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クロニクル 日米行政協定(現地位協定)締結 1952(昭和27)年2月28日 この日,東京の外務大臣室で、日米安保条約に基づく 米軍駐留の条件を定めるものとして、表記の日米 行政協定が調印されました。 政府は行政協定であるからとして、国会承認を求めずに 政府間の調印だけで発効としました。 この協定で日本は、安保条約の目的遂行に必要な基地の 使用を米軍に認め、軍人・軍属とその家族の出入国の 自由。一部の私有物を含む物資搬入の自由。検疫や関税の 免除などが定められました。 軍人・軍属とその家族には治外法権が認められ、犯罪行為を 犯しても、日本の法律で裁けないため、不良軍人の犯罪に 悩む基地周辺地域では、一方で基地関連の仕事に着く人も 多く、非常に複雑な形で基地反対闘争が展開することに なってゆきました。
2007.02.28
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クロニクル NEC国産初の電算機発表 1962(昭和37)年2月27日 この日日本電気(NEC)は初の国産 大型電子計算機NEAC2206を発表しました。 記憶容量は1万語でしたから、業界の巨人IBMの 背中はなお遠くにありましたが、IBMを追撃する 最初の足がかりが出来たと話題になりました。
2007.02.27
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クロニクル 東京高裁女性の定年差別に違法判決 1975(昭和50)年2月26日 今から32年前になりますが、この日、東京高裁は 女性の定年を男性よりも若い年齢に設定するのは、 憲法の男女平等並びに労働の権利の規定に照らし、 違法であるとの、画期的な判決を下しました。 今だ男女雇用機会均等法が準備もされず、話題にも なっていない時期でしたから、この判決は働く女性たち、 とりわけ働きつづけたい女性社員たちにとって、 間違いなく朗報となりました。 裁判闘争は、地味で息の長い戦いになります。相当に 費用もかかります。その上日本の裁判は政治や大企業に 著しく有利で、一般庶民には不利に働くことが多いのです。 そうした中で提訴し、定年差別の現実を静かに訴え続けた 女性たちの勇気と信念が,遂に定年差別違法判決を引き出したことに、 私は大いなる敬意を表します。
2007.02.26
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クロニクル マルコス亡命 1986(昭和61)年2月25日 昨日に続いてフィリピン革命の話です。 コラソン・アキノを首班とする臨時政府が成立した 翌日の25日、ピープルズ・タワーの大波は遂に 大統領官邸のあるマラカニアン宮殿に及びました。 この日午前、NHKのカメラが宮殿に入り、死に体と化した マルコス大統領のインタビューを放送しようとしていた 瞬間にも、事態は急を告げ、カメラが回しっぱなしになっている 中へ、マルコス派の将軍がやってきて、大統領に武力鎮圧命令を 出すよう説得に努める瞬間と、抵抗を諦めたのか、その説得に クビを縦に振らない大統領の姿が世界に放映されたのです。 11時頃、突然映像が途切れ、どうやらこの瞬間に革命派が 官邸を征圧したらしい事が,テレビの前の我々にも実感出来たのでした。
2007.02.25
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クロニクル フィリピン革命前進 アキノ臨時政府誕生 1986(昭和61)年2月24日 フィリピンでは2月14日に大統領選が行われ、 国会での集計の結果、不利とされたマルコス 大統領の当選が発表されました。各層から不信の 声があがり、大幅な不正操作が行われたことが 予測されるとの疑惑が次々と指摘されました。 国民の不満が大きくなる中、22日エンリレ国防省と ラモス司令官らが、マルコス大統領の辞任を要求して 兵営に立て篭もり、市民がこれに呼応して、大統領 官邸はデモの人波に十重二十重に取り囲まれました。 この現象はピープルズ・パワーと名付けられ、市民の 声がフィリピンの政治変革を促したのでした。 ここにコラソン・アキノ候補(実際は選挙で多数票を 獲得していたことは、後の調査で明らかとなります) は、この日エンリレ氏やラモス氏と会談して,協力を 確認、臨時政府を発足させたのでした。 翌25日、マルコス氏は米国へ亡命、ピープルズ・パワーは 見事な勝利を果したのでした。
2007.02.24
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クロニクル 石橋内閣総辞職 1957(昭和32)年2月23日 この日、前年12月23日に成立した石橋 内閣が総辞職しました。石橋湛山首相が 皇居での認証式を済ませて、間もなく 病に倒れ、国会で新首相の所信表明演説も 出来ず、首相の長期不在では予算審議も ままならないため、この日辞職を表明するに 至ったのです。 歴代首相の中で在任日数が最も短いのは 宇野宗佑首相ですから、石橋首相は第二位 なのですが、国会答弁や演説が1度もないと いう珍しい記録を持つのは、この石橋首相 だけなのです。ご本人の無念はいかばかり だったのでしょうか。 この石橋氏を尊敬し、石橋氏の薫陶を受けたのが、 ロッキード事件時の首相,三木武夫氏です。
2007.02.23
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クロニクル NTTドコモ「iモード」発売 1999(平成11)年2月22日 この日NTTドコモは、携帯電話にインターネットに 接続する機能をつけた「iモード」を発売しました。 便利さが受けて、発売と共に爆発的に売上げを伸ばし、 ドコモのケータイ電話の契約数は大きく伸びました。 ケータイの普及と共に、電車内の通話騒音が新たな社会 問題になっていたのですが、「iモード」の普及と共に、 車内通話は激減し、代わってケータイの画面を見つめて、 ひたすら親指を動かす、物言わぬ「iモード」族が急増 したのでした。 しかし、この物言わぬ族の急拡大は、言葉による意志伝達と いう人間本来の対人関係円滑化手法を著しく衰えさせてしまい、 すぐ切れたり、些細なことで人を殺したり、いじめたりと、 人間の社会集団にとって、大きな問題を残したのです。 正月に発覚した若い妻による、これまた若い夫に対する バラバラ殺人なども、言葉によるコミュニケーション能力が 夫婦共に備わってさえいれば、もっと穏やかに解決できたのでは ないかと思われ、何とも残念でなりません。
2007.02.22
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日銀0.25%の利上げ決定 本日、日銀は0.25%の利上げを決定しました。 これで無担保コール翌日物の金利誘導目標は 0.5%に引き上げられることになります。 それでもまだコンマ以下に過ぎないのですが、 ゼロ金利が長かったことを考えると、ささやかながら 日本の金利正常化に向けて一歩踏み出したとは言えそうです。 私はそのことを素直に喜んでいます。 かつて日銀は消費者物価が安定しているからという理由で、 資産インフレを軽視し、バブルの狂乱を呼び込む失敗を犯しまし た。 福井現総裁の言動をつぶさに観察すると、バブルを放置してしまっ た あの時の失敗は2度と繰り返さないぞという、強い決意が感じられ ます。 ですから、私は15日にGDPの数値が発表された段階で、 今日の利上げを確信してはおりました。 しかし上がってみると格別ですね。ゼロ金利解除で日本経済は ようやく長かった人口呼吸器を取り外すことが出来た。そして 今日の0.5%への利上げで、集中治療室から一般病棟へ移る ことが出来たのだと考えています。ですからまだ病人です。 1%を超えて初めて、外出が許され、2%でやっと自宅療養となり、 3%に復帰してやっと全快でしょうか。まだ先は長いですが、 健康体への道をようやく歩めるようになったのです。 今日の相場、2時半頃から強烈な上げになりました。日経は 下げてもトピックスも単純平均も上げました。出来高は 30億株を、売買代金は何と3.4兆円を超えました。 前場及び2時までに比べ、それ以後の出来高が急激に膨れて います。欧州とアラブによる強烈な外人買いの匂いが濃いですね。 日本の復活近しとにらんで、日本買いに入ったものと思われます。 一昨年8月の小泉首相の郵政解散に、首相の改革へのやる気を 評価した強烈な外人買いで、日本株は1年を超えるもみ合いから 脱却しました。今回も日本経済復活を買う外人買いが強烈な上げ相 場を 齎すかもしれない、そんな予感を抱かせる今日の動きでした。 「利上げ停止で買われた、利上げで売られる」という発想は、市場 の 国際性を理解していない議論のように、私には思えます。 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Wednesday, February 21, 2007 10:53 AM Subject: 21日の日記
2007.02.21
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クロニクル ルーブル合意 1987(昭和62)年2月21日 パリで開かれていたG7(先進7ヶ国 蔵相・中央銀行総裁会議)は、この日 為替レートを「現在の水準の周辺」で 安定させるとの合意を見ました。 85年9月のドル安誘導で合意したプラザ合意に続く、 新たなG7合意として、この合意はルーブル合意 と呼ばれます。 プラザ合意後、予想以上の急降下を演じたドルは 米国の双子の赤字が減少を見せないことから、 その後も一向に下げ止まらず、87年に入ると 危機的な様相を見せ始めました。 対円レートは、プラザ合意前の1ドル=240円台から、 実に150円前後へと、僅か1年半で90円も急落して いたのです。西ドイツマルクに対しても同様でした。 そのためドル暴落に歯止めをかけ、大幅調整の済んだ 為替レートをいかにして維持、安定させるかが、G7の 政策課題となっていたのでした。 米国もこれ以上のドル安が、世界経済にとってマイナスと なることを認識していたため、上述のような合意が えられたのでした。 しかし、この合意を維持することは、意外に難しく、 やがて、この破綻から同年10月のブラックマンデーを 招きよせることになるのですが、その点はいつの日かに 改めて論じることに致します。
2007.02.21
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議会政治は欧米諸国で始まりました。その欧米諸国で議会政治が発達すると、どの国でも国民の政治意識の発達と共に、選挙権の範囲が問題とされるようになりました。しかし、19世紀において問題とされたのは、ほとんど常に男性の政治参加権だけだったのです。自由と平等を高らかに宣言したフランス革命も、女性の権利には何の配慮も示さなかったのです。今では当たり前となっている女性の参政権は、この時期でも無視されたままだったのです。「人権宣言」における市民とは、男性だけを指していたのです。とはいっても、独立戦争(1875~83年)当時のアメリカに、女性参政権を要求した女性たちが僅かに存在しましたし、欧米各国に広く影響を及ぼしたフランス革命の時期(1789~99年)においては、フランスは勿論、イギリスやドイツにも、両性の政治的平等を訴える目醒めた女性たちの存在がありました。しかし、こうした声は一部の女性たちの間にとどまり、女性全体に支持を広げるには,至りませんでした。女性が男女同権を唱えることに反対する、男たちの声がまだ強く、その圧力を跳ね返す強さと経済的な基盤を、女性たちがまだ持ち得なかったのです。自覚的な女性が増え、女性参政権の要求が幅広い運動を組織出きるようになるのは、19世紀も後半に入ってからでした。男性の選挙権の範囲が拡大するにつれ、女性の参政権獲得運動も、少しづつ活発になっていったのです。1870年代に入る頃から、イギリスの市町村やアメリカ合衆国の一部の州で、女性参政権が認められるようになりました。しかし、国政レヴェルでの実現は1893年に実現したニュージーランドを除くと、いずれも20世紀に入ってからのことなのです。下におよその一覧を記しますが、イギリスの女性参政権が男性と完全に同一になるのは、1928年のことになります。南太平洋地域と北欧諸国が早かったことと、人権宣言の国フランスの遅さが目につきますね。各国の女性参政権獲得年一覧1893年 ニュージーランド1902年 オーストラリア1906年 フィンランド1913年 ノルウェー1915年 デンマーク1917年 ロシア1918年 カナダ、イギリス(ただし30才以上)1919年 オーストリア、ドイツ、スェーデン、オランダ、ポーランド、チェコスロヴァキア1920年 アメリカ合衆国、ハンガリー1945年 インドネシア、イタリア、日本1946年 フランス
2007.02.20
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クロニクル 初の男性普通選挙行われる 1928(昭和3)年2月20日 この日、3年前1925(大正14)年3月に成立した 25才以上の男性(ただし,貧困のため公私の扶助を 受けている者は除く)に選挙権を与えるとする 「男子普通選挙法」に基づく、最初の衆議院議員選挙が 行われました。 それまでは、直接税3円以上の納税者である25才以上の 男性に限られる制限選挙制でした。このため有権者は 従来の約4倍にあたる1241万人に達しました。 政友会の田中義一内閣は、無産政党系の候補に対する 徹底した選挙干渉を行い、彼等の当選を阻止しようと したことが、良く知られています。 投票率は90%を超え、昼時には仕事着姿の労働者や野良着姿の 農民が1票を投じる姿も目立つなど、初の普選らしい光景も 目立ったと、当時の新聞は報じています。 選挙の結果、466議席中、政友会(当時与党)217名、民政党 216名、無産政党各派8名、中立系25名となり、 政友会は僅か1議席差で、第1党の地位を守りましたが、 徹底した選挙干渉で封じ込めようとした無産政党系議員と 中立系議員にキャスティングボートを握られるという 苦しい立場に追い込まれました。 しかし、この時もまだ女性への投票権付与は、完全に無視され、 話題にもなりませんでした。話題になっていれば、人口の 半分を占める女性に選挙権を付与しない選挙を、堂々と普通選挙 と名乗ることは出来なかったでしょうから… 男性の普通選挙という言葉の持つ違和感の正体は、ここにあります。
2007.02.20
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クロニクル 浅間山荘籠城事件起こる1972(昭和47)年2月19日この日、連合赤軍の5名が、軽井沢の浅間山荘に、管理人夫妻を人質にとって籠城を開始、警官隊との間で10日間に渡る銃撃戦にはいりました。連合赤軍はイデオロギーの僅かな違いで分裂を繰り返してきた左翼過激派のグループであった共産主義者同盟(共産同)赤軍派と京浜安保共闘が、前年7月に連合した組織でした。武力革命を夢想する過激派の一掃作戦を展開していた警視庁は妙義山麓で、この日までに幹部の永田洋子・森恒夫ら8人を逮捕、さらに山狩りを行ったところ、逃亡した5人が、河合楽器の保養所「浅間山荘」に逃げ込み、管理人夫妻を人質にして、同所に立て籠り、人質を盾に籠城を続けました。警視庁は機動隊員等警察官340人で山荘を包囲、人質の安全を優先して無理な突入作戦を行わず、持久戦を選択、山荘での睨み合いは、28日までの10日間に及びました。人質の体力・気力が限界に近づいているとの判断から、28日早暁から、警視庁はクレーン車に鉄球をつけて、山荘の一部壁面を破壊、強制救出に向かいました。連合赤軍もライフル銃で応戦、銃撃戦は暗くなるまで続けられましたが、午後6時過ぎ、5名全員を逮捕、人質夫妻の無事救出に成功しましたが、銃撃戦で2名の機動隊員が死亡するなど、痛ましい犠牲もありました。この模様は、当時TV各局によって、連日攻防の模様が中継され、この日はクレーン車による壁面の破壊からほぼ1日中実況が続けられました。日清食品の先日亡くなられた安藤百福社長(当時)が開発間もなく、まだ知名度の低かった「カップヌードル」を食べ易く、暖かく、しかもあまり時間をかけずに立ち食いも出来るからと、包囲部隊に大量に差入れたところ、深夜の包囲に立つ機動隊員が暖かそうに食べている場面がTV放映され、あれはなんだという問い合わせが各TV局に殺到、「カップ・ヌードル」の名は一躍全国区になるというおまけもありました。1972年は、いわばカップ麺元年でもあったのです。ところで、逮捕された5名とすでに逮捕済みの8名の取調べの過程で、追い詰められつつあった連合赤軍内部で、仲間の一部に「総括」という名の凄惨なリンチが加えられ、12名もの殺人が行われていたことが5月にかけて明かとなって行きました。日本の左翼運動の、晩鐘を告げた事件でした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, February 19, 2007 10:44 AMSubject: 19日の日記
2007.02.19
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クロニクル 天皇機関説事件 1935(昭和10)年2月18日 この日、貴族院において、美濃部達吉 東大教授兼貴族院議員の憲法学説である 「天皇機関説」を攻撃する演説が、菊池 武夫議員によって行われました。 美濃部の天皇機関説は、国家を法人とみなし、 法人としての国家にこそ主権があり、天皇は 国家統治の機関であるとすることによって、 統治の主体と責任は、一機関である天皇に 任命された内閣にあるとする学説で、大正期に 普及した政党内閣制の理論的支柱となった学説 でした。それはまさしく大正デモクラシーの 時代的産物でした。 昭和恐慌の時期となって、軍部や右翼の台頭が 目だってくると、先ず左翼の、次いで良心的 知識人に対する思想弾圧が激しくなり、美濃部の 憲法学説に対しても、「現人神(あらひとがみ)で あらせられる天皇の神格を否定する不敬の言説」 との攻撃が浴びせられたのでした。 美濃部は1週間後の25日に、理路整然たる反駁演説 を行いましたが、軍部に弱腰の政府は、軍と右翼が 一体となって展開した国体明徴運動に抗す事が出来ず、 美濃部の憲法学の著書は全て発禁の扱いとなり、 貴族院議員も辞職のやむなきに至りました。 「もの言えば、唇寒し」の時代がやってきました。 しかし、美濃部は生涯自己の学説を曲げず、学者としての 良心を貫いたのです。。
2007.02.18
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クロニクル 新円切換え 1946(昭和21)年2月17日 この日、悪政化しつつあったインフレ退治のためとして、 新円への切換え、預貯金の封鎖が発表され、即日実施され ました。正式名称は金融緊急措置令・日銀券預け入れ令と いういかめしい名称でした。 預貯金を最低限度の生活資金・事業資金を除いて封鎖する。 流通中の日銀券は、強制預入れと新円との交換で回収する。 この2点を強行することで、流通する通貨量を削減し、 インフレに歯止めをかけようというものでした。 新円との交換は25日からとされ、しかも交換限度額は1人 100円、残りの旧円は強制的に預金に組み入れ、封鎖されました。 封鎖預金からの払い出しは、生活資金等に限られ、世帯主は300円 家族は1人当たり100円のみとされました。 この後、戦後の最も不自由な時代がしばらく続くことになります。 紙幣が足りないため、農地をもたずに食糧を自給できない疎開住民は 手持ちの衣類等で、農家に食糧を頒けてもらうしかない、みじめで ひもじい時期を過しました。 しかし、こうした荒療治にもかかわらず、悪性インフレは収まらず、 かえって悪化を続け、続いて行われた農地改革は、地主層の土地を 強制的に買い上げたのですが、旧地主さんたちが、亡くなるまで 「農地改革で土地をとられた」と言い続けたのは、インフレのために、 代償として受け取った新円が、ただ同然といって良いほどの安値に なってしまったからでした。 このインフレの最大の受益者は、戦中に乱発した巨額の戦時国債を 債務として持つ日本政府でした。現在の巨額の国債を抱える政府も 常にインフレの誘惑に駆られているだろうことは、想像がつきますね。 ところで、このインフレはGHQの依頼で来日し、インフレ退治に 取り組んだドッジ公使の、ドッジラインと呼ばれる徹底したデフレ政策の 実施によって、ようやく終りを迎えることになります。1950年頃の ことでした。
2007.02.17
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クロニクル 記憶にございません1976(昭和51)年2月16日この日2月4日に発覚したロッキード事件に関して、衆議院予算委員会で証人喚問が行われました。この日喚問されたのは、小佐野賢治国際興行社主、若狭得治全日空会長等でしたが、喚問の中で小佐野社主は質問が核心に迫る度に「記憶にございません」を連発、事件の真相究明を目指す議会の努力をかわしたのでした。証人喚問には、偽証罪や証言拒否罪について、検察当局に告発出来る権利があるため、嘘の証言や証言を拒むことは許されないため、「記憶にない」は、唯一の逃げ道であったといえます。小佐野は、このセリフを連発することによって、証人喚問制度の限界を見事についたのでした。この限界は現在も変わっていないことは、昨年の姉歯事件の喚問でも明らかでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, February 16, 2007 10:58 AMSubject: 16日の日記
2007.02.16
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クロニクル ソ連軍、アフガンからの撤退完了 1989(平成元)年2月15日 この日、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が 完了しました。 1979年の12月末にアフガニスタンで発生した親ソ派 のクーデタに乗じてアフガニスタンに侵攻したソ連軍は 山岳ゲリラ化したアフガン諸勢力の抵抗に苦しみ、 アフガニスタンはソ連にとってのヴェトナムと言われる 大苦戦に陥りました。85年に政権についたゴルバチョフは 88年に撤退を決意、同年5月に開始されたソ連軍の撤退は、 89年2月のこの日に完了に至ったのです。 その後のソ連側の発表によると、79年12月以降のソ連軍兵士の 戦死者13,310人、負傷者35478人、行方不明者311人という ことでした。これに対しアフガン側の死傷者は住民を含めると 100万人を超えるとされ、この他に故郷を追われて難民化した 住民は600万人を下らないとされています。 しかもアフガン住民の悲劇はなお続き、ソ連撤退後、諸部族間に 分かれた反政府各派の内戦が続き、90年代を通じて戦禍の収まる 気配を見せませんでした。この内戦状態をようやく終息されるかに 見えたのが、90年代後半から台頭したタリバーンだったのです。 9/11テロを経験したアメリカは、このタリバーン政権を攻撃して 崩壊させ、アフガンを再び諸部族割拠の状態に戻してしまいました。 アメリカの擁護するカルザイ政権の支配地域は、首都カブールとその 周辺に限られ、アフガンはなお、諸部族政権の割拠状態にあるのが 現実です。
2007.02.15
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9日に「えひめ丸」のことを記事にしました。その時、予告しましたホルムズ海峡での事故から浮かび上がってきたこと、そして私が気にしていることを、ここに記します。皆さんの参考になれば幸いでsす。1月9日に、川崎汽船の最新鋭タンカー「最上川」が米原潜に追突されるという事故がありました。場所はペルシャ湾からアラビア海へ抜けるルートの内、最も航路が狭く、タンカー銀座とも称されるホルムズ海峡です。日本のマスコミは、原潜と民間船との衝突ということで、すぐに宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」の沈没事故を引き合いに出していましたが、2つの事故の間には、大きな違いが横たわっています。民間人を乗せた原潜体験ショーと戦闘モードの違いがそこには隠されています。事故の報を聞いて、私が先ず疑問に思ったのは、なぜ今ごろペルシャ湾に原潜がいるんだ?という疑問です。原潜がいるなら、近くに原子力空母がいるぞ。何のために?という疑問です。湾岸戦争やイラク戦争の時、ペルシャ湾には米国の空母が入り、ヘリや航空機による爆撃で支援しながら、水陸両用艇を使って海兵隊員の上陸を強力に支援したことが思い出されます。いったいどこに…。今現在、イラクに22000人規模の増援部隊を送りつつある最中ですが、そのために原子力空母が必要とされることはありえません。これはおかしい。こう思いましたので、少しネットで調べてみたところ、とんでもないことが分かりました。現在ペルシャ湾最深部に、エンタープライズ、そしてアラブ首長国連邦付近にアイゼンハワー、そして間もなく到着するはずのステニスは湾の入口に位置する予定です。3艘もの原子力空母が時や遅しと待機する事態となれば、これは本気でイラン攻撃を考えていると受けとめざるをえないではありませんか。衝突事故は、このうち空母アイゼンハワーを旗艦とする艦隊所属の原潜によるものでした。アイゼンハワーがソマリア内戦に介入したエチオピアに協力して、ソマリアのイスラム系の反政府ゲリラが海路アラビア半島に逃避するのを防ぐ目的で、一時的に紅海に派遣され、原潜もまた旗艦のお供で紅海へ向かう途中で事故を起こしたのでした。追突にも事情があります。ペルシャ湾は狭い海です。ましてイランとオマーンの間のホルムズ海峡は難所で知られる、特に狭い海域です。そんなところに自国を敵視するアメリカの艦船が陣取っていれば、イランがその動向把握に心血を注ぐのは当然のことです。米側が特に原潜の所在をイランから隠したいと思うのも、戦闘行為を予測しているとしたら、これまた当然です。その場合、タンカー銀座でもあるホルムズ海峡周辺では、原潜は巨大なタンカーが後方の海中に作り出す大きな渦に隠れるように潜航してついていけば、先ず敵のレーダーに発見されないで済むのです。ただし、この場合、渦に巻き込まれると原潜といえども、舵が効かず、自力航行は不可能となり、吸い込まれるようにタンカーに後方から激突してしまうことが起こるのです。最上川は16万トン、原潜は7千トンだったそうですから、原潜は最上川に近ずき過ぎ、渦に巻き込まれて吸い寄せられるように激突した、これが、タンカーの後方からの追突の真相であろうと、兵器や戦史の研究家は揃って主張しています。原潜は戦闘モードで航海していたということです。ペルシャ湾に3艘もの米軍の空母が集結している。しかも原潜は戦闘モードでいる。これだけ条件が揃っているのですから、ブッシュはイラン攻撃を本気で考えていると思わざるをえません。皆さんでも、ここまでの事実を知れば、「それでは…」と考えるでしょう。いかがですか。問題は時期です。12月22日に国連は一応、イラン制裁決議を発表、2ヶ月の猶予をつけました。その間に核計画を廃棄しないと(これも、意味深です。核実験計画といわずに、核計画というのです。イランは核の平和利用の権利、原発計画の推進は放棄しないと主張しているだけですから)、制裁に踏み切るとしています。国連が与えた猶予期間を無視しての攻撃は、いくら独断先行のブッシュでも出来ないでしょうから、アメリカが単独ないしは、イスラエルとの2国での、イラン攻撃に踏み切るのは、2月21日の安保理の制裁決議の猶予期間切れ後になる可能性が高そうです。さらに、期限切れ後に再度の決議や仲介などが行われることを、想定におくとすれば、敬意を表してもう少し間を空けるでしょう。しかし、5月には盟友だった英国のブレア首相が引退することになってます。ブレアの任期中でなければ英国の協力を得られそうもありませんから、3月~4月中旬までのどこかが、Xデーとなる可能性が最も高いように感じられます。戦争に踏みきればどうなるか。イラン国内には、保守派と若者らの改革派の対立はありますが、欧米や中・ソまで味方につけたイラクとの9年に及ぶ戦争に耐えて、革命の成果を守り通した経験を持つ国です、人口もイラクの3倍強です。フセインの強権政治で辛うじて国内をまとめていたイラクとは異なります。となると、アメリカは益々泥沼に陥るでしょうし、イランに勝つ事はまず不可能でしょう。攻撃すれば、それは間違いなく第2のヴェトナム化すると私は予測しています。となると、どうなるか。攻撃近しとマスコミが騒ぎ出した時点で、先ず再び原油価格が上昇に転じるでしょう。資源株を売り持ちしている方は、安全を期すなら、今月末をマドに反対決済しておかれた方が良いように思います。第2に強烈なドル安が起きるでしょう。ユーロや円は高くなるでしょう。となると、輸出関連は売られるでしょうし、今回は「戦争は買い」と安易に考えない方が良いように思います。何らかの良識が働いて、ブッシュがギリギリのところでも戦争回避を決断してくれるなら良いのですが、そうでないと、米国経済がドル安の打撃を受け、アジア特に中国は対米輸出が減少して苦しくなり、それは日本にもマイナスに働くでしょう。ともかく、しばらくはイラン情勢を注視する必要がありそうです。 ザビ
2007.02.14
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クロニクル 変動相場制スタート 1973(昭和48)年2月14日 1971年12月のスミソニアン合意は、つぎはぎだらけの 妥協でした。ドル切り下げに円とマルクの切り上げを セットして、固定相場制を維持しようとしたのですが、 所詮無理な話でした。 72年12月に、西ドイツでの猛烈なドル売りが各国に 広がり、再びドルの危機、国際通貨危機が発生したの です。2月に入り、各国は相次いで外国為替市場を閉鎖、 円・ドル・マルクのレートの調整に入りました。その過程で アメリカは貿易収支の赤字幅の縮小のためには、ドルの威信を 捨てても構わないという,捨て身の姿勢でいることが判明し、 日本も西ドイツも一定の譲歩はやむなしということになって いったのです。こうして、日本は1ドル=308円の固定相場に 別れを告げ(といっても、前年12月からは、投機筋のドル売りを 日銀が買支えに動く事で、辛うじて308円=1ドルを人為的に支えて いたのですが)、2月14日から、1ドル=277円のレートから始まる 変動相場制に移行すると、発表したのです。 翌3月には西欧各国の通貨も対ドルのフロート制に移行、ここに スミソニアン体制は完全に崩壊、各国通貨の固定相場制は終焉を 迎えたのです。 さて、日銀の介入もあり、スタート当初の円の値動きは、現在の 人民元の動きに似た小波も立たないような静かな動きに終始し、 10月に入っても、1ドル=260円台の取引が続いてました。大蔵省と 日銀の介入による人為的な為替操作によるもので、各国からは ダーティフロートだとの手厳しい批判を浴びたのでした。こんなところ も、現在の中国にそっくりだったのです。 この状況を変えたのは、10月に始まる第1次オイルショックの発生 でした。 現在は120円が大変な円安で、輸出企業は神風の到来とホクホク顔なの ですが、当時は今の2倍以上の270円台ですら、大変な円高だと警戒され、 輸出企業は、円切り上げ絶対反対を叫んでいたのでした。 そんなところから私は、2月に日銀が僅かばかりの金利引き上げを 実施すると(実際はするか、しないか未定ですが…)、円が買われて、 円高に振れ、輸出企業の業績に影響するとして、株式も売られて安くなる 局面が訪れる可能性が高いのですが、もしそうであれば、そこは絶好の 買い場であると、判断しております。過去の相場は円高は買いを示して います。
2007.02.14
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クロニクル 公明党大会開催1967(昭和42)年2月14日この年1月29日の衆院選に初めて候補者を立て、一挙に25名を当選させた公明党は、この日正式に党大会を開き、竹入委員長、矢野書記長を選出したのでした。創価学会は1959年の参院選に初めて候補者を立て、6名全員を当選させ、3年後の62年参院選では9名が全員当選、公明政治連盟として、参院で15名の勢力を築き、6名が改選を迎えた65年の参院選ではプラス5議席の11議席を獲得するなど、宗教団体を母体として目覚しい躍進を遂げたのでした。この余勢をかって、67年総選挙で衆院への進出を図り、大量当選を果したのでした。いまでは当然のことなのですが、1955年結党の自民党は、それまでの選挙では毎回50%以上の得票率を達成していたのですが、公明党の進出で足元を脅かされ、この選挙で初めて得票率50%を割ったのでした。なお、竹入委員長は1972年日中国交回復に際し、日中間のパイプ役を務め、日中国交回復の影の立役者の一人として知られる人物でもあります。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, February 13, 2007 10:33 AMSubject: 13日の日記
2007.02.13
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クロニクル 津田左右吉博士の著書、発禁に 1940(昭和15)年2月12日 この日、日本古代史の碩学.津田左右吉博士の著書 『神代史の研究』『古事記・日本書紀の研究』『上代 日本の社会及び思想』などの著書が発禁処分を受けました。 記紀の記述には、史実と神話が混じっており、神武以下数代の 天皇は実在の人物ではないと指摘した津田の研究成果は、 日本が神国であることを否定する不敬な思想であるというのが その理由でした。この措置にたって、当時の政府は,3月になると 津田の本を出版した岩波書店の岩波茂雄社長と共に、津田を 起訴するに至るのです。良心的な学者の研究さえも力づくで 葬りさらないと、学問的な裏づけのない皇国史観は存続できな かったのですね。この皇国史観とそっくりな展示が、今でも 靖国神社の遊就館に、残されています。そこだけ戦前で時計の 針が止まってしまっているような古色蒼然としたカビの生えた ような空間がそこにはあります。 珍妙かつ少々気味の悪い空間です。 石原都知事と意識を共有する「新しい歴史教科書を作る会」の 歴史観は、この皇国史観の焼き直しバージョンです。
2007.02.12
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クロニクル イラン・イスラム革命成就 1979(昭和54)年2月11日 第1次オイルショック後の原油価格の高騰 (といっても、1バーレル=2~3ドルだった原油が 15~18ドル程度に上がったのですが)によって、高額の 資金を手にした産油国の中で、イランは突出して、工業化 と国内のインフラ整備に邁進する姿勢を見せていたのですが、 その結果、国内の貧富の差が著しく開き、工業化の恩恵に預かれない 国内各層の不満は抑え難いところまで高まり、前年88年後半から 反王政運動は日ごとに勢いを増していたのでした。 この流れに抗すことは出来ず、パフレビー朝の国王 モハンマド・レザー・シャーは1月16日に国外に退去、 2月1日には、シャーによって国外に追放されていたシーア派の 最高指導者ホメイニ師が亡命先のパリから帰国、歓迎の国民と 軍隊に対して共にシャーの内閣を打倒しようと宣言したのでした。 そしてこの目標が、2月11日のこの日、内閣総辞職という形で 実現、この日から革命イランの全権力はホメイニ師の下に集中、 ここにイランイスラム革命は成就したのでした。
2007.02.11
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クロニクル 10日の日記 1913(大正2)年2月10日 この日、高まる憲政擁護を掲げる都市中間層の圧力の 前に、桂太郎内閣は、就任僅か50日で総辞職を決意、 翌日に正式に辞任したのでした。世に言う大正政変です。 ことの起こりは、前年12月5日の西園寺公望内閣の 総辞職でした。西園寺内閣が朝鮮における2個師団の 増設を認めなかったため、これを不満とした陸相が天皇に 直接辞表を提出して辞任、陸軍が後任陸相を出さなかった ためでした。当時陸・海相は現役武官から選ぶ決まりに なっていたため、陸・海軍は我が意に添わない内閣を 辞任に追い込む特権を実質的に握っていたのです。 後任が出てこない以上、西園寺内閣は総辞職するより 手がなかったのです。 組閣の大命はは長州閥で軍人出身の桂に下ったのですが、 陸軍の横暴で西園寺内閣が倒れたことに、明治の45年間に 政治経験を積んだ国民は大きな衝撃を受け、ここに藩閥と軍閥の 二大閥による、閥族政治の打破と責任内閣制の実現を求める 憲政擁護運動が全国的に始められたのでした。 民衆運動に背中を押され、衆議院の多数派である政友会は 桂内閣の不信任案を提出、内閣は天皇の仲裁に期待したのですが、 民衆運動の支援を受ける政友会は応ずるわけにいかなかったため、 ここに民衆運動の圧力に屈する形で、桂内閣は総辞職のやむなきに 至ったのでした。明治23年の議会政治の開始以来始めてのことでした。 大正デモクラシーと呼ばれる新時代の幕が上がったのです。 次の山本権兵衛(ごんのひょうえ)内閣は、陸・海相の現役武官制を 改め、予備役や退役した大将・中将までを大臣に任命できる形をとり、 軍部の横車を抑えることに一時的に成功するのです。
2007.02.10
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クロニクル えひめ丸、米原潜に追突され沈没 2001(平成13)年2月9日 この日、ハワイ沖で実習中だった、宇和島水産高校の 実習船「えひ丸」に浮上中の米原潜が衝突、えひめ丸は 沈没するという、米原潜の重過失事故が起きました。 えひめ丸の乗組員のうち、生徒及び指導中の教員の 8名が死亡、1名がいまだに行方不明のままという 大事故でした。何故こんなところに原潜がいたのかが 話題になりましたが、原潜の潜水・急浮上をショー化して 上得意の客を乗せ、原潜の遊覧を楽しませていたからと いうことであり、客に気を取られて周辺海上を監視する ソナーの点検を疎かにしていた過失も明らかになり、 船長と米海軍に対する日本国民の怒りが沸騰したのでした。 おまけに、一報を受けた時の森総理が、友人とのゴルフ中で ハーフラウンドを終えるまで官邸に戻らず、危機管理能力を 問題視され、4月には退陣に追い込まれることになりました。 米原潜の重過失が、日本の首相のクビをとる結果に繋がった のでした。 先般1月9日に川崎汽船の最新鋭タンカー、最上川 にホルムズ海峡で米原潜が追突した事故とは質が違います。 この件については、数日中に時間のある時に、少し詳しい 論評を加えたいと考えています。
2007.02.09
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クロニクル 日劇でウェスタンカーニバル開催 1958(昭和33)年2月8日 この日、日劇でロカビリーの人気ミュージシャンが 一同に会した第1回ウェスタンカーニバルの初日の 幕が上がりました。出演は平尾昌晃、ミッキー・カーティス、 山下敬二郎のロカビリー三人衆。 この日は早朝から2000人以上の若者の列が出来、有楽町 界隈は大混雑、初日の入場者は9500人に達し、1週間の 開催で計45,000人を動員する大盛況、大成功の興行に なりました。 そういえば、学校サボッテ聞きに行ったドラムに凝ってた 友人もいました。 当時の日本では、ロックンロールもカントリー&ウェスタンも リズム&ブルースも、どれもごちゃまぜの未分化状態でした。 そこですべてを総称してロカビリーと呼んでいたようです。
2007.02.08
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クロニクル 米軍,北爆を開始、ヴェトナム戦争一挙に拡大 1965(昭和40)年2月7日 この日米軍機は、大統領リンド・B・ジョンソンの 命令の下、北ヴェトナムのドンホイにある軍事施設を 爆撃しました。いわゆる北爆の開始です。 米政府は、この措置に関して、南ヴェトナム解放民族戦線が この日未明に、南ヴェトナム中部のプレーク米軍基地に攻撃を しかけ、米兵9人が死亡、79人が負傷したことへの報復であるとの 短い声明を発表しました。しかし、その後の米国マスコミの調査で ホワイトハウスは、前年9月の時点で、1965年の早い段階で 北爆を開始するとの大綱を決定していたことが明らかにされました。 プレーク基地攻撃を絶好の口実と考えたのでしょうね。 これからイランを攻撃しようとする場合、何を口実にするので しょうね。
2007.02.07
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クロニクル 初の女性知事誕生 2000(平成12)年2月6日 この日行われた大阪府知事選で、太田房江候補が 当選を決め、本邦初の女性知事が誕生しました。 日本国で、女性が始めて選挙権を行使したのは、 1946(昭和)21年4月10日の戦後最初の国会議員 選挙でした。この時、同時に被選挙権も賦与され、 女性議員も誕生したのですが、それから54年を経て、 女性知事の誕生を見たのでした。 70年代のウーマンリブ、80年代の男女雇用機会均等法 の施行などを経て、女性の社会進出は次第にスピードを 早めながらも、なおゆっくりとしか進んでいないのですが、 それでも確実に歴史の歯車を回していることが実感できる 一齣でした。 それにしても、少子化=労働力不足=経済停滞などと 旧態依然としたカビの生えた議論を悠長に述べ合って 深刻そうな顔をしているのなら、さっさとあらゆる分野での 男女差別、雇用の年齢制限を取り払ってしまえば良いのに… と、話題の少子化は、男女差別の完全撤廃には、まさに 絶好のチャンスなのだがと、私は密かにしかし、公然と 主張してやみません。 それにしても、「女性は生む機械」などと、 「私は産む機械ではありません…」と夫のルイ15世に 公然と抵抗の論陣を張った、250余年も前の マリー・レクジンスカ夫人にまで、あきれられそうな 人物が、少子化対策担当大臣に居座っているというのは、 何ともグロテスクです。こんな何世紀も前の亡霊のような 人物を大臣に据えておくなどということは、 世界に対して顔向けできない恥ずべきことだということが、 分からない首相というのも、困ったものですね。
2007.02.06
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クロニクル コインロッカーに嬰児の死体 1973(昭和48)年1月5日 この日、渋谷駅のコインロッカーで、 遺棄された嬰児の死体が発見されました。 開かずのロッカーを駅員が整理しようと して発見したものでした。 コインロッカーに人知れず、処分に困った 厄介な「もの」を放置するというのも、 考え物ですが、それが人間の死体となると 尚更です。 当然マスコミは蜂の巣を突ついたように、 競ってこの話題を取り上げました。 ところが、困ったことに、これは良い捨て場を 教えてもらったとばかりに、その後しばらく コインロッカーへの嬰児の遺棄が続いたの です。性の解放が中途半端に進み出していた 時代に特有の現象だったのでしょうか、80年代 に入ると、あまり聞かれなくなりました。
2007.02.05
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クロニクル ロッキード事件発覚 1976(昭和51)年2月4日 この日、米国上院の多国籍企業小委員会が 開いた公聴会で、ロッキード社が日本への 航空機の売り込みのために、70年頃から 違法と知りつつ多額の政治献金を行っていた ことを明かにしました。 ロッキード社の秘密代理人だった右翼の大物 で政界に顔の広い児玉誉士夫に21億円、代理店の 丸紅に10億円が支払われたリストも示され、 児玉のサインのある「100ピーナッツ受領」という ふざけた領収書も証拠として提出されました。 さらに、ロッキード社のコーチャン副社長は、 児玉に渡った資金の一部は、政商という噂の 絶えなかった国際興行社主の小佐野賢治に渡ったと 思うし、丸紅への資金は政界工作に使われたと思うとも 証言した事が明らかになりました。 ピーナッツが1千萬から1億の隠語であるという、 コメディアン顔負けのセリフ回しが受け、お茶の間や 夜の盛り場の話題を、しばらくは独占したのですが、 小佐野賢治が前首相田中角栄の刎頚の友であることは、 知る人ぞ知る周知の事実であり、また児玉誉士夫が 後の首相中曽根康弘と入魂の仲でもあったことから、 捜査の手が、2人の有力政治家に伸びるのかどうかが 注目されてゆくことになります。 捜査は、児玉ー小佐野ルート、丸紅ルート、全日空ルートの 三方向から進められてゆくのでした。 やがて田中は逮捕、田中がかばったと思われる中曽根は 逃げ延びる展開となったことは、ご承知の通りです。
2007.02.04
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クロニクル 幕府,米国軍艦の見物を禁止 1854(嘉永7)年2月3日 この日、徳川幕府は、羽田沖に停泊中の 米国軍艦の見物を禁止する旨のお触れを 出しました。 米国のペリー提督が4艘の黒船と共に 浦賀に停泊して、幕府に開国を迫った 有名な黒船襲来は、前年1853年6月のこと でした。その後翌年の来航を予告して、帰国した のですが、約束通り、翌1854年の1月に3艘の 軍艦(蒸気船=黒船)と4艘の帆船からなる 7艘の艦隊を指揮して、羽田沖に現れ、 砲艦外交を展開して幕府を脅し、強引に江戸に近い 神奈川(現横浜)を交渉地として、羽田沖に至る 一帯に艦隊を停泊させて、幕府を威圧する作戦を とりました。61才になる老練な艦隊司令官らしい、 やり口でした。 緊張する幕府とは別に、怖い者見たさの庶民に混じって、 頑迷な攘夷思想に凝り固まって、国際的現実を顧みない 国粋主義者が、実力行使に出ることを警戒しなければ ならない、幕府の困惑が,この日の見物禁止のお触れと なったのでした。 「こちとら江戸っ子でぃ」とでもいえそうな、 庶民のバイタリティを示すエピソードですね。
2007.02.03
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クロニクル 中国国民党、北伐再開を決定 1928(昭和3)年2月2日 この日、中国国民党は北方の軍閥勢力を打倒し、 国民革命を完成させ、中国全土(列強の租借地を 除く)を国民党の支配下におくことを目指して、 北伐再開を決定しました。 孫文死後の国民党の指導者蒋介石自ら、国民革命軍を 指揮して北上、満州軍閥の張作霖は、北京で一戦を 交えるべく、抗戦姿勢を示していたのですが、 日本政府(田中義一内閣)の要請を入れて、戦わずして 奉天へ向け列車で移動中、日本の関東軍参謀等によって 爆殺される事件が起きるのは、この数ヶ月後、 6月4日のことでした。日中15年戦争の端緒となる 満州事変の3年前のことでした。
2007.02.02
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クロニクル テレビ時代の幕明け 1953(昭和28)年2月1日 この日、午後2時,東京地区でNHKテレビの 本放送が開始されました。NHKによるテレビ 放送の研究は、昭和初期に開始されたそうなのですが、 戦争により中断されました。戦後の再開後は今までの 蓄積も生かして,比較的順調に進み、1950年から 試験放送を繰り返して、この日,本放送が開始されたのです。 といっても、この日の契約世帯数は、僅か866世帯。それも 電波の届く所は、まだ東京周辺のみでした。 新橋、銀座などの繁華街で、街頭に設置されたテレビの 前が黒山の人だかりになった様子は、翌日の新聞で報じ られました。 その後、テレビは次第に普及していくのですが、2年後の プロレス興行で力道山が登場し、大相撲に栃・若時代が 登場するに及んで、町の床屋さんなどが、客寄せにテレビを 店に設置するなどしたことが、普及に弾みをつけ、 1959年4月の皇太子ご成婚(現平成天皇)の馬車パレードが テレビで実況中継されることが決まるに及んで、爆発的に 普及したのでした。 その後は、カラー化に比重が移り、1964年の東京オリンピックを 機に、「オリンピックをカラーで見よう」という宣伝文句と共に カラーテレビが普及することになってゆきます。 現代の地上波デジタル放送は、第3の波ということになるのでしょうか。
2007.02.01
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