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フランス革命(82) 総裁政府の誕生テルミドールのクーデタ後も存続した国民公会はいつまで続いたのかと言いますと、95年の10月、共和暦で言うと第4年のヴァンデミエール(葡萄月)の中旬までです。92年9月の発足でしたから、議院のかなりの部分を追放や処刑によって欠きながらも、3年と少々の間、存続したことになります。この間、テルミドール派の路線が民衆運動の弾圧に力点を置く、ブルジョワ的自由主義の下での経済活動の自由確立に傾斜しましたから、絶対王政派はともかくとして、立憲王政を考えるグループには追い風でした。亡命していたフィーヤン派の残党も彼等に協力します。議会の保守化を王党派はチャンスと捉えたのでした。国民公会は、凍結されている93年憲法に替わる新憲法の制定を急ぎました。革命政府を解体したのに、憲法の効力を停止したままというのは、本来筋が通らないからです。革命政府宣言そのものが、憲法の執行を停止すらために出されたのですから、尚更です。しかし、民衆への譲歩を相当程度盛り込んでいる93年憲法を、劇的に情況が変わった95年に適用する気は、テルミドール派公会にはありませんでした。こうして制定を急いだ新憲法は、95年8月に成立しました。95年憲法と呼ばれています。共和政か立憲君主政かが違うだけで、91年の憲法に良く似た内容の憲法でした。目玉は制限選挙制と所有権の不可侵性の復活だったからです。そして、テルミドール派がもう一つ拘ったことは、革命独裁の復活を何としても避けることでした。恐怖政治下の恐怖に満ちた日々が、まだ鮮明に残っていたからです。そこで彼等が拘ったのが、徹底した権力の分散でした。その結果誕生したのが、5人の総裁が交代で1ヶ月づつ行政の長を務めるという制度と(ここから、この時期の政治体制は総裁政府と呼ばれるのです)、議員の毎年の部分的改選です。この制度は、平和で大きな問題は何もないような平穏無事な時期には相応しいかも知れませんが、ひとたび危機的情況が発生すれば、機能不全に陥り、政権を不安定にする原因になります。総裁政府は、まさにこの落とし穴に嵌まっていくのですが、それは後日にします。もう1点、テルミドール派は姑息で汚い手を打ちました。さすがに彼等も3年の経験で鍛えられていますから、自分たちに国民の支持のないことは、自覚できたのです。しかし、議員の椅子は手放したくない。そこで彼等は、お手盛りで悪名高い「3分の2法」という法律を制定したのです。新議員の3分の2は、現議員から選ばなければならないというのです。選挙での勝利を期待しれいた立憲王政派中心の王党派は、大いに憤慨し、パリ中心部で反乱に立ちあがりました。ブルボン家の幽霊が登場したのです。これは一大事件でした。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, September 30, 2007 10:24 AMSubject: 30日の日記
2007.09.30
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バブルを考える(2) 日債銀の不良債権隠し1998年12月に、債務超過を宣告され、一時国有化された日本債権信用銀行が、どのような手口で不良債権隠しをしていたのか。その一端を記します。ダイア建設との癒着としか、言いようのない過剰融資と、それを正常債権と思わせるペーパーカンパニーを使った不良債権隠しの手口です。マンション建設の準大手、ダイア建設が横浜市内に立てたワンルームマンションがありました。52室中、22室が売れたとダイア建設の担当者は語っていましたが、その言を信じたとしても、残りの30室は売れ残りです。ところがダイア建設の帳簿によれば、このマンションは完売、1億円以上の利益をあげたことになっていました。人の住まない残りの30室は、竣工間もない時期(92年頃)に日債銀のペーパー子会社、フェニスタが7億4千万円で買い上げてくれていたのです。この30室の96年3月末時点の時価は2億2千万円しかありませんでしたから、フェニスタは5億円以上の含み損を抱えたことになります。そしてフェニスタは、このマンションのみでなく、92年の段階で23もの物件を、同じようにダイア建設から買い上げていました。購入価格の合計は111億2千万円、時価は46億6千万円でしたから、諸費用を考慮に入れないとしても、65億円近い含み損を抱えていました。値下がり確実な物件を、相場よりも高く買いとってダイア建設を儲けさせ、子会社に損を抱えさせる取引を日債銀は、自ら行なっていたのです。フェニスタの4人の役員の内、社長を含む3人が日債銀の出身者で、登記簿の住所には、会社の看板もなかったのですから、実態は完全な幽霊会社です。そして驚くことに、ダイア建設からマンションを買い取り続けていた幽霊カンパニーを、日債銀は他に2つも抱えていました。3社合計で、計66件もの物件を買い上げ、諸費用を含めると376億5千万円近くを支払っていました。時価は137億3千万円程度でしたから、3社は240億円に近い損失を抱えていたのです。そして3社は合計で385億5千万円を日債銀から借り入れていました。この状態で3社が、日債銀に金利を支払うことは不可能です。それなのに、3社は帳簿上では、キチンキチンと7%の金利を支払い続けていました。いわゆる日債銀による追い貸しです。それもかなり手がこんでいました。3社へ、買い上げてもらったマンションの賃貸料名目で、ダイア建設系のリース会社から、金利相当分が支払われ続けていたのです。そしてそのダイア系のリース会社に資金を融資していたのは、またしても日債銀だったのです。このように、常軌を逸したとしか思えない無茶なやり方で、日債銀は、なぜダイア建設支援にそこまでのめり込んだのか。ダイア建設が資金繰りに行き詰まれば、同社に貸し込んでいる融資が全て不良債権化する。それを避けたいと考えたのでしょうか。 巧妙な手口で、不良債権の顕在化を隠し続けた姿がそこにはありました。そしてダイア建設に対する過剰な融資は、マスコミ人の努力で実態が暴かれた一つの例にすぎません。日債銀の融資先、支援先企業のいくつもが、同じような不公正な形での支援を受け続けていたのです。そのツケがまわったのが、98年12月の日債銀の破綻だったと言えましょう 続く
2007.09.30
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クロニクル 日大全共闘の徹夜団交1968(昭和43)年9月30日この日、両国の日大講堂で、日大全共闘系の学生ら約1万人を集めての全額集会が開かれました。周辺には支援の学生2万5千人、これを妨害しようとする体育会系学生を中心とした800人が集合して異様な空気が漲っていました。国税庁による使徒不明金20億円の摘発に端を発した日大闘争は、やがて広範な学内民主化闘争の様相を強め、5月23日には、同大学で始めてのデモが行なわれ、4日後の27日、各学部から7千人が参加して、全学共闘会議(委員長 秋田明大(あけひろ))が結成されたのです。日大全共闘は、大学当局との大衆団交を要求して、次々にバリケードで教室等を占拠しながら無期限のストライキに(バリケードに篭ったストライキでしたから、学生用語で、バリストと呼ばれました)突入しました。当局は体育会系学生を使って殴り込みをかけ、さらには再三にわたって機動隊の出動を要請し、学生には多くの怪我人が出る始末となりました。さて、30日に戻ると、3時頃古田会頭が姿を見せると、場内は騒然となり「集会の自由を認めよ」というシュプレヒコールが、沸き起こりました。この集会は翌日午前3時まで、12時間に渡る徹夜団交となり、古田会頭は,これまでの当局の対応を全面的に謝罪し、学生の自治権の確立や体育会の解散などを約束しました。しかし、当局は10月3日になると、学生との約束を一方的に破棄して、秋田議長等学生幹部を当局に告発。秋田議長等には逮捕状が出されるに至ります。当局の裏切りが問題をこじらせ、長期間に渡って、全学ストライキが続けられる結果となったのでした。
2007.09.30
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バブルを考える(1)昨日で住専問題についての、私なりのまとめを書き終えました。住専の問題ほど,考えをまとめておりませんが、90年代初めにはじけた、日本のバブルと、それが金融危機に繋がった姿を、毎日は書けないかも知れませんが、あちこちに話が飛ぶかも知れませんが、綴っていきたいと思います。先ずはバブル期の乱脈融資から記していきます。明日から書きます。またお読みいただき、時に感想などお聞かせいただけると幸いです。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, September 29, 2007 10:25 AMSubject: 29日の日記
2007.09.29
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フランス革命(81) サン・キュロット(=民衆)運動の敗北国民公会のテルミドール派がもう一つ力を入れたことは、民衆運動のさらなる抑圧でした。彼等は、いつ命を失うことになるかもしれない恐怖政治を経験して、精神的にすさんでいたブルジョワの子弟や徴兵を忌避して逃亡生活をしていた政治的には無色の若者を組織して、民衆運動の活動家を襲撃させたり、セクションの集会に殴り込みをかけさせたりして、弾圧の口実を作っていきました。まさに旗本次男・三男らによる無頼の行動や、最近増えつつあるようで眉をひそめている右翼の街宣車を大音量で徘徊させる青年行動隊のような存在を連想すると良いでしょう。11月に入ると、パリで金ピカ青年隊と呼ばれていた、こうした無頼漢達は、連日のようにジャコバンクラブを襲撃します。そして、その攻撃が10日あまりも続いた11月11日、国民公会はついに、周辺の治安と安全を口実にジャコバンクラブの閉鎖を命じました。選挙クラブも消滅の憂き目にあい、セクション総会は、金ピカ組に守られる保守派しか出席出来ない状態に陥りました。左派系の残存公安委員や議員が逮捕され、裁判にかけられたのは、この時期です。コロー・デルボワやビョー・ヴァレンヌらは、意識的に死刑は免れるのですが、アフリカのギニアに流刑となり、1年もしないうちに,免疫のない現地の風土病に苦しみながら死んでゆくことになります。苦しまずにすぐに死ねるギロチンにかけてやる親切心を、テルミドール派の議員達は失っていたようです。さて、94年の冬から翌年の春にかけて、物価騰貴と買い占めによる食糧不足によって、民衆の生活は最悪の時を迎えます。この状況の中で、パリの民衆(ここではサン・キュロットの語を使いましょう)は、4月と5月の2度、最後の蜂起に訴えるに至ります。ジェルミナール(芽月)12日(95年4月1日)に起きた1回目の蜂起は、パリ中央部のセクションのサンキュロット達によるものでした。 彼等は「パンを,パンを」と叫びながら国民公会の議場に参入しましたが、具体的な成果なしに引き上げるしかなく、事後に激しい弾圧が続きました。第2回目の蜂起は、プレリアール(草月)1日と2日(95年5月20~21日)でした。こちらは、中央部に加え東部のサン・タントワーヌ場末町のサン・キュロット達を中心にした、より広範にかつ大規模な蜂起で、「パンと93年憲法の実施を」をスローガンに,一時は国民公会を制圧し、食糧事情の改善と憲法維持の口約束まで取りつけたのですが、翌日3日から到着した正規軍の鎮圧を受け、4日夕刻までに,完全に鎮圧されたのでした。この2度の蜂起の失敗は、残っていた左派系議員の逮捕の口実となり、さらに千名を超えるサン・キュロット活動家が逮捕されたため、パリの民主運動に壊滅的な打撃を与えました。パリに再び大規模な民衆蜂起の渦が戻るには、1830年の七月革命、ドラクロワの名画「民衆を導く自由の女神」で知られる、栄光の3日間まで,待たなければならなかったのです。ここで明かになったことは、従来型の民衆運動の方法は、もはや有効性を持たないとうことでした。議会外の民衆運動の圧力に呼応する有力な議会内左派勢力がもはや存在しないからでした。後に記すバブーフは、この経験から新しい革命理論を引き出すのです。サン・キュロットとは、貴族や大ブルジョワの着用する乗馬ズボン、キュロットを佩かない人を指します。親方や熟練の職人、小店主などの中小ブルジョワや労働者達は、常に作業着・労働着で生活しています。そういう人達が総称としてサン・キュロットと呼ばれたのです。そこからパリの民衆運動は、一時期サン・キュロット運動と呼ばれました。このサン・キュロット運動は95年の4月から5月にかけて、徹底的に弾圧され、一時的には、壊滅したのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, September 29, 2007 10:25 AMSubject: 29日の日記
2007.09.29
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クロニクル 日中国交回復1972(昭和47)年9月29日9月25日から日中の国交回復を目指して、中国を訪問していた田中角栄首相以下の日本側代表団は、この日、周恩来首相以下の中国側代表との間で、日中共同声明に調印、およそ半世紀振りに日本と中国との国交回復を実現しました。「声明」は前文で、日本が過去において中国に与えた重大な「損害」について、「深く反省」し、「戦争状態の終結(不正常な状態の終結)と国交の正常化」を謳い、9項目からなる本文では、1、日本は中華人民共和国政府を、中国における唯一の合法政府として承認する。2、中国は対日賠償請求権を放棄する3、両国は貿易・海運・航空・漁業などの協定締結交渉に合意する。等の内容が盛り込まれました。これに伴い、日本と台湾政府との国交は断絶、民間交流だけが残される形になりました。
2007.09.29
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フランス革命(80) テルミドール反動テルミドールのクーデタ後の政治体制は、一般にテルミドール反動と呼ばれています。しかし、ここでいう反動の意味は,彼等が反革命であることを意味しません。底辺の民衆に配慮した社会立法を次々に廃止していったことを指し、反民衆的といった意味で使われています。テルミドールのクーデタは、国民公会を舞台にして行なわれました。しかし、そこで粛清されたのは、ロベスピエール派だけですから、革命独裁の中心機関だった公安委員会は、まだ残っていました。残った公安委員達は、独裁をロベスピエール派のせいにして、公安委員会と革命政府体制を存続させようと、事件の2日後に公安委員の補充を提案しました。公安委員会の名称は残りましたが、そこで議決されたのは、委員は3人づつ毎月交替させるという、全く別種の、公安委員会の機能を骨抜きにし、革命政府体制を事実上解体させる案でした。やがて、8月に入ると、反革命容疑者として逮捕されながら、運良く革命裁判の順番が回ってくるのを免れた大量の人達が、十把ひとからげに釈放されます。革命裁判所は改組され、公安委員会の権限は縮小されます。そして民衆生活を護持する上で,大きな役割を果たしていた最高価格法も、遂に12月に入ると廃止されました。クーデタで勝利した国民公会の議員達は、共和政の下で、ブルジョワ的自由主義を安定的に確立することを目指し、そのために対外戦争をフランス主導で終らせることを狙っていました。革命の終結には,戦争の勝利が必要だったのです。何故なら、テルミドール派の議員の多くは、国王処刑に賛成した人達だったからです。彼等にとって、革命戦争の敗北は論外でした。そして封建地代の無償廃止を獲得している農民層もまた共通の願いを持っていました。ところが、革命政府体制の解消は、物価の高騰を生んで戦時物資の調達を困難にし、また民衆生活を著しく悪化させて、再び民衆の不満を強めるなど、短期間に戦争遂行能力を弱めて、戦局の悪化を招いてしまったのです。戦争の主導権は遠のいて行きます。ではどうするか。こうして、革命独裁への復帰を考えないとすれば、革命戦争が続く中で、次第に発言力を強めてきた軍部独裁を容認するしかない。こういう状況にテルミドール派は次第に追い込まれてゆくのですが、その点を明日以降見てゆきたいと思います。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, September 28, 2007 10:08 AMSubject: 28日の日記
2007.09.28
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クロニクル 長銀,リップルウッドへ1999年(平成11)年9月28日この日、金融再生委員会は、前年10月に一時国有化していた日本長期信用銀行(略称長銀)を、米国の投資ファンドリップルウッドに譲渡することを、正式に決定しました。リップルウッドは翌年6月、新たに新生銀行と命名して営業を再開、同行を再生した上で株式を公開、保有株の値上りで利益を得ると言う企業再生の手法をとり、新生銀行は2004(平成15)年2月に株式公開に漕ぎつけるなど、短期間で再生を遂げました。長銀は、バブル期の過大な不動産融資のツケで、経営が傾き、債務超過が疑われる状況に陥ってしまうのですが、98年7月30日に誕生した小渕内閣の下で、大蔵省は住友信託銀行に長銀の救済合併を依頼し、8月20日には、首相と蔵相が2人揃って、住信の頭取に直々の要請までしたのですが、長銀の不良債権の実態が明らかにされないままでの合併に、住信は最後までOKを出さず、この構想は日の目を見ることはありませんでした。そして、金融国会と称された与野党の攻防を経て、ようやく10月に入って金融再生法が成立、それから間もなく、長銀は自ら金融再生法に基づく一時国有化を申請、実質的に破綻したのでした。政府は申請を受けて、長銀の全株式を買い取り、公的資金で預金などを払い出すなどして、譲渡可能な姿とした上で、長銀株式の譲渡先を探したのですが、日本企業の応募はなく、僅か10億円という捨て値に近い値段で、前述のリップルウッドが落札しました。住信を始めとする日本の金融界は、自らも不良債権の処理に苦しみ,僅か10億円の出資にすら、手を上げることが出来なかったのです。その限りにおいて、私は、リップルウッドは日本の金融危機の救世主の役割を果たすことによって、ノンリスクで(不良化しそうな債権には、瑕疵担保条項がつけられていました)利益を上げた、有能な投資家集団であったと考えています。
2007.09.28
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ミャンマー情勢のその後昨夜のニュースで、夜陰に乗じて政府軍部隊がいくつかの僧院を破壊し、運動のリーダークラスと政府首脳が考える僧達を大量に逮捕したというニュースが伝えられました。軍政側がイチかバチかの勝負に出たように感じられます。国民の信仰の対象を破壊したこと、若い僧侶達を大量に逮捕・拘禁したこと(報道によって、数字にバラツキがありますから、人数を記すことは控えます)、それもかなり手荒に引っ立てたらしいことなどから、おそらく動員された部隊は、非仏教徒の少数民族の部隊であろうと想像できます。この行動に仏教徒である市民達、そして大切な僧院や仏像・仏具を破壊され,若い僧侶達を襲った軍政の横暴に対し、高僧達がどう出るかが焦点になってきました。他国の革命を見るとき、兵卒達がどう動くかが,革命側が勝利出きるか否かの別れ道になってくることは、はっきりしています。高僧達が動き、直接兵士達に呼びかけ、市民に呼びかけることで、情況は逆転するようにも思えるのですが、果たしてどうなのか。今後の情勢によって判断したいと思っています。
2007.09.28
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住専問題考(11)住専処理策は、国内では悪評ばかりで、猛烈な批判の嵐に晒されたのですが、諸外国からは,実に行為的に受けとめられました。それは見事なコントラストでした。金融不安を放置し、いたずらに日本の経済不振を長引かせ、世界経済の重要なプレーヤーとしての責任を果たそうとしなかった日本が、ようやくにして重い腰を上げたかという、安堵感の現れでした。金融不安の解決には、財政資金の投入も辞さないという、重大決意を間接的に表明したものと、受けとめられたのです。日本国内よりも、世界の経済界の方が、日本の信用不安に敏感になっていたことを、明瞭に示す事実がここにありました。日本経済は、もはや日本だけのものではなくなっており、世界経済の重要な一部を構成していること、世界経済の連鎖の中に位置付けない限り、日本経済の正確な評価は出来ないことが、そこにはっきりと示されたのでした。以上で、住専問題の評論を終えたいと思いますが、後日談をひとつ。住専処理の際に、回収が可能とされた債権は、土壇場で回収不能債権から外された分を含めて、6兆7800億円ありました。この回収を担当するために作られたのが、住宅金融債権管理機構でした。株式会社組織をとりましたが、国策会社で、かなり大きな権限を持ちましたが、三顧の礼で社長に迎えられた弁護士の中坊公平氏ノキャラクターで有名になりました。住管機構は、回収が可能とされた債権6,78兆円を、同額で住専7社から買いうけ、その回収の任に当たりました。中にはほとんど回収不能に近い債権も数多く含まれています。全体の債権には回収不能とされた6,4兆円も含まれていますが、ともかく6,78兆円は回収しないと、住専処理に追加で財政資金を投入することになります。そんな中で社長に就任した中坊氏は、税金を一切使わずに済むように全力をあげると宣言したのです。そして中坊社長以下の、住管機構職員の頑張りによって、住管機構は見事に困難な任務をやり遂げ、追加の財政資金の投入を見ることなく、その困難な任務をやり遂げたのです。これは奇跡に近いことでしたが、日本の金融の仕組みが、かなり腐っていたことを示すエピソードでもありまいた。米国の住宅ローン焦げ付き問題、どうなりますかね。簡単に済む問題でないことは確かですし、金融技術の申し子と言える債権の証券化、所詮不確実なものであるだけに、いつまで小手先の技術で。民間の資金を呼び込み続けられるものかどうか、多少斜に構えながら見守っていこうと考えています。 完----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, September 27, 2007 10:07 AMSubject: 27日の日記
2007.09.27
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ミャンマー情勢に思うこと仏教国ミャンマーについて、詳しい知識はないのですが、ビルマの竪琴という映画に惹かれていた時期もあり、ずっと親近感を持っていました。とはいえ、数日前までは、軍政とアウン・サン・スーチーさんを頂点とする民主化運動との関係について、他国の介入を苦々しく思いながら、外国の支援に頼ろうとする民主運動派の弱さに、これではダメだろうと,冷ややかに見守っていました。というのは、独裁政府との関係をどうするかは、その国の国民の意志次第だと,私は考えるからです。運動が国民的支持基盤を持てば、独裁政府といえども持たないことは、歴史が証明しているからです。最近でもフィリピンのピープルズパワーは、軍の共感を招き、マルコス独裁政府を倒しました。インドネシアのスハルト独裁政権も倒れました。遠くにはフランス革命もロシア革命もあります。インドでもガンジーの非暴力抵抗運動がイギリス帝国主義からの独立を獲得していますし、日本でも明治維新は徳川幕府270年の歴史に幕を降ろしています。打倒独裁政権は、他者に頼らず自らの力で行なうべし、他者に倒してもらった、実力の伴わない政府はどうなるか。今のイラクを見れば一目瞭然です。ところで、そのミャンマー情勢、情報は不足してますが、どうも新しい情勢に入ってきたように思えます。仏教国ミャンマーでは、僧侶が国民の高い尊敬を受けています。その僧侶達が動き出し、運動の先頭に立っています。いまだ国民の尊崇を受ける高僧達は,運動の正面に出てきていませんが、少ない情報を総合すると、若い僧侶達は、高僧達の暗黙の了解を得て、運動を進めているように見えます。そして昨日、軍政は堪えきれなくなって、僧侶達のデモ隊を暴力で鎮圧しました。この光景を脳裡に思い描いた時、私はすぐに、43年前のヴェトナムでの高僧の焼身自殺を思い出しました。記録を確かめると、1963年6月11日とあります。この日サイゴンで、高僧のクァン・ドク上人(73歳)が、サイゴンの中心街で、泣きながら祈りを捧げる民衆の中央で、全身にガソリンをかけて、軍政に対する抗議の焼身自殺を遂げたのです。その日の日本の夕刊各紙の一面中央に、祈りの姿勢のまま、黒コゲになって、横たわったドク師の写真が載せられたことも、鮮明に覚えています。小柄で痩身の方でした。南ヴェトナムのゴ・ジン・ジエム政権が倒れるのは、それから5ヶ月も経たない11月1日のことでした。若い僧侶の血が流れたことで、高僧達も抗議行動に加わるとすれば、43年前の南ヴェトナムのような事態となることも、十分ありうるように思います。しばらく眼が離せませんね。 ---- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, September 27, 2007 10:07 AMSubject: 27日の日記
2007.09.27
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クロニクル 昭和天皇、マッカーサーを訪問1945(昭和20)年9月27日この日午前10時、昭和天皇はGHQ総司令官のマッカーサーを米国大使館に訪ね、35分間の会談を行ないました。この会談で、天皇はマッカーサーが手際良く占領を遂行したことに感謝の意を述べ、マッカーサーは円滑に占領が進んだのは天皇のリーダーシップのおかげと,先ずはエールの交換が行なわれたように報じられました。会談の開始に先立って撮影された写真が、29日に新聞各紙に公開されると、モーニングの正装で訪問した天皇に対し、軽装のマッカーサーの対比に注目が集まり、これが占領というものかと、悲憤慷慨する声が噴出したとも言われています。しかし根本的には、マッカーサーが天皇を訪問するのではなく、天皇の方が足を運ばざるを得なかった事実にこそ、両者の力関係が読み取れました。GHQこそが日本の統治者である現実を、日本国民に最も強く印象付ける方法として、天皇の訪問を劇的に用する、これがマッカーサーの真意でした。余談ですが、まだ天皇=現人神説に捕らえられていた、山崎内務大臣は「天皇の写真を新聞に掲載することは、恐れ多い」と掲載した各紙を、発禁処分にしたのですが、直ちにマッカーサーが介入、GHQ本部は発禁の解除を命令し、前述の写真が無事印刷に付されるという一幕もありました。
2007.09.27
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住専問題考(10)大蔵省と農水省の攻防は、政治の介入、とりわけ自民党の大物たちの介入によって、農水省の圧勝に終りました。しかし、経済の論理を政治介入によって捻じ曲げたことは、後々大きなツケとなって帰ってくることになりました。農協系は農水省の管轄下にありましたが、貯金業務を扱う金融機関ですから、住専への融資のかなりの部分が回収不能となり、経営が揺らいだならば、その時点で預金者保護を掲げて公的資金=税金を投入することは可能でした。そうしなかったのは、農協系の幹部である地方名士の体面を保ち、今後の選挙でも選対幹部を務めてもらう必要がある代議士たちの、選挙対策の面を強く持っていたのです。そのため、預金者保護と無関係な住専の処理に税金を投入するという、経済原則を無視した解決法が出てきたのです。当然ながらこの案は、世論の強い反発を招きました。世論と野党、さらにはマスコミの厳しい追及を受けた政府は、住専処理策を含む予算案を成立させるために、苦し紛れの追加策を発表しながら、「住専を処理することさえ出来れば、金融危機は解決する。今後については、金融危機の解決に公的資金を使う必要は、一切ない」と自信もないのに強調せざるを得なかったのです。ご承知の通り、金融危機の本丸は97~98年にやってきました。あの時、なぜ、拓銀や長銀に公的資金=税金の投入が出来なかったのか。投入出来ていれば、1兆円近い公金を継ぎこんだ長銀を、僅か10億円でリップルウッドに売却する必要など生じなかったのです。あの当時金融収縮に悩み、資金的余裕のなかった日本の大銀行は、いずこも10億円の資金を投入する余裕すらなく、みすみすリップルウッドに大きな儲け話が攫われるのを、指を加えてみているしかなかったのです。それもこれも,住専処理策で、世論とマスコミに徹底的に叩かれた政府・自民党と大蔵官僚が失態に萎縮し、公的資金=税金の投入をタブーとしてしまったからでした。一つのミスが致命傷を呼び寄せてしまったといえましょう。 続く ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, September 26, 2007 10:23 AMSubject: 26日の日記
2007.09.26
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フランス革命(79) テルミドール以後テルミドール9日のクーデタ後の政権は、どのような勢力によって運営されたのでしょうか。国民公会は、開会直後に満場一致で共和政の成立を宣言しています。ですからそこには立憲君主政派は層としては、存在していません。穏健共和派のジロンド派も、その主力が93年6月2日の政変で追放されています。モンターニュ・ジャコバンもその主力を構成したグループの幹部や活動分子が、次々に粛清されてしまっています。ここで、健在なのは、ジロンド派でもモンターニュ・ジャコバン派でない、中間派=平原派の面々です。そうです。テルミドール派公会と呼ばれた、テルミドール9日以後、革命の主導権を握ったのは、この平原派の人々でした。彼等も国王の処刑に賛成した者を数多く含む、革命家達です。彼等は、ロベスピエール派を粛清することで、革命の行き過ぎを糾して、戦時統制経済を解除し、戦勝を背景に講和条約を結び、革命を終結して,ブルジョワ社会の安定を図りたいと考えていました。そう言う意味で、彼等は立派に革命派です。しかし。彼等の状況分析は甘過ぎました。勝利のうちに革命を終らせ、革命の成果を定着させるには、クーデタは時期尚早だったのです。そのことは、次回以降に記しますが、クーデタは,結果として戦時統制の名の下に、部分的に実現されつつあった平等の共和国を、はっきりと闇の中に葬ることになったことだけは、間違いのない事実だったのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, September 26, 2007 10:23 AMSubject: 26日の日記
2007.09.26
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青函連絡船洞爺丸沈没 26日の日記この日。午後6時39分に函館港を出航した青函連絡船洞爺丸は、台風15号の影響による強風に煽られて航行不能に陥り、波に流されて座礁、午後10時26分のSOS信号の発信を最後に転覆しました。洞爺丸には、乗員・乗客1314名が乗船していましたが、同時に遭難した4艘の貨物船を合わせて、1155人の死者、行方不明者を出す大惨事となりました。世界の海難事故史上、タイタニック号の遭難に次ぐ、第2位の大惨事になりました。この日、15号の影響で、津軽海峡は風速40mを超す強風が吹いており、洞爺丸も出航を見合わせていたのですが、午後6時過ぎに天候回復と判断して出航、被害にあったのです。生存者は僅か159人に過ぎませんでした。
2007.09.26
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住専問題考(9) 大蔵省と農水省の合意で、住専処理に公的資金=税金を投入するこ との根拠として、それが「農協系金融機関の救済策であることは明 らかにしない」ことが暗黙の了解事項になっていたため、公金投入 が明らかにされると、案の上世論とマスコミから強い非難の声が上 がりました。ノンバンクで預金者保護の必要のない住専の処理に, 何故税金を投入するのか。それこそ、母体行と貸し手に全損失を負 担させれば良いではないか。ここに国民感情が集約されていまし た。 農協系統の救済と言えば、話の展開は多少は違っていたようにも思 えます。しかし、一切その言葉は使われませんでした。農林族議員 の大物達が睨みを効かせていたからです。農協系救済という話が表 に出れば、農協系の責任を問う議論が生じる。それは何としても避 けたいということでした。 母体行や一般行の責任という言葉は、住専処理に関する政府・与党 の合意事項に何度も出てきます。しかし農協系については,責任の 2文字はどこにもないのです。あるのは農協系の今後という表現だ けでした。 住専処理に税金を投入せざるをえなかった村山内閣は、そうなった 責任を負う形で、96年年初に総辞職し、代わって登場した橋本内閣 が、予算審議を担当したのですが、審議の中で、何故バブルの崩壊 後に、農協系による住専への融資が短期間に急増したのかが、問題 になるのは避けられませんでした。その時の大蔵省の答えは、「住 専は銀行ではないので、管轄外である」の1点張りでした。ここで も農協には触れていないのです。住専の歴代社長のほとんどが、大 蔵OBだったのですから、これは通らない理屈でした。 そこまでして,大蔵省は農協の名前を一切封印したのです。大蔵に とって、まさしく農協は聖域に映っていたのでしょう。 これは日本経済にとっての大きな不幸でした。 続く ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Tuesday, September 25, 2007 10:14 AM Subject: 25日の日記
2007.09.25
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クロニクル 怪人21面相森永も脅迫1984(昭和59)年9月25日半年前の3月にグリコの江崎社長を自宅から拉致し、高額の身代金を要求、その後毒入りのグリコ製品をばら撒くと同社を脅迫していた、怪人21面相を名乗る犯人グループから、この日標的を森永製菓に代えた,新たな脅迫状が在阪のマスコミ各社に送付されました。書状には青酸ソーダが同封されており、森永製菓に1億円を要求したことも記されていました。以後マスコミ各社は、この事件をグリコ・森永事件と呼ぶようになります。事件は犯人グループの1人と思われる人物がコンビニに毒入り菓子を置くところと思われる、店側の防犯ビデオの写真が公開されたり、同じくキツネ目の男の似顔絵が公開されたりしましたが、遂に迷宮入りし、今日まで未解決のままになっています。グリコへの脅迫は10月に入るとエスカレートし、京阪神や中京地区の店に、「毒入り危険」という警告文をつけた森永製菓の菓子7個が置かれるなど、次第にエスカレートし、その後も計18個の菓子が置かれるなど、大騒ぎとなりました。森永製菓の売上げは激減。年末にかけ、社員が総出で、社員直販なので、ここで買う菓子は安全ですと、必死の売上げ作戦を展開するなど、大きな社会問題になりました。脅迫は丸大食品、不二家、ハウス食品にも及びましたが、薬品の売上げが伸び、多角経営の進んだ明治製菓は外されるなど、食品専業で脅迫しやすい企業を狙い撃ちしていること、巧みにマスコミを利用して、消費者の不安を煽っていることなど、相当の悪知恵の持ち主が仲間に加わっていることが、推量できました。
2007.09.25
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クロニクル 西南戦争終了へ1877(明治10)年9月24日この日、郷里鹿児島の城山に篭っていた、西郷隆盛ら旧薩摩藩士を主力とする士族反乱軍は、政府軍の総攻撃を受けて、西郷や桐野利秋らが自刃し、西南戦争は終結を迎えました。熊本城に攻略に失敗した西郷軍は,熊本を撤退して、人吉、都城、宮崎と転戦したのですが、苦戦を続けて、遂に鹿児島に引き返す決定をします。しかし、数と物量に勝る政府軍は先回りして鹿児島市内を抑えており、やくなく西郷軍は9月1日、城下を見下ろす城山に篭り、政府軍と対峙したのです。しかし、兵力400名弱、小銃は僅かに150丁の西郷軍は、8個旅団約5万名の政府軍の攻撃になすすべもなく、この日の総攻撃を迎えたのでした。西郷の自刃により、2月以来、7ヶ月に及んだ西南戦争(近代日本における最大の武力反乱でした)も、遂に終りを告げたのでした。 ここから時代は、武力ではなく言論による反政府運動=自由民権運動に軸足を移していくのです。次回のブログの更新は、25日午後6時頃になる予定です。
2007.09.24
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フランス革命(78) テルミドール9日の夜民衆運動が健在であれば、議会の決定を覆すことは,出来ないことではありません。今までも何度もそういうことがありました。しかし、皮肉なことに、民衆運動はその活力の源をもがれていました。 角を矯めたために、牛は死んでしまったの例えの通りでした。ロベスピエール派逮捕後のことを、やや詳しく見てみましょう。この日、公会によって逮捕されたのは、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、ルバ、それにロベスピエールの弟のオーギュスタンの5人の議員と、議員外の9人を合わせた14人でした。5人の議員は6時頃に、市内の牢獄に分散して送られました。パリの市庁舎では、ロベスピエール派逮捕の報は3時頃に届いたのですが、まずいことに、コミューンの会議が終り、散会したところでした。タイミングが悪かったのですが、国民衛兵司令官のアンリオは、ただちにセクションの国民衛兵に非常召集をかけ、市庁舎前のクレーヴ広場に集めようとしました。しかし、あまりに急な動員だったため,集まりは悪く動員された兵は少数でした。焦ったアンリオは自ら市内を巡って兵を集め、僅かな兵で、まだチュイルリー宮にいたロベスピエールらの救出に向い、逆に逮捕されてしまいます。アンリオ逮捕を知ったコミューンは、今度は集まってきた有力部隊を派遣するのですが、既に逮捕された議員たちは牢獄に移されており、アンリオだけの救出に終ってしまいます。一方でコミューンは、市内の牢獄に「逮捕議員を受け入れてはならぬ」と、通達を出していたため、5人の議員は誰も投獄されることなく、シテ島にある市庁舎の別棟に案内されて待機し、夜11時頃には、市庁舎に集合したのです。時間のロスは目立ちますが、国民衛兵や地区の民衆を動員する時間がなかったわけではありません。一方コミューンの動きを知った国民公会は、夜7時に再開し、こちらもセクションに非常召集をかけました。ことの成行きはセクションの動向一つにかかったのです。コミューン側の召集に応じ、市庁舎前に集まった国民衛兵は、最盛時の7時頃で3千人、砲兵は全市の30部隊の内、17部隊が加わっていました。それが、午前1時頃には300人に減り、1時半には、広場の人影は消えてしまっています。いったいどうしたことなのでしょうか。この夜コミューンの召集に応じ、市庁舎前に集まった国民衛兵は、48セクションの内、16セクションとようやく全体の1/3に過ぎませんでした。それも、セクションの臨時総会の決定が出るまでの間、とりあえずということだったのです。そしてセクションの臨時総会の決定は、内容が判明する39セクションで、公会側についたセクションが35, 躊躇いながらも公会側についたセクションが2, コミューン側即ちロベスペール側についたセクションは,たったの2つに過ぎなかったのです。民衆運動を抑え込んだことで、いかにセクションとロベスピエール派との関係が冷え切っていたかが、読み取れる数字です。自分たちのリーダーを次々に奪われ、組織を破壊されて一方的に命令に従うことを要求された民衆は、自分たちの活力を奪った革命政府を専制と見なし、その代表と考えたロベスピエールを支持する気持にはなれなかったのです。ジャック・ルーの地盤だったクラヴィリエ・セクションの民衆2千人は、午前2時過ぎに公会側の部隊に先だって、先陣をきって行動に移り、単独でロベスピエールの逮捕に向っていました。「自分たちのリーダーを奪ったロベスピエール達に、今こそ報復の時が来た」と言わんばかりの行動でした。実働部隊を持たないロベスピエール派は、なすすべなく自殺したルバを除く全員が逮捕されました。逮捕された23人が刑場に送られたのは、10日の午後6時頃の事でした。逮捕・処刑は翌日も続き。総計108人がロベスピエール派として処刑されました。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, September 23, 2007 10:26 AMSubject: 23日の日記
2007.09.23
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住専問題考(8)修正母体行責任論のミソは、不良債権の巣窟となっている住専を再生することは不可能なので、住専の借入れの一切を母体行が責任を持って返すこと(母体行責任論)は出来ない。そこで、母体行の住専への融資(貸し付け)については、全額を放棄し、一切の回収を断念するので(その分不良債権は減ります)、残りの不良債権については、融資額に按分して、貸し手の金融機関で負担して欲しいというものでした。母体行の責任が最も重いことは認める。しかし、貸し手にも応分の責任があるから、それなりの負担はしてもらうというのです。この案に添って、債権放棄が必要な住専の不良債権7兆6千億円のうち、先ず3兆6千億円を母体行が放棄し、残りの4兆円を非母体行や農協などが、貸し出し残額に応じて負担してはというのです。貸出しに応じて比例配分すると、非母体行が1兆7千億円、農協系統が2兆3千億円となりました。いかに農協系統金融機関の住専への融資が突出していたかが、良く分かる数字です。この案について、非母体行はやむを得ない事と承知したのですが、農協系統金融機関に2兆円を超える損失を負担する体力のないことは、明かでした。日本の選挙制度は、都市住民よりも農村住民に有利に作られていますから、国会議員の多くは農民票に敏感です。農協の金融部門,信連が潰れるかもしれないとなると、与野党の議員が一致団結します。そして「迷惑をかけない」という例の念書も生きてきます。政治折衝の結果、先ず農協系統の負担するはずの2兆3千億円の回収不能債権の内、1兆1千億円については、回収の見込みが薄い債権として、回収不能債権とは別に処理するという、裏ワザを編み出して農協系の負担と切り離してしまったのです。将来公的資金=税金を使って処理しようと言うのです。現在の負担でなければ、あまり問題にされないだろうと考えたのです。こうして農協系の負担は1兆2千億円と半額程度になったのですが、事態はさらに展開します。農水省と農林族議員の大反撃がここからは猛烈を極めます。寺村ー真鍋覚え書きもここで白日の下に晒されます。そして農協系の負担の限度は5千億円程度の1点張りで、結局5千3百億円の債権放棄にしか応じなかったのです。政治の圧力に押しきられた大蔵省は、拒否された端数を含めて6850億円について、母体行に追加負担を迫ったりと、苦し紛れに様々な案を模索したのですが、遂に万策尽き、来年度予算編成にギリギリの12月20日を過ぎて、始めて、この6850億円について、公的資金=税金の投入を決断したのでした。これは、与信能力もないのに、身の丈以上の貯金を集めてしまった農協系統金融機関が、杜撰な融資によって行き詰まってしまったことを隠し、農協系を破産から救うための案でした。しかし、それを公言すれば、地方名士である農協の組合長や理事の引責辞任が避けられなくなります。選挙で世話になる大事な地方名士の顔に泥を塗るわけにはいかない。だから、農協救済のための公的資金の投入であるとは、口が裂けても言わない。これが暗黙の了解でした。これでは、世論が治まるわけはありません。果たせるかな喧喧諤諤の議論が始まりました。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, September 23, 2007 10:26 AMSubject: 23日の日記
2007.09.23
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クロニクル 久保山愛吉さん死す1954(昭和54)年9月23日焼津のマグロ延縄漁船第五福竜丸が、米国が大気圏内核実験を強行したビキニ環礁の、航行禁止区域外で操業していて、大量の死の灰を浴びた件は、3月1日のクロニクルに書きました。事情を知らない漁船員たちは、降り積もる死の灰を浴びながら23人の乗組員全員が、甲板での作業を続け、全員が原爆症の症状に苦しみながら帰港し、全員が入院したのですが、その中の1人で特に症状の重かった久保山愛吉さんが、秋の彼岸のお中日にあたるこの日、半年近い闘病と、ご家族、仲間、治療に全力を尽した医師団、そして唯一の被爆国民として原爆症の苦しみと痛みを共有しえた全国民の願いも空しく、遂に亡くなりました。私はこの時、小学校の6年生。プロ野球(この年は魔球の杉下の大活躍で、中日ドラゴンズが優勝しました)や大相撲(最近は全く見なくなりました)の記事を中心に新聞に親しみはじめた頃でしたが、久保山さんや福竜丸、原爆症関連の記事は、読みやすかったのでしょうか、良く読んでいた記憶があります。そして第五福竜丸の被爆と久保山さんの闘病の報道は、8月の杉並の主婦たちの署名運動をきっかけに、日本が世界に発信して大きなうねりになった。原水爆禁止運動に結実して行きます。核兵器、生きているういちに廃絶出きると良いのですが……
2007.09.23
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住専問題考(7)95年春、住専処理は早急に解決すべき問題となっていました。土地を担保とした融資の多くが、地価の下落によって、不良債権化し、親会社の銀行自身がノッピキならない状況に追いこまれたからです。銀行系の住専7社を一括処理することで、住専を母体行のバランスシートから切り離すことが焦眉の急となったのです。国際的にも、日本の金融危機が世界経済のアキレス腱、撹乱要因であるという認識が広まり、危機解決に向けた取り組みを強化せずに、いたずらに先送りを続ける日本政府に対する風圧は高まる一方でした。とりわけ、アメリカ政府は、危機にある日本の金融界が、大量に保有する米国債を、資金確保のために一斉に売りに出る事態を怖れていました。それは国際価格の暴落、金利の急騰を招き、ようやく安定した米国の金融界を再び混乱のルツボに突き落とす悪夢のように見えたのです。政府も金融界も、もはや先送り出来ない状況に追い込まれていました。ここに住専処理がようやく日程に上りました。銀行系の7社の住専を一括処理する案でした。 7社合計で13兆円の貸出しがあり、そのうちほぼ回収不能とされる債券総額は7兆6千億円に達していました。93年春からの2年半で、不良債権の総額は、倍以上に膨らんだことになります。先送りは高くつきました。問題は誰がどれだけの額を負担するかです。前回に記した貸し手責任論は、金融機関のバブル期の行動を知る者にとって、余りに空々しく、到底支持の集まる余地はありませんでした。ここに登場したのが、修正母体行責任論でした。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, September 22, 2007 10:12 AMSubject: 22日の日記
2007.09.22
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地租の負担は……? 昨日の「住専問題考(6)」の補足で、明治政府の地租改正に 触れました。深夜に訂正しましたが、地租は地価の0,3%でなく、3 %、その後税率引き下げで2,5%になってのが正しい数字です。で ないと、 「竹槍で ちょいと突き出す 2分5厘」の説明がつかなくなりま す。 そこで、地価の3%、2,5%の負担というのは、いったいどのくらい なのかです。 年間収益の3%なおかというとそうではありません。地価が対象で す。そこで地価の算定に使われた、収益還元法を思い出してくださ い。3ヵ年の平均収量を出し、それを基に地価を算定しました。田 畑を夫々、土地の良し悪しで、上・中・下に分け、収量を出し、そ れを米や麦などの平均価格で割り、経費を少し引いてと、詳しく語 るとややこしいのですが、簡単にすると、平均収量を6%の利子率 で資本還元します。 100万円÷0,06=1667万円です。 この1667万円の3%ですから、 1667万円×0,03=49,9万円 約5割の地租です。 これでは5公5民です。農民が一揆を起こすわけです。 2,5%に下がって、同じ計算式を使うと、 約4割に下がります。 明治になっても、農民の負担は重かったことが分かります。 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Saturday, September 22, 2007 10:12 AM Subject: 22日の日記
2007.09.22
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フランス革命(77) テルミドール9日いよいよ運命の共和暦2年テルミドール9日(西暦1794年7月27日)がやってきます。この日のクーデタで、ロベスピエール派は権力の座を追われ、翌日ギロチンにかけられます。ロベスピエールも、サン・ジュストも、クートンも…。1番若かったルバは、逮捕を拒み拳銃で自らの頭を撃ち抜き自殺しています。不思議なことですが、ロベスピエール派の保安委員会委員だった画家のダヴィッドは、どういうわけか」処刑を免れています。彼が処刑されていれば、「テニスコートの誓い」と並ぶ、彼の代表作、「ナポレオンの戴冠」(ローマ教皇直接でなく、手ずからジョゼフィーヌに后妃の冠を被せるあの絵です)は、日の目を見ることはなかったことになるのですが…何故、このようなことになったのか。何ヶ所かで触れてきましたが、モンターニュによる革命独裁=恐怖政治そのものが、内外の反革命に包囲されて四面楚歌状態に陥っている革命の危機に加え「、民衆運動の脅威に晒されながら、なおかつその民衆運動の協力を仰ぐしか、事態の改善を図りようのない手詰まり感の中で、緊急避難的に生まれた非常事態政権だったからです。つまり革命独裁は事態が改善すれば、お役ご免になる性格のものだったのです。確かに、エベール派とダントン派の処刑後、左右両派の対立に伴う混乱は排除されたわけですから、公安委員会の力は強くなります。革命裁判所の判決も死刑か無罪かと、簡明化されます。また民衆運動に対しても統制色を強め、その自立性を削いでいきます。具体的には、50近くあったパリ市内の民衆のクラブ(ソシエテ・ポピュレール)の活動家を、反革命のレッテルを貼って次々に逮捕、処刑してゆき、遂には全てのクラブを閉鎖に追い込んでしまいます。恐怖政治の最盛期の出現です。しかし、その結果、(75)に記したように、民衆運動は沈滞し、革命は凍結した状態になってしまいます。6月にはカルノーの指揮の下、フランス軍は攻勢に転じ、再び当時オーストリア領だったベルギーを席巻します。軍事情勢の好転、民衆運動の沈静化によって、国民公会の多数である平原派=中間派の議員たちは、「もはや緊急避難政権は不要だ。経済の戦時統制は解除すべき時だ。革命独裁は廃止、公安委員会は解体すべきだ。」と考えるようになります。そこに、恐怖政治によって、自分たちがいつ処刑されるか分からない恐怖に晒されている現実が加わります。やられる前にやれ、平原派や右派の議員がこう考えても不思議はありません。そして左派はどうか。民衆運動に共感を持つ左派系の残党は、民衆運動をコントロールしようとし、活動家を処刑し、民衆クラブを閉鎖に追い込んだロベスピエール派を快く思うはずがありません。ロベスピエール個人の性格や政治家としてのタイプの問題には触れませんが、民衆運動の抑え込みに成功し、対反革命戦争に勝利の展望を開いたことで、革命独裁は、その役割を終えたと判断されたのです。恐怖感がクーデタの時期を早めましたし、ロベスピエールの頑固さが、テルミドール9日に予定されたクーデタを日延べさせようとした試みを、灰燼に帰したことは事実ですが、例え、この日のクーデタを失敗に終らせたとしても、近い将来におけるロベスピエール派の失脚と、公安委員会の解散、恐怖政治の終了は避けることのできない現実でした。革命独裁=公安委員会独裁は、民衆運動を背景に、民衆運動の圧力を上手に利用しながら、多数はである国民公会の議員達を説得しつつ、進められてきました。ダントン派を切ったことで、ブルジョワ中間派とロベスピエールら公安委員会とのパイプは切れました。疑心暗鬼となった中間派は恐怖感に堪えられなくなり、折りからの革命情勢の好転に、クーデタ計画を加速しました。この時点で議会の審議ではブルジョワ中間派が多数を制していますから、議会でロベスピエールらの(中間派巧妙に、ここでの逮捕をロベスピエール派に限り、同派以外の公安委員会委員の逮捕は後日に先送りしています)逮捕を決定することが出来ます。しかし、もし民衆運動が健在なら、そして民衆運動とロベスピエール派の蜜月が続いていたならば、ただちに民衆運動が介入して、ロベスピエールらを奪還し、逆に国民公会を解散に追い込むことも可能でした。クーデタが見事に成功したのは、民衆運動の活力が既にして、失われていたからに他ならないのです。運命の皮肉というべきでしょうか。 続く---- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, September 22, 2007 10:12 AMSubject: 22日の日記
2007.09.22
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クロニクル イラン・イラク全面戦争に突入1980(昭和55)年9月22日この日、既に小競り合いを続けていたイランに対し、イラク軍は本格的に主力軍による越境攻撃を仕掛け、イラン領土への侵攻を本格化しました。そうしたイラクの越境攻撃を、イラン革命の自国への輸出を恐れるサウジや湾岸諸国はこぞって支持し、フセインのイラクに対する資金援助を惜しまなかったのです。イラン革命の輸出を警戒するアメリカもまたイラクを支援、対仏大同盟軍に包囲されたフランスさながらに、イランは、対イ大同盟軍に包囲されながら、粘り強く戦い抜き、革命の防衛に成功したのでした。
2007.09.22
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住専問題考(6)の補足先ほどの(6)の本文で、日銀が不良債権を推計した試算の根拠を、収益還元価格と記しましたが、その内容を説明するのを失念してしまいました。ここに補足させていただきます。地価はどのように算定されるか。基本は需給関係ですが、地主がいくらなら売る気になるか。逆に買主がここまでなら、買っても良いと土地購入に気持が動くのはいくらまでか。ここから算定されるのです。この場合に、その土地から上がる収益(ビルの場合ならビルの家賃、小作地なら小作料、自作地なら毎年の収穫量の平均など)を基本にして、最もポピュラーな金融商品の利子で、土地や家賃収入と同額を得られる額が、両者が折り合えるギリギリの限界であると考えるのが収益還元法です。例えば、過去3ヵ年の平均収量を、平均売買価格で金額に計算した時に、それが100万円だったとします。今平均利子率(大銀行の定期預金金利とか、10年長期国際の利回りなど)が5%だったとする時、今いくらの定期預金か国債を持っていれば、毎年100万円の収入が得られるか。答えは100万円÷0,05=2000万円と出ます。2000万円出せば、地主や家主は土地や建物を手放しても良いと考えるし、買主もそこまでなら出しても良いと考えるというわけです。これが収益還元法ですが、この地価算出法のミソは、平均利子率という考え方にります。利子率は変動します。平均利子率が高くなれば、地価は下がり、利子率が低くなれば地価は上がります。例えば、4%の場合 100万円÷0,04=2500万円となり、500万円5%の場合より、余分にないと毎年100万円の収入は確保できません。 反対に6%の場合は、 100万円÷0,06=1667万円と、約333万円少ない価格でも100万円を確保できます。日本でも明治6年の地租改正の折に、土地所有者にかける地租の土台となる地価(地価の3%を地租とし、後2,5%に減額されました)の算定に、この収益還元法を用いています。
2007.09.21
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住専問題考(6)93年5月、日銀は「現下の金融システム問題への対応について」と題する機密文書を作成しました。この文書は、丸秘扱いとされましたが、97~98年の金融パニックの際に、公的資金投入の是非が政治問題化するにいたって、事実上公開されるに至ったのです。 この文書で日銀は、日本の銀行が抱える不良債権の実態を、最大で50兆円に達する怖れがあると、推計したのです。当時大蔵省は主要銀行の不良債権は、総計で8兆円程度という推計を公表してましたから、日銀の試算は公表されてはならないものでした。日銀は地価はまだ適正水準まで下がっていない。この先地価は、家賃や地代収入などで得られる収益を利回りで算出した「収益還元価格」まで値下がりするだろうと想定した、思いきった試算だったのです。その後の推移は、まさしく日銀の想定通りに進行しました。地価はやがて上昇軌道に戻るとする、楽観説とは距離を置く、通貨の番人日銀らしい判断でした。日銀のレポートは、さらに銀行への公的資金投入の必要性や、破綻銀行の受け皿となる、金融機関設立の必要性が指摘されていました。5年後の長銀や日債銀の破綻処理に際して取り入れられた手法でした。土地神話の呪縛が、問題の早期解決の可能性を摘んでしまっていた絶好の例がここにもあります。日住金処理の先送りと同じ病巣が、ここでも大きな関所になっていたのです。当時の日銀総裁であった三重野康は、後日93年のレポートについて問われたインタビューに、「あの時に、より前向きに手をつけていれば、より少ないコストで済んでいた。悔いが残る」と答えています。土地神話の崩壊を誰もが疑えなくなったのは、95年春の時点でした。住専の破綻処理もようやく了解事項と考えられるようになりました。しかし、誰がどれだけ負担するかが問題になります。本来の経済原則に照らせば、住専は預金業務を営まないノンバンクです。預金者保護の対象にはなりません。従って、借り受け金の全額について、貸し手の責任であるから、倒産後に貸付の返済を受けられない融資金は、それがいくらあっても貸し手の責任であるという議論も、確かになりたちます。しかし、一方で、住専の経営実態を知りうる立場にある母体行が、自行の融資だけを早期に回収して知らん顔をしている企業倫理に悖る行動が取られていることも、十分にありうることでした。そして、住専各社が大蔵省からの大量の天下り役員を抱え、母体行の信用度と、大蔵省のお墨付きを思わせる大量の天下り役員を信頼して、融資を実行してくれた貸付先を、貸し手責任論だけで納得させることが出来るかどうかが、問題でした。とりわけ、バブルの崩壊後に大量の融資を実行した農協系統との間には、寺村ー真鍋覚え書きが厳然と存在しているのです。ここに、母体行責任か貸し手責任かの議論が、マスコミを巻き込んで行なわれるようになりました。時に社会党の村山首相、さきがけの武村蔵相の時でした。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, September 21, 2007 10:10 AMSubject: 21日の日記
2007.09.21
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クロニクル 室戸台風襲来1934(昭和9)年9月21日この日、午前5時過ぎ、高知県の室戸岬に超大型の台風が上陸しました。台風は午前8時過ぎには大阪市に達し、最大瞬間風速60メートルを記録する猛威を振るいました。その結果、四天王寺では国宝の五重塔が中頃から倒壊、搭の下に避難していた20人が下敷になりました。また大阪各地の木造小学校164棟が倒壊、児童676人、教職員18人が犠牲となりました。滋賀県の瀬田川鉄橋では、東海道線の下関行き急行列車が強風に煽られて転覆、175人の死傷者がでました。また大阪湾の高潮は4メートルに達し、多くの船舶や家屋が飲み込まれました。被害は大阪と兵庫を中心に2府32県に及び、死者・行方不明者3246人、家屋の全半壊88046戸に達しました。
2007.09.21
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フランス革命(76) 最高存在の祭典 前回記したようにロベスピエール派の立場は決して強固ではありま せんでした。公安委員会の団結が、彼等の立場の一足飛びの悪化を 防いでいました。4月に入って、公安委員会中心の独裁体制は、 次々に強化されて行きます。 議会が選ぶ大臣制に代わって、公安委員会が推薦する行政委員制が うまれます。革命裁判はパリに集中され、公安委員会の眼の届くと ころに置かれます。警保局が公安委員会の下に設置され、保安委員 会の権限が縮小されます。 そうした中で、フランス革命旧来の古めかしい教会システムを否定 し、新たな合理的信仰を打ち出そうとした中で、エベール派のキリ スト教否定運動を排除した経緯から、公安委員会は民衆の魂の救済 を目指す、新しい信仰、新しい宗教を作り出す必要に迫られていま した。 こうしたプランは、ロベスピエール中心に練られます。5月7日、共 和国から背徳と偏見、迷信と無神論を一挙に放逐する提案として、 国民公会にかけられ、可決します。 その第1条は、「フランス人民は、最高存在と霊魂の不滅を認め る」と、理神論の立場を明確に表明」していました。政治的混乱を 食い止め、精神的統合の原理を示すことは、政治において避けて通 れない課題です。ロベスピエールは、そこに恐怖政治が単なる殺戮 や抑圧的専制に堕さないための、厳しい共和的なモラルの確立の願 いを込めようとしたのです。 6月8日、最高存在の祭典が行なわれます。ロベスピエール派の公会 議員で、保安委員会のメンバーでもあった画家のダヴィッドがプロ モートした祭典は、晴れやかに行なわれました。公会や公安委員会 のあるチュイルリーから、シャン・ド・マルス広場まで、長い市民 の行列が続きます。祭典の議長を務めtロベスピエールは花束を 持って、祭壇の頂上に立ちます。まさに栄光の象徴のようでした。 しかし、これがロベスピエールにとっての最後の栄光でした。 ロベスピエール派に対するクーデタの準備が着々と進められていた のです。 続く ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Thursday, September 20, 2007 10:25 AM Subject: 20日の日記
2007.09.20
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住専問題考(5) 地価下落の続く中、92年の初めには、住専の危機は、親会社(母体 行)には、はっきり映っていました。既に日債銀や長銀は、系列の ノンバンクや、自行がメーンの融資先不動産会社への金利の減免を 要請していました。系列や融資先企業はメーンバンクが面倒を見、 他行に負担をかけないのが、日本の金融界の常識でしたから、これ はショッキングなことでした。 地価の下落による担保価値の下落、そして融資先企業の資金繰難 が、大手銀行の経営体力をも蝕み始めていたのです。 当然傘下の住専の不良債権の実態も分かっていました。しかし、土 地神話になお捕われていた当時の経営者は、地価の回復を期待し て、追加融資で破綻を先送りしていたのです。 住専最大手、日本住宅金融は東証一部に上場する企業でしたが、親 会社の三和銀行は、傷が深くなる前にと、93年春の時点で、日住金 の破綻処理(=会社整理)を、ひそかに大蔵省銀行局に相談したこ とが明らかになっています。ところが相談を受けた大蔵省は、三和 銀行をなだめ、問題先送りを指示したのです。地価は今が底で、近 く回復するかもしれないというのが、表向きの反対理由でした。 実際はどうだったのか。当時住専8社の貸しつけ総額は約13兆円。 そのうち40%に当たる5,3兆円が、信連等農協系からの融資だった のです。農協系金融機関は、母体行を上回る住専の最大の貸し手に なっていたのです。 当然、日住金の破綻処理は最大の貸し手である農協系統の金融機関 に回復不能の損失を与え、倒産する信連が続出しかねない。農協の 経営危機となれば、与野党を問わず農林族議員の多い国会と農水省 を敵にまわすことになる。大蔵省はこの事態を怖れたのでした。 日住金危機に始まり、住専各社の危機が明らかになった93年2月、 大蔵省銀行局長の寺村と農水省経済局長の真鍋は、次ぎのような覚 え書きを交わしていたことが明かになっています。「住専を設立し た母体行が、再建計画に沿い、責任を持って対応する」 この覚え書きが後に大きな意味を持ってくるのですが、それは後の ことです。三和銀行の決意に後押しされ、大蔵省が中に入って住専 の第一次再建計画がまとまります。金利の減免によって、住専を助 けようというのです。それによると、母体行は金利セロ、母体行以 外の銀行等は一律2%、農協系は4,5%というものでした。ここでも 農協系は優遇されていたのです。 多額の不良債権を抱える住専に、金利の支払い能力はもはやありま せん。母体行の追加貸付によってしか、農協系への4,5%の利子は 支払えないのです。事実上倒産状態の住専は政治がらみで延命が計 られ、農協系のみに相対的に高い金利が支払い続けられたのです。 この93年春の時点で、住専各社を思いきって処理していたとした ら、不良債権処理額は、3,8兆円程度と推計されていました。2年半 後の、95年初冬まで処理が遅れた結果、処理学は倍の7,6兆円へと 膨らんでしまったのです。農林系への配慮と、地価神話への郷愁の ツケは大きかったと言わざるをえません。 続く ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Thursday, September 20, 2007 10:25 AM Subject: 20日の日記
2007.09.20
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クロニクル 中国憲法採択1954(昭和29)年9月20日この日、中国共産党が指導する中華人民共和国は、開会中の全人民代表者会議(略称 全人代)の席上で、中華人民共和国憲法を採択しました。憲法は共産党の指導を明記した上で、全人代で国家主席、首相を指名することなどを明記したもので、初代国家主席に毛沢東党主席を、首相に周恩来氏を指名しました。
2007.09.20
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フランス革命(75) 革命は凍りついたモンターニュ(ジャコバン)の左右両翼の粛清は何を齎したのか。それは一面的にはロベスピエール派の勝利に見えました。しかし、ロベスピエール派が公安委員会の中核としてジャコバンクラブや国民公会で信任を得られたのは、ダントン派、エベール派両派の対立を唯一調停出きる立場にあったからでした。 ダントングループの右ウィングのおかげで、国民公会の平原派グループや都市ブルジョワジーの声を理解し、ダントン派を通じて、彼等を説得して民衆への譲歩を、戦時統制経済として実現できたのです。したがってダントン派を失った今、ロベスピエール派は中間派である平原派との接点をなくしたのです。逆に中間派や都市ブルジョワジーからすると、自分達より遥かに革命に貢献していたダントン派ですら処刑される現実を見るとき、いつ自分達の番が来るかもしれないという恐怖感に苛まれることにもなります。このように、中間派とロベスピエール派の距離は仲介者でああるダントン派を失ったことで、埋めきれない溝を挟むことになったのでした。そして、その距離は、公安委員会の軍事担当カルノーの努力によって、フランス軍が面目を一新して対仏大同盟軍を圧迫、再びベルギーを席巻するところまで、勢力を回復したとなると、決定的になります。そしてまた民衆運動との接点であり、過激派(アンラジェ)の処刑後、唯一残った民衆運動のリーダーであり、まとめ役だったエベール派を処刑してしまったこともまた、深刻な事態を招いていました。民衆運動の組織化には、地域、地区のリーダー、そして地区リーダーに影響力を持つ全市的なリーダーの双方が欠かせません。アンラジェを処刑し、エベール派を処刑した今、民衆リーダーの存在は一掃されてしまったのです。リーダーを亡くした民衆運動は精彩を欠き、地区ごとの小さな蜂起を繰り返す存在になってしまいます。セクション集会の回数制限がこうなると、大きく効いてきます。民衆運動の圧力を背景に、議会の多数を占める中間派を説得したり、黙らせたりして必要と判断した政策を執行してきたロベスピエール派にとって、これは致命的でした。ロベスピエール派にとって、ダントン派とエベール派の粛清は、いうならば「角を矯めて牛を殺す」事態を生んでしまったのです。特に民衆運動の停滞、意欲の減退は痛手でした。革命は凍りついたというのは、民衆運動の停滞を嘆いたサン・ジュストの嘆き節でした。ロベスピエール派にとっても、最後の時が迫っていたのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, September 19, 2007 10:25 AMSubject: 19日の日記
2007.09.19
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住専問題考(4)バブル期は、担保不動産が値上りしますから、少々与信に問題があっても、焦げ付きことは稀ですから、なお住専も利益をあげることができていました。米国のサブプライムローン問題と同じ構図です。しかし、バブルはどこかではじけます。プラザ合意後の急激な円高に対する公定歩合の引き下げ、そして、87年秋のブラックマンデー以後の、公定歩合の引き上げの遅れなどで、日本は未曾有の過剰流動性相場に陥りました。単純に言えば、金余り相場です。土地と株は面白いように上げ続けました。しかしバブルはいつかはじけます。株価は89年12月の約38900円を天井に、下落に転じ、90年2月には、明かに下降局面に入ったことが読み取れるようになりました。しかし、この時点では地価はなお、緩やかに上昇していました。地価上昇は90年9月頃に止まり、しばらく緩やかな下降線を描いた後、91年7月から土砂降りの暴落状態に入ったことが知られています。ところで、住専を見ると、90年4月以降、株式バブルが崩壊した以降に、土地への融資を急激に増やしているのです。これが、後に住専処理が大きな政治問題になった原因に繋がるのです。何故か。90年4月に大蔵省が発動した、「不動産融資に関わる総量規制」です。総量規制は大蔵省の行政指導の一つで、この時は不動産融資に関する規制でした。具体的には、第2四半期(4月~6月)の不動産・ノンバンク・リース各社に対する貸出しを90年3月末の水準と比較して、純増率をゼロに抑えるという内容でした。この規制は7月以降も継続し、地価急落が始まった後の、91年12月末に打ちきりとなりました。純増率が問題ですから、金融機関の預金量が増加する範囲までは増やすことが出来ます。そのため総量規制導入後も、不動産融資は増えており、地価急落が始まった91年を見ても、年間で1,65兆円も増加しています。しかもこの時期に住専による不動産融資は激増しています。総量規制の対象とされた金融機関は、全国銀行の外に、信用金庫、信用組合から生保・損保、さらに外国銀行の日本法人からノンバンクにまで及ぶ包括的なものでした。しかし、どういうわけか住専は対象外のままで、住専というノンバンクは、自由に不動産融資を拡大することが出来たのです。代々社長を務める大蔵OBへの配慮なのか、それともノンバンクである住専への貸し出しを総量規制で抑えているから大丈夫と考えたのか、その変はわかりません。 そしてまた、総量規制は大蔵省の行政指導でした。同じ信用組合に属するのですが、農業協同組合いわゆる農協は、その出自の故に農林省の管轄下にあり、大蔵省の行政指導の及ばない存在でした。そのために日本的縦割り行政の弊害がモロに出た事例となったのです。 農協はバブル期に土地を売った都市近郊農家、リゾート開発を狙う業者に土地を売った地方の農家からの貯金で、貯金量を大幅に増やしていました。バブル期の地価上昇が農協の貯金量を嵩上げしていたのです。当然増加に見合う貸出し先を確保しなければなりません。しかし、組合員である農家や農業団体への貸出しでやってきた農協に確かな与信技術があるわけではなく(この点は来月1日に民営化される郵貯銀行にも言えることですが)、傘下の住専への融資を増やせない銀行から、うちの子会社に貸し出してやってほしいと頼まれると、それこそ渡りに船とばかりに、融資を実行したのです。住専の親会社は先に見た通り、日本を代表する大銀行が並んでいます。そして社長は元大蔵官僚です役所と大銀行が面倒を見ている会社に間違いがあるわけがない。与信技術に自信のない農協は、こう思うことで住専への貸出しに急傾斜していったのです。91年夏以降、地価急落の中で、金融機関は大口融資先の倒産を防ぐための追い貸しを、子会社の住専を通じて行ないます。そのための資金は、農信連(単位農協の親団体)からの住専への貸し付けでした。こうしたツギハギの限界は92年~93年にかけて、明かになってきていたのですが、まだ誰も積極的に動こうとはしなかったのです。地価は下がっても一時的だ。また必ず上昇する。こういう土地神話がまだ健在だったからでした。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, September 19, 2007 10:25 AMSubject: 19日の日記
2007.09.19
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クロニクル アルジェリア臨時政府成立1958(昭和33)年9月19日この日、北アフリカのフランス植民地アルジェリアで、血みどろの独立戦争を戦っていたアルジェリア民族解放戦線が、臨時政府の樹立を発表しました。仏領インドシナの一角、ヴェトナムでホー・チ・ミンをリーダーとするヴェトミン軍との戦いに敗れ(ディエン・ビエン・フーの戦い)フランス軍がヴェトナムから撤退したのが1954(昭和29)年でしたから、フランスの植民地支配は植民地住民の強い反発を受け、フランスは泥沼の民族独立運動との戦いに巻き込まれることが多かったのです。映画「アルジェの戦い」は実話を基として脚本が出来ているそうですが、民衆の海に隠れたゲリラとの戦いに疲労困憊したフランス軍は、ここでも民族解放戦線との戦いに敗れ、4年後の1962年、アルジェリアは念願の独立を達成するに至ります。
2007.09.19
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フランス革命(74) 左右両翼の粛清昨日の第73回の最後に、エベール派とダントン派の逮捕について書きました。あっさり書き過ぎだとのご要望をいただきましたので、もう少し敷衍します。エベール派・ダントン派との対決を覚悟したロベスピエール派は、民衆運動の支持を強固にする狙いと、ルソーの労働観(所有は自らと家族及び僅かな使用人の労働で賄える範囲を超えるべきではない。所有とは耕地や手工業の作業場の規模を指します)に傾倒するロベスピエールやサン・ジュスト等の思想の発露として、2月末から3月にかけての議会で、ヴァントーズ法という、平等主義的な内容の法案を提案します。ヴァントーズ法とは、反革命派の土地財産(亡命貴族の財産は既に没収済みでしたが)を全面的に没収して、これを貧困者に分配しようという内容の法です。明かに戦時統制経済の次元を一歩超えて、自由経済から平等主義に向けて踏み込んだ内容になっています。それでも現在の困難な状況を切り抜けるには避けて通れない、民衆運動をさらに国民公会や公安委員会の側に引きつけるには、こうした譲歩が避けられないとの考えによるものでした。国民公会は、法案の内容をより明確に救貧対策に限定して(やはり公会議員にも、大変な策士がいるのですね)、平等主義の色彩を薄めて可決します。法案の正否を見守っていたエベール派は、法案通過後行動を開始しました。ヴァントーズ法は食糧危機を打開する即効薬ではないからです。パリ民衆の不満、自派への支持を当て込んだエベール派は、ダントン派のみでなく、ロベスピエール派をも含めた革命政府全体への蜂起を計画します。3月4日には蜂起宣言が発表されますが、これは根回し不足で延期されます。公安委員会左派でエベール派に近いコロー・デルボワとビョー・ヴァレンヌの2人が蜂起を断念するよう懸命に説得しますが、エベール派の態度は固く説得は不調に終ります。こうなると、コロー、ビョーの2人も公安委員会の団結を重視して、エベール派を見放さざるをえなくなります。こうして3月13日から14日にかけて、エベール、ロンサン、ヴァンサン、モモロなどエベール派の幹部クラスが一斉に逮捕され、革命裁判所送りになりました。公安委員会は、民衆運動の弾圧と受け取られることを避けるため、外国人亡命者と共同の裁判にかけられ、外国人の陰謀事件に加担したという罪名を着せられ、3月24日に処刑されました。エベール派逮捕の2日後、今度はダントン派に鉾先が向けられます。現時点で、早期の革命終結を主張すること自体が、革命の戦線を弱体化させる危険因子だと考えられていたからです。3月16日、ロベスピエールはジャコバンクラブで「最大の危険は愛国者を陰謀者に近づかせることだろう」と言明しています。3月18日、ファーブル、シャボなどダントン派の腐敗分子の起訴が決まります。問題はダントン自身にまで逮捕の手を伸ばすか否かだったのですが、エベール派幹部全員の逮捕に賛成した、コロー、ビョーの左派の2人が、バランスの上から言ってもと、強硬にダントンの逮捕、裁判を主張します。公安委員会の団結を重視せざるをえないロベスピエール派も、最終的に左派の主張に同調し、3月30日にダントン、デムーランらの幹部が逮捕され、裁判にかけられます。4月5日、ダントン派の処刑が実行されます。モンターニュ派を構成した左右両翼は、こうして粛清されました。ここから革命政府体制、恐怖政治体制は、ロベスピエール及びロベスピエール派による独裁だったとする主張が出てくるのですが、それでは公安委員会の統一を重んじる姿勢は説明できません。私個人は、革命独裁がロベスピエール個人の独裁であったなら、少なくともダントンの処刑はなかったのではないかと考えています。確証はないのですが…、こんな時はいつもドラえもん君に頼んで1回だけ彼のタイムマシーンに乗せてもらえないものかと、考えてしまいます。しかし、現実の歴史を考えると、寄りたいところが多過ぎて、イザ行けるとなると、どこへ行ってもらうかで立往生するでしょうね。そして、左右両派の粛清は、その時はロベスピエール派と公安委員会の用意周到な作戦勝ち、華々しい勝利に見えましたが、実はモンターニュ派の独裁(これが良くジャコバン独裁と言われます)にとっての、致命傷になって行くのです。テルミドールのクーデタの遠因はここにありました。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, September 18, 2007 10:26 AMSubject: 18日の日記
2007.09.18
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住専問題考(3)住専は、大手金融機関の子会社でした。第二地銀の子会社の総合住金にしても、加盟72行全体で考えると、大きな信用力を持ちました。個人向け住宅ローンに特化している限り、経営には何の問題もありませんでした。その住専が何故、怪しげな不動産融資にのめり込み、遂には総破綻状態に陥ったのか?原因は日本経済の足腰の強化、経済大国日本の登場だったのですから、皮肉です。第一次オイルショック後の世界同時不況からの脱却では、日本が世界の先陣を切り、世界経済の先導役を務めました。いまや世界のトヨタといわれる、トヨタとホンダを中心に、オイルショックによるガソリン価格の高騰に悩む米国で、燃費効率の良い日本車が爆発的に売れ出したのです。裾野の広い自動車産業が牽引する事で、日本経済は回復します。イラン・イラク戦争に端を発する第2次オイルショックも、やがて乗りきります。この状況で何が起こったか。当然のように世界で存在感を高めた日本の優良企業は、割高な間接金融(銀行借り入れ)から、割安な直接金融への乗り換えを進めます。世界の投資家が日本企業への出資(社債、株式、転換社債等)を望み、また輸出好調で手持ち資金の増えた企業は、費用の嵩む銀行借り入れを縮小し、新規の借り入れに消極的になったのです。経済は好調ですから、預金は膨らみ、貸出しは減少する事態が生じます。借りに来る企業には、貸したくないという現実がありました。こうして金融機関は、子会社の住専に任せていた、個人向けの住宅ローンを自ら手掛けるようになります。親会社から顧客を融通してもらっていた住専は、たちまち貸出しの減少に困ります。自ら顧客を開拓する力など、元よりありません。ですからここでも、親会社に頼って顧客の紹介を受けるしかないのです。親会社は、自らは手掛け難い、ということはリスクの高い不動産関係の融資を住専に持ち込みます。83年頃の話です。やがて85年のプラザ合意、猛烈な円高が訪れます。対策として何回も公定歩合が引き下げられ、金余りのバブルの到来です。地価は上昇を続け、ハイリスクだったはずの不動産融資は、優良な融資に代わったように見えました。親会社も金余り時代に大量の預金を抱え、融資先を探します。再び子会社住専から優良そうな融資先を奪います。住専が抱える融資先は、高い利率でも借りてくれる、ハイリスク企業のオンパレードとなっていきました。バブル崩壊まではこれで済んだのですが……以上が住専が行き詰まるまでのおおよその過程です。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, September 18, 2007 10:26 AMSubject: 18日の日記
2007.09.18
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クロニクル カップ麺の登場1971(昭和46)年9月18日この日、日清食品は、即席麺の新商品として、発砲スチロールの容器入りで、熱湯を注いで3分間待てば、食べられると言う「カップ・ヌードル」を発売しました。今までのインスタントラーメンのように手間がかからず、どこでも手軽に食べられる点に特徴があり、発売当初は知名度獲得のため、日曜・祝日の度に、営業部隊が銀座や新宿などの歩行者天国で試食販売なども行ない、好評を得たのですが、何といっても知名度を全国区にしたのは、翌72年2月の浅間山荘事件でした。管理人を人質に山荘に立て篭もった連合赤軍を包囲して雪の山荘前を取り囲んだ機動隊や長野県警の警察官達が、交代で指し入れられたカップヌードルで飢えを凌ぐ姿がTV放映され、一躍カップ麺とカップヌードルは茶の間に認知されたのでした。後は自動販売機でも買え、すぐに食べられる手軽さで、ファーストフード感覚で食べられる食品として、爆発的なヒット賞品となり、カップ麺市場は、数年後には年間50億食を売り上げるようになります。こうして、1980年のレークプラシット冬季五輪では、カップヌードルはオリンピックの公式商品に採用されるのです。
2007.09.18
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フランス革命(73) 続分派闘争モンターニュ左派と同右派との対立は、微妙な均衡を保っている公安委員会にも影響を及ぼします。委員会内部に右派のダントン派に近い人物は3名ほどおりますし、左派に属し、エベール派に影響力を持つ、コロー・デルボワやビョー・ヴァレンヌもおります。ですから、公安委員会にあって、両派に近い委員達は、今は内部分裂の時ではない、フランス軍はようやく体制を立て直し、国内の反革命は下火になったとはいえ、敵軍はなお強力であり、アシニャ紙幣の濫発が祟っての物価高騰は収まっていない。事態を甘く見て、内部抗争に明け暮れるのは、敵に乗ずる隙を与えるだけであると、懸命に説得しようとしたのですが、無駄でした。ダントン派の背後には、戦時統制だと言われて渋々経済統制を受け入れた平原(中間)派と、平原派を支持するブルジョワ達がおります。彼等は出来るだけ早く平時に戻ってほしい。いつまでも戦時体制に続いてほしくないのです。ダントンが、革命政府体制の早期解除を主張する理由はここにありました。こうした事情は左派には透けて見えますから、左派のエベール派がダントン派の主張に真っ向から反対し、民衆意識を一つにまとめるための祭典として、非キリスト教化=キリスト教否定運動を展開したのです。ロベスピエール派や公安委員達は、事態の推移を見守りますが、キリスト教否定運動の行き過ぎに危機感を持ち、エベール派との対決姿勢を強めます。しかし、そうなると、ダントン派の発言力が強くなります。それは彼等の背後にいる平原派や自由経済の復活を待望するブルジョワ達の発言力の強化に繋がります。これは好ましくありません。そこに、ダントン派に近い数人の議員に東インド会社の解散に絡む汚職の疑惑が浮上します。絶対王政時代の特権会社を革命家が私財の蓄積に利用したのですから、あきれたものですが、こうした腐敗分子も議員の中には存在した。或いは権力を手にして腐敗してしまう一群のグループがあったこともまた、革命の否定し得ない一面だったことも事実です。両派の対立は次第に抜き差しならないものになってゆき、間にたったロベスピエール派と公安委員会は、微妙な状況に立たされるのですが、結局公安・保安の両委員会は一致して、94年3月末にエベール派20人、4月上旬にダントン派14人を逮捕するに至ります。なお革命の危機が去らない段階であるというのに、分派闘争に現(うつつ)を抜かして、革命を危うくするとは何事か。これが2つの委員会、及びロベスピエール派の論理でした。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, September 17, 2007 10:31 AMSubject: 17日の日記
2007.09.17
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お詫び8月17日のクロニクルに、東京モノレール開通として、以下の記事を載せました。 実は東京モノレールの開業は本日、9月17日だったのです。メモ帖に記す段階で1ヶ月間違えてしまい、そのまま8月17日と思い込んでいたようです。間違えた記事を原文のまま下記に再掲致します。謹んで皆様にお詫びします。クロニクル 東京モノレール開業1964(昭和39)年8月17日この日、羽田空港と東京浜松町を結ぶ、東京モノレールが開業しました。東京オリンピックが開会式を迎える10月10日(オリンピックの日本開催を記念して,この日は体育の日と定められました。それでけに、10月の第2月曜日と不定日の祝日とされると、オメエ違うだろうと、政治家共を叱りとばしたくなるのは、私だけでしょうか?)を、55日後に控えての開業でした。オリンピック見物に海外から訪れるであろう、見物客は勿論、選手、役員、報道関係者らを、出きるだけ速やかに東京都心に迎え入れる交通手段として考えられたのが、地面上を通らないで済む、モノレールだったのです。当時羽田へのモノレールのルートは、今では信じられないかもしれませんが、大部分が海上だったのです。その後に埋め立てが進み、ビルや倉庫群が林立する地域になってしまいましたが……橋げたに支えられた軌道上を走るのですから、交通渋滞も起こり得ません。そんなわけで、到着時間を計算できる便利な乗り物として、このモノレールは人気を博したのでした。東海道新幹線もまた、国策としてオリンピック開幕までの開業が期待されていました。こちらの開業は10月1日、まさに辛うじて間に合ったのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, September 17, 2007 10:31 AMSubject: 17日の日記
2007.09.17
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住専問題考 その2住専8社の不良債権総額は、8,4兆円と発表され、そのうち7社が清算処理されるのですが、7社計の不良債権総額は、7,6兆円に達していました。その不良債権をどう処理するかが政治問題化するのですが、その件を理解するためには、住専各社の成り立ちや特徴を理解しておく必要があります。以下に7社の設立年、親会社(母体行)、設立時の社長を上げておきます。日本住宅金融 71/06 三和銀行中心の10行 庭山慶一郎(大蔵官僚)住宅ローンサービス 71/09 第一勧銀外6行 堀 正典(第一勧銀)住 総 71/10 信託銀行7行 佐々木庸一(大蔵官僚)総合住金 72/07 第二地方銀行協会加盟72社 中嶋晴雄(大蔵官僚)第一住宅金融 75/12 長銀+野村証券 崎谷武男(大蔵官僚)地銀生保住宅ローン 75/07 地銀64行、生保25社 有吉 正(大蔵官僚)日本ハウジングローン 76/05 興銀・日債銀・大和・日興 ・山一 大月 高(大蔵官僚)地方銀行や第二地銀が設立した住専も含め、日本の大銀行,大証券、そして大手生保と、損保を除く金融機関が70年代の前半に、一斉に住専の設立に走っていること、そして住専の社長の椅子がほとんどの社で、大蔵省高級官僚の天下り先として確保されていることが、一目でわかります。時期は70年代前半、73年秋からのオイルショックで、高度成長には終止符が打たれますが、燃費効率の良い日本車へのシフトが幸いして、日本経済の立ち直りは早く、企業の資金需要は旺盛でした。その上、オイルショックによる狂乱インフレは、74年、75年の賃金上昇を招き、住宅需要も高く、住宅ローンの利用希望者も右肩あがりだったのです。母体行は企業向け貸出しに集中し、数は多くても小口で手間のかかる個人向け住宅ローンを毛嫌いし、子会社の住専を通しての融資と回収に顧客を委ねるのです。地価はまだまだ上がると考えられていましたから、土地・建物を担保にしておけば、支払いが行き詰まった段階で、住宅を処分すれば、融資は回収出きるという仕組みです。業績不安のない会社ですから、大蔵官僚の天下り先としては、絶好の条件を備えていたのです。こうして住専は大蔵省にとっても、優良天下り先として、大事な存在になっていったのです。社長は元大蔵省のエリート官僚、親会社は日本を代表する大金融機関、2つの看板を背負った住専は、ほとんど無審査で、大量の資金を借り入れることが出来る存在にのしあがっていったのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, September 17, 2007 10:31 AMSubject: 17日の日記
2007.09.17
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クロニクル 自衛隊海外へ1992(平成4)年9月17日この日、8月10日に施行されたPKO協力法に基づいて、自衛隊の第1陣がカンボジアに向けて,広島県の呉港を出発しました。戦後の日本は、平和主義を国是に、2度と戦争の惨禍を引き起こさないことを誓い、国際紛争解決の手段としては、武力による威嚇も、武力の行使も決して行なわないことを宣言しました。そしてそのために、陸・海・空軍その他の戦力はこれを保持しないと高らかに宣言しました。私はこの精神を大いに評価し、世界に対して誇らしく思っています。それが、いつのまにか自衛のための戦力は、国際紛争解決に使うわけではないから……とこじつけて、自衛隊は軍隊ではないと,言い逃れて…、次第に戦力を整え、自衛の…という言い訳が国際的に通用しなくなると、今度は国際貢献を…と論点をすり替え、治安維持部隊は紛争に参加するわけではないとこじつけて、とうとう自衛隊を海外に派兵するに至ってしまったのです。カンボジアに続いてはアンゴラ、続いてと、遂にはあの不道徳なイラク戦争のイラクにまで、自衛隊は派遣され、今またインド洋で、海上自衛隊が給油という名の、作戦行動に従事していることが明らかになったのです。私は、9条の熱心な支持者ですから、自衛隊の海外活動そのものを、一切支持しませんし、ただちに撤収すべきであると考えています。既成事実の積み重ねは危険です。それは次なるエスカレートに繋がるからです。
2007.09.17
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住専問題考 その115日の日記に記した住専問題を、何回かのシリーズで考えたいと思います。そこには官と民の癒着、日本的先送り、そしてトカゲのしっぽ切りといった、日本的な慣行の悪い面が凝縮して詰まっていますし、現在のサブプライム問題と対比する意味でも、恰好の材料を提供してくれているように思うからです。では,先ず住専=住宅金融専門会社とは、どのような会社なのかです。いずれも銀行等、親会社である金融機関が獲得したローンを執行するための機関でした。個人向け住宅ローンは貸し倒れ率の低い優良物件でしたが、小口のため、1件あたりの利幅は薄く、そのために子会社に扱わせるケースが増え、貸し倒れの場合も、地価の上昇著しい担保物権を売却すれば、多少の利益が得られるなど、一定の利幅は得やすい状況でした。こうした住専にはどういう問題が、隠されていたのか。住専が親会社に委託された住宅ローン債権の回収のみを主力事業としている間は、さしたる問題もなく,業績は順調でした。問題が起きるのは、80年代半ば、住専の親会社である金融機関が、株価の好調を背景とした大企業の直接金融へ移行(銀行借入れに頼らずに、増資や転換社債等を実施することで、金融機関からの借入れを減らす事)によって、資金の貸し付け先に困るようになり、小口で面倒だからとばかりに敬遠してしていた住宅ローン、小口ローンに進出するようになり、住専の貸しつけ先を奪ったからでした。貸しつけ先を奪われた住専は、当然ながら自ら顧客を開発するだけの金融ノウハウを持ちませんから、新たな貸しつけ先を親会社である金融機関に便り、親会社が首を捻って自らは貸し出さないような(だからこそ、子会社に押しつけてくるのです)怪しげな不動産関係の会社への融資にのめりこんでいったのです。バブル崩壊前の住専を考えるとこういう図式が浮かんできます。では、住専という金融機関の子会社はいつ頃、設立されたのか、そこにはどんな人的関係が埋め込まれたのかを次ぎに見ていくことにしましょう。 続く ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, September 16, 2007 10:22 AMSubject: 16日の日記
2007.09.16
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フランス革命(72) 分派闘争とモンターニュの分裂革命独裁と恐怖政治を生み出したもの、それは対仏大同盟という国際的なフランス革命包囲網との戦い、そして国内の反革命との戦いという、二重の反革命戦争に苦しみ、さらには民衆運動の圧力をも凌ぎきらなければならないという、想像を絶するような革命の危機でした。その危機に敢然と立ち向かい、勝利するために、必要なことなら何でもするという強い意志が生み出したものが革命独裁でした。危機の前に、モンターニュも公安委員会や保安委員会も、内部対立を封印して一致結束して事にあたっていったのです。そして、委員会の指導で次々と実行に移された政策が、次第に成果を上げたことによって、国民公会における公安委員会や保安委員会、とりわけ公安委員会の権威は高まり、益々公安委員会の権限は強化されたのです。とりわけ、サン・ジュストがストラスブール市で上げた成果は、恐怖政治への不満を一挙に封じ込める効果すら発揮したのです。しかし、革命独裁は危機の打開のために導入された、いわば非常時における臨時措置でした。困難が去り、危機が打開されたならば、いつまでも非常時対策を続ける必要はない、恐怖政治はもう不要なのではないか。公会の中間派やモンターニュ右派のダントン派は、このように考えたのです。一方モンターニュ左派のエベール派もまた、右派への配慮をかなぐり捨て、とくにキリスト教否定運動の推進と、民衆生活へのさらなる配慮を強力に主張するようになります。危機に際しては目立たなかった左右両派の対立が、またぞろ浮きあがってきたのす。先ず、議会は12月の上旬に、キリスト教否定運動の行き過ぎを抑えるために、礼拝の自由即ち信仰の自由を宣言します。これがモンターニュ内部のバランスを崩します。モンターニュ右派のダントンは、「わたしは、人の血をむやみに流さないことを要求する」との主張を掲げて、左派以外の投獄者の恩赦を要求して、左派に対して強力な戦いを挑みました。当然左派も応戦します。こうしてロベスピエール派を巻き込んでの左右両派の対立は激しさを増していったのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, September 16, 2007 10:22 AMSubject: 16日の日記
2007.09.16
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クロニクル モース大森貝塚発掘1877(明治10)年9月16日モースについては、6月18日の記事で、大森貝塚発見者のモース博士の来日に触れました。そのモース博士は、知人を訪ねて、2日後の20日に船で到着した横浜から(ヨコハマのハトバから~ふんいのーってと歌われたように、飛行機のない当時、日本の首府への表玄関は横浜港でした)、東京まで汽車に乗ります。その車窓から大森海岸周辺の地層を見て、そこが貝塚であることを確信したことについても、その時記しました。その確信をいよいよ実行に移したのが、130年前の今日だったというわけですこの年発足したばかりの草創期の東京大学教授への就任を要請されたモースは、迷った末に受諾し、9月12日から教壇に立ち、最初の日曜日となったこの日、助手や学生等を伴って大森海岸を訪れ、ここが間違いなく貝塚であることを確認したのです。日本で考古学という学問分野が発足し、認知される瞬間でした。高松塚を始めとする古墳群、三内円山遺跡などの縄文遺跡の発掘などの、目覚しい成果の原点は、ここにあるのですね。
2007.09.16
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フランス革命(71) 非キリスト教化運動の行き過ぎ共和暦は、長い伝統を持つ西暦を、フランス1国だけが変えるということですから、その面でも国民公会の強い意志が伝わってくるのですが、非キリスト教化運動はここに留まりませんでした。その中で、様々な行き過ぎも指摘されるようになります。地方に派遣された派遣議員の中には、賦与された権限の大きさに舞いあがってしまったのかのように、明らかに行き過ぎとしか思えないような極端な行動に出る人もいました。例えば、司祭に結婚を強制した議員が出たり、墓地の入口に宗教的な飾りに変えて「死は永遠の眠りなり」と記した掲示を掲げた議員も出ました。モンターニュ左派のエベール派がその先頭に立ちました。教会内部での革命の理解者だったパリ司教ゴベルは、エベール派コミューンに強制されて,還俗を宣言せざるをえない状況に追いこまれました。中心となったのは、コミューンに根を張ったエベール派でした。ダントン派は、こうしたエベール派の行き過ぎを苦々しく思っていたのですが、公安委員会もまた、こうしたキリスト教否定運動の行き過ぎが、国内に無用の敵を増やす事になるのを見越して、エベール派の行動に危機感を募らせたのでした。ロベスピエール自身は、エベール派の無神論は、革命的人民の倫理とは合いいれないと考え、単なる既成宗教の否定に留まらない、新たな理性的信仰を創出することを考えていました。ここにロベスピエールは、ダントン派と結んで、キリスト教否定運動の行き過ぎを封じようと、考えるにいたったのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, September 15, 2007 10:17 AMSubject: 15日の日記
2007.09.15
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クロニクル 立憲政友会結成1900(明治33)年9月15日この日、午前10時より、帝国ホテルで立憲政友会の結成大会が開かれました。総裁に就任した伊藤博文は、「これからの政党は、国家の利害を第一義として、私的利害を捨てて活動すべきである」と強調しました。日本の政党は、自由民権運動を背景に、1890(明治23)年の国会開設に先立ち、板垣退助らの自由党と大隈重信らの立憲改進党等が、反政府派によって結成され、総称して民党と呼ばれたいました。これに対し、政府支持派による政党作りは遅れ、政党作りを意識したのも、伊藤が1898(明治31)年に第3次内閣を組織した際に、その必要を感じたのがきっかけでした。この時の伊藤の試みは成功しなかったのですが、それから2年、ようやく最初の政府系政党(政府党と言われます)として、立憲政友会の結成となったのでした。こうして政府支持派も反政府派も、政党に結集して理非を争う時代が誕生したのです。日本にもようやくにして、政党政治の時代が訪れたのです。この立憲政友会を基盤に、翌月には第4次伊藤内閣が誕生し、閣僚のほとんどが立憲政友会の党員が占める内閣(陸相、海相、外相以外の全員)が登場することになります。
2007.09.15
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フランス革命の制定 (70) 共和暦の制定64回以来の本論に戻ります。フランス革命史に付き合うと、ロベスピエールと彼のグループを失脚させたクーデタをテルミドール9日のクーデタと呼び、ナポレオンが政権を握ることになるクーデタをブリュメール18日のクーデタと呼ぶなど、あれっと思う呼称に出会うことがあります。共和暦(革命暦)2年テルミドール9日とか、共和暦(革命暦)8年ブリュメール18日などは、特に有名です。この暦の由来を説明するには、フランス革命とキリスト教の関係を記すことが必要です。啓蒙思想、とりわけディドロ等百科全書派やルソーの影響を強く受けていた革命派には、当初から国家と教会の分離を目指そうとする空気が強かったのです。既に89年に実施された教会(修道院)財産の国有化は、聖職者を公務員化して、国が俸給を支払う代わりに、教会の財産を没収するものでした。聖職者民事基本法もこの趣旨に沿って、聖職者に革命への支持表明を求めるものでした。しかし、ローマ教皇がフランス革命に反対する意志を示したことから、聖職者の半数近くが,革命を支持する旨の宣誓を拒否し、革命に反対する立場をとって、反革命運動の一翼を担い始めたのです。そこで革命政府は、社会生活の世俗化をさらに進め、その一環として、キリスト教紀元の暦を廃止し、共和政の開始を起源とする新しい暦を制定したのです。それが共和暦でした。その共和暦の考え方は、(1) 実質的に共和政がスタートした1792年の9月22日を共和暦元年の1月1日にあたる日とする。(2) 1ヶ月は30日とする。(3) キリスト教を否定するのであるから安息日、祈りの日としての日曜日は設けないし、曜日制そのものを廃止する。(4) しかし、仕事の休日は必要であるから、毎月1日、11日、21日の3日間を休日と定め、さらに1ヶ月30日なので、1年は360日となり、5日のあまりが出るので、最後の5日間は休日とする。(5) そして最後に、12の月については、フランスの風物を見渡して、その時期その時期を代表し、最も相応しく季節感を現すような詩的な名称をつける。としたのでした。こうして、12ヶ月夫々に、実に優雅な名称がつけられたのです。折角ですから、本日の最後にその名を記しておきます。9/22~10/21 ヴァンデミエール (葡萄月)10/22~11/20 ブリュメール (霧月)11/21~12/20 フリメール (霜月)12/21~1/19 ニヴォーズ (雪月)1/20 ~2/18 プリュヴィオーズ (雨月)2/19~3/20 ヴァントーズ (風月)3/21~4/19 ジェルミナール (芽月)4/20~5/19 フロレアール (花月)5/20~6/18 プレリアール (草月)6/19~7/18 メシドール (収穫月)7/19~8/17 テルミドール (熱月)8/18~9/16 フリュクチドール (実月) 革命政府の執念のようなものが感じられる決定でしたが、民衆心理に長く根ざした無辜の信仰を、理性で制御可能だと考えている点で、インテリ特有の過ちが潜んでいることを、今の我々は見てとることが出来ます。対宗教の関係は、フランス革命の今後について考える時に避ける事の出来ない重要性を持っています。なお、この共和暦は、ナポレオンがフランス皇帝に就任した1805年に廃止されますので、実質12年間、暦の上では13年間命脈を保ちました。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, September 14, 2007 10:19 AMSubject: 14日の日記
2007.09.14
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クロニクル 住専8社の不良債権総額8.4兆円に1995(平成7)年9月14日この日、大蔵省は実質的に破産状態に陥っていた住宅金融専門会社(略称住専)8社に対する立ち入り検査の結果を発表しました。それによると、8社合計の不良債権総額は8兆4千億円に達するという事でした。8社のうち7社の不良債権額は自己資本を大きく超えており、7社の倒産処理はこの時点で不可避となり、7.6兆円に達する7社分の不良債権を、誰がどれだけ負担するかが、大きな政治問題になったのでした。民間会社の不良債権処理が何故政治問題になるのか、そこには、現在のサブプライム問題に絡む信用収縮を考えるヒントも多いので、今後何度かに分けて考えていきたいと思います。
2007.09.14
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クロニクル オスロ合意調印1993(平成5)年9月13日この日、ノルウェイのオスロで、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長と、イスラエルのラビン首相は、パレスチナの暫定自治に関する基本協定(オスロ合意)に調印しました。パレスチナ解放機構(PLO)に第3次中東戦争以来イスラエルが占領中の、ヨルダン川西岸地区とガザ地区における自治権を賦与、いずれは政府と認めることで、アラブ・イスラエル紛争に終止符を打とうとする野心的な協定でした。この協定がアメリカ及びイギリス政府の頭越しに、密かに計画され、そして結ばれたことの意味は、将来のアラブ・イスラエルの関係を見て行く上でも軽視されたはならない、重要な示唆を含んでいるように、私は考えています。これから、箱根へ出かけますので、次回の更新は明日の夕方になります。フランス革命シリーズは、1日休載です。あしからず。
2007.09.13
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安倍辞任に思うこと安倍首相が政権を投げ出した。参院選惨敗の直後に辞めていれば、評価されたでしょう。「若いのに引き際を知る。さすがに宰相の器だ」と。となれば若いのだから、いずれ再登板のチャンスもあったでしょう。それなのに…政権に恋々としてしがみつき、ついに進退窮して、所信表明演説をして、その翌日に辞意表明という,前代未聞の大失態をやらかした。最悪である。辞めるならまだ所信表明前の方が良かった。そして、内閣改造前の方が良かった。この内閣は何もしないで終りである。官僚は所管大臣へのご進講で時間を取られ、それが全て無駄になる。やり直しだ。あぁあ、国費の無駄使い。麻生首相になれば、幹事長を入れ替えて、若林農水代打大臣を入れ替えて,他は留任という手があるかもしれないが、実質野垂れ死にの安倍首相との関係が良いのは、今回は返ってマイナスに働く可能性もある。私は麻生首相の目は小さいように考えている。さて、安倍お坊ちゃま君、君は最後までアマちゃんで、世論の風が読めなかったね。君に運の悪いところがあったとすれば、それは運が良過ぎたことだね。小泉お兄さんの引きで、政治のかけひきも良く分からない君は、北へお供した時に拉致問題でカァーときて、超過激な発言をした。それが国内のナショナリズムと共鳴して実力と不相応な人気を得た。人気者の好きな小泉お兄さんが君を贔屓にした。幸運だった。そして実力の伴わない人気とお兄さんの支持で君は首相にまで上り詰めてしまった。経験も浅く、出所進退の心得もない君には,所詮無理な地位だった。やめさせるべき人を庇い、押し引きをせずに数の力で強引に法案を通し、世論を完全に敵にしてしまった。お坊ちゃま君の君は、所詮まだ首相の器にまで育っていなかった。運が良過ぎたのが君の不運だった。野垂れ死にした君には、もう再登板のチャンスはないと思う。安保改訂で世論を敵にし、野垂れ死にした祖父以上に無惨な最期だったね。しばらく謹慎して自分に足りなかったものを考えてほしい。
2007.09.13
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