いしてしまう。苦戦して、山深く谷を伝い逃げて、飢えを凌ぐ為に、ふと、懐の鰹節を思い出す。▼川の水に、鰹節を塊ごと浸して、生きる為に、TRY。噛み付いたところ、ゲボッ!。いくら飢えていてもゲボッ!。されど、生きねばならん。殆ど噛まずに、丸呑みしている。戦国侍の強さは、この時代、既に消滅していたのが、これで解る。戦国の人は、我慢強いなァ。後日、別編でご案内しますが、戦国の頃、鰹節に限らず、醤油さえも、一般化していない。彼らの時代、味付けは塩か味噌がメイン。偉人とグルメ「食品歴史小話(グルメ玄関からどうぞ)」系統たくさんありますが、以下に一部ご紹介します。たとえば、織田信長は「あわびと焼き鳥ご飯」という贅沢品がお好みの様子ながら、こうなると、甘辛い醤油味じゃなかったことになる。もしかして、名護屋名物「味噌カツ風味」の味だったか?まさか、塩味オンリーじゃないでしょうね!!■明智光秀の「笹ちまき」と本能寺の変(偉人とグルメ、■関ヶ原の合戦:「侍達のご当地戦弁当」【1】合戦中の気配り弁当、【2】毛利秀元の「居留守弁当」、【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、【4】桃配山の家康■戦国侍に学ぶ元気パワー食生活,豊臣秀吉と豆味噌パワー編=No.1◇織田信長「あわびと焼き鳥ご飯」、◇108歳長寿の天海「たこ飯」、・◇宇喜多秀家の「アシタバご飯:ビタミン他各成分優良食品」【右図】コレも織田信長「ジョバンニ・ニッコロ:宣教師画家」作・・(歴史編:織田信長の神経限界_弦が散切れる時)次頁は、江戸の華「鰹節文化」の変遷に至る迄(その1_土佐藩物語)サイトTOPは犬猫サイト<【現在特集】日本人まる出しグルメ!「鰹節物語り」<(現在頁)No.1<No.2
2013.09.11
明智光秀の「笹ちまき」と本能寺の変No.2,姉妹編:戦国侍ご当地戦弁当シリーズ,毛利秀元の居留守弁当,家康桃配山他明智光秀のエピソードと本能寺の変考察本ご紹介,【楽天市場】明智光秀の「笹ちまき」_No.2▼【姉妹編=関ヶ原の合戦チームの「ご当地戦弁当」】【1】一柳直盛(尾張黒田藩主)の気配り弁当、【2】毛利秀元の「居留守弁当」、【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、【4】桃配山の家康、関ヶ原の合戦&戦国侍ご当地戦弁当シリーズ前頁から読む=No.1明智光秀「織田信長討ち取り計画」:決意と、連歌会凝り性の明智光秀は、いよいよ決断すると、まずは、愛宕山に登り、神意を聞こうと、おみくじを。おみくじの結果は「凶」!されど、なぜか、決心は揺らがない。【愛宕社の西の坊威徳院で行われた連歌会(天正10年5月27or28日(1582))】明智の発句:「ときは今あめが下しる五月哉」西の坊の付の句:「水上まさる庭の夏山」里村招巴の付の句:「花落つる流れの末をせきとめて」<上の歌:雰囲気>さあ!時は来たり!織田を堰き止める時!織田が散る時!明智が天下を!◇ときは今あめが下なる(or下しる)五月哉:◇とき:土岐氏(明智の本姓)、◇あめが下:天下▼ここまでは、まあいいが、この後、皆はゾッ!とする。▼織田信長討ち取り、計画中の彼の姿:アララ!まるで夢中!皆の席に、茶と菓子が運ばれた。五月だから、笹ちまき。美味しそう。皆は、少し、心が和む。▼明智を振り返ると、まあまあの顔をしている。菓子「笹ちまき」を手に取っている。まあ、これなら大丈夫だな。皆、一安心。ところが、ギッチョン、次の瞬間!!驚愕大事件発生!!ふと、明智を見ると、なんと彼は、笹の皮がくっついたまま、「笹ちまき」に噛み付いている。しかも、本人は、それと気づいていない。なにくわぬ顔して、ジャリバリジャリバリ~~~ッ!ウサギ状態。オイ、オイ!明智君!・・「笹ちまき」、葉っぱのまんま食うなよ!!案の定、三日天下。6月2日に織田信長を討ったはいいが、6月13日には、秀吉に討たれ、ご臨終。尚、明智は他にも、物事に夢中のあまり、食事の様子が変!状態を露出してます。或る日 ▼或る日、織田信長の小姓「森蘭丸」が、明智のただならぬ様子に気付いた。明智は、なにやら考え事しながら食事。噛むのを忘れるは、箸を落とすは、それでも本人は、気づいていない。ボケ~ッ!敏感な少年「森蘭丸」は、急ぎ、主君信長に報告。「大変です。なんかたくらんでいます!」ところが、信長は相手にしなかった。夢中になりやすい性格のご様子。食事中、考え事するのがお好きな現世の皆さん、気をつけましょう!どこに、現世の「森蘭丸」が、潜伏して観察してるか、解りませんぞ!! _ ___サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内<【お気軽版歴史】<歴史の偉人と食べ物絡みの話題<【姉妹編】関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」大出世男!明智光秀の「笹ちまき」<No.1<No.2(現在頁)
2013.09.01
家康ニンマリ!大垣の大柿,桃配山の家康,関ヶ原合戦ご当地戦弁当事件簿No.4,一柳直盛_尾張黒田藩主の気配り弁当,毛利秀元の「居留守弁当」 _関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」大出世男の物語_No.4【1】一柳直盛(尾張黒田藩主)の気配り弁当、【2】毛利秀元の「居留守弁当」、【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、【4】桃配山の家康初めから読む=No.1<前頁から読む=No.3:毛利秀元の「居留守弁当」【4】いざ!関ヶ原の合戦、桃配山の家康桃配山とは、:岐阜県不破郡関ケ原町の山。天下の分け目。歴史上の大イベント、関ヶ原の合戦は、慶長5年(1600)の9月15日。徳川家康は、この小高い山「桃配山」の山頂から、戦場を見つつ、総合指揮を執った。【彼が、ここを選んだ訳】は、まずは、展望が宜しい。そして、もうひとつ、大層、縁起が宜しい。縁起を担いだ。それは、妙に古い話、なんと、壬申の乱(672年)の時のことながら、大海人皇子に由来する。大海人皇子とは、後に天武天皇。壬申の乱の時、大海人皇子は、兵の士気を高める為、ここで、皆に桃を配った。名産品だから。その結果、圧勝!気分爽快の快勝。以降、この地は「桃配山」と呼ばれることとなった。なにかと、読書家の家康さん。そこで、さっそく、縁起を担いだ。過去における勝利の山、ここを自分の陣とした。▼すると、どうでしょう!案の定、大逆転!午前中は、なかなか、じれったい状態だったが、★途中から、大逆転の大圧勝!!★「桃配山」の縁起はホンモノだった!!以来、画像のとおり、「現世の勝利したいお殿様!」の為に、発売されたのが、ご覧のとおり、★「縁起飴」名づけて「桃配山」・・いかがざんしょ!もれなく、三葉葵マークでござんす!_ __突如、戦況が一変したのは、偶然じゃない。実は、「早くせい!早く、裏切れ!」と、小早川秀秋の隊めがけて、威嚇の砲撃。砲撃の強烈パンチで尻を叩かれ、小早川秀秋が、真っ先に、裏切り、味方の西軍に襲い掛かった。この機に乗じて、次から次と、裏切り軍団多発。西軍は無念の自刃パレード。小早川秀秋とは、なんとも可愛そうなお方。年齢は20歳越してますが、顔はまるで少年。非常に可愛い顔をしています。・・・可愛そうだなァ。家康狸の生贄!!■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種尚、大人の皆さん、家康みたいに、少年を苛めるのはやめましょう!!余裕を装う家康ながら、やはり極度の緊張。ガリガリ爪を噛む。マジ、コレ彼の癖。別嬪の爪噛むは絵になるが・・、家康爪噛む景色は、あんまり美しくないかも!ところで、ついでに、「わん&にゃん」も腹が減っては戦にならん!マジ、犬用弁当、発売中! _次は、オマケ「犬猫の弁当だワンニャ!」サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内<歴史の偉人と食べ物絡みの話題<関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」大出世男の物語:No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<(こっから先は犬猫世界)No.5
2013.08.23
家康ニンマリ!大垣の大柿,桃配山の家康,関ヶ原合戦ご当地戦弁当事件簿No.3,一柳直盛_尾張黒田藩主の気配り弁当,毛利秀元の「居留守弁当」関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」大出世男の物語_No.3【1】一柳直盛(尾張黒田藩主)の気配り弁当、【2】毛利秀元の「居留守弁当」、【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、【4】桃配山の家康初めから読む=No.1<前頁から読む=No.2:毛利秀元の「居留守弁当」【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、関ヶ原の合戦に於けるメイン、関ヶ原にて両軍が激突して、石田三成ら西軍が惨敗するのは、慶長5年(1600)の9月15日。さて、徳川家康は、皆の尻を叩き戦わせつつ、張本人は、長らく江戸にふんばり、なかなか西へ動かなかったが、じわじわと密かに移動してきた。馬に乗らず、籠に乗ってじわじわ。9月14日、彼は早朝、昨日の宿、岐阜城下を発ち、赤坂(岐阜県不破郡赤坂町)に向かった。問題の長良川渡りだが、臨時の仮設橋が準備されていた。それは、鵜飼船を何十も連ねて、その上に、板を渡したという特別構造。まるごと、本日限りの仮設橋。幸い、何事もなく、無事、家康は、御輿のままに、この橋を渡り切った。この日、怨敵、石田三成は、大垣城に篭っている。堂々強気の家康ながら、やはり、ついに、この日が来たかと・・ばかり、緊張が高まる。その時だった。地元の僧侶が歩み出て、家康に慇懃な礼を為すと、なにやら、両手に抱えた大きな籠を献上した。それは、大垣名物。食べごろの大きな柿。籠に満タン!の大柿。駄洒落じゃないが、大垣の大柿。・・・まさに、柿色によく熟れた巨大な柿。期は、熟したり!家康が、ひとつ、手に取る。途端に、ニンマリ。ニタニタ、ニタニタ~~~!止め処なく、ニタニタ!家康の口元が不気味に緩んで、今度は声を発して笑った。「ふむ、大柿じゃい。ふむ、これにて、大垣は手に入ったぞや!」」その後、彼は、戯れて、柿を、そこらに転がして、若い衆に拾わせては、大笑いした。「ソレ、者共、それ、獲れ!急ぎ、奪い取れ!襲い獲れ!!大柿は、まさに、大垣じゃ!わっ、はっはっ!」▼薄気味悪い、不気味怖い!なんちゅう現場!・・・ながら、家康は、時折、こーゆーシーンを、ちょろちょろ露出している。傍らの医者坊主が、マメに観察しており、こーゆー、やや、余計な場面描写も、記録に残してくれている。大抵の文章は、家康のお世辞&賛美歌混じりだが、時折、薄らおもろい。職業が医者だから、目が、動植物の観察眼。生物の観察状態!!それは、さておき、まさに、時は、柿の頃だったんだなあ・・・と痛感いたします。_ その一方、処刑される側の石田三成にも柿話題<石田三成:柿話1>護送中、喉が渇いた彼は、護送係に湯を所望する。ところが、水どころか湯なんぞない。「どうせ、処刑直前だというのに・・!」男は嘲笑う。「干し柿なら、くれたるぞや!」・・・檻の中の猿状態。死の直前とて、三成は、こーゆー屈辱は許せない。得意の屁理屈トーク始まった。「柿は痰の毒じゃ。そんなものは要らぬ!」護送係も負けない。「どうせ、死ぬというのに、体を気遣ってどうする?笑わしやがんな!」「馬鹿者!貴様ごとき下らぬ男に何が解るものか!志の大きな者は、死の直前とて、命を大切にするものなのじゃ!」<石田三成:柿話2>逃亡中、自領の善良な民「与次郎太夫」が、三成を庇ってくれた。(結局、指名手配の沙汰が回り、捕縛となるが。)捕縛された時、三成が着ていた服は、柿色の袖なしの襤褸服だった。木こりか、山の民に見えるように・・・親切な男「与次郎太夫」が着せてくれた民の衣装だった。この男は、腹を括り、三成を庇う段階で、妻と離縁した。己は死ぬ覚悟だった。(これについては、マジメ話の為、後日「石田三成編」にてご紹介します。)関連:「石田三成の「狂言袴」が悲しい!特集」次は、桃配山の家康サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内<歴史の偉人と食べ物絡みの話題<関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」大出世男の物語:No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4食と日本!お気軽文化歴史関係■幕末背景を知る(文化、風刺、食・幕末現代アラカルト、■TEXT版ガイド(幕末話も覗き見■将軍と現代食考察SERIES小玄関、■幕軍&松前えとせとら「食と健康編」_Vol.12
2013.08.23
毛利秀元の居留守弁当,関ヶ原合戦弁当事件,関ヶ原合戦ご当地戦弁当_大出世男の物語No.2,一柳直盛_尾張黒田藩主の気配り弁当,家康ニンマリ!大垣の大柿,桃配山の家康関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」大出世男の物語_No.2【1】一柳直盛(尾張黒田藩主)の気配り弁当、【2】毛利秀元の「居留守弁当」、【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、【4】桃配山の家康前頁から読む=No.1:(戦国の・・弁当で出世した男!)■毛利秀元の「居留守弁当」関ヶ原の合戦(1600)年、石田三成率いる西軍は、人数だけは、やたら多い。ところが、なんだか変だ!居ること居るが、動きが鈍いチームが紛れている。頼みの「毛利」が、座り込んだまま。石田三成の使いの者が、「毛利秀元」の陣中に、飛び込んで、出陣を催促。ところが、初めは、「どーの、こーの。」。何回行っても、どーのこーの。頭に来て、今度は、強気で、出陣催促を喚く。すると、重臣が出てきて、こう言う。「今、我が殿は、弁当の最中でござる!お食事の邪魔は、無作法の極み!!」すると、これは効果有り。「失礼致した。」そう言って帰って行った。これに味を占めた毛利陣は、その後、毎回、徹して、おんなじトーク。「べんとー!弁当!我が殿は弁当の最中でござる!無礼者!・・腹が減っては戦にならん!・・・まずは、帰れ!後で来い!」そこで、西軍内、毛利秀元は、散々、不評を買った。しまいに知らぬ者は居なくなった。それほど、有名!!「毛利の・・・只今、弁当中!」・・・何べん行っても弁当中。朝から晩まで、弁当中!・・・これが、毛利の「居留守弁当!=宰相殿の空弁当」戦後、密かに流行ったらしい。物事煮え切らない、或るいは腹に含んで居留守を使う・・・。そーゆーケースに言われたらしい。「なんじゃらほい!毛利の弁当じゃあるまいし!」この背景:毛利秀元が一日中、弁当食ってる訳!関ヶ原の合戦(1600)年、石田三成率いる西軍は、人数だけは、やたら多い。ところが、なんだか変だ!居ること居るが、動かない!高見の見物組が混じる!実は、東軍の家康に内通。毛利がその筆頭だった。ところが、これには、キーマン二人の対立が絡む。東軍派の重臣は「吉川広家」。その一方、西軍応援派は「安国寺恵瓊」。安国寺に尻を叩かれ、秀元は、戦場まで出てきてしまったが、軍事顧問の「吉川広家」が実権を握り、当時21歳の毛利秀元を抑えている。「いいから、お坊ちゃん、アタシの言うとおりになさい!毛利一族の未来がかかっておりますぞ。迂闊も失敗も許されませぬ!」 味方とて、他隊の者と、一切、喋るな!会うな!出てゆくな!・・・弁当食っといておくんなはれ!」若い「毛利秀元」には、このトリックが解らない。教えたら、若い正義感で反発するか、しくじるか。そこで、「吉川広家」はお狸ポンポン。対面上、一日中、居留守弁当作戦。押し留めていた。毛利秀元【1579~1650】長門長府藩初代藩主。■毛利元就の4男。一時期、従兄の「毛利輝元▼」の養嗣子。関ヶ原に、西軍として出陣。しかし、現場活躍は、上記のとおり、毛利家方針が家康内通の為、居るだけ。見物座り込み係。毛利輝元【1553~1625】:実質長州藩初代藩主。(但し、関ヶ原の責任から、長州藩の歴代藩主のカウントは、次世代の「秀就」が一代目。■関ヶ原の際、石田三成の西軍の総大将として担がれて、その大役を受けてしまったが、「吉川広家」の指導に身を任せ、実際は初めから東軍の「家康」に内通の形。■関ヶ原戦(1600)年、同年10月、早々に剃髪。幻庵宗瑞と称し、毛利秀就に家督を譲る。(しかし、実際の政権は、握っていた。)■東軍派:「吉川広家(1561~1625)」。=早期、家康に内通して毛利の危機を救うとはいえど、減封は免れなかった。■西軍派:「安国寺恵瓊(1539~1600)」=戦後、戦犯として斬首される。そこで、現世の戦弁当!ご紹介パレード ___ ___ ___次は、家康ニンマリ!■大垣の大柿、サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」No.1<No.2(現在頁)<No.3=真上NEXTボタン
2013.08.23
関ヶ原合戦ご当地戦弁当_気配りで大出世男の物語_No.1,一柳直盛_尾張黒田藩主の気配り弁当,毛利秀元の「居留守弁当」,家康ニンマリ!大垣の大柿,桃配山の家康_No.1関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」大出世男の物語_No.1【1】一柳直盛(尾張黒田藩主)の気配り弁当、【2】毛利秀元の「居留守弁当」、【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、【4】桃配山の家康只今、連日、関ヶ原と石田三成の重いテーマ「石田三成の「狂言袴」が悲しい特集」掲載中ながら、今日は、ちょっとだけ、お気軽テーマ、すぐ読み終わる戦国のグルメ話。■一柳直盛(尾張黒田藩主)の気配り弁当時は1600年、 天下の分け目、関が原の合戦。その時、気配り弁当で、大出世した男が一人おりました。その名は「一柳監物直盛」であった。戦場に、声高らかに響き渡る「弁当配り男達」の声。「べんとー!弁当!弁当を召され!弁当でござる!腹が減っては戦にならん!・・・我が殿、一柳の殿より、皆様へ・・心込めて弁当~っ!!」この時、徳川家康の東軍の兵達が、この地、「黒田村」に布陣していた。なんと、この殿様は、台所衆のみならず、臨時に人を集め、大量の飯炊きを命じ、徳川軍の将校ら、お偉いさんのみならず、兵卒、足軽、雑兵の差別なく、満遍なく、全員に、美味しい弁当を配ったのであった!!宣伝効果も抜群。藩士達のトークは、声高らかに。「一柳の殿より、皆様へ心込めて」損して得を得るなれば、徹底せねばならん!お見事。▼お偉いさん達にしか配らなければ、なんかのはずみで、この努力が伝言されずに水の泡の確率は、否定できないが、末端兵の果てまで、配ったから、皆の口々、忽ち、広がる。おかげで、「一柳の愛情弁当」は、戦の美談、一種、伝説となった。この時、家康本人は、ここに到着してないわけだが、ここまで宣伝を徹すれば、効果抜群。ちゃんと、家康の耳に入った。家康の健康意識と、食生活へのこだわり各談話有り・・「ナビの頁」:えとせとらNo.20内 家康とは、自分の健康も非常に心がける人物なのだが、「食とは、勝敗を決める要である」と、強い信念を持って、実行している人物。たとえば、或る日、戦陣は、大雨に悩まされる。炊事が一切できない悪天候。兵は飢えている。そんな矢先(多分、早夕方)、家康は、全隊に、使いの者を急ぎ走らせる。▼「たとえ、どんなに飢えても、生の米を食ってはならぬ。今すぐ、米を水に浸して、午後8時まで、絶対に食うな!・・家康様、直々のご命令じゃ!!」「生米食うな!」これだけの用事で、早馬が陣中、もれなく駆け巡る!!▼家康とは、このように、食に関する認識度が高い男。そこで、「一柳の戦弁当、愛情、手弁当!」は、猛烈に高い評価値を貰った。★ご覧あれ!一柳の大出世!!▼一柳直盛【1564~1634】尾張黒田村の戦国大名【出世コース概要】徳川時代:【1】正式尾張黒田藩主(2万石)→【2】伊勢神戸(かんべ)藩主(5万石):現在の三重県鈴鹿市神戸→【3】伊予西条藩初代藩主(5.86万石)+播磨国加東郡(1万石)=(6.86万石):西条とは現在の愛媛県西条市:但し、本人は【3】の時73歳。任地移動途上、大阪で死亡・・ですが!尚、一柳のこの行動は、突然の思いつきではなく、実は、家伝による。「戦の際、自領に、味方軍が布陣したら、たとえ赤字で苦しくても、無理してでも、絶対、接待を徹せ!」1~2万石程度の小国が生き延びる教訓のひとつであった。そこで、現世の戦弁当!ご紹介パレード _ ___ 次は、「毛利秀元の「居留守弁当!」・・・Mr.弁当殿の異名!!」サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内関ヶ原の合戦:「ご当地戦弁当」大出世男の物語:No.1(現在頁)<No.2
2013.08.23
アシタバ健康方の威力,栄養豊富野菜,戦国侍に学ぶ元気パワー食生活,宇喜多秀家の「アシタバご飯」編=No.4,コラムの他,健康の神様「アシタバ」の威力,【楽天市場】戦国侍に学ぶ!お元気パワーの食生活_No.4No.4は・・・宇喜多秀家の「アシタバご飯」編宇喜多秀家は、関が原の合戦(1600年)の負け軍「西軍」。命からがら敗走。仲間の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らは斬首された。その間、彼は 薩摩の島津義弘に匿って貰って潜伏。後で、命だけは許されたが、八丈島に流される。不幸な人生。ところが、なんとご長寿!!83歳!その秘訣が「アシタバ」の葉。そこで、「アシタバ」といえば今日、八丈島がプレミア!!即ち、八丈のアシタバ宣伝部長元祖は、言うなれば、「宇喜多秀家」っちゅうことにもなる!!▼ _イメージ的に、なかなか爽やかでしょう。容姿端麗で身長170cmの好男子と伝わる。妻がキリスト教だから、秀家は、家臣にもキリスト教を薦めた。宇喜多秀家【元亀3年(1572)~明暦元年11/20(1655):83歳:後で、浮田と改名◆薩摩の島津義弘の元に潜伏していたが、1603年、島津忠恒(義弘の子)の代、流石に身柄が困り、徳川に身柄送検。◆助命嘆願で頑張ったのが、前田利長。なぜなれば、利長の父は利家。宇喜多秀家の正室「豪姫」は利家の娘。これにて、首は繋がったが、八丈島へ配流。 アシタバは「明日葉」_◆勇気と◆元気と◆不屈と◆早期復活!「夕べに葉を摘んでも、明日には、早くも早速、芽が出る」=明日葉!!◆絶望するな!◆強靭な精神は、早期再生!!しかし、コレ、迷信とか気休めでなかった。「宇喜多秀家」の波乱万丈、83年間の人生が立証している。★マジ!栄養は?・・・このとおり、優等生!なるほど!!◆食物繊維 、◆ ビタミンA、◆βカロテン 、◆ビタミンB1&B2&B3・・B12◆ビタミンC 、◆ビタミンE 、◆カルシウム、◆鉄分 、◆マグネシウム、◆リン、◆カリウム 、◆ 亜鉛 ・・・テンテンテン!!_ _ _簡単お料理◆天ぷら、◆バター炒め、◆マヨネーズorドレッシング和え他アシタバの粉をお気軽に混ぜて摂取◆粉茶に、◆ケーキに、◆抹茶クリームや抹茶餡に、アシタバの根入りドリンク(これは製品を買おう!作って失敗、怖い!不味いと懲りるから!)葉が枯れる寸前掘り起こした根は、朝鮮人参とおんなじくらい滋養有りと昔から言われている。_ _「夕べに葉を摘んでも、明日には、早くも早速、芽が出る」=明日葉!!・・とは、その実、宇喜多家の血族が立証した!・・・★ちゃんと芽が出て育った!!葉が出た!!★明日葉★◆秀家と共に流罪となった親族の内、長男と次男の子孫は、浮田と改名して今日も活躍!・・▼著者名見てみて!!「浮田さん」ですゾ!_ ___サイトTOPは犬猫サイト<グルメ&スイーツ<【戦国侍に学ぶ!お元気パワーの食生活】No.1(秀吉の豆味噌編)<No.2(織田信長「あわびと焼き鳥ご飯」編)<No.3(天海の「タコ飯」他各人編)<(現在頁)No.4「宇喜多秀家の「アシタバご飯」
2013.08.14
戦国侍に学ぶ元気パワー食生活,100歳以上生きた超長寿天海の「タコ飯」他編=No.3,コラムの他,美味しい食品各種ご案内,明石のタコ料理、欲張り4点セット,【楽天市場】戦国侍に学ぶ!お元気パワーの食生活_No.3No.3は・・・100歳以上生きたウルトラご長寿_天海の「タコ飯」他編【他のメンバー】◆武田信玄「甲斐のほうとう鍋」,◆徳川家康「麦飯」&「鯛の天ぷら」,◆春日局が、幼少時の三代将軍「家光」に開発「七色飯」=食欲不振の児童対策!108個の煩悩を見事全て乗り越え、108歳で死亡!?といわれるお坊様ウルトラご長寿_謎の僧_天海の「タコ飯」 _画像は本場、明石。明石のタコ料理、欲張り4点セット◆タコ飯、◆明石焼き、◆タコ天、◆明石の海鮮珍味お惣菜天海【天文5?(1536?)~ 寛永20/10/2(1643)】=南光坊天海=天台宗の僧安土桃山~江戸時代初期活躍の僧だが、純粋に僧というより「徳川家康の影の右腕」。政治的要素多大の人物。★上記のとおり、生年がハテナなのだが、なぜ108歳と言われるか?について日光東照宮薬師堂法華経万部供養(天海が寛永9/4/17(1632))時の記述に97歳とある。生年は、そこから逆算で定着。すると、死亡の寛永20年は、数えで、108歳・・になる。武田信玄「甲斐のほうとう鍋」 _徳川スポット徳川家康(1代目は強い!!オマケに長生き)◆日常の健康=「麦飯」、◆迂闊!しまった!死亡の引き金!「鯛の天ぷら」,・・(いくら元気でも老齢。肝機能低下。過剰の油摂取徳川家光(3代目の食生活は、早速、お坊ちゃん病!)・・・アレ嫌い!コレ嫌い!ご飯嫌い!案の定短命!◆:春日局が、幼少時の三代将軍「家光」用に考案「七色飯」=食欲不振の児童対策!徳川家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳:人生経験と食習慣春日局が考案した「七色ご飯」とは・・実は真上のような立派なモノじゃない。名前だけ将軍様風。食欲不振の子供対策は、実際のところ、現世の「おむすび山」みたいな「フリカケ」みたいな・・。★幕軍、松前えとせとらNo.20=徳川スポット徳川家康と健康管理(普段は麦飯!徹して、麦飯!▼家康に掛かるライト編小話 徳川家康の節約主義について「宙を舞うチリ紙事件」何事も宣伝上手の徳川家康「教訓付きの漬物ハナシ!!漬物と節約」■徳川家康が、南蛮珍菓オレンジ(=九年母)の贈り物!・◇【No.1&2お気軽版】外国の果物を贈り物、・◇【No.3&4:ミニ歴史版】家康が見下した北条(オレンジの返礼で見抜いた北条の力量サイトTOPは犬猫サイト<グルメ&スイーツ<【戦国侍に学ぶ!お元気パワーの食生活】No.1(秀吉の豆味噌編)<No.2(織田信長「あわびと焼き鳥ご飯」編)<No.3(天海の「タコ飯」他各人編_現在頁)<No.4「宇喜多秀家の「アシタバご飯」
2013.08.14
戦国侍に学ぶ元気パワー食生活,織田信長の「あわびと焼き鳥ご飯」編=No.2,コラムの他,美味しい食品各種ご案内戦国侍に学ぶ!お元気パワーの食生活_No.2No.2は・・・織田信長の「あわびと焼き鳥ご飯」編いきなり豪勢!美味しそうなメニューの主は、ご存知こちらさん!▼ __織田信長の肖像画とジョヴァンニ・ニコラオ織田信長の肖像画というと、主に真下タイプが皆さんお馴染みですが、実は、ジョバンニ・ニコラオ(ニッコロ)という名前のイエズス会お抱え画家(=兼、宣教師)が描いた絵は、もっと精悍そうで二枚目です。◆ジョヴァンニ・ニコラオ(1562~1626)ナポリ生れのイタリア人。 ・◇1583年、イエズス会メンバーとして日本に派遣。◇1590年位から、日本に建設したセミナリオ(=神学校)で西洋絵画指導。◇1620年位迄には、禁教&伴天連追放例の為、国外追放。◇死亡はマカオ。織田信長は、「あわびと焼き鳥ご飯」とくるから、流石お贅沢!! _◆織田信長にキレて、叛いた家来達織田信長さん、お贅沢はいいけれど、大層な「殺戮の帝王!過激野蛮!」でも有名。逆らう者は、坊さんでも、臣でも、どちらさんでも、容赦ない。▼「松永弾正久秀」:ハレー彗星の夜、壮烈爆破自殺▼「荒木村重の受難!」:織田信長による饅頭串刺し事件:彼流その対処「饅頭処世術!?」信長は、突如、臣の腹の内を謀る。槍に餅だか饅頭だかを、3個だか、5個だか、一杯串刺し。鼻先三寸、槍ごと突きつけて、喚く!「食らえっ~ぃ!(=俺に逆らう者の宿命を知れ!)」▼仕方ないから、このとおり。口から食み出しております。___ _◆【左】ずんだ餅、人気急上昇!、◆【右】栃餅:栃の実は不老長寿の実・・とは迷信でなかった!・・健康の神様!優良自然ポリフェノール含有【栃の実の価値_味覚の古里探訪特集】_ __▼日本人の健康とグルメ:餅話各編リンクガイド(将軍と現代の食SERIES◆ No.1:各人編その1~、◆【No.5&6】:豊臣秀吉と少年時代の石田三成「真夏の緑茶三杯!」次頁は、No.3「100歳以上生きたウルトラ長寿!「天海」のタコ飯他サイトTOPは犬猫サイト<グルメ&スイーツ【戦国侍に学ぶ!お元気パワーの食生活】No.1(秀吉の豆味噌編)<No.2(信長他編_現在頁)<★NEXT_No.3「天海」のタコ飯他_
2013.08.14
戦国侍に学ぶ元気パワー食生活,豊臣秀吉と豆味噌パワー編=No.1,コラムの他,美味しい味噌食品各種ご案内戦国侍に学ぶ!お元気パワーの食生活_No.1No.1は、「豊臣秀吉と、豆味噌パワー」編豊臣秀吉どん、天上より、現世に向けて曰く。▼「皆の者よ!味噌パワーを軽んじるべからず!!特に、味噌は、味噌でも『豆味噌』じゃい!わしの好物は『豆味噌のおにぎり』、『焼き味噌』じゃ!◆戦の時も携帯便利!!◆滋養強壮!・・優良食品じゃい!!」 ___「豆味噌」って?どんな?・・・実は別名「八丁味噌」、「赤味噌」などとも呼ばれる。 ___ところで皆さん、「お味噌のシソ巻」食べたことありますか?コレ、不思議なことに、すぐ、そこらで買える地域と、全然無い!の地域と双方ありまして、日本って、ちっちゃいのに広いニャン!! ___★夏バテ追放!「シソ巻き味噌」パワー!!シソは、パリパリッ!独自の食感!・・けっして生々しいシソそのまんまでないのが特徴。中は、これまた美味しい!甘辛っ!モッチモチッ!田舎味噌、ゴマ、くるみなどアラカルト。生味噌じゃなくて、水飴や独自の調味料で加熱加工。風変わりな焼き味噌のような・・。 ___そして、秀吉どん、さらに曰く。「現世の皆さんよ、味噌好き男といえば、わしの他にも、あの家康狸!!がおるがのう、あやつと、わしを、いっしょくたにせんでくれよ。あやつは、わやくちゃじゃ!!『糞味噌一緒』の言語発祥、もしかして、アイツかもしれんぞ!」(以下、少々バッチイので、一段下の行に書きます。)▼サイトTOPは犬猫サイト<グルメ&スイーツ【戦国侍に学ぶ!お元気パワーの食生活】No.1(現在頁)<No.2「織田信長の『あわびと焼き鳥ご飯』家康、腰味噌事件!!徳川家康も味噌大好き男。戦には、「腰味噌」と称して、焼き味噌を袋に入れて、いつも携帯。非常食として、携帯便利だし、栄養あるし・・。・・・ところが或る日、戦でボロ負け。大ピンチ!命からがら逃げて帰る。▼どうにか、逃げ切り城に到着。フラフラ、意識朦朧。やっとこすっとこ、馬から下りた。▼気の利く家来が、馬の鞍を即、下ろす。その途端、大事件!!家来の、大絶叫!!「あっ、あじゃ~っ!!」▼顔面蒼白の家康。されど、苦しまみれ!に弁解。・・「馬鹿を申せ!!それは、お腰につけた・・テンテンテン!!」▼この話、食品頁から離脱!!(尚、この阿呆みたいな話、ウソではありません!!)・・家康流「己のシナリオ美化修正」の術(井伊直弼編付録ショート)▲リンク先頁の下側に、上記「家康、腰味噌事件!」の続きあります。
2013.08.13
偉人と食品小歴史,徳川家康オレンジ贈答対北条,南蛮の珍菓_九年母(オレンジ),徳川家康とオレンジ話,贈り物の返礼で見破った北条氏政&氏直親子の力量No.4,【楽天市場】徳川家康と・・なんと!マジ!正真正銘の「オレンジ!」話徳川家康が、オレンジ「南蛮の珍菓_九年母」の贈り物!_No.4偉人と食品に係る小歴史series家康に見破られた「北条の力量」それが、オレンジのお礼!!(その続き)はじめから読む:No.1<前頁から読む:No.3家康が、待ちに待った手紙。婿「北条氏直」からの礼状は、箱に入っていなかった。唯一、送付状みたいな紙切れひとつ。なんと!文字列はコレだけ▼「湯河原辺の橙でござる!以上」傍に居た家来は、思わず、怒りで震えた。「嘗めてんか!!無礼者!」即ち、北条は、礼のかわりに、「俺のほうが強いぞ!」と訴えてきたことになる。北条にはプライドが。家康なんて内心、見下しているのが丸わかり。「三河の田舎爺は、こったらもんが珍しい果物と、申すのか!阿呆らしい!!・・我が領土には、いくらでも橙が山盛りあるぞ!ちっとも珍しくないぞ!」「湯河原辺の橙でござる!以上」それだけの送付状は、暗黙に、それらを全て語っている。家康の家来は、本気で怒っている。確かに、素晴らしい塗りの特製長櫃。その上、中に入っている橙も特上商品。しかも、イヤミたっぷり山盛り!!まさしく、家康を馬鹿にしている。この家来は、悔しさのあまり、全身ガタガタ震えつつ、家康を気遣い振り返った。すると、どうでしょう!!もしや、主君「家康様」は、顎が外れたか?もしや、急遽、医者を呼ばねばならんか?!家康は、ポッカン!ポッカン!ポッカンチョッ!ズッコケたどころか、開いた口が、二度と、閉まらない!!あじゃ~っ!ありゃ~っ!、もしや、こうなると、アヤツは、正真正銘か!橙の山盛り攻撃で、己が勝ったと思い込んでいる!!なんちゅうことよ!ズッコケ!た後に不敵な笑み「家康&右腕の本多正信」 家康は呆れたのなんのって。「わしの手紙に書かれた「異国の果物」の文字列の重み、含みも解せぬ輩かいのう?」「経済の源、情報&世界との貿易、即ち、堺の港はこのわしが握っておるぞ!」と知らしめるところに、今回のオレンジ作戦があったわけなのだが、本題が全然及んで無い!!堺を握っているぞ!とは、即ち、鉄砲も火薬も握ってるぞ!の最大の脅威を植えつける為であったが・・・全然通じていない!!こりゃ、救いようがない!!国産の良質商品を山盛り送り返して、見下したつもりでいるらしい。・・・ますます、ポッカン!ポッカン!ポッカンチョッ!その時だった、横から、本多正信が一言。主君の前というのに、全然気にせず、扇子をパタパタやりながら、なにやら呟いた。おそらく、ざっとこんなかんじの発言でありましょう。・・・「殿っ、煮込み料理の手間は要りませんのう!!」若い家来には、その内容は聞き取れなかったが、なにやら、怪しいのは、主君家康も同じ。「ふむ、まあ、そーゆーこっちゃのう・・・。」・・家康も、扇子パタパタ、始まった。これが、世にも不思議な?!、家康に見破られた「北条の力量」それが、オレンジのお礼!!の事象でありました。(THE_END)その実、この後、僅か数年後、北条は、THE_END。氏直張本人も、すぐにご臨終。まさに、煮込み料理の手間は不要だった!!関連部分の抜粋:北条簡単MEMO■ここでいう北条とは後北条。戦国~安土桃山時代の相模国戦国大名。小田原城主。領国:【相模,伊豆,武蔵,下総,上総,上野,常陸,下野,駿河の一部:最盛期は約240万石】天正18年(1590)、秀吉による小田原攻にて、戦国大名としての北条氏は滅亡。■後北条氏 <【1代目】北条早雲(伊勢盛時)<【2】北条氏綱<【3】北条氏康(死亡1571年)<【4】北条氏政(1538~1590:小田原征伐に降伏:責任切腹させられ死亡)<【5】北条氏直 ・・(1562~1591:家康の娘「督姫」の夫であることから死罪を赦免されるが、ちゃんと翌年病死!)■【3代目】北条氏康(死亡1571年)の嘆き談話この一族は【3代目】北条氏康までは、かなり強かった。氏康は相模の獅子と言われ、恐れられていた。しかし、ご安泰が続くと、どこの家も。生前の氏康がボソッ!と呟いた談話有り。食事の時に、倅の氏政は、一回汁をかけて、食べながら、後で再び、汁をかける。それを見ていた氏康は思わず、ポロリと涙して側近にぼやいた。「飯とは毎回のことだ。されば、汁の量もだいたい見当がつくはずじゃ。然らば、汁をかけるのは、一度の手間ですむはずじゃ。これでは・・・我が家の未来は・・・。」そう言うなり、ポロッ!と箸まで落としてしまったという。因みに、氏政は弱い男ではない。ガルガル勇猛果敢。断固戦う。だが、父には見えてしまったのだろう。氏康は1571年に死亡してしまうが、1590年、いやな予感が的中。氏政は秀吉に負けて、責任切腹を申し付けられ冥土入り。次代の氏直は生き残るが、このとおり。▼■【5代目】北条氏直の死亡についてラスト=1591(天正19年)11月4日、大阪にて死亡。史実上は病死。死因は痘瘡という形。享年30歳。1590年=北条の敗北。父と叔父、及び、己の家来が責任切腹で、本人氏直は首が繋がるが、出家させられ僧に。高野山へ。1591年(8月以降)ところが、お家復活がなぜか、早くも許された。そこで、国許に居た妻(家康の娘「督姫」も呼び寄せられて、やってきた。こうして、督姫無事帰還、確定の後、早速この事象▼1591年(11月4日)北条氏直ご本人、ご臨終!!(なんちゅうか、丁度タイミングの病死!?は彼に限らず史実に多数)父「家康」の元に帰った「督姫」には、第二の仕事が!NEXT嫁入り。戦国侍の娘の宿命。サイトTOPは犬猫サイト<【家康のオレンジ】No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)
2013.07.20
徳川家康オレンジ贈答_南蛮珍菓九年母と北条の力量,徳川家康の贈り物オレンジ話,贈り物の返礼で見破った北条氏政&氏直親子の力量No.3,偉人と食品に係る小歴史series徳川家康と・・なんと!マジ!正真正銘の「オレンジ!」話徳川家康が、オレンジ「南蛮の珍菓_九年母」の贈り物!_No.3偉人と食品に係る小歴史series家康が見下した北条の力量:オレンジ話はじめから読む:No.1<前頁から読む:No.2<No.3【現在頁】家康は、京都の呉服商人(※)から入手した外国のオレンジの味が忘れられない。そこで、これを贈り物に使おうと決心。早速、この商人にオレンジを再発注。「ご苦労ながら、もう一度、あの『南蛮の珍菓_九年母(おれんじ)』を至急入手してくれ!!」京都の呉服商人(※)とは、多分「茶屋四郎次郎」と思われる。商人といえど政商。因みに家康に「鯛の油揚げ料理」を教えてあげた人物。情報の坩堝。ハイカラな外国情報も豊か。 (しかし老齢の家康に大量油摂取は冥土の引き金に!(家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳」さて、家康が、この外国の果物を贈った相手とは、北条氏政・氏直親子。なんといっても家康さんの立場上、これは純粋な真心・・・とは、ちょっと言えない。贈り物は贈り物でも、威圧用の贈り物!!第一は、■恩を着せる為に、第二は、■己の力を知らしめる為に・・。「そんじょそこらの者なれば入手不可能の珍菓を、我だからこそ入手できたぞ!それを、貴殿に、特別に進呈しようぞ!!」・っちゅう形で、コレを使おう作戦!!<当時の背景>この「オレンジ贈り物」談話、年月日は判然としませんが、おそらく、この段階、天下の徳川幕府成立以前どころか、秀吉による天正18年(1590)の小田原北条征伐より前の段階と思われます。1582年(天正10)の本能寺の変によって、織田信長が死亡した後、甲斐、信濃の領地取得をめぐり、家康と北条氏直が領土争い。北条は兵力に勝るはずながら、家康独自の心理作戦、信濃方面の豪族、及び武田遺臣のハート取り込み。着々と、恩を売って、近日未来の構想を胸に、自分の駒に靡かせてゆきます。そこで、強気の北条も、これはマズいと解して、和睦。仏の家康術発揮。「握りましょう。互いに余計な怪我はやめましょう!」ってところでしょうね。約定を交わす。その証に、家康は、我が娘「督姫(1565~ 1615)」を、北条氏直に嫁がせている。この時督姫は19歳とある為、数え年齢なれば、当年または、翌1583年位の話。さて、上記をふまえますと、家康が北条にオレンジをプレゼントした時期とは、だいたい、1583年位から、その直後の数年と、判断できます。少なくとも、1588年未満のいずれかの年。1588の数値はどこから来るかというと、▼ここでいう北条とは、後北条ですが、「北条氏」の戦国大名としてのお家は、天正18年(1590)秀吉による小田原攻にて滅亡するわけですが、この前、天正16年(1588)に一触即発の危機。豊臣秀吉がほぼ実権を握り、聚楽第行幸への列席を命じましたが、北条は、強気で拒否。討伐食らうところでしたが、家康が間に入って調停。▼・・<まさか、こんなお下劣な言語、家康さん、使ってませんが、意味合いとしては、こんなかんじ>▼「以前にも言ったでしょ!余計な怪我は、やめなさいってば!!どうしても、貴方のプライドが出席を拒否したいならば、せめて親族の誰かを出席させりゃいいでしょ。(内心:アタマ、悪いのう!!)それもイヤなら、我が娘との婚姻破棄しますよ!だから私の言うこと聞いといたほうが、身の為ですよ。」(離婚させますよの意味=アタシ家康が、貴方を討ちますよ!)▼これが、功を奏して、1588年は無事通過したというのに、結局、北条の運命は、1590年の小田原征伐でアウト。 同年、7月11日、氏政と、氏照らが戦犯責任として、切腹させられて終結。本来なれば、氏直も、勿論、ご一緒に冥土の宿命ながら、妻が家康の娘「督姫」であることから、特別赦免され、出家させられ、僧になって高野山に流される。結局、翌年、なぜか丁度ご臨終!!ですが!一応!病死。丁度タイミングの一応病死は実に多い。(付録枠ご参照)さて、北条のややっこしい話は、おいといて、本題のオレンジ話に入ります。▼トホホ!・・・ズッコケ!た家康の巻家康に見破られた「北条の力量」それが、オレンジのお礼!!家康としては、所詮、北条の腹の内は覚悟。我が娘を嫁がせてはいるが・・・。戦国侍の娘の宿命。だからといって、余計なところで企業体力の消耗、つまらん戦争で兵の損失は回避したい。とぼけて、仲良し作戦。贈り物。(家康の惚けほど怖いモノ無いっちゅうに!!北条は解ってない!)「我が娘は良い嫁、やっちょりますかネ?これは、南蛮の珍菓ですぞ。九年母(おれんじ)と申す果物でござる。・・・テンテンテン!」上記のとおり、家康は、我が力は絶大だぞ!の意味合いをしっかと込めて、わざわざ外国の商品を贈ったわけだが・・・多分、北条は、この手紙すら、まともに読んでない。そもそも、北条としては、プライド上、「家康なんて、三河の田舎者!!」と思っている。さてと、さてさて、暫し待つこと、数ヶ月。家康にとって、北条氏直は、我が娘の婿となったわけだから、婿の礼状到着を毎日待っていた。ある日、なにやら、家康の元に、北条からの贈り物「即ち、お礼」の商品がご到着。「おう、礼の品なんぞ、要らんのにのう。一応、気を使ったつもりかのう?」いつになく暢気な家康さん。目の前、ご立派な塗りの長櫃。ズッシッ!と運ばれた。すると、どうでしょう!!なにやら大層大きい箱。開いてびっくり、玉手箱!?長櫃の中身は、山盛りの橙(だいだい)でありました。・・・うぬっ?一瞬、ポカン!の家康。「変なヤツ!お礼の品に類似品を贈るとは、変なヤツ?!」「まあ、いいわ。とりあえず、礼状でも読むかのう。」彼は家来に命じて、添付されているであろう手紙を探させた。ところが、ギッチョン!文章といえるような、手紙らしい物質は入っていない。唯一、送付状みたいな紙切れひとつ。JAPANの橙▼文字列はコレだけ▼「湯河原辺の橙でござる!以上」傍に居た家来は、思わず、怒りで震える。「嘗めてんか!!無礼者!」サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関<【家康のオレンジ】No.1<No.2<No.3(現在頁)<★NEXT_No.4
2013.07.20
徳川家康贈物のオレンジ事件,相手のレベル洞察,その上で贈物を選びましょう!の巻,違いが解る男か否か?,徳川家康の贈り物オレンジ話No.2,「南蛮の珍菓_九年母」と贈ってコケた相手「北条氏政&氏直親子」,グルメ&スイーツ,【楽天市場】徳川家康と・・なんと!マジ!正真正銘の「オレンジ!」話特別挿入編:No.2【現在頁】お気軽バラエティー編「家康より現世の皆さんへ贈り物教訓話」徳川家康が、オレンジ「南蛮の珍菓_九年母」の贈り物!_No.2はじめから読む:No.1<No.2【現在頁】<No.3から:ちゃんと歴史話「家康が見下した北条の力量:オレンジ話」家康は、早速、飛脚を走らせ、この商人にオレンジを再発注。「ご苦労ながら、もう一度、あの『南蛮の珍菓_九年母』を至急入手してくれ!!」▼徳川家康が、オレンジの贈り物!貰った相手は北条氏直と、その親父の氏政。ところが、ギッチョン!家康はズッコケた!!落胆すること限りなし。世の中、よくある話。価値ある贈り物ほど、相手によってはコケる!<ここで、本日の教訓?!ひとつ!!>★皆様、くれぐれも、贈り物の際には、相手のレベルを考察してから選びましょう!!・・・違いの解る男か、否か?・・・そのあたり、ちゃんと考えてから選びましょう!!家康どん!より、現世の皆様に愛を込めて!!▼「天下の我輩『家康』なれど、我の悲壮なる体験談でござる!!現世の皆も、苦い経験はござらぬか?されば、我の教訓を活かして下され!・・・珍しいモノ、貴重なモノの価値理解に相手が怪しそう!なタマなれば、そーゆー贈り物は、思いっきりコケるぞ!!水の泡じゃ!転ばぬ先の杖じゃ!モノを吟味する前に、相手を深く洞察せよ!!」(FROM_家康!:血判付!●)家康話の前に、現世!贈り物のちょい教訓!!皆様、贈り物は、ご慎重に!私的にも、ズッコケ経験、自慢じゃないが、何度かあります。反応無し程度なら、べつにかまわないが、勘弁してくれ~っ!と叫びそうな苦い思い出有り。その町、その場所に行かない限り、絶対入手できない貴重なモノとは・・必ずしも相手がそれを知ってるとは限らない。「なんじゃ、コレ!」・・トホホ!・・・猫に小判!(猫に服!はこちら:猫玄関)中には、「ワーッ!こいつぁ、驚いた!凄い!かたじけない!」・・・と大絶叫!してくれる人物も居るから、それに調子に乗って、再度別人にTRYしたところ墓穴!!▼その物質!とは・・ここに添付すると、少しヘビー&暗めモードになるので、レベルの話は、やめときます。そのかわり、平和な笑い話で、自己反省!の商品を以下に!反省とは、=「事前に相手に食べ方のコツや、特徴を教えてあげなかったアタシが悪かった。」先方さん曰く「うん、凄く旨かったよ!やはり老舗とは、いいもんだな。歴史とは、いいもんだな。価値ある菓子とは、流行の旨い菓子よりも、ずっと旨い。だが、昔の人とは、忍耐強いなぁ。アレさァ、包装容器、硬くてサ、毟り取るのに苦労したナ!」・・・と言われてしまいました!!▼明治三年からの伝統「開拓時代の北海道」:老舗菓子 五勝手屋羊羹打ち上げ花火そっくりなケースに入っております。ポイントは、■羊羹切り糸装着。■底を押して、小出し。リズミカルで、お上品!お皿&包丁不要!携帯便利、チョボチョボ食べるタイプさんなれば、1cmとか2cmとか、適量チョコンと押し出し、糸でススッ!と切って、お上品に食べる。残りは蓋を閉めて、後で再び食べれる!!この糸でチョン切るリズムが、楽しおもろい。ハマる。糸でシュルッ!くるりんチョッ!と切れて、後ろからチョコンのリズムが楽しくて、ついつい、超薄切り連発やってしまう!!ところが、私メは、先方さんに、ソレ、事前に解説せずに差し上げたものだから、上記のような悲惨が生じたわけであります。彼は、この花火ケースを、指で、ガバガバ、めくり取りながらお召し上がりの様子。しまった!!しかしながら、その場では、スミマセン!とついに言えなかった。部下さんや、後輩さんに、延々、ご機嫌スピーチ。「開拓時代の北海道だからな、並大抵の環境、気候じゃないだろう。だからナ、おそらく保存、品質保持の為だろうよ。そりゃ、容器が硬いのなんのってナ・・・。だが、それこそ、歴史の価値というもんだ!!・・・それにナ、丸かじりは、まさに痛快サ!本来、菓子なんて、チマチマ包丁で切って、皿に盛って食うべきじゃないのサ。これぞ、醍醐味!ゴッホン!・・・そこで我輩はテンテンテン・・・延々延々~~っ!」お~うっ!神様、御免なさい!■容器を怪力で毟り取る必要はありませぬ!■牙を剥き出し、丸かじり!しなくて良いのでありんす!■確かに皿も、竹串も不要ながら!!★皆様、是非とも、糸切りの術と、底押しの術、お忘れなく!!固有名詞は「ゴカッテヨウカン」ですが、食べ方まで「ゴカッテにどうぞ!」とは、申しませぬ!!アーメン!それでは、本題に戻ります。No.3から:ちゃんと歴史話「家康が見下した北条の力量:贈り物に使った南蛮のオレンジ談話」トホホ!・・・ズッコケ!た家康の巻明治の北海道開拓、血と汗と涙と。明治の第二なる残酷史!サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関<【家康のオレンジ】No.1<No.2(現在頁)<★NEXT_No.3
2013.07.19
徳川家康_夏の贈り物オレンジ事件,贈物は相手のレベルを選びましょう!の巻,徳川家康の贈り物オレンジ談話No.1,「南蛮の珍菓_九年母」と贈ってコケた相手「北条氏政&氏直親子」,グルメ&スイーツ,【楽天市場】徳川家康と・・なんと!マジ!正真正銘の「オレンジ!」話徳川家康が、オレンジ「南蛮の珍菓_九年母」の贈り物!_No.1なんと1600年代の日本人が外国のオレンジを食べていた!徳川家康が、オレンジを!甘くて酸っぱくてフレッシュなオレンジ。オレンジと家康の顔!?ちょっとばかりイメージ、マッチしませんが、・・まあ、それはそれとして、今回は1600年代のオレンジ話をひとつ。なんといっても、コレは当時プレミアどころの話でない。家康だからこそ入手できた。珍しい貴重な外国のフルーツ。当時の日本には、柑橘系といえば、橙(だいだい)やら、蜜柑らしきモノ(この時代、蜜柑はまだ本格的でない。)数種、他に金柑とか・・・あったが、勿論、オレンジなんてあるわけ無い。家康は、コレを京の呉服商人に頼んで入手した。この商人は、南蛮人から苦心してゲットしてくれた。家康は大感激。「ふむ、なんちゅう甘い!なんちゅう旨いっ!」商人が語った。「これは、南蛮の珍菓。名前は『九年母(=おれんじ)』と申します。その上、食べたら、なにやら、元気になるそうでござりまするぞ。」ドケチ!の家康が珍しく、財布の紐緩んだ!!「うぬっ?これは旨いだけじゃなくて、カラダにも良いのか?」ますます家康はド感激。家康とは、漢方オタク。今日の言葉でいえば、ご年配の偉人によくあるタイプの「健康薬オタク!」であります。徳川存続の為なれば、己が長生きせぬことには意味がない。不老長寿の為に、漢方知識をアタマに畳み込み、その知識たるや、そんじょそこらの漢方医なれば、家康に脱帽&赤面。(徳川家康と健康管理)家康本人が、材料をチマチマ入手して、自分で調合する腕である。家康とは、超!ドケチ!たかがチリ紙一枚、大根の漬物一切、それすら、徹底ケチる男であります。徳川家康の節約主義について「宙を舞うチリ紙事件」何事も宣伝上手の徳川家康「教訓付きの漬物ハナシ!!漬物と節約」ところが、そのドケチの家康とて、この時ばかりは大変身。そもそも、京のお高い呉服商など、私的には、つきあう気さらさらないのだが、願わくは「間諜に!」という目的を持って接した男。顔が広くて、情報豊かだから。手数料程度にしか買い物してやる気、さらさらなかったくせに、流石にゴキゲン!本来なら買わないご立派な羽織だか、反物だか存じませんが、少々買ってしまった。そこで、家康は考えた。これは、使えるぞ!!第一は、■恩を着せる為に、第二は、■己の力を知らしめる為に・・。「そんじょそこらの者なれば入手不可能の珍菓を、我だからこそ入手できたぞ!それを、貴殿に、特別に進呈しようぞ!!」・・・っちゅう形で、コレを使おう!!▼心に決めたのであった。贈り物は贈り物でも、威圧用の贈り物!!早速、飛脚を走らせ、この商人に再発注。「ご苦労ながら、もう一度、あの『南蛮の珍菓_九年母』を至急入手してくれ!!」▼徳川家康が、オレンジの贈り物!貰った相手は北条氏直と、その親父の氏政。ところが、ギッチョン!トホホ!家康はズッコケた!世の中、よくある話。価値ある贈り物ほど、相手によってはコケる!家康話の前に、現世!贈り物のちょい教訓!!■右:ご存知ですか?周囲の白いワタが極上!極甘!極旨っ!▼現世:価値の解るグルメさんに是非!本来なら夏の蜜柑系の場合、白いワタがお邪魔。ところが、ギッチョン、こやつ「白ぷわっ!綿」が旨いのでありんす。これもまた、ご進呈の相手を、「ホンモノのグルメさん」を見分けるか、事前に教えてあげないと、「わっ!渋い皮に違いない!」と叫んで、全部美味しいところ、毟り捨てられてしまうヨ!__ _左の図イメージご参照商品選びの際、「枝葉付」とか「葉」とか入れて探すと、「枝葉付」もゲットできます。 「枝葉付」のメリット:尚フレッシュ&縁起も宜しい。「枝葉が付いてご発展!」トホホ!・・・ズッコケ!た家康の巻No.2はお気軽バラエティー:「家康より現世の皆さんへ贈り物教訓話」案外マジメにちゃんと歴史話「家康が見下した北条の力量オレンジ話」はNo.3から。サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関<【家康のオレンジ】No.1(現在頁)<★NEXT_No.2
2013.07.19
ギリシャ神話神の酒ネクタールと現世のネクタージュースと素因の酒,本と絵画とコラム,ギリシャ神話の象徴考察特集の臨時補足頁,ギリシャ神話と現世の食品飲料,【楽天市場】現在頁は、ブグローの絵画_No.10「プシュケーの歓喜」に登場する「神の酒ネクトール」に係る補足商品ガイド=臨時追加頁ギリシャ神話「神の酒ネクタール」に因んで、現世のネクタージュースと素因の酒【関連本文はこちら】背筋がゾクゾク!だけど、ワクワク!おもろ怖っ!ギリシャ神話<ウィリアム・アドルフ・ブグロー絵画特集No.10=作品「プシュケーの歓喜(その5)」項・・(◆神話に象徴された「身分違いの結婚」と、◆仮に、許されたとて逆に背負う第二の苦悩)「神の酒ネクトール」の現世再現!!シリーズ本文初めから読む=No.1▼【本文】=「プシュケーの歓喜(その5)」項・・「プシュケーの歓喜」に絡む神話の展開(その4)神話に登場する魔法の酒「神の酒ネクトール」詳しくは、真上のテキストリンクからどうぞ。ここには超略型。永久の眠り「昏睡」に陥った恋妻「プシュケー」の姿に泣いた若い夫「クピードー」クピードーにとって、プシュケーは妻なのだが、実は、内縁の妻。クピードーは神。プシュケーは人間。許されぬ愛。それゆえ、プシュケーは、結婚に反対するクピードーの母による陰謀で、「永久の眠り」の呪文の生贄。(中略)その宿命を背負った。故の昏睡である。泣きながら、屍を抱くクピードー。「愛しているよ!僕のプシュケーよ!」<中略・・本文へどうぞ。>▼そこで登場した正義の味方の神様が「ユーピテル」友情の力!「ユーピテル」は、友の「クピードー」の結婚を応援。永久に目覚めぬ呪いの呪文を払い除ける為、神の国の禁を犯し、プシュケーに、神の酒「ネクトール」を与えた。★この酒は、魔法の酒。その名は、「神の酒ネクトール」たった一口飲むだけで、呪いが解けて消えて、元気になった。その上、あら不思議!!忽ち、人間の娘「プシュケー」は、神様に変身!!神の酒「ネクタール 」のパワーは絶大。生き返ったプシュケーは、神に変身していた。★その証に、プシュケーの背中には、美しい蝶々の羽が!!クピードーは、彼女を、優しく抱きしめて、こう言った。「今日からは、何も恐れる事はない。君は、堂々、神様に昇格したんだよ!さあ、一緒に天の宮殿に行こう!!」これにて、プシュケーと、クピードーは、仲良く寄り添って、天の神の国へ行ったとサ!目出度し!目出度し!パピプペボ!!そこで、本題神の酒「ネクタール 」の現代版!※神の酒「ネクタール 」因みにこの神の酒「ネクタール 」語源から生じた美味しいジュースが、お馴染み「ネクター」。濃くてフレッシュ!天然果汁の果肉100%。濃厚でまろやかで甘くて!!酒ネクトールの発祥を汲む現世の商品例・・・ネクターというと、コレ▼を、真っ先に連想するでしょう!_ _右:森永「サンキスト」ネクター_ _上の右商品:感覚的にサンキストのネクターって感じるでしょう。ところが森永がキーマン。日本で初にこの「ネクター」による神の力!に着目したのは、森永製菓で有名なあの森永。当初、森永では、この「ネクター」という言葉専売と考えたが、心して、独占せず万民用語に解放した。一口飲んだ途端、魔法のように元気になる飲料!神話の「神様パワー」威力=ネクタールとは、あながち嘘でない。ビタミンも豊富。当社オリジナル商品の固有名詞にせず、解放したには訳がある。古い話ですが、初代社長さんは、苦労人。それは明治時代。異国の果て、飢えて今にも倒れそうになった時、一人の親切なご婦人が、一粒のキャンディーをくれた。たった一粒の飴ちゃん!それが元気の源に。そして生きる喜びを痛感。誰か知らないが、誰かが守っていてくれた。目に見えない愛がある。知らずして、自分は、その誰かに愛されていたのだ!見捨てられたわけじゃなかった。やがて、彼はキリスト教に入信。みんなに幸せを。子供達に笑顔を。だからお菓子。・・・そこに起業物語が。ネクター話は、ずっと後の世ながら、まあ源水は、そこらへんに無縁でないだろう。神の力!魔法の威力!神の酒「ネクタール 」に因んで、ネクターも普く万民に!▼森永ピポピポ!とエンゼルの訳!明治時代涙の!起業物語▼サイトTOPは犬猫サイト<ブグローの絵画:一緒にギリシャ神話を倍楽しく小特集:No.1<・・<【現頁の本文:ギリシャ神話考察】:)No.10<(現在頁:「神の酒ネクトール」
2013.04.23
偉人と現代食漬物,徳川家康漬物と節約談話(その2),徳川慶喜食生活No.9,慶喜のご先祖さん家康の漬物に係る教訓話,15代将軍:徳川慶喜の食生活_No.9(付録:元祖家康編)【現在頁No.9】=慶喜のウルトラご先祖さん「元祖_家康の巻(その2)」何事も宣伝上手の徳川家康「教訓付きの漬物ハナシ!!漬物と節約」「或る日、大奥メンバーの嘆願!漬物しょっぱいゾ!」の巻続き◆前述(前頁=No.8)の話、どうやら、作り話でなさそうでありんす!!<英勝院,塩加減発言>このとおり、ご存知ウルトラやり手姉ちゃん「英勝院」の発言のひとつに、「塩加減」事象があります。ある日、家康が問う。対して、当時、まだ、お勝と呼ばれる若いお姉ちゃん、現役の妾(側室)時代の、英勝院が答える。(彼女が英勝院と呼ばれるのは、家康死後の話。)▼「お勝や、そなたにとって、一番旨いものは何だ?」答え。「それは塩でござりましょう。食べ物が美味しく感じるのは、塩加減が良いからこそです。」「されば、一番不味いものは、何だ?」「それも塩でござりまする。どんなに立派な食材とて、塩加減が悪ければ、不味うござりまする。旨いも不味いも、食材そのものに起因するのではありませぬ。万事、塩加減でござります。」▼ここで、家康は、大感動!「なるほどのう。万事、塩加減しだい・・か。上手い事言うもんじゃなァ。政も天下も、万事、そのとおりじゃ。我が妾ながら、あっぱれ!」実際、家臣に語っている。・・「あの者は、もしも男に生まれていれば、いっぱしの侍じゃ!誠、あっぱれ!」英勝院さん、確かに閃き宜しい!だがしかし、こうなると、ヒントの泉は、膳所ですナア!!塩辛すぎて大迷惑!の漬物の経験がなければ、この名台詞は脳裏に浮かばなかったことでしょう! 因みに、この話、こちらの特集▼英勝院,塩加減発言ミニ特集:賢い徳川女性(家康側室)英勝院とは、確かにタダモノではありませぬ!案の定、後にヤリテ婆アに大変身!というわけで、家康は、英勝院を褒め称えるその傍ら、曰く。「徳川の台所は天下の台所。財政の源は、民の血と汗と涙!それが年貢。されば、節約第一!」以降、家康は、塩辛い漬物を奨励したとサ!・・・ホントかね?怪しいが、まあ、いいさ。物語は、こうして生まれる!!アピール上手の家康に乾杯!!尚、◆家康の節約主義について!!は、後日別編「家康とチリ紙特集」でご案内します。「英勝院,塩加減発言」に開眼した家康は、早速、アピール作戦開始 しちょります。そのオチが、なんと、チリ紙で、ござんす!皆様、ごきげんよう!!宙を舞うチリ紙事件!初めから読む:No.1「慶喜の食生活概要解説」<(オマケ付録編)◆土方歳三好物、◆榎本武揚編、◆ツー!の漬物各種◆徳川ラスト将軍:15代慶喜曰く、「べったら漬は厚く切れ!」編はNo.3【他に】◇土方歳三好物「沢庵漬」、◇壬生狼と「壬生菜漬&京野菜漬」◇榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物他、◇秋田名物「いぶりがっこ」、秋田名物「いぶりがっこ&燻製&ハムもどき」を、ご自宅&お庭でハンドメイドできますヨ!!▼人と犬、緑一杯健康ライフ特集(◆ログハウス,◆家族と犬キャンプとバーベキュー,◆庭に石釜男の出番,◆愛犬アウトドア冒険ジャケット,◆犬猫防虫お洋服別件、大型犬コーナーは、現在頁下側大型犬バナーをどうぞ!◆徳川玄関から、家康に係る「健康管理&漢方知識&食生活」のハナシ各種有ります。◆徳川家康は鯛の油揚げ食べて最後死亡に至りますが・・そのオチはこちら。▽徳川家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳:人生経験と食習慣◆徳川に限らず、偉人と食絡み話集約玄関◆難しくない歴史頁(食べ物、文化、製品などの話:TEXT版ガイド◆もっと沢山、広い視野で:食べ物話も各種込みは、真下ダンスわんこ軍団の下ミニバナー▼犬猫みんなの可愛服&グッズ、&人の暮らし&グルメ▼サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<人物名から追跡<徳川玄関<徳川慶喜スポット玄関<【15代将軍「徳川慶喜」と食生活お気軽特集】:No.1<・・・<No.7<No.8(【追加版】徳川家康と漬物編)<No.9(現在頁)グルメ玄関「ヘンデル&グレーテルの美味しいお菓子とグルメ」◆徳川に限らず、偉人と食絡み話集約玄関、◆難しくない歴史頁(食べ物、文化、製品などの話:TEXT版ガイド
2013.04.20
偉人と現代食漬物編,徳川家康漬物と節約談話(その1),徳川慶喜食生活No.8,慶喜のご先祖さん家康の漬物に係る教訓話,15代将軍:徳川慶喜の食生活_No.8(付録:元祖家康編)【現在頁No.8】=慶喜のウルトラご先祖さん「元祖_家康の巻(その1)」何事も宣伝上手の徳川家康「教訓付きの漬物ハナシ!!漬物と節約」現在シリーズは、真上紺色枠内バナー「明治の徳川慶喜」特集に発して、付録のお気軽版。「食生活」に係る「お楽しみ系お気軽グルメ版」です。初めから読む:No.1「慶喜の食生活概要解説」<No.2、3、・・・No.7(前頁)<No.8(=現在頁)特に「漬物類」にポイントしてみました。原因は、徳川慶喜発言「べったら漬は厚く切れ!」ついでに、幕末の有名人達が好きだった漬物に係る付録コーナーが、途中からあります。(オマケ付録編)◆土方歳三好物、◆榎本武揚編、◆ツー!の漬物各種現在頁No.8は追加版。ラスト将軍慶喜は、徳川歴代中、最長の長生きナンバーワン。享年77歳。第2位は、元祖家康で75歳。最初と最後が超長生き。そこで、これに因んで、家康の「漬物」に係る追加版をご用意しました。徳川家康については、下側ナビコーナーの「徳川玄関」から、各種、慶喜に関しては、「慶喜玄関」から、各種記事があります。そのひとつに、家康御臨終時の引き金「鯛の油揚げ」談話もあるわけですが、基本的に、家康は、戦国を駆け抜けた男である以上、いざとなったら、どんなモノでもガツガツ食いつける強さがあり、二代目の秀忠も同様。非常時なれば、ナマの芋でも噛み付いて、腹の足しにできる強さ有り。ところが、三代目家光になると、もうダメ。食に関して、さっそくお坊ちゃま症状。あれも嫌い、これもイヤ。ここに対比記事。 ▼・・・◆徳川家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳:人生経験と食習慣それは、さておき、家康の食に係る象徴教訓話がひとつありまして、それでは、家康の「漬物ハナシ!」を以下に。家康とは、大層シナリオ脚色能力抜群。己のシナリオを美化修正、そして、しっかと宣伝。家康の偉大さは、本来、こんな角度で指摘する専門家さんは、いませんが、私の目から見ると、本来の偉大さは、勿論ながら、・・・この人、ホントに宣伝効果の使い方、お上手。どこかにテレビ上手の誰~れかさん、偉い人、ちょい昔いらっしゃいましたが、家康さんも、なかなかです。マズイ話は、本題をスルリと入れ替えて、別の形でしっかと宣伝。▼歴代、言い伝えられる迄に徹する。(家康流「己のシナリオ美化修正」の術(井伊直弼編付録ショート)▼貶しているのでなくて・・・これまた、ひとつの技ですナ!これも偉大さのひとつと思います。それでは、「或る日、大奥メンバーの嘆願!漬物しょっぱいゾ!」・・・の巻へ繋ぎます。前述の15代徳川慶喜の明治時代に至っても、この家には、「膳所システム」が、家康時代からの伝統として、ご健在。以下の話にも、この「膳所システム」が絡みます。膳所とは、料理を司るセクションであり、イコール調理場。「或る日、大奥メンバーの嘆願!漬物しょっぱいゾ!」・・・の巻<元祖、家康時代の話>或る日のこと、大奥のお妾の皆さん、珍しく、ご意見合致。日頃は、足の引っ張り合い、おっそろしい世界ながら、こればかりは、全員一致!!ついに、大ボス!家康のモトに直訴が入った。とはいえ、内容は下らん!たかが、漬物!「どうか、お願いでござります!なんとか、なさって下さいまし!私ごときの一存でなく、これは、大奥全員の嘆願で、ござりまする!!」家康は仰天。なんちゅう下らん!!「なに?漬物がしょっぱい!(=塩辛い)だと?なんで、そんなこと、いちいち我にモノ申す!!」流れは、コレだった。▼毎回、漬物が塩辛すぎる為、どの部屋の妾さんも、膳所(料理を司るセクション=調理場)にクレーム。ところが、膳所が取り合わない。下出にモノ申すわりには、態度が頑強。断固応じない。「おそれながら、決り事は、万事、上様のご判断なれば、我の一存にて変更致しかねます!」文句あるなら、直接家康に言え!といわんばかりの態度。そこで、各部屋の妾さんが、珍しく、ご意見合致。団結。「あの膳所の態度は許せぬ!実際、この漬物は、塩辛すぎるのだから、上様のお怒りを我々が懸念する必要ないわ。これは、事実なのだから、上様に訴えましょうよ!あの者をクビにせよ!と嘆願しましょうよ!」◆そこで、膳所が家康に呼び出しを食らった!!家康が問い詰めると、膳所取締役の者は、こう語った。「おそれながら、上様、もしも、塩を程良い加減で、少なめにしたとしたら、どうなるか?どうか、お考え下さりませ。」▼「はっ?なんじゃ、それ?」▼「もしも、塩加減が程よいなれば、大変なことになりまする。そうなりゃ、大根が何十本、何百本、いくらあっても足りませぬ!!お家の為なればと、意を決して、塩を強めにいたしております!!それを許した私の判断も、そう思うが故、塩辛い漬物を作っておる担当者も、もしも悪いと、上様がご判断なさるのなれば、今すぐ、私が腹を切ります。」▼さて、上記の話、たかが、漬物ごときで、なんちゅう大袈裟!!▼ところが、こんな下らん話を、わざわざ、家康が、記録に残させたには、訳がある。▼★即ち、節約第一主義の徳川であった!!のアピール。家康さんは、もれなく、ここでも、宣伝効果作戦の一環として、この話を残した。▼上記の膳所取り締まり役も、現場担当者も、表彰されて褒美を貰ったとサ!・・の巻。◆上記の話、どうやら、作り話でなさそうでありんす!!その訳は、「英勝院,塩加減発言」に開眼した家康のアピール作戦開始犬猫みんなの可愛服&グッズ、&人の暮らし&グルメ▼★ 人と犬、緑一杯健康ライフ特集(◆ログハウス,◆家族と犬キャンプとバーベキュー,◆庭に石釜男の出番,◆愛犬アウトドア冒険ジャケット,◆犬猫防虫お洋服サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<人物名から追跡<徳川玄関<徳川慶喜スポット玄関<【15代将軍「徳川慶喜」と食生活お気軽特集】:No.1<・・・<No.7<No.8(現在頁【追加版】徳川家康と漬物編)<No.9◆徳川に限らず、偉人と食絡み話集約玄関、◆難しくない歴史頁(食べ物、文化、製品などの話:TEXT版ガイド
2013.04.20
修道院と焼菓子_愛と苦悩明治北海道,トラピスト修道院とお菓子No.7,岡田普理衛=ジェラール・プーリエの焼き菓子着想の訳,グルメと歴史トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子_No.7昔気質のクラシカルケーキ探訪編明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」Dom・ジェラール・プーリエ=岡田普理衛(フランス人)◆(1859(安政6年)11/14~ 1947(昭和22)7/1):満87歳◆函館トラピスト修道院創立者、◆トラピストクッキー発明者、◆1900(明治33)年、帰化。岡田普理衛と名乗る。初めから読む:No.1<前頁から読む:No.6現在頁は、「修道院と焼菓子_愛と苦悩明治北海道,トラピスト修道院とお菓子」特集日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエと、焼き菓子着想・・の追加版:トラピスト商品ご紹介のお気軽グルメ編幕末~維新(1868)のドン底「箱館時代から函館時代」の悲しみを乗り越え、さらに、第二の受難、昭和の終戦(1945)まで、全部、日本の悲しみを一緒に背負ってくれた人、修道院長「プーリエ」の生み出した商品一覧◆函館トラピスト(クッキーとバター飴 _ __◆函館トラピスト(左:ガレット&ケーキタイプ、右:バウムクーヘン)、_ _◆函館トラピスト(左:乳酸菌発酵バター、右:ハスカップジャム)_ _<関連▼>Dom・ジェラール・プーリエの心は、こうして、全国へ!◆大分トラピスト、◆那須の聖母修道院シトー会(西宮:FROM_1954(昭和29)年:那須トラピスト修道院) _ _<大分トラピスト(現在は、大分県安心院)>◆1980(昭和55)年:函館当別のトラピストから、大分県安心院に開設。◆<昔の話:Dom・ジェラール・プーリエ絡みの話>No.3のとおり、1926(大正15年=昭和元年)~1944(昭和19年)、この間、 彼は、福岡トラピスト新田原分院(福岡県京都郡抜郷村)設立活動をしていた。ところが、目下、戦争だらけの時代。1944年(昭和19年)、国の圧力が。閉鎖に追い込まれた。地元で育てた若い修道僧を全員解放。失意の彼は、再び、箱館。そして日本の最悪事態。翌年1945年は、敗戦降伏。しかし、地元に残った聖職者及び、育てられた若い僧達は、棄教するわけはない。不屈の精神で頑張る。地道な活動が実を結び、今日の形に。トラピストの焼き菓子が美味しいには、訳がある。▼プーリエによる「クッキー製作」の着想と、12世紀のヨーロッパ修道院と「アーヘナー・プリンテン」というお菓子=【No.5頁】猫ちゃん系記事総合玄関(洋服、用品、真剣介護サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関<わくわくドキドキ!色んな記事<グルメ玄関<【現在シリーズ】明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」:No.1<・・<No.6<No.7(現在頁)
2013.04.06
修道院と焼菓子_愛と苦悩明治北海道,トラピスト修道院とお菓子No.6,日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエの焼き菓子着想の訳,12世紀西洋史に痕跡,グルメと歴史,北海道開拓時代,和名の仏蘭西修道僧,トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子_No.6昔気質のクラシカルケーキ探訪編明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエと、焼き菓子着想Dom・ジェラール・プーリエ=岡田普理衛(フランス人)◆(1859(安政6年)11/14~ 1947(昭和22)7/1):満87歳◆函館トラピスト修道院創立者、◆トラピストクッキー発明者、◆1900(明治33)年、帰化。岡田普理衛と名乗る。初めから読む:No.1<前頁から読む:No.573歳晩年のプーリエ:感謝の涙!:やっと、皆を救えた!蝦夷の厳しい気候、絶望的な地質、泥炭地。農耕は、いくら頑張っても幾度も頭を打つ。そんな中、屈せず、皆を率いたプーリエ、73歳にして大成功。絶望の昭和一桁、昭和7年に発売開始されたこのクッキー。まるで夢!海外にも、その名を馳せ、跳ぶように売れた。しかし、一般庶民が、その「夢の夢!」を買える購買力が得られるのは、彼の死(昭和22年)後、ずっと後。良質のトラピストバターが、自慢の種、クッキーにもそれが含有されるから美味しい!がメリットトークなのだが、お菓子は、消費者層の幅が広いのと、絶望時代に光。甘いお菓子は幸せの味。_ _★バターは、生きた乳酸菌の発酵バター:トラピストのプレミア商品当時は、一部のブルジョア層を除くと、民はみんなドン底。貧しい。つぎはぎだらけのボロ服着ている。やがて、米じゃなくて、代用食。寝ても覚めても、カボチャか芋。闇米しょって、憲兵にとっ捕まる。飢えて死ぬ!戦争ばっかりの悪い時代。No.3のとおり、生きている間の、プーリエ本人は、戦争のせいで、踏んだり蹴ったりの惨憺たる人生。不屈で頑張っても、またしても踏みにじられる。良質の製品は高く評価されつつ、彼が一番救いたい対象、一般庶民階級が、楽に、これを買える時代じゃなかった。暫し、福岡分院立ち上げの為、九州で頑張るも、結局国の圧力で閉鎖して、失意の彼が、再び函館の地に戻るは昭和20年(1945)。ご存知のとおり、この年は、日本が敗戦。◆1945年(昭和20年)8月14日、原爆投下にて、降伏宣言。ポツダム宣言。彼の地、函館も、函館大空襲のドン底。その後、日本は、ダグラス・マッカーサーでお馴染みのGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の支配下。プリエ死亡は、その僅か2年後。昭和22年(1947)。背景は、悲しみのどん底時代。因みにその翌年、◆昭和23年(1948) とは、「東条英機ら7人に死刑執行」の年。GHQによる占領は、昭和27年 (1952)までの7年間続く。この段階、クッキーは、庶民に、まだまだ、高嶺の花。夢の夢。ところが、やがて、天上の彼は、きっと微笑み、地上を見下ろしていたことだろう。一度でいいから、食べてみたい夢のクッキー、あの人がお元気なうちに、多少無理をしてでも、是非一度、真心を贈ってあげたいあのクッキー。そう言われ続けたこのクッキー。貰って喜ばない人なんて、一人も居ない!夢のお菓子。戦後、GHQの解放の後、やっと民に購買力が得られた頃、信じられない位、売れた、売れた、売れた。夢のお菓子伝説は延々、健在だったのだ。お祝い事、贈り物には、泣く子も黙る「トラピストクッキー」と言われる黄金時代は延々続いた。プーリエが一番救いたかった対象、貧しい一般庶民の子も、夢のお菓子!といわれたこのトラピストクッキーを食べれる時代が、やっと到来したのだ。天上の彼は、きっと、微笑んでいたことだろう。今でこそ、色んなお菓子がある時代だけど、プーリエが発明?!したこのレシピは、本場仕込みの秘伝レシピ。だから、当時、どこのお菓子屋さんも、いくら真似しても、同じ味が出せない。だから、堂々、王道独走の「トラピストクッキー」でした。日本に骨を埋める覚悟のプーリエは、帰化の段階、岡田という家に養子に入れてもらって、本気の決断。そして、岡田普理衛と名乗ったわけですが、きっと、この大成功は、とても嬉しかったでしょうね。救いたいのに救えない。救ったつもりが、受難を。それの繰り返し。修道院長さんも、神父さんも、司祭さんも、・・・みんな生身の人です。ホントは、泣き出しそうな位、辛いことだって、きっと、あったと思います。「神は必ず救います!救ってくれます!信じなさい!」そう教えつつ、目の前で、子供やら、少年やら、どんどん死んでゆく。 救いたいのに、救えない!!救う立場にあって、救えない!・・・。辛かったでしょうね。日本列島の中、一番最後まで戊辰戦争が続いて、賛嘆たる実情を背負った函館。函館には、驚くほど一杯の孤児が居た。▼赤い靴シリーズには「函館の孤児院」の実態情報もMEMOしてあります。▼★その函館を、初めて、ホントに救えた!!それが、トラピストクッキー・・・でありました!!No.7に、トラピスト商品をご紹介します。ここにも、頑張ったお方がいらっしゃいました。クラークさん曰く。「少年よ!大志を抱け!」、絶望の大地なんかじゃないぞ!負けるな!ってことなんですが、▼実は、彼もキリスト教の人。教授だけど、キリスト者。開墾の精神と、感謝、神への祈り、ワンセット。 開拓使の黒田清隆と大喧嘩。「俺は学問教えろ!とは言ったが、誰がそったら宗教、学生に吹き込めと言ったんだ!!身勝手は許さんぞ!」▼「煩い黙れ、文句あるなら、今すぐ、俺は職務放棄して、帰国するぞ!本気だぞ!農学には、キリスト教が、必要なんだ。セットじゃなきゃ、成り立たないんだ!」この二人は大喧嘩ながら、腹を割って大喧嘩だから、寧ろ、距離が狭まった。生身の人間対人間、曝け出して好転に繋がる。その後、交流が続く。帰国後のクラーク。学生からの手紙。なによりも嬉しかったのは、彼らが、その後、入信して、洗礼を受けた報告を貰えたこと・・でした。サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関<わくわくドキドキ!色んな記事<グルメ玄関<【現在シリーズ】明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」:No.1<・・<No.5<No.6(現在頁)<★NEXT:No.7
2013.04.04
修道院と焼菓子_愛と苦悩明治北海道,トラピスト修道院とお菓子No.5,日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエの焼き菓子着想の訳,12世紀西洋史に痕跡,グルメと歴史,北海道開拓時代,和名の仏蘭西修道僧,トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子編トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子_No.5昔気質のクラシカルケーキ探訪編 明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエと、焼き菓子着想初めから読む:No.1<前頁から読む:No.4ところで、気になるプーリエによる「クッキー製作」の着想と、大昔のヨーロッパ修道院と「アーヘナー・プリンテン」というお菓子いよいよ、本題に迫ります。実は、「修道院と焼き菓子」、この関連性!それは、大昔の西洋史!★さすが!修道院長_Dom・ジェラール・プーリエ(=岡田普理衛)!12世紀の西洋が、なんと昭和7年、北海道の函館に!!昔々の西洋の話。それは、11世紀から12世紀のこと。ドイツの地に、「アーヘナー・プリンテン」という名前の焼き菓子が齎された。「アーヘナー・プリンテン」とは、宗教的行事に由来。スパイスとバター、小麦粉を卵等を使うお菓子。雰囲気的には、スパイスタイプのサブレーの味をイメージして頂いて宜しいかと思います。これは、ドイツに、ディナン(ベルギー)から伝えられ、民間のお菓子としては、レープクーヘンと変遷を遂げ、普及してゆく。ところが、同時進行で、修道院にも伝播されてゆく。<修道院とお菓子>上記のとおり、「アーヘナー・プリンテン」は、修道院へ引き継がれる。お菓子の固有名詞もスタイルも変遷するが、13世紀「プフェッファークーヘン」が修道院で作られ、14世紀には、同じく修道院ながら、今度は「レープクーヘン」というお馴染みの親しみ易い名前で焼かれていた。彼らは伝統の秘伝のスパイスを死守して作った。ここに独自性の価値。修道院と「秘伝のスパイス&ハーブ」といえば、お菓子に限らず、お馴染みの「ドンペリニオン」も同じ。これは、秘伝にて、今日もレシピは非公開だから、ますます揺るぎ無いプレミア商品。修道院の自給自足。労働と感謝。神への祈り。その行程の中、日持ちの良いこのお菓子は非常に都合が良かったのでしょうね。実は、トラピストクッキーについて、やっぱ、その流れ汲んでいるだろうな!と思える点が、あります。◆まず、プーリエの修道院長というお仕事上、アイディアは、その畑から出るのは自然な話。「アーヘナー・プリンテン」のまんまでは、どう見ても宗教儀式のイメージが強い中、既に、大昔、14世紀の段階、一般の人々に販売しやすい形態「レープクーヘン」という一般民に浸透している名前での販売が成功しているわけだから、これを、彼はヒントに考え出したのだろう。私が、そう感じた理由は、「風味と香り」と「形」の双方。◆「風味と香り」トラピストクッキーのレシピについて、食品である以上、必要最小限の表記、卵とか、バターとか以外は、公開されていない。これは企業機密と同じ。大昔から、修道院の歴史と共に、秘伝のレシピであろう。食べてみると、どう考えても、なんか工夫の自然スパイス、極微量含んでいるのが感じられる。だから美味しい!!上記のドンペリ同様に、【多分!】秘伝の工夫ハーヴ、orスパイスでしょうね。発酵バターを使っているのも特異性ながら、何回食べてみても、バターの違いだけじゃない気がします。食品として、人体に有害要素のある成分(例:着色料など)なれば、いかに少量とて表記はマナーですが、ハーブやスパイスは、人造的に作り出した化学物質とかじゃなくて、堂々の自然食品。その為、含有量が微量の自然材料について、表記の義務はありません。一応弁解しておきます!もしかしたら、バター以外一切使ってないよ!がポリシー?だったら困るので、その場合、お許し下さいネ。「アーヘナー・プリンテン」と、「レープクーヘン」には、明らかにスパイス含有ですが、この商品に、第三者の私が断言だけはやめておきます。その為、【多分!】を添付してあります。◆さて、次は、「形」に読み取れる12世紀の「アーヘナー・プリンテン」の臭い!!◆「形」特殊な「アーヘナー・プリンテン」の場合は、現代版サブレー類と異なり、切り抜き型だけでなく、押し型を使って、唐草模様みたいなオリエンタルを感じる全体模様タイプとか、人型とか!!ドキッ!タイプも色々あるんですが、ちょっとだけ、この唐草模様みたいなデザインが、トラピストクッキーにも、共通しているように見えます。_ ___あんまり不思議な主教的形だと、一般製品として、消費者がびっくりするから、シンプルで美味しそうな形になっていますが、周囲の唐草模様みたいな部分、確かに、流れを汲んでいるように感じます。比較の為に、「アーヘナー・プリンテン」の写真、お見せしたいところですが、まさか、そーゆー特殊なもの、現代の世、商品として買えませんから、商品画像は、ありませぬ!!73歳晩年のプーリエ:感謝の涙!:やっと、皆を救えた!サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関【現在シリーズ】明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」 :No.1<・・<No.4<No.5(現在頁)<★NEXT:No.6
2013.04.04
修道院と焼菓子_愛と苦悩明治北海道,トラピスト修道院とお菓子No.4,日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエの焼き菓子着想の訳,12世紀西洋史に痕跡,グルメと歴史,北海道開拓時代,和名の仏蘭西修道僧,トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子編トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子_No.4昔気質のクラシカルケーキ探訪編明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエと、焼き菓子着想Dom・ジェラール・プーリエ=岡田普理衛(フランス人)◆(1859(安政6年)11/14~ 1947(昭和22)7/1):満87歳◆函館トラピスト修道院創立者、◆トラピストクッキー発明者、◆1900(明治33)年、帰化。岡田普理衛と名乗る。初めから読む:No.1<前頁から読む:No.3◆悪いことも一杯あったけれど、人生そればかりじゃない。「三木露風」との交流が、そのひとつといえることだろう。三木露風:1889(明治22)6/23~ 1964(昭和39)12/29三木露風とは、現代の日本人なら、誰でも知っている歌「赤とんぼ」,「野ばら」の作詞者。この曲は、いずれも、三木露風が函館在住時代の作品。無論、トラピスト修道院在籍時代。1920年(大正9)、プーリエは、三木露風を、国文学、文法などの講師として、呼び寄せた。その三木は、この地で、1922(大正11)年、洗礼を受けた。この2年間、かたくなに首を縦に振らずにいた男が、自ら望み出た。嬉しいことに、本人のみならず、妻も一緒に。洗礼後、露風は、「三木パウロ」、妻は「三木モニカ」。三木も苦労人。幼少時に、両親が離婚し、祖父の元で暮らした身。赤とんぼの歌。発表は、大正10年(1921)。この後、翌年11年、彼は洗礼を受ける。 「夕焼けこやけの赤とんぼ、負われて見たのは、いつの日か・・。」「十五で、姉やは嫁にゆき、お里のたよりも・・・。」 悲しい幼少体験。赤いとんぼが、流れてゆく。背中の温もりは消え去った。遠い過去。最後の命綱、優しいお姉ちゃんも遠くに、消えた。 一人ぼっち・・今、この地、函館には、同じように、可愛そうな孤児が一杯居る。あの時と同じ、とんぼが飛んでゆく。尚、三木露風の「野ばら」とは、ふと万民が口づさむ「わーらべ~は見~たりィ、野~中~のバ~ラ」のアレじゃないんですが、歌詞の中、「蝦夷地の」と「人こそ知らね」、「神」が含まれる。北海道生まれじゃない彼が、ある日、野の中に、赤い薔薇を発見して、胸がドキドキした気分、とても手に取るように、伝わってまいります。「えっ!蝦夷地には、野生の薔薇があるの?!なんて美しい!」実は、コレ、多分、山の中じゃなくて、海に近いポジションで発見したと思います。北海道の花「ハマナス」のこと。確かに、野薔薇に見える。(左▼は六花亭商品) _輝いて見えるこの美しい花に感動した彼は、歌いこむ。野の草にまぎれて、少しも気取らず、それでいながら、凛として咲く。その姿は、あたかも、乱れた野の中(=世の中)、神の教えを、雑草達(=絶望の現世、彷徨って、苦しすぎて荒れてる状態の人達)に一生懸命伝道している姿のような!!・・・そんなニュアンスの歌詞。相当感動したんでしょうね。確かに、「ハマナス」の赤い色って、とっても綺麗。野生に置いとくの勿体無い。だけど、野生だからこそ美しい。ふと、覚醒の瞬間!!なんとなく、共感します。ところで、気になるプーリエによる「クッキー製作」の着想と、大昔のヨーロッパ修道院と「アーヘナー・プリンテン」というお菓子次頁は、いよいよ、本題に迫ります。実は、「修道院と焼き菓子」、この関連性!それは、大昔の西洋史!さすが!修道院長_Dom・ジェラール・プーリエ(=岡田普理衛)!12世紀の西洋が、なんと昭和7年、北海道の函館に!!サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関【姉妹編】◆(No.1~5)昔気質のクラシカルケーキ:頑固な職人気質_昔の技巧ケーキ特集:(No.1~No.5)◆(No.6~)無いものねだりの昔流バウムクーヘン!木の香りの旅!【現在シリーズ】明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」:No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<★NEXT:No.5
2013.04.04
修道院と焼菓子_愛と苦悩明治北海道,トラピスト修道院とお菓子No.3,日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエの焼き菓子着想の訳,12世紀西洋史に痕跡,グルメと歴史,北海道開拓時代,和名の仏蘭西修道僧,トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子編トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子_No.3昔気質のクラシカルケーキ探訪編明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエと、焼き菓子着想Dom・ジェラール・プーリエ=岡田普理衛(フランス人)◆(1859(安政6年)11/14~ 1947(昭和22)7/1):満87歳◆函館トラピスト修道院創立者、◆トラピストクッキー発明者、◆1900(明治33)年、帰化。岡田普理衛と名乗る。初めから読む:No.1<前頁から読む:No.2◆戦争と若い命:受難はプーリエの心も1937(昭和12)年 7月、日中戦争勃発。日中戦争と太平洋戦争。修道院に赤札が届いた。若者は、修道僧だろうが、見習い少年だろうが、皆戦場へ!!「やめて下さい。彼らは神の子です!」・・彼は必死で叫んだが、そもそも戦争に、そんなの通用しない。全員じゃないが、やはり戦場の掟。犠牲者が出た。14人引き摺り出されて、帰ってきたのは10人だった。守りきれずに、泣く泣く、送り出した結果の受難。救えなかった!救いたかったのに、救えなかった!!これは、プーリエ本人にとっても、大受難。めっきりと、老け込んでしまった。実は、彼、この前の段階、暫し、北海道を離れ、福岡期間がある。それも、結果として失意。犯人は戦争!全部戦争が悪い。即ち、悲しみはダブルパンチ。彼は、1926(大正15年=昭和元年)~1944(昭和19年)、この間、福岡トラピスト新田原分院(福岡県京都郡抜郷村)設立活動をしていた。ところが、国の圧力が。1944年、閉鎖に追い込まれた。地元で育てた若い修道僧を全員解放。失意の彼は、再び、箱館。ところが、踏んだり蹴ったり、受難は、まだ続く。1945(昭和20)年、7月14日、函館大空襲。この時、彼が守る修行僧達とは、地元の者ばかりでない。都会、東京の神学校から、少年達を疎開させて、引き取っていた。守る為に引き受けたはずが、可愛そうに、受難を与えてしまった。親兄弟を皆失って、悲しみばかりの少年達。だが、清らかな彼らの瞳。額に汗して働く労働の意義を教えた。努力して勝ち取る喜び。神への感謝。・・・せっかく、あの子達に笑顔が蘇ったというのに・・・!!神よ、神よ!なぜ、黙ってばかりおられる?神よ、我は、まだ、耐えねばなりませぬか?何故?私に、この子達を救いきれる力を、与えてくれぬのですか!救えぬ愚かな私が、それでも、耐えて、生きねばなりませぬか?_ __若い修道僧が徴兵され、戦場に命を落とし、飢えた少年達が命尽きる。だが、それだけじゃなかった。外国人の施設だから、憲兵の目がきつい。よもやスパイか!!とばかり、痛くも無い腹をさぐられ、折角、自給自足の収益のもと、商品は、いちいちチェックされて、制限される。材料も枯渇。少しでも得られた収益は、必ず社会還元、福祉活動経費にあてていたのに・・。身動きできない。故郷ならありえない。とんでもない貧しい食事。自分はよくても、育ち盛りの少年達が、病に倒れ、命を落とす。修道院長さんだって、人は人。生身の体と信念のアンパランスが時折、首を擡げる。思わず、涙が零れ落ちる。それでも、語る。「信じなさい!神は、必ず、貴方達を救う!!」悪いことも一杯あったけれど、人生そればかりじゃない。三木露風との交流が、そのひとつといえることだろう。サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関【現在シリーズ】明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」:No.1<No.2<No.3(現在頁)<★NEXT:No.4
2013.04.04
修道院と焼菓子_愛と苦悩明治北海道,トラピスト修道院とお菓子No.2,日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエの焼き菓子着想の訳,12世紀西洋史に痕跡,グルメと歴史,北海道開拓時代,和名の仏蘭西修道僧,トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子編トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子_No.2昔気質のクラシカルケーキ探訪編明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエと、焼き菓子着想Dom・ジェラール・プーリエ=岡田普理衛(フランス人)◆(1859(安政6年)11/14~ 1947(昭和22)7/1):満87歳◆函館トラピスト修道院創立者、◆トラピストクッキー発明者、◆1900(明治33)年、帰化。岡田普理衛と名乗る。初めから読む:No.1・・【直前の項目:◆函館とキリスト教、&◆フランスと箱館時代の函館】◆フランスと、箱館時代の函館また、幕末に掛かる次なる接点話といえば、箱館の地では、フランスの傷兵を保護した歴があります。他国に於ける戦争で傷を負った者達が積み込まれた船が到来。これは、人道的に、見殺しにはできない!寺に引き受け、養生に応援しています。私が調べた限りで、前頁記載のフランスの傷兵チームと、カションの結びつきが、無念ながら、判然としませんが、恐らく無関係ではないでしょう。少なくとも、カションは初来日以前に、箱館の地に、上記事件の経緯から、好感を抱いていた事は想定されます。カションは、幕臣や通詞達に、フランス語を教え、在箱していた為、戊辰維新の大激動をまのあたりにしている。1868年(明治元年)、彼は、箱館には居ないが、フランス士官「ブリュネ達▼」が、幕府軍に加担して、現に、箱館戦争で戦って敗れ、土壇場で、撤退している。その為、フランスの教会は、箱館時代の函館から、ずっと実態を知っている。さて、話を、初代トラピスト修道院長『Dom・ジェラール・プーリエ=岡田普理衛』に戻します。_明治の世、フランスの神学校で学ぶプーリエは、そーゆーわけで、事前知識豊富。加えて、これまた、彼の先輩格ともいえるが、明治10年(1877)、同国フランスのオズーフ司教(1829-1906)が来函している。彼は、教育事業、福祉事業と、頑張った。明治24年(1891)、24年初代首都大司教する。この間、明治11年(1878)、3人のスール(修道女)が、この地、函館に派遣され、やってきている。彼女達は、布教の前提に、社会福祉、孤児施設の確立他、コミュニケーションを心がけ、にこやかに、ご婦人層をターゲットに、洋裁、編み物など、実生活に役立つ事を教え、親睦活動に頑張った。帰国した彼女達は、函館の切実な実態を、力説した。この時代、どこの地域も、同じように、孤児は、あっちにもこっちにも。しかし、明治維新のドンパチが一番最後まで続いた函館(箱館戦争終結は1869(明治2)年)は、孤児だらけで特別、目を覆う惨状だった。赤い靴シリーズには「函館の孤児院」の実態情報もMEMOしてあります。▼そこで、張本人のプーリエが就任する明治30年以前に、下ごしらえ時代が数年あったわけである。1891(明治24)年、函館教区発足。当初、この施設は湯の川。1897(明治30)年、渡島当別のトラピストに移動している。そして、1898(明治31)年、正式に、修道院と認められ、今回の主人公「プーリエ」が修道院長に就任する。◆プーリエ修道院長:涙と懊悩の日々苦労は、つきものだが、日本の風土も、北海道の地質も、なにもかも予想以上の苦労ばっかり。額に汗して、一生懸命、開拓して、神に祈り、実りを神に感謝する。これが、布教活動にワンセット。その為、バタービスケットの前、まず、酪農普及やら、乳製品の製造やら、いちから、彼が若い修道僧達に、手取り足取り教えた。_ところが、ご存知のとおり、日本は長い鎖国歴史の国。異国人が怖い!神の教え・・・といえど、周囲の大抵は、目を斜に構え見る。案の定、開拓の重労働、同時の北海道の地質、食料不足。死亡者を発生させてしまった!!亡くなった本人達は、直接教えを受けて、神の国に導かれたと多分思って亡くなったことだろうが、周囲が厳しい。「青い目の異人が、可愛そうな若者を騙して、コキ使って殺した!!」・・・だなんて、変な噂まで飛んでくる。1903(明治36)年、これまた、酷い目にあった。大火災発生。修道院の建物は、全焼。なにもかも焼失した。「神は、乗り越えられる範囲の最大限、必ず、苦しみを我らに与える!それは、乗り越える為に・・。」と、自ら、そう語るプーリエとて、生身の人間。若者に隠れて、一人涙するが、歯を食いしばり、粘り倒す。また、こんなこともあった。1910年(明治43)プーリエ本人の遭難事件。これは実に危なかった。北海道の冬山。深雪の遭難。幸い、一命取り止めたが・・・。それでも、乗り越えて、頑張ったというのに、今度は、戦争で、若い僧達を、徴兵された。◆戦争と若い命:受難はプーリエの心もサイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関【現在シリーズ】明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」:No.1<No.2(現在頁)<★NEXT=真上NEXTボタン:No.3
2013.04.04
修道院と焼菓子_愛と苦悩の日々明治北海道,トラピスト修道院とお菓子No.1,日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエの焼き菓子着想の訳,12世紀西洋史に痕跡,グルメと歴史,北海道開拓時代,和名の仏蘭西修道僧,トラピスト&トラピスチヌス修道院と、お菓子_No.1昔気質のクラシカルケーキ探訪編明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」日本に帰化した修道院長「岡田普理衛」こと、Dom・ジェラール・プーリエの涙と、焼き菓子着想の訳トラピストのバタービスケットは、昭和7年(1932)、空前の大ヒット。製品名は、「トラピストクッキー」。風味豊かなこの西洋焼き菓子は、贈り物などに皆に喜ばれる。売れた!売れた!売れた!!日本のこの商品は上海でも有名に。_ __ところで、この「トラピストクッキー」のレシピは、一体誰が?その答えはこちら▼「岡田普理衛」さんと申します。漢字で見ると、そうかいな・・・で終わってしまいますが、読みは、オカダプーリエ。実は彼はフランスの人。日本に帰化して、和名「岡田普理衛」を名乗る。▼彼は、初代、修道院の院長さん。Dom・ジェラール・プーリエ・フランソワが本名。天辺のDomは、修道院長さんのお印。はじめに、製品名は、「トラピストクッキー」であり、バタークッキー。なぜ、ネーミング上、「ビスケット」でなくて、「クッキー」になったかは、私には説明できませんが、彼のプラン上、途中経緯に出てくるのは、「ビスケット」。どっちでも似たようなもんですが、一応メモしました。日本人のイメージとして、ビスケットは淡白?、クッキーは美味しそう!に聞こえるからなのか?「トラピストビスケット」じゃ、舌噛みそうだから・・なのか?そのあたり、恐縮ながら、流れ存じません。以下、統一して商品名以外は「ビスケット」と書きます。昭和7年(1932)、美味しい「トラピストクッキー」が一躍、大ブーム。そこには、満面笑顔のDom・ジェラール・プーリエ(以下、略してプーリエと、書きます。)の姿があった。頑張って、このバタービスケットのレシピを考え、修道院の者に伝え、大成功。そりゃ、嬉しい。この時、彼のお年は、既に73歳。ずっと、故郷を離れ、辛いことばっかりだったけど、この地で頑張って、本当に良かった。痛感したことでしょう。 (但し、後述しますが、この段階、民は貧困。一般民が購入できる時代は、ずっと後、戦後どころか、GHQ解放後時代。即ち本人天昇後。)トラピストが正式な修道院として稼動するのは、明治31年(1898)であり、この年、彼が、修道院長に就任したわけですが、彼が、この地、北海道をなんとか救おうと動き始めたのは、それ以前。長い間、彼は幾多の困難と悲しみを乗り越え、函館と一緒に、北海道と一緒に頑張りました。昭和22年(1947)、プーリエは、87歳の天昇に至ります。在日は約50年。人生の半分以上、函館に捧げました。Dom・ジェラール・プーリエ=岡田普理衛(フランス人)◆(1859(安政6年)11/14~ 1947(昭和22)7/1):満87歳◆函館トラピスト修道院創立者、◆トラピストクッキー発明者◆1900(明治33)年、帰化。岡田普理衛と名乗る。上記のとおり、明治31年スタートのトラピスト修道院ですが、その前の段階を少々。函館の地の民を、なんとか救わきゃ!そう思い始めたのは、ずっと前まで遡る。明治6年、日本は初にキリスト教の禁教高札取り下げ。それまでは、ご存知の邪宗門。直前まで、おっそろしい切支丹迫害がありました。江戸時代の事では、ありません。明治初期の弾圧ほうが、ある意味では、よっぽど、おっそろしい!!大勢の殉教者が、明治に発生している!▼高札が降りた以上、各国の、それぞれの教会が、進出合戦の背景もある。だが、フランスと函館については、特別な結びつきが。◆函館とキリスト教、&◆フランスと箱館時代の函館ぐんと昔、1600年代、江戸時代初期の隠れキリシタン時代の悲しい犠牲は、フランスではありませんが、外国の宣教師と、蝦夷の地まで隠れ逃れてきた切支丹が、大勢処刑されています。彼らは、逃げて、逃げて、ついに北限の蝦夷地、ついに殺された。(この話は後日、別編にて)幕末段階、宣教師として出現するのは、これは、彼「プーリエ」に直接、接触がない時代の大先輩、安政6年、フランスの宣教師「メルメ・デ・カション」に始まる。カションが函館に来たのは、函館でなく、箱館時代。幕府時代。1859(安政6)年。ところが、順番前後しますが、それより前、幕末、開国の前段階から、箱館と外国の接点が、ありました。まず、松前藩直轄時代、同藩は、難破したイギリスの船の乗員達を助けました。この段階、藩主は、松前崇広(松前の12代藩主)。この人物は、可愛そうに、まだ、30代だというのに、戊辰のドタバタで死亡。(なんとなく少々きな臭い死に方ながら)この人物は洋学ツー。人道的見解から、最善を尽くして、あげています。因みに箱館戦争で、幕軍チームで活躍した軍艦のひとつ「蟠龍(艦長=松岡磐吉)」は、そのお礼として、イギリスの女王から、松前崇広にプレゼントされた船。崇広は、まさか徳川将軍、さしおいて、それ、ちゃっかり貰うわけにゆきませんから、幕府に献上という流れです。松岡磐吉の獄中死:きな臭い!戦争終焉後の『犠牲と謎の死』▼◆次は、フランスと、箱館時代の函館サイトTOPは犬猫サイト<グルメ玄関【姉妹編】◆(No.1~5)昔気質のクラシカルケーキ:頑固な職人気質_昔の技巧ケーキ特集:(No.1~No.5)◆(No.6~)無いものねだりの昔流バウムクーヘン!木の香りの旅!【現在シリーズ】明治の北海道&修道院と焼き菓子「愛と苦悩の日々」:No.1(現在頁)<★NEXT:No.2
2013.04.04
ミント花ギリシャ神話少女,草花に変えられた美少女「ミントの花」No.3,男の罪と女の嫉妬,犠牲の少女悲話,魅惑のギリシャ神話,冥王ハーデースとミントの芳香編その2,神話に象徴される日常定着食品ミント秘話,特設コーナー:猫が喜ぶミント草苗&種も一緒にご紹介,ミント花哀歌_ギリシャ神話「死神と、犠牲の美少女」【姉妹編】絵画が紐解く「魅惑のギリシャ神話」:ウィリアム・アドルフ・ブグロー作品◆草花に変えられた哀れ美少女の化身「ミントの花」、◆男の罪と女の嫉妬「冥王ハーデース」とミントの芳香編_No.3◆犠牲の美少女、◆男の罪と女の嫉妬(夫の罪、妻の嫉妬)初めから読むNo.1<前頁から読むNo.2◆ギリシャ神話悲話:草花に変えられた美少女「ミント花哀歌」の続き・・◆【第3パターン】:なんと!慈悲深い夫「ハーデス」説!この第3パターンは、実に不思議なパターン。本来、ハーデースとは、冥王の名がくっつく以上、悪の代名詞。死神・・・のはずが、妙~っ!に人情脆い!【第1パターン】&【第2パターン】は、前頁ご参照。冥王「ハーデース」は、森の妖精(ニンフ)の一人、メンテーをこよなく愛し、いわば妾のごとく、可愛いがっていた。ところが、妻の嫉妬には勝てない。美少女は、妻「ペルセポネー」の嫉妬、彼女の魔法にやられて、美しい娘の姿を剥奪されて、草にされてしまった。妻子有る男とは、案外、たよんないでありまんナ!!・・どうせ、やるなら、しっかりせんかい!!哀れ夫。たとえ職業「死神」でも、カミサンは怖い。そこで、冥王「ハーデース」は、ささやかな抵抗。草は草でも、芳香を放つ草になるように呪文を。(恐妻に隠れて!)「同じ草でも、人間共に、踏んづけられるでは、そなたが哀れすぎるぞ!!」即ち、この説でいくと、雑草に変えたのは妻「ペルセポネー」の仕業ながら、ミントという草に指定したのは、冥王「ハーデース」。可愛そうなメンテながら、ハーデースの気持ちを汲んだ。愛らしい姿で、ひっそりと、神殿の庭に咲き続ける。普段は草の姿。だが、陽光を浴びると、より一層、芳香を放ち、そっと、ハーデスに自分の居所を知らせた。そして、夏になると、小さな花を咲かせた・・・・とサ!!日頃、おっそろしい男も、恋は盲目に!?・・・ってところだろうか?冥王「ハーデース」_今回のギリシャ神話「ミント話」は、すんごく短いし、秘められた深いモノたるや、いまいち、はっきりしないのですが、【姉妹編】:絵画が紐解く「魅惑のギリシャ神話」:ウィリアム・アドルフ・ブグロー作品は、かなり教訓的!けっこうズッシリ重い。怖美しい世界。冷汗!とても人事と思えない。猫が喜ぶ「キャットミント」コーナー(その3)猫が喜ぶ「キャットミントの苗&種」コーナーは、前頁(No.1とNo.2)猫可愛セーラ襟首輪とレース襟首輪!!_サイトTOPは犬猫サイト<ミント花哀歌_ギリシャ神話:No.1<No.2<No.3(現在頁)◆【姉妹編】:絵画が紐解く魅惑のギリシャ神話「ブグローの絵画」こちらも花の化身哀歌。純情の涙!
2013.04.01
ミント花ギリシャ神話少女,草花に変えられた美少女「ミントの花」No.2,男の罪と女の嫉妬,犠牲の少女悲話,魅惑のギリシャ神話,冥王ハーデースとミントの芳香編その2,神話に象徴される日常定着食品ミント秘話,特設コーナー:猫が喜ぶミント草苗&種も一緒にご紹介,ミント花哀歌_ギリシャ神話「死神と、犠牲の美少女」【姉妹編】絵画が紐解く「魅惑のギリシャ神話」:ウィリアム・アドルフ・ブグロー作品◆草花に変えられた哀れ美少女の化身「ミントの花」、◆男の罪と女の嫉妬「冥王ハーデース」とミントの芳香編_No.2◆犠牲の美少女、◆男の罪と女の嫉妬(夫の罪、妻の嫉妬)前頁から読むNo.1◆ギリシャ神話悲話:草花に変えられた美少女「ミント花哀歌」◆罪な男は、こちらさん。神話上の有名人ならずや、有名神。「冥王ハーデース」と申します。彼は神は神でも、死神!登場人物(冥王「ハーデース」、妻「ペルセポネー」、美少女「メンテー(ニンフの一人)」)ある日、冥王「ハーデース」は、コキュートス川のほとり、野辺に遊ぶ美しい娘を発見。その娘の名は、メンテーという。なんと美しい!忽ち魅了されてしまった。彼女は、娘といえど、人間の娘ではない。ニンフといって、森の妖精の一人。ハーデースには妻が居るのだが、自分の欲の為なれば容赦無し!あっという間に、美少女は、この男の生贄に!ところが、夫の様子に気がついた妻の「ペルセポネー」は、大嫉妬。前述のとおり、忽ち、彼女を草に変えてしまった。この物語の進行は、だいたい三種類位ある。但し、テーマのメインは、いずれも同じ。夫の罪「浮気」と妻の嫉妬。◆【第1パターン】は、「妻ペルセポネー」が、意地悪おばさんパターンペルセポネーは、嫉妬が大爆発。死神の妻だから、彼女にも、おっそろしいパワー有り。いきなり、か細いメンテをひっつかまえて、そのまま足で踏ん付けて、ついでに呪いの呪文。「草になれ!草になれ!皆に踏みつけられるがよい!永久にそなたは、下らぬ草じゃ!」しかし、いかに強引にハーデースの女になされてしまった彼女といえど、ひとたび、身を捧げた男のことは、永久に忘れられない。そこで、ハーデスが暮らす神殿の庭で、愛らしい花を咲かせていた。その為、ミントとは宿根草。冬が来ても、翌年には、必ず咲いてくれる。さすがの死神「ハーデース」といえど、これには涙した・・・とサ!!<第一パターン=THE_END!>◆【第2パターン】は、「妻ペルセポネー」が、優しい女性のパターン(これは、上記の第一パターンと正反対!)メンテは、女癖の悪い男「ハーデース」に力ずくで、手篭めにされてしまった。これに、気づいた妻の「ペルセポネー」は、涙した。実は、彼女は妻といえど、それは、表向き。彼女も、メンテと同じく、「ハーデース」に暴力的に捕まえられて、こうなってしまった身。そこで、この年若い娘は、あんまりにも可愛そうなので、二度と夫に辱めを受けぬように、ハーデースの目から隠してやる為に、魔法をかけて、草に変えてやった。「可愛そうにね、お前は若く美しい。その姿なれば、またしても同じことになってしまうわね。仕方ないわ。目立たぬように、草に、姿を変えてあげましょう!」そこで、彼女は、小さな草の姿のままに、ペルセポネーに対する報恩に、茂み中、黙って、芳香を放つ。 ・・・とサ!!これって、不思議でしょう。どうして、正反対説も同時にあるか?それは、ギリシャ神話とは、まるごと架空でなくて、誰か実在人物に絡まる話だから・・。それが原因。夫側の家系を応援する側も居れば、妻側を応援する臣達も居る。どちらも、我が主君を「悪!」にしたくない。悪いのは配偶者の側だ!!と言いたい傾向が見え隠れ。第3パターンは、まさにソレ以外の何でもない!本来、ハーデースとは、冥王の名がくっつく以上、悪の代名詞。死神・・・のはずが、妙~っ!に人情脆い!【第3パターン】は、・・慈悲深い夫「ハーデス」説!猫が喜ぶ「キャットミント」コーナー(その2)にゃんこコーナーその1は、前頁(下側のTEXTリンクからどうぞ)猫草(猫サラダ)もいいけれど、セラピー効果!!に、キャットミント!! _サイトTOPは犬猫サイト<ミント花哀歌_ギリシャ神話:No.1<No.2(現在頁)<★NEXT★:No.3・・◆【姉妹編】:絵画が紐解く魅惑のギリシャ神話「ブグローの絵画」
2013.04.01
猫喜ぶミント&ミント花ギリシャ神話少女と死神,草花に変えられた美少女「ミントの花」No.1,男の罪と女の嫉妬,犠牲の少女悲話,魅惑のギリシャ神話,冥王ハーデースとミントの芳香編その1,神話に象徴される日常定着食品ミント秘話,本と絵画とコラムミント花哀歌_ギリシャ神話「死神と、犠牲の美少女」【姉妹編】絵画が紐解く「魅惑のギリシャ神話」:ウィリアム・アドルフ・ブグロー作品◆草花に変えられた哀れ美少女の化身「ミントの花」、◆男の罪と女の嫉妬「冥王ハーデース」とミントの芳香編_No.1◆犠牲の美少女、◆男の罪と女の嫉妬(夫の罪、妻の嫉妬)日常に定着している食品「ミント」に秘められた秘話を、ひとつご紹介します。◆ギリシャ神話悲話:草花に変えられた美少女「ミント花哀歌」道端にひっそりと咲く小さな花。それはミント。この草花は、実は、美少女の化身。物語は、夫婦間の争い。夫の罪、妻の嫉妬、犠牲の少女。この運びであります。即ち、少女は妻の嫉妬によって、「アンタなんか、たかが草!になってしまいなさい!」・・と魔法をかけられてしまったであります。そこで、哀れなこの美少女は、自分の存在を示したくて、一生懸命に芳香を放つのでありました。旅人が、道端でふと、振り返る。どこからともなく、爽やかな香り。されど、どこを見ても、草ばかり。ところが、よくよく見ると、小さな花が風に揺れていた。「この爽やかな香りは、なんと、こんなに小さな花だったのか!!」・・・・・・さてと、ここに始まる、始まる!ギリシャ神話の物語。夫「冥王ハーデース」の浮気に、頭にきた妻は、嫉妬のあまり、美少女を草に変える呪いの呪文を!「アンタなんか!草花どころか、みんなに踏み潰されちゃうたかが草になっちゃえばいいわ!ざまあ見ろ!!」妻「ペルセポネー」は、たかが草に変えました。ところが、少女の無念を天上の神が聞き止めた。その為、普段芳香を放つばかりに留まることなく、夏になると可憐な花を咲かせるのでありました。◆罪な男は、こちらさん。神話上の有名人ならずや、有名神。 「冥王ハーデース」と申します。彼は神は神でも、死神!自分の欲の為なれば容赦無し!美少女は、この男の生贄に!!・・なんですが、どうも、この話に限り、職業「死神さん」のわりには、なんとも人情脆くて、可笑しい!いかに神さんといえど、★カミサン!★は、もっと怖いようでありますナ!!_それでは、物語の展開の前に、当サイトTOPは犬猫サイトにつき、ちょっと、ワンニャンコースを下枠に!!<ミント栽培のオススメ>我が家にもミントあります。介護中の犬猫が居る時、一束、刈り込んできて、玄関室に。家中、爽やか芳香が一杯!!花瓶の中、枯れてパッサパサになって、人様に見せられない状態になっても、芳香は現役!!有り難い! 2年目から、めきめき増えて、一杯になります。ほったらかしでも、すくすく育つ。マメに花壇作りなんて全然やんない私でも大丈夫!!猫が喜ぶ「キャットミント」猫ちゃんにも、セラピー効果!!ご覧のとおり、まったり、うっとりニャンコ!!(キャットニップとも申します。)芳香が強い普通のミントは上側本文内リンク画像。 _猫ちゃん系記事総合玄関(洋服、用品、真剣介護▼さてと、物語:ある日、冥王「ハーデース」は!サイトTOPは犬猫サイト<ミント花哀歌_ギリシャ神話:No.1(現在頁)<★NEXT★:No.2・・◆【姉妹編】:絵画が紐解く魅惑のギリシャ神話「ブグローの絵画」
2013.04.01
偉人と現代食漬物編,ツー!の漬物いぶりがっこ他,徳川慶喜食生活No.7,徳川慶喜のこだわり食品付録編,グルメ&スイーツ,【楽天市場】15代将軍:徳川慶喜の食生活_No.7【現在頁No.7】は:慶喜の食生活「商品頁」(その6)(オマケ付録編):慶喜の好物漬物「べったら漬」から転じて、幕末有名人「好物&関連お漬物」幕末有名人「好物&関連お漬物」_その4初めから読む:No.1「慶喜の食生活概要解説」<(オマケ付録編)◆土方歳三好物、◆榎本武揚編、◆ツー!の漬物各種【前々頁】◇土方歳三好物「沢庵漬」、◇壬生狼と「壬生菜漬&京野菜漬」【前頁】◇榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物他、【現在頁】◇秋田名物「いぶりがっこ」、・・◆徳川ラスト将軍:15代慶喜曰く、「べったら漬は厚く切れ!」編はNo.3◆秋田名物「いぶりがっこ」と、北海道に負けない!お魚入り漬物各種これが、また、旨いんですワ!ハマる!・・・燻してありますから、なんちゅうか、漬物のスモーキー燻製みたいな!!_ __ ___◆北海道に負けてないぞ!お魚入り漬物各種イカ味、シャケ味・・・と、実は、色々アラカルト__そもそも、蝦夷へ、東北から移住の人々の歴史は、ずっと昔から。独特の文化が、地において、変遷していったわけだから。元祖は、寧ろ、東北だぞ!と威張ってもらう権利は、絶大!!犬猫みんなの可愛服&グッズ、&人の暮らし&グルメ▼サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<人物名から追跡<徳川慶喜スポット玄関<【15代将軍「徳川慶喜」と食生活お気軽特集】:No.1<・・・<No.6<No.7(現在頁)
2013.03.01
偉人と現代食漬物編,榎本武揚と箱館&北海道の漬物,徳川慶喜食生活No.6,徳川慶喜のこだわり食品付録編,グルメ&スイーツ,【楽天市場】15代将軍:徳川慶喜の食生活_No.6【現在頁No.6】は:慶喜の食生活「商品頁」(その5)(オマケ付録編):慶喜の好物漬物「べったら漬」から転じて、幕末有名人「好物&関連お漬物」幕末有名人「好物&関連お漬物」_その2初めから読む:No.1「慶喜の食生活概要解説」<◆土方歳三好物、◆榎本武揚編、◆ツー!の漬物各種【前頁】◇土方歳三好物「沢庵漬」、◇壬生狼と「壬生菜漬&京野菜漬」【現在頁】◇榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物他、【次頁】◇秋田名物「いぶりがっこ」、 ・・◆徳川ラスト将軍:15代慶喜曰く、「べったら漬は厚く切れ!」編はNo.3◆榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物他軍艦開陽が江差の海に沈み、失意の榎本。徒歩で惨めに撤退。山小屋で一夜を明かす。その時、追従していた山内六三郎が、床下から発見した漬物樽。それは、描写からすると、まさに「鰊漬」であります!蝦夷の人と異なり、漬物の中に魚が入ってるのを見て、大層びっくり!曰く。「なんと、大根の漬物に、鰊が入ったる!」◆榎本武揚と箱館「鰊漬」__山内六三郎が、発見した時、雰囲気は、多分こんなかんじだったことでしょう!ツーなれば、暖ったかい囲炉裏とか、ストーブの前、パリシャリの薄氷が張ったまんまの状態で、表面だけ超薄シャーベット状態で、シャリゴリ~~頂きますと、尚結構!う~む、酒っ!酒っ!。▼_山内も榎本も江戸の人だから、漬物に魚!は、いくら旨くても、驚いたでしょうが、蝦夷の冬、保管場所の台所とか、物置は、氷点下。だから、腐らない!パリシャリの薄氷。◆箱館松前名物「松前漬」:新鮮昆布&数の子&スルメ!!殿様気分! ___新鮮昆布&でっかい数の子山盛り&スルメ!・・・なんちゅうお贅沢!!__【左下】:食べてみたいが、醤油色が苦手な関西の人々も絶賛!★限定白醤油の旨味作り【右下】:こちらも限定オリジナル:なんと新鮮じゃがいもが、漬物に大変身!・・・じゃがいもの中でも、★美しい黄金色の「インカのめざめ!」で作っておりやんす!!▼_ _ 次頁は、秋田名物「いぶりがっこ」と、北海道に負けない!お魚入り漬物各種犬猫みんなの可愛服&グッズ、&人の暮らし&グルメ▼ヘンデル&グレーテルの美味しいお菓子とグルメ記事玄関▼サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<人物名から追跡<徳川慶喜スポット玄関<【15代将軍「徳川慶喜」と食生活お気軽特集】:No.1<・・・<No.4<No.5<No.6(現在頁)<No.7
2013.03.01
偉人と現代食_漬物編,土方歳三好物_沢庵漬,壬生狼と「壬生菜漬&京野菜漬」,徳川慶喜食生活No.5,徳川慶喜のこだわり食品付録編,グルメ&スイーツ,【楽天市場】15代将軍:徳川慶喜の食生活_No.5【現在頁No.5】は:慶喜の食生活「商品頁」(その4)(オマケ付録編):慶喜の好物漬物「べったら漬」から転じて、幕末有名人「好物&関連お漬物」幕末有名人「好物&関連お漬物」_その1初めから読む:No.1「慶喜の食生活概要解説」<【現在頁】◇土方歳三好物「沢庵漬」、◇壬生狼と「壬生菜漬&京野菜漬」【次頁】◇榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物他、【次々頁】◇秋田名物「いぶりがっこ」、 ・・◆徳川ラスト将軍:15代慶喜曰く、「べったら漬は厚く切れ!」編はNo.3◆徳川ラスト将軍:15代慶喜曰く、「べったら漬は厚く切れ!」徳川慶喜「べったら漬編」は、No.3にエピソードと共にあります。◆左:慶喜好物「べったら漬」、◆右:土方歳三好物「たくわん!沢庵」・・・<現在頁中程バナー軍団のところ、◆「沖田総司と味噌漬」MINI談話有り>▼_ _◆新撰組の土方歳三の好物!「たくわん!沢庵」後の世、親族が語り残しています。義兄「佐藤彦五郎」の倅ら若い世代は、ありし日の歳三が、沢庵をガリゴリ、色気なく、思いっきり、ガリゴリやってる音、記憶に残っているようです。おもろいことに、これは、べつに土方歳三のリクエストというわけじゃないと思いますが、箱館戦争に於ける榎本軍がキープしていた食材リストの中、「沢庵1300樽!」というドデカイ数値を発見致しました!これは、何かと申しますと、沈んだ軍艦開陽から、後の世、出てきたリスト。榎本艦隊食&生活品リスト「仙台、松島湾,釜石方面で積込んだ品」(幕軍&松前えとせとらVol.8)尚、土方歳三と餅話「老婆がくれたボタ餅」=餅話:土方歳三編、■歴史人と餅話各リンク真下バナー:沖田か藤堂か、若いわりには権限有りと思える隊士から、無礼にもからかわれて、プンプン!の渋沢栄一。けっこう可笑しい。慶喜の家来が、新撰組に、「ちょっかい!」かけられております!!▼沖田総司と味噌漬沖田でひとつ、思い出した。沖田はご存知のとおり、可愛そうに肺を患っています。心配した故郷は、そんな彼の為に、味噌漬を京都に送ってやった。沖田は律儀に礼状を書いています。しかし、これは時期的に、彼の病気は、かなりの末期。食べれたかナ??◆新撰組、即ち「壬生狼」と「壬生菜漬&京野菜漬」「壬生狼」の皆さん、はたして、美味しい本場の「壬生菜漬、京野菜漬」、お口に入ったでしょうかね?京野菜・壬生菜をあっさりと!▼_ _これネ、ツーなら、たまりまへんナ!これさえあれば、あとは何も要らん!!▼_◆知る人ぞ知る!本場「京野菜」を手に入れたい時!▼ご家庭で料亭レベル!嬉しいプロの「和風食材」・嬉しいことに、生の新鮮「京野菜」を買えるこのお店では、京都ならではの伝統『飾り切り野菜』も購入できます。この飾り切り野菜を使うと、煮物もお刺身も、忽ち殿様御膳!!技はさすが翁の腕!感激!次頁は、◆榎本武揚編、◆ツー!の漬物各種(No.6)◇榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物他、◇秋田名物「いぶりがっこ、サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<人物名から追跡<徳川慶喜スポット玄関<【15代将軍「徳川慶喜」と食生活お気軽特集】:No.1<・・・<No.4<No.5(現在頁)<No.6
2013.03.01
慶喜曰く_べったら漬は厚く切れ!徳川慶喜食生活No.3,徳川慶喜のこだわり食品,偉人と現代食,ネットで買える現代食品、美味しい関連商品も一緒にご案内,付録編には、土方歳三の好物,榎本武揚と箱館&北海道の漬物,【楽天市場】15代将軍:徳川慶喜の食生活_No.3今回特集各順次頁のMENU◆徳川慶喜のこだわり食品【若い頃】、肉料理、【晩年】◇特製かつおぶし、◇餅、◇ふき豆、◇べったら漬」、・・(オマケ付録)現代お餅のバリエーション&お得なSALEとモッフルとは?◆付録コーナー(◇土方歳三好物「沢庵漬」、◇秋田名物「いぶりがっこ、◇京野菜&壬生菜漬、(◇榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物【◇鰊漬、◇松前漬、◇ジャガイモの漬物!、◇魚の漬物【関連】◆幕末玄関<徳川慶喜スポット玄関<人物名から追跡◆将軍と現代の食SERIES小玄関(幕軍&松前えとせとらのNo.12)、◆晩年徳川慶喜秘話:涙の「玄米餡パン」と葬式特集【1】_15代将軍:徳川慶喜の食生活:関連食品の「美味しい商品」パレード!【現在頁No.3】は:慶喜の食生活「商品頁」(その2)慶喜の食生活「概要解説文」については、初めの頁(No.1)<前頁から読む(No.2)◆べったら漬(慶喜の大好物)明治の世、小姓係代理として、いつも側に居た少女「糸さん」が語っています。明らかに好物と解る。なぜなれば、他に関しては注文つけない彼が、珍しく注文つけた。「厚く切れ!・・・必ず、膳所(調理場のこと)に伝えよ!」__◆左下は、限定「皮付き」べったら漬【歯ごたえ痛快!こだわりのグルメさんニーズ】__◆お酒(慶喜の大好物)前頁(No.1)のとおり、慶喜とは、自己体調管理意識が実にしっかりしており、けっして沢山飲みません。それでいて、特上のモノには、間違いない。上記の小姓係代理の少女も、時折、よばれて飲ませてもらったようですが、美味しくて、びっくりしています。残念ながら、銘柄を、彼女は知らない様子。基本的な発想で、それを推察するなれば、まず徳川である以上、幕末のどんでん返しが発生するまでは、その銘柄は、おそらく「男山」。ところが、情勢が、でんぐり帰ります。伊丹の酒が、灘の酒に移行する社会圧力。。。それ以降の銘柄で推察すると、多分「剣菱」。ところが、慶喜とは、ご存知のとおり、ちょいと異端児。しかも、生まれは水戸藩。上記2点、以外だった可能性も否定できません・・・が。因みに、その酒は、いつも、慶喜が飲む時、必ず、「銀の鬢」に入っていたそうです。この少女は、慶喜に娘か孫のように可愛がられていた為、他にも飲ませてもらっていますが、他の酒は、ボロカス!!それは、実のところ、天皇家から賜った貴重なものなのですが、不味いもんは不味い!と、おっしゃっております!!◆シロキ(見た目、濁酒に少し似ているが、聖なる古代技術、古代製法の貴重なお酒)◆クロキ(見た目、黒胡麻酒に少し似ているが、同上▲)尚、お酒に関して、お酒の歴史と、徳川の酒業者保護情勢変化、及び、上記の「古代技術による特殊なお酒」などについて、全部、こちら▼の特集にあります。▼◆他に:「鶫」の焼き鳥鶫を串に刺して、焼き鳥に。焼きながら、焼き味噌をつけながら・・・食べる。今日でも、高級割烹、料亭などで、このメニューあるようですね。私的には、バンザイですが。次頁は、慶喜の日常食べていた食品から転じて、美味しいお餅(オマケ付録:):スナック感覚でお洒落に美味しくお餅!現代お餅のバリエーション&お得なSALEとモッフルとは?犬猫みんなの可愛服&グッズ、&人の暮らし&グルメ▼サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<徳川慶喜スポット玄関<【15代将軍「徳川慶喜」と食生活お気軽特集】:No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4<・・晩年徳川慶喜秘話:涙の「味噌玄米パン」▼
2013.02.28
徳川慶喜の食生活No.2,特上花鰹とふき豆他,徳川慶喜のこだわり食品,ネットで買える現代食品、美味しい関連商品も一緒にご案内,付録編には、土方歳三の好物,榎本武揚と箱館&北海道の漬物,【楽天市場】15代将軍:徳川慶喜の食生活_No.2今回特集各順次頁のMENU◆徳川慶喜のこだわり食品【若い頃】、肉料理、【晩年】◇特製かつおぶし、◇餅、◇ふき豆、◇べったら漬」、・・(オマケ付録)現代お餅のバリエーション&お得なSALEとモッフルとは?◆付録コーナー(◇土方歳三好物「沢庵漬」、◇秋田名物「いぶりがっこ、◇京野菜&壬生菜漬、(◇榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物【◇鰊漬、◇松前漬、◇ジャガイモの漬物!、◇魚の漬物【関連】◆幕末玄関<徳川慶喜スポット玄関<人物名から追跡◆将軍と現代の食SERIES小玄関(幕軍&松前えとせとらのNo.12)、◆晩年徳川慶喜秘話:涙の「玄米餡パン」と葬式特集【1】_15代将軍:徳川慶喜の食生活:関連食品の「美味しい商品」パレード!【現在頁No.2】は:慶喜の食生活「商品頁」(その1)慶喜の食生活「概要解説文」については、前の頁(No.1)【◇お贅沢の極み特製かつおぶし、◇餅、◇ふき豆、◇べったら漬】・・他明治の慶喜は、毎朝、お雑煮。といっても、満腹タイプじゃなくて、普通の汁椀に、小さい餅2個が定番。中に入ってる具は、野菜類の鉄砲巻き風。鴨肉か鶏肉で巻いたモノが綺麗にカットされて入っている形。ここで、慶喜のこだわりは「特製かつおぶし」。なんか注文つけると、この家の家訓が厳しく、変更手続きが面倒だったり、調理人が叱られたりする為、滅多なことでは、彼は注文つけずに、そのまま諦め、飽きても、イヤでも、そのまま。ところが、「特製かつおぶし」は、こだわり!とても良い素材。古来よりの特定業者が厳選吟味の上、運んでくる。さらに、調理場責任者が、さらに厳選。その上、乾き度合いも微妙にベスト状態を抽出しないといけない。いつも、お椀の上で、綺麗にクルリンコ!と花鰹が踊っている状態。クリクリ~~踊っている。◆鰹節(花鰹)__(調理場の担当者は)花鰹の理想のクルクルダンスになる為には、素材だけでなく、削り方&乾き度合いも重要。前日の晩に、鰹節削りじゃなくて、これまた、こだわりの専用小刀で上手に綺麗に削っておく。<折角なので、ついでに特上「生節」▼>_ _そのまたついでに:猫ちゃん用専用「生節おやつ」▼ ・・・猫ちゃん喜ぶ丸齧りソフト「生節おやつ」:高齢猫&病弱な子記事リンク<お餅については、お得なSALE情報&アレンジ応用を含め、次々のページにご案内します。>◆ふき豆(慶喜の大好物)左側「ふき豆」__慶喜の「ふき豆」事件前述(No.1)のとおり、明治になっても、慶喜は家の掟によって、買い食いができません。その為、そこらの庶民が、当然のごとく知ってる味、駄菓子の類を全然食べたことがない。どこぞの老舗の立派な和菓子よりも、気分しだいで自分勝手に、しゃーない駄菓子とて、食べて見たい願望は、人である以上、これは仕方ない。ところが、できない!!ある日、そんな慶喜が可愛そうに見えた小姓係代理の少女が、禁を犯し!コソッ!と浅草で買ってきた「ふき豆」をあげた。すると、慶喜、すっかり、コレにハマってしまった。この後、慶喜は、単独脱走事件をやらかす。家を取り仕切る「Mr.家令」の目を盗み、なんと、人力車を呼んで、単独脱走!浅草へ行って買ってきた!これも、禁則!!・・・だが、どーしても我慢できなくなったようだ!!何故、こんなにお家の掟に縛られているかについては、こちらの特集ご覧下さいますと、解ります。晩年徳川慶喜秘話:涙の「玄米餡パン」次頁は、慶喜の日常食べていた食品その続き慶喜の好物◆「べったら漬」、◆専用の「お酒」他犬猫みんなの可愛服&グッズ、&人の暮らし&グルメ▼★犬の洋服:ミッキー&ミニー&スヌーピの可愛服サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<徳川慶喜スポット玄関<【15代将軍「徳川慶喜」と食生活お気軽特集】:No.1<No.2(現在頁)<No.3<・・晩年徳川慶喜秘話:涙の「味噌玄米パン」▼
2013.02.28
徳川慶喜の食生活No.1,徳川慶喜のこだわり食品,ネットで買える現代食品、美味しい関連商品も一緒にご案内,付録編には、土方歳三の好物,榎本武揚と箱館&北海道の漬物,【楽天市場】15代将軍:徳川慶喜の食生活_No.1今回特集各順次頁のMENU◆徳川慶喜のこだわり食品【若い頃】、肉料理、【晩年】◇特製かつおぶし、◇餅、◇ふき豆、◇べったら漬」、・・(オマケ付録)現代お餅のバリエーション&お得なSALEとモッフルとは?◆付録コーナー(◇土方歳三好物「沢庵漬」、◇秋田名物「いぶりがっこ、◇京野菜&壬生菜漬、(◇榎本武揚と箱館&北海道絡みの漬物【◇鰊漬、◇松前漬、◇ジャガイモの漬物!、◇魚の漬物【1】_15代将軍:徳川慶喜の食生活現在の枠「解説行」の後、次頁に、関連食品の「美味しい商品」パレード!【関連】◆幕末玄関<徳川慶喜スポット玄関<人物名から追跡◆将軍と現代の食SERIES小玄関(幕軍&松前えとせとらのNo.12)徳川慶喜のラスト象徴幼年時代談話(No.1~No.8【1】窮地とて不屈?!技は奇策!武器は頭脳、【2】ダメなもんはダメ!早期撤退、沈思黙考晩年徳川慶喜秘話「玄米餡パン」と葬式(No.9~No.56葵を枯らした男の晩年【慶喜維新後】明治の慶喜屋敷奉公娘が語った「明治の慶喜の日常」と、引き摺った戊辰の暗い影明治、大正に至っても、揺ぎ無い「忠義!の家柄」の人々に支えられた慶喜慶喜の食生活現在の枠「解説行」の後、次頁に、関連食品の「美味しい商品」パレード!慶喜の食生活については、上リンクコーナーの「晩年徳川慶喜秘話「玄米餡パン」と葬式」特集から、詳しく解ります。幕末迄の若い頃は、影で豚殿!とか豚一!と渾名される程、豚肉料理が大好き。因みに豚一の一は、慶喜の養子先が一橋だから。西洋カブレ!といわれる程、洋食パーティーをやってみせたり、ナイフとフォーク使いが上手だったりと、色々目立っていますが、実は暴飲暴食は絶対やりません。この人物は、自己管理、大変宜しい。摂取量は、かなり慎重。【唯一の例外事件】暴飲暴食を絶対しない男が、一回だけ線がキレた事件有り!鳥羽伏見の後、江戸に戻った途端、線がキレて、この信じられない食欲現象!・徳川慶喜、二心殿の・・江戸無事ご帰還時の秘話明治の慶喜は、屋敷内の洋間にはシャンデリア。ここで公的パーティーを行う際には、いつものシェフを、九段の富士見軒から呼び出し、本格派の西洋料理を作らせます。ところが、日常は地味。しかも、食べる量は、己の量をわきまえ、ごく少量。和食です。お酒さえ、きっちり、毎日、4~5口と決めており、絶対それ以上飲まない。かなりご優秀。特上の酒ですが、おちょこに一杯さえ飲まずに、ピシャッ!とピリオドします。慶喜家には、家の管理全般&旧来の仕来り&掟を司る「Mr.家令」という人物がおりまして、これは、権限絶大。張本人の慶喜とて、お家の慣わし故に、彼の指示に従う状態。その為、この掟が煩くて、なかなか、菓子のひとつさえ、自分勝手に買い食いできません。お料理に使われるお材は、確かに、万民から見ると、超一流のお店から入手する特上素材ばっかりですが、そのわりには、上記のとおりですから、実際は、かなり、不自由な暮らしです。食材は、古来よりの特定業者から、特定ルート限定、特定担当者限定。調理人名も、その都度、明確に記載する。特定時間以外に、予定外の食べ物は出さない掟。これは、昔、殿様族が、毒殺事件にあったり、食中毒とか、色々ありますから、安全管理のためであり、責任の所在の明確化。随分、堅苦しい。案外、可愛そうであります。慶喜家の規定とは、実に厳しい。例えば、慶喜が食事の際、箸をつけなかった品があれば、それだけで、調理担当者は、罰せられる。減給とか、謹慎とか、詳細はわかりませんが、明らかに罰則があったと、かつての奉公娘が、語り残しています。その為、慶喜は、担当者を思いやって、嫌いなおかずも、頑張って、 一箸つけてから残す。気を使っています。(明治、大正も昔ながらの掟に縛られる!)因みに、掟によって、調理人が罰せられるのは、徳川歴代。4代将軍「家綱」にもこんな事件。ある日、料理に髪の毛が入ってた。家綱は、影が薄い将軍ですが、なかなか優しいところがあります。調理人が可愛そうなので、黙って、少し、食べたかな?に見える程度に、箸でシャカシャカ。一応、箸をつけたような形にして、髪をスッ!と抜き捨て、証拠隠滅してあげてから、残した風を装った。◆明治、大正の慶喜は、あいかわらず、万事、掟故、家訓故、好きな時に、好きなものを好きなように食べることができません。上記リンク先の「玄米餡パン」さえ、行商人が目の前まで売りに来てるというのに、いくら食べたくても、ついに口に入らず終い!!上記リンク先の特集では、この「玄米餡パン」をネタに、悲し可笑しい明治の慶喜を取り上げてみました。死亡は大正突入の大正2年ですが、今だ、泣ける程に、忠義を徹した家柄の人々に見守れられ、死んでいった大往生の慶喜の姿を書いてみました。小難しい話が少ないので、歴史嫌いさんも、資料系を流し読んでも、ハナシ見えますから、★心系&家族愛の話として、お気軽にお読み頂けると思います。晩年徳川慶喜秘話「玄米餡パン」と葬式・・・・▼ダメな私ね。徳川の殿(しんがり)のつもりだったのに。御前様に教わった「茶の湯の心、誠心誠意」を、忠義の300藩の皆様に、お配りするつもりだったのに・・・御前様、ご免なさい。きっと、これで、もう、私も、さようなら・・・。明治、大正に至っても、揺ぎ無い「忠義!の家柄」の旗本。その娘が明治の世、慶喜の葬式の日迄、きっちり忠義!。慶喜家に奉公。(上記の「御前様」とは、慶喜のこと)次のページは、慶喜の日常食べていた食品&こだわり&好きなもの関連食品の「美味しい商品」パレード!【◇お贅沢の極み特製かつおぶし、◇餅、◇ふき豆、◇べったら漬】・・他犬猫みんなの可愛服&グッズ、&人の暮らし&グルメ▼サイトTOPは犬猫サイト<幕末玄関<徳川慶喜スポット玄関<【15代将軍「徳川慶喜」と食生活お気軽特集】:No.1(現在頁)<No.2<・・
2013.02.28
徳川家光の虹色ご飯と家康の[鯛油揚],歴史の偉人と食シリーズ,家康,秀忠,家光3代食の話No.3,(歴史の偉人と食シリーズ)家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳」編家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳」_No.3歴史の偉人と食シリーズ幕末玄関<◆人物名から追跡、◆徳川絡み小玄関、◆将軍と現代食考察SERIES小玄関◆【初代】徳川家康:(天文11/12/26(1543)~ 元和2/4/17(1616):死75歳):将軍期間(1603~1605)、◆【2代】徳川秀忠:(天正7/4/7(1579)~寛永9年1/24(1632):死54歳):将軍期間(1605~1623)、◆【3代】徳川家光(慶長9/7/17(1604)~慶安4/4/20(1651):死48歳):将軍期間(1623~1651)初めから読む:No.1<前頁から読む:No.2さてと、ここで教訓!◆まずは家康バージョンから。彼の漢方知識は医者泣かせ。神様同然の家康。調子に乗って偉そうに薀蓄喋って、家康の前、赤面墓穴、穴に落ちたまま、二度と浮上できなかった医者は、あまた多い。家康は人を謀る。惚けて喋らせて、お払い箱。(徳川家康と健康管理)ところが、そんな家康どんとて、盲点が。いくら元気な老人とて、内臓は老人。このあたり、認識甘かったか?栄養のあるたんぱく質鯛を沢山・・・はいいけど、肝機能低下認識不足ともいえる。日頃、妙に元気で、食欲も若者並。運動機能低下も目立たない。そーゆー皆さん、気をつけましょう!一定量を超過した摂取は、肝機能、ついに爆裂。油分に限らず、大量のたんぱく質なれば、ついに、肝臓が悲鳴を!(尚、本題ズレますが、加齢と肝機能は犬猫も同じ。犬編話=「犬肝機能低迷時の対処」)◆次いで、病床の家康に対するジュニア「秀忠」のアピール動き。この時、焦りまくりは、ジュニア「秀忠(二代目将軍)」。治療を続けても、さっぱり回復してゆかぬ父の姿。医者をとっつかまえて、「ヤブ医者!役立たず!」クビにしてしまった。とはいえ、これは、一般親子における父への愛が過激行動に出たのとは、ちょっとニュアンスが異なる。父の存命を必死で祈るが故・・・には違いないが、屁理屈抜きの親子愛でない。彼は、家康を初代将軍として深く尊敬して、彼の編み出したお家存続の法則(家康マニュアル禁中並公家諸法度)を徹して、さらに大成させて貫くが、パパを救いたい必死の倅の感情とはだいぶ違う。彼は家康に威圧されて生きてきた。恐れている。お家の存続のため、徳川の為、父は必要。死なしてはならん!必死。されど、「お願い、パパ、死なないで!頑張って!」・・・の倅感情は、カスカスのマシーン状態。家康が死んだ途端、やらせていただいたお仕事も多い。父が倅に良かれとくっつけた番頭達は、政権交代。現代の世と違うから、この交代とは、血が流される。(詳細は、徳川秀忠人物像考察特集目次からどうぞ秀忠とは、自己チューニングで、いうなればロボットかサイボーグか・・のタイプに化けております。若い時は、確かに焦りん坊事件も幾つかありますが、この頃は、多分違う。父に学んだ「史実の抽出効果(家康の裏技テクニック「史実の補填」)」もありそうだ。激しく激怒した姿を史実に残す。医者もクビにする実績も、もれなく残す。「やりました。私は、確実にやりました!このように、とことん動きました!」アピール。彼は、忠臣の進言に従ったばかりに、関が原の合戦に遅刻した。生涯それがネックに。理由がなんであれ、事実がなんであれ、逆らえばアウト。それが家康。そこで、彼は、この時、自分では、申し開きをやってない。耐えた。忠臣が切腹覚悟で家康にその旨を訴えた。耐えたが故、今日の秀忠があるのだが、彼は、彼なりに自己修正を。アピールが必要なのだ。従順姿勢を徹する中にも、アピールは必要だと、どこぞで姿勢を入れ替える。システム乗り換え、どことなく、アタマの中、PC形式の男。◆そして、血統賞付プリンスの「家光」この人は、物語上、クリアーなブルーのイメージで描かれることが多い。確かに・・そんなイメージ。しかし、彼は、お初に「戦争を知らない子供達」のネックを背負った世代第一号。ご就任の際には、力んで、こんな発言を。「さあ、攻めるなれば、攻めろ。誰でも攻めてこい。それが武士の掟じゃ。大御所秀忠亡き後、今こそ、そなた達、全員に権利があるのじゃ!攻めて来い!世には受けて立つ構えがござる!」これ、頑張って言ったが、あんまり迫力がない。家康のトークもじりそのまんま。家康が死ぬ時、彼は皆に、こう言った。「我が倅、秀忠に器なきと見なすなれば、誰でも、攻めて潰すがよいぞ。それが現世の掟じゃ!」こりゃ、さすがカリスマの威厳。死に際までお見事。こうしてみると、家光は、まさに、「戦争を知らない子供達」の枷を背負った。家康も、秀忠も実戦経験者。戦国時代の延長戦から、豊臣絡みの素因を持つ外様潰しの残酷処置は、家康、秀忠、家光と三代で、105件。105の家が取り潰し、捨て駒、難癖処分。鮮血が流れまくる。そーゆー意味では、家光も実績者だし、キリシタン弾圧の血腥さでいえば、家光がピーク。されど、野山を駆けずり回って、戦った世代には、己自身引け目有り。というわけで、天下のプリンス、家光ながら、単なる混ぜ飯を「虹色ご飯」と言われ、食べたが故、死なずにすんだお子様・・なのでありました。中に含まれる僅かな葉っぱやら、じゃこやら梅干・・etc.たとえ、この程度でも、ビタミン、カルシュームなどの栄養も、細々摂取できた点も、カラダに良かったんでしょうね。プリンスは、いうなれば素飯好み。対して、田舎侍レッテル返却に、四苦八苦した家康は、腐っても鯛は鯛!鯛を食べ過ぎて、ご臨終の花道へ!!なんとも皮肉な結果ですナ!!★以上にて、血統賞付プリンス家光が好んだ「虹色ご飯」の話、一応THE_END!さてと、お次は、そんな初代3代、家康、秀忠、家光に絞って、親子愛と愛憎の話。血統賞付プリンス・・・のはず!!の家光ながら、実は、なんか、あるぞ!の巻。NEXTは、謀反は、血族に発する。憎悪が、血族に発するから!◆徳川家康が抹殺した正妻築山殿と倅「信康」&捨て駒の臣、◆家康マニュアル禁中並公家諸法度、◆家康の裏技テクニック「史実の補填」 、◆徳川家康と健康管理◆2代将軍_徳川秀忠人物像考察特集目次、◆徳川家光は実父「秀忠」に愛されてなかった!、サイトTOPは犬猫サイト<現在特集「家康の鯛と、家光の虹色ご飯」No.1<No.2<No.3(現在頁)NEXTは「家光の生まれ腹懐疑!考察諸説!と血族内憎悪と謀反」No.1<・・・
2013.01.02
徳川家光の虹色ご飯と家康の[鯛油揚],歴史の偉人と食シリーズ,家康,秀忠,家光3代食の話No.2,(歴史の偉人と食シリーズ)家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳」編家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳」_No.2歴史の偉人と食シリーズ幕末玄関<◆人物名から追跡、◆徳川絡み小玄関、◆将軍と現代食考察SERIES小玄関前頁から読む:No.1結果から申しますと、残念ながら、家光の「虹色ご飯」のレシピは明確に残されていない。おそらく、誇らしげに史実に残したいほどのシロモノではなかったのだろう。単に、「虹色ご飯」とのみ、史実に残したあたり、さすが春日の局!やりておばちゃんパワー。老舗などの商品もいくつか調べてみましたが、家光様に献上!といったフレーズの商品は見つからない。やっぱり、実際は、質素なものを象徴。どこで読んだか恐縮ながら、忘れましたが、考察記載としては、「おそらく食欲増進の七草類の葉っぱ系とゴマとかの混ぜ飯の類・・・だろう。」とのこと。現代の商品の中、もとを質すと発祥は、古い時代かな?と思える商品には、確かに、じゃこ、ゴマ、葉っぱ系、乾燥梅干の細切れ、ワカメ、金糸卵など。早い話、「おむすび山」みたいな・・・。フリカケみたいな・・・。チラシ寿司のモトみたいな。おいおい、天下のプリンスどん、もっとマシなもの食べろよ!!と言いたくなるが、そもそも、子供とは、そーゆーイキモノかもしれない。家光は成長した後、確かに派手好き。色彩の艶やかな衣類を好む。周囲に文句言われつつ、徳川の伝統無視して、派手な流行柄の着物を着たりしている。色彩の美しいご飯に作動した事に、なんとなく繋がる。実際は、知りませんが、推測としては、こんなかんじだったのではないでしょうか?▼ある日、春日の局が、猫なで声で、幼い家光を呼ぶ。▼「さあさ、若様、綺麗でチュよ!まるで、ご飯が、お花畑でチュよ!菜の花の色、赤い梅も咲いていますよ。緑が綺麗!さあさ、綺麗だから、食べまチョ!」そこで、楽天中、掘ってみました。一見、質素に見えるながら、こだわり厳選素材をブレンドしたお店自慢の「色彩美しい混ぜご飯」のモト。_ _美しい色彩に作動した家光は、以来、ご飯粒を、それ以前よりは多目に食べるようになったという。名前は「虹色ご飯」というが、実は!素朴。将軍様MENUとして、実態は、あんまり格好よくない。そこで、「虹色ご飯」と春日の局がネーミング。 春日の局よ、ご苦労さん!▼家光に関係ないけど、旬のカニ!美味しそう!__人生経験、生まれた環境と、人の食生活とは無縁ではなさそうだ。ちなみに、父の秀忠なんぞは、その点強い。やはり戦場経験のある男。鷹狩に出かけるのは、徳川伝統ながら、秀忠時代までは、視察兼で、かなり遠征する。民家に飛び込み、食を得る。民は、まともなモノ食べてる暮らしじゃないから、出されるものの中には、粟粥とか、イモとか。秀忠は、非常時の教訓として、寧ろそれを有難いと称して、ガリガリ、イモを齧る。秀忠は、戦下手で有名ですが、けっしてヤワな男ではありません。遺骨が検証されています。骨格から、筋骨隆々タイプが立証された。その上、骨に痕跡が残るほどの深い傷、刀傷、銃弾の痕も。二代目と三代目・・・やっぱ、違うかも!!さてと、ここで教訓!◆まずは家康バージョンから。彼の漢方知識は医者泣かせ。神様同然の家康。その男が、なんと、鯛を油で揚げたヤツを一杯食べて床につく!NEXTは、家康の盲点と、秀忠の対処。加齢と肝機能!◆徳川家康が抹殺した正妻築山殿と倅「信康」&捨て駒の臣、◆家康マニュアル禁中並公家諸法度、◆家康の裏技テクニック「史実の補填」 、◆徳川家康と健康管理◆2代将軍_徳川秀忠人物像考察特集目次、◆徳川家光は実父「秀忠」に愛されてなかった!、サイトTOPは犬猫サイト<現在特集「家康の鯛と、家光の虹色ご飯」No.1<No.2(現在頁)<No.3・・・
2013.01.02
家康の[鯛の油揚げ]と徳川家光の[虹色ご飯],歴史の偉人と食シリーズ,家康,秀忠,家光3代食の話No.1,腐っても鯛は鯛,(歴史の偉人と食シリーズ)家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳」編家光の「虹色ご飯」と、家康の「鯛の油揚げ膳」_No.1歴史の偉人と食シリーズ幕末玄関<◆人物名から追跡、◆徳川絡み小玄関、◆将軍と現代食考察SERIES小玄関地べたから、這いつくばって、這い上がった巨大な男「徳川家康」。彼は、腐っても鯛は鯛。いうなれば、鯛を山盛り召し上がって、天昇という形。75歳の御年でも、鷹狩に出かける。お元気。お元気だから、鯛を油で揚げたヤツも、沢山食べた。<鯛茶漬!えぇなァ!ほぐして鯛飯も!>_ _・・・ところが、家康、その後、下痢、嘔吐・・・そのまま病床へGO!暫し闘病の後ご臨終に。これは、後述しますが、鯛が腐っていたのでもなければ、誰かが密かに毒を盛ったでもない!家康ご本人の盲点。つまるところ、「加齢と肝機能」がキーワードであります。その一方、三代目、家光時代、既に戦国は終了している。戦争を知らない子供達というほどじゃないが、父の秀忠と異なり、家光は戦場経験を持たぬ世代のプリンス。このやんごとなき天下のプリンスが、幼少時、好んで食べたモノは、「虹色ご飯」という。「虹色ご飯」と聞けば、まさに素晴らしい音の響き。いかにもプリンスのお食事風。ネーミングは、乳母の春日の局。ところがギッチョン!今回の特集は、はて?その「虹色ご飯」とは?の巻。家康,秀忠,家光3代食の話。人間と、人生経験、食生活。家光に掛かるしゃーない話を書きます。ややっこしい系の話じゃないので、歴史バンザイ!の皆さんも、宜しければお気軽に覗き見して下さいね。__▼美味しそうですね。お正月料理に、いささかギャフン状態でも、これは魅力的。はてはて、家光の「虹色ご飯」とは、はたして、このように素晴らしい海鮮チラシ寿司であったかどうか?・・・答えは、アララであります。家光とは、そもそも胃が弱い。神経質。結局、胃で死んだ人。幼い頃から、食欲がない。「あれ嫌い、これ嫌い!ご飯、食べたくない!」そーゆーお子様。乳母の春日の局は、しかたないから、あの手この手。食欲が乏しい男の子でありました。子供だから、多額の金を投じて、高価なモノを与えても価値はわからんし、とにかく、食べることが苦手な子供。おまけに胃が弱いから、ますます。手間隙かけてやっても同じこと。とにかく食べない子。このお子さんは、とにかく食べない。疱瘡で倒れた後は痘痕面。父母に嫌われていて、その一方、弟の「忠長」は溺愛されている。そこで、少年家光は、ついに、自殺未遂事件も。本来なら「忠長」が三代目就任するところ、お福の力ばかりじゃないが、結局家康ご本人の威圧で、家光が三代目に決定するが、食欲が乏しい男の子でありました。こうなると、栄養のあるものを摂取させる手段構築は二の次。とにかく、せめて飯粒の数、もう少し一粒でも二粒でもいいから、食べてくれる方法はないもんか?乳母の春日の局は、悩んだ。サイトTOPは犬猫サイト<現在特集「家康の鯛と、家光の虹色ご飯」No.1(現在頁)<No.2<・・・▼徳川絡み:ナビ小玄関▼将軍と現代食考察SERIES小玄関▼初代徳川頼房以来尾を引いた「水戸流ストレス!」
2013.01.02
食の歴史話らーめん編,水戸黄門:飲茶&ラーメン三昧実態,徳川光圀と「朱舜水」,姉妹編は現世美味しいらーめん&飲茶,ラーメン食い倒れ特集No.3(お気軽ちょい歴史資料編),幕末記事玄関へリンク,将軍と現代食考察SERIES小玄関ラーメン&飲茶食い倒れ!_No.5(巻末:食のちょい歴史編)食の歴史話!水戸黄門さんの「飲茶&ラーメン三昧」その実態・・付録談話生類哀れみの令の時代(動物殺生ご法度)、平気でガンガン!焼豚食っとった黄門さん!!現在頁関連:らーめんグルメ製品パレード」はNo.1・■美味しいらーめん&飲茶製品パレード・■「札幌味噌ラーメンに係る昔話」昭和の出稼ぎ労働者の悲しい実態と味噌らーめんの誕生談話徳川光圀については、こちらに、ごっちゃりあります。リンク先は「光圀目次」▼▼(こちらは、彼の出生うんぬん調べてたら、驚いた!桃太郎モデルは、どーやら、光圀!提唱致しやんす!!)▼■らーめん大好き!水戸黄門さん徳川光圀といえば、どーしても、あのイメージ、水戸黄門さん、いっつもにこにこ。ワッハッハッ。ところが、ぎっちょん!かなり、おっそろしいお方でありますが・・。(大層、血腥いお方であります!)光圀と、5代将軍綱吉は、猿と犬。そもそも、将軍の座に綱吉を引っ張ったのが光圀、張本人ながら、綱吉としては、コヤツが煩くて、かなわん。水面下で延々バトル。(詳しくは上バナー)実は、彼、出生ハンディがあります。それは母の地位。産んではならぬ、堕胎せよ!とされた子、それが、光圀。そんな彼は、身分に関係なく、能力主義で、幅広い層から、人材を抜擢。その中に、外国の人も居ます。そのひとりが、中国の人と言われる「朱舜水」。「朱舜水」は、水戸藩で学問指導。ところが、以外な功績も。それが中華料理。中華といえば、らーめん、餃子、その他、あまた多く、光圀は好んで食する。綱吉が将軍時代のことであります!!世は、生類哀れみの令。動物殺生は、ご法度。らーめんの具にせよ、材料にせよ、もれなく肉が!ところが、ぎっちょん、反旗をひるがえす光圀は、全然平気!!綱吉なんぞ、無視して、ガンガン肉を食する。なんといっても、光圀は、、生類哀れみの令の悪政に堂々抗議、犬皮を綱吉に贈りつける強烈ご老公!肉製品の食なんぞ、へっちゃら!!大層なグルメさんであります。特に、ラーメンは、相当お気に入り。製法を人材に学ばせ、独自に作り始める。即ち、日本に於けるラーメン食習慣は、水戸黄門さん時代、既に存在していた。とはいえ、彼は、それをラーメンと呼ばず、オリジナルで「後楽うどん」とネーミング。ここに、その時代を伝えるお品。水戸の製品。▼__尚、水戸藩の皆さん、お肉大好き男が、幕末にも。おそらく光圀さんの影響でしょうね。徳川斉昭は、肉だけじゃなくて、牛乳ガンガン。一日500ml必ず飲む。精力絶倫。お子様山盛り!そのお子さんであるラストタイクーン「慶喜」は、豚肉大好き。影で豚殿と渾名付く。▼こちらのお方、「井伊直弼」さんの藩も、実は、あの手この手で、本来タブーのはずの肉食習慣を、お見事クリアしながら貫いておりました!(日本人と牛肉:江戸から明治「徳川時代から牛鍋!」▼(こっちは、マジメ編)★将軍と現代の食SERIES小玄関▼この中に、色んな食品小話が。他にも、食と歴史人物話は、各頁にあります。■犬のヘンデル&猫のグレーテルのグルメ&スイーツ、■幕末玄関(この頁から、お堅くないお気軽歴史(食、文化、現代に絡む話他)頁他へリンク有。オマケ▼食の歴史話!水戸黄門さんの「飲茶&ラーメン三昧」その実態付録談話=THE_END!!サイトTOP(犬猫サイト)<わくわくドキドキ!<犬のヘンデル&猫のグレーテルのグルメ&スイーツラーメン&飲茶食い倒れ!特集<No.1<No.2<No.3_水戸黄門さんの「飲茶&ラーメン三昧」その実態(現在頁)犬猫達の可愛服&暖ったかアイテム色々!▼
2012.12.12
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