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クロニクル 学童疎開の実施決まる1944(昭和44)年6月30日 この時期は太平洋戦争も南方各地の戦線で、日本軍が玉砕戦法で、次々に壊滅的打撃を受けるようになってきた頃のことです。しかし、その事実は国民には伏せられたままであった頃でした。 6月15日の米軍のサイパン上陸を受けて、本格的な本土空襲が行なわれるであろうとの予測が高まり、この日政府は、国民学校初等科(つまり小学校)児童の疎開を促進する学童疎開実施要綱を閣議で決定しました。 国民学校高等科以上の生徒は生産労働の担い手足りうるため、勤労動員の対象とされましたが、小学生は労働人口たりえないため、疎開の対象とされたのでした。 この日の閣議決定により、京浜、阪神、北九州、中京など工業地帯の国民学校初等科3~6年生のうち、縁故疎開先の確保できない児童が、強制的に集団疎開させられたのでした。1~2年生は、親元を離れての集団生活はまだ難しかろうと判断されたのでした。 対象となった児童、およそ40万人が、先生たちに連れられて全国およそ7千ヶ所の受け入れ先へ送られ、厳しい規律の下で、乏しい食事に耐える生活を送ったのでした。しかしその後、米軍に依る空爆は益々激しさを増し、翌年3月には、遂に1~2年生の縁故疎開の強化と授業の一時的な廃止が、閣議で決定されることになるのでした。
2007.06.30
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サライェヴォ事件の続きです。テーマは軍の対応。オーストリアの皇位継承者、フランツ・フェルディナントが、前回指摘したように、ハプスブルグ家の皇族達に、直前までボスニア訪問を伏せたとしても、いやしくも彼は高齢の皇帝の後継者、間もなく玉座に座る人物です。来訪を知らされたボスニア派遣軍は、万全の警備体制をとったのかが、実は大きな問題です。反オーストリア感情の強い、それゆえにハプスブルグ家の皇族には危険がいっぱいのボスニア入りを、何故止めなかったのか。仮に止めても止まらなかったのだとしても、何故に警備に隙があったのか。この点に大きな疑問が残ります。6月28日、陸軍の大演習を視察した帰途、夫妻は首都のサライェヴォに立ち寄りました。その時警備に当たった市の警察部長は、「恐ろしい人出だが、それにしても、なんて軍隊の数が少ないことか」といぶかしんだことを、日記に書き残しています。しかし,彼は日記に書いただけで、何もしませんでした。警備の責任は軍隊に一任されていたからです。警察の任務は公衆の整理に限られていたからです。官僚独特の縄張り意識と縦割り行政の弊害は、この時代も今も変わらないようですね。皇位継承者夫妻は、10時頃にボスニア駅頭に到着し、自動車で歓迎式典が用意されていた市庁舎へ向います。この車列に、1人の青年が爆弾を投じました。破裂した爆弾は3人の随員と10人以上の群衆を傷つけましたが、フランツ・フェルディナント夫妻は無事でした。危険の存在が明かになったため、予定されていた歴史博物館の見学など、全ての行事は中止されました。しかし、軍を預かるボスニア総督は、「サライェヴォが刺客の巣窟だとでも言うのですか」と不満を口にしています。総督の相当なウヌボレというか、軍事力に対する過信があったことが読み取れます。夫妻は予定がキャンセルになったのならと、負傷した随員を病院に見舞うことにします。危険地域で公衆に顔を晒すことの危険がどの程度意識されていたのかが、疑問視される判断でした。さすがにフランツ・フェルディナントは妃のゾフィーに総督邸で休息していることを勧めたようですが、ゾフィーが夫との同行を強く望み、同行することになったのでした。実は暗殺集団「黒い手」の側では、必勝の暗殺作戦として、7組の刺客を用意していました。第1組は失敗しましたが、幸い皇位継承者は負傷者を病院に見舞うという、これはチャンスでした。病院へ向う道筋に刺客が三々五々散りました。どこかで速度を落したところを狙おうというわでした。曲がり角で車が速度を落したところに、街路から銃声が響きました。2発,3発と続けて。しばらくして、二人はスローモーションビデオのように、ゆっくりと折り重なって車中に倒れたのでした。時に午後11時15分頃のことでした。車はただちに病院に向いますが、先ず妃のゾフィーが、次いでフランツ・フェルディナント大公自身が息を引き取りました。銃撃から15分後の11時30分頃のことです。大公は苦しい息の下で、最後まで「ゾフィー、ゾフィー、生きていておくれ、子ども達のために」と夫人を勇気付けていたと、いくつかの証言が一致しています。王室の血を引かない女性の産んだ子として、庶子の扱いを受け、宮廷内で日陰者扱いされている子ども達の将来を案ずる悲痛な思いが伝わってくる気がします。しかし一方では、そう思うなら何故、危険が察知されるボスニア行きを決行したのかと、その判断ミスに呆れざるをえません。皇室や政府を構成する保守派の大貴族に反感を持たれていたとはいえ、フランツ・フェルディナントは高齢の皇帝フランツ・ヨーゼフ以後を考える時、オーストリア皇室にたった1人残されたエースであったこともまた確かなのです。朽ち果てた大樹に明日はないというのも、確かに真実の重みを持ちますが、私はボスニア社会にはびこる反オーストリア感情を正しく読み取れなかったオーストリア軍部の過信に大きな問題があったように思います。第1次世界大戦は、帝国主義時代の歴史的現実を見るとき、サライェヴォ事件をきっかけにして、始まらなかったとしても、どこかで始まったであろうことは否定できません。ただ、この事件の1ヶ月後にセルビアとオーストリアの間に戦端が開かれ、それが僅か1週間でヨーロッパの国際戦争に広がり、やがてトルコ、アラビア、アフリカ、アジア、北米を巻き込む世界戦争に拡大したこと、その結果、オーストリア帝国は完全に瓦解し、ハプスブルグ家も玉座を追われたのです。皇位継承者の隠密裏な行動、それを受けた現地軍部の過信のツケは予想を遥かに超えて大きかったと言わなければ、ならないようです。
2007.06.29
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クロニクル 日本オリンピクに初参加1912(明治45)年6月29日この日、第5回オリンピック、ストックホルム大会の開会式が行なわれました。会場となったストックホルム競技場には、3万人の観衆が詰め掛け,大変な人気振りでした。面白いことに、開会式後、すぐに競技が始まるのではなく、競技は7月6日~14日までの9日間で行なわれました。大会には28ヶ国から3282人が参加、日本もこの大会に初めて2人の選手を派遣しました。陸上短距離の三島弥彦選手と、マラソンの金栗四三(しぞう)選手です。またIOC委員として、東京高等師範学校校長、柔道の大家嘉納治五郎氏が参加しました。短距離の三島選手は、100mと200mは予選落ち、400mは準決勝に進出しましたが、負傷棄権となり、マラソンの金栗選手は、猛暑にやられ、25km附近で落伍してしまいました。まさに「参加した事に意義がある」の大会だったようですね。
2007.06.28
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ハプスブルグ帝国の落日サライェヴォ事件の続編です。1848年に即位したフランツ・ヨーゼフ1世はサライェヴォ事件当時,既に84歳の高齢でした。1人息子に死なれ、甥(次弟の子)フランツ・フェルディナントを皇位継承者としていましたが、息子の変死から9年後の1898年、今度は夫人がアナーキストの凶弾に倒れます。1830年生まれの老皇帝は、家庭的には全く恵まれず、旧態依然として中世以来のしがらみを金貨玉条とした、時代遅れのハプスブルグ家のシキタリを、時代に合わせて改良する気概を全く持たずにいたのでした。たとえば、ハプスブルグ家で、将来皇后たるものは、王室出身者であること、先祖からのカトリック教徒であること、などの条件を満たさなければならないことになっていました。新教徒が増え、フランスのような共和国もあるとなると、この条件に適う適齢期の女性は10人にも満たないのが現実でした。オスマン帝国はイスラム、ロシア帝国はロシア正教会、オランダ、イギリス、プロイセン、そしてドイツの小邦の多くが、プロテスタントやアングリカンだったからです。スペインとベルギーそして両シチリア王国など、対象と出来る王室もごく僅かでした。フランツ・ヨーゼフの1人息子、ルドルフは、この条件を満たすために、ベルギーの王女と愛なき結婚をしたのですが、自由主義の気風を備え、科学的素養も積んでいた彼は、この現状にあき足らず、宮廷改革への強い思いを持っていたと言われています。その彼が1889年愛人と思われる女性と共に、血まみれになって死んでいるのが発見されたのです。これは大きなスキャンダルでした。自殺なのか他殺なのか、他殺とすれば犯人は誰なのか、真相は全て闇の中でした。愛息の死後しばらくして、皇帝フランツ・ヨーゼフは甥にあたるフランツ・フェルディナントを後継者に選びました。しかし、このフランツ・フェルディナントは1900年、ハプスグルグの家訓からすると、認めがたい女性を伴侶に選んだのでした。1900年それもまさしく14年後に暗殺されるのと,奇しくも同日となる6月28日が、夫妻の結婚式の日だったのです。妃はボヘミア伯爵の令嬢ゾフィー。名門伯爵家の令嬢といえども、王室の血統のみにひたすら拘り続ける王室の特に女性達の名門意識に、がんじがらめになっているハプスブルグ王家では、この結婚は例外として認める代わりに、厳しい条件がつけられたのでした。結婚の2日前、フランツ・フェルディナントは、次ぎの条件を誓約せざるを得なかったのです。1、2人の子、即ちゾフィー后妃の子どもたちは、 ハプスブルグ家の帝位継承者としない2、ゾフィー妃の称号は、ホーエンベルク大公妃とし、 皇室内の席次は女性たちの末席とする3、従って、皇室の公式行事には、夫妻の席が離れすぎ るので、后妃は出席しないことが望ましいこんな条件をつける方もつける方ですが、いかにハプスブルグの家憲が、歴史的現実に合わなくなっていたかが読み取れます。落日の帝国は、時代感覚を失っていながら、そのことにも気づかず、自己保身と自己正当化のために、益々古い決まりにしがみ付く。改革が出来ず、現状が認識できずに、退場していく、或いは退場の瀬戸際に負い込まれていく同族経営の企業と良く似ているように見えます。フランツ・フェルディナント夫妻の間には、3人の子女が産まれますが、皇位継承権を持たない、日陰者の扱いを受けていたのです。このフランツ・フェルディナント夫妻が、激しい反オーストリア感情が渦巻く、ボスニアへ乗り込むことになったのです。ボスニアであれば、ウイーンの宮廷でもなく、儀礼的な社交の場でもありません。ここならば、結婚以来1度も公式の場に伴ってやれなかった愛妻のゾフィーと、晴れて同席することも出来ます。折りしも6月28日は14回目の結婚記念日でもあります。皇位継承者のフランツ・フェルディナントは、反対派の多いウィーンの宮廷には、秘密裡にサライェヴォ訪問計画を進めたということも十分考えられることです。腐っている宮廷が自壊作用を早めだしたと考えることも出来る事件ですが、そこには、ここに記したような宮廷模様も刻まれていたのです。ところで、宮廷事情はそうであっても、軍部や政界は何をやっていたのか、次回はその点を記します。 この項続く
2007.06.28
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クロニクル サライェヴォ事件1914(大正3)年6月28日93年前の6月28日は日曜日でした。この日、ボスニアの首都サライェヴォは昨夜来の雨もあがり、雲一つない快晴だったと記録されています。このサライェヴォで1ヶ月後の7月28日に,最初の戦端が開かれることになる、第1次世界大戦を招き寄せる大事件が起きたのは、11時15分頃のことだったと伝えられています。そうです。オーストリア、ハプスブルグ家の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアのオーストリアからの独立を支援する隣国セルビアの民族主義運動家の秘密結社「黒い手」が派遣した刺客が放った銃弾に倒れた、あのお馴染みの事件が起きたのが、93年前の今日なのです。あまりの衝撃に、当日の天候から時刻までもが、克明に記録されているのです。ボスニアは旧ユーゴスラヴィア連邦解体後の民族紛争、とりわけ、ボスニアのセルビア系住民によるイスラム教徒(ボスニアではイスラム人として1民族に数えられます)並びにクロアティア系住民の虐殺と民族浄化運動で、知られることになりましたが、既に20世紀初頭から民族紛争が絶えない地域だったのです。当時のオーストリア皇帝は、悲劇の皇帝と言われた80歳の老皇帝フランツ・ヨーゼフでした。彼の弟マクシミリアンは,フランス皇帝ナポレオン3世に口説かれてメキシコ皇帝に担ぎ出され、メキシコ人の反乱にあって、1867年に銃殺されました。1人息子のルドルフは、1889年に愛人と変死しました。息子の死の悲劇に耐えた皇帝が、皇位継承者に指名したのが、甥にあたるフランツ・フェルディナントだったのです。皇帝はウィーンの宮廷で、後継者に指名した甥の遺体の到着を待ったのでした。しかし、疑問は残ります。ボスニアに反オーストリア感情が強いことは良く知られた事実でした。だかたこそ、この日、オーストリア軍は大規模な軍事演習を催し、セルビア系住民を威圧するプランを立てていたのです。そんな危険な地に、オーストリア政府は何故皇位継承者を派遣することにしたのか。軍部は何をしていたのか。オーストリア側の警備は十分だったのか。といった疑問が残ります。そして又,反対側の当事者であるセルビア政府は、オーストリアとの戦争になりそうなことぐらい、すぐに判断出来るハプスブルグ王家の後継者暗殺の動きを、何故止めようとしなかったのか。せめて止めないまでも、胡乱な動きのあることをオーストリア側に伝えなかったのかという疑問が残ります。時間がとれれば、こうした歴史の謎の部分にも、多少の光を当ててみたいと考えています。あまり期待しないで待っていて下さいね。
2007.06.28
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クロニクル 松本サリン事件1994(平成6)年6月27日この日夜9時半過ぎでしょうか、長野県松本市の住宅街で、有毒ガスが発生(サリンと判明したのは、採取したガスを分析した後日のことでした)、死者7名、入院52名、被害者総数213名に達した、大惨事となりました。翌年3月に霞ヶ関中心に、地下鉄サリン事件が起き、松本サリン事件も、オウム真理教の犯行と分かるのですが、当初捜査は難航し、事件の翌日からマスコミは、現場に近い河野さんのお宅に、いくつかの農薬類があったことから、まるで河野さんが犯人であるかのように、実名入りで報道し、TV局のリポーター(この人種、あまり自分がリポートすること、インタビューする内容や人について、全く勉強していない、レヴェルの低い連中が多いですね)の中には、他が報じているからと、「あなたが犯人なんでしょう……」と罵声を浴びせる人物もありました。河野さんの奥さんは、入院患者の中でも最も重症で、2年前でも、まだ意識が回復しない植物人間状態だとの報道を見ましたが…。 彼は実名入りで、姿を露出させられて、マスコミに報じ続けられました。不確かな情報で犯人扱いされて…オウム真理教の犯行と分かって、ようやく河野さんの濡れ衣は晴れたのですが、その間、9ヶ月に渡って、犯人扱いを受け続けたのです。これは,明かにマスコミによる人権侵害でした。松本サリン事件は、報道と人権の問題をも浮きあがらせた事件でした。その反省が個人情報保護法に生かされているかというと、政治家や官僚は都合良く、自分に不利な情報を隠せるようですが、我々の情報が、きちっと保護されているかというと、これははなはだ中途半端なようですね。どうでも良いところでうるさくて、肝腎のところは抜けているような……
2007.06.27
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朝鮮戦争の話しも終りに近づきました。戦争と日本経済が,今回のテーマです。開戦の1950年6月当時の日本は、このブログでも取り上げたドッジ公使の日本経済再生プランに従って、戦後の悪性インフレを退治するための、緊縮政策、ドッジラインと呼ばれたデフレ政策の最中にありました。当然、倒産の続出する不景気の最中でもありました。そこに朝鮮戦争が降って湧いたように始まったのです。米軍からすれば、日本経済の復興、再建は本国の政策でもある。そして日本で生産可能なものは、本国で購入するよりも安く、しかも輸送コストがあまりかからないメリットがあり、しかも輸送に時間がかかりませんから、注文から納品までが予定よりも短い時間で済むことになります。まさに一石三鳥なのでした。こうして日本国内で生産できない武器類を除いては、米軍は多くの注文を日本に寄せました。世に言う朝鮮特需がやってきたのです。この特需のおかげで、日本経済は戦後の混乱期を経て、ここに離陸に成功したのです。日本経済にとって,朝鮮戦争はまさに神風でした。糸偏業界も、鉄鋼も、造船も、機械もみな特需景気に湧いたのです。1952年のスターリン暴落。53年の朝鮮休戦協定の締結で、景気はいったん下ブレしますが、2年後には回復し、さらに成長を遂げることになり、しばらくは2年周期の景気循環を繰り返しながら、60年代の高度経済成長の時代を迎えることになるのです。こうした日本経済復興物語の序章に、朝鮮戦争は位置づけられるのです。ここでも、日本の旧植民地だった隣国の不幸が、日本の経済復興を支えたのです。それにしても、1945年7月末に、ポツダム宣言を突き付けられ、その早期受諾を迫られながら、当事者能力を失っていた軍部は、なお受諾を渋りました。こうした軍部の怠慢が8/6の広島への原爆投下。そして8日のソ連参戦を経て、9日の長崎への原爆投下を招き入れたのです。私の言いたいことは、もし軍部が蛮勇を振るってポツダム宣言の早期受諾に踏みきっていたら、ソ連の参戦はなく、結果として朝鮮半島の南北分断はなかったということです。戦後60年を経て、なお統一できずにいる隣国を見ると、私は心が痛みます。分断は当時の日本の独裁権力であった軍部の優柔不断が招いた日本の罪だからです。そして、この不幸な分断さえなければ、拉致問題という、おそらくは解決不能な問題も発生する余地はなかったということです。そうした重い責任者であるA級戦犯を、どうして戦争犠牲者を奉る靖国神社に合祀することが出来るのでしょうか。犯罪者と一緒に奉られては、英霊たちも安眠できないでしょうに…この項は、これで終ります。
2007.06.26
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朝鮮戦争続き(3)今晩は。昨日の朝鮮戦争の話しの続きです。題して朝鮮戦争と日本です。当時、日本はGHQの占領下にありました。GHQといっても要員の8割以上がアメリカ人で、司令官もアメリカ人でしたから、実質的にアメリカの占領下にありました。そしてGHQ司令官のマッカーサーが朝鮮に派遣された国連軍の総司令官を兼務しました。そこから米国は、日本駐留のGHQ部隊を半島に投入することで、機動作戦を手際良く実行することが出来ました。輸送・補給基地にも日本を利用することができました。ましてアメリカにとって幸いだったことは、他国では、ことごとく失敗し評判の悪かった米国の占領政策が、日本でだけは評判が良く、特に戦争にウンザリしていた多くの日本人が、戦争中の軍部の横暴に対する強い反発から憲法9条の平和主義と再軍備の禁止を素直に歓迎し、国民の多数が親米感情を持っていたことでした。それならば、日本国内の基地を今後も自由に米国だけが使えるようにする方が、GHQの一員であるソ連に何の遠慮もしなくて済む。ではそうしよう。これがサンフランシスコ講和への動きが,急速に高まった理由でした。講和の条件は、米国の基地使用を今後も認めること、沖縄・小笠原の施政権は当分返還しないことなどでした。再軍備を禁じられた当時の保守勢力には、日米安全保障条約の締結は、渡りに船だったに違いありません。米国が、アジアの係争地域、朝鮮半島や台湾海峡に近く、ソ連にも近い日本の基地を自由に使えることの価値を実体験した。これが朝鮮戦争のもう一つの意味だったのです。ここに米が安保条約をセットにした日本の独立を急いだ理由がありました。最近まで植民地にしていた国が、南北に分断され、統一を巡って、同胞同士が殺し合っている。地獄絵のような隣国の不幸のおかげで、我が日本は早期に占領から脱して、独立を達成することが出来た。これが朝鮮戦争のもう一つの意味でした。そして日本の経済復興がもう一つの意味になるのですが、この部分は深夜に書かせていただきます。 続く
2007.06.26
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クロニクル 小笠原諸島返還 1968(昭和43)年6月26日 この日米国は、サンフランシスコ講和後も 占領を続けていた小笠原諸島を日本に 返還しました。 伊豆七島からは,遥か南ですが、小笠原諸島も この日から、行政区分としては東京都に帰属 することになりました。 こうして、日米交渉の焦点は、基地の島として, 当時米国のヴェトナム戦争にとって、重要な 戦略上の拠点となっていた、沖縄の返還問題に 絞られてゆくことになりました。 朝鮮戦争の続きは、夕刻に書かせていただきます。
2007.06.26
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今晩は。昼に続いて朝鮮戦争の続きです。さて、マッカーサーは中・朝国境の鴨緑江を渡り、結果的に中国領を侵犯してしまいました。純軍事的判断だったようです。しかし、この事実を中国指導部がどう見たかが問題になります。前年まで、熾烈な内戦を戦った相手の国民党勢力は、台湾海峡を隔てた台湾に逃げ込み、米国の支援を受けながら、声高に大陸への再侵攻と大陸の解放を主張していました。中国共産党指導部は、米・台連合の大陸侵攻をありうることと受け止めていましたが、長年の内戦に終止符をうった直後だけに、出来れば兵を休めたい、戦争は避けたいと考えていました。しかし、国境を越えて国連軍の仮面を被った米軍がやってきたとなると、話は別です。半植民地状態をようやく脱したのですから、自国領土に足を踏み入る外国軍は、断乎撃退しなければ、再び奴隷的な隷属状態に逆戻りしてしまいます。これは願い下げでした。10/25の中国義勇軍の参戦の裏には、こういう事情がありました。戦い疲れて休息が必要な正規軍に代わって、各地で募集された義勇軍による参戦でしたが、各地の遊撃戦の経験を持つ,良く訓練された部隊でしたから、ここで再び戦局は転換します。中国の参戦で体制を立て直した北朝鮮・中国連合軍は、ソ連の支援も受けながら、浮き足立った韓国・米国連合軍を敗走させ、年末にかけ再び38度線を越えて南に攻め込みます。ここで米軍も増援部隊を送り込み、年明け以降は、38度線を中心とした一進一退の攻防が続けられ、戦線は膠着します。この時期マッカーサーは、トルーマン大統領に新規部隊の増派と中国国内への戦線の拡大を要求して、そうなるとソ連の全面介入を招くことになり、世界戦争となる危険を侵すわけにはいかないと拒否する大統領と、全面的に対立、4/11には国連軍最高司令官を解任され、合わせてGHQ司令官の地位も解かれます。この年7/10からは、ジュネーブで休戦会談が開かれますが、協定がまとまるまでには、なお2年の歳月を要します。この間、断続的に戦闘は続けられ、朝鮮民族同士の殺し合いが続けられました。日本の空襲にも用いられた大型爆撃機B29による爆撃の話しや、38度線の攻防の話しは、日本のラジオ(当時テレビはまだありません)でも良く放送され、子ども達の陣取り合戦は当時38度線ごっこと称しておりました。それにしても、そもそも朝鮮半島の南北分断(日本が静岡あたりを境に東西に分断された姿を想像してください)がなければ、この戦争はありえず、人為的に切り離され、会うこともままならなくなった肉親や友人・知己が自由に会える日を夢見て、南北統一の早からんことを願うのは、人の情としてごく自然のことです。そうした願いが冷戦の現実の中で、中国までも巻き込んだ米ソの代理戦争に仕立てられてしまったのが、朝鮮戦争でした。米兵もそして米国に義理だてして参戦した諸国の兵士も、中国義勇兵も数多く戦死しましたが、何といっても最大の犠牲を出したのは、朝鮮半島の同胞たちであり、北も南も大きな犠牲を払ったのでした。しかも、その結果は南北分断の固定化だったのですから、何ともかける言葉が見つからない思いにかられます。では、この朝鮮戦争と日本との関係はどうだったのか。話しは続くのですが、また明日にさせていただきます。 続く
2007.06.25
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朝鮮戦争 続き(1)昨夜のクロニクルの続きです。6/25の開戦から3日後の28日には、北朝鮮軍がソウルを占領、韓国軍は総崩れに近い状態に陥りました。この韓国軍の危機を救ったのが、連合国軍の主力として日本占領中の在日米軍でした。昨夜私は,この戦争は米ソ冷戦の代理戦争であり、戦闘は北朝鮮・中国連合軍対韓国・米国連合軍の戦いだったと書きました。韓国を支援したのは国連軍であって、米軍ではないのでは?と疑問をお持ちの方もおありでしょうが、私は米国が国連を隠れ蓑として利用しただけで、国連軍は実質的には米軍であったと考えています。冷戦時代、米ソが激突する問題では、どちらかが安保理で拒否権を発動しましたから、事実上安保理の専権事項だった国際紛争への国連軍の派遣は不可能だったのですが、この時の事情が米国に幸いしました。というのは、48年に始まるベルリン封鎖、ベルリン問題の討議にあたって、国連は米国より過ぎると抗議したソ連は、この時期国連ボイコットの挙に出ていたのです。しかも、本来大陸中国を治める中華人民共和国が持つべき国連議席は、実は1972年まで、米国の庇護の下に、台湾の亡命政府(自称中華民国)が握ったままでした。ソ連のいない安保理は、米国の意志通りに行動しました。スターリンのボイコット戦略の失敗でした。(ただここから見えることは、金日成は南を攻撃する了解をスターリンから取り付けたと昨夜指摘しましたが、それは大枠の了解であって、この時期の南への侵攻は、フライングであったろうということです。時期まで了解していたとすれば、スターリンのことですから、安保理決議の可能性を察知して、早期に国連に復帰し、拒否権を行使していたに違いないからです。)かくして、安保理は早くも開戦当日の夜の会合で、開戦は北朝鮮の侵略であると断定、国連軍の派遣を検討することになりました。2日後の27日、米国のトルーマン大統領(日本への原爆投下を命じた大統領です)は米海・空軍に朝鮮半島への出撃命令をくだし、30日には地上軍の派遣も決定します。この素早い決定の裏には、ソ連封じ込めの最前線となることを信じて疑わなかった中国国民党の勢力が、中国共産党との内戦に敗れ、辛うじて台湾に逃れていたことへの反省があったようです。反共の政府は、どんなに国民に不人気であっても支える、これ以上社会主義圏を広げてはならない、これがこの当時のアメリカの立場でした。7月上旬、米軍の支援を受けながらも韓国軍はなお劣勢のまま、南へ敗走し、遂には日本に近い釜山とその周辺に追い詰められます。米国に尻押しされた国連も7月に入って国連軍の派遣を正式に決定、7日には米軍に国連軍の指揮を任せることを認めます。こうして国連軍総司令官には、GHQの総司令官マッカーサーが就任するのです。当時の輸送力は規模、スピード共に遥かに現在に及びません。現在でも戦闘を決断してから、実際に開戦するには数ヶ月を要します。それなのにこの時の米軍の展開は、数日のうちに素早く行なわれています。ここにGHQ司令官マッカーサーが国連軍総司令官を兼務した意味がありました。彼は、日本駐留軍を日本の基地から朝鮮半島に送り込んだのです。米国からやってくる部隊は、しばらく遅れても、安定に向かっている日本で問題が起きる事はない。遅れての補充で十分だということだったのでしょう。何とか釜山周辺を持ち堪えた米国・韓国連合軍は、日本のGHQ本部を舞台に反攻作戦を練り、北朝鮮軍の警戒の薄い、38度戦の北の港仁川に狙いをつけ、9/15仁川上陸作戦を展開、南北から北朝鮮軍を挟撃、ソウルを解放すると、敗走する北朝鮮軍を追って、北上を続けました。ここに戦局は一転しました。敗走する北朝鮮軍の1部は、中・朝国境を流れる鴨緑江を越えて中国領に逃げ込みます。米軍部隊は、逃げる敵を追って鴨緑江を渡ってしまいます。建国1年に満たない中国の立場を顧慮しない純軍事的判断の陥りやすい過ちに軍人マッカーサーは気づかなかったのです。 続く
2007.06.25
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クロニクル 朝鮮戦争始まる 1950(昭和25)年6月25日 この日、38度線を境に南北に分けられた 朝鮮半島で、大韓民国(韓国)と朝鮮民主 主義人民共和国(北朝鮮)との間で戦端が 開かれました。53年7月27日の休戦協定調印 まで続く長い戦争の始まりでした。 朝鮮半島は日本の植民地でしたが、日本降伏後 ソ連軍管轄下の地域と、米国軍管轄下の地域に 分割統治されることになり、中央部に南北を 分けるに相応しい、山脈や河川、湖沼等がない ところから、地図上の線である38度戦を境に 分割されることになりました。 開戦の原因は南北どちらにあるのか、長い間 謎とされてきましたが、冷戦終結後の今日では、 その事情も明らかになってきました。 それによると、前年1949(昭和24)年10月1日 の中華人民共和国の誕生に刺激を受けた金日成が ソ連の指導者スターリンを口説いて、韓国攻撃を 黙認させ、兵士らには、南の攻撃があったから、 直ちに応戦する、国土防衛のために最善を尽せと、 檄を飛ばして、38度戦を越えさせたということの ようです。 開戦準備をしっかりと整えていた北朝鮮軍が 近く戦端が開かれるかもしれないと考えながらも、 なお半信半疑だったために、緒戦の対応に遅れた 韓国軍を圧倒し、緒戦は北朝鮮軍優位のうちに 推移しました。 戦争には、韓国側に立って、アメリカが参戦。 北朝鮮側に立って、中国が参戦、ソ連は兵器の 提供などで、間接的に北を支援,こうして戦いは、 韓国・アメリカ連合軍対北朝鮮・中国連合軍の 戦いになりました。米ソ冷戦の代理戦争として 朝鮮半島が舞台になったのでした。 祖国統一を願う南北朝鮮の皆さんの意欲が逆手に とられたのでした。 この項続く
2007.06.25
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クロニクル 壬申の乱始まる 672(天武元)年6月24日 趣向を変えて,今日のクロニクルは古代史から。 西暦645年の大化の改新を「ムシゴロシ」とゴロ 合わせをして、覚えた方もいらっしゃるでしょう。 この時の立役者の1人、中臣鎌足は後に藤原の姓を 下賜され、藤原氏を名乗ります。平安朝中期の 摂関政治の主役となる藤原氏の始祖となりました。 もう1人の主役が中大兄皇子,後の天智天皇です。 大化の改新のクーデタ後、彼は皇太子のまま実質的に 政治を担当しますが、中国の新興国家、隋王朝を倒した 唐と結んだ新羅に敗れ、命運の尽きかけた百済救援の 軍を派遣し、白村江(はくすきのえ)の戦いで、 唐・新羅の連合艦隊に惨敗を決します。 日本古代史における未曾有の危機の時代の到来でした。 当時の政府当局者は、唐・新羅連合軍が勢いに乗って 日本(大和朝廷)攻略軍を起こすのではないかと、 心配し、当時大阪難波宮の朝廷を、琵琶湖の ほとりの大津宮に移したほどでした。 というわけで、壬申乱当時の朝廷は大津にありました。 天智天皇は、この大津で即位したのですが、前年671年 (天智10年)に亡くなり、天智の子、大友皇子が太政大臣 のまま、政治を担当しておりました。 この時、後の天武天皇、大海人皇子は、闘病中の天智天皇 の意中の人物が子息の大友の皇子であることを知り、剃髪 して仏門に入り、吉野に脱出します。671年10月の出来事です。 大津にいたのでは、いつ刺客を向けられるか分からなかったの でしょう。飛鳥から大和一帯なら、自分の支持者も居て身の 安全を確保しやすいと考えての行動だったのでしょう。天智は 12月に亡くなりました。 この時代、頼朝・義経兄弟をとってもそうですが、名門の家柄 では兄弟といえども、乳母・傅役が違いますから、親しい肉親の 情などというものは、先ず互いに持ち合わせておりません。 そこには食うか食われるかの権力闘争が存在するケースが多いの です。この場合がまさにそうでした。天智は家臣の信望を集める 弟大海人の存在が、息子にとって極めて危険であることを知って いました。大海人の正妻、後の持統天皇は天智の娘で大友皇子の 母違いの姉ですが、両者に姉弟の情は見られません。息子の 草壁皇子を皇位につけることを考える母は、何としても夫を守り 夫に皇位に就いてもらいたいと、弟の追い落としに積極的に 協力していくのです。 さて、吉野に隠棲しながら、大津宮の情報収集に怠りのなかった 大海人らは、次第に吉野も安全と言いきれないと考え、 支持者の多い、東国(東海地方)に下って兵を集め、 挙兵する腹を固めます。 大津の朝廷でも、大海人側の情勢を探っていますから、 この脱出策を把握するのですが、事が漏れたことを察知した 大海人側は、この日、決死の覚悟で、替え馬の用意もない ままに、吉野の離宮を出発。敵側の伊賀越えを敢行して、 伊勢に出、鈴鹿と不破の関を占領して、東海・東山地方の兵を 集め、美濃に本営を設けます。こうした一連の出来事から、 この日6月24日が壬申の乱の始まった日とされています。 大海人の挙兵を知り、大海人を慕う武人の多くは、大海人軍に 馳せ参じます。最後は決断と人望が勝敗を分けたというべき でしょうか。戦いは大海人側の圧勝に終ります。 近江、大和で敗れた大友が、自害して果てたのは、7月23日の ことでした。朝廷と地方の有力者を2つに割った内乱は、 こうして僅か1ヶ月で、大海人(後の天武天皇)側の勝利 に終ったのでした。
2007.06.24
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クロニクル 東北新幹線開業 1982(昭和57)年6月23日 この日、東北新幹線の大宮~盛岡間 466,6kmが開業しました。 同線の着工は1971年11月で,当初の予定 では、着工5年後の76年度内の完成が 見込まれていたのですが、オイルショックの 発生と、大宮以南の住民の騒音と振動公害に 対する強い反対運動にあって、工期は2倍 に伸び、費用は3倍にふくらみました。 この開業により、上野・盛岡間は約4時間と なり、2時間30分程短縮されることに なりました。 なお、上野開業はさらに2年9ヶ月程遅れ、 85年3月のこととなりました。 そういえば、確かに当初は、大宮で乗り換えて いましたね。
2007.06.23
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クロニクル 1ドル=100円を突破 1994(平成6)年6月22日 この日、ニュヨークの外為市場で、 史上初めて1ドルが100円を突破 しました。細川・クリントン会談で 日米貿易摩擦に対する日本側の反応 の鈍さに、いらだった米側が円高 ドル安を容認する姿勢を見せたのが きっかけとなりました。 この後も円高は続き、遂に翌年95年に 1ドル、79円台まで円高が進み、そこで 天井を打って、円安に転じ、やがて100円 台に戻って、今日まで来ています。
2007.06.22
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クロニクル 日本ILOとユネスコに加盟 1951(昭和26)年6月21日 この日、いずれも国際連合の補助機関であるユネスコ (国連教育科学文化機関 United Nations Educational, Scientific and Culural Organization 本部パリ)と、 ILO(国際労働機構 International Labor Organzation 本部 ジュネーヴ)は、相次いで日本の加盟を承認。 ここに日本は、最初の国際社会復帰を果したのでした。 しかし、当時の首相吉田茂が、自ら主席全権を務めた サンフランシスコ講和条約の調印式は、4ヶ月余後の この年11月であり、講和条約の発効は翌年4月28日でした から、この時の日本は、なおGHQによる占領下にあり、 非独立国が加盟を認められた点で、疑問の余地が残る決定 でしたが、国内では大いに喜ばれました。当時小学生だった 私達にも、ユネスコ(UNESKO)の名は、国際赤十字の 名と共に、大切な国際機関として印象づけられたものです。 ところで、 昨年のクロニクルに既に記したことですが、日本の国連加盟は ソ連との国交回復後の1956(昭和31)年まで待たされることに なりました。国連本体は、なかなか日本の参かを認めなかった のですが、補助機関はいともあっさりと、日本の加盟を承認 したわけですから、まさに国連内での諸機関の独立振りが 眼に浮かびますね。
2007.06.21
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クロニクル 米ソホットライン協定締結 1963(昭和38)年6月20日 この日、米ソ両国は、クレムリンと ホワイトハウスを結ぶ、直通電話( ホット・ライン)回線を設置することで 合意、協定書を結んで、ただちに発表 しました。 前年10月のキューバ危機に際して、あわや 3回目の世界戦争勃発かと、大いに心胆を 冷やしたのですが、米ソ両首脳は、相互の 話し合いを密にする必要を感じ,直通電話の 設置を相互に了承したのでした。 ここに、東西両陣営の緊張緩和策が日の目を 見ることになり、キューバ危機の教訓が、 大きく生かされたと言えましょうか。 誰もがホットした瞬間でした。
2007.06.20
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クロニクル 19日の日記 1960(昭和35)年6月19日 5月19日深夜に、自民党の強行採決によって 衆院を通過した改訂版安保条約は、この日 午前零時をまわったところで、自然承認されました。 それは憲法の規定で、予算案と外交条約については、 衆院の議決を参院が否決した場合は、衆院の議決が 議会の決定となること、また参院が衆院の議決後 1ヶ月以内に何の決定もしない場合、衆院の議決通りに 決定したものと見なすことになっているからです。 これに対し、予算審議と条約審議を除く、その他の法案 審議においては、衆・参の議決がことなった場合、衆院は 2/3以上の多数で再可決しない限り、その法案は否決されたと みなされることになっています。参院の審議期間は2か月が 確保され、しかも参院が衆院通過後2か月以内に議決しな かった場合は、法案は否決されたとみなされるのです。 一昨年の小泉首相(当時)が、郵政法案が参院で否決される と、ただちに衆院解散に打ってでたのは、衆院で2/3以上の 多数で可決することの困難を睨んだからのことでした。 安保に戻ります。安保条約は日米2国間の条約であり、外交 案件でしたから、参院の審議期間は1ヶ月、採決がされない 場合は承認と見なす規定が生きてきます。 こうして,この日、33万人を越えるデモ隊が何重にも、国会を 包囲する中、遂に自然承認という事態を迎えたのでした。 4日前の15日、樺美智子さんの死というショッキングな事件を 受け、自民党内にも岸首相のやり口に批判の声が強まる中、 岸首相は安保条約の成立を花道に辞任することを約束、 総理の椅子を差し出すことで、反主流派の了解をとりつけ、 マスコミに退陣表明をすることで、ようやく党内の反対を 抑え、この日の自然承認となったのでした。 この後安保反対派の陣営は、あれだけの盛り上がりを見せた 反対運動を展開しながら、安保改訂を阻止し得なかった事実に、 挫折感を深めます。知識人は「言論は空しいか」といった論陣を はリ、反体制運動はしばらくは沈滞期を迎えるのでした。
2007.06.19
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クロニクル 大森貝塚発見者モース博士来日1877(明治10)年6月18日この日、滞在中に大森貝塚を発見することになる、米国人の動物学者エドワード・モース博士が、助手や学生たちと共に、来日しました。日本の貝類の研究が主目的でした。飛行機のない時代ですから、到着は当然ながら横浜港になります。モース博士は、横浜に滞在中の2日後の20日に文部省顧問で旧知のマレー氏を訪ねるため、横浜から汽車で新橋に向かいます。その途中、汽車は大森海岸を通ります。車窓から日本の風物に見入っていたモースは、白っぽい崖を発見、そこが貝塚であるに違いないと直感したのでした。この日、面会した旧知のマレー氏等からモース博士は、全く予期していなかった東京大学教授への就任を依頼されます。当時の日本の大学には、雇われ外国人が多く、彼等の尽力で西洋の学問を吸収、次第に成長していくのが、一般的でしたから、モース博士もその1人に選ばれたというところでしょうか。博士はしばしの塾考の後、申し出を受諾します。東大教授となれば、文部省の後援を得て、大森での発掘がやりやすくなると考えたことは、大いにありえるだろうと、私は想像しています。博士の東大での初講義は、9月の12日に行なわれ、その4日後16日の日曜日には、はれて学生たちと大森海岸を訪れ、そこが貝塚に間違いないことを確認します。モース博士の報告は,大変なセンセーショナルを呼び、大森海岸の名は一躍全国に知れ渡ります。ここに、日本の考古学がはじめて産声を上げました。新しい学問の誕生です。モース博士は2年後の1879年に東大を退職、米国に帰りますが、それまで精力的に日本各地を調査して歩き、日本の考古学と人類学の揺籃期に大きな足跡を残したのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, June 18, 2007 9:31 AMSubject: 18日の日記
2007.06.18
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ウォーターゲート事件の顛末17日の日記の後日談を少々。民主党の本部に盗聴器を仕掛けた人物を追求すると意外な事実が次々に浮かび上がってきました。同年11月の大統領選挙では、泥沼のヴェトナム戦争から、曲がりなりにも撤退して手を引いた功績から現職のニクソンが再選を果たしたのですが、翌年に入って捜査が進むと、何とニクソン政権の中枢に座る複数の人物が事件への関与を疑われ、次第に大統領自身が、事件のもみ消し工作に関与しているのではないかという疑惑が,膨らんできたのです。73年7月下旬には、事件に絡んで、何と連邦捜査局(FBI)長官代行が辞任、同月30日には、2人の大統領補佐官と司法長官までが辞任、大統領法律顧問の解任にまで発展します。ニューヨークタイムスやワシントンポストを先頭にアメリカのマスコミは、競ってこの事件を報道、執拗に真実の追究を続けました。その結果、次第に大統領自身が事件のもみ消しに関与した事実が、疑いの余地のないものとして浮きあがってくるに至ります。ニクソン政権の支持率は急落し、大統領弾劾裁判への賛否を問う、世論調査では,何と53%もの人々が弾劾支持と答えるに至りました。ここにいたって、ニクソン大統領も辞任を決断せざるをえなくなり、事件発生から2年余の74年8月、任期半ばにして辞任するのやむなきにいたりました。マスコミと世論が大統領を追い詰めた一幕でした。
2007.06.17
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クロニクル ウォーターゲート事件発覚 1972(昭和47)年6月17日 この日、ワシントンの民主党全国委員会 本部に、盗聴器を仕掛けようと侵入した 5人の人物が逮捕されました。 世に名高いウォーターゲート事件は、この 比較的些細な出来事がきっかけとなって、 世界を騒がせた大事件へと広がっていった のでした。
2007.06.17
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クロニクル 新潟地震発生 1964(昭和39)年6月16日 丁度東京オリンピックの年でした。 この日、私は教育実習中で、東京北区の 岩淵中学におりました。お昼は食べ終えて 教員室に戻り、指導の先生と午後の授業の 打合せをしていた時でしたから、12時50分 前後だったと思います。大きな揺れを感じました。 教員室においてあった金魚鉢(当時エアポンプ付の 水槽なんて、見かけたことはありませんでした)の 水がこぼれおちましたから、かなりの揺れでした。 居合せた教生や先生方は,全員大急ぎで教室へ 行き、生徒の無事を確認したのですが、なるほど こんな時は、こう動くのかと良い勉強になりました。 夕方になって、震源は新潟で、新潟市内に大きな 被害が出ていることが分かりました。 ここから後日談です。 この頃、ゼミの合宿を毎年新潟県の阿賀野川沿いの 津川の町に近い、麒麟山温泉というところで実施 していましたし、別のゼミでしたが、親しい友人が 新潟市内に住んでいて、見せたいところがあるから、 合宿の帰路、新潟に寄れということでした。 着いてみてビックリです。当時駅前に大型の ホテルが出来ていたのですが、そのホテルが見るも 無惨な姿をさらしていたのです。横長のホテルでしたが、 中央部が2階部分まで地下に陥没して、両サイドは逆に 浮きあがるように変形していました。 信濃川にかかる橋のうち、古い橋はビクともしていなかった のに、国体用に前年に完成したばかりの新しい橋は 完全に倒壊していたのです。国体のメーンスタジアムしかり です。 国体がいかに、地方ゼネコンの儲け仕事であったのか、 おそらく政治家にも相応の金額を贈って、儲けを分け合って いたのでしょうが、国体翌年の大地震は想定外だったの でしょうね。 ゼネコンと政治家の癒着の決定的証拠 がここにあるんだと、その友人は力説していましたが、 確かに良いものを見せてもらいました。 あの印象は強烈で、今でも鮮明に脳裏に浮かびます。
2007.06.16
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クロニクル 樺美智子さん死す 1960(昭和35)年6月15日 5月19日に、前代未聞の強行採決によって 衆院を通過した改訂安保条約の批准を巡る 問題は、衆議院に警官隊を導入して、その 警官隊の力で野党議員(社会・共産両党の 議員、当時は民社党も公明党も存在しません でしたし、共産党も3議席程度の小党でしたから、 ほとんど社会党議員を排除するためでした)が 議場に入場するのを阻止して採決したことが テレビや新聞で報じられると、国民各層の 強い反発を招きました。その結果、新安保条約 反対、衆院に差し戻して再審議せよと要求する 声は日増しに高まり、日々デモ隊は国会を 取り囲むようになりました。 強行採決の主として国民に評判の悪い岸首相は、 ハガチー事件以後は、国会から外へ出ることも 出来ず、国会内に篭城せざるをえない状況に 追い込まれていました。 しかし、一般の法は、参院の審議期間は2ヶ月 が保証されているのですが、予算と条約の批准 については、1ヶ月しか認められていないのです。 そのため、何事もなく6月19日になってしまえば、 その日の24時を回れば、新安保条約は自然承認 されたことになってしまうのです。 この遺された時間を意識するがゆえに、安保反対 闘争は、大きな山場を迎えていました。 そうして巡ってきたのが、6月15日でした。この日 安保改訂阻止国民会議は、全国で第二次実力行使に 訴えたのです。労働者はストを打ち、学生は授業を ボイコットして、デモの隊列に加わりました。 全国で580万人が参加した空前絶後の規模でしたが、 若い学生たちは、ただのデモで安保改訂阻止は勝ち 取れないとばかりに、実力行動に訴えたのです。 こうして全学連主流派による国会突入が計画された のです。ここに突入を図る学生と警官隊が衝突し、 デモに参加していた東大生樺美智子さんが、命を 落したのでした。樺さんの遺体は家族の希望で 解剖にふされ、警官隊によって首を締められ、倒れた ところを、踏みつけられて死亡に至った事実が解明 されます。眼のひどい欝血が首を締められたことを 示し、ひどい膵臓出血が上から強く踏みつけられた ことを証明したのです。 ラジオ関東の実況放送が「警官隊によって、今首を 掴まれております。…いま実況放送中でありますが、 今警官隊が,私の頭を殴りました…」とナマナマしい 事実を報じたこともあって、樺さんの死は、さらに 安保反対の声を高めたのでした。 翌日16日から、連日続いた学生の抗議行動には、各大学 とも空前の参加者が集まり、それまで、8000人程度 だった学生デモの参加者は、一挙に5万人を超える に至ったのです。 樺さんの死は午後7時過ぎだったのでしょうか、当時 高校3年だった私は、丁度修学旅行先の別府の宿で、 夜間の外出から戻ったところで、このニュースを ロビーのテレビで知ったのでした。 さすがに皆興奮して、深夜まであれこれと、日頃はまず しなかった政治談義を交わしたことを覚えています。
2007.06.15
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クロニクル 南北共同宣言発表 2000(平成12)年6月14日 前日13日に、大韓民国(略称 韓国)の元首として、 初めての朝鮮民主主義人民共和国(略称 北朝鮮) 訪問を果した金大中大統領は、金正日朝鮮労働党 総書記(北朝鮮の元首)と勢力的にトップ会談を 行ない、この日南北統一問題の自主解決などを 盛り込んだ「南北共同宣言」に調印、両首脳が 揃って、にこやかな共同発表が行なわれました。 1950年~53年にかけて行なわれた朝鮮戦争は、 休戦協定が結ばれたままであり、形式的には 現在も両国は戦争状態のままでありました。 従って、両首脳による南北共同宣言の発表は、 抗戦状態が形式的に継続している両国の間で、 今後は南北対話を継続しながら、統一問題は 話し合いで解決してゆくことを、表明したもの でした。この功績を認められ、金大中大統領は、 10月、ノーベル平和賞を賦与されたのでした。
2007.06.14
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クロニクル 金融ビッグバン最終答申出る 1997(平成9)年6月13日 この日、証券取引審議会・金融制度調査会・ 保険審議会は、金融制度の抜本的改革、「 日本版金融ビッグバン」を最終答申しました。 日本版金融ビッグバンの口火を切ったのは、 当時の橋本首相の諮問機関だった経済審議会の 行動計画委員会ワーキンググループでした。 同グループは「2000年3月までに、金融の規制 を撤廃し、利用者本意の金融システム」を作る ことを提言したのです。 幅広い競争を実現する、資産取引を自由化する、 規制・監督体制を見直すの3点の目標も示されました。 橋本首相は、この提言を受け、銀行・証券・保険の 相互参入の促進や、株式売買手数料の自由化など、 金融分野全般にわたる規制緩和策を、2001年までに 実施するよう指示したのでした。 この日の答申は、この首相支持を受けてのものでした。 だが、この支持と答申には、次ぎのような限界がありました。 第一に、不良債権処理の仕組みが明示されていないこと、 第二に、肥大化する公的金融や財政投融資は蚊帳の外に おかれていること、 第三に、税制の問題が棚上げされていること、です。 果せるかな、多額の不良債権を抱えた金融機関の破綻が 相次ぎ、日本版ビッグバンは、多難な船出を迎え、最終的に 実現する時期は少し遅れますが、 現在では、不十分ながら郵政の民営化も走りだし、政府系 金融の整理も一応進行し、財政投融資も整理されました。 なお、NYやロンドンの市場には見劣りがしますが、 答申から,ちょうど10年の節目で見ると、変化はゆっくり しか進まない日本にしては、まずまずのペースで進んで いるように思えます。やはりバブルの崩壊と、どうしようもない 財政の窮状が政治家や官僚、そして金融関係者の背中を 押し続けた成果なのかもしれません。
2007.06.13
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クロニクル 教科書訴訟始まる 1965(昭和40)年6月12日 この日、家永三郎東京教育大学教授は ご自身の執筆された高等学校日本史の 教科書『新日本史』が、検定不合格と なったことに対し、国及び文部省を相手 として、損害賠償と不合格処分の取り消し を求めて提訴しました。 いわゆる教科書裁判はここに始まりました。 氏の論旨は、教科書の検定が年代や事実の 誤記に対する訂正に留まるなら問題に なるが、学界で市民権を得ている定説や 有力な新説に対する訂正命令になるなら、 教科書検定は事実上の検閲になっており、 それは、「検閲はそれをしてはならい」と 明記している憲法21条違反である、と いうもので、教科書検定違憲論を全面に 出し、裁判所に憲法判断を求めたものでした。 一般に教科書は数名の著者による分担執筆 が行なわれるのですが、三省堂が出版元に なっていた家永教科書だけは、家永教授の 単独執筆であったこと、書店もまた教授の 裁判に訴えるという姿勢に協力的で、著者 以外に、出版社に対しても行なわれる文部 省の指導や要請についても、著者に協力して 裁判資料として提供する旨、応諾していた ことなど、家永教授を後押しする要素も あったことなどが、裁判に踏み切る一助と なったこともありますが、学問的良心と 言論の自由を守ることが、何よりも大切である とする教授の固い信念が、訴訟を起こし、 そして20年を越えるロングラン裁判に 耐え抜く原動力となったことは間違いありません。 検定で訂正しなければ不合格とするされたA意見には 「安保条約で、日本には米軍の基地が置かれることに なった」の部分に対し、「基地ではなく、施設である から、この叙述は間違っている」とか、「太平洋 戦争は、侵略ではない」といった、学界の定説を 真っ向から否定する暴論が含まれていましたから、 裁判には、家永原告側証人として、歴史学界や 憲法学界の錚々たる重鎮が次々法廷に立ったの でした。その豪華なネームバリューがまた法廷が 開かれるたびに、マスコミを賑わしたことも度々 でした。
2007.06.12
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クロニクル 日本列島改造論発表 1972(昭和 47)年6月11日 この日、田中角栄通産大臣が、持論の 日本列島改造論をまとめて発表しました。 沖縄返還を花道に総理・総裁の辞任を 表明していた佐藤栄作首相の後継総裁 を決める総裁選へ望む、角栄流の事実上の 政策発表でもありました。 この公約を引っさげて、田中角栄は7月 5日の総裁選に勝ち、7日に第一次田中 内閣が誕生する運びとなります。
2007.06.11
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クロニクル ハガチー事件 1960(昭和35)年6月10日 60年安保の話しです。ハガチー氏は、 時のアメリカ大統領アイゼンハワー( 愛称アイク)の新聞係秘書でした。その ハガチー氏が、アイゼンハワー大統領の 訪日を控えて、露払い役として、この日 来日したのです。 我々、60年安保世代には有名な話です。 現安倍総理の母方の祖父に当る岸信介首相は、 サンフランシスコ講和条約と同時に締結された 日米安保が、米軍と米国が片務的に日本防衛の 任を負う内容だった事を改め、極東の範囲内に おいて、駐留米軍が攻撃された場合、日本の 自衛隊が米軍と共に、共同で防衛の任に当るという 双務契約に書き換えた安保改定案を米国と 結んだのでした。新安保条約、60年安保です。 この改訂に対し、国内では日本が戦争に巻き込まれる 危険性が強まるとか、極東(far East)とは一体どこ までなのかが曖昧なままでは困る。範囲を限定せずに いては、なし崩しに範囲が拡大し、東南アジアにまで 広がってしまうことも考えられるなどと、強い反対論が 唱えられておりました。 衆議院での白熱した議論の模様は、当時普及期に入って いた白黒テレビや新聞、雑誌で連日のように報道されて いました。通常国会の会期も迫ってきます。今と違って 強行採決などタブーの時代だったのですが、自民・社会 両党の激突(公明党も民社党もなく、2党意外には共産党 が僅かな議席を持つだけでした。)の中で、自民党は 5月19日未明、遂に新安保条約の強行採決に踏み切ったの でした。これが中立系の人々をも反対運動の環に押しやり ました。民主主義とりわけ議会制民主主義は、議論を尽す ことで、少数意見をも尊重するものだと考えた大勢の国民が、 この日以降、安保反対の陣営に積極的に参加したのでした。 強行採決に民主主義の危機を感じとったのです。「安保反対」 に「民主主義を守れ」のスローガンが加わったのです。 国鉄労働者の時限スト(朝9時までとか、正午までが多かった ように記憶します。多少不確かですが)には、出勤に遅れる 会社員たちから、「頑張れよ」の声が数多く寄せられたのも この頃です。 米国大統領のアイクは、新安保条約の調印後、この新安保の成立 を待って、歴代米国大統領として初めての、そして15年前まで、 激しく戦った国の大統領としても初めての訪日を実現して、2期 8年の任期を間もなく終えるに当っての花道にしようと考えていた ようです。ところが日本側の様子がおかしい。大使館情報では、 大統領訪日を歓迎する雰囲気など日本側には無いという。下手に 訪日して傷を負う愚は避けたい。こうした思いが19日に予定され ていたアイク訪日をおよそ10日後に控えた時点での、ハガチー新聞 係秘書のお忍びでの訪日となったのでした。 しかし、この情報が事前に漏れ、羽田空港周辺は、ハガチー帰れ のシュプレヒコールに埋め尽くされ、空港周辺の道路はデモ隊で 埋め尽され、通行困難の状況になっていたのです。 午後3時過ぎ、都心に向かおうと羽田空港を出発した車は、一歩 空港外に出た途端に、立往生してしまい、全く身動きできなく なってしまったのです。 身の危険を感じたハガチーは、空港に引き返し、米軍立川基地 に救援ヘリの来援を要請、ヘリで立川基地に降り立ち、そこに 一泊することになったのです。 翌日に延期された日本政府要人との会談は、結局実現できない まま、彼は翌11日、米軍機で帰国する破目になりました。 その翌日、岸内閣は「警備に万全を期す自信が持てないから…」 として、アイク訪日を日本側から辞退することになるのです。 米国大統領に恥をかかせるわけにはいかない以上、やむをえな かったのでしょうが、岸首相はさぞ、悔しかったでしょうね。 でも、当時の日本人の多くにとって、ハガチーが実質的に 日本の土を踏んだと言えない状態で、ホウホウのテイで逃げ 帰らざるを得なかったことに、してやったりと快哉を叫んだ のでした。高校3年生だった私もその中の1人でした。
2007.06.10
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さて、早暁に書いたか国書受理の顛末と後日談です。 実は3日にペリー指揮下の4艘の艦隊が 浦賀水道に姿を現した翌日、浦賀奉行所の 2人の与力が代表として旗艦サスケハナ号を 訪問、長崎でなら国書を受理すると申し出 ました。 米側は、それを不満として納得せず、受理 しないのなら、武力上陸も辞さないと強硬 な姿勢を示しました。2人は再度相談すると して引き上げざるを得ませんでした。 米側は、さらに威嚇姿勢をエスカレートさせ、 ミシシッピー号を江戸湾深く品川沖まで遠征 させ、悠々と航行させるデモンストレーション を行ない、黒船の威容を見せ付けたのでした。 驚いた幕府は夜を徹しての会合を続け、ともかく この日、国書を受け取る結論を出し、この日の 受領となったのでした。 ペリーは国書を渡すことで、任務完了とばかり、 来春、返書を受け取りに、さらに多くの艦隊で やってくるであろうと釘を指して、錨を上げた 4艘の艦隊は、その後3日間江戸湾で示威航行 を続けた上で、12日に帰国の途につきました。 さて、幕府は諸藩、諸大名に米大統領の国書を 示して意見を求め、その中で幕臣や諸藩の家臣 にも意見の申し出を求めました。 この求めに応じた意見書の中で、唯一光って いたのが、幕臣勝海舟の海防意見でした。 勝は、この中で積極的な開国論を展開し、 大船を建造して、進んで貿易を行ない、その 利益で武備を整えることを建言、さらに幕府、 諸藩を問わず、門閥に捕らわれない人材の登用、 兵制の改革、和漢洋の実学の振興を主張したの です。黒船襲来の当初に、積極的な開国論を 文章で展開したのは、彼1人でした。 勝の意見書は、後に老中阿部正弘によって、 具現化され、日の目を見ることになります。
2007.06.09
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クロニクル 幕府米国大統領の国書受理 1853(嘉永6)年6月9日 今月3日の日記の続編です。 アメリカ東インド艦隊司令官ペリー提督を 団長とした米国艦隊は、大統領国書の受け取りを 幕府に迫り、砲艦外交の脅威を受けた幕府は、 この日浦賀奉行を全権として、久里浜にて米国 大統領フィルモアの国書を受理したのでした。 受理に至るいきさつ、受理後の出来事については、 9日の夜に書かせていただきます。
2007.06.09
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クロニクル 大教大附属池田小、児童8人刺殺 2001(平成13)年6月8日 これは、今でも思い出すたびに怒りでこぶしが 震える事件です。この日大阪教育大学の附属 池田小学校に男が乱入、持っていた包丁で、児童 8人を刺殺するという、目を覆いたくなるような 惨劇を惹起しました。 いかにむしゃくしゃしようと、将来を担う子ども達 の集団、保育園・幼稚園・小学校や中学校は狙わない というのが、それまでの暗黙のルールだったと、私は 理解しております。 どこで、どう狂ったのか、犯人はその禁を破り、パンドラ の箱を開けてしまったのです。日本人の規範意識はここまで 欠けてしまったのか、今後はもっとひどい事が起こるかも しれないと思ったものでした。 不幸な予感は不吉にも当ってしまったようで、最近に 至るも、暗然とせざるをえないような事件が多いですね。 さてどうしたものか、力及ばず、考えあぐねています。 どなたか良いお知恵はありませんか。
2007.06.08
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クロニクル 日本勧業銀行の設立認可 1897(明治30)年6月7日 この日、政府は申請書類の提出されていた、 株式会社形態の日本勧業銀行の設立を認可し、 開業免許を付与しました。この結果、同行は 8月2日に営業を開始しました。 この日本勧業銀行は、戦後財閥系の第一銀行と 合併し、第一勧業銀行となり、バブル崩壊後の 不良債権処理の重荷から、さらに富士銀行、 日本興業銀行と3行で合併を決議、 現在はみずほフィナンシャルグループとなって います。
2007.06.07
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クロニクル 資本取引の自由化決定 1967(昭和42)年6月6日 奇しくも昨日の日記に記した第3次中東戦争 が勃発した翌日のことです。 この日、政府は外国企業に依る日本国内での 子会社や合弁会社の設立、株式の取得などの 資本取引を自由化するという、基本方針を閣議 決定しました。 この日の決定に基づき、30日には関連法を改正、 翌7月1日には施行する手回しの良さでした。 おそらく米国政府から相当強い圧力がかかっていた であろうことが予測されます。 ところで、自由化の内容は、ラジオ、テレビなど 競争力の強い33業種については、100%の自由化、 普通鋼や自動車など17の業界については50%までの 外資の出資を認めるというものでした、 為替や貿易制限の撤廃に続く、資本取引の自由化で 日本もここに開放経済の体制に大きく舵を切ったの でした。 それでもこのニュースに、マスコミは戦々恐々として 日本の自動車産業は米国のビッグスリーに、すぐにでも 飲み込まれてしまうだろうといった国民の不安心理を 掻き立てるような記事を流し続けたものでした。今では 信じられないでしょうが、国民の多くがマスコミに同調して 頑張れトヨタ、フレフレ日産と、自動車業界にエールを 送っておりました。かくいう私もその1人でした。 今の自動車業界の様子を見ると、隔世の感があります。
2007.06.06
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クロニクル 第3次中東戦争始まる 1967(昭和42)年6月5日 この日、午前8時45分、イスラエル空軍が エジプト空軍の全ての基地を奇襲、滑走路を 破壊し、空軍機を破壊し尽くしました。 素早い隠密行動にあって、エジプト空軍機は 一機も応戦に飛び立つことも出来ないままに、 なすすべなくイスラエル軍機の攻撃に晒されたの でした。 遮るもののない地域では、制空権を握った側が 大勝するのは自然なことです。 僅か6日間の間に、イスラエルはエジプト領 シナイ半島に、エジプトが実効支配していたガザを、 東エルサレムを含むヨルダン領のヨルダン川西岸地域、 シリア領ゴラン高原を占領することに成功します。 まさにイスラエルの大勝利でした。 エジプトの指導者ナセルは、自慢の空軍が一戦も交えずに なすすべもなく、敗れ去ったことにショックを受け、 一時は辞意を表明するほどに落ち込んだのですが、 アラブの危機とパレスチナ難民問題の深刻さを認めて 翻意する一幕もありました。 しかし、この戦争は大量のパレスティナ難民を生み ます。この時難民となった人達は、先祖伝来の地を イスラエルに奪われて難民となり、以来現在まで、自分の 郷里と土地に帰ることも出来ずに、難民として の生活を送っています。そうした彼等、彼女等が苦心の 末に築き上げたのがパレスティナ解放機構(PLO) だったのです。 その後、イスラエルは、国連決議で、第3次中東戦争での 占領地の一切を関係各国に返還するよう命じられながらも それを無視し続け、僅かにイスラエルとの関係を改善した エジプトにシナイ半島を返還したのみで、今日まで占領 地域に居座り続けているのです。 これでは、中東地域に平和が訪れるわけがありません。 中東地域は、もうしばらくきなくさい状態が続きそう です。
2007.06.05
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クロニクル 第2次天安門事件 1989(平成元)年6月4日 中国では4月15日の胡前綜書記の死を きっかけに民主化運動が高まり、同氏を 惜しむデモが各地で起こる中で、次第に 政治改革を求める声が強まっていました。 しかし、共産党中央の指導を是とする国是 のため、中国政府は、学生らによる民主化 要求を、反革命暴乱と決めつけて戒厳令を 布告、6月3日夜には、戒厳部隊が北京市 中央に進出したのです。そしてこの日未明 天安門広場を占拠してハンスト決行中の 学生・市民を装甲車や戦車を使って排除、 広場を制圧したのでした。 この模様は、緊張の高まり始めた数日前から 世界各国のマスコミが報道、中国当局も外国 マスコミを特に排除せず、開かれた中国像を 演出しようと務めたので、テレビを通じて 世界各地で報道され、時々刻々民衆弾圧の 模様が世界に報じられたのでした。 市民・学生の死者は正確には不明ですが、 1,000名~2,000名の間とされています。 ところで、この時天安門広場に座り込み、 広場を埋め尽くした学生や市民の必死の 表情と、民主化のために命を賭けて悔いなし とする思いつめた表情は、80年代後半の 日本の学生や若者には見られなくなっていた、 全共闘運動や成田空港反対運動に情熱を傾けた 若者達が持っていた目付き、必死さと同質の ものでした。懐かしいものを見せて「もらったと、 当時日本でテレビを見ていた我々は、天安門に 応援には往けないがと、以来中国の若者に対し、 好意的な見方をするようになったものでした。
2007.06.04
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クロニクル 黒船襲来その2 1853(嘉永6)年6月3日 昨夜は2時からメンテナンスだったため、 尻切れトンボのブログで失礼しました。 以下、続きを記します。 4艘の黒船と言われますが、やってきたのは アメリカの東インド艦隊所属の蒸気船2艘と 帆船2艘。2艘の蒸気船も燃料節約のため、風が あれば帆を張るのですが、この日は帆を全て丸めて 黒煙をあげて蒸気力のみで航行、2艘の帆船は 帆を張って後を追っていました。 黒船現るの報が浦賀奉行所に届くと,直ちに厳戒体制が 取られ、沿岸警備の川越・彦根・会津・忍の4藩は 御用船に漁船を動員して、4艘の艦隊を取り巻きました。 やがて奉行所の役人がオランダ語の通訳(当時は通詞)と 共に旗艦のサスケハナ号に乗り込み、長崎への回航を 求めますが、拒絶されます(米側の対応はペリーの副官 コンティ大尉でした)。大尉は将軍に宛てた当時の大統領 フィルモアの親書の受け取りと上奏を迫り、受け取らなければ 砲撃も辞さずと脅迫まがいの言動に及びましたが、今度は 奉行所の代表が権限外と拒否、緊迫した初日の交渉は物別れ に終ったのでした。 湾岸では夜を徹して松明が灯され、厳重な警備が行なわれ ましたが、夜9時にサスケハナ号が時報を鳴らすと、1時 騒然となり、松明も全て消される一幕もありました。 蒸気船なるものを始めてみた恐怖心が良く分かる一幕です。 ところで、黒船襲来の噂は、瞬く間に全国に及び、異常な ほどに多数の瓦版が発行されました。そのうちの一部は現存 しているのですが、中には多色刷りのものもあります。 川柳や狂歌も多数作られました。 幕府は禁令を発したのですが、多くの武士や町人が見物に 訪れ、中には小舟を用意し、見物客を乗せて料金を稼ぐ ちゃっかり者も出たようです。 続きは9日の日記に書きます。
2007.06.03
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クロニクル 黒船来航 1853(嘉永6)年6月3日 154年前のきょうになります。 この日の江戸や三浦半島は、 前夜からの土砂降りの雨が上がった ものの、なお黒雲がたれこめ、蒸し暑く 視界は悪かったと記録されています。 こうした日の浦賀水道に黒船が姿を 現したのは、午後5時頃と記録されて います。伊豆沖に現れた正午過ぎには、 騒ぎになっていたようですが、この後の ことは、夕方また記します。
2007.06.03
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クロニクル 本能寺の変 1582(天正10)年6月2日 今日のこの日は、史上に名高い本能寺 の変を取り上げました。 春に甲斐の武田氏を滅ぼし、日本統一の 可能性を着実に進めた信長は、中国地方 の平定を進め、備中松山城を包囲した 羽柴秀吉の要請を入れ、備中出陣のため、 京都本能寺に滞在していました。 丹波亀山で、備中への出陣を準備していた 明智光秀は、前日の午後6時頃、およそ 13,000人と言われる兵を率いて京へ向い、 この日未明から、本能寺の信長勢を攻撃、 家臣のクーデタを受けた信長は、多勢に無勢 の状況を把握すると、自害して果てました。 世に名高い、本能寺の変です。時に信長49歳。 桶狭間の戦いに際して「人間50年…」と吟じ ながら舞った通りの50歳に近い生涯でした。 昨今、この本能寺の変については、様々な解釈が 加えられていますが、部下が裏切りを決意したならば、 少数の兵での行動を厭わなかった信長を襲撃する チャンスは容易に掴み得たことから、光秀も天下を 狙って行動を起こしたという解釈で、良いように 思います。 見事に成功したクーデタの例としては、大化の改新の 蘇我一族の誅殺と双璧をなすと,私は考えています。 もう少し長生きしたなら、どんな国造りをしたのかが、 楽しみに思える、日本史上の英傑の残念な死ですが、 歴史にも「たら、れば」は残念ながらありませんね。
2007.06.02
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クロニクル 日比谷公園オープン 1903(明治36)年6月1日 104年前のこの日、午前11時より日比谷公園の 開園式が午前11時から行なわれました。 公園建設計画は4年前に本格化したのですが、 設計案がなかなか具体化せず、ようやくにして この日開園に漕ぎつけたのでした。公園は 本邦初の洋式公園として、ドイツ形式を模した 公園となりました。広い道路と西洋花壇を配し アーク灯やガス灯など夜間照明を整備したモダンな 設計が、人気を博したと当時の新聞は書いています。 翌年には、公園中央に洋風喫茶店の松本楼がオープン、 翌々1905(明治38)年には野外音楽堂が竣工、さらに 1908(明治41)年には日比谷図書館が開館し、 市民の文化センターとしての機能も果すように なってゆきます。
2007.06.01
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