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第一次世界大戦(35) ドイツ政界と国民の動揺軍指導部が唐突に休戦交渉の必要を口にするようになったことを訝った帝国議会は、10月2日(この日は参謀総長ヒルデンブルクが、大本営を離れてベルリンを訪れ,自らマックス大公に首相就任を要請した日です)各党の指導層を召集して、参謀本部の代表に戦局の実際について、説明を求めました。参謀本部は、何が何でも休戦交渉をまとめなければならないという考えから、戦局の実情を包み隠さず説明する態度に出ました。これまで、議会や国民に対して、「ドイツ軍は必ず勝利する」とのみ語りかけ,戦局が不利であること、そして今や絶望的であることなど、気配も見せていなかった態度を180度転換したのです。このため国民も政界も、ドイツ軍がよもや負けるとは考えていなかったのです。ところが参謀本部の代表者の説明は、議会の指導層にとっても大変な衝撃でした。話のメモが残されています。「ブルガリア戦線の崩壊によって、全戦線がすべて危険な状況になった。崩壊したブルガリア戦線を、ドイツの予備兵力で補充しなければならないのに、悲しいかな我が軍にはその余裕がない。既に全予備兵力を西部戦線に繰り出してしまって、辛うじて敵の進撃を食い止めていたのだから…。いまや敵に強要して、講和を結ばせる見込みはゼロである。」「敵側は多量のタンク(戦車を指す)を戦線に出動させて、我が軍陣地を突破して、多くのドイツ兵を捕虜にしている。残念ながら今のドイツには、敵に匹敵するだけのタンクを作る工業力がない。我が軍の補充兵力も欠乏している。1大隊の兵力は4月には800人だったが、今や540人が精一杯である。しかも歩兵22個師団を解散して、編成し直した結果として得られたのが、個の数字である。」「ドイツ軍の損害は、我々軍部の予想すら遥かに上回っているが、特に将校の死者が多いのが痛手である。これは将校が攻撃の際も防禦の際も、常に第1線に立って部下を指揮しなければならないからで、ある師団では、2日間の戦闘で将校全部が死傷し、連隊長4人のうち3人が戦死した。下士官の死傷者も破滅的である。」「今や我が軍には、予備兵力は皆無である。絶え間ない敵の攻撃に対し、ただ退却しているのが現実である。以上の形勢からヒンデンブルク、ルーデンドルフの両将軍は、カイザーに対し戦争を止め、これ以上の死者を出さないように進言した。1日遅れれば、敵側はそれだけ勝利に近づき、ドイツ側の耐え忍べる条件で講和を結ぶ気をなくしていくだろう…」これが参謀本部の議会指導者に対する告白でした。4年もの間、飢えに苦しみ、寒さに凍えながら,軍部の専横を耐え忍んだ結果が、そして軍の言いなりにモクモクと働き、戦い続けた結果がこういうことだったとは…。やりばのない憎しみと怒りが、政界にも国民にも燃え広がるのに、時間はかかりませんでした。国内情勢は一夜にして大きく変化したのです。軍部の独裁をいままで通り支えようなどという国民は、ほとんどいなくなったのです。 続く
2007.12.31
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クロニクル 紅白歌合戦公開放送へ1953(昭和28)年12月31日朝鮮戦争の休戦が確定した、今から半世紀以上昔のこの日、NHKは紅白歌合戦を日劇から、初の公開放送として実況放送しました。視聴者を抽選で日劇の公開放送に招いたことが頭にあたり、以後大晦日を飾るNHKの看板番組に成長して行きました。でも最近は、看板も色あせてきたのか、ここのところのNHKの番組を使っての「紅白」の宣伝の物凄さに辟易しています。
2007.12.31
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バブルを考える(81) 続瑕疵担保条項瑕疵担保条項は、買い手の要求で実現したものではなく、金融再生委員会の提案に拠るものでした。買い手側の提案は、2次損失の処理について、欧米で一般的だったロス・シェアリング方式を提案してきました。売り手と買い手が合意することを前提に、2次損失にかかる費用は、両者で折半する方式です。それゆえ、債権の時価が2割以上減価した債権は、帳簿価格で売り手が買い取るという瑕疵担保契約よりも、売り手の負担はかなり低くなります。何故、日本側はこの提案を受け入れずに、損失を拡大させる瑕疵担保条項に拘ったのか?それは、ロス・シェアリング方式の導入には、買い手と売り手が共同で一つ一つの債権の再建可能性をチェックする必要があるからでした。譲渡可能債権(適資産)か非譲渡可能債権(不適資産)か決めるとなると、そこで、不適資産とされた債権は、ただちに債権回収機構に譲渡され、回収の対象とされるのですから、事実上債権困難と判断されたことになります。当然、融資を継続したり、金利を減免してもらっていた企業が、今後も融資を継続してもらえる可能性は、限りなく低くなります。融資を断られた企業は、倒産するしか道はありません。金融再生委員会はこれを嫌ったのです。他行が、懸命に支えようとしている企業に,再建可能性の乏しい企業というレッテルを貼るのを避けようとしたのです。そこには、日債銀の債務超過を断乎として認定した厳しさのカケラもなくなっていました。大銀行が業務純益の範囲で、不良債権の償却を進めるのを待つという、護送船団行政に早くも染まってしまった様子が見てとれます。金融庁や金融再生委員会は、こうして自らもまた、早期の不良債権処理を進め、早期の日本経済の再建を図る道を選択しなかったのです。こうして、ここでもまた多額の税金の無駄使いが生じたのでした。無理やり1次損失を少なく見せ、実質破綻企業を少しでも生き延びさせようとする,形振り構わぬ先送り対策が、そこにはあったのです。
2007.12.30
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第一次世界大戦(34) ドイツ軍部のあがき…2軍部から首相就任と休戦交渉をまとめてほしいと依頼されたマックス大公は、すぐに休戦を申し入れてほしいという軍部の要請に対し、いきない休戦を申し込むと、足元を見られて不利になることを上げて、ドイツの現状から見て,無理でない戦争目的の先ず内外に宣言すべきだと主張しました。10月2日、参謀総長のヒンデンブルクが,大本営を離れてベルリンにマックスを訪ねてきます。平和交渉の担い手に相応しい人物は、マックスをおいていない。だからマックスには是非とも首相を引きうけてもらいたい。こう考える軍部の必死さが読み取れる行動でした。ヒンデンブルクに対しても、マックスは持論を展開し、すぐに休戦を提案することの愚を説きました。「軍部はウィルソンの14ヶ条を基礎とした平和条約を結びたいと言っていられるが、その際にはエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌのドイツ語表記)2州と東ドイツのポーランド人居住地域(ポーランド回廊ほか)を失う事を承知しているか?」とマックスは、ヒンデンブルクに問い掛けます。ヒンデンブルクの答えは書面で寄せられ、現存しています。彼は、ドイツが割譲を求められる領土は少なくて済むと,考えていたのです。「最高軍司令部は、フランス語を話すエルザス・ロートリンゲンの小部分の割譲には賛成する。しかし東ドイツの領土割譲など、もってのほかだ」と。今にも全戦線が崩壊するかもしれないという危機にあって、なお敗戦は部分的であるという幻想にしがみ付いているのですから、あきれたものなのですが、これが当時のドイツの最高権力者の実態でした。軍人にはとかく、この手のタイプがいるようです。第2次大戦の日本が、あの状況になるまで、敗戦を受け入れなかったのも、この手の軍人が独裁権力を握っていたが故であったことが、思い起こされます。ヒンデンブルクらは、休戦期間中に部隊を再編成して、再度戦闘に踏み切ることが可能であると判断していたのです。ドイツが再び戦闘を起こしうるような条件で、協商側が講和に応じてくれる可能性がないという事など、彼等は考えようともしなかったのです。休戦になれば、敵側の軍事的優位を知る兵士達が、再び立ちあがる戦意など、まったく見せないであろうことに、現場を知らない軍指導部は、思い至らなかったのです。彼等は、ドイツ国内の、特に農村部の不満と窮乏が,既に沸騰点に達していることにも、気づかずにいたのです。 続く
2007.12.30
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クロニクル 独立国家共同体(CIS)活動開始1991(平成3)年12月30日12月21日にカザフスタンのアルマ・アタで,その創設を宣言した独立国家共同体(CIS)が、この日活動を開始しました。その結果、ここにソ連邦は,公式にその役割を終え、ソ連邦の崩壊は、もはや後戻りできないものとなりました。
2007.12.30
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バブルを考える(80)瑕疵担保条項一時国有化された、長銀と日債銀の不良資産を切り離し、両行を民間に売却する際、後に問題となる瑕疵担保条項が導入されました。瑕疵担保とは、民法570条に「売買に際して隠れた瑕疵があり、買い手がこれを知らずして契約したがために、契約の目的を達成できなかった時、買い手は買戻しを請求できる」権利として定められています。金融再生法には、国有銀行の民間への譲渡に際して、2次損失への規定がなかったため、民法の瑕疵担保条項を使うことにして契約を結び、3年以内に2割以上債権価値が減価した場合は、買い手は帳簿価格で買戻しを請求できることにしたのでした。これでは,買い手のフトコロが傷まないのですから、明らかに買い手に有利な条項でした。なぜ、このような条項が明記されたのか。単に金融再生委員会が買い手の要求に押しきられたのでしょうか。ここに極めて日本的な事情があったのです。 続く
2007.12.29
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第一次世界大戦(33)ドイツ軍部のあがきドイツ軍を掌握していた参謀総長ヒンデンブルクは,東部戦線のタンネンベルクで、ドイツ軍の劣勢を盛り返して勝利に導いた救国の英雄でした。彼はヴェルダン攻囲戦の失敗の責任をとって辞職した前任者の後任として参謀総長に就任すると、総力戦論者のルーデンドルフとのコンビで、軍部独裁を築き上げていました。彼等は反対派を次々に排除し、ユンカーや独占資本、そして保守党を味方に引き入れ、民主勢力と社会主義者を排除しつつ、皇帝をも脅したり,すかしたりしながら、不利な情報を隠して権力を維持してきたのです。その二人が、ブルガリアの降服を知り、西部戦線でのドイツ軍の退却の報と照らし合わせた時、多方面で戦線が崩壊する可能性を、さすがに認めざるを得ませんでした。彼等は、突然休戦の必要を政府に伝え、「平和交渉を有利に進めるため、議会の有力指導者に全て参加してもらった、広い国民戦線的な内閣を組織する」ことを要請しました。今まで真相を何も知らされずに、ひたすら軍部の言うがままになっていた政府と議会は、さすがに二人の豹変振りを怪訝に思います。「頑固に平和と国内民主化に反対してきたのに、何故急に180度の政策転換を主張するのか?」実はブルガリアが降服する半月ほど前の9月14日にオーストリアも講和交渉を求める声明を発表していました。そしてドイツ帝国議会の多数派も、戦局の不利を薄々察知して、全国民の結集による決戦態勢の構築を目指して、こっそりと協議を開始していたのです。この状況で、軍部も議会も共に宰相(首相)候補に擬していたのは、バーデン大公のマックス卿でした。自由と国際協調の必要性を説く、温厚篤実なマックス卿は、協商諸国にも広く名を知られた貴公子でしたから、国内は勿論、協商諸国も彼の登場を歓迎し、交渉に応じてくれるだろうと、軍部も考えたのでした。しかし、ここからマックスら議会側と軍部の間で、話し合いは縺れました。 続く
2007.12.29
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クロニクル 第一次農地改革始まる1945(昭和20)年12月29日この日、農地調整法が改正公布されました。ここに第一次農地改革がスタートしましたが、まだ地主制温存の雰囲気が強く、改革は不十分なままで、この時実現したのは、事実上小作料の金納化だけでした。そのため、GHQのダメ出しを受け、翌年46年10月21日に自作農創設特別措置法が公布され、本格的に農地改革が進みはじめたのでした。
2007.12.29
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バブルを考える(79)不良債権の軛長銀と日債銀の倒産、一時国有化後の99年3月、一部地銀を含む大手行は、2度目の公的資金の注入を受けます。今回は総額で7兆5千億円に達する巨額の注入になりました。第一次の公的資金注入が、いかに横並びで不十分なものだったかが、はっきりと分かります。この結果、不良債権の処理はようやく前進することになりました。大手銀行は92年度(93年3月期)から99年度(2000年3月期)までの8年間で、総額にして50兆円以上の不良債権を処理しています。このうち、95、97、98年度の3年については、年間で10兆円を超える不良債権を処理しています。それが2000年3月期の不良債権処理額は、前年度の10兆円超から、半分の5兆円に減少しています。それでも尚残存する不良債権の総額は、17兆円を超えています。この中には金利減免債権等も含まれているため、必ずしも全てが回収不能になるわけではないのですが、ITバブル崩壊後の状況を考えると、経営状況が好転する企業と、悪化する企業を比べると、後者の方がはるかに多い現実があります。即ち、不良債権を処理しても、処理しても不良債権は減少しない蟻地獄に嵌まってしまっています。2000年上半期(2000年4月~9月)の大手16行(当時)の決算を見ましょう。全体での不良債権処理額は1兆6千億円超,不良債権残存額は17兆2千億円強となっています。1兆6千億円強の不良債権を処理しながら、不良債権の減少額は5千億円弱に留まっているのです。新たに1兆1千億円分もの不良債権が発生しているのです。大手16行の業務純益の合計は、1兆5115億円ですから、本業の利益だけでは、償却した不良債権の処理費用は賄い切れていないのです。ITバブルの余波が6月頃まで続いていたため、各行は株式売却で総額約1兆円の利益をあげて、これだけの不良債権を処理したのです。しかし、ITバブルが完全崩壊し、株価の下落基調がはっきりした2000年6月以降は、株式売却益は期待できません。一方で、2000年には、2月の長崎屋に始まり、信販のライフ、そごう、西洋環境開発(セゾングループ)、協栄生命、千代田生命など、10社の大型倒産があり、その負債総額だけで11兆円に達していました。大きいから潰せないと、再建を期待して、金利を減免しながら追い貸しを続けてきたものの、ここに来て遂に支えきれなくなった結果がここにありました。巨額の公的資本の注入は、それがなければ、第3、第4……と大手都市銀行の倒産が続いた可能性も否定できなかったのです。公的資金の注入で、大手行は一息つき、そして、大型合併に走ったという図式が、ここにはっきりしてきたのです。 続く
2007.12.28
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クロニクル 東洋拓殖会社設立1908(明治41)年12月28日1945(昭和20)年の敗戦まで、日本の朝鮮経営の中核のひとつとして、大きなウェートを占め続けた国策会社、東洋拓殖株式会社が、この日関連法の成立を待って設立されました。時に,日本に拠る韓国併合=完全植民地化の2年前のことでした。東洋拓殖は,朝鮮における最大の大土地所有者となり、農業経営を業務の中心にしていったのですが、その土地の多くは、朝鮮農民の無知につけ込み、登記簿に登記されていない土地を次々に奪って、自分のものにしていったことが、今日では良く知られており、朝鮮農民の怨嗟の的となっていた会社でした。その後、支店を通じて、「満蒙」や「南洋」にも業務を拡大しましたが、日本の敗戦により、解体整理されました。
2007.12.28
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クロニクル 傾斜生産方式を決定1946(昭和21)年12月27日政府は、この日の閣議で、経済復興をどう進めるかに関して,傾斜生産方式を採用する事を、正式に決定しました。敗戦、とりわけ米軍の空爆によって、軍需産業を中心に、日本の工業地帯は大きく破戒されており、ゼロからの復興に近かったために、1度に全産業の復興を目指す事は、現実問題として無理がありました。そこで、あらゆる産業に関連する基幹産業を中心に、少ない外貨を割当、まず基幹部分の復興を目指し、次いで周辺に広げると言う、2段階、3段階の手順で復興してゆくプランが採用されたのです。こうして、当時は国内資源として豊富に採掘された石炭採掘、電力、ついで鉄鋼などに、政府による支援が行われたのです。このうち石炭は、産業の黒いダイヤと呼ばれ、筑豊・常磐・夕張などの産炭地は活況に沸いたのでした。その1つ、夕張市の最近の惨状を漏れ聞くと、感懐深いものがありますね。
2007.12.27
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第一次世界大戦(32)ドイツの混乱戦争末期の、敗色濃い国の軍部ほど身勝手な存在はありません。第一次大戦時のドイツ軍部がまさにそうでした。東部方面から撤収した全兵力を投入した西部戦線での大攻勢が、失敗に終った7月下旬には、ドイツ軍に勝ち目がないことは、誰の目にも明らかでした。追い討ちをかけたのが、バルカン半島での戦闘に敗れたブルガリアの戦線離脱でした。9月15日に始まったマケドニア戦線での戦いは、数日のうちに、連合軍の勝利となり、ブルガリア軍は崩壊しました。バルカンに出来た大きな穴を埋める力を、西部戦線に全兵力を注ぎ込んでいるドイツには、もはや残っていなかったのです。オーストリア=ハンガリーも、オスマン帝国も、近い内に降服するに違いない、そうなってからでは、交渉でドイツに有利な条件を引き出すなどということは、到底不可能となるだろう。こう考えたドイツ軍は、9月下旬になって方針を転換、連合軍に休戦を申し入れることを決意するに到ったのです。しかし、軍部の提案では、相手側に無視されることもありうると、軍部自らが、軍以外から宰相を推薦すると言う不可思議な事態になったのです。 続く
2007.12.26
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クロニクル ソ連邦消滅1991(平成3)年12月26日この日、ソ連最高会議はソヴィエト連邦の消滅を宣言、ソヴィエト社会主義共和国連邦は、地上からその姿を消しました。この年8月19日、ソ連共産党保守派がクーデタを起こし(クロニクルに既述)、ゴルバチョフ書記長兼大統領を軟禁しましたが、ロシア共和国大統領のエリツィンらが反対、クーデタは僅か4日で失敗に終りました。この事件によって、共産党の権威は完全に失墜、エリツィンはロシア共和国内における共産党の活動を全面的に禁止し、ゴルバチョフも8月24日にソ連共産党中央委員会に自主解散を要求、党資産の全面接収に踏みきりました。こうして共産党は事実上消滅するにいたりました。その後、既に独立を宣言していたバルト3国に続いて、ウクライナやベラルーシなどが、続々とソ連邦からの独立を宣言、12月21日には、バルト3国とグルジアを除く11共和国の首脳がCIS(独立国家共同体)の結成を宣言、ソ連邦存続の道が絶たれたのでした。ここにいたって、ゴルバチョフソ連邦大統領は辞任を決断(25日)、この日のソ連邦消滅宣言に到りました。社会主義が一世を風靡した1つの時代が、ここに終了をみたのでした。
2007.12.26
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第一次世界大戦(31)同盟国側の疲弊占領地での徴発も、物資や食糧不足の本格的な改善に繋がらなかった同盟諸国(=ドイツ側)の疲弊は着実に進行し、兵士らの戦意は、綻びを見せていました。オーストリアでは、18年1月に始まった軍需工場でのストライキは、燎原の野火のように各地に広まり、2月にはドイツにまで飛火して、100万人を超える軍需労働者の反戦ストライキに繋がりました。そこでは食糧の増配、戦時利得者の厳罰が公然と要求され、さらに進んで戦時体制の廃止と即時和平とが掲げられたのです。慌てたドイツ政府と軍部は、徹底した弾圧政策で答え、積極分子は悉く前線に送ることで、ようやくストを抑え込んだのです。こうして3月から、乾坤一擲大攻勢に出たのですが、皮肉なことにその攻勢の中で、多くの将兵がドイツ軍の将来に悲観的になっていきました。損失を補填するすべを失っているドイツ軍に対し、在欧アメリカ軍は、7月には100万人に達し、さらに毎月25万人規模で、増援部隊が到着する手はずになっていました。4月以降は、比較的余裕を持ってドイツ軍の攻勢を凌いだ連合軍は、7月に入ると大量の戦車を先頭に反撃に出ました。持ち堪えられずにドイツ軍は敗北し、退却に次ぐ退却が始まりました。連合軍は豊富に準備したトラックに分乗して前進するのに対し,ドイツ軍は軍馬を使って物資を運び、兵士は徒歩で退却するのです。軍馬の飼料にすら事欠くようになったドイツ軍の軍馬はやせ衰え、物資の輸送は余計に滞ったのです。戦いの行く末に希望を持てなくなったドイツ軍将兵の絶望感は、退却を諦めての大量の投降となって現れました。7月のみで30万人を超える将兵が捕虜となりました。オーストリア軍では、2月のカッタロ軍港での水兵の反乱に続いて、大規模な蜂起や集団脱走が続き、イタリア戦線での攻撃失敗もあって、6月中頃には、南部戦線の戦力は半減したのです。ドイツでも8月に入ると、脱走兵と休暇からの未帰還兵の合計は100万人を超えました。ようやく大戦の終りが見えてきたのです。 続く
2007.12.25
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バブルを考える(78)閑話休題…ゼロ金利を考える住専問題が騒がれ出した95年9月以降、5ヵ年以上に亘って、公定歩合は0,5%に張りつき、その後一時、僅かばかり引き上げられたものの、その後はゼロ金利政策が昨年2006年の春まで続きました。ゼロ金利は解除されましたが,日本の金利は、なお国際的に見ると、異常に低い段階に留まっています。私はこの超のつく低金利こそが、個人消費も減速の最大要因であり、金利のさらなる上昇なしに、個人消費が盛りあがることはないと考えています。超低金利政策やゼロ金利政策はどのような政策意図によって、実施されたのか。1つには、多額の不良債権を抱え、新規の貸出しに極端に慎重になっている金融機関に対し,貸出しによらず債権の運用によっても,多額の利益が得られるようにすることでした。預金利子は限りなくゼロに近いのですから、銀行の業務純益は膨らみます。元来預金者の手に入るべき金利を、不良債権処理費用とするために、銀行の手に残す事が狙いだったのです。こうしてなし崩しに時間をかけて、不良債権を処理させようとしたのです。2つ目の狙いは、多額の借金に悩む企業の救済にありました。通常借入金の金利は借り入れ時に決まるのが原則です。しかし、バブルの後遺症に悩む企業は、元金の返済どころか、契約時の金利の支払いすら、滞らせる企業が続出したのです。銀行は無理にとりたてて倒産に追い込むよりも、金利を減らして、残った金利分だけでも取立を続け、景気回復を待つ方が得策と考えます。この時、預金金利がぜろまたはゼロに近ければ、金利を減額して利益が出ますから、あとは気長に企業の立直りを待つ事が出きるのです。低金利であるが故に、負債の多い企業も倒産せずに,生き延びることが出来るというわけです。そして第3に、多額の借金(国債等の発行残)を抱えた日本国家の救済です。地方自治体分を加えると、今や1千兆円に及ぶという借入金の利子が1%上がれば、利子は10兆円も増えるのです。ゼロ金利は財政上も好都合だったのです。しかし、1千兆円を大きく超え、最も減少していた時期でも1千2百兆円と言われ、現在では1千5百5拾兆円といわれる、個人金融資産の多くは高齢層の預貯金であり、半分以上が今でもリスクを避けて、預貯金として金融機関に預けられています。そして高齢者の多くは元金に手をつけることを好まず、利息と年金での生活を選んでいます。金利を支払ってこそ、お金が回り、消費が増えて、内需に勢いの出る経済、それが日本経済の特徴です。いくら預金から投資へといっても、一部の資金しかリスク資産には回りません。なるべく早く3%台まで、預貯金金利を引き上げることが、消費の好調を取り戻すには必要です。仮に、個人金融資産の半分750兆円が預貯金だったとすると、0,2%程度の金利が3,2%に膨らむだけで、金利は1兆5千億円から、22兆5千億円へと(税込み)20兆円以上も増えるのです。この20%が税金として国庫に入るのですから、税収も4兆円強増えるのです。日本の消費を押し上げるには、避けて通れない道なのですが、今の日本政府である限り、私のプランが採用されることは、まだまだなさそうです。となると、日本の景気上昇のスピードが、低空飛行から脱する事もまた難しいということになりそうです。当分、日本経済に大きな期待を持つことは難しいですね。 続く
2007.12.25
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クロニクル ヴェトナム軍カンボジアに侵攻1978(昭和53)年12月25日この日、ヴェトナム政府軍が国境を超えてカンボジアに侵攻、28日にかけて、カンボジア東部で激戦を展開しました。そのご、有利となったヴェトナム軍の後押しを受けて、翌79年の1月11日に、親ヴェトナム派共産党によって、カンボジア人民共和国の成立が宣言されました。75年に成立したポル・ポト派中心の政権は、中央を追われましたが、根強い抵抗を続け、それにシアヌーク派、右派のロン・ノル派までもが加わり、カンボジアは、再び暗雲が垂れ込みはじめたのでした。
2007.12.25
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第一次世界大戦(30)ドイツの博打革命ロシアの戦線離脱は、形成不利だったドイツにとって、一挙に形成を挽回する千載一遇のチャンスが巡ってきたように見えました。ドイツ軍部もそう考えました。しかし、革命ロシアの混沌と兵士の戦線離脱に付け入って占領地を広げたドイツは、占領地支配のために100万人もの兵士を、戦争の終結した東部戦線に残さざるを得ませんでした。それゆえ、西部戦線に回せる兵員には限りがありました。それでもドイツ軍は、東部戦線に配置した30個師団を西部戦線に投入し、18年3月21日から、西部戦線での最後の大攻勢に出たのです。世に言うミヒャエル作戦です。それは、ようやく兵士の徴集を本格化し、欧州の戦場に続々と兵士を送り込みつつあったアメリカ軍が戦闘配備を完了する前に、英仏軍を叩かなければという、思いからでした。この時点での在欧アメリカ軍は、まだ14,5万人であり、前線には配置されていなかったからでう。ドイツ軍は6600門もの砲を、一挙に投入して大砲撃を行い、決死の攻撃を仕掛けました。この攻撃は一時的には成功し、3月末には英仏両軍の中間線を突破し、連合軍を危機的状況にまで追い詰めるにいたりました。この優勢は6月までは続きましたが、しかし、ドイツ軍の攻撃は英仏両軍に戦線を離脱させることは出来ませんでした。予備の師団を含めて全軍を繰り出したドイツ軍に対し、後退しながらも英仏軍にはなお余裕がありました。予備の師団を続々と繰り出す事も出来ましたし、アメリカ軍が大西洋を渡って、続々と来援してきてもいたからです。ドイツでは、軍部から戦勝の報が届くと、学校を休日にして祝賀の日を設けたりして、最終的勝利への期待が盛り上がったりしましたが、それは一場の夢に過ぎなかったのです。このドイツ軍の一時的優位の状況下で、皮肉なことに前線の将校や兵士は、後退した敵軍の残した物資を見て、ドイツの勝利がありえないことを悟っていたのです。 続く
2007.12.24
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バブルを考える(77)メガバンクの再編長銀と日債銀の破綻認定という強い処理に、今までのソフトランディング路線からの方針転換を嗅ぎ取った金融界には、激震が走りました。改革即ち不良債権処理のスピードを上げないといけないと、震えあがった金融界は、2度目の資本注入を願いでます。その額も98年の横並びの2000億円ではなく、1兆円規模の思いきった申請、注入になりました。資本注入を受けて、自己資本に余裕の出来た分だけ、思いきった不良債権の処理が出きるからでした。こうして相互に不良債権の足枷から、いくらか自由になった金融界は、業界再編に走り出しました。99年1月には、三井信託と中央信託が合併で合意し、同年夏には、富士・第一勧銀・興銀(みずほ銀行)が統合を発表、さらに住友とさくら(三井住友銀行)が合併を表明、三和・東海・あさひも事業統合(UFJ銀行)を表明(あさひは後に離脱し、大和との合併に切りかえる)しました。比較的不良債権のしがらみの少なかった東京三菱を加え、大手行は四つのグループに再編(後,東京三菱とUFJが合併し、3メガバンクとなる)されました。しかい、日銀のゼロ金利政策による超金融緩和と、ITブームの到来によって、一時的に株価が回復すると、銀行の経営規律は再び低下してしまいます。2000年4月に、ITブームが突然の終焉を迎え、株価が再び下落すると、再び金融界は先送りに走ろうとやっきになります。政界をまき込んだ圧力を駆使して、2001年4月に予定されていたペイオフ(一定額以上の預金の支払い保護の廃止=預金の全額保護の廃止)の実施を先送りすることに成功します。しかし、この措置は,日本の改革姿勢の後退と受けとめられ、外資による日本売りを加速する結果に繋がりました。モラルハザードは金融界と債務者である一部産業界に、猛烈な勢いで蔓延しました。根本的な引当不足が改善しない状況が、不良債権の根本的な処理を遅らせ、それがさらなる資産の劣化を生むという、負の連鎖に陥っていたのです。ここに金融機能はさらに低下し、産業界は過剰な負債と設備を抱えて,苦悶する状況になりました。危機は増幅されたかのように見えました。この状況を冷静に反映していたのが、株価でした。まさに株価は経済の鏡でした。98年に12000円台に落ちた日経平均は、2000年に一時20000円台を回復したのですが、そこから下落に点じ、01年9月には10000円を割り込むところまで、下落したのです。ここにいたって、金融界頼むに足らずと、歯を食いしばって自力での再建の道を選んだのは、国際競争の荒波にもまれながら、頑張ってきた産業界の一部でした。狭い国内に閉じこもり、護送船団行政に保護されてきた業界は、その筆頭の金融界を含めて、ここでも取り残されていったのです。まさに自業自得というべき状況がそこにありました。 続く
2007.12.24
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クロニクル 消費税法案成立1988(昭和63)年12月24日もう19年前になりますが、この日の参院本会議で、当初税率を3%と定めた消費税導入法案が、25時間ものマラソン審議の上で、ようやく成立を見ました。社会、共産両党は、時間切れを狙って、徹底した牛歩戦術をとって抵抗しましたが、この日未明大型間接税を導入する「消費税」法案は,可決成立しました。財政再建の旗印の下に、大型間接税導入計画を最初に打ち出したのは、79年の大平内閣が提案した「付加価値税」構想でした。この構想が潰えた後、中曽根内閣が導入を計画した「売上税」もまた、野党や国民各層の激しい反発を受けて、陽の目を見ませんでした。3度目の正直で、ようやく税率を3%とした消費税が日の目を見たのです。導入は翌89年の4月1日。97年4月には、税率が5%に引き上げられて、今日に到ります。
2007.12.24
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第一次世界大戦(29)占領地の悲惨第一次世界大戦が、予想もしない長期戦になり、国家の総力をあげた総力戦となったこと、総力戦体制を築けなかったり、途中で破綻にいたった国では、敗北や国家体制の転換が起きたことは、既に記しました。ところで、1914年に始まった戦闘においては、初期の東部戦線を除くと、一貫してドイツ中心の同盟側が国外に前線を設けて一部地域を占領している状況が続きました。膠着した西部戦線でも、前線は占領下のベルギーから、北フランスにありました。だからこそ、1916年までの大会戦は、マルヌ、ヴェルダン、ソンムといずれも北フランスを戦場として戦われました。南部戦線では、セルビアとルーマニアを占領下に置いていましたし、ロシアとのブレスト=リトフスクの講和条約ではフィンランド、バルト三国からポーランドそしてウクライナを占領下において割譲させていました。戦線では国土の外に対陣しているドイツ側同盟諸国が、しかし海上封鎖にあって、食糧や工業原料の不足に見まわれ、物資の欠乏に悩まされていました。海外の広大な植民地や米国や日本といった連合諸国から必要な物資や資金を補充できる協商諸国は、挙国一致の国民合意内閣の指揮下に、物資不足はほとんど問題にならない状況にありました。こうなると、占領下の民がいかなる扱いを受け、いかなる苦しみを蒙るかを想像することは難しくありません。原料や食糧の不足を補うための、力づくの調達は、占領直後から始まりました。オーストリアはセルビアから40万頭以上の牛や羊を奪い、ロシア領ポーランドからは、16,17の2年間だけで貨車2万輛分の穀物とジャガイモ、30万トンの石炭を強奪しています。ドイツもロシア.フィンランドから牛馬で10万頭を3ヶ月で移送しています。これに占領軍による大量の消費が加わるのですから、押収量はここにあげた数字をかなり上回るのです。それでもドイツ,オーストリア国内の物資や食糧の不足は収まりませんでした。1918年に入ると、両国の国内では民衆や兵士の不平不満は高まり、不穏な情勢は次第に深刻化していきます。しかし、こうした占領地における食糧や物資の調達が、占領地の民衆には、いかに苛酷で絶えがたいものであったかは、これから20数年後にわが日本の軍隊が戦地で行ったであろうことを、想像する必要と合わせて、重く受けとめておく必要があると、私は考えています。 続く
2007.12.23
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クロニクル 米国でBSE2003(平成15)年12月23日米国時間のこの日、米国の農務省は、BSE感染牛が見つかった旨を発表しました。日本ですと天皇誕生日ですから、通常この日の発表はありませんね。これを受けて、日本政府は24日、早々と米国産牛肉の輸入禁止を発表しました。発表当初、私は米政府の圧力に、極端に弱い日本政府のことだけに、この輸入禁止措置は、ごく短期で解除され、政府の強腰は腰砕けに終るだろうと、考えていました。ところがそれは、私の読み違えでした。吉野家を中心とする、米国産牛肉を使っていた牛丼チェーン店の多くは、やがて牛丼の販売を、米国産牛肉の輸入再開まで、当面中断せざるをえない状況に陥り、販売最終日の模様は、各テレビ局がリポーターを派遣して実況するなどの社会問題になるほどの、センセーショナルな出来事にもなりました。対米関係では、極めて珍しい日本政府の粘り腰でした。再開後も、禁輸部位が混入していたことが明らかになり、再度輸入がストップするなど、BSEを巡る混乱は、おおよそ3年に亘りました。ここから私が学んだ教訓は、農家及び農業保護に関わる問題では、国会議員と農水官僚の連携チームは、政府中央の思惑など吹き飛ばしてしまうパワーを、いまだに持ち続けているのだという印象でした。そこを私は読み違えました。ことBSE牛に関することなら、それでも良いのですが、事柄が日本農業の将来ということになると、この目線は、国際競争力が非常に乏しい、日本農業の現状固定(福田内閣の農業政策は、あきれるほどに後向きですね)に繋がることになりますので、実は由々しき問題であるように、私は認識しています。
2007.12.23
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バブルを考える(76) 後日談一時国有化された長銀と日債銀のその後です。長銀は、一時国有化を経て、99年6月に、米系投資ファンドのリップルウッドに売却されました。日債銀もまた00年6月にソフトバンクなどの3社連合へ譲渡されました。前者は新生銀行、後者があおぞら銀行となって、現在も営業しています。2つの銀行の処理に要した費用は、金銭贈与だけに限っても、長銀に3兆5899億円、日債銀に3兆2365億円もの公的資金がつぎ込まれました。費用はとてつもなく膨大でした。そしてリップルウッドの買収価格は、僅か10億円でした。それでも、リップルウッドの向うを張って、より高い買収価格をつける国内の買い手は現れませんでした。それだけ、日本の金融界は傷んでいたのです。国有化された長銀は、不良資産を債権回収機構に売却し、貸出し資産を11兆円に圧縮していましたが、その11兆円の全てが、健全で回収可能な債権であるとは、誰も信じていなかったのです。またぞろ大きな不良債権を抱えるわけには行かない。そのため、譲渡後に不良化または、債権の価値が2割以上減価した場合は、政府に買取を請求できるという瑕疵担保条項をつけることになったのですが、それでもドライに割りきって、その案を実行できるのは外資しかなく、国内の金融機関や企業には難しかったのです。国内には、リスクのとれる、またとる勇気のある金融に関心のある企業が見つけられなかったのが真相でした。こうして、リップルウッドはほとんど無競争に近い形で、10億円という破格の安さで、旧長銀を手に入れることができたのです。一時国有化という形の破綻処理は、破綻前の公的資金の投入よりも高くついたことは確かです。そして、破綻銀行が一時国有化を経て、多額の税金投入という国民の犠牲によって、再び再生したことも事実です。それは金融機関の過剰という解決すべき問題を、温存してしまうことに繋がったことも事実です。しかし、このことが瑕疵担保条項という聞きなれない言葉に隠された意味を、やがてあぶり出し、金融監督庁の検査を通じてもなお、温存されたままの本当の不良債権の闇を、やがてあぶりだしてくれる布石になったことを、評価する必要があるように、私は考えます。金融危機、日本経済の危機はなお残っていたのです。 続く
2007.12.22
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第一次世界大戦(28) 続ハプスブルグ帝国の解体チェコ・スロバキアは、1990年代に、分裂してチェコとスロバキアに分かれましたが、オーストリア帝国に従属したチェコとハンガリー王国の支配下にあったスロバキアが、第一次大戦中に共同戦線を組んでハプスブルグ王国からの独立によって、新生チェコ・スロバキアを建設する道を選びました。マサリクをリーダーとするこの運動は、何度も苦難に陥りますが、粘り強く運動を続け、1918年春の戦局の転換の中で、大きく独立への道を開く事に成功してゆきます。ポーランドは、ガリツィア地方がハプスブルグ帝国に組み込まれており、ロシア、ドイツ3国に分割されていましたが、1815年以降ドイツ・オーストリア連合軍の支配を受けていました。占領下に戦争への協力を強いられていましたが、ロシアのボリシェヴィキ革命の成功後、革命政府は民族自決原則を掲げて、旧ロシア領ポーランドの放棄と、その独立の容認を明言しました。ここに、ドイツ・オーストリア占領下のポーランド住民は、不服従運動を通じて、ドイツ・オーストリアの戦争遂行を妨げ、ドイツ軍の崩壊現象のいっそうの進行に貢献し、ポーランド独立への道を探りました。ユーゴスラヴィア、90年代に崩壊し、血みどろの民族紛争を展開したことは、なお記憶に新しいこの国は、第一次大戦後にセルビア中心に作られた、南スラヴ系住民とハンガリーからの念願の独立を達成することになるクロアティア人の2つを核とする連合国家です。セルビアはドイツよハプスブルグの混成軍に対し、良く戦いましたが、15年末までには降伏に追い込まれました。しかし、その後もパルチザン活動を続け、17年央から、次第にまた反撃の態勢を整えて行くのです。チェコ・スロバキア、ポーランド、ユーゴスラヴィアの三国は、ハプスブルグ帝国の敗北をバネに、最終的な独立を獲得したのでした。革命によって崩壊したロシア帝国とは異なり、ハプスブルグ帝国は、敗戦と共に崩壊したと言えましょう。フランツ・ヨーゼフを継いだ若き皇帝カールの努力は、時既に遅かったとも言えます。具体的成果を上げないままに、18年のはじめに、遂にブルガリア戦線が、米・英・仏(まだ米軍は実戦の配備にはついていないのですが)連合軍に突破され、オスマン帝国軍や、ハプスブルグ帝国軍は、防戦一方に追い遣られ、いつ前線を突破されるか分からない危機的な状況に陥ったのです。長かった総力戦もついに終りが見えてきたのでした。 続く
2007.12.22
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クロニクル 教育基本法の見直しを…2000(平成12)年12月22日この日、首相の諮問機関として鳴り物入りで成立した教育改革国民会議は、会議をリードした香山委員の提言をベースに、教育基本法の見直しを森首相に提言しました。この会議の結論を受け、小泉、安倍両首相の下でも継続した、同国民会議は、文部科学省や中央教育審議会と縄張り争いを繰り広げつつ、いくつもの提言を提出しましたが、その議論の特徴は、教員の自発性、専門性、そして教育の対象者である学習者(児童や生徒)の個別具体的な状況に照らしての教材や指導案作りの努力(教育プランの開発)を無視した、上からの押し付けにありました。問題の多い、教育基本法の改正だけは、参院選前の6月に成立してしまったのですが、実際の教育再生は、個々の教員の学習者の個性に合わせた教案や教材つくりに、即ち個々の教員の熱意とやる気を高めることでしか、実現しません。残念ながら、現在の教育改革の議論には、最も大切なこの観点が、すっぽり抜け落ちてしまっていることが、私は残念でなりません。
2007.12.22
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バブルを考える(75)日本債権信用銀行…2金融監督庁の通告を受けて、日債銀は猛烈に反発しました。前年春に奉加帳増資を受けた後、単独での生き残りは難しいと判断して、中央信託銀行との合併に望みをかけていたのです。拓銀倒産を受け、拓銀の本州での店舗は、中央信託が引き継ぐことになったのですが、その引継ぎ後に日債銀とも合併する案を温めていたのです。しかし、長銀の場合の住信と同じく、中央信託もまた合併には慎重でした。身の丈に合わない不良債権を抱えたのでは、共倒れの危険があったからです。慎重に調べてみると、合併行が引き受ける訳にいかない灰色債権が5千億円に上ることが,明らかになりました。日債銀側は自己に都合よく、「中央信託は、(5千億円の灰色債権を、日債銀が)時間をかけて処理すれば,合併しても良いと言っている」と理解していました。大蔵省も同じ立場でした。しかし、中央信託は、5千億円の灰色債権を、日債銀が自力で処理しない限り、合併合併に応じる気はありませんでした。ここでもボタンは掛違っていたのです。日債銀の会長が大蔵OBの天下りの指定席で、この時も国税庁長官を勤めた窪田弘が、実力会長として日債銀に顔を利かせていただけに、ショックはより大きかったのです。検査部の査定は、大蔵省の査定と整合しないとか、税効果を考えると黒字だとか、必死になって主張しました。しかし、税効果が発生するのは、黒字の企業に限ります。当期利益が多ければ多いほど、有税償却した不良債権のうち、実際に破綻した企業の分は無税となり、その分積み立てた税が、還付されるのです。将来の還付を見込んで、税効果分を資本に組み入れることを認めるというのが、欧米中心に広まった考え方でした。しかし、収益力のない日債銀に税効果が見込めるはずはなかったのです。大蔵省は97年春の奉加帳増資に際し、3千億円もの資金協力を日銀と金融界に要請しただけに、それを無にする破綻認定は、行政への信頼を無にするのではないかと、抗議しました。しかし、監督庁は、それは大蔵の問題であって、金融監督庁には関係がないと、大蔵の抗議を切り捨てました。ここから見える事は、金融検査や金融監督がなお大蔵省に残っていたとしたら、長銀の36条での処理や日債銀の破綻処理はありえなかったと思えることです。行政の無謬性神話にしがみつく事が、いかに日本の政治をダメにしているかが、ここから見えてきます。最もそうした官僚たちの思いあがりを許してきたのは、官僚をコントロールできない政治の責任ですから、最も大きな問題は、政治の資質ということになるのですが…結局日債銀は、12月13日、金融再生法36条による特別公的管理を通告され、一時国有化されたのです。激動の2年間はこうして暮れました。 続く
2007.12.21
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クロニクル ドゴール氏フランス大統領に当選1958(昭和33)年12月21日この日行なわれたフランスの大統領選で、対独レジスタンス運動の英雄ゴゴール元将軍が当選、大統領として、公約に掲げた泥沼のアルジェリア独立戦争の解決に向けて、全力投球を行う事になりました。ドゴール大統領は、1962年にはアルジェリアの独立を認めて、フランス軍の名誉ある撤退を実現して支持を広げました。1968年に学生主力のパリ5月革命によって、退陣を余儀なくされるまで、10年間にわたって、フランス政界の再編に全力を尽しました。
2007.12.20
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第一次世界大戦(27) ハプスブルグ帝国の解体オーストリア・ハンガリー帝国(以下ハプスブルグ帝国)もまた困難に直面していました。この多民族国家においては、ドイツ系住民は全人口の25%に過ぎず、ハンガリー人が20%、以下全体で12の民族がひしめき合っており、夫々が母国語を話す状態で、言語の統一すらなかったため、軍隊内の指揮命令系統も,混沌とした状態のままだったのです。こんな状態でしたから、ドイツ語を解さない諸民族の兵士には、ドイツ人のために死を賭して戦う意味など、見出せるはずがなかったのです。そのため、東部戦線では戦う前にロシア軍に投稿するスラヴ人兵士も多かったのです。元来ハプスブルグ帝国にとっての戦争目的は、バルカンへの進出の障害となっていたセルビアの打倒の1点にありました。そのセルビアは1915年に敗北し,降伏していましたから、それ以上戦争を継続する意味は失われていたのです。戦争継続は、経済的・軍事的にその支配下に組み込まれてしまったドイツに引きづられて,仕方なくついていっているだけでした。そして総力戦の被害は、ハプスブルグ帝国のそこここで大きくなっていました。1848年以来帝位にあった老皇帝フランツ・ヨーゼフは、こうした状況に何ら積極的な手は打たなかったのですが、この老皇帝は1916年11月に死去し、後継に弱冠29歳のカールが即位しました。サラエヴォで暗殺されたフランツ・フェルディナントの弟オットーの息子で、戦争の終結に向けて、様々な努力を試みる気概はもっていました。しかし、彼の努力も複雑なハプスブルグ帝国を1つに纏め上げる解を導き出すにはいたらなかったのです。そのために必要な経験が,彼には不足していました。 続く
2007.12.20
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バブルを考える(74) 日本債権信用銀行(日債銀)日本債権信用銀行は、旧行名を日本不動産銀行と言い、ワリフドウ、リツキフドウとして親しまれた割引債や利付債を発行しておりました。そのまた前身は戦前の朝鮮銀行という名門銀行でした。この連載の最初の頃に、日債銀が如何に不動産担保融資にのめりこみ、不良債権の顕在化を怖れて、追い貸しを続け、複雑な経理操作を繰り返しては、不良債権隠しに奔走していたことは記しました。政府・経済界をして、長銀に引導を渡さざるをえない状況に追い込んだ市場の洗礼は、日債銀にも及んでいましたが、97年春に大蔵省が日銀をまき込んで実施した大掛かりな奉加帳増資と、BISによる自己資本比率が8%必要な国際業務から撤退し、4%で済む国内業務のみに集中する決断をしたことで、長銀危機の頃には、小康状態を保っていました。市場の眼が、長銀に集中していたことが、日債銀には幸いしたわけです。しかしそのことは、日債銀の資本構成がプラスに変化したことを示すものではありませんでした。長銀検査で、恐る恐る実質債務超過を指摘した金融監督庁検査部は、その結果が政治の支持を得て、大蔵省の反対を押しきって長銀の破綻認定に繋がったことで、厳格な検査の続行に対し,責任を感じはじめておりました。長銀を破綻処理した以上、長銀以上に問題のある日債銀の追加検査をしないことには、マスコミと世論に、恣意的な検査と指弾されかねません。長銀検査の後半段階から、日債銀にも再度の検査が入っていました。11月16日、検査部は日債銀に対し、98年3月末時点で、944億円の債務超過となっていること、株式等の含み損を加えた実質債務超過額は、1803億円に拡大するという、検査結果を通知しました。「3月末は債務超過ではなかった」とした長銀の検査結果よりも、さらに悪い内容でした。検査部の結果を受けて、監督部は、1ヶ月間の猶予期間を設け、その間に必要な資本を増強するように、日債銀に通告しました。1ヶ月以内に資本を増強して、債務超過を解消しない限り、破綻を認定して一時国有化すると通告したのです。 続く
2007.12.20
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クロニクル マカオ中国に1999(平成11)年12月20日この日、中国はポルトガルの領有を黙認していたマカオを回収、マカオにおける中国の主権を回復しました。マカオは、珠江のデルタ地帯にある、南北約5kmの小半島で、16世紀にポルトガルが来航、マラッカ、ゴアと共にポルトガルのアジア貿易の拠点として繁栄しました。この間、ポルトガルは中国当局に多額のワイロを送っては、マカオにおける交易の独占を続けたのですが、19世紀半ばから植民地支配に転じました。第二次大戦後に成立した中華人民共和国政府は、ポルトガルにマカオの返還を要求しましたが、流入する難民に、反中国、親台湾の活動を一切させない方針を貫き、1965年には台湾政府とも断交する、親中国振りを見せることで、99年のこの日まで、ポルトガルの領有が認められてきたのですが、この日をもって、中国政府に返還されることになりました。
2007.12.19
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第一次世界大戦(26) ロシアの離脱ロシアが総力戦体制を構築できず、戦争に耐えることが出来なくなりつつあったことは、既に記しました。そのロシアでは、戦争に勝てる政府の構築を目指す自由主義ブルジョワと軍部、またパンと平和を目指す兵士や民衆の思惑をないまぜ、ロシア暦の2月に革命がはじまりました(ロシア暦に13日を加えると西暦になります。そのため2月革命は、西暦では3月革命になります)。やがて、革命勢力は、戦勝による平和を目指す軍幹部とブルジョワの連合に対し、即時平和を目指す兵士と民衆の連合が優勢となり、10月革命によって、史上初の社会主義政権が誕生をみます。この社会主義政府がドイツに休戦交渉を持ちかけ、1917年11月22日にロシアとドイツの休戦条約が締結され、さらに12月15日には、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国(トルコ)、ブルガリアとも休戦条約が結ばれました。やがて、この休戦条約は、革命ロシアにとって、より厳しいブレスト=リトフスクの講和として3月3日に締結されます。ここに、戦争当事国の一角が、社会主義革命という衝撃的な方法によって、帝国主義の世界戦争から離脱したのです。ドイツやその同盟国にとって、敵対勢力の一角が、勝手に戦場を離れてくれたのですから、これは大きな朗報となるはずでした。しかし、その影響は決してそんなに生易しいものではなかったのです。 続く
2007.12.19
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バブルを考える(73) 長銀は債務超過金融担当相を一時兼務した野中の決断で、長銀は破綻を認定した上で一時国有化する(36条適用)ことになりました。当然、破綻なしの国有化(37条適用)に光明を見出していた長銀や、長銀は債務超過ではないと言い続けてきた大蔵省などは、破綻認定を伴う処理では、国有化のコストが増大するとして、反対しました。最後に蔵相の宮沢に連絡をとり、長銀を債務超過と認定する金融監督庁の方針を伝え、その了解をとったのは、初代の金融担当相となった柳沢伯夫でした。派閥のボスに長銀の破綻処理を伝え、その了解を取り付ける大臣の姿勢に、新しい役所の幹部が奮い立ったところが想像できます。大蔵省から金融部門が、完全に独立できた瞬間と言えましょうか。一方、破綻認定を伴わない一時国有化に固執した長銀は、なお抵抗を続けました。当時の日本の会計システムでは、減価の程度によっては、時価で評価せず、簿価で評価することが出来たのです。それゆえ、簿価評価をすれば債務超過にあらず、しかし時価評価をすれば債務超過ということがありえたのでした。解散価値は明らかにマイナスでも、存続するなら僅かなプラス、こんな言い訳が出来たのです。長銀自らは、意地を張って37条での一時国有化を申請しましたが、金融監督庁は、その日のうちに、「破綻認定に基づく特別公的管理」の開始決定を長銀に通告しました。1998年の10月23日のことでした。結局長銀の株価は、債務超過により0円と認定され、全株式は国有化されたのですが、解散に伴う清算によって、資産の劣化は進み、金融債の保護等による国庫負担は大変大きなものとなりました。宮沢が固執した債務超過云々を灰色にしたままでの、資本注入と他行との合併を推進した方が、安上がりだったことも、その後の展開の中で明らかになりました。しかし私は、費用の問題だけ考えて、この時長銀を曖昧な形で救済していたとしたら、日本の金融界を覆う不良債権問題の処理はさらに長引き、日本経済全体の沈滞期は、今にも続いていただろうと考えています。目先の利益に拘らず、破綻処理というショック療法をとった事は、92年以来間違い続けて来た、先送り体質への痛撃という面では、必要なことだったのではないでしょうか。今後数年は要すると思いますが、サブプライム問題に端を発する証券化商品の不良債権化に対する、欧米金融機関の開示の早さは、日本の失敗を反面教師としているからに、他ならないように思います。 続く
2007.12.19
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クロニクル 第一次インドシナ戦争始まる1946(昭和21)年12月19日この日、フランス軍が、ヴェトナム軍に攻撃をかけ、ここに1954(昭和29)年5月に、フランス軍の拠点ディエンビエンフーが陥落するまで7年半も続く、第一次インドシナ戦争が開始されました。ヴェトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ3国は、19世紀の80年代以降、フランスの植民地とされてきましたが、1941年7月末から、仏領インドシナに日本軍が進駐、支配下においてきました。その日本は1945(昭和20)年8月15日に、ポツダム宣言を受諾して降伏しました。その時、主に米軍の力でドイツ軍の占領から開放されて数ヶ月しかたたないフランスに、植民地占領軍を再派遣するするだけの力はなかったため、現地の日本軍は、ホー・チ・ミンらのパルチザンに武器・弾薬を渡して降伏したのです。ここに、ヴェトナム軍の編成を見たのですが、翌46年のこの日、ようやくこの地に派遣された部隊が、ヴェトナム軍との戦闘の火蓋を切ったのでした。
2007.12.19
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バブルを考える(72) 破綻認定それにしても、長銀の破綻は不思議な破綻でした。前年11月の拓銀や山一の場合、市場で資金がとれなくなる資金繰り難による破綻でした。政争の道具になり、嵐に浮かぶ木の葉のように、ひたすら波の間の間に漂っていた長銀は、どうして資金繰りで破綻しなかったのでしょうか。6月に住新との合併協議が発表され、その協議がどうやら暗礁に乗り上げたらしいと、市場が判断し始めた8月下旬以降は、到底通常の方法で、長銀が資金を調達刷る事は、困難でした。それなのに長銀は、資金繰り悪化で倒産する事はなかったのです。何故か。日銀が長銀を支え続けたからです。政府が「長銀は債務超過ではない」と言い続けていましたから、日銀は破綻していない長銀が資金繰りで倒れた場合、長銀に対して無担保、無制限の特融を出し続けなければならなくなるからでした。8月末以降の長銀は、日銀という人工呼吸機を装着したことで、辛うじて生き延びている重病人そのものだったのです。金融再生法の成立をまっていたかのように、金融監督庁の長銀への立ち入り検査の結果が提出されました。それは、1、98年3月期末時点では、貸借対照表上も、資産の部に計上されるべき金 額が、負債の部に計上されるべき金額を上回っていた。(3月は資産超 過だっったの意)2、98年9月末については、6月末の資産査定を基準としつつ、9月末まで に発生した後発事象を加味した場合、要追加償却・引当額は7600億円と なった。3、この結果、貸借対照表上は資産超過であるが、有価証券・動産・不動産 等を時価で評価した場合に生じてくる含み損益は5000億円のマイナスに なると見込まれる。と、債務超過とも資産超過とも踏み込んでいない玉虫色の結論でした。お役所仕事の弱点がモロに出た内容だったのです。佐々波委員会の資本注入を正当化するためには、3月末に債務超過だったというわけにいかないことは、誰の眼にも明らかでした。しかし、9月末については、何も遠慮は要らないはずでした。それなのに、9月末は、保有株式の含み損をカウントしなければ、僅かながら資産超過、カウントすれば債務超過とすることで、「長銀は債務超過ではない」と言い続けてきた政府の立場に配慮した内容になっていたのです。大蔵省から独立したばかりの若い役所にも関わらず、まるで大蔵省銀行局のままのような結論でした。検査結果を受けて、金融監督庁の見解は割れ、官房長官の野中に意見を求めました。初代の金融担当相になる柳沢伯夫の就任は10月23日、その人事の発表は21日でしたから、なお担当大臣を官房長官が兼務していたのです。幹部は含み損を勘案すれば、債務超過なので36条での破綻処理となり、含めなければ、37条での予防的な公的管理の適用になるが…と、説明すると、野中は明快に、これで行けと、36条を示したのでした。 続く
2007.12.18
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クロニクル 日本の国連加盟実現1956(昭和31)年12月18日この日、国連総会は、日本の加盟を全会一致で承認、日本は80番目の国連加盟国となりました。1933(昭和8)年に国際連盟を脱退してから、23年振りの国際社会への復帰でした。日本は1952(昭和27)年にサンフランシスコ講和条約の発効で、占領状態から脱却した直後から、国連への加盟を模索していたのですが、ソ連との間に平和条約が締結できず、国交も回復しない状態が続いたために、国連加盟に必要なソ連の理解が得られず、参加できない状態が続いていました。吉田内閣は、日ソの国交回復を急がなかったため、状況は改善しなかったのですが、54(昭和29)年に誕生した鳩山内閣は、日ソの国交回復に政治生命をかけるという、鳩山首相の強い決意で、この年10月に国交を回復、これが決め手となって、総会に先立ち新規加盟国について、総会への議案提出権を持つ安全保障理事会の採決で、議案の拒否権を持つソ連も賛成に回り、念願だった国連加盟が、ようやく実現したのでした。
2007.12.18
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次のような記事を見つけました。イラク派遣を経験した自衛隊員の死者と自殺者に関する数字です。自衛隊員の若さを考えると35人はすごく多いように思えますし、中でも死者に占める自殺者数が過半数を占めるという現実には、驚きを禁じ得ません。皆さんは、どうお考えになりますか。イラク経験隊員の自殺16人に 病気・事故も続出 死者は35人 イラク・インド洋・クウェートに派遣された経験を持つ自衛官のうち、自殺者が16人、死者は35人に上ることがわかった。 取材に対して防衛省は先月初め、いったん死亡者を28人、うち自殺が14人と回答していたが、今月13日、10月末現在の数字として修正を行なった。わずか約1カ月の間に、統計に算入された死亡者が7人増加、自殺者も2人増えたことになる。 防衛省によれば、死者35人のうち最大の死因は自殺で16人(海8、陸7、空1)、続いて「事故・不明」の12人(海6、陸6)、病死は7人(海6、陸1)という。 数字は派遣が開始された2002年からの積算。大門実紀史参議院議員(共産)への防衛省の回答によると、各年度の死者数は02年度2人、03年度3人、04年度4人、05年度8人、06年度10人と年々増加。今年は10月末現在で8人を数えた。 防衛省はまた、派遣中に死亡した隊員の数を3人と回答。死因はそれぞれ、心筋梗塞、交通事故、自殺とみられる。http://www.kinyobi.co.jp/KTools/antena_pt?v=vol680#2
2007.12.18
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バブルを考える(71) 長銀一時国有化決定破綻前の段階での、長銀への再度の公的資金の投入は、結局断念されました。それが5千億円を超える関連ノンバンク向けの債権放棄に使われることが明らかでしたから、「バブルのツケをまたまた税金で払うのか」という疑問や批判に耐えられなかったからです。2年後同じことが「そごう」の倒産劇でも起こるのですが…こうして長銀の処理は、金融再生法に委ねられました。与野党の政策協議によって纏められた法案は、10月12日に成立しました。この金融再生法の骨子は、破綻が心配される銀行を特別公的管理の下におくこと、即ち一時的に国有化することにありました。明らかに経営の自主性を喪失した長銀処理を念頭において、作られた法律だったのです。そこでは、一時国有化した銀行の株式は、いずれ他の金融機関に譲渡すること、特別公的管理の申請は、長銀自身が行う事なども合意されていました。長銀自身が申請するなら、長銀が債務超過に陥っているのか、否かといった政争になった問題を、玉虫色にしたままに出きるからです。金融再生法は、第36条において、特別公的管理の要件を(1)債務超過に陥っていること(2)預金の払い戻しを停止する畏れがあること(3)預金の支払いを停止した時の3点のうち1点でも該当した場合と規定していました。この条文に与野党合意で、次ぎのように第37条が加えられたのです。「金融再生委員会は、銀行がその業務または財産の状況に照らし、預金等の払い戻しを停止する畏れが生ずると認める場合であっても、…… 当該銀行につき、特別公的管理の開始を決定する事が出来る」払い戻しを停止したのではなく、停止する怖れが生ずるのですから、現時点では生じていない場合でも、良い事になります。となれば実質債務超過か否かは、問われないことになります。政治問題化した長銀問題、債務超過か否かを棚上げする形で、与野党のメンツが共に立つ形で、長銀の運命を決したと考えることが出来ます。98年当時、崩壊したバブルの膿を、外科手術で切開して、全てを取り除くことをせず、ひたすら先送りすることで、著しく体力を消耗した日本の経済界、特に産業界に君臨してきた金融界は、もはや民間銀行の破綻を、業界の力で処理する能力を完全に失い、政治にもたれかかる以外の解決法を用意できなくなっていたことが、この迷走劇の背景にある現実でした。そして、金融再生法が成立したところで、今度は36条と37条のどちらを使うかが問題となりました。 続く
2007.12.17
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クロニクル 介護保険法公布1997(平成9)年12月17日ちょうど10年前のこの日、介護保険法が公布されました。○○10年と騒がれないのは、施行が2年3ヶ月後となる2000(平成12)年4月1日とされたからです。介護保険料の徴収と介護サーヴィスの実施が、この法の柱ですが、実施から7年の今日まで、行政の側は、保険サーヴィスの内容を、何とか赤字にならない範囲に収めようと考えているのではないかと、勘ぐりたくなるくらい、頻繁に要介護者が受けられるサーヴィスの内容を変え、請求書類を変えと、要介護者泣かせの朝令暮改を繰り返していますね。この点と、ケアマネージャー(通称ケアマネさん)の十分な確保が喫緊の課題でしょうか?
2007.12.17
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第一次世界大戦(25)戦費の問題戦争は、膨大な費用を必要とします。そのためより多くの国民から税金を取り、税率を高めることになります。17年に参戦したアメリカの場合、すぐに新しい税制を定め、年収2400ドル以上の家庭が課税対象になりました。当初の税率は6%でした。この時期の労働者世帯の平均年収は1200ドル程度でしたから、一般家庭が所得税を払うことはなかったのですが、酒やタバコなどは課税対象になっていたため、税負担がゼロだったわけではありません。他方で年収が100万ドルを超えるような、高額所得者の場合、超過部分には70%という高率の税が課されました。企業の利潤についても同様で、資本の一定割合を超える大きな利潤をえた企業は、超過利潤税という名目で、最高60%もの税を支払う事に成りました。こうした増税で、政府は歳入を増やし、増加収入の内105億ドル程度は、確かに戦費として使われました。しかし、これはかかった戦費の33%~45%程度に留まっていました。不足分は国債で賄われました。外にイギリスやフランスに対する戦時借款が、約96億ドルほどに達していました。これだけの費用が遅く参戦したアメリカでさえ、必要だったのです。東西に敵を受けたドイツは、さらに大変でした。ドイツは当初から、戦費を通常経費と分け、全て戦時国債で賄っていました。それは、勝利の日には全て敵国からの賠償で払わせるので、かかった経費を全てわかるようにしておくという、ムシの良い計算によるものでした。これが、戦後の大インフレの原因となったことは、間違いのないところです。 続く
2007.12.16
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クロニクル 物資統制令公布1941(昭和16)年12月16日この日、政府は物資統制令を公布、9日前の日米開戦を踏まえての、物資の統制、総力戦体制への突入を発表して、国民をして、戦勝へ向けてどんな協力をすべきかを競わせる手段としたのでした。
2007.12.16
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第一次世界大戦(24) アメリカの参戦…2現在のアメリカでもそうなのですが、開戦や戦闘への参加について、アメリカでは議会の承認が必須条件になっています。この事情を語るには、合衆国の建国史をやや詳しく語る必要があるので、ここでは省かせていただきますが、イギリスからの独立の達成が1783年であったのに、アメリカ合衆国の誕生は、何と5年後の1788年であり、高名なジョージ・ワシントンが初代大統領に就任したのは、フランス革命勃発直前の1789年4月だったことを指摘しておきます。現在のアメリカ大統領の権限も、諸外国に対する傍若無人振りに比べ、国内では比較にならないくらい、制約されているのです。それだけ州権が強く守られているといえましょうか。ですから、第一次世界大戦への参戦も、世論の支持を背景に議会の同意をとりつけない限り、できない相談でした。宣戦布告には、議会の同意が必要でした。ヴェトナム戦争への本格介入のために、自作自演のトンキン湾事件(北ヴェトナムの魚雷艇が、米艦船を攻撃したという、有名な出来事)をデッチあげる必要があったのです。ドイツの無制限潜水艦作戦は、アメリカの世論を参戦に大きく動かしました。この機を捕らえて大統領ウィルソンは、議会に参戦を提案します。上院も下院も圧倒的多数で、参戦を支持しました。こうして、1917年4月、アメリカはドイツやオーストリアに対して宣戦を布告、参戦しました。海洋自由の原則は、貿易によって利を得ようとする中立国にとって、絶対に譲れない一線だったのですが、ドイツがそれを破り、アメリカ資本主義の利益を否定する行動に出たことが、参戦決定の大きなポイントになったのは、間違いありません。がそれと同時に、アメリカの参戦の直前にロシアで革命が始まっていたことに注意すべきであると、私は考えています。4月時点ではロシアは、戦争継続を表明していましたが、いつ単独でドイツと講和するかもしれないという危機感も、ウィルソンのアメリカは持ちました。そうなると、連合国の勝利は危うくなるかもしれない。こうした大戦情勢の変化が、いまや巨額に及んでいるアメリカの英仏に対する戦争債権の回収を困難にするかもしれないという、判断もまた米政府にあったことも否定できない事実でした。 続く
2007.12.15
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クロニクル ウルグアイ=ラウンド合意1993(平成5)年12月15日この日、ガット(関税・貿易一般協定)のウルグアイラウンドが、ようやくのことに合意に達しました。日本はコメの部分的市場開放に踏み切りました。コメ市場は開放さずと言い続けてきた日本政府や農林水産省(当時)は、当初の関税率は200%や300%でも言いからと、説得され、工業製品の関税率の引き下げで、最も利を得る立場からも、拒否し続けるわけにいかないと、ようやくにして重い腰をあげたのでした。
2007.12.15
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バブルを考える(70)閑話休題 サブプライム続報UBSの資本増強に続いて、米欧の中銀によるドル資金の潤沢な供給が発表されました。日本が昨年ようやく卒業しつつある、日銀のゼロ金利政策による、資金の潤沢な供給の欧米版を思わせる動きです。こうした資金の潤沢な提供が、市場で資金を調達出来ずに資金繰り破綻(=突然死)を避けるために実施されることは、自国の例で骨身に染みて理解したことですから、この政策は我々には、何の新鮮味もありません。欧米銀行の傘下にあるSIV(ローン債権等の運用会社)をはじめ、十分な資金を市場でとり込めそうもなく、親会社に全てを負担させると共倒れになりそうな企業の救済に、米欧の中銀が乗り出さざるをえなくなったことが読み取れる動きです。瀕死の安田信託を抱え、富士銀行が共倒れを囁かれながら、安田信託の丸抱えを決断した97年末の状況の再現を避けたいというのが、FRBの狙いなのでしょう。SIVの抱える債務担保証券の買取機構の創設は、ボールソン財務長官が、サブプライム危機の顕在化直後に提案しながら、いまだに実現せず。当初1千億ドル規模と囁かれていたものが、いつの間にか500億ドルに減額され、しかも米国だけでは資金が集まらず、日欧のメガバンクへも資金の拠出を求めてきています。いかに、米国の金融機関の資本の劣化が激しいかが感じ取れる逸話です。90年代後半に。債務の株式化にヒントを得て、ローン債権の証券化という美味しいビジネスを立ち上げ、無から有を生じるの類いで、大きな利益をあげた証券化ビジネスの厚化粧というか、化けの皮が剥げ落ち、ただの不良債権であることが、金貨と思っていたものがただの枯葉であることが露呈したということです。この話が日本の土地や株のバブルと違う点は、土地や株は(株式会社の倒産を除けば)ゼロにはならないのに対し、メッキの剥げた証券化商品は、最終的には取引不能になりうることです。まだ100%決まったわけではありませんが、一斉を風靡したローンの証券化ビジネスという、ビジネスモデルのメッキが剥げ、もはや使い物にならなくなった可能性が高いと、私は考えています。新規モデルが登場するまで、欧米の金融はタイトにならざるをえません。アメリカ流借金経済(「あなた創る人、私使う人」式経済の終り)が行き詰まったことは間違いなさそうです。ここまでは新聞は書いてくれませんが、私は来年の世界経済は不況色を強めると考えています。果たして日本だけが好調でいられるのでしょうか。米欧の中央銀行の慌て振りを横目で見ながら、私はシニカルに冷ややかに、今までのツケをちゃんと払いなよアメリカさん、とつぶやいています。
2007.12.14
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クロニクル 民事再生法成立1999(平成11)年12月14日この日、民事再生法が参院で可決成立しました(施行は、翌年4月1日)。この法は、全債権者の合意を必要とした和議申請(和議法)に代わる、再建型の倒産処理手続きを定めたもので、経営責任を厳しく問わないところから、経営者が選択しやすい反面、経営者のモラルハザードを助長するとして、マイナス面も指摘され、評価は二分されたのでした。
2007.12.14
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クロニクル 地方公務員法公布1950(昭和25)年12月13日日本政府(吉田内閣)は、この日地方公務員法を公布しました。この法は、地方公務員と公立学校教員の政治活動並びに争議行為を禁止するもので、国会審議でも揉めましたが、その後も長く、働く者の基本的人権との整合性を巡って、大きな政治的、思想的な争点を形成していきました。スト権を巡って、ストの度に大きな争点になったのですが、80年代以降、ストらしいストが見られなくなり、何時の間にか、あれだけ喧喧諤諤と賑やかだった問題も風化してしまったようですね。
2007.12.13
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第一次世界大戦 (23) アメリカの参戦ドイツの無制限潜水艦作戦は、アメリカの参戦をまねきました。アメリカは開戦当初、ヨーロッパの戦争に中立の態度を貫きました。モンロー宣言以来の、ヨーロッパとの相互不干渉を貫こうとする態度をとったのです。アメリカ国民にとって、ヨーロッパは遠い存在だったのです。時あたかも1912年に始まったメキシコ革命に介入し、米軍はメキシコに展開中で、米兵の死者も出ていましたから、国民感情からしても、遠くのヨーロッパの戦場に、兵士を送ることなど出来ない相談だったのです。しかし、米国人の多くはイギリス系移民の子孫で、母国語も英語です。生活週間も法的取り決めも、イギリス流が主力でしたから、政治的には中立を是としながら、心情的にはイギリス側を支援する傾向が主流をなしていたのです。経済関係を見ると、開戦後海軍力に劣る対独貿易は、大幅に減少し、逆に英仏への輸出は4倍近くに急増していました。昨日も記した、英国の客船ルシタニア号がドイツ軍の魚雷攻撃で撃沈され、100名を超えるアメリカ人が犠牲になったり、その後も同種の事件が続いた結果、ヨーロッパの戦争に対する関心は、次第に高まりつつあったのです。再三に亘る逡巡の据え、アメリカが参戦を決意したのが、ドイツによる無制限潜水艦作戦でした。アメリカの世論はにわかにドイツに対して厳しくなり、ここに開戦の条件が整ったのです。 続く
2007.12.12
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クロニクル 日債銀一時国有化決定1998(平成10)年12月12日この日、政府は、日本債権信用銀行を債務超過と認定し、「金融再生法」に基づき、一時国有化とすることを決定しました。当時日債銀の会長は大蔵OBで、国税庁長官を経て天下った人物であり、大蔵省は、日銀をも巻き込んで、前年3月「大手20行は潰さない」という前提の下に、3000億円もの奉加帳増資を実施していました。それだけに、もし財政と金融の分離が実現せず、金融監督庁がなお、大蔵省の一部局に留まっていたとしたら、日債銀の処理は、なお迷走を続けたでしょうから、これは、財政と金融の分離が実現したことのヒットでした。それにしても、あれから10年、この頃の金融庁は、すっかり役所臭くなって、昔日の勢いがないのが気になりますね。それと共に、日本の金融も冴えない状態になっていあすね。
2007.12.12
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バブルを考える(69) 閑話休題:UBSの巨額損失本日の全国紙の話題は、欧州最大の銀行UBSがサブプライムに絡んで1兆円を超える追加損失をだし、ここまでの損失合計が、1,6兆円を超えたこと、資本の不足を補うために、シンガポール政府系のファンドとアラブの投資によって、大規模な資本の増強を行なうという記事でした。UBSはスイスに本社を置く、欧州最大の銀行ですが、1998年にライバル関係にあった、SBCとUBSという2つの銀行が合併して出来た銀行です。丁度、長銀破綻のところまで、話が進んできたところですが、この長銀の破綻に、現在話題になっているUBSの半身SBCが大きく絡んでいたのです。何か因果は回るどこまでもを思わせる展開に、今日は思わずウームと唸ってしまいました。当時破綻を恐れた長銀は、97年7月SBCとの包括提携に踏み切りました。当初は合併をも模索したようですが、法的に無理な事がわかり、両行の共同出資で日本に新銀行を作り、そこに長銀の資産を譲渡する案を、長銀側は温めていました。SBCは、対日進出が遅れ、その面ではライバルのUBSに差をつけられていたため、長銀との合弁を渡りに船と考えたのでした。ところが、長銀にとっては、痛い話になるのですが、同年12月、長年のライバルであったSBCとUBSが、急転直下合併することになったのです。そうなると、SBCにとって長銀との資本提携は無用の産物と化します。ここにSBCの提携にかける情熱は、急速に冷えたのでした。97年9月には、資本提携に関する正式調印が行なわれますが、当初案にあった3%の株式持ち合いは、当面は1%と減額されいました。発表は12月ですが、おそらくこの頃から、SBCとUBSの合併話が深く静かに潜行しながら、進められていたのでしょう。98年に入って、長銀の株価下落が止まらないことを理由に、SBCは長銀との資本提携話を、正式にキャンセルしたのです。その後の長銀は坂道を転がるように、転落への軌跡を描いて行きました。今回、その長銀との因縁を持つSBCを半身とする、スイスのUBSが1兆円規模の資本参加を、シンガポールの政府系ファンドとアラブから調達したというのです。不良資産を全て開示し、膿を出し切ったと評価されたからこそ、資本の提供を得られたということでしょうか。不良資産の厳密な開示を拒み、提携や合併を働きかけた相手にも、遂に信頼してもらえなかった長銀との違いは明白です。しかしまた、サブプライム問題に端を発したローン債権の証券化ビジネスの行き詰まり、流動性の麻痺が、良質とされたローン債権にまで波及して、急速な値崩れを起こしている事実も、しっかりと垣間見せてくれたのでした。事情を我が眼で精査せず、当局の発表を鵜呑みして記事にしている、日本のマスコミを、信用しすぎないようにしたいものです。
2007.12.12
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第一次世界大戦(22) 無制限潜水艦作戦総力戦の持続は、当然ながらドイツ・オーストリアグループとロシアの戦争継続にとって、次第に大きく響いてきます。物資の不足が、軍需物資の生産にも響いてきますし、食糧や生活物資の不足は国民生活を直撃し、国民の間には、次第に厭戦気分が広がって来たからです。ドイツ軍部は、英仏による海上封鎖こそがドイツの物資不足の原因であるからと、ようやく完成した潜水艦を使って、通商破壊作戦を実行に移しました。1915年5月のことでした。この月、早くもアメリカ人の乗客100名以上を乗せたイギリス船ルシタニア号が、ドイツ潜水艦の攻撃を受けて撃沈されます。100名を超える民間人の犠牲をみたアメリカ政府は、ドイツ政府に強硬な抗議を行なっています。なお、昨年12月21日のクロニクルに記した、日本郵船の八坂丸が撃沈されたのも、ドイツの潜水艦によるものでした。ドイツ政府も、アメリカの参戦を恐れ、以後攻撃前に警告を発する旨を約束して、この時は収まったのです。物資の欠乏に悩むドイツは、16年12月に、アメリカ大統領ウィルソンを通じて、連合国に休戦を申し入れて拒否されると、追い詰められたドイツは、1917年2月に、イギリス・フランス向け航路内の全船舶を、無警告で攻撃するという無制限潜水艦作戦に踏みきりました。英仏、特にイギリスを屈服させるための最後の手段という、触れ込みでした。実は開戦当初、大いに期待されたドイツ海軍は、イギリス海軍と相打ちの健闘を見せた16年5月のユトランド沖開戦を除けば、一方的な防戦に終始して、港に釘付け状態となり、英仏による海上封鎖を受けていたのです。それ故に、海軍はこの作戦でイギリスを屈服させ、汚名挽回を図ろうと張り切っていたのです。2月に作戦を開始すれば、イギリスは海上からの穀物輸入の道を閉ざされ、収穫直前となる8月までに、屈服するに違いないと、考えてのことでした。ドイツは、イギリスやフランスが自国船だけでなく、世界の船舶を利用できることを計算していなかったのです。こうして無制限潜水艦作戦は、一定の成果は上げましたが、戦局を左右するような起死回生の成果をあげるなどということは、望みえなかったのです。8月には作戦の失敗は明らかでした。そして、この無謀で、やけっぱちのような作戦は、それまで中立を保っていたアメリカをして、遂に連合国側に立って参戦する事を、決意させてしまったのです。 続く
2007.12.11
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クロニクル マーストリヒト条約締結1991(平成3)年12月11日この日、欧州共同体(EC)首脳会議な。マーストリヒト条約を締結し、欧州連合(EU)を創設し、99年までに通貨統合を実現する旨の合意に達しました。やがて、この共通通貨にはユーロの名がつけられ、市民権を得ていくのですが、マーストリヒトの合意が発表された当時にあっては、一定の政治統合までは進むであろうが、共通通貨の導入までは難しいのではないかとの、空気が一般的でした。私もそう思っていました。通貨の発行権は、主権国家にとっての大きな権利であり、かつ経済運営の重要な調節手段です。こんな大事な権利を、大陸国家のフランスやドイツが唯々諾々と手放すはずがないと、考えたからでした。しかし、ドルの1人勝ちは、許せない。ではどうするかとなった時に、ドルに対抗し得る通貨を創るしかない。それには、まず国家同士が、過去の歴史的経緯を踏まえながら、連携を深めるしかないと、19世紀のナポレオン戦争以来、犬猿の仲だったドイツとフランスが手を組んで、独仏連携を中軸にして、通貨統合への道を進んでいったのです。米国の覇権を阻止するためには、ドルよりも強く、信頼される通貨を作成し得るか、否かにかかっているという、独仏の執念が感じ取れる出来事でした。
2007.12.10
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バブルを考える(68)続塩崎の回想から昨晩は、所用で中途で切ってしまい、失礼しました。続けます。日経新聞に塩崎はこう語っています。「大蔵省や銀行は、かつて100の価値を認めていた銀行の貸し出し資産が、実際には10の価値しか持たなくなっているのに、『80ある』と言い続けていた。真実を認めなければ、不良債権の傷口はドンドン広がる。しかし、経営者も監督当局も政治も、過去の歴史の否定につながる事はできなかった。特に(無謬性に拘る)行政は、先輩達が間違えたとはなかなか言えない。だからしがらみのない政治家がやるしかなかった」と。塩崎達若手は、大蔵OBの先輩政治家達と対立しながらも、参院で野党多数を最大限利用して、特別公的管理という名の一時国有化を含む、金融再生法を纏め上げたのでした。金融再生法は10月12日に成立、長銀が破綻認定を受け、特別公的管理がスタートしたのは、10月23日のことでした。 続く
2007.12.10
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