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第一次世界大戦(15)ロシアの状況世界大戦が長期戦、総力戦となると、経済の近代化、とりわけ重工業化に難があり、資本の蓄積が不十分なロシアは、困難に直面しました。前線の軍司令部が求める量の砲弾や兵器を、十分に提供できなくなったからです。人口の多いロシアでは、兵力の増強のみは可能でした。開戦時530万人とされた兵員数は、16年末には、1400万人と3倍弱にまで膨らんでいました。しかし、増大する兵士に十分な兵器が提供できないのですから、兵士の増強は、いたずらに戦闘での死傷者を増やす結果にも繋がりました。16年末までの、ロシア軍の戦死者は53万人、負傷者は230万人、捕虜及び行方不明(脱走含む)者は251万人に達していました。動員兵士の3分の1以上が失われたのです。こうした状況で、緒戦は優勢だったロシア軍は、次第に劣勢になって行きます。緒戦でオーストリア領のガリツィア地方(本来はポーランド領)を占領したロシア軍は、砲弾不足からこの地を維持することができなくなり、15年7月には、占領していたガリツィアから撤退するしかなくなり、やがて、ロシアの支配下にあったポーランド全土を失うにいたりました。これは軍の失態とされましたが、希望する量の兵器や砲弾、弾丸の提供を受ける事が出来ないのですから、全てを軍の責任に帰するのは無理がありました。総力戦体制に即応できないロシア経済の遅れにこそ、問題があったのです。資本不足に悩み、フランス資本を導入して工業化を進めていたロシアにとって、開戦によってフランス資本の導入が途絶えたのは、大きな痛手でした。1917年3月初旬、ロシアで革命が起こったのは、戦争遂行のための総力戦体制を、構築出来なかったツァーリの政府を、軍部や資本家が見限り、戦争に勝てる政府をつくろうとしてのことでした。総力戦体制を十分に構築できなったロシアでは、ついに革命による政府の転覆に繋がったのです。 続く
2007.11.30
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クロニクル トルーマンの爆弾発言1950(昭和25)年11月30日この日、トルーマン米国大統領は、朝鮮戦争中の朝鮮半島での、原子爆弾の使用に言及、「原爆の使用もありうる」と発言しました。当時朝鮮戦争では、10月の中国義勇軍の参戦もあって、韓国側優勢の状況は再度転換、38度戦を巡る攻防へと移りつつある矢先のことでした。このトルーマン発言は国際的な波紋を呼びましたが、米国の核兵器使用は、同じく核爆発を成功させているソ連の核兵器使用を招き、大変なことになると、欧州諸国をはじめ、国際的な批判を浴び、国内でも反対の声が大きかったことから、結局使用のチャンスが掴めずに終りました。
2007.11.30
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第一次世界大戦(14) 塹壕戦西部戦線では機動戦が終ると、両軍とも敵軍の後方に回り込んで包囲殲滅することを考え、互いに陣形を横へ横へと伸ばし合い、遂に大西洋岸のフランドルから、スイス国境に到る長大な陣地戦、塹壕戦となりました。イギリス軍は、当初1ヶ月25万袋の塹壕用土嚢を用意したのですが、15年の半ばには、前線からの要求は、600万袋にまで達したのです。ドイツ軍が縦に深い防禦システムを整備した16年以降、幅5キロから10キロ程度の前線地域に、三重の塹壕線が作られ、塹壕の深さも時には20メートルにまで達しました。即ち、塹壕線とは1種の要塞戦であり、兵士達が自ら穴居人と称したように、前線生活の大部分は半地下生活となったのでした。当然、衛生環境が整えられるわけはなく、不衛生な生活環境の下での、多人数での集団生活は、各地で伝染病の蔓延を生まずにはおきませんでした。19世紀末にはコッホやパスツールらの努力により、いくつもの細菌が発見されておりましたが、なお治療法の開発は十分でなく、まして医療用薬剤が圧倒的に不足する状況にあっては、戦死以上に戦病死が兵士や軍幹部を悩ましたのでした。しかし、両軍の指導者は、作戦や戦術を変えることはありませんでした。司令官が交代する事はありましたが、後任の司令官もまた、同じ軍事思想しか持ち合わせませんから、変わり映えすることは、何もなかったのです。兵員と兵器の量を増やす事と、作戦計画を展開する地域を変えるくらいがせいぜいでした。事情は東部戦線でも同じでした。新兵器の投入も両軍で続けられましたが、それも戦局転換の切り札にはなり得なかったのです。戦争は益々、金食い虫で、あらゆる武器・弾薬を浪費する、長期に及ぶ消耗戦となっていったのです。こうなった場合、国家としての持久力(体力)と継続への気力が衰え、戦争の継続が叶わなくなった側がギブアップするまで、戦いは継続するのです。まさに総力戦と言われるゆえんがここにあるのです。 ザビ
2007.11.29
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バブルを考える(61)日債銀への奉加帳増資日本債権信用銀行が、最初に破綻の危機に見まわれたのは、97年の2月でした。格付け機関のムーディーズが、日債銀の長期格付けを引き下げの方向で検討すると発表した時です。日債銀の当時の格付けは、投資適格性を辛うじてカヴァーするトリプルBでしたから、引き下げられると、日債銀の発行する金融債が投資不適格扱いとなり、市場で販売できなくなって、資金繰りがショートすることが考えられました。日債銀を救済するか、破綻処理するかは、この時はじめて話題となったようです。しかし、97年初頭の段階では、生保各社から提供を受けている劣後ローンを、踏み倒すような荒療治は、まだ不可能な時期でした。そのため、この時は、大蔵省と日銀の共同作業で、何とか日債銀を救済する計画が纏められたのです。日銀も日債銀に出資することにして、各社の信頼を勝ち取り、日債銀の増資を各社が引き受けるプランです。日債銀の不良債権の実態の一部を知る日銀は、大蔵省の2千億円増資プランでは、資本の増強が足りないと感じ、総額3千億円、日銀出資800億円とより積極的な案をうち返しました。そこから、日債銀は海外業務からは全面撤退して、国内基準行(自己資本は半分の4%で済むことになります)になること、関連ノンバンクを一括処理する案が、まとめられました。ムーディーズの引き下げ圧力で、市場の信任を失っている日債銀には、大蔵省と日銀で練られた案に、抵抗する力はありません。こうして。日銀からの800億円もの多額の出資(25%超)を切り札に、日債銀に対する奉加帳増資が固まったのでした。この時大蔵省は、日債銀への出資が焦げ付き、株主代表組織におこされることを心配した生保各社の求めに応じ、今回の再建策の実施によって、日債銀の再建は可能であるとする確認書を、渡しています。渋る相手の説得に、相当程度てこずった様子が偲ばれます。その後6月には、日債銀はバンカーズ・トラストとの業務・資本提携を発表、第1回目の危機は、辛うじて切り抜けたのでした。 続く
2007.11.29
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クロニクル 足利銀行一時国有化2003(平成15)11月29日この日、金融庁は、足利銀行を債務超過と認定し、一時国有化する旨を発表、即日実施しました。地方銀行の一時国有化ははじめてのケースでした。金融庁は4月に、極度の経営不振に陥っているりそな銀行への、公的資金の投入を決め、5月に同行に対し、2兆円の公的資金を投入しています。竹中平蔵金融大臣は、りそな銀行に対しては、経営責任を問うことなく、りそなの債務超過説を一蹴、あくまで健全行に対する資本注入スキームによる公的資金の投入であるとの、立場を崩しませんでした。それに対し、経営規模が小さく、営業基盤が主として栃木県内に限られ、影響力が限定的な足利銀行には、破綻処理を実行するという、どうみても二重基準としか思えない、処理策が実行されたのです。影響力の大きいりそなは救済する。今後は大手行は潰さず、資本不足と認定したら、貸し渋りを防ぐために、経営責任は問わない事で、経営者の抵抗を防ぎながら、積極的に公的資金を投入するぞという、決意を間接的に表明したのです。このメッセージを積極的に受けとめた外資は、長かった日本の金融不況も、ようやく脱出の糸口を掴んだと評価し、13年振りに、積極的な日本株買いスタンスをとるようになったのです。ここに株価は底打ちし、折からの中国市場の急速な成長にも助けられて、日本経済はようやく、バブルの後遺症から抜け出すきっかけを掴んだのです。なお、一時国有化された足利銀行は、再生へのスタート台は整ったとして、年内にも民間に譲渡されるべく、最終折衝が行なわれているところです。
2007.11.28
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第一次世界大戦(13)イギリスの陸軍第一次世界大戦が始まると、イギリスもまた大陸での会戦を想定して、弱体な陸軍力の強化が考えられました。そこから、アスキス内閣は、慣例を破って議会外から、キッチナー元帥を招いて陸相に据えました。閣議に出席したキッチナーは、軍人らしい率直さで、戦争が長期戦になるだろうという、見通しを述べました。「世人は一般に、戦争が短時日に終るものと予測しているが、過去において多くの戦争が、予想外に拡大したように、この大戦も長期にわたるものとして、準備しなければなるまい。このような長期戦は、海上や海軍だけに頼って決することが出来るものではなく、大陸における数度の大会戦によって、決せられるものである」と。最も早く、戦争が長期戦となることを見通し、海軍力に頼るイギリスで、陸軍力の強化の必要を訴えた、卓越した眼力に裏付けられた主張でした。余談ながら、キッチナーは、1916年物資不足に悩むロシアの現実を視察すべく、海からロシアを訪れようとして、乗船した軍船が、ドイツ軍の敷設した機雷に触れて爆発、戦死しています。この時期海相を務めたのは、第二次大戦でイギリスを指導することになるチャーチルでした。このキッチナーの提言を受けて、当時僅か15万人の規模しかなく、開戦時は僅かに歩兵4師団、騎兵1師団しか大陸に派遣できなかったイギリスは、1915年秋には、西部戦線に27個師団を送るまでに、陸軍を増強したのです。当然志願兵では足りず、16年1月には、独身者に対する義務兵役を施行、同年5月には妻帯者への拡大に踏みきったのでした。それのみか、インドやエジプトといった植民地での徴兵にも踏みきったのです。 続く
2007.11.28
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バブルを考える(60)公的資金の投入不良債権の引当を厳格に実施した場合に、大手行の実質自己資本はどのくらいになるか、当時の銀行局が試算した結果が、後に明らかになっています。「もし、あの時点で強制引当を実施していたら、大変な数の銀行が債務超過か国内基準(自己資本比率4%以上)以下になっていただろう」という、証言もなされています。試算の結果は次のようなものでした。自己資本比率8%超(国際基準超)東京三菱、三菱信託、東洋信託、 興銀、日本信託、 6~8% 住友、三和、第一勧業、東海、あさひ、 三井信託、住友信託 4~6% 富士、長銀 2~4% さくら、中央信託 0~2% 大和 0%以下 安田信託、日本債権信用秋に破綻する長銀の自己資本が4~6%と試算されているなど、実情の把握が十分ではない面も見られますが、ハードランディング路線をとるには、遅きに失していたことは、十分読み取れます。必要な時期に必要な措置をとってこなかったツケは、非常に大きかったのです。こうした状況にあるからこそ、余計に「危ない」と話題になった銀行も、「申請すれば本当に危なかったのだと思われる」と躊躇したのです。申請方式の限界でした。佐々波委員会は、2回の審議で審査基準を発表しました。発表後の3月5日に、各行は一斉にほぼ1千億円と横並びの公的資金の投入を要請しました。この時、あえて突出するリスクを選んだ銀行が2行ありました。日本債権信用銀行が2900億円、長銀が2000億円を申請したのです。日債銀は、97年春に経営危機に陥り、大蔵省と日銀による奉加帳増資によって、辛うじて破綻を免れた銀行でした。この増資の中に日銀の出資もあったことで、ようやく資金繰りが安定して間もないところだったのです。「外科病棟の集中治療室にいるのだから、大丈夫だろう」これが市場の評価でした。長銀は、スイス銀行との提携交渉を続けていた関係で、スイス銀行を主幹事に欧州市場で、2000億円規模の資本調達を進める計画を立てていたのですが、それを公的資金に切替えてきたのです。自己資本の毀損状況を隠しに隠してきた長銀は、財務の適確な把握なしに資本調達主幹事を引きうけられないとするスイス銀行と、破談となりそうな状況を隠していたのです。佐々波委員会はと大蔵省は、長銀の真意を訝りながらも、日債銀ほどには、長銀の申請を問題視はしませんでした。日債銀について、審議委員の多くから、債務超過の疑いがあり、公的資金は出せないのではないかという疑点が出され、議論は紛糾しました。しかし、日銀と大蔵省が「債務超過」ではない。公的資金が毀損する不安はないと太鼓判を押し、委員の異論を押しきることで、日債銀への公的資金投入も決まったのです。こうして、長銀には1766億円が、日債銀には大きく減額されたものの600億円が投入されたのでした。しかし、大手各行横並びの1000億円程度の注入で大丈夫なのかという、本質論の議論は何もなされていませんでした。 続く
2007.11.28
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クロニクル 国鉄民営化関連8法案成立1986(昭和61)年11月28日この日、参議院で国鉄民営化関連8法案が賛成多数で可決、成立しました。ここに、国鉄の分割民営化が確定しました。こうして、翌年4月1日、国鉄は本州部分を、東日本、西日本、東海の3社に、そして北海道、四国、九州が各1社、JR貨物に、国鉄清算事業団の合計8社に分割して、再出発することになったのです。
2007.11.28
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バブルを考える(59)佐々波委員会へ紆余曲折はありましたが、銀行への公的資金注入を盛り込んだ、金融機能安定化緊急装置法は、98年2月に成立しました。しかし、資本注入をどのように行なうかが問題でした。注入を金融機関からの申し出を受け、それを審査して注入の可否を決めることにしたからです。保有する不良債権への、一定の引当を義務付け、その結果として自己資本が不足する銀行へ、強制的に注入する仕組みにはなっていなかったからです。まだ危機意識が不足していたのでしょうか。政府も国会も、この点ではまだ及び腰でした。そして、銀行自身も腰を引いたままでした。注入を受ければ、経営への政府の関与が強まる。経営者責任を問われるかも知れない。そして何よりも、危ない銀行と思われ、預金が流出したり、株価が急落すると困る。こうした意識で、危ないと噂された銀行、咽から手が出るほど、公的資金がほしい銀行も、立ちすくんでしまったのです。優良行は、政府の介入を警戒し、経営不振行は、レッテルを貼られることを畏れたのです。こうして、政府や与党幹部が「資本注入は、貸し渋り対策であって、経営危機行の救済策ではない。まずは、優良行から申請してもらわないと、危ないから申請したと見られかねない}などと、環境作りをはじめたのです。こうして、本来銀行が懇願すべき公的資金の投入を、政府・与党がお願いしなければならない、奇妙な情景が生まれたのでした。これはおかしな事でした。そしてまた、公的資金の投入は、再生可能銀行に限られることになっていました。投入した公的資本の毀損は避けなければならなかったからです。破綻しそうな銀行は救済しないことに、なっていたのです。しかし、これは建て前でした。しかし、破綻懸念先銀行とは、という段になって骨抜きが進行していました。「3年連続の赤字決算ないしは無配当。自己資本比率がマイナス、ないし、0-4%(国内基準では0ー2%)で、1年後でも改善が見込めない銀行」とされたのです。後に一時国有化された日本債権信用銀行でも、無配は2年間でしたから、申請は認められる仕組みなのです。こうしたバタバタを経て、当時最も自己資本の毀損が少なく、不良債権も少ないとされていた東京三菱が、公的資本の投入を申請し、他行が横並びで東京三菱に続きました。各行の申請を審議する、金融危機管理審査委員会(通称佐々波委員会)が開かれたのは、それから間もなくでした。 続く
2007.11.27
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第一次世界大戦(12) 秘密外交…2フサイン・マクマホン協定で、戦後におけるアラブ世界の独立を約束したイギリスは、トルコやアラブ人には勿論、イタリアにも内密にして、1916年5月、ロシア、フランスとの三国でサイクス・ピコ協定を結びます。これは、トルコ領アラブを三国で分割する協定でした。フランスにシリアを、ロシアに黒海東南地方を、そしてイギリスが南メソポタミアを領有するという内容です。まさに帝国主義の本質をあからさまに示している協定でした。イタリアにも秘密にしていたのですが、16年秋になって、イタリアが国内の反戦運動に手を焼き、単独講和に傾きはじめると、繋ぎ止めのために、新たにイタリアとも協定を結び、アラブ分割の際には、イタリアにも領土を割り当てることを約束しています。さらにイギリスは、長引く戦争における財源難に対応するため、連合国に居住するユダヤ系の資金に着目し、1917年11月、アラブ人の居住地ながら、ユダヤ教徒も平和的に混住していた、パレスティナの地に、戦後におけるユダヤ国家の建設を認めるという、国王特使バルフォア卿の宣言(バルフォア宣言)を秘密裡に発して、ユダヤ系資金の導入に活路を開いています。ここに記した三つの協定や口約束が、相互に矛盾する内容を持つことは、明白です。独立を認めた地を、分割し、かつまた流浪の民に、勝手に他人の土地での国家建設を認めて、どうするというのでしょう。今日に続く、アラブ地域の混乱は、この時のイギリスの勝利のためには手段を選ばないという、悪辣で巧妙な、汚らしい外交術が出発点となっているのです。とはいえ、1948年のイスラエルの建国に関しては、それはイギリスというよりもアメリカにより大きな責任があります。第一次大戦後、イギリスは欧米在住のユダヤ系住民によるシオニズム運動(祖先の地、シオンの丘に帰ろうという運動)の高まりに、驚き慌て、国家としての関与を止め、手を引いてしまうのです。替わって登場したのがアメリカで、アメリカはアラブ地域の石油資源に目をつけ、この地にユダヤ国家という楔を打ち込むことで、アラブの分裂を図り、有利に石油資源を利用しようとしたのです。 続く
2007.11.27
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クロニクル カイロ宣言発表1943(昭和18)年11月27日この年11月22日から、エジプトのカイロで会談していた、アメリカ大統領のフランクリン・ローズヴェルト、ソ連共産党書記長スターリン、そして中華民国総統蒋介石の3人は、この日、対日講和の方針を決め、カイロ宣言として発表しました。それによると、朝鮮の独立を認めること、台湾・山東半島・遼東半島・満州(中国東北地方)などを中国へ返還する事など、明治以降の対外戦争で日本が獲得した地域のうち、この時点で対日戦争に加わっていないソ連(旧ロシア)から獲得した南樺太を除く地域の、当該国への返還が、条件とされました。
2007.11.27
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第一次世界大戦(11) 秘密外交…1総力戦は様々な局面での、各国の外交努力にも現れ、種々な秘密外交となって現れました。その一例を記します。トルコがドイツ側に立って参戦したことは、ただちにスエズ運河の通行の安全にとって脅威となりました。そこで、スエズを使えないとなると、イギリスのアジアにおける拠点、インドとの連絡に大きな支障が生じます。そこでイギリスは、ただちにトルコ領アラブの独立の唆し、アラブ世界に対し、対トルコの戦いに立ちあがるよう要請します。陸相キッチナーは、「戦争においてイギリスを支援するならば、アラビア人の要求を認めようとするものである」と述べています。こうしたモロモロの摺り合わせの上で、イギリスがアラブの太守ハーシム家と結んだのが、1915年6月のフサイン・マクマホン協定でした。「戦後におけるアラブ世界の独立を認める」とする協定の内容は、良く知られているところです。この協定を受け、イギリスによって装備・訓練されたアラブ兵の対トルコ蜂起は、1916年6月に始まります。日本でも有名なアラビアのローレンスは、アラブ支援のためにイギリスから送り込まれた人物ですが、彼の活躍は、16年秋からのことになります。問題は、イギリスの秘密外交、二枚舌外交がこの地で結んだ協約は、1つではなく、他にも二つあったことです。 続く
2007.11.26
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バブルを考える(58)公的資金の問題点…2大蔵省が把握した不良債権は、金利減免の第二分類債権が65,3兆円破綻懸念先の第三分類が 8,7兆円実質破綻先の第四分類が 2,7兆円 でした。76兆円を超える不良債権で、最も問題なのは、これらの不良債権に対する引当が全く行なわれていないことでした。何故か。貸し倒れ積みたて金が積み立てられ、債権償却特別勘定で引当処理の済んでいる債券は、正常債権の扱いを受けていたからです。引当が済んでいれば、損金処理が出来、バランスシートから外せたからです。従って、76兆円超の不良債権は、バブル崩壊後の7年間にもわたって、営々と不良債権を処理してきながら、なお処理しきれずに未処理のまま残されていた不良債権の額でした。第二分類債権は、ただちに損失に結びつくものではありませんが、経験的に第二分類債権の15~25%の瑕疵が出ることは分かっていましたから、一定の引当が必要なことは、金融のプロではない、私のようなシロウトでも分かる事でした。米国などでは、金融当局が厳格な引当基準を作成し、四分類は期中に全額償却。三分類は50%、二分類は20%の引当が義務付けられていました。97~98年になってなお、日本の金融当局は、諸外国の例を知りながら、こうした基準を一切作っていなかったのです。それが、損失を拡大し、金融クラッシュを生んだ原因の一つになったことは、間違いのないところでした。不良債権のあまりの巨大さに、強制的な基準を定めれば、どれだけの金融機関が倒れるかの見当もつかない恐怖感に、当局自身が竦んでいたとしか考えられない醜態でした。危機にどう立ち向かうか、将来を見据えて長期的に最善のプランを選択しようとする、意欲と責任感の持ち主であることが、リーダーの資質であるとすれば、政界・官界・金融界にそうした逸材が1人もいなかったことが、日本の不幸だったように思います。その後の日銀の追跡調査によれば、97年9月期末の不良債権のうち、四分類債権は、1年以内に全額が、三分類では3年で75,3%が、二分類でも3年で16,7%が償却されています。不動産価格の値下がりが続き、担保不足で資金繰りが続かなくなった企業が続発したこと、日本経済全体が萎縮していたことが、三分類債権の損失発生率(=債務先企業の倒産)の高さに繋がりました。金融システムの闇は予想以上に深刻であり、銀行が予想される損失に対する必要な引当を積んでこなかったことも明らかになりました。複雑な会計操作で巧妙に不良債権を隠し、商法の既定に反する「事実上の粉飾決算」を続けていたのです。バブル崩壊の初期に手を打たなかったこと、地価の回復に期待をかけて先送りを続けた咎は、あまりにも大きかったと言えましょう。97年段階まで、ハードランディングによる外科手術をと、問題銀行の破綻処理を日本政府に進言し続けてきた米国も、この不良債権の開示を受け、日本の外科手術は、ただちに世界経済全体に波及する日本発の世界金融恐慌に発展するだろうことを理解します。こうして、再生可能銀行への、資本増強のための公的資金投入は、国際的理解を得ることとなったのです。しかし、なお問題はありました。 続く
2007.11.26
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クロニクル プロ野球2リーグへ1949(昭和24)年11月26日この日、プロ野球に太平洋野球連盟(パシフィックリーグ)が誕生しました。12月5日には、セントラル野球連盟も誕生し、プロ野球は2リーグ制の時代を迎えることになりました。両リーグの構成球団は、セ・リーグが初年度の1950年の順位順に松竹ロビンズ (消滅)中日ドラゴンズ巨人ジャイアンツ阪神タイガース大洋ホエールズ (現横浜)西日本パイレーツ (消滅)国鉄スワローズ (現ヤクルト)広島カープ の8球団パ・リーグは7球団の変則でした毎日オリオンズ(現ロッテ)南海ホークス (現ソフトバンク)大映スターズ (現ロッテの一部)阪急ブレーブス (現オリックス)西鉄クリッパース (現西武)東急フライヤーズ (現日本ハム)近鉄パールズ (現楽天?)その後、セ・リーグも7球団となったり、パ・リーグが8球団となったりの紆余曲折があり、両リーグ揃って6球団に揃うのは、1958(昭和33)年のシーズンからでした。
2007.11.26
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バブルを考える(57)公的資金の問題点…130兆円の公的資金枠は決まりました。しかし、決まる過程でも様々な問題点が浮上しました。「預金者保護のために」、「破綻銀行の受け皿銀行の自己資本の充実のために」等々が、合意されます。しかし、預金者保護という錦の御旗に包むことが出来ないために、現下の金融危機とそれに伴う経済不振の払拭に、決定的に必要な不良債権に対する引当不足を解消するための、個別行への資本注入をどうするかが問題でした。不良債権を一機に顕在化させれば、銀行の自己資本は大きく毀損します。BIS規制に定められた自己資本比率をクリアするためには、不良債権の処理は利益の範囲、体力の範囲でゆっくりと進めざるをえない。貸出しも、手元流動性を高めるために、出来るだけ回収を進めなければならない。個別行の多くはこう考えていました。国際経済界の日本の金融機関に対する不信感(それは、不良債権を正しく開示していないという不信でした)は強く、事実上日本の金融機関は、ユーロ市場で資金を取り入れることが出来ない状態にあったからです。国内においても事情は同じでした。これが貸し渋り、貸し剥がしに繋がり、日本経済の活力を決定的に奪っていたのです。こうした政界の危機感が後を押し、30兆円もの公的資金投入枠が纏められたのですが、何故30兆円なのかは、国会答弁で明確な説明が求められます。それには、これまで公にされてこなかった不良債権の実態を公表することが必要でした。不良債権は、およそ3種類に分類されます。正常債権を含めれば4種類になりますが、2分類が利払いが滞ったり、金利を減免している債権、3分類が破綻懸念先債権、4分類が破綻した債権とされます。97年当時の日銀考査によると、こうした不良債権の合計が。都市銀行全体で 36,5兆円長信銀全体で 8,4兆円信託銀行全体で 12,4兆円地銀全体で 21,4兆円と、合計で78兆円超ということでした。大蔵省銀行局の調査でも、76兆7千億円と、日銀のデータと良く似た数字になっていました。これまでの公表不良債権の総額は、97年9月末で21,7兆円とされていましたから、実態の3分の1以下しか、公表していなかったのです。このうち実際に回収不能になるのは、3分類で50~70%、2分類では20%程度になりますから、30兆円の公的資金枠は、概ね妥当ということになってきたのです。この点を、明日もう少し説明したいと思います。 続く
2007.11.25
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第一次世界大戦 (10) イタリアの参戦熾烈な外交合戦は、イタリアを巡っても展開されました。元来イタリアは、ドイツ、オーストリアと三国同盟を結び、ドイツ側に組していました。それはイギリス、フランス、ロシアの三国協商諸国と対立する関係にありました。しかし、1861年のイタリア統一は、オーストリアハプスブルグ支配からの北・中部イタリアの独立がきっけけで、実現したものであり、ヴェネツィアに到っては、1866年の普墺戦争における、オーストリア敗北の間隙をついて、オーストリア支配を脱してイタリア王国への復帰を実現したものでした。その後も、アドリア海に近いイストリア、ダルマチア、チロルなどは、なおオーストリアの占領下にあり、未回収のイタリアとして、その地の回復はイタリアの悲願となってもおりました。こういう事情がありましたから、オーストリアとイタリアの関係は常に波乱含みの状況にありました。そのイタリアがドイツに接近したのは、アルジェリアを制したフランスが、すぐ東のチュニジアに進出してきたため、イタリアの狙うリビア支配が脅かされることを畏れて、イタリアの側から接近を図ったものでした。普仏戦争の勝利で、フランスからアルザスのほぼ全部とロレーヌ北部を奪ったビスマルクのドイツは、常にフランスの復讐を警戒しており、イタリアとの同盟は渡りに船でした。こうしてビスマルクは渋るオーストリアを説得して、1882年に三国同盟を結んだのです。また地中海の両端、東のスエズと西のジブラルタルを抑え、イタリアにとって目と鼻の先のマルタ島に、海軍基地を要するイギリスとは、海軍力において雲泥の差があり、イギリスとの敵対は考えられない選択でした。このため、イタリアは三国同盟に属しているとはいえ、常に一歩腰の引けた存在でした。オーストリアのセルビア攻撃が現実のものとなった時、イタリアは、「三国同盟は、本来防衛目的であり、先制攻撃を想定したものではないから、我が国には同盟の義務はないと考える」として、8月1日には、局外中立を宣言したのです。三国同盟には早くもほころびが生じたのです。西部・東部の両戦線が膠着し、長期戦の様相が濃くなると、ドイツにとっては、少なくともイタリアに中立を守ってもらうことが、大きな関心事になってきます。逆に英・仏・露の連合にとっては、オーストリアとの間に領土紛争を抱えるイタリアを、自陣営に加えることが大きな利益になってきます。戦争の拡大を見たイタリアは、未回収のイタリアを、回復する絶好のチャンスと考え、15年4月26日英・仏・露三国とロンドン秘密協定を結びます。こうして75万人の兵力を持つイタリアもまた協商側に立って、参戦することになりました。イタリア国内の中立派=非戦派は、参戦に反対したため、議会は紛糾したのですが、国内には悲願の「未回収のイタリア」の回復に、ようやく展望が開けたとする、参戦派が多数を占めており、好戦的な世論に押されて、イタリアは5月23日、先ずオーストリアに宣戦を布告、ついでドイツ、トルコとも国交を断絶、両国とも戦争状態に入りました。 続く
2007.11.25
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クロニクル 三島事件1970(昭和45)年11月26日この日、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に、作家の三島由紀夫と彼の結成した「楯の会」のメンバー4人が現れ、総監室に乱入して、総監を監禁、自衛隊の決起を促しましたが、聞き入れられませんでした。そこで、三島は庁舎前に、隊員を集めることを要求し、バルコニーから、「軍の圧力で憲法改正を実現しよう」と隊員達に呼びかけましたが、受け入れられませんでした。意気消沈した三島は、総監室に戻ると、割腹自殺を図り、隊員の1人が介錯しました。介錯した隊員自身も切腹して果て、他の3人の隊員は投降しました。この自衛隊駐屯地は、現在は民間に払い下げられ、東京ミッドタウンとなっています。自衛隊に決起を呼びかけるという行動自体が、大時代的なパフォーマンスで貫かれ、本人は真剣でも、何か茶番劇にしか見えない、出来事でした。
2007.11.25
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第一次世界大戦(9) トルコの参戦国の総力をあげて戦う総力戦においては、新兵器の開発競争のみでなく、外交戦もまた、表舞台に出ない密やかな舞台ながら、極めて激しく火花を散らして行なわれました。ドイツ・オーストリアの側には、オーストリアと同君連合を組む、ハンガリーが加わり、さらに第2次バルカン戦争でセルビアに敗れたブルガリアが加わりましたが、バクダッド鉄道の延伸などで、ドイツと親しい関係にある、トルコはなお逡巡していました。日露戦争に敗れたロシアは、満州の地で不凍港を手に出来なくなり、どうしても黒海から地中海への出口に当たる、ダーダネルス・ボスフォラスの両海峡を押さえるしかなく、再びトルコへの圧力を強めていましたから、対抗上トルコが、益々ドイツに接近することは自然に見えました。しかし、イギリスとフランスは諦めなかったのです。トルコがドイツ側に立って参戦することは、すなわち、アジアとヨーロッパの連絡通路である、スエズ運河の安全を大きく脅かすからです。このため、英・仏はトルコに局外中立を守るように働きかけ続けました。トルコ内部では、親ドイツ派の力が強かったものの、戦争の帰趨を考えるとドイツにつく方が得策とは言いきれないため、親フランス派も侮り難い力を持っていました。そのため、英・仏の説得によって、トルコの参戦は、10月末まで引き伸ばされることになりました。元々、トルコ陸軍はドイツ軍人を教官として訓練されており、8月以降トルコ海軍もドイツ人将官の指揮下におかれるようになりましたから、ドイツ側に立ってのトルコの参戦は、既定事実の感を持たれていたのです。それでも、トルコの参戦が10月末という、極東の国日本の参戦よりも、2か月以上も遅れたところに、外交戦の特質が隠されていました。 続く
2007.11.24
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バブルを考える(56) 富士銀行の危機12月に入って、富士銀行の株価が急落しはじめました。富士銀行、安田生命保険、安田火災海上、安田信託銀行の旧安田財閥系金融グループ(芙蓉グループ)のうち、多額の不良債権を抱えた安田信託銀行が経営危機に陥っていたからです。メーンバンクとして山一証券を支えきれなかったことも、大きく響いていました。「富士銀行は、1兆円規模の不良債権を、飛ばしによって隠している」「安田信託銀行は、債務超過に陥っている。とても支えきれずに、富士銀行も連鎖破綻するだろう」と、市場に富士銀行の経営不安説が、駆け巡っていたのです。バブルのピークには、4000円を超えていた富士銀行の株価は、10分の1の400円まで下がっていたのです。株価はさらに下がって、200円ギリギリまで下げ続けます。安田信託の貸付信託は、山一の倒産直後から解約が殺到し、顧客に整理券を配って対応せざるをえない事態も続いていました。そして富士自身の預金量も、減少圧力が強まっていました。こうした中、富士銀行は、12月24日の深夜に、芙蓉(旧安田財閥)グループトップの緊急会合をセットし、その席で、生・損保を加えた3社で、安田信託の増資に応じ、グループとして信託を支える案を提示しました。安田信託と命運を共にする覚悟を定めたのです。増資に応じても、市場の攻撃が治まるか否か、定かでなかったのですが、ともかく増資に踏みきったのでした。当時、富士がいくら「根拠のない風説だ」と市場の噂を否定しても、ひとたび失われた信用は、少しも回復の気配を見せなかったのです。しかし、政治家を中心とした公的資金投入への流れが加速する中で、こうした動きは、やがてより危ない2つの銀行へ、集中砲火を浴びせて行く事になっていきます。 続く
2007.11.24
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クロニクル 山一証券自主廃業 1997(平成9)年11月24日2日前の11月22日、土曜日の日本経済新聞朝刊がスクープした、山一証券自主廃業への記事は、当日朝のワイドショーなどで、大きく報じられ、その日のうちに、既定のコースとなって行きました。そして、この日、24日振り替え休日の月曜日に、山一証券は、正式に自主廃業を届け出ました。預かり資産24兆円、連結負債総額6兆7千億円という巨大企業の倒産劇でした。後日談を記します。山一証券は自主廃業を届け出ましたが、自主廃業に向けた98年6月の株主総会は、経営陣に対する株主の不満から、委任状が集まらず不成立になりました。そのため、山一は自主廃業できず、99年6月、東京地裁に自己破産を申請して、破産処理されました。なお、大蔵省の査定で、当初債務超過にあらずとされていましたが、事務処理の遅れと、その間の景気低迷による資本の劣化もあり、日銀の予測通りに債務超過に陥り、その額は何と1602億円もの巨額に達しました。この額は、そのまま日銀特融のコゲツキ分となりましたが、当時の小渕首相と宮沢蔵相が「大蔵省のとりわけ、大蔵大臣の責任である」と答弁して、特融は完済されることになりました。この分は結局税金が使われました。
2007.11.24
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第一次世界大戦(8)新兵器の実験場第一次世界大戦が、各国の威信をかけた総力戦となったことは、昨日記しました。そこで、各国は国の工業力、技術開発力の総力をあげて、新兵器の開発にいそしみました・その意味では、第一次世界大戦は新型兵器の展示場、実験場の趣を呈しました。最初に考案されたのは、戦車(タンク)でした。膠着した戦線で、敵も味方も塹壕を掘って、砲撃を避けながら対峙します。しかも互いの塹壕は、相手方の砲撃を避けるために、近距離に接近します。そうなると短距離の戦闘に有利なのは、短い距離の空地や鉄条網を突破できる兵器です。キャタピラー式で、容易に塹壕を突破でき、かつ機体の重量で鉄条網を踏みにじることができる兵器として、イギリス軍が考案したのが戦車(タンク)でした。毒ガスもまた第一次世界大戦の産物でした。ドイツ軍がベルギーのイープル市を攻撃する際に用いたのが最初ですが、風上からの利用が効果的でした。毒ガス兵器の使用は、国際法上は禁止されていたため、英仏はドイツの使用までは、自軍の方からは使わないと、決めていたのです。ドイツ軍の使用開始を待って、英仏軍もまた毒ガスの使用を解禁しました、飛行機もまた戦場に投入されました。開戦当初は、航続距離が短く、敵陣の偵察程度がやっとでした。飛行技術も未熟のため、すれ違う敵軍の飛行機とハンカチを振り合って、挨拶を交わしたという記録も残っています。しかし、次第に航続距離が伸び、その結果飛行機は、地上戦に参加したり、直接後方の都市や工業地帯を爆撃するようになって行きます。空襲の開始は1917年のことでした。イギリス海軍に、北海と太平洋への出口を抑えられたドイツは、輸入物資の欠乏に苦しめられたため、海上輸送に活路を開くために、潜水艦を開発し、その潜水艦による無制限攻撃をしかけることをはじめました。こうして戦車、毒ガス、飛行機、潜水艦と、主な大型新兵器だけでも、4種の新兵器が登場したのです。 続く
2007.11.23
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バブルを考える(55)公的資金投入…2動いたのは、政治家でした。大蔵省は自縄自縛に陥り動けなくなっていたからです。さらに、金融機関を監督し、あらゆる情報を知る立場にいながら、倒産ラッシュが起きた11月まで、いったい何をやっていたのか、小手先の手直しで何とかなると思っていたのかと、大蔵省への不信感を募らせていたからです。いかにも大蔵省の対策は、小手先でお粗末でした。破綻寸前に陥った問題銀行同士を合併させ、そこに特例として預金保険を投入して、不良債権を取り除き、再生させようとしたプランがその好例でした。問題行同士、ダメ銀行同士が合併しても、うまくいくはずがありません。これは破綻の先送り以外の何物でもなかったのです。事実、この時期に大蔵省が暗躍し、預金保険法を改正までして、98年秋に誕生した特定合併行の「なみはや銀行」(福徳銀行となにわ銀行という問題銀行同士の合併行)は、1年も持たずに99年8月に破綻処理されたのです。大蔵省の中小銀行課が、97年初夏から練り上げたプランというのが、この程度のものに過ぎなかったのです。右肩上がりの経済に慣れ、土地担保さえ機能しない、下り坂経済の経験を持たず、自己のコントロールの下に、護送船団行政を展開していけば、なんとかなるという考えに凝り固まった官僚組織は、一朝事ある乱世に必要な知恵を持ち合わせていなかったのです。しかも、なお悪い事に、官僚という人種は、完全に失敗した事実が明るみに出るまで、事実を明らかにすることを拒否し、しかもなお自己保身のための言い訳を用意することです。97年11月は、大蔵官僚の失敗を白日の下に明らかにしました。それでもなお、大蔵官僚は公的資金の銀行への投入に抵抗し、最後には投入額を出きるだけ少なくしようと、政治家の足を引き続けました。しかし、日本は金融恐慌の淵に立っていました。金融を何とかしなければ、日本経済の再生もありません。元首相で、首相在任時の92年に、東証の一時閉鎖と銀行への公的資金の投入を模索した宮沢喜一、現金融大臣で、当時は新人議員だった渡辺喜美、橋本内閣の官房長官を辞した梶山静六らが、プランを出し合い、30兆円の公的資金枠が、ようやく政治主導でできあがったのです。しかし、12月に入っても綱渡りは続いていました。山一証券のメーンバンクだった、富士銀行の危機が噂され、株価の急落が続いていたのです。 続く
2007.11.23
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クロニクル ウィンドウズ95日本語版発売1995(平成7)年11月23日この日、米マイクロソフト社は、自社製品「ウィンドウズ95」の日本語版を発売しました。ここに日本でも、本格的なパソコン時代が到来することになりました。従来使われていたオフコンに比べ、安価な費用で、ワークステーション方式でパソコンを繋いでいく方法は、急速に普及し、小規模事業所などでも、パソコンが使用されることになりました。また個人用、家庭用としても急速に普及を遂げ、今日のパソコン時代の幕を開きました。同社社長のビル・ゲイツ氏の名が、日本中に知られるようになったのも、この頃のことでした。
2007.11.23
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第一次世界大戦(7) 総力戦へタンネンベルクの会戦と、マルヌの会戦を経て戦線は膠着しました。その最大の理由は、想像以上に消費された砲弾の不足にありました。独仏両軍は、共に砲弾の1日当たり消費量を約2万発と計算し、野砲1門について、1300発標準として装備を進め、共に約50万発の砲弾を備蓄して、戦闘準備を整えていました。ところが、マルヌの会戦において、独仏両軍は共に用意した砲弾を撃ち尽し、なお勝敗の決着はつかなかったのです。この戦いでの両軍の弾薬消費量は、僅か10日に満たない会戦において、既にして日露戦争の全過程における砲弾使用量を凌駕したと言われています。砲弾の不足が、マルヌの会戦の徹底遂行を不可能としたのです。当時の独仏両国の1日当たり砲弾製造能力は、1万3千発程度に過ぎなかったからです。1週間で10万発に満たない砲弾製造能力では、再度の会戦に持ち込んでも、また不本意ながら途中で戦闘を中断するのやむなきに至るのは、火を見るより明らかでした。しばし、戦闘は中断し、軍需産業の生産力を飛躍的に高めることが必要になりました。ここに、短期決戦で勝敗は決する。クリスマスは自宅で過ごせるといった楽観的な見通しは消え、長期戦を覚悟した準備が必要となりました。ここに軍需品の補給能力の優劣が、勝敗に大きく影響する形勢となったのです。各国は、競って国家の機能を強化し、全国民を動員する、大規模な戦時統制経済体制を築き上げて、限りのある物資の効率利用をも心がけるようになっていきました。こうして国家の肥大化が、議会から行政府への権限委譲によって行なわれることになったのです。この権限委譲で、イギリスでは早くも14年末までに、軍需省が設立され、ロイド・ジョージ大臣の下に、大戦終了の1918年には、職員65,000人、傘下の工場250を数える大組織に成長していたのです。ここには多くの実業家が職員として参加し、さらに労働組合もまた、軍需省の要請を受け入れ、戦争終了まで、ストライキを実施しないことを宣言するなどして、陸軍の要請をほぼ満たせる体制を整えることに成功したのです。事情は、フランスやドイツでも同じでした。フランスでは開戦直後に物価統制令が敷かれ、17年には食糧供給省と燃料供給省が新設され、大きな権限をもって、流通を制御し、物資の流れを統括することに成功しました。ドイツでは、第ニ次大戦当時の日本と同じように、軍部が強大な権限を握り、陸軍省内に戦時原料局を新設して、戦時経済の切り盛りに当たったのです。こうして戦闘が最高潮に達する1916年の段階では、両軍共に、1日平均で30万発を越える砲弾を製造するにいたるのですが、それでもなお十分な量ではなかったと、指摘されています。1916年に行なわれたヴェルダンやソンムの会戦では、両軍共に1週間に200万発以上の砲弾を消費したからです。こうして戦闘は、国家の総力をかけた総力戦として、戦われることになったのでした。 続く
2007.11.22
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バブルを考える(54) 公的資金投入へ…1取りつけ騒ぎの拡大を防ぐには、何らかのアクションが必要でした。日銀特融の残高は、この時点で3,7兆円に達していました。今ここに徳陽シティ向けの特融が加わるのです。日銀の特融は、無担保で行なわれるのですが、破綻処理の場合でも、その完了までの「つなぎの措置」です。損失処理に使われるものではなく、銀行破綻の処理財源は、金融界が徴収している預金保険で賄うことになっていました。しかし、相次ぐ破綻のラッシュによって、預金保険機構が管理する預金保険の財源がマイナスとなることは、誰の眼にも明らかでした。預金保険の適用を受けない山一への特融も焦げ付く畏れがありました。これ以上の破綻を防ぐためにも、特融のコゲツキを避けるためにも、日銀は大蔵省に「公的資金」の投入に言及する事を強く求めました。しかし、なお大蔵省は公的資金の投入に言及することができずにいたのです。「住専」処理への公的資金投入のまずさが、ここでも祟っていたのです。以来大蔵省では、公的資金を口にすることはタブーになっていたのです。97年11月~12月にかけての状況は、何よりも国民世論と金融・証券市場を安心させることが大切だったのですが、その急場においてなお、大蔵省は自縄自縛状態に陥っていたのです。大蔵の信用は地に落ちました。それが翌98年の長銀や日債銀の処理に、何も口を挟めず、金融と財政の分離、金融庁の独立を飲まされることに繋がっていったのですが…。 日本の信用機能の戦後における最大の危機に際して、機能不全に陥っていた大蔵省に対するペナルティとしては、これでも軽過ぎたようにも思えるのですが……26日夕刻、大蔵省と日銀の共同談話が発表されました。「預金等の払い戻しについては、大蔵省と日銀は、それが滞ることのないよう潤沢に資金を提供して行く。」これがその内容でした。山一が自主廃業した2日前の日銀総裁談話とそっくりな内容でした。そのため、松下総裁は会見に出席せず、三塚蔵相1人の会見となりました。この後に及んで、なお公的資金投入への一歩を踏み出せない、古巣の大蔵省に対する松下総裁の抗議の姿勢の現れでした。 続く
2007.11.22
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クロニクル カイロ会談始まる1943(昭和18)年11月22日この日、エジプトのカイロで、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中華民国総統蒋介石の3国首脳によるカイロ会談が始まりました。会議の目的は、対日講和方針の摺り合わせでした。この年9月8日には、イタリアが降伏しており、対独、対日戦線でも、連合国の優勢がはっきりしてきた時期でした。すでに10月末、対独講和方針が米・英・ソ3国外相によって協議されていました。カイロ会談は、27日まで行なわれ、最終日の27日に3首脳は「カイロ宣言」に揃って調印、ただちに発表したのでした。
2007.11.22
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バブルを考える(53) 徳陽シティ銀行山一証券の自主廃業が発表になった2日後の11月26日早朝、宮城県の第2地銀、徳陽シティ銀行が経営破綻し、仙台銀行などに営業譲渡することが発表されました。これまた大蔵省の大チョンボでした。三洋証券、拓銀、山一の破綻は、いずれも週末にマスコミが報じ、休日の間に処理が進められるという、市場が開くまでの時間がクッションの役割を果たし、時間がショックを和らげる役割を果たしていたのです。ところが、徳陽シティの破綻は,週央の水曜日、しかも前日の閉店後でもなく、早朝の発表でした。第2地銀とは、信金等からの業態変更で誕生した規模の小さな地域銀行です。預金量も不良債権総額もそう多くはありません。だから軽く見たということなのでしょう。大蔵省は世論がどう動くか、肝腎の点を読み落としていたのです。徳陽シティは,確かに規模の小さな銀行でした。しかし、国民世論は、この小さな銀行が仙台にあった事実を見落としませんでした。何あろう当事の大蔵大臣三塚博の地元の銀行だったのです。「大蔵大臣のお膝元の小さな銀行すら救えないのか。大臣からは、何とか頼むと言われていただろうに…」日本の国民は、この程度の想像はすぐにします。「大臣の頼みも聞けないほど、小さな第2地銀1つ救えないほど、日本の銀行の財務基盤は傷ついているのか。これでは、小規模銀行は次々潰れるな」「いやいや、拓銀も山一もぶっ倒れた。大銀行だって危ないもんだぜ」午前9時を迎えた各地の銀行には、預金の引き出しを求める預金者の列ができたのです。昭和2年の金融恐慌を思わす、預金の取りつけ騒ぎ、その第1段が始まった瞬間でした。相次ぐ金融機関の破綻で、ピークに達していた不安心理が、大臣のお膝元の中小銀行の破綻で、堰を切って溢れ出たのです。「店の外に行列を作らないように。それを見ると、行列は3倍にも、4倍にもなる」こんな細かい支持が大蔵省や日銀からも発せられました。大手行でも、山一のメーンバンクだった富士銀行では、この日1日で400億円もの預金の取り崩しが起きたのです。コール市場では、金利をあげても、資金の出し手が出てこない金融機関も相次ぎました。危ないとの噂が流れたら最後、市場での資金の調達ができなくなってしまうのです。これは金融市場の崩壊の一歩前の状況でした。1997年11月下旬、日本の信用機能は、ここまで追い込まれたのです。三洋証券の処理のミスが大きく響いたことは事実ですが、不良債権の処理を先送り、先送りと抜本的な処理と再生に踏み込まずにきた、官民あげての事勿れ主義のツケが一挙に吹き出したのでした。 続く
2007.11.21
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第一次世界大戦(6) 日本の参戦第一次世界大戦は、基本的にヨーロッパの戦争でした。黒海からカフカースにかけての一帯、バルカン半島からトランシルヴァニアにかけて、そして地中海から大西洋沿岸部にかけての海洋、これらが西部,東部の両戦線を補強する戦場でした。そうしたヨーロッパの戦争を世界戦争に広げたのが、日本の参戦でした。日本は、トルコやイタリアよりも早く、8月14日に御前会議で参戦を決定、会戦から1ヶ月も経たない8月23日に、ドイツに対して宣戦を布告したのです。参戦理由には日英同盟があげられ、アジアにおけるイギリスの権益を脅かしかねない、赤道以北のドイツ植民地の兵力を一掃することとされました。しかし、日清・日露の戦いを経て、次第に帝国主義国としての実力を磨きつつあった日本の真の狙いは、青島を中心とするドイツ領山東半島を奪う事、太平洋のドイツ領島嶼を奪う事であり、さらに列強がヨーロッパの戦争にかまけている隙に、中国での利権を拡大することにありました。その証拠に、参戦後の日本は、英・仏・露三国からの再三の要請にもかかわらず、ヨーロッパの戦場に陸海軍の兵士を派遣することを、拒否し続けています。日本が重い腰をあげて、ヨーロッパの戦場に海軍の駆逐艦を派遣したのは、ようやく1917年の2月、アメリカの参戦の2ヶ月前のことでした。ドイツの潜水艦による攻撃を避けるために、ジグザグのコースをとって進む輸送船の護衛には、太平洋という長大な海域を航海しうるように設計されている、航続距離の長い日本の駆逐艦が最適であるという懇請を、断りきれなくなったこと、見返りとして戦後に日本が山東半島並びにドイツ領南洋群島を領有することを認めるという、密約がなされたからでした。因みに、この戦争で捕虜となったドイツ兵は徳島県の収容施設に送られました。現在その地にはドイツ村が建設されています。また、捕虜となったドイツ兵たちの即席オーケストラによって、この収容所で日本ではじめてのベートーベンの第9の演奏が行なわれたことも、良く知られています。
2007.11.21
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クロニクル 三原山大噴火1986(昭和61)年11月21日11月15日に噴火し、その後小康を保っていた伊豆大島の三原山が、この日午後4時過ぎ、209年振りと言われる大噴火を起こしました。噴煙は3700メートル、火山弾は2000メートルまで噴き上げました。流れ出た溶岩は、島の中心の元町地区に1キロメートルの地点まで迫り、全島民10,300人と、2000人の観光客に避難命令が出され、避難する人々は、大島航路の東海汽船の客船、海上保安丁の巡視船、海上自衛隊の艦船などで、翌朝までかかって、東京や静岡に脱出しました。この模様は夜の各テレビ局の報道番組で報道され、迫り来る溶岩の中で、子どもや高齢者婦人達を優先的に乗船させる、島の人達のチームワークに心打たれたことが,今でも甦ってきます。こうして、しばらくの間、大島は島に残った保安要員を除くと、無人の島になったのでした。避難の解除は、12月22日となったため、島の皆さんは、1ヶ月の避難生活を余儀なくされたのでした。
2007.11.21
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バブルを考える(52) マスコミ報道 山一証券の自主廃業は、振替休日の24日に発表されることになりま した。月曜日の24日は、日本は休日でも海外市場は開くため、海外 での取りつけ騒ぎを起こさないための準備も必要になりました。 ところが、22日(土)の日経新聞朝刊が、1面トップで、「山一証 券、自主廃業へ」と大々的に報じたのです。私もこの記事を 読んで、驚いた事を覚えています。「2度目は救われないな…」 と、65年の特融を思い出しもしました。 朝刊の記事は、午前3時過ぎにはインターネットで配信されていま す。報道に気付いた日銀や大蔵省は大騒ぎになります。欧米市場で は、この時間に金曜日の後場が開いているからです。欧米で山一の 海外資産を差し押さえる動きが出るのを、畏れたからでした。幸い 海外市場は未消化に終り、全ては、24日(月)に持ち越されまし た。 山一証券の自主廃業のニュースは、メーンバンク制に立つ、日本の 金融システムを知る海外の関係者には、当然ながら大証券の危機を 救えない大銀行の経営難と結びつけて考えられます。日銀と大蔵省 は、海外で邦銀に対する取り付け騒ぎが発生し、邦銀の資金ショー トが起きることを心配していたのです。日銀の対応よろしきを得 て、邦銀の海外支店は資金ショートを起こさずに済んだのでした。 野澤山一証券社長の記者会見が開かれたのは、24日午前のことでし た。ビデオで繰り返し報道された野澤社長の「社員は悪くありませ ん…」の発言も、この会見で飛び出したものでした。預かり資産24 兆円、連結負債総額6兆7千億円の大証券は、こうして市場から退場 したのです。 続く ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Tuesday, November 20, 2007 9:52 AM Subject: 20日の日記
2007.11.20
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バブルを考える(51)日銀も悩みました。証券会社と金融システムの関係については、山一が欧州の支店で、銀行業務も営んでおり、事は外国のことであっても、日本の信用に関わる処理は選択できないという理屈で、クリアできました。しかし、山一の不良債権が法令違反の損失補填に基づく飛ばしと簿外債務である以上、特融は出せないという主張は最もでした。さらに、大蔵省の査定で資産超過と言っていても、株式市場や不動産市場が、さらに下げるとしたら、超過資産は吹っ飛び、債務超過に陥るリスクがありました。中央銀行としての日銀の資産が揺らぐようなことがあれば、日本の金融危機は、明らかに日本発の世界金融恐慌に発展します。万一,特融で損失が出た場合、政府はカヴァーしてくれるのか。現総裁の福井俊彦らが、口を極めて特融に反対しました。最後は松下康雄総裁の裁断で、「危機を前にして、実験はできない。日本発の金融恐慌は何としても防ぎたい。私の責任で特融は出します」との、決断が下りました。 21日の夜のことでした。福井らの心配の通り、資産超過だったはずの山一は、債務超過に陥って会社を整理することになり、日銀は特融のコゲツキ問題に直面することになるのです。最終的には、政府の責任として、政府が特融のコゲツキ分を肩代わりすることで、決着するのです 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, November 20, 2007 9:52 AMSubject: 20日の日記
2007.11.20
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第一次世界大戦(5) ドイツの誤算…2ドイツの誤算は、外にもありました。ロシア軍の動員のスピードが予想外に早かったことです。国土が広く、鉄道網の発達がなお不十分のロシアは、大軍の動員に手間取るだろうから、1ヶ月半~2ヶ月の短期戦で、フランスを撃破すれば、フランスとロシアに挟み撃ちにされ、2正面作戦を強いられる事もないし、イギリスの参戦を招く事もないと、ドイツは考えていたのです。ロシア軍の素早い動員は、ドイツ軍部を慌てさせました。プロイセンに侵入したロシア軍との緒戦となった、8月末のタンネンベルクの戦いには勝利しましたが、敵を追撃する力はドイツ・オーストリア軍にはなく、なお続くロシア軍の攻勢に対し、辛うじて踏み止まっている状態に陥ったのです。ドイツ軍にとって、幸いだったのは、軍需品が不足しがちなロシア軍と、英・仏軍の連絡がとれない状況にある事でした。フランス軍の頑強な抵抗、ドイツ側に引けをとらない砲弾の量も誤算でした。フランスは緒戦で計画的な後退を遂げながら、北フランスのマルヌ河畔に頑強な抵抗線を敷き、9月5日から始まったマルヌの会戦において、ドイツ軍の攻勢を跳ね返します。こうして、東部戦線においても、西部戦線においても戦争は膠着状態に入りました。予想もしなかった長期戦の様相が次第に強まっていったのです。ドイツの誤算はさらに続きます。三国同盟の一翼を担っていたイタリアが、ドイツ・オーストリア側の形勢不利を読んで、早くも8月1日の時点で、「三国同盟は、防禦を主たる目的とする同盟であるから、オーストリアのセルビア攻撃に組することはできない」と宣言して、三国同盟を離脱、局外中立を宣言したことでした。同盟の一郭が、戦いの開始時点で崩れていたのでした。しかし、誤算は、連合国の側にもありました。 続く
2007.11.20
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クロニクル エジプト、イスラエルを承認1977(昭和52)年11月20日前日、電撃的にイスラエルを訪問した、エジプトのサダト大統領は、この日、犬猿の仲だったイスラエルを、正式に国家として承認することを発表しました。エジプトは、アラブ世界の盟主として、4次にわたる中東戦争において、アラブ世界のまとめ役としてイスラエルに対峙してきた国でした。1967年の第3次中東戦争において、イスラエルの先制攻撃を許し、飛行場を破戒されて空軍機が使用不能に陥り、制空権を失って、シナイ半島の占領を許す大敗を喫しました。73年の第4次中東戦争では、OAPECの石油戦略に助けられ、初めてイスラエルと互角の戦いを進めて、イスラエル不敗神話を崩しましたが、なお被占領地の返還は果たせなかったのです。そこから、サダト大統領は、イスラエルの承認を通じて、同国との関係を改善、戦争に替る和平の実現によって、シナイ半島の返還を達成しようと考えたのです。
2007.11.20
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第一次世界大戦(4) ドイツの誤算ドイツの強い支持を確認したオーストリアは、セルビアに最後通牒を突きつけます。7月23日午後6時のことでした。内容は、反オーストリア的であるとオーストリア政府が指定した官吏の罷免など、主権国家が絶対に飲めない内容が列挙されていました。しかも回答期限は2日後の25日午後6時。これは、ドイツの支持の下に、ともかく戦争を始めようという態度でした。25日、セルビア政府の譲歩案を一蹴したオーストリアは、駐セルビア大使を召還して国交を断絶。遂に28日、正式にセルビアに宣戦を布告しました。オーストリアの態度が明確になった段階で、ロシアは総動員体制をとることに決し。29日から実行に移しました。ロシアの総動員令は、ドイツとの全面戦争を予定してのものであり、当然ドイツは反応します。30日、ドイツはロシアに対し、ロシアが総動員を解除しない限り、ドイツも全陸軍を動員すると通告し、8月1日、両国は戦争状態に入りました。独・露の開戦は、独・仏の開戦に繋がりました。露仏同盟によるフランスの参戦を予想したドイツは、機先を制すべく、ロシアとの開戦翌日の2日には、対仏国境を越えて、フランス領に侵入を開始しました。この行動は3日の宣戦布告の1日前のことでした。残されたのはイギリスでした。ドイツはイギリスの参戦を予想せず、参戦するにしても数ヶ月先と予想していました。しかし、イギリスはドイツの軍備拡大と膨張主義的傾向を危ぶみ、早い段階でドイツを叩いておくことの必要を感じていました。こう考えたイギリスは、戦線の拡大を見て、参戦を決意、国内世論を説得するために機会を窺い、ドイツがルクセンブルグを侵犯し、3日にはフランス攻撃のためにベルギーの中立を無視して、同国を占領したのを見ると、ベルギー救援を旗印として、4日にドイツに宣戦を布告したのでした。イギリスの早い段階での参戦はドイツの誤算でした。7月28日の開戦から8日目にして、戦争はヨーロッパ規模の大戦争にまで、拡大したのです。ドイツの誤算は他にもありました。 続く
2007.11.19
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バブルを考える(50)山一証券自主廃業山一の経営危機が市場の噂話から、市場の確信に変わったのは、97年5月のことでした。系列の大阪の地場証券、小川証券が自主廃業に追い込まれた時です。小規模な系列証券の経営危機すら救えないのか。それほど山一の経営体力は弱っているのか。飛ばしの噂は本当だった。相当規模の不良債権隠しがあるぞ。財務の実態は巧妙に隠されているに違いない。市場はこのように判断しました。市場に見放された企業に明日はありません。信用を築き上げるには、長い時間がかかりますが、それを失うのに時間はかかりません。一瞬の経営判断のミスで、信用が失われることは、良くあるのです。昨今の食品会社の信用失墜もその例です。苦しんだ山一は、メーンバンクの富士銀行に2600億円の含み損があることを報告して、支援を要請したり、手当たり次第に外資に提携を申し入れたり(クレディ・スイスやドイツのコメルツバンクなど)して、危機を打開しようとしました。しかし、外資は正確な資産査定を拒む山一を信用せず、提携話は山一の1人相撲に過ぎませんでした。富士銀行もまた、自身が巨額の不良債権を抱えており、山一を支援するだけの体力がありませんでした。こうした山一に、三洋証券倒産のショックは、容赦なく襲いかかりました。農林系金融機関が、山一への債権の貸し付け(貸し債)を通じての、信用の供与を拒むようになったのです。山一の資金繰りは一挙に厳しくなりました。山一は最後の拠り所とばかり、富士銀行に資金繰り支援を要請しますが、富士は株主責任を楯に、この申し出を拒絶せざるを得ませんでした。山一は、富士もまた経営体力を消耗していたことを見落としていたのです。万作尽きた山一は大蔵省証券局と日銀に、2600億円の不良資産の存在を告げます。拓銀の資金繰り破綻がはっきりした11月14日のことでした。しかも、債務の実態は、簿外の債務、法令違反の飛ばしによる損失でした。事実を認識した大蔵省は、1965年当時と同じように、日銀特融による山一救済が出来ないかと、日銀に働きかけます。しかし日銀から、「法令違反という大きな不正行為のあるところを、特融で救う事は出来ない」と拒否されます。それでは会社更正法の適用はどうか。これも違法行為に基づく経営危機では、裁判所が受けつけてくれないことは、過去の判例からして明らかでした。こうして資金繰り難で、身動きの出来なくなった山一は、自主廃業を選ぶしか道がなくなっていきました。しかし、なお問題がありました。自主廃業となれば、預かり資産の返還に、相当の資金が必要です。資金繰り難で追い詰められた山一に、その資金があるわけがありません。日銀の特融が何としてでも必要だったのです。しかし、日銀も悩んでいました。 続く
2007.11.19
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クロニクル 戦後初の赤字国債発行1965(昭和40)年11月19日この日、佐藤内閣は閣議を開き、戦後初となる赤字国債発行を含む、補正予算案を閣議決定しました。前年10月の東京オリンピックの開会に先立ち、オリンピック特需による、行き過ぎた景気過熱がピークアウトし、経済成長率の鈍化からオリンピック不況の到来がささやかれたところへ、山一証券の危機が発覚して証券不況の名が付けられました。山一は、日銀特融の実施によって、救済されたのですが、ここに、景気刺激のための補正予算の編成が求められたのです。補正の実施には、歳出に伴う歳入の確保が必要ですが、不況で歳入を増やす道は、国債の発行によるしかなかったのです。こうして戦後ハツの赤字国債が発行されたのです。長い時間の経過によって、国債や地方債の発行が膨らみ、積みあがった借金は900兆円に及ぶというのですから、この間の財政規律の緩みは、凄いものですね。
2007.11.19
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第一次世界大戦(3) 社会主義者の態度迫り来る戦争の危機に対して、各国の社会主義者や反戦運動家はどうしていたのか。帝国主義列強の平和運動を一瞥しておくことにします。帝国主義の成立による世界各地における植民地化の進展は、一方では帝国主義諸国による、植民地獲得競争を激化させます。そしてもう一方で、各国の政治指導者は、資本主義の発達による労働者階級の成長と労働運動の活発化に対処し、その急進化を食い止める必要を感じるようになります。ここに、各国において、植民地利得の一部を財源として、労働者の社会改革要求に応え、植民地政策に対する労働者階級の支持を得ようとする方針が採られるようになります。こうして社会政策の推進と植民地の獲得がセットとして考えられるようになって行きます。各国の社会主義者は、自国の植民地獲得のための行動を、積極的に支持するようになって行きます。勿論、他国の植民地戦争は非難しながら、自国の植民地戦争は社会政策を推進するものとして、肯定的に捉えます。ここでは植民地民衆の生活権は考慮されず、むしろ国内の帝国主義社の主張を鵜呑みにして、自国の「平和的な植民地政策」は、世界平和と植民地の進歩を促すものと、大真面目に考えるありさまでした。帝国主義国の被抑圧階級である自分達労働者と、植民地民衆との連帯という発想は、見事なまでに抜け落ちていました。それゆえ、二つのバルカン戦争後、戦争の危機が深まりつつある中でも、各国の社会主義者の態度は、国際戦争という総論には反対で一致しても、自国の戦争への参加という各論に対しては、強く支持するという矛盾した態度を、平気で採る事が出来たのです。例をあげると、バルカン戦争が世界戦争の危機を告げた1912年、第2インターナショナル(労働者及び労働運動の国際組織)はスイスのバーゼルで反戦特別大会を開き、各国の社会主義者に対し、反戦の行動を採るように強く訴えました。当時ヨーロッパで最大規模のマルクス主義政党となっていた、ドイツ社会民主党は、既にベルリンで大規模な反戦集会とデモを組織、実行しており、各国の社会党は、大戦開始までは平和を訴え続けたのでした。しかし、開戦は状況を劇的に替えました。ドイツ社会民主党は、「生存と文化と自由のための国民戦争」と規定して、戦争遂行への協力を宣言、戦時公債の発行を容認したのです。他の国々の社会主義者も、祖国防衛を唱える拝外主義の陥穽に落ちていたのです。イギリスとフランスの社会主義者は、ドイツの勝利はヨーロッパの自由と民主主義の崩壊に繋がると、考えていました。こうして、社会主義者の多くは、国家主義的な考えに深く染まっており、帝国主義の侵略戦争に対する論理を築き得なかったのです。彼等は、帝国主義に対する、確固たる認識を欠いていたのです。そのため、社会主義の国際連帯は、ここにあっけなく崩れ去ったのです。こうして、本来なら団結するべき、各国の労働者や農民達が、共に殺し合う戦争が始まったのです。それは、とても残念なことでした。 続く 続く
2007.11.18
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バブルを考える(49)簿外債務の累積証券会社の簿外債務や、その前提となった利回り保証について、当然大蔵省は知っていました。大蔵省の証券会社に対する金融検査の時に、利回り保証を証拠立てる担当者のメモ書きが見つかることもあったようです。「例えば、○○○の運用をすれば、○%程度の利回りは。確保されるものと予想できます」。判で捺したように、似たような表現のメモが見つかっています。このメモに社判を捺せば、立派に利回りを保証した覚え書きに転じます。この覚え書きの延長に、本質補填がありました。大蔵省は、株価が上昇基調の今は良いが、いずれ下落局面になると厄介だからと、証券各社に早期の処理を促していました。しかし、大手4社体制から、脱落しかかった山一は別でした。山一は、売上げで、野村、大和、日興3社に大きく遅れをとることを畏れ、いかなる無理をしてでも、注文を取れと、社員にハッパをかけつづけていたのです。その無理が、他者が辞めた後でもなお、にぎりと呼ばれた利回り保証、それも損失補填付きの保証を濫発することで、大口注文を繋ぎとめていたのです。当然株価が下落局面に入ると、阪和興業の例のように巨額の損失補填が必要になります。時価が簿価よりも、大きく値下がりしている銘柄を、簿価で引き取るしかないようなことも、頻繁に起きます。損失補填は法令で禁止されましたから、この契約は表に出せません。そこで、山一は、決算期の異なる得意先企業に、買戻しを約束して簿価で引きとって貰う形にし、その場を凌ぐのです。これが飛ばしの手口でした。やがて、その好意的企業の決算期には、さらに別の企業に飛ばして難を避けるのです。評価損を抱えた株式は、こうして決算期の異なる企業間で回し続けて、飛ばしを続けてきたのです。しかし、バブル崩壊後の株価の下落は螺旋的に続き、簿価を回復することはなく、遂に山一の飛ばしも限界に達し、もはや続けることは不可能になったのです。こうして簿外債務は、山一証券のペーパーカンパニー数社が引きうけ、闇の底にじっと隠し続けることになったのです。その山一が、膨れ上がった簿外債務の大きさを支えきれず、市場からの大波に飲み込まれる時が来たのです。拓銀破産の1週間後のことでした。山一もまた、市場から退場宣告を受けたのです。 続く
2007.11.18
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クロニクル フォード米大統領来日 1974(昭和49)年11月18日 この日、フォード米大統領が、現職大統領としては、初めて来日、 日本の土を踏みました。 米国大統領としては、1960年に改訂安保条約の調印を記念して、初 来日を果たす予定が練り上げられていたのですが、日本国内の安保 改訂反対闘争の盛りあがりの中で、大統領訪日の露払い役として来 日した新聞係秘書のハガチー氏が、羽田空港で立往生して、ホウホ ウの態で引き返したいきさつから、訪日は中止されました。 こうして74年のフォード大統領の来日が、現職のアメリカ大統領と しては、初めての来日になったのです。 フォード大統領は、翌日の19日に昭和天皇とも会見してします。 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Saturday, November 17, 2007 9:52 AM Subject: 17日の日記
2007.11.17
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第一次世界大戦(2) ドイツの事情ドイツは何故積極的だったのか。それには二つの事情がしてきされます。先ず、第1に、1910年頃から、ドイツはその影響下に置いたはずの、バルカン半島やオスマン帝国領内においても、英仏資本の攻勢を受けて劣勢に陥り、欧州戦争という軍事的冒険に訴えることによってしか、局面が打開できないのではないかと、考えるところまで、追い詰められていたことです。そしてこうして追い詰められたドイツにとって、幸運だったのは、フランスとロシアに対する軍備拡張競争で先行しているという、自身が持てたことでした。当時1900年前後に完成した帝国主義時代において、資本主義列強と呼ばれた諸国(イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ドイツ、ロシアなど)の間では、植民地獲得競争の展開に欠かせない、軍備拡大競争が熾烈に行なわれており、各国は軍備拡大5ヵ年計画や3ヵ年計画を競い合っておりました。この軍拡競争において特徴的なことは、軍の装備はその完了を持って効果を発揮するという点です。そして、軍拡が大型化するに連れ、計画も大型化し、そのため新たな計画は1年で完了しないことは勿論、3年でも不可能となり、基本的に5ヵ年計画になったことでした。これは、計画中の1年目や、3年目といった計画途上の段階では、部分的な装備の配備しか出来ず、期待する効果は半分はおろか、事実上ゼロに近いということを意味します。装備は全てが揃ってこそ効果を発揮するということです。その点で、フランスやロシアより、当時は工業力で先行していたドイツは、有利な立場にありました。スパイ合戦も激しかった当時、各国の軍拡計画は事実上筒抜けであり、5ヵ年計画の完了時の軍事力には、さほどの開きがないことも、お互いの了解事項でした。実をいうとここにドイツの強気の理由がありました。ドイツは表面上の5ケ年計画のスピードをはやめ、1914年夏の時点で完了していたのです。同じ計画をフランスが完了するのは、15年の春、ロシアのそれは16年春の予定でした。ということは、1914年7月という時点をとれば、断然ドイツが有利な立場にあるのですが、この有利性には時間の制約があり、1年後には半減し、2年後には消滅してしまうのです。ですから、14年夏という時点は、ドイツにとって撒き返しの絶好のチャンスだったのです。ドイツはこうも考えていました。国土の広いロシアは軍の動員・結集に時間がかかる。おそらく開戦3ヶ月はロシアとの決戦を想定しなくて済むであろう。その3ヶ月の間に、短期戦でフランスを叩けば、フランスとロシアという2方面の作戦を強いられることはないであろうと。短期決戦しか考えないドイツは、このように考えていました。ここには長期戦の備えが全くなかったこと、そしてイギリスの参戦が全く考えられていなかったことという、二つの点が特徴的でした。そしてこの点が、ドイツの大きな誤算だったのです。 続く
2007.11.17
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クロニクル 公明党結党大会開催1964(昭和39)年11月17日この日、公明党の結党大会が開かれ、原島宏治委員長、北条浩書記長を選任しました。公明党は創価学会を母体として結成された、日本ではじめての宗教政党でした。この日の結党大会以前に、既に1959年の参議院議員選挙に6名の候補者を立候補させ、全員の当選を果たして、宗教政党の威力を見せつけ。3年後の1962年の参院選では、公明政治連盟という団体を結成、9名の立候補者全員を当選させて、議員数は計15名を和枝、当時の自民・社会両党に続く、参院での第3の勢力に躍進していました。余勢をかって、衆議院への進出を目指し、この日の政党結成となったのでした。秀議院への初進出は、黒い霧解散後の1967年1月の総選挙になりましたが、いきなり25名を当選させて、自民、社会、民社の3党に続く、第4党の地位を掴んだのでした。
2007.11.17
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バブルを考える(48) 泥沼の損失補填山一の損失補填は、いくつもあったようです。その中の代表例の1つが阪和興業に対するものでした。株式相場のバブルがはじけ、損失補填問題が明るみに出たのは、91年のことでした。山一もご多聞に漏れなかったのですが、損失補填を禁じた改正証券取引法が施行された後も、山一の場合は補填を繰り返していたことが、違っていました。今明らかになっている事実を記すと、92年3月の間もなく彼岸を迎え様とする日に、山一の行平次雄社長ら4名が、阪和興業を訪ね、社長室で北茂阪和興業社長ら5名とテーブルにつきました。阪和興業が山一に預託した1600億円の資金に、600億円もの評価損が発生していたのです。焦点は、この阪和側の預託資金に,山一が「にぎり」行為を行ない、一定の利益を約束していたか否かにありました。山一側は否定しましたが、阪和側には、「資金は貸し付け金であり、評価損の発生には阪和興業の責任は一切ない」という、91年5月31日付けの両者の合意文書が残されていました。事業法人が証券会社に金を貸し付けることなど、ありえません。これはまさに禁じられている一任勘定に基づく、利回り保証の約束、即ちにぎりの実際の姿でした。山一の誰がこの合意文書に署名したのか、明らかににされませんでしたが、社印を捺した合意文書であることから。経営トップが承知していたことは間違いのないところです。こうして山一は1600億円の預かり金に対して、元利合計で1652億円(利回り3,3%)の支払いを余儀なくされたのです。違法行為(一任勘定も利回り保証も、当時は禁じられていました。その後一任勘定は解禁)の尻拭いに,再び違法行為を犯す愚が、そこにはありました。社長の行平が、我が身の不明を詫び、事実を明らかにして退任していれば、山一は世間の指弾を浴びたかも知れませんが、法令を順守したことになり、司法や検察の保護を受けて、損失補填が昂じて破産する愚は避けられたはずです。しかし、山一の行平は自己保身に走り、会社の危機には目をつぶってしまったのです。そして同行した経営陣の誰一人として、行平の会社を私物視する行動を、いさめようとはしなかったのです。 続く
2007.11.16
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第一次世界大戦(1)開戦まで…16/28のクロニクルでサラエボ事件を、7/28のクロニクルでは、第一次世界大戦の開始を取り上げました。その時は、フランス革命を継続していましたので、11月9日のクロニクルに大戦の終了を取り上げ、そこからは第一次世界大戦をしばらく続けてみようかと思っていました。1週間ずれてしまいましたが、今日から始めたいと思います。オーストリアの皇位継承者夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、セルビアの過激民族主義結社に属する青年に暗殺されたことは、オーストリア政府にとっても、セルビア政府にとっても誤算でした。1912年の第一次バルカン戦争で,オスマン帝国から独立したばかりのバルカンの小国、セルビアにとって、オーストリア及びその後ろ盾のドイツと戦う備えはありません。ロシアの後ろ盾があっての国だからです。ロシアの全面支援の確証が得られない限り、強気になれないからです。同じことはオーストリアにも言えました。セルビアと開戦すれば、ロシアが黙っているはずはない。こうオーストリア政府は考えます。自力でロシアと戦う実力がないことも分かっています。それゆえ、オーストリアも。ドイツの全面支援の確証が得られない限り、うかつにセルビアと開戦できないというジレンマを抱えていたのです。開戦には、確かにそれなりの準備は必要です。しかし、サラエボ事件の当日、セルビアと接するボスニアで、オーストリアは大規模な軍事演習を行なっていたのです。攻撃準備は事実上出来ているに等しいのです。それなのに何故、開戦に1ヶ月も要したのか。この疑問の答えは、セルビアはロシアの支援を、オーストリアはドイツの支援を、共に必要とし、その確証を得るために、時間が必要だったからです。ここに帝国主義時代の現実がありました。オーストリア、セルビア両国は、夫々がドイツとロシアに軍事的に従属し、両国の顔色を窺いながら敵対していたのです。ロシアはセルビアに自制を促し、なるべく穏便に事を済ますよう勧めていました。しかし、ドイツが積極的にオーストリアを唆して,開戦に持ち込むこともあり得ると考え、三国協商を結んでいるフランスとイギリスに、開戦となった場合の支援を要請していました。そして開戦に備えて、独ソ国境への軍の移動を密かに進めていたのです。ドイツは、開戦に積極的でした。セルビアとの開戦はロシアとフランスの参戦を招くだろう。しかし、両国となら戦って勝てる。こう自信まんまんに考えていたからです。 続く
2007.11.16
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クロニクル 石油緊急対策要綱決定1973(昭和48)年11月16日この日、政府は、石油危機対策として、石油緊急対策要綱を閣議で決定しました。第4次中東戦争に端を発した、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油戦略によって、原油の生産が大きく削減されたため、各国は石油不足に陥り、工業生産面の影響は大きく、消費生活もまた脅かされていました。日本でも、石油製品や石油化学製品の不足が目立ち、洗剤やトイレットペーパーの買い溜め騒動も起き、一種のパニックに陥っていました。これは、政府としても何らかの指針を発表して、危機乗り切りに向けて、国民の協力を得る必要があったのです。こうして発表された緊急対策は、1、マイカーの自粛2、企業に石油及び電力消費の10%削減などが企業や国民に呼びかけられました。ここから、暖房は22度、冷房は28度に設定することや、都市部のネオンサインは、夜10時を持って、電源を落とすことなどが、危機脱却までとして、まとめられました。
2007.11.16
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バブルを考える(47) 山一倒産資金繰り破綻の連鎖は、山一証券をも飲み込みました。1965年の証券不況時に、当時の田中角栄蔵相の日銀特融で救われた山一証券が、32年後に正真正銘の倒産に追い込まれたのでした。山一証券は97年9月の中間決算で、赤字に転落していましたが、なおそれは山一証券の真の姿を晒すものではなく、巨額の粉飾を施してもなお、施しきれない氷山の一角のみを、開示したしたものに過ぎませんでした。山一の破綻の裏には、一握りの経営陣のみが知り得た、表の財務諸表には現れない,巨額の簿外債務の存在がありました。それは、バブル崩壊後、日本の金融機関やゼネコンなどを覆っていた、粉飾決算の代表的な例の1つでした。大手銀行が、ペーパーカンパニーを使って不良債権を飛ばしているのと、類似の構図がそこにあったのですが、山一の場合、簿外債務の原因は、顧客企業に対する損失補填にありました。損失補填は、どのように行なわれたか。山一が破綻したからこそ、補填の実態は、社員らによって赤裸々に語られ、様々な証言となって残されています。それは、会社が存続していたならば、決して明らかにされなかったであろう内容でした。自らの会社が破綻したことによって、初めて自由に物を語ることが出来る。これが、会社人間にとって、当然の自己規制だったことは、同じ時代の空気を吸った者には、想像に難くないことです。一種の時代精神とでもいえましょうか。山一証券の飛ばしの例として、明日は阪和興業のケースを、ざっと記してみたいと思います。 ザビ
2007.11.15
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フランス革命(最終回)フランス革命と世界4ヶ月にわたってフランス革命を記してまいりましたが、ようやく終了の運びとなりました。最後にフランス革命の世界史との関わりに触れることにします。フランス革命は,フランスの出来事ですが、封建制からの解放と自由・平等の原理の普遍性の故に、フランス1国を超えてヨーロッパ世界に、そして全世界に影響を及ぼしました。こうしたフランス革命の普遍性への恐れが、革命干渉戦争を招き、それがまたフランス民衆のエネルギーを解き放って、一段と革命の激化と思想の深化を生みました。そして、干渉戦争が怪物ナポレオンを生み出し、ナポレオン支配の進展が、自由・平等の思想をヨーロッパ各地に伝播したことは,間違いのないところです。そしてフランス革命は、カリブ海のフランス植民地ハイチで、黒人ジャコバン、トゥーサン・ルベルチュールをリーダーとする革命運動を生み出しています。独立と革命を目指すトゥーサンらの運動は、指導者のトゥーサンをなくしますが、苦難の末にナポレオンのフランスから,独立を達成します。カリブ地域で最初の,黒人の共和国ハイチが誕生したのです。同じ時期、イギリスでは、これまた人類史上最初の、資本主義生産に基づく工場制度の普及期を迎えていました。こうして19世紀は、資本主義的工場生産をどう普及させ、議会制民主主義をどう定着させるかが,各国の大きな課題になったのです。そこで、注意すべき事は、その課題はヨーロッパ諸国だけでなく、世界の国を巻き込んでの課題となったのです。それに成功したか否かは別ですが…もう1点注意すべき点は、工業化の進展と議会制民主主義の徹底は、必ずしもイコールで結ばれるものではなく、しばしば逆比例することさえあることです。政治の民主化という点では、大いに問題が残るドイツや日本が、工業化の面では、大いに躍進している事実が、この事を物語っています。 完
2007.11.15
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クロニクル シンザン三冠馬となる1964(昭和39)年11月15日64年のこの日は、日曜日でした。この日、京都競馬場で開かれた第25回菊花賞で、栗田勝騎手が騎乗したシンザンが、1着でゴールイン。皐月賞、ダービーに続いて、4歳馬のクラシックレース三冠を達成しました。追いすがるライバル達をかわして、2着と2馬身半の差をつけての圧勝でした。三冠達成は、セントライト以来、23年振り,史上2頭目という快挙でした。シンザンの強さは、さらに勝ち続け、翌年は天皇賞と有馬記念をも制し、生涯成績19戦15勝、2着4回と、3着以下に敗れ去ったことが1度もないという、脅威的な成績を残して引退しました。まさしく、幻の名馬だったのですね。
2007.11.15
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バブルを考える(46) 拓銀抵当証券と預金保険機構拓銀関連の最後に拓銀抵当証券のことを記しておきます。拓銀倒産当時は,現在と違いペイ・オフは実施されていませんから、拓銀が倒産しても預金は全額保護されました。預金者に被害は及ばなかったのです。しかし、拓銀の販売した抵当証券は別でした。抵当証券は、国債、社債などと同種の債権で、あらかじめ決められている金利が半年毎に受け取れ、満期に元金が返ってくる仕組みになっています。期間は1年~3年まで。金利は同じ期間の定期預金よりも高く設定され、魅力があり、拓銀も「定期より、こちらに…」などと、勧めていた経緯がありました。しかも、拓銀抵当証券の宣伝パンフには、「利息は確定,高利回り、安全,確実」とうたっていました。拓銀が潰れることはないという、拓銀という看板への信頼感に、そして「大手20行は絶対に潰さない」という大蔵大臣の発言も加わって、大事な退職金で抵当証券を購入した人も多かったのです。抵当証券の売買の仕組みは、抵当証券会社(この場合でいえば、拓銀の100%子会社)が、不動産関係の融資を行なって、担保権を設定した不動産に対し、法務局に抵当証券の交付を申請します。許可がおりると、それを50万円とか100万円単位に小口化し、購入者に販売するのです。不動産融資というローン債権を、抵当証券に証券化し、広く購入者に分散して販売し、資金を回収し、次ぎの融資先に回す仕組みです。今話題のサブプライムローンの証券化商品と、規模は大きく違いますが、原理は同じです。しかし、抵当証券の場合、発行会社が潰れなければ、融資先企業が潰れても、元利の支払いは保証されていますが、発行会社が倒産すれば、その限りにありません。拓銀の100%子会社の拓銀抵当証券は、当たり前ですが,拓銀倒産の翌日に倒産しました。証券ですから預金と違い、預金保険の対象にはなりません。支払いは担保権を設定してある担保物権を処分したお金を、購入者に分配するだけになります。当然担保価値は大きく目減りしていますから、返済金が元本を大きく割れる事は確実で、その上、担保の処分まで、長い間待たされることになります。購入者は極めて不利な立場に立たされました。こうした状況に、札幌弁護士会が立ちあがり、総勢3000人を超える原告団が組織され、親会社の拓銀に対して、抵当証券の買戻し代金の支配を求めて、提訴したのです。この訴訟には前例がありました。95年に倒産した木津信用組合と兵庫銀行の倒産の際に、木津信抵当証券と兵庫抵当証券が倒産、夫々大阪と神戸で、地裁が和解勧告を行ない,前者が85%、後者が90%の支払いで和解が成立していたのです。それでも満額の支払いではないのですが……。こうした前例を踏まえ、札幌地裁は買い戻し価格を90%とする和解案を示しました。前例を踏まえた妥当な案だったと思うのですが、拓銀側はこれを拒否したのです。拓銀に買い戻し資金はありません。資金の出しては預金保険機構です。当事者能力のない拓銀は、預金保険機構の意向通りに振舞うしかありません。拓銀破綻に対して,既に3兆円以上の公的資金が必要なことが分かっていたため、預金保険機構が首を縦に振らなかったのです。乱脈経営の銀行の尻拭いに、巨額の税金を使い込み、国の借金を膨らませることへの、世論の批判を恐れる気持もあったのでしょう。しかし、預金保険機構のこの対応は、場当たり主義で極めて拙劣なものでした。木津信と兵庫銀行の抵当証券では、総額が少なかったこともあってか、和解勧告に応じ、公的資金を投入していたからです。拓銀からの購入者に対しては,和解案に応じないというのでは、同じ立場の国民に対し、機構が差別していることになります。これは憲法14条が保証する、法の下の平等の大原則に違反することになります。この事を指摘されて、改めての交渉となり、結局木津信の85%を適用しての和解となったのでした。 続く
2007.11.14
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フランス革命(119) フランス革命と女性の権利フランス革命は、約10年の出来事でした。そのいきさつは、7月14日以来このブログに記してきましたが、革命の10年は、キラ星のように、数多くの人材を輩出させました。その生涯を展望したわけではありませんが、ミラボー、ラ・ファイエット、ブリソー、ダントン、ロベスピエール、マラ、エベール、バルナーヴ、そしてナポレオン、それにタレイランやフーシェらの変節漢にしても、革命が生んだ天才であることは間違いありません。こう見ると、ちょっと数えるだけでも10指にあまります。激動の10年は人材を必要とし、その必要が平時には埋もれたままとなる、人間の才能を引き出すということでしょうか。とすると、日本の政界の人材難は、まだまだ日本が追い詰められていないことを、示しているのでしょうね。さて、フランス革命が生み出した人材は、男性だけに限られておりません。女性もまたフランス革命に共鳴し、魂を揺すぶられ、フランス史上初めて、女性の権利を主張する女性達を生み出しました。その内の何人かを、ここでも紹介したのですが、彼女達は声高に、そして文章にして女性の権利を主張しました。この現実に男達は怯え、無視したり、弾圧を加えたりしました。そして、男社会の団結力で、物言う女達を封じ込めることに成功していきます。女性達の多くは、なお男社会に盾突かず、男達が許容する範囲で、自分たちの行動の幅を広げることに満足する道を選びました。困難な道を自ら選び、女性のために声を上げ、文章を書いた女性達を、自ら葬り去っていったのです。19世紀に入り、工業化が進展するようになると、ブルジョワ社会の男性の論理、「女は家庭を守り、立派に子を育て、外で夫が安心して働けるようにすることだ」とする、良妻賢母を称揚する考え方が、女性自身をも捉えていきます。19世紀のヨーロッパ社会を捉えた、この考え方は、日本社会にも移植され、1世を風靡したことは、ご存知の通りです。女性像の最後に取り上げたメアリー・ウルストンクラフトの著作は、夫のウィリアム・ゴドウィンの尽力で、抹殺されずに伝えられたのですが、オランプ・ド・グージュとその著『女性の権利宣言』は1980年代に入って、埋もれた山の中から、ようやく発掘され、再評価されたばかりなのです。フランス革命は、女性の解放は実現しませんでした。女性の権利獲得への道は、なお長く厳しい試練の道を、女性達に課していました。しかし、女性解放思想が、ここに誕生し、以後数多くの女性達によって、担われていったこともまた事実です。女性解放というパンドラの箱は、ここに開かれたことを記憶しておきたいものです。 続く
2007.11.14
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クロニクル 浜口首相狙撃さる1930(昭和5)年11月14日この日、朝、岡山で行なわれる陸軍の大演習を視察するするため、東京駅9時発の特急「ツバメ」に乗車するため、東京駅の4番ホームを歩いていた浜口雄幸首相が、右翼団体に所属する男に、拳銃で腹部を撃たれ重症を負いました。首相は秘書官らの手で、貴賓室に運ばれますが、偶然にも,新任の広田弘毅駐ソ大使を見送りにきていた、幣原喜重郎外相が見舞いにかけつけると、首相は「これぞ男子の本懐なり」と語りかけたと言われます。この話しを幣原外相から聞いたマスコミ各紙が取り上げ、「男子の本懐」は瞬く間に、大流行語になったのでした。今なら、流行語大賞間違いなしというところでしょうか。さて、浜口首相は奇跡的に一命を取りとめたのですが、この時の傷がもとで、翌年8月26日に62才で死去します。満州事変が始まる23日前のことでした。
2007.11.14
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