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あきれたぞ!国民年金今晩は。今日で10月が終りますね。実は私の誕生月は神無月、神様がお祭りにでかけてお留守になる月です。で、今年で65歳。共済年金、これは職場ががっちりしていて、給料から年金分が差し引かれ、差額だけが支給となるため、否応なく手続きを済ませたのですが、面倒なのが国民年金でした。年金に関する諸問題は、出るわ出るわで、開いた口が塞がらない状態ですが、ここ楽天のブログでも、私も拝見させていただいている葉月 生さんが何度か、実に気の効いた切り口を見せてくれていました。ですから私が付け足す事もないのですが、国民年金の支給申請書類の煩雑さたるや、実にあきれたものでした。さすがの私もカチンときましたので、きょうは、フランス革命期の女性像の話を、パスさせていただいて、呆れた年金申請書類について、書かせていただきます。記入する箇所が多いわけではありません。しかし、説明に親切心全くゼロ。多くの方が煩わしいし、面倒だとおっしゃる所得税の税務申告書類や説明書類の方が、余程わかり易いと書くと,分かっていただけると思います。あるところを書いて、良く見ると添付書類の別刷り説明書を見よと出てきます。その該当ページの支持もあるのですが、それが別刷りのどこになるのかを、飲み込むのがまた大変です。書類など、分かり難いものを読み解く訓練は、かなり積んでいる積りの私ですら、「なんだこれは」と怒りが込み上げてくるくらいですから、今までも、あまりに分かり難くて音をあげ、申告できずにきてしまった弱者がいらして当然だと思いました。まだあります。私は、大学卒業後、大学院に在籍したり、予備校や高校の講師で食いつないだ時期があり、その間は友人が就職していた関係もあって、5年ほど任意で国民年金をかけていました。その後は共済年金なのです。で、話題の年金記録については、何の間違いもなく印字されていたのですが、さてお立会いです。何の誤りもないのなら、それでよさそうなものなのに、あろうことか、所属の共済組合から、わざわざ「年金加入期間確認通知書」なるものを取り寄せて、申請書に添付しろというのです。「屋上屋を架す」の典型例です。間違っていたら、訂正用に添付して欲しいというのなら,分かります。しかし、これで良いですよ。と言っているのに,添付しろです。ご自分たちもテンテコマイしているのでしょうに、不要な仕事を、慣例に従ってやろうというのです。ヤレヤレ、あれだけ叩かれても、まだ替わろうとしないんですねぇ。叩かれた部分だけ、シブシブ変える。本当に骨の隋まで腐りきった,どうしようもない役所ですね。申請書類から見えてくることは、国民のお金を預かって運用し、いずれ時がきた方には、増やしてお返しするんだという姿勢は、かけらもないこと。「預かってやってたんだ、あり難く礼を言え!。ちゃんと礼が言えて、この書類が誤りも瑕疵もなく、ちゃんと書けたら、支給してやらぁ」と、こういう態度なんですね。オカミ意識丸出しの、ちゃんと請求が出来ないなら,払ってやらない式の態度は、少しも改まっていない。そういうことが、自分が国民年金の支給申請をやる段になって、実感として良く分かりましたので、一筆させていただきました。皆さんも、もしいずれ国民年金を申請する立場になるのでしたら、記憶の済みに留めておいてください。
2007.10.31
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バブルを考える(32)BIS規制…3さて、BISの決めた自己資本比率規制の内容です。単純に言うと、それはユーロ市場での取引に参加できる銀行の資格制限です。ユーロ市場参加行は、常に自己資本が貸出し総額(債権)の8%以上あることが、参加の条件であると決めたのです。これは銀行の側からみれば、自己資本の12,5倍までは貸し出せる、あるいは12,5倍以上は貸してはいけないということを,意味しました。市場のトラブルは、貸しだし債券の不良化によって起こりますが、貸出しの全てが不良化することは、資本主義が崩壊しない限り、ありえません。ですから、自己資本の12,5倍以内の貸出しであれば、1部の貸出しが不良化しても、当該銀行の経営が傾く事がないであろう。自己資本比率を8%と決めておけば、ユーロ市場でのトラブルは避けられる。こういう判断でBISの判断は一致したのです。経済合理主義的判断としては、しっかり筋は通っていると、私は判断しています。次ぎに、BISのいう自己資本とは何かを考えます。そこでは、日本の強い主張もあって、次ぎのような妥協が図られました。先ず、固有の意味での自己資本、即ち資本金、資本準備金、非累積型優先株などをコアとなる自己資本、T1とし、その他に、補完的自己資本T2を認めたのです。ここに、劣後債、劣後ローン、貸し倒れ引当金と並んで,株式等の含み益の45%までを、組み込むことが認められたのです。日本の強い主張を,欧米諸国が受け入れたのです。株式価値は常に変動しますから、含み益も日常的に増減します。従って、株式を自己資本に算定すると、自己資本も常に変動するため、貸出し総額をその12,5倍に抑えることが、相当難しくなることも予想されたからです。そこで、もう1点、株式などを含むT2は、T1と同額までしか自己資本に組み入れてはならないという、項目が追加されたのです。87年末、BIS規制が合意された時、日本はブラックマンデーのショックをいち早く解決し、バブルの絶頂期に駆けあがる準備を整えていた時でした。 続く
2007.10.31
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クロニクル 米国、北爆を停止1968(昭和43)年10月31日この日、アメリカのリンドン・B・ジョンソン大統領は、北ヴェトナムに対する爆撃(北爆)を中止する旨、発表しました。米軍機による北爆は、米軍の自作自演だったことが、後に明らかとなった64年8月2日のトンキン湾事件(北ヴェトナム魚雷艇が米艦船を魚雷で攻撃したとする事件)を受けて、同年8月4日に始めて行なわれ、やがて恒常的に行なわれるようになっていきました。その北爆をやめると言い出したのです.小国南ヴェトナムにおける、民族解放の戦いに、大国アメリカが追い込まれ、遂には北爆の停止を決断するに至った」のです。
2007.10.31
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バブルを考える(31) BIS規制 その2BIS規制の誕生を振りかえってみます。話は1974年、第一次石油ショックの最中です。世界貿易の不均衡は,石油ショックの結果として、当然ながら著しく強まりました。それに伴って各国経常収支の不均衡も広がりました。当たり前ですが、この不均衡は国際的な資本取引で調整するしかありません。こうして70年代半ばから、国際的な資本市場(ユーロ市場)が急速に拡大しました。この点はユーロ市場の総残高の増加を見るとはっきりします。80年末に1.3兆ドルだった総残高は、85年末には2.1兆ドルへ、そして90年末には5.9兆ドルと、5,5倍に増加しています。今やユーロ市場の存在は、世界貿易の拡大に不可欠な存在になっているのです。もしユーロ市場が機能不全に陥ったとすると、貿易赤字国は、赤字分をユーロ市場で借り入れる事が出来ず、その分の支払いに窮することになります。それゆえ、その分の輸入を取りやめるしかなくなります。それは経済先進国にとっては、輸出の減少に帰結します。貿易取引の維持、拡大を考えるとすると、貿易黒字国は、ユーロ市場を経由して、貿易赤字国に資金を貸し付ける方法を選ばざるをえません。ここにユーロ市場が急拡大した理由があります。ところがユーロ市場は国際市場です。ですから各国の金融市場と違って、ユーロ市場を監督する,監督当局もなければ規制も存在しないのです。それゆえ、急速な市場の拡大も可能なのですが、何らかのトラブルが発生した場合には、ただちに機能麻痺に陥る弱さも,併せ持っていたのです。そしてユーロ市場の機能マヒは、ただちに世界貿易に伝播し、国際経済に大きな影響を与えます。バーゼルに本拠を置くBIS(国際決済銀行)は、ユーロ市場に参加する、各国中央銀行の集合体なのですが、このBISを中心に、ユーロ市場における危機回避策が話し合われました。ユーロ市場に参加する金融機関は、各国のそれの支店であることが多いのですが、当時もまれに、いくつかの国の金融機関が国境を越えて別法人の共同出資子会社を作り、ユーロ市場のプレーヤーにしているケースも出てきたのです。1国の銀行の支店であれば、本国の責任で処理してもらうことが可能ですが、後者の場合は責任の所在が曖昧で、国際的金融危機を招き易いのです。ここに、BISは発想の転換を図り、「危機に陥った時の解決法」ではなく、「危機を起こしかねない問題銀行を、事前に炙り出して、ユーロ市場に参加させないようにしよう」と、ユーロ市場に参加できる健全行の基準作りに入ったのです。これがBIS規制、自己資本比率規制の検討を開始するに至る論理でした。それは決して、日本外しであるとか、ある特定の国に向けた規制ではなく、極めて明快で経済合理性にあったものでした。この規制が日本叩きに見えたとするなら、それは,日本の銀行の経営姿勢が,当時から経済合理性を無視したとんでもない経営だったということにしか、なりません。公の場で使えないムラの理屈でしかなかったということになります。当初はそんなことはありませんでした。BIS規制が決着した直後、日本の銀行はどこも、意気軒昂としていたのです。 続く
2007.10.30
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フランス革命(110)フランス革命期の女性像その8 エリザベート・ルバ (2)デュプレ家の娘たちは、家に近いコンセプシオン修道院で,数年間教育を受け、読み書きを磨き、手芸や音楽も学びました。末娘のエリザベートが1番書く事が好きだったようです。姉のエレオノールが書いたものは残っておりません。さて、91年7月、シャン・ド・マルスの虐殺事件んの余波を恐れて、ジャコバンクラブにほど近いデュプレ家に難を避けたロベスピエールは、デュプレ家の離れに落ち着き、そこで家庭の味を覚えます。彼は、幼くして母を亡くし、母方の祖父の家で育てられたからです。熱心なジャコバン派の支持者だったデュプレ夫妻は、暖かくロベスピエールをもてなし、良かったらここに住むようにと進めます。質素で温かな雰囲気が気に入ったのでしょう。ロベスピエールはここに居を構え、彼の部屋には、彼の仲間やジャコバン派幹部が出入りします。マラが彼を訪ねたのも、この家でした。そして国民公会議員となった、ロベスピエール崇拝者のルバも迷わずデュプレ家に現れます。これが、エリザベートとルバの出会いでした。2人は恋に落ち、ロベスピエールや家族やジャコバン派の仲間達に祝福されて結婚します。93年8月のことでした。結婚しても彼女はジャコバンクラブに通う事はやめませんでした。国民公会の議場へも出かけていました。テルミドール9日、夫の逮捕を知った彼女は、差入れの品を持って、監獄へ向います。幸い夫は、パリのコミューンの手で釈放されるところでした。喜びも束の間、死を覚悟していた夫から、彼女は別れの言葉というか遺言を受けます。それは、まだ生まれて6週間の赤子、小フィリップのことでした。「さよならだ、エリザ。君は息子のために生きてくれ。君ならきっと出来ると、ぼくは信じている。」「フィリップは、ずっと母乳で育ててほしい。(これは「里子に出さないで」という意味です。神父の註)」「あの子に祖国への愛を植え付けて欲しい。」「父は祖国のために死んだのだと、伝えてほしい。」これらのルバの言葉は、小フイリップの成人後に、彼が父の言葉として、母から聞かされた言葉です。監獄から市庁舎へ向う道すがら、ルバはずっと妻に語り続けておりました。翌日の早朝、ルバは逮捕を避けて市庁舎で拳銃自殺を遂げました。エリザベートは乳飲み子を抱いたまま、姉のエレオノールと共に牢に入れられます。姉が一緒で心強かったのでしょうが、エリザベートは牢獄で過ごした5ヶ月の間、毎晩夜中に水飲み場で、オシメ代わりの襤褸切れを洗い、それを姉が、自分の寝床で乾かしてくれました。真冬の1月の初めに、2人は放免され、それから生活の苦労が始まります。お金も住むところもない2人は、セーヌ川の洗濯舟で洗濯婦として働くしかありませんでした。特に冬場は寒さが堪えるこの仕事は、パリの婦人労働の中でも、最も下層の厳しい仕事でした。こうして世の辛酸をなめ尽くしながら、それでも夫に託されたことを忘れず、共和主義者の妻の誇りを失わず、忘れ形見のフィリップを立派に育て上げてゆきます。フィリップは立派に成人し、後年ソルボンヌの考古学、言語学の教授となり、学士院会員として、学問の世界に名を残しています。姉のエレオノールは、愛する人を亡くした後も、妹を助けてフィリップの養育を手伝い、1832年に64歳で世を去りました。この時期、ロベスピエールの妹、シャルロットはなお健在でした。以下は、哲学者・政治家として名を成したジュール・シモンの若き日の回想です。「私の考古学の教授の、フィリップ・ルバ先生の家で、食事をした時、サロンに年老いた婦人が入ってこられた。動作は若々しく、身体もシャンとしていて、まぁ総裁政府時代の服装で、お洒落ではないけれど、手のかかった清潔さを漂わせていました。ルバ夫人、母堂(エリザベート)、ルバ先生も敬愛の気持を示し、女主人に仕えるようだった。食事の間、口数は少なく、口を開く時は、礼儀正しく、重々しかった。サロンで夫人に、『いったいどなたなんですか』とお聞きすると、『エッ、私申し上げなかったですか。ロベスピエールの妹サンですよ』…… 当時私(シモン)は高等師範学校の1年生でした。」立派に育った息子の下で、穏やかな晩年の日々があったこと、シャルロットとの交遊が続いていたことを、知ることの出来る貴重な回想です。エリザベートは、1863年まで生き、89歳で世を去りました。(完) 続く
2007.10.30
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クロニクル 教育勅語発布1890(明治23)年10月30日この日、明治政府は「教育勅語」を発布しました。自由民権運動の盛り上がりを、国会開設の約束でかわしましたが、明治17年の激化事件の白眉となった、秩父事件では、秩父の農民達がいとも気軽に、「怖レナガラ、天頂様ニ攻敵スルカラ、加勢シロ」と近在農民に呼びかけていたことが伝えられ、政府の魂胆を寒からしめました。徳川270年の支配すら、あっけなく倒されたではないか。ならば、僅か17年の天皇の政府くらい倒すのは簡単だ。これが秩父農民の考え方でした。こうした農民層の受けとめ方は、全国的に共通します。そのことに気付いた政府はあせりました。これは放置できない。天皇を敬う心を教え込み、天皇制イデオロギーを社会に浸透させなければならない。こうして考えられたのが、明治15年の軍人勅諭の積極活用であり、この日制定された教育勅語の活用でした。学校と軍隊で行なう思想教育です。勅語は、親に孝,主君に忠…などの標語を並べ、「日本は天皇を父とし、皇后を母とする家族国家である」とする事によって、忠と孝の間の相克を取り除いたのでした。そして、勅語の徳目を一つ一つ学習する場が「修身」の授業でした。国史の時間では、歴代天皇の名を全て暗誦することから始めて、天皇の善政と、国民への慈悲の姿勢のみを学ぶことによって、ここでも天皇のあり難さが刷り込まれることになっていました。幼い内に刷りこまれる天皇絶対のイデオロギーは、そうした子ども達が親になり,社会の中心になるにいたって完成します。天皇制国家の支配構造は、こうして日露戦争の勝利後、明治末には完成し、いつしか、天皇は日本国民の父といった位置付けから、現人神にまつりあげられていきました。1番困っていたのは、天皇その人だったのかもしれないと、この頃は考えるようになりましたが…。身近の「拉致」の国の、「将軍」様のやっていることは、明治国家版、国民思想教育をそっくり真似しているように思えます。そう考えると、他人事でないような…。それにしてもひどい話でした。国民思想教育の先兵が教育勅語だった事実は、忘れてはいけないことのように思います。
2007.10.30
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フランス革命(109)フランス革命期の女性像その8 エリザベート・ルバ (1)エリザベートは、1791年7月のシャン・ド・マルスの虐殺事件後、ロベスピエールが94年7月のその死まで、ずっと下宿していたサン・トノレ街の指物師デュプレの末娘です。彼女の姉エレオノールは、ロベスピエールと親しく、2人の母はエレオノールがロベスピエールと結婚する日を夢見ていたようですが、その日は遂に実現することのないまま。破局を迎えました。ところで、末娘のエリザベートは、ロベスピエールを敬愛していた最年少21歳で国民公会の議員となったルバと、熱烈な恋愛の末に、93年夏、ロベスピエールを立合い人として結婚します。この時19歳でした。そして長男が生まれた,僅か6週間後にテルミドールのクーデタを迎え、ルバは見事なピストル自殺を遂げ、彼女は未亡人となります。そんな彼女は、厳しく苦しい生活に耐え、一粒だねのフィリップを立派に育て上げます。そのことはまた記すとして、エリザベートはデュプレ家の生活の折々の様子を、そのメモワールに記しています。おかげで、私生活の様子を知る手懸りがほとんどないロベスピエールという、フランス革命を語る上で、欠かす事の出来ない人物の日常の一端が、見えてくるのです。「ロベスピエールさんは、全く人が良かった。私たちは、兄のように彼を慕っていた。」「母が私たちを叱ると、庇ってくれた。時々私にはそういうことがあった。私は年もゆかなかったし、少し軽率だった。非常に良い忠告をして下さるので、私は若かったが、喜んで彼の言葉に従った。」「私たちは、家族で良くシャンゼリゼを散歩した。ロベスピエールさんも良く一緒に楽しい時を過ごした。廻りにはサヴォワの少年芸人が集まり、ロベスピエールさんはその踊りを楽しみ、お金をやるのだった。本当に人が良かった。夜散歩から帰ると、ロベスピエールさんは、コルネイユ、ヴォルテール、ルソーの本を読んでくれ、私たちは家族揃ってそれを聞いた。彼が読むと、真に迫って聞こえた。1,2時間朗読すると、お休みを言って、部屋に引き上げた。」ここには、ロベスピエールらしい清潔で簡素な生活振りが書かれています。人の良さを漂わせているというのも、何となく几帳面で、規則性が感じられて、しかつめらしい様子もなるほどと思わせられます。立法議会が始まり、ロベスピエールが非議員となり、ジャコバンクラブのみを活動拠点としていた、比較的時間がとりやすかった時期の日常生活振りを窺い知ることが出来ます。エリザベートはまた、92年9月にアラスを引き払ってパリに出てきた、ロベスピエールの妹シャルロットとも、デュプレ家の家族の中でただ1人、仲良く付き合っています。「シャルロットさんは、私が気にいったようだった。私も親しみを感じており、時々お会いするのが楽しみだった。シャルロットさんの髪をカールし、お化粧を手伝うのが楽しみだった。」2人の付合いは,晩年まで続くのですが、その点には、また触れたいと思います。 続く
2007.10.29
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バブルを考える(30) BIS規制こうして、90年に入ると先ず株価が大きく下落に転じ、ついで91年に入ると地価が崩れました。問題は株価も地価も、その後回復しなかったことにありました。株式市場では、92年、95年、97年と3度も日経平均は14,000円台まで落下しました。株価はそれでも下げ止まらず、98年には12,000円台の新安値をつけ、2000年のITバブルを挟んで2003年には7000円台という、89年末の高値と比べると20%以下にまで下落して、ようやく下げ止まりました。地価の下落も続きました。どうして、こんなことになったのか。政府も,日銀も、そして金融業界、財界を含めて,日本の産業界全体が適切な手を打てず、途中からは打つことすら出来なくなっていたからです。特に92年以降は銀行を中心に大きな信用収縮すら始まっていました。何故そうなったか。87年12月に成立したバーゼル合意、BIS(国際決済銀行)規制に原因がありました。といっても、BIS規制そのものに問題があるわけでは、ありません。日本政府並びに日本の金融界の対応に問題がありました。このBIS規制、導入までに5年の猶予を設け、適用開始は92年12月から、日本の銀行については93年3月から、規制の適用を開始することになっていました。どこがどう問題になるかを記す前に、先ずBIS規制とは何か、何が目的なのか、規制導入に至る経緯と、そこから導き出された規制の内容を記しておきたいと思います。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, October 29, 2007 9:58 AMSubject: 29日の日記
2007.10.29
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クロニクル 第2次中東戦争勃発1956(昭和31)年10月29日この日、イスラエル軍は突然ガザ地区の国境を越えてエジプトに侵入、スエズ運河地帯の占領を目指して、エジプト軍への攻撃を開始しました。ここに第2次中東戦争(スエズ戦争)が始まりました。エジプトのナセル大統領は、この年7月26日にスエズ運河の国有化を宣言し、同運河を接収しました。スエズ運河はイギリスとフランスの資本が支配権を握り、実質的に両国が支配していただけに、この措置に両国は仰天し、次第に武力解決やむなしという判断に傾いていきました。この空気を敏感に察知したのが、イスラエルでした。英仏の尻馬に乗って、領土拡大を実現しようと、スエズ攻撃の先兵役を引き受けたのです。翌日、英仏両国軍は、スエズ運河の安全確保と、運河地帯の中立化のためと称して、スエズ地帯に大軍で侵攻しました。イスラエルにエジプトを攻撃させ、それを口実にスエズ運河を再占領しようという、あくどくかつ姑息な方法でした。当然国際世論は、英・仏・イスラエルに厳しく、英仏が期待したスエズ運河の再接収は、失敗に終らざるをえませんでした。12月22日、国連は緊急総会を開いて,英仏両国とイスラエルに撤退を勧告、スエズ再占領計画は失敗に終りました。
2007.10.29
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バブルを考える(29)PER60倍を異常と思わない日本の証券界や市場参加者のバブルに酔った姿を、冷静に見つめていたのが、外資でした。国内にも三井信託銀行のように、89年中に1兆円の株式を市場で売り切ったところもありましたが、それは少数の例外でした。90年以降、株価は釣瓶お年のように、下げ続けました。38900円台をつけていた日経平均株価は、1年後の90年末には、2万円スレスエまで下がり,1時盛り返しても下落圧力は強く、92年8月には、14300円台まで下げるにいたります。あまりの下落に、共同証券を作って株価を維持しようという計画まで登場します。東京オリンピック後の証券不況時に、うまく嵌まった策を今回もやってみようというのです。証券市場の規模拡大を考えると、無理な相談でした。しかし,株価を管理出来るのではないかと、政府の各部局で額を寄せ集めての鳩首協議が続けられました。こうして公的資金や郵便貯金を利用した株価維持が続けられて行きます。70~80年代に企業同士の株式持ち合いが進んだ結果、日本の株式が実態に比べて割高な位置まで変われていたことは事実です。政府も証券界も,この前提が続くなら、公的資金による株式市場操縦は可能と考えたのでした。国連平和維持軍をもじってPKO(プライス・キーピング・オペレーション)と呼ばれた公的資金による株価維持策にも関わらず、株価はいっこうに上昇基調には,戻りませんでした。ファンダメンタルズを無視した株価は、一時的にはありえても、それは熱狂と狂乱のユーフォーリアが創り出した1時の夢に過ぎないのです。2度も3度もありえるわけではありません。まして永続することなどありえないのです。新日鉄の株価が、バブル以来18年振りに,900円台の高値を更新しましたが、それは、新興国市場の好調による1株当たり利益の急上昇という裏づけをもった、PERの大きな低下があったからでした。市場の警告を小手先で交わそうとしたところに、危機を深化させてしまった大いなる失敗があったのです。 続く
2007.10.28
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フランス革命(108)フランス革命期の女性像その7 ロラン夫人(5)ロラン夫人は逮捕されました。当初は、そう深刻な事態には思われなかったのですが、地方に脱出した幹部たちが、各地の都市で自分たちを追放したジャコバン派やパリ民衆に、罵詈雑言を浴びせて非難したこと、地方都市の自治権要求派が、ジロンド派の連邦主義(当然、国家を各地方の緩やかな連合体と考えますから、ジャコバンの集権主義に比べ、地方の支持を得やすいのです)を支持し、国民公会に叛旗を翻したことなどなから、ジロンド派幹部への風圧は強まります。既述したシャルロット・コルデーによるマラー暗殺も状況を悪くします。こうして、ロラン夫人の釈放は望み得ない(1度数日だけ釈放されたのですが、すぐに再逮捕されました)ことになって行きます。やがて彼女は革命裁判所の法廷に引き出され、簡単な尋問にあっただけで、死刑の宣告を受けます。彼女の処刑は11月8日の午後4時頃だったと記録されています。マリー・アントワネットの処刑は10月16日、そしてブリソーら投獄中のジロンド派幹部22名は、10月30日~11月2日にかけて、処刑されていました。「おお、自由よ、汝の名において、いかに多くの罪が犯されたことか」彼女の名と共に伝えられた,この一言は、ギロチン台に上る寸前に、見物衆に向っての発言だったようです。この時39歳でした。逃亡中のロラン氏は、妻の刑死を知った1週間後の11月15日に、ステッキに仕込んだ剣で、我が身を刺して妻の後を追いました。59歳でした。ところで、ロラン夫人の獄中生活は、牢番が生活のためにワイロで何でも用を足してくれたため、押収される前に、書簡やメモワールを手にすることが出来、面会も比較的自由でした。そのため、彼女はここで、メモワールや書簡を脚色しながら、回想録を執筆することが出来ました。牢獄では時間がタップリあったからです。この回想録は、知人の手を通じて、テルミドールのクーデタ後、生き残ったジロンド派で、彼女の熱心なシンパだったボスコの手に渡り、出版されたのです。 この項 完 続く
2007.10.28
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クロニクル 「わたし作る人…」なんて差別だわ1975(昭和50)年10月18日もう30年以上前になりますが、「わたし作る人、ぼく食べる人…」というハウス食品のコマーシャルが、良くブラウン管を賑わしていたのを、ご記憶の人も多いと思います。食べ物はカレーだったか、ラーメンだったかしたような…?我家では、当時麺類は私が茹でていたのですが、特に気にすることもなく、ワイフと笑いながら、何気なく見ていたのですが、このコマーシャル75年の10月をもって放送打ちきりとなりました。75年は、国際婦人年と銘打たれた年でしたが、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」という、おそろしく長たらしい名称の団体が、当時人気のあった「わたし作る人、ぼく食べる人」のコマーシャルに対し、「男女の役割分担を固定化する差別CMである」として、提供元であるハウス食品工業に抗議文を送り、放送中止を求めたのです。指摘を受けたハウス食品は、食品メーカーとして婦人団体を敵に回すわけにはいかないと考え、この日CMの中止を決断。今月末をもって放送を中止する旨を「行動を起こす会」に伝えました。同会は、今後も女性差別に通じるCMには、抗議を続けるとの姿勢を表明したのですが、テレビCMだけを対象としたため、巷に反乱する差別語は平然と見逃してしまい、そうした差別語が今もって平然と使われ続けるという、弱点も露呈していました。一例をあげておくと、子ども達の小・中・高校のPTAの会合の名称です。「父母会」と自覚的に呼んでいる学校はどれだけあるでしょうか。未だに戦前の家父長制社会そのままに、恥かしげもなく「父兄会」と呼んで憚らない方達が数多く見受けられます。「父兄会」の兄は、家督相続者であり、父に事あれば、弟妹達の生活の面倒を見る責任を負う、浅見光彦君の兄上のような兄を指す語で、実際には存在しない兄を残して、現実には子に対して圧倒的な影響力を発揮している、母の存在をいまだに否定して憚らない鈍感さに、実はわたしは呆れています。「いまどき「父兄会」だなんて、そして「ご父兄の皆様」だなんて、よくもまぁ平気で言ってますねぇ、あんた古いネェ…」これはわたしの1人言です。
2007.10.28
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バブルを考える(28)バブル崩壊は株式相場の下落から始まりました。日本の株価は、僅か数ヶ月でブラックマンデーの衝撃を切りぬけ、日経平均株価は87年末の21564円から、僅か2年で38915円まで85%強も上昇していました。FRBのグリーンスパン議長は、88年秋日銀を訪れ、「日本の株価は高すぎないか」と率直に疑問と不安をぶつけていました。当時日本の株価収益率は平均で60倍という異常値を示し、10倍台に留まる米国との差は、はっきりしていました。グリーンスパンは,日本の上場企業が87年~89年にかけての2年間に海外市場でのエクイティファイナンス(新株発行を伴う資金調達)によって59兆円もの資金を集めている事実を指摘し、その資金が「有効に使われているのか」「日本企業の経営効率はどうなのか」と問いかけを続けました。株価収益率の高さは、将来の利益成長に対する期待の大きさを示していますから、利益が期待ほどに伸びなければ、やがて株価は大幅な調整(下落)を避けられないからです。事実日本株のROE(株主資本利益率)は1980年の12%超から、1990年には7,1%にまで下落していました。これは当時の国債利回りと同程度であり、日本株は魅力的な投資対象とは言えない水準になっていたのです。しかし、国際市場での資金調達が容易だったため、企業のリスク感覚は麻痺していました。グリーンスパンの不安や疑問は、日本市場への親身な警鐘だったのですが、日銀幹部も日本独特の株式持合いまで引き合いに出して、彼の疑問を打ち消したのです、納得のいかないグリーンスパンは,何度も首を捻ったそうです。この当時日本企業は、市場で調達した資金を財テクと称して再び株式市場に還流させ、設備投資など前向きな投資に回した額は3割程度でした。これは確かに問題でした。財テクに回す余裕があるというのは、当面不用,不急な資金です。何故そんな資金を調達する必要があるのか。それは後になって、多くの企業が思い知らされる大きなツケでした。90年に入ると株価は下落に転じ、2月総選挙での海部内閣の圧勝にも関わらず、株価は下落を続けました。実は、経済のファンダメンタルズを重視する外資は、グリーンスパンと同じ不安を日本市場に感じ、4大証券を中心に国内勢の強気を他所に、89年6月からは、売り越しに転じていたのです。10月からは売り姿勢を強めてもいました。しかし、国内勢は強気を崩さず、先物価格は先高観を背景に、現物に比べて、相当高い水準に買われていました。日本市場に割高感を持ち出していた外国証券は、そこをつきました。即ち割高な先物を売り越し、現物株を買う、先物売りの現物買いという裁定取引を仕掛けたのです。相場が下押せば、下がった先物を買戻し、現物は裁定解消の売りを出すのです。最近良く話題になる裁定解消売りです。89年に利上げに転じた日銀の矢継ぎ早の利上げも、年末の3回目から、ボディブローのように確かに効果を上げてきたのです。米大手証券のソロモンブラザーズが大仕掛けな裁定取引を仕掛けていたようですが、本来裁定取引は株価に中立なものです。その裁定取引が撹乱要因になったということは、いかに当時の日本の株式市場の株価形成が持ち合いその他によって、歪められていたかを示していたと、私は受けとめています。 続く
2007.10.27
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フランス革命(107)フランス革命期の女性像その7 ロラン夫人(4)内務大臣夫人となったマノンは、広い大臣公邸の女主人となったことに、自尊心を擽られて,大いに満足します。ロランも大臣の椅子が気に入っていました。いつの頃からか、彼は議会でのことや、困ったことなどを彼女に相談するクセがついていましたし、ロラン邸での週2回のサロンの常連となっていた何人かのジロンド派議員は、マノンのシンパになっていました。世評に言われる如く、彼女がジロンド派の女王とか、黒幕とされるほどの力を発揮したわけではありませんが、夫や数人のシンパ議員といった狭い範囲のメンバーに影響力を持ったことは事実です。1番はっきりしていることは、92年の8月10日事件を受けて、立法議会が普通選挙による新議会の選出を待って解散することになった時、同時に当時の6人の閣僚も全員辞職することを申し合わせたのですが、ロランだけは妻の懇願に負けて、内相の椅子にしがみ付き、1人だけ留任したことです。ダントンはロランに対し、「国民は女房に操られない大臣を必要としているのだがね」と、痛烈な皮肉を投げました。この留任の結果、ロランは錠前師のガマン親方の告白を受け、妻と2人だけで,ルイ16世の秘密の鉄の扉を開き、革命に対する国王一家の犯罪の数々を暴くことになるのですが、そのせいで国王との関係を疑われてしまうのです。結果として、ジロンド派が反対していた国王の処刑が決まり、戦局が不利になる中で、革命防衛のために次第に過激化する民衆との関係で、ジロンド派は追い詰められてゆきました。そして6月2日のジロンド派幹部の追放劇が始まります。この時大臣だったロランには逮捕状が出されたのですが、彼はうまく逃亡に成功、替わってマノンが逮捕されたのでした。 続く
2007.10.27
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クロニクル フランス人民戦線崩壊1938(昭和13)年10月27日この日、フランスの人民戦線が崩壊しました。人民戦線とは、迫り繰るファシズムの脅威に対抗することを基本に、1936年にフランスの左翼並びに中道政党や、労組などの各種団体が連合を組んだ統一戦線でした。政党では共産党、社会党、急進社会党の3党が、「パンと平和と自由と」をスローガンに統一戦線を組んだのですが、当時のフランスの選挙制度が小選挙区2回投票制だったからこそ。実現した緩やかな連合でした。2回投票制とは、第1回投票で有効投票の過半数を獲得した候補がいなかった場合に、上位2名で決戦投票を行なうという制度です。したがって第1回投票では候補者調整の必要はなく、第2回目の決選投票に残った候補を互いに応援にし合えば良いのですから、協定を結び易かったのです。決戦に残った2名が共に3党の候補だった場合、他の1党は1位の候補に投票する決まりでした。こうして、人民戦線は1936年5月の総選挙に大勝し、社会党のレオン=ブルムを首班とする内閣を組織、労働者に3週間のヴァカンスを保障する労働協定法案などを成立させる成果をあげましたが、スペイン内戦の勃発にどう対応するかで、意見が割れて、戦線は不安定化し、次第に有名無実となり、この日遂に崩壊の憂き目を見たのでした。時に第2次世界大戦勃発の、約10ヶ月前のことでした。
2007.10.27
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バブルを考える(27)アメリカの金融危機は、86年~92年にかけて続き、93年以降急速に危機を脱します。アメリカの銀行は少数の大手銀行を除くと、総数で13,000行に及ぶごく小規模な銀行や貯蓄信用組合(S&Lと呼ばれます)でしたが、86年に145行が倒産、以下年を追って、201行、221行、206行、159行、109行、100行が倒産、その他の問題行は,合併によって財務体質を強化させることで切り抜け、約8000行に集約して、ようやく危機を切り抜けたのでした。この過程で,アメリカは、短期金利を意図的に低めに誘導し、長期金利との金利差を大きくすることで、貯蓄から投資への資金の流れを演出しました。ここに債権投資と株式投資が活発化し、資金の大量提供も相俟って、過剰流動性相場が現出したのです。株・債権高に釣られて、アメリカの株や債権に投資して利益を得る外国の銀行や投資家も出てきます。通常低金利はドル離れを生むのでドル安に、高金利はドル高を生むのですが、この常識は通用せず、92年代には、大量の資金が外国から流入したのです。アメリカの金融機関は、90年~93年の4年間で、750億ドルもの資金をユーロ市場で調達したことが分かっています。ドイツに比べれば5分の1の規模ですが、これも日本市場から逃げ出した資金であると考えられますから、日本のバブル崩壊との関連は、十分に意識されなければならない、資金移動でした。総量規制に目を奪われている背後で、こうした事態が進行していたのです。総量規制の解除にも関わらず、株価と地価の下落が継続した理由は、ここにあったのです。 続く
2007.10.26
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フランス革命(106)フランス革命期の女性像その7 ロラン夫人(3)ロラン夫人のメモワールや、カネー姉妹とやりとりした手紙などが残されています。自意識過剰な好悪感の強い女性だったことが読み取れるものですが、サロンを訪れた政治家たちの人物寸評には、実に鋭く傾聴に値する部分もありますので、いくつか紹介することにします。絶対王政や貴族制度に嫌悪感を持っていたマノンは、憲法制定国民議会で,ギルド制度の廃止が議論されはじめ、その流れで工業検察官制度が廃止にされそうになった91年の初めに、夫と共にパリに出ます。彼女は時折リヨンから当時売出し中のブリソーの新聞に寄稿していた関係から、居を構えたパリのアパルトマンに、彼を招きました。ブリソーは同士を連れてくるようになり、工業検察官として各地の経済の実情に通じたロラン氏の経済分析を聞いたり、政治談義に花を咲かせました。パリの有名人が、自宅のサロンに出入りしてくれる。虚栄心の強いマノンにとって、それは夢にような光景でした。ですから彼女は、上客を逃さないよう、常に客あしらいに細心の注意を払っていたのです。やがてロラン夫妻のサロンのメンバーの多くは、91年9月の選挙で,立法議会の議員に当選します。夫のロランもその1人でした。ロラン家のサロンには、情報を求める民主派の人物が出入りする場の一つとなり、一時期はロベスピエールやダントンも出入りしておりました。自宅のサロンについて、彼女は書いています。「会話の場に私はいつもいたが、話には加わらなかった。みなから離れて机のそばに座り、編物をしたり、手紙を書いたりしていた。だが、会話は一言も聞き漏らさなかった。」「私を驚かせ、いらいらさせたことは、見識ある男達が3,4時間も話ながら,何の結論も出さないという無駄口の多さと、軽薄さだった。『もっと綿密にお考えなさい。あなた方は優れた原理を主張し、名案を出し、ある見解を開陳したいと思いながら、概して何一つ筋道だったことも、決まった結論も、不動の決定もしないではないですか。』私は今にも我慢しきれずに、このこざかしさを踏みにじってやりたい気持に、時々襲われました。」91年7月初めに記された、この観察はきらりと光っています。フィーヤン派の巧妙な議会操作の前に、有効な反撃や行動を取れなかった、当時の民主派グループの弱さが,見事に捕らえられています。ロベスピエールに対する夫人の評には、複雑で屈折した気持が現れています。「信頼に満ちた微笑がロベスピエールの唇に認められることは1度もなかった。そのかわりに、何かを軽蔑してやろうとする苦笑で、いつもそれは歪んでいた。彼の雄弁家としての才能は、お話にならなかった。品のない声、ヘタな表現、悪い発音が彼の話をとても退屈なものにしていた。……しかし、人民の擁護者が驚くほど減ってしまった時に、彼はそれをやり続ける男気を持っていた。」彼女の好悪感の強すぎる点を割り引いても、自分に対してと同様,他者にも厳しく、猜疑心の強かったロベスピエールの特徴の一端を、良く捉えています。しかし、以下の評はどうでしょうか。彼女は、「獰猛な顔立ちで」無遠慮でぶしつけなダントンが,大嫌いでした。「あんな顔をした正直者なんて、想像もできない。」そして「私はヴェルニヨも好きではないし、ブリソにも不満だ。」やがて、ロラン家のサロンは、ジロンド派の1部が常連となって、93年のジロンド派幹部の追放まで、続きます。その間、サロンでのマノンの内助の功もあって、ロランはジロンド派を代表として、内務大臣の地位を得ます。そのことをロラン以上に喜んだのは妻のマノンでした。やがてそれが,夫妻の命取りになるとも知らずに… 続く
2007.10.26
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クロニクル 朴韓国大統領暗殺1979(昭和54)年10月26日この日、朴正煕韓国大統領が、側近の1人だった金KCIA部長の凶弾に倒れました。62歳でした。事件は韓国中央情報部(KCIA)の部長官邸に付設された食堂で催された政府要人の宴席で、午後7時40分頃のことでした。至近距離からの狙撃で、朴大統領は即死でした。金部長は政権末期の朴政権での、自らの地位に対する不安や、政権の腐敗振りへの批判などから凶行に及んだものと推測されています。朴大統領は1961年に軍事クーデタで政権を握り、65年には日本との国交を回復、漢江の奇跡と言われた経済成長の実現を背景に、72年には維新憲法を制定して,永久政権への道を開いたのですが、73年8月の金大中氏拉致事件など、強権的な反対勢力への弾圧などで、次第に国民の離反を招き、この頃は政権末期の様相を強めていました。朴大統領の死去後、韓国の政局はしばらく混迷しますが、年末の軍事クーデタで、全斗煥が実験を掌握、翌80年5月抵抗する光州市で、血の弾圧を強行し、8月に大統領に就任します。
2007.10.26
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バブルを考える(26)増え続けたドイツの財政収支の赤字は、93年には1340億マルクと、88年比では17倍近くにまで膨らみました。この赤字は,当然ながら赤字国債の発行で穴埋めすることになります。問題はここでした。88年までの西ドイツは、日本に先行した経済大国でしたが、日本と決定的に違っていたのは、財政の赤字がほとんどないユーロ市場における資金の出してだったことです。この時期日本も債権大国になってきていましたが、好調な日本経済を背景に、89年の利上げラッシュに入ったころまでは、世界史市場で日本が最も有利な投資先であると考えた国際資本の日本流入が続いていました。それが資産バブルに拍車をかけてもおりました。しかし、89年以降,日本政府と日銀は方針を転換し、金融引締めによるバブル退治に乗り出していました。そろそろ日本から資金を引き上げる時だと考えていた外資にとって、ドイツ統一による東ドイツ地域の経済破綻は、ドイツという恰好の投資先を提供してくれたことになったのです。短期金利で10%、長期金利で9%というのは、ドイツ国債を買うだけでも相当な利益です。そして、ドイツ政府だけでなく、ドイツ企業も国際的な資金調達に動きました。こうしてドイツは、ユーロ市場における資金の出してから、資金の捕り手に代わったのです。それは日本の短期資本収支の動きを見れば明らかです。日本は、88~89年の2年間に1563億ドルの資金の流入があったのですが、それが91年には1180億ドルの流出に変化しており、92年も894億ドルが流出しています。2年間で2000億ドル超の流出です。以前の流入効果を勘案すれば、株価や地価に与えるマイナス効果は3500億ドルを超えているのです。1ドル120円で考えても、42兆円分の流動性が減少したのですから、これは大きく効くはずです。総量規制で増え方が減じたのは数兆円に過ぎなかったのですから…。資金流出の原因はもう一つありました。90年代初めにアメリカを襲ったクレジットクランチです。 続く
2007.10.25
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フランス革命(105)フランス革命期の女性像 その7 ロラン夫人(2)彫版師の娘として、プチブルの家庭に育ったマノンは、フォントネに館を持つクレキ侯爵夫人の召使をしていた祖母に可愛がられ、教区の教会学校で教育を受けます。そして11歳の時に、サン・マルセル郊外区のヌーヴ・サンティティエンヌ修道院に入ります。そこで彼女は日記をつける習慣を身につけます。当時の修道女による教育は,決して質の高いものではありませんでしたが、マノンが日記をつける習慣を身につけてくれたことで、後年ジロンド派幹部ロラン氏の妻として、サロンを切り盛りしたマノンが、サロンの客たちを評した寸評が残されることになりました。もう一つマノンは、修道院で過ごした1年の日々で、終生の共となったカネー姉妹と知り合います。この姉妹こそ,後に彼女の夫となるロランを、「あなたに相応しい相手」として彼女に紹介してくれた、大切な友でした。小金持ちのフリポン夫妻に甘やかされ、気ぐらいの高い、高慢な性格に育ったマノンにとって、手工業者や小商人の世界を脱出して、やがて革命政府の要人となる夫との出会いを提供してくれたカネー姉妹は、著名人たちを除けば、最も大切な友人でした。その後数年、彼女は祖母の家で、中風を患った祖母の家で、祖母に本を読んでやったりしながら過ごし、やがて父母の家に戻ります。こうした暮しの中で、マノンは貴族階級に対して激しい憎悪の感情を持つようになります。それは祖母が召使をしていたクレキ侯爵の館に、令嬢達の遊び相手として、何度も祖母に連れて行かれたり、お屋敷の催し事に招かれた時などに、彼女が感じた屈辱によるものでした。当時の身分制社会では、貴族と平民の間には、見えない壁が立ちはだかっていました。遊んでいる時は一緒でも、食事となるとマノンは粗末な召使部屋で取らされます。催し事の際は、どんなに着飾ってお出かけしても、召使の身内は、賓客に姿の見えないように物陰からこっそりと見ることを強いられます。気ぐらいの高い、自分は特別な人間だと思い込んでいるようなマノンにとって、これは堪え難い屈辱でした。20歳の時、マノンは1度だけヴェルサイユ宮殿に招かれます。母方の伯父が王太子妃(マリー・アントワネット)の侍女と知り合いで、姪のことを頼んでくれたのです。喜び勇んで出かけたマノンは、平民の娘がそこでどのように扱われるかを、いやというほど味わわされます。マノンのプライドはズタズタにされます。食事に至っては、なんと食膳部屋で食べされられたのです。こうした経験から,彼女は貴族制度を心から憎み、革命が始まると、熱心に革命を支持し、夫ロランの議員活動を熱心に支持し,協力を惜しまなかったのです。しかし、そんな彼女も、召使たちとは決して食卓を共にすることはしませんでした。さらに夫の書生たちや部下たちに対しても、来客のある時は、決して食卓を共にさせなかったのですから、好い気なものなのですが…… 続く
2007.10.25
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クロニクル レイテ沖海戦,連合艦隊潰滅1944(昭和19)年10月25日前日24日からこの日にかけて行なわれた、レイテ島沖の海戦で、日本の連合艦隊は、米軍の機動部隊の攻撃により、空母4艘以下を失い、潰滅状態となって完敗しました。この作戦は、20日に米軍がレイテ島に上陸したと聞いた大本営の司令で始まりました。連合艦隊は22日に一斉に出撃、米艦隊をレイテ湾外におびき出すことには成功しますが、レイテ湾突入を図った艦隊は、米軍艦載機の波状攻撃に対応出来ず、圧倒的な航空機部隊の機動力の前に、大損害を受けて完敗し、狙いのレイテ湾突入は、果たせませんでした。特筆すべきは、このレイテ沖海戦に際して、虎の子の海軍航空部隊に、神風特別攻撃隊(神風特攻隊)が編成,組織されたことです。250kg爆弾を装着した零戦が、敵艦に体当たり攻撃すために出撃し、25日には敵の空母2艘を撃沈させるなど、この時は一定の成果を上げました。しかし、レイテ湾に入れず、レイテ島の日本軍部隊との連絡もとれないままとなり、レイテ島の日本守備隊7万5千人は補給路を断たれて万策尽き、12月には、全滅状態となりました。
2007.10.25
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バブルを考える(25)1989年は、東欧の社会主義政権が、まるでドミノ現象を起こしたかのように次々に倒れた年でした。年末12月のクリスマスシーズンには、ルーマニアのチャウシェスク政権まで倒れるに至りましたが、何といっても東欧革命の白眉は、11月9日のベルリンの壁の崩壊でした。壁崩壊後、89年末までの50日間に西ドイツへの移住者は34万人に達し、翌90年の1月には,1ヶ月で154万人が西へ流入したのです。当時の東ドイツ人口はおよそ1600万人でしたから、僅かな期間に人口の1割強が移住したことになります。こうなると西ドイツ社会の混乱を防ぐためにも、統一を急がざるをえません。問題は東と西の通貨統合をどうするかにありました。当時東西ドイツは共に、マルクを通貨単位としていましたが、USドルとカナダドルやオーストラリアドルのレートが異なるように、夫々の経済力を背景に、西ドイツマルクと東ドイツマルクは、公式レートで1:4、闇レート(こちらの方が実勢に近い)では、1:8~1:10で取引されていたのです。ここから西ドイツの金融界は西ドイツ中央銀行のブンデスバンクを先頭に、東ドイツマルク(オストマルク)の課題評価は経済混乱に繋がり将来に禍根を残すと、強い調子の声明を出し、オストマルクを西ドイツマルクの25%以上に評価する(即ち1:4以上)ことに反対を表明していました。西ドイツ財界も全く同じ態度でした。しかし、東の統一を急ぎたいコール首相は、財界の反対を承知の上で、政治的判断で、両通貨1:1で交換する旨を決定したのです。割高な交換レートの設定は、オストマルクの預金を持つ東ドイツ市民を一時的に大喜びさせました。予想以上の西ドイツマルクを入手出来たからです。しかし、それはぬか喜びでした。競争力で西ドイツ企業に遠く及ばず、設備も旧式な東ドイツの国営企業にとっては、オストマルクを低く評価してもらえないことには、生き残る道がなかったからです。こうして東ドイツ企業は、西ドイツ企業との競争のみでなく、同じ時期に社会主義政権が崩壊した東欧諸国の企業との貿易競争にも敗れ去り、国際競争力の一切を失って、次々に倒産していったのです。結果は失業者の急増となって現れます。90年10の国家統一から8ヶ月後の91年6月末の推計によると、旧東ドイツ地域の失業者数は、300万人超400万人以下とされています。流出人口を割り引くと、当時の人口は1400万人程度、労働人口は多く見積もっても1千万人以下でしょうから、失業率は40%に達するという凄まじいことになっていたのです。財界の主張がいかに正しかったかは、この数字に明らかなのですが、これを放置することはできません。旧東ドイツ経済の再建がドイツ財界に重くのしかかってきたのです。時に、旧東ドイツ市民による西ドイツ商品の購入によって生じた過剰流動性によって、ドイツ経済はインフレ傾向を強め、ブンデスバンクは数次に渡って金融引締めを実施し、長期金利を何と9%にまで引き上げていました。この状態で、ドイツ政府は東ドイツ地域の企業の救済や再生に多額の公的資金の投入を必要とし、同じく失業者の救済に多額の社会保障経費を計上する必要に迫られたのです。当然財政収支は大幅な赤字になります。89年の西ドイツの財政収支の赤字は、僅か80億マルクに過ぎなかったのですが、90年には460億マルク、91年には1080億マルクとあっという間に13,5倍にまで、財政赤字は積みあがったのです。このドイツの財政赤字は、その後も積み上がって行きます。 続く
2007.10.24
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フランス革命(104) フランス革命期の女性像(7)その7 ロラン夫人 (1)ジロンド派幹部の1人、内相を務めたロランの妻、マノン・ロラン。腕の良い彫版の親方、ガシャン・フリポンの娘マノンは、26歳で、20歳年上のロラン・ド・ラ・プラティエールと結婚します。1780年、革命の始まる9年前のことでした。この時ロランは工業都市アミアンの工業検察官でした。当時は所帯を運営できる資力のない男性は、女性に結婚を申し込むことが出来ませんでした。そのため,年の離れた結婚は珍しいことではなかったのです。その後、リヨンに転勤し、その地で革命を迎えたロランは、91年の立法議会議員の選挙で議員に選ばれます。工業検察官という職務は、革命政府の方針で廃止されましたので、丁度良い転機でもありました。パリに出たマノンは、そこでサロンを開きます。夫ロランの属したジロンド派は、ジャコバン派のように本部兼用の集会場を持たず、何ヶ所かのサロンが議論の場になり、夫々にジロンド派の有力幹部がメンバーに名を連ねていました。ロラン夫人のサロンも、仲間内の有力サロンの一つとなり、ブリソー、ヴェルニヨ、イスナールらの幹部が足しげく出入りするようになります。ジャコバン派との対立が激しくなる以前には、ロベスピエールやダントンも時には顔を出していました。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, October 24, 2007 9:53 AMSubject: 24日の日記
2007.10.24
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クロニクル 国連憲章発効1945(昭和20)年10月24日この日、国連憲章が発効し、国際連合が正式に発足しました。国際連合は第1次世界大戦後に発足した国際連盟が武力行使権限を持たなかった故に大きな力を発揮し得なかったことを反省して、安全保障理事会に国連軍の編成権限と、武力行使の権限を付与、さらに第2次世界大戦の源連合国である米・ソ・英・仏・中(中華民国)の5カ国を安全保障理事会の常任理事国に指定いていました。この5ヶ国は安保理の議決に拒否権を持ち、5ヶ国中の1ヶ国でもが反対に回ると、例え反対が1票であっても、その決議案は否決されたことになるのです。最近の日本政府は、経済力の強化と、国連分担金の負担額の多さを理由に、ドイツなどと共に、この国連常任理事国に加わることに熱心なようですが、私は、本来公平であるべき国際社会の集まりであるはずの、国際連合において、1票の価値に不公平のある仕組みそのものに問題を感じます。なすべきことは常任理事国への加盟ではなく、常任理事国制度の廃止を提案し、その実現に努力することにあると、考えています。
2007.10.24
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フランス革命(103)フランス革命の影響 その3フランス革命はまた、戦争の性格を一変させました。国民主権の原理を確立したフランスの革命政府にとって、戦争は絶対王政の行なう貴族中心の常備軍や傭兵たちを中心とした、兵力の損傷を出きるだけ小さくしながら勝機を見出そうとする長期戦を想定したものから、国民皆兵の原則を全国に適用した、徴兵制に基づく国民戦争に転化していました。戦争は国民国家の存亡にかかわるもの、人的被害は多かろうとも、乾坤一擲の勝負を挑んで、主力の決戦によって雌雄を決するものとなったのです。戦争は封建貴族の名誉を守るためのものから、異なる手段による政治の延長物になったのです.ナポレオンと彼の軍隊がが、封建的抑圧に苦しむイタリアやドイツの領民(後、国民)に対し、フランス革命の原理を輸出する解放者のポーズをとり、占領の初期においては、解放軍として歓迎されたのは、このためでした。しかし、実際は朝鮮の独立支援を錦の御旗にした日本軍が、実際は解放者の仮面を被った新たな侵略者であることが認識されるのに、そう時間がかからなかったのと同じように、フランス軍が解放者の仮面を被った侵略者であることも、短い時間のうちに、諸国の民衆の見抜くところとなったのです。楽聖ベートーベンにとっても、イタリアの野を駆け回る軍神ナポレオンは、まさに自由の戦士であり、抑圧からの解放者に見えました。だからこそ、渾身の作となった交響曲3番を「英雄」と名づけ、軍神ナポレオンに捧ぐと献辞を書いたのです。しかし、鋭い感性に恵まれた彼の感性は、誰よりも早く、ナポレオンと彼に率いられるフランス軍の正体が、解放者の仮面を被った侵略者であることを見抜いてしまったのです。ガッカリした彼は、ナポレオンに捧ぐの献辞は破き捨てたのですが、作品の譜は破く事ができなかったのです。ベートベーンに遅れて、イタリアやドイツ、そしてその他の国や地域でも、フランス支配に対抗する形で、次第に民族意識が芽生えていったのです。その意味で、フランス革命は19世紀的な国民国家の生みの親でもあるのです。 続く
2007.10.23
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バブルを考える(24)実際に総量規制が導入された1990年の銀行による不動産融資は、年間で2兆5千億円の増加をみており、地価の下落がはっきりしてきた91年においても、1兆6500億円の純増だったのです。勿論、86年の約8兆円増を最高に、87~89年にかけての5兆円~6兆円の純増に比べれば、増加スピードは鈍化していますが、土地投資に向う資金は増えていたのです。確かに住専を除くノンバンクに対する貸し出しのパイプも締められましたので、銀行のノンバンクへの融資91年には減少に向い、3300億円の減少を記録しています。しかし、90年はなお2,4兆円の増加を見ておりました。そして、住専が嵐のような不動産融資にのめり込んでいったのは、この時期からでした。ノンバンク経由の土地融資の目減り分は、住専によって十分にカヴァーされていたのです。それなのに、総量規制と無関係の株価が先ず崩れ、そして91年からは、地価が暴落のスパイラルに嵌まりこんでいったのは何故か。 総量規制が撤廃された91年12月、政府・日銀の関係者は、地価が再び上昇に転じるのではないかという、不安を隠そうとしませんでしたし、マスコミやエコノミストの多くは、一斉に「解除が早過ぎるのではないか」と、地価の再上昇に懸念を心配していました。ともかく、92年からは、もはや総量規制はなく、金融機関は自己裁量で土地融資の増減を決められるよになっていました。それでも地価は下がり続けました。やがて倒産にいたり、刑事責任も問われることになる、バブル紳士たちやマスコミが唱えた、地価下落に関する総量規制犯人説は、いかにも短絡的です。株価や地価の急上昇に、国際的規模に広がった企業の資金調達、国際的な遊休資本の日本流入があったことは,既述の通りなのですが、私はバブル崩壊もまた国際的な視野での資金移動が大きく関わっていたと考えています。ではその事情とはいったい何なのか。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, October 23, 2007 10:04 AMSubject: 23日の日記
2007.10.23
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クロニクル 長銀一時国有化を申請1998(平成10)年10月23日春以来,迷走を続けていた日本長期信用銀行は、この日債務超過から、金融再生法に基づく一時国有化を申請し、その46年の歴史に自ら幕を下ろしました。政府・大蔵省は、危機的状況にある長銀の救済合併を住友信託銀行に依頼したのですが、住信は、資産査定の曖昧さが残り、債務超過の可能性が残る銀行を救済することは、自らの経営体力を損なうので出来ないと拒否、危ない銀行を健全銀行が救済合併するという、大蔵省の得意技は、封印されてしまったのです。こうして万策尽きた長銀は、この日、実質的に倒産したのでした。
2007.10.23
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フランス革命(103)フランス革命の影響 その2 自由か平等か89年8月26日に発表された,「人権宣言」は、その第1条において、「人は生まれながらにして自由であり、かつ権利において平等である」と,自由・平等が人間の自然権であることを、高らかに宣言しました。既述したことですが、それでいて91年9月に誕生したフランス革命で最初の憲法は、何の痛痒も感じることなく財産による選挙権の制限を導入しています。ブルジョワにとって平等とは機会の平等、即ち法の前の平等に過ぎず、社会的実質を伴うものではなかったのです。しかし、フランス社会の多数を占める貧しい市民や農民、いわゆる民衆は異なった受けとめ方をしました。進みつつある資本主義経済の只中で、彼等の小経営は次第に厳しい状況に追い込まれ、没落の危機に瀕していたからです。それゆえ彼等は、人権宣言に記された「平等」の語に、真面目に働く者は,皆平等に小経営を維持するに足る、必要最低限の生産手段(手工業者には小さな作業場、農民には自営規模の農地または借地)を持つ権利が保証されると受けとめたのです。言葉はひとたび発せられると,一人歩きを始めるという見本がここにありました。ブルジョワ的な経済活動の自由を獲得するために始められたブルジョワ革命に、民衆が期待する小経営の維持を目的とする平等主義の要求が対置されたのです。小経営の維持は明らかに資本主義経済の進展にとって阻害要因です。自民党の福田政権が、農村の三チャン農業という非効率経営の典型を維持しようとする勢力に加担するとすれば、それは明らかに日本農業の生産効率を上げ、農業自給率を上げていこうという遅まきながらの農業近代化計画に逆行するものになります。そうした行動は、このフランス革命期の動きと良く似ていると指摘できます。フランス革命は、対外戦争という大変な困難に直面する中で、こうした民衆の要求に,一定程度配慮する姿勢を持ち続けざるをえませんでした。そこに大きな困難がありました。そして、最終的には、民衆の平等要求を、特に都市民衆に対しては,切り捨てて行く形で、フランス革命は終了しました。自由と平等は並立するものではなく、並び立てない実質を備えてしまったのです。ここに、ブルジョワ的な自由と、民衆的或いは小市民的な平等は、見事なまでに対立概念となり、民衆の社会的平等の要求は、19世紀の民衆運動、社会運動に受け継がれて行くことになったのです。そしてそれはフランス1国の問題に留まらず、広くヨーロッパ全体に拡大し、19世紀世界を貫く大きな問題となっていったのでした。 続く
2007.10.22
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バブルを考える(23)日銀が金融引締めに転じたのは、株価が高値更新を続け、前年末に3万円台に乗せた日経平均株価が,さらに上伸を続けていた89年の5月末でした。株価の上昇は問題視されなかったのですが、金余りによる地価やゴルフ会員権などの値上りについては、ようやく問題視する空気が強くなっていました。地価の高騰が齎す、住宅や土地を持つ者と持たない者の不公平感は、地価上昇によって、増大していました。東京圏のマンション価格はサラリーマンの平均年収の8,9倍に達し、「一生働き続けてもマンションひとつ買えないのか」という、政府の土地無策に対する国民の不満は野火のように広まり、ようやく政治家の感性に強く響くようになってきてもいました。自民党内でも、地価の上昇率は定期預金の金利の範囲に抑えるべきだという声が拡がり、公定歩合の引き上げ環境も整っていたのです。日銀は89年5月、10月、12月と立て続けに3回の利上げを実施、公定歩合は7ヶ月で2,5%から4,25%へ、1,75%引き上げられました。3度目の引き上げで、株価はようやく天井を形成して、もみ合いに転じ、2月からはっきりとした下落局面に入って行きます。しかし、その分行き場を失った資金は、なお値上りを続けていた土地取引に集中し、なおしばらく地価は上がり続けました。「地価の値上り益は不労所得だ。労せずして儲けるのはおかしい。」こうした持たざる者の声は、勤勉を美徳する日本の社会風土の中では、それなりの説得力を持ちました。株価バブルに続いて,土地バブルも退治しなければならない。バブル潰しは一種の国是となり、住田に代わって日銀総裁に就任した三重野は、90年に入っても、3月に1%、8月に0,75%の利上げを行ない、日銀幹部の1人は「バブル潰しを終えるまで、引き締めを続ける」と明言していました。政府も地価税導入の検討を開始する(92年1月導入)など、土地バブル潰しに協力する中、大蔵省は、90年第2四半期(4月~6月)から不動産関連融資に対する総量規制を導入します。不動産業者向けに加え、土地取引関連の融資が多い、ノンバンクやリース各社に対する融資も対象に含まれました。こうした関連会社に対する融資の伸び率を、90年3月末比でゼロにするという主旨の規制でした。ゼロになるのは、伸び率ですから、預金量が拡大すれば、その分の比率は融資できますが、確かにそれまでに比べて銀行の不動産融資の伸びは、大きく減速しました。後に地価の下落が止まらなくなった時に、地価崩落の主犯に奉り上げられたのが、この規制でした。確かに91年に入ると地価も下落に入ったことは明らかでした。しかし、この時はまだ株式市場のような暴落はしていませんでした。総量規制そのものも、2001年12月末をもって、目的を達したとして撤廃されています。そして何より農協と住専は既述の通り、総量規制の対象外でしたから、住専経由の不動産融資は急拡大を続けていました。日本のバブル崩壊、地価や株価のあそこまでの崩落を正確に理解するためんには、総量規制主犯説では説明のつかない深くかつ広い、世界規模の資金移動を絡めて考えなければならないだろうと、私は考えています。 続く
2007.10.22
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クロニクル トウ小平氏来日1978(昭和53)年10月22日この日、トウ小平中国共産党副首相が来日しました。この年8月12日に日中平和友好条約が調印されたことを受けてのものでした。トウ小平氏は、86年1月に逝去された故周恩来首相に重用された人物でしたが、プロレタリア文化大革命の時代と、周首相逝去後に起きた、76年4月の第1次天安門事件に絡んで2度失脚しており、2度の復活から不死鳥と呼ばれ,肩書きは副首相でしたが、事実上中国共産党の最高指導者の地位にありました。そのため、日本側も国賓待遇の接遇で臨み、来日翌日の23日には、昭和天皇との会見もセットしました。席上昭和天皇は、予定になかった日中関係の過去について自ら言及、「両国の間には、一時不幸な出来事もあったが…」と述べられ、トウ氏は、「天皇の訪中を中国人民と中国政府は、共に切望している」旨を述べて、天皇の訪中を招聘されました。
2007.10.22
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フランス革命(102) フランス革命の影響 その1フランス革命の影響を、様々な角度から考えてみたいと思います。まず第1に、フランス革命は、教会財産や亡命者財産を国有化し、財政的事情から、競売方式で売却しましたが、革命の危機の段階では、小農民を味方につける必要から、小農に有利な売却方式をとりました。その結果、フランス革命は小農民の土地所有を増やしました。こうした小農層は,自分たちの土地所有の安全を保障してくれる政治家を熱烈に支持し、農民皇帝を名乗るナポレオンを支持し続けたのです。農民にとって、自らの土地所有を脅かす勢力は敵だったのです。ですから、あのナポレオンをもってしても、小農民の土地を没収して、富裕農民に土地を独占させることは出来なかったのです。その結果どうなったのか。フランスでは、地主が土地を囲い込み、大借地農に一括して貸し出すような資本主義的農業が、十分に発達するような土壌が作られず、そのため貧農の離農が遅れてしまい、その結果資本主義の発達はイギリスに比べると大きく遅れざるをえなくなったのです。何とも皮肉ですね。革命の激化が小農的土地所有の再生に繋がり、そのことが、フランス資本主義の発達の遅れに繋がったのです。 続く
2007.10.21
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バブルを考える(22)超金融緩和に、財政出動による公共事業の大盤振る舞いまで加わって、日本経済はバブルの最盛期に入って行きます。バブルに踊ったのは企業ばかりでなく,個人も同じでした。87年2月に上場されたNTT株は、上場に先だって個人株主作りの名目で、証券会社を通じて個人に割当られました。その政府売出し価格は、主幹事証券の野村証券の予想を上回る119万円に決まりました(野村証券の試算では、適正価格を73万円とはじいていたようです)。しかし、野村証券の高すぎるという心配を他所に、政府の売出し株数165万株(これを希望者に1人1株づつ割り当てる方式でした)に対し、申し込みは1095万件に達しました。競争率は6倍を超えていました。NTT株は公開後、大きく値上りしましたから、ここで初めて株式投資をした人も、キャピタルゲインの味を知ることになりました。同じ時期、もう一方ではマンションブームが起きていました。山手線の新大久保から高田馬場にかけての一帯にある「西戸山パワーホームズ」は、86年の秋に販売された物件です。中曽根民活の一環として、国有地を払い下げる民活方式をとり、販売価格は実勢の半額と言われた物件でした。戸数575戸の大型物件でしたが、申し込みが殺到し、平均競争倍率44倍に達したのです。半年後の87年4月、三井不動産販売などが売り出した,江東区の「スカイシティ南砂」は、259戸の分譲に対して、何と38500件を超える応募が殺到したのです。この87年に首都圏で販売されたマンションの総戸数が4万戸でしたから、年間の供給戸数に近いという、とんでもない数の応募が一つの物件に集中したのです。マンションは足りない。早く買わないと買えなくなる。買えば値上りする。しかし、抽選に当たらないと買えない。こんな状態になっていたのでした。東京の小金井カントリークラブの会員権が、初めて3億円を突破する3億3千万円で取引されたのは、87年2月のことでした。1週間前の取引値は、2億9千万円だったそうですから、実に1週間で4千万円の値上りという急騰振りでした。この年、全国で10を越える「1億円カントリー」(当時は億カンと呼ばれました)が誕生、全国各地にゴルフ場を作ろうと、無秩序な乱開発が進められることになりました。こうして、88年、89年と企業も家計もバブルに踊り続けたのです。バブルを未来永劫続く繁栄と思い込み、株価と地価は,今後も右肩上がりに上がり続けると、信じて疑わない空気が蔓延していたのです。90年、膨らみきったバブルは、当然のようにはじけました。 続く
2007.10.21
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クロニクル ウーマンリブ初登場1970(昭和45)年10月21日この日は国際反戦デー。各地で学生や労働者がヴェトナム反戦の集会を開く中、東京京橋の水谷公園では、ヘルメット姿で「男は立ち入り禁止」とした集会を開いていました。60年代の後半から欧米で盛んになった,女性自身による女性解放運動、「ウーマンリブ」の日本でははじめての街頭への進出でした。デモに参加したのは、いくつかの女性解放団体のメンバー,約200人程で、ほとんどが20~25歳と思われる会社員か学生といった若い女性達でした。夫々が思い思いのヘルメットを被り、「男達を喜ばせるための服装や化粧はしない」とか「妊娠中絶の禁止反対」などを掲げて、数寄屋橋から新橋まで、短い距離でしたが、派手なジグザグデモを繰り広げました。このデモがきっかけとなり、11月14日には、日本初のウーマンリブの大会が開かれ、「性差別への告発」をテーマに活発な討論が行なわれました。女性の社会進出が、なお道半ばの時代の出来事で、ウーマンリブ運動の参加者達は、現在のように自然体のままで、何気なく女性解放運動に力添えすることが出来ず、やがてジリ貧に陥って行きます。肩に力の入りすぎたままの運動は、長続きしないことを地で行った出来事でした。
2007.10.21
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バブルを考える(21)ブラックマンデーの衝撃は、利上げを模索していた日銀を直撃します。西ドイツが利上げに舵を切っている時に、日本まで利上げすれば,世界恐慌の引き金になりかねない。蔵相の宮沢や時期総裁の指名を受けた竹下らと、日銀総裁の住田は,問題意識を共有していました。ブラックマンデーの翌日、株式市場の大幅安を受けて、債権相場も大幅に下落,利回りは大きく上昇していました。市場実勢からすれば、金融債は利回りを上げなければ売れない状態でした。そんな中で、大蔵省は興銀や長銀に連絡を取って、密かに利付き金融債の利回りをあげずに据え置く事を要請します。それでは金融債は売れ残り、資金繰に影響が出ると渋る銀行側に,大蔵省は資金運用部資金で興銀債や長銀債の買い切りを行なうとまで約束して、説得した記録が残されています。世界的な金融不安に、欧米との協調が何よりも優先されたのでした。ブラックマンデーを誘発した世界規模の株価や通貨の危機は、通貨政策を巡る米独の対立がきっかけでした。その認識を共有するが故に、日銀もまた政府と共に国際協調を優先して、利上げを見送ったのでした。世界最大の債権国になった日本が、利上げをしにくい雰囲気も確かにあったようです。日本の株式市場は、世界に先駆けてブラックマンデーショックを克服し、88年1月には早くも新高値をつけ、以後新値街道を驀進することになります。日銀は、じっと我慢を続けたというか利上げの機会を失して、利上げに動いたのは何と89年の5月のことでした。2,5%という,当時としては超の付く低金利は,何と2年3ヶ月も続けられたのです。その間、日本の低金利はなおしばらく続くとの期待は、一人歩きを続け、資産バブルは膨らみ続けていたのです。そこに一層の貿易収支の改善(=黒字減らし)を求めるアメリカの圧力が加わります。88年度補正予算で、竹下内閣の蔵相を勤めていた宮沢は、公共事業の拡大に踏み切らざるを得なくなります。2,5%という未曾有の金融緩和の上に、財政出動が加わったのです。ここに資産バブルは歯止めを失うことになったのです。 続く
2007.10.20
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フランス革命(101) 民衆にとってのフランス革命ナポレオンの登場によって、フランス革命は終りました。革命のブルジョワ的成果は、確かにナポレオン法典の登場によって、フランス社会に根付きました。だからこそ、その成果は後にくる15年間の王政復古期にも、少しも揺らぐことはなかったのです。しかし、革命を積極的に戦ったパリや地方の民衆にとって、革命の成果とは何だったのでしょうか。この点では、農村の民衆と都市の民衆との間に大きな差がありました。農民は、反革命に走った封建領主層を踏みつけることによって、封建地代の提供義務を無償で廃棄することに成功しましたし、反革命容疑者や亡命貴族が没収され、国有財産とされた土地の売却方法が,農民に有利に改正されたことによって、1部の農地を獲得した小農もでました。ですから、こうした農民層は、ナポレオン法典が現在の所有権の尊重を打ち出したことに満足し、最後までナポレオンの忠実な支持者として、大量の兵士の供給源の役割を果たし続けました。これに対し,都市民衆にとっての対抗勢力は、封建領主層ではなく、都市の大ブルジョワでした。フランス革命の最大の受益権者が相手なのです。それゆえ、戦時の経済統制という形で、しかも時限的に要求が満たされる事はあっても、それは平時に戻れば雲散霧消してしまう性格のものでしか、ありませんでした。彼等にとって、革命の成果として、手元に残ったものは、革命運動の経験以外には、何もなかったのです。それゆえ、都市民衆の運動は、民衆蜂起の伝統として19世紀の共和主義運動、民衆運動として継続し、折にふれて政権を悩まし続ける存在として、ヨーロッパ世界にその名を轟かし続けてゆくのです。 続く
2007.10.20
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クロニクル 小選挙区で初選挙1996(平成8)年10月20日11年前のこの日、第41回総選挙が初の小選挙区比例代表並立制という選挙制度で行なわれました。戦後、男女平等の普通選挙が導入されて以来(この制度での最初の投票は、1946(昭和21)年4月10日でした)、ずっと続いてきた中選挙区制を改めた新制度での最初の選挙でしたが、投票率は戦後最低の59,65%まで落ち込みました。この時は、各選挙区当選者が1人だけの選挙区で300人、比例代表で200人の計500人を選ぶ選挙でしたが、選挙区と比例区の重複立候補を認め、しかも比例代表名簿の同一順位に何人もの候補者を並べることが出来、同一順位の候補者は、惜敗率(同じ選挙区で当選した候補に対し、本人の得票比率を調べ、その比率の高い候補から当選とするという仕組み)で順位を定めるという,分かり難さが嫌われたのと、狭い選挙区のため、候補者が限定され、馴染みがあったり、応援したい候補がいないなどの理由で、投票所に足の向かない人が増えたのでしょう。また、小選挙区制は小政党に不利な制度であることから、政党の再編も進み、選挙直前の9月28日には民主党が誕生するなどしていました。選挙結果は、自民党239、新進党156、民主党52、共産党26、社会民主党15、さきがけ2、無所属10となり、小政党の苦戦は明らかでした。この時、公明党は、衆院のみ1時解党して、新進党に加わっていました。
2007.10.20
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フランス革命(100) 革命は終ったのかナポレオンの権力掌握によって、確かにフランス革命の諸原則は、フランス社会に定着しました。しかし、その内実を確かめておく必要があります。ナポレオンが確立した諸原則においては、「全てのものが人民のために作られる、しかし人民の名において作られるものではない」という立場が貫かれています。そこでは絶対王政のような君主権に対する人民の優位、即ち人民の主権は原則的に認められます。しかし、無知な人民の声、意志を問うことは現実的ではないとして、排除されます。確かに人民には普通選挙権が与えられます。しかし、この選挙は議員候補者のリストを作るためのものに過ぎません。このリストから実際に議員を選ぶのは、元老院なのです。そして元老院議員は、先ず統領が選抜し、その後の欠員補充は、元老院自体が決定していきます。そして現実的なるものの第2点は、ナポレオン個人に対する権力の集中です。ナポレオンは、人民主権の具現者を僭称して、元老院と国民一般の調停者の立場に立つことで、強大な権力を握ったのです。そして強大な権力を握った、30歳のナポレオン将軍は、政治家としても端倪すべからざる異能振りを発揮します。総裁政府から引き継いだ財政改革については、徴税機構を中央集権化することで、国庫の再建に成功します。また、通貨の不安定は、第1統領に就任翌年の1800年に、中央銀行とするフランス銀行を創設して、貨幣の発行権を一元的に持たせることで、難問を解決、通貨と財政の安定を軌道に乗せたのです。地方行政も中央権力の監督下におき、各地の首長は、都市の市長まで全てを、中央からの任命に替えてしまいます。そして中央集権化は、フェーシェに一任した警察機構でも、徹底的に追求され、スパイ警察の完備は、世界に先駆けてフランスで完成されたと言われるほどになります。そしてフランス革命が壊した古い身分制度に替わる、受け入れ可能な階層制が追求され、レジヨン・ドヌールを始めとする勲章制度が創設されます。そして仕上げとして、用意されたのが、1804年に完成をみた民法典、いわゆるナポレオン法典でした。明治の民法典が範をとったことでも知られる、ナポレオン法典は、一方で封建的な社会制度を否定して、法の前の平等、国家の世俗性の承認、信教の自由原則の確認、労働の自由、そして所有権の擁護などを確認して、ブルジョワジーの勝利を承認しています。そしてもう一方で、国家主義を強調して、家庭に於ける家父長権の絶対を承認しています。そこでは、妻や子どもの権利は徹底的に抑圧されるのです。明治の民法がナポレオン法典を範としたのは、この面に関してだったのです。こうしたナポレオン体制の安定を持って、、確かにフランス革命は終了した、革命の成果は、フランス社会に定着したというのは、それはブルジョワ社会としての定着であって、革命において、あれだけ活躍し、新社会の支配階級になるであろうブルジョワジーの魂胆を寒からしめた、民衆にとってのものでありませんでした。 続く ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, October 19, 2007 10:18 AMSubject: 19日の日記
2007.10.19
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バブルを考える(20)実のところ日銀は、87年夏頃から利上げを模索し始めていました。当時副総裁で、時期総裁となる三重野康は、前例にない超金融緩和をこれ以上続けた場合、いつ物価高騰を引き起こしてもおかしくないという、警戒感を強めていたのです。利上げに転換するには、内需拡大という国是ともいえる錦の御旗を上回る、強い材料が必要でした。そこで日銀は、インフレ懸念の芽を、徹底的に洗い出そうとしたのです。しかし、87年7~9月期の卸売り物価は前年比2,1%の下落という優等生振りでした。例外は地価と株価の異常ともいえる高騰振りでした。資産インフレが進行していることを、この時点では、日銀も見落としていたのです。東京赤坂に、アークヒルズがオープンしたのは、86年4月でした。ビル全体に光ファイバーを遠し、24時間インターネットを使い放題としたこのビルは、ロンドンからニューヨークまで時差を追って開いていく外為市場や株式市場を3交代24時間体制で追いかけて行くことが可能な設計になっており、天井と床下、そして柱を太くとった設計のため、1平米あたりの賃料は従来型ビルに比べてかなり割高でしたが、その高機能性が受けて、アットいうまに満室となる人気振りでした。そして政府が金融市場の対外開放に踏み切ったこともあり、外資系金融機関の東京進出が重なったこともあって、アークヒルズにも外資系の金融機関が相次いで入居していたのです。1人あたりのデスクスペースも使用する事務危機の都合で大きくなり、床下面積や天井裏面積も広くとる必要から、同じ高さのビルとすると、部屋面積は3分の1は減少することになりましたから、当然オフィスビル需要は用地の確保も含めて高まるとみた大手不動産会社などが、土地の先行取得を急いだ結果、都心部の地価は86年1年で70%もの上昇を示していました。株式市場でも87年2月に上場したNTTの株価は、2か月後に、売出し価格の3倍となる318万円という、べらぼうな高値をうけていました。卸売り物価の落ち付きの陰で、資産インフレは確実に進行していたといえましょう。しかし日銀も政府も、金融政策や物価対策は卸売り物価と消費者物価を基準に考えるものだという、伝統的思考が染みついていました。特に日銀は、地価は土地対策で対処するべきものという立場を崩しませんでした。建設資材の値上りには関心を寄せたものの、日銀の出した結論は、「注意は必要だが、すぐに行動を起こさなければならない程、危険ではない」というものでした。バブルが始まっているという自覚はなかったのです。プラザ合意以前は7~8%程度だったマネーサプライの伸びが87年には10%台に乗せていました。しかし住田日銀総裁は、「当時は高度成長の余韻の残る時期なので、多少の伸びは問題ではない」と考えていたと語っています。確かに高成長の続く間は、少々過剰な資金供給があった方が、むしろ成長をさらに促進する好循環を生みます。しかし、急激な円高の進行が高度成長を減速させ、経済構造に変化が生じ始めていたことに、物価の番人の日銀も、エコノミスト官庁の経済企画庁も、そしてエコノミストたちも、まだ気付かずにいたのでした。そして、ブラックマンデーがやってきました。丁度20年前のきょうのことです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, October 19, 2007 10:18 AMSubject: 19日の日記
2007.10.19
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クロニクル 日ソ国交回復1956(昭和31)年10月19日この日、モスクワで、日本とソ連の国交回復に関する共同宣言が調印されました。ソ連との国交回復に執念を燃やしていた鳩山首相は、病躯をおして底冷えのするモスクワまで出向き、共同宣言に自ら署名し、ソ連側もマレンコフ首相が署名しました。この日、鳩山首相は、日ソ国交回復を花道に引退する決意も表明、この後、前年に誕生したばかりの自由民主党は、激しい総裁選に突入することになります。なお、日ソ共同宣言においては、歯舞・色丹・国後・択捉四島の帰属については、歯舞・色丹二島の返還を打診するソ連側に対し、四島の返還を求める日本側とが折り合うことが出来ず、解決は将来に残され、現在にいたっています。
2007.10.19
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バブルを考える(19)861年の1/30~4/21にかけ、3度の利下げを実行した日銀は、同年11/01に4度目の利下げに踏み切ります。9ヶ月で4度、計2%の利下げです。翌年2月には、ルーブル合意に合わせて、5度目の利下げを実施します。1年2,5%、5%から2,5%への利下げでした。過去最低の公定歩合の出現でした。しかし、国の内外から、低過ぎる公定歩合に対する批判はなく、むしろ当然とする空気が支配的でした。2月のルーブル合意は、ドル安誘導を転換する合意でしたが、貿易収支の黒字が減少を見せない日本は、西ドイツが利上げに転換した中で、経済先進国の中でただい一国、利下げを継続したのでした。好調な日本経済にも関わらず、金利は上がらず、しばらく2,5%で推移します。秋にかけて、日銀は何度か公定歩合の引き上げを狙います。しかし、そこに起きたのが、ブラック・マンディでした。日銀が予定していた公定歩合の引き上げは、国際協調の名の下に、先送りされざるをえませんでした。 続く
2007.10.18
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フランス革命(99)「革命は終った」12月15日、共和暦8年の憲法が発布されたその日、第一統領ナポレオンは、全国民に向けて布告します。「市民諸君……革命は終った」と。私自身も、このナポレオンの布告を持って、フランス革命は一応の終りを迎えたとする考え方を支持しています。しかし、その内容の検証は必要です。まず、フランス革命のさなかにおいても、何度も「革命は終った」と信じた政治勢力はありました。市民たちもそうでした。しかし、それらはぬか喜びに過ぎませんでした。遠くは89年7月14日のバスティーユ襲撃以前の段階で、特権身分の議員達が第3身分の議員達が分離独立した国民議会へ合流したその日、1部の議員は感激して革命は終ったと漏らしていました。91年9月に難産だった憲法がようやく成立した時もそうでした。国王との妥協に走ったフィーヤン派も、戦争に訴えたジロンド派も、夫々にこれで革命に終止符が打てると信じていました。そして、ロベスピエール派と公安委員会の独裁を倒し、恐怖政治にピリオドを打ったテルミドール派や総裁政府もまた、革命は終った、終らせることが出来ると信じて、政権につきました。しかし、それらはいずれも願望に過ぎず、革命はその都度混乱を深めてきました。そういう過去を背負っているのに、ナポレオンの発言だけはどうして肯定出きるのか。それは、その後の彼の施策、政治実績が示しているのですが、彼の施策によって、フランス革命の諸原則がフランスの国家と社会に、確実に定着していったことが確認出きるからです。明日からフランス革命の本論の最後に、そのことを記していきたいと思います。 続く
2007.10.18
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クロニクル 徴兵年齢17歳に1944(昭和19)年10月18日この日、陸軍省は兵役法施行規則を改正公布し、17歳以上の男子を兵役に編集する旨を通知しました。国民には隠していましたが、各地の戦局は益々悪化の度を深めており、43年3月の植民地朝鮮への兵役法の適用(朝鮮人民の日本軍への徴兵の開始)、同年10月の学徒の徴兵猶予の停止と学徒動員、そして勤労動員の通年実施んどに続く、形振り構わぬ兵士確保の辻褄合わせの一環でした。兵役の上限も45歳までと広げられており、国内の人的資源を全て戦争に振り向けようというのですから、国の将来を慮るところのない、無茶苦茶な方針でした。このような国家の将来像がどうなるかを思い描くことも出来ない。目先を取り繕うことさえ出来れば善しとするかのような、情けない指導者によって、多くの有為な人材が消耗品のように使い捨てられていった事実と、しっかりと向き合いたいものです。
2007.10.18
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フランス革命(98) 憲法の制定クーデタは成功しました。議会の抵抗は予想以上でしたが、市民は平静でした。ということは、クーデタに熱狂的な支持もなかったことでもあります。大きな動揺も反抗もありませんが、じっと様子見の気配が漂っていました。思えば、89年に革命が始まって10年以上の時間が経過しているのです。この間に熱狂的に期待し、今度こそと思い、そのたびにガッカリすることの繰り返しでした。民衆にすれば何度裏切られてきたことか…。そうした経験が皆を慎重にし、また期待ハズレになるかもしれない、それならあまり喜ばないでおこうといった、シニカルな反応を産んでいたのでした。10年の経験で、みんな用心深くなっていたのです。それでも市民達は、「自由の始めの頃に戻ったような気分」を味わっていました。こうした雰囲気の中で、クーデタを敢行した「ブリュメール派」はクーデタの仕上のために、憲法の制定を急ぎます。ここは、専門家であるシェイエスの出番でした。シェイエスもまた、「信任は下から、権力は上から」をモットーとする、民衆に対し「寄らしむべし、知らしむべからず」を地で行く、現在の高級官僚臭をプンプンとさせている、食えない男です。彼は人民主権を骨抜きにすると共に、独裁者の排除に細心の注意を払おうとします。それはナポレオンを名誉職にまつりあげようという魂胆でした。当然ナポレオンが受け入れるはずはありません。にべもない拒否にあって、シェイエスの構想は頓挫します。主役が誰であるかは、ハッキリしているからです。こうして、改めて臨時の措置だったはずの3人の統領制が浮上します。しかし、今度はよりはっきりと、第1統領の絶大な権力が確定します。当然のように、その椅子にはナポレオンが座ります。1769年生まれ、丁度30歳になったばかりの若き将軍が権力の座に座ったのです。軍事力を握り、タレイランとフーシェの支持を受ける彼の立場は揺らぎませんでした。シェイエスはナポレオンに提示された元老院議長の椅子に満足するしかありませんでした。12月15日、共和暦8年の憲法は発布されました。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, October 17, 2007 10:29 AMSubject: 17日の日記
2007.10.17
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バブルを考える(18)3ヶ月足らずで3度の利下げ、5%だった公定歩合はあっという間に3,5%に下がりました。それでも円高は止まりません。1ドルが180円を切ったあたりから、それまで円高を容認していた財界の空気も変わりました。トヨタの豊田英二会長も、それまでの円高容認発言を改め、「このままでは輸出産業は大変なことになる」と、暗に金融政策以外の政策出動を求めはじめました。円高の悲鳴と国際協調のための貿易不均衡の是正。キーワードは内需拡大でした。……82年に首相に就任した中曽根は、前任の鈴木首相の下で行政管理庁長官として行政改革に専心、首相就任後も臨時行政調査会をテコに行政改革に邁進します。中曽根臨調とまで呼ばれた臨調路線で、遂に国鉄・電電公社・タバコ専売の民営化に成功したことは、記憶に新しいところです。その意味するところは、財政再建のために歳出をギリギリまで削る努力を国民に見せ、その上で、それでも足りないからと、大平首相が導入に失敗した大型間接税を導入することにありました。そのため、内需拡大のための財政出動は避けたいところだったのです。中曽根内閣の下で、公共事業の伸びは従来に比べると厳しく抑えられていたのです。イギリスでは鉄の女と称されたサッチャー首相の下で、サッチャリズムと呼ばれた行政と国家の改革が進められていました。中曽根臨調路線もサッチャリズムの縮小版的効果を持っていたのです。ユーラシア大陸の東と西に位置する日本とイギリスで、期せずして類似の政策がとられていたのです。両国の政策は政府支出の削減という点で共通していましたから、国内的には消費が拡大しない限りデフレ効果を持ちます。その点でイギリスと日本を救ったのが、レーガンのアメリカでした。レーガノミックスと呼ばれたレーガン政権の政策は、減税と軍備拡大を強行する財政出動でした。レーガンは減税が個人と企業の意欲を増し、結果として税収増を齎すと信じ込んでいたのです。その結果、アメリカの消費は拡大を続けたのですが、それは国内製品よりも安価で質の良い、日本や西ドイツからの、そして1部はイギリスからの輸入品の急増を生んだのです。プラザ合意が結ばれる1985年、アメリカは財政と国際収支の双子の赤字に喘いでいたのは、このためでした。アメリカ議会に蔓延した保護主義の声を抑えるには、アメリカの国際収支とりわけ貿易収支の赤字幅を目に見える形で削減しなければならない。国際協調の下で始まったドル売り介入は、まさにこのためだったのです。しかし、通貨調整の効果はすぐには出てこず、かなり遅れて出る傾向があります。この時もそうでした。日本の貿易黒字がはっきりと減少に転じたのは、プラザ合意から2年近く経った87年の7-9月期でした(前年比12%減)。円高不況を警戒して、嵐のように利下げを繰り返した背景には、不況が齎す輸出ドライヴは、何としても避けたいという強い意志、内需拡大は国際公約であり、それが日本の将来のためだるという、強い決意の現れでもありました。 続く
2007.10.17
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元号の記事訂正元号法制化の記事の最後に、西暦と元号年との換算の数字をあげておきましたが、その最後の平成の数字に、明治の換算に使う67と記してしまいました。88の誤りです。お詫びして訂正します。ですから、換算の数字は明治、大正、昭和、平成の順に67 11 25 88となります。ご存知の方も多いと思いますが、種証しをすると、明治元年1868年、大正元年は1912年、昭和元年は1926年、平成元年は1989年夫々の西暦年の下2ケタの数字から1を引いた数字なのです。そのため、加える3ケタ以上の数字が、18と19に分かれます。明治と平成は世紀をまたぎますので、下2ケタに100を超える数字も出ることになります。
2007.10.17
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クロニクル 閣議元号法制化を決定1978(昭和53)年10月17日福田内閣は、この日元号の法制化を目指す元号法を閣議決定しました。明治・大正・昭和・平成の四つの元号は良く知られていますが、それ以前となると、一般に馴染みがあるのは、明治の直前の慶応と、忠臣蔵で名高い元禄と、江戸時代の三大改革に名を連ねる享保、寛政、天保と、大化の改新の大化でしょうか。平成も何時の間にか、19年になり、昭和…年生まれと言われると、年齢を数えるのに、しばらく時間がかかるようになりました。だから西暦がわかり易くて便利と。次第に西暦が幅を利かすようになってきています。おそらく内閣には、やがて元号が消えてしまうという危機感があったのでしょう。一世一元とする元号法が、ここに提案され、翌年可決。79年の6月12日に公布・施行されました。最後に西暦と元号の簡単な計算法を記しておきます。例えば、明治13年は1880年で、明治37年は1904年です。明治に67を加え、それに1800を加えて読めば西暦になります。逆に西暦から67を引くと、明治の年号が出ます。 明治37年は37+67=104 ですから、1800を加えて1904年なのです。 大正12年の関東大震災は11を加えて、ただし加える三桁以上は1900になりますから1923年、ロシア革命の1917年は11を引いた大正6年です。11を足したり引いたりすれば良いのです。同じように昭和は25、平成は88デス。覚えておくと便利です。
2007.10.17
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バブルを考える(17)しかし、ドル安は止まりませんでした。円も西ドイツマルクもドルに対して上げ続けました。そんな状況の中、85年の12月、首相の中曽根は「いっせのせで、一斉に利下げすれば、世界経済にも好影響を齎すのでは…」と言い出しています。ドル安不況を防ぐための協調利下げを言い出したのは、日本でした。明けて1月18日、ロンドンで開かれた日米欧5ヶ国の蔵相会議で、協調利下げを提案したのは竹下でした。止まらぬドル安に、1ドルは200円に迫っており、円高不況を心配し始めた日本国内では利下げの気運が高まっていました。しかし、日本単独の利下げではドル高に戻りかねません。そこで協調利下げを呼びかけたというわけでした。この時は各国が同調せず、利下げは見送られました。しかし、「1ドルが200円でも、190円でも大きな違いはないのではないか」と竹下が何気なくもらした一言が、「日本政府が200円突破を容認し」たと受けとめられ、1月24日には、1ドルはあっさり200円を突破、190円台に入ります。翌日日銀は緊急会議を召集します。もう協調利下げを待ってはいられません。日銀は29日に0,5%の単独利下げを決め、翌日から実施します。それでもドル安の流れは止まりませんでした。1ヶ月後の2月末、1ドルは180円も割り込みます。僅か5ヶ月で240円から180円割れへ、25%もの大幅な円高です。1年前には280~270円台だったのですから、何と1年で100円の円高です。さすがにFRBのボルカーも急激過ぎるドル安に慌て、景気の停滞を気にするようになり、3月9日、今度は日米独仏4ヶ国の協調利下げが実現します。ここでも0,5%下げた日本の公定歩合は、40日で1%下がった計算になりました。それでも円高は止まらず、4月21日、今度は日米協調による第3次の利下げが行なわれました。この時円は170円台を割り込んでいました。FRBのボルカーは、利下げが為替相場の急激な変動に繋がることを警戒していましたから、利下げには慎重でした。しかし、レーガン政府は景気刺激を経済政策の優先課題と考えていたため、利下げに積極的だったのです。ここでも0,5%の利下げが行なわれました。僅か3ヶ月で、1,5%もの利下げは過去に例がありません。それだけ円高不況への警戒感が強く意識されていたのでした。しかし、まだドル安の流れは止まりませんでした。 続く
2007.10.16
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フランス革命(97)ブリュメール19日 その2ナポレオンが武力行使を躊躇ったのは、部下の兵士以外に、議会の守備兵がいたからでした。守備兵はナポレオンの指揮下にありませんから、彼等の動きは未知数だったのです。しかし、彼の弟リシュアンは五百人会の議長でした。守備兵にとってリシュアンは指揮官でした。五百人会で、ナポレオンを法の保護外に置くとの動議が出された時、リシュアンは議長席を降りて外に出ます。 ナポレオンが銃剣での決着を決意した時でした。沈黙を守る守備兵の前にリシュアンが立ちます。「議会から扇動者たちを排除せよ!」との訴えに、「おー!」と応じたのは議会守備兵でした。兵士同士の争いは避けられ、銃剣に寄る議会の制圧はここに決しました。午後5時、突撃の合図に兵士たちは議場に侵入、全議員は議論を放り出して逃げ出します。5分後議場に人気はなくなります。7時前、元老会は屈服し、総裁政府の終了とナポレオン、シェイエス、デュコの3人を臨時統領に推薦する旨を宣言します。ようやくのことに、クーデタは成功したのです。時間のかかるのを心配して、パリから様子を見に来ていたタレイランは、満足して引き上げて行きます。しかし、五百人会の議長リシュアンには、まだ仕上の一仕事残っていました。例え形式的なものであっても、クーデタの合法性を担保するために、五百人会もまた、元老会の宣言を承認する必要があるからです。午後9時、数10人(この人数には諸説あり、現在も確定できていないのですが、最も少なく見る人と、最も多く見る人を両極にすると、30人~100人の幅があります)の議員がかき集められ、元老会の宣言にある統領制の提案、総裁政府の廃止、そして将軍たちへの感謝が承認されます。それを受けて、3人の統領が宣誓を行なったのは、明けてブリュメール20日、午前2時のことでした。こうしてクーデタの第一幕は完了しました。しかしまだ第二幕が残されています。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, October 16, 2007 10:18 AMSubject: 16日の日記
2007.10.16
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クロニクル 北炭夕張新鉱でガス事故1981(昭和56)年10月16日この日。午後0時40分頃、北海道夕張市の北海道炭鉱汽船(略称北炭)の夕張新鉱で、坑口から約3000メートル、地下約800メートルの地点でガス突事故が発生、構内で作業中の坑夫が酸欠やガス中毒で次々に倒れました。危険度の高い有毒ガスが蔓延しているため、救出も難航していたのですが、追い討ちをかけるように、午後10時過ぎに坑内火災が発生、大惨事になりました。「北炭」夕張新鉱は、「北炭」夕張炭鉱が5年の歳月と300億円もの巨費を投じて開発、75年6月に操業を開始した深部採炭型の炭坑でした。最新の設備を誇ってもいたのですが、最深部の可燃性の高い質の良過ぎる石炭を採掘するため、ちょっとした火気でもすぐに火災が発生したり、有毒ガスが噴出したりするなど、操業当初から事故に苦しめられていました。操業1ヶ月の75年7月には、早くもガス突出事故が起きて、5人が死亡、14人が負傷しました。80年の8月にも坑内で火災が発生していました。そんな矢先のこの日の事故だったのです。そして、この日夜10時過ぎに発生した火災は、なかなか鎮火せず、1週間後の23日になっても燃え続けていました。そこで、会社側は23日に至って、救援に入ったまま行方不明になっていた救援体の10名も、坑内で死亡したものと判断、3次、4次の災害を起こさせないための苦渋の決断として、坑内に救援隊を含めて59人の行方不明者を残したまま注水を開始、死者は総計で93人にのぼりました。この事故が原因で、北炭夕張炭鉱は12月に倒産、再建計画も不調に終り、翌82年10月、夕張新鉱は閉山を迎えたのです。昨年財政破綻した夕張市の苦難は、ここに始まったのでした。
2007.10.16
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フランス革命(96)ブリュメール19日 その1翌ブリュメール19日は、クーデタの成否を決める決戦の日でした。ナポレオンは馬車でサン・クルーへ向いました。両院の議場は、昨日ここに移されています。議場は1500名の兵士に取り囲まれています。午後1時半、五百人会(下院にあたります)が開かれるやいなや、議長のリュシアン(ナポレオンの弟)の制止を無視した左派系議員が「憲法か死か!」と叫び出し、議場は大混乱に陥ります。元老会(上院にあたる)も左派系の巻き返しのために混乱します。左派の議員は覚悟を決めて、乾坤一擲の勝負に出たのです。控え室で待機していたナポレオンは、たまらず3時半になると、元老会の議場に入り、一場の演説を試みました。五百人会に巣食うジャコバン派の危険を強調し、共和国の安全のために…と強調したのですが、議員からは不信と不満の声しか戻らず、彼が期待した拍手は全く起こりませんでした。次第にしどろもどろになるナポレオンは、兵士に向き合う時とは全く別人でした。秘書に押し出されるように議場を後にしたナポレオンは、兵士の前に立つとまるで別人です。そこで自信を取り戻したナポレオンは、今度は五百人会に向います。彼の姿を見た議員達は「独裁者を倒せ!」の怒声を飛ばして、彼に発言の機会を与えません。興奮した数人の議員は彼の襟首を掴んで取り囲み、殴りかかってきます。ナポレオンは兵士たちに助けられて、ようやく議場の外へ逃れます。このあたりは、クーデタが粛々と進んだわけではないことを示しているのですが、興奮する議員達の前に自ら出かけていくなどということは、決して褒められたことではなく、用意周到なナポレオンにしては珍しいミスでした。やはりナポレオンも、念願の権力掌握を目前にして、理性を失ってはやりすぎたのでしょう。彼の過信ゆえの失敗でした。シェイエスに武力行使を進められたナポレオンは、なおしばらく躊躇いますが、五百人会がナポレオンを「法の保護の外に置く」との動議を出すに及んで、武力行使を決断します。この辺がこの日のハイライトでした。 続く
2007.10.15
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