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フランス革命(56) 公安委員会の構成公安委員会は、93年春の危機に際して、3月に誕生した保安委員会と革命裁判所に続いて、4月に設けられました。保安委員会が治安問題を担当する警察機構を統括し、公安委員会は戦争指導を担当する、こんな役割でした。いずれも国民公会内部の委員会です。これに対し、革命裁判所は議会の外にあって、反革命容疑者を裁く裁判所でした。この3者が役割を分担しながら、やがて「恐怖政治」の担い手になって行きます。さて、春に誕生した公安委員会は、当初モンターニュ派と平原派中心に構成された委員会で、任期は1ヶ月交替という、あまり強い権限のない委員会でした。初期にはダントンの影響力が強く、国内対立を最小限に抑えながら、一致して外敵に当たることを方針としていました。ダントン自身、王妃の身柄と引き換えに、対外和平を図る方針を温めていたのですが、6月2日事件を契機に穏和方針は行き詰まり、7月の改選でダントンは委員を退きます。かわって、7月26日にロベスピエールが加わります。この時から委員の人数は12名で固定され、毎月の改選もなくなり、委員の交代は必要に応じて最小限の範囲で行なわれることになります。固定化することによって、議会内での公安委員会の権威は高まることになります。ところでダントンですが、彼は9月5日に再び委員に選出されたのですが、体調不良を理由に辞退してます。困難さを増す時期の委員会を気負い立った連中に任せ、その失敗を待って再登板する機会を狙っていたのでしょう。代わって9月6日に公安委員会に加わったのが、昨日記した通り、民衆運動に理解があるモンターニュ左派のコロー・デルボワとビョー・ヴァレンヌでした。これ以後、委員の変更は一切行なわれません。この時期の公安委員の構成を見ておきますと、ロベスピエール派がロベスピエール、サン・ジュスト、クートンの3名、モンターニュ左派がコローとビョーの2名、ダントンに近いと思われる人物が3名、軍代表格のカルノー、平原派代表で平原派とモンターニュの橋渡し役と見られていたバレールで10名。他の2名は、モンターニュであることは分かっていますが、誰のグループにも属さない、今流に言えば無派閥でした。無派閥という点では、カルノーとバレールも同じです。従って、公安委員会の権限が冬にかけて次第に強化されればされる程、委員会内部の意見の集約には、時間がかかることになり、内部対立が深刻になってゆくのです。ですが、それは後のことです。8月から10月にかけての公安委員会の課題は、内外の反革命勢力をどう抑え、国内民衆運動の圧力をどうかわすのか。この2点にかかっていました。次回は、公安委員会がどのようにこの難局に対処したかを記します。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, August 31, 2007 10:34 AMSubject: 31日の日記
2007.08.31
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クロニクル 北朝鮮ミサイル発射1998(平成10)年8月31日この日、北朝鮮は弾道ミサイル「テポドン」を発射しました。日本政府、とりわけ自衛隊の防空レーダー網は、このミサイルの航跡を捕らえることが出来ず、どこに着弾したかを特定できず、日本海のどこかに着弾したものと、海上を捜索していたのですが、韓国政府並びに米軍から、着弾は日本列島を飛び越えた三陸沖であることが発表され、遅れてその事実を追認したのです。北朝鮮は、人口衛星の打ち上げだと発表しましたが、北朝鮮に日本本土を攻撃する能力があることがわかったと、政府・自衛隊は大騒ぎし、ミサイル防衛網の整備を金科玉条とする、防衛予算の肥大化が進んでいくことに繋がりました。本来ミサイルは命中精度が問題であり、どこに着地するか分からない精度の悪いミサイルの脅威は、決して高くないのですが、国民にはその旨は知らされませんでした。最後に、ミサイルは何故日本方面に発射されたのか。これは日本敵視とは無関係で、地球の自転の方向と関係しています。ミサイルを少しでも遠くに飛ばすには、地球の自転方向と反対方向に飛ばすに限ります。北朝鮮政府と軍部は、まさに地球の自転の逆方向へ、つまり日本の方向へ、ミサイルを発射したというのが、真実でした。
2007.08.31
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フランス革命(55)マラーの死後、跡目争いを勝ち抜き、パリの民衆運動指導者として、急速に台頭したのは、『デュシェーヌ親爺』ことエベールでした。彼はジャック・ルーやヴァルレといったアンラジェ(過激派)との跡目争いに勝ち、民衆運動への影響力を増したのです。ところで、民衆運動を、とりわけ民衆運動のリーダーを考える場合、そこに2種類のリーダーが存在することに注意する必要があります。第1の類型は、より民衆に密着したリーダーです。48あるパリの各セクションで、セクション総会の議長とか、セクション革命委員会の委員として活動する積極分子です。彼等はそのセクションに住む活動分子で、地元住民に密着して、草の根の意見を代弁するのです。いうなれば、知られざる無名の活動家達です。彼等の名を知るのは、せいぜい近隣地区の住民までに留まります。もう一つの類型は、より上層に属するリーダーで、生活水準も高く(マラーも2人の小間使いを雇っていましたね)、新聞やパンフレットを発行して市民に訴えかける知識人タイプのリーダーです。彼等は特定の地域の住民との日常的つながりは乏しいのですが、第1類型の活動家達に影響を与え、民衆の意見を綜合的に代表するのです。マラーは医師出身の革命家でしたし、エベールもフランス東部アランソンの富裕なブルジョワの家庭に生まれ、数多くの女性遍歴を重ねながら知的放浪生活を送って、フランス革命に出会っています。6月2日事件後、パリの民衆運動はさらに活発になってゆくのですが、とりわけ7月13日のマラー暗殺は、益々民衆運動を活気付けました。日照りが続いて、水不足から水車が止まり、製粉作業が遅れて食糧不足が目立ったことが、それに拍車をかけました。国民公会は、こうした民衆運動の昂揚とその圧力に悩まされます。一方で、対仏大同盟や国内の反革命勢力との勢力との戦いでも、劣勢に立たされています。繰り返しになりますが、民衆の積極的協力なしに、反革命勢力との戦いに勝利することは、ありえません。その民衆の協力を得るには、民衆運動への譲歩は不可欠です。しかし、それはブルジョワ的自由主義の制限に繋がり、とりわけ所有権の不可侵と自由経済原則の堅持という2つの権利の全面的維持を危うくします。これを拒否すれば、民衆はソッポを向き、対反革命戦争での敗北の可能性が強まります。これは悪夢です。とりえる選択肢ではありません。しかしまた、ブルジョワ自由主義の原則を曲げることも肯ずる事ができないのです。ここにおいて、国民公会といえども立往生せざるをえなくなります。しかし、立ち止まっていることはできません。こうした危機の中から、4月に誕生した公安委員会の改組が行なわれ、7月26日にロベスピエールが委員に加わり、さらに9月6日には、モンターニュ左派に属し、民衆運動への理解者であるコロー・デルボワとビョー・ヴァレンヌの2人が加わります。こうして翌年7月まで続く、大公安委員会が成立を見たのです。いわゆる恐怖政治の時期に入るのは、もう少し後ですが、この恐怖政治という呼称は、公安委員会の独裁体制(後に説明しますが、それは決してロベスペール個人の独裁ではありません)の別称なのです。それでは公安委員会とはどのような機関だったのか。彼等は何を模索し、何を実行したのか。明日は、その辺から記述を進めることに致します。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, August 30, 2007 10:26 AMSubject: 30日の日記
2007.08.30
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クロニクル 三菱重工ビル爆破事件1974(昭和49)年8月30日この日、午後0時50分頃、東京丸の内の三菱重工ビル正面玄関前で、時限装置付きの爆弾が爆発、死者8名、重軽傷者380名という大惨事が起きました。昼休みの終りに近く、そろそろ勤務先に戻ろうかという男女でにぎわうオフィス街に、突然大音響が轟き、爆風がビルの谷間を吹きぬけました。10階建ての三菱重工ビルをはじめ、付近のビルの窓ガラスおよそ2500枚が、こなごなになって飛び散り、ガラスの破片で多くの通行人が巻き添えとなって負傷しました。三菱重工には、爆発の約10分前、0時40分頃に爆破予告電話があり、同社が防衛庁納入実績でNO,1の防衛産業であることが、爆破の狙いであることが伝えられていました。しかし、僅か10分では対応のしようのないことも、また事実でした。1ヶ月後、「東アジア反日武装戦線 狼」と名乗るグループから犯行声明が出され、その後も同じグループに属する「さそり」…といったグループによって、三井物産ビル、大成建設ビルなどで爆破事件が相次ぎ、都心部の会社員達は、しばらくの間、命がけの心境での通勤を強いられたのでした。
2007.08.30
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フランス革命(54) フランス革命期の女性像その5 シモーヌ・エヴラール(2)夕方といっても、日本とヨーロッパでは時間の感覚が数時間ずれています。7月のパリではまだ明るい時間の7時頃のことです。シモーヌがそうとは知らずに暗殺者をマラーの下に案内したのは、午後7時頃でした。いったん浴室兼書斎を出た彼女は、薬湯を持ってもう1度浴室に出かけ、病身の夫に薬湯を飲ませて退室します。その後の経緯は、昨日の「フランス革命(52)」に記した通りです。心臓に達する致命傷を受けたマラーは、咽にこみ上げてくる血にむせながら、「う、だれかきてくれー」と、最期の叫び声を上げます。シモーヌと2人の召使が浴室に急ぎ、そこに血まみれになって風呂桶に突っ伏しているマラーと、女たちの足音で我に返って逃げ腰のシャルロットを見つけます。しかし彼女達3人は、暗殺者のコルデーを見向きもせずに、瀕死のマラーを必死に介抱します。それは空しい努力でしたが、3人ともしないではいられなかったのです。シャルロットは玄関で取り押さえられ、騒ぎを聞きつけた人々によって、縛り上げられます。マラーは寝室に運ばれ、連れてこられた医師の手で、その死が確認されます。シモーヌは悲しみに耐えながら、やってきた警視に事情を説明しました。3日後の17日、マラー暗殺者の裁判で、シモーヌは最初の証言者として、革命裁判所の証言台に立ちます。不撓の意志の力で、彼女は被告席のシャルロットをひしと睨み据えながら、13日の朝からのいきさつを詳細に語りました。この証言記録のおかげで、我々はマラー暗殺の経緯を詳しく知ることが出来るのです。真実の迫力に勝るものは無く、判事も検事もそして傍聴者も、皆シモーヌの証言に深い感銘を受けたのです。革命の殉教者マラーは、パンテノンに奉られ、市民が弔問の列を作ります。国民公会も殉教者マラーを称えます。しかし、男社会は正式の婚姻をしていない、内縁の妻には厳しかったのです。シモーヌには、国民公会の弔慰金は支払われなかったのです。シモーヌはこうした仕打ちに堪えながら、マラーの仕事を後世に伝えることに全力を上げます。彼女は『人民の友』の全号を揃え、人民の友の著作集の発行に全力をあげたのです。著作集の発行には紆余曲折があるのですが、その話は別にして、今日我々が『人民の友』の全号を目にすることが出来るのは、立派な編集者だったシモーヌのおかげであることは、間違いのないところなのです。シモーヌは1824年に息をひきとるのですが、最期までジャコバンの理念を忠実に守り、1796年には、いずれ本論で記すことになるバブーフに出会い、バブーフの陰謀事件を身近で目撃するのですが、この件については、一切口をつぐんでいました。 (完) 続く ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, August 29, 2007 10:29 AMSubject: 29日の日記
2007.08.29
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フランス革命(53) フランス革命期の女性像その5 シモーヌ・エヴラール (1)シモーヌ・エヴラールはマラーの妻です。1789年46歳のマラーは、26歳のシモーヌと出会い、生活を共にするようになります。アルトワ伯の護衛隊付き軍医を職を、過激な言動で失って数年、革命に共鳴したマラーは、新聞を発行して自分の主張をパリ中に知らせたいと考えていた時期でした。シモーヌはそうしたマラーに共鳴し、励まします。僅かでしたが自分の蓄えの全てを、夫の新聞発行に提供します。その上新聞発行の雑用(印刷所との交渉から支払いまでの一切)から、紙面の割り付け、校正までを引き受ける事実上の発行人の役割をも勤めました。彼女のおかげで、マラーは記事の執筆に集中することが出来たのです。名高い『人民の友』は、マラーとシモーヌの二人三脚で作られていたのです。マラーにとってシモーヌは得難い妻であり、友であり、仲間でした。しかし、2人は事実婚の状態を続けました。当時の法律は事実婚の妻には著しく不利に作られていましたから、革命家としていつ命を落すかもしれない、しかもこの頃すでに病気がちであったマラーは、何度もシモーヌに正式の結婚を提案しているのですが、シモーヌはそれを断り続けます。自由に生きるべき革命家を縛りつけたくない、自分の存在を夫の足手まといにしたくないという一念からだったようです。そういう意味でシモーヌはまた夫の同志であり、革命家の妻だったのです。我々の手元に次ぎのようなエピソードが残されています。フランス革命は様々な起伏に富んでいるのですが、その過程でジャコバン左派に属したマラーは、何度も逮捕されたり、逮捕の危険を避けて、短期間イギリスへ逃亡(亡命)したりしているのですが、92年1月の亡命に際し、シモーヌに次ぎのような誓書を手渡しています。「私、ジャン・ポール・マラーは、シモーヌ・エヴラール嬢の気立ての良さに魅了され、同嬢も私の気持を受け入れてくれた。今私はのっぴきならないロンドン行きに当たって、私の実意の証しとして、帰国後ただちに同嬢と結婚すると言う、聖なる誓いの書を、同嬢に預けて行く。もしも同嬢にして、私のこの愛が私の実意の証しとして不十分だと思うのであれば、私はどんな辱めを受けても良い。私が誓いを破った場合も同様である。」と。彼女はこの誓いに満足し、マラーの死後31年目に当たる1824年に訪れる自分自身の死まで、肌身放さずこの誓書を持ち続けていました。しかし彼女は、この誓書で満足し、正式の結婚は断り続けたのです。92年9月の選挙で、パリで選出された議員の1人として国民公会の議員となったマラーは、前にもまして忙しくなります。そして多忙がマラーの健康をさらに悪化させます。モンターニュに席を占め、ジロンドとの党派闘争に心血を注ぎ、国王の死刑を見届け、さらに6月2日のジロンド派幹部の追放を実現して、マラーはモンターニュとしての自分の役割が一区切りついたことを自覚します。体調の悪化を自覚していたマラーは、この日以降一切の外出を控え、倉庫室を改良した浴室を書斎代わりに、やり残した言説を『人民の友』に託していくのです。 シモーヌは夫の死の近いことを自覚し、出来る限り夫の苦痛をやわらげ、気の向くままに、そして気の済むまで仕事を続けることができるように全力を傾けます。それだけが念頭にありましたから、シャルロット・コルデーの訪れも闖入者の登場と感じたのでした。しかし、手紙を託された彼女は、それが反革命の情報だと知るが故に、その手紙を夫に隠して始末する事は出来なかったのです。シャルロットの作戦は、この点では見事でした。こうしてシャルロットはマラーと彼の書斎を兼ねる浴室で面会し、浴槽内のマラーと向き合うことが出来たのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, August 29, 2007 10:29 AMSubject: 29日の日記
2007.08.29
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クロニクル 宝塚歌劇団ヴェルばらを初演1974(昭和49)年8月29日この日、兵庫県宝塚市の本拠地で、宝塚歌劇団月組が、池田理代子氏の長編人気漫画『ヴェルサイユのばら』を初演しました。夏休みも終了間近でしたが、特に女子中高生に人気の高い池田漫画の代表作のタカラズカ公演とあって、大入り満員が続き、それがさらに人気が人気を呼ぶ形となって、同歌劇団創設以来の大ヒットとなりました。『ヴェルサイユのばら』は、私が本ブログで連載中のフランス革命に題材を求め、男装の麗人オスカルと、彼女を助ける貴公子アンドレを中心とする恋と冒険の物語と要約すると、し過ぎでしょうか? ともかく大スペクタルとアバンチュールに満ちた物語で、確かに宝塚公演に向いた仕立てになっていました。こうしてヴェルばら公演は宝塚歌劇団のドル箱となり、何度となく繰り返し公演が行なわれながら、今日にいたっています。このブログを丁寧に読んでくださっているヤングミセスの小町さん、ハヅキさん、いくぞうさんたちも、ヴェルばら公演や池田さんの原作はご覧になったのでしょうか? いやそれは、もう少し年上の姉様たちですよとおっしゃるのでしょうか。聞いてみたい気がします。
2007.08.29
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フランス革命(52) フランス革命期の女性像その4 シャルロット・コルデー (3)夕方再び辻馬車に乗ったシャルロットは、コルドリエ街20番地のマラーのアパルトマンに向います。応対に出た小間使いは取り次ぐ意志を見せませんでしたが、夫人のシモーヌは今朝方の娘である事を認め、温浴中のマラーに知らせます。マラーは会う事にします。病状の悪化してしているマラーを、静かに休ませたいシモーヌは難色を示しますが、死期を悟ったマラーは、存命中に出来るだけ多くの革命の障害物を取り除いておきたいと考えていたのでしょう。自分がどれだけ疲れるかを、考慮しようとはしませんでした。シャルロットは首尾良くマラーに会えたのです。全身を疥癬に侵され、さらに偏頭痛に悩まされていたマラーにとって、苦痛をやわらげてくれる唯一の方法が温浴だったのです。そして6月以降、その温浴時間は次第に長くなり、遂には、浴槽に板を渡して、その上で何時間も書き物をするようになっていました。シャルロットが通されたのは、その浴室でした。彼女は、カンにおけるジロンド派の策謀についてマラーに語りはじめます。途中1度シモーヌ夫人が薬を持って入ってきます。薬の服用が終り、シモーヌが退出すると、マラーは先を急がせます。「カンへ逃げ込んだ議員は何人かね」「18人です」「18人の謀反人共の名は分かるかね」しばし、ためらった後、シャルロットはその名を口にします。このマラーの書き込みは、絶対に世に出ることがないと確信しているからです。「やつらはギロチン送りになるだろうよ」と、マラーが口にした時、シャルロットがさっと椅子から立ちあがり、隠し持ったナイフを取り出し、懸命に書き物をしているマラーの正面に回り、力いっぱい彼の胸にナイフを突き刺したのでした。「誰か来てくれ」の叫び声を発して、マラーは浴槽にくずれおちます。呆然と立ち尽くしていたシャルロットは、かけつけたシモーヌや小間使いを見ると我に帰り、リビングまで脱出しますが、そこで居合せた人達に捕まります。家の中からの悲鳴に、何毎かと群衆も駆けつけ、彼女は憎悪に燃えた人達にこずかれながら、がんじがらめに縛られます。血に飢えた殺人鬼を退治したのだから、民衆には感謝されるはずだと思い込んでいたシャルロットはあてが外れますが、それでも「愚かな民衆には、すぐには分からないのだ」という答えを見つけて、自分を納得させます。駆けつけた刑事に、彼女の身柄は渡されます。こうして彼女は牢獄に放りこまれますが、マラーの死に興奮した群衆のリンチで殺されずに済んだのは、当時の雰囲気の中では、奇跡に近いことでした。4日後の17日、シャルロットは革命裁判所の法廷に引き出されます。判事は、彼女にこの反抗を唆した人物の名を明かにするよう、執拗に彼女に問い掛けます。彼女は、自分1人で考えたことだと強調しますが、信じてもらえません。こうして、その夕、シャルロットはギロチンの露と消えたのです。(完) 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, August 28, 2007 10:26 AMSubject: 28日の日記
2007.08.28
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フランス革命(51) フランス革命期の女性像その4 シャルロット・コルデー (2)マラー暗殺をひそかに決意したシャルロットは、カンを根城にしていたジロンド派の幹部バルバルーに、議会に残るジロンド系議員の紹介を求めます。秘めた決意は明かさずに、「議会の議論を傍聴して、ジロンド派支持の決意を揺るぎないものにしたい…」といった穏当な理由をつけていました。バルバルーは気軽に紹介状を書いてくれます。パリに出る前日、シャルロットは冷戦状態のままだった父親に久し振りの手紙を書き、何故かイギリスに行くと告げています。7月11日木曜日、45時間の駅馬車の旅でパリに着いたシャルロットは、近くのホテルに落ちつきます。翌日彼女は、バルバルーに紹介してもらったジロンド派のデュベレを訪ね、国民公会の議場への入場証の交付を依頼します。バルバルーの紹介状の効果で、デュベレの信用を得たシャルロットは、国民公会の議場でマラーを殺そうという自分の計画が実現不可能であることを知ります。マラーは病気で、公会を休んでいることを、彼女はここで知ります。彼女は、コルドリエ街のマラーのアパルトマンを訪ねる決心をします。すぐには会わせて貰えないだろうと考えた彼女は、その時のために手紙を用意していきます。13日土曜日の朝,彼女は刃物屋によって、ナイフを買い、それから辻馬車(現在のタクシー)に乗ってマラーの家に向います。家の者に面会を断られた彼女は、手紙を託して夕刻にまた訪ねる旨を告げます。手紙には「私はカンから出てまいりました。かの地でたくらまれている陰謀についてお知りになることは、民衆を愛してやまないあなた様なら、もちろん有益なこととお考えになるでありましょう。またお尋ねします」と記されていました。シャルロットが必死に考えたマラーに会うための策でした。1度ホテルに戻った彼女は、決行後の死罪を予想して,何通かの遺言状を書いています。すっかり英雄気取りで、王党派やジロンド派の新聞が常に主張していたことを、大げさな美辞麗句で言い替えながら反復しています。そこには、自分の英雄的な行動が後世に高く評価されるだろうと、勝手に思い込んでいる様子が浮かびあがります。こうして運命の夕刻が近づきました。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, August 28, 2007 10:26 AMSubject: 28日の日記
2007.08.28
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クロニクル 日本テレビ本放送を開始1953(昭和28)年8月28日この日、日本テレビが民間放送の先陣をきって、民放初のテレビ本放送を開始しました。放送時間は1日6時間でしたがスタジオや現場からのナマ放送中心でしたから、スタッフの苦労も大変だったようです。コマーシャルもまた現在のようにあか抜けたものではなく、何となくたどたどしいものでした。土・日はナイターではなく、デーゲームで行なわれていましたので、後楽園球場で行われるプロ野球の巨人戦がドル箱でしたが、当時一般家庭には高額商品であるテレビを買えるわけもなく(この点は、人気の「三丁目の夕日」の第一作をご覧になると、当時の雰囲気がわかります)、実況中継中は、テレビのある床屋さんなどが、満員の盛況になるのが常でした。
2007.08.28
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フランス革命(50) フランス革命期の女性像その4 シャルロット・コルデー (1)シャルロット・コルデーはノルマンディーの州都カン在住の零落した貴族の娘でした。17世紀の劇作家コルネイユの直系の子孫にあたる名門の家系であることが、唯一の誇りでしたから、その暮らし振りは理解できます。事実父と不仲になった彼女は、家を出るのですが、同じように貧しくつつましい暮しをしながら、眼前の社会に常に不平を持っている伯母のアパルトマンに転がり込むしかなかったのです。貧乏であるが故に余計に貴族身分を鼻にかける、誇りだけ高い、高慢で鼻持ちならない女性をイメージすると、良いのでしょうか。そんな彼女が政治に関心を持ったのは、やはり革命でした。革命は貴族の特権を否定します。シャルロットの貴族の誇りは傷つけられるのですが、一方で敬愛してやまない先祖のコルネイユの著作を通じて、文学に親しんだ彼女は、新思想に共鳴する一面も持ち、次第に立憲君主制を肯定するようになります。ルイ16世を嫌い、その理由に国王の優柔不断さを挙げています。「意志薄弱な国王は、善い人間だとは言えません。国民を不幸から救えませんから…」とは、彼女の言葉です。零落の身に手を差し伸べられなかった我が身を指してのことでしょうか。そこを一般論で包んでいるようです。そうした彼女がジロンド派の立場に共鳴するのは、6月2日事件後、パリを脱出してノルマンディーに避難してきたジロンド派幹部議員との接触でした。バルバルーやペシヨンといったパリでも名の通ったジロンド派幹部がカンを逃亡の地としていたのです。彼等は地方に拠点を作り、パリに攻め上って再び政権の座に返り咲こうと、必死の工作にかかっていたのでした。対仏大同盟を中核とする反革命との戦いの最中に、反革命と真剣に戦っている政府を攻撃することが、革命にとってどんな意味を持つかを、考える事も出来ないほどに、彼等は追い込まれていたのです。地方貴族の娘で政治経験もないシャルロットは、誇張されたジロンド派の話を信じ、パリの民衆を良いように操るモンターニュを、とりわけ、その中でもジロンド派が憎悪してやまないマラーを憎み、マラーを殺す事がフランスのためであり、パリ民衆のためであると思い込んだのです。自分は特別の存在である。貧乏を嘲られるのが嫌で、修道院時代(貴族の娘は数年間修道院生活を送り、そこで多少の読み書き能力を身につけるのが、当時の慣習だったのです)も孤独の時間を過ごした彼女は、いつしかそう思い込むようになったのです。自分がマラーの暗殺者になれば、きっと自分は死刑になるけれども、マラーの恐怖から逃れることができた民衆によって、きっと自分は救世主のように崇められるに違いない。夢見がちで、誇大妄想の卦がある彼女がこう思い込んだとしても不思議はありません。こうして彼女はパリへ出る決心をしたのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, August 27, 2007 10:45 AMSubject: 27日の日記
2007.08.27
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フランス革命(49)マラーはイギリスでも医学の研究に従事したことのある医学博士でしたが、王弟アルトワ伯の護衛隊の軍医時代に、革命思想に目覚め、絶対王政を強く批判した文章を書いたために、職を失います。「私は、すでに出来あがった思想を持って、フランス革命に出会った」と彼自ら記しています。彼の名を高めた新聞『人民の友』は、89年9月に創刊され、彼の死をもって廃刊となりますが、民主派の最も代表的な新聞として、パリの民衆運動と活動家達に、一定の影響力を持っていました。特に国王の逃亡の数日前から、王の逃亡に警告を発していた事実が、『人民の友』の評判を高めました。そのマラーは、国民公会にパリから選出され、モンターニュに席を占めて、ダントンやロベスピエールと共に、ジャコバンの三頭と称されました。しかし、革命開始前に、過激に見える言動のせいで、何度も牢獄暮らしを強いられたことが彼の身体を蝕み、6月2日事件以後は病に臥せって、国民公会への出席もままならず、辛うじて自宅で、不定期刊の新聞の原稿を書くのがやっとの状態に陥っていました。おそらく、内縁の妻シモーヌ・エヴラールの献身的な看護がなければ、この日まで生き延びることはなかったろうとまで、指摘されているほど、その体調は悪化していたのです。シャルロット・コルデーに暗殺されることがなかったとしても、1~2ヶ月後には命の火を消していたと思われます。それでも暗殺は決行されました。モンターニュのある議員は書いています。「マラーは国民公会で、さしたる影響力を持っていなかった。民衆への影響力も限られたものだった。それゆえ彼の熱狂は無害だった。だが同時にその熱狂は、乗り越えることができない民主主義の一種の最大限を示していた。……マラーは、外国人に雇われたデマゴーグ達(セクションのより過激な活動家たちを、色メガネで外国人の手先と考えるのは、当時のモンターニュ派議員の多くに共通に見られる偏見です)の人気に対抗する防波堤だった」と。議会で孤立していたマラーは、『人民の友』を通して、読者に一定の影響力は持ちましたが、決して民衆運動の指導者ではありませんでした。マラーは、民衆運動が独自の目標を追求して、モンターニュやジャコバンクラブを離れて、独走するのを食い止める役割を辛うじて果たしていたのです。しかし、病躯をおして最後の踏ん張りを見せていたマラーの劇的な最期は、暗殺者コルデーの思惑を超えて、「人民の友」を神格化します。暗殺がマラー人気を劇的に高め、マラーは「革命の殉教者」に神格化されたのです。いつの世も、神格化は跡目争いを巻き起こします。モンターニュやジャコバンクラブには、民衆運動の指導能力はありません。マラーの跡目を争ったのは、いくつかのセクションを基盤にしたジャック・ルーやヴァルレといったアンラジェと、コミューンを地盤とする『デュシェーヌ親爺』の発行人エベールを中心とするグループであり、この2派は、ジャコバンクラブや議会と離れて独走する傾向を強め始めました。この点で『人民の友』というブレーキ役をうしなった事は、確かに痛手となったのです。この93年夏の危機と、その克服について次回とさせていただきます。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, August 27, 2007 10:45 AMSubject: 27日の日記
2007.08.27
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クロニクル 東海村に原子の火1957(昭和32)年8月27日この日午前5時23分、茨城県東海村の日本原子力研究所で、実験用1号原子炉が臨界に達し、日本で始めての原子の火が灯りました。実験炉は燃料に硫酸ウラニウム水溶液を使う湯沸型原子炉で熱出力は50kwでした。この日臨界に達した実験は、前日の午前9時から始められ、日米の技術者が見守る中で、午前11時20分に最初の燃料注入が行なわれたのでした。それから数度、最後の燃料注入は臨界に達する50数分前の、この日の午前4時30分でした。4時56分頃から、制御棒の抜き取りが始まり、最後の制御棒を抜きとっている最中に臨界に達したのでした。この実験の成功で、日本はインドに続いて、アジアで2番目の原子力発電装置の保有国になったのです。被爆国の日本がなぜという声もありましたが、その後の経済大国化への道を考えると、原子力発電なしに日本の電力需要を賄うことは考えられず、将来の電力需要を見通した上での、先験の明のある判断だったように思えます。なお熱出力50kwは、世界の実験用原子炉の中で最小のものでした。
2007.08.27
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フランス革命(48)さて危機はどのように深化したのかを見て行きたいと思います。29名のジロンド派の幹部議員と2名の閣僚は、自宅拘禁になったのですが、その多くはパリを脱出、地方の中核都市へ赴いて、パリと国民公会特にモンターニュ派に対する攻撃を組織し始めたのです。特にナント、ボルドー、リヨン、マルセイユ、トゥーロンといった南西部の大都市がジロンド派に握られたのです。その運動は王党派の反革命運動と同質ではないのですが、モンターニュの唱える革命政府への権力集中には異議を唱え、ジロンド派の主張する連邦制を支持して、地方の相対的自立というか自治権獲得を目指した運動でした。しかし、ことが対外戦争に影響が及ぶとなると、話は違ってきます。特にトゥーロンは、イギリス海軍の入港を認めてまで、革命派に抵抗するに至るのです。本質的には反革命ではないジロンド派までもが、反革命派と手を組むまでに至った衝撃は重大です。この時期に王党派が主導するようになったヴァンデーの「反乱」も、益々活発になってきます。国民公会も必死になって手を打ちます。先ずは、6月2日事件によってパリ民衆の独裁が成立したわけではないことを、フランス全土に知らせるために、91年憲法に替わる93年憲法を定めたことです。この憲法は普通選挙制を定めた民主的な憲法で、人民投票でも圧倒的な支持で承認されました。また、圧倒的多数を占める農村民衆の支持を得る目的で、前年8月に決まっていた国有化された亡命貴族財産の売却方式を、農村民衆の有利になるように変更したこと、共有地の分配や領主の封建地代徴収権の無償廃止の徹底などを励行して、土地改革の推進を図るなどの施策を実施してゆきます。こうした措置は長期的には大きく効いてくるのですが、当面の問題の解決には繋がりませんでした。内乱は避けられなかったのです。こうした革命の危機の中で、人々の悲壮感をさらに煽ったのが、7月13日に起こったマラーの暗殺でした。暗殺者は25歳のシャルロット・コルデー、ノルマンディの貧乏貴族の娘でした。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, August 26, 2007 10:19 AMSubject: 26日の日記
2007.08.26
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クロニクル シャウプ勧告出る1949(昭和24)年8月26日この日、来日中のシャウプ博士を中心とする使節団が、日本の税制改革に関する勧告文をまとめ、その概要をGHQに提出しました。勧告の全文は、9月15日に公表されましたが、日本語で10万字に及ぶ長文でした。それまでの日本の税制は地租を中心にしたものでしたが、これを所得把握を徹底した上で、個人及び法人の所得税を中心とした税制に改めること、不動産税(固定資産税として実現)や住民税といった地方に固有の税源を配備することの2点が勧告の中心でした。その後、1989年に大型間接税としての消費税が導入され、特に富裕層の所得税と法人(所得)税軽減されましたが、今日なおシャウプ勧告のかなりの部分は、日本の税制の根幹を占めています。その第1は、会社員の所得の源泉徴収制度の徹底です。税務当局が企業等から直接社員等への人件費の総額と支払い調書を受け取り、所得税の徴収を代行させる世界に冠たるシステムです。そして第2が、地方格差を埋めるための地方交付税交付金の制度です。都会に住もうが、地方に住もうが、同じ日本人として最低限の行政サーヴィスは平等に受けられるようにしよう。住む地域によって,受けられる行政サーヴィス質が大きく違うことがあってはならない。これがシャウプ勧告の精神でした。そしてこの点は、当時ようやく根付きはじめていた民主主義的な平等意識によって、多くの国民に受け入れられたのでした。当時も今も、米国の地方税の中心は市町村が徴収するレイト(不動産税、日本の固定資産税にあたる)です。地方交付税はありません。そのため行政サーヴィスの質は、住んでいる地域のレイト収入の差によって大きく違ってきます。義務教育経費もレイトによって賄われるのは、日本でも公立の小・中学校が市町村立であることを思い出すと、理解しやすいと思います。そのため、アメリカでは、きれいな街並みを維持し、お洒落な校舎で少人数学級制を採り入れるに十分な教員を配備した学校と、スラム化した街並みに、薄汚れた校舎での多人数学級の学校とが併存しています。シャウプらは、母国アメリカで実現できない,自分たちの理想を日本で実現しようと考えたのでした。この試みはあたりました。日本の教育における全国レヴェルでの一定の標準化は、ある程度実現したからです。しかし、小泉・安倍ラインによる構造改革路線の産む矛盾として、財政破綻した夕張市(箱物を大量に作った夕張市当局と市議会と監督する北海道庁に99%の責任がありますが)は、財政破綻都市として、市内の小・中学校を各1校に縮小する案を立てています。これは、国民にとっての最小限の行政サーヴィス、シビルミニマムの無視ですから、シャウプ勧告の生み出した日本型システムの長所を捨て去り、問題の多過ぎるアメリカ的システムへの安易過ぎる追随として、批判されてしかるべきであると、私は考えています。
2007.08.26
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フランス革命(47)6月2日の事件は、重大な困難を議会と革命政府に齎しました。対仏大同盟との戦いや、ヴァンデーの反乱などの「反革命」勢力との戦いには、民衆の協力を得ることが不可欠です。そのために、民衆の生活要求に対して一定の配慮をしなければならない。モンターニュ派の議員達はここまでは譲歩し、平原派を説得して、譲歩を拒否するジロンド派と対決してきました。しかし、モンターニュ派もまた議会人です。議会の権威を守ることには、事のほか敏感です。それ故に、6月2日の事件はショッキングだったのです。7月14日の事件は、存亡の危機を迎えていた国民議会を救いました。そして10月5日の事件も議会が対象ではありませんでした。この89年の2つの事件に比べると、92年の8月10日事件は、民衆運動が政治的経験を積み、独自の要求を持ち始めていたことを示しましたが、まだ議会内の一部議員やジャコバンクラブなどと連動して動いていた段階でした。民衆運動の動きをうまく利用しつつ、ブルジョワ急進派が自らの主張を実現していく(国王の逮捕や共和政への移行)段階でした。しかし、6月2日の事件は違っていました。民衆運動は議会やジャコバンクラブの統制を離れ、独自の運動目標を持ち、独自の活動でその目標を実現しようとする存在に成長したことを示したのです。パリのコミューン(都市当局)やコミューンの選出母体となるセクション(以前に記しましたが、当時のパリは48のセクションに分かれていました)を拠点とする活動家達は、毎夜のように集会を開き、要求がまとまると、議会に圧力をかけ、その要求を実現しようとしたのです。「強力な圧力をかけることが出来れば、議員達に言う事を認めさせることが出来る。」6月2日の経験から、民衆運動のリーダーたちは昂然とこう語りかけるようになっていたのです。民衆にとって、議会はブルジョワのものであり、自分達のものではなかったのです。民衆の世界とは、生活している界隈であり、せいぜいセクションの範囲だったのです。ですから民衆はセクションの自治を重んじ、セクションの決まりを議会に圧力をかけることで実現しようとしたのです。民衆運動が議会を否定せず、議会に圧力をかけることで、自己の主張を実現するという道を選択したことは、議会にとって幸いでした。それは国民公会が崩壊しないで済むことに繋がったからです。しかし、このことは国民公会が、6月2日以降に背負った困難もまた示しています。「反革命」戦争への民衆の協力を確保しつつ、独自の目標を追求するようになっている民衆運動を、いかに議会とブルジョワとのコントロールの下に置くかという、二律背反的な課題を、実現しなけらばならないからです。民衆の要求を拒否すれば、民衆運動の激しい抗議に晒され、その上「反革命」戦争への協力を得られないことになります。これでは勝利の展望は開けません。逆に民衆の要求を次々に認めてゆけば、「反革命」に勝利する展望は開けるかもしれませんが、ブルジョワのための政府が民衆のための政府に変質してしまい、何のための革命かわからなくなってしまいます。うまく民衆をコントロールしつつ、革命政府を守り抜き、革命の成果をフランス社会に定着させて、フランス革命を終らせる道はないのか。これが6月2日以降に、モンターニュ派が中心となった国民公会が背負った宿命でした。しかし、その国民公会にさらなる難題が振りかかってきます。フランス革命にとって、最も危機的な状況がやってきたのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, August 25, 2007 10:24 AMSubject: 25日の日記
2007.08.25
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クロニクル ソ連共産党解散19991(平成3)年8月25日この日、長期にわたって、一党独裁体制を誇ってきたソ連共産党が解散しました。8月19日にゴルバチョフ書記長を軟禁してクーデタを起こした保守派が、内紛から自滅し、エリツィンロシア共和国大統領支持派が力をつける中で、共産党は自ら解散する道を選んだのでした。この日の共産党の解散に続き、ソ連邦自身もこの年12月26日に消滅するに至ります。ソ連最高会議自身が、自らの決定としてソ連邦の消滅を宣言したのでした。5日後の31日、旧ソ連邦の多くは、独立国家共同体(CIS)に結集して活動をはじめました。
2007.08.25
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フランス革命(46)続き先ほど、所用で中断しましたので、本日分の続きです。さて、6月2日午後から、8万の民衆が議場を囲み、163門の大砲まで据え付けて、議会に圧力をかけます。議会では、ジロンド派幹部議員の自発的な活動停止が提案され、反対もありましたが、賛成多数で可決されます。議員達は、この決定を蜂起した民衆に伝える事で、民衆を軟化させることが出来るのではないかと期待します。決定を伝えることで、包囲を解いてもらおうというわけです。ここまで、こじれているのに、逮捕・拘束を要求している民衆が自発的な活動停止で収まるだろうと考えるところに、既に相当のズレがあります。数人の議員が制止したのですが、多勢に無勢です。議長のエロー・ド・セシェルを先頭に、議員達は外に出ます。この時もし、議員達が包囲を解くのに成功したり、脱出に成功するなら、蜂起は再び失敗に終ります。またもし、流血の惨事になるならば、議会の権威は完全に失墜します。この点を心配し、議場に留まった議員は、ロベスピエール、マラー、ダントン、サン・ジュストら15名のモンターニュ派の議員でした。緊張の時間が流れます。中庭に出た議長のエロー・ド・セシェルは、大砲の発射準備を終えた国民衛兵を従え、白馬にまたがる見知らぬ男を見ます。5月30日夜、蜂起委員会によって新しい国民衛兵司令官に任命された、元入市税関吏のアンリオです。2人の間にどんな会話が交わされたのか、記録は全くないのですが、分かっているのは、数分後、アンリオが「砲手よ位置につけ」と命令を下したことだけです。議員達は、脱出口を求めて議場の周囲を空しく一周し、意気消沈して議場に戻ります。この間約30分程度のことでした。モンターニュの1人、ルヴァスールはこう書いています。「一種の茫然たる空気が議場を支配していた。数人の同僚議員の支配に終止符を打つことを望んでいた我々モンターニュといえども、祖国を救いうる唯一の正規の機関に反抗した民衆蜂起を、苦痛の気持ちなしに見ることはできなかった。誰も発言しようとせず、何の議論も起こらなかった。……」沈黙を破ったのは、ロベスピエールに近いクートンでした。彼はジロンド派幹部議員の自宅拘禁を提案しました。8時半、ジロンド派幹部の29人の議員と、2人の大臣の自宅拘禁が採決なしに決まりました。国民公会は、こうして辛うじて自らの決定によって、議会からジロンド派幹部議員を排除しました。しかし、それは形式的な手続きに関してであって、実質的には議会が議会外の民衆運動の圧力に屈してのことであったことは、誰の眼にも明かでした。議会はまた新しい困難に直面したのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, August 24, 2007 10:26 AMSubject: 24日の日記
2007.08.24
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フランス革命(46)イスナールの暴言をきっかけとして、パリの各セクションは、ジロンド派を打倒すべく、蜂起の準備を始めます。きっかけは暴言でしたが、それは所有権の絶対不可侵と経済活動の全面的自由を主張して譲らないブルジョワ本流ともいうべきジロンド派と、生活権を守るために物価統制や所有の制限に踏み込む事を主張する民衆運動との対立が、93年春の危機の深まりの中で、沸騰点に達したのでした。セクションの代表は28日には蜂起委員会を立ち上げ、30日には各セクションの代表者会議が開かれ、翌31日に決行するという蜂起計画を立てました。ここでは、議会内のジロンド対モンターニュという対立の構図が、ジロンド対セクションの民衆に替わっています。モンターニュ派は皆国民公会の議員で、ロベスピエールを始め、皆議会の権威という点には敏感です。ロベスピエールも民衆運動に支えられ、民衆運動を基盤にしながらも、民衆運動に押しきられる形ではなく、議会自身の決定で、ジロンド派を一掃するという議会中心主義を守ろうとしていたのです。しかし、5月末にいたっても、国民公会は、自らの力でジロンド派幹部の一掃にまで踏み込む事が出来なかったのです。こうして議会のジロンド派と議会外の民衆運動とが、鋭く対峙することになったのです。しかし、議会のモンターニュ派は、民衆運動主導によるジロンド派幹部の排除に難色を示し、民衆運動の圧力に屈服することを潔しとしませんでした。このため、蜂起も迷走します。31日朝、打ち合わせ通りに警鐘の乱打が蜂起を知らせると、セクションの代表は市庁舎へ趣き、市議会をいったん否認して、改めて同一メンバーを任命します。人民主権による蜂起という手続きのためです。しかし、モンターニュの消極姿勢にジャコバンクラブの態度が定まらず、動員の成果は十分とはいえませんでした。国民公会は、昨日記した12人委員会の存否をめぐって応酬を続け、ようやく12人委員会の廃止を決議しただけで、ジロンド派幹部議員の逮捕は決めることなく解散してしまいます。この日の蜂起は失敗でした。蜂起委員会は、この夜から再度蜂起の準備にかかります。今度はより精密な準備が重ねられます。6月1日、パリ中が騒然としてました。この日も、さらに6月2日も、公会は何もきめられずにいました。早朝から議場周辺に集まり始めた民衆は,午後には8万人もの大集団になって、議場の周辺を埋め尽くします。議場の正面には163門の大砲が議会の正面入口に向けて据えられていました。議会と外部との接触は完全に遮断されたのです。ジロンド派議員に焦りの色が濃くなる中、平原派のバレールが公安委員会を代表して、ジロンド派幹部議員の自発的な活動停止を提案します。ジロンド派やマラーらモンターニュの強硬派が反対しますが、この案は賛成多数で可決されます。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, August 24, 2007 10:26 AMSubject: 24日の日記
2007.08.24
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クロニクル 参院全国区比例代表制に1982(昭和57)年8月24日この日、公職選挙法が改正公布され、参議院全国区に拘束名簿式比例代表制が導入されることが、正式に決まりました。なお、当選者の決定はドント式となることも、同時に決まりました。この選挙方式は、各政党や政治団体が、あらかじめ候補者の順位を示した名簿を提出しておき、選挙民は候補者名ではなく、政党名を投票し、各党は得票数に応じて議席の配分を受け、名簿順位の上位の候補者から、順に当選となる仕組みです。ドント式という方法は、得票数が最も多かった政党に先ず1議席を割り振り、次ぎにその政党の得票を2で割り、再度最も得票数の多い政党に1議席を与え、その政党の得票を2で割っていきます。この場合、既に1議席を獲得している政党の場合は、総得票数を今度は2ではなく、3で割ります。その次は4で割るという形になります。 具体的には10人が当選する選挙とした時に A党が300票、B党が250票、C党が160票、D党が90票を獲得したとします。先ずA党が1議席を得、次ぎのA党の票は150票となります。すると次ぎに最も多いのは、B党の250票ですから、B党が1議席を得、125票となります。従って次にはC党が1議席を得て80票となります。こうして、4人目の当選は150票のA党となり、票は今度は300を3で割りますから100となります。これを繰り返すのです。5人目は125票のB党、6人目は100票のA党、90票のD党、83票のB党、80票のC党、75票のA党までの10人がこうして決まります。A党4議席、B党3議席、C党2議席、D党1議席となりました。 この方式での初の参院選は翌83年6月26日に行なわれましたが、92年の参院選からは、非拘束名簿式に改められ、比例選ですが、候補者名を書くことも可能な方式に改められました。
2007.08.24
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昨日の続編です。具体的に何が起きているのかです。本日の日経夕刊の2面に、バンク・おぶ・アメリカ通称バンカメがアメリカの住宅ローン専門の金融機関最大手のカントリーワイド社の優先株20億ドルを取得して同社を支援、大株主になった事が伝えられています。このニュースをどう読むか。カントリーワイドは米国の住宅ローン市場の20%に達する総資産を持つ、最大手の金融機関です。従って同社がハイリスクのサブプライムローンに手を出すことはなく、優良な顧客だけが対象の一般向け住宅ローンを手掛けている会社です。そのカントリーワイド社までが経営危機に陥っている現実、それも極めて深刻な事態に陥っている現実が浮かびあがります。既にカントリーワイド社は、8月16日に社債市場での資金調達が困難になったために、米国内の40の銀行団に115億ドルにも上る運転資金の融資枠を設定してもらい、事業を継続するメドをつけたと発表しています。米国が公定歩合を0,5%引き下げたのは、その翌日のことでした。カントリーワイド社は住宅ローン関係では,最も優良な金融機関であり、優良顧客にも恵まれた企業です。その社が、「誰もわが社の社債を買ってくれないので、運転資金を貸してください」と頼んでも、すぐに応じてくれる銀行はなく、40もの銀行でリスクを分散する形で、辛うじて融資枠の設定を受け入れてもらえたのです。それも、どうも中央銀行が公定歩合を下げて協力するからと、援護射撃したことによって、ようやく実現したらしいのです。かなり深刻な事態であることが読み取れますね。しかも、その115億ドルもの融資枠は早々に遣い切ってしまい、遂にバンカメの傘下に入る道を選択するしかなくなったと、私は読みました。カントリーワイド社が倒産するような事態になれば、一般の住宅市場に影響が及び、信用度の高い中産階級もローンを組めなくなる事態となります。そうなれば当然、住宅不況が発生し、米国経済そのものが確実に不況に陥ることになります。この最悪シナリオが、一時的に避けられたとホッとしているのが、現在の状態です。しかし、現在の資金繰りにメドがついたとしても、もそれは一時的なことにすぎません。自前での資金調達が可能にならない限り、いつかは倒れることになりますから……現在は危機の1部分について、欧米の中央銀行の連携で、先送りに成功したところに過ぎないのです。リスク市場の調整も短期で済む目はなくなってきたなというのが、現在の私の読みです。 ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, August 23, 2007 10:38 AMSubject: 23日の日記
2007.08.23
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フランス革命(45)93年春の危機は、ジロンドとモンターニュの対立激化を齎します。この頃までのモンターニュ派は、民衆運動に一定の理解を示していましたが、その民衆運動が巻き起こす社会不安に対しては、厳しく批判する態度をとっていたのです。しかし、3月の危機は、さらに一歩、モンターニュ派を民衆の側に近づけました。「もし革命の達成のために、貧民の援助を得たいと思うのなら、彼等の生活を保障することが、絶対に必要です。」とモンターニュの1人は、平原派の知人への手紙に書いています。モンターニュ派は、民衆運動を基盤とすることで、この危機を乗りきる以外に方策がないと思い定めた様子が覗える手紙です。この革命路線は平原派の支持を受け、ジロンド派は孤立して行きます。3月から5月にかけ、モンターニュ派は民衆の要求を受け入れながら、一方で中央権力を強化することに腐心します。反革命容疑者を迅速に裁くための革命裁判所の設置、反革命容疑者を取り締まるために、市町村に設けられる監視(治安)委員会の設置、亡命者の財産没収を定めた法律、議会内で強力な権限を持ち、後には戦争指導の権限を1手に集中することになる公安委員会の設置、軍の指導と統制のための派遣議員制度の導入、そして穀物・小麦粉の最高価格制の導入などが、平原派の賛成で次々に議決されて行きます。これらの決定を見ると、民衆運動の要望を受け入れたものと、中央権力の強化を目指したものとが、混じり合っているのが分かります。秋以降に本格化する革命政府の原型は、この時期に整ったと見ることが出来ます。しかし、どこまで民衆運動に譲歩するのか、強化された中央政府権限をどのように運営するのかをめぐって、モンターニュ派の見解もまた割れていました。ロベスピエールはブルジョワにとって最も重要で、現在ですら金科玉条のように闊歩している所有権の神聖不可侵性を問題にし、これを制限しようと考えます。「所有権もまた、他のあらゆる権利と同様、他人の権利を尊重しなければならないという義務によって、制限を受ける」(ロベスピエール「人権宣言草案」)と。ここには、民衆運動を基盤にして革命を推進しようという、彼の思想がはっきりと明示されています。しかし、この考え方は、国民公会の議員の中では、極めて異色なものでした。こうしたロベスピエールに対して、ダントンはもっと幅広い共和派の挙国体制を模索していました。平原派とモンターニュ派とのパイプ役を務め、ジロンド派にまでウィングを伸ばして、危機における挙国一致を目指そうというのが、ダントンの戦略でした。これに対し、議会に議席は持たないけれども、ジャコバンクラブでは一定の勢力を持つ、より民衆に近く、時には民衆運動とロベスピエールやダントンとの橋渡しをしようとし、また時にはロベスピエールやダントンまで否定しようとさえする、ジャコバンクラブ左派ともいうべきグループがあります。アンララジェや後に出てくるエベールのグループがそれにあたります。このように、モンターニュ・ジャコバンの中にも、いくつかのグループがあったのですが、ジロンド派は挙国一致を目指すダントンの戦略を拒否し、リヨン・ナント・ボルドー・マルセイユといった南西部諸都市の支持を拠り所に、5月中旬に入ると、モンターニュ派と民衆運動に対して、決戦を挑みました。5月18日、ジロンド派のガデという議員が、パリのコミューン(市当局)を「無政府主義的である」と非難し、即時解散を要求したのです。これはさすがに乱暴だということになり、事情調査のための12人の委員会が設置されたのですが、その委員は全員ジロンド派で占められたのです。これでは結論は見えています。勢いに乗った委員会は、24日、コミューン副総代(現在なら市長に次ぐ助役)で「デュシェーヌ親爺(ペール・デュ・シェーヌ)という新聞で、民衆の間に一定の人気のあったエベールと、これまた民衆に人気の高いアンラジェのヴァルレを逮捕しました。問題はこの後です。翌日2人の即時釈放を要求したコミューン代表に対し、ジロンド派幹部のイスナールは強気にはやって、次ぎのような大暴言を吐いたのです。これはどこかの長崎出身の防衛大臣以上の大失言でした。「もし国民公会の威信が傷つけられるようなことがあれば、もしたえず繰り返される蜂起によって国民代表に攻撃が加えられるようなことがあれば、私は全フランスの名において、君達に宣言する。『パリは消されるだろう。やがてセーヌの岸辺に立って、はたしてパリというものが存在したのかどうかと探すようになるだろう』と」イスナールの暴言によって、平原派はすっかりジロンド派を見限ります。そしてダントンもまたジロンド派を含む挙国一致体制の構築を断念し、ジロンド派を見放します。そしてまた、パリの民衆運動は、このイスナールの暴言を自分たちへの宣戦布告と受けとめました。こうして、蜂起の準備が進行してゆきます。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, August 23, 2007 10:38 AMSubject: 23日の日記
2007.08.23
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クロニクル 日本、第一次世界大戦に参戦1914(大正3)8月23日この日、日本はドイツに対して宣戦を布告、遥か東洋からヨーロッパの戦争に参戦、ただちに作戦行動を開始しました。といってもヨローッパの戦場に加わるのではなく、アジアにおけるドイツ拠点をたたき、その地を日本の影響下に置くことが狙いでした。日本の参戦で、ヨーロッパの戦争の戦線はアジアにも拡大、世界戦争の様相を強めたのでした。第一次世界大戦の開戦に至る経過は、6月28日~7月28日マデノブログで何度か取り上げました。開戦僅か8日目には、イギリスも参戦し、ドイツ・オーストリア・トルコ対ロシア・フランス・イギリス・セルビアなどを夫々の陣営の中核とする大戦争に拡大していました。こうした中でイギリス政府は、日本に対しても、日英同盟を根拠にして、ドイツの武装商船の撃破に限定した参戦を要請してきました。8月7日のことでした。ヨーロッパ列強は、欧州の戦火の拡大で、アジアの植民地の防衛に多くを割くことが出来なくなっていたのです。日本側にとっては、アジア地域で影響力を拡大する絶好のチャンスの到来でした。そのため、日本にとって、イギリスの誘いは願ってもないチャンスだったのです。日本は、翌日元老と大臣の合同会議を開いて参戦を決定、9日には第2次大隈内閣の加藤高明外相名で、「ドイツ勢力を東アジアから一掃するため、日英同盟に基づき参戦する」旨を回答します。ところがイギリス政府は、日本のあまりに積極的な姿勢に、中国や南洋方面への勢力伸張の意図を感じとり、翌10日には日本への参戦依頼を取り消してきます。このあたりが外交交渉のかけひきなのでしょうね。加藤外相は、イギリスに再考を求め、イギリス政府も日本の参戦範囲(戦域)の限定を条件に、日本の参戦に同意します。この合意を梃子に、日本は15日に御前会議を開いて、ドイツに最後通牒を伝達します。日本及び中国近海からのドイツ艦艇の即時退去、膠州湾租借地の引渡しの2点について、23日正午までの受諾を求める内容でした。この一方的な要求をドイツが認めるはずはありませんから。これはまさに、戦線布告のための儀式だったということが出来ます。こうして23日午後、ただちに日本の作戦行動が開始されたのです。
2007.08.23
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現在の信用収縮を考えるサブプライムローンの焦げ付きに始まる、現在の信用収縮問題は、来るものが来つつあることを感じさせます。株式のみでなく、リスク商品の一切が、軒並みそれも世界規模で売られています。商品、為替、債権(国債を除く)が揃って下げています。これは何を意味するか。現在の国際資本市場の隆盛は、第2次石油危機後に発生した中南米や東南アジア等の債務危機に際して、90年代に債務の証券化の手法を確立したことによって、実現されたものでした。不動産のリートもその一つですが、購入物件を賃貸収入を配当に当てる条件で、債権として販売するものです。ローン債権もまた証券化されます。こうして現在は様々な形の証券化ビジネスが誕生し、様々な証券化投資が行なわれるようになりました。その矢先のサブプライムローン問題の顕在化でした。証券化ビジネスの隆盛の結果、銀行は貸し付け金を小口の債権にして売りだします。するとそこで、貸しつけ金は回収できた事になりますから、再度回収した資金を貸しつけることが可能になります。つまりローンの証券化は、信用創造能力を何倍、何10倍にも膨らましたのです。それが潤沢な資金を世界に回すエンジンの役割を果たして、好調な世界経済を支えてきました。今、その好調な循環が、音を立ててきしみ、逆回転を始めてしまったのです。証券化されたサブプライムローンを、ハイリターンに惹かれて購入していたファンドが、ローンの焦げ付きの急増情報に依る所有債権の基準価格の急落で損失を出したのが、今回のクレジット・クランチの始まりでした。低所得者向け住宅ローンの10%程度の焦げ付きなら、たいしたことにはならないというのが、当初の市場の判断でした。しかし、そう簡単には収まりませんでした。小口化し証券化した債権を、誰がどれだけ所有しているか分からないからです。この理解が進んだ段階で、投資家のリスク許容度は、当然ながら急激に縮小します。そのため、各種ヘッジファンドは、投資家の解約請求の急増に備えて、手持ちのポジションを大幅に減らさざるをえません。この連鎖が世界規模で起きたのが、リスク商品の連鎖安を招いた最近の状況です。欧米の中央銀行の動きが速いのは、この現実をいち早く認識したからにほかなりません。しかし、公定歩合を下げ、市場に資金を潤沢に提供しても、それはファンドや金融機関の突然死を避ける(拓銀や山一の再来を防ぐ)ことは出来ても、財務状況の悪化による倒産(長銀や日債銀の再来)を防ぐことには繋がりません。したがって現在の市場の状況は、最悪期を脱したのではなく、問題の先送りにとりあえず成功したということに過ぎないのです。米国中心に有り余っていた過剰資金は急激に縮小しつつあるのが現在の姿です。証券化ビジネスの魔力は消えました。新たな名案を市場が探し出すまで、混乱は避けられない。その意味でこれからの舵取りは難しい。今私はこんなことを考えています。
2007.08.22
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フランス革命(44)対仏大同盟を結成し、強化された外国勢力との戦いは、当然のことに、戦争の長期化を予想させます。当然の事に,近い将来における諸物資の不足を見込んだ投機的商人の暗躍が始まります。そこに財源不足に陥っている革命政府によるアシニャ紙幣の増発が追い討ちをかけます。パンなどの食糧価格に留まらず、砂糖や石鹸といった植民地物産も品不足から著しく値上りしてきます。こうした物価高が議会と民衆の間の溝を深めます。物価統制による貧困層の生活の安定を要求する民衆と、経済活動の自由に固執するブルジョワとの対立です。この頃、パリの民衆運動に対し、影響力を持っていたのは、セクションを中心に活動する、ジャック・ルーやヴァルレといったアンラジェ(過激派)と総称されたグループに属した活動家でした。彼等は民衆の望む物価統制の実現を、議会に激しく要求します。しかし、議会は動きません。2月の25日から26日にかけて、このアンラジェの指導下に、パリ中央市場附近で暴動がおき、値上りの激しい植民地物産の略奪が行なわれました。それでも議会は経済統制に動かず、モンターニュ派を含めて、暴動を非難することに終始しました。全面戦争への拡大、物資の不足と物価高は、直ちにフランス革命軍を直撃します。戦線の拡大は兵士の不足を招きます。こうして、2月以降、再び戦局は暗転します。デュムーリエ将軍はベルギー戦線で敗北して将来を悲観、あろうことか敵陣へ逃亡してしまいます。こうした混乱も加わって、フランス軍は再び国境の中に押し戻されてしまうのです。再び革命の危機が訪れたのです。そこに地方の反乱が加わります。ヴァンデー地方を中心とする経済的に恵まれない、後進的な農業地帯における農民反乱の発生です。ヴァンデーはロワール河の河口に位置するナントの北西に位置する(したがってブルターニュ地方の南側の付け根にあたります)丘陵地帯です。ゆるい起伏が続く中に、潅木が生い茂り、ブッシュに囲まれた中に小規模な農地が点在する貧しい農業地域で、農村工業の発達からも取り残された後進地帯でした。保有地を持たなかった農民も多く、それゆえ革命の恩恵もあまり受けておりません。国有財産の売却も都市部のブルジョワを利するだけでした。全面戦争の遂行には、兵力の増強が必要だと判断した議会は、2月末、全国で30万人の徴兵を決定し、各地に割り当てたのです。いわば世界で最初の徴兵制に踏みきったのですが、土着傾向の強いヴァンデーの農民は、故郷の防衛には骨身を惜しまないのですが、故郷を遠く離れた戦場に赴く事を嫌い、パリの議会の一方的決定に叛旗を翻したのでした。ですから、ヴァンデー反乱に最初から反革命のレッテルを貼ることは出来ません。一方的なパリのというか、パリが代表する都市ブルジョワの論理の押しつけに対する反発であり、イエズス会の強い地域で、地域の救貧活動を担ってきたカトリック司祭たちへの信頼から、宣誓拒否の司祭たちと共に、都市への反乱に立ち上がったのです。問題は4月以降、王党派の貴族たちが、この地域に入り込み、共和政をとる革命政府に対する反乱に組織したことです。素朴な農民農民反乱が、革命推進派と王党派の対立抗争に巻き込まれ、心ならずも反革命戦線の最前線に立たされた姿がそこにあります。しかし、革命政府にとっては、ことは深刻でした。こうした93年春の危機において、ジロンド派とモンターニュ派の対立は最終段階を迎えることになるのです。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, August 22, 2007 10:35 AMSubject: 22日の日記
2007.08.22
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クロニクル 学童疎開船対馬丸沈没1944(昭和19)年8月22日この日、近い将来に米軍の上陸攻撃が予想される沖縄からの疎開者を乗せ、九州へ向った疎開船対馬丸が、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈されました。対馬丸には、九州各地の集団学童疎開先へ向う、700人の沖縄の小学生が乗船しており、この700人に及ぶ学童達と、一般の疎開者800名を合わせ、それに乗組員を加えた全員が犠牲になりました。商船でも、物資輸送船でもない、疎開船を襲撃し、700名もの学童の命を奪った米軍の攻撃は、都市への焼夷弾攻撃による都市住民の虐殺や広島・長崎への原爆投下に勝るとも劣らない非道な攻撃であり、人道に対する卑劣な罪であり、明かに国際法に反する行為でした。
2007.08.22
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フランス革命(43)1週間振りに本論に戻ります。1793年1月21日に、国王ルイ16世の処刑が行なわれました。国王の処刑を推進したモンターニュ派にとって、まさに退路は断たれました。21歳の最年少議員で、ロベスピエール派に属したルバは、郷里の支持者達に書き送っています。「我々の背後の道は断たれた。好むか好まざるかに関わらず、前進しなければならない。今こそ我々は言うことが出来る。『自由か、しからずんば死か」と」確かに国王の処刑は、フランスに新たな危機を齎しました。その一つがイギリスの参戦です。その結果、イギリスを中心に反フランス革命の国際的同盟、対仏大同盟が結成され、フランスは反革命諸国に包囲される状態に陥ったのです。イギリスは、フランスより早く、17世紀中頃にピューリタン革命が行なわれ、1649年には国王チャールズ1世を処刑しています。しかも処刑されたチャールズ1世の夫人は、フランス王だった故ルイ13世の妹で、当時幼少のルイ14世の叔母に当たる人物でした。しかし当時のフランスは、王妃とその子どもたちの亡命を受け入れただけで、イギリスの革命に干渉することは、一切しなかったのです(アレクサンドル・デュマの『三銃士 20年後』は、チャールズ処刑をハイライトに使っていますが、勿論実話ではありません)。そういう国王処刑の先輩国がいったい何故、処刑を口実にフランス革命への干渉戦争に乗出したのか? これが問題になります。ここで、処刑に先立つ92年の年末にかけての反革命国際戦争の行方を見ましょう。ヴァルミーの戦いでの精神的勝利以後、戦局はすっかり逆転したのです。親国王の将軍達を一掃し、若手を大量に登用して、人心を一新したフランス軍は、革命に忠誠を誓う将軍たちの指揮の下で、全国各地からの義勇兵を加えて、士気いよいよ高く、秋が深まるに連れて全戦線で攻勢に出、11月6日のジェマップでの勝利で、オーストリア軍を敗走させたことで、ついにベルギー全土を占領下においたのです。ジロンド派内閣は、この状況でも戦争を継続する道を選びました。ここに戦争の性格は変化したのです。元来、戦争は革命を守るための防衛戦争でした。それがベルギーを占領下に置いたことで、占領地を如何に扱うかという問題を生み出しました。今まで「自由の十字軍」というフランス革命軍の旗印は、抽象的な意味合いしか持たなかったのですが、占領地住民の「自由」をどのように扱うのか?占領の経費は何によって賄うのか?といった現実的で、具体的な、早急に解決すべき問題が、突きつけられたのでした。国民公会は、「自由を回復しようとする全ての国民に、友愛と援助を与えることを宣言する」(11月19日の法令)と、革命精神の輸出を先ず定め、次ぎに、「占領地における封建制の廃止とアシニャ紙幣の流通」(12月15日の法令)を決定します。ここに「友愛と援助」の条件として、フランスと同じ革命政策を受け入れることが条件とされたのです。狙いは戦費の現地調達にありました。後のナポレオン支配下に大々的に実施された政策の原型は、この決定ににあったのです。ここに革命防衛戦争は、革命の輸出戦争へと変貌したのです。こうして革命戦争における占領地のフランスへの併合が、推進されるのです。これは、革命フランスの対外膨張政策と受け取られて仕方のないやり方でした。このフランスの膨張政策に危機感を募らせたのがイギリスでした。議会政治が定着したイギリスの首相ピットは、フランス革命に好意的中立の態度をとってきました。革命の混乱がライヴァルフランスの国力を減退させるだろうと、判断していたからです。しかし、その革命フランスが軍事力を整備してベルギーを占領し、支配下に置くのを目の当たりにして、態度を変えたのです。フランスの行動が、イギリスの経済的優位を脅かし始めたからです。ここにイギリスは、フランス革命に介入する口実を探し始めたのです。議会主義のイギリスでは、議員達とその支持者を納得させるに足る、戦争目的の提示が欠かせなかったからです。国王の処刑は絶好の口実になったのです。この時、国民公会とジロンド内閣には、対外戦争を終結させる選択肢が残されていました。対英戦争にまで踏み切るのは、確かに危険なことだったからです。ジロンド派の支持基盤のマルセイユやボルドーなどの海港都市の貿易商人達は対英戦争を欲していなかったことも事実です。それでもジロンド派もモンターニュ派も、対英戦争回避への努力をしようとはしなかったのです。92年春、夏の危機に際して奔流のように溢れ出した民衆の革命的情熱は、この時点でなおたぎり立っており、そこに水をかけることは不可能だったからです。こうして2月に入ると、イギリスとオランダが対仏戦線に加わり、さらに3月にはスペインとイタリア諸邦が加わることになったのです。ここに革命フランスはスイスを除く全ての周辺国に国境線を包囲されたのです。対仏大同盟に国境を包囲されての全面戦争は、こうして開始されたのです。この危機は、93年春のより全般的な危機をフランスに齎します。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, August 21, 2007 10:35 AMSubject: 21日の日記
2007.08.21
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クロニクル アキノ氏マニラ空港で暗殺1983(昭和58)年8月21日この日、日本時間午後、長期に及んだ米国滞在を切り上げ、帰国の途についた、ベニグノ・アキノ元上院議員は、陸軍と警察による厳重な警備の中、フィリピンのマニラ国際空港に到着、タラップを降りて、ターミナルビルへ向けて歩き出したところを、ヒットマンに銃撃され、即死しました。先日、1973年8月8日の金大中氏拉致事件を記しましたが、金氏も朴大統領との選挙戦で健闘、次回は逆転もと言われていた時期での、日本での拉致事件でした。その金氏同様アキノ氏も、長期政権を担う独裁的実力者、マルコス大統領との選挙戦で善戦健闘、次回は勝利もと期待された民主派の実力者でした。米国の受けも良く、それだけにマルコス大統領にとっては、眼の上のコブのような邪魔な存在でした。それだけにフィリピンに留まっていては、危険が多いと各方面から説得され、長期に米国に滞在していたのですが、フィリピンに帰って国民の中で、その声を聞き、政策課題に反映させるのが政治家であると、あえて火中の栗を拾うとばかりに、強引に帰国の途についたのでした。暗殺の情景は日本でもテレビで実況中継され、幸か不幸か、私はその瞬間を生放送で見ておりました。並み居る警官や軍人の間から発砲したのですから、これは軍首脳がマルコス大統領自身かその側近と綿密に打ち合わせて仕組んだ権力による暗殺であることは。明かでした。米国政府もそう受けとめたのか、マルコス政権に強い不快感を示したほどでした。それほどですから、フィリピン民衆のアキノ暗殺への怒りは深く、マルコス政権が実行犯を逮捕し(警察と軍人が多数警備に当たっていた中での犯行ですから、逃げられるはずがありません)、背後関係のない単独犯だったと発表しても誰も信じませんでした。8月31日にアキノ氏の葬儀が行なわれたのですが、何と100万人以上の民衆が参列する大葬儀となり、以後各地で反政府運動が地鳴りのように広がっていったのでした。この怒りは2年6ヶ月後の1986年2月に行なわれたフィリピン大統領選で、夫の弔い合戦だからと説得されて立候補したコラソン・アキノ夫人を支援する運動の起爆剤になり、選管の不正を暴くフィリピン革命へと繋がってゆくのです。
2007.08.20
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フランス革命(42) フランス革命の女性群像その3 『女性の権利宣言』とオランプ・ド・グージュ (3)グージュの政治思想は、国王や王妃のリーダーシップを期待するなど、王政側のリーダーシップに基づく立憲王政を理想の政治形態とするなど、微温的なものでした。しかし、ことが女性の権利に関することでは、当時最も急進的な男女平等の主張者だったのです。昨日記した『女性の権利宣言』の抜粋をご覧いただくだけでも、その一端は明らかかと思います。彼女は別の一文で,次ぎのようにも書いています。「女性は死刑台に上る権利を持つ、したがって、演壇に上る権利も持たなければならない。」……「母、娘、姉妹、国民の女性代表者達は、国民議会の構成員になることを要求する。」と。 これは明確な婦人参政権の要求でした。しかし、女性参政権の要求は無視されます。それにもまして、男性中心の立法議会や国民公会の議場で問題とされたことは、グージュが声を大にして、女性の離婚請求権や未婚の母と私生児の権利を要求した事でした。こうした要求とそれに対する支持が広がることは、男社会の論理を根底から揺るがすことになりかねないからです。秘書に口述筆記をさせながら、次々に壁新聞やポスター,パンフレットを量産するグージュの紙爆弾は、こうして男性社会を警戒させ、要注意人物となっていったのです。しかし、グージュの政治思想はそれほど目立ったものではないだけに、逮捕・拘禁といった具体的行動に踏み切るわけにはいきません。国王裁判をめぐって、ジロンド派とモンターニュ派の激しい票争いが続いていた、92年12月~93年1月にかけても、この状況は変わりませんでした。状況が動いたのは3月でした。国民公会は、国王処刑後に訪れた再度の革命の危機に際し、「フランス共和国は一つにして不可分」と、ジロンド派が主張した連邦主義ではなく、モンターニュ派の主張した「中央集権体制の強化」、権力のパリ集中へと舵を切ったのです。ルイ16世は処刑されましたが、王太子は生きていますし、革命に理解のあるオルレアン公を立てる選択肢も残っていました。ひそかに立憲君主制を考えているグループもあったのですが、政治状況を読んで、こうしたグループの多くは時節の到来を待ちながら息を殺していたのでした。フィーヤン派の系譜に連なる人々も、地方や国外に亡命していた時期です。こういう時期に平然と政治的パンフレットを出し続けることは極めて危険でした。とりわけ、まだ本論では取り上げていないのですが、ジロンド派の幹部議員達が国民公会から追放される93年の6月2日以降は、連邦制や君主制に言及することは、極めて危険なことでした。しかし、ペンで革命に参加することを願い、数名の友以外に、仲間を持たないグージュには、そうした事情を理解するすべはなかったのです。彼女は、危険を知らずに、「三つの投票箱」と題する壁新聞を書き上げ、印刷に付します。刷りあがった壁新聞を、人を雇って市内各所に貼ってもらうのです。当時はこういうパンフや新聞、ポスターなどが、沢山作られ、パリや地方諸都市のあちことにズラーと並んでいたのです。学生運動華やかなりし頃の大学や、文化大革命期の上海や北京を思い出してください。問題は、この作品の主張にありました。グージュはここで、ジロンド派幹部議員追放後の共和政府の正統性を問題とし、本質的にはジロンド派の主張だった連邦制を称賛しているが如き、表現を使っていたのです。その上題名にもなっている『三つの投票箱』とは、各県の県議会の議長席に、共和制、連邦制、君主制と書かれた三つの投票箱を置き、選挙権を持つ全国民が良いと考える政体に投票し、多数の国民が望む政体を選択することで、一致団結して反革命勢力と戦おうというものだったのです。国民投票で政体を決めようというのです。強力な政府の集権的で一元的な支配を実現することで、危機に対処しようとしているモンターニュ(ジャコバン)派にとって、これは認めがたい考えでした。第一に「フランス共和国は一つにして不可分」とする3月の宣言に反していました。こうして7月20日、彼女は逮捕されます。裁判は随分遅くまで延ばされたのですが、遂に11月3日の裁判で、ギロチンにかけられる事が決まり、即日処刑されたのでした。グージュの存在は長期にわたって忘れられていたのですが、その著作は革命期の膨大な史料の中から発掘され、1980年代になってから、次々に出版されたのです。現在は著作集も刊行されています。 この項完革命期の女性群像はまだまだ続きますが、明日から本論に戻り、本論のところどころに挟む形で続けていきたいと思います。 続く ----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, August 20, 2007 10:50 AMSubject: 20日の日記
2007.08.20
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クロニクル みずほFG誕生へ1999(平成11)年8月20日この日、富士銀行・第一勧業銀行、日本興業銀行の3行は、2002(平成14)年春をメドに経営を統合する旨決定したと発表しました。やがて、新社名はみずほフィナンシャルグループに決定します。当時、総資産140兆円の世界最大のメガバンクが誕生すると騒がれましたが、その後世界的な金融再編が起きたこと、日本の銀行の不良債権に対する引当て不足を、厳格に再査定させる方向へ、金融当局の姿勢が変化したことから、みずほFGの総資産世界一は、幻となったのでした。
2007.08.20
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フランス革命(41) フランス革命の女性群像その3 『女性の権利宣言』とオランプ・ド・グージュ (2)グージュの『女性の権利宣言』は、1791年にフランスで最初の憲法が制定された直後に発表された、『女性の諸権利』という小冊子に収められています。この冊子は先ず最初に「王妃へ」というマリー・アントワネットへの請願文がおかれ、次ぎが第2章で、男達への呼びかけという形式をとった前書きがあり、次いで「女性の権利宣言」,正式には「女性と女性市民の権利宣言」がおかれ、さらに後書きがきます。最後の第3章には、「男女の社会契約の形式」という文章がおかれ、夫婦契約についての彼女の意見が記されています。マリー・アントワネットに当てた「王妃へ」には、女性の権利を確立するという仕事は、「偶然によって高い地位についた」王妃に相応しい仕事であることを指摘し、それによって、王妃が王国の半分を占める全女性と、他の半分を占める男性の一部からの支持を得られるだろうと述べ、王妃に女性の権利のために助力するよう求めています。ここには、革命に対するグージュ自身の微温的立場が垣間見られます。第2章の前書きは、男性に対する呼びかけで、「誰があなた方に、女性を虐げる絶対的権力を与えたのですか」と、男性による女性支配に対して、批判的な疑問を呈しています。これに対して、同じ第2章の後書きでは、一転女性自身に対して、「女性よ目覚めよ。あなた達はいつになったら、盲目であることを止めるのか。革命の中であなた達が得たものは何なのか?」と、女性の自覚を促しつつ、女性自身の意識にも批判を加えています。ここでは、女性の公職への参加や女子教育の問題など、女性の地位向上のための方策への言及も見られます。最後の第3章では、夫婦契約のあり方、未婚女性と私生児の保護などについての考察と意見が記されています。さて、「女性の権利宣言」は、「人権宣言」が女性の権利に言及していないこと、制定された憲法においても、「人権宣言」の問題点が少しも解消されなかったことへの反発から書かれたもので、「人権宣言」の条文に添って、そこに女性の権利を附加する形で叙述されてゆきます。その内容を大別すると、(A)「人権宣言」の表現とほとんど変わりがない、または趣旨 に変更のない条文(B)「人権宣言」の文言を置き換え、主語を「人」或いは「市 民」から、「女性及び男性」または「女性市民と男性市民」に 変更した条文(C)「人権宣言」の主語を「女性」または「女性市民」のみに改 め、明確に女性の権利の保障を強調している条文(D)民主的な憲法制定手続きを要請する形で、「人権宣言」 の枠を超えた民主的統治原理を提示した条文の四つに分けることが出来ます。いくつか例示すると第1条 女性は自由なものとして生まれ、かつ権利において 男性と平等なものとして存在する。…… (C)類型第2条 あらゆる政治的結合の目的は、女性および男性の、 時効によって消滅することのない自然的諸権利の保全にあ る。これらの諸権利とは、自由、所有、安全、そしてとりわけ 圧政に対する抵抗である。 (B)類型第3条 あらゆる主権の淵源は、本質的に国民にある。国民 とは、女性と男性との結合に他ならない。 (B)類型第7条 …女性は、法律によって定められた場合に、訴追さ れ、逮捕され、拘禁される。女性は男性と同様に、この厳格 な法律に服従する。 (C)類型第17条 財産は、結婚していると否とに関わらず、両性に属する。財産[権]は、そのいずれにとっても、不可侵かつ神聖な権利である。…… (C)類型ここに記しませんでしたが、(A)類型に属する条文としては、第5条、第3条後段、第8条前段などがあり、(D)類型には、第16条があります。私が高く評価するのは、婚姻関係の有無に関わらず、財産権が両性に属することを指摘して、女性の経済的自立を図ろうと務め、女性の地位向上を目指そうとする姿勢です。自らの出生の秘密に苦しみ、私生児や未婚の母(その多くは小間使いとして働いている家の主人や子息の子を産むケースでした)の生活困窮に強い義憤を感じていたグージュらしいとも思うからです。さて、こうしたグージュは、1793年11月3日に刑死しています。革命広場でギロチンにかけられたのです。比較的穏健な立場のグージュが何故? 実は王妃へのそして国王への思いに原因があるのですが、彼女の処刑の顛末は、明日記すことにします。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, August 19, 2007 10:25 AMSubject: 19日の日記
2007.08.19
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クロニクル ソ連保守派のクーデター1991(平成3)年8月19日この日、クリミア半島にある別荘で休暇を過していたゴルバチョフソ連邦大統領は、ソ連の保守派と結んだ一部軍部の襲撃にあい、同別荘に幽閉の身となりました。 1964(昭和39)年10月のフルシチョフ失脚を実現した時以来の、クーデターが発生したのです。しかし、ゴルバチョフ大統領を幽閉したものの、それ以後反乱側には大きな動きはなく、内輪揉めの状態にありました。ソ連邦の代表的な共和国である、ロシアのエリツィン大統領は、モスクワの路上で、公然と軍部と保守派への抵抗を呼びかけ、多数の人民を結集して、保守派の行動に正面からの批判を浴びせ、ゴルバチョフ大統領の復権を後押ししました。ソ連邦の武力や警察力に依ってではなく、エリツィン氏の率いるロシアの力によって、軍の一部と保守派が計画したクーデターは脆くも崩れ去ったのでした。3日後の8月22日、クーデターの首謀者8人が逮捕され、クーデターはあっけなく崩壊します。このクーデターはソ連大統領ゴルバチョフとロシア共和国大統領エリツィンの力関係の逆転を、はっきりと示しました。とりわけ、ソ連共産党の内部崩壊は止めようもなく進んでいることが明かでした。解放されたゴルバチョフは、24日にソ連共産党書記長を辞任し、トップを失ったソ連共産党は、翌25日に解散を決定、栄光の歴史に幕を下ろしたのでした。
2007.08.19
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フランス革命(40) フランス革命の女性群像その3 『女性の権利宣言』とオランプ・ド・グージュ (1)オランプ・ド・グージュは、フランス革命期に行動で目立った女性ではありません。彼女の活動の中心はペンによる活動でした。彼女は文字で革命に貢献しようと務めた女性でした。しかい、彼女は十分にフランス語を書き表すことは出来ませんでした。彼女の数多い著作は、いずれも口述筆記だったのです。少女期に高い教養を身につけるチャンスに恵まれたわけでもないグージュが、フランス革命期にその存在を確認できる女性達の中で、一際抜きん出た存在として評価されるようになったのは、頭脳の明晰さと、熱い心、そして政治的問題での発言への意欲などによるものでした。彼女はモントーバンの肉屋ピエール・グーズの娘としてモントーバンに生まれました。17歳で結婚しますが、すぐに婚家を抜け出し、パリに出ます。パリでの彼女は恋多き女として知られ、反対派からは中傷を受けたことも数知れずでした。当時は30歳を過ぎると容色が衰え、恋愛遍歴の中で生き続けるのは難しくなります。当時の30歳は、現在でいう40代後半から50代前半にあたるのではないかという分析が少なからずあるのですが、グージュ自身は実年齢よりも老けた印象を周囲に与えていたようですから、尚更です。ここで彼女は脚本家を志します。前記したように口述筆記なのですが、驚くべき多産振りを発揮しています。しかし、当時の脚本家は決して恵まれた存在ではありませんでした。当時の舞台では、演出家が全てだったからです。配役は勿論、誰の脚本を使うかも、全て劇場付きの演出家の差配によるのでした。1本使われたからといって、次ぎの保障があるわけではありません。ボツになってもメゲず、次々と作品を量産するグージュは、そういう点ではタフだったのでしょう。彼女の作品では、革命の始まった1789年の12月に、『黒人奴隷制度』という題で上演され、話題を呼んだ作品が、唯一まずまずの評価を受けた作品でした。革命が始まると、貧しき人々への愛に満ち、公共の福祉への関心の低さに心痛めていたグージュは、自らの著作やパンフレットによって、革命に役立ちたいと思うようになります。彼女は決して派手な街頭行動に参加しようとか、女性クラブの設立に加わろうとか、そうした行動には一切感心を示さなかったのですが、しかし、革命の推移に関心がなかったわけではなく、専制政治に対する強い怒りや、貧しき人々の生活困窮に対して、何か出きる事がないかと、考え続けていたことは、間違いのないところです。そういた彼女の革命との関わりの中で、今日最も高く評価されているのが、『女性の権利宣言』を発表したことでした。いったいどんな内容なのか。どのようないきさつで口述されたものなのかは、明日記させていただきます。本日は盆踊り大会の日、準備の合間を縫って書き記しているため、ここまでとさせていただきます。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, August 18, 2007 10:26 AMSubject: 18日の日記
2007.08.18
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クロニクル 中国で文化大革命勝利の祝典1966(昭和41)年8月18日この日、北京の天安門広場に約100万人と発表された大群衆が集まり、プロレタリア文化大革命の勝利を祝う大集会が開かれました。毛沢東、劉少奇、周恩来、林彪などの共産党幹部が勢ぞろいし、開会挨拶に立った陳伯達は「文化大革命の益々の徹底」を指示しました。文化大革命は、中国が資本主義へ傾斜することを予防し、社会主義的精神革命の徹底を期すための広範な運動で、前年11月の文芸論争にタンを発し、8月1日に共産党中央委員会が本格的な開始宣言を発表したところでした。この運動の先兵になったのが、10代の少年、少女からなる紅衛兵で、連日連夜市内を駆けまわっては、知識人や市民を吊るし上げていました。この運動で、多くの知識人や学生が大学を追われて、地方へ下方させられ、長い目で見ると、中国の近代化、科学と技術の発展に、20年以上の遅れを齎したであろうと、今日では指摘されています。ともあれ、この祝典後、文化大革命の嵐は約10年ほど中国全土を吹き荒れ、大きな影響を齎したのでした。
2007.08.18
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フランス革命(39) フランス革命の女性群像その2 エッタ・パルム・デルデール昨日の記事の補足です。テロワーニュ・ド・メリクールの郷里マリクール村をリエージュ近郊とのみ記しました。これでは誤解を招く怖れがあると、友人から指摘を受けました。確かにこれでは、フランスの1地方と受け取る方が自然です。大変失礼致しました。リエージュはベルギー(当時はオーストリア領)の都市です。テロワーニュの生まれ故郷はベルギーにありました。ベルギーに生まれ、イギリス人女性に拾われて教育を受け、当時の上流階級の言語だったフランス語を学び、ルソーの著作を読み込んで、フランス革命に血と心をたぎらせ、その渦中に飛び込んだ。それがテロワーニュでした。彼女が帰郷中に王党派の亡命貴族に捕らえられたのは、そこがオーストリア領だったことが大きいのです。説明不足で失礼しました。さて今日登場するエッタ・パルム・デルデールもオランダ国籍の女性です。フランス特にパリは国際都市で、種々な国籍の人物が活躍します。三部会開会時の財政総監ネッケルはスイス人の銀行家でした。王妃の愛人フェルゼンは、スウェーデン王家に連なる大貴族でした。そしてこうした国際的な人物群像もまた、夫々の立場でフランス革命に関わりを持つのです。エッタ・パルム・デルデールは、19歳で結婚。やがて彼女の夫は商用でインドへ出かけた後、音信不通となり、残された夫の資産を自由を使えた彼女は、1774年31歳の年にパリに出て定住、フランス革命を迎えたのでした。革命が人間と男性市民の自由・平等を説いた時、彼女は大いに共鳴し、同時に男性に対して賦与される権利は、同時にもう一つの性である女性に対しても与えられるべきであると考えたのでした。ジャコバン修道院の地下の食堂にジャコバンクラブが出来ると、夜毎そこで、クラブの集会が開かれたのですが、食糧問題の討議の際には,女性達もまた夫や兄弟、恋人と共に集会に参加して、政治問題に目覚める女性が増えたのです。やがて、日中に女達だけの集会も開かれるようになります。革命期には雨後のタケノコのように、各地に続々と民衆のクラブが作られたのですが、エッタ・デルデールもまたそうしたクラブに参加して、自分なりの考えをまとめたのでしょう。彼女は1791年3月23日、首都の48の地区に夫々一つづつの婦人だけからなる女性愛国者クラブを作ろうと提案しました。現在の保育所の原型になる働く婦人たちのための乳母紹介施設や教育の仕事を引き受け、愛国市民を養成する仕事を引き受けることが、狙いでした。この働きかけは、成功を収め、最初の1年は順調でした。しかし、行動する女性達は,次第に女性の権利要求に目覚めます。これは現在から見れば、極めて当然な事ですし、正当な要求です。しかし、当時はそのように受けとめられませんでした。「女性にも男性と同じ選挙権を…」とか、「女性の教育権の主張」とか、「女性にも離婚請求権を」といった要求が出されるに及んで(特に離婚請求権は他国に行ったまま生死不明の夫を抱える彼女にとって、死活的重要性を持つものだったのです)、男達の彼女と、女性クラブを見る眼は変わります。彼女は1792年4月1日、立法議会の演壇で、女性の請願者を代表して、女性のクラブの代表として、上記の請願の主旨を訴えました。しかし、議長は陳情する女性達に何の言質も与えませんでした。そいて、女性クラブの参加者も、その要求が男達の利害と食い違うようになると、参加者も1人減り、2人減りと減少していきます。女性クラブに対する温かな目線は失われていったのです。やがて、エッタ・パルム・デルデールにも,好ましからざる議論の傾向を持つ人物として、監視がつけられるようになります。身の危険を感じた彼女は、93年に入ると住み慣れたフランスを去り、オランダに戻らざるをえなくなったのでした。 この項 完 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, August 17, 2007 10:41 AMSubject: 17日の日記
2007.08.17
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クロニクル 東京モノレール開業1964(昭和39)年8月17日この日、羽田空港と東京浜松町を結ぶ、東京モノレールが開業しました。東京オリンピックが開会式を迎える10月10日(オリンピックの日本開催を記念して,この日は体育の日と定められました。それでけに、10月の第2月曜日と不定日の祝日とされると、オメエ違うだろうと、政治家共を叱りとばしたくなるのは、私だけでしょうか?)を、55日後に控えての開業でした。オリンピック見物に海外から訪れるであろう、見物客は勿論、選手、役員、報道関係者らを、出きるだけ速やかに東京都心に迎え入れる交通手段として考えられたのが、地面上を通らないで済む、モノレールだったのです。当時羽田へのモノレールのルートは、今では信じられないかもしれませんが、大部分が海上だったのです。その後に埋め立てが進み、ビルや倉庫群が林立する地域になってしまいましたが……橋げたに支えられた軌道上を走るのですから、交通渋滞も起こり得ません。そんなわけで、到着時間を計算できる便利な乗り物として、このモノレールは人気を博したのでした。東海道新幹線もまた、国策としてオリンピック開幕までの開業が期待されていました。こちらの開業は10月1日、まさに辛うじて間に合ったのでした。追記 東京モノレールの開業は1ヶ月後の9月17日でした。8月17日ではありません。お詫びして訂正します。
2007.08.17
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フランス革命(38) フランス革命の女性群像その1 男装の麗人 テロワーニュ・ド・メリクール(2)こうした男達の非難に便乗して、王党派の新聞はテロワーニュに罵詈雑言を浴びせかけます。めげないテロワーニュは、いつか復讐してやると、王党派のジャーナリストに激しい敵愾心燃やし、「君主制を擁護する輩は許せない」と語りつつ、相変わらず革命の最前線で活動することを止めませんでした。8月10日事件でも、彼女は男達に混じって、隊列の先頭に立ち続けました。捕らえられた男達の中に王党派のジャーナリストの姿を見つけたテロワーニュは、ヤツ等を死刑にしろと即席の人民裁判を要求して許可を得ます。約10人の王党派が、怒った民衆によって、なぶり殺しに会います。血なまぐさいテロワーニュの復讐劇でした。彼女が提案し、何人かの仲間達と作り、活動を始めた婦人クラブも、女は家にいるべきだと考える男達の反対によって、議会に禁じられてしまいます。そうした中、国民公会が開会し、ジロンド派とモンターニュ(ジャコバン)派の対立、意見の違いが目立ってくると、彼女はジロンド派支持の立場を鮮明にします。彼女は勇敢な革命家でした。そして女権拡大論者でした。その彼女が、これ以上の革命の進行を望まず、国王裁判にも消極的なジロンドに肩入れするのは、少々意外な感じがしないでもありません。知られているのは、ジロンド派幹部で、弁舌の巧みなブリソーの論理に、彼女が大きな影響を受けていたことです。ブリソーの開戦論、戦争遂行論、そして戦争の継続を主張する弁舌に、テロワーニュは魅せられていたのです。テロワーニュの眼には、ジロンド対モンターニュ(ジャコバン)の対立も、外敵の面前での恥ずべき内輪もめにしか、映らなかったのです。テロワーニュは内輪もめの停止、ジロンドとモンターニュの協調を説きます。彼女は対立を止め、協調することを両派に、そして全パリに訴えます。それこそが、王党派と外国勢力を利さない唯一の道であると…。 テロワーニュのこの提案は遅きに失していました。もっと早い時期であれば,説得力を持ったかも知れないのですが、彼女がこの提案をした5月には、物価高と食料不足に手をこまねいているだけのジロンド派に対する貧しく飢えた民衆の怒りは沸騰点に達していたのです。そんな彼女に対して貧しい女達の憎悪が火を噴きます。93年5月末のある日、ジロンド派への抗議に現れた女達に囲まれたブリソーを救い出そうと、女達の輪に入ったテロワーニュに、女達の怒りが爆発します。服をズタズタに裂かれてたテロワーニュは、情け容赦なくぶちのめされたのです。彼女が王政を批判し、革命推進のために何度となく通いつめたチュイルリー宮殿の一郭で、彼女は痛恨の敗北を決したのでした。この日を最後に革命史の舞台から彼女の姿は消えてゆきます。精神に異常をきたした彼女は、2度と立ち直れない大きな傷をこの日受けたのでした。 この項完 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, August 16, 2007 10:25 AMSubject: 16日の日記
2007.08.16
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フランス革命(37) フランス革命の女性群像 その1 男装の麗人 テロワーニュ・ド・メリクール(1)フランス革命は、ブルジョワの革命であると同時に、男性の革命でした。そこでは、女性達の要求、女性の権利は何一つ認められませんでした。しかし、そのことは女性達がフランス革命に無関心であったことを示すものではありません。既に記した1789年10月5日のヴェルサイユ行進を見ても、女達が革命に高い関心を持っていたことは、明かです。革命の過程はこれから、佳境に入っていくわけですが、歴史的進行は数日お休みさせていただいて、しばらくフランス革命期の女達のことを記させていただきます。男達の無理解をよそに、女たちもまた熱心に革命を支持しました。バスティーユ襲撃1周年を記念した連盟祭を期に、地方のきちんと読み書きが出来、現在の新書程度の文章は読みこなせる女性達(ということは、中・上流に属する20%程度の女性ということになります)は、革命を支持し、憲法制定国民議会が作成しようとしている憲法を,熱心に支持する旨を誓った宣誓書を、議会に向かって何通も発送しているのです。5人、10人といった小さな集団による宣誓ですが、現在でも100通近くが保存されています。女達はささやかな行動を通じ、革命との接点を持っていたのです。そんな中で、テロワーニュ・ド・メリクールはひときわ目立った女性でした。リエージュ近郊のマルクール村の富農の家に生まれながら、継母に虐待された彼女は、イギリス女性コルバート夫人に目をかけられ、当時としては高い教育を受ける機会を得、ルソーの著作に親しみます。美貌から何人もの男性との恋愛も経験しますが、三部会召集の報に接してパリにでます。テロワーニュ・ド・メリクールと名乗るようになるのは、パリに出てからのことでした。バスティーユ襲撃事件以後は、しばしばヴェルサイユへも出かけて、傍聴席から議会の審議を見聞しています。何人かの革命家とも親しくなりますが、議会傍聴に力を入れていたため、10月5日のヴェルサイユ行進の日も、ヴェルサイユの議場にいたため、女達の到着まで事情を知らずにいたほどです。真紅の婦人用乗馬服に身を包み、黒の羽根飾りをつけた彼女は女性達の中でも目立つ存在でした。そのため、そこに眼をつけた王党派と亡命貴族の一団が彼女に目をつけ、91年2月のある日のことですが、彼女をチロル地方へ拉致してしまいます。10ヶ月もの間、彼女は尋問を受け、精神的に不安定な日々を過しますが、どういうわけか釈放され、92年1月にパリに戻ります。パリでは、彼女の数奇な体験が評判を呼び、一躍彼女は自由と憲法のための殉難者として評判になります。ここが彼女の絶頂期でした。戦争が近づくに連れ、彼女は武装した婦人部隊の創設を提案します。しかし、婦人達の多くにそこまでの覚悟はありません。そして、男性達の望むことでもありませんでした。男達の新聞は、こぞって彼女を非難します。「平穏な家庭の中に混乱を齎し、家事仕事を毛嫌いするような気分を女達に植え付けようとしている」とか、「最も有害な摂政政治は女達に依るものであった」とかの批判と非難が彼女に浴びせられたのです。男性達の保守的な本領が浮き彫りになっていますね。しかし,当時の女性達の多くは、テロワーニュのようではなく、まだ男たちの仕掛けた、女は家庭に…の殺し文句に居心地の良さを感じていたのでした。これこそが19世紀的なブルジョワの家族観そのものだったからです。続きは夜にでも書かせていただきます。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, August 16, 2007 10:25 AMSubject: 16日の日記
2007.08.16
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クロニクル 経団連の誕生1946(昭和21)年8月16日この日、日本経済団体連合会(略称経団連)が創立されました。経団連創設の構想は、戦後すぐに経済問題の処理と経済再建に向けて、経済界の総力を結集し、総意を動員するための機関となることを期待されて生まれたものでした。設立宣言には、「経済界における各部門の連絡をはかり、財政経済に関する内外の諸問題を研究して、経済界の公正なる意見を取りまとめ、その実現に努力し、もって国民経済の自立と健全なる発展を促進することを目的に…」と記され、各種経済団体並びに企業の総意結集のために創設されたことが読み取れます。後に財界の総本山と自他共に認める組織に成長する経団連はこうして誕生し、経済団体の中核として、経済政策の樹立、経済行政の整備、経済法規の改善などについて、政府・関係官庁との協議などに尽力し、諸外国の経済団体との連絡などにも注力して、存在感を発揮したのでした。
2007.08.16
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フランス革命(36)12月5日から、国民公会の議場で、国王の裁判が開始されました。議員1人1人が賛否の意見を表明してゆきます。裁判の回避が不可能となったため、ジロンド派は最後の手段として、判決の可否の判断を人民投票に委ねるべきだと提案します。投票は1月14日から始まりました。国王裁判という前例のない重大事だけに、投票は議員1人1人が立って、口頭で投票を述べてゆきます。中には詳細に投票理由を申し述べる議員もあります。ですから、日本の国会の牛歩戦術以上に、投票には時間がかかりました。1月14日と15日にわたって,2つの投票が行なわれました。先ず(1)国王ルイは、自由に対する陰謀並びに国家に対する反逆 の罪で、有罪であるか 議員総数745名のうち、公務出張中(戦場に出ている派遣議 員)の者、病気等による欠席の者が、計26名 よって、投票総数719票に対し、 賛成 693票 反対 26 票、よってルイは有罪と決定しました。 (2) 続いて同日 国民公会の判決を人民投票にかけるべ きか否かについて投票が行なわれました。 審議が長時間に及んだため、議長の許可を得て退場した議 員が2名でたため、投票総数は717票となりました。 人民投票案に反対 424票 同案に賛成 283票 棄権 10票 よって、公会の判決は即日決定となることになりました。(3) こうしていよいよ、刑は何か。死罪かそれとも有期刑 か、はたまた流刑か、の判断が迫られました。この評決 は、16日~17日まで、2日間を要しました。 投票総数 721票 よって過半数は361票 条件付死刑 34票 死刑 366票 死刑以外 321票 (戦争終結まで拘束し、平和回復後に国外追放に 処す。 319票 その他2票) よって、判決は死刑と決定 (4) 死刑判決後、直ちに当分の間刑の執行を猶予しては との提案があり、1日おいた19日に、討論と評決が行な われます。 様々な事情による欠席者47名の外に、12名の棄権が あったため、有効票は690票となり、過半数は346票 でしたが、 猶予する 310票 猶予せず 380票となり、 死刑の執行が決まりました。ここにおいて,国民公会は王党派による邪魔の入ることを怖れて、刑の執行を急ぎ、1日おいた1月21日に死刑を執行することにします。死刑は革命広場,現在のコンコルド広場において、大勢の観衆の前で行なわれました。死刑台(ギロチン)の前に引き出されたルイ16世は、突然しゃべりだします。「私は無罪だ。しかし私は敵を許そう。願わくば私の血が、フランス人の幸福の固めとなり、神の怒りをなだめますように…」しゃべり続ける国王の声は、国民衛兵の太鼓の音に遮られ、やがて、血の滴る彼の首が死刑執行役の手で、台上に高だかと掲げられました。こうして革命の退路は断たれました。しかしまた、国王の処刑によって、フランス革命は新たな危機を迎えることになります。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Wednesday, August 15, 2007 10:22 AMSubject: 15日の日記
2007.08.15
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クロニクル ニクソンショック世界を走る1971(昭和46)年8月15日この日、ニクソン米大統領はテレビを通じて、ドル防衛策を含む新経済政策を発表しました。その最大の目玉が金=ドル交換停止でした。第2の目玉が10%の輸入課徴金の創設でした。アメリカ経済が如何に貿易収支の赤字に悩んでいたかを偲ばせます。しかし、戦後ブレトンウッズ体制を構築し、「米ドルを持つことは金を持つことと同じである」とすることで、自国通貨をドルにリンクさせて(日本で言えば、1ドルを360円とすること)、通貨価値を安定させてきた各国にとっては、これは晴天の霹靂でした。ヴェトナム戦争の戦費負担に苦しみ、その上西ドイツ(当時)や日本の経済的発展によって、貿易収支までもが赤字体質を強めていた米国にとって、ドルはいつでも金と交換できるという神話を維持することは、苦痛以外の何物でもなくなっていたのです。こうして、この日のニクソン大統領による金とドルとの交換を当分の間停止するという、強硬策の発表となったのです。これはある意味で正論でした。米国経済の力が衰えてきたので、今後は世界各国の経済のお守り役までは務められないので、その地位はおります。各国通貨も各国の責任で交換レートを決めて下さいと、したのです。日本のみならず、世界の為替市場はパニックに陥りました。自国通貨の対ドル相場の急騰を見越して、翌日から当分の間為替市場を閉鎖した国がほとんどでしたが、1人日本だけが市場を開き続け、1ドル=360円でドルを買い支え、円高に振れるのを防ごうと務めたのでした。各国の為替ディーラーは狂喜して日本市場で(当時日本の為替取引は自由化以前なので、日本の業者に委託しての取引でした)、ドルを売り続け、政府・日銀は世界の趨勢を読もうともせず、ひたすら米国への陳情によって、円切り上げを防ごうの1点張りだったのです。しかし,経済先進国でただ一つ為替市場を開き続ける日本の愚かさは際立っていました。その日本政府が円切り上げ不可避を悟り、1ドル=360円でのドル買い介入を止めたのは、何と2週間後の8月28日のことでした。この間1ドル=360円で買い支えたドルは、およそ40億ドル。現在ならどうということもない額ですが、当時としては大変な額でした。米国は変動相場制への意向を持っていましたが、日本のみでなく西欧各国もドルの基軸通貨体制維持に執念を燃やし、渋る米国をこぞって説得し、ドルに対して各国通貨を切り上げることを了承する替わりに、ドルは基軸通過であり続けることを約束して、一時的にこの騒動が収束するのは、12月18日のことでした。スミソニアン協定がこれです。円のレートは1ドルが308円と16,88%の切り上げでした。円切り上げで輸出企業は大打撃を受けると、産業界中心に悲観論が勢い良くぶち上げられ、政府は補正予算を組んで公共事業の大盤振る舞いを行なうなどの、ドタバタ劇が演じられましたが、日本や西ドイツ経済の足腰は強く、ドルの固定相場はこの後1年少々しか持ち堪えることは出来ず、73年2月には現在に繋がる変動相場制に移行することになります。それにしても、117円だと円高、120円台だと円安。時代が変わると人間の感覚も変わるものですね。93年と95年の1ドルが100円えお割っていた時代に、フランスやイタリアにしばらく滞在した身にとっては、今のユーロ対円は円が安すぎる感が拭えないのですが……それにしてもニクソンショックにおける大蔵省と日銀の対応はオソマツでした。思考が内向きに過ぎ、経済の国際派を育てる努力を怠ったツケは大きかったのですね。
2007.08.15
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フランス革命(35)ジロンド派は、国王の不可侵性を持ち出し、その故に国王を裁判にかけることは出来ないと、まるで正統王党派の如き論理まで持ち出して、国王裁判を避けようと形振り構わぬ議論を展開するようになります。こうした状況にあった11月13日のことでした。ジロンド派の議員が、型どおりに国王の不可侵性を持ち出した後に、若いすらりとした新顔の議員が登壇しました。ブロンドの髪を肩までたらした白面の貴公子然とした風貌の青年は、25歳のサン・ジュスト。後にロベスピエールと行動を共にし、ロベスピエールの片腕と称された人物の議会デビューの瞬間でした。彼は、緊張でややかすれた声ながら、聞き入る議員達の度肝を抜く論理を展開しました。「国王の不可侵性はすでに消滅している。国王はただちに裁判に付され、国民の敵として,速やかに処刑されなければならない。何人といえども、罪なくして君臨することなど出来ない。」と。不可侵性の否定は、ここに国民の敵としての処刑に結びつけられ、問題は政治の地盤に移されたのです。こうした頃、ジロンド派を苦境に追い遣る事態が発生したのです。前回の最後に記した「秘密の戸棚」事件です。ルイ16世には、2つの趣味がありました。ひとつは狩猟です。7月14日のバスティーユ襲撃の日も、10月5日のヴェルサイユ行進の日も、狩猟に出かけていたことは、良く知られています。そしてもう一つが,何と錠前造りだったのです。国王の趣味ですから、師匠選びにも念には念を入れられ、パリの錠前師の組合(ギルド)の中から、腕っこきの親方で、しかも寡黙で口の固さには定評のあるガマンという親方が、師匠に選ばれたのでした。そしてチュイルリー宮に移った後、ルイ16世はガマン親方との共同作業で、鉄製の隠し戸棚を作っていたのです。当時としては精巧な鍵も2つ作り、一つは国王自身が、もう一つをガマン親方が持つことになったのです。国王の裁判が話題になる中、ガマン親方は誰にも何も言わず、ひたすら秘密を守っていたのですが、11月に入って仕事の後に猛烈な腹痛を覚えた彼は、自分が大事な秘密を知る故に毒を盛られたのではないかと疑い、それならば眼には眼をだとばかり、当時内務大臣を務めていたジロンド派のロランのところへ、怖れながらと訴え出たのでした。ロランは、百科全書派に属する学者で、妻のロラン夫人の方がフランス革命史では名を知られているのですが、夫人のサロンに政治家が集まり、その関係で立法議会の議員にパリから選ばれます。ブリソーと親しかったことから、ジロンド派に席を占めたのですが、ジロンド派は、ジャコバンやフィーヤンと違って、クラブとしての本部や集会場を持たず、いくつかのサロンに有力幹部が集まって,派の方針を決めるという緩やかな集合体だったのです。夫人のサロンに人の集まりが良かったことがロランに幸いし、彼は8月10日事件後の臨時行政府で内務大臣の座につきます。そして、大臣の椅子に執着した彼は、国民公会の成立で臨時行政府が解散し、新たな政府が構成される際に、全員交代の申し合わせを裏切り、ただ1人内務大臣の職に留まったのです。そしてそれが彼の命取りになるのです。さて、ガマン親方から重大な話を打ち明けられた彼は、1人では判断できず、隠し戸棚のありかを聞くと自宅に戻って妻に相談します。自分のサロンに集まる政治家の寸評をメモワールに書き残し、その辛口のコメントが人物評として出色だと評価されている夫人も、事の重大性に圧倒されたのでしょう,事もあろうに2人だけで、ガマン親方の案内で、チュイルリー宮の隠し戸棚のありかに向います。そこには、あるはあるは、ミラボー、ラ・ファイエット、タレイランから、バルナーヴやラメト兄弟などの初期の革命家たちが国王と交わした手紙の数々、亡命貴族や前線の将軍と交わした手紙、そしてオーストリア王家や各国君主に宛てた国王の手紙の控え(君主の習いとして、私信も含め必ず2通作成して、1通を保存する習慣を、ルイ16世もまた教え込まれていたようです)やその返書など、革命に対する国王の裏切りの数々が詰まっていたのです。もし皆さんが、ロランの立場にあって、この隠し戸棚を探り当てたとするならどうなさいますか。私がロランの立場でジロンドに属していたとしたら、密かに全書類を焼却して、ガマン親方の口をふさぎ、知らん顔の半兵衛を決め込むことが出来るかを自問すると思います。国王裁判に反対する立場を取る政治家なのですから、ロランは当然そうするべきでした。しかし、政治家としては小物であったロランとその夫人には、そうした知恵はありませんでした。だからこそ、秘密の隠し戸棚の顛末は現在まで語り継がれてきているのです。びっくり仰天したロランは、押収した手紙類の一切合財を国民公会の議場に持ち込み、議長に提出したのです。当然何故ロランはその事実を知ったのか。何故誰にも知らせず、1民間人に過ぎない夫人だけを伴って隠し戸棚を開いたのか? 議場に提出せず処分した手紙や書類もあったのではないか?など、ロラン自身も疑われることになりました。部下を動員して組織的に事を処理しなかった軽率さが仇となったのです。しかし、何より大きかったのは、国王の裏切りの数々、革命家をも買収する王家の陰謀に対する市民の怒りの沸騰でした。ここにおいて、国王裁判の実施は避けられない情勢となったのです。平原派議員の多数が裁判に同調したからです。12月5日、裁判の開始が決まりました。結果はどうなったか。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, August 14, 2007 10:33 AMSubject: 14日の日記
2007.08.14
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フランス革命(34)ジロンド派は、モンターニュ派をいたずらに攻撃することで、かえって平原派(中間派)の議員達の信用を失っていったのですが、そうしたジロンド派の威信低下を決定的にしたのが、国王裁判をめぐる問題でした。ジロンド派共和主義者の集団です。しかしジロンド派は、8月10日の事件後、タンプル僧院に幽閉されているルイ16世を、反革命の容疑で裁判にかけることを、何とかして避けようとして、モンターニュ・ジャコバンと対立していたのです。共和主義ですから、旧王家の存在は不要ですし,邪魔なはずです。それなのに何故? ここに以前に指摘したジロンドとモンターニュの革命路線を巡る違いが色濃く反映しています。ジロンド派は、民衆運動のこれ以上の昂揚を警戒して,革命の早期終結を望んでいました。そのための切り札として、ルイ16世を活用しようと目論んでいたのです。オーストリアやプロイセンが、今後一切フランスの政治体制に介入しないことを約束し、亡命貴族たちの反革命運動に一切の便宜を与えないことを約束するなら、国王一家のウィーンへの出国を認めようというのです。こうした妥協のためには、ルイ16世を裁判にかけるわけにはいかない、まして死刑にするわけにはいかない。ジロンド派はこう考えていたのです。これに対してモンターニュ(ジャコバン)派は、革命を完成するためには、中途半端な妥協をするわけにはいかない。しかし妥協しようとする弱い心は誰にでもある。現実に革命の状況をみれば、首都パリはともかく、地方諸都市では今なおフィーヤン的な市評議会や役人が大ブルジョワの権利だけを守ろうとして、中・下層の民の権利要求は黙殺されたままである。地方におけるこうした社会対立を、ある程度緩和するまで革命の継続は必要である。それまで妥協は許されないのだから、革命の退路を断つ必要がある。弱い心を封じるには、国王を裁判に付し、処罰することが必要である。これがモンターニュ・ジャコバンの考えでした。早期の妥協を考えるジロンドと、妥協を排するために退路を断つ考えを固めたモンターニュと、両者の妥協はそれこそ不可能だったのです。この両派の対立を決定的に動かす材料は11月後半に軌跡のように齎されました。有名なルイ16世の「秘密の戸棚」事件です。まさに「事実は小説よりも奇なり」を地で行く事件だったのですが、この件については、今夜記そうと思います。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Tuesday, August 14, 2007 10:33 AMSubject: 14日の日記
2007.08.14
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クロニクル 片山・プレハーノフの握手1904(大正3)年8月14日この日、オランダのアムステルダムで、第二インターナショナルの第6回大会が開幕しました。日本からは渡米中の片山潜が欧州に出向いて参加、日露戦争の最中ということもあって、大会当事者の粋な計らいだったのでしょう、ロシア代表のプレハーノフと共に、大会の副議長に選出されたのです。2人は壇上で固い握手を交わし、大きな拍手を浴びました。第1次世界大戦前夜の反戦運動を綴るページの、世界史や日本史の教科書でお馴染みのシーンです。片山は、日露両国のプロレタリアが,万国の社会主義者と共に戦争に反対することの意義を強調し、プレハーノフもまた日本が専制的なロシア政府という巨人を悩ませていることを指摘しました。これより先、平民新聞の3月13日号は社説に「露国社会党に与える書」を掲載。「日露両国の社会主義者は、共通の敵である帝国主義や軍国主義と、共に勇敢に戦おう」呼びかけたのでした。この文章の英訳が欧米の社会主義系の機関紙などに紹介され、大きな反響を呼んだのでした。ロシア社会民主労働党も、機関紙「イスクラ」5月14日号に返書を掲載、日本の社会主義者の勇気に敬意を表し、「ロシアでは困難な状況の中で、戦いが続けられている」旨を記しました。しかし、その後ロシアでは、反戦平和を求める革命運動が大きな広がりをもって、演じられるのですが、日本の反戦運動は少数者の微々たる運動に留まり、ロシアのような広がりは持てませんでした。
2007.08.14
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フランス革命(33)開幕した国民公会において、最初に優位を保ったのはジロンド派でした。8月10日の蜂起は大きな勝利でしたし、革命にとっても大きな転換点だったのですが、なお付和雷同組も多かったことは、以前に記しました。蜂起によって、パリの市評議会(市議会です)のメンバーは替わりますが、市の役人はそのままです。パリ以外の諸都市では、全く何も替わりません。この部分にはフィーヤン派に近い人達が、まだかなり残っていたのです。その上、以前に記した9月の虐殺事件のリアクションが起きます。パリ市民は、虐殺をやむをえない行為だったと認めながらも、その再発を警戒する態度を取ります。そこへヴァルミーの戦勝の報が届き、議会にもホッとした空気が流れます。そうなると、中間派は急進的なモンターニュよりも、穏健なジロンドに接近します。こうして国民公会の隠れ多数派である、平原派(中間派)の動向が重要なキャスティング・ボードを握りました。しかし、このジロンド派の優勢は長くは続きませんでした。フランス革命期の議会では、議長は毎月交代する規定になっていたのですが、国民公会開会から、当然のようにジロンド派が議長席を握っていたのですが、11月になると、議長はジャコバン派から選ばれるようになったのです。早くも2ヶ月足らずで、ジロンド派は、平原派議員の支持を失い始めていることが読みとれます。ジロンド派の失敗はどこにあるのか。左派の議員の中でもジャコバンクラブに強い影響力のあるロベスピエールやダントン、それにマラーらを、いたずらに攻撃して、かえってまだ個々人の集まりに過ぎなかったモンターニュの結束を強め、自分たちの対抗勢力に育てあげてしまったことも、その一つでした。9月25日の議会で、ジロンド派はロベスピエールとマラーが独裁者になろうとしたと,激しい非難を浴びせました。ロベスピエールの反駁に続いて、マラーの公会での第1声が響きます。「この議会には私の個人的な敵が沢山いる」みんなだぞ!の野次が飛ぶ中、彼は続けます。「私は,彼等に恥を知ることを思い出させたい。祖国とその安全のために、身を捧げた人間に対して、くだらぬ叫びや喚き声や脅迫を投げつけないように注意したい。」この気迫の篭った発言に飲まれて静かになった議員に向って,マラーは続けます。「私の同僚達、特にロベスピエールやダントンが、…護民官制にせよ、三頭政治にせよ、独裁制にせよ、常にこのような考えには同意しなかったことを、私は明言する義務がある。もし、公衆の間にこのような考えを広めた罪ある者がいるとすれば、それは私だ!」非難を一身に引きうけ、独裁論を率直に披露したマラーの堂々たる態度は,議場を圧倒して、中間派の共感を集めます。さらに彼は、上着から愛用の拳銃を抜いて、額に当てながら「もし、告発命令が私に発せられるなら、私はこの壇の下で、自らの頭をぶち抜くと申し上げなければならない。これが祖国を救うために堪えた3年間の牢獄の苦しみの結果なのか。これが不眠と努力と貧困と労苦と危険との結果なのか!」見事な気迫,見事な演説でした。ジロンドの攻撃は失敗に終りました。次いでジロンド派は,法相時代のダントンの経理上の乱脈を突きます。彼の在任中の会計報告において、20万フランの秘密支出があることを突いたのです。ダントンはヴェルダンの包囲戦の際に緊急の特別支出が多くあったが、その全てについて、合法的な支払い調書がないことを告白せざるをえませんでした。そして。この日からダントンは、ジロンド派に対する妥協的態度を完全にかなぐり捨て、ジロンド派の弱点を徹底的に攻撃するようになります。これもまたジロンド派にはマイナスになりました。モンターニュとの橋渡しは、1人ダントンにかかっていたからです。ジロンド派が,再びロベスピエールに鉾先を向けたのは、10月末になってからでした。そしてジロンドの攻撃に対するロベスピエールの反撃は、11月5日に行なわれました。「法の無力によって発生した危機に際して、公安が必要とした有効な予防策を、刑法を片手に評価しなければならないのか。……君達は何故、パリ市当局、選挙集会、……を告訴しないのか。これらはいずれも非合法だった。そんなことを言うなら、革命も、王位の転覆も、バスティーユも非合法だったし、自由そのものも非合法だった。」「諸君は革命なき革命を望むのか!」彼はさらに、革命が民衆運動との結合なしにありえないとする革命観を力強く表明して、演壇を降ります。万雷の拍手がジロンド派の敗北を物語っていました。そしてこうしたジロンド派の威信低下を、決定的にしたのが、国王裁判をめぐる問題でした。次回はこの問題を記します。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, August 13, 2007 10:34 AMSubject: 13日の日記
2007.08.13
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クロニクル 在日朝鮮人の「北朝鮮」帰還協定調印1959(昭和34)年8月13日1910(明治43)年から1945(昭和20)年まで、35年間日本の植民地支配を受け、45年8月15日の日本の敗戦とポツダム宣言の受諾によって独立した朝鮮半島の人々は、独立後38度線えお境に、南は米国軍の、北はソ連軍の保護下に国家並びに行政機構を整え、折りからの米ソ冷戦の激化を受けて、1948(昭和23)年8月と9月に、相次いで大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国として独立、2つの国家の道を歩み始めたのでした。この体制は、1950~53年の実質3ヵ年も戦われた朝鮮戦争によって決定的になり、在日朝鮮人の団体も、韓国系の韓国居留民団と北朝鮮系の朝鮮総連に分かれました。その後、朝鮮戦争からの復興が軌道に乗るに連れ、経済発展をより確実にするために、在日朝鮮人家族の希望者の帰国事業をと言うことになり、この日、朝鮮民主主義人民共和国との間に、朝鮮総連系の在日朝鮮人家族の帰還に関する日朝協定が調印されたのです。この協定を受けた第1次帰還船は、同年12月14日に新潟港を出航することになります。当時の日本国内では、北の経済は南に比べて数段進んでおり、社会主義の下で貧富の差は最大でも5倍程度に過ぎない、社会的平等が実現している、地上のパラダイスであるという神話が広く信じられており、そのため帰還事業も当初は好調に推移しました。吉永小百合主演、浦山桐郎監督の『キューポラのある街』に主人公の弟の友人が父と共に北朝鮮に渡る話が出てきますが、帰還船に乗るために、新潟へ向う上越線に乗車した帰国者の集団の熱気は、当時の雰囲気を良く捉えていると評判になりました。帰国者が帰国後、経済不振の中、厳しい状況に追い込まれてゆくのは、この数年後からのことになります。どこでシナリオが狂ったのかについては、なお検証が必要なようです。
2007.08.13
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フランス革命(32)国民公会は9月20日に開会になりますが、翌21日に共和政を宣言します。この議会は、欧州において、普通選挙で選ばれた最初の議会です。そうはいっても女性を含んではいないのですが…。投票率もそう高くはなかったようです。民衆は議会を自分たちのものと思う視点をあまり強くもっていなかったのです。農村では村の共同体的繋がりや村の集会が、都市ではセクションの会議の方が重視されていたのです。この点は、また後日問題にさせていただきますが、要は政治的な観念とうか、感覚がブルジョワと民衆では違っているのです。さて、議員は約750名ですが、この議会には、王党派は勿論、立憲君主政派のフィーヤン派に属する議員も選出されておりません。従って、ジロンド派が右派を構成し、国民公会ではモンターニュ派(議場の高い部分に席があったので、こう呼ばれた)と呼ばれたジャコバン派のグループが左派を構成しました。他に、ジロンドにもモンターニュにも属さない中間派(議席が議場の平坦な部分に集中していたので、平原派と呼ばれました)が多数存在しました。この中間派というのは、イデオロギー的にモンターニュとジロンドの中間に位置するのという意味ではなく、政治的態度が、どちらの派に加担するかを決めていないという意味で、両派の中間だったことに由来します。この人々を含めて,満場一致に近い形で、共和政の樹立が決定したのですが、その後の時期については、ジロンドとモンターニュの対立が続きます。では、ジロンドとモンターニュの相違点はどこにあるのか。これが問題になります。さらに誰がジロンドで、誰がモンターニュかという問題もあります。研究者によって、ジロンド派の人数もモンターニュの人数も違ってくるのです。今なら、誰が自民党で,誰が民主党、そして誰それは公明党かは、間違いなく分かります。誤差もありえません。当時はどちらも近代的組織政党になっていない上に、両派の色分けは固定的ではなく、重要な議決の時の投票行動も一貫性がなく、時によって異なってくるのです。はっきりしているのは、ジロンドにもモンターニュ・ジャコバンにも、30人~50人程の中核メンバーがいたということだけなのです。結局人数の面では、ジロンド派はモンターニュよりも多い、170~200名前後、モンターニュは115~140名前後と考えておくのが妥当なところのようです。それゆえ中間派は410~465名というところでしょうか。では両派の考え方はどう違ったのか。この点でいうと、出身階層や、考え方に大きな差はありません。共和政の主張も、革命の原理を守ろうとする意欲にも差はありません。では何が違うのか.私はこれを革命の置かれた現状認識の差であり、革命路線の差であると考えています。ジロンド派は民衆運動の高揚が、ブルジョワの経済活動に脅威となることを恐れるようになり、民衆運動の行き過ぎを抑え、革命の早期終結を望んだのです。これに対しモンターニュ派は、革命の防衛を第一義に考え、その為に現時点での最重要事項は民衆運動のエネルギーを最大限活用することであり、そうだとすれば都市民衆や農民の様々な要求に対し、ブルジョワ的な活動原理を一時的に制限するようなことになっても,一定の譲歩することはやむを得ないと考えたのです。およそ両派の間には、このような違いがありました。それでは開会当初の国民公会は、どのような動きを見せたのでしょうか。明日はその辺を記そうと思います。 続く----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, August 12, 2007 10:36 AMSubject: 12日の日記
2007.08.12
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クロニクル 御巣鷹の悲劇1985(昭和60)年8月12日この日、午後7時数分前頃、日航の羽田発大阪往きのボーイング747SR機が、群馬・長野両県の県境に位置する、標高1639mの御巣鷹山の山中に墜落して炎上、乗員・乗客524名のうち、520名が亡くなる、日本の航空機事故としては最大の犠牲者を出しました。機体は翌朝発見され、現場には焼け爛れた機体や遺体が散乱し、さながら地獄絵のような姿だったと、現場で救助と遺体の収容にあたった、警察や自衛隊の関係者が語るほどでしたが、機体の後部座席の近くで、女性ばかり4名の生存者が救助され、感動を呼びました。その後生存者の証言などから、離陸後しばらくして隔壁に穴が空いて、バランスを崩した飛行機が迷走しながらも着陸を目指して苦闘していたこと、墜落後もしばらくは、助けを求める生存者の声が聞こえていたのに、その声も次第に弱弱しくなり、遂には聞こえなくなったことなどの、生々しい証言が得られ、その都度涙を誘いました。犠牲者には、歌手の坂本九さん、阪神球団社長の中埜肇さんなどが含まれていました。航空機の中で、最も安全性が高いとされたジャンボ機でなぜ事故が起きたのか。この点が疑問視されたのですが、調査の過程で、もはや言い逃れが出来ないと判断したボーイング社が、同機の修理の際に、隔壁の修理にミスがあったこと、そのため機内の気圧を一定に保つために行なう加圧に絶えきれず、隔壁が飛ばされたことを認め、日航並びに遺族に謝罪する一幕もありました。私はこの日、5才の息子と2人で愛知県の篠島に海水浴に出かけており、13日朝のニュースで事故を知りました。9ヶ月の娘を連れて往くには無理があるため、父親と2人だけでも往くかと息子に聞いたところ、海と乗り物の大好きな息子は、イチもニもなく、「往く」の一言。出かけていった先での事故のニュースでした。というわけで、毎年御巣鷹の慰霊祭の記事を目にするたびに、篠島での海水浴を思い出しています。
2007.08.12
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フランス革命(31) では、民衆の革命的情念の明るい面とは何か。 それが、9月20日のヴァルミーでの戦勝です。 9月の虐殺は、2日朝に届いたプロイセン軍によるヴェルダン の包囲の報せを受けて始まりました。 ところがその同じ頃 既にヴェルダンはプロイセン軍の手に落ちていました。包囲の報せ がパリに届く前、9月1日のうちに陥落していたのです。指揮官不在 の混乱が、なおフランス軍の組織的抵抗を不可能にしていたので す。確かにこの状況は,フランス軍にとっても、革命フランスに とっても深刻な危機でした。 幸いだったのは、プロイセン軍の司令官ブラウンシュヴァイク公 (彼の知己を得た文豪ゲーテは、ブラウンシュヴァイク公の話し相 手の名目で、この戦いの陣中にありました。『フランス戦記』はこ の見聞に基づいて書かれました)は、兵力の温存を図って、パリ進 撃を急がなかったことです。 ヴェルダンからパリまでは、特に防禦に適した要塞はありません。 フランス軍は懸命に体制立て直しを図ります。ここに将軍連の全面 的な更迭、亡命者の軍籍の剥奪を実行し、若手将校を将軍に登用、 見習士官クラスも続々尉官や佐官に登用して、ようやく陣容を整え たのです。兵士は義勇兵を加えて革命防衛の意欲に燃え、士気は高 まっていました。 対するプロイセン軍は、絶対王政の軍のままです。ただ命令のまま に動員された兵士たちには、戦争目的の何たるかは、全く関わりの ないことでした。敵が頑強に抵抗すれば、逃げ腰になり、敵が弱腰 なら強気になって、占領地での略奪に精を出す、こんな軍隊です。 4月の開戦以降のフランス軍は常に逃げ腰でした。「どうせ今回も 楽勝だ」こんな気分が蔓延しているプロイセン軍と、編成替えして ようやく誕生した戦闘意欲の高いフランス革命軍の最初の衝突が ヴァルミーの戦いだったのです。 フランス軍はデュムーリエの北部軍とケレルマンの中央軍が合流し て,プロイセン軍を迎え撃ちました。ヴァルミーはヴェルダン西方 にありました。前後3回の激しい砲撃戦にも、今までと違ってフラ ンス軍は後退しません。午後になってプロイセン軍の歩兵が進撃し てきたその時、就任早々のケレルマン将軍は、自らの帽子を剣の先 に着け、「国民万歳!」と大声を上げながら兵士の間を激励して歩 きます。今までこんな将軍は1人もいなかった。正規軍の兵士は感 激してつぶやきます。勇将の下に弱卒なしとはこういうことを指す のでしょうか、期せずして「ラ・マルセイエーズ」の大合唱が聞こ えたとは、ゲーテの記事にあることです。フランス軍の初めてと言 える激しい抵抗にあって、プロイセン軍は後退せざるをえませんで した。勝敗は決まらなかったのですが、その夜野営地を豪雨に襲わ れたプロイセン軍は、戦意を失って撤退して行きました。 ヴァルミーでの戦いはフランス軍に精神的な勝利を齎したのでし た。ゲーテは書きます。皆さんもご存知の「この日、この場所か ら、世界史の新しい時代が始まった」と。この日を境に戦局は逆 転、革命フランス優位の局面に変わっていきます。 そして、ヴァルミーの戦いのその日は、フランス革命の第3の議 会、立法議会に替わる国民公会が発足した日でもあったのです。 続く ----- Original Message ----- From: > To: ??????@za.wakwak.com> Sent: Saturday, August 11, 2007 10:51 AM Subject: 11日の日記
2007.08.11
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クロニクル 日本政府,閣議で南ヴェトナムへの緊急援助決定1964(昭和39)年8月11日この日、日本政府は南ヴェトナムのドン・バン・ミン政府に対する緊急援助を決定しました。1954年のジュネーブ協定は、北緯17度線の北をヴェトナム政府が治めることを認めましたが、17線の南については、2年後に国民投票を実施して帰属を決めることになっておりました。そのため、当時反共主義であれば、どんな政府でも認めて支援していた米国は、フランスに替わって同地に進出、自国で亡命生活を送っていた、ゴリゴリの反共主義者ゴ・ジン・ジエムを首班とする傀儡政府を樹立、ジュネーブ協定を無視して、反共の南ヴェトナム政府を構築、南北統一を徹底的に妨害する政策を取り続けました。それは、ヴェトナム全土の植民地からの独立を希求するヴェトナムの人々の希望に反する事でしたから、60年代に入ると、南ヴェトナムの解放闘争が次第に激しく戦われるようになり、62年には南ヴェトナム解放民族戦線の活動が、次第に激しく行なわれるようになりました。国民の支持のないゴ政権には、独自で解放戦線と戦う力はなく、米国は軍事顧問団の名目で自国兵士を派遣し、南ヴェトナム政府軍の指導と訓練を行なうと称して、次第に戦争を丸抱えするようになって行きます。ゴ政権は民衆の反発を力で抑えこもうと、恐怖政治を敷きますが、かえって国内各層の反発を招き、63年秋には穏健派の仏教徒をも怒らせてしまい、民衆の尊敬を集める高僧達の何人かが、相次いで政府に対する抗議の焼身自殺を公開の場で行ないます。信仰心の厚いヴェトナムの人々にとって、これは衝撃的であると同時に、ゴ政権にとっては致命的な痛手になり、命運尽きたゴ政権は、米国にも見放され、63年11月のドン・バン・ミン将軍を中心とするクーデタで政権を追われ、弟のゴ・ジン・ヌーと共に、殺害されます。こうしてドン・バン・ミン政府が誕生しますが、戦局は改善せず、米国は「北ヴェトナム魚雷挺が、米国の駆逐艦を攻撃した」とするトンキン湾事件をでっち上げて、議会からフリーハンドを獲得、9日には初めての北爆を実施、南ヴェトナムでの戦争に本格的にのめり込んで行くこととなりました。そんな時期での政府の緊急援助の決定でした。
2007.08.11
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